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その日。
凍姫は、土曜日に限り午後は拘束時間とはなくなるため、ロビーは午前中とは一転して閑散としていた。
リュネス・ファンロンは、ロビーの片隅にて両手で包み込むように握り締めているコーヒーカップをじっと見つめていた。
ほとんど手付かずのそれは淹れてから随分と時間が経っており、もはや湯気の一つも立たない。しかしリュネスは、自分の手の中にあるカップの事など忘れてしまったかのように微動だにしなかった。
表情は終始落ち着きが無かった。不自然なほど瞬きを繰り返したと思えば、突然瞬きする事を止めてしまったり。視線は一点に定まらず、カップの中や縁を無作為に辿っている。口元、頬、眉尻は凝固と弛緩を断続的に繰り返している。
リュネスの様相は、傍から見ても明らかに普通ではなかった。元々、動揺が顔に出やすい性分ではあったが、ここまで断続的に落ち着きの無さを失った姿は珍しかった。
一体、何があったというのか。
疑問に思った人は皆、出来るだけ刺激を与えないよう慎重に言葉を選らんで問うてみた。しかしリュネスは、なんでもありません、とぎこちない笑顔で返すばかりだった。
リュネスの異変は、実際の所は悩みを抱えている事が原因ではなかった。
傍から見れば、それは悩んでいるように見えるかもしれない。だが本当は悩んでいるのではなく、緊張しているのだった。じっと同じ姿勢を続けているのは、体を動かすのも忘れるほど頭の中で繰り返しているシミュレートも集中しているためだ。
慎重に何度も何度もイメージを作り、動かす。少しでも意に介さないものが出来ればすぐさま消去し、また初めから構築していく。
そんな煩わしい作業を続けているのは、そうする事が一番自分を落ち着けさせるからだった。そうでもしていなければ、自分を支える事が出来ないのである。
が。
丁度、時計の針が午後二時を告げた頃。リュネスの意識は作業を中断された。その直後、激しい空腹間を思い出す。考えてみれば、今日はまだ昼食を取っていない。正直、食べている場合ではないのだが、体は食事を強く求めている。
食事を取りたい意識があるという事は、それほど深刻なものでもないのかもしれない。
やがて思考を終結に押しやったリュネスは、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、席をゆっくり立ち上がってカップを片付けた。冷めたコーヒーは不快な苦味がある。理屈ではアイスコーヒーとさほど変わらないはずなのだが。冷やす事と冷ます事は根本的に異なるのだろう。
まだ口の中に残る苦味を舌で薄めていきながら、リュネスはロビーを後にする。
どこかにご飯を食べに行こう。
これまでの経験から、空腹時はどうしても思考がネガティブに陥り、またそれが満たされると一転してポジティブになる事を知っていた。物事はプラスとマイナス、どちらか片方に偏っては正常な判断を下す事が出来ない。リュネスは、元々自分がマイナス方面に傾きやすい事を知っていた。ならば少々プラスに傾く程度が丁度良い。
ひとまず、考えても仕方が無い。
そうリュネスは頭の中でつぶやいた。
考えてどうにかなる問題ではない。今、抱えている課題とは、ただ結果だけが出るだけの通過点に対し、一体どういった構えで臨めば良いのか、という事だ。たとえどんな構えにせよ、それは必然的にやってきて自分は通り過ぎる。ならば尚更こうして神経をすり減らす必要性も薄い。どういう通過の仕方にしろ、結果は同じなのだ。普段通りに気持ちを落ち着けて、しなくてもいいヘマをしなければいい。
ロビーから廊下に抜け、そこからは建物の外まで一直線。
短い廊下、エントランス、中庭。直線状に伸びる道程を進んでいく。歩き慣れた道であるため、歩く行為そのものは意識する必要がない。普段なら別の事を考えながら歩くのだが、今日だけは何かを考えようとすると再びぶり返してしまいそうなため、あえて何も考えずに歩いた。
公道と凍姫敷地内を区別する境界線に当たる正面門が見えてくる。なんとなく息が詰まる風貌を持つそれは、近づけば近づくほど重厚感が増し、まるで今にも圧し掛かられそうな錯覚を覚える。
圧し掛かられる、か。
ふと思い浮かべた自分の言葉に、リュネスは慌てて思考をかき消した。こんな些細な事にいちいち反応している自分が恥ずかしく思う。結局、自分の中でも盛り上げ方が極端なのだ。今からこんな落ち着きを無くしていては、いざという時になって頭の中が真っ白になって固まってしまう。
「あら」
正面門を抜けようとしたその時。突然、前方から人の声がした。
すぐさまうつむけていた頭を上げるリュネス。目の前に立っていたのは、いつものように凛とした雰囲気をまとったミシュアだった。
「あ、お、おはようございます。今日は遅いのですね」
言葉を詰まらせてしまうリュネス。
普段のミシュアは、言葉遣いや礼儀作法に関して非常に厳しい。リュネスは自分から問題を起こすことはなくおとなしい性格ではあるが、常に物事から一歩自分を引いて意見を主張しないため、態度をはっきりさせるようにと注意される事が度々あった。
注意されてしまう。
そうリュネスは心の中で身構えた。
しかし、
「まあ……少々、色々とありまして」
対するミシュアはリュネス以上にはっきりしない言葉でぽつりと返した。
視線をずらし、まるで追求するなと言わんばかりの気まずげな態度。ミシュアが言葉を濁すのは珍しい事である。何があったのだろう、とリュネスは首を傾げてしまった。
ひとまず。
ミシュアに対して細を穿つような詮索をする度胸など持ち合わせていないリュネスは、視点を自分の問題へと移す。
これは、後々に追求の末、公に糾弾される事を避けるためだ。
結果は一緒でも、少しでも良い方向に向けたい。
「あ、あの、実は折り入って相談があるのですが……」
「なんでしょう?」
「今日、私、夜勤なのですが、誰かに代わって頂けないかな……と」
「それでしたら、私よりもファルティアに頼んだ方が確実でしたでしょうに。言い忘れましたか?」
「いえ、その……ファルティアさんに知られないように代わって欲しくて……その」
互いに間断なく次々と投げかけられた言葉のやりとりが、早くもそこで沈黙が訪れる。
それはリュネスは相手の出方を伺い、ミシュアはどう自分の考えを切り出そうか、というインターバル的な沈黙だった。
そして、その沈黙は牽制する機を伺っていたミシュアによって破られる。
「ここで私と会わなくとも、休むつもりでしたでしょう?」
そのナイフのように鋭い言葉は見事にリュネスが隠し通そうとしていた真意をえぐりだし、露呈させられてしまった事にリュネスは動揺を隠し切れず驚きを露にする。
「あ……う……その……すみません」
言い訳をすれば何とかなる。
初めこそリュネスはそう思った。しかし、生来自信とは縁の無い性格が隠し通せるかどうかの疑問を不可能と判断してしまい、嘘への躊躇いも手伝って、半ば憶測に近かったミシュアの指摘をあっさりと自ら認めてしまう。
心底申し訳なさそうな表情でうつむくリュネス。そんな姿を、ミシュアは微苦笑を浮かべつつも穏やかな表情で軽くため息をついた。あきれや怒りではなく、どこか愉快そうなため息である。
「事情は大体飲み込めました。まあいいでしょう、私が代わってあげます。あなたは手もかからないし、アレらの良い制動係としても頑張ってもらっていますからね。このぐらい大目に見ます」
ミシュアのその言葉に、リュネスはがばっと勢い良く頭を上げると、視線をミシュアに投げかけて再度それが本当かどうかを問いかける。ミシュアは確かに間違いは無い、と微笑を浮かべてゆっくりうなづく。こんな仕草自体、普段のミシュアからは想像も出来ないものだったが、リュネスはそれよりもミシュアが許した範囲の事を幸福色の頭の中でどう認識すればいいのか再度整理を始めた。
「ありがとうございます! あの、ついでと言ってはなんですけれど、出来ればこれからも時々……」
「はい。その時々に何とかしましょう」
若干、ふてぶてしくなったか。
そうミシュアは苦笑いを浮べる。しかし、これで本当に重要な事は自分の意見も主張する、ということを知る事が出来た。これはこれで良い傾向である。
「それでは、失礼します」
意気揚々とリュネスはその場を後にした。その後姿を見送るミシュアは依然微苦笑を浮かべている。どこか自分と重ね見ている部分もあったが、すぐに『戯言を』と考えるのを止め、踵を返し建物の中へ消えていった。
TO BE CONTINUED...