家に着くなり、僕はすぐさま自分の部屋に駆け込んだ。
ベッドにカバンを放り投げ、十秒も部屋に居ずに飛び出す。
向かうはマシンルーム。そこのバーチャルマシンだ。
ドアを開けると、廊下よりも僅かにひんやりとした空気が肌に刺した。
部屋のおよそ半分を占める、大きなカプセルが横たわっている。これが仮想現実世界にプレイヤーを誘うバーチャルマシンである。
見た目は物々しいが、値段自体はそれほどでもない。むしろ輸送代や月々のメンテナンス代の方が気になるぐらいだ。それに、サイズが大きいのはプレイヤーの体全身を収めるためで、機械が詰まっている訳ではない。重要なハードなどは、超集積回路の小型化の進んでいる現在となっては、手のひらどころか指の腹にすら乗るサイズである。
僕は早速マシンに電源を入れる。すぐさま仮起動を始めたマシンが低くうなる。
本起動が始まるまでの間、一旦部屋を出てキッチンに向かう。
珍しく走って帰って来たため、酷く喉が渇いていた。冷蔵庫の中からドリンクを取り出して喉を潤す。すると、今度は小腹が空いてきた。冷蔵庫の中を見ると、特に何も入ってはいない。それほど空腹は切迫してもいなかったので諦める。
マシンルームに戻ると、丁度マシンが本起動に入っていた。
僕はマシンのOPENボタンを押す。シューッ、と開閉用の高圧空気を吐き出しながら、ゆっくりカプセルの蓋が開く。
中の作りは、体が四五度ぐらいの角度で横たえられる、ゆったりとしたソファー形式になっている。
僕は中に座り、内側についている開閉ボタンを押す。ゆっくりと蓋が閉まり、カプセル内が薄暗くなる。
頭の上にある装置に手を伸ばし、顔の位置まで下げる。それは丁度ヘルメットに似た形をしており、僕の頭をすっぽりと包んだ。この装置の頭に当たる部分には無数のナノマシンが組み込まれており、僕の脳波と同調する。専門的な事は分からないが、とにかくリアルスペースとバーチャルワールドとの接点という事だ。人間の感覚は、全て脳が支配している。つまり、脳に“右手を上げた”感覚を信号として送れば、実際の僕の右手は上がっていないのに、本当に上げたような気になるのである。この関係を高速かつ円滑に処理できるようにしたのが、このバーチャルゲームである。
バイザーに、マシンとのリンクを促すメニューが表示される。僕はYESに向かって視線を送る。
リンク中、僕の視覚神経はバイザーの視覚素子と完全に同調する。バイザーディスプレイに送られる表示データが、そのまま僕の視界として脳が認識するのだ。
『NOW LINKING……OK』
僕の感覚神経とマシンが同調する。途端に全身の感覚に異質なものが紛れ込む。マシンから僕の脳へ特殊な波長が送られているからだ。脳にとって外界からの刺激とは、突き詰めれば一種のパルスなのだ。それを人工的に作り出すのはさほど難しい技術ではないらしい。
とは言っても、マシンと僕の脳は完全に同調した訳ではない。意識の半分がマシンと繋がった、と表現するのが正しい。ゲーム中、サブウィンドウを開いたり攻撃態勢を取るのは、手元のコントローラーのボタンからだ。完全に同期してしまったら、リアルスペースの僕の体が動かせなくなってしまい、そのままやめる事が出来なくなる。
次に、バイザーにはマシンにインストールされているゲームのタイトル一覧が表示される。僕は迷わずレジェンドオブイリュージョナリーを選択する。
『LOADING……PROGRAM START』
一瞬の沈黙の後、僕の周囲が真っ白な空間に入れ替わる。僕の意識がマシン内に作り出されたバーチャルワールドにシフトしたのだ。
レジェンドオブイリュージョナリーのタイトルロゴが浮かぶ。僕はLOAD STARTを選択。
そして、いつものようにパーソナルデータをロード、バーチャルボディを生成し、ゲームサーバーへシフトする。
やがて僕が降り立ったのは、土曜の夜、あの女の子に逢った“月夜の密林”だ。まずはもう一度、ここから足取りを調べる事にしたのである。
まだ、例の謎の石版が示す塔はクリアしていない。早くしなければ別な誰かがクリアしてしまうおそれもあったが、今は彼女の事の方が気になって手がつかないのだ。
月夜の森林の回復ポイントへ向かう。
そこは相変わらず物静かで、風に吹かれる木々のざわめきと、自分の足が奏でる靴音しか聞こえない。
回復ポイントである泉は、今日も変わらず、とうとうと澄んだ流れをしていた。目を凝らせば、底付近には魚影が薄っすらと確認できる。だが、その動きはいかにもランダマイズ化された数値によるもので、到底意思を持って泳いでいるようには見えない。
「確か、ここにいたんだったよな……」
少女が座っていた泉の淵にしゃがみ込む。
目を凝らして調べてみるが、見えるのはきめの細かいテクスチャばかりで、これといって不自然な所はない。
僕は、長年の経験を総動員して、周囲の怪しげな場所を隈なく調べた。あるいは何らかのバグだったのかも知れないと、データが綻びている所もないか調べてみたが、不自然なものは一切見当たらなかった。
もしかすると、この場所はあまり関係ないのかも知れない。単にここで逢っただけなのかも。
僕は月夜の森を後にした。
次に怪しい場所と言えば、やはり近くの街だろう。
街にはよく隠しイベントがある。建物の影にわざと隠れて貴重な情報やアイテムを売ってくれるキャラや、何らかのイベントが起きてシナリオが始まる事もしばしばだ。
それよりも重要なのは、手に入る情報だ。ゲームの世界でも情報が最強の武器になる。現実世界と一緒だ。
月夜の密林を抜け、そこから一番近い街に入る。
街に入ると、これまでとは違い、大勢の人が溢れていた。
だが、人の流れにも大きな特徴がある。すぐに気がつく事だが、ゆっくり同じ所を往復しているのはゲーム内にプログラムされた住人、そして忙しなく走っているのはネットワークからシフトしてきたプレイヤーだ。
プレイヤーはともかく、このCPUの住人と話すのが僕は苦手だった。見た目は普通の人間なのだが、表情は機械的で、何度話し掛けても全く同じ内容の言葉を喋るからだ。そういう風にプログラムされているから仕方がないのだが、どうしても不気味で不気味で仕方がない。まあ、この辺は慣れなんだが。
「さて、と。何かおかしな所でもないかな?」
まずは周囲を虱潰しに調べようと思ったが、既に街のあちこちには、一心不乱に壁や樽やらを調べているプレイヤーの姿が大勢いた。僕と同じように、何か隠し要素がないかどうかチェックしているのだ。
僕の目的は彼女なのだからこいつらとは関係ないが、やはりやる事は同じになる。人前で、それも見ず知らずの人間の前で樽の中に首を突っ込むのは、常識で考えてみればかなり恥ずかしい行為だ。きっと、バーチャルスペースだから、そんな恥も外聞もないのだろう。バーチャルワールドは、限りなく現実に近いのだけど、そこに住んでいる住人はみんなおかしな行動を取っているため、どんなにグラフィック技術が進歩しても、すぐに現実感が薄れてしまう。
よくよく考えてみれば、彼女の秘密がこんな所にあれば、妄執鬼と化したチェック君集団にとっくに見つけられ、ネット上でも情報が飛び交っているはずだ。つまり、僕は樽に首を突っ込む必要はない、という事だ。
ホッ、とするのも束の間。僕は、それではいつまで経っても彼女にぶつからない事に気がつく。
取り敢えず、酒場にでも行くか……。
どこの誰が決めたのかは知らないが、昔からゲームの情報は酒場で得るものと相場が決まっている。不特定多数の人間が出入りするからそうなったのだろうが、ならば尚更重要な情報は得られないはずだ。むしろ得られるのは、尾ひれ背びれのついた噂程度のものである。
酒場に入ると、およそ席の半分ほどが埋まっていた。ただイスに座って動かないのがサクラ、同じく微動だにしなくとも口だけが活発に動いているのがプレイヤーだ。おそらく何らかの情報交換をしているのだろう。
席を回りながら、話している内容に耳を傾けて盗み聞きする。しかし、どれも僕にとってはどうでもいいものばかりで、一つとして白いワンピースを着た黒髪の少女の話題は出てこない。
やれやれ……。この街はハズレだな。これ以上居ても仕方がないから、次の街へ向かうとするか。
僕は早々に見切りをつけ、酒場を後にする。
もしかすると、人づての情報はまず得られないかもしれない。あの少女の存在をこの目で見たのは僕だけなのかも。いや、目にはしたがそれほど気に止めなかったという可能性もある。どちらにせよ、情報は自分で見つける以外他ない。
酒場を出て、大勢の人間の行き交う大通りを走る。
こんな所で走るとすぐに人や建物とぶつかるのだが、なんならという機能のおかげで障害物は自動的に避けて歩く。それにぶつかったとしても、双方痛みを感じる事はない。
さて、出口は……。
と―――。
その時。
「あ!?」
大勢の人間が行き交う中、僕はあの少女の姿を発見した。だが、それも間もなく群集の中に飲み込まれていく。
僕は考えるよりも先にその後を追った。今ならまだ追いつく。
本当に彼女だったのか? 見間違いじゃないのか?
いや、違う。確かに彼女だった。
何故なら、あんなに黒い髪、他では滅多に見られないのだから。
いた!
人込みの中、彼女の背中を見つけた僕は歓喜した。走る足に自然と力がこもる。
普段はさほど気にならない人込みも、今ほど疎ましいと感じた事はない。一人を避ける内に、彼女を見失ってしまいそうな焦燥感に駆られてしまうのだ。
「待ってくれ!」
ようやく追いついた彼女の肩を僕は掴んだ。
「ひゃっ!?」
突然僕に肩を掴まれ、驚きの表情で振り向く彼女。黒い瞳に驚きの色がありありと浮かんでいる。
なんて豊かな表情なんだろう……。
僕は思わず見惚れてしまった。
「……なあに、あなた?」
「え……? あ、いや、その」
彼女に問い返され、我に帰った僕はしどろもどろになって言葉に詰まる。
「あれ? 確かキミ、どっかで逢わなかった?」
「そ、そう! そうなんだ! 月夜の密林で、土曜の夜に!」
「ツクヨ? あ、あの森の事ね。やっぱりそうだ。あの時のキミね。それで、何か御用かな?」
「い、いや、用事って訳でもないんだけどさ。えっと、君のクラスは何?」
クラスとは、キャラクターの職業の事だ。僕のクラスは戦士である。
「クラス? あ、そっか。ここ、確かゲームのサーバーだもんね」
そう言って、彼女はニッコリと微笑んだ。
え? ゲームのサーバーって……どういう事だ? そんなの、ここに居るって時点で知ってるもんなんじゃ?
「あの、君は隠れキャラか何かなのか? 月夜の密林の時だって、急に消えてしまったりしたし。もしくは、このゲームの開発者か誰か?」
「ううん。全部、ハズレ」
彼女は首を横に振って否定する。
「え? じゃ、じゃあ……」
と。
『レオ? レオ?』
僕の名を呼ぶ声が聞こえてくる。
『ご飯だから、一旦ゲームは止めて来なさい』
この声はリアルスペースから聞こえてくる。
母の声だ。
ちっ、こんな時に……。
こんな大事な時に。もうそんな時間になっていたのか。
仕方ないが、一度やめざるを得ない。いらない、と言う事も出来るが、そうなると今度の成績が落ち込んだ時、間違いなく原因がゲームだと決め付けられてしまう。そうなれば、それこそ封印ものだ。
「あのさ、今度はいつ、ここに来る?」
「今度? そんな事聞いてどうするの?」
彼女は意地悪げな笑みを浮かべて僕を見る。
「別にどうって訳じゃないけど……。なんというか、その」
隠れキャラでもなければ、君は何者なんだ?
それを筆頭に、数々の疑問が僕の胸に渦巻いていたにも拘わらず、彼女にそんな笑みを向けられたせいで、あっという間に何もかもが吹っ飛んでしまった。頭の中が真っ白になり、突発性の失語症にかかってしまう。
「フフフ。変なの。えいっ」
と、彼女は唐突に僕の胸を叩いた。思わず唖然とする僕。
「じゃ、その内に遊びに行くね」
そう言い残し、彼女は踵を返す。そしてそのまま、風のように人込みの中へ消え去ってしまった。
僕は何も言えず、ただ茫然と立ち尽くしていた。
叩かれた胸を押さえたまま、視線が宙を泳ぐ。
痛みはない。
だけど僕は、そこに微かな疼痛が走っているような気がした。