BACK
夜も半ばを折り返した時刻。
眠らない街であるはずの北斗は普段の賑やかななりを潜め、まるで死んだように静まり返っていた。
今現在、北斗は二つの派閥に分かれて争っていた。それも演習のような遊びではなく、互いの命と命を奪い合う正真正銘の殺し合いである。むしろ、戦争と呼んだ方が正しいだろう。そんな大規模の抗争に一般人を巻き込む訳にもいかず、今は一人に残らず市街区から避難している。そのため、このように静まり返っているのだ。
北斗の南北を縦断する大通り。そこを北に向かってひた走る人影があった。今、北斗に居る人間は全て戦闘員である。しかし、その人物は北斗に十二ある流派の内どの流派にも属していないのか、着ているものは北斗の制服ではなかった。ただの一般人が忘れ物を取りに戻った、と考えるにしては、その走る速さは尋常ではなかった。北斗の制服こそ身にまとってはいなかったものの、明らかに一般人と比べて規格を外れた運動能力を持っているからである。
駆ける人影は、まだ歳若い青年だった。表情は険しく、口元には焦りの色がありありと浮かんでいる。若干、息を切らせているようだったが、それでも自らの余力などまるで考えず、ペース配分を無視した全力疾走を強行し続ける。
彼がキッと見据える先は、北斗の市街区と総括部とを分かつ場所、羅生門。その先では何が起こっているのか、それを知った上での焦りの表情だった。そしてもう一つ、どうして自分は出遅れてしまったのか、という自責の念だ。
冷え込んだ空気は駆け抜ける青年の肌へ容赦なく切りつけていった。実際の刃物で切りつけられる訳ではなく、出血を伴うような傷を負ったりはしなかった。しかし、本物の傷以上に鋭い痛みが痺れのようにいつまでも尾を引いた。けれど、決して彼は足を止めようとはしなかった。痛みを感じていない訳ではなかったが、痛みそのものを当面の問題とはしていなかった。彼にとって最も重要なのは、一秒でも早く駆けつける事なのだからだ。
やがて彼の目の前には巨大な羅生門の姿が見え始めた。
普段はぴったりと閉ざされている重厚な扉は無用心にも開け放たれたままになっていた。扉を守る二人の守護役の姿も無い。正式な手続きを取った訳ではなくこじ開けられた事は一目見ても瞭然である。
やはり、自分は大きく出遅れてしまっている。
そう青年は奥歯をギリッと噛んだ。
青年は迷わず開け放たれた扉に向かって飛び込んだ。戦場は羅生門よりも先にある。これまで以上に急がなくてはいけない必要がある。何もかもが手遅れになる前に。
「ッ!?」
開け放たれた扉を突っ切ろうとした瞬間、青年は自らの体を後ろへ引っ張られているような姿勢を取って急停止した。
鋭い視線を向ける先は、羅生門の開け放たれた扉の向こう側、月の光が当たらない暗がりだった。
そこに何者かが居る。
青年はおもむろに構え、いつ飛び出されて来ても良いように戦闘態勢を取った。肩ほどの高さに構えられた両腕ばぼんやりと薄青の光を放つ。青年は身体能力が優れているだけではなく、精霊術法も習得しているようだった。
そして。
ゆらりと暗がりから人影が現れる。まるで闇と一体化していたかのように、はっきりと己の存在を青年の前に示しても、常人には存在すら認識できないほど気配を消していた。いや、相当な実力者でも無い限りは目の前に立たれたとしても俄かに人間と認識は出来ないだろう。
姿を現したのは一人の青年だった。短めのこざっぱりとした黒髪に、やや細めの鋭い目つき。中肉中背のこれといって特徴の無い体格に、真っ白な制服を着込んでいる。その制服は、この抗争で唯一中立の立場に立っていた流派『白鳳』のものであった。
その青年の名は、李連木と言った。
これまで、既に他界した頭目の遺言に従い、彼があたかも存命であるかのように振る舞い、実質白鳳を統括していた人間である。白鳳内では頭目に次ぐ位置づけであり、その実力は頭目が存命の時から既に白鳳で彼にかなう者は一人としていなかった。如何なる刃物も通さない鋼鉄の肉体に、自分の倍以上ある人間をやすやすと打ちのめす剛拳。そして数百年に渡って受け継がれてきた白鳳の武術の粋を全て極めた連木は、白鳳史上最強の男まで謳われた。おおよそこの北斗内で、彼よりも優れた武術家はいないだろう、と言わしめたほどの実力者である。
「あなたは……」
本来、突然現れた連木に対して青年が驚くべき状況なのだが、逆に連木の方が目の前に立ち止まった青年に対して驚きの表情を浮べた。そんな連木の表情を見た彼は、おや、ときょとんとした表情を浮べた。
「すみません。今、あなたと事を交えている暇は無いのです。見逃していただけますか?」
「いえ……元から私にもそのつもりはありませんから」
そうですか、と彼は連木の返答ににっこりと微笑んで頷いた。
見た目の年齢は自分とほとんど変わらないのだろうが、その笑みがあまりにも無邪気で子供らしく、連木は戸惑いの表情を隠す事が出来なかった。
いや、それ以上に驚くべき要素はあった。彼の存在そのものが、本来ならここにあってはならないのである。
「あなたは本当に、あの? 信じられない。五年前、あなたは確かに死んだはずだ。私はあなたの葬儀にも参加した」
「それはお礼を言った方がいいんでしょうかね? ですが、僕の死体を確認した訳ではないはずです。ほら、こうしてここにいる僕は幽霊でも偽者でもありませんよ」
そう言って彼は自らの足を示し、体を叩いて音を鳴らし体が幻想ではなく実在する事を証明してみせる。しかし、それでも連木の動揺は収まらず、視線の定まらない目は僅かに泳いでいた。
連木はどこかこの場が異様な空気に包まれているような気がしてならなかった。慣れない驚きにいつまでも浸っているための錯覚なのだろうが、ふと自分が常識の通用しない異世界へ足を踏み出そうとしている気分にさせられた。居るはずもない人間が目の前に居るせいだ。落ち着けば何の問題もない。そう自分に言い聞かせる。
「あなたがここに居るという事は、目的はやはり」
すると青年はすっと目を細め、一瞬連木の顔を見つめる。その表情はどこか悲しげで悲哀の感ずるものだった。
青年は表情を見られぬようにするためか、顔をうつむけた。長い前髪は正面から覗く顔の大部分を隠し、連木からははっきりと彼の表情を窺う事が出来なくなった。
「ええ。これから、弟を殺します。彼女だけでなく、北斗を危険に晒した彼を許す訳にはいきませんから」
不気味なほど淡々とした話口調。
そんな彼の内側に、連木は恐ろしいまでの巨大な殺気を感じ取った。それもただの殺気ではない。どんなに道を極めた達人でも辿り着けない巨大なものだ。覚悟を決めた、殺気である。
「私は、あなたは更に以前から彼の動向を知っていた、と聞きました。その時にあなたが止めていれば、こんな事にはならなかったはず。何故、今なのですか?」
青年は顔をうつむけたまま、くるりと踵を返して頭を上げた。今の自分の表情を自分に見られたくないのだろうか、その気持ちを察した連木は無理に表情を見に行くなどと無粋な事はしなかった。
うつむけていた頭を一変し、青年は今度は空を仰ぐように高く顔を上げた。けれどその仕草は夜空を眺めるというよりも、自らの鬱屈とした思いをどこか遠い所へ馳せているかのようだった。一体彼が何を思うのか、連木の及ぶ所ではなかった。ただ一つ、彼が決めた覚悟の重さだけがずしりと伝わってくる。
弟を殺す。
彼にとってその覚悟がどれだけ悲痛なものなのか、連木は想像に難くなかった。
今、おそらく旧体制派の誰もが新体制派を率いる奸雄エスタシアを憎んでいるだろう。今、旧体制派は窮地に立たされている。だからこそ、エスタシアの首さえ取れば何とか立場を逆転させられるはず、と考えている。誰もが血眼になってエスタシアの命を狙っているのだ。そもそもの元凶さえこの世からいなくなれば、この狂気染みた戦いの終結を見る事が出来る。
何故、彼もエスタシアを殺さなくてはいけないのか。
連木は初めそれが疑問だった。エスタシアを殺さなくてはならない理由は周知の通りであり、今更議論するまでもない。しかし、幾ら反逆者だとしても彼にとってエスタシアは他でもない唯一の肉親だ。こんな状況とは言え、本当に彼に実の弟が殺せるのか。そもそも、そんな選択肢をわざわざ選ぶ理由があるのか。連木には疑問だった。
けれど、罪を犯したのが実の弟だからこそ、彼はあえてその選択肢を選んだのかもしれない。
もしも自分に弟が居たとして、彼がそんな大罪を犯したのなら。せめて自分の手で死なせてやるのが唯一の情けだと思う。
一見すると、彼の覚悟は実の弟を自らの手で死に至らしめるという野蛮で倫理観の無い非道な行為だ。だからこそ、彼の言い放った覚悟を決めた言葉に連木は戦慄した。けれど、彼の覚悟とは恐ろしいものでもなんでもなく、ただ悲しいだけのものだ。他に、到底選択肢が見つからないのだ。特に、彼のような何事にも非情になりきれない人間にとっては。
自らの手で死なせる事が唯一の優しさ。選ぶか逃げるか、その二つしか許されなかった彼が、悲痛の思いで進む事を選択したのだ。いつも逃げてばかりだった、あの彼が。
「僕は弱い人間です。あの時も、弟を殺す事を躊躇ったために止める事が出来なかった。何もそこまでする必要は無い。もっと別な方法があるはずだ。まだ、歩み寄りの余地はある。そんな甘い考えがずっと頭から離れなかった。だけど、今は違います。僕は覚悟を決めた。もう二度と、躊躇わない覚悟を。覚悟を決め、戦場に再び戻ってくるのに五年もかかってしまいました。ただ殺すだけの覚悟じゃない。この先、一生汚名を背負う覚悟です。弟殺しという汚名を」
ふと振り向いて見せた彼の顔には、実に柔らかな笑みが浮かんでいた。
何年も前に一度だけ、連木は彼の笑顔を遠巻きから見た事があった。だが、あの時の笑みと今の笑みはまるで違っていた。彼の笑みはもっと屈託なく無邪気な笑みだった。それがこんなに打ちひしがれてしまっている。この五年、彼が何を思い考えてきたのか。その片鱗を見た気がした。
「あなたは何故ここへ? 白鳳は傍観するつもりではなかったのですか?」
そして、いつの間に思考を止めてボーっと佇んでしまっていたのだろうか、連木は青年の問いかけでふと我に帰った。
「そのつもりでしたが、事情が変わりました。今、総括部の地下に、私を武術で完膚なきまでに打ち負かした少年が囚われています。このまま見殺しにしてしまえば、私は一生、この敗北を背負わなくてはいけなくなる」
「だから助ける? お為ごかしですね」
そう微笑む青年に、連木もまた微笑した。
久し振りに笑った気がする。そう連木は思った。
「行きましょうか。僕達に時間はあまり残されていませんから」
「そうですね」
そして、二人はどちらからともなく共に走り出した。
二人の姿が闇夜の中へ溶け込むように消えていく。その後を、一陣の冷たい風がさーっと洗い流すかのように吹き付けた。
TO BE CONTINUED...