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優しさは、容赦なく僕の心に染み渡る。
それはまるで紙に落としたインクのように、見る見るうちに染めていく。加速度的に広がるその波を、僕は拒絶したけれど撥ね退ける事が出来なかった。
多分、受け入れる気持ちがどこかに残っていたんだと思う。
そうでなきゃ、躊躇う理由はないのだから。
しまった、見つかった。
目の前には、日に焼けて浅黒い肌と白髪の入り混じった髪を後ろへ撫でつけた、中年と壮年の境界ぐらいの男が立っている。土いじりをしてきたような風体だ。おそらく誰もいないと思って帰ってきたのだろう、僕を見るその目が明らかに驚いている。
早く逃げなければ。
そうはやる気持ちをぐっと堪え、僕は自らの思考を冷静に保った。相手は細身の男が一人。周囲は村はずれであるため他に人は居ない。だったらそう慌てる必要はなさそうだ。この男を黙らせ、その隙にカバンを持って逃げる。普通に走り比べたら、まず間違いなく僕の方が勝つだろう。官憲に訴えたとしても子供の泥棒如きに動くはずはないだろうし、そもそもそんな事をしてる間に僕は行方を眩ませている。
よし、やろうか。
出来る事ならば、あまり手荒い事はしたくない。すぐさま頭の中にいつものようにイメージを描き始めるが、イメージは慎重に選別する。炎とか雷とか、あまり攻撃的なものは駄目だ。強い光とか、僕がカバンを持って逃げ出すぐらいの時間だけ怯ませられればいい。
そして僕の描いたイメージは、太陽を間近で見たかのような強い光。それを、誰に教えられたでもない自然な一連の動作で実体化させる。
―――が。
「君はこの辺りの子供ではないね?」
と、男は実に人の良さそうな笑顔を僕に向けた。
思わず僕は、せっかく頭に描いたイメージが掻き消えてしまうほど驚いてしまった。これまで盗みをして一度も見つかった事がない訳ではないけれど、誰もがみんな僕に対して怒りと侮蔑を向けてきた。自分の財産がどこの誰ともしれない子供に奪われようとしているのだ、それは当然の反応だと言える。
それなのに、目の前の男はにこやかな笑顔で僕を見ている。僕がここにどういった理由で忍び込んだのかなんて、この状況を見れば一目瞭然だ。分かっていながらこんな態度で接しているのだろうか? もしもそうなのなら、ますます行動の意味が分からなくなってくる。
得体の知れない恐ろしさが込み上げてくる。この人は一体何を考えているのだろうか? とにかく、このままじゃ埒が開かない。早い所イメージを作って逃げ出さなければ。
そう、当初の警戒心を取り戻すと、僕は強く眼前を見据えて気を取り直す。
だがしかし、
「お腹は空いていないかい? これから昼食の仕度をするのだよ」
男は尚も好意的にそう言うと、首にかけていたタオルで額を拭き、肩に背負っていたカゴを床へ置く。中には大小のじゃがいもが数個、並んでいた。
今頃昼食?
いや、疑問点はそこではない。
どうして彼は僕の不法侵入を咎めないばかりか、あまつさえ食事にすら誘うのだろうか。僕の常識からはあまりに逸脱した行動だ。こうなると、もはや何か陰謀めいたものを笑顔の裏で画策しているとしか思えない。けれど、僕のいつもの鋭い勘は警鐘を鳴らしてはこない。
一体何を企んでいるのか。
たまりかねた僕は、思い切って直球を投げてみた。
「何を企んでるんだ……?」
警戒心も露な僕に、そう不遜な言葉をぶつけられて黙っていられるはずが無い。少なくとも何らかのそれらしい反応を示すはずだ。けれど、
「何を? 落ちぶれたとは言え、これでも私は聖職者だ。神に仕える私が、神がこの世に使わした子供に不徳をする訳がなかろう」
彼は多少苦みを口元に浮かべるも、そう愉快そうに笑った。どうやら僕の言葉が心外だっただけのようだ。
勘も騒がないし何も企んでいる様子も無い。けど、目的も定かではない男の言動。本当に何のつもりなのか、僕には見当がつかない。こんな掴み所の無い相手は初めてで、気がつくと僕は一歩後ろへ後退してしまっていた。
「そんなに警戒しないで。驚かせてしまって悪かったから」
そして彼は尚も優しい眼差しで僕に微笑みかける。理屈抜きで人を安心させてしまいそうな、温かい優しさがひしひしと伝わってくる。けれど僕にとってそれは苛立ちを募らせるものでしかない。
もう、いい加減にしてくれ。
遂にカッとなってしまった僕は勢い余り、おかしな行動に出てしまった。
「これを見ろっ!」
僕は床に置いた自分のカバンを拾い上げると、その口を開けて中身が見えるように床に叩きつけた。中には僕がここから盗んだパンや缶詰が詰まっている。
いつまでもこんな善人めいた態度を続けるのは、信じ難いけれど僕の侵入目的に気がついていないとしか思えない。そう判断した僕はそれを気づかせてやろうと、こんな大胆というか率直的で乱暴な手段に出たのだ。同じ結果を求めるにしても、もっと他に良い方法はあったかもしれない。ただ、そんな方法が完全に逆上し冷静さを著しく欠いた今の精神状態で思いつけるはずはないが。
さあ、怒れ。僕に怒鳴り、あらん限りの罵声を浴びせろ。そうすれば心置きなく描いたイメージをぶつけて、さっさとこの場から退散出来る。
床に投げたカバンの中へ視線を落とす男の様子を見ながら、今か今かと感情を爆発させるのを心待ちにしていた。
しかし、
「君は食べるものに困っていたんだね。けれど、人の物を盗るのは悪い事だ。食べ物は人の命に直結する大切なもの。それを奪うという事は、その人の命を奪う事になる」
僕へ返って来たのは汚い罵声ではなく、まるで父親が子供を諭すような優しくも厳格さの篭った、いかにも神父らしい厳かで説法然とした声だった。
僕の怒りは行き場の無いほどまで上り詰めた。あまりの怒りに涙すらこぼしてしまいそうだ。自分の完璧なはずのシナリオにこうも逆らわれ、挙句理解不能な切り替えしまでやってくる。これまで何でも思い通りにやってきた僕にとって不愉快以外の何物でもない。
どうしてこの人は咎めずに諌めるのだろう?
その理由がどうしても分からず、僕は気がどうにかなりそうだった。自分の思考を大きく逸脱した存在が腹立たしくも恐ろしくもあった。
「さあ、昼食の準備をしよう。君も手伝ってくれ」
どうしていいのか分からず、その場に立ち尽くし狼狽する僕。けれど彼はまるで構わず、相変わらずの柔らかい物腰で僕へ話し掛けてくる。
「あ、ああ……」
もはやまともな思考が出来ない僕は、彼の言われるがままとなって頷き返した。
何故か、僕はその言葉に逆らえなかった。彼の口調は威圧感などまるでありはしないというのに、それ以上の強制力を持っている。暗示にかかったのか、意識を乗っ取られてしまったのか。とにかく凡そ自分のそれとは思えない行動だ。
今は考えても仕方がないのかもしれない。彼の言動も自分の行動も、こんな突発的に起こった混乱状況では幾ら考えてもまともな答えが出てくるはずがない。ここは一旦彼に従って、後から逃げ出すチャンスを見つければいい。
気がつくと、あんなに血が昇っていた頭はすっかり冷めていた。
拍子抜けしてしまったんだろう。そう思った。
TO BE CONTINUED...