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「くっ……」
夕刻。
明かりの灯っていないその部屋、薄闇の中に苦痛に満ちたうめき声が聞こえる。
青年はソファーに浅く座り、上半身を露にしたまま額にじっとりと汗を浮かべてうごめいている。表情は苦悶の色一色に歪んでいる。
酷く具合の悪そうな様子の青年。しかし、それでも青年は自らの力を振り絞り一心不乱に黙々と何かに取り掛かっている。
閉め切ったその部屋は青年の放つ熱気と、もう一つ異様な臭気が充満していた。
血の匂いだった。
青年は自らの胸を覆う長い包帯をゆっくりと引き剥がしていく。包帯は赤茶け、べっとりと繊維同士が張り付いている。引き剥がそうと力を入れるたび、青年の体がびくりと波打って硬直した。
「はあ……っ!」
やがて全ての包帯を剥がし終えると、青年は包帯を手落としたかのように床に置いた。そして一心地ついたにしてはやけに余裕のない溜息を漏らす。
断続的な深い呼吸を続けつつ、青年は奥歯を食いしばり半分閉じかけた目でソファーの前にあるテーブルへ手を伸ばし、はっきりと見ずに何かを探る。ようやく手にしたそれを、青年は震える手で手繰り寄せた。それは一通りの簡単な医薬品が収まった応急箱だった。青年は小瓶入りの消毒薬を取り出すと、傍らにあらかじめ用意した清潔な布に染み込ませる。アルコールのそれに似た独特の香気を放つその布を、青年は自らの胸へ持っていく。
青年の胸には、左肩から右脇腹にかけて深い傷が走っていた。そして、おそらく彼自身が行なったのであろう、肉を中央へ寄り合わせるように太い糸の縫い目が不揃いに並んでいる。糸は元の白が完全に消えてしまうほどの大量の血に染まり、包帯のそれよりも濃い赤茶に染まっている。
深く大きくえぐれた肉を強引に合わせようと縫っている糸だが、出血は今も尚ゆっくりと続いているようだった。傷口は決して新しいそれではなく、ゼリーのように固まりかけた血が零れ落ちようとしている。化膿している訳ではなかったが、乾いた血の残滓が無数に張り付いている。
青年は一度躊躇いつつも、消毒液を浸した布を傷口へ押し当てると、そのまま力強く傷口を押すように拭い始める。
「が……くっ」
より激しい苦痛の色を浮かべる青年。奥歯は砕けそうなほど強くぎりぎりと噛み合わされ、額を伝う汗の量が爆発的に増える。青年の薄開きになっていた目は虚ろに宙を漂う。しかし、そのまま引き離す事をリアルの痛みが許さず、青年を執拗に苦しめ続ける。
やがて。
ようやく消毒作業を終えた青年は布を包帯の上に落とすと、再び新しい包帯を巻き始めた。直に触れている部分はすぐに血が滲み始めたがそれほど急速的という訳でもなく、次々と多い被せられる包帯によって見えなくなった。
包帯の残りが短くなる頃、青年はようやく落ち着きを取り戻し額の汗を拭う余裕が現れ始めた。ただでさえ深かった傷を、必要であったとは言ええぐり返すような事をしてしまったのだ。決して楽観出来る程度の怪我ではないが、外部からの刺激を極力減らせば必要以上の苦痛に苛まれる事もない。
包帯を巻き終えた青年はソファーもたれかかり、はあ、と天井に目掛けて息を吐いた。
痛みをこらえての作業は酷く体力を消耗させた。それだけでなく、精神的にも多大な負荷となる。心身ともにやつれ、今は何もやりたくない気分だった。
汗が引くと、ソファーの脇へ脱ぎ捨てたシャツを掴み身にまとった。そしてボタンを襟元までしっかりと留める。シャツは生地がやや厚く、色も白という事もあって青年が体に巻く包帯の存在が綺麗に隠れてしまった。
落ち着いた青年の表情は涼やかで、とてもあんな重傷を負った人間には見えなかった。その表情はまるで苦悶の表情を隠す仮面のようである。
と。
青年は不意に何かの気配を感じ取ると、ゆっくりソファーから立ち上がった。意外にもしっかりした足取りでテラスの方へと向かう。表情も普段の落ち着きを取り戻し、先ほどまでとは打って変わって余裕すら感じられる。
小さな番を外しテラスへのドアを開ける。すると、夕方のやや冷たくなった風が青年に向かって吹き付けてきた。ふと一つの記憶の残滓を思い出し、ぞくっと背筋に鳥肌を立てる。しかし、そうさせた想像はあくまで想像にしか過ぎず、恐れる必要はない。青年はそう自らに言い聞かせた。
一人暮らし用の部屋についた小さなテラス。青年は腰よりもやや上の位置にある真新しい鉄柵に両腕を置き、そこへ体重をかけた。青年の部屋は建物の六階という高い位置にあった。周囲には他に同じだけの高さのある建物はなく、青年の視界には北斗北区の街都が広がっていた。太陽が傾きかけて薄闇が降り、ぽつりぽつりと人工の明かりが浮かび始めている。
『怪我はどうですか? 病院に行けなければ、医師を融通させますが』
その時。
青年の他に誰もいないはずのテラスに、一人の女性の声がどこからともなく響き渡った。しかし青年は全く驚いた表情を見せず、平然と普段会話するように落ち着いた様子で視線を眼下の市街へ向ける。
「問題ありません。じき完治するでしょう」
『さすがは元頭目といった所ですね。あなたにそれほどの傷を負わせるとは』
彼女の言葉に青年はそっと微苦笑を浮かべると、吹き付ける風を顔で受けながら目を伏せる。
「兄はいわゆる昼行灯でしたから。ああ見えて、本当は誰よりも恐ろしい牙と爪を隠し持っています。この程度で済んだ僕もまた幸運と言えるでしょう」
風にかき乱された前髪を掻き上げ、視線を再び市街へ馳せる青年。そんな彼を、『彼女』は声を潜めて微笑した。
「ところで、あの晩の現場の再検証は終わりましたか?」
『はい。スファイルの死亡はほぼ確定的です』
「ほぼ、ですか。絶対ではないのですね」
ほぼ、という曖昧な言い回しに、青年はやや苦味を見せて軽い溜息をついた。
『見落とした要因が存在する可能性は否定できませんから。その意味では、この世には絶対というものはありません。神でもない限りは』
「あなたのセリフとは思えませんね。絶対がない、だなんて」
『現実を評したまでです。宗旨とは無関係であり、他意はありません』
そして、今度は彼女が苦い笑みを浮かべる番だった。しかしその表情は青年からは見る事が出来ない。
『スファイルの件は、これ以上の追求は必要ないものと思われます』
「そうですね。これで当面の安全は確保されたと言えます」
青年は満足げに頬のラインをそっと指で撫でる。その指には冷たくなった彼の汗が纏わりついていた。
『今後の指示は?』
「既に下準備は終わり、基盤は整いました。これより戦力の強化に入ります。当分は普段通りの生活を行って下さい。定期的な連絡ありますが、くれぐれも表立った行動は慎んで下さい」
『分かりました。ところで、あなたは?』
「私はしばらくの間、ニブルヘイムに向かいます。一つ、物入りでしてね」
そう、青年は意味深げに微笑んだ。彼女はそんな青年に、そうですか、とただ一言短く返答するだけだった。
TO BE CONTINUED...