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 ここが私のゴールだと思っていた。
 けれど。
 いつの間にか、私のスタート地点になっている。
 全てを受け入れるのは辛いけど。
 私は、進む事にした。

 ねえ、見てる? 私のコト。
 それとも痛くて見てられないかな?
 大丈夫。もう、私は大丈夫だから。
 寂しいけれど。
 涙が止まった訳じゃないけれど。
 自分の足で進んでいける。




「ファルティア、居る?」
 とある日の午前。
 流派『凍姫』の訓練所では、いつものようにトレーニングが行われていた。奥の、先日三重から五重に結界が強化されたばかりのホールからは、断続的に術式の行使する音と、時折悲鳴が漏れ出してきていた。
 そんな時。ふらりと何の前触れもなく、訓練所の入り口に立っている守衛の前に一人の女性が現れた。
 緩やかなウェーブのかかった、輝くようなハニーブロンド。透き通るような白い肌、それとは対照的な碧眼。それは凍姫の人間ならばそのほとんどが知っている容姿だった。『雪魔女』こと、元流派『雪乱』頭目であるルテラだ。
「ルテラが来たって言えば分かるんだけど。それとも、雪魔女って言った方が分かりやすい?」
「え……、あ、どうぞ」
 これほどの距離で、かつての凍雪騒乱では凍姫を震え上がらせたあの雪魔女と言葉を交わす事態に、守衛は思わず浮き足立ち背筋に冷たい汗をふつふつと浮かべて、しどろもどろになりながら道を開ける。
 ありがとう、とにっこり笑顔を浮かべて中に入っていくルテラ。守衛は半ば茫然としながら、はあ、と気のない返事を返してその後姿を見送る。よく考えてみれば、どうして今は一般人となった彼女を通す必要があるのだろうか? そんな疑問が浮かび上がる。だが、慌てて呼び止めようと思い立つも、相手があの雪魔女とあっては二の足を踏んでしまう。
 一方のルテラはてくてくとさも当たり前のように凍姫訓練所の廊下を歩いていく。現在は、守星の手続き申請中とは言え一般人の部類に入るルテラが、完全な部外者であるにも関わらず凍姫の内部を歩いている。訓練所にいた凍姫の人間は、中にはルテラがあの雪魔女である事を覚えている者も少なくはないため、露骨な行動にこそ出はしなかったものの、一触即発と言っても過言ではない張り詰めた緊張感に周囲の空気はあっという間に包まれた。
 ルテラは周囲のそんな反応に気がついていない訳ではなかったが、かといって今更引き返すつもりもなかった。それに、自分はちゃんとした目的を持ってファルティアに会いに来たのだ。卑屈にも尊大になる必要はない。
 やがて見えてきた訓練ホールの両扉。ルテラはその掴みの部分にそっと手を触れる。ひやりと金属の冷たさが伝わってきたが、場所が凍姫だけあり術式の影響ではないかとつい錯覚してしまう。
 ルテラは一気にその重厚な扉を引き開けた。見た目にもかなりの重量があるように見えたが、ルテラにはさほど重いものとは感じなかった。精霊術法を習得した際の副作用で、筋力が異常に強化されているためである。ほとんどの精霊術法の使い手は、そういった症例が現れている。そして、その副産物とを組み合わせる事で独自の戦闘スタイルを作り出すのである。
 ぎぃぃ、と金属同士の擦れ合う不快な音を立てながら、ホールへの口が大きく開く。
 その中へ一歩、足を踏み入れると、ホールの中で訓練を行なっていた凍姫の面々が一斉にルテラの方へ視線を向けた。しかしルテラはそれに怯む事なく、濃紺の制服に身を包んだ一団から奇異の視線を一身に浴びながら中央の方へ悠然と歩いていく。一体どうしてここに来ているんだ? そんな声がぽつりぽつりと上がり始め、やがてそれは木々が揺れるようなざわめきへと変わっていった。一同がこの場に突如現れたルテラを、あの雪魔女であると知っているためだ。そして、そんな人間が堂々と現れた事を、どうしても傍観できない人間が若干一名。
「ちょっと、部外者が何の用?」
 ざわつく周囲を掻き分けて、長いエメラルドグリーンの髪を後ろで結った一人の女性が、ルテラへの敵意を露につかつかと歩み出る。
「まあ、そんな冷たいこと言わないでよ」
 珍しく道理に適った事を言ったファルティアだったが、ルテラはさほど重く受け止める事もなくいたって軽々しい調子で答えた。
「ちょっと相談事っていうか、報告する事があるんだけど。聞いてくれる?」
「はあ?」
 にっこりと笑顔でそう訊ねるルテラに、ファルティアは輪郭が歪むほど顔をしかめて答える。大概の人間ならば不快感を隠せなくなりそうなファルティアの態度だったが、ルテラは柔らかな物腰で微笑を崩さない。
 ファルティアはまず、自分がルテラとはそういったプライベートな会話を交わす関係ではない事を思い浮かべた。そして更に、こんな大勢の真っ只中では漏洩保守も何もあったものではない。一体ルテラはどういうつもりなのだろうか? その疑問だけがよりファルティアの表情を訝しさに歪める。
「私ね、来週から守星になるの。驚いた?」
「なにそれ? 全然面白くないんだけど」
 ルテラの思わぬ発言に、聞き耳を立てていた周囲が再びざわめき出す。しかしファルティアは一言の元にそれを切り捨て、侮蔑にも似た視線をルテラに浴びせる。
「ここまでは報告ね。それでここからは相談なんだけど。聞いてくれる?」
 にっこりと輝くような笑顔のルテラ。しかし、相変わらずファルティアの視線は冷め切ったままだ。
「相談はともかく。あんたが守星やるって? 冗談じゃないわ。昨日まで死人みたいなツラしてたクセに。やれる訳ないわよ」
 そう、ファルティアは昨日のルテラとの会話を思い出しながら辛辣な口調で不可能を吐き捨てる。あの雪魔女に対してそんな口の聞き方をするなんて。ファルティアの悪態に周囲の人間は思わず背筋に寒気を催した。だが、それでもルテラの表情は変わらない。まるでファルティアを上からあやしているかのような、どこか余裕に満ちた表情だ。
「だから、こうして相談しに来たのよ。来週まででいいから、トレーニングさせてくれないかしら?」
「話は分かるけどね。なんでウチに来るのよ? 雪乱に行けばいいでしょうが。あの間延び娘に相手してもらいな」
「だってリルは頭目で忙しいもの。その点、あなたは暇でしょう?」
 ファルティアは現在、スファイルの後任として凍姫の頭目となっていたが、その実務はほぼ全て戦闘指南役であるミシュアが代理していた。実質、ファルティアは頭目としての権限だけを受け継ぎ、義務はミシュアの担当となっている。当然の事ながらファルティアの生活パターンに支障が出るはずもなく、凍雪騒乱が終わった今となっては特定事項だけで繰り返される生活を『暇』の一文字で片付けられても妥当と呼べる。
「暇は暇でも、あんたみたいな腑抜けを相手にするほど暇じゃないの。ほら、部外者なんだからさっさと帰った」
 おそらく老若男女問わず好感を得るであろうルテラの笑顔を前に、ファルティアはフンと鼻を鳴らすと、右手でしっしとまるで動物を追い払うかのような仕草でルテラを追い出しにかかる。
 と。
「そんな冷たいこと言わないでさ」
 ルテラは不意にゆっくりとファルティアに向けて右手を伸ばす。その指は中指と親指で円を作り、他の指は広げられているという奇妙な格好をしていた。緩慢なその仕草に、ファルティアはまるで珍しいものを見つけた動物のようにしげしげと円を作った指を見つめる。
 そして。
 鈍い音がホール内に響き渡る。次の瞬間、ファルティアは額を押さえながら苦痛に満ちたうめき声を上げ、床の上をのた打ち回っていた。
 それは伸ばされたルテラの右手の人差し指が、一瞬の内に激しくファルティアの額を痛烈に弾いたからである。ルテラの筋力は精霊術法の副作用で異常に強化されているが、それは指も例外ではない。以前はハンマーで潰していたクルミの殻も、今では安々と指だけで縦に割る事が出来る。そんな破壊力を持った指で額を弾かれたファルティアは、当然の事ながら幾ら生まれながらの石頭を持ってしても、思わず取り乱してしまうほどの激痛に見舞われる。
「ね?」
 水に囚われた羽虫のように暴れ回るファルティアの傍にしゃがみ込むと、ルテラは尚もにっこりと微笑んだ。明るい笑みはそのままだが、その直前の行動と比較すると、今は逆に凄惨ささえ感じられる。やはり雪魔女だ。そんな声が密やかに周囲では交わされた。
「何が、ね、だ……このボケェッ!」
 そして。
 やがて激痛の波が引いたファルティアはまるで猛獣のような怒号を上げると、右腕で激しく床を打ち、その反動で飛び起きた。
「あんたの頼みはよく分かったわ。それじゃあ訓練って名目で叩ッ殺してやる!」
 怒りの色一色に染まった瞳でルテラを睨みつけるファルティア。周囲の空気がファルティアの放つ冷気よって急速的に冷やされ、上着の上から肌寒さを感じ始める。しかしルテラは怯えるどころか、逆にようやくファルティアがその気になってくれた事に喜びの笑みすら浮かべた。
「あらあら。意図してやったら事故にならないわよ?」
「うっさい!」
 ファルティアは上着を脱ぎ捨て右腕を大きく後ろに引いた独特の構えを取ると、その態勢のまま右腕を本来の姿である魔力の結晶体に戻す。そして彼女の体躯には不釣り合いなほど膨れ上がった右腕を、まるで柱に釘を打ち付けるように真っ直ぐ前方へ打ち放った。
「あら?」
 ルテラはファルティアの攻撃を即座に読むと、やや驚いた表情を浮かべながらも落ち着いて攻撃の軌道から体をずらす。繰り出された右拳の先からは、高密度の冷気を孕んだ魔力が弾丸のように打ち出された。弾丸は唸りを上げながら薄っすらと青白い尾を引き空を駆ける。攻撃の軌道があまりに直線的であったためあっさりとかわしてしまったルテラには掠りもしなかったが、弾丸はそのまま直進していき直線状にあったホールの扉と衝突、そしてあっさりと氷結させ粉砕する。
「相変わらず単純ねえ。こんな距離でそんな大技使ったって、当たる訳ないでしょう?」
「やかましい! チョロチョロするな!」
 ファルティアは再び右腕を振り上げてぶんぶんと大振なブロウを繰り返す。
 最初のファルティアの攻撃を合図に、サーッとホールに居た凍姫の人間達は素早く外へ避難を始めた。ファルティアの全力で放たれる術式は、幾重にも法術で強化されたホールの壁を容易に抉り亀裂を走らせていく。それほどの術式を浴びせられつつも、ルテラはあらかじめそれを分かっているかのように難なく身を躍らせてかわしていく。
 怒りを露にした凄まじい形相のファルティアに対し、ルテラは笑顔すら浮かべている。その笑顔とはファルティアの単調な攻撃を嘲笑っているのではなく、こうして手を合わせている事に充実感を感じているかのような、心から今の時間を楽しんでいる表情だった。時折、おどけて分身を術式に当ててみたり、わざとファルティアの背後に回って背中を突き飛ばしたり。模擬的な戦闘とは言え、ルテラにとっては長らく遠のいていたその特殊な空気を味わう事は、心地良い緊張感をもたらして靄のかかった思考をクリアにしていき、自らの中に『充実』という主観的な快感を作り出す。
 確実に自分が時を自身で刻んでいる事をルテラは実感していた。そう感ずるのは、これまでに自分の時間が止まっていたからであり、それが故の錯覚だった。けれど、その感覚があくまで表面的な事である事にもまた気がついていた。過去を振り返り、そこに囚われる行動は止めた。しかし、心は未だに過去に囚われている。今のルテラは心と体の繋がりを半ば断ち切った不安定な状態である。受け入れ、そして乗り越えてない事実に蓋をして、しかし表面的にはさも断ち切ったように振舞う。それは自分自身が二つに分裂したような、白と黒に分かれる奇妙な感覚でもあった。しかし、それも悪くはないとルテラは思った。少なくともこうする事で、自分は周囲と同じ時間を刻む事が出来るからだ。いつまでも止めたままでは、スファイルだけでなく周囲の誰からも取り残されてしまう事になる。孤独になる事は何よりも嫌だった。自分が孤独に耐え切れない人間である事は、これまでの現実逃避から嫌というほど思い知らされている。少なくとも、二度とあんな行動を起こすまい。それがルテラの踏み出した第一歩目だった。
「ほらほら。そろそろ息が上がってきたんじゃない?」
「やかましい! あんたもでしょうが!」
 冷気の充満したホールで、白い息を吐きながら汗にまみれる二人。互いに相手を牽制するような言葉をぶつけ自らの余力のなさを隠そうとするが、以前として終わらせようとする気配はなかった。それは引っ込みがつかなくなったという訳ではなく、ただ相手よりも先に引きたくないという意地のぶつかりあいだった。どれだけ体が疲弊しようとも、相手よりも自分の方が上であるという執念と言う名の固執は、時に疲労をも凌駕する。
 そして。
「何の騒ぎです?」
 と、その時。
 もはや二人だけになってしまったホール内に、刃のように鋭い声が凛と響く。同時に、ホールに充満していた冷気を、更に飲み込まんばかりの凄まじい冷気の奔流が雪崩れ込み始めた。その突然の乱入に、二人はハッと息を飲み背筋に走った冷たいものに動きを止める。
 その冷気はあまりに巨大で凄まじい存在感を持ち、二人は巨大な怪物に飲み込まれるような恐怖感を覚えた。互いにある程度自分の実力には自信を持っていたのだが、その冷気は二人の自尊心を完膚なきまでに叩き潰せるほど、ただ圧倒的としか言いようがなかった。威圧感だけで呼吸が封じられ、流れていた熱い汗は一瞬で凍りつく。代わりに流れてきたのは、感情の発露に伴う冷たい汗だ。
 ゆっくり、ぎこちなく振り返る二人。蛇に睨まれた蛙、という言葉が頭を過ぎる。
 そこに立っていたのは、『般若』という比喩表現がそのまま当てはまる、尋常ならぬ空気を漂わせたミシュアだった。



TO BE CONTINUED...