BACK
ただひたすら、リュネスは走った。
体が熱く、首を締められているかのように息が苦しい。一足踏み出すごとに膝は笑い、足の筋肉は今にも張り裂けそうなほど硬く張り詰め軋んでいる。
これ以上走り続けるのは限界だ。立ち止まろう。
何度そう思ったのか、数えていたらきりがない。そんな甘えた考えが頭に浮かぶたびに、北斗が今置かれている状況と自分がしなくてはならない事を反復して、もう二度と甘い考えを抱かぬよう自分を叱咤した。
北斗派と反逆派との戦争が始まり、民間人の気配が全く消え失せてしまった市街区。現在、流派『凍姫』と流派『烈火』、流派『悲竜』、流派『修羅』と流派『夜叉』と流派『雪乱』が共に交戦中である。流派『幻舞』は内部対立が起こり命令系統に崩れが生じたため立往生、流派『逆宵』は北斗派であるものの連絡が途絶えたまま行方が知れず、そして流派『白鳳』はどちらにつく意思も明確に見せていない。
今も血で血を洗う壮絶な戦いがどこかで繰り広げられている。大勢の人間が、自分の持つ全ての力と出来る限りの手段を尽くして、昨日までは同胞だった相手と命の獲り合いをしているのだ。けれど、今リュネスの耳に聞こえてくるのは短い間隔で切れる自分の呼吸と、石畳を蹴る足音だけだった。
北斗同士の戦争であるため戦闘は戦闘解放区に限定されず、街中のいたるところが戦場となっていた。しかしリュネスはその戦場から離れた場所を走っている。そのため、周囲は驚くほど静かだった。
リュネスが向かっているのは、流派『夜叉』の本部だった。
目的は一つ、自身が所属する流派『凍姫』は何者かによって意思を奪い取られ操られている事を、自分が親しい者が所属する流派『夜叉』に伝える事。
しかし、流派『夜叉』は既に本部を離れ、現在は雪乱と共に交戦中である。リュネスはその事実を知らなかった。戦況の移り変わりが激しいこの状況で、単独行動を長く取り過ぎたのが原因である。このまま凍姫の行動を黙認する事も出来ない、というリュネスの判断は実に北斗らしい。その意思が皮肉な結果を招いてしまったのである。
「あ……」
その時、ふと耳に聞こえてきたその音にリュネスは立ち止まった。
それは今居る場所からさして遠くは無い所から聞こえてくる、大群の喧騒だった。
まさかこんな所でも戦闘が起こってしまったのだろうか?
すぐさまリュネスは迂回するルートを考えた。しかし、どこまでが戦闘区域となっているのかを考えると、今ここで下手に回り道をする事は夜叉本部への到着が大幅に遅れてしまう事になる。北斗の街は碁盤の目のように一定の定められた間隔で正確に作られているため、死角となる部分が普通の街並に比べて非常に少ない。回り道をするならば、予想戦闘区域を大きく離れて行かなければならないのだ。そして、今はそんな悠長な事をしている暇は無い。そもそも、あるならばこれほどやっきになって走り続けるような事はしない。
あまり気は進まないけれど、仕方が無い。出来るだけ近づき、そして一気に突き抜けよう。見つからなければそれでよし、もしも見つかってしまったら、その時はその時で力ずくで振り切る。
リュネスは一度大きく深呼吸して意識を自分の内側へ向けた。
日常化している日々の訓練の成果なのか、つい先ほどまではもう限界だと思っていた体は一息休んだだけでもう活力が満ち始めていた。体力に余裕が出来ると、自然に気持ちにも余裕が出来、冷静な思考能力が蘇る。
よし、行こう。
意を決し、リュネスは突入を試みる。
建物の壁に沿って慎重に前へ進む。北斗で起こっている戦争は、北斗派と反北斗派によるものだから、少なくとも片方は自分にとっても敵となる。まして、反北斗派凍姫の制服を着てはいるが、心情的に自分は北斗派である。しかしそれを視覚的に証明する事は出来ない。北斗派に見つかれば攻撃を受ける。逆に反北斗派ならば大丈夫かもしれないが、仮に自分の失踪をなんらかの形で知られていたとしたら、凍姫から何らかの不穏な要請が来ていてもおかしくはない。
どちらにしろ、それなりに覚悟は必要だ。
やがてリュネスは、戦闘が実際に起こっている区画がはっきりと見る事が出来る地点まで近づく事に成功した。
そこには真っ白な制服を着た坊主頭の男達の姿が無数に溢れていた。白い制服を着ている流派は、この北斗には二つある。一つは流派『雪乱』、一つは流派『白鳳』だ。雪乱の制服は何度か見た事がある。それとデザインが異なっている所を見ると、どうやら流派『白鳳』の方のようである。
ここからが最も危険な所。気を引き締めていかなければ。
緊張のためか、いつの間にか整えていたはずの呼吸が荒くなっている事に気がついた。改めて深呼吸を数度繰り返し自らを落ち着ける。続いて手のひらを目の前に広げ、そこに小さな氷のイメージを描く。すぐに体の中を水が流れるような間隔が手のひらに昇り、小さな光と共に思い描いた通りの立方体の形をした氷が現れた。精霊術法も問題なく行使できる。これで可能な限りの準備は万全だ。後は気持ちの問題である。
高鳴る心臓を沈め、呼吸を落ち着け、思考を澄み切った刃のように研ぎ澄ます。
生まれつき気の小さいリュネスではあったが、精神を鍛えることで先天的な欠点を克服することが出来ていた。打たれ強い精神を構築するよりも、冷静になる技術を習得する方が遥かに効率が良い。リュネスが行っているのはまさに後者の技術だ。
気休め程度に、とリュネスは自分の周囲に術式を展開した。人間の目は、物体に当たって反射した光を捉える事で視覚的に見る事が出来る。だがその反射率を変える事で、存在していても目に映らなくする事が可能なのだ。最もそれはあくまで理論上の話で、光を全く反射しない術式など幾ら優秀な術者と言えども体現化するのは不可能に近い。特化した訓練をした訳でもなく、ただ以前に誰かが行使していたのを見よう見まねでやっているだけ。だから、気休め、なのである。
タイミングを見計らったリュネスは強く勇んで足を踏み出した。
出来るだけ自分の存在を消し、注意を引かぬよう慎重かつ迅速に進む。たとえ姿を見られても、認識さえされなければ見え邸内のと同じ事だ。周囲の風景と同化し、人間である事を一時的にやめるのだ。今の自分は無機物にしか過ぎない。
リュネスの術式が予想以上の威力を発揮したのだろうか、リュネスはほんの目と鼻の先ほどの距離を縦に走っていたにも関わらず、誰にも見咎められる事は無かった。
しかし。
その時、リュネスは見つけてしまった。
果てしなく広がる白い群れの中に、薄紅色の髪といささかサイズの大きい黒の制服を着た少年の姿を。
「シャルトさん!」
気がついた時は既に遅かった。
敵の真っ只中で姿を見えにくくしていた術式を解き、大声を放つ。
自殺行為の何物でもなかった。誰にも見つかりたくは無かったはずなのに、自らの居場所を示したのだから。
リュネスの制服が自分達のものと違うという事を認識するなり、すぐさま白鳳達は一斉に襲い掛かった。
なんて迂闊な事をしてしまったのだろうか。リュネスは深く後悔した。引っ込められるものならば、今放った声をもう一度飲み込みたい。しかし、今はそれよりもこの状況を何とかしなければ。
ぐっと下腹に力を込めて地面を強く踏みしめると、頭に思い描いたイメージを上半身の強張りを解くと共に一気に放った。
描いたイメージは、乱れ飛ぶ氷の刃達。
「ぐわっ!?」
真っ先に飛び掛った数人があっという間に刃に切り刻まれ、真っ白な制服を赤く斑に染めながら吹き飛んでいった。咄嗟に『気』によって耐久力を高めたものの、体の一部が切り離されなかった程度にしかならなかった。
機先はリュネスが手に入れた。思わぬ反撃に一瞬、白鳳達に躊躇いが生まれる。
ここで一気に突き抜ける。
続いてリュネスは新しいイメージを描いた。両の手のひらをしっかりと組み合わせ、前方へと突き出す構えを取る。そしてイメージを組んだ手に注いで体現化させた。
描いたイメージは、騎兵の持つような太く長い槍。
更にイメージを描く。今度は硬く石畳を踏みしめる踵へイメージを注いで体現化する。描いたイメージは、激しく吹き出す猛吹雪。
「どいて下さい!」
槍を構えバランスを整えると、踵から吹き出す術式の反動を利用して一気に白鳳の包囲を強引に突き破った。
激しい勢いで突進する氷の槍は、『気』の力によって鋼のようになっているはずの白鳳達の体を易々と弾き飛ばしていった。辛うじて貫かなかったのは、リュネスの無意識による手心だった。そんな余裕などある立場ではないはずなのだが、生まれながらに精神の根本に組み込まれてしまっているものは、皮肉にも余裕が無いときほど表面化しやすいのである。
氷槍と踵の術式が切れ、同時にリュネスは自分の足を強く前に踏み出した。
目指すは、ほんの一瞬だけだったがはっきりと見た、白の群れの中にいたシャルトの元。だが位置を定めるにも既にシャルトの姿は遠く白の群れの中に飲み込まれており、微かな感覚と直感だけで大まかな方角を決める事しか出来なかった。しかし、それでもただじっと突っ立っているよりは遥かに生産的だ。
リュネスは両腕にイメージを描いて体現化させると、真っ直ぐこの先にいるであろうシャルトの元を目指した。
描いたイメージは、手の甲から肘先ほどまである幅の広い氷の刃。
刃を的確に奮い、要所要所で障壁を展開しながら尚も突き進んでいった。リュネスは自分がこれほど立ち回れる事に少なからず驚きを感じていた。人間は本当に集中していると普段とは比べ物にならない力を発揮できるそうだが、それがまさかこれほどとは思っても見なかった。
次々と襲い掛かってくる白鳳達の動きも、何故か手に取るように分かった。目に見えたものを認識するというよりも、予めどんな行動に出るのかが理解出来るのだ。それはまるで一秒先の未来が見えているかのような、そんな錯覚だった。
これなら何とかなる。まだ体力的にも余裕はあるし、術式の影響による理性の乖離は起こっていない。それよりも今は、早く彼の元へ急がなければ。手遅れになってしまう前に。
体力的な余裕に問題はなかった。だが、圧倒的に精神の余裕が無い。これほど焦燥感に追いかけられた状態で術式を行使し続ければ、また以前のように暴走してしまうのではないだろうか? そんな不安さえ過ぎり始める。
断じて、否。
リュネスはあらゆる不安を一斉に払拭し、自らの前進に集中した。今大事な事は、彼と自分とが無事にこの場を離脱すること。それを最優先しなければならない。
「ッ!?」
その時、リュネスは言い知れぬ殺気に背中がぞっと凍りついた。
殺気の行方は、丁度自らの頭上から。
咄嗟にリュネスは足を止めると、逆に術式を用いて大きく後ろへと下がった。その次の瞬間、
「ぐわああああっ!?」
「ぎゃああああ!」
辺り一面にこだまする断末魔の叫び声。思わず耳を閉じたくなるような気分にさせられた。
前方に陣取っていた白鳳達が突然、一斉に全身を大きく痙攣させる奇妙なダンスを踊り始めた。しかしその表情は恐怖と苦痛に引きつっており、一ステップを踏むたびに真っ白な制服には赤の模様が一つ浮かんでいく。
「これは……!」
よく目をこらすと、彼らは踊っているのではなく、前方から広い角度で降り注ぐ無数の針に体を断続的に撃ち抜かれていたのだ。倒れようにもすぐに次の針が体を貫くため、寝るに寝られずあんな滑稽なダンスを踊っているように見えてしまったのである。
やがて射撃が終わったのか、次々と血に染まった白鳳達がその場に崩れ落ちていった。あっという間に周辺の白鳳が皆、体中の至る所を打ち抜かれて死んでしまった。俄かには受け入れがたい事実だ。
そして。
「こんな所にいたのか。やはり、逆宵の後始末を任せて来たのは正解だったな」
累々と横たわる屍の山を踏み越えて、一人の女性が歩み寄ってきた。
彼女はリュネスと同じ流派『凍姫』の制服を身につけ、その背丈はリュネスを遥かに上回る長身だった。闇夜のように黒い髪は腰ほどまで伸び、風に揺られて柔らかく踊っている。
「リーシェイ……さん」
じろりと別人のように冷たい目で見据えてくるリーシェイに対し、リュネスは出来る限りの圧力を振り絞って睨み返した。そうでもしなければリーシェイの持つ威圧的な空気に飲み込まれてしまいそうだったからである。
「戻れ。勝手な行動は許さん」
リーシェイは右手をそっと構え、それぞれの指の間に氷の針を体現化させた。命令を聞かなければこのばで撃つ。そう言わんばかりの態度だ。
リュネスは大きく息を吸い込み、そして吐く。自らを落ち着ける動作だ。
仮にも同胞だった人間を、こうも作業的に殺せるなんて。普段のリーシェイを知るリュネスにはとても信じられなかった。
これは未だ表に出てこない、あの人の仕業。そう考えると、普段激情とは縁の薄いリュネスでさえもふつふつと血液が沸き立つ感覚を覚えずにはいられなかった。
「嫌です。私は戻りません!」
腹の底から出せるだけの声を吐き出し、すぐさまリュネスは構えを取った。
その返答に、リーシェイの目元が僅かにぴくりと震える。
TO BE CONTINUED...