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 流派『凍姫』頭目継承技、凍姫の微笑。
 自らの分身を作り出し、己の動作全てを追走させる事で攻撃を支援する術式である。
 分身は術者の精神力が続く限り無限に再生させる事が可能であり、加えて、単に分身が術者の動作を追走するだけという極単純な構造が負担を最小限に押さえ、術式を行使したために意識的な隙が生じる事もなかった。
 一見すると見事に完成された付け入れられる隙のなさそうに思える術式だったが、どんな技にも弱点は存在するというセオリー通り、やはりただ一点、弱点があった。弱点と呼ぶよりもむしろ攻略法に近いそれを、術式の性質を誰よりも良く知るファルティアは無論把握しており、リュネスに技をコピーされてしまった今、頭の奥底から引っ張り出して戦況と照らし合わせていた。
 たった一つの攻略法を知っているからこそ、術式は行使する場面と相手を選び、尚且つ出来る限り漬け込める隙間を最小限に抑えるため自らを徹底的に磨き抜いた。たとえ相手に弱点を見抜かれても、容易には付け込ませないためである。
 凍姫の微笑の攻略法、それは実に単純なものだった。
 分身は術者の動作を追走する以外の自由を持たない傀儡にしか過ぎない。そしてその傀儡は術者よりも前に立つ事は出来ず、常に行動の順番は決まっている。そのため、術者が攻撃しなければ分身も一切攻撃する事が出来ないのだ。
 通常、精霊術法の使い手との戦いにおいて、相手の攻撃を読む事は非常に困難であるとされる。それは、精霊術法とは術者のイメージをそのまま具現する技術であるからである。思考のパターンを読む技術はあっても、心象風景までをも読み取るには相手の心を視覚的に覗き見る他ないのだ。
 しかし凍姫の微笑は術式を単純化するあまり、相手に手の内を読まれにくいという精霊術法の利点が失われてしまっている。そのため、わざわざ術式の心象を探ろうとする必要性が無い。つまりは、この術式自体を特別意識する意味はないのだ。単に相手へ攻撃の機会を与えなければ良いのである。
 凍姫の微笑とは、術者の攻撃能力が伴ってこそ初めて生きる技である。ファルティアにとって、自分よりも遥かに戦闘能力や実戦経験の劣るリュネスと自分が得意とする近接戦を行う事はこれ以上に無い有利なシチュエーションである。
 放ったばかりの第二波を、展開した多面体の障壁で弾き返しつつ突進するリュネス。その両腕は、禍々しい外見だけをそのままに濃紺へ変色している。まるで宗教絵本に描かれる悪魔を思わせる異形の腕。リュネスは自らの両腕に出来る限りの魔力とイメージを与えて構築を繰り返した。少しでもより強い姿への渇望が、リュネスの前進と両腕の構築とを加速させていった。
 対するファルティアは、青白い輝きを放つ右腕の構築を終えて、まるで弓のように引き絞る構えを取る。その狙いの先は無論、突進してくるリュネスである。
 少し目を離した内になんて勇ましい顔をするようになったのだろうか。
 ふとファルティアはそんな事を思い浮かべた。
 これまでのリュネスは常に人の顔色を窺いながら自分は一歩引き、決して自分の意見を口にしないおとなしい人間だった。良く言えば物静かな人間、悪く言えば主張の出来ない人間。そんなリュネスを背中でかばってきたのは常に自分の役目だった。にもかかわらず、どうしてこんな構図になってしまったのか。
 リュネスへの罪悪感と、想い人への使命感が葛藤を始める。しかし、すぐにファルティアは決着をつけた。既に残酷な決意を伴う結論は導き出しているのだ。今更、繰言など何の意味も無い。
 リュネスは両腕に甲殻のような術式を体現化する事で自分との体格差を補おうとしている。だがファルティアには、それを踏まえても自分の術式の方が遥かに威力は上回る自信があった。
 どれだけ人の技を真似ようとも、この絶対的な力量は埋められない。ましてや、重大な弱点を知る自分にこの術式で挑もうとするのは愚の骨頂だ。
 脳裏を一瞬過ぎったこの戦いの結末を振り払い、ファルティアは狙いをリュネスの体に定める。
 リーチは圧倒的に自分が上。先手を取るならば今しか無い。
 ぎゅっと握り込んだ右手に、ありったけの力を集約させる。描くイメージは実に単純なものだった。強大なエネルギーを集約させたまま放つ、というただそれだけのものである。
 さようなら。
 あえてファルティアはその言葉を用いなかった。はっきりと言葉を組み立てずに、ただ色のついた感情でそれを表す。たった一つの謝罪だ。
「『唄え! 黄泉より出でし氷の女神よ!』」
 リュネスの歩幅で丁度十歩の距離に差し掛かった瞬間、ファルティアは引き絞った右腕を打ち出した。
 ごう、と大気を切り裂き放たれた右腕から、真っ白な閃光が流星のように撃ち出される。あまりに純粋な破壊の力を加圧した、触れるものをただ駆逐するだけの光弾だ。
 はっ、とリュネスが目を見開く。障壁で受け切れるようなものではないと判断したのか、すぐさま踵を回し回避の動作を取ろうとする。だがそれは、あまりに遅過ぎる反応だった。
 加速する閃光が一瞬で障壁を貫通する。なんの抵抗も無く貫くその光景はまるで障壁をすり抜けているようにさえ思えた。
 そして、世界が一瞬沈黙したように、灰色の静寂が通り過ぎる。
 くの字に折れ曲がりながら宙を舞ったのは、五人のリュネスの内、最も前に立つ本体だった。
 水の中にいるかのように目の前の時間がゆっくりと過ぎて行く。そこに広がる非現実的な光景から目を離さない自分がファルティアは信じられなかった。いや、離そうにも感情が邪魔をして離せないのだ。この光景を作り出した当事者は、紛れも無く自分であるからだ。
 しかし。
「えっ!?」
 次の瞬間、ファルティアは思わず我が目を疑った。吹き飛んだリュネスの本体が、まるでガラスのようにばりんと音を立てて砕け散ったからである。
 これは『雪乱』の変わり身の術式か?
 だが、目の前で起こった信じ難い事実を解析するよりも先に、ファルティアはすかさず次の判断を強いられた。
「なにっ!?」
 本体を失ったはずの四人の分身が、驚く事に次々とまったく同じ動作で襲い掛かってきたからである。それぞれが両腕を一様に禍々しく染めている。打ち抜いた本体が作り出したそれと一片の差異もない術式だ。
 凍姫の微笑が作り出す分身は、本体無くして動く事は出来ない。第一、術者が死んだ後でも体現化を続ける術式などこの世には存在しないのだ。
 いや、そもそもリュネスは死んでいない。ガラスのように砕け散って死ぬ人間などいるはずがないのだ。つまり自分は謀られたのである。
 凍姫の微笑は、術者の後ろに分身を作り出し動作をなぞらせる術式。本体が分身の後ろにいるなど決してあり得ない。自分が打ち抜いたのは確かに先頭だったから、あれは間違いなく本体だ。
 ファルティアの理性が定説を持って必死に言い宥めようとする。けれど、現にこうしてリュネスは生きているのである。理屈云々よりもまずは現実を受け止めなければならない。
 本体はこの四つの中にいる。しかし、一体どれが本当のリュネスなのだろうか?
 リュネスの行使する術式が、既に自分の知る凍姫の微笑の範疇を超越していると思うと、ファルティアは戦慄せずにはいられなかった。
 凍姫の微笑が進化した? いや、リュネスが進化させたのか? たった今、コピーしたばかりのこの技を。
 冷静さを欠いてはいけない事など、幾つもの戦闘を経験しているファルティアには分かりきっていた。しかし、動揺せずにはいられなかった。
 あれほど努力を惜しまなかった事は自分にとって生まれて初めての事だった。にもかかわらず、血の滲むような努力の果てにようやく習得した凍姫の微笑を、リュネスはただ見ただけで自分のものにしてしまい、挙句の果てには技をアレンジさえしてしまった。そんな常識を外れた出来事が、現に目の前で起こっているのだ。
 まるで底無しの沼へ足を取られてしまったような感覚だった。これ以上どんな技を出そうにも、全てリュネスに盗まれてしまうかもしれない恐怖が術式の行使を躊躇わせた。しかし、攻撃しなければ勝利は無い。攻撃すれば盗まれる。そんな堂々巡りが更にファルティアから冷静さを奪っていった。
「『唄え! 黄泉より出でし氷の女神よ!』」
 両腕をファルティアと同じように引き絞り繰り出すリュネス。紡ぐ韻詩もまた、ファルティアと全く同じものだった。
「くそっ!」
 ファルティアは右腕を十分に引き絞らず、速射的にリュネスの両腕に合わせて繰り出す。しかし予想以上の威力に見舞われ、たった一度のインパクトの前にファルティアは大きく後ろへ弾き飛ばされた。ほぼ同等の反動を受けたリュネスもまた同時に後ろへ吹き飛ばされる。そして空中でばりんと砕け散った。今度もまた、攻撃を仕掛けてきたのは分身だったようである。
 パワー負けしている。
 それは体格で勝る自負があったファルティアにとって、俄かには受け入れ難い衝撃的な事実だった。しかし、辛うじて倒れそうな闘志を支えて間髪入れず立ち上がる。右腕に込めた力は半分以上消えてしまっているものの、戦うには十分過ぎるほどだ。
 まだだ。ここで負ける訳にはいかない。
 残りは三つ。そしてその内一つが本体だ。
 再び構えるファルティア。だが、その前方からは三人のリュネスがそれぞれ三方向から障壁を展開したまま向かっていた。
 三者三様、まるで別な動作をしている。既に凍姫の微笑の限界は越えてしまっていた。凍姫の微笑はリュネスによって完全に別の術式となっている。
 どれが本体だ。
 見極めることに全力を注ぐファルティア。
 本体さえ倒せば分身は消える。
 だが、それを分かっていながらも冷静になる事は出来なかった。
 三人が更に術式の構築を繰り返し始める。だが、三人はそれぞれ違った術式を行使していた。右のリュネスは右腕だけを強く逞しく構築を繰り返す。左のリュネスは両腕の術式を破棄し、周囲に展開した多面体の障壁を錐状に展開する。そして真ん中のリュネスは、やはり両腕の術式を破棄し、一振りの刃の広い大剣を体現化する。
 どれが本物のリュネスなのか、見極められなければ自分に勝利は無い。ファルティアの焦りは増すばかりだったが、しかしその一方で冷静さも失ってはいなかった。
 なんのことはない、所詮は本体を分かりにくくするための撹乱なのだ。三人共違う術式を行使するのもかえって好都合だ。術式の型が心理を表すからである。 ファルティアは冷静に三人を観察した。
 三人のリュネスは一見すると全く同じスピードでかかってきているが、微妙に位置取りや歩幅が違っていた。
 一番早いのは真ん中の大剣を持ったリュネスである。しかし、これは明らかに分身だ。使い慣れぬ術式を持って相手に挑むのはあまりに危険だからである。
 次に早いのは左の錐状の障壁を展開するリュネスだった。下手な小細工はせず、真っ向から相手にぶつかっていくつもりだろう。だが、これも分身であると説明出来る。本物ならば必ず、術式を破られた場合の可能性を追求するからだ。
 従って、消去法で本体は右の剛腕を持ったリュネスになる。理由も説明づけられる。一見勇ましく見えて、三人の中で最も後列に位置取っているからだ。
 あれがまぎれもなくリュネス本人だ。
 結論のついたファルティアは、逆に自ら右のリュネスに立ち向かって行った。
 その踏み込みの鋭さに、右のリュネスは思わずぎょっと驚いた表情を浮かべる。それがファルティアの予想を決定的に裏付けた。
 まともな障壁も展開する暇も無いほどの近距離。もはや新たに術式を行使する必要は無かった。
「うらぁっ!」
 飛び込んだ勢いのまま前足で上体をしならせると、背中から目の前のリュネスに目がけて右腕を横薙ぎに振り抜いた。
 十分な力を込められた腕がリュネスの首を捉え、そして一気に振り切るように駆け抜ける。次の瞬間、リュネスの首は胴を離れ宙を舞った。
 今度こそ討ち取った。
 だが、
「あ……?」
 その確信を得るよりも早く、ファルティアはいつの間にか地面に膝をついてしまっていた。
 鋭い痛みの走る脇腹を慌てて押さえる。そこはまるで燃えるように熱かった。
「終わりです、ファルティアさん……」
 はっきりと聞こえるリュネスの声。
 それは今し方、胴体を離れたリュネスの首から発せられたものではなかった。目の前に立つのは、氷の大剣を携えるリュネス。襲いかかった三人の内、真ん中に位置を取っていたリュネスだ。その刃先は僅かに赤い滴りを湛えている。それが自分のものだと理解するまで二呼吸の時間を要した。
 リュネスの本体は、驚く事に最も突出していた真ん中だった。自分を引く事は知っていても、押し出す事は知らないリュネスの性格を察しても、ファルティアの判断は極自然なものだった。しかし、リュネスの選択は偶然か必然かその裏をかく結果に終わった。もしかすると、何も作戦は無かったのかもしれない。ただ、決して負けられないという意気に任せたあまり、性格に似合わぬ行動を取ってしまっただけなのかもしれない。だが、戦場では結果が全てだった。たとえ奇なる巡り合わせだったとしても、勝者と敗者の構図は決して変わる事は無い。
「動かないで下さい。急所は外していますが、無理に動けば血が流れてしまいます」
 その言葉に、ファルティアははっきりと己の敗北を自覚してしまった。それも、最も屈辱的な敗北だ。相手に手加減をされて負けたのである。
「あんたに……情けを受ける覚えは無いわ」
 ぎりっと奥歯を噛み締めファルティアは膝に力を込める。けれど、まるで底の抜けた樽のように、幾ら力を込めても膝はぴくりとも動かなかった。込めた力はどこからか抜けていってしまうのである。
 ここは、絶対に通さない。
 けれどその言葉ははっきりと音に出す事が出来なかった。肺に空気を溜め込もうとする力すら湧いて来ないのである。それは怪我よりもむしろ失意の為だ。
「すみません、もう行かせて貰います」
 リュネスは颯爽とその場を走り建物の中へ消え去っていった。
 それは急いでいると言うよりも、これ以上この場に居たくはないといった気持ちの表れだった。リュネスにとってファルティアは、自分を不幸から救い今の自分を築き上げてくれたこれ以上にない恩人である。その恩人を自らの手にかけた事実だけでもリュネスにはあまりに重過ぎた。ましてや、血に染まるファルティアの姿など、到底まともな精神状態で直視し続ける自信は無いのである。
 あっという間にリュネスの気配が消えてしまう。もはや、どれだけ叫ぼうともこの場に舞い戻らせる事は出来ない。きっと、リュネスはあの人の元へ向かうのだろう。あの、狂的としか言いようのない力を携えて。
 ファルティアは声にならない叫びを上げた。
 何度も何度も、喉が焼け落ちそうになるほど、何度も繰り返した。
 底の知れない、悔しさの咆哮だ。



TO BE CONTINUED...