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それは、常識では有り得ない事だった。
リーシェイの放った氷の針の速さは、小銃の弾丸が撃ち出される初速に匹敵する。到底、人間の足が適う速さではない。
しかし、幸か不幸か、それが起こってしまった。シャルトの神速は、たとえ一瞬だとしてもそれほどの境地にたどり着いていたのだ。
「くっ……」
苦痛に顔を歪ませながらリーシェイに向けて立ちはだかるシャルト。
その左肩にはリーシェイの放った氷の針が、背中側から深々と突き刺さっていた。あともう少し位置がずれていれば、心臓を射抜いていたかもしれない。だがシャルトにはそんな危険性の事などまるで頭に無かった。あるのはただ、リュネスの身の安全だけだった。
氷の針は倒れているリュネスに目掛けて放たれたものだったが、シャルトはそれが届くよりも先にリュネスの元へ駆け、こうして自らの体を盾としたのである。ほとんど奇跡と言っても良いだろう。
全てのシナリオはリーシェイの、いや、リーシェイだった彼女の思惑通りだった。
シャルトにはずば抜けた集中力があるが、その反面、一度何かにのめり込むと周りを省みなくなる事がある。今、目の前で起こっている出来事が最も顕著な例だ。シャルトはリュネスの事になると己の身の危険をまるで考えなくなる。シャルトは常習性のある非合法な薬を投与され続けた後遺症で、無痛症という重い障害を背負っている。最近ではほとんど感覚を取り戻したらしいが、怪我の痛みを感じない事はシャルトの無鉄砲な行動に拍車をかけている。人よりも痛みに対して鈍感な事は、自らの体の限界を見誤らせるのだ。
よって、彼女はこう結論付けた。
リュネスを狙えば、たとえ自分が負傷しようともシャルトは必ず守ろうとする。その瞬間、必ず隙は出来る。風のように走り回り手がつけられなかったシャルトの足に鎖を繋げられるのだ。
好機は訪れた。
今のシャルトの頭はリュネスの事だけしか考えられない。その上、無防備な背中をこちらに晒している。
遅れて飛び出したリーシェイが、状況の把握が出来なくて混乱しているシャルトの背後を奪うのはいとも容易い事だった。
流れるような動作で右手に長く太い氷の針を体現化する。五寸釘を二周りも大きくしたような針だ。
狙う先は、首。後ろから真っ直ぐ喉仏を目がけて貫けば、神経、動脈、気管と三箇所に致命傷を与える事が出来る。大脳からの命令系統に異常が起き、動脈からの激しい失血、そしてその血は気管に流れ込んで窒息させる。到底助かる手段などありはしない。
殺意が貪欲に勝利を求める。
リーシェイにその針を躊躇わせる理由など何一つ無かった。
だが。
流れるように伸びるその手が、一瞬宙を迷った。
殺意とそれへの叛意が拮抗する。
殺意は右腕を走らせた。
叛意はそれを押し止どめる。
船頭が二人いるように行き先の決まらない右腕は、シャルトに向かいながらもふらふらと針先が定まらない。
そして針は貫いた。
貫いたのはシャルトの右肩だった。結局、勝ったのは叛意だったのである。
突き刺さった勢いで返ってきた血の滴が一滴、頬を濡らす。その冷たさにリーシェイは一呼吸の間を置いてしまった。
何故だ。
何故、躊躇う。
目的を果たせなかった殺意が動揺する。躊躇う理由など何一つないというのに、何故自分は違えてしまったのだ。
それを好機と見たのだろうか、叛意が再び表面へ躍り出た。しかし、殺意が完全に消えてしまった訳ではなく、奥に押しやられた今も尚、少しずつ叛意を取り込んでいこうとしている。
どちらかが優位に立とうとしているのではなく、進んで交ざり合おうとしていた。本来は相いれない感情の塊と解け合おうとする感触は、この上無く不快感だった。
シャルトが右足を強く踏み込んだ。
上体をくるりと捻り、振り返り様の回し蹴りへ入る。
しかし、その仕草はどこか違和感があった。あれだけ美しい武術の型を持っているはずなのに、軸足がふらついてどこか危なげなかった。
その理由は、リュネスをリーシェイの針から守った事にあった。シャルトの体は本来人間が持つ筋力の無意識のブレーキが働かなくなっていた。筋肉は自らが生み出す力に耐えることが出来ないため、自分では全力を出しているつもりでもある程度無意識の内に力がセーブされているのである。
しかしシャルトはそれが出来ず、常に最大限の力を出してしまう。なんでもない運動が死の危険すら与えてしまうのだ。レジェイドがシャルトに格闘技を教えたのは、筋肉を酷使し過ぎないようにするため力の調節を学ばせる意味もあった。その甲斐あって今では日常生活になんら支障はなくなったのだが、やはり感情が高ぶると力の調節を忘れてしまいがちだった。
リュネスの命の危機など、到底冷静になって構えていられるようなものではなかった。シャルトは死に物狂いで力を振り絞り、結果、先に放たれたリーシェイの針を追い越しリュネスを守るという奇跡的な事を成し得た。しかしその代償に、足を失ってしまった。限界を越えて酷使してしまったシャルトの足は筋肉が断裂してしまい、もうまともに動かす事すら出来ないのである。
来る。
もう限界だというのに、威力だけはまるで衰えているようには見えなかった。おそらく死力を尽くしているのだろう。けれど、それだけにあまりに工夫がなく単調な攻撃だった。
さながら鉈のように放たれたその回し蹴りを、リーシェイは右手で威力を流して捌く。同時に足首を掴み、空中で反転させてシャルトの体を石畳へ背中から叩き付けた。
「かっ……」
体中の酸素を吐き出させられ、大きく口を開けながら背中をのけぞらせる。たとえ痛みに鈍いとはいえ、さすがにシャルトの口元が苦痛に歪んだ。けれど、すぐさま並々ならぬ闘志を秘めた眼差しで、上から残身のまま見下ろすリーシェイの顔を睨みつける。
思わずぞっとするような表情だった。
手負いの獣ほど恐ろしいものは無いと聞くが、今のシャルトはまさにそれだった。たとえ首を胴体から切り離しても、首だけで喉を食いちぎられそうなほどの気迫があった。
確実に息の根を止めなければ、逆にこちらが殺される。
殺意は再び表層へと躍り出てきた。また一つ、シャルトの息の根を止める理由が出来た。だが叛意も決して退かず、あくまでシャルトを擁護し続ける。
「眠れ……っ!」
とんっ、とシャルトの胸に手のひらを置く。次の瞬間、シャルトの胸から背中にかけて凄まじい衝撃が走った。
リーシェイが使える唯一の打撃技、寸打ちだった。本来は遠距離攻撃ばかりのリーシェイを、打撃技が使えないと見越して密着戦を挑んできた敵に対しての奇襲技だ。まず相手に触れなければならないのだが、予備動作のないその打撃はあらかじめ予測していなくては到底かわせるものではない。威力も高く、技の型は六合拳と少なからず通ずるものがある。
かっ、とまたも息を吐き出されるように体が痙攣するシャルト。続け様に呼吸を圧迫され、著しく酸素濃度を低下させた脳が眠気にもにた意識の喪失感を覚える。シャルトのまぶたも力を失っていった。
しかし。
「あああああっ!」
シャルトは意識を失わなかった。
獣染みた砲声を上げ、失われようとする意識を力ずくで繋ぎ止める。更にそのままの姿勢から、リーシェイに向かって横拳を放った。重力に逆らい、あまりに無茶苦茶な攻撃だったが、シャルトがどれほど習練を積み続けてきたかを物語るかのように、型だけは美しいままだった。
「む……!?」
思わぬ位置からの反撃に息を飲むリーシェイ。
シャルトの攻撃力は、六合拳だけに限らず凄まじい。純粋な体術だけならば、既にレジェイドを上回っているかもしれない。そんな突きで顔を打たれれば、ひしゃげるどころか頭蓋骨すら割られかねない。
これまでか。
目もつぶれぬほどの重圧の中、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。硬直した体は痴呆のようにありとあらゆる行動の起点がマヒしてしまっていた。処刑の瞬間を待つ死刑囚のように、自らの頭を打ち抜かれる瞬間を茫然と見守っていた。
だがその瞬間が訪れる事はなかった。
不意にリーシェイに向かって放たれたその攻撃は、僅かに触れる寸前の所で止まっている。リーシェイが、あ、と小さな単音を放ったのと同時に、シャルトは糸が切れたように今度こそ意識を失って体を横たえた。
実に見事な精神、最後まで戦いを諦めない闘志は単純に北斗として称賛に値する。単にリュネスを守りたいがための、最後の抵抗だったのかもしれない。だが何にせよ、意識を失う最後の瞬間まで戦士として勤められる人間は北斗にもそうはいないだろう。敵ながら素晴らしい。つくづくそう思う。 その一方で、リーシェイは殺意の侵食が増していく感覚にしきりに抵抗していた。自分を強く保とうとするも、針の穴から水が漏れ入るかのように少しずつ解け合わさって行く。得たいの知れぬ何かに自分を歪められそうなほどの危機感を覚えてならなかった。
心が歪んでいく。
表面化した殺意と自分とが綯い交ぜになっていくような気分だった。自分を汚されているような不快な感覚。出来ることなら、脳に溜まった汚物を一度に嘔吐して取り除きたいぐらいだった。
不意に眩暈を覚え、ふらふらと後ろへ二、三歩後退った。
額の奥が焼け付くように熱い。酷く舌が乾く。たちの悪い熱病にも似ている。そう、これまでの自分はただ熱にうなされていただけだったのか。
「ッ!?」
その時、誰かにスイッチを入れられたかのような勢いで、唐突にリュネスは意識を取り戻した。
「シャ……シャルトさん!?」
そして、状況を把握するよりも先に、目に飛び込んできたシャルトの惨状に、リュネスは慌ててすがりついた。しかし幾ら呼びかけようともシャルトはうんとも言わず、ただ目を閉じている。
シャルトのこんな姿を見るのは初めてでは無いが、決まって原因を作り出しているのは自分である、とリュネスは自責の念に胸を張り裂かれそうだった。自分のせいでシャルトを傷つけた。それは単なる被虐的なエゴイズムでしかない事を分かり切っているが、自分を責めなれば他に感情のやり場が無かった。少なくとも自分が恐怖に負けて叫んだりしなければ、シャルトがこんな大怪我をする事は無かったのだ。
リーシェイは第三者の目が現れた事で気を取り直し眩暈を押し殺すと、佇まいを正した。
さながら冷酷な殺人鬼のように構える自分。自分でもどうかしていると思うほど、意味不明で滑稽な仕草だ。
「殺してはいない。案ずるな」
「どうして、どうしてこんな酷い事を!」
リュネスががなりたてるように叫び返した。目の端には微かに涙が浮かんでいる。涙を浮かべてしまうほど、悔しさと怒りとを覚えているせいだ。普段は控えめで温厚な表情も、今では別人のように憤怒の色を刻んでいる。
「幾らなんでも酷すぎます! 幾らこんな時だからって、何もシャルトさんにまでこんな事を……!」
酷い?
確かに酷い。
私は何をやっているのか。
やめろ、問うな。問われると、掻き乱される。
「うるさい……黙れ」
うめくように声を絞り出して答えるリーシェイ。しかし、それだけでリュネスの収まりがつくはずは無かった。リュネスはキッと強くリーシェイを睨みつけると、今にも術式を行使せんばかりの勢いで立ち上がった。
ぎりっと奥歯を噛み締めるリュネス。しかし、その仕草にはまだどこか躊躇いが感じられた。それは、悲しいことに自分とリーシェイとの実力差を既に見せつけられているからだ。リーシェイは今、左腕に大怪我を負っているから、やるならば今が狙い時かもしれない。しかしそれ以上にリュネスは怖かった。こんなにも平然としているリーシェイの、あまりの変貌振りがだ。
「どこまでも癇に障る奴だな。なんなら殺してやってもいいのだぞ」
冷たく突き刺さるリーシェイの視線。本当なのかどうかまでは分からなかったが、少なくともリュネスにしては珍しく荒げた態度を沈静化させるには十分な威力だった。リュネスは尚も奥歯を悔しげに噛み締めるも、顔をうつむけ正面からリーシェイの顔を見ようとはしなくなった。
その態度に満足したのか、リーシェイは微かに態度を和らげると、ゆっくり倒れるシャルトの元へ歩を進めた。
すると、
「ガーッ!」
突然、リーシェイの前に白い小さな影が立ち塞がった。それはいつもシャルトの肩や懐に居着いている、白い子虎のテュリアスだった。石畳の上に爪を突き立て、アルビノ特有の真っ赤な目が燃え盛らんばかりの勢いでリーシェイを睨みつける。まだほんの幼児にも満たないほど体しか持たないテュリアスだったが、神獣であるためか、如何とも無視し難い強い存在感を放っていた。
「……フン」
しかしリーシェイは、テュリアスのその小さな体を無造作に取り除くように蹴り飛ばした。まるで小石のように蹴り飛ばされたテュリアスは着地も出来ずに横腹から石畳に落ちる。リーシェイはすかさず右手に針を構え、射撃態勢に入った。
「やめて!」
そこへ、咄嗟にリュネスは飛び出して来るとうずくまるテュリアスの上にリーシェイから守るように覆い被さった。
「やめて下さい。もう……お願いですから。言う事を聞きますから……」
リュネスは半分涙声になって、そう切に懇願した。
その姿にリーシェイは、不意に罪悪感のような強迫観念にも似た自らを激しく叱責する感情を覚えた。
何故、そんな事を思うのか。自分はただ、命令を遂行しているだけにしか過ぎないというのに。
意識の半分は理解出来て、もう半分は理解出来なかった。殺意と叛意が光と陰のように交ざり合っているせいなのかもしれない。自分がどこかへ行ってしまったようだった。今、こうして感じ考える自分は誰かによって作られたまがい物であるかのような気にさえさせられる。
「二度と逆らうな。逆らえば殺す」
リーシェイは石畳の上にうずくまるリュネスを尻目に、未だに意識を取り戻さないシャルトの体を右腕で肩に抱え上げる。そして、
「ついて来い」
そう一言、リュネスへ冷淡に言い放つと、自分は先立って歩き始めた。
テュリアスは無言のままするりとリュネスの上着の中へ滑り込むと、そこで丸くなってじっとしたままおとなしくなった。リーシェイに蹴られた部分が痛むのかもしれない。
そしてリュネスは目元を拭いながら立ち上がると、リーシェイの後をうつむきながらとぼとぼと追従していった。体を小さく震わせ、込み上げる幾つもの感情に必死で耐える様はあまりに悲痛で弱々しい姿でる。
その一方で、勝者であるはずのリーシェイの心中は穏やかならぬものだった。
これが……本当に自分の望んだ行動だったのか。
先を歩くリーシェイの心境は複雑で、未だどこか晴れ晴れとしないどろどろしたものを感じていた。
何かが違う。自分のしている事は。
けれど、きっと納得の行く答えは、あの中にあると思う。シャルトとの時に不意に訪れた、息苦しいほどの解放感。あの眩しい場所に、自分を悩ますこの疑問の答えがきっとあるはず。
けれど、あの時見えかけたその光は、もう手の届かない所に離れてしまっていた。ただ微かに、こちらを照らすだけである。
迷う事は歩くよりも遥かに辛い。
そうリーシェイは感じた。
TO BE CONTINUED...