BACK
再び、悪夢が目の前に迫ってきている。
あの頃に比べて、少しだけ背が伸びた。
僕はまた逃げ出すのだろうか? それとも、今度こそ自分の居場所を手に入れる事を諦めて、失意の底へ沈むのだろうか?
どちらかと言えば、逃げ出してしまう事の方がずっと辛い。失望するのは簡単な事だ。かつて、全ての執着を捨てたと言っておきながらついに最後まで捨てなかった、生への執着。それを諦めるだけでいいのだから。
逃げる、という行為は、どんなに辛くともまだ生きようとする意思の現れだ。そしてその辛さは、かつて村を追われた時とは比べ物にならない。あの時はあまりに突然の事で自分が置かれた状況も分からないまま無我夢中で逃げていた。けど今は違う。近い未来にそうなる事があらかじめ予測出来ているから、自分の境遇が冷静な内に考えられる。
辛さの大部分は、失う辛さではなく捨てなくてはいけない辛さだ。僕にとって家族も同然な存在。その人から受けた恩は筆舌にし難く、幾ら感謝してもし足りないほどだ。けれど、僕は何一つとしてそれに報いるような事はしていない。
後ろめたさと悔恨とを引き摺りながら、僕はここから出て行かなければならないのか。でも、そうしなければ更に迷惑をかけてしまう事になる。ならば、せめてそうなる事だけでも避けたい。僕が教会を出て行くだけで避けられるんだったら喜んで出て行こう。僕は大切な恩人である彼が困るような事はしたくないのだから。
けど、一つだけ心残りがある。
それは、僕が教会を出て行った事を知った彼の事だ。
彼は呆れるほど御人好しで優しいから、きっと悲しみ悔やむだろう。
しまった!
その瞬間、僕は背筋が凍りついたのではないかと思うほど寒くなり、どっと全身から脂汗が噴出してきた。体現化していた雷などとっくに消滅してしまい、直前まで描いていたイメージもどこかへ吹き飛んでしまっている。
いつの間に現れたのであろう目の前の男は、驚愕を露にした表情でただただ僕を唖然と見つめている。その目に浮かぶのは明らかな恐怖。僕をまるでこの世のものとは思っていない反応だ。
見られてしまった。
僕は自分のこの力が決して普通ではない事を知っていたから、絶対に人前では使わないように努めていたつもりだ。トレーニングにしても、幸いこの場所は村から離れた人気の無い場所だ、日中でも人目を気にせず打ち込める。今日もいつもと同じ、そんなつもりでいたのだけれど。一体どうしてこんな所に村の人がいるのだろうか。僕は疑問よりも、力を見られてしまった恐怖に打ち震えた。
恐怖と驚愕の表情で互いが互いを見つめる異様な光景。空気はピンと張り詰め、今にも土砂崩れのように瓦解しそうな不穏さと危うさを孕んでいる。
そしてその拮抗は、目の前の男が先に破った。
「な、何なんだそれは!? お前、一体何をした!?」
自分の理解を超えた存在への恐怖。それがいやというほどひしひし伝わってくる。
「い、いや、これは……」
僕は想像したものが自由に具現出来るんだ。
それが嘘偽りのない真実だったし、まず最初に頭の中に浮かんだ答えだったが、とても口になど出せなかった。何度も言うが、その事自体が普通ではないのだ。自ら自分が普通じゃない事を宣伝するようなものである。そんな事をしたって、かえって恐怖を煽る事にしかならない。
「隠すな! 俺はさっきからそこの物影で見ていたんだぞ! お前、何もない所から火や氷を出していたじゃないか! あまつさえ、今度は雷まで……!」
全部見られていた!?
つまり、今日のトレーニングは初めから全て見られていたと。そしてもはや僕には言い分けの余地がない。
殺される。
真っ白になった頭の中に浮かんだのは、そんな言葉だった。
あの時とは違って、この場にいるのは彼一人、武器になるようなものも無いし、何より彼は恐怖でその場に立ち竦んでいる。けれど、この力が露見した、という事実だけであの時の記憶が掘り起こされ本能的な恐怖を呼び覚ましてしまった。
恐怖に駆られた僕に理性的な行動は不可能だった。
気がつくと僕は座っていた台から立ち上がり、一目散にその場から逃げ出していた。
あの時と全く同じだ。
悪夢のリフレインほど恐ろしいものはない。本物の悪夢の方が、もう二度と同じ物は見ない分、まだ救いはある。いや、繰り返される事こそが本物の悪夢か。
僕は走った。あの時のように、とにかく逃げて逃げて逃げまくった。背後の様子なんてまるで分からないというのに、何故か追いかけられているような強迫観念が消えてくれない。僕を突き動かしているのはまさにそれだった。理性的な部分など一片たりとも残っていない。あるのは恐怖から逃げようとする原始的な本能だけだ。
野山を駆けている内に、僕は成長した、という自信は見る影も無く打ち砕かれていった。立ち止まり振り替える。たったそれだけの事が出来ないのである。とんだ臆病者だ。そう自分を嘲笑しても、致し方ない、と甘受する以外の選択が出来なかった。
やがて、道をどう走ってきたのか分からないが、目の前には深く切り立った断崖が広がっていた。どうやら古い昔に地殻変動か何かが原因で地層がずれたために出来たもののようだ。
これ以上前進する事が出来ないと悟ると、立ち止まらざるを得ない理由の出来た僕はようやく立ち止まって我に帰った。僕は教会から更に遠く離れた山の中まで逃げ込んでいた。教会周辺にも増してしんと静まり返り、静寂が耳に痛いほどである。
また逃げてしまった。
冷静さを取り戻すに連れて、そう僕は気分が重くなっていった。
僕はあの時よりも強くなったと思っていたのに。結局変わったのは、少しだけコントロールがうまくなった事だけだった。心は弱いまま、虚勢の衣すら纏えない脆弱さだ。
情けなさと悔しさが自己嫌悪となって僕を苛む。しかし、不思議と頭の一部が機械的なまでに冷静な思考を続けていた。
今、もっとも立場を悪くしているのは誰なんだろうか。
そう、その冷静な部分は自嘲を続ける僕に疑問を投げかけてきた。
立場が悪い?
初め、僕は疑問の意味が分からずに首を捻った。けれど自虐行為を止めてエネルギーを思考に回し始めた途端、すぐに僕は自分のした事がどれだけ重大な事なのかに気がついた。
僕の力は普通の人間の持っていない、特異的なものだ。僕はその力を見られたが故に村を追い出され放浪を余儀なくされてしまったのである。特異的な力は、人間の範疇を越えてしまったら一転した畏怖の対象にしかなり得ない。誰だって、異様な力を操る人間が身近に居たら安心して暮らせないはずだ。僕が村を追い出されたのは、村人が生活を守るための自己防衛だったのだ。それは、人間の体が外部から入り込んできたウィルスを追い出そうとする行動に似ている。
僕はこれまで優しい神父の好意で教会に住んでいた。いわば、人体の中に潜伏しているような状態だ。人前で力なんて使ったりしないから、たとえ僕を見たとしても同じ人間としか思わないだろう。それが一変し、僕は周囲に人が居るなどとは知らずにあの力を使ってしまった。しかもよりによって、自分の限界を試そうなんて気になった所をだ。これは、僕が普通の人間ではない事を知らしめるのには十分過ぎる材料になる。どう釈明しようが、自然現象で説明などつけられないし、何よりその場から逃げ出した事が致命的になっている。
僕はどうしたらいいのだろうか。
頭がパンクしそうなほど、感情が猛りうねる。
きっと今頃、教会はかなり深刻な事になっているはずだ。あの男が僕の事を黙っているとは思えない。もしかすると、逃げた僕を血眼になって探し始めているかもしれない。そう、あの時のように。僕を捕まえて、二度と自分達の日常が脅かされぬよう殺してしまうだろう。恐怖に駆られた人間は特に集団になると、普段なら二の足を踏む事でも容易に踏み切ってしまう。人間の最も恐ろしい一面だ。間近で見た僕には痛いほど分かる。
逃げてきたのはいいが、これから僕はどうしようか?
その答えは今の混乱した頭では思い浮かばなかった。
TO BE CONTINUED...