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少年の傷が癒えるまで、実に一月を要した。
しかし少年がベッドの中で安静を取ったのは、僅か三日間だった。それ以降は医者に安静を言い渡されているにも関わらず、これまで通りのトレーニングメニューを行った。当然の事ながら、たった三日間寝ただけで塞がるような浅い傷ではなく、実際は体を動かすたびに全身へ突き刺さるような鈍痛がひっきりなしに少年を襲った。それでも少年が無理を押してトレーニングを始めたのは、ルテラを意識しての事だった。
ルテラは、あの事件で少年が負った傷は自分に責任があると思っていた。そのため、ベッドで一日を過ごし続ける期間が長いとそれだけルテラを思いつめさせてしまうと考えた少年は、ルテラを元気付けるためにもあえて無理を押したのである。
実際、初めの数日は訓練よりも痛みに耐えるだけで精一杯だった。動くたびに吐き気がするほどの痛みが襲い掛かり、塞がろうとしている傷も僅かずつ痛みと共に開いていく。本当は歩くことすら考えられない怪我だったのだが、少年はそれでも開いた傷からにじみ出る血を隠しつつトレーニングを続けた。
そんな少年には気がつかず、ルテラの少年に怪我をさせた事への気負いは少しずつ薄れていった。普段の笑顔を取り戻していくルテラの様子を、少年は痛みを堪えて行う訓練の励みとした。
痛みが消えてからは本当の意味での普段通りの訓練が出来るようになった。本来ならば三週間、少年の体力ならば半月もあれば塞がる傷だったのだが、やはり無理を続けたため完治が遅れてしまっていた。傷の治りも荒く、傷跡が普通よりもくっきりと残ってしまっていた。しかし少年は、塞がりかけた頃の膿には辟易はしていたものの、傷跡そのものにはさして気を留めなかった。背中の傷跡は恥である、という意識も多少はあったが、思ったよりも尾を引くものでもなかった。
少年はあの晩以来、自分の身辺に起こった出来事全てに対してこれまで以上に注意を払うようになった。自分が周囲の人間に事実上の後継者として見られる傾向が強まった今、競争相手三人がいよいよ本格的に自分の排除にかかった。夜盗の類に襲わせて命を落としたように見せかけようとした、今回の奸計。ルテラの事も考慮していない辺り、もはや形振り構わないほど追い詰められているようだ。自分は追い詰めたつもりはないが、あの晩餐会に出席した事のように、近隣貴族との親交を受身的にでも深めている事がそうさせてしまったのだろう。
面倒な事になった。
そう少年は、自分の境遇を含めて吐いた。
もし、今一番自分が集中したい事を問われたら。少年は『己を磨き鍛える事』と答える。今の自分の未熟さは重々知っている。足りないものを上げていけばキリは無い。経験も圧倒的に不足している。
本当の意味で自らを高めるには、今の環境は劣悪過ぎる。
これが現実だった。しかし、自らの我を通しては、父親が築き上げたこの家はどうなるのか。父親がどれだけ苦労して今の身分を手に入れたのかは人伝に知っているため、自分の我がままで掻き回すような真似はしたくない。不本意ではあるが、父親のために家督を継ぐ事になろうとも、それもまた良しとする。そう自分の中で消化されつつあった。
家督を継げば、財産は自由に使える。
だが少年は、それよりも自由で息苦しさの無い環境が欲しかった。
無いもの強請りをするほど分別が無い訳ではない少年は、現状の環境を理想的に整える事を考えた。理想は、三人の兄とそれぞれの母親との確執を解く事だ。それは自分が後継者となる権利を放棄すればたちどころに解決するだろう。だが、既に大半の人間に自分は次期後継者として見られている。今更放棄した所で必ず何かしらの問題が発生する事は目に見えている。
自分が権利を放棄し、兄三人の内の一人が継承したとする。その一連は傍からしてみれば、継承問題でごたつきがあったのが一目瞭然だ。それだけで家そのものの風評が落ちるのは必定である。当然、現当主である父親がそれを考えていないはずはない。次期後継者の交代は決して認めないだろう。たとえ、あんな姿になっていてもだ。
兄達の策略は、ある意味では合理的なものと言える。最も自然な次期後継者の交代は、自分が不慮の事故で死ぬ事なのだ。
存在するのかどうかも分からない最善策を求めながら、三ヶ月の月日が流れた。
背中に大怪我を負った少年をルテラが引きずって帰ってきた事は衝撃的な事件であったが。既に人々の記憶からそれは薄れていた。少年はその間も常に動向に注意していたが、取り分け目立った動きは無かった。あの一件で失敗しているため、慎重になっているのかもしれない。そう考えるとこの物静かさもかえって不気味に思えた。
少年は、特に何も用事が無ければ、普段の食事はルテラと取る事が多かった。兄三人は少年と食事の場を同じにする事もあったが、その時は場の空気がどうしても緊張してしまうため、互いに合わぬよう時間を調整していた。ルテラは元々幼い頃から少年と行動を共にしていたため、食事を一緒にするのが普通だった。互いに母親は死んでおり、食事は主に二人で取っていた。
ある日。
その日も少年はルテラと共に夕食を取っていた。少年はワインを飲みつつ、ルテラはまだ酒の味は分からないためそんな少年を時折冗談交じりに冷やかしたりしていた。晩餐会に出席するために慣らし始めたワインだが、今では嗜むぐらいに飲むようになっていた。ただ食事中では料理の味が消えてしまうため、あまり強い酒は飲まなかった。
そして、それはその最中に起こった。
にこやかに談笑していた二人だったが、ふと少年は自分の体の違和感にナイフを止めた。
それは内臓の奥が焼け付くような、強い酒を一気に飲み干したものとも違う異様な感覚だった。
初めは気のせいだろうと、少年はその僅かな違和感を無視していた。しかし時間と共にそれは無視出来ないほどまで膨張し、はっきりと体の中で何かが起こっているという事を少年に主張した。
やがて少年の様子がおかしい事にルテラが気づいた頃。
少年は突然体を痙攣させながら椅子から転げ落ち、そのまま床に向かって激しく嘔吐した。吐瀉物の中には食べたもの以外に大量の血液が混じっていた。
ルテラは少年の惨状に、慌てて食堂を飛び出して大声で人を呼んだ。
少年の状況を見て、毒を盛られたとルテラは判断した。しかし自分には毒への対処方法の知識が無い。そのため何も出来ない事に、酷く慌てていた。
駆けつけた主治医により、少年はすぐさま胃洗浄が施された。麻酔無しでの洗浄は凄まじい苦痛を伴う。少年は毒に体内を焼かれる苦痛と洗浄の苦痛とを同時に味わうこととなった。
一通りの処置が終わってからも、少年の意識は混濁を続けた。医者の見立てでは、今夜を乗り切れば何とかなる、という状態だった。少年が峠を迎えているという事で、ルテラは寝ずに少年を看病する事にした。しかし実際は看病するというよりも、番をする、と表現した方が近い。
少年の食事に毒を盛ったのは、おそらく厨房から食堂へ運ばれる間と推測される。コックは基本的に中立の立場で信頼出来る人間ばかりだ。そうなると、出入りの激しい雑務係が一番の問題となってくる。彼らは雇われても日が浅いため継承問題など興味はないはず。ならば金を握らせるだけでどちら側の言う事だって聞く。
毒殺という露骨な手段を使って来たという事は、もはや形振りを構っていられなくなった事になる。切迫した状況に追い込まれると、どんな手段を用いてくるのか予測がつかない。家中に敵がいてもおかしくはないのだ。はっきりと少年が死んだ事を確認出来るまでは、追撃の手を止めはしないだろう。少年を殺させないためにも、自分がこうしてここにいればせめてもの盾にはなる。
ルテラは、少年の体力ならば必ず乗り切れる、と信じていた。自分の役目は、少年が目覚めるまでこの場を死守する事。こんな形で死なせる訳にはいかないのだ。
そしてその晩は、一度見回りの人間がやってきただけで少年を狙いに来た者はいなかった。明け方近くになり、ルテラはさすがに疲れと眠気のためまぶたが重くなり始めた。しかし、それでもルテラは少年が目覚めるよりも先に眠ろうとはしなかった。
日が中天に近づき始めた頃、少年はようやく目を覚ました。
顔色は悪く、表情も優れなかった。けれど少年はそれでも気丈に振る舞い、もう問題はないとルテラに強調した。だが実際は、少年が摂取してしまった毒物は即効性の強力なもので、優に致死量の二十倍にも上っていた。幸いにも少年は生まれて間もない頃から毎日、古今東西あらゆる毒物の希薄液を服用させられていたため毒物には抵抗力があり、急性中毒死だけは免れたが、容態は決して芳しくはなかった。常人ならばとっくに死んでいる量の毒物だ。処置が迅速だった事もあるが、生きている事自体が奇跡的なのである。
その後、数日間。少年は嘔吐と発熱を交互に繰り返し、見る見る衰弱していった。時には意識が混濁する事もあり、予断を許さない状態が続いた。しかし少年は強靭な体力と精神力により、一日に僅かな流動食のみでなんとか命を繋ぎ続けた。
昼も夜も分からないほど混濁した意識の中、少年は一つの決断を踏み切ろうかどうか考えた。
それは、この家との決別だった。
これ以上我慢がならない。
正直な気持ちはそうだった。自分を殺そうとした兄達、そして関わった全ての人間を殺してやりたい。自分自身の剣でだ。
けれど、それはあまり気が進まなかった。感情だけで剣を振るう事は、自分の剣を汚す行為のような気がしてならなかった。しかし、それでも火のついた感情の種は収まろうとはしない。
いずれ、感情の奔流に自分が飲み込まれてしまう。むしろ気がかりなのはそれだった。だからこそ、自分を守るためにもここを離れなくてはいけない。
単純な力の問題だけならば、圧倒的に自分が有利だ。しかし、力で押さえつけるのは相手の人格までも無視する野蛮な行為だ。
自分の剣は収まりを知らない剣ではない。
少年にとって唯一の自由は、その主義を守る事だけだった。
TO BE CONTINUED...