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「驚きました」
 と、口を噤んでいた『断罪』は不意に笑みを交えた口で話しかけた。
「どういう意味だい? そりゃ」
 なんだ、この余裕は。
 思わぬ余裕を見せ付けられ、少なからずの驚きを浮かべるヒュ=レイカ。しかし、すぐにそれはただの詭弁だと冷静に状況を再認識し自分を落ち着ける。
 たとえ気づかれたとしても、それはせいぜい自分には心中する気が更々無いという事ぐらいだ。こちらの本命さえ悟られなければ何も問題は無い。だから大丈夫。まだ気がついてはいないはずだ。僕の優位はまだ変わらない。
 けれど、そんなヒュ=レイカの心情を嘲笑うかのように、『断罪』は悠然と笑みを浮かべて言葉を続ける。
「あなたがこれほどまで懸命な姿勢を取ると意外でしたから」
「そんなに僕って不良だったかな? 勤務態度は割と優良だと思ったんだけどね」
「いかなる時も本気にならない。そういう意味です」
 負けじと悠然と笑みを浮かべ返そうとするもの、痛みに邪魔をされうまく笑顔が作れない。強ばった笑みは逆に余裕の無さを露呈しているようで、ヒュ=レイカには屈辱以外の何物でもなかった。
 一体この余裕はどこから来るのか。
 まさか、既にこちらの意図など見通し、その上での余裕を見せているのではないだろうか? 考えられる。あらかじめそうなる事を予測していたかのような表情だ、しかも浄禍八神格ならば人の心を見通すような神業だってやってのけてもおかしくはない。もしもそうだとしたら、初めからこちらには勝算など無かった事になる。心まで読まれてしまったら、トリックスターはその全ての力を失ってしまう。論理は、見えないからこそ力を持つものなのだから。
 気づかれぬよう慎重に、尚且つ最大限の迅速さを持って足元の術式を展開し続ける。分解と構築。そして、僅かな気流の支配。作業的には大した規模のものではなかったが、戦闘の術式よりもある意味繊細で複雑な心象が求められるため、うまくバランスを取らなければ『断罪』と相対する思考と術式に当てる思考との比率が崩れ去ってしまう。そうなれば無論、こちらの手の内はバレてしまうだろう。
「さあ。神は彼方の名を呼ばれています。自らの罪の重さを神の刃と共にその身に刻み、召しなさい」
 ゆらりと『断罪』は左腕を上げる。そして一転し鋭い動作で振り下ろした。瞬間、ぴっ、と鋭い音が鳴ったと同時に、肩口を押さえる右腕に一本の斬撃が走った。皮一枚下まで切り裂く程度の浅い傷だが、腱の近くを切りつけられたためか手に力を入れると鋭い痛みが走った。
「左手ってさ、悪魔の手じゃなかったっけ?」
 痛みを紛らわせるため、蹌踉めきながらも虚勢を張って笑みと共に反撃の言葉を投げつけるヒュ=レイカ。すると、更に容赦なく斬撃は沈黙と服従を強制するかのように叩き込まれた。今度は両足を同時に斜めに切り裂かれる。思わず屈み込み水底に片膝をついてしまう。
「ふふふ……」
 だが。
 驚く事にヒュ=レイカは、この期に及んで笑い始めた。その血と泥に塗れた姿のどこから笑うだけの余裕が出てくるのか。押せば倒れてしまいそうなほど傷ついた姿からは、どれだけ笑おうとも余裕の欠片も見当たらない。そんな異常な反応に『断罪』が薄く怪訝の色を示した。
「あ、念のため言っておくけど、キレた訳じゃないよ。ただ文字通り、可笑しくて笑っちゃっただけだからね」
 そう言ってヒュ=レイカはよろめきながらも再び立ち上がった。その顔にはいかにも苦し紛れに浮かべたという苦み走った笑みが浮かんでいる。けれど、不思議とヒュ=レイカ自身には苦痛さを感じられなかった。
「確かあなたの術式ってさ、何でも断ち切ることが出来るんだったよね?」
「術式ではありません。御業、即ち神の御手の一指が示す奇跡です」
「まあ、その辺の定義付けはどうでもいいんだけどさ。でもおかしいよね? こっちはさっきから散々斬られてるけど、不思議な事にちっとも周囲の水は切れてないんだよね。もしかして切れるのってさ、固体だけなんじゃないの? つまり、固体しか切れないって事は別に特別な術式じゃないんだな」
 ヒュ=レイカの指摘は、十分に『断罪』へ不自然な沈黙を強要する威力があった。ありとあらゆるものを断つ『断罪』の術式は、通常では考えられないものを両断してしまうほどの驚異的な威力を誇っていた。しかし、そんな彼女の術式が意外にも身近なものを斬る事が出来ない、とヒュ=レイカは指摘した。水に限らず、おおよそ固体ではない全ての物質は斬る事が出来ない、というものである。その指摘に対する回答は、『断罪』の沈黙だけで十分過ぎる意味を持った。ヒュ=レイカの指摘は正鵠を射ている現れである。
 固体しか斬ることが出来ないという事は、単純な加圧によって物体を切断する原理を用いている証明になる。つまり誰しもが体現する術式と、彼女の呼ぶ神事とは全くと言って良いほど差は無いのだ。ただ、彼女の方が遥かに飛び抜けた威力を持っているというだけである。
「ま、無理に答えなくていいよ。それに、そろそろ準備出来たからね。いつ気づかれるかってヒヤヒヤしてたんだけど、どうやら心までは読めないらしいね」
 ヒュ=レイカは優越感に満ちた表情でそう笑みを浮かべた。彼女をやり込めた、という小さな達成感が感じられる。たとえ固体しか切れないとしても、自分自身が固体である以上、彼女の術式は大きな脅威となる。その目に見えぬ神の如き刃から逃れるには、それこそ今の自分の指摘通り、水か空気かになるしかない。
 ふ、と『断罪』は一息漏らし口元を綻ばす。そんな事は無い、という意味なのだろうか。なんにせよ、もう全ての準備は整ったのだ。こちらの意図を読み取れなかった時点でこの勝負は決着がついたも同然だ。
「厳密には違うんだけどさ、水を切る方法、教えてあげようか?」
 と、ヒュ=レイカは膝を震わせながら平素の小憎らしい笑みを浮かべてそう問い訊ねた。ここに来て初めて見せる、実に彼らしい表情だ。
「水に荷電すると、電極の正負にそれぞれ別のものになって分かれる性質があるんだ。で、その負極から発生するもの。それは水素って名前でさ、気体の中でも一番軽いものなんだ」
「信徒に悪魔の学術を解いた所で意味を成しません。科学とは神への冒涜にしか過ぎないのですから」
「分かってないなあ? 物事をより明確に分析し理解する事で、初めて応用の基盤が作られるんだよ? それの積み重ねで人間は繁栄したのさ。悪魔の贈り物じゃないよ」
 これまでの追い込められていたヒュ=レイカから一変し、まるで別人のように堂々と振る舞うその態度。普段の彼を取り戻した、と呼べなくも無いが、少なくとも姿形からはその余裕の根拠が感じられない。それだけに、ヒュ=レイカの動向は際立って奇異に写った。
「話を戻すよ。水素には燃えやすい性質があってね。量とか酸素との混ざり具合とか圧縮率とかいろいろと条件はあるんだけど、その爆発力は黒色火薬の比じゃないよ。無論、生身で受けたならひとたまりも無い」
 そう、ヒュ=レイカは冷笑と共に鋭い視線を投げかけた。その視線の先にあるのは『断罪』の喉。
 一瞬、水を打ったように静まり返る。睨み合う二人だけの世界の時間が止まり、その一瞬の間に様々な言葉にならぬ感情が交錯した。
「なるほど。してやられましたね」
 何故か、口元にヒュ=レイカとは対照的な優しさに満ちた笑みを浮かべる。全てを悟りきった理解の笑みでは無かった。それはまるで解放される喜びに満ちているようにすらヒュ=レイカの目には映った。何故、そんな穏やかな顔をするのか。けれど、脳裏に描いたもう一つのイメージを体現化する事に躊躇いは無かった。
 そして。
 小さな火花が弾けるのとほぼ同時にそれは起こった。突然周囲に鳴り響いた快音と共に、『断罪』はまるで滝が迸るかのような勢いで喉から大量の血を吐き出した。血は四方に散り散りになって飛び散り、足元を流れる水を瞬く間に赤く染める。その赤い滴りの中へ『断罪』は仰臥するように倒れ込んだ。
 ヒュ=レイカは密かに足から電荷を体現化し、水素を合成していた。その水素を『断罪』の喉一点に凝縮させ、最後に火花を用いて引火させたのである。密度の高い可燃物は一瞬で燃え上がった。即ち、爆発である。本来障壁というものは、衝撃の伝達を阻むためのものである。ぴったりと素肌にくくりつけられた水素の塊は、如何に彼女と言えども切り離す事は出来なかった。彼女の術式は流体同様、気体も切る事は出来なかったからである。
「どうして本気にならないって? こうなるのが嫌だからだよ」
 水面に揺れる『断罪』の体は、見る間に形を失って白い塩の破片へと姿形を変えて行く。そんな光景を見つめるヒュ=レイカの表情にはどこか悲しげなものが浮かんでいた。
 ひとしきり体を震わせ、うつむけていた視線をゆっくりと引き起こす。そして血に塗れた右腕を傷口から静かに離すと、そのまま『断罪』に向かって十字を切った。
「ハレルヤ」
 そうぽつりと呟くと、ヒュ=レイカはくるりと踵を返し、ぎこちない足取りでゆっくりと総括部へ向かい始めた。
 まだ意識もはっきりし、手足の感覚もある。ならば前進するしかない。それが北斗の戦士である証明だ。
 しきりに自分へ言い聞かせるヒュ=レイカだったが、眉間に圧し掛かってくる怒りとも悲しみとも知れぬ感情に、額に皺を寄せ、強く肩口の傷を右手で押さえた。



TO BE CONTINUED...