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恐怖。
それは誰しもが逃れる事の出来ない、黒い影。
私もまた、それは同じです。いえ、臆病な性格の分、むしろそれは人より強いと思います。
いつも心のどこかで、なにか私を傷つけるものがあるのではないのか、そう怯える自分がいました。
恐怖とは単純な暴力一意ではありません。精神的な苦痛もあるし、疎外感や孤独感にも恐怖を覚えます。
北斗はヨツンヘイムで一番安全な場所です。だから比較的安心して生活できるのですが、それでも時折起こる外部からの襲撃は止む事がありません。
それはあまりにリアルな恐怖、しかも死そのものへの恐怖を私に抱かせます。
安心して暮らすなんて、私は出来ませんでした。いつも自分の身の安全ばかりを考えています。
私は自分自身が一番大切です。道徳とか体裁とか、そういうしがらみを全て捨て去った、本能的原始的な気持ちがそれです。
自分以外の人は後回し。必然的にそういう私の体質が浮かび上がります。
でも、仕方がないんです。
私は、誰かを守れるほど強くはないのですから。
「さて、そろそろ終わりだな」
時刻は午後十時に差しかかろうとしています。
綺麗に片付けられた店の様相は、あたかも眠りについてしまったように見えます。つい何時間か前までは、あれほど賑やいでいたのが嘘のようです。
「じゃあ、そろそろあがりにしましょうかねえ」
厨房から片付けの済んだお父さんとお母さんが出てきました。お父さんは肩を押さえながらこきこきと首を鳴らしています。仕事中はほとんど鍋を振りっ放しなのですから無理もありません。
「ところで、あの人はまだ起きてこないの?」
と、お母さんが訊ねてきました。
今日は土曜日。シャルトさんが来る日です。今夜もいつものように七時にシャルトさんはお店にご飯を食べに来てくれました。その時、私はお母さんに先週のお礼としてお酒を持っていくように言われ、シャルトさんにそれを出しました。その後はしばらく仕事に忙殺され、シャルトさんのことをうっかり忘れていたのですが。それから仕事が落ち着いた時です。ふとテュリアスに呼ばれてシャルトさんの事を思い出し、テーブルに向かうと。シャルトさんはテーブルに突っ伏して眠っていました。出したあのお酒を飲み、それで酔い潰れてしまったのです。
幾ら揺すってもシャルトさんは目を覚ましません。それで仕方なく、お父さんがシャルトさんを二階の部屋に運んで寝かせているのです。この建物は昔、宿も兼営していたので客室が沢山あります。普段は使ってませんが掃除だけはしてあるので、シャルトさんを休ませるには何の問題もありません。
「降りて来ないから、多分まだ眠ってるのかも」
「どうしましょう。このまま泊まって貰う分には構わないけれど、御家族の方とか心配なさらないかしら?」
「やっぱ、夜叉に連絡入れた方がいいか?」
そういえば。
私はシャルトさんの事は何も知らないのですが、家族構成とかどうなっているのでしょうか?
けれど北斗には、ある暗黙のルールがあります。それは、自分から話し出さない限り、相手の過去を詮索してはならないというものです。ヨツンヘイムは、この通り治安が乱れきった国です。しかも北斗は、どんな人間であろうとも受け入れる、という方針を掲げています。そのため人には話せないような辛い過去を持っている人が大勢いるのです。少し言い方は悪いのですが、母国で自分の居場所を失った人や重大な犯罪を犯してしまった人も、本当に珍しくはないのです。だからこそ、根掘り葉掘り訊こうとするのは礼儀に反するのです。
シャルトさんの事を聞けないのもそうですが、私もまた、あまり自分の事は言いたくはありません。こんな国ですから、両親が死んでしまっていないという人は別に珍しくともなんともありません。けど幸運にも、私にはもう一人の両親がいます。だから前の両親の事を思い出すのは今の両親を否定するようで気が引けるのです。ただ、まるで思い出さないというのも可哀想ではあります。だから私は、自分の部屋には両親の写真が入ったアルバムを置いています。ここに私の過去がある。そういう意味を込めて。
「じゃあ、リュネス。ちょっくら、もう一回起こしに行って来い。それで駄目なら、とりあえずうちに泊める事にしよう。どうせベッドなんか幾らでも空いてるしな」
私達は現在、二階の宿に使っていた所を住まいとしています。とは言ってもご飯は全部下で食べるので、お風呂と寝るぐらいにしか使いません。
「はい。では、ちょっと見てきます」
そう言って私は、店の奥にある関係者以外の立ち入りを禁止している廊下に向かいました。この廊下には店の裏口と倉庫、そして二階へ続く階段があります。建物を宿から料理屋主体に改装したので、二階に続く階段はこんな辺鄙な所にあるのです。
私はいつになく急ぎ足で階段を駆け上りました。
ちょっとだけ、胸が弾みます。それはシャルトさんの所へ行くからです。別に何がある訳でもありません。本当にただ様子を見るだけです。でも、なんだか……変な気分です。シャルトさんとは、今まではシャルトさんがお店に来るまでは逢う事が出来ませんでした。けど、今は自分の意志と都合で会いに行けるのです。シャルトさんは酔い潰れて二階の部屋で眠っているのですから。
シャルトさんのいる部屋は、二階の廊下の一番手前です。廊下には同じようなドアが幾つもあります。それらは全て、かつて宿を経営していた時の客室です。私や両親が寝室として使っている部屋は反対側の廊下にあります。とは言っても、どの部屋も基本的に中身は変わりません。特別高級な宿ではないので、極普通の部屋しかないのです。
さて……と。
扉の前まで来た私は、軽く髪を整えて一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着けました。シャルトさんの元に向かうかと思うと、気持ちがなんだかそわそわして仕方がないのです。シャルトさんが下に降りてこないという事はまだ部屋の中でぐっすりと眠っているという訳で、とりわけ私が身だしなみを気にする必要もないのですが。もしも目を覚ましたらば、その時のことを考えるとやっぱり気にしてしまいます。それはほとんど私の理想論で、まずそう都合よくはありうるはずがないのですが。どうしても可能性がゼロではないと、未練がましく捨てきれません。
大丈夫……きっとシャルトさんはまだ眠っています。私はそれを起こしに来ただけです。何の緊張をする必要はありません。
高鳴る心臓を抑え、出来る限り動揺を最小限にして私は右手の拳をぎゅっと握ります。そしてドアに甲を向け……ハッと自分が力みすぎている事に気がつきました。ドアをノックするのに、こんなに硬く握り締める必要はないのですから。一度こぶしを開き、汗で濡れた手のひらを服の袖に擦って拭います。それから今度はリラックスするように努め、軽く拳を握ってドアへ。
―――と、その時です。
「きゃっ!?」
突然、鼓膜が裂けそうなほどの大きな音が響き渡りました。
な、なに……?
音はどうやら建物の外から聞こえてきたようです。まるで大量の火薬に火をつけたような、そんな音でした。とにかく、ただごとではない事だけは分かります。普通の生活であんな音は絶対に起きません。嫌な動悸がします。今の音は、あの時に同じようなものを聞いた憶えがあるのです。お父さんとお母さんが死んでしまった、あの時に……。
私は踵を返し、すぐさま階段を駆け下りていきました。先ほどまであったシャルトさんへの期待感はあっという間に不安で塗り潰されています。ただ怖くて、不安で、体中の血の気が引いてしまいそうでした。あの時の事が再び起こるのではないかと、圧倒的な恐怖が私の頭を縛ります。
「お父さん! お母さん! 今の、どうしたの!?」
階段を駆け下り、店に続く薄暗い廊下を駆け抜けるか否かのところで、私は無我夢中でそう叫んでいました。ただ頭の中には二人の姿を確かめる事しかなくて、全ての行動が恐怖の後押しに支配されています。
すると、
「駄目だ! 来るな!」
店に出た瞬間、お父さんのいつになく鬼気迫った怒鳴り声が私に飛んできました。
「ほう? なんだ、若いのもいるじゃねえか」
そして。
店の入り口の所には、見知らぬ男の人が数名、悠然とした表情で立ち並んでいました。
ぞくっ……。
途端に私の背筋に寒気が走りました。
この人達。明らかに私達に悪意を持っています。
TO BE CONTINUED...