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 一体、何がどうなってる……!
 北斗総括部。その中をエスタシアは慌しく駆け巡っていた。
 その表情には珍しく焦りの色がくっきりと刻まれている。酷く息を切らし、額には汗さえも浮かんでいた。
 足を地に付けるのももどかしく、エスタシアは半ば飛び降りるような勢いで階段を駆け下りる。明かりも乏しく足元もおぼつかないというのに、エスタシアの駆け抜ける速さは狂気染みていた。
 階段を下りると、物理法則を無視したかのようにほぼ直角に曲がると、一直線に廊下を駆けていく。そのあまりの速さに擦れ違う蝋燭の炎が次々と消えていった。
 そして、ようやく辿り着いたその扉を、エスタシアは突き飛ばすように荒々しく開けた。直後、うっ、と思わず顔をしかめ、エスタシアはよろけながら一歩足を退く。
 暗がりの中からむわっとむせ返るような悪臭が漂う。
 血の匂いだ。
「くっ……ここもか!」
 苛立だしげに、握り込んだ拳を壁に打ちつけるエスタシア。
 ここまで感情を露にする彼は珍しかった。上に立つものは如何なる時も冷静さを失ってはならない、というのが彼の持論だったが、さすがにこの時ばかりは冷静ではいられなかった。
 現在、残党軍がこちらに向けて進軍中であるため、その掃討に部下と流派『浄禍』の二名を向かわせた。しかし、程無くして事件は起こった。
 まず、この北斗総括部内から全ての浄禍八神格が消えてしまった。『聖火』と『邪眼』の二人は今、残党軍の掃討に向かって出払っている。『遠見』は時折自分の判断で残務処理を行うため、居なくともそれほど問題視する必要は無い。問題は、彼女ら以外の五人の居場所だ。確かにこの総括部内にいたはずなのに、今は一人たりとも姿が無いのだ。それも無断で姿を消したのである。確かに自分は彼女らの直属ではないのだが、かと言って無断で行動して良い理由にはならない。まして、今は残党軍の反撃に晒されている身だ。防衛の手が緩められない事も分かっているはずだ。
 そして、そこへ追い討ちをかけるかのように起こった事件がこれだ。
「エスタシア様、下は駄目です! みんなやられていました!」
 不意に飛び込んできた一人の女性。
 エメラルドグリーンの長い髪を振り乱し、猫を思わせる眼差しは血相を変えて焦りの一色に染まっていた。
 それは、流派『凍姫』の頭目であるファルティアだった。彼女もまたエスタシア同様に焦りの色を露にしていた。無論、この緊迫した状態に対する焦りである。
 やはりか……。
 そうエスタシアは苦々しく奥歯をぎりっと噛み、沸き起こる感情を堪えてぎゅっと拳を握り締める。そんなエスタシアの姿をファルティアは心痛な面持ちで見つめていた。
 今、彼らの前に立ちはだかっている問題。それは、この短時間の間に、革命軍を構成する人間が幾名も殺されているというものだった。それも末端の兵士ではなく、皆管理クラスの人間ばかりである。
 同じ数を殺されるならば、非常に不謹慎な計算ではあるが、末端の兵士だったならば今ほど焦りは生まれなかっただろう。管理クラスの人間が殺されるという事は、後任を当てはめるまでそれ以下への命令指揮系統が完全に途絶えてしまう事を意味する。つまり殺されれば殺されるほど組織力が収縮してしまうのである。
 既に致命的な数の管理クラスが殺されてしまっている。だが驚くべき事に、これほどのが殺されているにも関わらず、一人として末端の兵士は殺されていなかった。犯人は初めから管理クラスの人間が一つの場所に集まっている所を狙って行動に出ているのである。組織を相手にする場合の効率性だけを追求した、敵ながら実に見事な手腕だ。
 この状況からして当然の事だが、犯人は未だに不明だった。分かるのは、皆一様に喉を横一文字に斬られて死んでいるという手口から、同一人物の仕業である可能性が高いという事だけだ。
 犯人は反乱軍の誰かである可能性も考えたのだが、こういった戦術を習得する人間に心当たりがまるでなかった。それも、敵味方を含めてである。確かに彼らは多少気を抜いていたかもしれないが、こうも抵抗らしい抵抗をさせずに倒してしまうほどの達人など、各流派の頭目にすら居ないのだ。そもそもこの所業自体、人間業では不可能に近い。たとえば流派『修羅』の管理クラスともなると、空気の流れだけで敵の位置を正確に把握する事が出来る。それすらも許さずに仕留めるなど、どう考えても不可能に近いのだ。
 人間業で不可能ならば、神業ならばどうか。
 よもや、行方をくらませた浄禍八神格の五人が裏切ったのだろうか。
 その可能性も考えたのだが、しかしそれは最も有り得ない事だった。人間の域を超えた力を持つ彼女ならば、なんらかの方法で可能とするかもしれない。けれど彼女らは、浄禍八神格の筆頭である『遠見』の命令には絶対に逆らうことが出来ないのだ。まして遠見は、自分にとって腹心中の腹心、最大の味方である。だから遠見が自分を裏切らない以上、彼女らが手を下すなんて事は決して有り得ないのである。
 一体何者なのだろうか。
 ただ犯人が、自分の想像を遥かに上回るようなとんでもない怪物である事だけははっきりとしていた。北斗の一流派の最頂点まで辿り着いたはずの自分を戦慄させるような、北斗の常識すら通用しないようなとんでもない怪物だ。要点だけを正確に狙ってくる戦術を展開してくる所を見る限り、おそらく敵は数名、もしくは非常に考えにくい事だが、たった一人という非常に少数であると考えられる。今から捜索し見つけ出すなど限りなく不可能に近い。
 まさか、彼女らはこの敵に備えて姿を消したのだろうか。
 いや、絶対にそれは有り得ない。遠見は彼女らにそういった命令は出していないはずだ。それに、浄禍八神格が怯えるような存在などこの世にいるはずがない。もしも居たとするならば、それこそ人間ではない。文字通りの怪物だ。
 まず自分がすべき事を冷静に考えよう。
 エスタシアは沸き立つ血と感情を押さえ、自分を客観的に見るような精神コントロールを持って冷静さを呼び起こす。
 このまま総括部内を走り回ったとしても、犯人を見つけ出せる可能性は限りなく薄い。それどころか下へ的確な指示を与える事が出来なくなるため、更なる好機を与えてしまう事になる。ならば自分が直接動くよりも、他の管理クラスや実力者を召集し、その編成隊に犯人を捜させた方が良いだろう。こういう予定外の事態の収拾には浄禍八神格が適役なのだが、忽然と行方をくらませてしまった以上、今はこうでもするしか無い。
 その間、自分は遠見を捜しておいた方がいいだろう。もしもこれ以上の予測外が起こってしまった時、この混乱した状況で自分の采配だけでは収拾をつける自信は無い。それよりも自分は、まず軍の立て直しを行わなくてはいけない。こういった些事に組織の総括がいつまでも手をこまねいてはならないのだ。何よりも優先すべき事は、組織の維持なのだからである。
「大変です!」
 と、その時。二人が顔を合わすそこへ更にもう一人の人間が飛び込んできた。
「どうしたんですか?」
 問い返すエスタシアの語気は、冷静になろうとしても苛立ちが隠せなかった。そんな自分の口調に気づいたのか、エスタシアはハッと我に帰ったように自らの佇まいを正す。しかし、すぐにそれは乱れる事となってしまう。
「地下に閉じ込めておいた夜叉の頭目が脱走しました! 数十名ほど向かわせましたが、とても手に負えません!」
「な、そんな馬鹿な!?」
 自分でもはっきりと背筋が震えるのをエスタシアは感じた。
 まるでこの苦境に追い討ちをかけるかのようなこの事態。しかし、エスタシアはこんな巡り合わせの悪さよりも、ただ純粋にレジェイドが檻から解き放たれた事へ恐怖してしまった。
 レジェイドは直ちに殺すよう、確かに自分はそう指示した。そのレジェイドが脱走したという事はつまり、自分の命令を最終的に受けた部下が忠実に実行しなかったからだ。けれど、それを批難するのは大きな間違いだ。この状況を引き起こしてしまったそもそもの原因は、レジェイドのような危険分子の処分を人に任せず、捕縛した時点で自らの手で殺さなかったせいなのだ。しかしそれは出来なかった。レジェイドの前に姿を現す事を躊躇ってしまったからである。何故躊躇ったのか。それは、自分が剣を振り下ろす事を躊躇ってしまう姿を晒すかもしれない事を恐れたのか、それとも単純にレジェイドが怖かったからなのか。何にせよ、自分がレジェイドを避けていたが為にこの事態を作り出したことに変わりはない。
 レジェイドは凍姫のミシュアと交えた際にかなりの傷を負ったと聞く。つまり今のレジェイドは手負いの獅子だ。決死の覚悟で立ち向かうであろう彼は、間違いなく普段以上に手強い相手となっているだろう。末端の兵士など何人送ろうが無意味だ。数でどうにかなるような相手ならば、初めからここまで恐れたりはしない。
 自分が行かなければ。これ以上、事態を悪化させないためにも。
「私が行きます。ファルティアさんはこちらをお願―――」
 不意に建物が揺れるほどの凄まじい轟音が鳴り響いた。
「な……これは?」
 するとファルティアは真っ先に窓から首を出して覗き込んだ。
「あれは……リュネスがいる離れです!」
 凍姫に所属する、ファルティアの妹分に当たるリュネス=ファンロン。エスタシアは、彼女が命令無視をしたため離れに監禁している、と報告を受けていた。念のために対術式の多重結界を施しておいた建物であるのだが、どうも酷く落胆しているためそれほど気にかける必要はないだろうと判断していた。
「くっ、こんな時に」
 また、自分は判断ミスを犯してしまったのだろうか。
 そうエスタシアは奥歯を強く噛み締めた。
 確かに多重結界は施してあるものの、本来の彼女が持つ術式のキャパシティを考えれば遠く足りないものだ。建物が内部から爆発したという事は、結界を越える威力が内部で発生したという事だ。リュネス=ファンロンが本来の実力を隠しそれを発揮した、とは考えにくい。事の前後も考慮し、単に精神的に追い詰められた事が原因で暴走を引き起こしたと見て間違いないだろう。
 暴走したリュネス=ファンロンの強さの程は、既に一年前の事件で実証済みである。数人の実力者が束になってもかなわなかったのだ。おそらく、浄禍八神格でもなければ完全に鎮圧する事は出来ないだろう。しかし、その八神格は今はいない。手持ちの札だけで鎮圧しなければ、今以上に状況が悪化してしまう事になる。せっかく旧体制派を打ち破り、今正に長年夢見ていた北斗改革の足がかりを手に入れたというのに。このままでは全てが水の泡となってしまう。
 一体どうすれば……。考えろ、考えるんだ。冷静になれば、必ず何か打開策はあるはず……。
 しきりに冷静になろうと自らに言い聞かせるエスタシア。しかし、時間には幾らも猶予がないという現実が、暴走を始める感情に理性の鎖を繋がせてくれない。
 気がつけばエスタシアは苛立ちを露にした表情でしきりに爪先で床を蹴っていた。
 すると、
「私が行きます。私ならリュネスを止められます」
 そんなエスタシアの姿を見かねたのだろうか。突然、ファルティアがそう強い口調で申し出た。
 はっ、とエスタシアは一瞬硬直し、ファルティアと顔を見合す。思わずあっけに取られたような、実に無防備な表情だった。しかし、すぐにまた眉間に苦悩の皺を刻んだ。
「しかし、幾らなんでも一人ではあまりに無謀過ぎます。それは許す事が出来ません」
「いえ、私一人で行く訳ではありません。リーシェイとラクシェルも連れて行きます。この二人なら私も信頼出来ますから。それに、今は躊躇している時間はないはずです。お願いします、やらせてください。必ず止めてみせます」
 じっと真正面からエスタシアを見据えるファルティアの目には一切の迷いが無かった。
 相手は、たとえ身内とは言っても暴走した人間。人物の判別などつく訳も無く、まして浄禍八神格でもなければ止める事は出来ないほど、強大な力を無尽蔵に繰り出してくる。そんな渦中へあえて飛び込もうとするなど自殺行為も甚だしい。優れた実力の持ち主であれば尚更、極力関わり合いを避けるものだ。
「確かに……悠長にしていられる事態ではありませんね。分かりました、お願いします」
 ファルティアはまさか死ぬ覚悟を決めたのだろうか?
 そんな考えが頭を過ぎった。しかし、エスタシアはあえてその不安を無視した。今はいちいち感傷的になっている時ではない。とうに自分は組織を統括する者として相応しくなるため、私事の感情を捨て去る覚悟を決めたはずだ。死の覚悟を目の当たりにした程度で、自らの覚悟を揺るがせてはならない。
「はい。どうかお気をつけて」
「あなたも」
 そう、短い暇を告げ、二人は全く逆の方向へ走り出した。
 最後の言葉は上司と部下の会話では無かった。
 そんな事を最後に考え、エスタシアは思考を切り替えた。



TO BE CONTINUED...