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 母……親?
 シャルトの言い放つ意外なその言葉に頭の中が真っ白に漂白されてしまうほどの衝撃を受け、俺は一瞬意識を消失してしまいそうになった。言葉を認識し、それを理解するまでの時間がやけに長い。驚きによる動揺はかくも自分を脆くするのだと、改めて思い知らされた。そんな気がする。
 依頼主が酔いに任せた戯れに話した昔話、その中に出てきたある一人の不幸な女。ヨツンヘイムという荒んだ国に生まれたためか、弄ばれ人生を翻弄された女。彼女を追いやった張本人である本人の口から直接聞かされるのはヘドが出そうなほど耐え難い不快感を覚えるのだが、その哀れな女が、まさかこのシャルトの母親だとは。
 勘違いじゃないのか?
 まず初めに俺はそう思ったのだが、現にシャルトは依頼主が一度も話していない自分がかつて所属していた戦闘集団の名前を言い当てている。ヨツンヘイムに戦闘集団は大小合わせると数え切れないほど存在する。その中からそれほど大規模で有名でもない戦闘集団の名前を勘で言い当てるなど、偶然でも絶対にあり得ない事だ。しかもその上、依頼主は話の中に出てきた女の髪とシャルトの髪が非常に良く似ていると言い、その名前にシャルトは異常なまでの反応を見せた。北斗は人種のサラダボウルと言われるほど数多くの人種が集まってきているが、そこに長く住む俺ですらシャルトのような薄紅色の髪と瞳を持った人間は見たことが無い。ましてや名前までが同じという偶然なんて起こりうるはずがない。これら二つの要素が偶然に重なる確率は、果たして如何ほどになるだろうか? 少なくとも、この依頼主がシャルトの―――。あまり考えたくは無いが、そうである確率の方がずっと高いように俺は思う。
 最悪の巡り合わせだ。
 苦い思いに駆られた俺は、粘ついた唾液を大きな動作で苦労しながら嚥下する。先ほどまでとはまた違う緊張をしていた。柄にも無く、こういった場合はどんな行動に出ればいいのか分からなくて、表面上は冷静さを装っても腹の底ではじたばたと取り乱しているのだ。そして結局、ひとまずは様子を見るしかない、という無難な案に収まってしまう。
 感動の再会には程遠い、一触即発の修羅場。
 その状況が分かっているのか。依頼主は突然、大声でさも愉快そうに笑い始めた。
「そうか、あの女の子供か! ハッ、これは傑作だ!」
 ……は?
 俺は我が耳を疑った。男の口からあまりに予想外の言葉が飛び出したからだ。
 傑作? 何が傑作だ? シャルトが存在している事がそれほど愉快だというのか? ふざけやがって。シャルトがこれまでにどんな思いをしてきたのか何も知らないくせに。
 いい加減、俺も我慢の限界だった。感情の起伏が何度か断点的に臨界点を越え、その都度リアルな行動指針としてこの男をぶん殴る事を考えた。本当にこいつは殺してしまっても問題ないのかもしれない。ビジネスと切り離した率直な俺の気持ちだ。徐々に我慢している自分が馬鹿らしく思えてくる。
 互いに親と子である事を認識しているが、そうと認知はしていない。シャルトの目の前にいるのは、母親を弄り村を売った憎き仇敵、対して男の方は息子であるはずのシャルトを単なる過去の残滓程度にしか見ていない。それは親子の情が薄いというレベルではなく、単に人間を人間と思っていないだけなのだ。
 シャルトは、依頼主に『傑作』という言葉を正面から浴びせられ、うっと息を飲んで一旦立ち竦む。シャルトもまた、まさかそこまで酷い言葉をぶつけられるとは思っていなかったのだろう。何かしらの希望的観測もあったかもしれない。
 顔を下にうつむけ肩を震わせ始めるシャルト。体格に見合った小さな両拳は血が滲み出そうなほど強く握り締められ、それが更なる大きな感情の奔流を食い止める最後の砦に見えた。
 母親を嘲笑われ、自分を一笑にふされ、どれだけシャルトは悔しい思いをしているだろうか。
 俺はルテラのように人の気持ちを汲み取ってやれないから、完全には理解してやる事は出来ない。しかし、その悔しさを代わりに物理的制裁を持ってぶつけてやれる事は出来る。
 そうだ、もう我慢する必要はないんじゃないか? やってしまえ。どうせ酒の席の戯言だ。こちらも戯言で済ましちまえばいい。目的地まで眠らせたまま輸送しちまえば問題はない。どうせ契約さえ切れてしまえば、同時に一切の関係も切れる。何か文句を言って来れば、それこそ北斗が報復攻撃を行うに十分な理由になる。
 やっちまうか?
 だが、最後まで理性の壁が俺の行動をせき止める。そんな馬鹿な真似はよせ。手を出した時点で泣きを見るのは自分だ。冷静に考えてみろ。ただで済むはずがないじゃないか。
 自分はもうかなり来る所まで来ていると思っていたが、意外にもまだまだ理性の壁は厚く激情の突破を許しそうにない事にいささか驚きを覚える。そうとも、頭目である俺が真っ先にキレてどうするんだ。契約の続く間は、俺達北斗は仕事を迅速かつ確実にこなしていくだけの道具にならなければならない。その取り纏めを行うのが俺だ。船だって船頭が冷静でいなければ広い大海原で遭難する事は間違いない。それと同じ事だ。
「しかし、まさか北斗に居るとはな。あの女はどうした?」
 まるで瀕死の人間を踏みつけるような言葉を続ける依頼主。俺にはとても正常な神経を持っているようには思えなかった。どこか配線が一つ切れている。そうでもなければ言える言葉じゃない。
 シャルトはその問いに答えず、ただ黙ってうつむくだけだった。そんな姿を依頼主はニヤついた顔で見ている。
 まさか、知っていて聞いてるんじゃないのか?
 ふとそんな予感が頭をよぎる。
 俺はシャルトにこれまで両親の事を問い訊ねたことはないが、大方の予想はついている。それに北斗には『無闇に人の過去を詮索しない』という暗黙の了解がある。北斗にやって来る人間は様々な事情を抱えている場合が多いからだ。人生をやり直す意味で、あえて自らの名前を変えている者もいる。北斗にとって重要なのは今、そしてこれからの事であって、過去はそれほど特筆すべきファクターではない。
 そういった風潮の中で生きている俺にとって、無遠慮に過去をえぐろうとする依頼主の質問はとても見過ごせなかった。そんな問いに答える必要はない。そうシャルトに言ってやりたくなる。
 そして、依頼主は黙ったまま答えようとしないシャルトに、とうとう最後の言葉をぶつけた。
「やはり死んだか。まあ、あんな村一つにこだわって無謀な戦いをしたくはないからな」
 こいつ、まさか……。まさか、戦闘集団でありながら、防衛すべき村を放棄したのか?
 一般人を防衛する見返りに生活資源を提供してもらう戦闘集団にとって、生命線にも等しい契約を一方的に破棄するなんざ最大のタブーである。敵前逃亡は最大の恥、それをこう嬉々と話せるなんざよほど誇りの無い戦闘集団だったに違いない。いや、こんな連中を戦闘集団と呼称する事すら許し難い。たとえ今は存在しなくとも、そんな恥知らずな事が平然と行える徒党が公然と戦闘集団を名乗っていた事実そのものが許せない。怒りの行き場は消失してしまっているため、感情が腹の中で循環し内臓を焼いていく。俺は少なくとも自らの良心に反する事が無いよう、北斗という戦闘集団の存在意義を忠実に厳守している。だからこそかつて戦闘集団だった男の考え方が許せない。自分に対する冒涜とすら思えてくる。
 と―――。
「うわあああああっ!」
 突然、室内に獣じみた砲声が響き渡る。
 シャルトは遂に感情が最後の一線を超えてしまい、我も忘れた様相で飛び出した。天性の脚力を持って全力で踏み出したシャルトの体は凄まじい初速度で弾丸のように向かっていく。
 まずい!
 咄嗟に俺は依頼主を後ろへ突き飛ばすと、シャルトと依頼主との直線上に割り込んだ。その刹那、怒りのままに繰り出されたシャルトの拳が目の前に迫ってくる。俺がせっかく一から教えた格闘技の基礎などまるで無視した、本能が赴くままに放たれた攻撃。突き、と呼ぶにはあまりに稚拙で、腕を振り回す、という表現の方がより正しい。
「馬鹿、やめろ!」
 シャルトの拳はあまりに直線的な動きであるため、受け止めるのは難しい事ではなかった。しかし、筋肉のリミッターが外れたシャルトが怒りのままに奮う威力は凄まじく、受け止めた手のひらがビリビリと痺れる。それでも俺は決して離さぬよう、二周りも小さいその手を強く握り締める。
「離せ! 邪魔するな!」
「落ち着け! 取り返しがつかなくなるぞ!」
 そう言って、シャルトが理解してくれるとは思えなかった。普段、滅多に激しい感情を見せないシャルトがここまで我を失ったのだ。相当な理由だからこそ退けないのだ。
 すぐさま俺に掴まれていない方の腕が繰り出されて来る。それを腕で外側へ押し出すように受け止めるが、シャルトは更に休む間もなく今度は足を放ってきた。俺は振り上げただけのその蹴りを後ろへ空かすと残った軸足を払い、そのままシャルトを床に押し倒す。そして立ち上がれぬように両肩を床に押さえつけた。
「離せ、レジェイド! あいつは、あいつだけは―――!」
 体の自由を奪ったというのに、シャルトは未だ収まる様子も無く顔を真っ赤にしながら暴れ喚き続ける。シャルトがどんな思いなのかはある程度は様子から汲み取ってやれなくも無いが、しかしここで手を出させる訳にはどうしてもいかない。北斗の規律は絶対だ。依頼主を傷つける事など決してあってはならない事。もしも犯してしまえば、死罪に相当する重罰が待っている。一時の感情だけで、シャルトにそんな過ちを犯させたくはない。
 だが、シャルトがやろうとしている事を、俺もまた心の奥底で望んでいるのも事実だ。理性で抑えきれなくなったシャルトと未だに抑え続けている自分とを比較している内に、俺は自分が何を抑えているのか分からなくなってきた。仕事と感情とは相容れない物同士だから、持ち込んでしまった時点で相克が起きて矛盾が生じるのかもしれない。
 後ろを振り返ると、そこでは俺に突き飛ばされた依頼主が床にへたり込んだまま唖然とした表情を浮かべていた。俺に突き飛ばされたせいなのか、シャルトに襲われそうになったからなのか。どちらにしても俺は、それほど長く注意を向けなかった。
 シャルトを押さえつけている腕の違和感に視線を戻すと、俺の両腕をシャルトが力の限り握り締めていた。そのまま潰してしまおうとせんばかりの勢いだ。俺との実力差なんか分かりきっているはずなのに、それでも尚、俺を押し退けてでも行きたいのか。
「駄目だ、シャルト。退くんだ。我慢しろ」
 その言葉がどれだけ辛いものだろうか。シャルトは元より、言った俺ですらそうとしか言えない事が悔やまれるほど辛い。しかしそれでも、今はそうするしか他にはないのだ。ここで誰かが抑えてやらなければ、一番辛い目に遭うのはシャルト本人なのだから。
「俺の命令は絶対だと言ったはずだ。ここは堪えろ」
 頼む、堪えてくれ。
 ぎりぎりと腕を締め付けてくるシャルトの握力と殺気だったその表情に、俺は願うような気持ちでそう言った。
 シャルトは満面に怒りと悔しさを湛え歯を剥き出しにしている。どうにかして圧し掛かる俺を振り払おうと必死の抵抗を繰り返し獣じみた唸り声を上げる。強い感情で理性を失った時、人間はやはり獣だと思わせる姿だ。他の動物同様、自分の本能に忠実に生きるのがいいのか、それとも理性という誓約を一生背負うべきなのかは分からない。けれど今は、今だけは、理性的であるべきだと思う。だから頼む、ここは止まってくれ。
 ―――そして。
「うわあああああああっ!」



TO BE CONTINUED...