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 人の繋がりというものは、水のように流動し、石のように強固。
 そんな不思議で目に見えない糸。
 糸は知らぬ間に思わぬ人物と自分を結び付けていたり、はたまた身近な人から途切れていたり。まるで気まぐれに吹く東風のような存在だ。
 一度築き上げられた絆というものは、そう簡単には揺らいだりはしない。そればかりか、絆というものは『信頼』を養分としてより強く太くなっていく。
 目には見えないそれだけれど。私にとってそれは、生きていく意味で非常に大切なものだった。
 だって、私は見た目によらず寂しがり屋だから。
 兎のように、誰かがいなければ生きていけないのだ。




 朝……ね。
 週二日目。火曜日。
 私は早朝の街を一人、淡々と歩いていた。長い夜の帳が、東の空から少しずつ光によって切り開かれていく。一日の始まりだ。だが、人々の活気が上り詰めるにはまだ時刻的には早い。
 日の出と共に、足元すらもおぼつかないほどの闇に包まれていた周囲がほんのりと薄闇づく。藍色の視界には黒く見える建物が幾つも並んでいる。商店街、特に鮮魚店やパン屋などはもう一日が始まっているのだが、ここ住宅街はまだまだひっそりと静まり返っている。
 は、と宙に短く息を吐いてみる。生温かい呼気は冷たい外気に冷やされ、一瞬で白く濁る。北斗の朝はかなり冷え込む。厚手のコートを着込んではいるものの、特に指先や爪先の冷たさは耐え難いものがある。厚い靴下を二枚履き、手には手袋をはめてポケットの中に突っ込んでいる。それでも一向に温まる気配はない。かつては『雪魔女』などと勝手にあだ名され恐れられた私だけど、寒さには人並に弱い。むしろ冷え性に悩むぐらいだ。冷気を操る戦闘術を習得しているけれど、別に人間やめた訳じゃないから当然と言えば当然の事なんだけど。
 こつこつとブーツを石畳に鳴らしながら歩き続ける。守星の勤務時間というのは非常に不規則で、深夜から早朝にかけて警備遊回する事も珍しくはない。もうまる十五時間近く眠っていない訳だから、そろそろ眠くなってもおかしくはないけれど、このとんでもない寒さのおかげで眠くなる暇すらない。ヴァナヘイムは年を通して温暖、ニブルヘイムは極寒、そしてこのヨツンヘイムはその両方を併せ持っている。私としてはどちらかに傾倒してくれた方が体も慣れるし過ごしやすいんだけれど、こればっかりは神様でなきゃどうにもならない問題だ。
 そうしばらく歩き続けて間もなく、視界の藍がゆっくりと薄らいでいった。すると今度は、周囲が見る間に濃密な白のもやに包まれ始める。いや、もやは急に浮かび上がったのではなく、今まで闇に包まれていたせいで見えなかったのだ。これはヨツンヘイム特有の気候である。深夜から日の出から間もない時間まで、数メートルほど先の視界がおぼつかなくなるほど深い霧が立ち込めるのである。ある程度季節には左右されるものの、深い時は本当に目の前も真っ白になるほど濃い霧が立ち込めるのだ。太陽が昇り空気が温まればすぐに消えるのだけれど、私はこの夜の帳からホワイトアウトしていく風景がなかなか好きだった。
 しかし私は、この風景を誰に言うでもなく表向きは嫌いという事にしている。あの頃を、四年前を思い出させるからだ。でも、その時の記憶の一片一片は私にとって大粒のダイヤほどの価値があるから、そう簡単には捨てる事が出来ない。
 忘れてはいけない。
 でも、忘れたい。
 忘れたら楽になれる。けど、忘れたらもっと多くのものを失う事になる気がする。
 そんな葛藤に身を委ねていると、不思議と心が穏やかになる。まだ忘れていない。この葛藤にそんな実感が抱けるからだと思う。ただ、それど同等の切なさも込み上げてくるけれど。
 ―――と。
『日が開けましたねぇ』
『それを言うなら、夜が明けましたね、ですよ』
 この深い霧の奥から二つの気配がこちらに近づいてくるのが分かった。一つは男、もう一つは女の声だ。重ねて言えば、男の声は落ち着いた静かなものだが、女の声は騒々しく知性を感じさせない。
 霧があまりに濃過ぎるため、姿形が薄っすらと輪郭しか見えてこない。けれど、こんな時間帯に街を歩いているのは守星ぐらいなものだ。北斗はヨツンヘイム内でも比較的治安が良いとは言っても、まだまだ人気の少ない時間帯を歩くのは危険がつきまとうのだ。それに姿形が見えなくとも、どちらの声も私は聞き馴染みがある。
『あれ? 誰かいますね。こんな朝早くから仕事でしょうか』
『ッ……あ、きっと野良犬かなんかでしょう』
 女は男の声に愛想よく答えたが、言葉の初めに露骨な舌打ちをした。それは、おそらく向こうも見えないであろう私の姿に対してのものだ。愛想の良さは上辺だけで、本性はその舌打ちにある。大方、二人きりの時間を邪魔されたとか思っているのだろう。
 まったく、今更言葉使いを丁寧にしたって、所詮は被り物、どうしたってボロが出る。むしろ気持ち悪いくらいだ。
「野良犬とは酷いわね。ファルティア」
 そして。
 深い霧の中から現れた二人の男女。そこに私は、挨拶も抜きにすかさず、特に女の方に視線を向けて言い放った。
「げ……野良犬よりタチ悪いヤツだ」
 私の言葉に、女は露骨に顔を歪めて嫌悪を露にする。
 目も覚めるようなエメラルドグリーンの長い髪を後で高く結い、まるで猫科の動物を思わせる風貌。凍姫の頭目、ファルティアだ。北斗十二衆の中で知らぬ人間はいないとまで噂されるほど悪名高い、凍姫破壊魔トリオの一人だ。どんなに多くとも三層が限度の結界処理、しかしこの間ファルティアは事もあろうに七層の処理を施した壁をぶち破った。思考はとにかく短絡的で、気分次第で自分の行動を決める動物的性格。それだけの力があったとしても、こんな獣じみた性格では制御の利かない爆弾と同じだ。おおよそ頭目には相応しくない人柄ではあるが実力だけは本物である。ただ、やはり品行が悪過ぎるため、他の破壊魔二人と権限を分割させられているそうだ。そんな事をしても厄介物が増えるだけだとは思うが、どうにか今日まで致命的な事件だけは起こしていない。やはり、四年前の一件以来から凍姫の人材不足は雪乱と同様よほど深刻と見える。今の凍姫のイメージは決してあまり良いものではない。その原因の九割九分は、件の三人にある。北斗を守るために存在する北斗十二衆、けれど凍姫は極一部の素行から極右のようなイメージすらある。
「どうしてこんな時間にこんな所にいるの? あなた、早起きなんて殊勝な生活習慣はなかったでしょうに」
「たまにはそういうこともあるの」
 べー、と舌を出すファルティア。普段なら口よりも先に精霊術法のチャネルを開いてるはずなのに。やはりエスの前だから猫を被っているのだろう。私が野良犬ならば、さしずめファルティアは野良猫といった所か。
「いえ、ファルティアさんは今週一杯、守星で無償奉仕をする事になってるんですよ」
 そう、爽やかを絵に描いたような笑顔を浮かべながら、彼は唐突に口を開いた。
 彼の名はエスタシア。私やレイは縮めてエスと呼んでいる。エスは元『悲竜』の頭目で、それから北斗総括部の方へ五年間在籍し、任期を終えた去年から守星に入った。総括部に入ったのはまだ十代の頃で、世間では神童などと噂された。とにかく、ある意味での完璧な人間だ。文武両道はさる事ながら、その容姿、温厚で落ち着いた性格と欠点らしい欠点が一つもない。兄とは正反対に。
「あら、またやらかしたのね。あなたといい、リーシェイといい、ラクシェルといい。ホントに懲りないわね。成長がないというかなんというか」
「違うんだってばコラ! 私はね、連中に濡れ衣着せさせられただけなんだって!」
 あたふたと慌てふためきながら、必死で私の言葉に反論するファルティア。無理に使い慣れない言葉使いをしているせいか、面白いようにぽろぽろとボロが出てくる。エスに、自分がそんな事をする人間だとは思われたくないような素振りだ。そんな杞憂はするまでもなく、ファルティアの悪評はエスの耳にも届いているのだけれど。
 本人は隠しているつもりなんだろうけど、ファルティアはエスにどっぷりと惚れ込んでしまっているのは周知の事実だ。どうやら今回も、たまたま遊回しているエスを見つけたのか、あらかじめ待ち伏せするかして行動を共にしていたのだろう。基本的に守星の巡回経路は決められていない。決められた時間の間、延々と北斗中を好きなように歩き回り続けるのだ。そこで運悪く敵襲があればただちに抗戦にかかり、運良くなくとも起こるまで歩くのだ。だからファルティアのそれは決して違反行為という訳ではないが、動機があまりに不純だ。そしてそれに何の懸念や疑問も抱かないエスも、さすがに神童と呼ばれただけあり大したお人良しである。
 エスはエスで、ファルティアの気持ちに気づいているのかどうかは知らないが、訳隔てなく接する性格がファルティアを拒絶したりはしない。それをファルティアが自分への好意と受け止めているのか、それとも親密になるためには超えなくてはならない壁なのか、実際の所どちらなのかとても興味深い。とは言え、世間から見れば神童に鬼女が取り憑いたようなものだ。これもまたお笑いの種にしかならない。
「みんなそう言うのよね。言い訳もテンプレートな使い回しじゃない」
「うっさい! ぶっ殺す……ますよ!?」
 半分でエスに気を使い、もう半分は私への怒り。同時にこなしているファルティアは実に器用であり、滑稽だ。そんな姿を、エスは半ばおろおろしながら不安そうに見ている。
 本当。
 四年前から全く進歩もなく、自らの言動に対する思慮もないファルティア。
 けれど、私は時々それを羨ましく思えたりする。ストレートに自分を表現するのは、簡単なようで実は非常に難しいことなのだ。
 私とファルティア、リーシェイ、ラクシェルとの初めての出会いは、今から四年前にさかのぼる。
 凍雪騒乱。その最前線で戦っていた新人が私達だった。
 凍姫と、当時私が籍を置いていた雪乱の戦争を、今ではそう呼ばれている。戦いのきっかけは大した事ではなかった。北斗十二流派に、同じ冷気を使う流派はいらない。たったそれだけだ。私も、そしてファルティア達も、そんな流派同士のプライドなどには全く興味がなかった。ただ、戦わなければいけないから戦う。そんな感じだった。思えば、あの頃の自分達はとにかく強くなり、そして自分を変えるために必死だったのだと思う。
 戦いは苛烈を極めた。双方に死者が出る事などザラにあった。無関係の人間を巻き込む事だけは決して犯さなかったものの、街中であろうと所構わず戦うような緊迫した関係だった。おかげで夏だというのに雪が降ることすらあった。北斗の氷河期のようなものだ。
 ……っ。
 突然、私は額の奥に鋭い痛みを錯覚した。密かに奥歯をぎゅっと噛み締める。
 いつもそうだ。あの時の事を思い出すと、いつも頭痛が込み上げてくる。まだ記憶の中から消えていないぞ。そう主張しているかのように。
 続いて、左手首がビリッと痛んだ。これも、その頭痛が起こるたびに普段は眠って伏している鎌首をもたげてくる。私はそこに手を伸ばそうと思ったが、ブレスレットの感触に思い留まった。
 過去の恥。
 手首の痛みは同時に心までも痛めつけてくる。
 塞がりかけた傷をえぐり起こすのはもうやめよう。これは忘れられないけれど、振り返らず乗り越えなくてはいけない事なのだから。
「ま、悪い事はしないようにね。エス、ちゃんと監督しときなさい。これこそ守星の役目だから」
「はい、分かりました。ルテラさん」
 ルテラさん、か……。
 私の皮肉に、思わずエスが微苦笑を浮かべる。この表情からして、ファルティアが半端な敵よりもよっぽど性質が悪い事を理解しているようだ。考えてみれば、さすがのファルティアもエスの前ならば暴れ回るような事はしないだろう。代わりにエスが人身御供になるけれど。
「ほら、話は済んだらとっとと失せてね。お邪魔で目障りなんだですからね」
 無理に笑顔を浮かべようとして引きつった表情で私を追い払おうとするファルティア。
 ま、人の恋路を邪魔する趣味がある訳でもなし。
 私は早々にこの場から退散する事にした。シフトの時間までは、あと一時間ほどある。このままのんびりと歩いていればすぐに経過する時間だ。きっとその頃には気持ちも落ち着く。
 そういえば、私にもあんな頃があったっけ。
 二人の話し声と気配が、背中からはるか向こうへ遠ざかった頃、ふと私はそんな事を考えた。
 ファルティアの嬉しそうな表情。もう何年もあんな風に笑っていないかもしれない。四年前、凍雪騒乱が終わり、急速的に双方の関係は修復された。けれど、終結からの、あの数ヶ月間。私の心はまだそこで凍り付いている。だからきっと、あんな風に笑えないのだ。
 無理だ。
 私にとっては過去も立派な現実の一つだ。それを都合よく斬り捨てられるほど、私は器用ではない。



TO BE CONTINUED...