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 攻撃を。
 プライドと使命との葛藤の末、リーシェイが弾き出した答えはそんなごく単純なものだった。
 防御に徹するだけでは戦闘には勝てない。戦術的な防御とは言え、構想していた攻撃に出る機会が失われた以上、とにかく今は相手を攻め立てダメージを与える必要がある。たとえ牽制でも、攻撃の手段を選ばせるほどの有用性があればこちらの立場もずっと楽になるのだ。
 取捨選択の出来ない苦悩を和らげるのは、ただ漠然とした勝利への渇望だった。
 とにかく勝ちたい。
 勝った先に何があるのかは未だ見えては来ないが、きっと何か得られるものがあるはず。
 現実主義者であるはずの自分らしくも無い。ふと、そんな自嘲が込み上げてきた。
 そう、今の自分はらしくないのだ。
 古今東西、リアリストという人種は保守的な考え方をするものだったはず。それが何故、北斗の改革という名目で同志に牙を向けているのか。
 何かが狂っている。
 自分の中で何かが踏み違えている。磁石の針が北と南を真逆に指し示すように、太陽が西から昇り東へ沈んでいくように、変わるはずの無い摂理が曲げられる狂気的な何かが深く根を張っている。
 自分の意志は、意図的に動かされているのか。
 あり得ない。そうリーシェイは思った。
 意識を乗っ取るなど、幾ら世界広しと言えど存在するはずがない。あって、せいぜい表層を謀る程度のものだ。
 自分は自分だ。何人の意志もここに混在などしていない。
 しかし、その結論が導き出される疑問が生じた事が狂いの始まりなのではないのだろうか? そう自分が自分を苛み続ける。
 前にも増した稲妻のような神速で、シャルトが瞬く間にリーシェイの背後を取った。
 一呼吸、空気がびりっと凍りついたかのように張り詰める。同時にシャルトが一瞬の溜めを作り攻撃のモーションに移る姿が脳裏に浮かんだ。日々の訓練による条件反射だ。
 ……来るッ!
 シャルトが両拳を構えたまま踏み込むのとほぼ同時に、リーシェイは軽やかに身を翻してそれをかわした。シャルトは石畳を大きく削りながら減速するも向きを変えるだけで止まらず、そのまま再び消えるような勢いで加速する。
 大丈夫、まだついていける。
 体は蓄積した疲労で重く、膝も思うように締まらない。丁度浅瀬に立っているかのような鈍く重い感覚だ。しかし、どうしようもないほど絶望的な状況下に置かれている訳でも無い。立って動ける内は絶望とは呼ばない事が、北斗として最低限の心構えだ。
 もはや細々と論理を組み立てているほど優雅な状況ではない。接近戦にはシャルトに分があるが、自分の術式が遠距離において最も威力を発揮する以上、今はあえて接近戦を挑まなくてはいけない。幸いにも、シャルトの武術は能動的なものだが、自分の武術は受動的なものだ。同じ能動的武術ならば、絶対に勝つ事は出来ない。
 受動的武術は呼吸とタイミングが全ての威力を決める。これまでの検知から、六合拳の爆発的な破壊力をシャルトは一呼吸の溜めによって生み出している事が分かった。たったその一呼吸が、自分に与えられた一縷の望みである。シャルトの圧倒的な威力を誇る拳も、タイミングさえ合えば威力をそのまま返す事が出来る。しかし僅かでもずれてしまったら、おそらく命は無いだろう。
 非常に分の悪い、ほとんど賭けのような作戦。だが、望みのない定石を打ち続けるよりも遥かに前向きだ。
 しかし、より勝利に近づくには、もう一つ、何かが欲しい。
 一瞬。
 一瞬でいいのだ。この異常な速さで立ち回るシャルトを止める何かが欲しい。
 そして、間もなくその何かをリーシェイは思いついた。
 尚も神速を持って背後に回り込み、拳を構えるシャルト。
 その体が矢のように打ち出される寸前、リーシェイはちらりと周囲を見渡すと、一歩横へステップを踏んで立ち位置を僅かにずらした。
 リーシェイの立ち回りがほんの僅かに変化を見せた。シャルトの縦横無尽に繰り出される攻撃を前にも、とある一点を目指して移動しているのである。
 一瞬でも動きを止める事が出来れば、瞬きする間もなくシャルトを倒す術が自分にはある。
 狙いは、この周囲にそびえる建物にあった。
 うまく壁際に誘導し紙一重で拳をかわすことが出来れば、シャルトは自ら壁にぶつかっていく事になる。
 絶大な破壊力を持つ六合拳だ、建物の壁など難無く打ち砕くだろう。しかし、人間を打つのと壁を打つのでは、心構えがあらかじめ無ければ大きく感触が変わる。
 人間を打つつもりだった拳が壁を打てば、一体なんと思うだろうか。
 必ずしもシャルトが動揺するとは限らない。打ち違えた所で何とも思わない事だってある。だが、壁を打てば粉塵が舞い視界が僅かに曇る。砕けた破片は周囲に散らばり、シャルトが神速を得るにあたって最も必要な加速をつける足場を妨害する。つまりは、二重三重に有利な瞬間を作り出すことが可能なのだ。
 後、三歩。
 後、二歩。
 後、一歩。
 死と隣り合わせの立ち回りがもたらすプレッシャーは、決して自らを鼓舞するような優しさを持ち合わせてはいなかった。むしろ、死神の大鎌を喉元に当てられている間隔に近い。
 死神の異名を持つ北斗が死神に苛まれると錯覚するとは。皮肉なものだ。
 だが、この緊迫した時間もここまでだ。
 リーシェイの背後から拳を構えて突進して来るシャルト。
 全てが申し合わせたように、リーシェイの中で交差した。
 シャルトの攻撃の軌道。
 自分の回避方向。
 その交差点には、飲食店の多い北斗ではならの、人目を引く派手な外装を施した赤レンガの建物。
 何もかもが作戦通りだった。しかし、この瞬間はシャルトにとってこその好機だった。
 今だ!
 リーシェイはシャルトの拳撃を紙一重でかわす。
 そのつもりだった。
 回避の余韻が訪れない。
 シャルトは拳を打ち出し切らず、リーシェイの目の前で踏み止まったのである。
 予想外の出来事に唖然とするリーシェイ。そこへ目の覚めるような震脚が刻まれた。
 それはあまりに致命的な間だった。六合拳が最も威力を発揮する手合いの間で、自らの体を無防備にさらけ出したからである。
 ここからの行動はもはや本能的と言っても過言ではなかった。
 シャルトは握り締めた右拳をおもむろに頭上へ掲げる。そこから右足を前へ踏み込むのと同時に、さながら大槌の如く右腕を脇腹まで一気に振り下ろした。
 食らってはいけない。
 ただひたすら言葉にならぬ防衛本能の判断を念じ続けた甲斐なのだろうか。
 もはや体力の限界などとうに過ぎているリーシェイの体は、まるで後ろから引っ張られるように、シャルトの拳に叩き潰される寸前でかわす事が出来た。
 直後。
 リーシェイは驚愕した。
 リーシェイをそれたシャルトの拳は、背後の壁を打った。するとその壁はまるで分解するかのように粉々に吹き飛んだのである。破壊した事に違いはないのだが、その威力の高さのあまり、打たれた壁は一瞬で砂になってしまった。
 丁度、シャルトの背丈ほどの縦穴がぽっかりと壁に空く。たとえ何か専門的な工具を使ったとしても、こんな穴は空ける事は出来ないだろう。精霊術法ならば可能かもしれないが、素手による静かさには到底敵いはしない。
 なんという無駄のない拳。これほど力の集約された拳を見るのは初めてだった。あまりに単純な攻撃だが、ここまで昇華された技は比較的、神の如く御業に近い。それだけに、沸き上がる恐怖もひとしおである。
 離れなければ。
 次の判断は、先刻の緩慢さが嘘のように迅速だった。これ以上手合いの間に留まり続けるのは自殺行為に等しいからである。
 リーシェイは左右の手に氷の針を体現化すると、残身のシャルトに目がけて放つと同時に背面に跳んで間合いを離した。しかし、ゆらりと一瞬シャルトのディテールが崩れたかと思うと瞬く間に消え失せ、次の瞬間にはリーシェイの背後へ移動していた。
 やはり届くよりも速いか。
 薄々勘づいていたリーシェイは、あらかじめ小さく収めていた残身から素早く回避に移った。
 再び、リーシェイの一方的な防戦が始まった。
 シャルトの評価を今一度見直さなくてはならないようだ。シャルトはリーシェイの作戦を見切り、その上でリーシェイが逆転を狙った攻撃に打って出る瞬間に誘いに乗らず、自分のチャンスとして生かす行動を取った。攻撃こそ不発だったものの、戦闘として十分高度な腹の探り合いに読み勝ったと言えるだろう。
 一般的にシャルトのような直情型の人間は思考パターンも単純であると評されるが、それはあくまでも日常生活の中での話であり、戦闘時の、特に集中した場合のシャルトの思考範囲は驚くほど広く柔軟であった。反対にリーシェイは、普段こそ何手先までも予測する鋭い読みを持っているのだが、集中力を掻き乱されると別人のように単純化してしまう弱さが露呈した。
 本来の二人の実力は、決してまともな戦闘が成立するような、伯仲したものではなかった。リーシェイは凍雪騒乱を初めとする数々の実戦を経験しているが、シャルトは未だ本格的な実戦の経験は数える程度しか無い。二人の実力差はつまり、この実戦でしか得られない経験の差だ。しかし、リーシェイにとっては最悪の、シャルトにとっては最良のコンディションが偶然にも一致した事で、二人の力の構図は見事に逆転してしまったのである。
 どうすればシャルトに勝てるのか。
 まさか、これほど真剣にこんな事を考えることになろうとは思いも寄らないリーシェイだった。リーシェイにとってシャルトは未だルーキーの枠を出ておらず、ましてや自分と真剣勝負を交えるなど、そもそも勝負自体が成り立つという考えに行き着く事が無かったのだ。
 どうしてだろう。
 突然、堰を切ったように自分がシャルトの事を考え始めている事に気がついた。それは、今、敵として立ちはだかるシャルトの戦士という視点から見た評価もあったが、もう半分、日常でのシャルトという今の場には到底似つかわしくない内容だ。
 すぐにむきになって食ってかかる姿が何とも可愛らしい。 単純な嘘にも簡単にかかる純粋さがたまらない。
 分からない。
 どうして敵にそんな事を思い、考えるのか。
 そもそも、シャルトと自分は日常にどれほどの接点があったと言うのだ。ただの、知り合いの知り合いにしか過ぎぬ存在だというのに。
 それは本当か?
 シャルトとの接点は、自らが見初めて自らが作り出した、自発的なものではなかったのか?
 馬鹿な! 幾ら組織の命とは言え、自分が見初めた者達をみすみす手に掛けるほど私は愚かではない!
 ならば、後ろの惨状は何だ!?
 リュネスはお前自身が撃ち、踏み付けたのではなかったか!?
 それは、それは……!
 リーシェイの思考は目に見えて混乱し始めていた。既にその片鱗が苦悶の色となってリーシェイの顔に深々と浮かんでいる。
 自分は一体、何を考え、何をしようとしているのか。
 他ならぬ自分のことのはずなのに。まるで他人行儀な物言いが頭の中を駆け巡る。
 ぽっかりと胸の真ん中に穴が空いてしまったようだった。混乱は自らが本来の持つべき指標を見失っている事を思い知らせてくれたからである。
 と。
 戦闘の緊張感が切れ掛かって混乱が強まり、戦意を失いつつあったためか。シャルトが初めて背後ではなく真正面から間合いを詰めて来、それを難なく許してしまった。
 どんっ、と刻まれる震脚。
 シャルトの右拳が再び徐に頭上へ抱え上げられた。
 あれが来る。何もかもを粉微塵に破壊する、恐怖の拳が。
 リーシェイの脳裏に、シャルトが一瞬で壁を砂にしてしまったあの光景が思い起こされた。もしも自分があれに打たれたならば、あの壁のように体が幾つもの肉片に飛び散るのだろうか。
 しかし、そのモーションは手合いの間合いではあまりに大き過ぎた。これまで、背後に回ってから放たれていた技は、どれも構えた拳が足を踏み込む事によってそのまま攻撃動作となるものだった。だが先程の拳は、振り上げてから降ろす、二段構成になっている。かわすだけで精一杯のリーシェイだったが、一段分の構えに要する間、つまりリーシェイが自由に動けるという自由な間が与えられるという事である。
 もう後はない。
 これ以上、戦っていられるような精神状態では無かった。精神的な疲労に加えて、若干のヒステリー気味の症状まで起こしてしまっている。戦う以前に、ゆっくりと心を休める休息が欲しかった。そのためには、ここで決着をつけなければ、自滅すら見えてきてしまう。
 戦場で弱音を吐くなど、なんて情けない事か。
 そうは思ったが、脳裏に張った疑惑の根はあまりに深く、平素の自分すら保っていられないほどなのである。このまま放置すれば、自動的に狂れてしまうか、シャルトに叩き潰されるか二つに一つしかない。この後先無い状況は、リーシェイが戦意と勝利への意欲を取り戻すには十分だった。
 狙うは、この恐怖の拳撃。
 荒れ狂う嵐の中へあえて飛び込み、その芯を断つように。この一撃を捌き、直接シャルト自身に威力を流す。自分とは違い、精霊術法も自由に使えないのだ。小柄な体ではこれほどの衝撃に耐える事は出来ないだろう。
 全ては呼吸とタイミング。
 全てが完全に合致すれば、まるで天に吐き捨てた唾が自らの顔へ返ってくるように、自分の技の威力を丸々食らう。全ての力を操る事。それこそが、リーシェイが持ち合わす受動的武術、大極の真理だった。
 だが。
 恐ろしい勢いで風を切りながら繰り出されたシャルトの拳だったが、どういう訳か腕が伸び切らず、自分の僅か目の前で空を切るだけに終わった。それと同時にシャルトは体をくるりと反転させる。
 しまった、フェイントか!
 せっかく合わせていたシャルトとの呼吸の同期が切れる。それに気づくまでかかった間は次なるシャルトの攻撃への反応を僅かに鈍らせた。
 次の瞬間、捻れた体を一気に戻し、シャルトの右足が閃く。連鎖する螺旋がシャルトのズボンに引きちぎれそうなほど凝縮された渦状の皺を描く。まるでゴムのようなしなやかさと張力だ。
 初めて見せる、足技だった。
 手技ばかり意識していたリーシェイの反応は再び遅れる。



TO BE CONTINUED...