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 肌寒く薄暗い地下の廊下。
 そこを一人、ゆっくり向かう人影がぽつりとあった。
 少し、血を流し過ぎた。
 汗ばんだ額を押さえ、予想外に熱を持ったそこに驚きを覚える。いや、自分の額が熱いのではない。額に触れた手のひらが冷たくなっているのだ。
 ヒュ=レイカは息を切らせ、時折よろめいては壁に手を付き支えつつ歩く。体中に刻まれた大小幾つもの傷は出血こそ止まりつつあるものの、脳の奥まで響く痛みとが残り少ない体力を否応なく奪い去っていく。鉛を背負っているかのような体の重さにとめどなく襲い掛かる頭痛。普通なら大事を取って休養に専念する体調なのだけれど。ヒュ=レイカは死に体に近い己に鞭を打ち、ただ前進することになけなしの精力を注ぎ込む。
 こういう時、シャルト君は楽なのかなあ。
 ふとそんな事をヒュ=レイカは思い浮かべた。シャルトは北斗に来る前のとある事情で無痛症を患っているため、たとえ致命傷を負ったとしても、身体機能が極端に低下でもしない限りは痛みに行動を制限される事がないのである。だが痛みを感じない事はリスクばかりが付きまとう。死に至る前兆が出ていたとしても、それを自覚する事が出来ないため適切な手当てが受けられないのである。精神的にも問題が多々あり、シャルトはそれとの戦いに追われる日々だった。今では人並の生活を送れるまでには回復しているものの、そこに至るまでの並々ならぬ経緯と未だに完治とは言えぬ事情を知っている自分が安易に、痛みを感じないなんて羨ましい、などと思うのは軽率過ぎる。今楽になるのかどうかと考えてしまうのは、普段自分が怪我をし慣れていないか、もしくは単純に精神的に弱いからだ。
 痛みを発する部位を上げていったらそれこそキリがない。そのたびに泣き言を言うような悠長な事をする暇があるはずもなく、また泣き言を許される立場でもない自覚ぐらいは持ち合わせている。それに、はっきりとした分かりやすい痛みを感じるという事は体がまだ正常である証拠である。これだけの傷を負っているのだ、痛みを感じない方がおかしい。それに、痛みというものは無視する事は難しいけれど我慢する事は出来る。そして痛みを我慢する事で気持ちも引き締まる。普段、緩く構えている事に慣れてしまった自分には丁度良い。
 気を抜くと、痛みに負けそうになる自分が居る。
 気を抜くと、疲弊した体が崩れ落ちそうになる。
 そのどちらも甘受すまいと、自分自身に叱咤激励を繰り返す。体は動く事を完全に拒否してはいるが、力関係の上回る理性の圧力に屈し渋々足を動かし続ける。だが少しでも油断をすると体は休息を行ってしまうので、常に動向から目を離さずに監視する。
「ハハッ、なんか僕、柄にも無く随分と頑張ってるじゃん」
 独り言のように呟いた自嘲の言葉がぽつりと暗闇に響く。無駄口を叩く余裕など無いはずだが、そんな強がりがほんの僅かに普段の自分の持つ気力を与えてくれるように錯覚した。
 たとえ錯覚でも、前に進む力となればそれで良い。痛みを感じなくなり、目が見えなくなって、呼吸が止まるまで。そうなるまでは足を止めてはならない。本音を言葉にすると、正直こんな事にはもう関わりたくはない。だが、もしもここで逃げてしまったら、自分にとって自分以外の大切なものが全て壊れてしまう事になる。元々、財産となるようなものなど何一つ持たずに北斗へやってきた自分、今大切に思うものは全て北斗で手に入れたものだ。その北斗の危機に、怪我をしたからと尻尾を撒いて逃げるのは正直情けないと思う。確かに面倒事は御免だし、なんたら道と銘打った崇高な信念など持ち合わせていないので逃げる事には何の躊躇いも無い。けれど、大事なものを奪われてまで黙ってられるほど臆病者でもない。そもそも、自分は守るための戦士なのだ。守るべきものを放棄するのは、自分が蔑んできた何の主義主張も持たない奪うだけの戦闘集団と同じだ。これまで、自分は守星として北斗のために戦ってきた。あまり誇りとかには興味はないけれど、わざわざ自ら傷をつけるような事をするのは馬鹿らしい。
 地下一階の奥にこじんまりとあった小さく狭い階段を伝って地下二階へ。
 無理な歩き方をしたせいか、階段を下りるのに随分と膝が痛んだ。親切に手すりがついた階段ではなく、支えの無い足を一歩踏み出すのに酷く膝が痛んだ。何とか壁を伝って降りるものの、同じ距離を普通に歩く以上に時間がかかった。ようやく整い始めた呼吸も再び激しさを増してしまう。乱れた呼吸は疲労に拍車をかけ頭痛に勢いを与える。だが、ここまで追い込まれると今更多少の変化は逆に気にならなくなった。先程の『断罪』との戦いで、ここまで切り刻まれて怪我が一つ増えようが二つ増えようがあまり関係無くなったのと同じだ。
 階段に面した細く短い廊下を抜けると、思ったよりも広いフロアに出た。丁度地下一階の倍はあるだろうか。そこに碁盤の目のように通路が幾つも走っている。壁には檻が埋め込まれており中が牢として機能している。だが一つとして向かい合う牢は見当たらなかった。おそらく罪人同士のコミュニケーションを取り辛くするためだろう。ただフロアの区画的な作りがどこか北斗の市街区の作りに似ているような気がした。
「……ん? これは……うぇ」
 ヒュ=レイカはふとに嗅ぎ取った生臭い匂いに思わず顔をしかめた。それは血の匂いだった。それも一人二人のものではなく、もっと大量のだ。
 右手で傷を押さえながらそろそろと左手を持ち上げ、手のひらを上へかざす。荒い呼吸を宥めながらそっと目を閉じて脳裏にイメージを描き構えた手のひらの上で体の内から流れ込む力と混ぜ合わせ体現化する。描いたイメージは、小さな篝火。
 ぽっと現れた小さな炎が周囲を薄く照らす。それを見てヒュ=レイカは、小さく安堵の溜息をついた。
 ヒュ=レイカは最近になって急激に精霊術法を使う事が出来なくなっていた。初めは一時的なスランプのようなものだとたかを括っていたのだが症状は深刻化の一途を辿るばかりで、術式を安定させるばかりか体現化そのものさえ困難になってきている。だが、まだこの程度の小さな術式ならば安定して体現化出来るようで、それでヒュ=レイカは安堵したのである。
 薄明かりに床を照らしてみると、赤茶けた足跡が一つ、長く尾を引きながら浮かんでいるのを見つけた。足跡はまっすぐ今降りてきた階段の方へ向かっている。おそらく引き摺るような足取りだったからこのような跡がついたのだろう。
 この足取りの主は一体誰なのか。
 まず、レジェイドの顔が直感的に浮かんだ。靴の大きさもこの程度で違和感は無いだろうし、何よりも一つしか足跡が無いというのが少なくとも反乱軍の誰かのものであるという可能性を否定する。それよりも、レジェイドがシャルトの体を片手で背負って歩いている姿を想像する方がよほどしっくりくる。
 ヒュ=レイカは足跡を逆に辿っていった。足跡は地下三階へ続く階段へ最短ルートで続いており、近づくに従って血の匂いもより濃密さを増していった。そして階段の上から下を覗くと、一番下の階段から先が文字通り真っ赤に染まっていた。微かに倒れる人間の手のようなものも見える。
 どうやら自分の直感は正しいようだ。そうヒュ=レイカはほくそえんだ。
 レジェイド達が地力で脱出出来たのであれば、次はルテラの番だ。エスタシアの話では総括部の地下に居るらしいが、地下一階には探しても見つけることは出来なかった。恐らくもっと下へ居るのかもしれない。
「それにしても、ルテラがいるかもしれないのに気がつかないで行っちゃったのかなあ、レジェイドは。あんなにシスコンなのにな。匂いとかで見つけると思ったんだけど」
 そう暗闇に向かって呟き、ヒュ=レイカは階段を引き返し地下二階の捜索に当たり始めた。
 エスタシアの口調からすると、ルテラ自身の存在はさほど重要に思ってはいないようである。レジェイドは夜叉の頭目に当たるため単純な影響力も持ち合わすが、今のルテラはただの守星の一人でしかないため大した価値があるとは思わなかったのだろう。となると、わざわざ手間のかかる地下深くへ連れて閉じ込める必要性は無いはずだ。だから比較的浅い階にいると考えるのが自然だ。けれど、レジェイドの妹である以上は何かしらの交渉材料に用いられる可能性も捨て切れない。もしも浅い階層に居なければ、今度は逆に最深部へわざわざ向かわなくてはならなくなる。そればかりは、今の自分には少々辛い。単純に体力そのものが持たない可能性すら出てくる。
 頼むから、そういう事だけはしていないでくれ。
 そうヒュ=レイカは祈りながら牢の中を一つずつ探っていった。
 敵の本拠地の真っ只中に単身で侵入している事もあり、あまり時間をかけたくはなかった。他にもレジェイドを初めとする北斗派の人間はいるだろうが、連絡を取ろうにも動き回るだけの体力は残っていない。出来るのは一番手っ取り早い作業だ。それがルテラの捜索であるため、今はそれに専念するしかない。
 ルテラを見つけるまでしたら、今度こそ本当に休む事にしよう。これ以上、体力は本当に続きそうにも無いのだ。後は全部ルテラに任せてしまって、自分は療養に専念しよう。
 具体的に目標のボーダーを決めてしまうと、俄然と気持ちに余裕が出来てきた。あと少し、この辛さに耐え抜けばいい。そう考えれば、具体的には見えない後々の出来事に余力を残す必要も無いのである。
 区画化されている事もあって、捜索は非常に効率的に行う事が出来た。元々地下フロアは初めて足を踏み入れる所であるため、右も左も分からない。だが一定の法則に従って作られていると、どういった構図になっているのか非常に頭の中に描き易くある程度の予測も出来てくる。さすがにこんな所で道に迷いでもしたら、本当に野たれ死んでしまう。そんな締まらない死に方だけは御免である。
「ん? なんだろ」
 壁に格子が直接埋め込まれた形式の壁ばかり続いていたが、ふとその時、同じ壁に一つだけ鉄の扉の姿を見つけた。しかも、周りの壁の年季の入り方と比べ、明らかに真新しさが窺える扉だ。
「どうやらビンゴっぽいね」
 思わず安堵の笑みを浮かべると、ヒュ=レイカは早速扉の前に向かっていった。
 扉は本来ノブのある高さに窪みが設けられた引き戸になっていた。しかし手をかけられる幅が扉の大きさに見合ったものではなく、明らかに開きにくい作りになっている。
 軽くドアをノックして中の所在を確認する。じっと聞き耳を立てると、中から今の音に反応した誰か人の気配が聞き取れた。
 くぐもった音とノックした手に返ってきた衝撃から察するに、相当扉は厚い金属で出来ているようである。本来自分の術式は単純な破壊目的には向いていないため、少々厄介な代物である。それも、当然と言えば当然だが、しっかりと鍵がかけられている事を示す鍵穴が開いていた。
『……誰?』
 ふと、今のノックに反応した中の住人らしき人物の声が扉の中から聞こえてくる。はっきりと女性のものと分かる、扉の外の人物に対して露骨に警戒心を見せる声である。その声にヒュ=レイカは聞き覚えがあった。柔らかで特徴的なアルト。間違いなくルテラの声だ。
「やっと見つけた。僕だよ、僕」
『まさか、レイなの? どうしてこんな所に!』
 扉の外に居る人物がヒュ=レイカであると知ったルテラは声色から警戒心が消え、代わりに驚きに満ちた嬌声を上げた。
「愚問だなあ。神出鬼没が僕のモットーだって、前に言わなかったっけ?」
『確かに、この程度でいちいち驚いてちゃ身が持たないわね』
 扉の向こう側からルテラの苦笑いが聞こえる。ようやく日常の一部を取り戻した、と今のやり取りにヒュ=レイカはそう感じた。
「とりあえず、僕は鍵なんて持ってないんだけど。そっちからこじ開けられない? そういうの得意でしょ」
『人を猛獣みたいに言わない。部屋の中は全部多重結界がかかってて開けようにも開けられないの。下手に殴ったりしたら、術式で保護出来ないから手の方が潰れちゃうわ。第一、出来るならとっくにしてる』
「そっか。んじゃ、奥の手でも使いますか」
 と、ヒュ=レイカはこそこそと耳の裏を探り始めた。するとそこからにゅっと現れた長い針金を二本取り出した。
『何? 奥の手って』
「そうだなあ。ルテラは集合住宅の管理者がマスターキーを持ってる事についてどう考える?」
 針金の先を体現化した小さな雷光で複雑な形に曲げながら、そう冗談めいた謎かけをする。
『もしも部屋の中で何か事件が起こりでもした時、部屋が開けられなかったら困るわね。必要なんじゃない?』
「でも、その肝心な時にマスターキーが無かったらどうする?」
 そしてヒュ=レイカは形を整え終わった針金の先へふっと息を吹きかけると、扉の前に方膝をついて二本の針金を鍵穴の中へ差し込む。そして中をゆっくりと探るように針金を動かし始めた。
『そういう時の奥の手? あきれた』
 鍵穴を擦る音を聞きつけたルテラは、思わず溜息をついた。
「使う人間の倫理観の問題だよ。刃物も人に向けなきゃいいんだし」
『まさかあなたの口から倫理について教えられるとは思わなかったわ』
「マア、酷い言い方」
 そうルテラとのやり取りを楽しみつつ、ヒュ=レイカは鍵穴の作りを針金から伝わってくる感覚を頼りに頭の中へ描いていく。鍵穴は思っていたよりも旧式の形態で、このまま開けるのにこれといった問題は見受けられなかった。しかし、どうしても呼吸の苦しさと怪我の痛みが集中力を奪って思うように作業を進めさせてくれない。普段なら一分も必要としないのだが、まだようやく半分ほどが終わった程度だ。
「んっ……と。もう少しなんだけど」
『早くして。お兄ちゃんとシャルトちゃんが大変みたいなの』
「分かってるよ」
 ヒュ=レイカは徐々に口数を減らし声のトーンを落としていく。視線は暗い鍵穴の奥へ一心に注がれている。
 針金から伝わってくる感触は決して悪くは無い。だが、どうしても集中力を普段通りに高める事が出来ず思うように指先が捉えてくれないのだ。
 もっと集中しろ。
 そうしきりに言い聞かせ、尚も二本の針金で鍵穴を擦る。作業工程は後少し。もう残り僅かで鍵は開くのだ。
「よし……、後はここを」
 集中するヒュ=レイカは、心の声と口に出す声の差に気がついていなかった。ただ一心不乱に針金を操る指へ意識を傾ける。
 が。
 ふと、その時。不意にどこからともなく現れた一つの人影がヒュ=レイカの背後に立った。
 その人影はすっと右手を掲げ上げる。するとその手のひらには異様なほどの眩しい光が凝縮されていった。
 集められた光に照らし出された、修道女の装い。
 しかしヒュ=レイカの単方向化した集中力は、彼女の存在を感じ取る事が出来なかった。



TO BE CONTINUED...