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もう一度、『生きる』という最も根本的な命題について考え直そうと思う。
僕は人間同士の情なんてあっても無くても同じだから、余計な面倒がない分、無い方がずっと合理的に生きられると考えていた。合理性の追求は発展を促し生活を潤す。
動物には無い人間特有の行動だ。無駄を省き、循環する生活の中から少しでも大きな利潤を生み出す努力をする。これ以上にない人間らしさを僕は体現しているのだ。
自分が間違っていない自信はあった。十年かけたこれまでの価値観とは違い、たった数ヶ月の間に確立させた急造のものではあるけれど、答えは時間がかかったから正しいとは限らない。
僕は今まで気がついていなかっただけで、あの件をきっかけに目が覚めたのだ。ずっと勘違いをしていただけなのだ。長い悪夢を見ているように。
けど、本当の悪夢とはどちらなんだろう? そもそも、悪夢とは一体何なのだ?
その一条の光は、そんな僕の元へ温かく差し込んできた。
太陽が傾きかけようとしていた頃。僕は教会の食堂に神父と二人で食卓を囲んでいた。
古びてはいるものの、以前は晩餐会などのために使っていたらしい広々とした食堂は、たった二人だけの食事にはあまりに広すぎて物寂しさを否応無く煽ってくる。日当たりもあまり良くはなく、室内の薄暗さがより建物の古さを際立てる。
片側にはおよそ三十人は座れそうな長いダイニングテーブル。そこに僕らは向かい合って席につき遅めの昼食を取っていた。クロスのないテーブルには、僕がカバンに無理に押し込んだため形がややいびつになったパンと、作るのを手伝わされたシチューが並んでいる。シチューはほとんど肉が入っていなくて野菜ばかりだけど、意外と野菜が大きくて具沢山に見える。
「口に合うかな?」
神父は相も変わらずにこやかな表情で、そうシチューの感想を訊ねてくる。
味は悪くなかった。いや、むしろおいしいと思う。考えてみれば、随分長い間温かい食べ物を口にしていない。だからよりおいしく感じられるだけなのだろう。
僕は神父の問いには答えず、憮然とした表情のまま黙々と食事を続けた。どうしてそんな事まで答えなくちゃいけないんだ、馴れ馴れしい。僕達は今日初めて逢ったばかりの他人同士、その上僕はここに泥棒に入った身だ。本当にその事を理解しているのだろうか? それとも、僕みたいな子供のする事なんていちいち目くじらを立てるほどでもないというのか? 何にせよ、その件についてはっきりと明言しようとしない彼の態度にはいい加減辟易している。
そういった感じで、僕は一切馴れ合いはしないと態度に示しているのだが。その割に食事を作るのを手伝いこうして一緒に食べている所を見ると、随分矛盾した行動である。そんな矛盾を客観的に見ていると、まるで自分が幼子の駄々を捏ねているのと同じ事をしているように思え、気分が酷く苦くなった。全て向こうのペースだ。さしずめ僕は、釈迦の手で踊る猿、か。面白くない。
やがて無言のままの重い食事が終わると、神父はお茶を淹れてくれた。砂糖もない苦いお茶だったけど、食後の重い腹には丁度良かった。決して落ち着けるものではなかったが、これほど緊張せずゆっくり食事を取ったのも久しぶりだった。そのせいか、席から立ち上がるのが億劫なほどお腹が苦しくなっている事に気が付いた。さっさと出て行くつもりでいたけれど、もう少しここに居なくてはならないようだ。
「ずっと黙っているけど、君は喋るのが苦手なのかな?」
ふと、神父はカップに口をつけながらそう僕に問い訊ねてきた。
「別に」
苦手でもなければ好きでもなく、ただ話す理由が無いだけだ。それを勝手な自分の解釈で判断して。鈍感も度が過ぎると苛立ちしか感じない。その、自分は何でもお見通しだ、と言わんばかりの勘違いも甚だしい態度。それが僕を無口にし苛立たせている事に早く気づいてくれ。
そうフラストレーションを叫ぶ事で吐き出したい衝動に駆られていたその時。そんな僕の胸中にようやく気づいたのか、神父は気恥ずかしげな苦笑いを浮かべた。
「どうやら私ばかり話してしまっているようだ。話し相手が出来たのは久しぶりでね。つい浮かれてしまったよ」
笑いながら頭を掻く。わざとらしい、むかつく仕草だ。
僕を苛立たせている事に気がついたのはいいが、また僕を苛立たせる失言を吐かれた。誰が話し相手だ。勝手に決め付けるな。そっちが一方的に話し掛けているだけじゃないか。こういう自分勝手な人間はやはり好きになれない。あえて好きになる理由もないんだが。
「お互いの事を知らないと話もし辛いだろうから、まずは私の事から話すとしようか」
こちらの苛立ちなど、気づいているようで気づき切れていない神父。僕との波長は一生同調する事はないだろう。もはやその一方的なやり方には、呆れこそするものの怒りや苛立ちは通り越してしまって湧いてこなかった。
喋りたいなら勝手に喋っていればいいさ。僕は一切の興味は無い。
そんなスタンスを露骨に態度で示してやる。しかし案の定、神父はまるで気づく様子も無く話し始めた。
「私はここには一人で住んでいる。以前は他に信徒もいたのだが、今時、神様なんて信じる人はめっきりいなくなってね。御覧の有様さ。私も裏に作った畑で土をいじっている事の方が多いよ。それでも食い扶持だけは確保しなくちゃいけないからね」
要するに、落ちぶれた田舎神父って事か。
外見からして、如何にもお人好しそうな男。人望はあっても商売は出来ないタイプだ。まあ、落ちぶれても当然だろう。こういう欲の無い人間は概ね金とは縁がない。
しかしながら、この神父にはあまり落ち込んだ様子は見られない。現在の境遇をそれなりに受け入れているようだ。まあ、順応してしまえば生活水準の低さなんて気にもならないものだろう。現に僕は、昨夜と同じ場所には寝られないような放浪生活に半月もしない内に順応し、今ではまるで苦にも感じていないのだ。そういった意味では、ある種、僕達は似た者同士なのかもしれない。
「ところで。見た所、君はこの辺りの子供じゃないと思うんだが。違うかい?」
身の上話が終わるなり、急に神父は僕の身の上に話題を移してきた。
誰が自分の事なんか打ち明けるか。
そう、初めは思ったんだが。ふとした気まぐれから、何となく僕は少し話してみたくなった。ただの膨れた腹が落ち着くまでの場繋ぎ。そんな軽い気持ちで僕は口を開いた。
「そうだよ。盗みをしながら放浪している」
「ご両親は?」
「とっくの昔に死んだ。それからは同じ村の人に世話になっていたけど、追い出された」
追い出された。
その言葉に神父は僅かに眉を歪めた。村から村の仲間を追い出す、という行為そのものに倫理観が拒絶反応を示したのだろう。そういう所はいかにも神父らしい。そう僕は頭の中でせせら笑った。
「それは……もしかすると口減らしのため?」
そして神父は如何にも遠慮がちに、腫れ物でも触るような慎重な口調で問い訊ねてくる。今まではまるでこっちの事なんか気にもしていなかったくせに。別に気にしないでくれていい事で気を使うのは彼らしいと思った。
「僕が気持ち悪いからさ」
神父の問いに、僕はこれ以上に無い簡潔な言葉で一言の下に答えた。僕のさばさばした様子が意外だったのか何なのか、何らかの感慨を受けたらしい神父はこれまでの笑顔を一転させ神妙な面持ちになった。
今度は僕が苦笑する番だった。別に今更、こんな事で憐憫の情を持たれても困る。本当に僕は過去の事なんて何とも思ってはいないのだから。
もっと明るくさばさばと話してみるか。そうすれば、こんなに気づかうこともしなくて済むはずだ。
「僕は普通じゃないんだよ。人とは違うんだ」
「人とは違う、とは言っても、人間は誰しもが同じじゃないよ。一人として同じ人間はいない」
「そういう意味じゃない。文字通り、僕は人と違う力があるんだ。それをみんなに気味悪がられたんだよ」
たったそれだけでの説明では理解が出来ないようで、神父は幾分か苦く唇の端を歪めながら疑問をありありと浮かべて小首を傾げる。僕は軽く肩を竦めると、そっとテーブルの上のスプーンを手に取った。
「見てくれ」
スプーンを手にしたまま頭の中にイメージを描き始める。描いたイメージは、辛うじて上向きに働く見えないベクトル。その上に僕はスプーンを乗せた。
「これは……」
目の前の光景に神父は目を丸くして驚いた。何故なら僕のスプーンが何も無い宙に浮かんだからである。厳密に言えば何もないのではなく、ただ見えないだけだ。そこには僕がイメージし体現した透明の力場が働いている。その上にスプーンが乗っているため、こんな風に浮かんで見えるのである。
「その気になれば、もっと他の事だって出来る。火も出せる、風も起こせる、凍りつかせる事だって出来る。こんなこと、普通の人間じゃ出来ないだろ? だから僕は普通じゃないんだよ」
人間の所持する『無限の可能性』というものは、本来妄信的な精神論に基づくオカルトじみた一種の宗教のようなものだ。人間には人間としての範疇、種族としての可能性の限界が初めから定められている。幾ら人間の域を逸脱しようとしても、人間である以上それは絶対に不可能なのだ。それは逸脱を望む者にとって耐え難い現実かもしれない。しかし、元から望んでいない僕にしてみれば、何故望まない自分なのか、と理不尽さに声の一つも荒げたくなる。人の範疇でいなければ、人は人を人である事を認め受け入れる事が出来ないのだ。僕みたいな存在は自然と淘汰され居場所を失っていく。自分の居場所を獲得するには、僕自身が強くあらなければいけない。そのためにも人間の欠点である執着を僕は捨てて強くあろうとした。だから僕にしてみれば、神父の行動は非効率的で主義に反するものが多い。苛立ちを覚えていたのはそのせいもあるのだろう。
「普通じゃない僕は、どこにも居られない。盗みは悪いっていうけど、だったらどうやって暮らせばいい? 僕の居場所なんてどこにもないのに。無理してみんなに受け入れてもらおうとするよりも、せっかくこんな便利な力があるんだ。それを有効に活用して面白おかしく生きる方がずっといい」
そして僕は宙に浮かぶスプーンを手に取ってテーブルの上に戻すと、描いていたイメージを消した。たちまち見えない上向きのベクトルは消え失せ、また元通りの重力の作用が始まる。
「こんな力があるから、僕はどこにも行く場所がないんだ。僕はこんなもの欲しくも無いのに。神様は僕を生まれついて不幸になるようしたんだよ。気まぐれか何かで余計なものを背負わせてね」
僕は信徒である神父を前に、わざと神様の部分を強調した皮肉めいた口調でそう独り言を呟くように吐き捨てた。まるで自分の不幸の原因を神父に向けて非難しているかのように思った。彼は神を信じているだけで、僕にこの忌まわしい力を持たせた張本人ではないというのに。
と―――、
「でもね、普通じゃない事は幸運な事なんだよ」
神父は突然、そんな意外な言葉を口にした。
僕が幸運だって?
一体どこをどう聞き違えばそこに辿り着くのか。咄嗟に反論しようと向き直ったその時、一瞬先に神父は僕を強く見据えた。威圧感がないのに、何故か目を離すことの出来ない奇妙な引力が彼の視線にはあった。僕は呼吸も忘れてただじっと神父に視線を返す。
「この世には意味のない力なんてない。君のその力も、神様が何か理由があって持たせてくれたんだよ。だから卑下する事は無い」
「理由? 僕を不幸にする他に何があるっていうんだ。現に僕は村を追い出されてる。それもみんなこの力のせいだ」
宗教の理屈に言い包められてたまるか。
僕はひたすら気を強く持って神父の言葉に真っ向から対峙する。僕は絶対に間違っていない。この力は僕を不幸にする他になく、決して神様とやらが僕に何かを期待して持たせた訳じゃない。第一、こんな力で僕に何が出来るっていうんだ。せいぜい、人を驚かせ忌み嫌われるのが関の山だ。
なのに、神父の温かい言葉はそんな意固地な僕の殻を一枚ずつ剥がしていく。僕は自分の心を丸裸にされていくような恐怖を覚えた。冷たい水が隙間から染み込んでくる錯覚。何度振り払おうとしても、目前の眩しさを振り払うことが出来ない。
そして慄く僕に、神父は微笑みながらこう続けた。
「行く所がなければ、ここに居ればいい。神様は求める者を拒絶はしないよ」
TO BE CONTINUED...