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北斗総括部内。
そこは反乱軍の襲撃によって俄かにざわめき立っていた。
部隊のおよそ三分の一は『浄禍八神格』の『聖火』、『邪眼』の指揮の下、残党軍の迎撃に出払っている。残った戦力は幾つもの小隊に分けられ、各中隊長の指揮で本部内外の警備態勢を取っていた。
人間の活動力が最も低下する明け方が近い事もあってか、警備中でありながらも潜めた声による私語や、目を盗んでのうたた寝をする者が多く見られた。おおよそ、警備態勢というものものしい事態に似つかわしくない、酷く緊張感が欠落した光景である。
もっとも、彼らには気を抜いても何ら問題は無い、その根拠となるものがあった。まず、本部内にはまだ浄禍八神格の内、実に六人が待機している事。そして、他の二人もまた残党軍の討伐に向かっているため、残党軍は誰一人としてここには辿り着けないであろうという事だ。
自分達が幾ら頑張ろうとも、どうせたかが知れている。
斜に構えた青臭さではなく、少しでも自分の手には負えないと感じたら、その全ての解決法を自分よりも優れた存在に丸投げしてしまう、いわゆる依存だ。だが、依存すればするほど、自らが決める己の限界線はとめどなく下回った所に引かれる。本当に実力が無い訳ではなかった。だが、同じ問題を解決するならば、わざわざ自分の命を危険にさらすような選択肢を選ぶ理由は無い。ただ、それだけだった。慢性的に人の心内に根付く依存と怠惰である。
自分達がわざわざ出払わなくとも、浄禍がなんとかしてくれる。
その一方で戦場に向かわされた者達は、何故自分らが出張る必要があるのか、と不平を露にしていた。もはや後の無い残党軍は死力を尽くして戦うだろう。それが分かっていながらも決して気を引き締めない意識の差が、圧倒的な戦力差をものともせずに勝敗をもぎ取って行くような事が現実として十分起こり得るというのに。一度緩んだ結び目は、誰が締め直さない限り一生そのままである。残った戦力を全て小隊に分けてしまった事が裏目に出た。今、彼らの怠慢を引き締めるべき人間は、極めて限定された範囲の部下しか引き締める事が出来ない状況を作り出されていたからである。
細分化された小隊には定時連絡という仕事が課せられていた。たとえ何事も無くとも、今の時点までは問題無かったという状況を報告するためである。
その任務を誰しもがただ作業的に淡々とこなしていた。幾つかの小隊をまとめる責任者には、これまでに発見した注意すべき状況や異常等を報告しなくてはならないのだが、その報告内容はただ異常があったか否かを知らせるだけに簡略化されてしまっていた。危険を事前にどれだけ察知出来、対策を早めに練ることがこのシステムの目的だったのだが。誰しもが過剰な簡略化を咎め立てする事をしなければ、どれだけ優れたシステムがあろうとも意味をなさない。作業化されたシステムなど、随時変化に揺れ動く戦況に対応出来る訳が無いのである。
北斗の完成されたシステムは、今回の事件を基にした分断によって完全に崩壊していた。システムとは、ある一定の結果を出力する絡繰だ。これまで北斗の人間達はその優れた絡繰の中に組み込まれ、明確化された自分の役割に従って行動していた。システムが優れていれば優れているほど、属する人間は考える必要が無くなっていった。北斗の強さは個々の意識の高さではなく、強固な組織体制にあったのである。いざ組織を離れた今、その意識の低さは見事に表面化した。優れたシステムは武力しか育てず、上からの命令を理解する以上の思考能力は持ち合わせていなかった。それが組織の秩序を守るために必要なものであったのだが、これまでと違って組織体制というものが確固としておらず、ただ漠然と、エスタシアを筆頭としてその他実力者を順繰りに考えているため、上から下への命令系統も形を成していない。さながら、頭を潰された蜘蛛だ。手足がどれだけ優れようとも、思考能力が無ければバタバタと騒ぎ空を切るだけだ。
「さて、と。行って来るか」
総括部三階、北東に位置する三十名用の会議室。そこに配置されているのは五名から構成される、流派『修羅』の隊員だった。
会議室の入り口に二名、室内に一つだけある窓の前に一名、左右両端の壁にそれぞれ一名。各々が各自の持ち場を無断で離れる事は無かったが、その警備姿勢は散々たるものだった。床の上にどっしりと腰を下ろし、その周囲に酒や料理を食い散らかしていた。持ち場さえ離れなければ良いだろうと、場所だけをキープしながら半ば昨夜から酒盛りを繰り広げていたのである。
この小隊を統率する小隊長は本来、こういった警備姿勢を率先して正すべきなのだが、驚く事に酒盛りの発案者は彼自身だった。他の小隊でも同じ事をしている。ただ、それだけが許可の理由だった。
浄禍八神格が居る以上、戦力的には何一つ問題が生ずる事は無い。しかし、それでも定時連絡だけは欠かす事が出来なかった。たとえ何の変化が起こっていなくとも、必ず決められた時間に報告に向かう事が命令されていたからである。個人的な判断能力を失った彼らにとって命令は絶対に服従するような強制ではなく、自分の行動指標を代理してもらう、いわばもう一つの自分であった。命令を下す存在が無ければ、誰一人として行動の判断が出来ないのである。
重い腰を上げたのは、この会議室を担当する小隊の小隊長だった。定時報告は各責任者の役割として分担されていたためである。
総括部の廊下は建物の規模に比べて狭く、大人二人が丁度擦れ違えるほどの幅しかなかった。もしも敵に攻め込まれた時、大勢の敵が一気に建物の内部へ入り込めないようにするための工夫である。
その狭い廊下を中隊長の居る中央ホールへ向かって歩いていく内に、他の区画を担当する小隊長達と合流していった。しかし廊下の狭さが原因し、一人も肩を並べる事が出来なかった。各小隊長が立て一列に並んで行進する様は、いささか異様で滑稽だった。
「時間通りだな」
そして。
定刻通り、中央ホールには三階の警備を担当する各区画の小隊長が勢揃いした。
三階を担当する小隊は全て流派『修羅』の隊員達だった。三階総責任者となる中隊長も、流派『修羅』においては上位に属する役職の人間である。
中隊長はホールの壁にかかっている時計で時刻を確認すると、早速定時報告を始めた。
しかし、どの区画にも侵入者があった等の事件は起きておらず、ただ前回の報告同様、何も無かった、と恭しく作業的に報告するだけだった。報告を受ける中隊長もまた、浄禍八神格が残党軍の討伐に向かっているため異変が起こるはずが無いと考えていた。そのため定時報告は、報告する側も受ける側も極めて作業的になっていた。たったこれだけの事をするために集まるのであれば、一時的に各区画の警備を手薄にしてまで行う必要性は無い。しかし、彼らにとって重要なのはそういった効率性よりも、命令を如何に忠実に遂行するのかという事だった。兵隊は、意味を考える必要がないのである。
ホールに集まったのは凡そ十数名ほどだった。たった一言で片付く定時報告に要する時間は全員分を合わせても、ホールに集合するためにかかった時間を遥かに下回った。それでも彼らは特にこれといった疑問を持たず、不平不満は多少漏らすものの、働き蟻のように命令を遂行していった。
最後の小隊長が簡素な定時報告を終えた時だった。突然、ホール内の照明が落ち、辺り一帯が足元も見えないほどの深い闇に閉ざされてしまった。
時刻はまだ夜明け前。外は夜の帳が降りたままであるため、ホール内で唯一の光源が落とされてしまうと、互いの姿などまるで見る事が出来なかった。
一体何事だ。
しかし、突然の闇にも誰一人として取り乱す事は無かった。おそらく何者かが侵入し奇襲攻撃を仕掛けてきたのだろう。となると、この闇に乗じて攻撃を仕掛けてくる可能性が高い。そうこの事態を冷静に分析すると、自らの感覚を視覚以外の感覚器官に集中させ、ホール内の全ての気配に注意を配る。内に秘められている殺気が一気に膨れ上がる。ホール内の温度が急激に低下し、一人一人の殺気が斑模様を描く。張り詰めた空気は今にもホールの壁を突き破りそうだ。
彼らは皆、実力を認められて今の役職を与えられた者ばかり。同じ修羅内でもいわば精鋭に当たる。視覚を閉ざされた程度で行動を制限される事はない。僅かな音や匂い、空気の流れを肌で感じる事だけで、十分に周囲の状況を把握するに事足りるのである。
このような精鋭揃いの場所に、幾ら照明を消したとは言え攻撃を仕掛けるなんて。
人並の常識を持つ者ならば、それがどれだけ無謀な事であるのか容易に想像がついた。こんな事を仕掛けるのは、よほど思慮に欠けた人間なのか、自信過剰な単細胞か。それ以外にもう一つ、考え得る可能性はあった。しかし、この状況でそんな存在が現れるはずは無かった。そもそも、旧体制派の戦力は全て把握し分析した上で、自分達新体制派は勝利したからである。
しかし、それは起こってしまった。
バタン。
突然、ホール内に人の倒れる音が響き渡った。
思わず一同は絶句した。このホール内には外部から侵入してきた人間の気配は一つとして感じられない。にも関わらず、味方が一人やられてしまったからである。
バタン。
バタン。
バタン。
まるで雨雫が滴り落ちるかのように、次々とその音はホール内にこだまする。
この音が一度響くたびに、修羅の小隊長がやられているのだ。しかも驚く事に、全く事を交えた音が聞こえてこない。つまり、小隊長達は皆、誰一人敵の気配に気づく事無く、音も立てられずにやられているのである。
何が起こっているというのだ。
いつしか修羅達の間に恐怖が込み上げてきた。
ただ、仲間の誰かが下手を打ってやられただけ、というのならば話は分かる。しかし、それがこうも続け様に起こり、その上未だに敵の気配を捉える事が出来ないのだ。
精霊術法を使わない流派は身体機能を徹底的に鍛え上げるため、他流派よりも必然的に感覚が鋭くなる。だが、それを上回る隠行術が使えるのは、今では存在しない流派『風無』だけだ。ならば、この侵入者は風無の生き残りとなる。けれど、これだけの精鋭が限定された場所に集まっているというのに、気配の一つも掴み取れぬような達人が居るはずはずはないのだ。
人間を一撃で仕留める事がどれだけ困難なのかは、人体構造を研究し尽くした流派『修羅』の人間ならば誰もが知っている。一撃で必殺する手段はそう幾つも無く、どれも非常に高度な技術を要する。まして、音も立てずに行うなど更に手段は限定される。
もし、この侵入者がこの方法を習得していると仮定してもだ。人は誰でも、生物を殺す時は少なからずの殺気を放つ。まして殺気も無しに人間を殺す事など不可能なのだ。
これだけの精鋭が集まっている中、気配一つ捉えさせず、音も立てずに次から次へと片端から瞬殺し、その上殺気は全く放っていない。
そのような人間など、これまで史上を含めて一度も聞いた事が無かった。そもそも、人間である以上そんな事は不可能に近いのだ。もしも存在するというのならば。それは間違いなく、怪物である。
やがて、人の倒れる音が聞こえなくなった頃。修羅中隊長はようやく暗闇に目が慣れてきた。
音が聞こえなくなったという事は、自分を除いて皆やられてしまったのだろうか。
ぼんやりとした薄がりを頼りにホール内を見渡す。床の上には黒い影が幾つも横たわっているのが見えた。あれほどホール内に溢れていた殺気も、今ではまるで感じる事が出来ない。思わず身の毛もよだつような静寂が耳に響く。
「ッ!?」
突然、何の前触れも無く目の前に漆黒の人影が躍り出た。
確かにその人影からは殺気は感じられなかった。しかし、自分を殺そうとしている事だけははっきりと感じる事が出来た。
腕がスッと伸びてくる。逃れようと体を動かそうとするも、恐怖に凍りついた体はまるで言う事を聞いてくれなかった。これまで幾度も死線を潜り抜けてきたはずなのに。この怪物はそんな経験すら粉々に打ち砕いた。
そして、最後に彼が目にしたものは―――。
TO BE CONTINUED...