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 しんと静まり返る辺りの空気の重さは、誰しもがはっきりと肩に圧し掛かってくるのを感じ取った。ただ一人だけを除いて。
 スファイルは周囲に、場の空気が読めない鈍感な人間である、と思われていた。しかし、実際の彼はむしろ人一倍敏感であり、些細な感情の推移も手に取るように感じ取る事が出来た。けれどそういった過敏さは、少なくとも彼の日常生活においては苦痛となる事の方が多く、そのため彼はわざと鈍感に振舞うようになっていた。人の気持ちの分かる人間と思われる事を極力避けていた。それは、自分にはそれ以上の度量が無い事を知っていたからである。
 この空気の中で唯一、ルテラだけが質量を感じていない事をスファイルは誰よりも早く気がついていた。それだけでなく、この空気を作り出しているのが他ならぬルテラ自身である事、そしてこの空気を作り出した感情はどういったものなのか、目を覆いたくなるほど明確に感じ取っていた。
 ルテラの感情の激しさ、そしてそこに至るまでの経緯と理由を、スファイルは誰よりも理解してしまっていた。それだけに、一体どのような顔をしたらいいのか分からなかった。
「ルテラ……その」
 二人以外の人間は暗黙の内に口を閉ざし、二人から一歩退いた。二人の関係を知る彼らには、無粋な真似をする意思は一切無いからである。
 ルテラはうつむいたまま表情を見せない。そんな仕草がスファイルには見覚えがあった。まだ彼女が『雪魔女』というあだ名で呼ばれていた戦場での事である。
 話しかける事の出来ないスファイル。そして俯いたまま沈黙を続けるルテラ。
 それはなんとも奇妙な時間だった。ただ夢と違うのは、はっきりと苦痛を感じている事だ。罪悪感という苦痛を。その罪悪感は自分に対する良心の呵責という形で締め付け、漠然とした贖罪の表意を強要する。
「どうしてなの……?」
 ルテラが声を振り絞りそう訊ねる。スファイルは、はっと落としかけていた視線を戻した。
「これはどういう事なの? あなたがどうしてここに?」
 涙声で、今にも笑い出しそうな口調のルテラ。その声は決して愉快そうなものではなく、あまりに呆れ果て他に感情の発露を見つけられなかった、といった経緯がうかがえた。
「あなたは、本物なの……?」
 よく見ると、ルテラは震えていた。寒さのためではなく、破裂しそうな自分を抑えているためである事は誰の目にも明確だった。
 でも、心は冷えきっている。
「ルテラ……」
 スファイルはそっとルテラの前へ歩み寄り、包み込もうと両腕を伸ばす。
 しかし、
「触らないで!」
 ルテラは声を荒げてそれを拒絶した。スファイルはびくっと一度体を震わせ、覆うと伸ばした両腕をそのまま硬直させる。しかし、真から自分が拒絶されている事に気が付くと、別段諦めの表情を見せる事無くそっと自らの腕を収めた。
「ふざけないで……生きてるなら生きてるって、今までどうして言ってくれなかったの……!?」
「ごめん……」
「謝ったって分からないわよ! それとも、私の事が信用出来なかったとでも言いたいの!?」
「そんなんじゃないんだ。そんなんじゃ……」
 力無く、スファイルはがっくりと項垂れ弱々しい声で返事を返す。
 ルテラがこれほど感情的になって怒鳴る姿は見たことがあっただろうか。彼女は今、間違い無く自分の不徳に怒りをぶつけている。弁明のしようもない、自分の至ら無さに。でも、これは話さなければならない。真実を明らかにするのは義務である。何も言わずに目の前から消えた自分自身の。
「僕はただ、ルテラを巻き込みたくなかったんだ。僕が生きている事を教えたら、エス君……エスタシアの事、裏の顔も教えなきゃなくなる。エスタシアは目的のためには手段を選ばない、想像以上に冷酷なんだ。もしも彼が望まぬ機会に真実を知ったら、ルテラにも何かの危害が及ぶ可能性だって出てくる。そんな事になったら、僕にはとても耐えられない」
 スファイルの言葉をゆっくりと噛み締めるように十分な間を取った後、ルテラは俯いていた頭を上げた。
 その碧眼は『雪魔女』を思い出させるほど、冷たく青い炎を燃やしていた。ルテラは限界まで怒りを内在させ、何かしらのきっかけで一気に爆発させるタイプの発散方法を取る事をスファイルは知っていた。ルテラは怒りを感じ、そしてそれを爆発させまいと耐えている。だから案の定、正直に答えた自分の言葉がルテラに更なる苦痛を与えてしまったのだ。
「自分の身ぐらい、自分で守れるわ」
「だけど……。それ以前に、僕はルテラには戦って欲しくなかったんだ。ルテラは戦う時辛そうに見えて、ずっと本当は戦う事が嫌いなんだと思ってた。だから、僕がいなくなった後にルテラが守星になってるのは驚いたよ」
 薄っすらと微笑んで見せたスファイル。突然意外な表情を見せられ、僅かにルテラの目が驚きに丸みを帯びる。しかし、それは次の衝動に対する引き水にしかならない。
「でも! でも、私は頼りになるほど強くは無いかもしれないけれど、一緒に戦う事は出来るわ。あの時、ずっと一緒にいるって言ってくれたじゃない! なのに、どうして私を除け者にするの!? それとも、あの約束はあれは嘘だったの!?」
 まさに烈火としか言いようの無い、ただただ圧倒される激しさで声を叩きつけるルテラ。
 スファイルは威圧感よりも先に、胸をえぐられるような罪悪感に苛まれた。そもそものルテラの性格は、こういった激しいものとはまるで縁の無い温和で柔らかいものだ。例えるなら春の日差し。誰彼をも分け隔てなく温かく照らすような女性だったはずなのに、今目の前ではぎりぎりと歯を食いしばり目を真っ赤に腫らせながら声の限りを振り絞り自分を罵倒している。ルテラには何一つ非は無い。自分がこんな姿に変わり果てるまで追い詰めてしまったのだ。
 スファイルは不意に思った。自分との関わりは、ルテラの人間性をも汚しかねない、と。
 真に彼女のためを想うならば、自分が悪者になって彼女を突き放すべきだ。
 その考えに辿り着くと、次の言葉は極自然に放つ事が出来た。
「ごめん。あれは嘘だ……」
 あまりに自然に思いついたその言葉の苦さは、口に出した後で込み上げて来た。
 自分は何て事を言ってしまったのだろうか。
 だが、そんな後悔をする暇も与えられなかった。
 気がつくと、ルテラは力任せにスファイルの頬を張っていた。理性が吹き飛ぶ直前、自分の中で何かが切れるのを感じた事を覚えていた。手を出してしまっていながら、ルテラは自分でもどうしてそんな事をしたのか理解が出来なかった。何度殺しても飽き足りぬほど、スファイルに対してたとえようのない怒りをたぎらせていたのは事実だ。しかし、実際に手を出すつもりはさらさらなかった。ついさっきも、殴りたい衝動はあっても従う意志は微塵も無かったのだ。
 あまりに強過ぎる感情に耐え切れず、更に揺さ振りをかけてきたスファイルの言葉を無意識の内に止めさせようとしたのか、それともたた単純にこれ以上の彼の身勝手さに我慢がならなかったのか。ただ一つはっきりしているのは、たとえ理性を失っていたとは言え、スファイルに手を出してしまった事を後悔している事実だ。
「もう、これ以上は言い訳にしかならないからやめるよ。それに、何を言ってもきっと傷つけるだけでしかないから」
 スファイルはそっと頬を押さえ微笑を浮べてみせる。
 何故、まだ笑えるの……?
 未だルテラの動揺は続いていた、動揺はまるで激しい地震のように、思考のバランスを悉く奪い去っていく。自分が何を考えるべきか方向は分かっていた。けれど、そこに向かおうとしてもバランスを失った足が前に進んでくれない。動揺とは冷静さを欠いた状態だが、そんな自分を冷静に見つめるもう一人の自分は歯がゆさに地団駄を踏む。
「僕はエスタシアを倒すため戻ってきた。それが終わったら北斗から消えるよ。もう二度と、君の前には現れない。約束する」
 そう静かな声で告げ、踵を返そうとする。
「待って!」
 振り絞るような声で静止を叫ぶルテラ。
「待ってよ……そんな約束、誰も頼んでないわ」
「僕がそうした方がいいと思っただけだよ。僕はやっぱり死んだままの方がいい。今、それを確信したんだ」
「勝手に決めないで! 私がどう思うかなんて、あなたに何が分かるのよ! 人の気持ちも知らないで、五年もほったらかしにしていながら!」
「ごめん」
 ただその一言しか、スファイルは口にする事が出来なかった。だがルテラにとってその言葉は、拒絶を意味する言葉にしか聞こえなかった。自分の質問に対する一切の質問を拒否し、尚且つそれ以上の追求をさせない謝罪の言葉。口にするだけでかわせるその言葉を安易に口にするスファイルに、ルテラは幻滅せずにはいられなかった。
「あなたは卑怯よ……そうやって謝ってばかりで、いつも自分勝手な事ばかりするじゃない」
 そうだね、とスファイルは微笑み、そして完全に踵を返し背を向けた。歩を進める先は北斗総括部内。そしてその先、辿り着くであろう最後の場所には、今回の事件の首謀者にて実の弟であるエスタシアがいる。今の自分が存在する理由は、彼の命を断つ他にありえない。他の事に目を向ける余裕などはないのだ。
 だから、これでいい。
 そう、スファイルは自分に言い聞かせ、その言葉を噛み締めた。
 自分の身勝手さがルテラを傷つける。北斗のため、と銘打っても結局は自分のためだ。北斗を理由に、ルテラの質問から逃げ続けているだけにしか過ぎないのだ。
 誰も辛い思いをしなくても済む方法はあると思うが、自分はそんな器用には立ち回れない。下手な小細工をしようものなら余計に迷惑をかける。目の前のルテラの姿にそれを確信した。
「どこに行くの……?」
「無論、エスタシアの元に。でもその前に、レジェイドさんとシャルト君を探します。ここに来るまではそれらしい人と会いませんでしたから、きっとまだ総括部内にいるようです」
 スファイルは振り向きもせず背を向けたまま答える。その後姿はルテラの目に、やけに遠く映った。
 不思議だ、とルテラは思った。
 死んだものとばかり思い続けて、想いを刹那の空想に馳せていた頃よりも、こうして実際に手の届く距離にいる彼の方が、より遠くに感じられるからである。
 まだまだ胸の内に溜めたものは吐き出し尽くしていない。けど、彼は自分の言葉を最後まで待たずに先へと言ってしまう。どうして、自分を避けるのだろうか? 本当に言いたい事はまだ言えていないのに。まるで聞きたくないとでも言いそうな余所余所しい態度を取るのだろうか。
 ちょっと足を飛ばせばすぐに追いつく距離。けれど、ルテラは足を踏み出す意志を喪失していた。追う事を諦めてしまった、言うよりもスファイル自身を見失いかけていたからだ。自分の想う彼の姿はそこには無かったのである。
「ちょっと待った。だったら僕らも一緒に行くよ。丁度探してた所だからさ」
 その時、不意に飛び出したヒュ=レイカは、スファイルの前に立ちはだかり足止めをする。明らかに重傷を負っているヒュ=レイカなど、押しのけて先に進む事は訳がなかった。けれどスファイルは、ヒュ=レイカの放つ異質な空気に気圧され、その場につい足を止めてしまったのである。
「え? あ、いや、でも僕は……」
 僅かに狼狽するスファイル。するとヒュ=レイカは、そこへ更に鋭い言葉を打ち込んだ。
「ちょっとズルイんじゃないかな」
「何がです?」
「人には何も言わせず、自分だけ言いたい事を言うことだよ」
 うっと舌を飲み込むように息を詰まらされるスファイル。
 何時に無く鋭い眼差しのヒュ=レイカが放つ無言の圧力は、思わずスファイルをたじろがせるほどのものだった。非難というよりも、むしろ怒りのそれに近い。
「ほら、二人とも早く行こう。レジェイド達は建物の中にいるってよ」
 そうですか、とミシュアは軽く頷くと、俯いたまま立ち尽くすルテラを気遣うようにそっと背中を押し建物の中へ促す。ルテラはこくりと小さく頷き促されるまま建物の中へ向かうスファイル達の後に続いた。
 スファイルは決して後ろを振り返ろうとはしなかった。いや、振り返りたくとも振り返ることが出来なかったのだ。押し潰されそうなほどの罪悪感に苛まれた気持ちでは、今のルテラの姿を直視出来そうになかったからである。
 逃げる事は辞めたのでは無かったのか?
 そう問いかける自分自身に返す言葉は無かった。
 ただ、スファイルは気づいていた。自分は少なからず、エスタシアの問題を引き合いに出す事でルテラとの問題を先送りにしている事を。



TO BE CONTINUED...