BACK

 がらがらと揺れる馬車。聞こえてくるのは馬車の車輪が砂利を踏みつける音と、不規則に揺れる車内の音だけ。自分の息づかいも聞こえてこないほど喧しいはずなのだけど、やけに静寂が耳に痛い。
 僕は狭い車内の隅に身を寄せ、ただじっと薄暗い中空を見つめていた。傍らにはテュリアスが小さな体を丸めて眠っている。本当は僕もまた同じように眠っているはずの時間だけど、今は眠る気にはなれない。普段から僕は眠ったり起きたりを繰り返しているから、決して眠っているとは言えないけど、眠らなきゃ体に悪いから出来るだけ寝るようにはしている。でも今は、その眠ろうという意欲そのものがない。眠気なんてもう何年も感じてないから、眠りたいと思わなければ眠る事はないのだ。
 窓からは夜明けの近いネイビーブルーの空が覗いている。透明感のある暗い光が車内に差し込んできて僕を薄っすらと照らし出す。見上げると薄まりかけた丸い月が、まるで天幕に空いた穴から光が入り込んできているかのように浮かんでいる。普段は見る機会のない、夜明け前の風景。どこかしら幻想的な雰囲気が漂う、静かで落ち着ける時間なのだけれど、僕は馬車の中からそれを眺め楽しむ気にはなれなかった。
 頭の中がぐるぐる回り、何も思い出せない。いや、思い出したくないのだ。ひとたび思い出せば胸が焼け付きそうな激しい感情に駆られ、頭の中に嵐が巻き起こる。それが始まると自分が抑える事が出来ず、かといってどうやって自分を鎮まさせればいいのか分からない。ただ一つはっきりしているのは、僕は間違いなくあの男が憎くて憎くて仕方がないという事だけだ。
 あれから、僕は一人だけ先に北斗に帰る事になった。正確に言えば、レジェイドの判断で僕が居ては業務に支障を来たすから強制的に送り帰す、という形だ。つまり僕は邪魔な存在という事であって……いや、そうじゃなくて、本当はレジェイドがこれ以上僕があの場に居ては辛いだろうから帰してくれたのだと思う。
 父親。
 思い出すと自分がどうにかなりそうだから、僕はずっと色々な事を考えた。そしてまず最初に考えたのがそれだ。
 僕には父親がいなかった。生まれた村ではお母さんとお兄ちゃんと三人で暮らしていて、普通の家庭ではお父さんとお母さんがいるのが当たり前なのだけど、僕にとってはそれが普通の事だった。だからなのだろう、僕はお母さんにお父さんの事を訊ねた記憶がない。男親と女親の愛情はそれぞれ異なるらしいけど、僕にはお父さんがいない代わりにお兄ちゃんがいたから、片親だけでも自分が不幸だと思った事は一度もない。
 今はもうお母さんもお兄ちゃんもいなくて僕は一人だけど、それでも三人で暮らしていた頃のことを時折懐かしく思う。決して過去に縛られる事なく、ただの思い出として振り返ることが出来るようになったのだ。そこに辿り着くまではとても辛かったけれど、乗り越えた今は僕の心の支えになっている。何も持たない僕の、唯一の大切なものだ。
 なのに。
 突然現れた男は僕の父親だった。
 本来なら、生き別れたはずの親子なのだ、喜ぶべき事なのかもしれない。しかし、お父さん、否『その男』は死んだ僕のお母さんを嘲り笑った。その上、僕の村が野盗に襲われて沢山の人が死んだ事すらも恥じ入るどころか笑い話のように語った。それは僕の大切なものを踏み躙るに等しい、決して許し難い行為だ。
 僕は怒った。
 後先も考えず、本気でどうかしてしまいそうだった。あんなにリアルに人を殺そうと思ったのは、多分生まれて初めてだと思う。結局はレジェイドに止められてしまったけれど、今でも僕は自分の行動に誤りは無かったと思ってる。自分の大切なものを踏み躙られ、一体誰がそれを見過ごせるんだ。こうして当然じゃないか。
 レジェイドさえ止めなかったら、僕はきっとこんな思いをしなくて済んだのに。あれだけの侮辱の言葉を吐かれはしたけど、奥歯の一本も折ってやったら随分と気が楽になったはずだ。それでも仕返しはしてやった、と自分を納得させる事が出来るからだ。一方的に言われるだけだったから、こうやって感情をいつまでも煮え滾らせている羽目になったのだ。
 父親なんていなくてもいい。
 僕はそう思った。僕にはお母さんとお兄ちゃんがいればいいのだ。あんな酷い事を死んだ人に平気で言える人間なんて赤の他人だ。どうなろうと知った事じゃないし、もう二度と顔を合わせる気もない。
 けど、そんな最低の人間の血が僕にも流れてる。
 そう考えると虫唾が走りそうな最悪の気分になった。すぐにでも自分の血を抜いてしまいたい。そんな妄想にすら駆られる。
 とにかく、僕はあの男との関係を、どんな些細なものをも断ち切りたかった。あの男がこの世に存在している事を証明するものを、全て忘れてしまいたい。僕は僕だ。あんな男に振り回される必要は無いし、せっかく北斗でもう一度やり直せる機会を手に入れたんだ。今度こそ、自分の思うような人生を歩みたい。
 でも、考えれば考えるほど涙が出た。
 優しい言葉を言って欲しかった訳じゃないけど、どうしてあんな酷い事を言えるのか。僕にならまだしも、お母さんにまで。お母さんが聞いたらなんて思うのだろう? それでもいつものように優しく微笑んでるのだろうか?
 僕は、自分は今も怒っているのだと思っていた。その怒りをぶつけられない悔しさで涙が止まらないのであって。決して泣いているんじゃない。でも僕は泣いていた。悔しいと思う気持ちが、誰かにすがり情けを請うような気持ちになっていたのだ。怒りを堪えていると思っていたのは、本当は単に所構わず泣き出してしまいたい衝動を抑えていただけだったのだ。
 ふと気が付くと、僕はお母さんとお兄ちゃんに会いたいと思っていた。
 一人なのがとても寂しいのだ。恥も外聞もかなぐり捨てた、本当に素直な僕の気持ちだ。声だけでも良い、また二人に会いたい。叶わない事は知っている。こぼれた水を汲み直すのとは違い、死んだ人間は二度と帰ってこない。でも、それでも願わずにはいられないのだ。そんな現実逃避に似た手段にでも頼らないと、あまりの重圧に潰れてしまいそうなのだ。
 朝日が昇り始める。
 車内に差し込んでいた深海のような光が輝き始め、少しずつ夜の景色から闇を払拭していく。
 夜が明ける。
 ずっと塞ぎ込んでいた僕はそっと頭を上げて窓の外を見やる。朝日と言っても、まだ地平線からほんの僅かに頭を覗かせただけで、まだまだその光は小さくか細い。まるで僕みたいだ、と思った。なら、いつかは燦々と光りを降り注ぐ大きな太陽になれるのだろうか? きっと僕は―――。
 僕の夜明けは来るんだろうか?
 少なくとも今は、寒くて真っ暗な夜の真っ只中だ。
 水色に染まった早朝の風景。空気は冷たかったけれど、塵や埃が沈んでいるせいだと思う、とても澄み渡っていて心地良かった。
 木々や川ばかりだった風景に徐々に人工物が混じり出す。北斗が近い証拠だ。僕はずっと田舎に暮らしていたから、街灯を初めて見た時は心底驚いてしげしげと見つめてしまった事がある。そんな姿をレジェイドに笑われたんだけど、本当に夜でも昼間と変わらず暮らせる北斗の街は驚く事ばかりでしばらくは好奇心が尽きなかった。もしかするとそのおかげで、僕はあまり人とは話さなくても気を滅入らせる事がなかったのかもしれない。北斗は楽しい街だ。僕の生まれた村も住みやすくていい所だけれど、北斗も同じぐらいいい所だ。
 北斗の正面門を抜けた馬車は、やがて無言のまま静かに止まった。そして何も言わず僕が降りるのを待ち始める。御者は基本的に無口だ。乗車した人を搬送する事だけに徹しているからだと思う。
 僕はテュリアスを起こすと、ゆっくり車内から降りた。驚くほど体が重くて、歩くのが酷く億劫だった。馬車の外に出ると、すぐさま早朝の刺すような冷たい空気が耳を締め付けてくる。思わず僕は両耳を塞いで耳を暖めた。
 目の前には北斗の中心に建つ大時計台の姿があった。時計の針を見ると、朝の五時を半分以上回っている。もうちょっとで六時になる。丁度レジェイドが起き出して朝食を作り始める時間だ。
 どこに行くの?
 と、僕の足を伝い肩の上にテュリアスが登りながらそう問う。空気が冷たいせいだろう、テュリアスがとても温かく感じた。
「帰るんだよ」
 そう掠れた声でぽつりと答え、僕は西区に向かって歩き出した。夜叉の宿舎があるのは北斗の西区だ。僕は内ポケットにレジェイドの部屋のカギが入っている事を確認しながら、見慣れない道を歩いていないかどうか周囲を軽く見回す。
 僕は自然と頭をうつむけていた。多分、気落ちしているせいだと思う。
 気落ち?
 そう、僕は落ち込んでいるんだ。
 辛い。
 素直に言えればいいんだろうけど、僕はうまく自分の感情が表せられない。レジェイドにからかわれて怒る事は出来ても、それは数を重ねれば重ねるほど作業的になっている事を感じる自分がいる。本当に怒っているのか、レジェイドにからかわれた事の返答として怒った素振りを見せているのか、自分でも良く分からなくなってきているのだ。
 二年も感情を押し殺していたから、正しい発露の仕方が出来ないんだと思う。本当ならみんなが自然に覚えてやれる事なのに、それが僕は出来ない。たったそれだけの事で、何もかも自分が人よりも劣っているような気にさえなってくる。人の価値の優劣は単につけられるほど安易なものじゃないのに。一度思考が悪循環を始めると際限なく深く暗い所に向かって落ち込み続ける。
 僕はこれからどうすればいいのだろうか。
 お母さんとお兄ちゃんはあの日、僕を生かせようと必死になっていた。だから今の僕がいるのだから、僕は何があっても生きなきゃいけない。けど、普通に生きていくのはあまりに辛すぎるのだ。慢性的な錯乱の発作と無痛症、僕にはあまりにも荷が重過ぎる症状だ。これらを乗り越えていけるのだろうか? そんな可能性の問題を直面にすると、僕はいつも弱気になってしまう。
 シャルト……。
 ふと、テュリアスが僕の頬をぺろっと舐めた。
 落ち込み続けてる僕を心配してくれたのだろう。柔らかくて温かい頬を擦りつけてくるテュリアスに、僕は『大丈夫だ』と無理に微笑んでその白く小さな頭をそっと撫ぜる。
 何があっても僕は生きなきゃいけない。そのための障害は多過ぎるけど、怯んでいられる猶予は無い。とにかく毎日邁進し続けていかなきゃ、僕はすぐに潰れてしまう。だから立ち止まっている暇はない。僕はずっと走り続けなきゃならない。いちいち周囲の事に目を向けている暇もないぐらいに。
 頑張らないと。
 そう頭の中では分かっている。それでも、今はそんな気分にはなれない。ただ感情が落ち込んでいく自分を客観的に見ているだけだ。
 ―――と。
「シャルトちゃん……」
 突然聞こえてきた覚えのある声に、僕は思わずハッと息を飲んで顔を上げる。
 そこにはルテラの姿があった。
 ルテラは悲しそうな表情を浮かべている。僕の事をメッセンジャーの報告からでも聞いたんだろうか。そんな感じの顔をしている。
 そしてルテラは何も言わず、そっと僕を抱き締めた。普段、ルテラは時折ふざけてこんな風にじゃれついてくる事がある。僕は恥ずかしくていつも暴れるのだけど、今はそんな軽い感じじゃなかった。
 温かかった。
 冷たい早朝の空気に冷やされた体が温められるというだけじゃない。僕の際限なく落ち込み続ける気持ちを優しく包み込んでくれるような、そんな感じだった。ずっと真っ暗な道を一人で歩いていて、思いがけず灯かりを見つけた時。きっとこんな風に思うかもしれない。
 ただただ心地良かった。
 いつの間にか僕は泣いていた。ルテラは何も言わず、ただ僕の背中をさする。ずっと幼い頃の遠い記憶だけど、お母さんがこんな風に泣いてる僕が泣き止むまで抱き締めていてくれていた事を思い出す。お母さんとルテラはまったく似ていないのに。どうしてか重ね見てしまう。
 泣き止んだら、もう二度と泣かないで頑張ろう。
 涙で真っ白になった頭で、僕はそう思った。



TO BE CONTINUED...