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目も心も奪われる。
その光景を前に、俺は元よりルテラまでもが先ほどまで滾らせていた感情を嘘のように忘れて見入っている。
「さあ、恐れる事はありません」
高々とそびえる雪山のように大きなシャルトの白い障壁。それを前に『遠見』は、本来外部からの如何なる衝撃をも跳ね返すはずのそれを、まるで水の中へくぐらせるかのように自分の右手を差し込んでいく。『遠見』の右手は抵抗らしい抵抗も感じさせず、するりと入り込んでいく。何故そんな事が起こるのか、もはやその理屈やカラクリなど考えるのは無意味だろう。常人には到底到達の不可能な高みだってある。
そっと差し伸べる『遠見』の右手は真っ赤な血に染まっていた。先ほど俺の斬撃を受け止めた時についたものだ。左手もまた『断罪』の術式を受け止めた時から真っ赤な血に染まっている。差し伸べたその手からはぽたぽたと血の雫が伝い落ちている。救いの手と呼ぶにしてはあまりに痛々しい姿だ。
しかし、『遠見』の呼びかけにもシャルトはしきりに首を横に振って拒絶し続ける。それでも『遠見』は優しげな声で語り続けながら手を差し伸べ続ける。だが決して障壁には右手以上をくぐらせる事をしなかった。それはシャルトをこれ以上追い詰めないためなのだろうか、そんな『遠見』なりの配慮にも見えた。
俺はそんなシャルトと『遠見』のやりとりを見ている内に、不思議と苛立ちに似た居た堪れない感情に苛まれ始めた。
嫉妬、しているのだろうか?
ふと俺は自分が苛まれるその感情についてそう考えた。俺は自分こそがシャルトを助けてみせると、そう意気込んでいた。しかし、暴走したシャルトの前に俺はこの通り結局は何も出来ずこうして『遠見』に何とかしてもらおうとしている。本当はまず最初にそんな自分を『情けない』と思うべきなのだろう。けれど今は、自分よりも遥かに力に恵まれた『遠見』に嫉妬を抱いてしまう。
何を考えているんだ。さもしいったらありゃしない。
俺は頭を振ってそんな感情を全て追い出す。とにかく今はシャルトが助かればそれでいい。それでいいんだ。
と。
まるでガラスが割れるような独特の乾いた音が響く。
シャルトが築いていた白い障壁が粉々に砕け散っていた。無数の白い粒子が中空を霧のように漂い、吹き込んできた風に舞い上げられゆらりと揺れて掻き消える。それはどこか幻想的な風景でもあった。障壁は『遠見』が破壊したのではなく、シャルトが自分の意志で解除したようだ。暴走状態の時は決して魔力が枯渇する事はなく、むしろ有り余るほどになるから術式が無軌道になる。だからこそ、障壁が崩壊したのはシャルトが自らの意思で解除したに他ならない。
とはいっても、それは普通ではあり得ない事だ。暴走中の術者は自らの欲望に極めて忠実になり、それを満たすために精霊術法を行使する。しかし欲望が満たされればそれで満足して術式を止める事はなく、更なる欲求を果たそうと際限なく術式を行使し続ける。暴走した術者を止める手段は二つに一つ、術者の意識を喪失させてチャネルを強制的に閉じるか、もしくは物理的に殺すか。そのどちらかだ。にもかかわらず、今のシャルトはそのどちらにも当てはまっていないクセに術式を行使する事をやめた。それは一体何故か。考えれば考えるほど胸が苦しくなる。
理由が分からない訳ではなかった。ただ、どうしても認めたくないのだ。
それはつまり、シャルトが『遠見』を受け入れた、そういう事になるからだ。
「父たる主は無限の愛を持って人の子を慈しみます。何も恐れる事はありません。あなたは常に主の愛に守られているのですから」
いつの間にかシャルトは泣くのを止めていた。そればかりではなく、俺なんかにはまるで見せた事もない安堵の表情を浮かべて『遠見』を見上げている。俺の苛立ちは更に深まり、気がつけばぎりぎりと左手を必要以上に握り締めていた。俺は明らかな敵意を『遠見』に向けていた。もう、少なくとも感情レベルでは隠す気にもなれない。なんだかんだ言って、やはりどうしても浄禍の理屈は好きになれない。今の言い草にしたってだ。シャルトを守ってるのは訳の分からん神様ではなく、俺を始めとする周囲の人間だってのに。しかもそれにまるで気づかないシャルトの純粋さと言おうか馬鹿さ加減と言おうか、とにかくそれが何ともやりきれない。
そして、『遠見』はそっとシャルトの額に手を置く。『遠見』の右手は血に塗れているはずなのだが、血の雫はぴたりと張り付いたかのように垂れ落ちない。それどころか今度は彼女の指先に集まり始めた。
「汝、御心と共にあれ」
スッと『遠見』の指がシャルトの額をなぞる。そこに血で描かれた赤い一本の線が浮かんだ。だがそれはすぐに自分の意志を持ったかのように動き出し形を変えていく。一本の太い線が幾本もの細い線に分かれ、ある線は曲線を描き、またある線は他の線と交わる。そうして遂には何やら古代文字のような見たこともない文章を形作った。
「いと澄みし者よ、闇から抜け光が照らす場所に行きなさい。神はいつもあなたを見守っています」
そして『遠見』は人差し指と中指を重ねてシャルトの顔にかざす。その指先は白く柔らかな輝きを放ち始めた。指がシャルトの額に描かれたその文章をなぞって行く。滑るように踊る指から放たれた光は長く尾を引き、全く同じ文章を空間に描いていく。
「封」
と、『遠見』の指先と空間に浮かんだ文章が眩しく閃いた。次の瞬間、シャルトの体が急に力を失ってがっくりと前のめりに崩れ落ちる。あ、と俺は声を上げて飛び出しそうになる。けれどシャルトが地面に屈するよりも早く、その体を『遠見』が優しく抱きとめた。
シャルトは眠っていた。それも多少周囲がやかましくとも聞こえないほど深い眠りだ。
今、シャルトは俺の部屋の、かつてはルテラが居た部屋で寝泊りさせているのだが。あいつはいつも夜はほとんど寝ていない。眠りが浅いのではなく、少し眠っては強引に目覚めるのを繰り返しているのだ。シャルトは眠ると必ずと言っていいほど悪夢を見て、そのせいで夜中に突然悲鳴を上げる事も少なくはない。慢性的な睡眠不足で、本当によく体がおかしくならないのか不思議なほどだ。眠い不快感よりも、悪夢を見る方がずっと苦痛なのである。それがどうだ、今のシャルトはあんなに安らかな表情で眠っている。悪夢など嘘のように忘れ、心の底から安心しきった表情だ。
「今は眠りなさい。そして目覚めた時、もうあなたは自分で歩けるでしょう」
その時、微かに『遠見』の横顔が見えた。『遠見』はまるで母親のように微笑んでいた。以前、何かの本の挿絵で見た『聖母』とかいうタイトルの絵を連想してしまう姿だ。
そんな『遠見』に抱かれてシャルトはすやすやと眠りこけている。赤の他人であるはずの『遠見』にどうしてそこまで安心するのか。思わず俺はつかつかと『遠見』の元へ歩み寄った。
「おい、今何を……」
「案ずる事はありません。全ては御心のままに」
振り返った『遠見』は目を閉じたまま、にこやかな笑みを浮かべた。
いや、だから俺にはその御心ってヤツが分からんのだが。
感情のやり場が分からず、俺は顔をしかめたまま視線を右往左往させる。
「今後、彼が精霊術法に振り回される事はないでしょう。しかし、それにも増して幾つもの困難が立ちはだかります」
と、その時。何の前触れもなく、『遠見』が目を開いた。思わず俺はハッと息を飲んだ。『遠見』のその目は、青い眼球に深紅の瞳というとても人間とは思えないものだったからである。
「彼の命をここで断つ事は神意に反します。しかし、その事によって彼は多くの困難に打ちひしがれるでしょう。あなたには、彼に如何なる困難にも立ち向かう強さを与え、今の純徳さのまま良く導く自信がありますか?」
じっと俺を射抜くように見据える異形の眼。俺は目に見えぬ眼力に射ぬかれたような錯覚を覚える。思わず鳥肌が立ちそうなほど不気味な眼だが、それは俺の心内の何もかもを射抜くようだった。そして如何ともしがたい惹き付けるものを持っているため、どうしても『遠見』から視線をそらす事が出来ない。
そして俺はしばし呼吸を忘れて、『遠見』の問いに対する返答を求めて思慮を巡らす。しかし、幾ら考えても答えは一つだけだ。今も昔もまるで変わらない、俺の主義だ。
「神意だとかそんな事は知らん。シャルトは俺の弟だ。シャルトが望むから俺は鍛えてやる。俺は自分の意思で思う通りにやる」
そう一気に吐き捨てるように言い切ると、俺は『遠見』からシャルトを奪い取り肩に担ぎ上げた。
シャルトの体はちゃんと食べてるのかどうか疑わしくなるほど小さく軽く、そして驚くほど冷たく冷え切っていた。にもかかわらず、これ以上にないほど静かな寝息を立ててぐっすりと眠りこけている。こんだけ派手に暴れてこっちの苦労も知らず。本当にいい御身分だが、何にせよようやくこうして自分の手に取り戻した事で張り詰めた気持ちが緩んでいった。と、ふと思い出したように体中のあちこちが痛み始めた。そういえば、シャルトには散々術式を貰っていて体中に凍傷が出来ていたんだった。シャルトの心配はもういいから、次は自分の心配をしなくては。
「あなたは神を信じませんか? それとも存在を認めませんか?」
そして。
踵を返そうとした俺に、『遠見』は立ち上がりながら静かな声でそう問うた。
またくだらねえ質問を。
俺は自分にはどうしても相容れないそれを一笑に伏す。
「クソ食らえだ」
けれど『遠見』は、それでも何も言わずにただ微笑むだけだった。何も言わずとも自分は全て分かっている。そんな言い含みを表情として表している。
あの異形の眼は既に閉じられていた。もう役目を終えたのだと言わんばかりに。
TO BE CONTINUED...