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「いかんいかん、あんまり昔の事で名前は忘れてしまったようだ。ああ、あれはどれだけ昔の事だったかな。もう随分になるな」
 依頼主はふらつきながらも酒に酔った人間特有の陽気さで、思うように回らない舌を駆使しながらやけに話したそうに言葉を続ける。
「当時はまだ戦闘集団にいてな。そりゃ今のように安定した生活は出来ず、毎日必死だった」
 思い出話。
 しかもそれは、見ず知らずの赤の他人、ビジネスでしか繋がりのない相手のものだというのに。シャルトの様子がおかしい。
 右から入って左から抜けていく、そんな他愛の無い話。しかし何故かシャルトはやけに表情を張り詰めさせ緊張している。いや、苛立ちと言ってもいいぐらいの穏やかじゃない雰囲気だ。誰彼に構わず噛み付くような、闘争心剥き出しの性格ではなかったはず。一体何がそうさせているのだろうか。俺にも分からず、ただただ事の行く末を傍観するだけだった。
「あの頃は田舎の村を幾つか抱えて無くては食べていけなくてね。まるでハイエナのように片っ端から嗅ぎ回っていたよ。自分達よりも弱い戦闘集団はないかとね。定住する戦闘集団は必ず食い扶持の確保に村を抱えている。それを戴ければ、今度は自分達が定住出来るからね」
 戦闘集団は基本的に、村や町を外敵から守る見返りに自分達の生活資源を確保してもらう体制を取っている。北斗はこういった体制を取っていないが、これはあくまで北斗の規模があまりに大きすぎるための特殊な例だ。特に弱小と呼ばれる部類の戦闘集団など、村を幾つも所有する事が出来ないため、その存続は極めて厳しくなる。
 ヨツンヘイムは無政府国であるからこそ存在する、戦闘集団。だがしかし、必ずしも全ての戦闘集団が本来の目的に準じた活動を行っている訳ではない。中には野盗紛いの活動で生計を立てている戦闘集団も少なくはないのだ。それは主に前述の小規模な戦闘集団に多く見られる傾向にある。理由も前述の通りだ。存続のためには致し方ない、と考える者もあれば、他に楽な方法があるのならば、と安易な方へ傾倒しただけの者もいるが。
「あれは……何という村だったかな。名は忘れたが、とにかくどこにでもある小さな村だった。そこは既に他の戦闘集団が所有していたんだが、都合の良い事にこちらよりも遥かに弱い連中でね。丁度、抱える配下の頭数が増え過ぎて困っていた所だ。渡りに船とはこのことだよ」
 半分野盗みてえな事やってんじゃねえか。
 思わずそう口にしそうになるも、咄嗟に言葉を嚥下する。たとえ口にした所で泥酔しているこの依頼主がそうと認識出来るかどうかは微妙なのだが、今は依頼主の話の先が聞きたくて仕方がなく、どうしても話の腰を折りたくはなかった。
「直接的な戦闘はなく、こちらからの申し出だけであっさりと向こうの戦闘集団は退いてくれたよ。あまり手傷も負いたくないからね。賢明な判断が出来る頭目で助かった。しかし、これが何一つ取り得の無い村でね。奪ってみたはいいが、とてもじゃない、腹の足しになるようなものは何もありはしない。そこで一つ面倒になったから、遊び半分で『何か気に入る供物をよこさなきゃ切り捨てる』みたいな事を仄めかしてみた。するとどうだろう、連中はよほど慌てたのだろうな、すぐさま女を一人、差し出してきた」
 くくく、と依頼主が髭の伸び始めた顎を撫でながら笑う。
 今、こうして間近で男の顔を見てみたのだが、なんて不快感を煽る表情をしているのだろうか。生理的に嫌悪感を感じてしまう人間は必ずしも存在しないとは言い切れんが、ここまで理由なしに不快に思う人間はそうはお目にかかれない。泥酔する他人の男を介抱する趣味もないが、今は雇い主だ。雇われている俺達は、契約が続いている間は忠実に付き従わなくてはいけないため、ただひたすらぐっと嫌悪感をこらえる。
「それが実にイイ女でね。こんな田舎でも居る所には居るものだと正直驚いた。勿体無いんで、部下にやる気にはならず私だけで囲っていたよ。どんな命令にも絶対服従し、涙一つ流さない。まあ、自分の村を守るため私の機嫌を損ねぬよう必死になっていたんだろう。だがそれ以上に、あの美しさは稀に見るものだ」
 目を閉じてひとしきり感慨にふけ、ゆっくり開くと自己陶酔にも似た虚ろな目がのぞく。そんなに忘れ難い女だったら、今はどうやら一緒ではないようだが、どうして手放したのだろうか。意見の不一致か、ただの不和が原因か。しかしそんなよくある理由とは無縁である事は明らかだ。それは、男の過去を振り返る様子が一つの恋愛を思い出すような仕草ではないからだ。言葉の一つ一つにその女への侮蔑が込められている。
 と、その時。ふと、依頼主は視線をシャルトに向けそのまま凝視する。唐突に視線を注がれたシャルトは若干の驚きの色を浮かべるものの、すぐに表情を戻し、今度は逆に依頼主を睨み返してきた。
 おいおい、なんて露骨な事をしてやがるんだ。
 シャルトの常識外れな行動に、ハッと息を飲んだ俺は背筋に冷たい汗が一筋伝い流れていくのを感じた。仮にも、元戦闘集団の人間だ。殺気に対しては人よりも遥かに敏感だ。万が一の時は、俺が依頼主の盾になってシャルトから守らなければ、シャルトだけでなく夜叉そのものが危うい立場に迫られてしまう。
 そんな危険に対する心構えも必要なほど切迫してきた、実に酒の席には似つかわしくない穏やかならぬ雰囲気だというのに。しかし依頼主はシャルトの行為を流しているのか、対照的に口元を綻ばせて嬉しそうに目元を歪める。
「君の髪は珍しい色をしている。その彼女もまた、そんな色をしていたよ。もっとも、珍しいのは最初だけですぐに飽きはしたがね。その内に孕んでしまい面倒になったんで厄介払いにしたんだが、やけにしつこく村の事を頼まれたよ。適当に頷いておいたんだが、こちらにはそんな気は毛頭ないんだがね」
 そして依頼主の微笑が、ははは、と声を上げる遠慮のない笑いに変わった。哀れみもない、ただただおかしくておかしくて仕方がないといった様子の笑いだ。
 ……外道だな。
 俺は不快感を堪えるべく奥歯を密かに音を立てて噛み締めた。
 元戦闘集団の人間でありながら、命の等価がどれだけ重いのかも分からず、無政府国に住む人間にとって戦闘集団がどれだけ重要なのかも分からず、ただ弱者を自分の戯れのために蹂躙するその何一つ恥じ入る事の無い姿勢。いや、戦闘集団だからこそ仮初の優位に立つ優越感に溺れてしまい、結果としてそんな鬼畜の価値観を形成してしまったのだろう。
 元、とはいえ、同じ戦闘集団の人間としてこういう戦士がいる事は非常に腹立たしい。もしも仮に、『そうする』事に問題が何一つなければ、たとえ限られたプライベートの時間を削ってでもこの国から排除してやりたい。同族嫌悪、とはよく言ったものだが、自分の生業をこういうやり方で貶める人種を見過ごしてやるほど俺は楽天家ではない。
 ―――と。
「……名前」
 ふとシャルトが口を開く。いつもはぼそぼそと小さな声でしか喋らないシャルトが、珍しく張った声を出している。
「その戦闘集団の名前は……?!」
 静かに重く空気を震わす、高波の前の漣を思わせるような覇気。戦闘の緊張感が生み出すものとも違う、荒々しい感情のうねりを脆弱な堤防で抑え込んでいる。今のシャルトはまさしくそれだった。
 怒っている。
 それは普段俺がちょっかいをかけて腹を立てているそれの比ではない。本気の心の底からの怒りだ。シャルトのそんな表情は初めて見る。人間誰しも、基準は違えど必ず怒りの感情は持ち合わせている。しかし概ねの部分は人種文化問わず共通している部分がほとんどだ。大まかに言えば、自分の領域を侵害された場合、人間は怒りを覚える。領域の対象とは、自分や家族などの有形もあれば、主義思想といった無形のものもある。それらが相まってテリトリーと称する自分自身とその日常が形成されるのであって、人間は最大限それを長く良く保つ事に努めるのだ。
 ならば、シャルトは何を侵害された事に怒っているのだろうか?
 今それを解き明かすキーになるのは、依頼主の思い出話だけだ。そしてシャルトはそれへ明らかに興味や疑問の域を越えた反応を示している。しかも噛み付かんばかりの勢いでだ。そんなにも興奮してまで追求する、依頼主が籍を置いていた戦闘集団の名前。そこに何があるというのだろうか。ただ、嫌な予感だけが頭に圧し掛かってくる。
「名前? ああ、私がいた戦闘集団の名前かね? 君達のような一流を前に言うのも気が引けるんだが、『毒竜』と名乗って、全盛期はそれなりの規模を持っていたのだよ」
 これが、シャルトの求める戦闘集団の名前なのか?
 毒竜なんて戦闘集団、俺はこれまで一度も聞いた事がない。いや、聞いた事があっても単に記憶にそれほど長く残っていなかっただけだろう。なんせヨツンヘイムには数百という戦闘集団が乱立しているのだ。北斗に近い戦闘力を持っている大規模の戦闘集団でもない限りは、憶えておく必要性は皆無と言える。
 その毒竜という戦闘集団、シャルトとどんな繋がりがあるのだろう?
 俺は思考を巡らせるもすぐに情報限界を迎えて煮詰まり、飛躍した推測しか上げる事が出来なかった。けれど、必ずしもそれが的を射外しているとも思えなかった。全てが全て間違っているという確証がある訳ではないからだ。
 と。
 ふと俺は、シャルトと依頼主との間にとんでもない温度差が生じた異様な構図を見た。笑う依頼主に静かに怒りを燃やすシャルト。傍から見る俺にはこれほどはっきりと分かるのに、当の本人達は気づいていないのだろうか。
 シャルトは必死で自分を抑えている。しかし依頼主は酒に増長された無神経さを持って、更にそこへ言葉を畳み掛けた。
「出来る事ならば、またああいう女を抱きたいものだ。田舎だったから名前も珍しかったように覚えてるんだが。名前名前…っと、そうだ確か―――」
 刹那、
「言うな!」
 部屋の中に張り裂けそうな勢いで響き渡る怒声。
 シャルトは顔を真っ赤に紅潮させ、両方の拳をぎゅっと硬く握り締めたまま叫んでいた。カタカタと歯を震わせ、目にはうっすら涙すら浮かべている。
 遂に押さえていた感情を爆発させた。いや、もしかすると爆発させるタイミングを見ていたのかもしれない。事の詳細を最後まで聞き出し、憶測を確信まで達せさせるために。
「母さんの名前を、言うな……!」



TO BE CONTINUED...