BACK

 それから俺は、彼に肩を貸しながら彼の自宅まで送っていった。
 人に肩を貸しながら歩く姿は、自分が思っている以上に人目を引くし目立つ。恥ずかしいとは思ったが、それだけの理由で見捨てる訳にもいかない。
 幸いにも、時刻も時刻だけあって、通りにはそれほど行きかう人の姿は見かけなかった。考えてみれば、あれだけの事が起きていながら何の騒ぎにもなっていなかったのだ。人目につこうにもつきようがない。
「本当に病院へ行かなくてもいいんですか?」
「いやいや、大丈夫だよ」
 あれだけの事をされておきながら、何事も無かったかのように微笑む。しかしその笑みは、顔にも幾つかある傷のせいでどうにも痛々しく見えてならなかった。
 素人目にも、病院へ行った方がいいと思う。一般人が北斗の手にかかって、死なない方が奇跡なのだ。今は平気に振舞っていても、外からは見えにくい怪我をしている事だってある。時間が経ってから急に悪化してそのまま、なんて事は十分起こり得る可能性の範疇にある。
 けれど、何度か病院に向かう事を勧めたのだが一度として彼は良しとせず、力の薄い笑顔を返すばかりだった。
 俺には、彼が病院を拒む理由が分からなかった。
 世の中には病院が嫌いだという人もいる。俺は病院に慣れてしまっているから、あまりその気持ちは分からない。でも、命に関わる怪我をしていたら、好き嫌いなんて言えないと思う。世の中、自分の命との比較に足り得るものなんて、そう多くは無いはずなのだけれど。
 本当に大丈夫なのだろうか?
 ずっと、俺はそれが気がかりで仕方が無かった。
「お前さんはもしかして夜叉の者かな?」
 ふと彼がそんな事を訊ねてきた。
 おや、と俺は首を傾げた。北斗には十二の流派があるが、一般の人間はほとんどその区別がついていない。大抵は一概に『北斗』と総称している。どの流派も主義思想が異なるが、街の治安を守る、という点だけについては一致しているので、一まとめにして『北斗』と呼ぶのが慣例となっているのだ。けれど、彼は俺の事を『北斗』ではなく『夜叉』と区別して呼んだ。十二の流派の名前を全て知っている人間などほとんどいないのに。これは一般の人間よりも北斗の事について詳しく知っている証拠である。
「驚かせてしまったかね?」
 よほど俺が驚いた顔をしていたのだろうか。彼は微笑みながら再度そう問うた。
 思わずこくりとうなづく俺。彼はそんな俺を見てゆっくりとうなづき返した。
 けれど、彼はそれきり口を閉ざして黙りこくってしまった。直前の思わせぶりな口調、どうして俺が夜叉の人間だと分かったのか、その理由を教えてくれるものだと思っていたのに。なんだか拍子抜けしてしまった。
 気にはなっていたが、別段事細かに追求する事はしなかった。北斗には互いの素性をあまり細かく詮索しない慣習がある。一応、それを覚えていた俺は、あまり人には深く突っ込んだ質問はしない事にしているのだ。して良いのか悪いのか、その境界に具体的な定義は無いけれど、迷うくらいならば初めからやらない方が何事も無難だ。このぐらいなら問題はないんじゃないか、とは思う。けど、一体どんな事情があるのか分からないのだ。もしもうっかり重い所に触れてしまったら目も当てられない。
 ようやく辿り着いた彼の家は、郊外の物寂しい所にひっそりと建っている寂れた一軒家だった。
 北斗は夜でも明かりが絶えない街だけれど、さすがにここまで離れてしまうと周囲には光どころか建物すらまばらになってくる。北斗の街と外を区切る外壁が遠目に見える。以前、凍姫のラクシェルに聞かされたこの外壁にまつわる話を思い出す。とどのつまり、この外壁付近は『出る』のだ。俺は想像もしたくない……。
 小さくこじんまりとした玄関から建物の中へ。明かりもついていない建物の中は真っ暗で何も見えなかったが、外観よりもずっと狭いということが肌で感じ取れた。建物自体も古い。もう誰も使わなくなった物件を安く買ったんだと思う。
「ありがとう」
 家の中に入ると、彼は一言俺に礼を言って腕を外し自分の足で歩き始めた。真っ暗な中でも勝って知ったる自分の家であるため、彼は慣れた様子で明かりをつけていった。
「体の方は大丈夫なんですね?」
「私は昔、『修羅』の人間でな。なに、このぐらいの事なら日常茶飯事じゃ。さあ、適当に座ってくれ」
 そう彼は笑いながら奥の方へ消えていく。
 さらっと凄い事を言った。
 俺は唖然として立ち尽くしていた。昔、『修羅』の人間だったとは。俺は『夜叉』の人間だからどういうトレーニングをしていたかなんて知らないけれど、少なくとも俺が普段やっているぐらいの激しい事はしているはず。だったら、本当に体は大丈夫なのかもしれない。単純な打たれ強さだけでなく、急所を打たせない技術だって身についてるだろう。それに、俺はまだ北斗に来て何年も経っていないけど、この人はおそらく何十年もやってきたはず。だから技量なんて俺とは比べ物にならないはずだ。
 とりあえず俺は、言われた通り一旦落ち着く事にした。
 小狭い部屋にはローテーブルと古いクッションが幾つか。俺はその一つを敷いて座った。
「いやいや申し訳ないが、うちにお客さんが来るのは久しぶりでね。こんなものしか無くて恐縮だが」
 やがて奥から彼がいそいそと戻ってきた。足取りを見る限り、どうやら本当に大した怪我はしていないようだ。
 ローテーブルの向かい側に彼が座り、持ってきたお茶菓子を並べる。せんべいやあられやら、俺には年寄り臭いと思うお菓子だ。そして一緒に出されたのは緑茶。前に一度飲んだ事があるけれど、とても砂糖を入れなくては飲めない苦いものだった。しかし本来は何も入れずにそのまま飲むものなのだそうだ。当然だけど、シュガーポットの姿は見当たらなかった。
「にゃっ」
 お菓子の匂いに反応したのか、テュリアスが懐から飛び出してきた。彼は僕が一人だと思っていたようで、突然飛び出したテュリアスの姿に驚き目を丸くした。
「そちらのおちびさんにはミルクの方が良かったかな」
 けれど彼はにっこり微笑んでまた奥へミルクを取りに向かった。
 俺もそっちの方が良かったな。
 そう思ったけれど、言い出すタイミングを逃してしまった。
 やがて戻ってきた彼に出された皿入りのミルクに、テュリアスは首を伸ばして飲み始めた。
「さあ、お前さんもどうぞ」
 せっかく出してくれたものに嫌な顔は出来ない。
 俺もテュリアスに倣い、黙ってお茶を口にした。口の中に流れ込んでくる容赦の無い苦味に、思わず眉をひそめてしまう。分かってはいたけれど、やはり俺にはきつい味だ。一方のテュリアスは、普段からミルクは飲んでいる訳だから俺のように辟易する必要は無い。不覚にも、羨ましい、と思ってしまった。
 苦味を少しでも紛らわせようと、せんべいに手を伸ばす。直径およそ三センチほどの円状のそれは、噛んだ食感はかなり硬くて噛み砕きにくかった。それでも強引に噛み砕くと、今度は甘辛い味が広がってきた。いや、若干辛さの方が強いか。苦いのも辛いが、辛いのも同じように辛い。
「危ないところを本当にありがとう。お前さんが来てくれなかったら、今頃どうなってたことか」
「いえ、大した事ではありません」
 正面から礼を言われると少し照れ臭い。俺は視線を下へ落としてばつの悪そうにうつむいた。
 別に何も考えず、いつの間にか体を動かした結果こうなっただけだ。助けようとか、そんなには意識していないのに。そんな事で感謝されると、かえってこっちの方が恐縮してしまう。
「私はゾラスと言う。お前さんは?」
「俺は……シャルト」
 少し躊躇い、自分の名を告げる。
 俺は自分から名乗るのがあまり好きじゃなかった。大概の人は俺の名前が珍しくて色んな反応を見せる。ほとんどが俺にとっては不快な反応だ。シャルトという名前は、俺の生まれた村の習慣でつけられた、本来なら女性につけるような名前だ。そして俺のこんな容姿だ。北斗には色んな人種の人間が住んでいるけれど、それでも俺は奇異の視線を向けられてしまう要素を持ってしまっている。
 ゾラスと名乗った彼は、そうか、と微笑んで自分もお茶をすすった。どうやら俺の気持ちを酌んだらしく、あまり触れないようにしてくれるようだ。さすがに長く歳を重ねていると、こういう事でいちいち面白がったりはしなくなるんだろう。どうでもいい事へすぐに首を突っ込み、自分好みに面白おかしく引っ掻き回すヒュ=レイカとは大違いだ。
 それからしばらく、互いの間には会話も無くお茶とせんべいとを交互に口にし続けた。
 テュリアスが自分もせんべいを食べたいと言い出し、俺は細かく割ってミルクに漬けてやった。いつものように、初めて見るものには一通りしげしげと観察してから、自分から言い出したにも関わらず恐る恐る手を伸ばして食べてみる。しかし、すぐに顔を歪めてミルクをすすり始めた。どうやらテュリアスにも辛いようだ。
 その頃になると、俺はせんべいの味に慣れてしまっていた。お茶の苦味はまだ苦しいが、せんべいは慣れれば意外とクセになる味だ。結局調子に乗って三枚ほど食べてしまったが、さすがに舌先がぴりぴりと痛くなってきた。
「シャルト君」
 急にゾラスが口を開いた。
「私の事は何も聞かないのかな?」
「いえ……その」
「聞き辛いかね?」
「……まあ、そういう事です」
 北斗に住む人間は詮索する事を常に躊躇う。
 彼もまた北斗に住む人間としてその習慣を知っているため、申し訳ない、と一言誤った。この場合は俺が訊ねて来るのを待つのではなく、自分から打ち明けるのが妥当だ。そういう意味を込めてだ。
「私は先ほども言った通り、元流派『修羅』の人間だ。一緒にいたあの五人も同じ、正真正銘『修羅』の人間に相違ない」
「でも、一体どうしてあんな事を?」
「ちょっとした遺恨があってな」
 遺恨?
 早い話が、恨み辛みが積み重なった上で、そこに何らかのきっかけが与えられて触発された。そんな所だろう。
 けれど、幾ら元北斗の人間が相手だとしても、あんなに寄ってたかってやるなんて。それが単純にその遺恨から来るものならば、よほど穏やかならぬものがあるのだろう。それはどちらがどちらに対するものなのか。一般的に考えれば、攻撃する側が恨みを持つ側になるけれど。でも反対に、返り討ちになってしまったとしてもありうる構図だ。
 彼はあの五人から恨まれているのだろうか?
 いや、そんな事はあるはずがない。そんな事をするような人間には、とても見えない。
 ならば、彼があの五人を恨んでいる?
 それも考えにくい。初対面の俺に対してこんなに優しくしてくれるのだ。復讐なんておどろおどろしい事が出来るはずがない。きっと何か誤解があったんだと思う。それで、あんな目に遭ってしまったのだ。
「数年前の事だ。私には孫娘がおってな。戦火で両親を失い、私にとっては唯一の肉親だった」
 淡々と語り始めるゾラス。
 その口調は聞いている俺も胸が痛くなるほど、表面上は優しくとも内側に深い悲しみを押し込めているように感じた。
 静かに語られていったのは、彼がこの国に来るまでの経緯と北斗に入ってからの事だった。一言で言ってしまえば昔話だが、所々に出てくるまだ俺の知らない北斗の事もあってか、俺は少しずつ彼の話へ引き込まれていった。
 遺恨、と何の関係があるんだろうか?
 語られる話の中には遺恨と関係のありそうな部分は出てこなかったが、そんな疑問も抱かなかった。多分、すっかりその事を俺は忘れていたんだと思う。テュリアスはとっくに飽きてしまい丸くなって眠り始めたが、俺はただひたすら夢中で話に聞き入っていた。
 何故、自分がこれほど聞き入っているのか。
 それはきっと、彼の生い立ちがどこかしら自分と似ていたからだと思う。仲間意識というか、そんな感じだ。これまで俺の生い立ちに対して同情的な人間は沢山居た。レジェイドやルテラだってそうだ。けれど、決して悪い意味じゃないが、二人は俺と同じ生い立ちを持っている訳じゃないから、完全に俺の事を理解する事はできないのだ。不満とは思わないけれど、ただ、限りなく俺と同調出来そうな感じが嬉しかった。
 この人とは仲良くなれそうだ。
 そんな気がした。
「―――うっ」
 突然、ゾラスの表情が硬直する。
 その手は胸の辺りをぎゅっと強く押さえていた。



TO BE CONTINUED...