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「お、おい……」
 どうしたんだよ、シャルト。
 確かにそう言ったつもりだったが。俺は情けない事に口がぱくぱくと僅かに動いただけで、実際に声としては出てこなかった。
「あ……うわ……」
 そんな俺に対し、シャルトはただでさえ生白い顔を更に青褪めさせながら、ゆっくりと後退っていく。奥歯をがたがたと震わせ、滝のような汗を流していく。薄紅色の瞳はじっと俺に注がれ、ありありと恐怖の色を浮かべている。
 シャルトは見た目の凄惨さとは裏腹に、何故か酷く怯えた表情をしていた。連中を屍としたのは、この状況からして紛れもなくシャルト本人だ。まさかこれほどまで強くなっていたとは正直驚いた。しかし、見た限り既に周囲には敵の姿どころか気配も感じられない。にも関わらず、この異様な怯えた様子。その上、俺をあのレジェイドだと認識していないようである。恐怖のあまり錯乱して正常な思考が出来なくなっているのだろうか? もしそうならば、それは戦闘ではよくある事だから何の問題もないのだが……。
「大丈夫だって。な? 落ち着けよ」
 俺は今一度気を取り直すと、そうシャルトを刺激せぬように努めて優しい声で話し掛ける。
 しかし、
「あ……あ」
 シャルトは首を左右に振り、より怯えた表情で俺から離れようと後退る。
 なんだってこんなに怯えているのだろうか?
 俺はシャルトがただ錯乱しているだけのようにはとても思えなかった。それはシャルトの様子があまりに異常だからだ。正常な思考が出来ないのは分かるが、俺が誰かも認識出来ないなんてのはとても普通じゃない。
 と。
 不意にこれまでシャルトの周囲を漂っていた白い靄のような無数の塵が、急激に増殖し色濃く広がり始めた。これまで俺は些細な現象だとあえて無視していたのだが。もはやそれは無視出来ないほどの広がりを見せた。
 心なしか肌寒い。
 まるで中秋の夜のような、肌を刺すような鋭い寒さ。凍り付いていくかのように硬質な気流がゆらりと吹き荒ぶ。俄かに鳥肌が立ち、背筋を冷たいものが走る。どうにかようやく、ごくりと唾を嚥下した。
「い、嫌だ……」
 明らかにその白い靄は精霊術法に相違なかった。けれど当のシャルトには行使している自覚が無いように見える。行使している事自体に無自覚なのか、それとも無意識の内に洩れ出てしまっているのか。どちらにせよ、とても好ましい状況ではない。
「お、おい。シャルト、落ち着け」
 とにかく落ち着け。
 精霊術法を知らない俺には、それしかアドバイスの言葉はなかった。
 シャルトが術法を暴走しかけている。なんとも考えたくのない結論だったが、今のこの状況を説明するには最も近い、いや正しい言葉だ。精霊術法は行使した術者の理性を侵蝕する副作用がある。それが度を過ぎると、まるで何かに取り憑かれたかのように無秩序的な行動を開始する。精霊術法はコントロールの如何を別にすれば基本的には無制限に行使する事が可能だ。この暴走状態に陥った術者を制止する事は非常に困難である。何せ理性の欠片も残っていないのだ。話し合いや道徳的、人道的理論が通じるはずもない。力ずくで押さえ込むしかないのだ。そんな、理性の無い力の化物を。
 そんな状態に陥ってしまう前に、何としてでも食い止めなくてはならない。けれど俺はあいにく精霊術法には詳しくはない訳だから、とにかく暴走の最前提となるこれ以上の術式の行使だけは食い止めなくてはならん。そのためにも要らぬ刺激は与えてならない。
 有効な対処法の分からない俺は酷く焦っていた。自分自身を百戦錬磨の戦士だと自負し、それは事実現在の頭目という立場に反映されている。けれど、そんな俺にも精霊術法を暴走しかけているヤツを押さえるなんて経験はただの一度たりともない。人間、期せずして遭遇した経験のない事には酷くうろたえるものだ。いつかはそんな事態に遭遇する事もあるだろう、と俺は思っていた訳だが、まさかそれがこんな最悪の形で訪れるとは。
「嫌だ……嫌だ!」
 俺の動揺も知らず、シャルトは今にも泣き出しそうなほど怯えている。そういえば、暴走した精霊術者は皆、一様に心地良い高揚感が込み上げてくるため晴々と笑っているそうだ。普段は抑圧されている感情が解放されるため、途方もない開放感を得られる。だから精霊術法を使う心地良さが麻薬のようにやめられなくなる。しかし、これらの前例と照らし合わせてみると、シャルトの様子はまるで対照的だ。理性を失って欲望を丸出しにしているようには到底思えない。
 ―――と。
「来るな!」
 突然、シャルトは哀れなほど震える声でそう弱々しく叫ぶ。瞬間、大気の流れが急激に変わった。
 な、まさか!?
 ハッと息を飲む俺。そしてその直後、予想通りの出来事が起こった。
 きぃぃぃぃ、と悲鳴のような音を立ててシャルトの周りに吹雪が体現化される。やばい、と本能が先にそれを察知する。俺はすぐさま手にしていた大剣の腹を構えて防御態勢を取った。
 刹那。
 構えた大剣の腹を、まるで鋭い爪が掻き毟ったかのような耳障りな鋭い音が駆け抜ける。同時にずんっと重い衝撃も忘れずに残していく。俺は防御を崩すまいと全身の筋肉を強張らせて剣を構え続ける。
 くっ……なんて威力だ。
 衝撃が駆け抜け、ようやく全身の緊張を解く。見ると俺の周囲を残して見事に地面が削られていた。まるで嵐でも通り過ぎたかのような惨状だ。
 案の定と言うか、柄を握っていた右手が受けたあまりの威力に痺れていた。こんな攻撃を受けたのは実に久しぶりだ。ただ、まさかその相手が身内からとは思いもしなかったが。あの廃墟を消滅させたのも、やはりシャルトだったのだろう。それもおそらくは、敵を攻撃した際の余波程度だ。今の威力を考えれば、あんな常識外れの出来事も十分に実現可能な範囲に収まる。
「嫌だ……来るな……!」
 そしてシャルトは、これだけ派手にやっておきながら尚も我を忘れてしまったかのように、今もただひたすら盲目的に怯えている。今のシャルトの目に俺は、そこまで怯えさせる恐怖の存在にしか映っていないのだろうか。シャルトにはシャルトにしか見えない何か恐ろしいものが見えているのかもしれない。そうでなければ、こんな無秩序な行動はあり得ないのだ。
 正常な判断が出来ないのは精霊術法のせいか、それとも―――。
「来るな……来るな!」
 泣き叫び、悶えながら後退るシャルト。その姿は化物にでも襲われているかのようにも見えた。
 そうだ。
 シャルトは引き取った当時は体に大量の麻薬が蓄積していたため、それを排出するのは非常に困難を極めた。今でこそ禁断症状からは開放されているものの、後遺症は依然として続いている。その一つにフラッシュバック現象というものがある、と俺は医者に聞かされた。禁断症状の治まったシャルトは一見して普通の健康体に見えるのだが、ふとした事で過去の出来事を思い出し突発的な錯乱状態に陥る事がある。それがフラッシュバック現象だ。俺はシャルトの過去など根掘り葉掘り聞いた訳じゃないから知らないが、何か辛い事があったぐらいはよく理解しているつもりだ。今のこの錯乱状態は、おそらくその厄介な発作が起きたと見て間違いないだろう。
 ふとその時、俺はある事に気がついた。
 シャルトは精霊術法は防御程度にしか使えなかったはず。それが何故、こんな攻撃が出来るのか。
 俺は自分の推測を修正しなくてはいけないと、苦々しい気持ちで認めざるを得なかった。疑問が浮かぶと同時に、ある二つの悪い可能性が最悪の形を持ってクロスし、そうと確信させるに十分な説得性を持ってしまったからだ。
 服用すると抗い難い睡魔をもたらすほどの効果を持った精神安定剤を常備しなくてはならないシャルトの理由。そして、痛みを感じない体になってしまった事への対処法として習得した精霊術法の持つ恐ろしい側面。もしも仮にそれが同時に起こったとしたならば。きっと理性は、耐える暇も与えて貰えなかったはずだ。
 そう、シャルトが暴走する前に、ではなく、既にシャルトは暴走してしまっているのである。
「マジィよなあ……やっぱ」
 肩からがっくりと力が抜け、うっかり口をついた言葉は半笑いになっていた。人間、打つ手がなくなるとかえって笑ってしまうものだ。俺自身、この事態に如実に反応しているのが悔しい。
 何にせよ、俺のやるべき事は決まった。
 精霊術法を暴走させた人間を止める方法はただ一つ。術者の意識を喪失させる事で、チャネルを強制的にクローズする事だ。
 俺は意を決してたるんだ気持ちを引き締めると、大剣の柄をやたら強く握るのではなく、普段通りのリラックスした適度な硬さに握り直す。ひゅっと鋭く息を吐いて呼吸を整え、どっしりと重心を低く落とす。
 少々乱暴だが、シャルトを止めるにはこれしかない。術者が一旦暴走してしまったら、こうするしか止める手段はないのだ。いや、厳密にはもう一つある。北斗十二衆の中でも最も危険な過激派集団。だがあいつらが出てきてしまったら本当の意味での手遅れになる。それに連中の方法は制止の部類には入らない。
 剣を構えると、シャルトはビクッと体を震わせ更に表情を恐怖に歪ませる。凶悪なそれを目の前にした時の極自然な表情だ。
 悪ィな。でもこれはお前を傷つけるためじゃねぇんだ。だから勘弁しろよ。
 思わず俺はそう小さな声で呟いた。それはシャルトに言い聞かせるというよりも自分に言い聞かせるようだった。不可抗力とは言え、シャルトに剣を向けなければならない事への後ろめたさがそうさせたのである。
 躊躇うな。躊躇ったらそこで終わりだ。
 傷の一つや二つつけてでもシャルトは止めなければ。でなければ、大勢の人間が命を失う事になるし、何よりもシャルト自身が命を落とす最悪の結果すら招いてしまう。
 ―――と。
「うわあああああっ!」
 突然、シャルトは頭を押さえながら苦しげに叫んだ。
 なんだ?
 そう俺が目を見張った瞬間、シャルトは文字通り目にも止まらぬ速さで俺に向かって突進してきた。
 しまった、と思った時は既に遅かった。
「がっ……!」
 気がつくと俺の体は宙を舞っていた。
 あまりに唐突な事で理解するまでに時間がかかった。俺はシャルトに殴り飛ばされたのだ。そう、驚く事にあんな細い腕で。
「くっ!」
 俺はすぐさま姿勢を立て直して着地する。
 地面を踏む両足と膝に体重と剣の重さとが圧し掛かり、それを支えるべく足を力ませた。だがしかし、その僅かな隙を見せたそこへシャルトが再び掴みかかって来た。
 咄嗟に俺は、反射だけで右手に構えた大剣を振りかざした。が、
 いや、待て!
 即座に俺は振り下ろしかけた剣を止める。このタイミングで振り抜いてしまえば、シャルトなんか文字通り真っ二つになってしまう。それでは意味がない。
「やめろっ!」
 そして。
 シャルトは踏み出した威力をそのまま上乗せ、自らの両腕を俺に向けて突き出した。その両腕は薄白い冷気が纏わされている。無意識の内にそうとは知らず放出した術式だ。
 胸に凄まじい衝撃が伝わり、再度俺は後ろへ突き飛ばされる。またもや俺の体は嘘のように宙を舞った。
 なんてやり辛い相手なのだろうか。
 全力を出したくとも出せないその相手に、俺は苦々しい思いでいっぱいだった。



TO BE CONTINUED...