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それはとても意外でした。
私は、シャルトさんは私なんかと違って何一つ欠点や弱点のない、完璧な人だと思っていました。
シャルトさんに限って、そんなものがあるはずがない。
恋は盲目という言葉がありますが、これはまさにその通りです。
またシャルトさんの新たな一面を見る事が出来ました。
なんだか嬉しいです。
時刻は七時四十分。
オーダーをやり取りする以外に立ち止まる暇もないほど忙しかった時間帯が過ぎ去り、そろそろ仕事の流れがゆっくりとし始めます。南区にはこういった料理店は沢山ありますが、深夜営業をする店は極少数です。それはやはり治安的な理由があるからでしょう。北斗はヨツンヘイムでは比較的治安の良い方に分類しますが、確実に安全という訳ではないのです。その証拠に、北斗の中でも有数の実力者が集まっている守星という役職の人達は、夜間も休まずに北斗中を巡回して警備をしています。
「お疲れ様ー」
と、また一人同僚が仕事を上がっていきました。夜道の一人歩きは危険なので、まだ建物の明かりがある時間にみんなは帰っていきます。
「お疲れ様です」
バイバイ、と互いに手を振って別れます。今の人で従業員は全て帰った事になります。これで店には私の他にはお父さんとお母さんしかいない事になります。とは言っても、ラストオーダーまでの時間はまだありますが、この時間になると新しいお客も来ませんし、オーダーもほとんど入らなくなります。三人しかいなくても、何も問題はありません。
ようやく仕事も減って楽になりました。バタバタと走り回る必要もありません。毎日の事なのですが、仕事に忙殺されている時は次から次へと仕事が迫り来るため、時間の流れもあっという間に過ぎ去ってしまいます。体が自分という意識から切り離され、まるで歯車のように駆けずり回るのです。自分が自分でない感覚というのか、とにかく忙し過ぎて何も考えられなくなります。
仕事には慣れているのですが、週末の最も忙しい今日はどうしても疲労感が隠せません。それでも、まだ休むには早いです。空いたテーブルを綺麗に片付け、それから遅めの夕食を作らなくてはいけません。まかない料理という訳ではないけど、夕食を作るのは私の仕事です。お父さんもお母さんも仕事で疲れているから、私が自分からその仕事を引き受けたのです。ずっと続けてきたせいか、一応、それなりの自信がなくもありません。人よりは出来ると自負したりしています。
汚れたテーブルを拭き、周りのゴミを拾い集めていきます。大掛かりな掃除は開店前にやるのですが、出来るだけゴミは拾っておいた方が明日の分が楽になります。
と。
「にゃあ!」
ふと足元から子猫の鳴き声がしました。私はテーブルを拭く手を休めて足元に視線を落とします。
「あら?」
そこにいたのは子猫ではなく、真っ白な毛の虎子でした。普通、虎は模様を描くように黒い体毛が生えているものなのですが、この虎にそれはなく、全ての毛が突き抜けるような白です。それは私の知っている子でした。シャルトさんがいつも連れている虎子のテュリアスです。
あ!
途端に、まるで稲妻のように私は大切な事を思い出しました。
今日は週末で、シャルトさんが来る日、しかも私が席に案内したのです。どうしてこんなに大事な事を忘れていたのでしょうか。
「にー」
そして、テュリアスは一声鳴くと、小さな手足で駆け始めました。まるで私について来いと言っているように思えます。
忙し過ぎたせいでしょうか、すっかりシャルトさんが来た事を私は忘れていました。でも、テュリアスがいるということは、シャルトさんはまだ店にいるという事になります。だからかもしれません、別に確たる理由もなしに私はテュリアスの後をついて駆けていきました。シャルトさんのテーブルは亀の十番。あらかじめ示し合わせておき、空けておいた席です。私が案内したのですから間違いはありません。どんなに忙しくとも忘れるはずはありません。
そして、
「シャルト……さん?」
亀の十番テーブルに着いた時、私は思わず唖然としてしまいました。テーブルにはシャルトさんが注文した料理の皿が空になって積み重なっています。その中に、シャルトさんは突っ伏していました。
「にゃー」
ぴょん、とテュリアスがシャルトさんの体によじ登ると、突っ伏したまま動かないシャルトさんの頭をぺしぺし叩きます。しかし、シャルトさんはぴくりとも動きません。
ずっとこうなの。
テュリアスが私の方に困ったような視線を向けます。
ど、どうしたのでしょう……?
私はおそるおそるシャルトさんに近づいて様子を見てみます。すると、微かに寝息を立てているのが聞こえてきました。呼吸不全とか、そういう深刻な病状にあるようではありません。どうやらシャルトさんは、ただ眠ってしまっているだけのようです。
「あの……シャルトさん? こんな所で寝ていると風邪を引きますけど……」
不規則にゆっくり上下するシャルトさんの肩に手を置いて、起こすためにちょっとだけ力を入れて揺さ振りました。しかし、シャルトさんはうんともすんとも言わず、まるで目覚める気配がありません。
一体どうしてシャルトさんはこんな所で眠っているのでしょう? しかも眠りが普通よりもなんだか深いようです。
「シャルトさん」
私はもう少し力を入れてシャルトさんを揺さ振りました。
「ん……」
今度は少しだけ唸りました。でもそれだけです。またすぐに眠ってしまいました。
どうしてこんな事に……。
ふと、私はシャルトさんの傍に転がっていたそれに目をやりました。それは、お酒を飲む時のグラスでした。薄っすらと中身が残ったまま、テーブルの上に横になって転がっています。そして更にその近くには、私のお母さんから持っていくように言われた果実酒の瓶。中身は半分よりも少し減ったぐらいの量が残っています。
これってもしかして……。
「シャルトさん、まさか酔い潰れて?」
そうテュリアスに問うと、まるで言葉が通じたかのように小さな頭でこくんとうなづき返してきました。
でも、このお酒。それほどアルコール度は高くはありません。この店にあるお酒でいうと、どちらかと言ったら軽い方に分類します。それを半分ほど飲んだぐらいで、揺らしても目を覚まさないほどまで酔ってしまうでしょうか? 私は、これまで全く飲んだことがないと言えば嘘になるけれど、このぐらいならそうでもないと思うのですが。
「もしかすると、シャルトさん。お酒に弱い?」
まさか。シャルトさんに限って。それに、テュリアスに訊ねても仕方がないじゃない。
そんな二つのまさかを含めた問いを、私は何と無しにテュリアスに向けてみました。
少しね。
と。じっと見つめてくるテュリアスの視線を見つめ返していた私の頭の中に、ぽつっと呟くようにその言葉はどこからともなく浮かび上がりました。
これはまさかテュリアスの言葉なのでしょうか? 前にもテュリアスの視線を感じた時、こんな風にまるで自分のものとは思えない所から言葉がぽつりと浮かび上がった経験があります。
いえ、今はそんな事を考えても仕方ありません。早くシャルトさんの介抱をしなければ。
私はシャルトさんの両肩を抱え、静かにテーブルの上から体を起こします。けれどシャルトさんはよほど深い眠りについているらしく、支えてあげないとすぐに体が前へのめっていきます。
「失礼……します」
眠っているので私の声も聞こえる訳がないのですが、一応の礼儀として、まずはそう言いました。そしてシャルトさんの左腕をやや照れを隠しながら私の肩に回し、私は右手をシャルトさんの体に回します。しかしシャルトさんの体は、服の上の見た目は細く見えたのですが、こうして直に触れてみると見た目以上に幅があってがっしりとしていました。自分とは違うその感触に、少しドギマギしてしまいます。
回した右手を何とか脇腹の辺りを掴んで力を固定します。そして徐々に重心を私の方へ傾けながら、ゆっくり膝に力を入れて立ち上がります。
―――と。
「あっ!」
シャルトさんの体重に足元がふらついたかと思うと、途端に私はシャルトさんの重みに負けて床に転んでしまいました。咄嗟にシャルトさんがどこかぶつけないように受け止めます。随分と体が揺れたはずなのですが、やっぱりシャルトさんは目を覚ましません。
「いたたた……あっ」
その時。
私は随分と凄い体勢を取っていることに気がつきました。
シャルトさんが床にぶつからないよう、咄嗟に間に自分の体を割り込ませたのですが。その結果、まるで私はシャルトさんに覆い被さられたような格好になっています。シャルトさんの寝顔が私の本当にすぐ目の前、息づかいすら聞こえてくるほどの密接した距離です。
た、大変!
私はすぐさまシャルトさんを起こそうと、自分の体を起こしかけました。
しかし。
ふと、頭の中で誰かが囁きました。
こんな状況、おいしいと思わない?
それは、テュリアスとのあの声とは全く異なるものでした。その声の主はすぐに分かりました。私の、邪念です。もちろん、そんな声には従いませんでした。惜しいとは少しだけ思いもしましたけど、シャルトさんが眠っている間によからぬ気持ちを抱くなんて、それではまるで普通ではないおかしな人です。
じーっと、テーブルの上からテュリアスが私の方を見下ろしています。その視線は、これまでになく敵意というか軽蔑に満ちた冷ややかなものでした。この子にまで軽蔑されるような事をしそうになっていたなんて。私、もしかすると情緒不安定気味なのかもしれません。
シャルトさんの上体を起こし、私も上体を起こして床に座るような格好になります。しかし、すぐにシャルトさんの体は前か後ろにバランスを失って倒れそうになります。ぐらっ、と私に向かって倒れ込むその体を、つい不必要に深く受け止めます。
まるで、シャルトさんと抱き合ってるみたい。
先ほど鎮圧させた邪念がむくむくと。でも、開き直ってしまうとあまり気にもならなかったり―――。
と、その時。
「何やってるんだ?」
ひょい、と人の気配がここにやってきました。
「あ、お父さん……」
シャルトさんを抱えたまま見上げると、それはくわえるためだけのタバコを片手にしたお父さんでした。私のこの状況を見て、何事かと訝しげな表情で見ています。無理もありません。あらぬ誤解をされても文句の言えない状況なのですから。
「っと、その……なんだか酔い潰れちゃったみたいで……」
私は慌てて状況を説明しながら自分の正当性を主張しました。傍から見れば、今の私はなんとも異様な状態になっているのです。更に、本当についさっき、邪念が理性を凌駕しかけていたのですから。そこを突然、お父さんに見られてしまって、理性を全て失わなかっただけでも大健闘と呼べるでしょう。
「なんだ、しょうがないなあ。とりあえず、二階の部屋に運ぶとすっか」
そう苦笑いを浮かべると、お父さんはあっさりとシャルトさんの体を抱え上げてしまいます。すぐにその後ろをテュリアスが続きました。どうやらお父さんは分かってくれたみたいです。いえ、案外それほど細かい事が気にならないというか気にしない大雑把な性格だから、これといって気に留めなかっただけかもしれませんが。
なんだか……。
シャルトさんの体が私の傍からいなくなりました。しかし、その重みも体温もしっかりと残っています。もう記憶にはっきりと焼きついて離れません。シャルトさんの体は温かく感じました。女の子よりも男の子の方が体温が高いというのは本当のようです。そして服の下の意外な程の筋肉質な触感とか、それはもう……。
こんな事を考えている私。大丈夫でしょうか? シャルトさんの感触という感触をかき集めて実感し直しているなんて。ちょっと、とても人には言えません。
「ん? リュネス、この人もしかして、先週も来なかったか? なんか見覚えあるんだが……」
ふと、そんなお父さんの声が聞こえてきました。
お父さんは、いわゆるお姫様抱っこの形でシャルトさんを抱き抱えているのですが、そんなシャルトさんの寝顔をまじまじと見つめています。これは結構失礼なことではないのでしょうか? いえ、私が言える立場ではありませんが。
「来ましたよ。ほら、先週の土曜日。今ぐらいの時間にお店でケンカがあって、それを止めてくれた人です」
「ああ、そうか! そういやそうだな。俺達一般市民は、北斗の恩恵あってこそだもんなあ」
お父さんの言う通りです。
私達は皆、北斗という最強の戦闘集団に守られているからこそ、こうして毎日を安心して暮らせるのです。私達にとって北斗の人達は何よりもの尊敬の対象です。北斗にどれだけ守られているのか、それを知らない人は一人としていません。
シャルトさんもまた、その北斗を構成する十二の流派の一つ、夜叉に所属しています。私達にとって北斗は全ての守護神的な存在であるんですが、そのシャルトさんは今、お父さんに抱き抱えられてすやすやと眠っています。
なんだかその姿がやけに可愛らしく思えました。落ち着いている事も重要ですが、こういった可愛げもあるのは良い事だと私は思います。
そういえば。
シャルトさんはお酒に弱いようですが、どうしてこんなになるまで飲んだのでしょう?
もしかすると、せっかく出した私達に気を使ったのかもしれません。残してしまっては悪いからと、なんとか飲めないのを押して飲もうとしていたのでしょう。私達は好意のつもりだったのですが、かえってシャルトさんに悪い事をしてしまいました。でも、何も言わずあくまで好意として受け止めてくれていたなんて。シャルトさんは優しい人です。
TO BE CONTINUED...