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妹とは、俺にとって最も身近な異性だ。最近は少し疎遠気味だが、親しい事には変わりはない。
この世に男として生を受けたため、俺はたとえどんなに努力を重ねようとも女性を真に理解する事は不可能である。その逆もまた然り。僅かな染色体の違いが、男と女とをそれだけ遠い存在にしているのだ。
男と女は離れられず、決して交わらない存在。
俺自身にも、未だに妹を理解してやれないという形でそれは現れている。
この世で最もつきあった期間の長い女性でありながら、俺はまだ妹の全てを理解してやれない。
悔しいことに。
からん、と音を立て、テーブルの上に置いたグラスの中の氷が解け落ちる。琥珀色の水面に波紋が立ち、店内の照明を薄っすらと乱反射させる。俺はグラスをそっと手に取って一口飲む。
ふと柱にかけられた細工時計に目をやる。午後八時。こうして一人寂しく酒を呑み始めて、もう一時間も経過してしまった。待ち人は未だ来ず。
やれやれ。女ってのは仕度に時間がかかるらしいが、せめてボトルを開ける前には来て貰いたいものだ。
バーのカウンターに座っているのは俺一人。だが他の席にはカップル連ればかりがいちゃついていやがる。普段の俺だったら、毎度人も羨むような女を連れてデートから始まる一連の情事に耽っている所なんだが。今夜ばかりは妬みの視線を送る側になってしまっている。この俺が、なんとも情けないものだ。
と。
「いらっしゃいませ」
アンティーク調の店のドアが開き、一人の女が店の中に入って来た。
女はすぐにカウンターに座る俺の姿を見つけると、ぱたぱたと駆け寄って俺の隣に座る。息を弾ませてはいるが、切らせてはいない。そんなに急いで来たという訳でもないようだ。
「ごめんごめん、待った?」
「待ったから、ここに居るんだよ」
ハニーブロンドのウェーブがかった髪が、色白の細やかな肌に映えて揺れる。ハッと思わず目を引きそうなほど、彼女は普通ではない輝きのような美しさを持っている。
「この俺を待たせた女は、後にも先にもお前だけだぜ」
「あら? 私はてっきり待つのはお得意かと思ってたけど」
くすりと笑い、バーテンダーを呼びつけて注文をする。どうやら遅刻の釈明をする気は全くないらしい。まあ俺も、何で遅れただとかそんな細かい事をいちいち問いただすのは趣味ではない。
彼女は俺の妹、ルテラ。歳は三つほど離れているが、その倍以上は離れているような感覚が俺にはある。それはこういう時間のルーズさ、極めてマイペースな子供っぽい部分が俺にそう感じさせているのだろう。
「調子はどうだ?」
「まあまあといったところね。可もなく不可もなく」
「今はいいがな。もうな、いい加減、守星なんて止めちまえよ。そのうち体壊しちまうぜ」
今、ルテラは以前在籍していた雪乱へは戻らず守星なんて酔狂な事をやっている。
守星は北斗の中で最も危険な役職であり、勤務時間帯も不規則で長い。よほど体力に自信がなければとてもやってはいけないような過酷な仕事だが、ルテラの姿にはその過酷さを感じさせるような陰りは全く見当たらない。雪乱で現役だった頃は雪魔女なるあだ名で畏怖されていたルテラだが、今ではまるで別人のように柔らかな表情になったと風聞では耳にする。俺にとっては今のルテラの方がよく知るルテラで、そのけったいなあだ名の時期の方が別人のように思えるのだが。まあ、ともかく。その言葉通り、体調はまあまあのようだ。
「久しぶりに兄妹水入らずで飲むっていうのに、そんなお説教したいの? もやめてよね。私、もう二十四なんだから」
「説教じゃなくてな、俺はお前の事を心配して言ってんだよ」
「だったらご心配なく。守星って、割と気楽なものよ? 特にこれといって規律もないし、上下関係に頭を悩ます事もないわ。体が心配って、それこそ頭目なんてやってるお兄ちゃんの体の方が心配よ」
「俺は体力には自信あるしさ。まあ大丈夫ならそれでいいんだが、無理はするんじゃねえぞ」
「ホント、お兄ちゃんってば相変わらず心配性ね」
ルテラはどちらかというと気まぐれな気質がある。規律を守らないという訳ではないのだが、束縛されるのが嫌いだ、との本人の弁を賜っている。雪乱に入る前にはそんな事など言ってはいなかったが、四年前の凍雪騒乱が終結してからというもの、度々そういう言葉を聞かされるようになった。原因は知らないが、よほど雪乱の中で窮屈な思いをさせられたのだろう。流派の頭目とは北斗の中でも上位に位置する重職、世間的にも知名度のある華やかなものだが、その実際は日々あらゆる雑務に追われ頭の痛い思いをする事の方が多い。頭目は頭目のメリットがあるのだが、細かい事を考えずとにかく訓練に勤しんで精進に努めたいという人間には完全に向かないだろう。ただ強くなれば良いだけではないのが頭目の難しい所なのだ。
「ところでさ、最近のシャルト。知ってるか?」
「シャルトちゃん、どうかしたの?」
ルテラはバーテンダーから受け取ったストリングを口にしながら訊ねる。人に問い返す時、目を何度か瞬かせるクセも相変わらずだ。
「この間さ。あいつ、『女の口説き方教えてくれ』って俺に頼んできたんだぜ。それってつまり、そういうことだろ? こりゃいよいよかなあってさ」
先日、週初めのことだ。午前の訓練も終わったので昼飯を食いに行こうと思ったその時、突然シャルトが俺をロビーへ引っ張っていった。話がある。その一言だけで、やけに神妙な表情をしていたのを覚えている。普段はボーッとして、人よりもワンテンポ反応の遅いシャルトにしては珍しい事、いやもしかすると初めての事だ。
その話の内容とは、今言った通りだ。今まで女にまるで興味を示さず、趣味は食い歩きだけだったようなシャルト。それがどうやら、どこの誰かに熱を上げ、落として自分のものにしたいと。捕捉するにしてもこんなもんで十分だろう。
「そっかあ、シャルトちゃんがね。いよいよ春が来たって感じかしら」
「面白がって邪魔するんじゃねえぞ。あいつ、かなりマジっぽかったからな」
「子供じゃないんだから。そんな事はしません」
べっ、と舌を出すルテラ。
それのどこが大人だよ。俺は思わず苦笑する。これで昔は、いつも俺のうしろをちょろちょろとつきまとい、愛用のぬいぐるみを決して手放さないような子供だったのだが。その頃に比べれば、随分と大人になりはしたものの、完全にそれが抜けきれているようには未だ思えない。まあ、変に生真面目になってしまうよりはいいか。
「ったく。お前、中身は全然成長してねえっつうの。体ばっかり立派になりやがって」
ぴんっ、と成長の極めて顕著なルテラの胸を指で弾く。すると、
「お兄ちゃん」
ルテラはにっこりと微笑み、そして俺の手首を取った。途端に俺の手首はぎりぎりと万力のような力で締め付けられ、見る見るうちに肌の色が青白くなり、そして赤紫色に変色していった。この締め付けによって血流がほぼ完全に停止しているからだ。このまま放っておくと細胞が壊死していき、しまいには切断なんてことにもなりかねない。
「悪ィ……調子に乗り過ぎた」
「今夜のお勘定は?」
「もちろん、ワタクシめに払わせて下さい、レディ」
「じゃあ、許してあげましょう」
万力から開放された手を、俺は愛しげにさする。すぐに赤味は差してこないものの、辛うじて痺れを感じられるぐらいには回復する。
まったく、精霊術法ってのは恐ろしいモンだ。
精霊術法とは、魔術の進化したようなものだ。詳しくは分からないが、複雑な魔術を扱いやすく短期間で習得出来るようにしたものだ。
精霊術法を行うためにはなんたらという儀式を受けるらしい。すると魔術を行使する要領で精霊術法も使えるようになるらしいが、その儀式後、体の一部機能が飛躍的に強化される事がある。ある程度個人差もあり強化されない場合もあるが、大概は力が強くなったとか足が速くなったとか、そんな形で現れる。ルテラのこの恐ろしい力も、その精霊術法によって引き出されたものだ。何年も地道に鍛えてきた俺よりも腕力がある事を考えると、なんだか真面目に訓練するのがバカらしくさえ思えてくる。
実のところ、北斗がこの混沌としたヨツンヘイムで最強を誇れるのは、この精霊術法のおかげなのだ。北斗は世界で唯一、完全に完成された精霊術法の技術を持つ存在なのである。精霊術法が進化したのには理由がある。ヨツンヘイムには治安を維持する機関というものがない事。その中で一定の治安を維持するとなると相応の戦力が必要になる。そのため、精霊術法は誕生した。精霊術法は儀式をやったその日のうちに誰でも魔術が使えるようになる技術だ。つまり、短期間の内に戦力を増強できるという事である。即席達人生成術、といった所か。俺としては強さというものは努力した上で身につくものだと考えるので、この安易に強さを手に入れられる精霊術法はあまり気分の良いものではないが。北斗十二衆のほとんどがこの精霊術法で支えられているだけに、渋々ながらも認めざるを得ないのが実状だ。
「ところで、お前の方はどうなんだ? 春は来たか?」
「私? ぜーんぜん。興味もないし」
「やっぱお前、守星なんかやめろよ。あんな不規則な仕事やってたら、男を捉まえる機会もろくに作れないだろ」
「だから、別に興味ないの。それに、私が普通の仕事やってたとしても、途端にいい人が見つかるって保障もないでしょ?」
「いや、見つかるね。お前ほどの女なら掃いて捨てるほど群がってくるって。俺だって妹じゃなかったら放っておかないぜ」
「すぐそういう冗談言うんだから。何にせよ、当分はそういう縁は欲しくないの」
ふんとそっぽを向き、グラスを唇に傾ける。
もったいねえと思うんだがなあ……。
グラスを傾ける仕草も、それを持つ手も、唇も、兄という贔屓目を除いて見たとしても、そうはお目にかかれない美しさだ。これだけの逸材が集まって出来ているルテラならば、男など幾らでも選べる立場に立てると思うのだが。どうしてこうも男の気配が感じられないのか。俺には理解が出来ない。
と、その時。
ふとルテラが視線を落としたのが俺の目に入った。その先には、
「お前、まだそれつけてるのか?」
左手につけているそれは銀のブレスレットだった。まめに手入れをしているのだろう、デザインは古いがそれを感じさせぬ輝きを放っている。
俺に指摘された瞬間、急にルテラは表情を失って黙り込んだ。まるで傷口に触れられたかのように。
まだなのか……。
俺は急に苛立ちを覚えた。まだそんなものをつけていじいじしているだなんて。他人ならばまだしも、それが自分の妹であると今すぐにでもやめさせたい衝動が込み上げてくる。
「まだ、忘れられないのか? もう四年にもなるんだぞ。いい加減忘れちまって、新しい男でも見つけろ」
八つ当たりするかのように、俺はグラスのウィスキーを一気に煽った。しかし、ルテラは何も言わない。ただじっと、そのブレスレットを見つめているだけだ。いや、本当に見つめているのはブレスレットじゃない。ブレスレットの送り主だ。俺の勘繰り過ぎではない。つけているという事実が、その何よりの証明だ。
「そんなもん、いつまでもつけてっから未練が残るんだよ。パッと外してみろ。すぐに綺麗サッパリ忘れられちまうぜ。それにな、その方がお前のためになるんだよ」
正直、力ずくでも奪い取ってやりたかった。こんなものをいつまでも手元に残しているから、ルテラは目の前にある楽しみも、新しい幸せも手に入れられないのだ。ルテラは俺にとってたった一人の妹だ。俺はともかく、ルテラが不幸な思いをするのは耐えられない。
そして、
「そう出来るなら、とっくに忘れてるわよ……」
ぎゅっとブレスレットを握るルテラ。いや、本当に握り締めているのはブレスレットではなく、その下にあるものだ。
「お兄ちゃん、知らない訳じゃないでしょ……? ここまで立ち直るのにも、私、どれだけ苦しんだのか」
……あ。
頭の中に次々と映像が断片的に蘇る。四年前の、直後のルテラの姿。そう、二度と目にしたくないルテラの姿だ。
「いや、悪い……。今のは忘れてくれ」
迂闊だった。
ルテラに四年前の話をする事はずっとタブーにしてきたのに。今更、古傷をえぐるような真似をしてしまった。俺がルテラを傷つけてどうするんだ。ルテラの事を思ってやっているつもりが、まったくの逆効果だ。
そう、ルテラにとってあいつの存在はあまりに大き過ぎたのだ。共に過ごした時間は短く、そして急加速度的。けれどそれが、ルテラの心をあいつの存在がどれだけ占めていたのかを物語っている。にも関わらず、忘れてしまえなんて。あまりに無責任過ぎる言葉だ。忘れて次を考えろ、なんて俺の価値観の押し付けでしかない。
「私ね、まだ受け入れられないの。受け入れた瞬間、自分がどうにかなってしまいそうで怖いのよ。だからずっと現実から目を背けてる。おかしいよね。それが分かってるという事は、直視しなくちゃいけない現実を理解している私もいるって事なんだから。それを認めないなんて、これじゃあ、まるで子供の駄々みたいね」
薄っすらと、寂しそうな笑みを浮かべるルテラ。俺は言葉もなく、ただ口の中で小さく唸った。
「っと。なんだかしんみりしちゃったね。久しぶりなんだし、もっと明るくいきましょ」
「そうだな。よし、じゃあ久し振りにぎゅっと抱き締めさせてくれ」
「馬鹿。そういう変な冗談はキライよ」
俺はそっとボトルを手に取って、空になったグラスに注ごうとキャップを外しかけた。するとルテラがボトルをくれるように手を差し伸べる。ボトルを渡して、俺はグラスを手にする。そこにルテラが静かに注いでくれた。
「なあ、ルテラ」
「ん?」
口の中が何だか乾いていた。それを湿らせるように、一口ウィスキーを含む。苦い。慣れたはずの酒の味が、やけに苦く感じる。まるでルテラに対する罪悪感を噛み締めているかのような、そんな気持ちにさせられた。
「お前はすぐに突っ張るからな。そういう辛い事をずっと抱え込んでたら、いつかは破裂しちまうぞ。誰でもいいからさ、辛い時は愚痴っとけよ。俺ならいつでも付き合ってやっからさ」
視線を向けるのが気恥ずかしかった。俺はこういう事を言うのはたちじゃないのだ。
くすり、と隣で笑うルテラが分かった。それが、少しだけ自分の中の苦いものを緩めてくれた。
「うん、分かった。ありがと」
TO BE CONTINUED...