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この技は!?
自分の知る六合拳は、そのほとんどが手技で構成された武術だ。そのためリーシェイは、いつの間にか『シャルトの攻撃は手技のみである』という先入観を持ってしまっていた。
いや、もしかするとこの先入観は持たせられたものなのかもしれない。全てはこの一撃、必殺の威力を持つのであろう足技への布石だった。そう考えると、これまでのシャルトの立ち回りが実に効率の良い攻め方だった事に気がつける。単なる布石のための技ならば、リスクも自然と抑えられるであろう。それでいて、一瞬でも気を抜けばたちまち勝負がつくほどの威力を持っているのだ、なんとも巧妙で繊細な戦術だ。
まさかシャルトがこれほど戦術に長けていようとは。
だがその驚きも長くは続かなかった。まるで槍衾の大槍のように、空気の壁を抉りながら突き進んでくるシャルトの蹴り。建物の壁を砂に変えてしまったあの握拳の威力を利用して体を捩り、その螺旋運動を体が一回転する間に右足へ収束し、一気に放つその前蹴りの威力は想像に難くない。
シャルトは生まれ持って強靭な足腰があった。北斗に来て更に研ぎ澄まされたシャルトの脚力は、突風のような速さで駆け抜け、羽のように軽く跳び上がる事を可能とした。
強靭かつしなやかさの失われていないその両脚。これまでその機動性ばかりに着目していたが、それを可能とする脚力を足技に転換すればどれだけの威力が生み出されるのか。
どうしてこんな簡単な事に気がつけなかったのだろう。単純にも、足技の威力は手技の比ではない。強靭な脚力を持つシャルトだからこそ尚更、足技による奥の手を最後の最後まで残しておくのはごく自然な事なのに。
避けられない。
タイミング、速度共に申し分無かったが、それ以上に自分の初動が遅過ぎた。
あれは騎馬ごと突き貫く大槍と同じだ。この突進力を前に立ちはだかるのは愚の骨頂である。防ぐよりもかわす事の方が遥かに確実でリスクが少ない。なのに、それが出来ない。タイミングを逸した体では、思い通りに動かす事すらままならないのだ。
かくなる上は……!
リーシェイは覚悟を決めると、両足を肩幅ほどに開いて重心を低く落とすと、肘を曲げた左腕を前方へ縦に構え、手のひらを広げて見せる。右腕はその左腕の手首付近へ補助的な形で添えられた。更に、その手のひらを中心に出来る限り厚く強固な障壁を展開した。
敵の攻撃を真っ向から受け止める事は、数ある防御手段の中で最も愚かな方法だ。相手の攻撃に必ずしも耐えられる保証などどこにもなく、たとえ受け止める事が出来たとしても相手にしてみれば自ら攻撃を迎え入れてもらったのだから、その後も機先を制しやすい状況となる。更に、相手の術式が直に触れてこそ威力を発揮する罠的な性質を持っていたり、概して致死性の高い隠し武器を仕込んでいる場合もある。
シャルトは精霊術法は使えず、ましてや暗器など持っているはずがない。
これもまた、まんまと植え付けられた先入観ではないのだろうか。不安はあったが、もう、他に選択肢は残されてはいない。後は信じ、受け入れるしか無い。己の勝利と、これからの行く末を。
ッ!
繰り出された削岩機のようなシャルトの蹴りを、リーシェイは多重構造の障壁を展開した左手の手のひらで受けた。だが、何重にも立ち塞がる障壁をシャルトの蹴りはいともたやすく突き抜けていった。シャルトにとってリーシェイの多重障壁は、無い分に越した事は無い程度の些細な抵抗でしかなかった。浅瀬を泳ぐ魚を銛で射貫くようなものだ。
そして、リーシェイは自分の左腕が軋む音を聞いた。
はっと息を飲んだ瞬間から、後はまさに流れる滝上から滝壺へ叩きつけられるように時間が進んだ。
シャルトの蹴りが最後の捻りを伸ばし切ると、全ての威力がリーシェイの左腕を突き抜けて行った。それは支えていたはずの右腕が弾き飛ばされるほどで、痛みなど感じる暇も無く、ただ煮えたぎった熱湯が腕の中を通過して行ったような感触だった。
左腕から振り回されるように、やや不規則な捩れを受けながらリーシェイの体が吹き飛んだ。
宙に投げ出された視界が、赤い飛沫が飛び散る様を捉える。精霊術法の恩恵で、その飛沫の一つ一つが揺れ動く様を正確に見ることが出来た。長閑ささえ感じるその光景。しかし一呼吸後、強かに打ち付けた背中の痛みが戦場の殺伐とした埃臭い空気を思い出させる。
「くっ……」
体が軋むように痛む。
しかしリーシェイは反射的に石畳を蹴って跳び起きた。戦場で染み付いた戦士としての癖である。長く横たわる事は、そのまま相手に無防備な姿を長く晒すことに繋がるのだ。
腕は……まだあるのか?
打たれたのは左腕だったにも拘わらず、何故か痛みは背中ばかりから伝わってきた。そもそも、左腕の感覚が無い。それで思わずそんなことをリーシェイは思ってしまったのである。
おそるおそる視線を左腕に向けるリーシェイ。
すると、そこにはまだ完全な形で左腕は残っていた。しかし、その姿は思わず笑ってしまいそうな凄惨なものだった。
肘よりもやや手前から、折れた骨の先が腕を突き破っていた。指は幾本か折れ曲がり、手首も若干位置がおかしい。挙句の果てには、肩から先がどんなに力を込めても上がらなかった。
あっても動かすことが出来なければ意味はない。もはやただぶら下がっているだけのものでしかなくなった事を、リーシェイは認識するしかなかった。あの攻撃を真っ向から受けてこの程度で済んだのだ、むしろその幸運を喜ぶべきなのかもしれない。
さて、どうやってシャルトに勝つ? 今の自分には一体何が残されている?
疲労困憊し、左腕も負傷した自分には機動力も接近戦での武術もない。人間離れした機動力と完成された格闘術を持つシャルトに、どう立ち回れば勝利を手にする事が出来るのか。
絶望的だった。
もう勝敗は決したと見てもおかしくはないほどの構図だ。
ここから先はただの悪あがきと評されるのが妥当な線か。
けれど、リーシェイは退くことが出来なかった。如何にすれば勝つことが出来るのか、どうすれば勝てるのか、という呪縛めいた妄執が胸の中にこびりついて離れないのである。
何故、自分は勝利にかくも固執する?
勝つことは守ること。守り切るには勝ち続けるしかない。その、現実的な北斗の論理は分かる。だが、今の自分は何を守っているのだろう? なんのために戦うのだ?
本当ならば、すぐに答えられるような安い質問ではない。しかし、北斗の改革、大恩あるファルティアさんのため、とまるで予め用意でもされていたかのように答えは出てきた。その呆気無さが、より自らへの疑惑を深める。
と。
「リーシェイ、もうやめよう」
不意にシャルトはそんな言葉を放った。
シャルトは構えを解いていた。表情からも剥き出しだった闘争心が消え失せ、どこか悲壮めいたものが浮かんでいた。
「俺はもう戦いたくない。このまま夜叉に行って手当をしてもらおう?」
何を甘いことを言っているのか。
幾ら顔見知りとて、戦場の敵にあっさりと心を許すのは愚か者のする事だ。
侮蔑の一つでも返してやりたかったが、何故かリーシェイはその言葉が不快では無かった。渇いた喉が不意に冷たい泉を見つけたかのように、強く求める自分の姿がそこにはあった。
躊躇うことは無い。
そう、思い出した。自分はこの少年を知っている。そして親しかったのだ。稀に見る純粋さに興味を曳かれ、無理やり抱擁したり、唇を奪ったり、その反応を楽しんでいたのだ。
光が見えた。
そうリーシェイは思った。
まるで長い間閉じ込められていた真っ暗な洞窟の底から一気に這い出したように、全ての迷いや疑問が晴れ、ぱっと目の前が開けて行くようだった。
そう、自分はこんな事で戦うような人間ではない。
やめよう。彼に、シャルトに従おう。
「ああ……私は」
言う通りにする。
その言葉を口にしかけたその時だった。
「っ!?」
突然、言い知れぬものが自分の中に広がっていった。
それは、例えるならば決して晴れない闇のようなものだった。その闇は己の血を沸き上がらせ、激情のままに血腥い無我の境地へと連れて行く。
純粋で、果てしない、殺気だった。
なんだこれは!? 私の中に何が!?
他ならぬ自分自身の感情の推移であるはずなのに、リーシェイは酷く動揺した。まさかこれほどの激しい感情が、何の前触れも無く湧き上がるほど自分の情緒は不安定なものではない。そもそも、戦意を失った自分に何故殺意が目覚めるのか。理屈に合わないではないか。
しかし、幾ら理屈に合わなくとも、ドス黒い殺意が芽生えているのは事実だった。
理由など無かった。ただそこに、漠然と殺意があるのである。
殺意に促されるまま、リーシェイは右手に氷の針を体現化する。その一方で、そんな自分の動作を制止する自分もいる。
どうなっているのだ。
止まれ! とにかく、今は止まれ!
だが、そんな叫びもその闇は圧倒的な深遠を持って飲み込んでしまう。巨大な巨大な、殺意の化け物だ。
ふとリーシェイは思った。
感情を第三者に植え付けられるのは、決して不可能ではない。事実、特定の事象に対して同時に不快感を与えると、その事象に遭遇しただけで不愉快な気持ちになる、という学術的な実験結果がある。少なくとも怒りという感情は、第三者によって作る事が出来るのだ。
しかし、自分はそんなものを受けた記憶は無い。
無いのだが。
言い切るにはあまりに霧がかかっている。深い霧が。
何か常識離れしたものに自分のあらゆる自由が絡め取られている。まるでもう一人の自分を植え付けられたかのようだ。
自我から隔離された体は、既に次の行動を取っていた。しかも、物理的に可能な限りの手段を取り尽くすクレバーな戦闘だ。
リーシェイの右腕は体現化した針を前触れ無く撃ち放った。
それはシャルトに向けて放たれたものではなかった。針の向かう先には、気を失ったまま横たわるリュネスの姿が。
「何ッ!?」
シャルトの表情が驚愕に歪む。
何故、リーシェイが何の躊躇いも無くリュネスに向かって攻撃出来るのか。
だが今重要なのはそんな事じゃない。
間に合うか。いや、間に合わせる。
シャルトは猛然と駆け出す。しかし、まるでそれを待っていたかのように、リーシェイはその後を追走した。
TO BE CONTINUED...