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とにかく、今は強くなる事だけを考える。
目まぐるしく僕の周囲を構成する環境が変わっていく。僕はただそれについていくだけで精一杯で、毎日毎日、新たに現れる何かに必死で食らいついている。それでも流れに取り残されている感覚は拭えきれなくて、自分の理解が及ばない事が増えるたびに自分の中の不安要素がまた一つと増えていく。
退院してから、まず僕は雪乱で精霊術法の開封を行った。僕の体は痛みを感じられないから人よりも怪我を悪化させやすいので、怪我そのものをしにくくするためである。精霊術法には、普通では信じられないような事を可能にする力があるそうだ。これで僕の体を防御的に固くするとか。難しくてよく分からないけど、とにかくそういうことだ。
ただ。
精霊術法には使い過ぎると我を失うという危険性があって、僕は先天的にそうなりやすい素質がある事が開封で分かってしまった。そのため、本来なら術式の基本的な研修は一週間ほどで終わる予定だったのだけど、急遽無期限に延長されてしまった。
レジェイドの部屋で生活を始めた僕は、朝起きたらレジェイドとご飯を食べてから雪乱へ研修を受けに行く。そして午後は夜叉に行って、基礎体力を作るトレーニングメニューをこなす。僕はレジェイドと同じ夜叉に入ったのだ。夜叉は精霊術法を使わない流派なのだそうだけど、僕みたいな存在はかなり珍しいようだ。
そんな生活を続け、ようやく最近になって落ち着いてきた感じがある。周囲の人も、レジェイドやルテラだけでなくみんな優しかった。嘘のように幸せな生活だ、と思った。けど、やっぱり不安要素は拭え切れるものではなくて。
僕は薬を毎日三回、欠かさず飲み続けていた。体にまだ蓄積している麻薬のための抗麻薬剤、そしてもう一つ、精神安定剤だ。僕は時々、ふとした拍子に錯乱して酷い頭痛に見舞われる事があった。医者の話では、それは麻薬の後遺症と閉じ込められていた時のトラウマに原因があるそうだ。どちらも有効的な治療法がないため、とにかく精神安定剤を飲み続けるしかないのである。これだけは毎日のそれ以外にも、いつ発作が起きてもいいように携帯させられている。薬があれば大丈夫、という安心感は得られる。でも、この薬はあまり体に良いような気はしなかった。薬を飲んだ直後は酷く眠くなるのだ。凄まじい頭痛もあっという間に消えてしまうし、多分、精神安定剤だけではないと思う。
僕はいつになったら治るんだろう。そんな不安も抱くけれど、今はそれよりも、『いつになったら強くなれるんだろう』という焦りと期待の入り混じった感情の方が強い。本当に、今は立ち止まったり振り返ったりいじいじしている暇なんかないのだ。もっと我武者羅にならないと駄目なのかもしれない。
「っと……確かここを右」
相変わらずおぼろげな記憶を辿りながら病院を目指す。
退院したとは言え、僕は週に一回は病院に行って診察を受け、薬を貰わなくてはならなかった。当然の事ながら一人で行くんだけど、北斗の街はあまりに広くて何度行ってもすぐに道に迷う。それは決して僕が方向音痴だからという訳じゃない。絶対。
何度か元来た道を引き返しながら、ようやく見覚えのある風景に辿り着く。病院のある通りの近くだ。後はここから数分歩くだけだ。が、しかし。そう思って歩いていると途端に見覚えの無い所に出てしまった。きっと見間違えだ。そう思って突き進んでみたものの、ますますおかしな所に出てしまう。
困った。
僕は思わずその場に立ち止まり、そのまま茫然と立ち尽くしてしまった。
道行く人はそんな僕になど目もくれず、次から次へと僕の横を通り過ぎていく。道が分からなくなったらその辺の誰かに聞け、とレジェイドに言われたけど、早足で通り過ぎていく人達を僕は呼び止められなかった。というよりも、呼び止める事が出来ないのだ。知らない誰かに話し掛ける事が怖いのである。
とにかく、このままこうしていても仕方がない。仕方がないんだけれど……、どこに向かえばいいのか分からない。右を見ても左を見ても、前も後ろも見覚えのない風景が続いている。この道のどれが病院に続く道なのだろうか。単純な確率計算で四分の一。ちゃんとした道順を知っていれば問題ないのだけど、にも関わらずこんな変な所に迷い込んでしまった以上、後はあてずっぽでどうにかする他無い。
どの道にしようか。
僕は四つの道を順に見比べながら額に皺を寄せて悩む。どれも同じような道に見える。建物の並びも画一的だし、どれも同じ感じの店だ。何か標識のようなものがあればいいのだけど、あいにく街の外観に影響するからとかの理由があるのだろう、そういった類のものは一切立っていない。
本当に困った。
どうやって道を決めよう。規準になるものが無い以上、こうなったら棒でも倒すか、靴を放り投げて爪先が向いた方にするか、そんな冗談みたいな方法で決めるしか他ない。でも、そんな恥ずかしい真似をこんな大通りでやる訳にはいかないから。とにかく何か良い方法を考えよう。
と。
「どうかしたのか?」
その時、不意に後ろから知らない人の声をかけられる。頭の中が道の事で精一杯だった僕はハッと我に帰り、すぐさま背後を振り返った。
「ふむ。お前は……」
そこに立っていたのは、僕よりもずっと背の高い、濃紺の服を着た女の人だった。髪は真っ黒で腰ぐらいまである。くせのないストレートだ。僕はあまり背は高くはないけれど、この人はレジェイドと同じぐらいの背の高さがある。当然上から見下ろされる姿勢になるのだけど、やっぱりどうしても、見下ろされるのには威圧感を感じてしまう。
その人はやや体を屈め僕をジロジロと見ながら、顎に手を当ててふむふむとなにやらうなづいている。まるで品定めされているみたいだ、と僕は思った。
「お前、もしかしてシャルトだな?」
え?
僕は思わず唖然として目を大きく見開いた。どうしてこの人は僕の名前を知っているのだろう? その仕草が面白かったのか、女の人は口元を歪めて含み笑う。
「私はリーシェイという。ルテラとはずっと付き合いがあってな。お前の事は先日聞いたのだ」
ルテラの知り合いなのか。
僕は俄かに込み上げてきた疑念が消える。リルフェはちょっとあれだったけど、今度の人はまともそうな人だ。喋り方が少し怖いけれど、次から次へとまくしたて自分のペースへ強引に引き込むような事はしてこない。
「それにしても、本当に聞いた通り綺麗な色をしているな」
リーシェイと名乗ったその人はそっと手を伸ばすと、僕の髪の毛を撫で始めた。別に何をする訳でもないけれど、あまり気分のいいものではない。僕はいちいち触られるのがとても嫌なのだ。まるでペットか何かのように扱われている気がするからだ。
「ところで、お前はここで何をしている?」
「その……病院に行こうとして……」
僕はもしも助けてくれるなら、と微かな期待を込めて、そう呟くように答えた。ただ自分の口からはっきりと助けを請うたりはしなかった。単純にそれが恥ずかしいからだ。
それなのに。
「そうか、道に迷ったか」
あえて伏せた言葉を、リーシェイは思い切り言い放ってきた。僕は思わず眉を潜めそうになる。分かってるなら黙ってくれてもいいのに。分かっててやったのかどうかは分からないけど、酷い人だ、と思った。
「北斗は広い。まあ、来たばかりのお前が迷っても仕方がないな。先住者として私が助言してやろう。いや、その前に一ついいものを見せてやろう」
するとリーシェイは自分の頭の上に両手を抱え上げてそのまま手のひらを組んだ。
「ここを覗いてみろ」
そう言われ、僕は爪先立ちになって覗いてみる。ただでさえ背の高いリーシェイが更に手を高い所で組んだのだ。リーシェイが太陽を背負っている事もあってほとんど何も見えない。
「何か見えるか?」
「何も見えないけど……」
手なんか組んだ所で一体何が見えるというのだろう。よく分からないけど、リーシェイが何かを見せたいのは確かなようだ。ただ、少なくとも今は全く何も見えない。
「ならば、一旦目を閉じろ」
今度は見えるのだろうか?
不思議に思いながらも、僕は言われた通りにそのまま目を閉じた。
すると、
「……ッ!?」
突然、唇に何かが触れた感触が襲い掛かる。思わず目を開けると、そこにはリーシェイの顔があった。
何の前触れも無しのそれで、僕は頭の中が真っ白になって何も出来なかった。緊張とか恐怖とかそんなんじゃなくて、本当に驚きのあまり何も考えられなかったのだ。ただ自分の置かれた状況を理解しようとするため、まずは冷静になろうとするだけで精一杯だったのである。
口の中に自分のものではない何かが入って来た。それに口の中を存分に撫でられて、ようやくそれがリーシェイの舌である事に気がつく。
僕はこんな所で一体何をしているのだろう。
少しだけ冷静さを取り戻した僕は、自分達がこんな人通りの多い所でとんでもない事をしているのに気がつく。自分の目で確かめた訳じゃないけど、やたら視線が突き刺さってくるのを感じる。
早く止めさせないと。
依然混乱している頭で、随分と今更だけどその至極当たり前の事に僕はようやく気がついた。リーシェイは両腕を後ろに回し、それぞれで僕の背中と頭を押さえつけている。振り払おうともがけば、なんとか逃げられるかもしれない。
僕はリーシェイの腕の中から逃げようと、自分の腕に力を込める。僕の体は麻薬の副作用で力のセーブが出来ないらしい。医者には、むきになると思わぬ怪我をしたりさせたりする、と言われているけど、これ以上こんな往来で恥ずかしいマネをされ続ける訳にもいかないし。
けど。
「ふふふ、味見はこのぐらいにしておこう」
僕が抵抗するよりも先に、リーシェイは自分からスッと離れた。
「そんなに固くなって、愛い奴め」
くっくっく、と薄ら笑いを浮かべながら、濡れた口の周りを長い人差し指で軽くなぞるように拭う。僕は何か言い返すのも忘れ、ただただ茫然と立ち尽くしていた。
「あ……う」
「また次の機会に、今度はじっくりとな」
それでも僕は何かを言い返そうと言葉にならない唸りを上げる。けれどリーシェイはそれが僕なりの抵抗だと思ってくれなかったようで、こんな事を突然したにもかかわらずまるで何事も無かったかのように平然とした様子で踵を返す。
が、その直前。
「病院はこの通りの右だ」
リーシェイはそう言い残すと、なにやら意味深な表情を浮かべる。それを前に僕は何も出来ず、ただただずっと立ち尽くしている。考えてみれば、さっきからずっと僕はこうして馬鹿みたいに立ったままだ。
そしてそのままリーシェイは颯爽とその場から立ち去った。
……はあ。
僕は更にしばらくその場に立ち尽くしていた。
体に力が入らない。
TO BE CONTINUED...