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悪夢の始まりは唐突であり。
終わりはまるで回廊の如く。
何度も同じ轍を踏むたび。
軋み、歪むのは、ガラスのような僕の心。
「母さん……?」
僕は目の前の状況がまるで理解出来ず、ただ茫然と立ち尽くしていた。
家が燃えている。大小の炎がゆっくりと壁や天井に広がっていく。少しずつ、辺りの空気も黒く淀んでいる。外からは、とてもこの世のものとは思えない悲鳴と笑い声が協奏曲を奏でている。一体何が起こっているのか、想像しただけでも恐ろしくて体が震える。
僕の目の前には、焼け落ちてきた天井の横柱達に挟まれて動けない母さんの姿があった。大きな柱に潰され、酷く苦しそうに息を吐いている。その拍子にどこかにぶつけたのだろうか、額にはうっすら血が滲んでいる。柱の火はそんな母さんの体へゆっくりと燃え移っていく。僕と同じ薄紅色の髪も煤で黒く汚れてしまっている。
助けないと。
思い出したようにその言葉が頭を過ぎる。呆けてる場合じゃない。このままでは母さんが手遅れになってしまう。そうならない内に柱の中から母さんを引き上げなければ。
ようやく忘却の彼方から帰還した僕は、急いで母さんの元へと踏み出そうとする。
だが。
「来ては……駄目」
苦しげな声。
母さんは僅かに自由になる頭を上げて、そう厳しい眼差しで僕に言った。いつも穏やかで優しい母さんが厳しい表情を見せた事はほとんどなかった。だからこそ母さんの表情に僕は驚く。
「ど、どうして? 早く助けないと……」
僕は母さんの言葉が理解出来なくて、その場でおろおろとうろたえた。
母さんは僕に『来るな』と言った。僕は柱に挟まれて動けなくなった母さんを助けようと思った。それなのに、何故か母さんはそうさせないような言葉を言い放つ。母さんが自分で出て来られるなら、まだ分かるのだけれど。どう見てもそれは出来そうも無い。だから助けようとしているのに、どうして母さんはそんな事を言うのだろうか?
「母さんは助からないわ……。もう体の感覚が無いの。だから、母さんの事は気にしないで逃げなさい。早く」
そして、苦しげに母さんは咳き込む。煙を吸ったからではない。柱に体を潰されたからだ。
「出来ないよ! そんな、母さんを置いて逃げるなんて!」
僕は頭を激しく横に振って、母さんの言葉を拒絶する。
早く母さんを助けなければ、このままでは死んでしまう。そうだ、お兄ちゃんを呼んでくれば……いや、駄目だ。お兄ちゃんは村の大人の人達と一緒に、野盗を追い払いに行ってしまった。だからここは僕一人の力でなんとかしなくてはいけない。
もう時間は無い。僕は焼け付くような熱気を振り払いながら母さんの下へもう一度駆け寄ろうとした。
が。
「シャルトっ!」
母さんが苦しげにくぐもった声で怒鳴った。木の焼け焦げる音と外の騒音とで騒がしいこの場に、驚くほど良く通る声だ。抗い難いその迫力に、僕は思わず踏み出した足を止める。
「いいから早く逃げなさい。ここは危ないわ……」
「で、でも……」
僕は母さんを助けたい。けど、母さんはそれを良しとしてくれない。二つの思いが拮抗し、その軋轢に耐え切れなくなった僕は思わずべそをかき始めた。しゃっくりのような息が飛び出し、目の前が温かい涙に溢れて歪み始める。本当にどうすればいいのか分からなかった。決断の下せない自分への焦りが募り過ぎ、それが激しい奔流となって僕の理性を押し流す。頭の中が真っ白になって何も考えられない。そしてそんな自分の歯がゆさが辛くて仕方なかった。
母さんの言わんとしている事は分かっている。でも僕は、たとえ母さんがそう望んでいたとしても、見捨てる事なんて出来ないのだ。しかも、まるで手の届かない所に居る訳でなく、僕の目の前、それもたった数メートル先の距離。少し無理をするだけで助けられるはずなのだ。そんな状況で諦めるなんて、あまりに悔しくて悲しい。
すると、
「こんな事で泣かないの。あなたは男の子でしょう?」
母さんは優しいいつもの笑みを浮かべてそう言った。本当はどうしようもなく苦しくて辛いはずなのに。僕は母さんの言葉に従って涙を袖で拭うと、無理やり涙を押し殺した。そんな僕を見て、母さんはどこか安心したような表情を浮かべた。
どうして、こんな状況で母さんは笑えるのだろう? その理由を考えると、僕は更に激しく胸を締め付けられ切り裂かれるような思いに駆られる。
「行きなさい。お願いだから、母さんの言う事を聞いて……」
駄目だ。そんな事は出来ない。
涙をこらえても、自分の正直な気持ちまでは押さえる事が出来ない。どうしても、僕は母さんを助けたかった。今、自分の置かれた状況は分かる。このままでは崩れた家の下敷きになってしまうだろう。だから僕は家が崩れる前に早く母さんを助けたかった。でも母さんは、それよりも僕が少しでも早くここから逃げるように言い続ける。僕は自分の思うようにもしたいし、母さんの言う事も聞きたい。けど、そのどちらとも選ぶ事が出来ないのだ。
僕は選択しなければならない。
僕に与えられた道は、二つあった。一つはこのまま母さんの言う事を聞いて、まっすぐ家の外へ逃げ出す事。そしてもう一つは母さんの言う事は聞かないでここに残り、道を共にする事。
それぞれの道を選択した場合の結末を、僕は考えた。僕の気持ちと母さんの気持ちと、どちらを捨てるのか。僕にとって一番大切なのはどちらなのか。
悩みに悩み抜いた末。
そして、僕は踵を返すと家の外へ飛び出した。
直後、家が玄関から前にのめり込むように音を立てて崩れた。その光景を、僕は食い入るように見つめていた。今まで母さんとお兄ちゃんと暮らしてきた家が焼け落ちていく。信じ難い悪夢のような現実だけれど、とにかく今は逃げなければ。
家の外は、中よりも凄まじいとしか言いようの無い光景が広がっていた。
建物の焼け焦げる匂いが充満している。深藍の夜空は炎によってオレンジ色に照らし出され、辺り一面には灰色い煙が広がっている。そんな非現実的な光景を彩るのは、更に現実味のない死体の山、山、山。一歩踏み出せば目の前に横たわっているかのように、あまりに多くの死体が散在している。僕は一瞬、その死体の群れが何か別の物を見間違えているのでは、と自分を騙してしまいそうになった。どうしてこんな事になってしまっているのか。頭が破裂しそうになる。
焼け落ちた家の中には母さんが取り残されたままだ。でも、僕は頭の中から振り払った。母さんの事を考えていると、こらえたはずの涙が再び流れ始めて動けなくなるからだ。今、優先するべき事は村から逃げる事だ。村は今野盗に襲われている。もしも野盗に見つかったら殺されてしまうから、とにかく急いで逃げなくてはいけない。
でも、逃げると言っても、一体どこへ?
少なくとも自分が、冷静な判断が出来ない状態である事を自覚する冷静さはあった。けど、どこにどう逃げるのが一番安全なのかまでは自分で判断は出来ない。元々、僕は方向感覚に疎いのであまり村から出た事がなかった。今だって自分がどの方角に向かって走っているのかさえ分からないのだ。どこが安全な場所かなんて、まるで分からない。
気がつくと、僕はどこを目指す訳でもなくただひたすら走っていた。それはまるで母さんの事を考えないように振り切るためかのようだった。そして僕はお兄ちゃんの姿を探していた。無我夢中で走り続けて、ふと自分がどうしようもない不安感に背を押されている事に気がつく。不安感が恐怖へ変わるまでにはさほど時間は必要としなかった。
恐怖に駆られた僕は、ひたすらお兄ちゃんの姿を求めて燃え盛る村のあちこちを迷走した。とにかく、どうしようもないほど怖かった。母さんがあんな事になってしまって、住み慣れた村が変わり果てて。まるで悪夢を見ているかのような、そんな心境だった。でも、これは紛う事無き現実。決して目覚める事は無い。
と。
「お、こんな所にガキが一人、迷い込んでるぜ」
僕がひた走っていた道の向こうから、見慣れない一人の男の姿が飛び出した。その手には、幅の広い大きな剣を携えている。
野盗だ。
すぐさま僕は慌てて道を左に曲がった。しかし、すぐにその先からも新たに野盗の気配が現れる。僕はろくに分からない道を右往左往しながら、とにかく必死で野盗から逃げ続けた。
向こうからも野盗が来る。
向こうからも野盗が来る。
辺りには死体の山が積み重なっている。みんな見知った顔だ。その累々たる屍を掻き分け、僕は無我夢中で駆けずり回った。死体を踏みつける事に抵抗感や罪悪感は湧かなかった。そんな事を気にする暇があれば、一歩でも先へ進まなければならない。恐怖に染まった自分は、まるで別人になってしまったように残酷な事が簡単に出来た。こんな事をしてはいけない。頭の隅でそう薄っすらと警告する理性的な自分がいる。しかし、それを覆い尽くし飲み込んでしまうほど、僕の中の恐怖は加速する。
僕はしきりに声にならない声で、お兄ちゃんに助けを叫んでいた。僕よりもずっと大きくて力のあるお兄ちゃんは凄く強い。きっとこんな野盗なんか簡単に倒してくれる。恐怖のあまり、僕はほとんど現実との区別がつかなくなっていた。ただとにかく、お兄ちゃんがこの恐怖を取り除いてくれる、とだけ盲目的に信じていた。
―――そして。
遂に、僕はお兄ちゃんを見つけた。
それは、背伸びをしても届かない背丈でどっしりと立ち構えているそれではなく、死体の山を構成するその一角だった。
「お兄……ちゃん?」
頭の中が真っ白になる。
僕は我を忘れてその体にすがりついた。
カッと目を見開いたまま硬直しているその体は、既に冷たくなっていた。右手には大鉈を持っている。そして、左腕はなくなっていた。
嘘だ。
こんな事があるはずがない。
少しは大きくなったか? そんな事を言いながら軽々と僕を持ち上げるお兄ちゃんは、まるで石になってしまったかのように固い。幾ら揺すっても呼びかけても、お兄ちゃんはピクリとも動いてくれない。ただ物言わぬその表情は、石像のように夜空を仰いでいる。
僕は、最後の心の拠り所を失ってしまい、遂には涙を抑えきれなくなって泣き始めた。
絶望的な事が重なり過ぎて、悲しいと感じられなくなっていた。自分が何故泣いているのか、その理由を考える暇もないほど激しい感情の奔流が僕を押し流していく。その圧迫感にも似た苦痛から逃れようと、僕はひたすら泣いた。
と。
「やっと見つけたぜ」
背後から聞こえてきたその声。
気がつくと僕の周囲には無数の気配が取り囲んでいた。涙もそのままに見渡すと、そこは野盗の群れで溢れていた。
僕は怖くてその場に立ち竦み、動く事が出来なかった。
逃げなければいけないのに。幾ら自分に檄を飛ばしても足が動かない。
「なかなか見れる顔じゃねえか。これなら幾らでも買い手がつきそうだ」
TO BE CONTINUED...