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それは、嬉しくて、恥ずかしくて、怖いこと。
新しい扉。
幸せへまでの過程。
大きな大きな足跡。
通過儀礼とも呼べること。
刻むこと。
一つの区切りをつけること。
一生忘れない、幸せな思い出。
……。
……。
痛っ……。
その日、私はいつもと違う朝を迎えました。
一つのベッドの上に、私以外の人が一緒に眠っています。
寝ぼけた頭を覚ましながら状況を整理し、私は自分の傍らで寝息を立てる人を見つめました。寝乱れた薄紅色の髪、色白の細面。今は閉じられているその目も、瞼の向こう側には透き通るように綺麗な薄紅色の瞳がある事を私は知っています。
昨夜、私は部屋に帰りませんでした。前々からどちらからとなく切り出していたのですが、シャルトさんの部屋に泊まったのです。こんな事、ファルティアさんが知ったら何て言うのか怖くて分かりません。でも、頭目であるファルティアさんは週末は本部の方へ行かなくてはいけなので、都合が良いと言えば都合が良いのです。
シャルトさんはまるで子供のような屈託の無い表情でぐっすりと眠っていました。普段はもっと冷静で締まった表情をしているだけに、こういう無防備な姿を見ていると、なんだか嬉しさが込み上げて来ます。
もう朝なのだけど、シャルトさんがあんまり気持ちよさそうに眠っているからもうしばらく起こさないであげる事にしました。私はそっとベッドから抜けます。
服を着替え、まずは洗面所へ向かいました。顔を洗って身だしなみを整えます。
ふと、私は下腹の辺りを押さえました。
起きた時から気になっていたのですが、歩くたびにそこが重く痛みます。恥ずかしい感覚です。
私はゆっくり昨夜の事を思い出し始めました。
考えてみれば随分と恥ずかしい事ばかりしてしまいました。失敗の連続です。
こういう時なのに、うっかり後々まで匂いの残る料理を作ってしまいました。
シャワーを借りる時、思い切り水とお湯を間違って被ってしまいました。
直前の、よろしくお願いします、というセリフも微妙です。
どこを思い出したって恥ずかしい事ばかりです。けれど、やっぱり最初はこんなものなんだと思います。段々と回数を重ねていくごとに気持ちに余裕が出来、それでようやく初めてうまく立ち回れるようになるはずです。
さて、朝ご飯を作りましょう。
私は恥ずかしい事を思い出したはずなのに笑みを堪えきれず、その姿を自分でも気持ちが悪いと思いながら台所へと向かいました。
昨日買ってきた材料は沢山あります。これを全部使ったら、朝食べる量には少々多いかもしれません。でもシャルトさんは見た目によらず普通の人よりも沢山食べます。だからこのぐらいが丁度いいのです。それに、私はシャルトさんが食べている姿を見るのが密かに好きでもあったりします。寝ている時を除くと、一番表情が無防備だからです。
見た目によらず、で一つ思い出しました。
昨夜、間近で見たシャルトさんの体は引き締まっていて驚くほど逞しいという印象を受けました。いえ、見るよりも触れて感じた印象の方が強いかもしれません。
またそんな事を考えてる。
私は頭の中から慌てて自分のはしたないイメージをかき消しました。頭の中は誰にも侵されない絶対領域なので、何を思い考えようが誰にも知られる事はありません。けれど、もしも今の事を誰かに知られでもしたら、きっと私は恥ずかし過ぎて死んでしまうでしょう。
今朝は何を作ろう?
材料を前に並べながら私は考えました。
幾ら沢山食べるといっても、朝から重いものを食べるのは大抵の人が辛いと思います。肉料理が好物のファルティアさんでさえも、朝から肉にかぶりつく事はしません。でも、実際は朝はカロリーが高めのものを食べるのが一番体に良いのです。さっぱりしたものはどうしてもカロリーが低い傾向にあってなかなかエネルギーへと変換させる事が出来ません。朝でも食べやすく、なおかつカロリーの高いものを作るのが理想的です。シャルトさんは武術を使うので食事は尚更大切です。
あまり具体的には決めないで食材を買ってきましたが、これだけあれば大概のものは作れます。当然の事ですが、今朝も昨夜同様にシャルトさんに喜んでもらえるようなものを作りたいです。シャルトさんは食べ物の好き嫌いは無さそうな感じでしたが、それは逆にこういった時の選択に迷ってしまいます。好きな料理や食材があると、それを基準してメニューを決められるからです。 でも、こうして迷っているのもどこか気持ちのいいものがあったりします。自分が頑張れば頑張った分だけシャルトさんは喜んでくれる。それが約束されているからだと思います。
「にゃあ」
没頭の海に片足を突っ込んでいた私の背後から、テュリアスの声が聞こえてきました。
振り返るよりも早く、テュリアスは私の手元の所へ飛び移ってきました。そしてじっと私の顔を見上げてきます。
テュリアスは神獣です。真っ白な体も真っ赤な目も神獣の特徴的な配色で、自然界ではほとんど生まれる事は無いアルビノ種です。見た目は真っ白な子猫なのですが、よく見れば虎らしい特徴が随所にあります。
シャルトさんと付き合うようになってから、必然とテュリアスの事についても色々と分かった事があります。テュリアスはペットや猫扱いされるのを非常に嫌がります。最初に私がテュリアスの頭を撫でようとして噛まれかけたのもそのせいです。自分と対等の人間として接すれば問題ないのですが、どうもファルティアさん達よりも気難しい所があり、どちらかと言うと私はテュリアスが苦手です。一応、普通に接しているつもりなのですがテュリアスは心が読めるので、きっと私が苦手にしているのは知られていると思います。そのせいでしょうか、テュリアスと二人きりというのは気まずく思います。
テュリアスのの真っ赤な目がじっと私の方を睨むように見ています。神獣は人間と会話する事が出来ますけど、テュリアスは一向に言葉を投げかけてはきません。そもそも、一度として会話らしい会話が成功した試しはないのです。尚更テュリアスの沈黙には言い知れぬ威圧感があります。
「あ、あの……夕べは追い出しちゃってごめんね」
とにかく、何とか会話をしてみようと私から切り出してみました。
本当に追い出した訳じゃなくて、テュリアスが居辛い空気を作っちゃったせいなんだけど。でも、テュリアスはシャルトさんと一緒に住んでいるのだから、後から来た私のせいでそうなったと思うと申し訳なく思います。
別にいいもん。
テュリアスはぷいと顔を背けました。
私は初めの頃からテュリアスには嫌われているみたいでした。多分、シャルトさんに馴れ馴れしい態度を取っているのが気に入らないんだと思います。そんな私がシャルトさんとここまで親しくなって。内心、かなり苛立っているはずです。
まさか、噛み付くタイミングを計っているのでしょうか……?
ほんの少し、私はテュリアスの動向を窺いつつ緊張しました。
ねえ、煮干取って。
すると。
テュリアスはおもむろに視線を私から頭上の方へと移しました。
指し示す方向を追って見上げると、食器棚の一番上の高い所に銀色の缶がありました。多分あれです。棚の周囲には足場になりそうなものは見当たりません。あまり背が高くない私が精一杯背伸びをしてギリギリ届くぐらいです。小さなテュリアスには到底届く高さではありません。よく見ると、周囲の壁や棚の側面には幾つも引っ掻き傷があります。どうやら、それでもテュリアスは頑張っていたみたいです。そのたびにシャルトさんがどんな顔をしたのか、はっきりと脳裏に想像出来ました。
シャルトが一日十本までだって意地悪するの。ああやって高い所に置いて。
テュリアスがむくれたような表情を浮べます。でも、どこかシャルトさんとテュリアスの構図が、お菓子をねだる子供とそれを許さないお母さんに見えました。
「ちょっと待ってね」
私は食器棚の前に立つと精一杯背伸びをしてその缶を取りました。缶を台所の真ん中にある小さなテーブルの上に置き、蓋の縁に指をかけて開きます。すると、煮干独特の香ばしさが膨れ上がるように飛び出してきました。そういえば、前に貸してもらったシャルトさんの上着からも微かにこれと同じ匂いがしました。
とりあえず、私は五本ほど取り出してテュリアスにあげました。あんまり沢山あげても、後からシャルトさんに気づかれるとテュリアスが怒られると思ったからです。
テュリアスは私の手から煮干を受け取ると、すぐさまおいしそうにかぶりつき始めました。テュリアスは虎だけど肉は一切食べないとシャルトさんから聞いています。その代わりこういったものが好物となると、ますます猫じみてきます。
あっという間に五本の煮干はなくなり、テュリアスは露骨に物足りなさそうな表情を浮べました。私には遠まわしな催促に思えて仕方ありません。
「ねえ、ししゃも買って来たんだけど食べる? 子持ちししゃも」
試しに私はそう問いかけてみました。
テュリアスがあんまり猫っぽいから好きそうと思い買ってきたのです。子持ちは若干割高ですが、その分食べ応えはあるのでおいしいと思います。
「にゃあ!」
うん、食べる!
テュリアスが元気良く答えました。良かった。どうやら喜んでくれたようです。
早速私は金網に軽く油を塗ってししゃもを焼き始めました。じゅうじゅうと音を立てて焼けていくししゃもを、テュリアスはじっと見つめています。思わず口元を緩めてしまいそうなほど可愛い仕草です。
なんだか物で釣るような形になってしまいました。でも、コミュニケーションの足がかりになるならそれでも構わないと思います。今まではこの程度のきっかけさえ無かったのですから。それに、シャルトさんと交際を続けていく以上、いつかは対峙しなくてはいけない問題なのです。
「はい、どうぞ」
やがてししゃもが綺麗に焼きあがると、小皿に乗せてテュリアスに差し出しました。
目を輝かせて焼きあがるのを今か今かと待ち望んでいたテュリアスは、よほど嬉しかったらしくよりいっそう大きく目を見開きました。けれど、すぐにかぶりつくのかと思いきや、テュリアスはなかなか手を出しませんでした。ししゃもは焼きたてのため、表面には滲み出た油がぱちぱちと弾けています。私はテュリアスが猫舌な事を思い出しました。なるほど、幾ら好きなものでも熱過ぎては食べる事が出来ません。こうして食べられるくらいまで冷めるのを待つ必要があります。
テュリアスが食べられないとなると、急に会話の足がかりを失ってしまい、私はこれ以上言葉を続ける事が出来なくなりました。ひとまず私は朝食の準備をしなくてはいけません。一旦置いておき、私は料理に取り掛かりました。
朝は、眠っている間に体温が下がっているため温かいものを取り入れるのが良いのです。しかも思っている以上に水分も失います。なので、温かいスープは朝食には欠かせません。
鶏ガラで取ったスープに炒めて刻んだ鶏肉と一定の大きさに切りそろえた白菜を加え、弱火で温めながら煮込みます。鶏肉は油分が少ないので食べやすく、また野菜も一緒に取れるので栄養のバランスが良いスープです。
スープの縁がくつくつと音を立て始めると、鳥の香ばしい香りが漂ってきました。私はよくこれを飲むのですが、この音を聞いていると朝が来た実感が湧いてきます。
ねえ。
と、その時。背後から再びテュリアスが私を呼びました。
振り向くと、テュリアスは未だししゃもには手をつけず、座ったままじっと私の方を見ていました。
その目は、先ほどとはどこか雰囲気が違っていました。威圧感というものはなく、なんというか、すがりつくような可愛らしさがあります。
なんでしょうか?
テュリアスの不思議な態度に、私は首を傾げました。これまで一度たりともテュリアスがこんな目で私を見た事はなかったからです。
そして、戸惑う私にテュリアスはこう問いかけてきました。
シャルトのこと、好き?
意外な質問に面食らってしまった私は、え、と言葉を詰まらせてしまいました。即答すべき質問であるのは分かりましたが、肝心の言葉が咄嗟に浮かんでこなかったのです。
「好きです。心から」
ようやく考え付いたのは、そんな安易な答えでした。
けれど、その言葉に嘘偽りはありません。私は真剣な気持ちで今日までシャルトさんとお付き合いを続けたのです。うまく自分の気持ちを表現出来ないのはもどかしいけれど、生半可なものではないと自負しています。テュリアスは心が読める神獣だから、その真剣な気持ちだけでも理解してもらおう。そう思いました。
知ってたけどね。
そう、テュリアスは微笑んだように答えました。これもまた初めて見る表情です。
シャルトはね、いっぱい辛い思いをしてきたの。だからずっと傍にいてあげてね。
「はい、分かりました」
テュリアスはそっと右手を出してきました。咄嗟に私も右手を出してそっと握ります。
それはテュリアスとの握手でした。お互い同じ気持ちを持つ者同志の信頼の確認というか、そんな感じです。
私はテュリアスの考えている事が分かった気がしました。これまでテュリアスが私に対して懐疑的だったのは、私はいつも迷ってばかりいたから、土壇場になってシャルトさんの事を裏切ってしまうかもしれない、という危惧を持っていたからなんだと思います。テュリアスはシャルトさんの事をいつも考えています。だから、常日頃からシャルトさんに危険や辛いことが及ばないよう警戒してるんだと思います。
私はテュリアスに認められた。そう思いました。まるで厳格な父親を持つ娘との結婚を承諾してもらうかのような展開です。
じゃあ、いただきます。
テュリアスは大きく口を開けると嬉しそうにししゃもに噛み付きました。もうすっかり冷めてしまっているのだけれど、それがテュリアスには丁度いいようです。おいしそうにむしゃむしゃと骨ごと食べています。
と。
「お? なんだ、いたのか」
突然、台所に現れたのはレジェイドさんでした。私は驚くあまり呼吸が止まってしまいましたが、テュリアスはなんでもないかのように一度視線をちらっと向けるだけで再びししゃもに噛み付きます。
「あ、あの、おはようございます……」
なんとか気持ちを落ち着けさせ、私はそう挨拶をしました。でも良く考えてみると、なんとも不自然な反応です。まるで私が疚しい事をしているかのようです。
「シャルトさんに用事ですか? まだ眠っていますから、起こしてきます」
「いや、いいさ。俺はちょっと、そこの煮干を少し貰おうと思ってな」
レジェイドさんは食器棚の上へ手を伸ばすと、楽々と缶を下ろしてしまいました。レジェイドさんは背が高いので、あのぐらいの高さには何の難もないのです。何本か煮干を取り出すと、予め持ってきたらしい小さな容器にそれを入れました。
「これを使うとなかなかいいダシが取れるんでな。っと、テュリアス。またそうやってもの欲しそうに見るな」
笑いながらテュリアスの頭を指で小突きます。
考えてみれば、テュリアスはレジェイドさんやルテラさんの事も信用しています。今日、こうしてテュリアスに信用してもらったことで、私はみんなの中にようやく加われたような気がしました。
「ところで。ふうん、なるほどな」
と、急にレジェイドさんは含み笑いを浮べながら私の顔を見ました。
「なんだ、シャルトのヤツ。ちゃんとやることはやってるじゃないか。そうかそうか、仲良くやってるな」
レジェイドさんの言葉が意味する事に気がつき、私はぼっと顔が熱くなるのを感じました。
仕方ありません。この状況では、他に考え付く事なんてありません。
「じゃ、俺はそろそろ戻るわ。テュリアス、あんまり二人の邪魔するんじゃねえぞ」
そう言ってレジェイドさんはテュリアスの頭をぐしゃぐしゃと撫でました。すぐさまテュリアスは、がーっと牙を剥いて反撃にかかりましたが、それよりも僅かに早くレジェイドさんは手を引っ込めて逃げます。
「あ、そうだ。言い忘れてた。リュネス、仲良くやるのは結構なんだがな、あんまりシャルトに体力使わせんじゃねえぞ。いつ緊急招集があるか分からないからな」
体力?
はて、と私は首を傾げました。レジェイドさんの言っている意味がよく分からなかったからです。
私がきょとんとしていると、レジェイドさんは私に意味が通じなかった事を悟り、もう一度別な言葉を投げかけてきました。
「もう昼だぜ? 幾らなんでもやり過ぎだぞ」
TO BE CONTINUED...