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 少しだけ、頑張れそうな気がしてきました。
 私は大きな大きな過ちを犯してしまいました。それは決して許される事ではありません。けど、私に償いの道があるのであれば、そこを歩いていこうと思います。
 たとえ、どれだけ厳しくとも。
 たとえ、気が遠くなるほど長くとも。
 振り向かないで、立ち止まらないで、自分の足で歩いていこうと思います。
 何故なら、私は一人じゃないから。
 支えてくれる人が、本当は沢山いますから。
 そして。
 こんな私を好きになってくれた男の人もいます。

 私は、自分の存在する意味を見つけられませんでした。けど、本当はそんなものがなくても別に普通の事で。見つかるのが早いのか遅いのか、たったそれだけの事に思い悩んでいたのです。
 私は私。それ以上でもそれ以下でもありません。だからもっと気を楽にしようと思います。肩肘張っても、余計空回りするだけですから。
 それは、ただ『嬉しい事』が舞い込んできたせいで浮かれているだけなのかもしれないけど。
 でも、自分の中に引きこもるより、明るくて楽しい外の世界へもっと触れようと思います。
 人生を楽しむ、とはそういう事なんだと思います。
 自分の意見はもっと主張して。少なくとも、何もしないでウジウジと後悔するような事はやめます。
 毎日が楽しくなれば、きっと幸せは訪れる。そう思わなければ生きるのなんて辛いだけですから、すぐにやめたくなると思います。だから日常の些細な事から楽しい事を見つけて楽しめばいいのです。

 私は大きな大きな楽しい事を、幸せの片鱗を一つ、見つけました。
 恋、です。




 目の前には白いドアがあります。
 私の手は小刻みに震えていました。これまで経験した事が無いほどの緊張に体が硬直しています。右手に持っていた、途中で買ったお菓子が入った白い箱。その握りをうっかり強く握り締めてしまっている事に気がつきました。手から不必要な力を抜くと、既に握りは潰れて半分ほどの太さになっていました。
 ドアへよく目を凝らせば、隅々にやや黒ずんだ染みが見えました。掃除を怠っているのではなく、年季がかさんでいるからです。きっとこの病院は、建物自体はとても古いんだと思います。患者の数が増えた事で新しく大きな病院を新築しても、そこへ自分で動く事が出来ない患者を搬送する手間を考えると増改築する方が効率が良いと考えたからでしょう。
 よし、行こう。
 私は軽く握ったこぶしを裏返してドアをノックしかけ、やはり思い留まります。
 怖い。
 再び震えました。今の私を席巻しているのは、圧倒的な恐怖と緊張感です。どちらも酷く神経を張り詰めさせて正常な思考が出来ないように理性を殺ぎ落とします。ただ、それは精霊術法のような陶酔に似た心地良さはありませんでした。あるのは錆びた刃でなぶられるような不快感だけです。
 額にじんわりと嫌な汗が浮かびます。私は左手で震えを押さえながらハンカチを取り出し、その汗を拭います。やけに額が冷たくなっていました。体中から血の気が引いてしまったかのようです。けど、背中にも汗がじんわり浮かんでいます。本当に嫌な汗です。こういう汗を浮かべる事は慣れていました。昔から特に緊張した時は必ずこうなるのです。気弱な性格だから仕方がありません。
 胸に手を当て、二度深く息を吸い込んで吐きます。そして気持ちを今一度落ち着けます。
 大丈夫……。
 私はそっと目を閉じて、これからの事をイメージに描きます。
 私がここにやってきた目的。それは、この病室に入院しているシャルトさんに会うためです。
 シャルトさんに会う理由。それは、私のために迷惑をかけてしまった事を謝るためです。
 大事なイメージは、この二つだけです。そんなに想像力に恵まれていた訳でもなかったのですが、精霊術法の訓練を始めてからは頭の中にイメージを描く事が幾分かうまくなりました。自分が思うこと考えることが容易に形に出来ます。
 でも、私の描くイメージは自分に都合のいいように編集がされています。というより、勝手に必要最小限のラインを引いて、それ以上の先に進まないようにしているのです。本当はこれ以外にも必要なイメージはあります。シャルトさんにあの晩の事を謝っても、許してくれるのかどうか分からないのです。それこそ、謝る前に一方的に追い出される可能性だってあります。そして、きっと私は部屋から飛び出して行くはずです。これらのイメージを、私は自分にとって不必要だと言い張って描く事をしませんでした。でもその本当の理由は、単に自分が辛い気持ちにならないようにするためだけなのです。悲しいイメージを描くと、私はそのまま際限なく先を描き続けて暗い所に塞ぎこんでしまいますから。
 私はシャルトさんが好きでした。もう何ヶ月も前から。けれど、まともに正面を切って会話が出来るようになったのはここ最近になってからです。それまでは、本当に遠くから眺めるだけの存在でした。まるで美術館に展示されている彫像のように。私がシャルトさんになかなか近づけなかったのは、自分に自信が持てなかったからでした。取り立てるもののない、容姿だけでなく中身も地味な私。多分、向かっていっても空回りするだけだろう。ずっとそう思っていました。だからシャルトさんと会話らしい会話が出来る仲になるまでこれほどの時間がかかったのです。
 それなりに恋への憧れはありました。爛華飯店にいた同僚の人達の中にも、恋人がいる人が何人か居ました。私はその話を聞き、頭の中で自分とシャルトさんを当てはめていた事も多々あります。けど、結局それは虚しい幻想にしか過ぎなくて。満足出来るのは刹那的なその瞬間瞬間だけです。だから、心象を現実化するためにも行動に起こすべきだったのですが、これが私という事なのであれば、たとえ一生自分の理想を頭の中に思い描くだけだったとしても仕方がないと思います。そして、そうなるであろう自分を私はずっと甘受してきました。
 だからなのです。
 幾ら強くなろう、変わろうと願ったとしても、私は自分の弱さを甘受しているから何一つ変われないのです。そして、覚えたてで不安定な精霊術法を暴走させた私は、大勢の人に多大な迷惑をかけてしまいました。結局、全て私の弱さが招いた事なのです。強くなれない事で困るのは自分だけだと思っていました。でも、本当に迷惑するのは私の周囲なのです。だから、迷惑をかけるだけでしかない私の存在はこの世に必要がないのです。いっそ、いなくなってしまうべきだ。そう考えると随分気が楽になります。
 よし、行こう。今度こそ。
 再び握り拳を作って裏返し、それをドアにぶつけました。恐怖はありました。けど、今度は辛うじて押し殺せる程度でした。だから構わず振り切ります。
 ゴンッ。
 と。勢い余って、ノックではなくまるでドアを挑戦的に叩いたようになってしまいました。慌ててコンコンと普通のノックで叩き直します。
 ドクドクと心臓が高鳴ります。せっかく緊張を落ち着けさせたというのに。やっぱり、まだ平素の状態には程遠いようです。
「はい?」
 中からドアが開けられました。聞こえてきたのは朗らかで明るいアルト。それはシャルトさんの義理のお姉さんであるルテラさんでした。
「あら、リュネスじゃない」
 ルテラさんは普段通りの輝くような笑顔を浮かべると、ドアを大きく開いて私を中へ促してくれます。私は一礼して中へ入りました。
 病室はそれほど広くはなく、一歩足を踏み入れると五メートルもせずに窓があります。横幅は六メートルぐらいでしょうか。部屋の右隅にはベッドがあり、後はその近くに小さな収納と洗面台があるだけです。
「あ……」
 ぽつり、と誰かが声を上げました。
 誰何の声に視線を走らせた先。部屋の右隅のベッドには、シャルトさんの姿がありました。
 シャルトさんはベッドマットを上げて、そこにもたれながら上体を起こしていました。足の方は布団をかけ、その上にテュリアスがちょこんと座っています。
 あの晩以来に見るシャルトさんの姿は、非常に痛々しいものでした。頭と両手が包帯で包まれています。患者衣を着ているので分かりませんけど、おそらくその下も包帯が巻かれているでしょう。とにかく傷だらけとしかたとえようが無い姿です。
 じっと私に視線を向けるシャルトさん。その表情は何とも判断し難い、非常に中立的で曖昧なものでした。私はどう言葉を続ければいいのか分からず、しばし目を泳がせながら立ち尽くします。
「お菓子買って来てくれたんだ? シャルトちゃんは甘いもの好きだからね。じゃあ、私。ちょっとお茶を買って来るから。あ、ゆっくりしていってね。シャルトちゃん、退屈してるの」
 そう言われ、私はハッと右手の白い紙箱を見ました。再び緊張したため、うっかり掴みを強く握り締めてしまっていました。もう、なんだか握りの部分は完全に潰れて駄目みたいです。
 ルテラさんはニッコリと私に微笑むと、そのまま部屋を後にしました。
 病室には私とシャルトさんだけが残されてしまいました。息苦しさの錯覚がより強くなって私の首を締め付けてきます。
「あ、んと、その……心配かけた……かな?」
 シャルトさんがややうつむいたままそう話し掛けてきました。
「え? あ、は、はい!」
 私は緊張のあまりその言葉を半分も聞いていなくて、とりあえず反射的にそんないい加減な返事を返してしまいます。
「そうか……」
 シャルトさんのその返答を最後に、ぷつりと会話が途切れてしまいます。普段ならば、もっとこんな風にぎくしゃくとしないで会話も弾むのですが。なんだか今日はそういう雰囲気にはなれません。どことなく迂闊な言葉を話せない、重苦しい空気です。
 ふと、その時。私の脳裏に、考えまいとしていたある予感が去来しました。
 シャルトさんは、もう私から心が離れていて他人のようにしか思っていない。
 まだ確証には至っていませんが、少なからずそうなっている傾向はあるように思います。シャルトさんの態度がいつもと明らかに違います。こんな風に会話が続かないどころか空気までが重くなるなんて事はなかったのですから。
 今までのにこやかな談笑風景が酷く懐かしいものに思えてきました。そう思うのは、二度とあの頃に戻れないと気がついたからです。私の暴走はシャルトさんに入院を余儀なくさせるほどの大怪我を負わせてしまったのですから。心が離れたって何の不思議もありません。
 どうして昔から私はこうなのでしょうか?
 何一つやり遂げられないばかりか、逆に周囲のみんなに迷惑をかけてばかり。私という存在そのものがみんなのお荷物になっているのです。誰も意味のない荷物をぶらさげて歩きたくはありません。意味のない荷物は邪魔者でしかなく、それらは早々と捨てられるでしょう。
 シャルトさんもきっとそう思っているはずです。これ以上、こんな目に遭いたいと思うはずは無いのですから。
 ―――その時。
「あの、シャルトさん……」
 不意に、罪悪感が高波のように押し寄せてきました。その衝動に押し流された私は、思わずシャルトさんの傍へ歩み寄っていました。勢いに任せ、私は本当にベッドのすぐ傍まで近づいてそこに立ちます。
「本当に申し訳ありませんでした……!」
 まともに顔も見れないまま、私はただひたすら溢れ出て来た言葉を嘔吐します。同時に嗚咽が飛び出そうとしてきました。私は寸前で口を手で塞ぎ、それを押し留めます。
「私なんかのために、そんな怪我までさせてしまって……」
 じわり、とまぶたに熱いものが溢れ出ます。抑えようとは思いましたが、それは自分の思い通りになる部位ではないので、そのまま私の意思に反して溢れ出続けます。
「すみません、本当にすみません! すみません……!」
 私は泣いていました。絶対に泣かないと決めていたのに。自分が情けないです。
 涙を流さなければ、自分の感情を吐露出来ないなんて。しかも、もっと理路整然とした謝罪の言葉だってあるはずなのに。私はただひたすら同じ言葉だけを繰り返しています。こんなやり方で、同情を引こうとしているみたいです。
 駄目だ。これじゃ駄目。
 謝罪の言葉を吐露するのと同時に、自分のやり方を批判する自分がいました。けれど、その理性の抑制よりも感情の奔流の方が強くなっています。
 まただ。
 私はまた、自分にとって楽な方に走っています。だから私はいつまで経っても変わることが出来ないのに。こういう時、私は自分に苛立ちを覚えます。それも、存在そのものを消してしまいたいほどに。それは憎悪と変わりませんでした。私は自分自身を憎悪しているのです。
 と。
「リュネス」
 その時、ふとシャルトさんが布団を跳ね除けてベッドから降りようとしました。しかし、シャルトさんが床に足をついて立とうとした瞬間、ぐらりと前へつんのめるように大きくよろめきました。私は咄嗟に飛び出して受け止めます。シャルトさんは私の肩に手をついてバランスを持ち直しました。
 ハッ、と私は息を飲みます。本当にすぐ目の前にシャルトさんの顔があったからです。こんなに近くまでシャルトさんと接近した事はなかったはずですから。
 シャルトさんはバランスを整えると、じっと私を見つめました。
 その顔は酷く悲しそうな顔でした。涙は浮かべてはいないけれど、多分私と同じような表情です。
「頼むから、そんな事を言わないでくれ……」
 まるで哀願するかのように、シャルトさんは低くくぐもった声でそう私に言いました。
「俺、リュネスの事が好きなんだ……。あの時は、こう言われると怖いかもしれないけれど、本当に死んだっていいって思ってた。そのぐらい、俺はリュネスのことが守りたかったんだ。だからさ、そんな事は言わないでくれ……本当に」
 頭の中が真っ白になりました。
 シャルトさんが私の事を?
 突然そんな事を言われても、頭の中で処理が出来ません。普段から円滑に対話が出来るよう論理的に組み立てているはずの思考が、その土台を引き抜かれて根本から崩れていきます。もうまともな考えが出来なくなってしまった自分を自覚しました。
「私も! 私も……シャルトさんの事が好きです」
 崩壊した頭で、私は咄嗟にそう答えました。
 普段なら決して言えないこと。勢いだけで言ってしまったので、後先を考えない分、驚くほど自然に言う事が出来ました。どうせ後から後悔するくせに。同時にそんな冷静な言葉がどこからとなく浴びせられます。
 けれど。
「でも、だから自分が許せないんです! こんな、こんな事をしてしまって……」
 私は唖然とするのも束の間、再びボロボロと涙を流し始めました。
 好きな人を傷つけてしまった自分が許せない。
 迷惑をかけた人達に対する申し訳なさと同等以上に、自分の不甲斐無さが憎くて仕方がありません。いえ、多分自分への憎しみの方が強いと思います。自分を憎まなければ自分を保つ事が出来ないのです。そうでもしないと、自分の犯した罪の重さに理性が潰されてしまうのです。
「リュネス……」
 シャルトさんが悲しげな目を僅かに細めました。
 それ以上、言わないでくれ。
 そんなシャルトさんの言葉が聞こえてきそうでした。私は口を閉じました。何を言ってもシャルトさんを悲しませるだけでしかないのです。それは私とシャルトさんとの認識が違っていて、私はシャルトさんの気持ちを分かってなくて、それだけでなくもっと沢山のことが複雑に絡まっていて……。
 お互い、どちらからともなくぎくしゃくと距離を近づけました。
 もう言葉は要らない。そう思いました。
 私達は言葉にするのが下手な不器用な人間なんだと思います。だから、これ以上喋っても無意味です。
 シャルトさんの顔が目の前まで近づき、私は咄嗟に目をつぶりました。心臓が一度、どくんと大きく高鳴ると、それを合図にどくどくと恐ろしく早いビートを刻み始めます。
 もう、どうなってもいい。
 今までの自暴自棄なそれとは違う意味でそう思いました。
 私の肩に触れていたシャルトさんの手に力がこもりました。私も思わず力が入って体が硬くなってしまいます。シャルトさんの手も震えていました。私と同じ気持ちなんだと思います。
 目をつぶっていても、シャルトさんの気配が近づいてくるのが分かりました。その息づかいと自分の心音とを重ね合わせます。
 両手をぎゅっと強く握り締めます。とても汗ばんでいました。
 時間がとても遅く流れます。それは私達の動作がもどかしいからなのか、それとも鼓動が早すぎるからなのか。分かりません。
 そして。
 私の唇にシャルトさんの唇が重なりました。
 瞬間、頭の中が再び真っ白になってしまいました。何が何だかよく分かりませんでした。逐一、感じられる感触を頭の中で吟味するだけです。
 随分、長かった。そんな気がしました。
 もしかすると、ずっと私はシャルトさんと気持ちが擦れ違っていたんだと思います。人よりもずっと距離が近いつもりでいたのに。これまでの経緯が急に気恥ずかしくなって、おかしくなりました。でも、いい思い出なんだと思います。
 体が内側から熱くなっていきます。けど、体の震えはもう止まっていました。肩に置かれたシャルトさんの手と、ぴたりと合わさった唇と、ほんの目の前にあるその息づかいと。それらの感触に包み込まれるような、そんな心地良さと嬉しさ。
 自分とシャルトさんが一体になれた気がしました。こんなに心が近づいた事は初めてで、なんだか嬉しさで泣いてしまいそうになりました。結局、私はそうなってしまうのです。本当に、昔からずっと変わりません。いつまでもいつまでも、どうしようもない泣き虫……。
 と、その時。
「うわあっ!?」
 突然、私の背後からバタバタ騒々しい音が聞こえてきました。
 ハッとシャルトさんの唇が離れていきます。そして私も閉じていた目を開けて後ろを振り返りました。
「よ、よう」
 そこには見知った顔が四つ、床の上でもつれながら転がっていました。
 レジェイドさん、ルテラさん、ヒュ=レイカさん、エスタシアさんです。
「……何をしている?」
 シャルトさんがひやりとするほど冷たい声でそう訊ねます。四人は皆一様に気まずげな苦笑を浮かべていました。やがてレジェイドさんがゆっくり立ち上がって咳払いをすると、表情を改めました。
「いや、シャルト。キスの時はだな、手は肩ではなく背中、もしくは後頭部に回してだな、こう優しく愛撫するのが―――」
 レジェイドさんは真剣な表情で生々しい手つきをしながら、そう解説します。
 すると。
「出て行けッ!」
 シャルトさんの怒鳴り声が響き渡りました。怒りのあまり、シャルトさんの顔は真っ赤になっています。
 私はシャルトさんが怒鳴る所を初めて見ました。
 正直、私もシャルトさんと同じ事をしたい気分でしたが。少しだけ、そんなシャルトさんの様子がおかしく思いました。シャルトさんも感情を荒げる事があるんだ。当たり前の事だけど、間近で見れた事に嬉しさというか親近感を感じました。
「ふにゃ……ぁ」
 ベッドの上で、テュリアスが丸まりながら大きなあくびをしていました。そして、くてん、と横になります。
 ……あ! 忘れてた。



TO BE CONTINUED...