「戻れって……ど、どうして?」
『このままじゃ、キミは死んじゃうんだよ!?』
「え……?」
死ぬ? 僕が?
どうしてそんな事になるのだ?
理由は分からなかったが、RRの鬼気迫った様子に、その言葉は嘘や偽りではないだろう。
けど……。
『いいから、早く!』
「……いやだ」
『え?』
「いやだ! 僕は戻らない!」
『何を言ってるの!?』
「僕は、君に会うために来たんだ!」
RRの肩を掴む。
それは確かにそこに実在し、僕の手のひらにはっきりと肩骨の感触が伝わってきた、
『きゃっ!?』
そのまま引き寄せるように掻き抱き、強引に唇を奪った。
がつんっ、と歯のぶつかる音が頭の中に響く。
柔らかく温かい感触が全身に伝わってきた。
それに、ようやく自分がディスプレイの壁を乗り越えた事を自覚する。
あんなに想っていても、あまりに遠くて手を触れる事すら出来なかった存在が、今、僕の腕の中にある。
その喜びを、僕は深く噛み締めた。
唇を離し、RRの顔を間近で確認する。
ずっと思い描き、そして追い求めていたRRの顔。
しかし、その目は深い悲しみに満ちていた。
『こんな事のために、命を落としてもいいの?』
まるで僕を哀れむかのようなその言葉。
直後、まるでこの喜びに水を差されたような気分になり、僕はカーッと頭に血が昇るのを感じた。
「落とすって、どうして!? 僕はゲームをしているだけなのに!」
そうだ、これはあくまでゲームの延長線上なんだ。僕はこの世界に、全ての意識をキャラ化して来ているんだ。普段と違うのは、僕の感覚が現実のものと全く同じという事だけだ。
それがどうして、僕の生死に関わるって言うんだ?
どうして、そんな事を言うんだよ……?
『どうしてバーチャルマシンが、半分しか意識をサーバーに送らないか知ってる?』
「データの転送量が増えるからだろ……」
ゲームを作る時の基本だ。随時メモリやCPUを強化できるほどの拡張性のないゲームマシンにとって、ゲームを快適にプレイするには単位時間辺りに扱うデータの量を減らす事が重要だ。
人間の精神データを全て数値化してしまったら、マシンやネットワークの負荷が高まり、ゲームの進行に支障が起きてしまう。そうならないためにも、開発者はそういったデータ量には細心の注意を払って製作しているのだ。
今頃、それがどうしたっていうんだよ……? 誰だって知っている事じゃないか……。
と、RRが僕の体を押し、腕から逃れようとした。
咄嗟に僕は腕に力を入れた。しかし、何か得たいの知れない逆らい難い力にかかり、僕はあっさりとRRを解放してしまった。
『それはね、違うの』
「違う?」
RRの意外な言葉に、僕は首をかしげる。
『意識を全部サーバーに送っちゃったら、リアルスペースに残った体が空っぽになっちゃうの』
「空っ……ぽ?」
こくん、とRRはうなずく。
『人はね、心と体が一緒じゃなくちゃ生きられないの。体がハードなら、心はソフト。そのどちらに欠陥があってもうまく動かないし、どちらの折り合いが悪くてもうまく動かない。今のキミは、この世界に全てのソフトが抜けて来ているの。ハードを現実世界に残して』
「それは、機械の話じゃないか。僕は人間だ。機械じゃない」
『そう。確かに、ソフトのないハードは、もしそれが機械なら、ただじっと黙って動かないだけだわ。でも、もしそれが人間だったら……? これが何を意味するか、分かるでしょう……?』
じゃあ、今、僕の体は空っぽになっていて、死にかけてる……?
そんな馬鹿な!
人は機械とは違うんだぞ!?
幾ら意識が抜けているからといって、そんなに簡単に人が死ぬはずがない!
『分かったら、早く戻って』
と、RRは僕の腕を振り払い、踵を返して走り出した。
「待ってくれ!」
僕はすぐにその後を追った。
今ここで別れてしまったら、もう二度と会えない不安感に襲われたからだ。
すぐに僕はRRに追いつき、その肩を掴んで立ち止まらせる。
『どうしてついて来るの? 早く戻らないと死んじゃうんだよ?』
肩を掴んだままこちらを向かせると、RRは前にもまして哀しそうな表情を浮かべていた。
「それでもいい! どうせ、あんな世界で生きてたって面白くない! 君とこの世界で生きていた方がずっといい!」
『そんな事、言っちゃ駄目だよ……』
RRが哀しげにそう言った。
その目には、僅かに涙が浮かんでいる。
僕は思わずたじろぐ。
『キミにも、家族とか友達とかいるでしょ? もしキミが死んじゃったら、その人達が悲しむよ』
自分は一人だけど、キミは違うでしょ?
そんな心の声が聞こえてきた気がした。
『だから、悲しませちゃ駄目』
そしてRRは、スッと中空に腕を走らせる。すると突然、空間に観音開きの白い扉が現れた。RRはそれにゆっくりと近づき、ノブに手を伸ばす。
「ま、待て! 行くな!」
ノブを握ろうとした反対の手を、僕は必死で掴んだ。
「行かないでくれ! 君と会えなくなったら、僕は―――」
RRはそっと微笑み、そして首を左右に振る。
『ここから先はゲームのサーバーじゃないから、キミが生きられる保証はないよ? それでも来るの?』
愚問だ。
僕はRRと一緒ならそれでいいんだ。
多少苦しくたって、そんなのは全然大した事じゃない。
「それでも僕の気持ちは変わらない!」
『そう……』
しかしRRは、僕の腕を振り払って扉を開ける。そして素早く、その中へ入ってしまった。
バタン、と扉が閉じる音が、まるで死刑の宣告音のように聞こえた。
拒絶された。
だが、そんな事にいちいち落胆する暇も与えられないほど、事態は刻一刻と移り変わってゆく。
瞬間、扉が急激に薄れていった。まるでこの空間が歪んだ部分をゆっくりと補修するかのように。
まずい、消えてしまう!
「くそっ!」
僕もすぐさま薄れゆく扉に手をかける。
だが。
その時。
「駄目ッ!」
大声で後ろから誰かが僕を制止した。
ここにいるのは自分達だけだと思っていた僕は、予想だにしなかった声に驚き、その場に直立不動する。
振り返ると、そこにはミスティのバーチャルボディが立っていた。
「駄目、レオ君! そっちに行っちゃ駄目!」
「で、でも、僕は……!」
たとえ死ぬと分かっていても、自分の気持ちに嘘はつけない。
「レオ君が死んだら……私、悲しいよ……」
バーチャルボディのその顔は無表情。
けど、僕にはミスティが泣いているのがよく分かった。バーチャルボディではなく、リアルスペースのミスティが。
『もう、分かったでしょ?』
と、消えかかった扉の向こうからRRの声が聞こえる。
「ぼ、僕は……」
『ばいばい』
その言葉を最後に、扉は消えた。
次、僕が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
僕はバーチャルマシンの中で、心臓が止まっていたそうだ。あの後すぐにミスティが救急車を呼んでくれたそうだ。どうも、話の一部始終を聞かれていたらしい。
目を覚ました僕を見た母さんは、泣いていた。
僕が最近起きている原因不明の変死事件と同じ症状で病院に運び込まれたからだ。僕もこれまでの事件のように死んでしまうと思ったらしい。
泣きつく母さんに謝りながら、僕はバーチャルスペースでRRに言われた言葉を思い出していた。
あんな世界で生きていたって面白くない。
君とこの世界で生きていた方がずっといい。
その言葉は決して一時の感情ではなく紛れもない本心だった、と今でも断言できる。あの世界では自分の努力がそのまま反映されるけど、この世界は何をしても、まるで水を斬るかのように手応えがない。だから、こんな世界で生きる事に疑問や失望を抱いてしまうのだ。
けど、幾らつまらない世界でも、やっぱりそう簡単に捨てちゃいけないのかもしれない。現にこうして、僕がいなくなる事で悲しむ人がいるのだから。
なんとなく僕は、これまで起きていた怪死事件の真相が分かったような気になった。
みんな、僕と同じように違法なパーツを使って自分の精神を全て数値化したのだろう。その結果、死ぬ事になろうとは思いもよらずに。
みんなは、この世界が嫌でバーチャルスペースに逃げたのだろうか?
中には好奇心の人もいるかもしれない。
そして僕のように、好きな誰かの感触を確かめるために。
まあ、これ以上は僕の立ち入る領域ではないが。
僕の容態が落ち着いてくると、ARIES.netの人が取材に来た。
『無事に助かった、今の御気分は?』
そして、僕はこう答えた。
しばらくバーチャルゲームはやめます。
それから、毎日のように色々な人がお見舞いに来てくれた。
タウラス。
相変わらず僕が言った隠れキャラを探しているようだ。ウィルスだって嘘を言ったのに、そんな事もおかまいなしである。随分とこと細かく隅々まで探し回ったようだが、成果はサッパリだそうだ。
ミスティ。
僕の体の調子を心配してくれるけど、あの時の事を一切会話に出そうとしない。もしかすると、僕の心情を察してくれているのかもしれない。
母さんの職場の同僚。
……多々。
人と直接顔を合わせる必要がないほど、通信技術が発達している今だけど、やはり面と向かって言われるのは嬉しかった。百行のメールより、一言の言葉の方がずっと重みがある。
やはり、人はデジタルにする事は出来ないのかもしれない。姿形は似せる事が出来ても、もっと本質的な深い部分、魂までは数値で表す事は不可能なのだ。
だからRRは、特別なのだ。彼女はネットワークの中で生まれた。それは単に、僕が現実世界に生を受け、RRが仮想世界に生を受けただけの差。その両者には大きな隔たりがあり、それを無理に越えようとすると、今回の僕みたいになってしまうのだ。
やれやれ……。
僕はもう、RRとは会えないだろう。おそらく完全に嫌われてしまった。今、こうして冷静に思い出してみれば、随分な事をしたものだ。当然といえば当然だけどさ。
なんだか、熱くなっていたのは僕だけだったようである。もしかすると、僕よりもRRの方が僕達の間の隔たりを冷静に見つめていたのかもしれない。僕は自分で勝手に隔たりを取っ払おうと奔走していたけど、結局はこんな結末を引き起こしただけだった。
それともう一つ。僕の心にでっかい風穴も開けて。
こういうのを、失恋、って言うのかな?
と、苦笑したその時。
枕元に置いてあった僕の携帯が鳴った。
指を伸ばして確認する。
メールだ。
送信者名は―――。
『RR』
ハッと僕は息を飲んだ。
すぐさまメールを開こうと操作する。だが、指が震えてうまく押せない。
やっとの事で開いたメールには、僕の体を気遣うお見舞いの言葉がびっしりと記されていた。
あの時を最後に、もう二度と会えないと思っていた僕は、突然のRRの言葉がとても嬉しかった。
僕はすぐに返信を打ち始めた。
メールに対するお礼。
僕の体はもう大丈夫である事。
二度とあんな馬鹿な事はしないという誓い。
メールを打つ僕の気持ちはやけに穏やかだった。あの時の興奮がまるで嘘のようだった。
そして末文に、僕はRRへの素直な気持ちを打った。
だからこうしよう、とか、そういったものではなく、ただ、純粋なありのままの気持ちだ。
送信。
未だにこんな事やっているなんて、僕はまだ懲りてないのかもしれない。
夢の続きに浸っているだけなのかもしれないけど。
でも、こんなのもアリなのかもしれないと思った。
あのゲームはやらないと思うけど、気持ちを伝える手段を失った訳ではないのだから。
fin