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「もう幾ら暴れたって離しませんよ」
全力で『邪眼』の頭部を背後から押さえつけるリルフェ。あまりの腕力にフードに隠れた『邪眼』の表情が苦痛に歪む。
彼女ら浄禍八神格の驚異的な術式のからくりが分かると、もはや恐れるものは何一つ無かった。浄禍八神格は全員がSランクのあまりに巨大なチャネルを持ち、その力は正に神の如き所業だ。精霊術法には術者の精神力を超える行使を行うと、理性のたがが外れて暴走状態に陥る。そのため術者は自らの精神状態に常に気を配りながら、適切な量だけの術式を行使するように最善の注意を払う。膨大な力量を持つSランクの術者は、当然精神的な限界も訪れるのが早い。しかし、彼女らは信仰心によって精神に深い楔を打ち込み、その膨大な力を理性的にコントロールしている。これが浄禍八神格を驚異的な存在としている最大の理由だった。際限なく強大な力を無尽蔵に行使できる。ただそれだけで、精霊術法の術者としては最高位の実力を得た事になるのだ。
しかし、そんな彼女らにも唯一の弱点が存在した。信仰心で暴走を抑制しているのだが、逆に言えばその信仰心が無ければ術式を行使する事が出来ないのだ。そして漠然と信仰心と呼ぶ制御装置にもある一定のルールが存在する。それは、術式を行使した後は一度聖句のようなものを唱える事で、術式によって高揚した精神を冷却しなくてはならないという事だ。彼女らにとって聖句とは、漠然として視覚化の困難な信仰心の具体的な表現である。つまり、聖句無くしては精霊術法を使う事が出来ないのである。
リルフェの腕は『邪眼』の額と喉を抱き寄せるような形で強く締め付けている。この体勢では聖句を唱える事が出来ない。術式は特に姿勢を限定するものではないのだが、既に『邪眼』は強烈な術式を行使している。次の術式を使うためには一度聖句を唱えなければならない。『邪眼』自身には目立った精神の高揚も無く、ただの一度きりで暴走の手前に陥る事も無いのだが、Sランクのチャネルがどれだけ恐ろしいものであるのかを身をもって理解しているためか、頻繁に聖句を刻む普段通りのリズムに乗らなければ、暴走への恐怖で術式を行使する事が出来ないのである。
腕力はリルフェの方が上回っているとは言え、『邪眼』の抵抗は凄まじかった。そっと添えているだけのように見える彼女の手は、今にも引き千切らんばかりの勢いでリルフェの腕を掴み上げる。更に術式とは違った見えない圧力が彼女の内側から発せられ、リルフェの腕を撥ね除けようとしてくる。そして何よりも恐ろしいのは、これだけ手加減無く締め付けているというのに、『邪眼』がまだ生きているという事だ。リルフェの腕力は精霊術法の習得の際に起こる副作用のため、腕力が常人の何倍にも強化されている。彼女が本気で締め付けたのなら、とっくに頭蓋が砕けて喉が潰れている。口調こそ普段のおっとりとした間延び気味のリズムを保ってはいるが、額にはびっしょりと焦りの汗をかいている。首尾よく『邪眼』の背後を取ったはいいのだが、こうも抵抗が続くとは思ってもみなかったのだ。幾ら人間離れした力を持っているとは言っても、体は自分達と同じ人間でしかない。直接攻撃が届けば何とかなるだろうと考えていたのだが、まさか本体までもが人間離れしているとは、痛い誤算だ。
しかし、依然として自分は優位な立場に立っている事に変わりはない。『邪眼』はもう一度聖句を唱えなければ、暴走への恐怖で術式は使えないはずだ。直接的な身体能力ならば自分が勝る自信はある。単純な腕力勝負だったら完全にこちらの土俵だ。
このまま持久戦に持ち込む。そうリルフェは色褪せた唇を震わせて薄く笑みを浮かべる。
正直、あまり長く全力を出し続けるのは楽な体調ではなかった。流派『修羅』の頭目とやりあった時に、体中のあちこちの肉を引き千切られたのだ、随分と血を失い傷口も熱を持って重く痛んでいる。本当なら安静にしていなくてはならない酷い怪我だ。我ながらよくもこんな無謀な事を試みたものである。普通、体調が万全だったとしても浄禍八神格に喧嘩を売ろうなどとは考えもしない。自殺行為も甚だしい凶行だ。だが、既に山場は過ぎている。ここからは持久戦、気力と気力の勝負だ。元から勝てるはずもなかった相手だ、本気で勝とうと思うならばこういった泥臭い戦闘になる事は必然である。
「早く降参して下さい。このままですと、首を折っちゃいますよ」
リルフェは奥歯を噛み締めて力が抜けぬよう注意を払いながら『邪眼』に交渉を持ちかける。一番手っ取り早い決着の付け方は、相手に敗北を認めてもらう事だ。このまま持久戦に縺れ込んだとしても負けない自信はあるのだが、体力の著しい消耗は避けられない。おそらく今度こそこの場で戦線離脱を余儀なくされてしまうだろう。未だ反逆軍の鎮圧には程遠い所に居るというのに、仕切り役の自分が離脱する事などあってはならないのだ。
『あなたの信ずる神は、同じ人の子の殺生を禁じているのではないのですか?』
突然、リルフェの頭の中に自分ではない何者かの声が響き渡る。ハッと驚きにワインレッドの瞳孔を開くリルフェ。よく落ち着いてその声に耳を澄ますと、それは今自分が押さえつけているこの『邪眼』の声であった。
まあ、仮にも人間辞めたって人ですから、このぐらいは出来ますよね。
自分以外の声が思考に割り込んでくる事など普通では有り得ないのだが、相手が浄禍八神格という事もあってかリルフェは意外とあっさり現実を受け入れる事が出来た。精霊術法に自分達が神事の代行者などという狂信が織り交ざれば、そんな事も起こり得るだろう。
「禁止されてますよ。だから、出来れば降参して欲しいんです」
そうリルフェはあっさりと答える。
リルフェの信仰する宗教とは、流派『浄禍』の宗教とまた別の宗派である。その教えでは、同じ人間同士の殺生は畜生にも劣る行為として硬く禁じられていた。リルフェが修羅頭目と事を交えた際、相手をわざわざ生かしたのもそのためである。
『場合によっては信仰を捨てる覚悟があると。そこまでして私に勝ちたい、そういう事ですか。それは一体何のためなのです?』
珍しく多弁になっている。
そうリルフェは首を傾げたくなった。何故、これほどまでに相手への理解を深めようとするのか。これまでの浄禍の行動は、全て彼女らの信仰する宗教の教えに則った範囲で決められていた。そのため状況証拠だけで善悪を決定し、弁解などの周囲からの意見にはまるで耳を貸さなかった。それがどうして今に限って、まるでこちらの考えを探るかのような会話を続けるのだろうか。あまりに不自然な態度である。
そんな疑問の尽きないリルフェではあったが、あえて会話を続ける事にした。これによってもしも『邪眼』が降伏してくれればそれに越した事は無いからである。
「有体に言えば、北斗と自分のためですよ。私は元の生活が気に入ってたんです。それをあなた達がめちゃくちゃにしたんです。自分の大切な物を守るため、誰しも大小様々な覚悟を決めるのは当然でしょう?」
『新しき物を生み出すには、人の子同様に痛みを伴います。あなたに必要なのは、あなたが自らの安息を失うという痛みと引き換えに、北斗には真の平和が訪れると信ずる心です』
「つまり、エスタシアさんのしている事を黙認しろって事でしょう? お断りです。私は強引な人はタイプじゃありませんから」
やはり、そう簡単に心の折れる人ではないか。
良くも悪くも、浄禍八神格もまた自分達と同じく確固たる信念を持って戦う北斗の一員だ。たとえ北斗に反逆したとしても、それは俗っぽい理由ではなく、彼女らなりの信念に基づく戦いである。たとえこの首をへし折ったとしても、最後まで降伏はしないだろう。自分と同じように。
「和解は出来そうにありませんね。では私は、そろそろ信仰を捨てる事にします」
リルフェはいよいよ、これまでなるべく避けてきた『邪眼』の息の根を止めるビジョンを明確化させた。
静かに息を吸って集中力を補うと、両腕に力を込めながら脳裏にイメージを描き、集めた力と解け合わさせる。描いたイメージは、吹き荒ぶ吹雪の刃。ありとあらゆるものを切り刻む、流派『雪乱』の術式の中では最も基本的で、最も残虐な死体を作り出す術式だ。
両腕に術式を体現化させ左右別々に引き絞れば、『邪眼』の首から上は見るも無残な形で跡形も消え失せる。だが、ここまでして確実に息の根を止めなければ必ず後から良からぬ結果を引き起こすのだ。北斗を守るためには、個人の信仰など問題にはならない。今の自分にとって重要なのは、信仰心を捨ててでもこの『邪眼』を倒す事だ。
『人を殺めた事の無いあなたに、私が殺せますか?』
「あなたが、私にとって初めての人になるんです」
リルフェは描いたイメージを両腕に集中させ、術式の体現化を試みた。
信仰を捨てる事に迷いは無かった。ただ、これで今度こそ『邪眼』が死んでくれる事、そしてそれを切に願う自分が不思議と浅ましく思える気がしてならなかった。
イメージを実体へ。
荒れ狂う吹雪の刃が、リルフェの両腕から凶暴な獣が鎖を断ち切ったかのように飛び出す。
しかし。
「駄目だよ、それだけは」
突然、術式が完全に体現化しようとする直前、リルフェの腕に誰かもう一人別の人間の手が重ねられた。
反射的に目の前の人物へ視線を向けたリルフェは、その光景に驚き術式のイメージを散らしてしまった。腕の締め付けが緩み、『邪眼』はまるで空間から空間を渡るようにリルフェから離れる。
「え、どうして……? あなたは」
リルフェの目の前には一人の青年が立っていた。歳は僅かに自分よりも上だろうか。やや長い前髪が右目を覆い隠した容貌は、どこか強く印象に残る独特の空気を感じさせた。けれど、放つ空気は尋常ならぬほど冷たく凍え、痛みさえ錯覚させた。
「これは僕の役目。あなたが自分の信仰を捨てる必要は無いよ。あなたはあなたの道を進めば良い」
そう言って青年はうっすらと口元に柔らかな笑みを浮かべ、リルフェの腕をそっと降ろさせる。
人懐っこい、恐らく大抵の人間が好意を抱ける青年の笑み。けれどその表情は、リルフェが腕を降ろして一歩退いた途端、『邪眼』の方へと向き直るのとほぼ同時に獣のような険しく鋭い眼差しに変わった。
「僕が来たという事はどういう意味か、分かりますよね」
言葉こそ柔らかいものだが、その口調は刃が切りつけてくるかのように刺々しく有無を言わせぬ凄みがあった。
「汝、スファイル。遂に来るべき時が来ましたか。覚悟は、決めましたか?」
「はい。僕はもう、迷いません」
青年の登場に驚き戸惑うリルフェとは対照的に、初めから彼が来る事が分かっていたかのように、落ち着き払った『邪眼』の態度。そして青年もまた、それすらもあらかじめ知っていたかのような素振りだった。まるで初めからこうなる事を互いに示し合わせていたかのようなやり取り。自分の知らぬ所で一体何が動いていたというのだろうか。そうリルフェは固唾を飲んで二人の動向に注意を注ぐ。
「もう、立ち止まりませんね?」
「立ち止まりません。僕はもう、五年前に放棄した道をもう一度走り出したのですから」
「ならば、斬りなさい」
と、突然『邪眼』はそんな驚くべき言葉を口にした。斬りなさい、とはどういう事なのか。それは自ら命を差し出すとでもいうのか。
だが驚く間もなく、スファイルは無言のままゆっくりと右腕を振り上げた。そこには蒼く輝く光の粒子が集まり、やがて一振りの大剣を形取った。流派『凍姫』の、氷の術式だ。
ねっとりとからみつく粘質の物を一気に引き千切る、耳障りな音。
気が付くとスファイルは、極めて事務的にその剣を『邪眼』に向けて振り下ろしていた。
肩口から一気に脇腹まで刃が走り抜く。だが、スファイルが術式を解放しても尚、『邪眼』は大量の血を流しながらもその場に立ち続けていた。まるで自分が斬られた事に気が付いていない。そうとしか思えない様子だった。
剣を放ったスファイルに対し、『邪眼』には全く抵抗する意思がみられなかった。本当にあの言葉通り、自ら進んで斬られたようである。
「な……そんな、どうして……?」
驚愕の表情でうろたえるリルフェ。何の躊躇いも無く斬り捨てたスファイルの行動も意外だったが、あの『邪眼』が自ら命を投げ出したと言っても過言ではない今の行動に、とても理解が追いついていかなかったのである。
すると『邪眼』はゆっくりと視線をリルフェへ向けた。
「これで良いのです。これで。北斗はこうあるべきなのです」
とてもこれから死に行く者の物とは思えないほど安らぎに満ちた『邪眼』の声。彼女が本当にこれまで北斗を震わせ続けてきた死神の死神、浄禍八神格の一人とは、この時ばかりはとても思えなかった。
最後に、笑ったような気がした。
まさか、そんな事があるはずがない。到底笑いながら死ねる状況とは思えない。
長い長い逡巡の後、停滞していた時間の流れが一気に流れるかのように『邪眼』の体は一気に人間の形を失ってその場に崩れ落ちた。
地面には真っ白な塩の小山があるだけだった。『邪眼』の姿も、人の血肉も、その一片たりとも見つけることは出来なかった。
TO BE CONTINUED...