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 後悔の多い人生を送ってきました。
 私は決断力が致命的に乏しく、いつも後悔ばかりしていました。
 でも、どうやらその後悔というのは、誤った選択肢を選ばざるを得なかったからではなく、私自身の気の弱さに要因があるようです。
 そうとは知らず、北斗に入る事を決断した私。
 今度こそ、私は後悔から開放される。そう思っていたのですが……。
 はあ……。
 私は今、後悔しようかするまいか、悩んでしまっています。




 まともそうな人間で安心しました。
 翌日。
 早速ファルティアさんに連れられ凍姫の本部に向かった私は、まず昨日ファルティアさんが言っていた通り、凍姫の経理の人の元へ挨拶に向かいました。その人はミシュアさんという、ファルティアさんよりも年上の女の人でした。
 第一印象は、笑顔の素敵な知的で優しい人、でした。
 けど。
 私に向けられた第一声は、そんな無骨極まりない言葉だったのです。
 まともそう、ってどういうことでしょうか……? 私、周囲から見ると普通の人間には見えないという事なのでしょうか? 今まで一度も言われた事がなかっただけにどうしてもその言葉が引っかかり、気になってしまいます。
「さて、それじゃあみんなを紹介しましょうか。訓練所は結構近くにあるんだ」
 この時間、凍姫のみんなは訓練所でトレーニングの真っ最中なのだそうです。
 北斗の人は皆、一人で常人の百人にも二百人にも匹敵する力を持っています。その力の中核が精霊術法と呼ばれるものなのだそうですが、私はあまり詳しい事は分かりません。そもそも、北斗の人達の『力』とは一体どんなものなのかさえなかなか一般には伝わってこないのです。それは戦力を隠す事で敵に研究されないようにという機密保持に気を配っているからなのです。昔はそれほど徹底していた訳でもないそうですが、特に他集団の勢力が大きくなってきた近年ではこういった細かな部分も徹底化されてきています。
 だから私は、北斗の人が普段どのような訓練をしているのかとても興味がありました。精霊術法というのも、私も使えるようになるのでしょうか? せっかく立派な志を立てたというのに、なんだか不謹慎な好奇心が込み上げてきています。節操がありません。
 訓練所は本部から歩いて数分の、本当に街中の一角にありました。建物はやはり石材で作られた近代的なデザイン、敷地はたっぷりと取ってあり、その周囲をそれほど高くもない塀で囲んでいます。一見するとあまり住宅と変わらないように見えますが、よくよく目を凝らせば、建物や塀の表面に赤い幾何学模様が薄っすらと浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返しています。これは使用されている石材がただの石材ではなく、結界処理で強化された特殊なものであるためこうなっているのです。詳しくは分かりませんが、とにかくその処理を施すと物質がとても頑丈になるのです。
 門の両脇には守衛らしき人が二人立っていました。二人はファルティアさんを見るなり、すかさず背を伸ばして一礼します。ファルティアさんはこの凍姫の頭目ですから、このように下の人達が敬意を示すのは当たり前なのでしょう。
 内部は本部と同じ作りになっていました。きっと建てた業者が同じなんだと思います。
 入り口を抜け、ロビーへ入ります。
 そこには数名の人の姿がありました。その誰もがファルティアさんと同じ深い青の制服を着ています。皆、凍姫の人なのです。男女比率は九対一ぐらいで圧倒的に女性の方が多いです。やはり凍姫と言うだけあり、あまり男性はいないのでしょう。どうしても腕力では劣ってしまう女である私にとって、同性の人間が大勢いるというのはなんだか心強い気がします。これならばどんな訓練も、たとえ途中でつまづいたとしても頑張れそうです。
「あれ? ファルティア、謹慎じゃなかったの?」
 まずそう親しげに話し掛けてきたのは、褐色の肌に深紫の髪をした一人の女性でした。様子からしてファルティアさんとは親しい間柄のようです。
「謹慎って言やあ、謹慎中。当分はまともに身動きさせてもらえないわ。で、その代わり。しばらくの間、新人教育する事になったの。アンタとリーシェイと三人でだからね、一応」
「ああ、ミシュアさんから聞いてたけど。それってこの娘?」
 と、視線が私の方を向きました。
 ドクン。
 やっぱり当然の如く、私が生まれつき持っている持病の人見知りが発作を起こし始めました。たちまち、今すぐここから立ち去りたい衝動に駆られます。でも、そんな訳にはいきません。あれほど決心した上で、私は凍姫にやってきたのですから。
「リュネス=ファンロンです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。私はラクシェル。ま、気軽に呼んじゃって」
 はい、と会話の流れで私は答えました。でも、まさか本当に気軽に呼ぼうなんて思っていません。ファルティアさんは凍姫の頭目、その親しい友人方も同格の存在です。だからファルティアさんもラクシェルさんも、私にとっては大のつく先輩に当たる訳なのですから。
「ああ、そうそう。こいつ、見た目に寄らずキレやすいから。気をつけてね」
「ちょっと、ファルティア。いきなり人の印象を悪くしないでよ」
 そう苦笑いのラクシェルさん。きつい冗談を食らったような表情です。
「事実じゃん。あと他には、まあすぐに物は壊すし、問題は絶えないし、バカだし」
「だから―――」
 !?
 突然、背筋が凍りつくような寒気を私は感じました。まるで背中から水を浴びせかけられたような冷たさが背筋を文字通り走ったのです。
「ある事無い事、並べんなっつてんだろが!」
 そして、ラクシェルさんがファルティアさんの胸倉を掴み上げました。
「ああ? やんのか、コラ!」
 更にファルティアさんがラクシェルさんの胸倉を掴み返します。
 ど、どうしたのでしょうか……?
 何の前触れも無く口論を始めた二人に、私はただただ困惑するばかりです。止めようとは思いましたが、二人の気迫があまりに凄くて近づく事も出来ません。
 と。
「来々」
 そう私に向こうから手招きしたのは、まるで夜空を思わせるかのような真っ黒なロングの髪の、背の高い女性でした。ファルティアさんとラクシェルさんも背は高いのですが、この人はそれよりも更に一回り背が大きいです。しかし体の線は羨ましいほど女っぽいおうとつに恵まれています。私は細いだけであまり恵まれていないだけに、理想体型を現実に見せられるとどうしても羨望の眼差しを向けてしまいます。
 私はその人の元へ小走りで向かいました。正直、二人がやり取りする傍にいるのが怖かったのです。いつ巻き込まれても文句が言えそうにありません。
「えっと……リュネス=ファンロンです。よろしくお願いします」
 まずは挨拶の済ませていないその場の皆さんへ挨拶する事から始めました。すると口々に『こちらこそ』という声が返ってきます。しかしそれはどこか上の空です。見るとみんな、チラチラとファルティアさん達を警戒するように見ています。二人のやり取りが気になる……というよりも恐れているといった様子です。
「リュネスか。私はリーシェイだ」
 と、私に手招きをした人が私の目の前へ来ました。この距離で前にしますと、私の背は、顔がリーシェイさんの胸ぐらいに届くかどうかというぐらいしかない事に気づきます。
「あの……止めた方がいいと思うんですが、誰か止めないのでしょうか?」
「止めない。皆、利口だからな。君子危うきに近寄らず、だ」
「はあ……」
 その言葉に、皆さんはうんうんと深くうなづきます。
 そんなものでしょうか……? やっぱり、ああいう衝動的なケンカは良くないと思うのですが。
「リュネス」
 ―――と。
「え?」
 突然、私はリーシェイさんの指先に顎を掴まれ、くいっと上を向かされました。目の前にはリーシェイさんの冷静そうな無表情が詰め寄ってきます。
「この顔立ち……。お前、支那系か?」 「あ、はい。父は二世なので厳密には混血ですけど……」
「ふむ、そうか」
 そのままリーシェイさんは、まるで骨董品を鑑定するかのように私の顔を観察します。まるで珍しいものでも見つけたような感じです。別に珍しくはないと思うのですが。取り立てるものもない、これといった特徴も無い顔ですから……。
 しかし、
「合格」
 不意に放った意味不明の言葉。
 そして、
「ふぐっ!?」
 問い返す間もなく、リーシェイさんの顔が思いっきり近づいてきました。
 え!?
 気がつくと、私は唇で唇を覆い被せられていました。
 な―――な―――!
 言葉にならない悲鳴を上げます。
 慌てて離れようとする一瞬先に、リーシェイさんの手が私を抱き締めて逃がさぬように拘束します。
 とにかく私は唇を離してもらう事だけしか頭に浮かびませんでした。次は首を動かして離れようとします。しかしすぐに抱き締めていた手の片方が後頭部へ忍び寄り、頭を完全に押さえつけます。
 は、離れなきゃ!
 私はその言葉だけを半鐘のように頭の中で鳴らしながら動きます。しかし、幾らもがこうともリーシェイさんの体を叩いて抗議しようとも、全く効果がありません。
 ―――あ!
 リーシェイさんの唇が巧みに動いて私の唇を開かせます。そして、私の口腔へ舌をねじ込んできました。口の中を他人の舌が這いずり回る。その未体験の感覚に、私は更に抵抗のため体を動かし、うんうんと唸ります。
「……ん? あ、リーシェイ! テメエ!」
 その時、ようやく私に気づいてくれたファルティアさんが怒鳴り声をあげました。
「離せ! この変態女!」
 すると、唐突にリーシェイさんの唇が離れて、ひょいと横へずれます。その直後、私の目の前に靴の裏がもの凄い勢いで突進してきました。 「ひゃっ!?」
 しかし、それは私の鼻先の寸前でピタッと止まりました。見るとファルティアさんが高々と足を上げた綺麗なフォームで蹴りを放っていました。
「このアマァ……来て早々やらかしやがって……!」
「まだ何も大した事はしてないが? 軽く味見をしただけだ」
 しれっと答えるリーシェイさん。その表情、本気でそう思っているようです。
「もう頭きた! お前のような変態は殺す他なし!」
「いい年して、エスタシア様エスタシア様と、まるで見込みのない男の後ろを未練がましくつきまとうお前に言われたくはないな」
「み、見込みがない訳じゃない!」
「現実逃避か? だからおまえはいつまで経っても処女なのだ」
「殺す!」
 そして、今度はファルティアさんとリーシェイさんのケンカが始まりました。
 それは思わず目を覆いたくなるような、凄まじい惨状でした。なんというか……その。ロビーにある家具が全て凶器として使われています。
「ごめんね、ちょっとアイツ、変わっててさ」
 と。私にハンカチを差し出したのは、先ほどとは打って変わって別人のように落ち着いたラクシェルさんでした。あの殺気立った鬼のような表情が脳裏に浮かびます。同一人物であるはずなのに、とても目の前の笑顔と繋がりません。
「……あの?」
 そのハンカチの意味が分からず、私は目で問い掛けます。するとラクシェルさんは苦笑しながら、自分の口の周りを指差しました。
 あ。
 私は慇懃にハンカチを受け取ると、それで口の周りを拭きました。思った通り、ハンカチには真っ赤な口紅がべっとりとついています。先ほどの……アレのせいです。
 あーあ……。
 少し、ショックです。
「リーシェイって、可愛い男の子はともかく女の子にまで目がないんだよね。ま、貞操奪われないように頑張って」
 愉快そうに笑うラクシェルさん。でも、はっきり言って洒落になりません。出会い頭にああいった行為に及ぶ人は初めて見ました。そもそも、これって犯罪なのではないのでしょうか……?
「さて、ここはもうすぐ使えなくなるからホールの方に行こう。はい、みんなも移動移動」
 ラクシェルさんの誘導で、凍姫の人達がぞろぞろと廊下に避難を始めます。私もそれに続く事にしました。イスとかテーブルでケンカしている二人を、私はとても止める自信も勇気もありません。
 が、その時。
 ごすっ。
「あ……」
 私は思わず口を押さえました。
 運動エネルギーを全て失ったイスが、がらん、と音を立て床に転がります。その先で、ラクシェルさんが俯き加減で不気味なほど静かに佇んでいます。
 ファルティアさんとリーシェイさんが向こうで乱闘を繰り広げていたのですが、運悪く流れてきたイスが、ラクシェルさんの後頭部を直撃したのです。ごすっ、という鈍い音は、そのイスの運動エネルギーが後頭部へ伝えられた瞬間の衝突音に他ありません。
「だ、大丈夫ですか!? ラクシ―――」
「テメエらー! やっぱり殺されたいようだな!!」
 突然、ラクシェルさんは凄まじい雄叫びを上げながら振り返りました。
 その形相は、鬼のようでした。
「黙れ。一人で死ね」
 リーシェイさんは両手に光る何かを沢山持ちながら、そう冷淡に突っぱねます。
「やかましい! 文句があんならかかってこい!」
 そしてファルティアさんも、わざと挑発するような言動をラクシェルさんへぶつけます。そのファルティアさんの右腕は、いつの間にか普段の倍以上に膨れ上がっていました。形も心なしか、人間の腕とはちょっと……。
「その口、二度と聞けなくしてやる」
 ずしん、ずしん、と地鳴りのような足取りで向かっていくラクシェルさん。その両腕は白いもやのようなもので包まれています。
 三人とも、明らかにちょっと変わった点があります。これがもしかして精霊術法なのでしょうか? だったらこの機会にじっくりと―――。
 と。
「伏せて!」
 厳しい言葉と共に、私は無理やり腹這いの姿勢にさせられました。あまりの勢いに、床に鼻の頭をぶつけて涙ぐんでしまいます。
「そのまま姿勢を低くして廊下に向かうの! 決して頭を上げちゃ駄目!」
 その女性は冷や汗で濡れた顔に深刻の色を浮かべて私に言いつけました。
「え……? どうし―――」
「だからもっと低く! 死にたいの!?」
 死にたくは……ありませんけど。
 鬼気迫った表情でそう言われてしまったら、もはや従うしかありません。
 とにかく私は慣れない匍匐全身で廊下を目指します。見ると周りのみんなは同じように腹這いになって廊下を目指していました。みんなやけに手馴れている印象があります。なんだか異様な光景です。
「ああなっちゃったら、ミシュアさんが来るかお腹が空くまで止まらないの。迂闊に近づいたら大変な事になるわ。だから姿勢を低く、頭だけは守って」
「大変な事って?」
「先月、一人入院したわ」
 なるほど……それは大変です。
 私は、傘のない時に雨に降られてしまったような、そんな切ない気分にさせられました。がっかりという訳ではありません。何一つ幻滅も期待外れの落胆もありません。むしろ、新天地で歓迎を受け、これから頑張って強い人間になろう、という意欲が増しています。ただ、どこか素直に飲み込めないものが喉から出かかっていました。
 そう……これです。
 ようやく、胸の中の気持ちを表現する言葉を見つけました。
 私、こんな環境で本当にやっていけるのでしょうか……?
 ―――と。
 ドォン!
「わっ!?」
 背後で起こった爆発音。その爆風に後ろから煽られ、私は廊下へ向かって飛んでいきました。
 人は、意外と簡単に飛んでしまうものです。
 凍姫で初めに知った事がこれでした。



TO BE CONTINUED...