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 今、あなたはどこにいるの?
 無駄だと知っていながら、今でも時々そう呼びかける。
 逢ったその時から、あなたが何を考えているのかちっとも分からなかった。
 雲のように掴み所のない人。けど、その腕の中はとても温かで、いつも私に安らぎを与えてくれた。
 私が求めているものを与えてくれた訳じゃない。ただ、私が嬉しくなるものを与えてくれた。
 時には、ずぶ濡れになった子犬のようで。
 時には、一つの場所に留まらない風のようで。
 時には、温かく包み込む羽毛のようで。
 どれが本当の彼なのかという事ではなく、それら全てが彼なのであって。
 この色取り取りの顔が、彼の色なのだ。

 ねえ、知ってる?
 私が全てを決めたのって、本当はこの時なの。
 あなたは鈍感だから、気づきもしなかっただろうけどね。




 眩暈と頭痛に苛まれながら、ルテラはしきりに呼吸を整える。しかし、息を幾度繰り返そうとも、その呼吸が楽になる事はなかった。
 一体どうして?
 やがてルテラは一つの答えを導き出す。
「……なるほどね」
 苦い色を口の端に浮かべるルテラ。しかしそうしている間にも、スファイルは次々と氷の大鎌を放ってくる。ルテラは表情を普段の仮面のような無表情に戻さないまま、攻撃から身をかわし続ける。
 スファイルの、一見すると意味の無さそうな攻撃も、戦いの前に作り出した氷のドームも、全てはこのためへの伏線だった。
 この眩暈や頭痛、若干の吐き気に呼吸の苦しさ。一連の症状は全て酸素が薄くなった事にある。ルテラの結論はそれだった。自分を閉じ込めるドームの壁は外部からの音を全く通さないほど密になったものだ。初めこそは自分を狩場から逃がさぬためのドームかと思ったが、本当に閉じ込めていたのは自分ではなく空気だった。つまりは自分を酸欠状態に陥らせるためにドームを作り閉じ込め酸素の量を制限し、更には体の酸素消費量を増やすべく不規則で大きな運動量を必要とする攻撃を繰り返したのだ。
 確かに、幾ら強くとも呼吸が出来なければ行動は著しく制限されてしまう。相手との実力差が拮抗していれば、相手の行動を制限するには一見最適な手段かもしれない。だが、相手の呼吸が苦しくなるという事は必然的に自分の呼吸も苦しくなる。結局の所、同じ空間内での酸素を共有しているのだ。互いに弱って共倒れになってしまったらまるで意味がない。つまりこの作戦は有効に見えてとんだ愚策なのである。
 スファイルはこの致命的かつあまりに基本的な穴に気づいているのだろうか? たとえ一流の策士でなくとも、この程度の策と欠点は容易に気づけるはずだ。にも関わらず強行したのは、スファイルがそんな事にも気づけないほど愚かなのか、もしくは穴を埋める何かを持っているのか。だが、どう見てもスファイルはこちらのスタミナを奪うために闇雲に攻撃を繰り返している以外、他には目立った行動は取っていない。外部から新鮮な空気を補充してはいないようだ。
 ならば、やはりただの愚か者。
 ルテラはそう結論を出すと、回避から攻撃に転ずる気構えを作った。
 どんなに穴のある作戦とはいえ、このままにさせておけば共倒れの可能性が高くなる。いや、仮にスファイルの方が若干でも体力が自分を上回っていれば、むしろ先に倒れるのは自分の方だ。こんな稚拙な作戦でやられてしまったら末代までの恥だ。自分は雪乱の頭目、流派の代表者だ。そんな結果に陥ってしまったらとても他の隊員に顔向けが出来ない。
 ルテラは最初に飛んできた右の大鎌の軌道から体をずらして回避すると、続けて向かって来た左の大鎌を、前へ踏み込みながら術式を纏わせた右腕で叩き落す。ばりん、とガラスコップを床に落としたような音を立てて、氷の大鎌は空中に散り消える。そしてルテラはすかさずスファイルに向かい疾駆する。対するスファイルも次の射撃を行なうが、ルテラは鋭角にえぐりこむ素早い回避と右手の術式による迎撃を繰り返しながら着実に距離を縮めていった。
「『凍れ、凍れ、凍えて眠れ』」
 やがて距離を見たルテラは右手を振り上げて新たな術式を行使すると、自らの間合い内にスファイルを捉える。描いたイメージは、より強く冷たく吹き荒れる、ルテラに出来る最大限の吹雪。それを右腕に纏わせた。
 目標捕捉。
 この距離ならば、たとえスファイルが術式を行使しようとも、こちらが先に攻撃を仕掛けることが出来る。術式の体現化の際に生ずる一瞬の隙。その間隙を突けば十二分に勝利は確定する。
 と。
 その時、スファイルは急に大鎌の生成を中断してしまった。自分が術式の行使するよりもルテラの攻撃の方が先であることを判断したためだ。そして新たな術式の行使に入る。ルテラは構わず更に加速する。戦闘には進退の見極めを強いられる状況が断続的に起こる。ただ闇雲に攻めても、ひたすら逃げに回っても、それを見極めなければ勝利はあり得ないのだ。
 今は進むべき場合だ。
 ルテラは恐れずに突き進む。未知の術式は警戒しなくてはならないが、それも度が過ぎれば折角の勝機もみすみす逃してしまう。臆病者に勝利はない。それが、ルテラが凍姫との抗争で見つけ出した法則だった。
「『凍姫の微笑は全てを凍てつく』」
 来た。
 スファイルが韻を踏むと同時に術式を体現化する。だが、既にスファイルとの距離はルテラの手合いに入っている。体現化を待たず、ルテラは最後の加速を行なうと同時に右腕を全力で繰り出した。ガラスを引っ掻いたような甲高い悲鳴を上げながら、ルテラの右腕がスファイルに目掛けて空を走る。
 しかし。
 ―――なっ!?
 疾る刃のような鋭い表情が、驚愕に崩れる。
 厳かな口調で韻を踏んだスファイル。その次の瞬間、突如スファイルの姿が五つに増えた。驚愕に顔を歪ませながら、ルテラは再度目標を確かめる。頭痛や眩暈はまだあるが、視力はそこまで乱れていはいない。スファイルの姿がこんな現実離れした形で見えるのは、単なるぶれや錯覚ではない。確かに姿が四つ増えている。地面にも影がある以上、幻術の類でもないらしい。
 どうするか。
 ルテラは攻撃を繰り出す刹那の時間、目の前の異常事態について思慮を巡らす。標的が五つに増えた。一見するとどれが本体なのか見極める事が不可能に思えるが、冷静に考えれば、今はまだ体現化の直後であるためスファイルは体現化前と同じ場所にいる。ならば攻撃はこのまま続行して構わない。ただ、その周囲に偶像が四つ増えただけなのだから。
 攻撃の続行を決断したルテラは、本来の予定通り右腕を加速させたまま繰り出した。
 と。
 ルテラの一撃がスファイルを打ち抜こうとしたその直前。不意にスファイルの五つの体が四方八方へ散開した。真っ直ぐに繰り出されていたルテラの攻撃はあえなく空を切る。
 思わぬ素早さにハッと構えながら振り返るルテラ。するとそこには既に五人のスファイルがこちらを見据えながら構えていた。
 異様な恐ろしさをルテラは感じた。五人、十の目が自分を見据えている。しかし、本当に見ているのはその中の一人。なのにこの違和感はなんなのだろう? あり得ない話だけれど、本当に目の前に五人のスファイルが存在しているような気がする。そう、文字通り一人の人間が五人に増えたように。
 そんな馬鹿な。
 ルテラは頭の中から飛躍した空想を振り払い、今一度理性を冷たく凍てつかせ徹底した現実主義に戻す。冷静に考えれば、別段驚くほどのものではない。これは精霊術法によって自分の分身を作り出しただけなのだ。四人も同時に体現化した事はさすがに驚くべき事ではあるが、その気になれば自分でも何人かは作り出せる。現に自分は、移し身として自分の分身に近いものを作り出せるのだから。
 今のやりとりで本体と分身が入り混じり、どれが本物のスファイルなのか分からなくなった。本体さえ倒せば分身は維持できずに消えてしまうのだが。その本体が分からなければ迂闊な攻撃は出来ない。迂闊に攻撃を仕掛けてしまった事で分身に取られてしまったら、それがそのまま相手へ最大級の好機を献上する事となってしまうからだ。攻撃には最大限の注意を払う必要がある。
 だが、ルテラには時間がなかった。
 ふと呼吸を整えようとしてみたが、取り込んだ空気の量に見合った充足感が得られなかった。まるで水の中で呼吸をしているかのような感覚だ。同時に眩暈と頭痛が一層強まる。酸欠の症状がかなり進んでいるようだ。
 自分を保っていられる内に決着をつけなければ。
 守りに入っても勝利は皆無である事を確信していたルテラは、攻撃の続行を決断する。
「『凍てつく風よ、我が追い風となれ』」
 ルテラは右腕に術式を体現化する。描いたイメージは、右腕全体を広く覆う大きな吹雪。
 同時に後足を強く蹴り、再び疾駆を開始する。目標は、大まかに左側から二、三人に定める。そして右腕を水平に構えた。
 目標を手合いに収めると、どんっ、と前足を地面へ叩き込んで姿勢を踏ん張ると、上体を大きく後ろへそらし捻る。そして水平に構えた右腕を大きく振り戻しながらスファイル達を横薙ぎに払った。瞬間、凄まじい吹雪の刃がルテラの腕を追って吹き付けてくる。
 薄い金属を打ち鳴らしたようなオクターブの高い音が鳴り響く。同時に吹雪の白い刃を受けたスファイルが二つ、まるで凍りついたように動きを失いながら横一文字に両断される。そしてそのまま無数の氷の粒子と化し、中空に消えた。
「甘いですよ」
 残る三つのスファイルが、地面を滑るように横へ旋回し間合いを取っていく。次々と三人が同じ動作でシンクロしながら動く様は、酷く非現実的な光景に見えた。
「またそうやって逃げるのね」
 ルテラは術式を残したまま後を追って疾駆。
「戦術ですよ」
 スファイルは淡々とした表情で韻を踏む。すると破壊されたはずの二つの分身が再び現れ横へ並んだ。
 やはり、分身は幾ら破壊しようともすぐに再生出来るか。
 ならば再生する暇を与えないほど徹底的に攻め込むしかない、と判断したルテラは、術式をそのままに一呼吸の間隙の後、猛然と疾駆する。
 と、その時。
 これまで接近戦を避ける事が多かったスファイルは突如行動を一変させると、向かってくるルテラに対して迎撃態勢ではなく交戦態勢を取った。五体の右手にはそれぞれ身長ほどもある大きな鎌を体現化する。それを全く同じ動作で振り上げ、ルテラに向かって次々と突進していった。
「くっ!」
 断続的に五つの切っ先が様々な角度から襲い掛かってくる。ルテラはその全てを破壊する事は不可能と判断すると、左手で前方へ白い障壁を展開する。襲い掛かる氷の大鎌は次々とそこへ盛大な衝突音と共に突き立てられる。そして最後の斬撃を受け止めた瞬間、ぱりん、と音を立てて障壁が砕け散った。同時に押さえていた反作用が一度にルテラへと襲い掛かる。ルテラはその反動を利用し、一旦手合いから後方へ離脱した。
 後退を余儀なくされてしまった、今の交戦結果は精神的にも非常に痛い。ルテラは奥歯をぎりっと噛んだ。おそらく勝負の決着は接近戦の直接攻撃でつくはず。だが、それに通ずる今の接触で、少なくとも相手の攻撃力がこちらの防御力を上回っているという事実は、ルテラの中で取り得る選択肢を非常に狭めてしまう。物理的に不可能になったものはともかく、精神的な影響を考慮した上で除外されたものがあるという事実が痛い。
 ルテラはすかさず反撃態勢を取る。気持ちで負けてはいけない、と思った。すぐに今の小さな敗北を白紙に戻そうと気が逸る。
「『凍れ、凍れ、凍えて眠れ』」
 ルテラは右腕に術式を体現化すると、再び真っ向からスファイルに挑む。頭の中には、まとめてスファイルの分身を破壊しようという考えがあった。先ほどの件で、分身自体はいとも簡単に破壊する事が可能である事が分かっている。ならば持ちうる最大の攻撃力を持ってすれば、まとめて破壊出来るのでは。その確信がルテラにはあった。分身さえ排除できればいい。一対一の戦いならば負けはないのだから。
 しかし、ルテラは自分の判断力が著しく低下している事に気づけなかった。酸欠の症状で何よりも深刻なのは知能の低下だ。そしてそれは音もなく忍び寄り、知らぬ間に標的の首を狩る。更にスファイルから負けを取り返そうと理性を熱くさせてしまった事も、これを気づかせない更なる要因の一つとなっている。
 ゆらりと立つスファイルは、ゆっくりと周囲とを確かめるように数歩歩き、位置取りをする。それは不自然な位置取りではあったが、ルテラは既に気づける状態ではなかった。
 ドーム内に衝突の重低音が反響する。
 繰り出したルテラの右腕を、スファイルの五つの柄先が受け止める。両者の力関係はほぼ膠着しており、そのままじりじりと互いを牽制し合う睨み合いへと移行していく。
 ぐぐっ、とルテラが右腕を半歩前進させる。同時にスファイルの表情が若干渋くなった。既に物理的な運動エネルギーはゼロになっている。だが、ルテラは精霊術法の恩恵により驚異的な筋力を持っている。高速運動から低速運動へ移行しても、破壊力自体はさして代わりはない。更に、ルテラの行使する精霊術法自体の攻撃力もある。このまま押し切っても、スファイルに致命的な打撃を与える事は十二分に可能だ。
 五つの大鎌を持ってルテラの攻撃に対抗するスファイルだったが、次に後退を選択っさせられたのは彼の方だった。ゆっくりとルテラの右腕が五つの大鎌を押し戻していく。目に見えないレベルで、既に大鎌の魔力の繋がりは断絶しかけている。じりじりと迫り来るその白い一撃を前に、スファイルは踵を少しずつ後退らせる。
「これで終わりにしてあげるわ」
 ルテラは凄惨な笑みを口の端に浮かべる。勝利を確信した表情だ。
 前足をぐっと前方へ踏み出し、後足で上体を前足に続くよう地面を蹴る。繰り出した右腕に更なる力を込め、より力強く前へ押し出した。
 だが、
「そうですね」
 追い詰められているにも関わらず、スファイルの表情は至って冷静なものだった。戦闘は終了するまで感情は押し殺し冷静さを保っていなければならない。それが出来るのか否かでプロとしての資質と評価が決まる以上、そんなスファイルの様相は確かに正しいのかもしれない。だがルテラには、それが不可解な自信、もしくは自分の知らぬバックグラウンドがあるのではと思慮を巡らせ注意力を散漫とさせる結果に繋がった。
 迷うな。
 そう、ひやりとする冷たい声が頭の中から聞こえる。雪魔女の声だ、とルテラは思った。
 確かに彼女の言う通りだ。スファイルは流派『凍姫』の頭目、この程度の事態で慌てふためくような人間に頭目は務まらない。だから要らぬ思慮を巡らせるよりも、今は右腕を振り切ることに全ての神経を集中させるべきなのだ。
 そして。
「ハアッ!」
 ルテラは力の限り右腕を押しやった。同時に、外見に似合わないぱりんと小さな音を立てながら氷の大鎌は五本同時に砕け散る。ルテラの右腕は大鎌を破壊しただけでは止まらなかった。障害を無くした拳は、甲高い空気との摩擦音を上げる術式と共に一直線にスファイルに目掛けて加速していく。
 勝った。
 そうルテラは確信した。この距離での回避は不可能。幾ら分身を束ねようとも、強固な障壁を展開しようとも、必ず打ち抜ける自信がある。もはやスファイルに自ら選べるほどの選択は存在しない。そして自分もまた勝利以外の選択肢はない。
 しかし。
「かかりましたね」
 スファイルが小さな声でそう囁いた。
「っ!?」
 その刹那、ルテラは頭上にひやりとする冷気の存在がこちらに向かって降って来る事に気がついた。
 思わず頭上を見上げる。するとそこには、もう目の前まで迫り来ている巨大な氷柱の鋭い先端があった。
 この氷柱は、ドームの天井にスファイルが生成した術式だった。これまでスファイルが不自然な位置取りを繰り返していたのは、これの落下地点にルテラを誘導するためだったのである。
「『白雪よ』!」
 ルテラは咄嗟に両腕を頭上に抱え障壁を展開し、降り落ちてくるその氷柱を受け止めた。ぎぃん、とまるで剣同士がぶつかり競ったような音が耳元を走る。だがそれを意識が認識する事はなく、ただの空気の振動として流した。
 ずん、と氷柱の重さが痺れるような衝撃となって腕を走る。ルテラは思わず苦痛の表情を露にする。
 この攻撃を押さえきれるだろうか?
 だがその直後、相対していたスファイルが動いた。
 ざっ、と地面を蹴る音が聞こえる。刹那、猛然と踏み込んだスファイルの右腕がルテラの首を捕らえた。氷柱の奇襲を受け、その予想外の攻撃力に全力で障壁を展開して隙だらけだったルテラは、見事なまでにあっさりと正面から受けてしまうと、スファイルが踏み込んだ反動でそのままルテラの体を地面へ押し倒すように叩きつけた。
 かはっ、とただでさえ少ない酸素を吐き出すルテラ。衝撃に背中が麻痺する。
「これで終わりです」
 スファイルは情け容赦なくルテラの上に圧し掛かったまま、右腕を頭上へ掲げて氷の大鎌を体現化する。
 まずい!
 ルテラの本能が警鐘を鳴らす。しかし思わぬ混乱を起こしてしまった意識は、最善の対処法どころか現状の認識すらままならなかった。
 辛うじて、このまま自分は首を撥ねられる、という事に気がついた。だがその時は既に、大きく振りかぶった氷の大釜を、スファイルは鋭く繰り出していた。
 死ぬ。
 そう思った瞬間、
 冷たい刃先が、自分の首のすぐ脇へ突き刺さった。
 首は繋がっている。恐る恐るルテラは自分が生きている事を確かめた。だが、すぐに目の前にあるスファイルの顔がこちらを見下ろしている事に気がつかされる。その態勢は、いつでもこちらを即座にどうとでも出来た。更に首のすぐ脇には大鎌の刃が突き刺さっている。ほんの少し力を加えるだけで、自分の首を胴体と別つ事が出来る。
「……私の負けね」
 そして、ルテラは大きく溜息をつき、自ら敗北を宣言する。
 ドームの外にいる両流派にはその声は聞こえなかったが、既に明暗ははっきりと分かれていた。どちらの誰にも納得がいく、あまりにはっきりとした形で勝敗が決してしまったのだから。
「ありがとう」
 するとスファイルは、不意にこれまでとは別人のようににっこりと微笑んだ。
 ぱりん。
 同時に周囲を覆っていたドームが崩れていく。新鮮な冷たい空気が流れ込んできた。ルテラは懐かしい気持ちで胸の中に吸い込む。
 スファイルはゆっくりと立ち上がると、そっとルテラへ手を差し伸べる。しかしルテラはそれを受けず、自らの足で立ち上がり服の汚れを払った。
「実は人より息が長いのが自慢だったりするんですよ」
 そうスファイルはにこやかに微笑みながら深呼吸し、伸びをする。
 自分と同じように呼吸を制限されていながら、あれだけ戦えるなんて。ルテラはあまりに予想外だった自分とスファイルとの実力差に愕然とする。スファイルは、やろうと思えばいつでも自分を倒す事は出来たのだ。初めから遊ばれていたのである。当然と言えば当然だ。スファイルは実力で手に入れた頭目、逆に自分は周囲に消去法で選ばれ祭り上げられただけの頭目。これだけの差はあって当たり前の事なのである。
 終わった。
 ルテラは静かに目を閉じ、うなだれる。
 自分を変えて、ただひたすら全力で走り続けて数ヶ月。自分を変えたかったのか、あの時の自分を否定したかったのか。とにかく見向きもせず走り続けたその先にあった、一つのゴール。それが、この現実。ゴールを目指していたのではなく、ただ走り続けたかっただけなのに。どうしてこんな事になったのだろうか、とルテラは今更感慨に耽った。しかし、それもあまり長くは続かなかった。どうせ今となってはどうでもいいことだ。そんな言葉が全てを一意に括ってしまったからである。
 と。
「約束、覚えてますよね?」
 スファイルが明るい普段の口調でそうルテラに問い掛けてきた。
 これも仕方のない事だ。
 心が諦観の念に縛られ、それ以外を考える事が出来なかった。言葉を発する事が出来ないルテラは、ただじっと押し黙ったままこくりとうなずく。
「私を、好きにしなさい」  もう、どうとでもなれ。
 走り尽くす所まで自分は走った。これ以上道がないのであれば、もう何かに拘る必要もない。諦観の念は深く心を侵蝕し、徹底的に無気力にさせる。
 一体何を要求されるのやら。
 どこか第三者が見物するような気分でルテラは自分の行く末を見ていた。
 すると。
「じゃあ僕のお願いを聞いて貰います。今度の休日、デートをしましょう」
 スファイルが安穏と答える。
「……私と?」
 ルテラは数度瞬きを繰り返すと、酷く困惑した顔でスファイルに問い直す。
 何を言っているのだろうか? 自分の聞き間違いではないのだろうか?
 しかし全ての疑問を、スファイルは相変わらずの場違いなほど明るく毒抜けた声で払拭する。
「はい。まさか断りませんよね? ほら、最初にちゃんと約束しましたよね。負けた方は必ず要求を飲むって」
 確かにそんな約束はした。
 しかし、一体何故そんな要求をするのだろうか。まるで子供のように無邪気に、戦闘の時とは打って変わった彼の様相にルテラは更に困惑する。
「何を考えてるの……? 私が目的ならば、それを命令すればいいでしょう。私は今更ゴネたりしないわ」
「まさか、そんな野暮な。それに、一日あれば十分。必ず僕を好きにさせます」
 さも自信ありげに胸を張るスファイル。
 ルテラはその姿に思わず肩の力が抜けてしまった。まるで、街を走り回る子供の姿を見出したからだ。
「どこから来るのかしら? その自信は。私には選択権が与えられるのよ? その程度の要求だと」
「身の程をわきまえてるからですよ」
 ただただ微笑むスファイル。
 ルテラはやはり困惑の表情から抜けきれず、眉の間に深い皺を寄せるだけだった。だがそんなルテラの様子を楽しむかのように、スファイルは嬉々として言葉を続ける。
「悪人に徹せないから、道化が丁度いいんです」
 ああ、そうだ。今、思い出した。
 どこかで聞いた、北斗一、変わり者の頭目。それはこの『凍姫』の頭目だったのだ。



TO BE CONTINUED...