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私は再び走り出した。
いや、『走る』と言うよりも『歩く』と言った方が近い。しかも、もう一人と手を取り合って歩くような、そんな。
前も後ろも分からないほどの暗闇を走り続けて、私は遂に探し物を見つけた。
それは、人にとってはちっぽけな石ころほどの価値にしか思えないだろうけど。
私にとっては、大切な大切な宝石。
私はその宝石に目が眩んでいた。
だから、周りの事なんかまるで見ていなかった。
ただそれだけがあればいい。
心からそう思っていたから。
あなたもそうよね?
凍雪騒乱が終結した。
その報道は、ふと何の前触れもなく北斗中に広まった。内輪だけで行なわれた、戦闘解放区においての頭目同士の決闘は凍姫の頭目が勝利した事実を知らない他流派及び民衆にとって、それはあまりに唐突で不可解な終わり方だった。
和解。
見出しの最後には、必ずその文字が添えられていたからだ。
凍姫と雪乱の抗争は和解という形を持って終結する事となった。今後は両流派間での抗争は永久禁止、仮に犯す事があれば両流派から処罰部隊が派遣されるという念の入りようだったため、この決してあり得ない終結に対し誤報ではないかと疑うものは少なかった。
実際は凍姫側の勝利という事で騒乱は終結する予定だった。戦闘解放区での決闘の勝者は凍姫の頭目であるスファイルであったため、たとえ非公式にしろ負けた流派は解体する事が条件になっていたのだ。組織的にもそれを守らざるを得ない。だが、それを白紙に戻したのは件のスファイル本人だった。雪乱を解体する権利は自分にあり、それをいつ行使するのかを決めるのもまた自分の自由。そう主張し、事実上の権利放棄とも取れる行動に踏み切ったのである。当然の事ながら、凍姫内部からの反発は苛烈を極めた。当時、凍姫でも有数の実力者で戦闘指南役であるミシュアは、抗争の最中雪乱側の攻撃により重傷を負って再起を危ぶまれていた。その遺恨が、比較的雪乱へ確執を抱いていない新人の中に根付いていたため、ほぼ全員が頭目の判断には真っ向から反対した。しかし、頭目とは流派の中で最も発言力と各種の権利を持っている。そのため幾ら周囲が喚こうとも、頭目の決断は遂に変える事が出来なかった。
そして抗争から一ヶ月と半。
北斗市街の気温もようやく平年並みを取り戻し肌を刺すような異常な寒さが消えていた。当たり前の季節感を取り戻した北斗だったが、これまでの極度の人工的寒波のおかげで、市内に植樹されたほとんどの街路樹の葉は散っていた。秋の入り口だというのに、まるで木々だけは一足先に冬景色の中へ飛び込んだかのような光景である。だが、これを見るのも今年限り。来年からはまた当たり前の季節感が戻って巡る。
「えっと、これは……要るわね」
とある休日の翌、月曜日。
ルテラは雪乱本部の自室で一人作業に没頭していた。普段は整然としているその部屋は、今は沢山の箱や物が散らばり溢れている。その数々の小山の中で黙々と作業に打ち込んでいるルテラは、制服の上着を脱ぎ捨てた、今の季節にしてみればやや肌寒い薄着をしていた。だがルテラには微塵も寒がる様子がなく、むしろ額にはじんわりと汗を浮かべていた。それほどまでに、その作業に熱中していたのである。
雑多的にある物の山の中から、一つずつ、もしくは大雑把に選び、区分けしていく。その一連の作業をただ機械的にこなすのではなく、どこか一つ一つの物に込められた経緯を思い出しながら手を動かしていた。
と。
「とんとん、失礼しまぁす」
その時。開けっ放しにしていた部屋のドアの影から、ノックを真似した声を出しながらリルフェがひょいと姿を現す。
「わー、どうしたんですか? この惨状」
早速リルフェは部屋の状況に目を丸くしつつも、どこか好奇心を覗かせた表情できょろきょろと周囲を見渡す。
「リル? ああ、ちょっと! そこは気をつけて!」
振り向いたルテラにそう叱責され、ふと横を見るリルフェ。するとそこには、不安定なバランスで小高く積み上げられた箱の山がそびえていた。しかしリルフェは、はて、と首を傾げただけで一別すると、まるで部屋の状況を把握、もしくは無視しているかのようにひょいひょいと小走りでルテラの元へ駆け寄ってくる。思わず息を飲んでしまうルテラだったが、リルフェは散らかすどころか複雑に積み上げられた箱に一度もぶつからずに傍までやって来る。
「まったく……心臓に悪いじゃない」
「ルテラは私の事をどん臭い女だと思ってますね。偏見です。そうやって普段の印象だけで全部決め付けるのは」
自分が言いたいのはそういう事ではなく、人が整理を行なっている現場で走り回るその神経の事なのだが。そんな正論をリルフェに語っても無駄だとこれまでの付き合いから知っていたルテラは、あきらめに似た苦笑いを浮かべ息をつく。
「それで、どうかしたの?」
「えっとですね、今さっき北斗総括部のメッセンジャーがこれを持って来たんですよ」
そう言ってリルフェは一枚の封筒をルテラに手渡す。
「あら、ようやく届いたのね。ありがとう」
ルテラは受け取った封筒の中身を見ず、そうあらかじめ内容を知っていたかのような口調でそう微笑んだ。
「なんなんですかぁ? その封筒」
リルフェは興味津々にルテラの手の中にある、白いだけの地味な封筒に視線をまじまじと注ぐ。
すると、
「これ? 頭目の解職、雪乱の退職、それから正式な後任頭目受理のお達しよ。三通もあるから、やっぱりちょっと時間がかかっちゃったみたいね」
にっこりと、まるでさもない事を答えるかのように軽い口調で答えるルテラ。しかし、対するリルフェは飛び出したルテラの日常的には決して聞かない言葉に大きく口を開け、驚きの表情をありありと浮かべた。
「ちょ、ちょっと待って下さいよぉ! 退職って、雪乱辞めちゃうんですか!?」
「うん、そう」
酷くうろたえるリルフェとは対照的に、ルテラは平然とした様子であっさり答えると、再び整理作業を始めた。
「そうって、辞めた後はどうするんですか? お兄さんの所に?」
「ううん。私ね、同棲する事にしたの」
ルテラの口から飛び出したその言葉に、リルフェは更に驚き愕然とする。
「ど、同棲って、まさかあの変人と!?」
「酷い言いようね。その変人と真剣に付き合ってる人を目の前に」
変人とは、流派『凍姫』の現頭目であるスファイルの事だった。彼は自他共に認める変わり者で、その行動は規則性と不規則性の混在した、第三者には非常に理解し難いものだ。ただ一つ分かるのは、彼のそんな行動が必ず周囲を振り回し多大な迷惑をかける事で、本人はそれを決して認めようとはしなかった。
本来、男性は人格すら否定されかねない風潮のある凍姫において、男性が頭目を勤める事は非常に稀だった。単純な実力は言うまでもなく、知略や人心掌握にも秀でていなければならない。スファイルは有り体に言えば自己中心的な人間ではあったが、周囲には憎まれる事はまずなかった。他にも要因は多々あるのだが、とにかく彼は周囲の評価を統合すれば決して頭目には相応しい人間にはならないのだが、にも関わらず頭目になってしまったという奇特な人間だ。
戦闘解放区での決闘後、ルテラは件のスファイルとの交際を始めた。それは特に人目をはばかる事無く、スファイルは必要があればたとえ雪乱の本部であろうともルテラを迎えに行くことすらあった。周囲の人間は睦まじい二人の関係を見て、本当に雪乱と凍姫は和解したのだと改めて実感を深めた。公然と交際を進める二人を揶揄する人間も少なくはなかったものの、逐一気に留めるような事もしなかった。二人にとって大切なのは自分達の時間であり、周囲の評価等は興味の対象にはならなかったのだ。
ルテラの心がスファイルに傾くには、文字通りさほどの時間も要しなかった。決闘の条件につけられた約束に従いデートをした日、既にその日からルテラはまるで何かのスイッチを入れられたかのように気持ちがスファイルに傾いていた。自分でも驚くほど、それはあまりに急速的だった。しかし、傾いてしまったのは仕方がない。後はなるように走り続けるだけだ。
「でも、まだ付き合い始めて一ヶ月ちょっとじゃないですか。幾らなんでも早すぎますよぉ。ルテラにあの人は絶対に無いですって。まだ知らないおかしな所とか盛り沢山に決まってますから」
「早いも何もないの。分かったのよ、私はこの人を捜していたんだって。ようやく自分の居場所を見つけたの。ほら、あるでしょ? 自分が存在するように運命付けられた場所っていうの。だから、もう一刻でも早くそこで落ち着きたいの。分かる?」
ルテラは心の底から幸せそうな笑みを浮かべる。
リルフェは、これまでにルテラがこれほど感情豊かな笑みを浮かべたのは初めて見た。リルフェにとってルテラの印象とは、感情は決して表に出さず誰とも馴れ合う事無く一人黙々と何かに打ち込む、そんな性格の暗い人間だった。そのため、この一ヶ月の間に起こったルテラの変貌はあまりに急激だった。そしてその要因がスファイルである事は考えるまでもない。
「微妙にノロケ入ってません?」
リルフェに氷のように冷たい冷静な声でそう指摘され、ルテラは自分が浮かれている事に気づきハッと我に帰る。自分にとってのスファイルを陶酔しながら熱く語ってしまっていた事が急に恥ずかしくなってしまった。聞いていたのがリルフェだけだったから良かったが、もしも見ず知らずの第三者にまで聞かれてしまったら。考えただけでも体が恥ずかしさでカーッと熱くなる。
「それにしても、これまで全くそんな素振りなんか見せませんでしたねえ。仲良さげに腕なんか組んじゃってる所は何度も見ましたけどぉ? でも、どうして教えてくれなかったんですか? 雪乱を辞める事。一言くらい事前に相談しても良かったのに」
「だって、相談したら止めるでしょう? それにリルは口が軽いから。大騒ぎされちゃうと、こっちも色々と面倒なの」
「むーっ、私の事を信用してないんですね。ルテラがそこまで冷たい人とは思ってもみませんでした」
リルフェは不満げに口を尖らせ、背後からルテラの頬や耳を力いっぱい引っ張る。しかしすぐに腕力で勝るルテラは、リルフェの幼稚な攻撃を引き剥がした。それでも尚も拳を振り上げながらぐるぐると両腕を回すリルフェを、ルテラは溜息をつきながらその額をぐいっと押さえて遠ざける。辛うじてリーチの勝るルテラにより、リルフェの拳は空を切り続ける。
「とにかく、私は明日付けで辞めるわ。後任はあなたを指名してるから、追って辞令が来るわ。これからよろしくね」
私が頭目?
リルフェはふと拳を止めて面食らった表情を浮かべるものの、それはすぐに暗く淀んだ表情になった。この唐突な展開をどう受け止めればいいのか分からないという表情だ。
「随分とあっさりしてるんですね……」
「そんな顔しないでよ。行き辛いじゃない」
珍しく暗い表情のリルフェに苦笑するルテラ。今生の別れという訳ではないのに、もう二度と会えないと言わんばかりの表情である。
「ルテラは雪乱とかどうでもいいんですね」
「そうじゃないわよ。ただ私は、長い間ずっと探してたものを見つけたから。でもそれは雪乱とは両立させられないの。だから、こうするしかないのよ。ね?」
薄っすらと目に涙を浮かべるリルフェ。そのワインレッドの頭を、ルテラは慰めるようにポンポンと軽く叩く。やがてリルフェも自らを納得させたのか、普段の明るい表情を取り戻した。
ルテラはリルフェに対して幾分かの後ろめたさはあった。この雪乱に入ってから荒んでいく一方だった自分を励ましたり憂鬱を紛らわせてくれたのは他ならぬリルフェだったのだ。にも関わらず、雪乱を辞めるという大きな問題を一言も告げずに一人で勝手に進めてしまった。そうした理由が今言った通りとはいえ、やはり少々薄情過ぎた気もする。
自分のような愛想のない人間に良くしてくれたリルフェは、おそらく初めて友達と呼べる存在だ。こんなに冷たい扱いをしても、普段と変わらぬ表情を向けてくれる。これからはもっと大切にしなければ。そうルテラは痛いほど思った。
「でも、ルテラ。同棲はいいんですけど、一つ忘れてませんか? おっきな問題」
と。
普段の表情に戻ったリルフェは、ふと曖昧な言葉でそんな問いを投げかけてきた。
「そうよねえ……ちょっと当面の悩みなんだけど」
そしてルテラはリルフェの言う所の意味にすぐ気づき、そう悩ましげに額を押さえて唸る。
「一応、明日。お兄ちゃんの所へ一緒に挨拶に行くんだけどさ」
「事後報告じゃないですかぁ」
「そう。だから」
ルテラの兄は流派『夜叉』の頭目であるレジェイドだ。彼はルテラを非常に可愛がっており、迂闊に触っただけで半殺しにされた男の噂すらある。その真実の程はさておき、たとえそんな事件が起こっても誰一人驚く者はいないだろうと思われるほど、とにかくレジェイドはルテラに対して過保護だった。そんなレジェイドにこれまで一言の挨拶もなく、あまつさえ最初の挨拶が同棲の報告であるスファイル。どう考えても不安要素ばかりしか見当たらない。むしろ、この状況で楽観視出来る要素を捜す方が無茶だ。
「不安です? やっぱり」
「任せておけ、なんて言ってるけど、どうだか。あの人って意外と情けないから。お兄ちゃんもお兄ちゃんで子供っぽいし」
ふう、と溜息をつくルテラ。
もはやなるようにしかならないだろう。ルテラはどこか達観していた。
「明日は血の雨ですかね」
「多分ね」
TO BE CONTINUED...