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ずっと走り続けてきて、私はふと思った。
どうして自分は走るのだろう、と。
現状からの脱却を強く望んではいた。けれど、そのスタート地点となった所は既に遥か遠ざかっている。
私は今も走り続けている。見えないゴールを模索しながら。
いや。
私は走り続けざるを得ないのかもしれない。
走り続ける私の伴走者はいつの間にか数え切れないほどに増えていた。そして、彼らは彼らのゴールへとひたすら向かっていた。私と一緒に走っていけばかならずそこに辿り着ける、と。
私はゴールなんて考えた事も無かった。
ただ、走り続ける事が出来ればそれでよくて。走る事が抜け殻のようにしか生きられない自分を満たす全てだった。
でも、彼らは勝手に私の目的地を決め、そこへ向かう事を饒舌な沈黙を持って強要する。
私はさながら、彼らをカナンの地へ誘う預言者。
ただ一つ違うのは、私はそんな聖人君主ではないという事。
私は自分のためだけに生きている凡人なのである。
誰もいない深夜のトレーニングルーム。そこで一人、ルテラは佇んでいた。
鋭く、まるで苛立たせる何かを切り裂くかのように拳を繰り出す。右手は空気の断層を突き抜け腕の長さと同じだけ進んで静止、僅かに遅れて巻き込まれた空気の流れがゆらりと腕を添って追い抜いていく。
精霊術法の使い手にとって、肉体の強化はさほど重要な事でも無かった。肉体を鍛えるよりも精神を鍛えた方が遥かに効率が良い。ルテラはそれを理解していた。その上でここにいるのは、単に体を動かす事で精神的な負荷を減らすためである。
既に誰もが各々の寝床に戻り、本部に夜勤組が数人残っている程度の時刻。だが、ルテラは未だに己の部屋へ戻る素振りは見せなかった。それどころか、今突き出した拳の軌道が気に入らなかったのか一層険しい表情を浮かべると苛ただしげに拳を元に戻して深く息を吸い込む。いや、気に入らなかったのはただ突き出しただけの拳筋ではない。一向に定まろうとしない自分の心だ。
すると。
みしり、と板の歪むような音を立てたかと思うと、ルテラの周囲が無数の白い雪の結晶で埋め尽くされる。本来、雪の結晶とは肉眼で確認するのは非常に難しく、また配色も正確には白ではない。これらは、ルテラが精霊術法を行使したからこそ成し得る現象である。精霊術法は術者の心象をそのまま具現化する事が可能な技術だ。そのため、通常は物理的に存在し得ないものですら存在させる事が可能なのである。
ひゅう、と苛立った呼気を短く吐く。それと同時に、まるで己の苛立ちをぶつけたかのように広がった白雪の絨毯が見る見ると塵となって消えていく。
薄闇の中、ルテラの眼差しは異様にギラついていた。それはさながら獲物をじっと見据える捕食動物のようであり、獣じみた、という表現がそのまま当てはまった。真っ白な肌、理想的な均整の取れた体、緩やかにウェーブのかかったハニーブロンド、そのいずれを取ってもルテラの容姿は美しいものだった。それだけに、これらとまるで相容れないはずの獣じみた姿に変容した眼差しは格段に目を引いた。無論、悪い意味でだ。そのアンバランスさが、目にし為す術なく蹂躙されていった凍姫の人間達に彼女を『雪魔女』と呼ばせたのだろう。
と。
「あ、やっぱりまだいましたね」
これまで、ホール以外にはまるで人気が無かったはずの訓練所。しかしそのホール内にふとそんな間延びした声が響き渡った。
じっと薄闇を睨みつけていたルテラは、ゆっくりと声の聞こえてきた背後を振り返る。するとそこには、ワインレッドの髪を後ろで緩くみつあみにした面識のある女性の姿があった。
「夜更かしは美容によくありませんよぉ?」
刃物のような空気を纏わせているルテラに対し、彼女はまるでその空気が読めていないかのように間延びした緩い空気のままてくてくと歩み寄ってくる。
女性の名はリルフェと言った。ルテラとはほぼ同じ時期に雪乱に入り、年齢もルテラと同じである。だがその独特の間延び口調と緩い性格のため、実年齢よりも幼く見られる事がある。周囲からは名前を縮めて『リル』と呼ばれる事が多かった。
同じ時期に入ったルテラと基礎訓練等を一緒に受けたためか、リルフェはルテラには特に親しく接していた。ルテラが人並み以上に近寄り難い雰囲気を放つようになってからも、リルフェは初めの頃とはなんら変わらず接している。訳隔てなく接するのはリルフェの性格だったが、周囲には向こう見ずで危なっかしいだけにしか見られなかった。
「何か用かしら、リル?」
「いーえ。でも、ほら、頭目よりも先に帰るのは気が引けますでしょう?」
まるで撥ね付けるようなルテラの視線にさらされても、リルフェは全く動じる所か自らの緊張感のない態度を崩そうとしない。そんな彼女の様子にルテラは小さく舌打ちをすると、ぎんっと鋭い眼光を向けると共に冷たい突風をリルフェに対して放った。
「私は仕事が無ければ帰れと言ったのよ」
「ですから、せめても夜食を買ってきたんです。後ろめたいじゃないですかあ」
しかし、それでもリルフェはまるで何も感じていないかのような表情でにっこりと微笑むと、そっと手にしたそれを見せた。それは使い捨て用の汁物を入れる容器だった。店のものらしき名前がプリントされたそれが二つ、凍えるホール内にもくもくと熱そうな蒸気を放っている。
「頼んだ覚えはないけど」
「普通、差し入れなんて要求する人はいませんよ」
再びにっこりと微笑むリルフェにルテラはやれやれと肩をすくめると、その差し入れを戴くため場所をホールから控え室へと移した。どうにも彼女のペースにはいつも飲まれてしまう。ルテラは硬くなった表情を緩めると、自分とは違って緊張感の無いリルフェに隠れ、またもや飲まれてしまった自分へ苦い笑みを浮かべる。
「ほら、見て下さい。この鳥団子! 綺麗な色ですよ。エビもぷりぷりです」
リルフェが差し入れたそれは、幾つかの食材をスープで煮込んだものだった。リルフェはにっこりと嬉しそうに微笑みながら一口ではやや大きいそれを食べてしまう。ルテラも続き、まずはスープに口をつけた。が、すぐに唇に走った鋭い感覚に口を離す。どうやら思ったよりもそれは熱かったようだ。
数分ほどはお互いひたすら黙って食べ続けていた。しかし、リルフェは順調に食べていたもののルテラは吹いて冷ますばかりでほとんど減っていなかった。よくもああも平気な顔で食べられるのかルテラはリルフェが疑問に思った。考えてみれば、リルフェはこれまでも終始こういった調子だった。不真面目、と呼ぶには自分の責務は抜かりなくこなし、トレーニングも一生懸命やっている。実力も平均より遥かに上で、もしもルテラがいなければ次期頭目は彼女になっていたと評価されるほどだ。
ルテラはそれが何よりも疑問だった。自分はいつもぴりぴりと神経を張り詰めさせながら、訓練に勤しんでいるというのに。何故、これほど実力差が狭いのだろうか。そして、僅かな疑問はやがて不快感にすら変わっていった。あんな何も考えていないような生活をしているくせに、自分の後をぴったりと追いついて来れるなんて。その事実が許し難かった。リルフェの柔らかな物腰はいつも張り詰めたルテラを適度に息抜きさせたが、同時にそんな苛立ちをもたらせた。ルテラにとってリルフェは、友達とも嫌悪の対象ともつかない微妙な存在だった。いや、いつもこうして顔を合わせ談笑するのだから友人の部類に入るのだろうが、友人相手に表向きはにこにこしながらも嫌悪感を抱くその矛盾からして普通の関係ではない。
「やっぱり頭目だからですか? こんな時間まで訓練してるのは」
と。
残るはスープぐらいとなった頃、リルフェはふとそんな問いをルテラに投げかけてきた。やや頬が紅潮している。熱いものをほとんど一気に食べたせいだ。
「そうよ。頭目が強くなきゃ、凍姫には勝てないでしょう?」
「ルテラは雪乱に勝って欲しいんですねぇ」
にっこり微笑みながら、リルフェはのんびりと答える。
何を馬鹿な事を。
ルテラはそう思った。私達が行なっている凍雪騒乱は、どちらかが決定的優位に立つ結果を収めるまで止まる事は無い。『相手に勝利したい』というのが双方の総意だ。まして自分は、幸か不幸か雪乱の頭目となった。末端が幾ら裏切ろうとも、自分は最後までその意思を貫かなくてはいけない。そもそも、リルフェも同じ雪乱の人間のはずだ。なのに、何故そんなどこか他人事のような言葉を放つのだろうか。今更再確認するまでもない、当たり前の事だというのに。
しかし、ルテラはすぐさま頭に浮かんだこれらの言葉を廃棄した。そして、本当に自分が胸に抱いている言葉を頭の中で文字に現す。
「……あなただから言うけどね。正直、分からないわ」
すると、ルテラの言葉がそれほど意外だったのだろう、リルフェは一言ぽかんと口を開けて問い返す。
「なんか今の私、随分と馬鹿な事をしているみたいな気がしてならないの。つまり、そういうこと」
ルテラはこれまでずっと押し込んでいた言葉を口にしたためか不意に気まずくなり、リルフェの視線から逃れるように姿勢を横へずらして適温になったスープをすする。
と。
「なるほど。じゃあルテラは、これまで誰かに助けて欲しかったんですねぇ」
緩い口調が鋭くルテラの胸に刺さる。
「な……何を、おかしな事を言わないで!」
思わずルテラは振り向き、緩い表情を浮かべているリルフェを怒鳴りつけた。その怒りは普段の冷たい内に秘めるようなものではなく、直接的な言葉と様相で現す対照的なものだった。
「まあまあ、怒らないで下さい。ほら、ルテラはもうちょっと柔らかい表情をしましょう。せっかく美人なんですから」
にっこりと笑うリルフェに、ルテラは感情のやり場を失って渋々と言葉を飲み込んだ。
いつもそうだ。
何を言われても、彼女はどうしても心から憎む事が出来ない。
TO BE CONTINUED...