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かちり、と待ち望んでいた小さな衝撃が、遂に指先へ伝わってきた。
「開いた!」
心地よい感覚と込み上げてきた達成感に促され、柄にも無く歓喜の声を上げるヒュ=レイカ。しかし、俄かに背中で感じ取ったその不穏な気配に、歓喜の表情を一転させるや否や咄嗟に体を左へ転げさせた。
一瞬遅れて、目の前を眩しい閃光が一筋の尾を描く。閃光はヒュ=レイカが先程まで奮戦していた鋼鉄のドアと衝突する。じゅっと焦げ臭い音を立てた時、ようやくそれが人間の腕である事に気がついた。しかし、その腕は普通では考えられないほど光り輝いていた。炎のような橙色の光ではない。もっと高温で、しかし薄波のように穏やかな光だ。
な、なんだ、いきなり!?
ヒュ=レイカは完全に不意を突かれた事で焦る自らの心臓を押さえながら、閃光に眩んだ目を慣らしつつ正体不明のそれを見定めようとする。
暗闇に浮かぶ一人の人影。それはどこか見覚えの有るシルエットだった。
『レイ!? どうかしたの!』
扉の向こう側からルテラの声が荒く響く。さすがにこの異変を察知した口調である。同時にヒュ=レイカの目が人影の正体を見定めた。
「浄禍だ! 気をつけろ!」
そう叫ぶや否や、修道女は光を纏った腕を深々と鋼鉄のドアへ突き刺した。まるで紙か何かを相手にしているように、驚くほど抵抗無く腕が突き入れられて行く。そのまま無造作に突き刺した腕を振り抜く。すると鋼鉄で出来ていたはずの重厚な扉は、まるでプリンのようにいとも容易く抉られていた。
「くっ!」
咄嗟にヒュ=レイカは屈んだままの姿勢から手にしていた針金を逆手で投げつける。暗闇の中を走る針金は真っ直ぐに修道女の顔を目掛けて向かっていく。普通、暗闇の中では止まっている針金を手にするのも難しい。針金そのものが細く小さいため、目で捉えにくいからだ。しかし修道女は、まるで見えているかのように針金を輝く手で掴み取った。だが、同時にバチッと空気の弾ける音と青い小さな閃光が走り輝きを弾き飛ばした。修道女は驚いた目で針金を掴んだ自分の手を見る。しかしそっとその手を握り込むと、再び白く神々しい輝きを取り戻す。
「こんな小細工したって無駄か……」
修道女が逡巡した僅かの隙に体勢を立て直すヒュ=レイカ。しかし元々まともに動かなかった体で急激な動作をしてしまったため、ぐらりと体が揺れるような眩暈を覚える。
直後、激しい音と共に抉られた鉄の扉が内側から開け放たれた。
「レイ!」
飛び出したルテラは右拳を構え修道女に向かっていく。右拳には白い粒子が集まり逆向きの刃を形作る。完全な体現化を終えた白い吹雪の刃は、空気と擦れ合いながら悲鳴のような音を立てる。
「主の御光を、我に」
しかし修道女は何一つ身構えようとはせず、ただ楚々とした態度のまま凛と言葉を刻んだ。すると、修道女を中心に四方へ眩い光が広がって行った。向かっていったルテラの体は正面から光を受け、軽々と吹き飛ばされる。
「ルテラッ!」
しかし、ルテラは空中でくるりと身を翻し姿勢を修正すると、空中で壁を蹴ってヒュ=レイカの隣へと自らの体を打ち出す。
「やあ、元気そうで何よりだね。髪の毛ちょっとぼさぼさだけど」
「随分酷い怪我のようだけど、それだけ言えればまだ大丈夫そうね」
苦笑しつつ、ルテラはヒュ=レイカよりも一歩前に立って構える。傍目にもヒュ=レイカはこれ以上戦える状態ではない。そのための判断である。
「浄禍八神格『光輝』の座か……。まったく、難儀だなあ。厄介なのに見つかっちゃったね」
「私がなんとかするから、レイは先に逃げて」
「お言葉に甘えたいのはやまやまだけどね。そんな事したら後でレジェイドに殺されちゃうよ」
冗談めかせて答えるヒュ=レイカだったが、笑み一つ取ってもあまり余裕が感じられない。痩せ我慢をしているのは目に見えているが、今はそんな口論をしている場合ではない。そもそも、本気で撤退に徹した所で易々と逃げ果せる相手では無いのだ。むしろ無防備な姿を晒す分、命を落とす危険性が高まる。たとえ限りなく勝機がゼロに近くとも立ち向かって撃破しよう、と考えるのは決して愚考ではない。
「とにかく、逃げる事が最優先ね。まともにやってどうにかなる相手じゃないわ」
「言うのは簡単だけどさ、何か具体案は無いのかな?」
「なるようになるでしょ」
「最近、考え方がファルティアと似て来たね」
「底無しの前向き姿勢が幸福のカギだって物の本に書いてあったわよ」
「その前に、休息が必要のようだ」
暗闇の中で『光輝』はぼんやりと薄白い輝きを放っている。神々しい、とたとえるべき神秘的な姿なのだろうが、周囲に充満するむせ返るような血の臭いと、先程見せ付けられた鉄の扉を抉った所業に、むしろ恐ろしさの方が先行した。彼女からは御心を代行する厳粛な正義よりも、獣めいた血腥いものが感じられる。善と悪を司る、と言うよりも善も悪も死の一つに括るといった印象だ。
盲信者は目を瞑っている者よりも周囲が見えない。それだけに、自分の目の前を一様に駆逐し進む彼女の頑なさが恐ろしく思う。
「出来るだけ援護宜しく」
「了解。任せて」
ルテラは両腕をすっと水平に広げて柔らかい手刀に構える。するとそのそれぞれの手には無数の白い粒子が集まり出し、吹雪の刃を形作る。流派『雪乱』が得意とする、冬を象徴する事象を武器へと昇華する術式だ。
吹雪の刃を纏った両腕を下段に構え拳を握り込むとながら、真っ向から『光輝』に向かっていくルテラ。両腕の構えは防御を優先とする保守の構えである。そもそも浄禍八神格が近年直接戦闘を行う事は暴走事故の鎮圧を除いてほとんど例がなく、『光輝』に限らずどういった戦い方をするのか情報が無いためである。そのため、まずは相手を知る必要性が出てくる。防御を意識しながら慎重に攻撃を仕掛ける事で相手の情報を引きずり出すのだ。
ヒュ=レイカは全身の痛みを押し殺し、傷口を押さえていた右手をだらりと下へ垂らし、その手首を左腕で握る。そして静かに呼吸を繰り返しながら慎重に作り出したイメージを右手に体現化させた。描いたイメージは、雷の短剣。
「『唸れ、厳冬の白刃』ッ!」
ルテラは吹雪の刃を下から上へ切り上げる動作で十字を描くように繰り出した。二つの異なる軌道は回避そのものが困難であるため、障壁で防がれる可能性はあるものの致命的な隙は生まれにくく、非常に手堅い攻撃となる。
しかし、対する『光輝』はまたしても何の防御行動を取るような仕草を見せない。またあの爆発的な光によって弾き飛ばされるのか。そうルテラは先程の回想を脳裏に浮かべた。
「えっ!?」
刃が交差する直前。何の前触れも無しに『光輝』の姿が目の前から消え失せた。その代わりに、まるで流れ星の尾のような淡い光の軌跡が緩やかに宙をなぞっている。
「ルテラ、後ろだ!」
そう叫ぶと同時に、ヒュ=レイカは体現化した雷の短剣を放った。
既にルテラの背後に位置を移していた『光輝』は、白々と輝く右手をルテラのに目掛けて振り上げていた。
そのまま輝く腕は振り下ろされる。ルテラの体は肩口から一気に脇腹へかけて引きちぎられるように両断された。だが、普通あるべき真っ赤な血の滴りは無く、代わりにルテラの体が一度に色素を失うとその場へ崩れ落ちた。
振り下ろした腕の慣性に体を拘束される『光輝』。そして、ヒュ=レイカの放った雷の短剣はすぐ後ろまで迫っている。
このタイミングでは、いかに迅速に障壁を展開しようとも術式が届く方が圧倒的に速い。
そう確信したヒュ=レイカだったが。
次の瞬間、信じ難い光景を目の当たりにした。『光輝』はまるで急ぐ事無く、ただ平然と歩いて術式を回避したのである。歩を刻む様には何一つ特殊な仕草は無く、これといって目に付くものは無い極普通のものだった。しかし、唯一つだけ常識の規格から外れたものがあった。それは常軌を逸した速さである。
決して走っている訳ではない。ただ普段自分が何気なく行っている徒歩と全く仕草は同じだ。ただ、その光景が早回しになっているかのように、ある瞬間急激に加速するのである。まるで自分が時間の流れに乗り遅れているのではないかと疑ってしまいたくなるような、非常識な光景である。自分が走るよりも速く走る術式の短剣、それよりも速く歩くのだ。一体どのような仕組みになっているのか、とても自分達の常識では考え付かない。
「ちょっと……何あれ?」
不意にヒュ=レイカの傍らに何事も無かったかのようにルテラが怪訝な表情で現れる。
先程、背後から『光輝』に体を両断されたかのように思われていたが、実際に断たれたのは術式によって作り出された擬態であった。流派『雪乱』が得意とする目くらましの一種である。
「単純な速さならシャルト君も凄いんだけど。それとはまた違う種類みたいだね」
白く闇を照らし輝く『光輝』は、息一つ乱す事無く楚々とした態度を崩さない。少なくとも今の歩法は単純な体術によるものではない。何か特殊な術式を用いた歩法だろう。ただし種までは推測がつかない。そもそも、一体どのように体現化すれば再現できるのか理解が出来ないのだ。
「実は向こうが速く動いてるんじゃなくて、こっちが遅くなってるとかないかしら?」
「独創的な逆説だね。一理あるけど、どうやって確かめる? 僕は人身御供になりたくないなあ。それに、正直ちょっと具合が悪いんだよね、僕」
「あら、どうかしたの?」
「隠してもしょうがないから告白するけど、今、ほとんど精霊術法は使えません」
そう言葉を交わしている内に、『光輝』が接近してくる。
ゆったりと、優雅ささえ感じさせる牛歩に近い仕草。だがその速さは迅雷の如く、目が存在を認識しても姿を捉える事が出来なかった。
まるで、一条の光だ。
浄禍八神格の一人『光輝』の座は、その名の如く自らを神々しい光へと変える事が出来るのだ。
「『暗闇に捕らわれ不徳を働く哀れな迷い子よ、光あれ』」
光輝く『光輝』の手が二人を薙ぎ払いにかかる。その輝きは柔らかく目を刺すような荒々しさは無かったが、少しでも触れたらあっと言う間に分解されてしまいそうなほどの、むしろ恐怖さえ覚える純粋さに満ちていた。
冗談じゃない。
そう、ヒュ=レイカは心の中で叫んだ。
人間として持ち得る限りの最大の速度を持ったとしても、光は人間の反射速度すらも優に上回る。
人の敵う相手ではない。
現実を認めさせようと押し殺していた弱気な自分が再び声高らかに叫ぶ。
なるものか、と逆らう自分は既に戦力として全く使えない状態である。当然だが、二人掛かりでも勝てるはずの無い相手にルテラ一人では敵うはずもない。
絶体絶命か。
ならば、最後まで抗ってやる。
ヒュ=レイカは右腕に力を込めて脳裏にイメージを描く。描いたイメージは身の丈ほどの、雷の剣。しかし、すぐに息も止まるほどの激痛が体を襲いイメージが拡散する。
あんなに呪い続けたこの力、何故今になって引っ込むのか。この理不尽な境遇に怒りすら覚える。しかし、この怒りを表す力さえも今の自分には残っていない。
ルテラは覚悟を決めたかのような表情で右拳に厚い吹雪の刃を体現化する。その程度の術式で倒せるような相手では無い事など百も承知。しかし、それしか他に望みを繋ぐ術は無かった。
結局、ここまでだったのか。
そう、ヒュ=レイカはゆっくりと目を閉じ……。
刹那。
「ッ!?」
立ち尽くす二人の間を、一陣の風が颯爽と走り抜ける。
一体何者だ。
ヒュ=レイカはすかさず閉じかけた自分の目で目の前を凝視する。
「あ……」
傍らのルテラが息を飲むのが手に取るように分かった。そして同時に、自分もまた目の前の光景に戦慄している事を自覚する。
目の前には修道女の装いに身をまとった『光輝』の姿があった。しかし今の彼女はあの神々しい光に包まれてはいない。そしてもう一つ、決定的な差があった。
首から上が、無かったのである。
息もつけずただただ茫然と視線を放り出す二人の第一声を待たず、『光輝』の体は音も無くその場へ崩れ落ちる。薄暗い床の上には肉の塊ではなく、裾の長い修道女の服と大きな塩溜まりがあるだけだった。
ひたり。
ひたり。
ひたり。
と、不意に暗闇の中からこちらへ近寄る足音が聞こえてくる。だが二人は身構える事も忘れ、ただただその場に立ち尽くしているだけだった。
ゆっくりと闇を進む誰何は、床に散らばる『光輝』だったそれを踏み付け二人の眼前へ立つ。そして己の姿を薄闇の中へおどろおどろしく晒した。
それはヒュ=レイカと同じほどの年頃であろう、一人の少年だった。しかしその目は恐ろしいほどドス黒く濁り、獣のような殺気に満ちている。
彼の手には無造作に、『光輝』のものであろう思っていたよりも薄い生地のフードが握られていた。
フードからは真っ白な塩がさらさらと伝い落ちている。
TO BE CONTINUED...