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 かつかつかつ。
 普段は温厚で明るい笑顔を振りまくルテラが、珍しく苛立だしげにテーブルの上を人差し指の爪で叩いている。
 東区の大通りの一角に立つ喫茶店。その片隅の席は、酷く張り詰めた雰囲気に包まれていた。
 ルテラとテーブルを挟んだ向かいに座っているのは、シャルトとリュネスの二人だった。
 渦巻くような怒気をはらんでいるルテラとは対照的に、二人の表情は優れず深刻の二文字を色濃く浮べていた。シャルトの視線はテーブルの上で組んでいる両の手のひらに、リュネスの視線はテーブルの下にある自分の膝に注がれている。二人とも、ルテラの方を見る事が出来ないためだ。
 二人は同じように肩肘を固く張らせ身を硬直させていた。こちらから視線を送る事は元より、ルテラの視線に自分がさらされる事が辛いからである。それは丁度、傷口に針を差し込もうとする感覚に似ている。触れていないけれど、まるで本当に突き刺されたような苦痛を味わうのだ。
「お待たせいたしました」
 膠着した三人の構図に、ウェイトレスが滑らかに磨いた丸い木のトレイにコーヒーカップを三つ乗せてやってきた。静かにそれぞれの前にコーヒーカップを並べていく。この明らかに穏やかならぬ空気に気づいてはいたが、ウェイトレスは極めて平素を装って下手に注意を向けぬように意識していた。不自然さが浮き彫りにはならなかったものの、うっかりこぼしてしまった視線の先には、いつの間にか懐から顔を出していたテュリアスの視線があった。思わぬものと視線が合ってしまい驚きで息を飲んでしまうものの、平静が崩れる前に速やかにその場を後にした。
 ルテラはシュガーポットの蓋を開け、三本の指の間に一つずつ角砂糖を挟んで取り出してコーヒーの中へそっと落とす。
 ティースプーンをやや雑に黒い水面へ突き入れ、端が空気と混ざって小さな泡を立ててしまうほど強くかき混ぜる。それは必要に応じたからではなく感情でかき回したからだ。
 そのいささか大きすぎる音を、シャルトとリュネスの二人はただじっと黙ってうつむいたまま聞いていた。二人ともカップには手もつけず、ただひたすら額に薄っすら皺を刻み続けた。
「まあ……仲良くしてるのはいいんだけどさ」
 やがて、ルテラはティースプーンをカップから出し、まるで呟くように、けれどはっきりと二人に聞かせる事を意識した声色で開いた口から苛立った言葉を放った。
「何事も限度というものがあるでしょう? まさか、こうなる事も考え付かなかった訳でもないでしょうに」
 いや、考え付かなかったからこそ、この事態に巡り当たったのだ。
 その事にルテラは気がついていない訳ではなかったが、実際、今の気持ちは怒りよりも動揺の方が大きく、後から気がつきはしたものの訂正している余裕などまるで無かった。
 こういう時こそ、自分がしっかりするべきだ。
 そう気負ってみるものの、思ったより自分の意思がうまく制御出来なかった。沈着性の構成は、性格よりも積み重ねられた経験に比重が置かれる。そんな事に気づいても無意味な事ばかりが頭を過ぎり、何一つ建設的な意見が述べられない。結果的に苛立ちをそのまま口にしてしまい、何か適切な事を言おうと気持ちを逸らせてしまう。
 このまま感情の悪循環に陥り続けても、何一つ打開策は見えて来ない。
 元々、自らの経験的に出口が見えてこない問題なのだ。最良の策よりも、確実な解決策を考えるべきだ。
 だが、確実性は妥協性を大きく削る。それこそ、身を削がれるような苦痛を強いる事になる。同じ女性としても、それはかなり酷な事だ。
 それでも自分は言わざるを得ないのか。
 ルテラは口にする覚悟を決めつつも、その直前まで逃げ道を試行錯誤していた。そんな切羽詰った状態では絶対に名案など浮かぶはずが無いと知っていながら。
「なんにせよ。リュネス、出来るだけ早い事に越した事はないわよ」
 ルテラの言葉に、リュネスは弾けるような勢いで顔を上げた。そして今までそらし続けた視線をルテラへ、言葉に出来ない己の気持ちを込めて投げかける。
 良心が痛む。
 しかし、怯んではいられない。辛くとも、他に方法は何もないのだ。二人の事を考えると、今はこれが最良の方法なのだ。
「そんな目をしても駄目。いいこと? これはあくまで別問題なの。他に方法なんてないでしょう?」
 二人の表情には、まだ妥協できる要素が残っているような気持ちが浮かんでいる。そんなものは何一つありはしないのに。容赦なく断ち切るのも一つの思いやりだと、ルテラは自分に言い聞かす。
 一呼吸、溜めを置く。そして意を決し、言い放った。
「あなた達は、まだ、子供なんだから」
 同時に激しい自己嫌悪感に見舞われ、思わず視線をそらしてしまう。二人の顔を、これ以上見ている事が出来なかった。
 ルテラは差別的な言葉をあまり口にはしたくなかった。けれど、今は他に説き伏せる言葉が他に見つからなかった。自分としてあまり口にしたくない言葉だったけれど、これ以上効果的な言葉が他に見つからないのだ。かと言って、それが糾弾を避ける理由にはならない。ここで中途半端な情けは必要ないのだ。
 リュネスは一体どれほど傷つくだろうか。
 今はそんな事を考える必要は無い。そう、ルテラは自分を叱咤する。
 その時、シャルトは意を決したように顔を上げた。
「でも、俺は出来るだけリュネスの思うように―――」
 しかし、そのようやく振り絞った声でさえ、ルテラは終わりを待たずに自分の言葉を被せる。
「思うようにどうするの? シャルトちゃんが何とかしてあげられるの? 男の子として気持ちは立派かもしれないけれど、現実的には何も出来ないんじゃなくて? こういう事に関しては、現実的過ぎる、っていう際限は無いの。本来なら、どこまで可能なのか、という指標と現状を鑑みてから進むものなんだから。それを一足飛びしちゃって、他に何が出来るのかしら? 現実的に」
 まくしたてるルテラの言葉に反論の言葉を見つける事が出来なかったシャルトは、そのまま口をつぐみ沈黙を始めた。
 言い込める事が出来た。
 舌戦に勝利した事になるルテラだったが、何一つ喜ぶべき要素は無かった。二人を打ち負かしても、この現実は何も変わらないし、ただ自分の意見や考え方を一方的に押し付ける事が出来るだけだ。それはとても自分の意思にそぐうものではないし、もしも他に人道的な方法があるならば、迷わずそれを選択する。出来るだけ二人を傷つけたくはないのだ。非情に現実的な選択肢をぶつけるのも、決してそれは本意ではない。
 この場に居辛い。
 そう、ルテラは思った。きっと二人にとって自分は無理難題を押し付ける途方も無い悪役なのだろう。たとえ道理に叶った言葉をぶつけても、それはただの二人を苦しめるだけの暴言にしか聞こえないだろう。
 けれど、その暴言に二人は何が何でも従ってもらわなくてはいけない。お世辞にも今の二人は、自活能力が圧倒的に欠けている。それは生まれ持った才能とかそういう話とは全く異なる。単純に、人生経験そのものが不足している。周囲のフォローがあれば何とかなる問題かもしれないが、そのフォローは必ずしも定期的かつ必要な時に必ず得られるものではない。周囲を振り回すよりは、いっそ原因そのものを断つのが一番自然だ。
 やがて、ルテラはかき回すだけかき回したコーヒーをそのままに、席からやや乱暴に立ち上がった。ただ勢い付き過ぎてテーブルにぶつかり、その音がそんな風に聞こえただけかもしれない。けれど特に普段のルテラを知っているシャルトは、うつむけた顔をピクリとも上げる事が出来ずに身を硬くさせていた。上着の中に居るテュリアスも緊迫した状況を察知しているらしく、鎮火するまでと篭城を決め込んでしまっている。
「お金の事だったら、私かお兄ちゃんに相談しなさい。それぐらいならなんとかしてあげられるから」
 そう言い残し、ルテラは伝票を持ってレジを通り、店を出て行った。
 後に残されたシャルトとリュネスは、どうしていいのか分からず、ただじっと並んで座ったまま顔を俯けていた。
 どうしてこんな事になってしまったのか。
 過ぎた理由を考えるよりも、何が出来るのか具体的な打開策を考えるべきだ。
 だが感情の鬱の拘束力は理性よりも強く、うまく稼動してくれない。
 シャルトはちらりと視線をリュネスへ向けてみた。
 リュネスはどうしていいのか分からない、深刻を深々と刻み付けた表情を浮べていた。
 こういう時こそ、男である自分がなんとかしなければ。
 シャルトの心の中に固執する思想がそう主張したが、具体論になると何一つ持ち合わせてはいない。
 恐る恐る手を伸ばし、リュネスの手を握る。
 生来の体温なのか、不安な感情がそうさせているのか。酷く冷たい手だった。
 リュネスもシャルトの方へ向き直る。
 涙で潤んでいる。
 不安で泣き崩れそうな表情に、シャルトはただぐっと奥歯を噛んで見つめ返すしか無かった。



TO BE CONTINUED...