割と静かなものですね。
周囲を多少警戒しつつも、軽い足取りで歩を進めていた。
私はあの山を下り、麓の町に来ていた。無論、人気を避けるため、皆が寝静まった深夜の時間帯を選んできた。
人間の住む町なんて、騒々しくて訊ねる気にもならないのだけど。それでも訊ねた目的はジュリアスだ。
三日前、彼は無謀にも自分一人で野盗を食い止めると豪語し、実際に挑みかかった。その結果、野盗を残らず撃退したものの、ジュリアスは一人では動けないほどの重傷を負った。それを私が町の入り口まで運んでやったのだ。そうしていれば、誰かが気づいて手当てをするだろうし。
以前、ジュリアスは自分の家は貴族の名門だと言っていた。となれば、後は町を回ってそれらしい家を探せばいい。
町を巡る事、十五分程。時折、巡回する自警団の人間を避けつつ、ジュリアスの実家らしき家に辿り着いた。
華美で大きな建物を、巨大な鉄柵がぐるっと隙間なく取り囲んでいる。鉄柵の上端は槍の穂先のように鋭く尖っており、乗り越えようとする侵入者を拒んでいるかのようだ。
正面門には、獅子をデザインした彫刻があつらえてある。家紋の類だろう。人間は何かとシンボルやら印やらを好む。
私は飛び上がり、鉄柵の先端の尖った部分に降り立つ。これは神獣である自分だから出来る芸当だ。
中庭には番をしている何らかの生物の気配を感じる。だが、構う事無く私は飛び降りた。
グルルルル……。
すぐさま一匹の番犬が私を嗅ぎ付けてやってくる。黒く短い体毛に、スレンダーな体型の犬だ。猟よりも警備に使うようなタイプである。
『鎮まりなさい』
キッと一睨みすると、侵入者に対して敵意を剥き出しにしていた番犬はあっという間に萎縮して逃げ出してしまった。神獣の放つ威圧感には、所詮耐え切れるものではない。種としての各が違う。
建物の内部に向けて注意網を張り巡らせる。頭の中にはこの付近一帯の風景が立体的に映し出される。その中からジュリアスの気配を探して巡り歩く。
時折近づく番犬も、皆、私の放つ威圧感に恐れ戦き、文字通り尻尾を巻いて逃げ出している。人間が来たらそうもいかないだろうが、少なくともそう簡単には私の存在が人間に見つかって大騒ぎになる事はない。
―――見つけました。向こうですね。
屋敷の中からジュリアスの気配を発見する。
建物の二階の一角。
私は下からその部屋の窓を見上げる。
時刻も時刻だ。思っていた通り、部屋の明かりはついていない。
まあ、仕方ないですね。
彼の安否を確認しに来ただけだ。少なくとも彼の気配はあるのだから、それだけでも良しとして今夜は戻る事にしよう。どうせ傷が癒えれば、またいつものようにあの泉にやってくるだろう。
と、その時。
ガタン。
踵を返したその瞬間、背後からなにやら物音が聞こえてきた。
「待って下さい!」
振り返って見ると、私が見上げていたその窓からジュリアスが顔を出していた。
あら? 起きていたのですか?
こんな時間に起きているなんて。
そう思うや否や、ジュリアスは窓枠に足をかけて身を乗り出す。
ッ!? 何を!?
言う間もなく、ジュリアスは窓から飛び降りた。
普通、人間はあの程度の高さから飛び降りてもあっさりケガをしてしまう。にもかかわらず、ジュリアスは微かな着地音と共に、実に何でもない事のように芝の上に降り立った。
「う……さすがに、まだ傷には響きますね……」
着地の瞬間、表情を歪めるジュリアス。
やれやれ、と溜息をつきながら彼の元へ歩み寄る。
『まったく。無茶をしますね』
「大した事ではありませんよ。家を抜け出すのに、よく飛び降りてますから」
『そういう事を言っているのではありません。ケガの事ですよ。生半可な強さを過信するからそういう事になるのです。今後は自重しなさい。長生き出来ませんよ?』
「おや? 心配してくれているのですか?」
僅かに目に涙を浮かべながら、そう問い返す。ケガの痛みを痩せ我慢しているのだ。
『忠告しているのです』
「ハハッ、相変わらずですね。でも、せっかくですけど私は自重するつもりはないんですよ」
ジュリアスはそっと芝の上に腰を降ろした。
「あなたは、今の世の中の状況はどのぐらい分かります?」
『さあ。あの山から出た事自体、ほとんどありませんし』
元より、人間界での些末事などには興味を抱いた事などない。人間は過去に学ぶという事をしない愚かな種族だ。そんな連中など気に止める必要性はないのだ。
「そうですか。今の世の中は、酷く乱れきっているんです。国内は元より、諸外国の侵攻にもさらされているんですよ。こんな時、一番辛い思いをしているのは誰か分かりますか?」
『さあ?』
首をかしげる私に、ジュリアスはビッと指をさした。その先にはこの町がある。
その意味する事を鑑みた私は、僅かにうなづいて見せる。
「彼らには、自分の身を守る力すらないんです。けど、それをお構いなしに略奪を行おうとする、この間のような連中だっています。この町は自警団がいるから、まだましです。それすらない町や村は数多くあるんですから」
あの野盗もその略奪者の類だ。
通常、生活を営んでいくためには何かしら生産的行為を人は行う。それは農業のような作物の栽培だったり、何かを売って利益を得る広い意味での流通業だったりする。それをやりとりする事で、自らが生活していく上で必要なものを手に入れるのだ。
だが、略奪者は違う。文字通り、その摂理から外れているから略奪者なのだ。連中は奪う事しかしない。本来行うべき生産的行動が略奪行為に取って代わっているのだ。生産につきまとう苦労から逃げた、精神的にも惰弱で矮小な存在だ。
ジュリアスには、その略奪者に対する怒りがふつふつと感じられた。表情は穏やかでも、彼の胸には確固とした荒々しいものが渦巻いている。
それは、何らかの信念に基づいた理想を抱き、そしてそれを実現させようという確固たる強くも純粋な意思に思えた。
彼の言葉は不思議なほど私の心を次々と掴んでは奪い去っていった。彼の一言一句が痛いほど胸に突き刺さり、そして否が応にも人間には関わらないようにしようとする気持ちを消し去っていく。
「私はね、誰もが皆、安心して暮らせるような世の中にしたいんです。たとえ世の中を変えるのは無理だとしても、そういった力のない人達を守って生きたいんです。ですから、自重するのは私にとっては死んでいるのと大して変わりないんですよ」
『戦場に身を置くことは、必然的に死が背中につきまといます。それでも構わないと?』
「犠牲的精神、ってほど殊勝な心がけはありませんけどね。でも私は、その程度の危険が振り払えないようでは誰も守れやしないとも思っていますし。危険なんて元より承知の上ですよ」
そう言ってニッコリ微笑んだ。
不思議な感情だった。死への恐怖は少なからず感じられた。けど、それを踏襲する、強い何かが印象的に浮き出ている。その何かが、なおも強く私をしっかりと捕らえて離さなかった。
「私はね、だからこんな家は出て行こうと思うんです。ここに居たって、一生ぬくぬくと無意味に過ごすだけですから。安定した生活よりも、生き甲斐が欲しいんですよ」
『出て行って、どうするんです?』
「来年、王都で聖騎士団の入団選抜を兼ねた武闘大会が開かれます。それに優勝して、聖騎士になるつもりです」
『いきなり優勝とは、大きく出ましたね』
「そのぐらいできなくては。守る者は、必ず勝たなくてはいけないのです」
『そうですか』
「そういう訳で、大会までに家出の準備をしておくんですよ」
その高い志にそぐわない、まるで子供のような表情だ。
いや、子供の純心性を持ち合わせているからこそ、彼は人間にしては珍しくこの歳でかくも高い理想を掲げ、そしてそれを実現してみせようと心の底から信じられるのだろう。
確かにそれは立派な志だ。実力はともかく、彼にはそれに見合うだけのメンタリティがある。実力なんてこれから幾らでもつけられる。しかし、メンタルな部分だけはそうもいかないのだ。これらだけを考えても、彼は賞賛に値する徳を備えていると言える。
だが、それはあまりにも危ういのだ。彼の折れない決意の力源は、理想に全力で突き進めばどんな壁も必ず打破出来ると信じている事だ。彼にはそれだけの力はあるだろう。たとえ今は足りなかったとしても、向上心のある人間は肉体の許す限り幾らでも強くなれる。
けど、万が一にでもその価値観が揺らいでしまったら。泉の表面に張った薄氷よりも脆く、彼の全ては崩れ去ってしまう。彼の強さは脆さと表裏一体なのだ。
ふと私は、そんな彼を支えてやりたいとおもった。神獣の力は、人間同士の戦争においても絶大な効力を発揮する。自軍に与える士気の強さもさる事ながら、何より私がジュリアスに力を貸せば、常人では到達不可能な領域の強さを与える事が可能だ。たとえ彼の力が及ばない障害が現れたとしても、そこに私の力が加われば必ずや打破できる。そうなれば、彼の抱く崇高な志の実現がより現実的になる。
そこまで考え、私はハッと我に帰った。神獣が人間に力を貸すなんて。よくよく考えてみれば滑稽な話だ。これまで自分は、人間を野蛮で愚かな下等生物と罵ってきたはずなのに。
だけど、私は今の自分の気持ちを否定する事が出来なかった。神獣としてのプライドよりも、今、彼を手助けしたいという気持ちの方が強くなっていた。
「あ、そうそう。今回はお世話になりました。おかげで何も被害は出ず、野盗の事すら気づかれずに済みました。ありがとうございます」
『いえ、気にする事はありません』
そうですか、と彼は大らかに微笑んだ。
『あなたは人間のくせに変わっていますね』
「は?」
『人間はもっと利己的な生き物だと思っていました。あなたはあれほどのケガを負いながらも、何も見返りもないのでしょう? にも拘わらず、まだこりずにあなたは続けようとしていますし』
「まあ、そういう性格なんでしょう。っと、あなたには何かお礼をしなくては」
『お礼ですか? じゃあ、そうですね。名前でもつけてもらいましょうか。いつまでも二人称では不便ですから』
喜んで。
そう笑顔で答えた後、彼は急に顔をしかめさせた。どんな名前にするのか、早速考え始めたらしい。
了