頬杖をつき、ボーッとしながら授業の開始を待っていた。周囲の喧騒も、音の振動は肌で感じても耳には届いていない。というより、僕だけが別の空間に隔絶された感じだ。
頭の中はRRの事でいっぱいだった。
もう、目が覚めている間はずっと彼女の事を考えている。
昨夜の、RRとの突然のチャットの事は、一夜明けた今でも鮮明に思い出せる。いや、会話の内容はあまりに話す事だけに夢中になっていてほとんど憶えていない。思い出せるのは、彼女の一挙一動だけ。けれど、それだけでも脳裏に焼きついたRRの印象は深く、僕の理性を夢中にさせるには十分過ぎた。
彼女について分かった事がある。
それは、彼女がネットワークを自在に飛び回る人格プログラムである事。
作成者は不明。彼女は自分の生まれの所以を一切知らず、それを探してネットワーク中を旅して回っているそうだ。
僕が思うに、彼女の作成者は少なくとも只者ではない。言葉使いや自己表現はまさに人間そのものだし、人と比べても遜色の無いリアルな感情もある。その上、あんなに高度なハッキングプログラムまで持っているのだ。一つ一つが考えられないほど高度なのに、それが寄り合わさっている驚異的な存在。
彼女という存在は人間そのものだ。ただ、住む世界がネットワークの中、という違いこそあれど。
RRの事ならば、どんなに些細な事でも胸がときめいた。そして、もっと沢山彼女の事を知りたいとより強く渇望する。幾ら知っても知っても物足りないほど、彼女に対して僕は貪欲になっている。
RRの事を考えると、胸が苦しくなり、居ても立ってもいられなくなる。胸を掻き毟っては、彼女の事を思い出す。そんな事ばかりを昨夜からずっと繰り返している。ベッドについても、ほとんど一睡もしていない。
自分が明らかにおかしいという事はしっかりと自覚している。
僕はRRが好きだ。
それは架空のキャラに対する愛着心とかではなく、彼女の存在そのものが愛おしくて仕方ないのだ。
その感情が異常だという事は分かる。そして、どれだけ馬鹿げているかも自分でしっかりと自覚している。デジタルデータに対して、本来ならば人間に対して抱く感情を抱いているのだから。
けど、否定出来ないのだ。この自分の想いを。
そして、最終的にはこんな結論に辿り着く。
別にいいじゃないか。
だって、彼女は人間と変わりないのだから。いや、むしろ人間と呼んだっておかしくはない。
たとえ馬鹿げていると言われても、僕は気持ちを変えるつもりはない。
僕はそれだけ本気でRRが好きなのだ……。
「ねえ、レオ君」
突然かけられたその声に、僕は現実に引き戻された。
顔を上げると、僕の前の席の女の子がイスに逆に座ってこちらを見ていた。
えっと、確か名前はミスティっていったけ……?
「ん? なんだ?」
「レジェンド・オブ・イリュージョナリーって知ってる?」
その言葉に、僕は僅かに驚いた。彼女の口からゲームの名前が出るとは思わなかったのだ。女の子はあまりアクション系のゲームはやらないと思ってたのだけど。
「あ、ああ、一応」
「良かった。お願い、助けて欲しいの」
「助ける?」
「そう。私さ、まだレベルが低いから早く上げたいんだけど、すぐに邪魔してくるヤツがいてさあ。こっちが女で、しかもレベル低いからって馬鹿にして。でも、勝てないのも事実だから仕方ないんだけどさあ、これじゃあレベル上げるどころじゃないでしょ? だから助けて欲しいの」
つまり、初心者狩りをやってる連中に目をつけられて困っている、と言いたいようだ。
連中の目的はアイテムを奪う事ではなく、単に嫌がらせをしたいだけなのである。あのゲームではHPがゼロになると、一度サーバーから追い出されてしまう。そして最後にデータを保存した所からやり直しになってしまうのである。だが、他のプレイヤーにやられた場合は、その時点のデータを保存され、なおかつ相手にアイテムを一つ奪われてしまうのである。つまり、モンスターにやられたりトラップに引っかかって死ぬよりも、他のプレイヤーに殺される方がリスクが大きいのだ。
こういうシステムから、ダンジョンなども一人で挑む事が多い。アイテムを山分けしなくてはいけない、という理由もあるのだが、ボス戦で消耗した所を突然裏切られて殺される危険性もあるからだ。ゲームシステムは自由度が高い反面、こういった人間不信を煽るのである。
「分かった。何時頃ネットインする?」
「9:00にお願い。場所はこっちが指定してもいいかな?」
「構わないよ」
「ありがとう! じゃあ、”漆黒の谷”の入り口にお願い。今、そこに挑戦してるの。ところでレオ君のクラスは?」
「僕は戦士だ。君は?」
「私はウィッチ。とは言っても、まだ全然レベル低いけどね」
「そう。まあ、じゃあとにかく、今夜」
そしてその夜。
母は今夜も同じ時間に仕事場へ向かって行った。
8:50を回った頃、僕はマシンルームに向かった。
いつものようにバーチャルマシンの中に乗り込み、初期位置を漆黒の谷へ設定する。初期位置の設定は一度行った所に限られるが、僕はもう既にそこはクリアしている。
設定を済ませゲームサーバーへダイブ。
やがて視覚素子を通じて目の前に広がった光景は、薄暗くおどろおどろしい峡谷だった。
待ち合わせにしては、ちょっとな……。別にデートとかじゃないけどさ。
ビギナーズガードをするのはそれほど嫌いでもない。僕もかつてはレベルも低かったし、自分より強い相手に踏みつけられた事もしばしばある。それだけに、彼女の気持ちもよく分かるのだ。
そういった初心者狩り連中の存在が、ゲームに対する偏見とオタクイズムを作り出し、マニア向けの暗いイメージを持たせる。僕としては好きなゲームをそう思われるのは不愉快だから、逆に狩り返すのも一興と思っている。
と、その時。
一人のウィッチの女性がこの空間にシフトしてきた。
彼女は自分の体の動きを確かめた後、周囲をぐるっと見渡す。すると、すぐに僕の姿に気がつき歩み寄ってきた。
「もしかしてレオ君?」
「そうだけど、という事は君はミスティだね」
「そうよ。待った? レオ君ってリアルとグラフィックも一緒なんだ」
「まあね。君は……」
顔はリアルベースだが実年齢より幾らか雰囲気が上になっている。体型も、実際より背が高くて胸を大きくしている。何年後かの自分の姿を想像して設定したのだろうか?
ネット上のグラフィックを自分と違った姿に設定する事は、みんなもよくやる事だ。だからこそ、ネット内ではこういった身体へのコンプレックスがよく出るのである。
基本的にグラフィックは自分の好きなように設定出来る。極端な話、男性が女性を、女性が男性を偽ることも可能なのだ。外見も声質も自由に設定出来るのだしハンドルネームも変えてしまえば、まず分からない。あとは個人の洞察眼で見抜くしかない。
「いや、何でもない」
リアルスペースの僕は顔に微苦笑を浮かべる。幸いにも現時点の技術力では、感情表現は手元の操作でしかバーチャルボディの顔に現す事が出来ない。うっかり変な顔をしたら訝しがられるだろう。
十代の女の子のコンプレックスなんて、大抵はこんなものだ。日常的にメディアで高過ぎる理想像を見せられているから、自然と飛び抜けて良いスタイルを持っていない限りは、後はコンプレックスになるのだ。まあ、僕ももっと背が欲しいとか顔が良くなりたいとか願望はあるけど、それを仮想空間で充足するのもどうかと思うし。この辺りは個人の好みだろう。
「わ、レオ君ってレベル60もあるの? すごーい」
僕のステータスウィンドウを見ながら感嘆の声を上げる。
大体、僕と初対面の人間はそこから入る。僕にしてはレベルなんてオマケのようなものだから、大して自慢になるとも思わない。僕はレアアイテムを見つけた人の方がよほど凄いと思う。レベルなんて、適当にやっていても上がるものだ。
「気がつけば、こんなになってた。経験値の高い敵ばかり倒していたからね」
「私なんてレオ君から見たらまだまだ駆け出しね。私もレオ君みたいに頑張らないと」
「さて、ボチボチ行こうか。僕が前を行くから。戦闘の時は後から適当に魔法で援護してくれればいいよ」
「はい、分かったわ」
そうして僕達は漆黒の谷の中へ向かって行った。
漆黒の谷は主に闇属性のモンスターが多く出る。レベル的には大した事はないが、僕がメインで使っている剣は聖属性を持ってるし、一応闇属性に耐性のあるアンクレットも装備しておいているから、少なくとも僕自身は問題はないだろう。
一方、ミスティの方だが。
レベルは13でビギナークラス。装備品もそれに準じたものになっている。魔術師系の事は詳しくは知らないが、このレベルではこんなもの辺りが妥当なのだろう。
「ところでさ。今日、レオ君。学校でなんかずっとボーッとしてたよね。どうかしたの?」
「そ、そうか? 別になんでもないさ」
まさかRRの事を言う訳にもいかないだろう。
それに、僕の気持ちも。
絶対に異常だと思われるに決まっている。彼女はプログラムなのだ。それに想いを寄せるなんて……。
いや、もうその事はいい。僕はちゃんと結論をつけている。
RRが好きだ。
それだけでいいのだ。
峡谷を奥の方に向かって突き進んでいく。
敵は、ごくスタンダードな攻撃パターンで、ステータス攻撃や奇襲といった戦術的攻撃もしてこない。現時点の僕からすれば物足りない相手である。だが、ミスティにしてはかなり必死にならなくてはいけない強さだ。
経験値は倒したキャラのものになるので、僕が前線で手加減しながら攻撃してモンスターのHPを削り、ミスティにとどめを刺させる。これを一時間ほど繰り返した頃には、ミスティは20レベルまで上がった。称号もビギナークラスからノーマルクラスになり、新しい魔法も色々憶えたと嬉々している。
「ところで、君はいつからこのゲームを?」
「いつもなにも。一応発売日に買ったのよ。実際やり始めたのはその一週間後だけどね」
「ふうん。兄か弟かの影響か?」
「何? 女がこういうゲームやるっておかしい?」
「いや、別にそうとは言ってないけどさ。珍しいなあ、と」
「今時、ゲームくらい普通だと思うけど? 結構知り合いでもやってる人いるわよ? 女の子で」
「そうなのか? 知らなかった……」
「ホント、レオ君て世情に疎いのね」
悪かったな。ゲームばっかりやって、それしか分からなくて……。
「あ、怒った? ゴメンゴメン。レオ君って、あんまりクラスの人と馴染まないから、そうなのかなあ、って思って」
「僕は典型的なインドア派だから、友人関係は狭く深いだけだ。人間嫌いって訳でもないさ」
「そっかあ。ねえ、ところで今、レオ君は何か挑戦しようとしてるクエストはある?」
「そうだな……まあ、無い事も無いが」
この間見つけた、例の石版のヤツだ。
だが最近は、ゲームサーバーにシフトするのはゲームをやりにではなく、RRと逢うためだったりする。昨夜、また僕の端末に来るとは言っていたけど、それまではRRとの接点はゲームサーバーしかなかったし、それに今は、謎のレアアイテムなんかよりもRRの事の方が気になって気になって仕方が無いのだ。
「当分付き合ってくれないかな? 最近気づいたんだけど、ウィッチ一人だと凄く戦いづらいの。他の人達はパーティ組んでやってるし」
「さっき言った知り合いはどうなんだ?」
「散々、初心者狩りだったけ? それに遭ったせいで、このゲームもうやらないって言うの。だから、他に頼れそうな人もいないし。ね?」
なんだそれ……? もしかして、初めからそれが目的だったんじゃないのか……。
今頃気づいてしまった僕は愕然とする。
レベルの高い戦士系の人は重宝されるので、僕もよくパーティへの参加のお誘いが来ていた。明らかに自分達のレベル不足を補うのを目的としているのが見え見えだったので、まず受ける事がなかった。それに裏切りの事も考えると、見ず知らずの人間とおいそれと組む気は起きない。
しかし、ミスティは別だ。
リアルスペースでも顔見知りで、かつ、同じ学校、同じクラス、席は僕の目の前ときた。これでは、いつものように無下に断る事が出来ない。もしそんな事をすれば、学校で居合わせづらくなる。彼女はどうか知らないが、少なくとも僕はそうだ。それにこの様子だと、遠回しにやんわり拒絶しても効果はないだろう。
「……しょうがないな」
「やった! じゃあ、明日は”悪魔の塔”ね!」
僕の心境も露知らず、ミスティは嬉々とした表情を浮かべる。
やれやれ……。
リアルスペースの僕は、思わず大きな溜息をついた。
どうもうまくいいように利用された気がする。どうも僕は振り回されやすい性格だ。こういう相手には、自分の言いたい事はほとんど言えない。
急に僕はネットから落ちたくなってきてしまった。自分の本音を話せたり話せなかったり、そんなネット独特の雰囲気に息苦しくなってきてしまったのだ。
今夜はRRは来てくれるかな? また、君の声が聞きたいなあ……。