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 たとえ一瞬とは言っても、敵を間近にし怯んでしまった男は、後手に回らざるを得なかった。
 ゾラスは自分の胸を打った男の腕をがっちりと握り締めた。男はよほど動揺していたのだろうか、ゾラスに腕を掴まれるまで自分が唖然としたまま硬直していた事に気がついていない様子だった。
「は、離せっ!」
 彫像のような男の顔が焦りに変わる。声はこれまでのイメージを完全に払拭してしまうほど、情けなく震え裏返っている。むやみやたらに掴まれた腕を振り回して何とか振り解こうとするものの、ゾラスの腕はぴたりと張り付いてしまったかのように男の腕を掴んだまま離さない。
 男の顔が少しずつ苦痛に歪み始める。腕を掴むゾラスの手の力が次第に強さを増し、握り潰さんばかりにぎりぎりと締め付けてきたからだ。
「ちっ」
 その痛みに元の冷静な思考を取り戻してきたのか、男は再び表情を彫像のように正すと、ゾラスの腕を振り解こうとするのはやめて逆に自らゾラスの方に向かっていった。引いて駄目なら押してみる。そんな単純な理屈を大胆にやってみせたのだ。その判断自体は素早く冷静で素晴らしいものと言える。さすがに戦闘の経験値は俺よりも遥かに多く積んでいるようで、動揺した感情のコントロールも実にあっさりとこなしてしまっている。
 ゾラスの引く力をうまく利用し、男はゾラスの顔面へ掴まれた腕で肘打ちを放った。鈍い硬質の音が響き渡る。頬骨が折れたのかもしれない。
 しかし、ゾラスはそれでもビクともしなかった。
 頬は見る間に腫れ始めていく。ダメージが全くないはずはない。どうしてゾラスは表情一つ変える事無く平然と構えていられるのか。まるで打たれた事にすら気がついていないようにも思える。
 ふと俺はある事を思い出し、考えた。
 ゾラスは末期の癌を患っており、その痛みを和らげるためにモルヒネを注射していた。
 もしかすると、モルヒネを打ち過ぎてとっくに痛みなんか感じないんじゃないだろうか?
 そんな突飛な理屈を立てなくとも、単純に戦闘時の興奮で僅かな痛みを感じなくなっているだけかもしれない。いや、もっと明解な理由がある。単純な、男に対する恨みの念だ。感情の奔流は、人の視界を酷く狭め冷静な思考力も奪い去る。けれどそれは逆に、一つの事に対して文字通り全身全霊を注ぎ込む最高の精神状態とも取れるのだ。
 目的を果たすためには、細かな痛みなど邪魔なだけだ。それに、痛みとは感じないからといってすぐに体へ害を成すものではない。ただ、怪我に気がつけなくなるだけなのだ。俺もまた同じ身の上だから、その感覚は良く分かる。
 ゾラスの目的は、無傷で勝つ事ではない。ただ、この男を何がなんでも殺す。それだけの事だ。
 自分の手で命を断つ瞬間の感覚を感じ取る事が出来るのならば、自分の命はどうなろうとも構いやしない。そうゾラスが思っているのは、言葉で伝えてくれなくとも状況を見れば一目瞭然だ。痛みを感じる暇を惜しんでいるのではなく、痛みそのものを無視した戦い方は、ゾラスの意思の強さ、そして恨みの深さを何よりも雄弁に物語っている。
 ゾラスは男の肘を受けた直後、捕まえていた腕を強く自分の方へ引き寄せた。それと同時に自らの膝を放って男の体を上へ突き上げた。男は咄嗟に腹筋を引き締めてダメージを最小限に食い止める。ゾラスは鳩尾を狙ったが、男は紙一重でヒットポイントをずらした。男の足が一瞬地面から離れはしたが、ダメージはほとんど無いと言ってもいい。完璧に衝撃を分散させている。こればかりは経験が伴わなければ可能に出来ない技術だ。多分、俺なんかじゃ絶対に無理だ。
 強い。
 俺はこの五人の事が等しく嫌いだった。ゾラスの話の中だけでしか実物象を知らないのだけれど、実際の戦い方は冷徹極まりなく、しかも北斗の理念から大きくかけ離れているように見えて仕方が無い。多少、ゾラスへの贔屓目もあるかもしれないが、それを除いたって絶対に俺がこいつら五人の側へ立つことは有り得ない。俺は人間を人間と思わないやつらがこの世で一番嫌いなのだ。そういうやつらこそ、俺は同じ人間とは思わない。
 心底、俺は手を出したかった。
 なんと言っても、こういう人間を打ちのめした時は最高に気分がいい。倒錯した感情であるのは分かっているけど、否定出来ないのもまた事実である。とにかく、不愉快な存在は目にもしたくないのだ。そいつらがせせら笑いながら弱者をいたぶるように、逆にこちらがいたぶり存在を画一的に否定してやるのは気持ちがいいのだ。多分、俺自身の感情の反動なんだと思う。もしかすると、意識のレベルでは俺もあまり差は無いのかもしれない。
 今の状況なら、俺は確実に急所を捉えられていた。それをあっさりかわしてしまう辺り、反応速度と経験値の差、手っ取り早く言えば俺と男との実力差が浮き彫りになっている。
 男は素早く反撃に打って出た。体勢の整わない状態から放たれた右の変形握拳。それはゾラスの顔面を狙っている。
 しかしゾラスは予め予測していたかのように首をそらして攻撃をかわす。冷静な回避動作だ。そう俺は思ったのだが、男はそれすらも予測していた。男の放った変形握拳がゾラスを通過する寸前に形を変える。それは親指だけを極端にはみ出させた、親指を鑿に見立てたかのような型だ。
 そして、目の前で起こった光景に俺は思わず目を背けそうになる。
 男の放った親指がゾラスの左目を抉った。深く差し込まれたそれは、眼底の奥深くまで達している。
 だが、ゾラスは少しも怯む事は無かった。残った右目でしっかり相手を捕らえると、これまでにも増して凄まじい勢いの変形握拳を放った。
 繰り出された拳が穿ったのは、男の喉。
 ゾラスの、重ね合わされた人差し指と中指が深く男の喉を突く。思わず息苦しさを錯覚してしまいそうな壮絶な一撃だ。
 通常、喉を貫かれれば呼吸が困難になるため致命傷と呼ぶに相応しいだけのダメージとなる。呼吸が困難になればスタミナを奪い、余力を失われれば行動を著しく制限されてしまうからだ。しかも喉には太い血管があるため、気管に詰まれば窒息すらしてしまう。雌雄を決するには十分過ぎる要因だ。実力が拮抗していればするほど、その差は大きく影響力を及ぼす。
 しかし、その拳は僅かに浅かったのか、致命傷を与えるまでにはいかなかった。
 ゾラスの指拳が穿ったのはほんの僅かな首の肉だけだった。この程度では呼吸困難に至らしめる事は出来ない。ダメージは無視できるほど軽くはないかもしれないけれど、それほどの影響ははっきり言って見込めないだろう。
 男は僅かに行動に遅延を見せるものの、すかさず反撃に移った。放った握拳が狙う先は、ゾラスの放った腕の肘間接部。完全に伸びきったそこは無防備極まりなく、ちょっと押せば容易に折れてしまうようなそんな状態だった。
 男の放たれた拳は容赦なくゾラスの伸び切って無防備な肘を外側に向けて打ち抜いた。ボキッ、と空気が弾けたような鈍い音が響く。次の瞬間、ゾラスの肘は本来なら有り得ない方向へ折れ曲がっていた。完全に間接部が破壊された。思わず俺は生理的な痛みを感じてしまい表情を歪めてしまう。痛みは随分と自分から離れた感覚だけれど、俺自身は痛みを情報として覚えているのだ。
 なんて壮絶な戦いなんだろうか。
 思わず息を飲み呼吸する事すら忘れ、ただじっと目の前で繰り広げられる死闘を食い入るように見ていた。
 これまで、実戦経験は全くのゼロではなく、実際に命のやり取りをした事も多々ある。けれど、ここまで凄惨な戦いを目にした事は無かった。この二人は本当の意味での殺し合いをしている。これまで制圧する事が目的の戦いしかした事の無い俺にはあまりに衝撃が大き過ぎた。俺にとって相手を殺す事は結果論であって、降伏させる事が出来なかった、もしくは、止むを得なく、という場合が全部だ。だからこそ、初めから殺人目的の著しく人体を破壊するような技の応酬は、俺の戦いとは方向性も性質も全く異なる。
 俺は自分の仕事に対し、一つ間違えれば自分が命を落としてしまう、シビアで危険な命のやり取りだと思っていた。けれど、こうして本当の殺し合いを展開している二人の姿を見ると、比較した自分の戦いがどれだけ甘いものなのか思い知らされた。計算し尽された戦術に従えば、まず確実に敵を制圧させる事が出来る。常に頭の中には叩き込まれたマニュアルがあって、俺はそれに対して忠実に戦闘を展開している。でも二人は、ただ湧き上がる感情のままに攻撃を繰り出している。どうすればいち早く相手の生命活動を止める事が出来るのか。息も詰まるような殺意をダイレクトにぶつけあっているのだ。俺とはあまりに戦っている理由や目的が違い過ぎる。正直、寒気と震えが止まらない。
 ゾラスは腕が折られたにも関わらず、何事も無く次の攻撃へと移った。
 反対側の腕を手のひらが肩につくほど折り曲げ、コンパクトに肘を放つ。未だ放った攻撃を戻していない男は、その切れるような鋭い肘をまともに鼻面へ受けた。そこは人間の急所の一つで、肘打ちで攻撃するのは定石とされている。これだけでも殺す事が可能なのだ。
 男は滝のように鼻血を流し始めた。それでも急所を完全に捉える事は出来なかったらしく、ゾラスの一撃は僅かによろめかせただけに過ぎなかった。しかし、表情こそ冷静なままだが、視線が一瞬宙を泳いだ。
 多分、俺だったら今の攻撃は絶対に躊躇っている。出来れば殺さずに押さえたい。だから、何も考えずに死んでしまうかもしれない箇所を攻撃する事は出来ない。けれどゾラスは、初めから殺すつもりでやっているのだから……。
 ゾラスは更に畳み掛けるように肘を連続して放った。
 ぐしゃっ、ぐしゃっ、と聞くに堪えない音が響き渡り、跳ね返った血滴がゾラスの顔に玉模様を作る。それを受けるゾラスの顔は無表情そのもので、何か単純作業をするかのように攻撃を繰り返した。
 男の鼻は折れ曲がり、意識がどこかへ飛んで行ってしまったかのように視線がうつろになっている。
 これ以上は本当に死ぬ。
 再度、俺の中にゾラスを止めるべきか否か、選択肢が提示された。
 止めたい。
 本音は今も変わらずそちらなのだけれど、止めた所で一体どうなるのか、それを考えると気持ちは留まった。事情はどうあれ、事実確認を取ることが出来ない以上はゾラスがただ理不尽な暴力を奮っただけにしか見てくれないだろう。そしてゾラスは積年の恨みを晴らす事が出来ないまま、しかも残された時間は少ない。
 止めない事が、ゾラスにとって良い結果をもたらすのだろうか?
 俺はどうしても分からなかった。
 こんな時、レジェイドはどうするんだろう?
 仮定なんかしたって仕方が無いのだけど。俺は脳裏に浮かぶレジェイドに答えを求めてしまった。
「終わりじゃ……!」
 そして。
 ゾラスは激しく息を切らせたまま、もはや立っているだけでやっとの男の首を鷲掴みにした。男は半目開きのままぐったりと首を後ろへ傾けている。もうほとんど意識なんて残っていないだろう。あれだけの攻撃を受けて、無意識でも立っていられる事が驚異的なのだから。
 硬く歯を噛み、掴む腕に力を込める。このまま喉を握り潰そうというのだ。
 まだ間に合う。
 止めるなら今だ。
 取り返しがつかなくなる前に。
 そんな言葉が浮かんでは消える。でも俺は足を踏み出せず、ただただ目の前の光景から目もそらせずに突っ立っていた。
 きっとこれでいいんだ。これで。
 どうせ俺には、ゾラスを止めてもゾラスの気持ちを昇華させてやる事なんか出来やしない。恨みの感情は最も整理し辛いのだ。人の気持ちにすら鈍感な俺には、絶対にどうかしてやる事なんて出来やしない。それだったら、こうして邪魔をせずに見守っているべきなんだ。そう、邪魔をせずに。
 ぎりぎりと男の首を締め付けるゾラスの手。指は首にめり込みそうなほど強く突き立てられ、男の命を少しでも早く奪おうとしている。
 これが最善の選択なんだ。
 そう自分に言い聞かせつつも、俺は遂に目を閉じてしまいそうになった。
 ―――と。
「ッ!?」
 突然、これまで力なくぐったりとしていた男が何の前触れも無く弾けるように頭を起こした。
 そのまま一挙動の内に左手でゾラスの襟元を掴むと、右手を手刀の型に構え振りかぶる。
 表情は笑っている。自分の攻撃が確実に致命傷を与える事を確信した表情だ。
 まずい!
 その時、俺の頭の中は真っ白になっていた。気がつくとゾラスの所へ向かって飛び出していた。あれほど強く地面に繋がれていた足が嘘のようだった。
 時間がゆっくりと流れる。
 俺の足は重く、幾ら急ごうとしてもちっとも前に進めない。
 早く。
 早く。
 早く!
 けれど、実際に踏み出せたのはたったの三歩だけだった。
 常軌を逸した笑顔を浮べる男の首がくびれるのと、男の手刀がゾラスの胸を穿ったのは、ほぼ同時だった。



TO BE CONTINUED...