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「ハッ!」
怒涛の勢いで次から次へと攻撃を繰り出すシャルト。
しかし、白い制服を着込んだ青年はいともたやすくその攻撃を、たった左手一本で悠々といなしていく。
両手両足を総動員して繰り出していくコンビネーションはスピーディで型も整っており、傍目には全く申し分が無かった。しかし青年は左手を巧みに動かし、シャルトが繰り出す一撃一撃が体に触れるよりも早く、攻撃の直線状に対して対角線交わっては威力を殺していく。青年の腕は特に人間離れした形状をしている訳でもない。ただ何故か、シャルトの攻撃が体に触れそうになった瞬間、左腕の動作は爆発的に加速するのだ。ただ攻撃を読んでいるだけの動作ではない。
シャルトは一度右腕を低く構えたまま屈曲させ、刹那の溜めを作る。そしてその右腕を、唸るような勢いで繰り出した。たとえ左腕が攻撃の到達を妨害しようとも、力ずくでこじ開けてやろうという強引な攻撃だ。しかし、その一撃も同じように青年の左手の甲によってあっけなく軌道をずらされてしまう。青年には特別力を込めた様子は無い。ただ緩やかに、左手を目の前にかざしただけにしか過ぎないのだ。
これまでとは違ったタイプの相手だ。
そうシャルトは奥歯を噛む。
さっきまで倒して来たのは皆、こちらの攻撃を『気』で防御力を強化する事で受け止めようとしていた。しかしこの青年は、攻撃そのものが体に触れないような防御法を取っている。左腕の人間離れした動きは、やはり『気』の力によるものだろう。となれば、なんとかしてこれを掻い潜らなければ触れる事はままならない。
「その歳で大した使い手だ。よほど功夫を積んだのだろう」
青年は表情を変えないまま、シャルトに向かってそう賛辞の言葉を送った。だがそれは乏しい表情から感情を窺い知る事が出来ないためか、本心から感嘆しているようには、少なくともシャルトには思えなかった。
「しかし、戦術というものをまるで分かっていないようだ。経験が足りない」
すると青年はシャルトの突きをいなした手の甲をくるりと返すと、そのまま手首を内側から掴んだ。そして関節の可動域一杯まで捻り、まるで投げ捨てるかのようにシャルトの体を後方へ引き投げた。
「くっ!」
だがシャルトは咄嗟にバランスを取り直すと、空中で体をくるっと回転させて足から着地する。そしてすかさず石畳を蹴ると、青年の肩先ほどの高さまで飛び上がり頭部を目掛けて回し蹴りを放った。けれど、その奇襲もあっさりと青年の左手によっていなされ、バランスを崩されたシャルトは今度こそ石畳の上に背中を強かに打ち付ける。
青年はゆっくり右足を上げると、石畳の上で着地の衝撃に体を硬直させるシャルトに目掛けて勢い良く落とした。だが寸前の所でシャルトは石畳の上を転がり、青年の踏み付けをかわす。ずしんっ、と重苦しい音を立て、青年の足はシャルトが転がっていた石畳を大きく陥没させた。
シャルトは転がった勢いと背中のバネを使って飛び起きると、すかさず青年に向かって構えを取る。
「大人しく退け。これ以上は無意味だ。白鳳は無駄な殺生は好まん」
そう青年は言い放った。
お前では私に勝つ事は出来ない。
暗にそんな意味を含めながら。
「俺は……退かない!」
しかし、シャルトの目は依然として闘志を失っていなかった。初めからこの程度で退くような、中途半端な覚悟は持ち合わせていないからである。
シャルトは重心を低く落とすと、そのまま青年に向かっていった。
「信念に殉ずるか、もしくはただの偏執か」
小柄な体格を生かすには最も適した姿勢である。相手にとってシャルトの姿が見え辛くなり、その分死角も多く生まれる。
疾駆しながらシャルトは右腕を屈折させ力の溜めを作る。攻撃の目標は青年の胸、中央へ定める。
その一部始終を、青年は見逃してはいなかった。
また同じ攻撃か。
不屈の精神は素晴らしいが、状況を弁えないのはただの猪突である。冷静さを欠いてしまっては無駄に命を落とすだけだ。
半ば呆れながらも、左手をすっと前方へ伸ばして構える。
優れた使い手とは言え、恐れを知らぬ年頃は己を過信しがちになる。ここで失うにはあまりに惜しい原石だが、このまま黙って放置するにはあまりに危険な存在でもある。白鳳の判断は自分一人が下すものではない。
攻撃の入射角度、速度は既に見切っている。タイミングさえ分かっていれば、後は目をつぶっていてもかわす事は可能だ。攻撃の型があまりに綺麗過ぎるため、容易に軌道の予測がつく。
「無駄だ」
接近してくるシャルトとの距離を測りながら、青年はゆっくりカウントする。
言葉で分からなければ、後は決定打を持って体に分からせるしかない。青年はいなす左腕を指拳に握り替え、そこに『気』を集中させる。『気』のこもった青年の指は鋭利な寸鉄と化した。その貫通力は実際の寸鉄とは比べ物にならず、人体で最も頑丈な部分とされる額ですら容易に貫通してしまう。
一思いに死なせてやる。
青年は指拳の狙いを、シャルトの眉間へ定めた。
と。
「ッ!?」
次の瞬間、シャルトの拳が青年の胸を捉えた。拳の威力に押され、青年の体は斜め後ろへ浮かび上がる。その衝撃に口からは酸素と幾許かの血を強制的に吐き出さされた。
青年は咄嗟にシャルトとの距離を置いて構え直す。シャルトは拳を振り切った残身の姿勢をしている。丁度、真っ向から向かって体を打ち抜かれたようだ。
いつの間に。
そう青年は思わず狼狽しそうになった。体を飛ばされるまで、いつ打たれたのかすら気が付けなかった。決して油断していた訳ではない。ただ、防御を攻撃に切り替えていただけだ。
あの少年の動きが自分の反応速度を上回ったのだろうか? まさか、そんな事は有り得ない。人間が持ち得る最大限の反応速度を持つ自分よりも素早く動く事など不可能だ。それは音が空気を伝達する速度に匹敵している事を意味する。人間の到達できる領域ではない。
しかし、北斗には人間の領域を脱した達人など幾らでもいる。理論上可能ならば、実現不可能と言い切るのは尚早ではないのだろうか。だが、かと言って本当にこの少年が達してしまっている事にはならない。
ゆっくりと口元の血を拭い、青年はこれまで背中の後ろにあった右腕を出し両手で構える。軽く両拳を握り、左腕は前方へ緩やかに伸ばして構え、右腕は腹の高さに低く添える。
何にせよ、自分が打たれたのは事実なのだ。戦闘に偶然など有り得ない。このまま気を抜いていれば逆にやられかねない。この少年が自分を遥かに上回る速さの持ち主である事を素直に認識しよう。
「君を侮っていたようだ。ここからは全力を持って殺しにかかる」
俄かに青年の全身から恐ろしいほどの殺気が放たれた。けれどシャルトには少しも怯む様子は無かった。その視線はひたすら先へと馳せている。辿り着くまでは退くことも止まることもしない、透明なほど澄み切った覚悟だ。
「フンッ!」
青年が前へ踏み込む。
気の力によって一時的に強化した足で石畳を強く踏み込み、さながら弾丸の如く自らの体を撃ち出す。右の拳を縦に構え、速度が最高点に達した所で更に体を伸ばし、横拳を一気に繰り出した。
シャルトはその攻撃を冷静に見切り、触れる寸出の所で体をずらして回避する。だが、すかさずシャルトの後頭部側へ回し蹴りが放たれる。死角を突いたその攻撃は、正確に後頭部の窪みを狙っていた。人間の構造的な急所の一つである。
しかし、シャルトはまるで背中に目でもあるかのように、一瞬早く体を沈ませてその攻撃を回避する。同時に体を螺旋状のステップを描きながら勢いをつけ、最も深く沈む最後の一回転に地を削るような低い蹴りを放った。
その蹴りは、不用意に片足を地から離していた事でさらしていた無防備な軸足を見事に刈り、青年の体は中空に投げ出された。
すかさずシャルトは溜めを作り、空中で身動きが取れない青年への追い討ち体勢に入る。だが、青年は空中でくるりと体を回転させて姿勢を整えると、そのままシャルトの顔面に目掛けて両足での蹴りを繰り出した。
シャルトは顔を跳ね上げられるように大きく後ろへ吹き飛ばされる。しかしこちらも石畳に背中を打ち付ける前に空中で半転してよろめきながらも足から着地する。
間髪入れず、シャルトは石畳を蹴った。
着地際を狙い、シャルトは右拳を頭の上、左拳を水平の対照になるよう下段に構え、青年の胸から腹を目掛け両拳を放った。
ドンッ、と水を張った樽を叩いたような小気味良い音が鳴り響く。
青年の体は威力に押されて後方へ飛ばされるものの両足が石畳の上を離れる事は無く、やがて立ち止まった青年の表情はむしろ余裕に満ち満ちていた。
やはり中途半端な攻撃は効かない。決定打を与えるには十分な練りが無ければ。
シャルトは奥歯を噛み締める暇も惜しみ、更に石畳を蹴って疾駆する。
二人の戦いは、一見して青年側の方が有利に見て取る事が出来た。
双方の肩書きを比べれば尚の事、何より経験の差があまりにも大き過ぎた。単純な技量だけならば同等であると評しても過言ではないだろう。しかし、それを有効かつ効率的に生かすには、他ならぬ経験が重要なのだ。
二人が北斗に入ってから経過した時間の差は、およそ十年。それは丁度、頭目の世代交代の目安になる程の時間だ。
シャルトに勝ち目は無いだろう。
二人の打ち合いを見ながら、そう誰もが思った。だが、必ずしも時間だけが優れた人材を生み出すとは限らない、その顕著な証明が目の前で起こる。
何時の間にか、青年の表情に苦味が走っていた。
シャルトの攻撃は相変わらず青年によっていなされていたのだが、徐々にいなしきれず体を掠る攻撃が増えてきたのである。たとえ掠っただけだとしても、びりびりと痺れるような衝撃は伝わり、それが蓄積すれば次第に目に見えないダメージとなる。ダメージは体力を低下させ、同時に思考能力に対しても多大なプレッシャーをかける。
既に青年は背中の後ろに構えていた右腕を出し両手で相対していた。しかしそれでもシャルトの攻撃はいなしきる事が出来なくなっていた。表情にも焦りが見え隠れしている。
両手でも捌ききれない。
青年がシャルトの攻撃の速度に追いつけなくなった訳ではない。パターンが読めなくなってきたのだ。青年の型や手の内、癖などのあらゆるパターンを驚異的な速さで学習し、その裏を突いているのである。
早く倒さねば。
青年の使う流派『白鳳』の武術は、一つ一つの動作を最小限に留めておきながら最大限の威力が発揮出来るよう独自の理論によって構築されている。青年が何気なく放つ指拳も、一発一発がみんな人体の急所を正確に狙っている。人間の体は多くの骨と肉が複雑に絡み合って構成されているが、たった一つのポイントを貫くだけで容易に生命活動を停止してしまう。他に類を見ない複雑な体構造を持っているが故の必然なのだろうか、白鳳はそれらの弱点を『点穴』と呼び、その全てを頭の中に叩き込んでいる。更に点穴は、突けば必ずしも必殺の効果を発揮する訳ではない。体の自由を奪ったり、身体機能の一部に制限をかけたり、はたまた己の点穴を突いて一時的な強化を施す事も可能なのである。
点穴の知識は流出を恐れ厳重に制限されている。そのため一般には点穴の存在は知られていても詳細までは行き渡っておらず、そのため白鳳の使う武術は神秘的なイメージが浸透していた。指先一本でどんな大男も倒す。白鳳の強さとは、未知なるエネルギーの『気』と門外不出の点穴にあった。
不明瞭な恐怖を与える白鳳の拳の粋を、青年は惜しげもなく繰り出し続けた。しかしその攻撃はシャルトの点穴を捉えられないばかりか、攻撃としての意味そのものを持っていなかった。シャルトの体に触れる事すら出来ない指拳は、ただ滑稽なばかりかむしろシャルトに攻撃の機会を与えてしまう。つまり、自分が勝つために攻撃を仕掛ければ仕掛けるほど、逆に手痛い反撃を受けさせられてしまうのだった。
勝てない。
青年は迂闊にも、はっきりとその言葉を思い浮かべてしまった。
自分が見たシャルトの実力は、あくまで表面的なものにしか過ぎなかった。既にシャルトの防御を崩す事はおろか、こちらへの攻撃すら対応し切れなくなってきている。しかもシャルトはまだ、自分の実力を完全には出し切ってはおらず幾許かの余力を残しつつ戦っている。シャルトの視線は目の前の自分ではなく、自分よりも遥か先へと向けられている。自分はその中で単なる通過点程度でしかない。
こんな一回り以上も経歴の浅い人間に、まさかこの自分が踏み台とされるなんて。
ようやく目の前の現実を飲み込めた時、決別の瞬間が訪れた。
「食らえッ!」
シャルトの左足が螺旋のステップで体を前方へ蹴り出す。そのエネルギーは淀みなく、下から上へ突き上げるように放たれた右拳に伝えられた。
青年は体中の『気』を両腕に集中させ、全力で防御体勢を取った。だが信念の力は、容易に青年の『気』を凌駕する。
激しい勢いでぶつかったシャルトの拳は力ずくで防御をこじ開け、青年の鳩尾を捉える。構造的に筋肉のつき難いため、人体の急所の一つである鳩尾は、シャルトの送り出した全ての衝撃をダイレクトに受けてしまった。言葉では言い表せなかった衝撃の苦痛に、一瞬全身が直立不動の姿勢に硬直する。しかし青年は体を前のめりに折れ曲げたまま、二、三歩ほど背中側へ見えない手によって引き寄せられていた。
続いてシャルトは放った右腕を戻すと、軽く膝を曲げて腰を落とし胸の前で左右の手のひらを重ねて構える。
重なったシャルトの手のひらは青年の胸を斜め上に向けて撃ち抜いた。青年の着ている上着の背中の部分の布が円状に破れた。シャルトの放った掌打の衝撃が青年の体を綺麗に打ち抜いたためである。
更にシャルトは右腕を硬く握り込むと、それを自らの頭上に振り上げた。そして青年の胸に目掛けて真っ直ぐ下へ打ち下ろす。
激しい轟音と共に土煙が上がる。
シャルトは残身のままゆっくりと呼吸を整える。視線は真っ直ぐ足元から立ち上る土煙の中心へ油断無く注がれていた。
やがて土埃が落ち着きを始め、二人の周辺がよく見えてくる。
シャルトの足元で、青年の体は石畳の中にめり込んでいた。二段構えの打撃によって足を地から離され、ステップによる回避を不可能にした状態で重力も巻き込んだ打ち下ろし式の握撃で止めを刺す。レジェイドが考えたコンビネーションとは言え、その判断能力や一つ一つの完成度は申し分が無い。
青年は仰向けに四肢を放り出した格好のまま、立ち上がることが出来なかった。あれだけの攻撃を受けて、尚も意識が残っている事自体が奇跡に近い。しかし、下手に自らの体が頑強だったためか意識を失う事が出来ず、全身から抉り出すような激痛を感じ続けなければならなかった。
「私の負けだ……もう立ち上がる力すらない」
そうか、とシャルトは一度溜息をつくと、ゆっくり構えを解いた。
「どうしてこの戦争に参加しないんだ?」
「頭目の遺言だ。北斗で内乱が起きたのならば、我ら白鳳が混乱を制して上に立てと言い残された。我々はその御遺志に従っているだけにしか過ぎない」
「遺……言?」
「頭目は十年以上も前に入滅なさっている。君達が目にした事のある姿は、服装だけで中身は影武者だ」
「けれど、幾ら遺言だからってこんなの……こんなのは勝手過ぎる……!」
「そうだな。人はどれだけ理知的に生きようとしても、己の中に生まれながら組み込まれた業には勝てないのかもしれない」
何かを悟りきったような青年の表情。
これが、戦いの歴史を重ねてきた北斗達の行き着く先なのだろうか?
そう思うと、シャルトは不意に自らの修めた力の意味がまるで無価値のような気がしてならなかった。
シャルトは一呼吸の間、青年を見下ろした後、一礼して再び走り出した。
たとえ無価値でも、今はやらなければいけない事がある。今分からないものの価値なんて、後の時代の人間が決める事だから深く考える必要はない。そうレジェイドが言っていたことを思い出す。
今、最も大事な事。それは―――。
不意に、シャルトの耳に誰かの声が聞こえてきた。
思わず足を止めて周囲に目を走らせる。
その声はまぎれもなく、今まさに考えていた、自分にとって一番大切な人の声だった。
そして、もう一人。自分が良く知る人間の、重ねて言えば、今は北斗の敵となっている人間の声だ。
「シャルトさん!」
再び聞こえる、彼女の声。
「リュネス!」
誰何を訊ねるよりも早く、シャルトは声の聞こえてきた方へ駆けて行った。
TO BE CONTINUED...