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人は脆い。常に何らかの支えがなければ自分が保てないほど弱い生き物だ。
数ある強靭な種族を押し退け食物連鎖の上位に君臨してはいるけれど、それは知性という極めて不安定な力によって支えられたものだ。だから人間は下位の種族にさえ驚くほど脆い事がある。
その理由は、人間ほど執着心の強い動物はいないからだ。
執着心は財産という観念を生み出し、財産は人に安らぎを与える。逆に言えば、人は財産を失ってしまった時は容易に脆く崩れ去る。失意、絶望、狂気、といった様々な負の感情に取り憑かれ、自然の摂理に真っ向から反する。
僕もまた財産を失い、負の道へ迷い込んでいた。
ただ、絶望だけはしたくはないから。
せめて楽しく生きようと、人間の持つ唯一にして最大の弱点である執着心を捨てて仮初の強さを手にした。
よし、やってやる。
僕は広くなった空間内に立つと、まずは大きく息を吸い込んで吐く。冷え切った凍える空気が喉の奥を冷たく灼き舐める。
奥まで透き通って見えそうなほど頭の中がクリアになり、呼吸も自然と回数が減る。先ほどはあんなに錯乱していたのが嘘のようだ。絶望的な状況から一転し、今は少なからずの希望が見えている。現金なものだ。
一定のリズムで呼吸を刻み、目を閉じて出来る限りイメージを作りやすい状態にする。
そして、描いたイメージは燃え盛る炎。その炎を僕の周囲に燃え滾らせた。
こんなに狭い空間で火を燃やしてしまったら、一瞬で酸素が燃焼に消費されてしまい僕は窒息してしまう。そうと分かっていながらあえて実行に移したのには、僕にある一つの確信があったからだ。炎が灯るには薪や油といった火元が必要となる。もしもその法則を無視して火が燃えたとしたら、それは現実の炎ではないという事になる。それじゃあ一体何の炎だ、という問題になるのだけれど、とりあえず壁や天井が僕のイメージ通りに広がるのと同じ理屈という認識でいいと思う。そんな感じだ。少し自棄になってるような行動にも思えた。けど、今の状況では他に良い考えが思い浮かばない。脱出行動を取るならば、それが確実なものだったら体力がある内にした方がいい。
ふと、その時。
僕の目の前から、ぼうっ、という吹くような音が聞こえてきた。ハッと目を開けると、僕の周囲はイメージした通りの真っ赤な炎に包まれていた。一瞬、本能が炎を恐れて背筋に冷たいものが走る。けれど落ち着いて見てみると、不思議とその炎からは熱さが感じられなかった。
熱くない炎じゃ雪なんて溶かせないんじゃないか?
そう訝しんだ僕は、そっと目の前で赤々と燃える炎に手を近づけてみる。が、しかし。炎に炙られた雪の壁がだらだらと汗をかき始めているのを目にし、慌てて手を引っ込めた。どうやら僕には熱さを感じられなくとも列記とした炎のようだ。そんな都合のいい炎があるものだろうか、と疑問に思ったが考えるのはやめておいた。そんな事を言い出したら、壁や天井も同じ事だ。きりがない。
じわじわとだが、時間と共に目に見えて雪が溶けて変形を始める。どうやら思惑通りに事が運びそうではあるが、しかし溶けるペースがあまりに遅い。この調子で全ての雪を溶かし尽くすには、ニ、三日ぐらいじゃとても終わりそうも無い。これじゃあ先に僕の方が餓死してしまう。
もっと強い火を!
再び目を閉じ、更に大きな炎をイメージする。僕の体力が尽きる前に雪を解かし尽くすほどの強い炎が欲しい。もっと強く、雪も氷も一瞬の内に蒸発させてしまうほどの炎を。
周囲を取り囲む炎が一段と激しさを増す。しかしまだ足りない。この程度じゃ、せいぜい一日早まるぐらいだ。まだまだ、真冬の寒さを吹き飛ばすほどの炎でなければ。
もっと強く。
もっと強く。
僕は目を開いて眼前の炎を睨みつける。眼力なんてものは持っていないけれど、僕の意思が伝わったのだろうか、まるでそれを養分にして育っていくかのように、激しい勢いで炎がより大きく燃え盛っていく。
もっと燃えろ。
もっと激しく。
呪詛を唱える呪術師が如く、僕は無意識の内に炎に対して叱咤激励するような言葉をぶつぶつと投げかけていた。炎が大きくなるにつれて雪の壁はイメージするよりも遥かに早く抉れていき、僕を閉じ込めていた閉塞空間を怒涛の勢いで広げていく。僕のほんのすぐ周りを囲んでいた炎はすでにずっと遠退いている。それだけ広がったという事だ。
気がつくと僕はこの炎から目が離せなくなっていた。瞬きもせず、炎に魅入っている自分。その姿を傍から他人事のように見ている自分が居る。この二つの自分の内、どちらが今これを考えている自分なのだろうか。でも、何だか考えるのが面倒だ。
―――そして。
そうだ、溶かすよりも吹き飛ばせば……!
ふと僕はそんな事を思いついた。思いついたその考えに興奮したのか、やけに心臓が早鳴り始めた。雪の中にいるはずなのに、いつの間にか額にはじっとりと汗が浮かんでいる。自分が自分から離れていく感覚が強まる。今、僕の体に入っているのは誰だろうか? 限りなく、僕ではない気がする。
僕を覆う全ての雪を跡形もなく吹き飛ばす、僕達を襲ったあの雪崩を遥かに越えるエネルギーを持つもののイメージを。
肺が酸素を求めている訳ではないのに、体がしきりに呼吸する事を強いてくる。きっと体ではなく頭の方が酸素を欲しているのだろう。今の僕は目まぐるしいほどに頭が動いている。そのせいだ。
自分でもどうして自分がこんなに興奮しているのか分からない。ただ、ここから脱出する以外の衝動に突き動かされている事だけは薄っすらと勘付いていた。勘付いていながら、その衝動には抗えなかった。とにかく、この雪を消してしまう事、それが出来れば後はなんだっていい。
興奮する自分が考えついたのは、雪崩のように広がる強大な炎の爆発するイメージだった。
誰に教えられたのでもなく、どこかで知ったのでもなく、それでいて始めから知っていたかのように自然な動作で僕は不自然な呼吸をし、そして両腕を左右一杯に伸ばした。
描いたイメージは頭の中で種子のように小さくまとまっている。その熱い存在感を意識しながら、僕は静かに種へ火を灯した。
瞬間。
目の前が真っ白に輝いたのと同時に、圧力を伴った勢いのある風が僕の両掌を押し戻してきた。しかし僕は眩しい光から目を守るため閉じながら、それ以上の力で両腕の最初の姿勢を保ち続ける。ぶわっ、と吹き上がった風が顔を打つ。興奮で汗ばんだ額には心地良いかと思いきや、その風は爆発による焼け付くような余波だった。汗が引くどころか余計に滲み出してきた。
風圧は激しく、しっかりと足元を踏ん張っていないと逆にこっちが吹き飛ばされそうだった。
これ以上威力を上げたら、きっと逆にこっちが吹き飛んでしまうかもしれない。僕はそれでも構わず、ただひたすら脳裏にあるイメージを加速させた。目を閉じた分、周囲の状況が見えなくなっているせいでひたすらイメージが膨れ上がる。状況に合わせた加減というものが念頭から欠落してしまっているのだ。
周囲が激しく揺れ動いている。雪崩以上の地鳴りが僕の耳を乱暴に打ち、鼓膜を突き破ろうとしてくる。けれど、それでも僕のイメージは留まるところを知らない。僕はイメージを加速させる事をやめなかった。
直後、一瞬の浮遊感と共に冷たい風圧が僕に吹き付けてきた。これまで閉鎖的だった空気の流動が広く大きく流れ始める。
そして。
目の前の眩しさが消え、同時に冷たい空気が周囲を包み始める。どことなく閉塞感も消えていた。僕はゆっくりと目を開いた。するとそこは、狩りをするいつもの山の中だった。ただ一つ違っていたのは、僕の周囲だけが深く抉れて真っ黒な地面が剥き出しになり、木々が寄り集まるように残らず倒れていた事だ。
辺りが薄暗い。空を見上げると、丁度真上に月が浮かんでいた。どうやら夜になってしまったようだ。
予想だにしなかったその光景に、思わず僕はハッと息を飲んだ。急に頭の中へ冷たい水を差し込まれたかのような、冷静な気分になる。先ほどまでの高揚が嘘のようだ。
木が倒れているのはまだ理解出来る。あの雪崩に押し流されたせいだ。けれど、この地面はどうしてこうなってしまったのだろう? 同心円状に抉れた地面は僕を中心にして広がっている。まさか僕があんなイメージを描いたから? いや、幾らイメージしたものが本当に起こるからといって、たったそれだけでここまでの事が出来るなんて絶対にありえない。
ふと僕は、こんな事は人間に出来るはずがない、と思い浮かべてしまった。それは、僕が人間ではない、もしくは普通の人間とは違う、という事を自分で認めてしまう事になる。
僕は普通じゃないのか?
いや、僕は普通の人間だ。今までだって、こんな事は一度だってなかったし、頭の中でイメージを描かなかった訳でもない。けれど、今ここで起こった出来事は紛れも無い現実でもある。一体どんな現象で、僕自身のどんな要因が理由で起こったのか。とても説明がつかないけれど、間違いなく僕は自分の力を使わずイメージだけで雪崩の雪を跡形もなく消し去った。ただその結果だけが目の前に広がっている。
どうしたらいいのやら自分でも分からず、僕は茫然とその場に立ち尽くしていた。周囲を見渡せど見えるのは倒れた木々の残骸や夜の帳ばかり、そこに明かりもなく一人ぽつりと立っている自分が何だか異様にも思えた。
と。
「居たぞ、あそこだ!」
夜の静寂を破り、遠くから張り上げるように叫ぶ声が聞こえてくる。我に帰って見やると、幾つもの松明がこちらに向かってくるのが見えた。
村の捜索隊だ。
そう僕は安堵した。どうやら雪崩は村の方にも聞こえてきたようだ。それで僕達を心配して探しに来てくれたのだろう。
これでやっとうちに帰れる。今日は何も獲れなかったし、こんな酷い目に遭ったからもうくたくたに疲れた。早く温かい部屋で泥のように眠りたい。
そんな展望を頭の中に描く僕。表情も少しずつ緩み始める。ずっと気を張り詰めさせていたせいか、それが瓦解すると一気に押し寄せてきた安心感に甘えたがるような気持ちに溢れた。
けれど、すぐにそれは跡形もなく消え去った。
どうしてか、あの悪寒が再び僕を襲ってきたからだ。
TO BE CONTINUED...