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意識の遠い所から、何かが私に降り注ぐ。
微かな物音はまるでフィルター越しに聞いているかのようにくぐもっている。
体は重く、まるでベッドの上へ縛り付けられているかのようだ。
自分が眠りから覚めかかっているのを感じた。
意識を全身へ巡らせる。その思考レベルでの作業が眠っていた体の感覚を取り戻していく。さほどもしない内に、私は自分がどういった姿勢でいるのかを把握出来るようになった。
「……ん」
詰まったような唸り声が自分のものだと気づくのに数秒を要する。どこかもやのかかった頭は思考力が低下し、普段ではなんでもない事にも驚くほどの時間が必要だった。寝起きに関しては人よりも良いものと自負していたのだけれど、これほどの気だるい朝は近年に例がない。
昨夜は一体何をしていたのか。
思うように動いてくれない頭を押さえつつ、私はゆっくりと上体を起こす。
布団がはだけたその時、普通とは違う肌寒さを覚えた。ハッと自分を見ると、ベッドの中に私は一糸まとわぬ姿でいた。
驚きのあまり声を上げそうになる私。しかし周囲を見渡しても誰の姿も無く、ここには自分以外にこんな自分を見る者はいない。私は高鳴る胸を押さえて喉まで飛び出した叫びを飲み込む。
何があったんだろうか。
落ち着いてみると、自分の居る場所は見覚えの無い場所だった。ベッドの硬さも自分が普段眠っているものではないし、部屋の様相も違う。明らかに別な部屋だ。
状況が飲み込めてくると、今度は何故自分がここにいるのかを解明するため、記憶を掘り起こしにかかった。この部屋は明らかに私の部屋ではない。何故私が他人の部屋で朝を迎えるのかと言うと、それは当然、昨夜ここに泊まったからであって。重要なのはそこに至るまでの経緯、そしてここで起こった事の詳細だ。
そうだ、昨夜私は……。
掘り起こすべき記憶は極めて表層部近くにあり、さほど苦労もせず抽出する事が出来た。そして昨夜起こった一連の顛末が断片的に、しかし堰を切ったように怒涛の勢いで流れ込んで一つの展開を作り出す。
初めの内は客観的にその流れを見ている事が出来た。だが、見れば見るほど昨夜の自分がどれだけ突拍子もない事をしていたのかをまざまざと見せ付けられる結果になり、思わず唇を噛んでしまう。
ベッドから手を伸ばして下着だけを身につける。これでもとても人前に出られる姿ではないが、部屋の中を歩き回るぐらいには恥ずかしさはない。カーテンを開けなければ問題はないだろう。
一時の劣情だった。
私はベッドの上に足を組んで座りながら、そう思った。
事実はそうであって欲しくは無いが、自分らしくも無い、なんとも大胆な行動に出てしまったものだ。彼の事に関しては好意は人並み以上にあったが。随分と一足飛びに飛んでしまったものである。いや、半分ぐらいは自分の意思だけど、残り半分は彼に流されてしまってこうなったのだ。酒のせいもある。と、理由をつけてみた事で、流されようとしている自分を冷静に見ている自分がいながらもあえてブレーキをかけなかった事実はどうにも訂正が出来ない。こうなったのは、つまりは私の意志でもある。
なんだか変わった事になってしまった。きっと、慣れない事をしたせいだ。リュネスのように、これぐらいの事でいちいち騒ぐ歳でもあるまいに。仕事ばかりしていると人間的に枯れてしまうというが、どうやら本当のようだ。やけに今こうしている自分が新鮮に思える。
やがて私はベッドから降りると、そのまま寝室を出る。
彼の住んでいる部屋は他にも部屋が幾つかあり、リビングもかなり広々としていた。頭目らしくかなり良い所に住んでいる。ファルティアも同じ頭目職だけれど、彼女の場合はあまり自分の住む環境に対してこだわりがなく、いやそれ以前に部屋の掃除もろくに自分でせずリュネスに任せるような人間だ。かえってこういった広い部屋には住まない方がいいのかもしれない。
リビングに出ると、そこには無人の静寂だけがあった。
彼がいない。そもそも部屋の中には自分以外の人の気配がまるで感じられなかった訳だから、当然と言えば当然なんだろうけれど。彼の性格を考えれば、一人で勝手にどこかへ行ってしまうような薄情な事はしなさそうに思う。それとも私の思い違いだったのだろうか?
どこか薄ら寂しい気持ちに苛まれた私だったが、ふとその時、閉められたままのカーテンからやけに眩しい日差しが漏れ込んできている事に気がついた。そして私はこう考えを改める。そもそも今は一体何時なのだろう?
確か今日は、彼は頭目の定例議会に出かける日だ。その彼がいないという事は、私は随分寝過ごした事になる。薄情だなんてとんでもない。むしろいつまでも目を覚まさない私にあきれたはずだ。
まあ……慣れない事をした訳ですから……ね。
自分が眠っている間、彼は一体どう私を思っていただろうか。考えるだけで居た堪れなくなってくる。次の機会があったら、少し怖いけれど何かおかしな事をしなかったかどうか訊ねた方がいいだろう。自分には特殊な寝癖が無いと思うけれど、誰かに見てもらっていた訳じゃないから保障はない。考えれば考えるほど、不安は積もり積もっていく。
ひとまず洗面所を借りて顔を洗い、それなりに見られるよう身なりを整える。それから彼の寝室に戻り、埋め込み型のクローゼットを開いて中から丈が長くデザインも私が着ても違和感の無い大人なしめのジャケットを拝借する。今ある服は、あのナイトドレスだけ。その格好で帰るのは、いかにもと宣伝して歩くようなもの。見知らぬ人間にならばともかく、うっかり顔見知りに見られてしまうとどう冷やかされるのか分かったものではない。黙って借りるのは気が引けるが、このぐらいで目くじらを立てるような心の狭い人でもない。彼は本当に色々な意味で大きな人なのだ。せせこましい物事を彼とを結びつけるのは、むしろ彼への侮辱になる。
ジャケットは帰る時に身につけるとして。ひとまずいつまでも、室内とはいえ下着姿でうろうろするのはあまりにはしたない。誰が見ているかは問題ではない。意識の問題だ。
あのナイトドレスはどこにいったのか、と寝室を見渡す。するとそれは窓際に上から下へ潰れたような形で脱ぎ捨てられてあった。ベッドから随分距離があると思いつつ、私は手にとって軽く埃を払い身につける。これがどうしてここにあるのか、その経緯もしっかりと覚えている。思い出しただけでも恥ずかしい。
と、その時。
ふと、ベッド脇のサイドボードを見やると、そこには一枚のメモが乗せられてあった。私は手に取ってそれに目を通す。
愛しのミシュアへ。朝食を用意したので温めて食べるといい。
本当はモーニングコーヒーでも一緒に飲みたかったが、ぐっすりと眠っていたので起こせなかった。そういう訳で、俺は先に出かけさせてもらうよ。鍵はそこの合鍵を使ってくれ。そのままお前が持っていて構わない。
では、今度は俺の方から誘いに行かせてもらう。出来るだけ週末は空けておいてくれ。
まだ文章には続きがあったのだが、そこまで読んで私は顔が熱くなり、いったん目をそらした。
こんなストレートな言葉を向けられたのは初めてだ。どこまで本気で書いたのか、大半は冗談交じりだろうけど、何の迷いも無く私に読ませる辺り。一体どんな意図があったのか、少なからずそれが見え隠れする。
なんとも言えない気持ちが胸の中に渦巻く。それを素直に言い表すと、やはり嬉しいというものに相違なかった。
キッチンへ向かうと、そこにはメモの通り朝食の用意がしてあった。レタスとサーモンのクロワッサンサンド、海鮮マリネ、そして驚くほど綺麗なコンソメスープ。彼の趣味が料理とは聞いていたが、これほどのものならばすぐにでもお店を開いてお金が取れる。北斗にはレベルの高い飲食店は無数に存在するが、彼の腕ならば優にそこへ食い込んでいく事が可能だろう。男の人は凝性だと良く言われるが、彼の場合それがたまたま料理だったからか。
わざわざ用意してもらったその朝食を私は早速いただく事にした。コンソメスープには軽く火を入れて温める。確かコンソメスープには見た目からは想像もつかないほど時間と手間隙がかかるそうだ。昨夜はずっと一緒に居たと思っていたのに。一体いつの間に作ったのだろうか。さりげなくこれほどのものを、しかも何でもないかのように出す所になんとも言えない彼の魅力が集約されている。
食事後、洗い物を済ませ簡単に水周りを片付ける。そしてふとリビングを見回してみた。なんだか物足りない、と思った。もう少し何かしてから帰ろう。ただ泊まって食事も頂いて、自分は帰るだけというのはどうも気が引けてしまうのだ。
そうだ、せめて掃除ぐらいはしていこうか。
そう思って私は部屋の掃除を行う事にした。だがしかし、部屋はどこも掃除した直後のように綺麗で掃除の必要性をまるで感じない。いや、直後のようだというよりも本当に掃除した直後なのかもしれない。掃除をすればそれなりの音は出る。けど、それにすら気づかなかった私は、本当にどれだけ深く眠っていたのだろうか。
他に何かするべき事はないか、と私は部屋を見渡したが、彼の部屋はどこも私が及びそうな点は見つからない。それどころか、無理にやろうとしても本来あるべき部屋の秩序を乱してしまいかねない。
仕方が無い。今日の所はあきらめて帰る事にしよう。もし、あのメモの言葉通りだったら、今度は彼の方から誘ってくれるはずだ。それを期待しつつ、何をすればいいのかと考えておこう。
私は手早く帰り支度を始めると、サイドボードに一緒にあった合鍵を手に彼の部屋を出た。自分から誘っておいて勝手な言い草だが、一人で帰るのは侘しいものである。彼にもう少し待てとは言えないから、もう少し私が起きていればそうなっていたのかも。
とりあえず、まだ次がある訳だから。
何を言っているんだろうか。私は自分の浮かれた頭に喝を入れる。
そうだ。
昨夜の彼との席で、何かやりたい事はないのか、と訊ねられた。やりたい事はある。ただ、その選択の自由があまりに広過ぎて、何からすればいいのか分からない戸惑いと、何かをしなくてはいけない焦りに挟まれて、結局何も出来ずにいる。彼の質問はそんな膠着を抉る少々痛いものだった。無い事もありません、と答えた私に嘘は無い。ただ、具体性に欠けるだけだ。
そう、私は平行線を辿り続ける自分をどうにかしようと、彼を訪ねた訳でもある。割合でいくとどの程度を占めるのかは微妙ではあるが。
しっかりと部屋の鍵をかけ、本当にかかったのかどうかノブを握って確認する。
これで大丈夫だ。
次にここへ来るのはいつになるんだろうか。再び歳に似付かわない浮かれた事を考える。
さて、早いところうちに帰りましょうか。出来るだけ知り合いには見つかりたくは無い。疚しい事をしている訳ではないが、これまでの自分のキャラには合わない事をしているのは事実である。なんにせよ、冷やかされるのは必至だ。
そして、この場から立ち去ろうとしたその時。
「あら?」
振り向きかけたその背後から、聞き覚えのある声。私は思わずその場に硬直してしまった。
「お兄ちゃんの部屋で何してたの?」
事情に気づいているのかいないのか分からない、明るいアルト。しかしそれを背中で聞く私の全身は見る見る内に総毛だって行く。
TO BE CONTINUED...