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あっちゃあ……。
これはキツイわ。
いや、マジで。
「ふわああ……」
眠い。
私は大通りを歩きながら、その真ん中で大きなあくびをした。そして溢れてきた涙を拭う。
昨日は寝たのが夜中の三時過ぎだった。会議は午後から始まって、その間は二度の食事休憩以外は全て会議会議の連続。ある意味ではミシュアさんの拷問にも匹敵する。定例会議に参加したのは今回で二回目だが、もうかなり精神的に限界を迎えている。三回目以降は行きたくもない。
しかし、その駄々はすぐに私の理性によって取り押さえられた。たった二回で挫けてしまっていては、あの時の決心に背いてしまう事になる。幾ら嫌でも辛くとも、きちんと頭目の役目は果たさなくてはいけない。
決心。
それは、リュネスが凍姫に入った時に私が己を戒める意味で架したものだ。
私はこれまで随分と自分を甘やかしていた。自分にとって楽な道を選び、我慢するという事を知らず、努力する事を忘れ、物事を酷く安易に考えて。その結果、私は大勢の人間を死なせてしまった。運良く、リュネスは生き残った。でもそれは私の力ではない。本当に運が良かっただけだ。そして死にはしなかったものの、それに匹敵するほどの悲しい思いを味わわせてしまった。全て、私の驕りが原因でだ。
それから、私は変わろうと思った。
凍姫の前頭目は、不可解な言動が目立ったものの非常に周囲からの信頼が厚かった人物だ。それは実力だけでなく、普段からの心構えがそうさせたのだと私は思っている。だから、私もまたそうなろうと決心した。それは周囲に信頼されたいからではない。信頼されるに足る頭目にならなければいけないと自分で思ったのだ。ミシュアさんも安心出来る頭目になれば、きっとあんな失態は二度と演じないはず。もう、南区の悲劇は繰り返したくはないのだ。北斗に住む人達のために。
まずは私は、あれ以来、一切の酒類を口にする事をやめた。大好物だった酒を断つ事は相当な苦痛だと思ったが、きっとあの日の事を思い出してしまうからだろう、酒の匂いだけでも吐き気を覚えるため、意外とそれは簡単な事だった。
そして、これまでミシュアさんに代行してもらっていた頭目の業務を少しずつ受け継ぐ事にした。ただ、経験もなしにいきなり凍姫の業務処理は出来ない。そういった難しい部分は気合だけではどうにもならない能力の問題だ。これらは追々覚えていく事にして、まず手始めに、ミシュアさんに作ってもらった資料があれば何とかなる、週一回の定例会議から引き継いだ。会議自体は何とかこなす事が出来たが、何よりもその会議時間の長さにはまいった。毎週毎週、何でもない事のようにこなしていたミシュアさんがどれだけ偉大なのか、そして私がどれだけ依存していたのかを思い知らされる。
早く帰って、思い切り眠ろう。幸い、今日は日曜日。トレーニングは休みだ。それからリュネスにご飯を作ってもらって。リュネスは大した事はないと謙遜はしているけれど、実際あの娘の料理は相当なものだ。普通に店で食べたら結構いい値段を払わされるだろう。それを材料費だけで食べられるのだ、最近は肌の色艶も心なしか良くなってきたし、体調も極めて良好、少しだけラッキーと思ってもみたりする。リュネスの料理は私の楽しみになっている。
丁度昼前の賑やかな時間帯。日曜日という事もあり、遊びに出ている人達の姿が目立つ。考えてみれば、この時間になるまで帰ってこれない頭目はまとまった休みが一日も取れない事になる。大抵の日曜はダラダラと寝ているか、適当にブラブラと散策してみるか、そのどちらかだ。御世辞にも時間を有効的に使っているとは言えないが、その分の週六日間が非常にハードな毎日なのだ。肉体的にも精神的にも相当疲れる。でも、ミシュアさんはこれ以上の疲労感に苛まれているのだ。今、思い返してみると、随分と私達は要らぬ作業を増やしていたものだ。これからは本当に気をつけないと。体を壊されてしまったら、凍姫そのものの運行が止まってしまう訳だし。
と。
「あ、ファルティアさんではありませんか?」
突然通りの反対側から声をかけられ、ふと視線をそちらに向ける。
そこに立っていたのは、それだけでも輝かしいエスタシア様だった。エスタシア様はいつも通りの爽やかな笑顔を湛えながら、そっとこちらへ駆け寄ってくる。私は慌てて緩んだ表情を引き締める。疲労と寝不足で不細工になった顔を見せる訳にはいかないのだ。
「お出かけですか?」
「いえ、僕は相変わらず仕事の最中ですよ。ファルティアさんこそ何か仕事でこちらに?」
「定例会議の帰りです。週一の。これから部屋に帰って、軽く休もうかと」
「ああ、今日は日曜日でしたか。守星になると、どうも曜日の感覚がおかしくなりますね」
そうエスタシア様は微苦笑する。守星は勤務時間というものが非常に不規則で、私達のように月曜から土曜まで出勤して日曜日は休み、という訳にはいかない。働く日と休日がバラバラに来る訳だから、今日が日曜日と気づかなくても仕方ないだろう。
そんな話をしながら、私達は連れ立って歩いた。
もう、多分はみんなに知られているとは思うんだけれど。私はこのエスタシア様が好き……いや、愛しているのである。恋と愛の違い云々はさておき、”好き”程度の薄い感情ではないのだ。私の周囲はおしゃべりな人間ばかりだから、おそらくエスタシア様も少なからず耳にはしているだろう。それでもこうして相対してくれるという事は、全く素振りがないという訳でもないはず。多分。いや、絶対。
「そういえば、先週からでしたっけ。急に定例会議へ出るようになったのは。何かあったのですか?」
「いえ、大した事じゃないです。ちょっと心境の変化というか」
そうですか、とエスタシア様は微笑む。こうして言葉を濁した時、明言したくないということを汲み取ってくれる心遣いはさすがと私は思う。人の心が分かる人間とは、まさにエスタシア様のような方の事を言うのだ。そして、人の心が分からなければ本当の優しさというものは出来ない。この優しさというものも頭目には必要なものだ。私はしっかり見習わなければいけない。
「以前と比べて変わられましたね」
ふと、エスタシア様は私を見ながらそう微笑んだ。
「え? そうですかねえ……あんまり自覚はないですけど」
「以前は、たとえるなら首輪のない猫のようでした。でも今は、どことなく周囲にも目を向ける親猫のようです」
「それって、良い意味での変化でしょうかね?」
「周囲に目を向けるのは、良い意味ですよ。これはなかなか言われて出来る事ではありません。本人の資質に拠る部分が大半ですからね。相当な努力をなさったのでしょう?」
エスタシア様に指摘された、自分の変化。
でも私は、自分がそんな風に変わっていたなんて少しも知らなかった。そんな事を言われたのも初めてである。自分の知らない間に自分が変わってしまうのは非常に怖い事だ。自分の価値観が知らぬ間に変化しているという事になり、そしてその価値観とは私自身の独自性、つまり個性であって人格なのである。誰だって、知らない間に自分の人格が変わってしまうなんて絶対に嫌だろう。変わってしまった自分が、果たして以前の自分であるかどうかさえ分からないのだ。けどエスタシア様は、私の変化は非常に良い変化だと言った。これまでの自分は、今思っても非常に汚点と欠点ばかりが目立つ誉められない人間だった。それが良く変わったのだから、これは喜ぶべき事なのだと私は思う。つまり、成長したのだ。人間的に。
「いいえ。まあ、お腹が一杯になったからでしょう」
死ぬほど努力をした、なんて答えるのは照れ臭い。だから私は、そう冗談めかせて答えた。
すると、
「お腹が空いていたんですか? いけませんよ、食事を抜くのは」
エスタシア様は真剣な表情でそう答えた。
あれ……? 滑った?
どうやらこの冗談は、根が真面目な人には通用しないようだ。
TO BE CONTINUED...