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「え? 長くないって……」
 それが何を意味する言葉なのか。
 瞬時に理解出来ない訳ではなかった。ただ、それを口にする事が躊躇われた。本当に安易な相槌を打って良いものか。その瞬時の判断に俺は苦しんだ。
 けれど、ゾラスはそんな俺の気持ちをことごとく酌んでいるらしく、自分から助け舟を俺の方へ出してくれた。
「私は末期の癌を患っているのだよ。今じゃもう一日に一回、必ずモルヒネを打たなければ生きていけない。そんなもの、ただの気休めでしかないがね。どんな治療法も及ばないほど、悪化しているのじゃ。つまり、何をしても同じというのはそういう意味なんだよ」
 癌。
 今の医学では確実な治療手段は一切存在しない、かかったその時点で限りなく死と同義になる病気だ。治療手段も分からなければ、予防手段も発祥の理屈も解明されていない不治の病。
 俺の認識はそんなところで、実際にはどんな症状が出るのか知らなかった。
 まさかその症状がこれほどの苦しみを伴うものだなんて。
 ゾラスの自嘲めいた口調に、俺は返す言葉が見つからない。
「もう末期でな。それなりに治療手段は無くも無いだろうが、ここまで来ると見込みすらない。だからこうしてモルヒネを使い、せめて痛みだけでも取り除いているのじゃよ」
 はあ。
 そんな気の無い言葉が俺の口をついた。
 まるで俺と逆だ。そう思った。
 俺は痛みを感じる事が出来ない体だから、その感覚を取り戻そうと治療を続けている。けどゾラスは逆に、その痛みを取り除く事が唯一残された治療法だ。俺にはまだ先が見えているから希望も抱ける。けれどゾラスの治療法は、言うなればただの誤魔化しにしか過ぎない。ゾラスもその事に気がついているからこそ、口調も自虐的なのだ。
 救われない。
 俺はそう思った。
 生きてこそ、先に希望が見出せてこそ、病気に対する治療にも前向きに立ち向かえる。少なくとも俺はそうだ。ちゃんとした体に戻って生きたいから、どんなに憂鬱な治療にも地道に取り組んでいる。
 でも、ゾラスにはそれがない。完治、というゴールが無いのだ。あるのは死という本当の意味での暗い終わりだけだ。
 そこにどんな意味がある?
 死ぬために前進するなんて馬鹿げてる。前進は生きるためにするものじゃないか。なのに、ゾラスは一つも絶望していない。そんな自分の悲運さえ、まるであらかじめ予測していた事のように淡々と受け入れている。生きる事に執着がない訳ではない。ただ、本当の意味であるがままに生きているんだと思う。
 死すらも現実の一つとして受け入れられる。
 それもある意味では強さなのかもしれないが、こんな悲痛な強さ、見ているだけでも自分の事のように辛く思えて仕方が無かった。
 必ず訪れる死を、出来る限り先送りにする生き方は辛くはないのだろうか? もっと、他に何か根本的な解決を探そうとはしないのだろうか? 俺だったら絶対に最後まで悪あがきをすると思う。
 けど、あえて回避できない死を自分から受け入れるのも一つの生き方なのかもしれない。
 死に対して前向きに立ち向かう。
 そういう意味では、悪あがきするのも真っ向から退治するのも変わらないのかもしれない。
「あの……あと、どれぐらい……とか訊いてもいいでしょうか?」
 そう俺は恐る恐る抑えた声で訊ねてみた。
 驚きと悲しみと、そして何故か強い興味が湧き上がっていた。なんて不謹慎な感情なのだろうか、と自分を殴りたい気分になった。けれど、俺は彼の事が知りたくてたまらなかった。たとえ下世話な好奇心でも、ゾラスが今どんな状況に置かれているのかを少しでも理解したかったのだ。
「さてのう。いつも、今日は生き抜けるだろうか、と考えながら生きているが。人間、死に際が見えると、意外にも長生きするものでな」
 ゾラスはさも自分が、未だに生きている事が愉快でたまらないかのような笑みを浮かべ笑った。
 俺は、無理にその笑みに合わせようとして失敗し、ぎこちなく不自然極まりない表情を作ってしまった。慌てて修正しようとはするけれど、咄嗟の判断で感情と異なる表情を作ることは出来なかった。
「それでも、せめて死ぬ前には果たしておきたい事があっての。残された時間は決して長くは無い。けれど、死ぬ前に私はやっておかなければならない事があるんじゃ」
「やらなくてはいけない事?」
「復讐、だ」
 ひやりと背筋に冷たいものが走る恐ろしい言葉。
 それでもゾラスの表情は穏やかなままで。かえってそのギャップが俺には怖く思えた。どうしてこれほど優しい顔が出来る人が、こんな恐ろしい事が言えるんだろう。きっと何かを聞き違えたんだ。そう思わずにはいられなかった。
 一体、何に対してどう復讐を?
 またもや俺はそんな疑問がありありと浮かんだ表情をしてしまっていたらしく、ゾラスは微笑みつつ自分から口を開いた。
「私の孫は、同朋に殺されたんじゃよ。修羅のあいつらに」
 殺された?
 俺はそう聞いた自分の耳を疑わずにはいられなかった。
「けど、北斗の人間は……」
 北斗の人間は、街に住む一般人とその生活を守るために戦う。その規則は極めて厳しく厳守させられ、意識の無い人間は半端な力をつけた不穏分子として街から追放される。北斗足り得ない人間の居場所なんて、この北斗には戦闘解放区を除き存在しない。ましてや、北斗の人間が一般人に手を出し、殺してしまうなんて。絶対にあってはならない事だ。
 けれど、絶対にあってはならない事とは、絶対に有り得ない事と同義ではない。北斗の人間が皆、この高尚な思想を持って戦っているとは限らないのが現実であり、俺もそれが理解できないほど子供じゃない。だがそれを考慮しても、圧倒的に力が劣る一般人を殺す理由なんて、そう幾つもあるものではないはずだ。
 疑うべきは、そういう人間を同じ北斗内に居る事を許す、その流派の神経だ。それとも、ヨツンヘイム最強となった今、組織として肥大し過ぎた北斗は末端まで明確に把握し管理し切れないせいなのか。
 そもそも、北斗どうこう関係なく、勝てると分かりきった相手に対し、死に至らせるほどの事を平気で出来る人間が居る事自体が異常なのだ。感情を理由にして殺せる生き物は人間だけ。正直、そういう人間は一人残らず自分の周囲から消えてもらいたいと思う。
「あいつらは北斗に来る前、山賊に身をやつしていた。そこをたまたま縁があってな。私が更生させる意味で引き取ったのだよ。今思うと、そのおせっかいがそもそもの元凶だったのかもしれんのう……」
 懐かしむように目を細めるゾラス。
「私は当時、『修羅』の戦闘指南役でな。戦いのいろはを徹底的に叩き込んだ。若さだけでなく才能もあったのだろう、私が打てば打っただけ強くなっていったよ。日々上達していくその姿を見るのが、いつしか楽しみになっていたよ。体が鍛えられれば心も鍛えられる。そうすれば二度と山賊のような卑しい真似をせず、また力の無い人へも慈しみを持って接する事が出来るようになる。皆、熱心に訓練に取り組んでくれるのは、私のそんな熱意に応えてくれているからだと思っていた。しかし、実は心の内であんな事を考えていたなんてな……」
 それはつまり。
 ゾラスの訓練に耐えていたのは、かつて自分達が味わわされた屈辱を雪ぐために力をつけるためだったのだ。体だけでなく心も鍛えるための厳しい訓練も気持ちが同じ方向を向いていなければ、体は鍛えられたかもしれないが心には恨みの念が積み重なっていくだけだろう。
 彼らの復讐とは一体どんなものだったのだろうか?
 さすがにそれについては、訊ねてみようなんて気も湧かなかった。
 何となく想像はついた。ゾラスの孫娘が殺されたという事実と、そして指の欠けた右手。
 しかも、何か汚い裏工作もしていたのだろう。ゾラスは『修羅』の人間でなくなり、彼らは当たり前のように制服を身につけている。
 ゾラスを囲みいたぶっていたあの五人が、まさかかつての教え子だったなんて。
 同じ構図を俺に当てはめると、俺の師匠はレジェイドになる。レジェイドはいつもすぐ俺の事を、子供だ子供だ、と馬鹿にするので、感情のままに手や足を上げる事は日常茶飯事だった。一度として有効打を与えた事はないけれど、それでも俺は一回たりとも憎しみのように真っ黒な気持ちを抱いた事はない。むしろ今の自分があるのは、レジェイドが俺を鍛えてくれたからだ。死んでも真っ向から口にはしたくないけれど、感謝の気持ちしか見つからない。
 自分とのギャップが激し過ぎたせいだろうか、俺はあの五人の気持ちがまるで分からなかった。
 ゾラスは彼らのためを思って山賊から足を洗わせ、北斗として生きる道を与えてあげたのに。そういう残虐な復讐を持って恩を返すなんて。
 それほどの目に遭っていながら穏やかな表情が出来るゾラスを、俺は強い人間だと思った。きっと、過ぎた事にいつまでもこだわっていてもしょうがない、と消化しているんだと思う。けど理屈だけでは納得できない感情の問題があるから、死を目前に控えたゾラスは復讐という道をあえて選択したのかもしれない。
「つまらない、老いぼれの昔話を聞かせてしまったようじゃの」
「い、いえ、そんな事は……」
 どんな顔をしていいのか分からなかった。
 哀れむにしても、俺は事情を知らなさ過ぎる。
 復讐はよくない、と助言するにも俺は人生経験がなさ過ぎる。
 ただただ、見ているしか出来なかった。
 俺が深く入り込めるような余地がゾラスにはない。
 自分の死を覚悟してまで決めた選択を、揺らぎ覆せるほど俺は強くない。



TO BE CONTINUED...