BACK
いつ、どうやってそこへ辿り着いたのか、レジェイドは覚えていなかった。
感じるのは、血と汗でべとつく全身と右腕に握り締めた大剣の柄の固さ、そして左腕に抱え上げたシャルトの体重。
「おう、お前、生きてるだろうな……?」
言葉を息と共に送り出す喉が驚くほど熱い。そして、言葉の区切り区切りにいちいち呼吸を挟まなければ肺が悲鳴をあげてしまうほど疲労している自分に憔悴が込み上げる。
レジェイドに抱えられるシャルトの体は力無く四肢を投げ出し、ぐったりとしたままぴくりとも動かない。ハッ、とレジェイドは何かを思い出したかのように疲れ切った顔に緊迫の色を浮かべる。右手の大剣をその場に放り投げると、慌てて部屋の隅にある白いベッドへ運び込んでそっと寝かせる。
明らかに顔色が悪い。
シャルトは寒い地域で生まれたせいか、元々人よりも肌の色が白い。だが今のそれは色白と呼称するようなものではなく、血の気の引いた蒼白と呼ぶものだ。
「ばっ……お前、おい!」
そんな姿を見たレジェイドは我を忘れシャルトの胸に耳を当てる。そこからは微かにだが一定のリズムを刻む心臓の鼓動が確かに聞こえてくる。続いて首筋にそっと指を当て脈を計る。脈はあるがかなり弱い。最後に唇に指先を当てる。男にしては色艶のあるその唇は普段の輝きを失い、ただ冷たい呼気を僅かに吐き出している。
「死んじゃいねえな……。いねえが、どの道うかうかしてられねえ」
レジェイドは奥歯を強く噛み、自身に気合を入れ引き締める。少しでも気を抜くと、疲労と目眩でその場に卒倒してしまいかねない。散々痛め付けられたレジェイドの体にはリーシェイの神経毒が回り、更にはここへ辿り着くまでに数え切れないほどの人数を斬り捨てて来た。こうして意識を保とうとする精神力と、それを支える体力が残っている事自体が奇跡に近い。本当はとうに自分は死んでいるから何も感じないのでは、とさえ思えてくる。
最大の難関は抜けた。だがまだ自分達には重大な問題が残っている。それをどうにかしない限りは、お互い明日の陽など拝む事は出来ないのだ。
改めて見回したその部屋は、ベッドが一つあるだけの医務室だった。総括部とは言え病人は出るらしく、つい最近まで常勤していた医師の痕跡として、部屋の隅々が小奇麗に清掃されていた。薬品棚も一目でどこに何があるのか分かるよう整頓されており、ワゴンの医療備品も全て完備済みだ。
レジェイドは無我夢中で部屋を探し始めた。具体的に何を探そうとしているのかは分からなかった。ただ漠然と、自分達が助かる望みを繋げる何かを捜し求めているのである。
もしもリーシェイの誠意が真実ならば、必ずこの部屋のどこかにそれはあるはず。そう願いながらも悠長に構える時間の無いレジェイドは、ひたすら薬品棚を引っ繰り返すような勢いで漁り続けた。
「待ってろよ、今助けてやるからな」
そう背後のベッドに横たわるシャルトに話しかけるレジェイド。しかし返って来る返答は沈黙だけで、普段のような掛け合いには発展しようとしない。
レジェイドは自分の意識が半分ほど途切れている事を自覚した。全身の感覚が膜一枚隔てているかのように鈍く、視界も靄がかかり始めているのである。
今、ここで自分までもが動けなくなってしまったら本当に一巻の終わりだ。自分はおろか、誰一人としてシャルトを助けてくれる者はいないのだ。
だから、何としてでも最後までやり遂げなければいけない。
ただそれだけの意志で、レジェイドは自分を現実に繋ぎ止める。
「……ん?」
その時、薬品棚をしきりにかき回すレジェイドの目にあるものが写った。
すぐ隣にある医者が患者のカルテ等を作成する際に用いるデスク。その上に、自分のデスクには置いていない不自然なものが置かれていた。
はたと動きを止めた瞬間、不意に咳が込み上げてひとしきり咳き込む。それからおそるおそるそれを手に取った。
「これ……か?」
それは血清を入れるために用いる、二つの小さなアンプルだった。だが知識の無いレジェイドには、ラベルの文字は読めたとしてもその効果の程までは理解出来ない。普段馴染みの無い言葉が名前の奇妙な薬品、という認識に落ち着いてしまう。
しかし、そのアンプルには何か確信させるものがあった。それは、痛み止めや消毒液程度しかないこの医務室に、これだけが明らかに異質な空気を放っているからである。
アンプルの横には注射器が二本、用意されていた。数もアンプルと同じである以上、明らかに何か意図して用意されたとしか考えられない。
「とにかく、やるしかねえな。リーシェイを信じて」
レジェイドは注射器に血清を注入し、口に咥えてシャルトの腕を取る。血の気を失った生白いシャルトの腕を擦り血管を探す。生きている人間の腕とは思えないほど冷たい腕にレジェイドは焦りを一層募らせる。薄まった意識は指先の動きを鈍らせ意図しない震えを与える。レジェイドは一度深く息を吸い込み、なけなしの気力を振り絞って焦りと震えを押し殺す。作業は慎重且つ確実を要する。元より可能性も限られている以上、人為的なミスなどもっての外である。
もしもこれが罠であったら、もはや助かりはしないだろう。
「死ぬんじゃねえぞ、おい。お前はこんな所で死んでいい人間じゃねえんだ」
苦い表情で肌を貫く注射器の針を見つめるレジェイド。
最後までやれるだけやった。そう笑いたいが、その時はシャルトまで死なせてしまう事になる。それだけはどうしても避けたい。けれど、結局それは理想論だ。本当に助けるつもりならば、非の打ち所が無いほど完璧に立ち回るべきなのだ。まさに北斗が長年に渡って街を守り続け巨大な繁栄を築き上げたように。
自分はどれだけの事をしてやれたのか。こんな瀬戸際になって不安を覚えるのは、具体的に何をしてやれたのか自信が無いからだ。一つ言えるのは、戦う術を教えてやっただけ。遊び方も酒の飲み方も他には何一つ教えていないのだ。
ゆっくりと針を抜くと同時に、レジェイドは尻から床へ崩れ落ちた。
やれるだけやり遂げた。その達成感に緊張が抜けてしまったのである。けれど、そこに満足感は無かった。まだ、結果は定かではないからである。
「聞こえてんのか? こんなダセエ死に方なんかあったもんじゃないだろう。お前はな、俺よりずっと後に死ぬんだよ。その迫の無い髪が全部真っ白になって、腰が曲がって今よりもチビになってさ。お前自身の居場所で。たとえば、リュネスに膝枕でもされながらだ」
やはりシャルトは返事を返さなかった。ただ弱々しい呼吸が微かに聞こえてくるだけだ。その微かな生命活動がレジェイドを辛うじて絶望させなかった。自ら情けないと思うが、たった一人では自分を滅ぼさんばかりに追い詰めるぐらいしか出来そうにないと自嘲していたからである。
「俺もやらねえとな……」
そして思い出したようにレジェイドはもう一つのアンプルを新しい注射器で吸い上げ、自らに打った。
自分に毒物の耐性がある事は知っていたが、それを踏まえても想像以上に体は持ってくれた。何事も気力さえあれば可能となるという事か。北斗にもご多分に漏れず超人的な戦士の逸話が幾つも語られているが、決してそれらは全てが与太話などではないのだろうとレジェイドは思った。案外、自分も後世何かしら語られるのかもしれない。
気持ちを落ち着け、乱れた呼吸を整えようと精神を集中させる。しかし珍しく幾つもの杞憂に苛まれ、集中力が続かなかった。
何かが足りない。
それに気づくと、レジェイドは這うようにして放り投げた大剣を手元へ抱き寄せる。
剣を手にしていると弱気になろうとする気持ちが幾分か落ち着いた。妙に剣の冷たく固い感触が自分を落ち着けてくれるのである。
こんな事になるなら、たとえお遊びでもシャルトにちょっとぐらい剣術を教えてやっても良かったか。
そう考え、しかし悲観的な考えであると否定し頭の中から放り捨てた。
自分がシャルトに剣術を教えなかったのはどうしてか。
確かにシャルトには、道具を自分の体の一部のように扱う才能は一欠けらも持ち合わせてはいなかった。けれど、才能なんてものは所詮きっかけの一つにしか過ぎない。才能があるだけの人間など飽きるほど見て来たが、結局最後に輝くのは絶えず磨き続けて来た者だけだ。だから、才能を理由にシャルトが剣術を習いたがるのを反故にし続けて来たのは大きな間違いだ。
理由は他にある。
そう、自分は、シャルトの口から初めて剣術を習いたいと聞かされた時、確かにはっきりと嫌悪感を感じたのだ。
まるで、幼い頃の自分を重ね見たかのように。
ふとレジェイドは、父親と先代が似通った人種である事に気がついた。戦うことに己の生涯を賭け続けた二人。どちらも歩んで来た道も宗旨も違えど、その刃のような志しは全く同じもの。そして、自分もまた同じ種類の人間だ。
それを否定しようと、二人がまるで出来なかった料理を嗜んでみたが、結局は裏返しに肯定しているだけでしかなく、剣から離れる事の出来ない自分をより深く感じてしまった。
剣だけに生きる人生を送りたいとは思わなかった。唯一二人に共通して言えるのが、どちらも晩年は酷く孤独だったという事だからである。
しかし、シャルトに剣術を教えなかったのはシャルトにそうなって欲しくなかったからではなかった。もしも教えてしまうと、その構図がまるでかつての自分と父親のようになってしまうと思ったからである。
自分は決して積極的に剣術を学ぼうとはしなかった。けれど、互いのコミュニケーションの媒介に剣術を用いるのは厭味なほど懐郷的で、あんなに嫌悪していた父親に自分を近づけているような気がしてならなかったのである。
今でも自分は父親を尊敬はしていない。むしろ嫌悪している。しかし、父親の孤独感を考えられるようになって、どこか胸の中には別な感情が生まれて来たような気がする。
口にするのも憚られる、同情だ。
「なあ、俺がお前の父親だったらどうよ?」
そう問うレジェイド。
当然返事は無く、自分は何を言っているのか、と自嘲の念だけが込み上げてくる。レジェイドは口元に微苦笑を浮かべ、部屋の壁に背をもたれた。
結局、自分がしてやれたのは単なるエゴにしか過ぎない。
自分のエゴでシャルトは北斗に来る事になって、自分のエゴの下で今日まで生きてきた。果たして自分が一方的に引いたレールをずっと歩んできて、シャルトは本当に幸せだったのだろうか? けれど、その不安はすぐさま先程の言葉によって払拭された。到底受け入れられるものではないけれど、その気持ちだけで自分は十分満足だ。
「お互いボロボロだな。もうこれ以上は戦えねえが、必ず帰ろう」
そうだ、自分達には帰るべき場所がある。そこは一つに定められた場所ではないのだけれど、見渡せば必ず見知った顔がある。それが自分達の居場所。最も安らぐ空間だ。
必ず帰ろう。それも二人で、無事にだ。
今のシャルトが一人で立ち上がる事は難しいだろう。となれば、やはり自分がなんとかしなくてはならない。あとどれだけ敵が残っているのかは分からない。それどころか、今の戦況さえもだ。いや、情報でしか知りえない事を幾ら考えた所で何も得られるものは無い。それよりも自分の体力の回復に努める方が遥かに効率的だ。
もし、北斗派が巻き返しを図っているのなら、いずれここに辿り着くだろう。それに越した事は無いのだが、より生存率を高めるならば最悪の事態も想定しなくてはいけない。やはり無難なのは自力脱出だ。それも出来る限り早急にだ。自分達の脱獄などとうに知れ渡っている。いつここを探し当てられてもおかしくはない。もはや先程のような窮地を力ずくで切り抜ける余力も残ってはおらず、集団で襲い掛かられてしまえばまず間違いなく終わりだ。本当は今すぐにでも脱出を図るべきなのだろうが、シャルトは元より自分にも体力は残っていない。余力も無しに飛び出しても、安全な所へ辿り着く前に力尽きてしまう。それでは意味が無い。
とにかく、今は体力を少しでも回復させる事に専念しなければ。後の事はそれからだ。
レジェイドは剥き出しの大剣をそっと抱き、額を押し付けて目を閉じる。冷たい剣の感覚が心地良く、火照った体を静かに冷ましてくれる。同時に鎮まる体から疲労感が抜けて行く心地よさを味わう。
敵陣の真っ只中でこれほど落ち着けるとは。
やはり自分はあの男の息子で、弟子だったのかもしれない。
どれだけそうしていただろうか。
「ッ!」
瞼を閉じ意識を夢との境界線で往生させていたのだが、不意に現れた人の気配にレジェイドは無意識の内に反応した。一呼吸の内に弾けるような迅速さで立ち上がると、大剣を両手に構えて周囲を見渡す。
室内には自分とシャルトの他に人の姿は無かった。けれど、目で見るよりもはっきりとその気配は感じられる。部屋中を覆い尽くしそうなほど巨大な存在感と、吐き気がする程の過ぎた清浄さ。引いたはずの汗がまた一気に吹き出してくる。気を張り詰めなければ、あっと言う間に潰されてしまいそうだった。自分がこれほど余裕を失うなんて。そんな自尊心すらも気配る猶予は無い。
突然、眩い光が辺りを包み込んだ。
思わず表情をしかめ、光を直視せぬよう目を庇う。けれどそのあまりに圧倒的な光は、たとえ瞼を閉じていたとしても暴力的なまでに注ぎ込んでくる激しさがあった。
最悪の予感が脳裏を過ぎる。この北斗で最も前に立ってはいけない人物、その一人の心象が恐ろしいほど鮮明に脳裏に描かれる。
何故。
どうして。
そんな質問は無意味だった。彼女らは自らを神の代行者と評し、奇跡的な業を示し続ける以上、幾らめくろうとも揺らぎの無い現実以外のものは見つからないのだ。彼女らは絶対であり、ただそれだけで全てを証明出来るのだ。
まるで己の想像の世界からそのまま抜け出て来たかのように、光の中から一人の修道女が現れる。北斗にとってのジョーカーであるその姿は、悔しいほどに神々しい。
彼女の目は光を失っているかのように閉じられていた。服装に関しては個性の無い彼女らの中で唯一別な特徴を持つ人間が一人いる。それで、彼女が『遠見』である事が分かった。
お互い、よくよくこいつらとは因縁が続くものだ。
彼女のぞっとするほど温かい笑みに、レジェイドが最初に思い浮かべた言葉がそれだった。
TO BE CONTINUED...