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 最近、少しおかしいです。
 うまく言葉では言い表せませんが。日々の生活に違和感が隠せないのです。
 体重が少しずつ増え始めました。味の好みも変わり、普段ならあまり食べようと思わないものを、時折酷く欲するようにもなりました。けれど、それは今の時点で生活を脅かすほどの変化にはなりません。誤魔化すのが大変かもしれませんが、ふとした拍子で思い出そうとしても思い出せなかった、だけど今すぐ思い出す必要も無い、そんな程度のウェイトなのです。
「う……ん……」
 今朝もいつもの時間に目を覚ましました。
 これも最近になっての事なのですが、朝、そこはかとなく体がだるいのです。疲れが溜まっているのだろう、と思いましたが、私は特に疲れるような事をしていません。眠気も普段より強く、満足に眠れていないような気がして仕方ありません。
 どうして急に休息を欲しがるようになったのでしょうか。全く見当もつきません。
 それでも、この疑問が重くのしかかるのは朝だけで、一日の流れの中ではほんの一瞬の事です。単にもっとゆっくり眠りたいだけ。そう考えるだけで説明はつけられます。
 ベッドから降りて身だしなみを整え、部屋の掃除をした後に朝食を用意する。
 それらの私の仕事はいつも通りに滞りなく終える事が出来ました。一度だけ、不意に訪れたあくびに、うっかり大口を開けてしてしまいました。変わった所と言えばそれぐらいでしょうか。
 ファルティアさんはまだ起きて来ませんでした。多分、お仕事で大分疲れているのだと思います。時間にはまだ余裕があります。起こすのはもう少し後で大丈夫でしょう。
 リーシェイさんから戴いたお茶を淹れ、それを飲みながら一息つく事にしました。ボーっとしているとうっかり眠ってしまいそうなので、少し濃い目のお茶で目を覚まそうと思います。
 そう。
 昨夜、また変わった夢を見ました。
 北斗の市街区と本部との境界線にある大きな門。そこを凍姫だけでなく、他の流派の方々と一緒に攻め入るというものです。しかも私達を率いていたのは、エスタシアさんでした。だからとてもファルティアさんには言えません。
 遂に来るべき所へ辿り着いてしまった。そんな気がします。
 これまでの夢に出てきたストーリーは、みんな日常の些細な一場面ばかりでした。だからでしょうか、それほど私は真剣に考える事がありませんでした。けれど、昨夜の夢は思い出せば思い出すほど寒気がします。
 大きな門の前。そこで戦っていたのは、エスタシアさんと、一組の男女でした。彼らは私の素人目にも分かるほど、凄まじい達人でした。微細なイメージを驚くほどの速さ、機知を持って体現化し放ち、しかも息一つ乱す事がありません。とてつもなく強大な力を持っていながら、完全に自分の支配下に置いてコントロールしているのです。
 けれど、それほどの使い手である二人をエスタシアさんは一人で相手をしていました。
 その場には私だけでなく、ファルティアさん、リーシェイさん、ラクシェルさん、ミシュアさん、その他に大勢の凍姫の人や他の流派の人までいました。私達はただ傍観しているだけで一切の手出しはしません。いえ、そもそもその必要はありませんでした。二対一という構図でありながら、戦況で優位に立っているのはエスタシアさんだったのです。
 確かに二人は達人でしたが、それ以上にエスタシアさんは圧倒的でした。繰り出される術式は目にも止まらぬ剣閃であっという間に斬り捨てられます。理屈どうこう以前に剣の威力が、単純に術式よりも強いのです。戦闘ではより単純な戦力の方が確実性があり、そして逆に打ち崩しにくいです。だからこそエスタシアさんの剣術に死角はまるで見当たりません。
 覚えているのはここまででした。後はどうなったのか、思い出せそうでも記憶がおぼろげでいまいち良く思い出せません。けれど、これだけでも十分異常な夢だと思います。
 夢は基本的に自分の記憶から構成されるものです。そこに若干の願望とか不安に思っている事となどが入り混じって非現実感を与えます。だからいつも、どこかで見た事があるような場面ばかり見るのです。
 しかし、この考え方では昨夜の夢は到底説明し切るには至りません。私にはああいった記憶はありませんし、願望もありません。ましてや不安だけでここまでリアルな場面構成が行われるとは到底思えません。そもそも、今の私が不安に思っているのは別の事なのですから。
 どうしてこんな夢を見たのだろうか。
 何かがおかしいと思います。そう、これは決して自然に起こったものではなく、誰かの意図が組み込まれているような気がするのです。単なる憶測かもしれませんが、全く根拠が無い訳でもありません。何故なら私の夢は、見るたびに前回の続きのような仕立てになっているからです。
 ただでさえリアルな夢です。一貫性を持って連続されてしまうと、本当に夢なのかどうか、真剣に考えてしまいます。
 どこからどこまでが夢で、現実なのか。
 いよいよ境界線を真剣に考えなくてはいけません。
 忘れている何かに、気がつけない何かに、早く気がつかなければいけないような気がします。
 私はそうとは気がつかずに、焚き火の中へ手を伸ばしているのかもしれません。
 早く気がつかなければ、取り返しのつかない事になってしまう。それは考え過ぎなのでしょうか? たまたまはっきりと思い出せる夢を見ただけで、ここまでナーバスになるなんて。
 突然、来客の訪れを知らせるチャイムが鳴りました。
 こんなに朝早くに、一体誰でしょうか。すぐに私はリビングから飛び出して玄関へと向かいました。
「私だ。早くからすまないな」
 ドアを開けた向こうにはリーシェイさんが立っていました。私とは違い、その顔には少しも眠そうな色が窺えません。
「おはようございます。どうかなさいましたか? ファルティアさんはまだ眠っていますが」
「ああ、構わん。言付けだけだ」
 そう言ってリーシェイさんは玄関の中に入らず、そのまま話し始めました。
 リーシェイさんは、こういう言い方をすると失礼ですが、あまり遠慮をしない方のようです。いつもならば、私が何か言う前に中へ上がってくつろぎ始めます。私が来てからファルティアさんの部屋が掃除されるようになったため、ゆっくりと腰を落ち着けられるそうです。多分、以前から割と自由に出入りしていたのでしょう。
 けれど、今日のリーシェイさんはどこか違いました。これもまた失礼な表現になると思いますが、部屋に立ち入る事に遠慮しているように思えました。とても意外な反応だと思います。
「今の所、厳戒態勢が敷かれてから諸流派には目立った動きは無い。だが開戦宣言をした以上、もう間もなく武力防衛に踏み切る。こちら側の戦力はまだ把握されていないが、それも時間の問題だろう。今現在のこの状況は、リュネス、お前も明確に把握しておけ」
「え、あの……」
「悪いが何度も悠長に説明している暇は無い。把握し切れない部分は逐一確認するか、指示に従うようにしろ」
 口を挟もうとした私を、リーシェイさんはぴしゃりと冷たささえ感じる強い口調で黙らせました。
 リーシェイさんは朴訥な口調ではありますが、いつも私は優しくしてもらっていました。少々過剰なスキンシップはありますが、可愛がってもらっている実感はありました。そのせいでしょうか、初めてぶつけられた毅然とした言葉が、まるで突き放されたような気がして仕方ありませんでした。決してリーシェイさんは怒っているようではありませんでした。ですが、本当に今の言葉だけを反復する暇も無いほど急いでいるようにも見えません。これではまるで、そう、互いに凍姫に属しているという点だけでしか繋がりの無い、赤の他人のようです。
 いきなり上から押さえつけられた猫のような気分です。悪い意味で意表をつかれた私はそのまま硬直してしまい、ただただリーシェイさんの言葉を箱に詰め込むかのようにして聞き覚える事に専念しました。
「彼は今夜動くそうだ。午後に本部へ連絡を入れるので、それを待つようファルティアさんには伝えておいて欲しい。以上だ」
 ファルティア……さん?
 私は思わず疑問をそのまま口から飛ばしてしまいそうになりました。
 リーシェイさんは普段、ファルティアさんをさんづけで呼んだりはせず、基本的に呼び捨てです。それが急にどうしてそんな呼び方をするのでしょうか。それに、話している内容もさっぱり前後関係が分かりません。
 そしてリーシェイさんは自分の役目は果たしたと言わんばかりに、状況が飲み込めず戸惑う私になど構わず颯爽とその場から立ち去ってしまいました。呼び止める暇もありません。
 何が起こっているのでしょうか。
 私は寝起きで灰色になった脳細胞を急き立てて必死に考えました。
 まず、リーシェイさんの話の内容を出来るだけ思い返してみます。出てくるのはどれも降って湧いたような、唐突としか言いようの無いものばかりで、しかもどれも不穏な響きがします。
 散り散りになった記憶をかき集め、辛うじて把握した今の状況。
 北斗に厳戒態勢が敷かれている事。それは、何らかの危機的状況に北斗がさらされているという事です。北斗には守星という優秀な防衛組織が常に警備をしていますが、それでは対応しきれないほど事態は大規模。いち早くそれを収拾させるため、北斗にある十二の流派が腰を上げて厳戒態勢に入った。
 改めて考えてみると、それはとんでもなく大変な状況なのではないでしょうか?
 ヨツンヘイム最強の戦闘集団『北斗』は、これまで数え切れないほどの戦闘集団と戦い勝利してきました。北斗の強さは世界的にも知られるほど著名になっています。けれど、そんな北斗が本気にならなくてはいけないような相手が現れるなんて。かつて北斗の南区はとある戦闘集団の襲撃で壊滅状態になりましたが、今回は間違いなくそれ以上の相手に違いありません。ある意味、戦争が始まったと言っても良いでしょう。
 いつものように、のんびりしている場合ではありません。
 現状を取っ掛かりだけでも把握出来た私は、まずそう考えました。北斗そのものが存続の危機にさらされているのです。ましてや、私はその北斗を守る立場の人間です。ぐずぐずとこんな事をしている場合ではありません。
 油に火をつけたように、急激に全身の血が駆け巡って居ても立っても居られなくなりました。
 頭の中で今後自分がとるべき行動が、私に良く似た別人が実にてきぱきとこなす映像として早回しに流れました。そう、今すぐにでも私は戦場と化した街に繰り出して、群がる敵から北斗に住む人達を守るため戦わなくては。一度は暴走を起こしたせいで怖くて使えなくなってしまった精霊術法も、今では人並みに使う事が出来るようになりました。決してみんなの足を引っ張りはしません。私はもう、一年前の弱虫な私ではないのです。
 けれど。
 ふと、かき集めきったはずの記憶の断片が一つ、不意に浮かび上がってきました。
 リーシェイさんの言葉、『こちらの戦力は知られていない』とはどういう意味でしょうか? まるで、私達『凍姫』が北斗に隠れて何かをやっているかのような言葉です。
 それに、最後の『彼』というのも気になります。ファルティアさんと繋がっているようでもありますし、一体誰の事でしょうか?
「あ」
 と、私は思わず声を上げました。
 リーシェイさんの言葉と、昨夜の夢が交錯しました。
 もしも昨日の夢が現実の出来事ならば。今のリーシェイさんの言葉が全て説明つきます。
 まさか、そんな事が。
 私は疑いました。リーシェイさんの言葉ではなく、自分の記憶をです。
 あれはただの夢なのです。たとえどれだけリアルだったとしても、所詮夢は夢なのです。現実への影響は遠く及びません。現実と夢は同じ記憶ですが、その隔たりは絶対に埋まる事がないのです。
 けれど、あの夢は本当に夢だったのでしょうか。
 私は自分の記憶が疑わしくなりました。
 現実のような夢。
 夢のような現実。
 これらを区別するのは何か。
 極論を言えば、現実の事象は第三者の手によって幾らでも改竄する事が出来ます。だから必ずしも絶対的な判断要素にはならないのです。
 ならば、普段私達はどうやって同じ記憶の部類に入る夢と現実とを区別しているのでしょうか。
 そう、何の事はありません。
 これは夢だ、という記憶があれば、それは夢。無ければ現実。
 安易なように思えて、割と誰もがこんな判断基準で区別していると思います。だから、もしも仮に、その判断材料となる記憶に第三者の手が加えられたら。一体どれだけの事が可能に出来るでしょうか。
 あ、そうか。
 やがて私は確信してしまいました。
 つまり、あのリアルな記憶が夢だと思っていたのは私だけなのです。
 みんなは、夢を見ているかのように誰かに操られていて、それだけではなく、もっと他に別の記憶を植えつけられていたとしたら。
 いえ、きっと逆です。私があれらの現実を夢だと片付けていただけなのです。だから一人だけ気がつかず、ただ安穏と日々を過ごしていたのです。
 もしもその考えが正しければ、操っている張本人はきっと……。
 いえ、そんな事があるはずがありません。
 そう、私は加速する自分の妄想に強くストップをかけました。
 全て憶測。
 いつものように訓練所に行って、いつものように訓練をして、いつものように帰ってくる。そんな一日が今日もやってくるはずなのです。
 これ以上考えていても仕方がありません。そろそろファルティアさんを起こして朝ご飯にしましょう。
 そう、頭の中で前向きな意見を強張しました。けれど私はショックからすぐに立ち直れず、呆然としながら未だに佇んでいました。
 今朝は、いつもとは違う朝なのでしょうか。
 いつもと同じです。
 どうしてか、すぐに私はそう答える事が出来ませんでした。
 北斗が、騒がしくなっていきます。



TO BE CONTINUED...