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自分とした事が。
そう、自惚れた言葉を連ねる気はさらさらありませんが、自らの失態を悔やまずにはいられません。
やはりまだ実戦は早かったのです。
もう少し慎重な判断を、どうしてあの時に下す事が出来なかったのか。
思い返すだけ、無意味な自傷行動でしかありませんけれど、後悔は悔やみきれないほど大きい。
さて、困りました。
本当にいい加減、あの子達はいつになったら到着するのでしょうか。
早く来てくれなければ、いよいよ深刻な領界へ足を踏み入れる羽目になるというのに。
パァン、と空気の破裂するような音が私の背後から聞こえてくる。けれど、深刻な状況である事に変わりはない。前門の虎、後門の狼とはまさにこの事だ。
今の破裂音は、リュネスが体現化したそれから意識を切り離した音だ。
正直、今の行動には驚いた。あの普段は大人しくて必ず人よりも一歩下がる性格のリュネスが、風無の頭目と戦おうとした私に割って入りかけた事もさることながら、問題はリュネスが行った精霊術法だ。リュネスの実力は、現時点でははっきり言って評価に値しない。ようやく障壁の基礎を覚え、攻撃スキルを研き始めたレベルだ。まだまだ戦力要員と見なすには速過ぎる。そんなリュネスを戦闘に参加させたのは、実戦独特の空気を肌で感じる経験をしてもらうためだった。無論、感じさせるだけで戦闘そのものには一切参加させないつもりだったのに。いつの間にかリュネスは少しずつ積極的に行動を始め、自分の判断で攻撃を仕掛けるまでになっていた。それは実戦の空気を実際に感じた事で一回り精神的な成長を遂げたからだと思っていたが、実はとんだ見当違いだった。
リュネス=ファンロンはSランクのチャネルを持つベルセルク宣告を受けた人間だ。そして、その魔力の制御技術はまだ不安定かつ未熟。そんな人間が精霊術法を使い続ければどうなるのか。その結果がこれである。
一連の自発的行動は、全て魔力によって理性を侵蝕されたからに他ならない。完全に正常な判断力を失ってはいないものの、冷静に考える事は難しい状態まできている。もしもまともに物事を考えられるのであれば、自ら進んで頭目と戦おうなどとは思うはずがない。頭目とは流派の最高実力者である事が絶対必要条件なのだ。障壁が少し展開出来る程度では防戦にすらならず、一瞬で決着をつけられてしまうのである。
更に、あまつさえ無謀にも私と同じ術式を独自のアレンジを加えた上での体現化までやってのけた。これだけ大量の魔力を扱うのは相当な修練が必要不可欠である。にもかかわらず、何の臆面も無しに行動に移したのは、重ねて言うようだが理性を侵蝕され正常な判断が出来ないからに相違ない。たまたま成功したはいいが、一つ間違えばそのまま暴走へ直行する危険性が激しく高いのだ。少なくとも一ヶ月程度の訓練しか受けていないものが取る行動ではない。
早く事態の収拾をつけなくてはいけない。
リュネスは既に暴走への悪循環へ片足を突っ込んでいる。その流れに捕らわれてしまわぬ内に、精神を落ち着けさせなければ。しかし、目の前にいるのは流派『風無』の頭目だ。現実的に考え、今の自分の実力では到底かなわない。だからこそ、いち早いファルティア達の到着を待ち望んでいる訳だが。今の状況は決して良くは無い。頭目が腰を上げてしまったのだ。まともに遣り合えるのは私しかこの場にはいない。そして私では勝つ事は出来ない。もしもファルティア達が到着する前にやられてしまうような事があれば、凍姫本部はほぼ陥落すると言っていいだろう。無論、ここにいる全ての人間は間違いなく死ぬ。
進む事も戻る事も出来ない八方塞の状態。とにかくファルティア達がいち早く駆けつけてくれる事を切に願った。この危機的状況を打破する唯一の現実的な手段とは、ファルティア達の到着まで持ちこたえる事である。
私はもう一度正面を向き直り、精神を鋭く冷たく研ぎ澄ませる。右手にはほぼ腕と一体化している氷の大剣が体現化されたまま月明かりを受けて静かな光を湛えている。これが私の持つ術式の中で最大の精霊術法だ。先ほどこの大剣から放たれた衝撃は風無の隊員を容易に切り伏せたが、果たして頭目にはどれほど通用するだろうか。
私の目の前に立つ流派『風無』頭目、サイゾウ=霧隠を真っ向から見据えた。しかし、彼は依然として腕を組んだまま、頭部を覆う布の僅かな隙間から刺すような眼差しでこちらを見るだけである。その目は温かさや冷たさといった人間的感情を一切感じさせず、ただ視線だけがこちらに注がれていた。それはまるで初めて見る物体を観察するかのようだった。風無は情報収集も役目としている。情報とは徹底した現実主義において収集されるものだ。そこに映る人間の姿もまた、その場で起こった単なる現象のひとつにしか過ぎない。私の姿も、彼の目には単なる動く障害物程度にしか映っていないのだ。
息苦しさすら感じさせる視線だ。自分の一挙一動を事細かく追われる事が、これほど苦痛であるなんて。人間とは無意識の内にある一定の周期動作や言動の特徴を露呈してしまう動物だ。実戦では、その特徴というものを手がかりに相手の弱点を探り出す事はさして珍しくはない。相手の癖を見抜きつつ、自分の癖は最小限見せぬように隠す。そして更に、偽の癖を見抜かさせておき相手を混乱させるという駆け引きも存在する。しかし、サイゾウ=霧隠の観察眼は『そんな馬鹿し合いなどすぐに見抜く』とでも言わんばかりに全てを見透かされたような錯覚を与えてくる。そればかりか、自分すら知らない己の弱点すらも見抜かれてしまうような恐怖感が込み上げてきた。これが齢四十を超えた人間の放つ雰囲気なのだろうか。改めて頭目の迫力を実感させられ圧倒されかける。
あの目は、一体自分の何を見ているのだろうか? 考えれば考えるほど焦りは募っていく。
正直なところ、私には余裕が無い。精霊術法そのものはまだまだ余裕があるが、体は限界まで迫ってきている。私は四年前の凍雪騒乱の最中で命を危ぶみかける重傷を負った。そのため内臓の幾つかが今でも機能が不完全になっており、循環器系もまた激しい運動には耐える事が出来なくなっている。全力疾走に換算すれば、およそ十分が私の限界だ。これまでは出来る限り体に負担を与えないように戦ってはいたものの、もはやこれ以上の誤魔化しは出来ないようだ。既に視界が酸欠のためか薄っすらともやがかり始めている。風無の頭目と正面からやりあっても勝ち目が無い理由の大半はそこにある。長期戦に持ち込まれたら、十中八九敗北するのは私なのだ。
長期戦が不利だと分かりながら、あえて時間稼ぎに出た私。その理由は二つある。一つは、この場にいる人間で頭目と対等にやりあえるのは私だけである事。そしてもう一つは、私の言う所の限界とは命の安全を考慮した上での限界でしかないという事だ。
全体と自分一人を計りにかければ、重きを置かれるのがどちらかなんて言うまでも無い。
守り手の頭数は、数の多少の問題。一人一人の命を数字に置き換えられる、これが北斗に属する人間の宿命であり、性なのだ。
と。
「ッ!?」
突然、たった今まで目の前にいたはずのサイゾウの姿が、まるで闇の中に溶け込んだかのように消え去った。
しかし私は慌てず意識を周囲へ張り巡らせる。戦闘においては、必ずしも相手を目視確認する必要はない。相手の気配さえ感じ取っていれば、攻撃を仕掛ける事や相手の攻撃を防ぐ事も可能なのである。
さすがに隠行術を得意とする風無の頭目だけあり、気配が一瞬で消えてしまったように錯覚させられた。けれど、私は気配を見逃してはいない。人間とはただじっとしているだけでも沢山の音を出すのだ。呼吸や心音、骨の軋む音や筋肉のしなる音など、この生体音だけは完全に消し去る事は出来ない。音の発する僅かな空気の振動は嫌でも肌に伝わる。それを辿っていけば、相手の正確な位置を掴む事が出来るのである。
気配は私の丁度真後ろにあった。一体いつの間にそこへ移動したのか、その身のこなしは驚嘆すべきものだが、決して反応出来ない速さではない。
防御するよりも、撃墜した方が早い。そう判断した私は、重心を左足に全て傾けると上半身を大きく捻り、右手の大剣を水平に構える。そしてバランスを取りながら意識では相手の気配を追いつつ、右足で路石を後ろへ蹴り出した。すると私の体は右回りに開きながら鋭くしなる。その反動を利用し、振り向き様に右手の大剣で横一文字に薙いだ。
が。
えっ!?
確実に捉えたはずのその一撃。しかし刃は空を切るどころか、そこには彼の姿そのものが存在しなかったのだ。
「空也」
直後、凍りつきそうなほどの殺気が背中に浴びせられた。
「くっ!」
私は気力で浴びせられた殺気に触発された恐怖を捻じ伏せると、すぐさま本当の気配の元へ向き直る。
一陣の風が鋭い音を立てて走った。
刹那、右手に体現化された氷の大剣が塵となって闇に消える。
「……あ」
私は思い出したかのように膝の力を失い、その場に崩れ落ちた。
「哀れ」
彼の声がやけに遠くから聞こえてくる。目は開いているのに、何故か急速的に視界が闇に包まれていく。肩から脇腹にかけて、袈裟斬りに疼痛が走っている。その線が少しずつじわじわと熱を持ち始めた。
本当に一瞬の出来事だった。最初の背面取りは不意を突くための布石だったのか、もしくは単純に実力差がそれだけあったという事なのか。殺気に反応し大剣で防御姿勢を取ったような気もしたが、その時は既にあの風の刃で切られていた。体はまだ繋がっているのだから、おそらく防御の方が先だったのかもしれない。しかし刃は防御をあっさりと抜けて私の体を切り裂いた。唯一の救いは、傷口が鋭すぎて大量に出血していない事だろうか。おかげで体は動かないものの激痛には苛まれない。
この実力差。
やはり現役を引退した身には荷が重過ぎたようだ。さすがに頭目格を相手に自分のような半傷人ではまるで勝負にならない。たとえ体調が万全だったとしても、結果そのものは今と変わらなかっただろう。
体を切られた直後、私は途方もない絶望感に見舞われた。
もはや完全に勝敗は決してしまった。ファルティア達が到着するまで時間を稼ぐはずだったのだが、遂にそれを完遂する事は出来なかった。私はもう戦う事はおろか立ち上がる事すらも自力では不可能だ。こちら側の戦力は依然として二十数名のままだが、対する風無の本隊はざっと見渡しただけでは数え切れないほどの戦力が残っている。しかも私が倒れた事で士気の低下は否めないだろう。不利という言葉で片付く事態ではない。もはや敗北は決定的だ。
ハッと誰かが大きく息を飲んだ。しかし、誰も倒れている私の元へは駆け寄ってこない。というよりも動けないのだ。私の前には風無の頭目が立っている。迂闊に動けば、いや、まばたき一つでもすれば一瞬で殺されてしまうような状況だ。平然としていられる人間の方が異常だ。
……いや。
その時、私は魔力の流動する気配を感じた。それも並みの量ではない。私が一度に扱える量を遥かに凌駕する、あまりに圧倒的な量だ。
そうだ、一人だけいた。この状況に臆する事無く行動を起こせる向こう見ずな人間が。
止めなければ。
私は体に力を込めて、今一度立ち上がろうと試みた。風無の頭目と戦うためではなく、この状況を物ともしない唯一の人間、リュネスを止めるためだ。しかし、やはり体は思うように動かない。幾ら腕に力を込めようとも、体が路面に張り付いたまま離れない。
このままではまずい。
それは分かっていた。けれど体が思うようにならないのだ。リュネスを凍姫に入れたのは自分の決定ではない。しかし、暴走しようとしているのを見捨てるほど私は冷酷な人間でもない。凍姫に入った以上、リュネスは私の後輩に当たるのだ。後輩を守るのは先輩として当然の努めなのである。
ままならない己の体が、今ほど忌々しく思える時はなかっただろう。一度暴走が始まれば、無事生還出来る可能性は皆無に等しい。だから今の段階で止めなければならないのだ。私は体が動かないので、代わりに誰かがリュネスを抑えて欲しい。けれど周囲は誰もが恐怖に縛られて動けなくなっているため、誰一人リュネスを止められる者はいない。
―――と。
突然、鈍い低音が何処から鳴り響いた。
「誰だ、あれは!?」
誰何の声が上がる。
私は薄れ行く意識を叩き起こすと、力を失いかけた体を奮い立たせる。それでようやく路石に張り付いた顔を上げる事が出来た。
頭目が出てきてからというもの、畏敬の念を示しているのか急におとなしくなった風無の人間達。しかしその黒山を、一人の人間が切り裂くかのように突っ切ろうとしている。何か別の人影が強引に割り込んでいた。すぐさま風無の人間はそれを排除しにかかるものの、逆に次々と返り討ちにあって吹き飛ばされている。
あれは……。
それは薄紅色の髪と真っ黒な北斗十二衆の制服を身に纏った、まだ幾許も無い齢の少年だった。この北斗において、彼ほど珍しい色素の持ち主はいない。だからなのだろうか、私は彼をはっきりと憶えていた。
シャルト。所属は夜叉。つい二年前に籍を置いたばかりの人間だ。年齢はリュネスとさほど代わりはないだろう。だが彼は、現在は封印されているもののAランクのチャネルを持ち、しかも一度暴走事故を起こしている。そこから運良く生還出来たため、北斗統括部からは厳重監視の意味で『バトルホリック』の忌称を与えられている。そういう意味では危険な人物だ。一度暴走を起こした人間は、再発の可能性が高いのである。
シャルトは次々と襲い掛かる風無の団員を強引に叩きのめしては人波を突っ切ろうとしている。しかし、同士討ちを恐れて風の刃を出さないものの、数が数だけにそう簡単には突っ切れない。よく見れば、シャルトは全身に傷を負っており血まみれになっている。なのに、どうしてこんな事をしているのだろうか? たった一人で、風無の本隊を相手にするなんて無謀極まりない。
いや、それよりも。
このシャルトの登場が与える真理的作用は大きいはず。うまくすれば、どん底まで落ちかけていた士気を再び回復する事が出来るかもしれない。
突然の事態に、風無の本隊には動揺が走っていた。単なる単騎の奇襲ならば瞬く間に鎮圧されてしまうのが常だが、しかし無謀にも単独で突入してきたシャルトは抑えられるどころか次々と襲い掛かる彼らを薙ぎ倒して向かってくる。戦力差の割合がある一定を越えてしまえば、後は少数派は大多数によって容易に蹂躙されてしまう。これが戦闘においての摂理なのだが、シャルトはそれをものともしていない。
頭目もまた、動揺こそしてはいなかったものの、渦中の元に視線を向けて明らかに注意を抱いている様子だ。まるで鉄壁のような精神武装が解けた訳ではないが、風無の絶対的な態勢が確実に揺らいでいる。もしかすると、これは絶好の好機かもしれない。今ならばシャルトの起こす騒ぎに乗じてこの場から撤退する事も可能だ。そうすれば、各地に散らばって依然集結していない凍姫の本来の戦力を集めるまでの時間が作る事が出来る。
しかし、我々側は風無以上の動揺を抱いているのだ。誰もが茫然と事の成り行きを見守ったまま動かない。この好機を早く知らせなければ。今は奮闘しているものの、どうせあれでは長くは持たない。その前に撤退しなくては。
と。
コツ、コツ、コツ……。
ふとその時、やけに落ち着き払った一つの足音が私の元へ歩み寄ってくる。私は何者かと重い体から残る力を振り絞ってどうにか上を向いた。すると、
「ミシュアさんは休んでいて下さい」
視線の先には、そうにっこりと微笑みかけるリュネスの顔があった。
その表情は明らかに一線を超えてしまった、パラノイア的な、ぞっとする笑みだ。この表情だけでもまともな精神状態ではない事がはっきりと伝わってくる。しかも右手には精霊術法を体現化し、展開している。それは、先ほどやって見せたものよりも更にもう一回り大きな剣身を持ち、禍々しさを一層増した氷の大剣だった。大剣はねっとりと絡みつくような凍気を放ち、リュネスが一歩踏み出すたびに触れた路石が一瞬で凍りついている。
この不安定な様相、圧倒的な魔力の奔流、そして無秩序な体現化。本格的に暴走が始まろうとしている。いや、既に悪循環の片端に浸かってしまっているかも知れない。
私は誰となくリュネスの制止を叫ぼうとした。けれど気管に血が詰まって咽てしまい、声が出せない。
リュネスは悠然と笑みを浮かべながら風無の頭目と相対する。その表情に恐れは無い。あるのは、絶対的勝利を確信した不敵な笑顔だけだ。
「さあ、今度は私が相手です」
TO BE CONTINUED...