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ほんの僅かに明るみを帯び始めた空。未だ深く色濃い宵闇を切り裂くように、二人はただひたすら駆けていた。
共に、二十代半ば頃の青年だった。中肉中背の特徴の薄い背格好も良く似ている。けれど、片方の青年はやや前髪を長く伸ばし、もう片方の青年は対照的にさっぱりとした短めの髪をしていた。互いに危機迫った鋭い眼差しで、ただ前方を睨みつけて地面を蹴り続ける。二人の間では一切言葉が交わされる事も無かった。
「むっ!?」
突然、二人の行く手である先の地面がいきなり大きく椀状に盛り上がった。前触れも無く地殻変動でも起きたのだろうか、瞬く間に二人の目前には見上げんばかりの丘陵がそびえ立つ。あまりの出来事に二人は足を止め、思わず互いの顔と目の前の丘陵とを見比べる。
誰か近くに敵が居る。
二人がそれを直感したのは、ほぼ同時だった。目の前にこの丘陵が出来上がると同じくして、周囲には張り裂けそうなほどのただならぬ殺気が漂い始めたからである。
この丘陵は自分達の行く手を阻むつもりなのか。
しかし、この程度で後退を余儀なくされる二人では無かった。目の前のものが何であるかをはっきりと認識するなり、再び前進を開始する。
おそらく精霊術法の類いではあろうが、確かに珍しい術式ではあるものの、恐れるほどではない。実害が歩き辛さだけならば、歩を止める理由にはならないのだ。
だが。
二人が足を踏み出した直後、再び目の前の丘陵は強大な脈動を始めた。それはまるで木々の成長を早回しで見ているかのように、瞬きする間も無いほど急激な勢いで自らを膨らませ形を構成していく。ただの土くれが人的に形を作るなど、コミカル以外の何物でもなかったが、そのあまりに巨大な存在感と迫力が、思わず固唾を飲ませる異様な魅力を放っていた。
やがて、自らの意志で盛り上がり成長を始めた土くれは、一本の巨大な人間の右腕の形を成した。もはやお伽話の登場人物をたとえに用いなければ表現に困るような、あまりに非常識な事態である。
一個師団が雲霞を散らすように逃げ惑ってもおかしくはない異常な事態。けれど二人は淡々と周囲の気配に気を配っていた。この術式を行使している人間を殺気の中から探り出しているのだ。
程無くして、短髪の青年が土くれの腕を隔てた自分の真正面に向けて視線を配った。そこに術者がいる。その合図を受け、もう一人の青年はこくりと頷いた。
「浄禍八神格、『憂』の座ですね」
「自分で触れずとも、森羅万象が彼女の思い通りに動く。確かに怠惰だ」
巨大な土の腕が音を立ててうごめくと、ゆっくり背後の方へ曲がって行く。そして巨大な手のひらを皿のように水平に構え足場を作った。やがて、ゆっくりと腕が元の高さまで姿勢を戻す。水平に構えられた手のひらの上には一人の修道女の姿があった。浄禍八神格の一人、『憂』の座である。
「ここは私が引き受けましょう。あなたは先に」
すると、短髪の青年はすっと前へ進み出ながらもう一人の青年に迂回する事を促した。
「大丈夫ですか? 相手は浄禍八神格ですが」
「私の進む道は、武の極み。この程度の相手に勝てぬのであれば、元々私には過ぎた大望だと諦められましょう。良い機会です」
相手は万軍をものともしない最強の戦闘集団『北斗』を、たった一人で震え上がらせる浄禍八神格だ。一人で相手にするなど自殺行為に等しい。
だが、彼の表情には決して命を投げ出す犠牲的な精神など微塵も感じられなかった。浮かんでいるのはただ一つ、目の前の敵を倒す、という勝利への強い念だ。
「後ほど合流しましょう」
「ええ、御武運を」
そのやり取りを合図に、青年は弾けるような凄まじい勢いで土の腕の横手に回り込んだ。
「『その御手は、全ての栄光へと通ず。即ち、祝福の泉である』」
すると、巨大な土の腕の手のひらに立っていた『憂』の体がスーッと上へと浮かび上がった。水平に構えられた手のひらは巨大な拳へと握り変わり、横手へと回った青年へと振り下ろされた。
ずしっ、と腹の中にまで響く轟音が辺りを駆け巡る。
拳が振り下ろされた地面はクレーター状に大きく抉り反り、それまでそこにあった土片を周囲に撒き散らしていた。だが、そこに居たはずの青年の姿は、既に遥か先へと移っていた。あの一瞬の間に、青年は拳を叩きつけられるよりも速くその場を後にしていたのである。
「こっちだ!」
そして、目標を外した土の腕が起き上がると同時に、短髪の青年は土の拳の上に飛び移ると起き上がる力を利用し『憂』へ向かって大跳躍する。青年の体はまるで体重を感じさせないほど軽々と天高く舞い上がり、宙に浮かぶ『憂』の頭上を捉えた。
そのまま短髪の青年は軽く両足を屈曲させると、眼下の『憂』に目がけて急降下を始める。脚力に自重と重力を加えた足技で『憂』の首をへし折りにかかる。
しかし、それよりも早く『憂』の体は横へと鳥のような速さで急激に移動した。下方向へしか向かう術の無い短髪の青年は、そのまま標的を捉えることが出来ず地面へと落下する。
どんっ、と重厚な音を立てて、短髪の青年は両足で地面に着地する。驚く事に真っすぐ伸ばしたその両足は、先程巨大な土の拳が地面を抉って見せたものよりも一回り大きく地面を抉り取った。
彼自身の鍛練による部分もあるのだが、これは彼が属する流派『白鳳』が得意とする、『気』と呼ばれるエネルギーによるものだった。気と一重にとっても様々な効果があるのだが、このように人体を極限まで強化し爆発的な破壊力を作り出す事も可能とするのである。
一般に武具を用いる敵と素手で戦うには、相手よりも三倍の技量を必要とされるのだが、白鳳の人間は気によって皮膚を硬質化する事で武器そのものの威力を殺す事が出来る。彼らにとって武具は攻撃を補助するものではなく、ただの重い枷にしか過ぎない。自身の肉体が文字通り武器となるのだ。
「外しはしたが、時間は稼げたか」
そう短髪の青年は上空の怠惰を見上げながらそう呟いた。
既にもう一人の青年の姿はこの場からいなくなっていた。今の攻防の間に北斗総括部に向かって走り去ったのである。
「汝、李連木よ。何故、あなたは神に唾を吐きかけますか? あなたの望みは、白鳳頭目『老師』の大願を成就させる事でしょう」
突然自身の名を呼ばれ、思わず短髪の青年、連木は眉尻をぴくりと震わせた。自分の名を隠した覚えはないが、まさか彼女が知っているとは思わなかったからである。それには、彼女ら『浄禍八神格』が人間を名前で区別するのではなく宗教の教えによって区別するため、個人個人の名前など覚える必要がないと思っていたためである。
「確かにその通りだ。私は老師を尊敬していた。しかし、それはもう過ぎた事だ。今の私の大望は、武を極める事にある」
「あなたは己の欲求のため、故人の遺志を軽んじますか」
「軽んじているのではない。私は次の目的を見つけただけに過ぎないのだ。老師への尊敬は今もあるが、これからは我が武のために生きる。これは『変わる』という事だ」
「愚かなり。あなたは不幸だ。不変を貫く事の強さを知らないからである」
「否、変化を求める意志こそが人を強くする」
そこで言葉を区切り、連木は深く息を吸い込むと、一気に吐き出すと同時に右足で地面を踏み鳴らす。まるで地鳴りのような深い轟音が響くと、更に抉れた地面が一回り小さく抉れた。
怠惰が作り出した穴と連木の作り出した穴には一つの決定的な違いがあった。怠惰が土の腕を行使して作り出した陥没は周囲に土が飛び散っているが、連木の穴の回りには一切土は撥ねていなかった。連木の足はただ地面を蹴ったのではなく、力を一点に集中させて踏み固めたのである。ただ力任せに叩きつけるよりも遥かに高度な技術だ。
幾ら常識を外れた術式を使おうとも、怠惰は力というものを表面的にしか理解していない。
その事実が更に連木の闘志を燃えたぎらせた。絶対的な力は明らかに自分の方が下だ。けれど、徒に奮う事で結果的に力を分散させている怠惰は、一分の隙もなく集約させた自分の力とそれほどの差はない。つまり、少なくともこの怠惰に限り、自分の力は浄禍八神格にも通用するのである。勝機は、少なからずあるのだ。
と、その時。
「む?」
突然、連木の足に違和感を覚え、すぐさま視線を足へ落とした。すると、足元の地面が意志を持ったかのように盛り上がり、連木の足の膝から下を完全に覆い尽くしていた。足はぴくりとも動かせず、まるで底無し沼の汚泥に足を突っ込んだかのようだ。
「汝、李連木よ。今ここに神の鉄槌を与えます」
そして怠惰の口元が凄然と歪む。すると、まるで彼女の紡いだ聖句に応えるかのように、あの巨大な土の腕が急にざわざわとざわめき始めた。ぼこぼこと表面が蠢き、更に自らを膨れ上がらせる。瞬く間に最初の二周り以上も巨大な腕に成長を遂げてしまった。
握り締められた拳もまた、倍近くの大きさに膨れ上がっていた。この拳に殴られでもしたら、たとえ城であろうともあっと言う間に倒壊させてしまいそうなほどの迫力に満ちている。土の腕は雄々しく自らの拳を抱え上げると、足の自由を奪われた連木に向かって見せつけるかのように誇示した。まるで断頭台の罪人に、処刑人がこれから執行する自分の顔を見せつけるかのような、陰惨な仕草だ。
「悔い改めなさい」
そして、怠惰の言葉と共にその豪腕は連木に向けて迷わず放たれた。振り抜かれた拳は、かわそうにも動く事の出来ない連木の体を真っ正面から物の見事に直撃する。連木は腕で防御する事も無く、まともに拳をその身に受けてしまった
みしりと鈍い音が響く。普通の人間ならば骨が砕けるどころか、輪郭すら分からなくなるほどの肉片に変わってしまうほどの衝撃である。想像する事も出来ない、身の毛もよだつ恐ろしさだ。
しかし。
「……フン」
直撃を受けたにもかかわらず、連木は未だその場に踏み留まっていた。
「仰々しい割にこの程度か」
驚くことに連木は生きていた。それだけでなく、体の輪郭が残っている事は無論のこと、真っ白な上着が僅かに汚れただけで傷一つ負っていないのである。
種は、白鳳が得意とする『気』の力にあった。連木は衝撃が伝わる瞬間、気を全身に集中させて衝撃を退けたのである。刃すら通さぬ白鳳の絶対防御、硬体術だ。
連木はゆっくりと右手を手刀の形に構えて振りかざす。そしておもむろに目を閉じて精神を集中させ、意識の全てを構えた手刀に注いだ。
「把ッ!」
カッと目を見開き、気合の掛け声と共に一気に振り落とされる手刀。すると連木を打った土の拳は、手首から支えを失って地面へごろりと転げ落ちた。
これもまた、気の力によるものである。連木は気を手刀に集中させ、己の手を如何なる物をも切り裂く鋭利な刃と化したのである。
その一部始終を、怠惰は上空から悠然と眺めていた。しかし、今の一連の連木の実力が果たして予測の範囲だったのか、目深に被ったフードのせいで表情がはっきりとは分からなかった。ただ一つ、彼女が連木の実力を好意的に評価している節だけが窺う事が出来た。それが一体どういった意図でのものなのかは分からないが。
そして、連木は足の自由を奪う土を力任せに引っ剥がすと、更にもう一度地面を踏み鳴らし、上空の怠惰を溢れんばかりの闘志が漲った眼差しで睨みつける
「侮るな! 我が信念は神をも退ける!」
毅然と叫ぶ連木の声に、張り詰めた空気が俄かに騒ぎ始めた。
TO BE CONTINUED...