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 北斗総括部最上階。
 そこは天守閣と呼ばれる、北斗において最高権力者のために作られ、北斗の中でも限られた人間しか入る事が出来ない、最も厳重に警備された部屋だ。
 広さにしておよそ五十畳。しかし、かつての持ち主は一人考え事をする以外に篭った事が無かったかのように、そこにはただ黒塗りの事務机と革張りのシートがぽつんと佇むだけだった。これだけ広い部屋に机と椅子しかないだけでも十分殺風景なのだが、この部屋には窓がたった一つしか無かった。それも特別横幅がある訳ではなく、大人が両腕を広げたほどの幅しかない、ごく有り触れた窓だ。それは防衛上の理由のためであり、侵入を企てる者の入り口を少しでも狭める意味がある。
 その殺風景な部屋の中。
 エスタシアは窓枠に背をもたれて腰掛けたまま、ただじっと眼下の景色を眺めていた。
 普段は精悍な顔立ちに優しい表情と、時には刃のように厳しく鋭い表情を浮べる彼だったが、今は酷く疲労感に満ちた覇気の薄い表情を浮べていた。
 疲労と言うより心労、もしくはもの憂げとたとえる方がより近いか。
 自らの分身のように決して手放すことをしなかった双振りの刀も、今は無造作に机の上に置かれている。
「迂闊ですね」
 突然、部屋の中央から女性の声が聞こえてきた。
 それはノックも無しに入ってきた無礼な行動という訳ではなかった。その部屋の重厚なドアはぴったりと閉ざされており、一分の隙間も空いてはいない。もう一つの出入り口となる窓にはエスタシア自身がいる。つまりこの女性は、まるで空気のようにどこからともなく部屋の中に入り込んだ、ということになる。
 エスタシアはちらりと視線を一度伸べただけですぐに向き直った。突然の来訪者にも何の驚きも見せてはいない。それは、彼が如何な出来事にも揺るがない平常心を持っているからではなく、現れた彼女が元からそういった存在である事を既に知っているからだ。
「剣士たるものが剣を手放すとは。特に今の貴方は多くの人間に命を狙われる身です。火の中に裸で飛び込むようなものですよ」
「そうでしたね。御忠告、痛み入ります」
 そう素直な微苦笑を浮かべるエスタシア。
 と、その時、部屋の暗がりから真っすぐ机の方へ歩み寄る、一人の女性の姿が現れた
 彼女の出立ちは、濃紺の修道着に深くフードを被るといった奇妙なものだった。何故、教会でも無いこんな場所にシスターが居るのか。そんな場違いな空気すら感じられる。
 修道女は机の上に並べられた双剣を手に取り、まるで床の上を滑っているかのような静かな足取りでエスタシアの元へ向かう。それに合わせてエスタシアは向きを部屋側へ座り直す。
 不意に修道女は、エスタシアの手が自らの持つ双剣に手が届く一歩外の所で何故か立ち止まった。
「何か?」
 まるでエスタシアに剣を返すまいとしているかのような行為。けれどエスタシアは何訝しがる事無く彼女に悠然とした表情で問うた。
「いえ。ただ、今の貴方ならば容易に殺す事が出来ると思いました。それだけです」
 まるで挑発するかのように露骨な言葉を放つ彼女。さながらエスタシアに対して不躾な挑戦状を叩き付けたかのように見て取れなくも無い。楚々としたその佇まいには到底似つかわしくない、陰湿で攻撃的な言葉だ。
 けれど、エスタシアはあえてかわしたのか、それとも初めからただの冗談として深く受け止めていないのか。ただ普段と変わらぬ笑みを浮べて彼女に応えた。修道女はそんなエスタシアの態度に満足したのか、口元に僅かな笑みの色を浮べる。そしてあんな挑発的な言葉を放った直後とは思えないほど、実にあっけなくエスタシアに双剣を渡した。
 本当にただの忠告だったのか。
 しかし、仮にも神に仕える者の言葉にしてはあまりに暴力的ではないだろうか。ただの忠告と考える余地も、他にもう一つ、別な意味が裏側に隠れているのではないだろうか、と考えても不自然ではないだろう。
 エスタシアは双剣を受け取るなり腰掛けていた窓枠から降りると、優雅だが決して無駄は無い動作で腰の後ろへ剣を差した。
 再び気を張り詰め直したのか、既にその表情に疲れの色は無かった。普段の毅然とした好青年の姿は、到底この北斗に悪夢のような戦場を作り出した首謀者には見えなかった。むしろ、少数で抵抗する憂国の士と呼ぶに相応しい。だがそれでは、娯楽物語のようなエンターテイメント的脚色によって安っぽい存在となってしまう。
 長い時間をかけ、慎重に綿密な下準備を繰り返し重ね、ようやく事を起こすまでに至ったエスタシアの手腕は、歳相応にない老獪なものを感じさせた。時間をかけてリスクを最小限に減らし慎重に事を運ぶやり方は、むしろ歴戦の老兵が取る戦略である。エスタシアは確かに血気盛んな性格という訳ではない。生真面目で神経質な気質であるため、人よりは幾分か何事にも慎重に立ち振る舞うだろう。だがそれは、これほどまでに大規模な野心を成し遂げようとするため、慎重さはウィスキーが熟成していくように老獪さへと変貌を遂げた。そうある必要性があったのだ。彼の場合、誰にしろある推移がたまたま極端だったのだろう。
「これで北斗は変わりますでしょうか?」
 と、エスタシアは不意に彼女へそんな質問を投げかける。だが、
「貴方が変えるのではありませんでしたか?」
 修道女は予め決められていたかのように、即座に答えを返してしまった。それにはエスタシアも意外だったのか、一瞬息を飲んで戸惑いを見せてしまった。しかし、彼女は元々躊躇いや悩みからは解放された人間である。それを考えれば意外というよりも妥当な反応だ。
「そうですね。少々、疲れで弱気になってしまっているようです」
「しばしお休みになられると良いでしょう。残党軍も体勢を整えるまではすぐに行動は取れません」
「では、それまでの間お任せします」
 そう言い残し、エスタシアはその部屋を後にした。
 総括部の廊下は細く狭い造りになっていた。明かりは一定間隔ごとに灯されている燭台の炎だけで、足元はぼんやりと暗がりに包まれている。たとえ大勢の敵に攻め入られようとも、一気に踏み入られないようにするための防護策である。
 深夜の廊下は薄暗く、そして不気味だった。
 エスタシアは占拠したこの総括部の内部に、北斗に対して公然と反旗を翻した今となってもあまり警備の人間を張り巡らせる事をしなかった。そもそも彼にとって総括部自体は落としてしまえば後はさほど意味を持たず、ただ一時的な駐屯地として使用するだけであった。もっとも、警備そのものを完全に軽視している訳ではなく、総括部に続くまでの主要ルートには全て警備網を敷いてある。北斗派はほとんど壊滅状態ではあるが、残党とて集結すれば軽視出来ない兵力になる。北斗を完全に制圧するまでは、本当の意味での油断は出来ないのである。
 下に降りれば降りるほど、徐々に人の気配が集まりだしてくる。そのほとんどが、この総括部へ当分の間留まるのに必要な資材の搬入と、不必要な物の廃棄に動く者達だ。ここで定義する不要な物とは、この総括部に残された全ての北斗に関する資料だ。エスタシアの目指す所には、旧体制の行政は一片たりとも必要としていない。これまでの政治のやり方が腐敗した北斗の体制を作り出した、とエスタシアは考えていた。
 確かに北斗は住む者にとっては良い街だったかもしれない。しかし、それはあくまで一昔前までの話だ。近年の北斗は、一見完成されていたはずの体制の弱点を続けざまに露呈させている。それは北斗に属する人間の意識の低下だ。北斗に入り戦闘集団としてこの街を守る事が一体どういう意味であるか、まるで考える事の無い人間が増え続けている。これに比例するように、一昔前までは天才と呼ばれたような人間が次々と現れ、更にはそれすら超える超天才とでも呼ぶべき人間まで出現している。つまり北斗は、単純な力量の平均は向上しているのだが、逆に精神面では大きく衰退しているのである。
 力ばかりが増大し戦士として最も大事な精神が失われていく北斗を、エスタシアは『肥え過ぎた豚』という言葉を持って評した。
 確かに戦闘集団は強くあらなければいけない。しかし戦闘集団の強さとは、単なる武力だけで決まる物ではない。如何なる状況においても決して挫けない忍耐力、迅速に対応する事が出来る統率力、そういったメンタリティな強さも必要不可欠なのである。
 これまでの北斗は、心技体全てにおいて優れた名実共に最強の戦闘集団だった。しかし今の北斗は、徒に力を求める人間ばかりが集まり、その上力に関してのみ才能に恵まれてしまっている。北斗の最強を支えたのは他ならぬ精霊術法だが、皮肉な事に力ばかりに比重の傾いた天才を多く輩出したのもまた、手軽が故の精霊術法だった。
 急速に増大を始めた力は、必ずいつしか北斗の崇高な精神を飲み込み、更には自分自身をも打ち滅ぼす結果となる。制御のつかない戦闘集団など、相応の力さえあれば倒す事など実に容易な事だ。そして、その危険性は身近へリアルに迫っている。ヴァナヘイムを吸収し国力の増強を果たした、ニブルヘイムの魔騎士達だ。
 単純な力だけでの評価ならば確実に北斗が勝つ。だが、知略を練られたり戦いが長期化してしまえば、北斗は末端から次々に破綻を始めて行き、あえなく敗北を喫してしまうだろう。たとえニブルヘイムを退けたとしても、今のままではいずれ自滅する事は目に見えている。だからこその決断だった。
 今一度、かつての北斗を取り戻すため。
 エスタシアは北斗にぶら下がるだけの人間をことごとく排除する事を選択した。
 今の北斗にいるほとんどの著名な実力者は害にしかならない。真に有能な人間など数える程度、もしくは一人として存在しないかもしれない状態だ。そのためエスタシアは、抱き込めるだけの実力者を抱き込む事から始めた。精神の未熟さという問題点はあったが、それは対象者を限れば解決出来る問題でもあった。忠誠心を植えつければ良いのである。
 彼が所有する神器がそれを可能とした。忠誠心も言い換えれば情報の集まりにしか過ぎない。神器によって作り出されたそれを埋め込むだけで良いのである。実力だけは確かな人間だ、これでエスタシアが求める理想の戦士が出来上がる。
 全てが順調に進んでいた。
 何名かはエスタシアが望んだ人材は得る事が出来ず敵に回ってしまったが、予想出来る範囲の誤差である。
 そもそもこの快進撃は長年慎重に進めてきた計画もさることながら、北斗十二衆で最強と呼ばれる流派を味方につけた事が一番大きいだろう。数での兵力差は明らかに分が悪い。しかし彼女らの力の前に、数というものは何の問題にならない。一人を倒すのも百人を倒すのも、必要な時間は全く同じ、一瞬の手間だからである。そのお陰で旧体制派の一角、流派『逆宵』を何の被害も無く壊滅させる事が出来たのだ。これで戦況はほとんど決まったようなものである。
 今現在、旧体制派は壊滅に近い状態であるものの、流派『夜叉』等はほとんど無傷に近い状態で残っている。北斗のどこかへ潜伏しているようだが、こちらも雪乱を倒すためだけに多大な被害を被った。残党が夜叉の元へ終結すれば軽視出来ない戦力となる。今重要なのは、残党狩りよりも自らの体勢を立て直す方だ。それに後戻りの出来ない旧体制派は、この先背水の覚悟で戦いを挑んでくる。これまで以上の苦戦を強いられると考えて問題は無い。
「エスタシア様」
 突然、背後からエスタシアを呼び止める声が聞こえる。常に周囲の気配は察知出来るよう注意網を張り巡らせていたというのだが。どうやら自分でも思っている以上に疲労は溜まっているようだ。
 足を止めて振り返ると、そこに立っていたのはファルティアだった。長いエメラルドグリーンの髪は薄闇の中だというのに目の覚めるような輝きを放っている。これほど目立つ人間が背後から接近したというのに。自分の不注意さに、再度落胆を覚える。
「すみませんが、少し休ませて戴きます。残務処理をお願いします」
「はい、分かりました」
 ファルティアは恭しく畏まった様子で伏目に一礼した。
 普段の彼女からは到底考えられない慇懃な仕草だったが、どこか不自然でぎこちないものがあった。不慣れである事は誰の目にも明らかである。むしろ形式を守るために行ったようなものだろう。
「あの。夜叉の件ですが、頭目とその親族一人を除いて逃亡を許してしまいました」
「いえ、構いませんよ。頭目が僕の恐れる一人でしたから」
 そう微笑むエスタシア。
 本当はそのように笑って済ませられるほど軽々しい問題では無かったが、彼女を責める事でどうにかなる訳でもない。ましてや不毛な罵声を浴びせるような行為は、エスタシアにとって最も嫌う所だ。
 現実が変わらないのであれば、その現実に合わせた対策を取ればいい。わざわざモチベーションを下げる行為を取るのは馬鹿のする事だ。不毛を知らずして生み出すのは愚の骨頂である。
「如何様に処置しましょうか」
「二人とも殺して下さい。速やかに」
 即座に答えたエスタシアの表情は仮面のように無表情だった。
 一瞬、ファルティアはエスタシアのあまりの凄味に目の奥へ怯えの色を浮べてしまう。
 上に立つ者の気迫とはこういうものか。そう感嘆せずにはいられなかった。



TO BE CONTINUED...