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 ごくり。
 俺は粘ついた唾を飲み込んだ。
 怖い。
 ゾラスのまるで別人のような表情に、そう素直に思った。
 あの優しい表情など見る影も無い。今、目の前にいるのは、本当の意味で『修羅』と化してしまった一人の男。
 戦いは人をこうも変えてしまうのだろうか?
 いや、人を変えてしまったその何かが、戦いへと駆り立てるんだろう。それも、限りなく不毛な戦いの荒野へ。
 屈み込んだ姿勢のゾラスに対し、男は下から上に蹴り上げるように足を突き入れた。しかし、つま先が胸をえぐるよりも先にゾラスは地面を両足で蹴ると、そのまま背中のバネをしならせて大きく後ろへ跳ね間合いを取る。見た目にそぐわない機敏さだ。大柄とまでは言わない体格だけれど、ほとんど体重を感じさせない身軽な動作だ。
 突き入れた足は目標を失ったため大きく空を切り、その前進エネルギーが強制的に残身を作り出す。刹那を取り合う戦闘において致命的な隙だ。
 無論、ゾラスが見逃すはずが無かった。
 着地して重心を取り直すなり、放たれた矢のような勢いで前進する。姿勢は低く、まるで獲物を捕食しにかかる肉食動物の姿を髣髴とさせる姿だ。そして、さながら鋭い牙を向けるかの如く、流派『修羅』の特殊な変形握拳を男に目掛けて放った。男はまだ振り上げた足を戻し切っていない。片足では回避動作もままならないはず。ゾラスの一撃が決まる。そう俺は思った。
 しかし。
 男は振り上げた足と同じ側の腕を、突然勢い良く前方へと突き出した。するとその反動を利用し、男は体を急激に回転させた。逆側の足を軸足にし、回転を螺旋運動へと変化。そのまま体を宙に浮かせる。中空に浮いた咄嗟の回避は、ゾラスの拳の到達を遅らせた。
 タイミングを狂わされたゾラスの拳は空を切る。そして今度は男が攻勢に出る番だった。
 振り上げた足の運動エネルギーがゼロになった瞬間、男は落下の等加速度に乗せてまっすぐゾラスの頭へ目掛けて振り下ろした。強烈な踵落とし。まともに食らえば、頭蓋骨の中でも一番硬い部分である額ですら破壊されてしまいそうな勢いだ。
 まずい!
 ゾラスは攻撃を外し、その威力に体の自由を奪われている。かわそうにもかわす事なんか出来そうも無い。
 薪を割る斧のような踵が振り下ろされる。
 やられる。
 俺は自分の心臓が止まってしまったような錯覚に陥る。ゾラスがやられてしまう。脳裏には筆舌し難い一秒後の凄惨な光景が次々と浮かび上がった。
 しかし。
 ゾラスはすっともう片方の手を振り上げる。その手のひらは緩慢だが緻密な動きで、振り下ろされた踵が触れる一瞬先にくるぶしに触れる。その瞬間、まるで自ら打点を避けたかのように、男の踵はゾラスのすぐ脇に落ちた。
 凄い技の応酬だ。
 男の技量をざっと見た限りでは、他の四人よりも上にように思えた。そういえば、なんとなくこの男が五人の中でリーダー格だったように思う。
 二人は一旦間合いを離し、構えを取り直した。再び相手の隙や出方を窺う心理戦が展開される。
「シャルト君、こっちは片付いたよ」
 ヒュ=レイカが後ろからひょっこりと現れた。二人を相手にしていたにも関わらず、息の一つも乱していない。それどころか、要した時間は俺が一人を倒すのにかかったのとほとんど同じぐらいだ。さすが『守星』だけはある。
「ん? どうしたの? 早く援護しようよ」
「いや、駄目なんだ」
 ヒュ=レイカはすぐさまゾラスに援護をしようとする。
 だがすぐさま俺はヒュ=レイカを止めた。ヒュ=レイカは俺の行動が理解出来ないと不思議そうな表情を浮べる。守星は北斗の治安を守るための機関だ。俺の行動はその潤滑性を妨害するようなものだから、ヒュ=レイカの反応は当然である。
「手を出しちゃいけないんだ……今は」
 俺は自分が嫌になるほど口が下手だった。
 ゾラスが今どんな気持ちなのか、俺は良く理解しているつもりだし、だからこそこうして出したい手を抑えているのだ。
 それをヒュ=レイカにも理解して欲しい。そのためには明瞭な表現の言葉が必要なのだけど、俺は瞬時にそれを作り出す事が出来ない。人間は言葉を使わないと自分の考えている事を人には伝えられないのだ。不器用な自分が心底煩わしい。
 けれど、俺がうまく言葉に表せられないそれをヒュ=レイカは汲み取ってくれたのか、一度頷くとそれきり口を挟まなくなり、俺より一歩後ろに留まった。
 ヒュ=レイカが頭の回る人間で良かった。密かにそう安堵した。
 一度仕切り直された戦いは、数度の呼吸の後に再開する。
 先に仕掛けたのはゾラスの方だった。低く上体を屈め、両腕を剣術で言う下段の構えのように後方へ更に低く携えている。これでは、正面からはどちらの腕で攻撃を仕掛けてくるのか直前まで予測する事が出来ない。
 俺はある程度、流派『修羅』の戦い方は知っていたが。それはあくまで知識のレベル、それも概要についてだけだ。
 初めてじっくりと見る『修羅』の戦い方は、まずその構えからして異質だった。咄嗟に相手を自分と置き換えてどう対処したらいいのかを考えてみたものの、確実と呼ぶに相応しいものは何一つ考え付かなかった。それは単に自分が『修羅』との交戦経験が無いためだからなのだろうけど、仮に向こうが同じ立場だったとしても、きっと苦戦するのは俺だ。いや、場合によっては苦戦で済まないかもしれない。
 男はじっくりと構えてゾラスを迎え撃つ。同じ流派の人間にして見れば相手の手の内は分かりきっているかもしれないが、それはそれで逆にやり辛いかもしれない。相手にも自分の手の内は知られているのだから、他流派を相手にするよりもより難解な心理戦を強いられる事となる。同流派だからこそ、定石は捨てなければならないのだ。
 ゾラスは解けかけた独特の握拳を右から鋭く放っていった。標的が低い。狙いは上半身ではなく膝だ。まずは機動力を奪おうという戦術なのだろう。
 しかし、男は冷静にその一撃を見極め、ゾラスの攻撃に対し自分も鋭く変形握拳を放った。狙いはゾラスではなく、その膝を狙う握拳に対してだ。
 どすっ、という音と共に、ゾラスの握拳が叩き落される。水平に放たれる力に対し、男の攻撃は上から下への垂直な力だ。全く正反対のその力は、お互いを容易に無効化する特性がある。水平の力は垂直の力に弱い。しかも重力の付加効果がある。後はタイミングさえ合わせる事が出来れば、目の前の結果は当然のものだ。
 放った攻撃を落とされ、前のめりにバランスを崩すゾラス。男はすかさず反対側の腕を振り上げた。だが、ゾラスは前方へ両手をついて前のめりになったバランスを支えると、逆に下半身を上へと持ち上げた。同時に上から下へ叩き落すような蹴りを放つ。
 鈍い音と共に、その蹴りは男の後頭部へ絡みつくように決まった。
 ゾラスはそのまま男を通り過ぎて間合いを取り油断無く構える。男はそれを追って踵を返し構えるものの、若干足がふらついた。今のゾラスの一撃がかなりのダメージを負わせたようだ。
 すかさずゾラスが追い討ちをかけにいく。ダメージが回復しきる前に一気に畳み掛ける事が出来れば、ここで勝負がつくだろう。ただし、逆にここで決める事が出来なければスタミナで劣るゾラスの分がより強くなる。
 ふと俺は、自分が随分事を安易に考えていた事に気がついた。
 今、この状況での『決着がつく』という事は、即ちどちらかが死ぬという事だ。ゾラスは憎い仇を殺すため、男は自分の命を守るため。相手の命を奪う事でしか収拾をつける事は出来ないのだ。他にも方法はあるかもしれないが、それは所詮お為ごかしでしかなく、憎しみの連鎖が留まることはない。死が二人の因果関係を絶つ唯一の手段なのだ。
 俺が言っているのは、そのままゾラスが人を殺す事を望んでいる事に繋がる。
 北斗の人間である以上、結果的に不可抗力で人を傷つけたり殺してしまう事もある。俺にも決して覚えが無いとは言い切れない。しかし、これには『人と秩序を守るため』という何物にも変え難い理由がある。大義名分、と言い換えてしまうと聞こえは悪くなるが、武力による絶対的な秩序を作る、言わば汚れ役的な仕事を担う人間は必ず必要なのだ。それがたまたま北斗が担っているだけのことだ。
 北斗の人間として人を死に至らしめる事と、今のこれはまるで事情が違う。
 ゾラスは一人の人間として自らの感情を理由に人を殺そうとしているのだ。
 気持ちは分からなくも無い。俺だって自分の大切な人を殺されたら、たとえどれだけ法律で禁じられていたって絶対に収まりはしない。感情論は事実でしか決着をつけられないのだ。気持ちを昇華するなんて体裁しか見えない人間の理想論だ。
 止めたい。
 未だに俺は思っていた。
 ゾラスに人を殺させたくない。そして死んで欲しくも無い。
 もう、思うだけで行動に示さない俺にはどうにか出来る事態じゃない事は分かってる。けれど、未練が捨てられない。
 本当に助けたいと思うのならば、誰彼の感情も無視して自分が思うがままに割って入ればいいのだ。
 半端にゾラスの心境に同調してしまったから、ただでさえ行動力の無い俺の足を踏み止まらせている。
 追い討ちをかけにいったゾラス。しかし男は寸出の所でその攻撃をかわし、逆に握拳を胸に向かって放った。
 ずんっ、と鈍い音が俺の所まで聞こえてきた。
「がっ……!」
 ゾラスが口から息と一緒に血を吐いた。骨が折れ内臓を傷つけた証拠だ。
 一瞬、全身から力が抜ける。完全に意表を突かれたらしく、その一撃は無防備な所へまともに入ってしまったようだ。
 まずい!
 俺は危うく足を踏み出しそうになった。耐えられたのは、それでもゾラスの目は死んでいなかったからだった。
 いや、死ぬどころかより激しい感情で猛々しく光っている。
 憎悪の感情に。
 その時、俺ははっきりとこの目で見た。
 如何な状況においても決して表情を崩す事の無かった男が、ゾラスの気迫に飲み込まれたのを。



TO BE CONTINUED...