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ありがとう。
なかなか言えない、この一言。
いや、別に誰にも感謝をしない突っ張った生き方をしている訳じゃない。
正直恥ずかしいのだ。
普段言えないでいただけに、言いそびれてしまっていたから。
「じゃあ、本日はこれで終了だ」
夕刻。
今日もまたいつものように訓練所でトレーニングに勤しんでいた。というよりも、ここ数日はほとんど身が入っていないから、どこか上の空で体を動かしてメニューを淡々とこなしているだけに近い。そんな消化作業を続けたところで自分を磨くことには繋がらず、ただ体が疲れるだけだ。
レジェイドにはトレーニング中の気構えとかを口うるさく言われているため、いつもは自分なりに気をつけているのだけど。ここ数日はそんな事を気にする余裕がない。レジェイドに注意はされたけれど、流れ作業的にトレーニングを消化するスタイルを一向に改善する事が出来ない。自分でもこのままではいけないという危機感はある。けれど、気持ちがすぐに別な方向へ向かってしまうのだ。だからトレーニングにどうしても集中出来ない。
レジェイドの終わりの号令と共に、俺はそそくさとホールを後にする。これ以上ここに留まっていても、まともなトレーニングの出来なかった自分に嫌悪感を募らせてしまうだけだ。
「にゃあ」
と、ホールの出口でテュリアスが待ち受けていたかのようにすかさず俺の足から肩へ駆け上がった。いつも訓練の間テュリアスはこの訓練所のどこかで遊んで貰ってるのである。トレーニング中は遊んでやれないし、まさか一緒にトレーニングを行う訳にもいかない。
ゴハン食べに行こう。
早速テュリアスは肩の上から俺の頬を柔らかい肉球の部分で突付いてきた。
「ああ、分かったって」
そんなテュリアスをポンポンと叩く。が、そのまま背中を掴んで手元に引き寄せると、そのままがっちりと両手で押さえる。これでテュリアスは逃げられない。
「その前にシャワーが先だろ? またこんなに汚れて。どこで遊んできたんだ」
途端に俺の手の中でにゃあにゃあとわめき始めるテュリアス。しかしがっちりと掴んだまま俺は離さない。力は俺の方が遥かに上だから、テュリアスに逃げ出す手立てはない。
テュリアスは風呂もシャワーも共に酷く嫌がるのだ。そのくせ、一体どこを歩き回っているのかしょっちゅう汚れて戻ってくる。肩に乗る分には構わないが、そのまま服の中に入られたらたまらない。だから訓練後は必ずテュリアスを無理やりにでもシャワールームへ連れて行くのだ。
訓練所には五十人ほどが一度に使える広いシャワールームがある。しかも全て個室に区切られている。ただ、石鹸やタオルなどの小物は全て有料という所がセコいと思う。このぐらい、夜叉で用意してくれてもいいのだが。
更衣室で服を脱ぎ、ロッカーの中に入れる。石鹸はまだ残っている。それとタオルを持って部屋続きのシャワールームへ。ここに来て、ようやくテュリアスはおとなしくなった。やっと観念してくれたらしい。今まで一度たりとも逃げ出せた試しはなかったというのに。毎度の事ながら往生際が悪い。
「ふにゃあ……」
シャワーのコックを捻ってお湯を出す。俺に首を掴まれてぶら下がっているテュリアスは、ぐっと体を小さくしながら振りかかるお湯に耐えている。別に熱くも冷たくもなく、丁度いい温度だと思うのだが。そんなテュリアスを、俺は容赦なく石鹸を泡立てた手でごしごしと洗っていく。いつまでも我侭に付き合っている訳にはいかないのだ。
「ほら、こっちの足を広げて」
やだ。
「いつまで経っても終わらないぞ?」
やだ。
まったく……。観念したかと思えば、非協力的だし。どうしてこうも体を洗うのを嫌がるんだか。
ぐいっとお腹を守るように集まっている四足を押し退けて、比較的体毛の色が明るいそこをごしごしと洗う。
だって怖いんだもん。シャワーはお湯が降ってくるし、お風呂は深くて足がつかないし。
「いつも俺がいるだろ? 言い訳にしか聞こえないぞ」
二本足で歩く人には分かりませんだ。
つーんと、首でぶら下がりながらもそっぽをむくテュリアス。
本当に言い訳も子供じみている。テュリアスはもう十年以上生きているらしいけど、おそらく精神年齢は人間に換算したそれではなく、人間と同じ十歳程度のものなのだろう。
やがて全身を綺麗に洗い石鹸の泡を流すと、テュリアスは俺の体を伝って個室の壁に付いている石鹸を置くための出っ張りへ逃げるように飛び移った。そこでぶるぶると体を震わせて水気を払う。
「サッパリしただろ?」
嫌い。
俺の問いに、フンとテュリアスは再びそっぽを向いた。そんなテュリアスに苦笑しつつ、俺は手に石鹸を取って泡立てる。どうせテュリアスが機嫌を悪くするのもいつもの事なので、さして気にせず今度は自分の体を流す。
―――と。
「よう」
隣の個室にレジェイドが入って来た。
個室の仕切りはかなり高いのだが、レジェイドは背が高いので肩ぐらいまでが余裕で出ている。俺は頭が出るのがやっとだ。実のところ、俺は自分の背の低さがコンプレックスだった。もう十七だというのに、ほとんど背が伸びていない。レジェイドとまではいかないにしろ、せめてルテラぐらいの身長は欲しいのだけれど。現実にはルテラの肩先止まりだ。
「お前さ、いい加減になんとかならねえか?」
そうレジェイドは溜息混じりに言うと、シャワーのコックを捻った。
「何が?」
「何が、じゃねえよ。自分でも分かってるんだろ? 今日もそうだけどさ、お前はここの所さっぱりトレーニングに意識が向いていない。体を鍛えるってのはな、ただ体を動かしゃいいってもんじゃねえんだよ。筋肉のどこを動かしているのか、きちんと意識しなきゃ無駄に疲れるだけなんだっつの。ほれ、見てみい。なんだその細っこい体は」
仕切り越しからひょいとこちらを覗き込んで来るレジェイド。
「うるさい。前からだ」
その顔に目掛けてシャワーを向ける。レジェイドはお湯が喉に詰まったらしく、ゲホゲホと咳き込んだ。体格は別に気にしてはいないけれど、レジェイドの言い方はまるで俺がひ弱であるように聞こえるので気に障るのだ。
「まず、とにかくな。悩み事があるんならとっとと吐け。今すぐ吐け。瞬く間に吐け」
「いや、別に―――」
「何も悩んでないってか? それとも自分で何とかするか? どっちみち、このままテメエ一人で解決出来るような内容には思えんがな。だからだ。このまま一人でウジウジするだけ無駄だ。見ているこっちがむかついてくる」
次々と捲くし立ててくるレジェイド。俺は話し上手でない上に言葉自体が的を射ている以上、反論も出来ずただ口をぱくぱくと無様に動かす。
「自分勝手だな」
「お節介、っつーんだよ。ほれ、で、何だ? 大方アレだろ? この間も言ってた、例の女の事だろ?」
違う。
そう俺はいつものようにレジェイドを突っぱねようとした。が、すぐにその言葉を飲み込む。
もう意地を張っても仕方がないのだ。俺一人で出来る事なんてたかが知れている事は痛いほど自覚しているのだ。俺のつまらないプライドのために反故に出来るほど、リュネスの存在はどうでもいい事ではない。
「……ああ、それだ。でもあれから少し状況が変わってさ」
「関係がこじれたのか?」
「いや、そうじゃない。その娘が、これは確かじゃないんだけどさ、どうも『凍姫』に入ったらしくて」
すると、予想通りレジェイドが訝しげに表情をしかめた。
「はあ? 凍姫って、あの? おいおい、正気じゃねえな。お前、随分変わった女が好きなんだな」
確かに普通ではないと思う。凍姫は現在、北斗で最も悪名が高いかもしれない流派だ。それもこれも、まだ経験の浅い人間が頭目になったからだ、とレジェイドは言っていた。四年前の『雪乱』との抗争の影響らしいが、大概の人間は不穏な情勢である凍姫に入ろうだなんて思わないに違いない。よほどそういった厄介ごとや危険が好きなのか、もしくは全くものを知らないだけなのか、そのどちらかなのだろうが。ただ、レジェイドにリュネスのことをそんな風に言われた気がして腹が立った。俺はともかく、レジェイドはリュネスの事は何も知らないのだ。知った風に言ってもらいたくはない。
「うるさいな。とにかくそうらしいんだ。まだはっきりしてない」
「らしいって、確かめてこないのか? そのぐらいなら別に他流派でも教えてくれるぜ」
的確な意見だ。痛いほど。
そう、リュネスが凍姫にいるかどうかなんて、直接行って確かめればいいだけの話なのだ。けど、俺は今までそれをやらずにいる。面倒な訳じゃない。いや、多少は面倒だったとしてもリュネスのためだったら怯まず躊躇わず強行する。けれど……。
「……凍姫は苦手だ」
「お前な……ホント、相変わらずのガキだな」
ガキ。
それはレジェイドだけでなく、人から言われると一番腹の立つ言葉だ。けれど反論が出来ない。苦手だから避ける。そして、こう言っておけばレジェイドが何とかしてくれる、というさかしい考え方も捨て切れていない。俺自身、そんな自分が情けなく思う。心のどこかでレジェイドを理想的な自分像と重ねているだけに、その本人からの言葉はさすがにこたえる。
「まあ、いいか。んじゃさ、今夜の晩メシ、一緒に来いよ。ルテラとかが来る事になってるんだ。そいつの名前ぐらいは知ってるんだろ? だったらルテラに聞いてみればいい。守星だから知ってるかも知れないしさ」
なるほど。ルテラは北斗の各地区を巡回する守星だ。北斗の情勢には誰よりも敏感である。そしてルテラは凍姫の頭目達と知り合いだから、かなり信憑性のある情報を聞き出す事が期待できる。
「分かった。行く」
俺はすぐにうなづいた。レジェイドが何やらあきれたように苦笑いを浮かべていたが、恥とは思っても苦には思わなかった。これでリュネスの情報が少しでも入ってくるのであれば、レジェイドに幾らでも子供扱いされてやる。俺のプライドは、ずっと前から別な所についているのだ。
と、その前に。
「奢ってくれるのか?」
TO BE CONTINUED...