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「くっ……」
 横臥するレジェイドに浴びせた渾身の一撃。
 如何な状況でも余裕を無くさない事が信条であるレジェイドの表情を苦痛一色に染め抜いたミシュアは、己の表情に僅かな疲労の色を浮かべていた。
 レジェイドは頭からおびただしい量の血を流し、閉じているとも伏せているともつかないまぶたを一向に揺るがす気配がない。ただ、まだ彼が生きている事を証明するかのように、ひゅうひゅうとやや音の高い呼吸が断続している。
 並の神経しか持ち合わせていないならば、まず目を覆いたくなるようなその光景に、ゆっくりと立ち上がるミシュアの姿は紛れも無くこの戦いの勝者であるかのように映る。しかし、勝者と呼ぶにはあまりに余裕が感じられなかった。
 ミシュアは急にバランスを崩したかと思うと、よたよたと弱々しく二歩程後退し、がっくりと姿勢を崩してその場に膝をついた。すぐに立ち上がろうとするも、膝が笑ってなかなか思うようにはならなかった。乱れた呼吸は一向に回復の兆しを見せず、尚も少しでも早くスタミナを回復させようと、全力疾走しているかのようなハイペースで酸素を取り込み続ける。
 ミシュアには、かつてこの北斗で起こっていた流派『凍姫』と流派『雪乱』が起こしていた『凍雪騒乱』の際に負った大怪我の後遺症があった。それは主に呼吸器系等に作用し、人よりも全力で運動出来る時間が少ないというものだ。
 この件がミシュアに引退を決意させたのだが、半年程前にミシュアは再び凍姫の戦闘指南役に復帰した。危惧されていた持続力の低下も、驚くことに極めて現役当時と同等かそれ以上にまで回復していた。理由は今も持って不明らしいが、おそらくは何らかの切っ掛けで体の治癒能力が刺激されたため、と考えるのが妥当な筋だろう。おかげでミシュアは、各員に戦闘指南役としても敏腕だった己の腕を存分に奮っていた。
 これらから推測するに、今のミシュアの困憊した様子は、大怪我の後遺症によるものとは考えられない。たった十数分間で体力が途切れるような事など、周囲以上に自分に厳しいミシュアには有り得るはずがないのだ。
 ただ単純に、ダメージを受け過ぎた。
 そう考えるのが誰にもごく自然に受けられた。ミシュアはファルティアに代わって流派『凍姫』の頭目になるものと思われていたほどの才女。そんな彼女がこれほどまで痛め付けられるのは、他ならぬレジェイドの実力がそれほどずば抜けているという事だ。
 しかし雌雄は決された。勝者はつい先ほどまで立っていた人間の方だ。
 誰の目にもそれは明らかに思われた。石畳に頭から叩きつけられ、折られた肋骨を更に打たれて、まともでいられる人間など常識で存在するはずがない。だが、その常識こそが最も戦場では危険な考え方だ。固定観念は危機意識を低下させ、次なる行動へと出るタイミングを失わせる。
 不意にレジェイドの目が見開き力が戻った。
 これまでさながら死人のようにぐったりとしていた四肢が、急激に跳ねるような脈動感に溢れる。どうにか離さずに携えていただけの大剣の柄を強く右手が握り締め、右腕の筋肉が張り詰めた。
「うらあっ!」
 レジェイドは寝たままの姿勢から、ミシュアに目がけて鋭く大剣を打ち込んだ。けれどミシュアは予めそれを予測していたのだろうか、紙一重のところで体を横転させて剣をかわす。レジェイドはかわされた剣の反動を利用して素早く立ち上がった。
「全く……やってくれるぜ。戦場で気を失ったのは久しぶりだ」
 口調こそおどけた苦笑いでも似合いそうな軽いものだったが、その姿は頭から流れ出る血液に顔を真っ赤に染めた、実に凄惨たるものだった。ほんの何気ない仕草も、血の赤化粧が息を飲むほどの異様な雰囲気を醸し出す。
 一方のミシュアも、相変わらずにこりとも表情を変えなかったが余裕の無さはレジェイドと同様であった。足の甲からは未だに血が溢れるように流れ続け、顔色が青褪めているようにも見て取れる。さすがに芯は強く、毅然とした態度は崩さなかったが、それよりも先に血の方が流れ出尽くしてしまいそうである。
 満身創痍の二人。
 しかし、レジェイドは一度ぶんと大剣を振り回してから上段に、ミシュアは拾い上げた剣の柄を正眼に構えた後、吹雪の剣身を再び体現化する。どちらにも戦闘を放棄する意思は微塵も見て取れなかった。ただ、相手よりも先に倒れる訳にはいかない。そんな、戦士としての誇り、もしくは意地が感じられた。
 ミシュアが傀儡となっていないためか、どこか二人の戦いはこれほど血みどろで過酷さを極めていながらも、崇高さを失ってはいなかった。反逆者の討伐、と言うよりも、戦士同士の純粋な果し合いのように感じられる。
 血に染まった顔に二つ、カッと見開いた輝きの尽きない目が目の前のミシュアを見据える。反対に、さながら研ぎ澄まされた刃の如く静かに、それでいて息もつかせぬような圧迫感を放つのがミシュアだった。
 二人は互いしか見えていなかった。それは逢引にも似ている。ただ、文字通りどちらかを貪り尽くすまでは終わらない、という一点だけを除いて。
「実を言うとな、後一回って所だ。それ以上は息が続きそうにない」
「私も似たようなものです。ならば、次で決着をつけましょうか」
「そうだな。どっちが勝とうとも恨みっこ無しだ」
 短い会話の後、再び二人は修羅の世界へ足を踏み入れる。相手を斃すことにどれだけ集中出来るか、達人同士の戦いはただその一点に集約される。
 人はこれほど機械的に相手を殺す事を考えられるのか。
 疑問を持った時点で、戦士としての資質は半分も欠ける。戦いとはそうなる前提に成り立つ、徹底した現実主義の衝突なのだ。
 限りなく純水に近い殺意を汲み上げ、考え得るありとあらゆる手を想定し、模索する。それがどれだけ相手よりも多く複雑に出来たのか、達人域の戦闘は刃を交える前から既に戦いは始まるものだ。
 そして。
 突然、一陣の生温い南風が通った。次の瞬間、二人はこの風を合図にほぼ同時に踏み込んでいた。
 機先を制したのはレジェイドだった。ミシュアは先ほどレジェイドに穿たれた右足の怪我がこの出遅れに大きく影響を及ぼしている。たとえ前に出ることが出来ても、その突進力はレジェイドに遠く及ばない。
 レジェイドは大剣を横に寝かせ、右から左へ大きく薙ぎ払った。だがそれは、ミシュアに届く寸分先を掠めるだけに留められた。あくまで牽制的な意味の太刀だったからである。だが、大火の炎すらも吹き飛ばしてしまうほどの豪胆さに満ちたレジェイドの剣が目の前を通過したにも拘わらず、ミシュアは怯むどころか瞬き一つしない。自分の見切りに絶対の自信を持っているからだ。
 続けてレジェイドは鋭い突きを見舞う。まだ最初の踏み込みが生み出した勢いは収まっておらず、二段目の加速を付加された大剣は光のような速さでミシュアを狙う。
 しかし、ミシュアは冷静だった。すっと左手を持ち上げると、繰り出された大剣の腹を自らに届く寸前で優しく軌道をずらしてしまった。単方向の力は交差する力に弱いという力学のセオリーを体現してしまったのである。口で言うのは優しいが、正確な見切りは元より力の加減を僅かでも違えれば、まともに剣を受けてしまう事になる。幾らレジェイドの大剣が精霊術法を無効してしまうからとはいえ、実に神懸かった妙技を単なる防御の一手段として繰り出す当たりはミシュアの技術の高さが伺える。
 レジェイドの懐に入り込んだ。
 ミシュアは低く構えていた吹雪の剣を、さながら燕が獲物を捕えるが如く、鋭角に突き上げる太刀筋でレジェイドの喉へ目がけて繰り出す。
 レジェイドは止まらずも、強引に姿勢を切り返し、寸出の所でその突きをかわす。しかしそれた剣はレジェイドの肩先の肉を僅かに小削ぎ取っていく。
 剣をかわしきった事を確認するや否や、レジェイドは左手でミシュアの胸倉を掴む。そして強引に体を持ち上げ、引きずり回すように遠心力をつけて放り投げた。大きく後方へ飛ばされたミシュアは何とか姿勢を整えて着地するも、穿たれた右足が予想以上に負荷に耐え切れず、ぐらりと体がよろめいた。すぐさま立ち上がろうと力を込める。だが右足は痺れたまま言うことを聞いてくれない。
 どちらにもはっきりと分かった好機、そして致命的な隙だった。
 レジェイドは軋む体を押し、最後の力で真っすぐ踏み込んで行く。大剣は上段、レジェイドにとって最も筋肉が力を発揮しやすく重力の恩恵も受けられる型だ。
 ミシュアは覚悟を決めた。
 体格とリーチで劣る自分は、素早さと手数で押し切る事にしか勝機は無かった。しかし、行動の基本になるはずの下半身がこれでは、牙も翼ももがれたも同然である。
 ならば、せめて相討ちに縺れ込ませる。
 死の覚悟を決められても、一方的な敗北だけは戦士としての誇りが許さなかった。一太刀も浴びせられず死ぬ事ほど、剣士として無様なものはない。相手に何のリスクも負わせず差し上げるほど、戦士の命は安くはないのだ。
 目の前でレジェイドが踏み込み様に上段に構えた大剣を自分に目がけて振り下ろす。人の体は愚か、大木や猛獣ですらも易々と両断してしまうだろう。
 息も止まるような緊張感。
 ミシュアは一切の保身的行動を放棄し、吹雪の剣を左手に持ち替える。そしてレジェイドの剣に合わせ、左足を限界まで延ばし体を持ち上げた。右足が言うことを聞かなかったが、僅かに得られた高さがミシュアの剣をレジェイドに致命傷を与えられるだけの高さまで押しやった。
 レジェイドが振り下ろすと同時に、引手を逆にした振り抜きの動作で横薙の剣を放つ。狙うは落とし損ねたレジェイドの首だ。
 打ち込みの威力では確実に負ける。だが、決して鋭さでは引けを取らない。首の一つ落とす程度の威力はまだ持続出来ている。威力は術式で作り出す。重量で叩き潰すか、吹雪の刃で両断するのか、それだけの違いだ。
 威力、速さ、共に互角の剣だった。
 二人は互いに死を覚悟した。逃げる事は二人程の実力者にとって、技術的にはそう困難な事ではなかった。しかし、実力者だからこそ逃げる事は出来なかった。命よりも大事な戦士としての誇りが今日までの自分を生み出し、支えてきたのだ。誇りに反する行為は身を引き裂かれるよりも苦痛なのだ。
 勝利よりも、敗北よりも、ただ最後の瞬間まで戦う姿勢を貫き通す事こそが最も重要なのだ。それが戦士としての誇り、己が腕へのプライドである。
 閃光の如く交差する二人の剣。互いの首と首とを狙って走る刃は、獲物を捉えにかかる肉食獣のようだった。
 加速する刃。それが互いの首に目掛けて吸い込まれていく。



TO BE CONTINUED...