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 悪夢に次ぐ悪夢。
 終わりなき頭痛。
 北斗に入ってからというもの、ろくな事がありません。
 いつになったら私は開放されるのでしょうか?
 少なくとも、出来の悪い教え子が三人、一人前になるまではあり得ないでしょう。

 先は長いですね……。




 北斗西区にある、とある療養所。そこには騒乱の影響で負傷した、一人の女性が入所していた。診断結果は全治二ヶ月というかなりの重傷だった。しかもそれだけでなく、辛うじて日常生活に支障をきたさない程度ではあったが、完治後も後遺症が残ると宣告されたのである。それほどの深い傷を彼女は負ったのだった。
 彼女は傷が完治するなり、最初に収容された病院から比較的凍姫本部に近いこの療養所に移ると、今度はリハビリに専念する事にした。リハビリはこれまでの病院でも出来たのだが、少しでも凍姫本部に近い場所に居た方が落ち着くという事なのだそうである。
 療養所の中庭は綺麗に生え揃った芝生の緑が日光を浴び輝いていた。そこを縫うように一本の舗装された細い石畳の道路が走っている。芝生の上では、ゆっくりと治療の終了を待つ患者達が語らいくつろいでいる。そんなのどかな風景の片隅に、件の彼女と、そしてもう一人別な女性がいた。
「まさかこれほどまでに体が弱っていたとは。いよいよリハビリは気が抜けなくなってきましたね」
 彼女は車椅子に乗り、舗装された石畳の上を進んでいた。彼女の名はミシュアといい、流派『凍姫』に在籍する戦闘指南役である。ミシュアは一ヶ月半前に終結した雪乱と凍姫の抗争の最中、雪乱との戦闘で負傷した。現在は傷は完治したものの、あまりに長期間ベッドの上から起き上がれなかったため、自分で歩く事が出来ないほど筋肉が衰えている。リハビリの過程を考えれば、まだまだ先は長い。
「いや、ゆっくりしてくれて構わない。焦る事はないのだ、人生はまだ長い」
 車椅子を押しているのは、女性にしてはかなりの長身の、長い黒髪を持った者だった。表情は冷然とし、どこか冷たい刃を思わせる凛とした風貌である。
「リーシェイ。あなたはよほど私に帰ってきて欲しくないようですね」
「そんな事はない。一刻も早く復帰してくれないかと、日々切願している。あなたは生涯、私の師だ」
「そう。でしたら、復帰の際は遅れた訓練の続きをたっぷりと行なう事にしましょう」
 ミシュアの返答に、リーシェイはやや渋い表情を浮かべる。背後でそんな表情を浮かべたリーシェイに、ミシュアは愉快そうに小さく口元を綻ばせた。
「それにしても、私が入院している間に終結してしまうなんて。蚊帳の外にいる戦士ほどみすぼらしいものはありませんね」
 雪乱と凍姫の抗争が終結したのは、ミシュアが病院に搬送されてから半月後の事だった。その時点ではまだ怪我の度合いが酷かったため、一日に目を覚ましている時間もあまりなかった。終結を実際に知ったのは世間から五日間も遅れてからだった。そのためミシュアは、戦線を離脱せざるを得なかった疎外感をより強く感じていた。完全な不可抗力で、負傷にもミシュア自身の落ち度は何一つない。だからミシュアが責任を感じる必要は何一つとしてないのだが。自分との接点が僅かでもあれば、そこに己の責任の所在を過剰に求めてしまう。ミシュアの性格だった。
「『老兵は死なず、ただ消えゆくのみ』という言葉がある。あまり気に病む必要はない」
「……あなたは何が言いたいのですか?」
 リーシェイはいつも、こういったさも崇高そうな格言らしき言葉を引用して話すものの、その意味する所を理解できる人間はまずいなかった。本人はそれが実にスマートな表現であると考えているようだが、実際の所それらの格言や名言を本当の意味で理解しているかどうかは非常にグレーだ。
「凍姫は今現在どうなっていますか?」
「良好だ」
 ふと問うたミシュアに、リーシェイはそう簡潔に答えた。
「相変わらずのようですね。リーシェイ、あなたはもしかして何か隠していませんか?」
「何も隠してはいない」
「突かれると痛いものがある時、あなたはいつもそう簡潔な口調になります。以前からも、私が問うたびに『良好だ』の一言しか答えていません。本当は何かあるのでしょう?」
 そっと振り返り、にこりと笑うミシュア。その笑顔に、リーシェイは背筋にぞくっと冷たいものが走るのを感じた。ミシュアは自分のように、普段はあまり感情を表情に表したりはしない。そしてこの笑顔を浮かべるのは『ここで意にそぐわなければ武力介入も辞さないほど怒っている』時である。ミシュアは戦闘指南役を務める才女だ。リーシェイもまた戦闘のノウハウは全てミシュアに教えられている。当然、本気で事を交えても戦いになるどころか自分の身の安全すら危うくなるほど実力差はかけ離れているのだ。ただでさえ、現在に至るまでに散々しごかれてきている、植え付けられた恐怖意識は凄まじく、今ではミシュアの眉がぴくりと妙な動きをするだけでびくりと怯えるほどである。
「一つ訊ねるが。食用に飼育されている豚は、自分の行く末を知っているのと知らないのではどちらが幸せだと思う?」
「それは、凍姫でとんでもない事が起きたという意味として捉えて構わないのかしら?」
 こくり、と躊躇いがちに肯くリーシェイ。するとミシュアは、はぁ、と大きく溜息をついた。
「どうして私に隠していたのです?」
「隠していたのはここ最近だ。以前は誓って何も隠してはいない。それに隠したのは、傷の経過に悪影響を及ぼすと思ったからだ。私なりの配慮だったのだが」
「心労は蓄積するよりも一括で食らう方が遥かに強烈です。で、何が起こったのです?」
 今更、心労の種が一つ二つ増えた所であたふたと浮き足立つほど自分は軽くはない。それに、こういった面倒事は頭目のお陰で慣れてしまっている。気持ちの上で受け入れ態勢が整っているのであれば、後は傷口が深くなる前に対処方法を考えるだけだ。
 と。
「三つ、とんでもない事が起こった」
 リーシェイは普段の淡白とも取れる冷静な口調でそう答えた。
「三つも……?」
 ミシュアは厄介事は一つだけだと思っていたため、さすがに額から眉の間にかけて深い皺を寄せた。
「大丈夫か?」
「いえ、問題はありません」
「そうか。ではまず軽い方から話そう。起こった順番も同じだからな」
 自分の知らぬ間に、凍姫で一体どんな事が起こったというのか。不安にならない訳はなく、ミシュアは再び額の奥に腐った果物を擁するような日常へ戻されつつある事を感じた。軽い眩暈を感じる。それは心理的なストレスによるものだが、これを味わうのも随分と久しぶりだった。
「一つ。頭目が雪乱頭目のルテラと同棲を始めた。その際、ルテラは頭目を辞めた」
 同棲。
 ミシュアは少なからずショックを受けはしたが、凍姫頭目スファイルとルテラが親密な交際を行なっていたのは、直接見舞いに来た本人から聞いて知っていたため、大した心理的な打撃は受けなかった。いつかはそうなってもおかしくはないだろうが、それよりも。ルテラが頭目を辞めたという事の方が気になる。公式的には雪乱との抗争は和解決着だったが、実質的には凍姫側の勝利だったのだ。ルテラが雪乱内部で敗北した事の責任を取らされたのかもしれない。
 この程度なら、まだ大した事はない。そうミシュアは一度は安堵するものの、すぐに残り二つがこれよりも遥かに重大な事件である事を思い出し、緩みかけた気持ちを引き締め直す。緩んでいる時の精神的打撃は思ったよりも大きい事があるのだから。
「二つ。その数日後、頭目が凍姫を辞めて守星になった」
「辞めた!? それはつまり―――」
「そうだ。もう、彼は凍姫の人間ではない」
 なんてことでしょう……。
 リーシェイの口から飛び出した、驚くな、と言う方が無理なほどの十分なインパクトを備えた言葉に、ミシュアはつい裏返りかけた驚愕の声を上げてしまった。しかし、すぐさま生来の気質が持つ精神力を動員して騒ぎ出した理性を落ち着け、事態の理解と対処手段について思慮を始める。
 頭目を辞めたという事は、これまでに度々あった無断失踪の類ではなく、規定の手続きを踏んだ上で正式に辞職を北斗総括部に認可了承されたという事だ。通常、頭目に就任するには総合的な力量を総括部に審査されるか、前頭目から指名を受けなければならない。どれだけ努力を重ねても、選ばれるのはたったの一人。それほど頭目就任は困難なものだ。その重い重い頭目という立場をあっさりと捨てられるのは彼らしいが、その安易さが招く混乱を微塵も考えていない所もまた彼らしい。無論、悪い意味でだ。
 今頃きっと、突然頭目を失った凍姫は酷く混乱している事だろう。新任の頭目では、業務処理に慣れるまで最低でも三ヶ月はかかる。組織の頭が変われば、混乱するのは下の人間だ。これまでに敷かれていた組織体制がそのまま移行できればいいが、それはほぼあり得ない。定着するまでは、体制の優劣に関わらずある程度の時間を要する。
「三つ。これはかなりきついが、覚悟は出来たか?」
 明らかにぎくしゃくとおかしな反応を始めたミシュアを気遣うように、リーシェイは淡々としていながらも様子を見つつ言葉の進行を調整する。
「……正直、あまり気は進みませんが。聞くべきでしょうから話して下さい」
「そうか」
 ミシュアは、まるで死地に赴くかのような悲痛な覚悟を決めた強い表情を浮かべ、意識をぎゅっと引き締める。頭目が辞めてしまった、という事実を知らされ、自分の中でこれまでの当たり前が崩れていく変化についていけない部分が悲鳴を上げている。今、これ以上の衝撃を受けてしまったら、しばらく頭がショックで混乱してしまうかもしれない。自分の統制力に自信がなくなっていた。ここしばらくの間、凍姫との関係が疎遠になっただけで、自分がストレスに対して脆弱になっている。ミシュアはかつての自分の忍耐力を取り戻す意味でも、あえてその難題にぶつかっていく覚悟を決める。
 そして、ゆっくりリーシェイは口を開いた。
「新しい頭目は、非常に由々しき事態だが、ファルティアが選ばれた」



TO BE CONTINUED...