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「一体、何が……?」
北斗総括部三階。
ヒュ=レイカは驚くほど静かな廊下をぽつぽつ歩いていた。
総括部の地下には、エスタシアにやられてしまったルテラが監禁されている。それを救出するべく忍び込んだのだが、一階は当然警備が厳しいものと読み、慎重を期すため三階から忍び込んだ。しかし、どういう訳かまるで人の気配が感じられなかった。その上、生臭い血の匂いまで漂っている。そして、匂いを辿って行った先の部屋の中でヒュ=レイカは驚くべきものを発見した。それは、部屋中に横たわる無数の死体である。
これだけでも十分異常な事態なのだが、何よりも下の階の人間がこの有様に気がついていない事がおかしい。それとも、気がついてはいるものの、今すぐにどうこう出来る状況ではないのだろうか? けれど、それだけではこの人気の無さは説明がつかない。こちらに北斗派の残党軍が向かっていて戦力の大半が投入されている事は把握しているが、それを考えてももう少し戦力が残っていてもいいはずだ。あまりに建物内が静か過ぎる。
「どうなってるんだろ?」
もしかすると自分は、何かとんでもない事態が進行している所へ足を踏み入れているのではないだろうか?
とにかく、こうしていても始まらない。遅かれ早かれ、その内誰かが気づくはずだ。混乱に乗ずるのもいいが、それは真犯人にとっても同じことだ。下手にかち合って要らぬごたごたに巻き込まれたくは無い。気づかれぬ内にルテラを見つけ出すに越したことは無い訳だ。
人気がまるで感じないとは言え、慎重に辺りの気配に気を配りながら階段を下りていく。
二階もまたまるで人気が感じられず、ただむっとする血の匂いだけが漂ってる。いちいちドアを開けて部屋の中を開けなくとも、一体どうなっているのか容易に想像がついた。死体を見た事が無い訳ではないが、これほど多くの死体が自分のすぐ傍にあるのはあまり良い気分ではない。まして、これほど多くの死体を生産した人間もこの建物内に居ると考えると、尚更嫌な緊張感に蝕まれる。
あの死体の数々は、一体誰の仕業なのだろうか?
ぱっと見ただけで彼らの実力は分からないが、少なくとも為す術無く簡単にやられてしまうほど弱くは無いはずだ。だから犯人はほぼ間違いなく、北斗の中でもトップクラスの実力を持った人間だろう。だが、少なくとも北斗派にそれほどの実力者はもう残っては居ない。北斗派の中で一番強いのはレジェイドだと思うが、レジェイドには音も立てずに次々と殺すような技術は無い。それに、シャルトの事を散々単純だ単純だと馬鹿にしてはいるが、そういうレジェイドも姑息な手は決して使わない馬鹿正直な性格である。不意打ちで大量殺人なんて、レジェイドに限って絶対に有り得ないのだ。
ならば誰の仕業だというのか。
反乱軍筆頭であるエスタシアならば可能だろうが、やる意味が無い。自分の手駒を減らした所でメリットなど何もないのだ。他に出来そうなのはリーシェイだが、リーシェイの得意技はあくまで射撃だ。死体はどれも喉をぱっくりと横に切り裂かれているため、リーシェイも犯人候補からは外される。
と、なると。残るは北斗最強の八人、浄禍八神格しかいない。基本的に彼女らは何でもありのジョーカーだ。どれだけ人事を尽くそうとも、彼女らのそれは次元そのものが異なるため、易々と上を乗り越えてしまう。だが、これもやはり理由が無い。浄禍はエスタシア派の組織になっている。エスタシア同様に、自らの兵力を削ぐメリットはないのだ。ならば、浄禍は裏切りでも起こしたのだろうか? 結局、真相は推測の域に留まってしまう。
「ッ!?」
不意に襲い掛かる、全身に染み渡るような恐ろしいまでの殺気。思わずヒュ=レイカは全身に鳥肌を立ててその場に立ち竦んだ。
かつて、これほどまでの殺気に晒された事があっただろうか。心臓を直接握り締められるような、一瞬で体だけでなく魂そのものを凍りつかされてしまうような、ただただ圧倒的としか言いようが無い恐ろしい殺気だ。今にも呼吸が止まってしまいそうだ。
心臓がどくんっと一度大きく脈打つと、そのまま小刻みに脈動を繰り返す。まるで心臓がこの場から逃げ出したがっているかのようだ。あまりに激しい心臓の動きにヒュ=レイカは痛みすら感じ、痺れ始めた指先でぎゅっと心臓を服の上から押さえる。
この殺気の主の所在はいとも簡単に辿る事が出来た。あんな離れた所からこれほどはっきり殺気を感じさせるなんて。驚くばかりでうまくたとえる言葉が見つからなかった。普通ではない何かに自分は睨まれた。気が遠くなりそうな恐怖の中、それだけを理解する事が出来た。上から首根っこを掴まれた犬のような心情だ。
とんでもない化け物が、自分を見ている。
今すぐにでも恥も外聞もかなぐり捨ててこの場から逃げ出したい。しかし、それ以上にこの存在がどんな人間なのか知りたい、という好奇心が恐怖を上回った。
また悪い癖が出てきた。そうヒュ=レイカは冷や汗にまみれている顔に微苦笑を浮かべた。好奇心は猫を殺す。強すぎる自らの好奇心がこれまで幾度要らぬ苦境に自分を立たせたのか。いい加減、何事にも首を突っ込み過ぎずに平穏を保つことを学習するべきであるのに。けれど、一度沸き起こった衝動は自分にもどうしようもなかった。一種のパラノイアにも似た、ありとあらゆる好奇心を正当化する論理が根付いて離れない自らの思考体系が、平穏よりも刺激を本能的に求めてしまうのだ。精霊術法の使い手の深層心理には、タナトスと呼ばれる自己破壊欲求が組み込まれていると言われている。生まれながらにして術式を使う事が出来た自分にもまた、強すぎる好奇心としてそれが組み込まれているのだろう。死を受け入れる衝動ではなく、死を恐れぬ衝動、そしてあえて求める衝動だ。
ヒュ=レイカは急ぎベランダへと飛び出す。そして縁に掴まり、身を乗り出して外を見やる。この尋常ならぬ殺気を放っている主の気配は、その方向から感じるのだ。
そして、それはすぐに見つける事が出来た。
殺伐とした石畳の上に誰かが居る。
あれは……。
そう思った次の瞬間、突如ヒュ=レイカの体が宙に浮いた。
「えっ!?」
気がつくと自分の足元が支えを失っていた。体が浮いているのではなく、突然の落下を浮遊感と錯覚してしまったせいだ。
二階から落ちたため、地面はすぐにやってきた。遅れずヒュ=レイカは空中で姿勢を整えると、静かに着地する。
ふーっ、焦ったな……。
相変わらず苦笑いを浮かべたまま、額に甲を押し付けて汗を拭う。冷たくてべとつく不快な汗だ。
自らを落ち着けるため深い溜息を一つつく。それだけで随分と気持ちは楽になった。小刻みに震える心臓が少しだけ落ち着きを取り戻す。
情けないほど緩慢な仕草で立ち上がり正面を見据える。だが、その存在を視界に収めただけで落ち着きかけた心臓が再び全力疾走を始める。
「あなたは……」
目の前の人物を前に、ヒュ=レイカは思わず唇を震わせた。苦笑いの表情には実に良く似合う、と自虐的な事が頭の中に思い浮かぶ。
まるで修道女のような装いに、フードを目深に被って表情を隠している一人の女性。
絶対に会いたくなかった人間の一人だ。
その名は正義を冠した絶対の恐怖。その力は神を模した究極の行使。北斗が死神と呼ばれる由縁の根本を成す、言わば基盤と呼ばれる存在。死神達へ恐怖を与える、北斗の死神だ。
どうしてこんな所で会ってしまったのか。
何よりも彼女に見つかった事をヒュ=レイカは後悔した。自分の迂闊さと、強過ぎた好奇心。そう、何故あの時、あの只ならぬ殺気から推測して速やかに立ち去らなかったのか。常識で考えれば、必然が無い限りわざわざ事を交える相手では無い事ぐらいすぐに分かるはずだ。自らが掘った墓穴とは言え、どのようにしてこの状況を切り抜ければいいのか。浮き足立った頭にはいつものような何手先をも読む鋭い戦術がまるで出て来ようとしなかった。
「汝、ヒュ=レイカよ。裁きの時がやってきました。全能たる主の断罪である」
「『断罪』ね……。僕よりもむしろレジェイドの方が因縁あるじゃん」
虚勢の笑みを浮かべ、ポケットの中に手を突っ込んで平然とした構えを見せる。けれど顔色の悪さや挙動の不審さといった生理的な部分で心情はほとんど丸分かりだろう。
とにかく、話し合いなんかで平和的にやり過ごせるような穏やかな相手じゃない。
戦わなければ。
勝つに至らずとも、無事にこの場から離脱出来るだけでいい。
それに、まさか神を倒そうなんて大それた事、自分のような詐欺師には無理に決まっている。
ヒュ=レイカはイメージを描いて両腕に体現化する。描いたイメージは、雷撃だ。かつて、今の守星に就く前に所属していた流派『雷夢』の術式である。北斗に数ある術式の中で、最も習得が困難とされる術式である。けれどその困難さに比例し、術式の威力は浄禍に次ぐものとさえ言われている。雷とは人間にとって未だ謎の多いエネルギーである。ある程度畏怖の念が込められているのかもしれないが、威力の程は万人が認める確かなものである。
ヒュ=レイカはその雷夢で、史上稀に見る天才と呼ばれ最年少頭目として就任した実力者でもある。当然、その実力は折り紙つきであると言っても過言ではないだろう。
しかし、
「……え?」
ヒュ=レイカの腕に体現化された雷撃は、初めこそイメージ通りであるものの、すぐさま意思を無視して解除されてしまう。
くっ、こんな時に!
必死になってヒュ=レイカは術式を再び体現化する。けれど、体現化出来るのはイメージの大小に関わらず極めて微小な、とても戦闘には使えそうも無い微々たるものだった。
焦りは最高潮まで登りつめる。
ヒュ=レイカはしばらく前からある症状に見舞われていた。それは精霊術法が時折不安定になって行使出来なくなるというものだ。けれどここ数日は更に次の段階へと症状は進んでいた。単純に精霊術法が使えなくなる事が増えてきたのである。
今の状況で術式が使えなくなる事がどれだけ致命的なのか理解できないはずは無かった。しかし、混乱の波を作り出す感情がしきりに現実の受け入れを拒否し、理性を激情の渦へ突き落とそうとしてくる。ヒュ=レイカは持ちうる限りの力を理性に集中させて現状の維持に努める。
「あなたは今、悪霊の鎖から解き放たれようとしています。悪霊の戒めから解き放たれた時こそ、あなたは神の御許へ辿り着く事が出来るでしょう」
「要は、僕を殺す、って事だね。お断りだよ。これでも死んだら泣いてくれる人が大勢居てね」
軽口を叩く舌が痺れる。もう、どれだけまともに喋れるのか自信がなくなってきた。冷たい汗は顔だけでなく背中までをも濡らす。
精霊術法が使えない。
どうやって戦えばいいのだろう? 術式がまともに使えたとしても分の悪い相手だと言うのに。
相手はこちらを本気で殺そうとしている。並の相手じゃない。人間を逸脱した、文字通りの化け物だ。
考えろ。
考えろ。
僕の力は何も術式だけじゃないはずだ。まだ、知略と論理が残っている。
冷静さを欠かずに、相手がどんな大物だとしても決して自分が飲まれるイメージを作ってはいけない。むしろ自分が飲み込もうとする意思が無ければ、敵を欺くイメージは作り出せない。
その時、ヒュ=レイカの目にはあるものが映った。
それは総括部を見下ろすような高台に作られた巨大な貯水槽だ。総括部は周囲が岩で囲まれた天然の要塞なのだが水源というものが存在しなかった。そのためこのようなものを作り水を確保しているのである。
そうだ、あれを使ってなんとか……!
同時に、さながら雷鳴のような勢いでヒュ=レイカの脳裏にある考えが閃いた。名案が浮かぶと同時に、急激にヒュ=レイカは心音が収まり汗が引いていくのを覚えた。なんだか異常なまでに落ち着いてしまった。
この感覚だ。
この気持ちが無ければ、誰一人として欺き騙す事は出来ない。そうだ、自分の最大の武器は天才等と揶揄される術式じゃない。あらゆる者を欺く知略と、多岐に渡る雑学に裏付けされたトリックだ。
「まともにやっても勝ち目は無いからね。僕は君子だから逃げさせてもらうよ」
断罪に向かって軽口を叩くと、ヒュ=レイカはいきなり上着を脱ぎ目の前で翻した。すると上着が地面に落ちるまでの僅かな間にヒュ=レイカの姿が忽然と消え去ってしまった。ヒュ=レイカが最も得意とする、人の盲点を突く奇術まがいの戦術だ。
しかし。
「汝は不幸だ。どれだけ天高く駆けようとも、大いなる神の御手の中から決して逃れられない事を知らないからである」 ヒュ=レイカが目の前で消えて見せたにもかかわらず、『断罪』は平然と構えたままそう聖句を紡いだ。そしておもむろに右手を掲げ上げると、サッと素早く空を切るかのように振り下ろした。
「がっ!?」
次の瞬間、苦悶よりも驚きの強い叫び声を上げ、ヒュ=レイカが姿を表す。彼は『断罪』の居る位置から随分離れた、高台の丘の途中に居た。たとえ普通に登ろうとしても、今の僅かな時間ではよほど身のこなしに自信が無ければ決して不可能な距離だ。
その背中には斜めに斬られた大きな傷が浮かび上がっていた。まるで身の丈もあるような巨大な刃で切りつけられたような傷である。しかし傷そのものは浅く、肉を薄く切った程度であった。出血も直に止まるだろう。けれどそれ以上に、精神的に受けたダメージの方が大きかった。
「まいったなあ……。タネ、見破られちゃったか」
今のは結構自信作だったのに。
そう残念がるヒュ=レイカの顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
開き直りでも狂的なものでもない、ただ純粋に何かを楽しむような朗らかな笑みだ。
TO BE CONTINUED...