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幸せばかりが続く訳じゃない。
でもそれを、油断をしないための訓戒ではなく実際に体験する事になるなんて。
これを……。
そうそう、晴天の霹靂って言うんだ。
……合ってるよな?
トントントン……。
キッチンから聞こえてくるリズミカルな快音。それを俺はテーブルに頬杖をつきながら、キッチンに立つリュネスの背中を見ていた。エプロンをしている姿もとても可愛らしい。小さな肩が時折リズムを取っているかのように揺れる。そんな何気ない仕草までもが俺はたまらなく愛しく思う。
柔らかい薄橙の朝日が部屋の中へ差し込んでくる。なんとも気分のいい朝だ。そっと視線を窓の外へ移すと、そこには小鳥の群れが悠々と大空を羽ばたいている。空は澄み渡るような青。まるで俺の心境を映しているかのような空だ。
『シャルトさん、出来ましたよ』
ふと気がつくと、俺のすぐ傍にリュネスが輝くような笑顔で立っていた。テーブルには沢山の美味しそうな料理の数々が並んでいる。
「じゃあ食べようか」
はい、と笑顔でうなづいたリュネスは、俺の隣の席へぴったりと寄り添うように座った。そんなリュネスを、俺は極めて自然に肩へ手を回して抱き寄せる。
『あ……』
リュネスは小さな声を上げながら俺の顔を下から覗き込むように見上げる。薄っすらと恥じらいの色が頬に浮かんでいる。それが何とも言えない気持ちとなって俺の胸をぎゅっと締め上げる。リュネスは恥ずかしそうな表情こそ浮かべるものの抵抗はしなかった。それどころか自分から積極的に体を預けてくる。完全に俺を信用し、頼りきっているのだ。
『シャルトさん……』
熱っぽい声。潤んだブラウンの瞳が俺を見つめてくる。そこには俺しか映っていない。
「なんだ?」
俺もまた落ち着いた声で問い返す。
とても気だるくて甘い時間が俺達の間に流れている。まさに絵に描いたような幸福の構図。そんな至福の時に俺は酔いしれた。こんなにすぐ傍に、俺の大好きな人がいる。そして彼女の感触、息づかいまでもが手に取るようにはっきりと窺い取れる。俺の腕の中にリュネスはいるのだ。それだけで俺は天にも昇るような幸せを噛み締められる。リュネスと過ごす時間。夢にまでも見た光景だ。
『あの……』
じっと見つめていたブラウンの瞳が、ふとうつむいた。恥ずかしさに耐えかねて視線をそらしたのだ。
「うん?」
何かを言おうとしてはいるんだけれど、それを口にするのが恥ずかしい。リュネスの仕草はまさにそれを物語っている。あまりにいじらしくて、俺はわざと更に強く抱き寄せる。そして背けようがないほどの距離でリュネスの顔を覗き込んだ。
「何? 言って」
目の前で恥ずかしそうに視線を泳がせるリュネス。しかし、やがて決心がついたのか、顎を引いて恥ずかしさを押し殺すと、何度もまばたきをしながらもいじらしい上目使いで俺の目を真っ向から見つめてくる。
そして、
『にゃあ』
と、リュネスは鳴いた。
「は? 何だって?」
『にゃあ、にゃあ!』
問い返した俺に、今度はより声を張り上げてリュネスは鳴いた。
「にゃ、にゃあって言われても……」
『にゃあ! にゃあ!』
戸惑う俺に、リュネスは尚も声を高くして鳴き続ける。
一体、急にどうしたのだろうか?
―――と。
リュネスの突然の奇行を合図に俺の意識がぐらりと揺らぐ。途端に周囲が気迫になっていき目の前が朦朧とし始めた。そしてあっという間に俺は暗闇の海に投げ出される。
「にゃあ!」
暗闇の中で微かに聞こえるその鳴き声。
リュネスはまだ鳴いているのだろうか? ……いや、違う。この声はリュネスじゃない。どこかで聞き覚えがある……。
「にゃあ! にゃあ! にゃあ!」
再び聞こえるその鳴き声。それと同時に、額を激しいリズムで叩く疼きのようなものが感じる。
額?
俺の額はそこにある。そう思った次の瞬間、急速的に自分の本来の体の感触を思い出した。同時に意識が本格的に覚醒を始める。黒い海を泳ぐ俺の意識が光の陸へ引き上げられる。
「にゃあーっ!」
起きろーっ!
「ハッ!」
そして、俺は弾けるように一度体を震わせると、カッと目を見開いた。
「にゃあ!」
早く起きて! 早く!
そんな俺を覗き込んできたのは、テュリアスの顔だった。
「なんだよ、うるさいなあ……」
俺は頭を掻きながらゆっくりと上体を起こす。
せっかくいい夢を見てたのに。可愛かったよなあ、リュネス。正直、ぎゅっと抱き締めたくなる。全部夢なんだけどさ……。
現実ではああもいかない分、その甘美な夢の余韻に浸りつつ、にゃあにゃあとうるさいテュリアスを左手に抱きながら右手を伸ばしてぐっと背伸びをする。そして大きなあくびが口から飛び出した。
「えっと、今日は……月曜日か。……ん?」
ふと俺は周囲の様子が普段の目覚めと違っている事に気がついた。俺がいつも起きる時間は八時近くだ。季節によって朝の明るさは多少は変わるかもしれないが、この時間になれば大抵は照明をつけなくても問題ないほどの明るさになる。しかし、今は自分の周囲が薄っすらと見えるほどの明るさしかない。どう考えてもこれは、
「まだ夜じゃないかよ。あーもう、どうしたんだ急に」
夜明けにはまだ早い。どこか損をした気分になった俺は、依然として左手の中でにゃあにゃあと暴れているテュリアスを半分寝惚けたまま目の前へ抱き上げる。
「にゃあ!」
聞こえないの!? ほら、部屋の外!
なおもテュリアスは俺の手の中で小さな手足を力いっぱい伸ばしながらにゃあにゃあと必死で喚き立てる。
部屋の外?
こんな時刻に、一体何が聞こえるっていうんだ。しかし従わなければどうにも静まりそうもないテュリアスにもう一度大きなあくびをすると、はいはいと返事をしながら言われた通り部屋の外へ耳を澄ます。
と―――。
しゃん、しゃん、しゃん……。
「ん?」
部屋の外から何かの音が聞こえる。
確かこの音は。
俺はその音をはっきりと確かめるべく、寝室から一気に部屋の外へ駆け出した。
しゃん、しゃん、しゃん……。
「これは!」
部屋の外で鳴っていたのは、夜叉の宿舎中に取り付けてある緊急指令用の半鐘だった。大体はワンフロアに五つほどの半鐘が天井に吊るされ、それら全ては一つのワイヤーに繋がれ、それを引く事で設置された半鐘が一斉に鳴るのである。
俺はすぐさま部屋の中へ引き返した。まずは寝惚けた目を覚ますため、洗面所で冷たい水を顔に勢い良く浴びせる。その水滴を寝着の袖で拭きながら今度は寝室へ駆け、そして寝着を脱ぎ捨てると急いで掛けてあった制服に着替え始める。
この半鐘が鳴らされるのは、緊急の事態が起こった場合である。その際、夜叉の全隊員は一刻も早く夜叉の本部に駆けつけなくてはいけないのだ。
「テュリアス! カギをかけてきてくれ!」
俺は緊急時しか使わないミスリルの入った戦闘用のブーツを履きながら、そうテュリアスに叫んだ。すぐさまテュリアスは玄関の方へ駆けて行く。この部屋のカギはチェーンと平型ノブの二つだ。テュリアスはかなり器用で、俺がドアに作った足場に乗りながら口を使って簡単にロックをかけるのである。
「にゃあ!」
終わったよ!
丁度俺がブーツを履き終えた頃、テュリアスが寝室に駆けながら戻ってきた。そのまま俺の体を伝って懐に飛び込む。テュリアスが定位置に収まったのを確認すると、俺は寝室の窓を開けた。この部屋は四階にある。だから階段を使うよりもこっちの方がずっと早いのだ。
「行くぞ!」
窓枠に足をかけ、一気に空中へ躍り出た。そのまま俺の体は急な放物線を描いて下へ落下する。
ずん、と着地の衝撃が足に響く。直後、俺は力強く石畳を踏み込み、猛然と飛び出した。
が。
「にゃあ!」
違う! 夜叉の本部は逆方向!
と、懐の中のテュリアスが叫んだ。
「げ、しまった!」
俺は慌てて踵を返して進路を変更する。元々深夜の街はあまり目にする機会がなかったので方向を間違ってしまったようだ。
相変わらず治らないんだね。
テュリアスが冷やかすようにそう言う。
「るっさいな……」
TO BE CONTINUED...