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 その日からジュリアス=シーザーと名乗った青年は、毎朝欠かさずこの泉にやって来るようになった。

 私もまた、そんな彼と会話を交わすのが日常となりつつあった。泉に向かうまでの間、今日は彼は来ているだろうか、と思慮を巡らすようになった。これまで神獣として一人で生活してきた私にとっては大きな変化である。

 彼は毎朝、この泉にやってきては、ほとんど一方的にまくしたてるように喋り始める。私はもっぱら聞き役に回っていたが、それはそれで楽しいものであった。私は毎日を一人で過ごす事が常だった。それが当たり前なのだから、寂しいと感じた事はない。

 だが、こうして彼と共に過ごす内に、私の中に新たな感情が芽生えていた。

 彼はこの山の麓にある大きな街に住んでいるそうだ。彼の家は、この国では有数の名家である、シーザー家という貴族の一門。彼はそこの家督を継ぐ後継者なのだそうである。

 人間には、自分達の種族の中で更に細かく分類分けをする不思議な習性がある。私には、家やら身分やらという区分けはいまいち理解出来ない。わざわざ種を増やしてどうというのだろう。人間とはとかく理不尽な生き物である。

 彼の周囲環境は、あまりよくは分からないが、どうも随分と息の詰まる環境らしい。自分の言いたい事がほとんど言えず、行動のほとんども制限されているそうだ。私には理解出来ない事実だ。言動の自由すらないなんて。どうしてそうなのか、私には理解出来ない。

 そんな訳で。

 数日の間に、私は随分と彼について知ってしまった。彼自身にかなり深入りしてしまったと思う。

 けど、不思議と後悔はなかった。私は彼に好意という情が移っていたのだ。自分でも信じられない事ではあるけど。

 人間如きに。

 あれだけ忌み嫌っていた自分が、過去に遠ざかってしまった。

 これは私にとって良い変化なのか、その真偽の程は分からない。

 

 

「おはようございます」

 その日の朝も、ジュリアスはこの泉にやってきた。街からは随分と遠く離れ、地形も山奥の切り立った崖の下というのにもかかわらず、よくも毎日続くものである。

『今日も家から逃げ出してきたのですね』

「それは言わない約束でしょう?」

 と、ばつの悪そうに苦笑を浮かべる。

 誰が何時、そんな約束をしたのだろうか。私もまた微苦笑する。

「ホント、私の家は息が詰まって困るんですよ。あ、そうそう、聞いて下さい。昨日、とんでもない事になってしまったんです」

『はいはい。何があったのですか?』

 また今日も私に、話を聞いてとねだってくる。その姿は見た目の年齢を一回り幼く見せる。

 いつもこんな調子で始まる。彼はここに、ただ自分の思っている事のありのままを話し、そして聞いてもらうために来ているのだ。

「このままですと、私。近々結婚しなくてはいけなくなりそうです」

 そう言い、ふう、と溜息をつく。

 結婚。人間が一生のつがいとなる相手を決める、いわゆる調印のようなものだ。もちろんそれは人間が決めた協定のようなもので、他の種にとっては縁のない事だ。

『そうですか。おめでとうございます』

 人間にとって結婚とはおめでたい出来事と聞く。私はとりあえずそう辞を述べる。だが、ジュリアスは不満そうに唇を尖らせる。

「冗談じゃないですって。突然、候補リストとかいう写真の束を渡されて、”この中から好きなものを選べ”なんて言うんですよ? そりゃあ、ね。いづれも劣らぬ美人ばかりで目移りはしましたけど、でも、こういうのって違うでしょう? そもそも結婚とは、そういう風にして執り行われる儀式ではなかったはずです。双方の合意の上で、誰からも祝福されながらしめやかに行われるものです」

 結婚というものにかなり強い独自の観念を持っているのか、随分と熱くジュリアスはそう語った。なんとしても自分は己の理想を貫き通したいと言わんばかりの様子である。

『で、あなたはどうしたいのですか?』

「つまりですね。結婚はともかく、問題なのは相手の選択の方法です。私はね、相手は自分で決めたいんですよ。美しい女性はこの世に星の数ほどいますが、運命の相手というものはたった一人しかいないんです。私はそのたった一人以外とは結婚はするつもりはありません」

『子供ですね。運命の相手というものは、ただの結果論です。とりあえず、そのリストの中の一人と結婚してみなさい。その内にその人が自分の運命の相手だったと思うようになりますから』

「……冷たいですね」

 じとっ、と恨みがましい目で私を見上げるジュリアス。しかし、私はそれを冷たくあしらう。

『気休めの言葉が欲しかったんですか? それならば、あいにく私は持ち合わせていません』

「知ってますよ、それぐらい……。別に、ただ聞いてもらいたかっただけですから」

 こんな事すら話せる相手がいないのか。なんとも不憫な身の上である。

「家督を継ぐものとして、身を固めるのは当たり前なんだそうです。まあ、それは良しとしましても、そのやり方が問題なんですよ。シーザー家に見劣りしない名家から歳の釣り合う女性を探し集めてきて、私に選ばせるなんて。まるで物のやりとりじゃないですか。第一、選ばれる人の都合はどうするんですか、って事ですよ。で、そんな口を挟むと、”子供のクセに”だの叱られますし。私自身もまた、シーザー家にとっては家を継続させるための道具にしか過ぎないんでしょうね」

 困ったものだ、と寂しそうに溜息をつきながら微苦笑する。

 人間とは、他者の意思を無視してまでも無形で本質的価値のないもの、伝統という名の陋習を継続させようという奇妙というより野蛮な習性がある。

 何故そうまでして面子や自尊心を尊ぶのだろうか?

 結果的に考えれば、人よりも優れたい、という見栄があるからに他ならない。しかし、そんな見栄も私から見れば、どんぐりの背比べに他ならない。非常に見苦しく醜い争いだ。それに勝ったとしても、犠牲者は数多くいても、得られるメリットなんて実にちっぽけなものだ。そのちっぽけなものに固執する人間は、私は一生好きにはなれない事だろう。

『それでは、あなたはどうしたいのですか? 幾らあなたが結婚を拒んだとしても、結局は押し切られてしまうのでしょう? ならば、少しでも自分に合う相手に目星をつけた方が、より生産的な行動なのでは?』

「まあ、一時期はそうする事にしようと思っていました。ですが、今はもっと他にやりたい事があるのです」

 ジュリアスはいつになく力強い声でそう宣言した。

 それが何かは分からないが、それに対する彼の情熱と強い決意、そして確固たる意思がジュリアスの胸の内から感じられる。その意思の強さが、どれだけ本気なのかという目安を示してくれる。

 それはまるで鉄のように硬い意志だ。ジュリアスの口調こそ希望的観測のように聞こえるが、胸に秘めたその気持ちは、意思というよりは決断、決断というよりは覚悟、と呼ぶ方が相応しいほどの強い感情だ。生半可な気持ちでは、ここまで強い感情は生まれない。私はこんなに強い感情を目の当たりにしたのは生まれて初めてだ。

『やりたい事とは、一体―――』

 と、その時。

 ドドドドド……。

 この崖の上の方から、低い地響きのような音が聞こえてくる。

 私は意識をそちらに向け、感覚を鋭く研ぎ澄ます。

 これは、馬の足音?

 しかもその数は多く、ゆうに十頭以上はいる。普通の商人ならばそれだけの数の馬を走らせるような事は考えにくい。この場合、もっとも自然に考えつくものと言えば―――。

「あれは……まさか、野盗!?」

 突然、ジュリアスの表情がサッと引きつった。

「まさか街を襲う気なのでは!」

 人間には、同族の持ち物を一方的に奪って生活する種類がいる。その中で最も野蛮な生き物がその野盗だ。野盗は欲しいものは奪い、食べたい時に食べて眠りたい時に眠るという、まさに何も考えず本能のまま生きる人間だ。

「お願いがあります! 私を乗せてくれませんか!?」

 急にジュリアスは、私に向かってそう嘆願した。

『人間のあなたを私が乗せろ、ですって? 一体、何故です?』

「あの野盗を、私が食い止めます……!」