BACK
あの日から一週間が経った。
僕は相変わらず毎日夜叉の訓練所に通っては、レジェイドとかに格闘技を教えてもらってる。けど、唯一つ違うのは。あれからレジェイドが僕と組手をする回数が増えた事だ。
「なんだ、もうバテたのか? 情けねえなあ」
ぜえぜえと肩で息をする僕を、レジェイドがいつもの余裕に満ちた表情で小馬鹿にするように見下ろしてくる。すぐに僕は反論してやろうとするのだけれど、呼吸がままならない内は言葉を話すどころか反論の言葉すら考える事が出来ない。とは言っても、たとえ万全の態勢で望んだ所で僕がレジェイドを言い負かした事が一度もないのだけど。
「……うるさいっ」
そして、ようやく搾り出した言葉は何の捻りもないそのたった一言だけだった。額から流れる汗を拭って見上げると、案の定レジェイドがニヤニヤしながら腕を組んでいる。疲労がずしりと圧し掛かり僕を床に押し付けようとする。レジェイドはまるで僕がそうなるのを待っているかのように見えた。
「僕は……まだだっ」
レジェイドに馬鹿にされる悔しさを原動力に、なんとか気力を振り絞って立ち上がる。けれど膝が僕の意思とは別にぶるぶると震えて力が入らない。立っているだけで精一杯で歩く事なんかとても出来やしない。
「そうかそうか。じゃあ、もう一発」
と。
レジェイドが組んでいた腕を解くと、体をくるりと捻りながら回転させる。
来たっ!
僕はすぐさまレジェイドの攻撃に備えて防御態勢を取った。この予備動作で次に来るのはハイキックだ。これを頭に食らったら一瞬で意識が飛んでしまう。ガードは左腕に右腕を添えて支え、側頭部を守るようやや高めに構える。ハイキックで狙う部位は首筋から頭頂。どこも人体では急所だから、もしも防御しなかったら死んでしまってもおかしくはない。そんな緊張感もあってか、ガードに構えた腕にじっと力を込める。
が。
レジェイドの体が急激に低く沈んだ。そして頭よりも高く振り上げられるはずの右足は、床の上を削るようにすれすれの所を滑ってくる。
「うわっ!?」
そう声を上げた瞬間、僕の体はレジェイドに両足を払われて宙を浮かんでいた。世界が一瞬真横に傾く。そして一呼吸置いた後、僕は横倒しになって床へ落ちた。変な角度から落っこちたせいか、左腕にじんわりと痺れが走る。
「ったく、さっき俺が言った事をもう忘れたかのか? ハイキックみたいな動作の大きい技は布石も無しでいきなり使わねえ、って言ったばっかじゃねえか」
レジェイドは大きく溜息をつくと苦笑いを浮かべて俺の元へ歩み寄る。
「それにだ。大体、お前みたいなチビ助に足なんか上げるか?」
またもあのニヤニヤと人を小馬鹿にするような笑みを浮かべると、僕の頭をポンポン叩く。
背の事は気にしてるのに。
思わずカッとなった僕は腕を振り上げてその手を払おうとするが、レジェイドはそれを読んでいたらしく一瞬先に手を離し、僕の手は空を切った。自分の行動が読まれていた事に、一層苛立ちは募る。
「さて、もうそろそろ昼休みだ。お前は先に着替えて休んでろ」
そう言われ、僕はホールの正面、天上近くにある天覧窓から、北斗の中心に立っている大きな時計台を見やった。ここからでもはっきりと針の位置が分かるほど大きなその時計は、丁度十一時三十分を指している。昼休みは十二時から、当然まだ休むには早い時刻だ。
「僕はまだ休まない」
「はあ?」
もう一度立ち上がりながら、僕は踵を返そうとしたレジェイドを呼び止める。するとレジェイドは露骨に怪訝な表情を浮かべて振り返ると、やれやれと言いたげに苦笑いする。
「そういう口はちゃんと一人で立ってから言いな、お姫様」
と、レジェイドは僕を鼻で笑って握り拳を作り、僕の額の前に構える。何だろう、と見やると、急に指が一本伸びて額を弾いた。驚いた僕は立ち上がりかけていたのがバランスを崩して再びお尻から後ろへ転倒する。
「あんま無理すんな。気張り過ぎたって強くなんねえぜ」
レジェイドはヘラヘラと笑いながら向こうへ行ってしまった。
夜叉の訓練所に一つだけある大ホール。そこは大人を百人以上も余裕で収納し、尚且つトレーニングも出来るスペースが確保出来るほどの広さを誇っている。ここには夜叉に入ってから平日は毎日かかさず通い続けてる。夜叉の人達も特に仕事がなければ大概はここに集まってトレーニングに励んでいるので、見渡せば見渡しただけそんな風景が見える。僕もまたそこに混じってトレーニングをしているのだけど、レジェイドに基本的な技とかを教えてもらうようになってからまだ日が浅いせいだろうか、どうもいまいちまだ溶け込めてない気がする。第一、ここには僕と同じ年代の人なんていないから、ただでさえ話すのが苦手な僕は自分から誰とも話そうとしないから仕方がないのだけれど。
いちいち腹の立つ……。
レジェイドの姿が遠ざかってから、僕は誰にも聞こえないように小さく舌打ちする。
さて、いつまでもこうしていても仕方がない。
僕は這いつくばるようにして何とか立ち上がると、ふらつきながらホールの出入り口へ向かった。一歩一歩を確かめるように歩いていく内に、徐々に感覚が自分の管理下に戻ってくる。けれど相変わらず体は重く、平衡感覚も定まらなくて時折ふらふらと左右にぶれてしまう。
ここまで体が疲れるのはもう日常茶飯事で、こんな感覚に身を浸すのは慣れていた。ただ、いつもの事ではあるんだけれど、レジェイドにあんな風に馬鹿にされるたびに『僕は本当に強くなれるのだろうか』という不安を感じずにはいられなくなる。強くなるには一日一日少しずつ地道に修練を積んでいくしかないのだけど、本当に僕はその一歩を踏んでいるのか分からないのだ。いつまで経ってもレジェイドには馬鹿にされ続けてるし、相変わらずまるでかなわない。だから僕は自分がいつまでも同じ場所で足踏みしているような気がする。
ホールを出て廊下に抜けると、急にざわめきが遠ざかって物寂しい感じがした。一人でいる事には慣れてはいるけれど、好きな訳でもない。ただ、僕は友達がいないしどうやって作ればいいのかも分からないから、必然的にそうしている時間が長くなる、いつまでもこんなんじゃ駄目だと漠然とは思っているけど、結局いつも何も出来ずに躊躇して終わっている。
僕はホールの近くにある更衣室へと向かった。
更衣室は同じ部屋続きでシャワールームがあった。一度に五十人も使える、広く大きな所だ。僕は自分に割り振られたロッカーを開けて汗ばんだ服を脱ぎ着替えを出すと、シャワールームへと向かった。入ったシャワールームは誰も使ってる人がいなくて、しんと静まり返っていた。誰かがいればいたらで気まずい感じがするのだけれど、いない時にはいない時なりの気まずさのようなものがある、僕はまるで人目を忍ぶように突き当たりのパーティションに入った。
コックを捻り、しばらく冷たい水を流す。しばらくする内に水はお湯に変わった。北斗では珍しくないそれだけれど、初めて見た時にはとても驚いたものだ。僕の知識では、お湯は水を汲んで何かの容器などに入れ、それを火で焚かなくては作る事が出来ない。それがコックを捻るだけで出るのだ、驚くなと言う方が無理だ。北斗には、こういった生活の利便さを高めるため、厳密な魔学に則って作り出された特殊な魔力処理が施された設備がちらほらとある。どういう仕組みでそうなってるのかは分からないけれど、それらがこんなに簡単にお湯を作り出してくれるのだ、そう考えると、ただただ凄いと思うしかない。
熱いシャワーが僕の頭に降り注ぐ。その心地良さに、汗と一緒に体の疲れも流れ落ちていくような気がした。まだ、トレーニングは午後もあるからあまりのんびりとする訳にはいかないのだけれど。
シャワーの心地良さに疲れが紛れてくると、急に空腹感が込み上げてきた。朝食はレジェイドに作ってもらってちゃんと食べたけれど、午前中のトレーニングの激しさは、たとえ二倍も食べていたとしてもこのぐらいの空腹になるほどのものだ。特に夜叉に入ってからはしょっちゅうお腹が空く。自分では満腹まで食べてるつもりなのだけど、本当に幾ら食べてもきりがないくらいだ。その割に、レジェイドは僕に『ちゃんと食べてるのか』とかいつも口うるさい。それは多分、僕がいつまでも背が小さい事を馬鹿にしているのだと思う。
コックを閉めて体を拭いて着替え、更衣室を出る。髪の毛の先がじっとりと濡れ、時折頬や額に張り付く。そのたびに僕は髪をかきあげて濡れた肌を拭った。
訓練所を出ると、火照った体に涼しい風が吹き付けてきた。もうそろそろ季節も寒くなる。北斗はどれぐらい雪は降るのだろうか。僕の住んでいた所はかなり降る所だったけど、そこに比べてそれほど寒くはないからあまり降らないかもしれない。
過去と今とを自然に比較出来る。
そんな自分に少しだけ驚きを感じる。考えてみれば、ずっと忙しくて前の事なんて考える暇もなかったから気がつかなかったけど、僕は生まれ故郷を離れて見知らぬ土地で暮らしてるんだ。見知らぬ土地で、見知らぬ人に囲まれて、今まで縁のなかった世界に飛び込んで。あの村から一歩も出た事のなかった僕が、よくもこんなに続いてると思う。こういうのが、大人になるって事なんだろう。
そういえば。
ふと僕はこの間の事を思い出す。
レジェイドもルテラも、一週間前の事はほとんど教えてくれない。幾ら訊いても、もう終わった事だ、とまともに取り合ってくれないのだ。僕は薄っすらとしか記憶には残っていないのだけれど、何か良くない事があったぐらいは分かる。まず、あれ以来僕は精霊術法が使えなくなっているのだ。ルテラに訊いても曖昧に誤魔化すだけで何とも言ってくれない。何か理由があれば説明してくれるんだろうけど、それを言わないというのは絶対に何かを隠してるからだ。
何故、僕に知らせてくれないのだろうか。子供だから知らなくてもいい? そんな事はない。僕はそこまで子供じゃないし、自分の問題なんだから知る権利があるはずだ。どうしてそんな妙な気の使い方をするのだろう。疑問を通り越して少し腹立たしい。
でも、今はこれでいいのかもしれない。精霊術法は使えなくなったけれど、レジェイドは以前にも増して格闘術を僕に厳しく教えてくれる。ちゃんとトレーニングを続けていれば、今はどうか分からないけれど、いつか絶対に強くなる事が出来るはずだ。多分、いちいち考えてもどうにもならない事を考えたって仕方ないんだと思う。今の僕に必要なのは、レジェイドやルテラが示してくれる正しい道を向かっていく事だ。
それにだ。
いつか、誰にでも認められるほど強くなったら。僕だってレジェイドと肩を並べられるだろうし、今みたいに子供扱いされなくなるはずだ。だから今は我慢してトレーニングを続けるべきだ。僕は自分で強くなる事を望んだのだ。そうなるにはまず、強い人から学ぶのが一番の近道のはずだ。そしてその強い人が僕の身近には沢山いる。後は僕の意思次第だ。
「とは言っても……」
レジェイドの、人を小馬鹿にしたあの態度。
ルテラの、僕をまるで子供としか見てないあの扱い。
どっちもムカつく……。
TO BE CONTINUED...