BACK
私は災いを呼び寄せる存在なのかも知れません。
恐怖が過ぎると、深い悲しみが私を待ち構えていました。
その悲しみはあまりに深くて、俄かには受け入れられそうもありません。
まるで、ドンッと崖から突き落とされたような喪失感。
絶望。
気が遠くなりそうです。
「テメエ……まさか、北斗か?」
二人はシャルトさんに向かって身構えました。シャルトさんの濃密な殺気を前に、飲み込まれまいと二人もまた殺気立ちます。しかしそれは全く比べ物になりません。二人共シャルトさんよりも遥かに体格は大きいのに、まるでシャルトさんの方が大きく見えてしまいます。シャルトさんの放つ殺気がそれだけ強烈なのです。あの優しげで繊細そうな容姿からは想像もつかないほどに。
ゆっくりと、一歩一歩床を踏みしめるように近づいて来るシャルトさん。しかしその目はぎらぎらと異様な輝きを放っています。自分へ向けられた殺気ではないというのに、見ている私までもが寒気を感じます。確か私の記憶では、夜叉とは人を食べる鬼の事だったと思います。まさに今、シャルトさんはその夜叉そのものとなっています。人を食べてしまった訳ではありませんが、少なくとも目の前の二人は心を食べられてしまっています。その圧倒的な存在感に飲み込まれてしまっているのです。
「くっ……この野郎!」
と。
その無言の威圧に堪えかねた一人が、シャルトさんに向かって襲い掛かりました。シャルトさんのそれほどの存在感を前にも、辛うじて立ち向かうだけの意気が残っていたのです。
しかし。
シャルトさんの体が駒のようにくるっと回りました。同時にシャルトさんの足が天井目掛けて鋭く走ります。
「がっ!?」
宙を加速した足が向かってくる男の顎を跳ね上げました。そのままその体は驚くほど軽々と浮かび上がり、そして、どすっと鈍い音を立てて床に落下します。男の体は何度か大きく痙攣しました。けれどそれも間もなく止まり静かになります。死んだ、と直感的に思いました。人一人が目の前で死んだ割に、随分と冷静に受け止めている自分が居ます。周囲の出来事に驚くほどの精神的余裕が今の私にはないのです。
「な―――まさか」
その一瞬の出来事に、もう一人の男は唖然とした表情で見ていました。そして、その表情にははっきりとした恐怖の色が浮かんでいます。きっと、二人はこれまで北斗の本当の実力を見たことがなく、風評だけを頼りにここへ来たのだと思います。そして風評ではない本当の北斗の実力を目の当たりにし、自分達との実力差を思い知らされ、その恐怖ははっきりと刻み込まれたのです。絶対にかなわない。それは理屈ではなく、生まれ持った生存本能による直感です。
と、次の瞬間。
ドンッ。
それは水の入った樽を棒で叩いた音に似ていました。同時にもう一人の男の体がくの字に曲がり、一瞬床から離れます。
あ。
たったそれだけの単音も言えず、男は口だけをパクパクさせながらゆっくりと床へ崩れ落ちていきました。倒れたその影からは、いつの間にそこへ立っていたのかシャルトさんの姿が現れました。右の拳をぎゅっと硬く握り締めて構えています。今の音はそれのようです。私よりも一回り程度大きいぐらいのシャルトさんの手。でも、そこに秘められた破壊力はまるで比べ物になりません。私はただの力のない一般人、けれどシャルトさんは北斗に属する人なのですから。
あっという間に屈強そうな二人がなすすべなく倒されてしまいました。それも、見た目は細くてそれほど強そうには見えないシャルトさんによってです。普段ならば驚きに声を上げたかもしれません。けれど、今の私には驚くほどの余裕はありませんでした。何が目の前で起ころうとも、ただ淡々と事実だけを目で追うしか出来ないのです。
「ハア、ハア、ハア……」
と、平然としていたはずのシャルトさんが急に堰を切ったように呼吸が乱れ始めました。それは酷く苦しそうな表情に見えます。右手で頭を軽く押さえ、まるで頭痛と戦っているかのような様子に見えます。
刹那。
自分でも、どうしてそんな行動に出たのか分かりません。ただ気がつくと、私はシャルトさんの元へ駆け寄っていました。
「ああ……大丈夫だった―――っ!?」
そのまま、私はシャルトさんにしがみ付きました。体がガタガタと恐怖で震えます。見知らぬ男達に体を触られ自由を奪われた嫌悪感、そして何も出来なかった自分の無力感、それらが一つに合わさり混沌とした黒い恐怖となって私を駆り立てました。すっかり気弱になってしまっている私は、それに抗うことが出来ません。
シャルトさんの体温が服越しにはっきりと伝わってきます。その温か味が混乱する私を包んでくれるような気がしました。私はそれを狂おしいほどに求め、ただぎゅっとシャルトさんから離れないようにしがみ付きます。そうする事以外、他には何も考えられませんでした。本能的に取った、気持ちを落ち着けるためだけの欲求行為。言葉も何も頭には浮かびません。まるで、極寒の地で小さな焚き火を求めるようです。
「あ、あのさリュネス……。とりあえず、その格好……」
と。
頭のすぐ上でシャルトさんの声が聞こえました。それが引き金で、私はふと物事を考える力を取り戻し我に帰ります。
その格好?
ハッと私は思い出し、慌ててシャルトさんから離れました。今、私は凄い格好になっているのです。裸という訳ではありませんが、下着姿でもそうそう人前に晒すものではありません。それに気づかずに、安堵のあまりシャルトさんに抱きついてしまっていたなんて。あまりの恥ずかしさに思わず、私は背を向けたままその場にしゃがみ込んでしまいました。
見られてしまった……。いえ、もうそんなレベルではありません。上だけ下着姿のままでシャルトさんと密着してしまったのです。しかも自分から。思い出すだけでも、居ても立っても居られないほど恥ずかしくて仕方ありません。なんて事をしてしまったのだろう。気恥ずかしさと後悔の念でいっぱいになります。
「とりあえずさ、これ」
背後で布の擦れる音がします。そして私の肩にバサッと何かが被せられました。それは真っ黒な夜叉の制服でした。シャルトさんが着ていたものです。
「……ありがとうございます」
未だ恥ずかしさを引き摺っていた私は、背を向けたままお礼を言って上着の袖に腕を通します。夜叉の制服は思っていたよりもずっとサイズが大きく、通した腕は手首から先が出ません。そこを少したくし上げ、前を合わせます。微かに煮干の匂いがします。多分、テュリアスが好きで良く食べているからだと、勝手な想像をしました。
シャルトさんの服を着ている。なんだか小さな感動というか感激を覚えました。でもそれは、あまり長くは続きませんでした。状況が状況なので、ゆっくりと浸ることが出来ないのです。もっと平穏な状況だったら落ち着いて喜べたのですが。
「大丈夫か?」
「はい……何とか」
体裁を取り繕った所で、ようやく私はシャルトさんの方へ向き直りました。そして深々とお辞儀しながら助けてもらったお礼を言います。けれど、恥ずかしくて顔はほとんど見られません。本当はもっと感謝をしなくてはいけないのに。もしもシャルトさんが来てくれなかったら、今頃私はどうなっていたことか。考えただけでも恐ろしいです。恐怖と、恐怖から介抱された安堵感、そして恥ずかしさ。それらが一度に私の中でぐるぐると渦巻いているため、身のやり場のないような変な気分です。きっと、頭もまだ混乱しているのでしょう。
上着を脱いだシャルトさんは、真っ黒な長袖のシャツを中に着ていました。上着を脱いで気づいたのですが、夜叉の制服はズボンがやや太めにデザインされているようです。そのため上半身のラインがほぼはっきりと出る格好になったシャルトさんは、上半身と下半身の体格差が見た目にも映えて余計に細身に見えます。
―――と。
「あ!」
気持ちが落ち着いてきたのか、突然私は大切な事を思い出しました。
「どうした?」
「まだ、お父さんとお母さんが!」
そう、この店には数人の男の人達がいきなりやってきたのですが、そのほとんどはまだお店の方にいるのです。あの人達は皆、明らかに一般人ではありません。ヨツンヘイムには無数の戦闘集団、野盗団が存在します。はっきりとした確証はないけれど、そのどちらかと見て間違いはありません。北斗はヨツンヘイム最強の戦闘集団。しかし、それだけに外敵が多いのも周知の事実で、他の団体からこんな風に攻撃を仕掛けられるのはさして珍しくはないのです。
「俺に任せろ」
シャルトさんは再び真剣な表情でうなづきました。言葉数は少ないのですが、心を掴む力強さに溢れています。シャルトさんはくるっと踵を返しました。そして、
「途中まで一緒に行こう。ここで一人で待つのは嫌だろ?」
こくこくと私はうなづき返しました。
シャルトさんはそっと手を差し伸べます。手を繋げ、という事なのでしょう。私は何も考えず、すぐさま手を伸ばしました。そんなに大きくはないけれど、温かく、とても安心させる手でした。
早くお父さんとお母さんの所へ行かないと……。今、店の中には北斗を襲いに来た敵対集団がいるのですから。
ただ、私には一つ疑問がありました。
北斗が攻撃を受けるのは日常茶飯事と言ってもいいのですが、決して深刻な被害に陥ることはありませんでした。それは、北斗には守星という、常に街を巡回している防衛役の人達がいるからです。なのに、どうしてこんなに大勢の敵が侵入してきたのでしょうか? あの二人は、簡単だった、と言っていた気がします。守星がいるのに、どうして……。
TO BE CONTINUED...