BACK

 びゅっ、と鋭い音と共に、空気を切り裂きながら大剣が中空を閃く。
 その軌道に轢かれた二人の男は耳障りな断末魔の叫びの二重奏を上げながら、膝から砕けていくようにその場へ崩れ落ちる。
「くそっ……!」
 相手の交差点を読んだ見事な太刀筋である。しかしレジェイドは、歯軋りをしながら忌々しげに大剣を振って血糊を払った。今の太刀筋は、自分がイメージしたそれに遥か及ばないものだったからである。
 レジェイドとシャルトを取り囲むのは、五人。皆それぞれ、剣、槍、小太刀、鎌、鉄爪を両手に携えている。武器を番で使う戦闘スタイルが特徴の、流派『悲竜』の戦闘員だ。二人の脱走を聞き付けてやってきたのである。当然、再び牢へ戻してやろう、などという甘い考えは持ち合わせていない。レジェイドの実力は、北斗に籍を置いた者ならば誰でも知っている。本気で殺すつもりで挑まなければ、今の二人同様に一瞬で斬り殺されてしまう。
 肩でぜいぜいと息を切らすレジェイドの姿は、明らかに疲労困憊したものだった。しかし、放たれる殺気は普段の比ではなく、強く心を構えていなければあっと言う間に飲み込まれてしまいそうである。
 明らかに彼ら五人の方が有利な状況であった。しかし、レジェイドのあまりの覇気に気圧されて、今一つ踏み込めないでいた。
 その一方で、レジェイドは自らとの戦いでも気力を削がれていた。
 目が霞む。体の動きにも鈍く、剣筋にいつものキレが無い。
 確実に毒が体を蝕んでいる証拠だった。リーシェイに飲むよう命じられた神経毒が、ようやく第三者にも視覚的に分かる効果を表し始めたのである。
 毒に耐性はあるものの、全く効かない訳でもなければ、じっとしていて解毒されるものでもない。神経毒は後から長い時間をかけてじっくりと体を侵食していく。建前上、嬲るようにじわじわと苦しめて殺したいからだそうが、これは所謂リーシェイなりの時間稼ぎ。そう思うとこの嫌らしい遅効性も、唯一の救いに思えてくる。
 こんな所でチンタラやってる暇はねえってのに……!
 通常、敵に囲まれてしまった場合、焦って自分から先に手を出す事は厳禁とされる。その行動に刺激され、四方から一斉に攻撃を受けてしまうからである。
 だが、レジェイドには時間が無かった。長期戦へ持ち込んで慎重に戦っていたら、目的地へ辿り着く前に毒が回りきり死んでしまう。
 一度、自分がまだ冷静さを失っていない事を確認すると、レジェイドは大剣を中段に構えて目の前の敵に斬りかかって行った。
 同時に、レジェイドからは背中側に位置する三人が一斉に足を踏み出した。左右の人間はそれぞれレジェイドの背中を、そして中央の人間はレジェイドと背中合わせに構えているシャルトへ襲い掛かった、
 敵の得物はトライデント。本来両腕で一本を扱うような重量武器なのだが、おそらく術式の副作用で腕力が強化されているのだろう、軽々と片手で一本ずつ槍を振り回している。
 対するシャルトの構えは実に弱々しかった。真剣な眼差しにも普段の覇気が無く、姿勢もどこか落ち着きが無くて足元もおぼつかない。呼吸もレジェイド以上に定まらず、一呼吸するたびにぐらぐらと主軸が揺らめいた。
 不意にシャルトは構えたまま激しく咳き込んだ。それは襲いかかる敵の前ではあまりに致命的な隙である。たとえ生理的なものだとしても、戦闘時の緊張感はそれらを一時的に抑制するものである。だが、シャルトは決して緊張感を欠いている訳ではない。緊張感だけではどうにもならない状態なのだ。
 その時。
 斬り込んだはずのレジェイドが、突然目の前の敵に背中を向けた。
 いきなり無防備な背中を見せつけられ、前方の二人は驚きのあまりむざむざと好機を逸してしまう。
 レジェイドはその姿勢のまま、ぶんっとシャルトの頭の上を横に薙いだ。繰り出された剣閃が、向かってくる三人の点を水平に繋ぎ留める。次の瞬間、三人は引っ張られるように大きく背後へ吹き飛ばされた。
 流派『夜叉』のレジェイドは徹底的な現実主義を貫く、堅実で合理的な戦い方をする事で有名だ。そんな彼が、まさかこのような奇襲を仕掛けてくるなんて。その驚きが、レジェイドに二度攻撃を繰り出す猶予を与えてしまう事になった。
 そこから更にレジェイドは返す剣で体を捻り、横一文字に剣を繰り出す。そのまま続け様に残る二人は斬り捨てられた。
「……よし、行くぞ」
 呼吸を整えながら大剣を縦に振って血糊を払うレジェイド。それにシャルトはゆらりと右手を掲げて答えたが、未だに咳き込んでいた。しかも、前よりそのペースが早まって来ている。毒がそれだけ回ってきた証拠だ。
 前方を行くレジェイドを追いかけようと足を踏み出すも、普段の脚力はまるで感じられず、己の体を前方へ蹴り出すだけで精一杯だった。
 その足を引き摺るような歩き方は、決して足を酷使し過ぎて痛めたせいだけではない。シャルトはレジェイドと同量の毒を飲んだが、レジェイドは体格も大きく何より毒に対するある程度の耐性がある。けれどシャルトは人よりも薬には過敏で、尚且つ体格も小柄だ。当然、毒の回りは遥かに早い。
 タイムリミットはシャルトが基準だ。それだけに、焦りはより強く募る。
「厄介な事になって来やがったな……仕方ねえか」
 するとレジェイドはもたつくシャルトの体を左腕で持ち上げると、そのまま小脇に抱えて走り出した。
 レジェイドには毒に苛まれるシャルトの苦しみが良く分かった。レジェイドはかつて兄弟に毒を盛られて死にかけた事があるからである。だから、この非常時に拘わらず動きの緩慢なシャルトに精神論を持ち出す事は出来ない。気合だけでどうこうなるほど、毒のもたらす苦痛は凄まじいのである。
 これ以上、シャルトに負担を強いる訳にはいかない。
 そう判断した上での行動だった。シャルトもまた逆らう事をしなかった。レジェイドと同じ状況判断だけでなく、もうそれだけの余力が残っていないのだ。
 階段を一気に駆け上がり、一階層上へ昇る。記憶の限り、自分達が閉じ込められていたのは地下五階だ。リーシェイの地図に記される目的地は建物の三階である。つまり、後四回、階段を登らなくてはならないのである。
 自分達が脱獄した事は既に知れ渡っているだろう。既に自分達は何十人も敵を退けている。ここから待つ敵は、これまで以上の実力者で、尚且つ数も遥かに上回っていると考えるのが自然だ。まして、自分の知る中であまり事を交えたくない実力者が投入されるかもしれない。もしもそんな事になってしまったら間違いなくアウトだ。毒でふらつく今の状態で、シャルトを守りながらではとても乗り切る望みが薄いのだ。
 しかし、そうと分かってはいても退ける状況じゃない。何よりも大事な自分と身内の命がかかっているのだ。それに、こんな修羅場は何度も潜り抜けてきた。今度だってなんとかしてみせる。切り開く力とは腕力でも知力でもなく、決して折れない気力だと先代には教えられた。確かに今の自分は体力的にも精神的にも辛い状況に置かれている。だが、まだ気持ちではこの状況が如何ともし難いと諦めてはいない。それで良いのだ。それさえ失わなければ、必ず如何な苦境もこれまで通りに切り抜けられる。
 地下四階。
 そこも先ほどと同様に黴臭く細い廊下が一本、真っ直ぐに伸びているだけであった。けれど、意外な事に敵の姿が一人として見当たらなかった。この階には隠れる所などなく、気配を消して潜んでいる訳でもない。命令系統がうまく機能せずもたついているのか。何にせよ、それはそれで好都合だ。
 ここは休まず一気に突っ切ろう。
 レジェイドは爪先が痺れ始めた足に力を込めて加速をつけた。
「レジェイド……僕の事はもういいよ」
 その時、不意に抱えられていたシャルトが、今にも消え入りそうなほど弱々しい声でそうレジェイドに話しかけた。
 何のつもりなのかは知らないが、シャルトは普段自分を俺と呼んでいる。しかしそれが今は僕に戻っている。まだ北斗に来たばかりの頃もシャルトは自分を僕と呼んでいた。つまり、弱気になってる証拠だ。
「は? 何言ってんだお前」
「僕は邪魔になる。レジェイド一人の方が助かる可能性が高い。だから……」
「けっ、先に頭の方に毒が回っちまったようだな」
 シャルトの考える所の意味はレジェイドにも重々理解出来た。
 限りなく合理性だけを追求すれば、確かにシャルトの言う通り、戦力的にはまるで期待出来ないシャルトをこの場に置いて行った方が自分の生存率は飛躍的に高まる。
 レジェイドは俄かに苛ついた。
 シャルトの提案がまるで的外れのものではない事、それを一度は自分も考慮してしまった事、そして何よりもこの案をシャルトの口から聞かされた事が不愉快で仕方なかったのだ。
 助けられる立場である子供に気を使われた自分。それほど今の自分は余裕を感じさせないのか。
 沸き起こったこの不愉快さは、何よりも自分へ対するものである。
「頼むレジェイド。僕はレジェイドに感謝してるんだ。レジェイドがいなかったら今の僕は無かった。あのままどこかでのたれ死んでたと思う。だから、僕のせいで死なせたくないんだ」
「てめえのようなガキに心配されるほど、俺は弱くねえんだよ」
「だけど……」
「黙ってろ!」
 必死で哀願するシャルトを、レジェイドはにべもなく一喝する。
 こんなにも弱々しく小さな声だったが、嫌になるほど鋭く針のように突き刺さってくる。自分の良心を咎められているようで、酷く胸が締め付けられるように辛かった。
 普段は気恥ずかしくて覆い隠しているであろうシャルトの気持ちがひしひしと伝わってきた。けれど、レジェイドはより一層、シャルトの提案は拒絶したくなった。大切なもののためならば、何の躊躇いも無く自分の命を差し出せる。そんな事が出来る人間がどれだけこの世にいるだろうか。こんな気持ちの純粋な人間は誰にでも好かれるだろう。しかし、皮肉にもその性格が災いし、誰でも手に届く所にある幸福はなかなか掴み取れない。それをようやくシャルトは掴み取ったのだ。だから、こんな所で死なせたくはない。下らない争いでみすみす命を落としていい人間ではないのだ。
「帰る場所のあるヤツがそうそう簡単に諦めるんじゃねえよ。お前がいなくなって喜ぶヤツがいるとでも思うか? 俺だってな、お前なんかの世話になるほど落ちぶれちゃいねえよ」
「だけど、このままじゃ共倒れだ……」
 またしても、一番聞きたくなかった言葉をシャルトの口から聞いてしまった。
 レジェイドの苛立ちは更に強まった。シャルトがシビアに現実的な話をすると、まるで自分が状況を見誤っているかのように思えて仕方なかった。だが、シャルトを肯定し自分を否定する事は、二人で生き延びる事へ挑戦する選択肢を自ら放棄する事と同じである。可能性は決してゼロではないが、割に合うものでもない。全力を尽くしても、自分の思い通りになる保証などどこにもないのだ。
 死にたくない。
 これほど強く思った事がかつてあっただろうか。生への渇望が、自分だけでなくシャルトへも強く沸き起こっていた。自分は死にたくないが、シャルトも死なせたくない。実に筋の通らない我侭だ。だけど、こればかりはどうしても譲れなかった。シャルトの言う通りに譲歩して助かっても、絶対に強い後悔が一生自分を苛むだろう。それに、自分がシャルトを助けたのは、少なくともこんな惨めな死なせ方をするためではないのだ。
 階段を駆け上り地下三階へ飛び込む。
 上の指揮がもたついている、という推測はどうやら的を射ていたらしく、そこの階にも人一人としていなかった。我侭が通せる。レジェイドは光明が差す気持ちで表情が緩みそうだった。
 きっと、俺達は助かる。
 微かに望みが繋がりかけたその時。レジェイドの足音を飲み込んでしまうほどの凄まじい足音の数々が、格子を下ろすかのように目の前の望みを埋め尽くした。
「くっ……」
 足を止めてシャルトを立たせるレジェイド。大剣を中段に構えると、彼らもまた応ずるかのように一斉に戦闘体勢に入った。思わず自分の目が毒のせいでありもしないものを映しているのではないかと疑いたくなるほど悲惨な光景だ。
 目の前に群がるのは、百は下らないであろう無数の軍勢だった。たった二人の死に損ないへ投入するには、あまりに多すぎる戦力だ。それほど自分達を消し去りたいのか。もう少し余裕があったのなら、正当な評価だ、と喜ぶところだ。
 大剣の柄を握る手が微かに震える。まだ大剣を揮い続ける力は残っているが、毒が回ってきているため細かな動きは出来ない。加えて折られた肋骨の痛みが否応無く体力を奪ってくる。自分でも立っているのが驚くほどだ。
 シャルトはふらつく体を押して構えを取った。やはり主軸が定まらぬ危なげな構えである。
 と、
「チビ助は下がってろ。すぐに片付けてやる」
 そんなシャルトをレジェイドは有無を言わさず押しのけて下がらせた。
 シャルトをこれ以上動かす訳にはいかない。自分よりも毒の回りが早いのだ、これ以上は致命的である。
「駄目だ、レジェイド。幾らなんでも無理だ。僕の事は放っておいてくれていい!」
「うるせえ! 諦めたらな、そこで終わりなんだ! お前、この五年間、夜叉で何を学んだんだ!?」
 レジェイドに怒鳴られ、シャルトはぐっと唇を噛んで一歩退く。けれどレジェイドに向ける眼差しは到底納得のいった人間の目ではなかった。
 張り上げた喉がひりひりと痛む。
 額の辺りがやや熱っぽく感じる。偉そうな事を言った割に、自分もそれほど余裕がある身ではないようだ。
 シャルトは尚も構えを取ってレジェイドに並ぼうとする。しかし、不意に襲ってきた咳に自由を奪われ、思わずよろめいた。
「いいから怪我人はじっとしていろ。俺が何とかしてやっから」
 この絶望的な状況で、不思議と笑みが浮かんできた。
 戦いに興奮しているのではない。これほど自分が追い詰められても、あくまで平素の自分で居られる事が嬉しく思えたのだ。
 そして、文字通り壁のように密集した軍団が一斉に向かってきた。
 レジェイドは一度大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。すると指の震えがそれほど気にならなくなった。
 きっと目の前の敵を見据え、睨みつける。
 数え切れぬほどの敵が砂糖に群がる蟻の様に、自分へ群がってくる現実を認識する。そしてくすぶりかかっている己の闘志を再度熱く燃え上がらせた。
「お前は、俺の命に代えても死なせねえ」
 大剣の柄を握る自分の握力を確かめる。万全には程遠いが、剣を奮うには十分だ。
 強く奥歯を噛み、最後に、ここから誰一人通さない覚悟を決める。
 体は軽くなった。
「そして、俺も死なん!」
 大剣を構えたまま、レジェイドは前へ飛び出した。



TO BE CONTINUED...