BACK
上下左右の存在しない、真っ暗な海の中を漂うような感覚。
レジェイドは今、現実と夢との境界線に居た。
朦朧とした意識は出口を求めて海面を目指そうとするものの、どこまでも沈み行く心地良さを断ち切れずにいた。
こうしたまま、一体どれだけの時間が過ぎたのだろうか?
時間という概念を忘れてしまったのか、ほんの目を閉じただけの間の事にも、気が遠くなるほどの間こうしていたようにも思えた。
ここは静かだ。
物理的にはまだ自分は、医務室の片隅で腰を下ろしている事を知ってはいたが、それを忘れさせるほどにこの場所は心地良かった。所詮は目を覚ませば消える精神世界だというのに、疲れきった体が優しく包み込まれるようだった。
けれど、レジェイドは決してその心地良さに全てを任せる事はしなかった。未だ万事において安堵出来る状況ではない事を知っているからである。
不意にけたたましい音が海の中へ割り込んで来た。
それが人の足音だという事にはすぐ気が付いた。足音の数さえも反射的に数えている。にもかかわらず、意識を海面へと持ち上げる事は出来なかった。昏々とする快楽がしっかりと意識を捕らえて離さないのである。
目覚める意志があっても、目覚める事は出来なかった。意識は現実の世界へ半分は戻ってきているはずなのに、体の感覚がまるで感じられないのである。俗に言う金縛りにかかったかのようだった。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
足音の主は合計で五人いる。北斗派の人間なのか、それとも反乱軍の人間か。どちらにせよ、こうも無防備な姿を晒す理由は無い。
まるでドアそのものを叩き壊してしまったかのように、荒々しく足音達が医務室の中へ転がり込んできた。
未だ起き上がる事の出来ない自分を見て、どう第一声を上げるのか。
もしも敵ならば、今度こそ駄目なのかも知れない。
朦朧とした意識で、そうレジェイドは珍しく弱気な覚悟を決めた。
すると、
「お兄ちゃん!?」
放たれた第一声は、悲鳴のようなアルトだった。
「シャルトちゃん!? そんな、こんなのって!」
今にも泣き出さんばかりの声を上げるその彼女。
声の主を、レジェイドは瞬く間に脳裏へ思い浮かべた。それはレジェイドが思い出せぬはずはない人間である。
自分は問題ない。
それだけでも伝えようとレジェイドは動かない体を揺さぶる様をイメージしながら思考だけで悶える。
だが、
「起きて! ねえ、起きてってば!」
突然、肩を掴まれたかと思うと、途方もない力で体を激しく揺さ振られた。その力は容赦なく頭部へ支えの無い不安定な前後運動を強い、せっかく浮かびかけた意識を再び暗い海の底へ放り投げた。
「ルテラ、それはちょっと揺らし過ぎだよ」
聞こえてきたもう一つのたしなめるような声。その声にもレジェイドは聞き覚えがあった。
「少し気付けが必要ですね」
更に続いた声にも覚えがある。
どうやら転がり込んできたのは自分の身内のようである。少なくとも命の心配は無いのかもしれない。だが、すぐにその考えを改めた。今回の一件では、自分の知っている人間が何人も敵に回ってしまっているのだ。たとえ身内だからといって素直に安心は出来ない。
いや、それは違う。この声、そんな状況でありながらも味方として認識していた者の声だ。けれど、それは本当に味方なのかどうか。思考がうまく定まらない。頭に血が巡りきっていないのか、それとも残った毒に思考を鈍化させられているのか。危機感はあるというのに、具体的な事が何一つ考える事が出来ない。非常にもどかしい感覚だ。
と、その時。
ちくり、と冷たく鋭い感覚が首筋を打った。同時に背筋をむずがゆい悪寒が駆け抜ける。
「うわっ!?」
反射的に体がびくんと大きく脈打ち、意識が海上へ跳ね上げられる。人間誰しもが生まれつき体に刷り込まれている生理的な反応だ。突然痙攣する筋肉に引っ張られる骨格は、平素ならば決して行わない奇妙な動作を取った。
自分は氷の針か何かで突付かれたのだろうか。何となくそう思った。
「お、起きた起きた」
「感覚的に敏感な場所を突いただけです」
「よくそこだって知ってるね?」
「……誰でも同じものでしょう」
レジェイドはまだはっきりとしない思考で目の前を呆然と見ていた。未だ鈍化したままの思考は自分の身に起こっている出来事を客観的にしか見る事が出来ず、ただ彼らのやり取りを眺める以外の事を考えられなかった。
そこに立っていたのは三人の人間だった。
見るからに大怪我を負っている、血まみれだが生意気な表情を浮かべているヒュ=レイカ。
気まずそうに顔をうつむけてはいるものの、それはヒュ=レイカから顔を逸らすためで、しきりレジェイドの様子を気にするミシュア。
そして、
「お兄ちゃん! 良かった……」
そのままぎゅっとレジェイドに抱きついてくる、ほんの目の前で自分を激しく揺さ振っていた彼女。その懐かしい感覚に、今まで膠着していた思考がゆっくりと回り始めた。
「いだだだっ! おい、ルテラ。離れろよ。こっちは肋骨が折れてんだぞ」
「なによう、ちょっとくっついただけじゃない」
「そのちょっとのせいで、丁度折れた所に胸が当たってるんだよ」
はっと表情を変え、ルテラは目に浮かべた悲しみの涙を拭いながら照れ笑いを浮かべる。普段通りのレジェイドの反応に、ルテラはようやく安堵を覚えた。そして服の袖をたくし上げるとレジェイドの顔をそっと拭い始める。自分の血はそれほど流れてはいないのだが、返り血を文字通り浴びて来たため端々が赤茶色に汚れていたからである。まるで母親にされているような感覚でレジェイドは少し照れ臭く思った。シャルトが自分よりもルテラの言う事を素直に聞く理由が分かる気がした。
「そうだ、おい、シャルトはどうした?」
「うん、今診て貰ってるよ」
そうルテラはレジェイドに向かって微笑み返す。
改めてみると、ルテラは酷い姿をしていた。服はあちこちが擦り切れ色白の肌も薄汚れている。自分とは違うハニーブロンドの髪も埃にまみれて乱れている。ここに来るまで一体どんな事があったのかは知らないが、見るからに楽な道のりでは無かった事が窺えた。レジェイドにとってルテラは、北斗の戦士というよりも一人の妹という感覚の方が強かった。北斗がこんな状況で戦士が身形に気を使う暇などないのだが、ルテラのこういった姿を見るのは酷く苦痛だった。ただの一般人として、普通の人生を送ってもらいたい。決して高い望みでは無いはずなのに、どうして叶わなかったのだろうか。今でもレジェイドはルテラが戦いに関わってしまった事を後悔していたが、今はそれが特に強く感じた。
「大丈夫、静かに眠ってるよ。呼吸も心音も落ち着いてる」
そう答えたのは一歩引いた向こう側のヒュ=レイカだった。彼の表情はレジェイドが毛嫌いする普段と全く同じ小生意気なものだった。いつもならそんな表情で答えられても苦笑いする事が多いのだが、今は腹の底から不快感が込み上げてきた。ヒュ=レイカが楽観的に答えるものがシャルトの事だったからである。
「お前に分かるのかよ」
シャルトは自分と同じ毒を飲んでいる。だが、毒に対し耐性のある自分がこれほどまで蝕まれたのだ。元々、健康体の人間に比べて微妙な体調のシャルトが同じ毒を飲んで、たとえ何とか生きていたとしてもそう楽観出来る状態であるはずがないのだ。ヒュ=レイカが医学知識を持っている訳も無く、シャルトの体調を正確に把握出来ないのは仕方が無い。もしかすると、わざと楽観的な事を言って安心させようとしているのかもしれない。しかし、我慢なら無いのは、大切なものにおいては何よりも実を取る現実的な自分の性格だ。たとえ好意でも、気休めは必要ないのである。
すると、
「いや、僕じゃなくてリルさんがね」
レジェイドの見当違いな苛立ちを感じたヒュ=レイカが、苦笑しながらベッドを指差す。その先に視線を移すと、そこにはワインレッドの三つ編みを揺らすリルフェの姿があった。リルフェは未だベッドの上で昏々と眠るシャルトの様子を、まるで医者のように診ている。
「おいおい、勘弁してくれよ。お医者さんゴッコじゃないんだぞ」
「またあ、そうやって人を外見で判断するのはいけませんよ。セクシャルハラスメントです」
非難の目を向けるリルフェ。だが手際は思ったほど悪いようには見えなかった。
「こう見えても、私は看護士免許を持ってるんです。実は昔、法術師を目指してましたので、それなりに知識はありますよ」
「で、それがなんでこうなっちまったんだ?」
「当時の先生に、『医者になるにせよ法術師になるにせよ、君は万事に少々軽率過ぎる』って言われたんです。失礼しちゃいますよね。女性蔑視です」
「いや、性別は関係ないと思うぞ。正しい判断だ」
何にせよ、それなりに知識のある人間の判断なら大丈夫だろう。ようやくレジェイドは安堵する事が出来た。
安堵した瞬間、何か自分の中で張り詰めていたものが崩れていく気がした。体中の痛み、疲労感、空腹、眠気、そういったものが一気に押し寄せてくる。うっかりそういった欲求を口に出してしまいそうだった。
「大丈夫? 立てる?」
「いや、まだちょっと無理だな。足に力が入らん」
すると、そんなルテラの甲斐甲斐しい姿を見たヒュ=レイカがミシュアをからかう様にたきつける。
「あれ? こちら様は心配じゃないのかな?」
「レジェイドさんの事ですから。この程度、心配には及びません」
随分と過大評価されているものだな。
レジェイドはミシュアに視線を馳せつつ、微苦笑を浮かべた。それが彼女なりの信頼の証なのかもしれない。
そのミシュアの隣から僅かに離れた場所。そこにレジェイドの視線がもう一人の人物を捉えた。
見る間にレジェイドの表情が険しさを増す。それに気づいたルテラはハッと息を飲み、不安げな眼差しで二人を交互に見やる。
「はて? 俺は本当に生きてるのか? 俺の記憶が正しければ、死んだはずの人間がそこに立っているんだが」
レジェイドはそっとルテラを押しやり、彼と一対一で相対する形を取る。ルテラは不安げな表情のままそっとレジェイドから離れるものの、決して傍を離れようとしなかった。何か取り返しのつかない事になってしまいそうな不安感がどうしても拭えなかったからである。
「いえ……僕もちゃんと生きていますよ。お久し振りです、レジェイドさん」
スファイルはどんな表情をしたらいいのか分からず、一瞬うろたえた後、普段のよく人から中傷される間の抜けた笑顔を浮かべた。だが、レジェイドの鋭い視線はスファイルに対してそれ以上の意にそぐわぬ表情を許さなかった。スファイルはすごすごとレジェイドの目の前へ歩み寄る。
次の瞬間。
「ッ!?」
突然、レジェイドは座ったまま腕をにゅっと伸ばすと、荒々しくスファイルの胸元を掴みそのまま強引に引き寄せる。スファイルは前のめりになりながらレジェイドの前で四つんばいになるような格好を取らされた。
「てめえ、よくも今頃になってのこのこと顔を出せたもんだな」
TO BE CONTINUED...