戻る

 

 

「うわっ!?」

 背に乗るジュリアスが、上擦った声で私の首にしがみつく。

『落ちても私は責任は持ちませんよ』

「わ、分かりました」

 私は崖の所々にあるでっぱりを伝い、上を目指して跳躍を繰り返す。ほんの僅かな足がかりしかなくとも、私の脚力には十分である。他の種には到底不可能な芸当だ。

 人間を背に乗せるなんて生まれて初めての事だ。これまでの私は、こんな日がくるだなんて思ってもみなかった。今日まで、私にとっての人間とは軽蔑の対象でしかないのだから。

 私にそれをさせたのは、彼のあの言葉だった。

 あの野盗を、私が食い止めます。

 やっと喉から搾り出したような震えた声。それが虚勢なのか武者震いなのかは分からないが、私がこうすることでその真偽のほどは判明する。

 崖を登りきると、今度は周囲の気配に集中する。野盗の気配はここから丁度北東に向かっている。ジュリアスが言った通り、どうやら麓の街へ向かっているようだ。

『行きますよ』

 野盗の気配に向け、私は駆け出す。

 私の脚力は、おそらくあらゆる種の中でも抜きん出ている。同じ神獣以外で私よりも速く走ることができる存在はいないだろう。

 風を切る音が私の聴覚を支配する。感じられるのは、背にしがみついているジュリアスの感触のみ。

 私は、自分が風と一体化しているような錯覚に陥る、この瞬間が好きだった。誰にも止める事の出来ない、何物にも束縛されない、ただただ圧倒的速さで駆け抜ける一陣の風。

『それで、どうやって止めるんですか? 見た所、武器は持っていないようですが』

 背中にしがみつくジュリアスにそう私は訊ねた。

「武器ぐらいはなんとかなりますよ。それより急いで下さいね」

 神獣である私に、急げ、とは。これ以上速度を上げた所で、自分が振り落とされるだけだというのに。

 私の加減に気づかず必死な様子の彼に微苦笑する。

『何故、わざわざあなたが野盗を食い止めに行くのですか? 街には治安機構の類があるでしょうに』

「確かにそうですが、それでも街に被害は少なからず出ます。ならば、今、ここで私が食い止めるのが最善でしょう。街の人の不安をいたずらに煽る事もありませんし」

『言うは易し、成すは難し。それは理想論でしょう? 力のない正義は正義と呼ぶに値しません』

「かと言って、見過ごす事が出来ない性格なんですよ」

『巣立ち前の、まだ羽も生え揃っていない雛鳥が、ピーピーないているようにしか見えませんね』

「なかなか手厳しいですね。でも、心配はいりません。私は強いですから」

 誰が誰の心配をしている? 人間の一人や二人、どうなろうと知った事ではないというのに……。

 やがて野盗の群れが見えてきた。数は十ニ。いずれも思い思いの武器を携えている。大した規模の野盗ではないが、少なくとも一人で、それも丸腰で挑むような相手ではない。

「前方に回りこめますか?」

 安い注文だ。

 私は僅かに加速をつけると、前方に向けて大跳躍。一気に野盗の群れを飛び越し、連中の進行方向に立ちはだかる。

「な、なんだ!?」

「何者だ、テメエ!」

 突然現れた私達の姿に、俄かに殺気立つ野盗の群れ。野蛮だが、圧倒的な戦意が質量を伴ってぶつけられる。普通の人間ならば、とうにこの場から逃げ出している事だろう。

『私がつきあうのはここまでですよ』

「いえ、ありがとうございます」

 彼は私の背から降り、野盗の群れに相対する。

 私は再び飛び上がり、場所をここから少し離れた小高い丘の上に移した。

 自分は正義と力を併せ持つ、と言った。その言葉がどこまで本当なのか、せいぜい、最後まで見させてもらおう。

 と。

 野盗の群れを正面から見据えていたジュリアスは、突然、群れの中に向かって飛び込んだ。

 な―――。

 ナイフ一つすら持っていないというのに。なんて無謀な。

 だが、その言葉が頭の中で鮮明化する前に、ジュリアスはもう次の行動に移っていた。

 ジュリアスは考える間も与えず連続した動作で野盗の一人の馬の背に飛び乗ると、そのまま野盗の後頭部に膝を叩き込んで地面に落とす。同時に、野盗の腰に差されていた野打刀を奪う。

「や、野郎!」

 ようやくジュリアスが自分達を妨害しに来た事を悟った野盗達は、一斉に各々の得物を抜いた。金属の擦れ合う甲高い音の合唱がこだまする。

 ジュリアスは奪った馬の手綱を取り、方向をまたも群れの中へ突っ込んでいく。そのまますれ違いざまに次々と斬りかかっていく。太刀筋は素人ではなく、何かしらの訓練を受けたそれだ。本能のままに振り回す野盗とは違い、ある一定の理に適った動作である。

 なるほど。

 ああする事で、数に勝る野盗達に同士討ちの危険性をより強く意識させているのだろう。あまりに意外なジュリアスの行動が、彼らにとって奇襲攻撃の効を奏した。

 技術の差は歴然としている。剣術もさる事ながら、馬術もまた正統な流れを組む流派の教授を受けたしっかりとしたものだ。基本的に動きには無駄が見られない。

 だが……。

「ぐあっ!?」

 ジュリアスは背中を大きく斬り裂かれ、馬から叩き落された。

 奇襲攻撃とは、あくまで一瞬の勝負だ。時間がかかればかかるほど、敵は冷静さを取り戻す。やはりたった一人で短時間で鎮圧するには多過ぎる数だ。幾ら洗練されているとはいえ、大人数を一度に相手に出来るほどジュリアスは強くない。

 勝負はありましたね。

 後の展開は目に見えてきた。そのまま野盗に取り囲まれなぶり殺しにされるだろう。所詮、一人でどうにかなるような相手ではないのだ。幾ら殊勝な心がけや志を持っていたとしても、それに見合うだけの力がなければこういう結果に終わる。これが現実というものだ。どう世の流れが移り行こうとも、この世の根本となる法はただ一つ、『弱肉強食』だけだ。

 これ以上の長居は無用だろう。こちらにまでとばっちりが来かねない。早々に立ち去るのが賢明な選択だ。

 と、踵を返しかけたその時。

 ジュリアスは野盗達の追撃を転がりながら避けると、再び相対して身構える。

 ぜい、ぜい、と不規則な呼吸を繰り返しながらも、彼はまだ野盗達をその目に見据えている。

 彼の目は、まだ怯んでいない。