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 幸せです。
 私は天にも昇るような気持ちでその言葉を噛み締めました。
 彼―――シャルトさんと会えない週の六日間。その時間をいつもいつも歯がゆさと不安とを抱きながらも、無理に忙殺する事で誤魔化し過ごしてきました。
 でも、もうそんな思いをする必要はありません。
 何故って、それは―――。




 あれから一週間が経過しました。
 一週間。
 それは私にはとても重要な意味を持つ時間です。三ヶ月……いえ、もう四ヶ月目です。そんなに長い間、私はずっと一人の男の子を密かに想い続けてきました。薄紅色の髪と瞳、真っ黒な北斗の制服、いつも一緒に居る白い子……虎。顔は格好いいというよりも綺麗という印象の方が強く、もしも髪が長かったら女性と間違えてしまうかもしれません。それが、私の好きな男の人でした。好きな人が出来たなら、もっと仲良くなるために何らかのアプローチをかけるのは極当たり前の事です。けれど、私は声もかけられず、ただ遠くから様子をうかがうばかりでした。それは私が臆病な性格だったからに他ありません。これまでに恋愛らしい恋愛を経験したことがなく、まるで免疫がなかったので、失敗した時の事が怖くて仕方がなかったのです。しかも、私は自分自身にあまり自信がありません。見た目もパッとしてないし、大した特技もありません。アプローチをかけるにしても、武器となるものが私には全くないのです。
 そんな時でした。
 何故か私は、彼、シャルトさんと二人で話をするという事になってしまいました。それは時間にして十分にも満たないほどです。けどその時間は、これまで無為に過ごしてしまった三ヶ月という時間の何倍もの密度がありました。私は彼の名前を知り、自分の名前も憶えて貰いました。それはつまり、自分というこの世で唯一の存在を彼が認識するという事であって。とにかく、私がこの世に居るという事を知ってもらえた、とても嬉しい事なのです。
 また来週も来る。
 そうシャルトさんは別れ際に言い残して帰りました。私は思わず飛び上がりそうなほどその言葉が嬉しく思いました。別に私に会うために来る訳ではありません。けど、来週もまた確実にシャルトさんの姿が見る事が出来るのです。それに、もしかするとまた話が出来るような機会が偶然起こらないとも限りませんから。そして何より、シャルトさんと自分との繋がりがその言葉によって、より強くなった事が嬉しいのです。
「これ、虎の二番お願い!」
 私は今日もカウンターとテーブルの間を何度も行ったり来たりしていました。しかも今日は土曜日、一週間で最も忙しくなる日です。
 カウンターから受け取った料理皿を持って指定されたテーブルに駆けます。初めは皿が気になってうまく歩けなかった私でしたが、今ではもう全く意識しなくても駆ける事が出来ます。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
 いつものようにうやうやしく一礼した後、私はカウンターに再び駆けます。
 今日も今日とて忙しい事には変わりません。けど、普段よりも私は気分が高揚し、不思議と体もそれほど疲労感を感じません。時計に目をやると、午後七時の五分前に迫っていました。七時とは、シャルトさんが来る時間なのです。時計の針の位置を見るなり、私はどくんと心臓が高鳴るのを感じました。もう少しです。もう少しでシャルトさんが来るのです。
 ―――と。
 その時、私は入り口の外に人の気配を感じました。
 シャルトさんでしょうか?!
 しかし、すぐさま一週間前の失敗を頭が過ぎりました。あの時もシャルトさんだと勝手に思い、私は飛び出していったのです。私は一瞬躊躇い、やっぱり出迎えるために飛び出す事にしました。違ったのならばそれはそれでいいのです。
「いらっしゃいませ」
 私は出来る限りの笑顔で出迎えます。すると、
「あ、ああ……」
 頭を上げたその先には、シャルトさんの少し驚いた風な顔がありました。
  「あ……えっと……」
 私は思わず戸惑ってしまいました。あらかじめ、相手をシャルトさんであると想定していたのに。こうも自分の思い通りになってしまうと逆に驚いてしまいます。
「っと、それではお席の方に」
 辛うじて自分を見失わなかったものの、ぎくしゃくとした言動を隠し切れないまま、私はシャルトさんを席の方に案内します。私達は、あらかじめどこに何人席が空いているのかを頭の中で常に整理して動いています。だからお客を案内する時に、あちこちを行ったり来たりする事もありません。
 私はシャルトさんを亀の十番テーブルに案内しました。実の所、そこはみんなにお願いして、七時半ぐらいまでは開けていてもらうようにしてもらっていたのです。シャルトさんが来ても席がないという事態を防ぐためです。これまではそんな事などしていなかったのですが、シャルトさんと知り合う事が出来たからでしょう、たとえ一度足りとも機会を逃したくないという感情が強くなっています。それがそうさせているのでしょう。みんなも喜んで協力してくれました。私とシャルトさんの事を応援してくれているのです。
「ご注文は?」
 シャルトさんが席につくと、すぐに上着の中からテュリアスが飛び出してきました。そして一度、じっと私を鋭い眼差しで見つめます。どうやら私は、相変わらずテュリアスにはあまり好かれていないようです。
「んと、じゃあ、これとこれとこれと……」
 シャルトさんはメニューをよく読んでいるのかいないのか、まるでケーキバイキングでもしているかのように次々とオーダーを出していきます。私は漏らさぬよう急いでそれを伝票に書き留めていきますが、すぐに一枚目が終わってしまいました。
 これは前から知っていた事なのですが、シャルトさんの食べる量は普通の人の何倍もあります。健啖な人は沢山見てきましたけど、シャルトさんのように小柄な人がこれだけの量を食べるのは初めてです。一体、その体のどこに入っているのか私も不思議に思います。でも、沢山食べられる人はどこか頼もしく見えて格好いいと思います。
「では、少々お待ち下さい」
 席に案内し、オーダーを取ってカウンターに向かうこと。その一連の仕事は普段通りなのだけれど、どこか照れ臭さというか違和感というか、そんなものがありました。相手がシャルトさんだからだと思います。赤の他人ならばきっと何も感じないのでしょうけど、私はシャルトさんを知っていますし、シャルトさんも私を知っています。でも、親しい間柄とまで呼べる関係ではありません。その微妙な間柄が、この奇妙な感覚を作り出しているのだと思います。
 席を去る時、何となく背中にシャルトさんの視線を感じた気がしました。シャルトさんが私の背中を見送っているのでしょうか? きっと考え過ぎです。シャルトさんがそんなに私を見つめる訳がありません。
「オーダー入ります!」
 店内には沢山の人がいるため、カウンターでオーダーを伝える時ははっきりと声が聞こえるように喉を張ります。お客が注文した品を、聞こえなかった、という理由で遅れさせる訳にはいかないのです。
 シャルトさんの伝票は毎回の事ながらとても長く、とても一息で言える数ではありません。その長々としたメニュー、しかし厨房に居る五人の料理人はきちんと把握していて、間違えなく伝えれば間違いなく料理が出てきます。一品ごとに不安になって伝票を見直して言う私にはとても真似が出来ません。
「はい、これ! 龍の二十一番!」
 オーダーを伝え終わると、また給仕の仕事に私は追われます。せっかくシャルトさんが来ていても、これではいつもと変わりがありません。やっぱり、そうそう美味しい事は起こりません。この間の事は偶然、運命の悪戯だったのです。本当は、チャンスは自分で作らなければいけないのですから。
 何度か給仕とお客の対応に追われて、確か十回目にカウンターに戻った時、
「はい、これは亀の十番!」
 亀の十番。それはシャルトさんのいるテーブルです。
「はい!」
 別に取り合いをしてまで給仕しなくてもいいのだけれど、私は咄嗟に飛びつきました。今の私の行動が、一体どういう風に周りに見られたのか。後から不安になったりします。
「それと、これ。この間のお礼って事で」
 と、その時。
 チーフであるお母さんが果実酒とグラスも出してきました。
「飲んで下さいって、言っておいて」
 なんだか意味深な表情です。それにこくこくとうなずくと、私はすぐに料理皿と瓶を持ってシャルトさんの席へ駆けました。皿には豚肉と野菜の炒め物がたっぷりと乗っています。一皿で大体一人前なのですが、伝票には同量の注文があと数皿あった気がします。どちらかというと小食な私には、とても考えられない量です。
「お待たせしました」
 そして、私はシャルトさんの席に辿り着くと、ゆっくりと静かに目の前へ皿を置きました。そしてその横に、先ほど出された果実酒の瓶とグラスを置きます。
「これは?」
 そうシャルトさんはこちらを見上げながら訊ねました。間近で見るシャルトさんの薄紅色の瞳に、私は思わず心臓を高鳴らせます。まるで何かの宝石のように、その瞳は綺麗なのです。
「あの、母からこの間のお礼だそうです。どうぞ、遠慮なく飲んで下さい」
 いや、飲んで下さいではなく召し上がって下さいです。言った後から私は自分の言葉の間違いに気づき、心の中で渋い顔をしてしまいます。やっぱりシャルトさんと話す時は変に意識し過ぎて冷静になれません。いつもなら決して間違ったりはしないのに。
「うん、ありがとう」
 そうシャルトさんは僅かに微笑むと、瓶に手を伸ばします。
「あ、私が」
 直後、私はまるで奪い取るかのようなタイミングでシャルトさんよりも先に瓶を手に取りました。ちょっと動作が唐突過ぎたと心の中で反省します。そして封を切ると、瓶の代わりにグラスを手にしたシャルトさんに向けます。
「どうぞ」
 ゆっくりと静かにグラスにお酒を注ぎます。独特の薄く透き通った透明色の液体がグラスに流れていきます。漂う匂いからして、どうやら杏子のようです。なんだかシャルトさんにお酌をするのは、照れ臭くも嬉しいものがあります。普通、給仕の仕事しかしない私達は、お客にお酌などはしないのです。私はシャルトさんだからやっているのです。その気持ちが届いているでしょうか、と心の中で何らかの反応を期待してみたりします。
「ああ」
 と、シャルトさんは一度私の方に視線を向けました。
 あ、そうか。
 じろじろと誰かに見られていては落ち着いて飲めません。きっと今のは、私の視線が気になるという合図だったのでしょう。確かにシャルトさんが食事をするところをジロジロ見つめるのは趣味も良くないし、私がしなくてはいけない仕事もまだまだ沢山あります。ここでボーッと突っ立っている訳にはいきません。
「では、失礼します」
 私はすぐにその場を後にしました。まるで逃げ出すような勢いです。シャルトさんから逃げる事なんてないのに。やっぱり、まだどこか照れが強いのです。
 ……っと、しまった。ごゆっくりどうぞ、と言って一礼するのを忘れてしまった。
 どうもシャルトさんの前では普段の自分を見失いがちになってしまいます。
 こんなままでは、その内にシャルトさんに嫌われてしまうかもしれません。もう少し落ち着いてやらなければ。



TO BE CONTINUED...