BACK

 突如現れ、エスタシアをここまで変貌させたこの青年。
 一体何者なのだろうか? 反応からして、明らかに単なる他人とは思えない。
 しかし、それに対するリュネスの思考を占める割合は非常に微々たる物だった。今、リュネスの思考の大半は、事の成り行きを正視することに注がれていたからである。
 二人の怪物が殺気も露に睨み合っている。彼らの殺気が部屋中に充満し、互いが少しでも広く広がろうとしのぎを削る。けれど、これほど激しく渦巻いていながらも水のように決して混ざり合ったりはしなかった。既に殺気同士は互いの尾に噛み付きながら互いを飲み込もうと戦っている。
 リュネスはこれほどの戦いを目の当たりにするのは初めてだった。まだ互いの間合いに入ってすらいないというのに、喉笛に食らい付いた獣のような激しさが傍観者である自分の肌に突き刺さって来る。流れてもいない血がはっきりと視界の端々を赤く彩っていき、これ以上に無く冷たかったはずの空気が凍り付いていく。全ては二人の殺気に当てられた自分の錯覚でしかないのだが、理性では分かっていても体はそれに従ってはくれなかった。恐怖に捕らわれた体は一切の行動を自ずから放棄しありもしない幻覚を見せる。
「五年ぶりだというのに、君は相変わらず幻想に取り憑かれたままのようだ」
「あなたこそ、その白痴ぶりは治っていないようですね」
 部屋の空気がぎんっと音を立ててより固く張り詰める。
 二人はゆっくりと足を前に踏み出し互いの距離を縮め始めた。しかし、逸る気持ちを抑え切れないのか、その足取りは徐々に早まっていく。
 遂に始まった。リュネスは息を飲んだ。
 朝日がエスタシアの背中から照らして顔に深く影を落とす。同時に、青年の顔にも降り注ぎ刃のような眼差しを明るみにした。
「君はいい加減理解した方がいい。そんな歪んだ思想では、何一つ救えはしない」
「まだ大局が見えませんか。兄さんの白痴は半死程度では治らなかったようだ」
 固く張り詰めた空気が、みしり、みしり、と音を立てて軋み崩壊を始める。二人の放つ濃密な殺気に、遂に耐え切れなくなったためだ。
「歪みを正せないなら、後は一つしか方法は無い」
「役に立たないばかりか、障害となる白痴に存在価値は無い」
「殺す」
「殺す」
 そして、足早に進んでいた両者は突然、床を蹴り残った距離を一足で詰めた。
 青年は両腕を大きく横へ広げる。対するエスタシアは二振りの剣を低く下段に構える。
 青年の両腕に青い粒子が集まり、それぞれの手に形を成した。それはあからさまにエスタシアを意識した、二振りの氷の剣だった。
 四つの剣身が一点で交じり合う。鋭利な刃のぶつかり合いは驚くほど美しい音色を発した。だが、今のこの場で相応しいものと言えば壁の穴から差し込む朝日ぐらいなものだった。
 鍔迫り合いは行わず、互いに自ら後ろへ飛び退く。だが間髪入れずに再度突っ込んだ。
 エスタシアの双剣は淡く輝きを放ち始めた。その光には微かに和竜の輪郭が浮かび上がっている。
 続いて、青年の両腕に青い粒子が集まり始める。それはあまりに高速の体現化だった。一瞬で青年の両腕が人間離れした豪腕へと変貌する。
 エスタシアの双剣は上下から不規則な軌道を描いて襲い掛かった。剣の描く軌跡には竜の顎がくっきりと浮かび上がっている。まさにエスタシアの剣は竜の口そのものを現していた。
 だが、青年は微塵も恐れる事無く、あえて竜の口の中へ右腕を突き込んだ。鈍い音と共に、エスタシアの双剣が青年の拳で交差し止まる。常識で考えれば、この一撃で大概の人間は腕の先を失ってしまう。しかし、青年の腕は術式により常人のそれとは全く異なったものへ変貌を遂げている。まるで鋼のように、真っ向からエスタシアの剣を受け止めてしまった。
 エスタシアが一瞬バランスを崩す。断ち切る前提で放った剣を受け止められたためである。いつになく感情的になっているため、適度に加減する事が出来なかったのだ。
 すぐさま青年が左腕を放った。巨大な拳はエスタシアの顔面に狙いを定めて走る。しかし、エスタシアは瞬き一つせず、すっと僅かに頭を横にずらした最小限の動作で難なくかわしてしまった。今度は逆に青年の重心が浮き上がった。
 そこでエスタシアは放った剣を戻し、下段に構えたまま斜め十字の軌道を描いて一気に切り上げる。すかさず青年は胸の前に障壁を展開して斬撃を受け止めた。
 青年の背中に青い粒子が集まり始める。すぐさま高速の体現化が行われた。現れたのは、まるで甲殻類の足のような六本の足。勢いよく飛び出すと一斉にエスタシアに向かって襲い掛かった。しかし、エスタシアに触れるよりも一瞬早く双剣が閃き、六本の足はばらばらに砕け散った。
 なんという凄まじい戦いなのだろうか。
 リュネスは息を飲んだ。
 戦いそのものはこれといった高度な技術は無かった。何よりも驚嘆すべきなのは、その剥き出しの殺意のぶつかりあいだ。これほど真剣に相手を殺そうとする人間同士の戦いなど目にした事が無い。
「状況を考えなさい。もはや北斗を乗っ取ろうなどと考えているのは君しか残っていないんだ。たった一人で一体何が出来るという?」
「もう僕にはこれしか残っていない。理想を追い求めた果てに、実は『浄禍』の走狗だったという結末など、僕は決して認めない」
「認める事も勇気です」
「僕の勇気とは、貫き通す事だ」
 エスタシアはくるりと双剣を右の剣はそのまま順手に、左の剣は逆手に構えた。
 青年は、それがエスタシアが本来の実力を発揮するために取る構えである事を知っていた。長い間、本来の実力を隠し通してきたエスタシアだったが、スファイルがその構えに対峙するのは二回目の事だった。一度目は、五年前の決定的な仲違いの後に移行した、生まれて初めて行った兄弟同士での殺し合いの際である。
「元より君を投降させるつもりはない。手にかけるならば己の罪を悔いた後で、思いましたが、君はあまりに救いようがない」
「既に勝った気でいるとはお笑いですね。微温湯に浸かったあなたでは僕にはかなわない。今度は確実に息の根を止めてあげましょう。五年前とは違ってね」
 青年は両腕に体現化した術式を破棄し、新たな体現化を始める。
 青い粒子が青年の手のひらに集まり思い描いたイメージを形作る。描いたイメージは、巨大な氷の剣。
「ハアアアアッ!」
「リャアッ!」
 二人は剣を構え真っ向からぶつかり合う。激しい衝突音はまるで骨同士がぶつかりあったかのような鈍く重苦しい音だ。
 ぎりぎりと軋むような音を立てながら鍔迫り合いを繰り広げる二人。不意に青年は右足をエスタシアの腹に掛けると、そのまま激しく後方へ押し飛ばした。体をくの字に曲げながら吹き飛ばされるエスタシア。同時に青年は前足を強く踏み込んで自らを強く打ち出しエスタシアの追撃にかかる。しかし、エスタシアはくるりと空中で身軽に体位を翻して整えると、丁度追撃にかかった青年を迎え撃つ形で双剣を構える。順手に構えた右腕を振り上げ、その下に逆手に構えた左の剣を腰の下に低く置く。そして一つの線を上下からなぞるように繰り出した。
 ぴっ、という鋭い音と共に、青年の体の中心線を沿って亀裂が走った。同時に青年の体は打ち出した初速を保ったまま空中で動作が止まる。直後、エスタシアの両足が地面に辿り着き着地を果たす。するとすぐさま前に踏み込んでいった。その先には体を両断され全ての動作を停止した青年の体があった。エスタシアの双剣が雷光の如く凄まじい速さで閃いた。たった一度の瞬きの間に、青年の体は幾つもの細切れに姿を変えてしまった。
「『咆えろ、屠竜』!」
 最後にエスタシアは双剣を振りかぶると、十字を描くように放った。エスタシアの脳裏に描かれたイメージが体現化されて宙を浮かぶ細切れに襲い掛かる。描かれたイメージは一匹の巨大な和竜。和竜は地鳴りのような砲声を発し、一瞬で細切れとなった青年を飲み込んだ。
 しかし。
「『凍れ、冷たく』」
 放たれた和竜の影から人影が飛び出し、エスタシアに向けて術式を放った。エスタシアは即座に放たれた術式に反応したものの、確かに放たれた方を向いているにも関わらず術式そのものの姿が見当たらなかった。しかし、すぐにエスタシアは術式の正体に気づいたのか、触れる寸前の所で身を翻し回避した。回避動作が遅れたため、頬から微かに血が流れる。チッ、と舌打ちをし甲で拭った。
 放たれた術式は長い氷の刃だった。速度も特別速い訳ではなく回避自体はそれほど困難な事ではなかった。しかし、その術式は常識を遥かに上回るほど薄い形に体現化されていたため、あまりの薄さに目が俄かには捉える事が出来なかったのである。エスタシアが一瞬混乱したのもそのためだった。
 飛び出したのは、今しがたエスタシアに細切れにされたはずの青年だった。エスタシアは本人ではなく、青年が作り出した青年のダミーを斬らされていたのである。
 再び両者が剣を振り上げて互いに襲い掛かる。鈍い音を立ててぶつかり合う剣は火花を散らし、殺気だった眼差しが真っ向からぶつかり合う。放たれる殺気は数度の手合わせにより濃密さを増し、軋むような鍔迫り合いに拍車をかける。
 二人の思考は非常にクリアだった。これ以上無く、ただ純粋に相手を殺す事だけを考えている。殺意の動機が鮮明であればあるほど、死に至らしめるまでのシナリオをより的確に複雑化出来た。おおよそ人が持ち得る可能な限りの残虐性の体現化である。
 たとえそれが特定の人物に対するものとはいえ、リュネスは人間の持つ残虐性をまざまざと見せ付けられた事に恐怖を覚えた。かつて自分が暴走を引き起こしてしまった時、理性を失った人間が見せる心の闇を垣間見たと思っていた。しかしその闇はまだまだほんの入り口にしか過ぎなかったのだ。人間の持つ本当の闇とは、即ちこういう事なのである。
「早く、僕の前から消えろ!」
「ならばお前が死ね!」
 再び二人の殺気だった砲声が響き渡る。
 リュネスは耳を塞ぎたかった。自分が踏み込んだ他人の心の闇は、あまりに深過ぎたのである。



TO BE CONTINUED...