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 私が物心ついた時は、既に独り立ちしていた。自然界では極当たり前の事ではあるが。

 私は、人間が呼ぶ所の神獣という種族だ。高度な知能と特異な能力、そして自然界ではまず発生しない色素を欠乏したアルビノ種である事が主な特徴だ。私の場合は、この脚力がそれに当てはまるだろう。私は生まれてから親以外に脚力で負けた事はない。

 最近私は、そろそろ居を別の場所に移そうかと考えている。つい先日、偶然にもこの山に狩りに来ていた猟師と遭遇してしまった。それ以来、ここに神獣が住んでいる事を知った人間達が私を探しに来るようになったのだ。

 人間如きにみすみす捕まるような私ではないが、周囲を嗅ぎ回られるのは不愉快極まりない。欲に塗れた視線に我が身をさらすのも不快だ。

 私は人間が嫌いだ。人間は皆、神獣を見るとすぐに自分の手飼いにしたがる。神獣の持つ圧倒的な力を我が物にし、果たせずに燻っている欲望を満たそうとしているのだ。

 人間は野蛮なほど好戦的だ。自らの身を守る目的ではなく、単に略奪のためだけに平気で同族を傷つける事が出来る。そんな連中に自分が利用されるなんて、想像しただけでも虫唾が走る。

 今日も私は、いつものように山の中にある泉へと出かけた。

 そこは切り立った崖の下にあるため、普通の人間はまず入って来れない場所だ。とは言っても、欲に目が眩んだ人間は多少の危険は覚悟しておりてくる。だから、いつ、人間が私を捕らえるために罠を張って待ち伏せているか分からない。水を飲むにしても、一瞬の油断も出来ない。そのため私は比較的安全な飲み場を選んでいる。

 人間の気配はありませんね……。

 私の感覚は普通の動物よりも優れている。特に殺気に関しては数倍も鋭く感知できる。ただでさえ鋭敏な感覚が、普段から殺気に対して警戒してるため、より鋭く研ぎ澄まされているのだ。

 泉のほとりに足を止め、水面に頭を近づける。

 冷たく澄んだ水の流れが心地良く喉を流れていく。私の心が何よりも落ち着く瞬間だ。

「おや?」

 ッ!?

 と、その時。思いも寄らぬほど近くから人間の声が聞こえてくる。

 ハッと私は顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。

「あなたは……」

 しげしげと私の姿を見つめる彼。

 いつの間に?

 彼は猟師特有の殺気がなく、あまりに無警戒だった。どうやら私は殺気に集中し過ぎるあまり、こんな無警戒の人間には気づけなかったようだ。

 私はすぐに踵を返し、すぐさまその場を立ち去った。たとえ彼がどんなに足が速くとも、所詮人間の脚力では神獣である私には及ばない。

 人間如きに見つかるなんて。私とした事が。今回はたまたま抜けた人間だったが、この次が必ずしもそうとは限らない。もっと気をつけなければ。

 翌日。

 私はいつものようにあの泉へ出かけた。

 今度は殺気ではなく、気配そのものに注意しながら。

「あ」

 またいる……。

 泉には昨日の人間の気配があった。予想通り、あの青年がひょっこりと現れた。

「また逢えましたね」

 彼はニコニコと笑顔を浮かべる。

 逢えたのではない。そっちが勝手に来たのだ。どうやらここはもう来ない方がいいようだ。こうも付きまとわれてしまっては鬱陶しい事、この上ない。

 私は彼を一瞥し、くるっと踵を返す。

 と。

「あ、待って下さい! あなたは神獣ですよね?」

 その言葉に私は足を止める。

 ですよね? 何故疑問型なのだろうか。彼は私が神獣である確証もなく、こんな所まで来たのか?

 彼は表立った武器等は一つも持たず、また、服装も猟師とは異なり軽装であった。猟師の類にしてはあまりにも無防備過ぎる。

 彼はふらふらと無警戒に私の元に駆け寄ってきた。

「はあ……なんて綺麗なんでしょうか。生まれて初めて見ましたよ」

 と、私をじろじろと見ながら溜息を漏らす。

 一体彼は何を考えているのだろうか?

 不審に思って周囲に注意網を張り巡らせてみるが、特にこれといって怪しい気配は感じられない。やはり彼は一人でここに来ているようだ。

 そして今度は彼の心の中を覗く。

 神獣は皆、人間の心の中を覗く能力を持っている。種によって多少の能力差はあるものの、どのような事を考えているのか、その概要を窺い知る事は可能である。

 これは……。

 私は人の心の中を色として見る事が出来る。彼の心は、この泉の水のような透き通った色をしていた。まるで子供のような純粋無垢な色。

 良く見れば、彼は実に身なりがいい。いわゆる貴族というところの出身なのだろう。貴族は子供を家の中だけで育てると聞く。こうも無防備なのは、単に世間というものを知らず純粋培養されたからだろう。世の中の荒波というものを味わった事がなく、いかにもこれまで一度も苦労などした事がなさそうだ。

「あっ」

 私は踵を返す。

 特に害のある人間ではないが、やはり人間は肌に合わない。こういった不自由のない貴族の類も、私にとっては嫌悪するところである。彼に罪はないのだが、嫌いなものは嫌いなのだ。

「ちょっと、待って下さい!」

 加速の瞬間、彼の制止する声が聞こえてきた。だが、それに従う理由など私にはない。私はあっさりとその言葉を振り切った。