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 少年は一歩も臆する事無く駆けた。
 ただひたすら、前へ前へと。
 目前に群がるのは、目の覚めるような白の制服を纏い頭を一様に剃り上げた異様な風体の集団。北斗十二衆の中でも数少ない、精霊術法を使わない戦闘スタイルを貫く流派『白鳳』だ。
「どけぇっ!」
 気合一閃。
 小さなその体からは想像も付かないほどの、まるで雷鳴のような怒号を放つと同時に、シャルトは白鳳の大群に対して真っ向から切り込んだ。
 十分に加速をつけ、最後に後ろ足で強く石畳を踏み込んで体を前方に撃ち出す。踏み込んだ石畳には深くシャルトの足跡がついた。
 シャルトは空中で姿勢を整えて、踏み込んだ方と逆の足を前方へ突き出す。さながら投擲の槍のように、最前列の数人をまとめて弾き飛ばした。着地と同時に、シャルトは軽く飛び上がると、すかさず襲い掛かってきた数人を繰り出した回し蹴りによって薙ぎ払う。鮮やかなその蹴りは、ある種の芸術的な感嘆すら覚えた。
 白鳳は精霊術法を用いないが、その代わりに『気』と呼ばれる独自の理論に基づいた特殊なエネルギーを用いる。詳細は明らかにされていないが、主に自分の肉体を一時的に鋼のように強化したり、離れた場所にいる相手に衝撃を与える事が出来るそうだ。精霊術法を用いない流派に限定すれば、北斗の中で最も体術に優れた流派である。
 そんな白鳳に対し、たった一人で、しかも同じ土俵である体術で勝負をかけるシャルトの行動は、到底正気の沙汰ではなかった。しかし、その常識論を持っていたのは白鳳側だけで、当のシャルトは全くそういった計算は持ち合わせていなかった。
 頭の中にあるのはただ、一つ。白鳳の包囲網を破り、一秒でも早くリュネスを凍姫の中から救い出す事。
「ハァッ!」
 鋭い発生と共に、レジェイドに習った格闘術での最も基本となる技、拳を横に構えて放つ横拳を放つ。
 だが、シャルトの拳が捉えた一人の男の腹部は、難なくその一撃を弾き返した。
「くっ……」
 衝撃がそのまま拳に跳ね返ってきた事で表情を歪めたシャルトは、すぐさま拳を引いて体を低く沈ませる。
 白鳳が得意とする、『気』を使った防御方法だ。練った『気』を張った体は拳だけでなく刃物すら用意に弾き返す事が出来る。また、防御だけでなく攻撃に用いる事も可能で、たとえ相手がどれだけ強固な装甲で鎧っていたとしても、やすやすと拳は貫く事が出来るのだ。
 不意を突かれた事で出鼻こそ挫かれたものの、自分達に『気』がある以上、同じ体術同士で敗北は有り得ない。そもそも、相手は子供一人だ。何の憂う要素は無いのだ。
 自軍の優位を確信した彼らは、一瞬攻撃の手を緩めたシャルトに向かって一斉に襲い掛かった。
 しかし。
 シャルトは姿勢を低くしたまま、右の拳を構えて再び真っ直ぐ前へと直進する。
 また同じ攻撃だ。どれだけ加速をつけようが、打撃技が通用するはずは無い。
 そう、先ほどシャルトの拳を弾き返したばかりの男はたかをくくり、あえて無防備に体をさらした。
 鈍い衝撃と共に、『気』の充満した体が易々と攻撃を弾く。
 そんなイメージを持っていた男だったが、次の瞬間には予想だにしない感覚に見舞われた。
 走ったのは丸めた紙で殴られたような緩い感覚ではなく、嘔吐感にも似た、体中に染み渡る異様な衝撃だった。
 唖然として見下ろすと、シャルトは男の体へ拳では無く手のひらを当てていた。通常の打撃は通用しないと判断したシャルトは、すかさず剛拳から柔拳へ切り替えたのである。
 刹那の感覚を置いて、シャルトの掌打を受けた男の体ががくりと膝が崩れる。
 拳で繰り出す剛拳は、主に相手への外傷を狙ったものだ。対して柔拳は、内臓等の内面へのダメージを狙った攻撃である。そのため衝撃は内部へと浸透して背中側から抜けていくため、同じ衝撃でも激しく後ろへ吹き飛ばされるような事は無い。柔拳は剛拳に比べてエネルギーの伝達効率は格段に良いからである。
 シャルトの思わぬ攻撃に、周囲は咄嗟に一度足を止める。その僅かな隙を逃さず、シャルトは今倒したばかりの男の肩を踏み台にすると、前方へ大跳躍する。小柄な体格に比べて脚力の強いシャルトの体は、まるで羽が生えているかのように空中を滑走した。
 やがて加速度が重力を下回り高度が落ち始めた頃、シャルトは着地点を一人の男に定めた。
 咄嗟に腕をクロスさせて呼吸を吐き、上半身に『気』を充満させてシャルトの着地に備える。そこへ、シャルトは空中で両足を揃えて屈み込むと、激突の瞬間に合わせて力一杯踏みつけるように両足を伸ばした。ドンッ、と鈍い音が辺りに響き渡る。シャルトの繰り出した両足は男の胸板を直撃し、男の足が僅かに石畳の中へめり込んだ。一見すると完全にシャルトの攻撃を受け止めきったように見える。しかし、男の目はじろりとシャルトをにらみ付けた刹那、ぐるりと白目を剥いて真っ直ぐ後ろへ倒れ込んだ。
 再びシャルトは疾走する。低い姿勢で目にも止まらぬ速さで縦横無尽に駆け巡るシャルトの姿は、目で追っていくだけでほぼ精一杯だった。数の優位は状況の優位と思われたが、こういった場合には逆にシャルトにとって有利となる死角を多く作り出してしまい、かえって不利な状況になってしまった。
 シャルトは止まらなかった。無理な戦闘は行わず、極力敵の居ないルートを選んで走る。最小限に絞った戦闘はシャルトを足止めする時間を大きく狭め、現状の情報が迅速に伝わりきるのに弊害をもたらした。更に、シャルトの身のこなしはあまりに速く、誰一人としてついていく事が出来なかった。一瞬、黒のだぼついた制服を着た少年の姿が現れたと思ったら、焦点を定めるより先にその姿は消えてしまっている。人間の持つ反応と反射のレスポンスを最小限にしようとも、ただ単に反応する暇も与えられていない以上、シャルトを補足するのは限りなく不可能に近い。
 疾駆するシャルトは時間ばかり気にしていた。
 焦ってはいけない。しかし、急がなくてはいけない。
 二つの相反する衝動のバランスを集中力でうまく統合しながら、尚も先へ先へと進んでいく。
 流派『白鳳』は、今の段階では北斗派にもエスタシア派にも属していない、第三勢力だ。しかし、はっきりと味方であると明言出来ない以上は同じ敵である。レジェイドから受けた注意をシャルトは忠実に守っていた。
「これ以上は進ません!」
 地鳴りのような大声を上げてシャルトの目の前に立ちはだかったのは、まるで山のような大男だった。小柄なシャルトからしてみれば、まさに文字通り見上げるような体格差である。それほどの大男が目の前に立ち塞がると、とてもかわす隙が見つからない。肉の壁に進路を遮られてしまった。
 しかし、このまま後戻りしても数で押し切られるだけだ。
 そう判断したシャルトは、逆に真っ向から向かっていった。
 一般に、シャルトの性格は直線的であると評されている。それは同時に多岐に渡る思考を持つ事が出来ず、ただ一つはっきりと見えている事だけに真っ直ぐ突き進むのだ。そこから照らし合わせると、このシャルトの判断は自棄を起こして考え無しに突っ込んでしまった、と思われても仕方が無いだろう。確かにシャルトには微に入り細を穿つ考えは無かった。しかしシャルトが一人で向かう事を良しとしたレジェイドの判断は、それすらも考慮した上にあった。
 瞬時に間合いを詰めたシャルトは男に向かって飛び掛ると、襟元を両手で掴んで着地した。。
 背の低いシャルトに襟を掴まれ、男は前屈みになった姿勢を取らされてしまう。しかし、体重差は明らかである。男はすぐさま自分の本来の姿勢を取り戻そうとシャルトの引く力に逆らった。
 だが、それがシャルト狙いだった。
 男が後ろへ引いた瞬間、シャルトはすかさず前へと踏み込んだ。そしてそのまま、男の引く力を利用して襟を掴んでいた手を離して掌打の型に構え直すと、男の胸を斜め上に突き上げるように繰り出した。
「かッ!?」
 男は肺を握り締められたかのような衝撃に悶えながら、自分の足が石畳を離れて大きく中空に飛んでいた様を目の当たりにした。
 俄かに目の前の光景と自分の身に起こった事を理解する事が出来なかった。自分ほどの体重を、あんなに小さな子供が弾き飛ばすなんてとても信じ難い事だったからである。
 空で姿勢を戻そうにも、衝撃に胸を打たれて思うように体が動かせない。ただ『気』だけを途切れさせず全身に充満させたまま、力の流れに身を任せるしか他無かった。
 男が宙に浮いた事を確認すると、シャルトは一度、自らの右手首をぎゅっと握って一呼吸置いた。
 右腕を屈曲させて低く構え、重心を出来るだけ落とす。それは丁度、バネが最大限の張力を持って弾けるために小さく縮んでいる様に似ていた。
 男の体が石畳に落下しようとしている。そこに目掛けてシャルトは石畳を強く蹴って踏み込んだ。同時に縮めていた体を一気に伸ばし、横拳に構えていた右腕を勢い良く前方へ突き出す。
 ゴンッ、とまるで大岩を打ったような鈍い音が辺りに響いた。
 シャルトの拳は『気』を充満させた大男の体を一直線に打ち抜き、大きく吹き飛ばした。大男は数十メートルもの距離を背中といわず頭部といわず転げるように滑走し、やがて止まった頃には目をむいて泡を吹きながら意識を喪失していた。
 十分な溜めがあれば、シャルトの拳は十分『気』を充満させた体も打ち砕く事が可能である。まさにそれを印象付ける決定的な光景だった。
 周囲に戦慄が走る。『気』をコントロールして戦う自分達の武術は完璧だという強い自負を持っていた彼らだったが、目の前でこれ以上に無い完璧な形でその自信を打ち砕かれてしまったのだ。そしてプライドが砕けた瞬間、人間は生理的に恐怖を覚える。
 更にシャルトは疾駆する。
 もはやシャルトを止められるものはいなかった。その小さな体に秘められた力はあまりに強く、そして速過ぎた。
 強固な信念を持つ者の強さと言うべきか。シャルトが腹の中に飲み込んだ剣は硬く鋭い。
「……ッ!」
 ようやく白鳳の軍勢を抜けようとした時、一人の青年がシャルトの前に立ちはだかった。思わずシャルトは彼の雰囲気に気圧されて足を止める。
 同じ白鳳の真っ白な制服を着ているが、頭は剃られておらずさっぱりとした短髪だ。眼光は鋭く、放つ空気も他の人間とはまるで格が違う。
 シャルトの頭の中に浮かんだのは、彼が白鳳の頭目、もしくは白鳳の実力者であるという事だ。
 青年は体を横に構えると、右腕を腰の後ろに、左腕は手のひらを上向きに広げてすっと前方へ伸ばした。その手を一度、くいっと引き寄せるように起こす。自分を明らかにターゲットとして見ている。
 格上の実力者が出てきた所を見ると、いよいよここからが正念場だ。無謀だという事は知っているが、一歩たりとも退くつもりはない。そのリスクは初めから全て承知の上だ。たとえ死ぬ事になるかもしれない。けれど、それでも退けない理由が自分にはあるのだ。
 自分で決めた誓いと、大切な人を守るため。
 この戦いは、シャルトにとって自らの信念を全て賭した戦いだ
 必ず勝つ。
 シャルトはだぼついた上着に手をかけると、それを脱ぎ捨てて身軽な軽装になった。上着の下に着ているのは、白いランニングシャツ。サイズが若干大きいのか、首元の位置が普通よりもやや下がっている。
 脱ぎ捨てられた上着の中からひょっこりとテュリアスが姿を現した。しかし、いつものようにシャルトの肩に乗る事はなく、ただじっとシャルトの背中を見つめていた。
 シャルトも応じて重心を下げ戦闘体勢を取る。腕は軽く曲げ、左腕を前へ、右腕は脇腹へ軽く当てる。
 深く息を吸い込み、吐く。
 自分の中で蒼く輝く剣が、一層の輝きを放ち始めたのを感じる。
 大丈夫、行ける。
 そう自らに言い聞かせ、シャルトは自分から前に踏み出した。



TO BE CONTINUED...