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「おはよう」
その日もまた、私は病院の奥まった位置にあるそこへやって来る。
「……おはよう」
そして、私を出迎えてくれるのはぎこちない表情と口調で答える男の子。
この子の名はシャルトと言い、先日お兄ちゃんが仕事の現場先で拾ってきた子供だ。髪の毛と瞳の色が綺麗な薄紅色をして、光が当たるととても見映えがする。髪の毛は長くて手足もほっそりとした小柄、まるで女の子のようだが、一応はれっきとした男の子である。もうちょっと男の子らしく髪を短くしてあげようかと思うけど、なんだか切るのも勿体無い気がする。それに、まだ非常に過敏な精神状態だから、たとえ髪を切る鋏でも向けない方がいいと思う。
「昨夜はちゃんと眠れた?」
ベッドの横に座りながら、私はそう訊ねる。するとシャルトちゃんは二度三度首を横に振った。
「そう。でも、少しは眠らなきゃ駄目よ? いつまで経っても良くならないわ」
眠れなかった事を申し訳無さそうにうつむくシャルトちゃんの頭を優しく撫ぜてあげる。初め会った時は噛みつかれそうなほどの勢いで睨んできて、本当にどうなる事かと思ったけれど、今ではこんなに素直で可愛らしい。私は思わず笑みをこぼしてしまう。
お兄ちゃんに強引に連れられ、初めてシャルトちゃんに会った時。シャルトちゃんは酷く怯えていた。きっとこれまで相当恐ろしい目に遭っていたんだと思う。にも関わらず、周囲はそんな事などおかまいなしに強引に事を進めようとするから。シャルトちゃんだって怖いに決まっている。抵抗するのは怖いからだというのに。本当に、大人というのは子供の事が何一つ分かってない。
あれから一週間経った。
私は守星に休職願を申請し、仕事はずっと休んでいる。シャルトちゃんは北斗に身寄りも知り合いもいないため、お兄ちゃんが頭目で仕事をおいそれと休めない以上、私が面倒をみなくてはならない。とは言っても、私自身シャルトちゃんが嫌いじゃないから別段苦にも思わない。それに先月まで北斗は情勢も良くなく緊張状態が続いたものの最近は比較的安定しているため、一旦小休止を取りたかった所だ。守星直轄の北斗総括部も、私の休職願をあっさりと承諾してくれた。守星になって二年間、これでも一生懸命取り組んで実績を多数上げている私だから、その辺りの考慮もあったのだろう。
自分でも不思議な話、私は驚くほどシャルトちゃんに対して愛着というか献身的になっている。お兄ちゃんに言われた、『愛情でも持て余してるんだろ?』という指摘はあながち見当外れでもないみたいだ。でも、決してそんな自己満足だけでシャルトちゃんの面倒を見てあげている訳ではない。ただなんとなく、言葉にするのは難しいけれど、シャルトちゃんはどうにも放っておけない子なのだ。
「朝ご飯はしっかり食べた?」
その問いかけに、シャルトちゃんはこっくりと肯く。
「おいしかった?」
「……おいしくない」
控えめながらストレートな物言いに、そう、と私は軽く吹き出す。このぐらいの子に病院食は味気なくて物足りなさもあるだろう。栄養価は高いかもしれないけれど、食事はただの栄養補給だけではない。やはり食欲と同時に精神も満たされなくては。
「そうだと思って。ほら、食べる?」
私がシャルトちゃんの目の前にかざしたのは、来る途中大通りのお菓子屋で買ってきた焼プリンの入った紙箱。すると、途端にシャルトちゃんの目が大きく広がった。
「ちゃんと歯は研くのよ」
あまりに分かりやすい反応にクスクス笑いながら、箱を開けて中から小さな陶器の入れ物に入ったそれと付属の使い捨てスプーンをシャルトちゃんに手渡す。するとシャルトちゃんはとても嬉しそうにそれを頬張り始めた。
シャルトちゃんはどうも甘いものが好きなようだ。初めて差し入れたのはショコラケーキだったのだけど、生まれた所がよほどの田舎だったのだろうか初めは珍しそうに見ていた。ケーキそのものを見た事がなかったようである。初めてのケーキは一口こそ恐る恐るだったけれど、口にした途端凄い勢いで食べ始め、あっという間に全部たいらげてしまった。何の気なしに買ってきたのだけど、そこまで夢中になってくれると悪い気はしない。今時、ケーキ一つでここまで喜ぶ子も本当に珍しい。
「あら」
ふと見上げた壁掛け時計の指す時刻は、朝の回診の時間が間近に迫ったそれだった。病院では毎朝決まった時間に医師が入院患者の病状を診察に回る。そうする事で大まかな病状の経過を知ると同時に、治療スケジュールの微調整を行なうのである。骨折等の外科系患者はともかく、シャルトちゃんのように容態が極めて複雑で難しい患者は、こういった回診一つ取っても重要である。いつ容態が急変するか分からないからだ。
「そろそろね。朝のお薬の時間」
すると、シャルトちゃんは露骨に眉を潜めて嫌そうな顔をした。大半の子供は薬という単語を聞くとこんな反応をするものだが。シャルトちゃんはさすがにそこまでの幼児ではない。嫌がっているのは薬の苦さではなく、医者に触れられる事だ。シャルトちゃんは人に触れられる事を極端に嫌がる。それだけ、これまでに散々酷い目に遭わされたのだろう。辛うじて私が触る分には抵抗はしない。ただ、やはりまだぎこちなさがあり不意に触れようとすると咄嗟に身を固くする。これが治るまではもうしばらくかかるだろう。思っているほど、世の中には自分を傷つけようとする人間は少ない、という自信が芽生えるまでの辛抱だ。
「もう、そんな顔しないの。駄目よ? お医者様の言う事はちゃんと聞かなきゃ」
「でも……」
出来る事なら私に、医者が来ないように何とかして欲しい。そう、私を見上げるシャルトちゃんの目はしきりに訴えかけてくる。しかし私は首を縦に振る事はしなかった。
「でもじゃないの。ちゃんとお薬は飲む、注射も大人しく受ける。分かった?」
「……うん」
私は少しだけ怒った口調で、そうきっぱりとシャルトちゃんに言って聞かせる。するとシャルトちゃんはこくりと一度だけ首を縦に振ったが、それは心から納得したものではなく渋々した返事だった。
やはり医者は嫌いのようだ。と言うよりも、私とお兄ちゃん以外の人間が嫌いなのだろう。お兄ちゃんに対してもまだ完全に心を許しているようでもないし。
薬はともかくとして。注射を嫌がるのは、痛くて嫌いだから、という訳ではない。なんでも、シャルトちゃんは痛みを感じないそうだ。当然、針が刺さろうとも痛みはないのだけど不快感はさすがにあるはず。それに何より、自分は傷つけられている、という強迫観念にも似た恐怖に苛まれてしまう。シャルトちゃんは感受性が強いから、尚更ストレスは大きいだろう。
その時、ドアが二度ノックされた。
もう回診に来たのだろうか? しかし医者にしては随分と遠慮のない乱暴なノックだ。そう思って返事をすると、
「よう、元気か?」
開いたドアから現れたのは、医者ではなくてお兄ちゃんだった。
「今日はお休みなの?」
「いや、ちょっと顔出しただけだ。すぐに夜叉へ向かう」
お兄ちゃんは夜叉の黒い制服を着ている。相変わらず前は合わせずに着崩したスタイルのままだ。それでも不思議と頭目らしい貫禄が感じられるから不思議なものである。
「シャルト、元気にしてたか?」
お兄ちゃんはニッと笑いながら体を屈めてシャルトちゃんの視線の高さに合わせると、そのまま顔を覗き込む。するとシャルトちゃんはやや怯えたように身を退いた。お兄ちゃんは普通の人よりもずっと背が高く、人によっては見下ろすだけで威圧感を与えられる。特別そういう容貌をしているのではないけれど、人間はどうしても上から見下ろされる事に警戒心を感じてしまう。おそらくは防衛本能のようなものだろうけど。
「もう、お兄ちゃんたら。怖がってるでしょう?」
「馬鹿言ってろ。男がこんな事で怖がってどうする」
そうお兄ちゃんは自信たっぷりに言い切る。しかし、全くもって意味不明な理屈だ。現に怖がってるし、男だろうと女だろうと怖いものは怖い。男だからって怖がらない理由なんてないのに。本当にお兄ちゃんは昔からやたら自分勝手な理屈をよく展開する。
「大体な、一体俺のどこが怖いってんだよ。これほどの男前もそうはいないぜ?」
「子供よりも女性の方が怖いんじゃないかしら? 目はケダモノだもの」
酷い言いがかりだ、とお兄ちゃんは苦笑する。しかしはっきりと否定もしないのがアヤしい所でもある。
「ん? お前、そんなもんばっか食ってないで。ほら、コレを食え」
と。
お兄ちゃんはシャルトちゃんが焼きプリンを食べていた事に気がつくと、持っていた紙袋の中に手を入れてごそごそと何やら取り出す。そして差し出したのは、携帯用のパックに入れられた、綺麗に一口大ほどにスライスされた鶏肉の蒸し焼きだった。
「これはな、俺が香草と選別に選別しつくしたスパイスとを使って一晩かけてじっくりとだな」
たちまち漂う香ばしい香り。お兄ちゃんはさも誇らしげに高々と説明を始める。
こう見えて、実はお兄ちゃんの趣味は料理だったりする。男の人は執拗に凝り性で、お兄ちゃんの部屋にはやたらとそういった書籍があるし、お店でも開くのかと思うほど食材関連の業者等と太いパイプを持っている。おまけに知り合いには漁師までいるそうだ。そこまでして一つの料理を如何に美味く作り上げるかにこだわっているのである。私はそこまでするつもりはないけれど、味は確かなのだからお兄ちゃんの料理は好きである。最近はちょっと忙しくて疎遠気味だが、週末にでもたかってみるのもいい。どうせ週末はいかがわしい事にしか時間を費やさないんだし。
シャルトちゃんは意外にも興味深そうにお兄ちゃんの鶏肉を見ていた。どうやら食べてみたいようだ。この香り、色を目の前にさせられたら、誰だって食べたくなって当然だ。私もなんだか摘んでみたくなってうずうずしてきた。
シャルトちゃんは恐る恐る手を伸ばし、それを一つ取る。そしてゆっくり慎重に、まるで壊れ物を扱うかのように口へ運んだ。
「どうだ? うまいだろ」
もくもくとしばらく口を動かし、ごくりと嚥下する。そしてシャルトちゃんはお兄ちゃんを見上げうなづいた。目は驚きに満ちている。なんでこんなのが作れるの、と言いたげな表情だ。
「ほら、もっと食べろ。男はな、もっと食わないと強くなれんぞ」
しかしシャルトちゃんはそんなお兄ちゃんの言葉など耳も貸さず、たちまち夢中になって食べ始めている。何と言われようと、とにかく目の前から消えてなくなるまで食べつづけてやろうという姿勢だ。
この調子じゃ、全部食べられてしまいそう。
そう思った私は、シャルトちゃんが食べ尽くしてしまう前に自分も少し摘んでおこうとイスから身を乗り出して手を伸ばしかけた。
が、その時。
「そうだ。ルテラ、近々シャルトは退院させるぞ。手続きも取ってある」
お兄ちゃんは唐突にそんな事を口にした。意外なその言葉に、私はふと思わず顔を向ける。
「もう? ちょっと早すぎるんじゃない。もっとちゃんと治療した方がいいと思うけど」
まだシャルトちゃんが入院して一週間をようやく過ぎたばかりだ。シャルトちゃんの症状はたった一週間で治るほど生易しいものでない事ぐらい、素人目でも十分に分かる。骨折でさえ一週間では完全にはくっつかない。それなのに、どうして病院は退院を許したのだろうか。私は疑問に首を傾げる。すると、
「これからは自宅療養ってやつに専念するんだよ」
お兄ちゃんはやや語気を抑えて囁くように私へ答えた。
「自宅? それって……」
手におえないって意味じゃないの?
私はその言葉を途中まで口にしかけ、慌てて飲み込む。
完治の見込みがないとハッキリ言い渡された患者が自宅療養するということは、つまり医者がサジを投げたという事になる。病院も暇ではない。このまま見込みのない患者を下手に抱え続けるよりも、その身内に身内が納得する介護をしてもらった方が、悪い言い方をすれば責任を持たずに済む。一つ二つの命を預かっている訳ではない以上、病院の主張は正論になるだろうが。個人としてはやはり納得のいかない結論だ。
けど、私はそれでいいと思った。医者が何と言おうと、現にシャルトちゃんは日増しに良くなってきているのだ。下手に振り回されるよりも私達で面倒を見てあげたほうが良いだろう。それに医学は絶対ではない。病気だって本人の気力次第で奇跡的に治る事もそうは珍しくないのだ。医者に無理ならば、私達がその奇跡を起こせるようにシャルトちゃんを気力付けてやればいい。
「そう……じゃあ、そうしましょうか」
自分の中で割り切ったにしては、随分と力のない生返事。
私はシャルトちゃんが、なんて不憫な子なのだろう、と改めて思ってしまった。せっかくこうして自由になれたというのに、心と体に残った傷が再びシャルトちゃんを狂気の渕に繋ぎ止める。この子は一体いつになれば本当の自分の意思で歩けるようになるのだろう? それを思うと胸が痛い。
「おい、シャルト。そんな訳で、しばらくお前は俺のとこで寝泊りすればいい」
「え……」
食べる事に夢中だったシャルトちゃんは、案の定今の会話はまるで聞いていなかったようだ。しかし言葉のほんの断片から意味を汲み取ったらしく、露骨に眉を潜めた。
嫌だ。
そんな声が聞こえた気がした。
TO BE CONTINUED...