そして翌日。
私は寝惚けた頭のまま、いつもの泉へ出かけた。私は自分の寝床は一つに留めず、幾つかの場所を決めておき、日によって変えている。一つの場所に留まると、猟師に狙いを定められやすいからだ。それでも、泉の場所はしっかりと分かっている。
寝る場所は日によって違っても、私は決して道に迷うような事はない。そもそも神獣の感覚器官はどの種よりも優れている。たとえ強い磁場のある地帯でも、方向感覚を狂わされる事はないのだ。
この山中一帯の地理は、既に頭の中に入っている。比喩ではなく、目をつぶっていても目的の場所まで向かう事が出来る。
早朝の山は、実に物静かで心地良い。夜の帳に冷やされた空気は透き通るように澄み、木の葉を伝い滴る雫の音や鳥達の囁く声が私の心を穏やかにする。何かと気持ちがささくれ立つ一日の中で、最も私が落ち着ける時間だ。
と―――。
「見つけた!」
突然、自分のすぐ脇から人間の声。
ハッと振り返ると、そこに立っていたのは、昨日一昨日と私の前に現れた、あの人間の青年だった。
その驚きの衝撃で頭の覚めた私は、ようやく自分が昨日この泉に来るのをやめようと決めた事を思い出した。
「やっぱりここに来ましたね」
そう微笑みながら私の脇に並んで歩き出す。
私とした事が……。自分の迂闊さに舌を打つ。
「ねえ、神獣は人間の言葉が分かるんですよね? 私の言っている事が分かるなら、頭を縦に振って下さい」
動物に必死に話し掛ける彼の様子は、傍から見ればただの可哀相な人である。私は神獣であるため、彼の言葉を理解する事が出来る。だが、それに対しての何らかの反応がなければ、聞こえていない、もしくは理解していないのと同じように傍目には見える。
私は彼を無視したまま、スタスタといつもの調子で歩き続ける。
走って振り切る事は簡単だが、それではまるで、私が動揺して逃げ出したみたいだ。そう思われるのも癪に障る。こうなったら仕方がない。彼はもうここには存在しないものとして無視し続ける事にしよう。
「あなたはこんな山奥で一人で、一人で暮らしているんですか?」
まるで仲の良い友人に話し掛けるような彼の口調。
無視。私は何も聞こえない。気配も感じない。そう自分に言い聞かす。
「一人で暮らしているなんて寂しくないですか? 話し相手とか欲しいなあ、って思った事ありません? 私も似たようなものなんですよね」
何をおかしな事を。
今の彼の言葉を、私は心の中で嘲笑した。
貴族は自分の住居に嫌というほど使用人を抱えているはず。そんなに人がいるのに、どうして話し相手に困るというのだろう?
多少の疑問はあったが、それをわざわざ訊ねるほどの興味はない。
いかんともしがたい状況のまま、とうとう泉に着いてしまった。彼も未だに私の脇を歩いている。
「ねえ、何か反応して下さいよ。寂しいじゃないですか」
自分から勝手に来ておいて、返事をしてくれなくて寂しいだの、そんな事は私の知った事ではない。そういう不平不満をぶつけられるのはとんだお門違いだ。
私はいつものように泉の縁に立って頭を下げ、その水で喉を潤す。
そして早々に踵を返し、その場を立ち去る事にした。日課であるこれが終わった以上、この場に留まる理由などない。
「あ、待って下さいってば」
彼はまたも私についてくる。
いい加減に腹が立ってきた。
大した用もないのに、こうもまとわりつかれなければならないなんて。
そして、つい、私は。
『しつこいですね。ついてこないで下さい』
思わず人間の言葉でそう吐き捨てた。
途端に彼の表情が驚きに変わった。
「言葉が話せるんですか!? いや、今のは頭の中に聞こえてくる感じですから、何かの不思議な力ですね!? やっぱり神獣は、噂通り不思議な力を持っていました!」
その驚きの直後、彼の表情は更なる興味へ変わった。
しまった……。
つい感情に任せて返事をしてしまったが、これはかえって彼の興味を一層引き付ける結果に終わってしまった。追い払うどころかヤブヘビである。今更ながら私は、自分の思慮のない行動に後悔する。
私がこうして人間と会話できる事を知られてしまったのは仕方がない。とにかく彼の欲求を満足させよう。満足してしまえば、彼もさっさとどこかに行ってくれるだろう。
『あなたは私と話がしたいのですか?』
「え? えっと、まあ、したいような感じでしょうか」
そう彼は頭をかきながら、ばつの悪そうな表情を浮かべて曖昧な返事を返す。
なんだ、それは。散々人に付きまとって不愉快にさせた理由がそれ?
しかし、私の問いに彼は至極困惑の色を浮かべている。自分でも自分の行動がよく分かっていないようだ。人間はよく精神の肉体の調律が外れる事がある。彼の場合もそれだろう。
「その、なんて言うんでしょうか……? 私の家は使用人やらが沢山いるんですけどね。みんな、どうも私とは真っ向から話し相手になってくれなくて。私と話す時は、必ず一線引くんですよ。ですから、いつも私が本音を胸の中に腐らせちゃうんですよね。それが寂しいんですよ。割と」
彼の心の色を覗いてみると、確かにその言葉に嘘はない。それどころか逆に、寂しげな感情が私に逆流してきた。危うく同調しかけた所を寸断する。
……けど。
だからどうだと言うのだ?
それが私が抱いた正直な感想だった。
自分が寂しいから、それを紛らわそうという感情の発露は理解できる。だが、それは人に強要するものではない。かえっていい迷惑に思われるのがオチだ。私にだって付き合う筋合いは一切ない。
理屈ではそう理解していた。ここは無視しても構わない場面だ。
それなのに私は、
『……あなたの名前は?』
と、思わず訊ねてしまった。自分でも驚くような質問だ。
「私の名前ですか? 私はジュリアス=シーザーといいます」
そう言って、彼は微笑んだ。