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 ……おい、いつまで寝てるんだよ。
 ……おい、早く起きろってば。
 寝てる暇はないだろう?
 俺は何のためにここへ来たんだよ。
 ほら、起きろ。
 ……おい!




「……ん」
 温かくざらつき湿った何かが俺の頬を何度もくすぐる。
 浮かびかけた意識が、再び眠りの淵へ引き込まれる。だがすぐにその感触が頬をくすぐり、意識を上へ上へと引き上げる。
「にゃあ!」
 起きろ!
 そして、鳴き声と共にくすぐられていた頬にリズミカルな衝撃が走った。それが決定打となったのだろうか、グレーゾーンを浮き沈みしていた意識が一気に表層へ浮上した。
「うっ……なんだ?」
 目を開けると、そこには白いぼやけた輪郭が覗き込むようにうごめいていた。俺は霞む目をこする。すると、どろっとした冷たい感触が甲に触れた。俺の血だ。
「にゃあ!」
 大丈夫!?
 ようやくはっきりした視界にテュリアスが飛び込んできた。本来は真っ白なはずの体毛が、俺の血を浴びてしまったのだろうか、所々が赤茶けた汚れがついている。テュリアスは心底不安そうな眼差しで、俺の顔にしがみ付くように擦り寄ってきた。
「ああ、なんとか」
 ゆっくり上体を起こしながら体の各部を動かし確かめる。肩は動く。肘、手首などの関節部も無事なようだ。ケガの度合いは、俺は無痛症にかかっているので痛覚として計る事は出来ないが、各部の動作は正常だし特にこれといった違和感はないので、骨折や腱の断裂のような深刻なケガはしていないようだ。
 額が夜風を受けてひやりとする。指を伸ばしてみると、案の定固まりかけてゼリーのようになった血がべったりとついていた。ここに来る途中、風無にやられたものだ。考えてみれば、レジェイドにヘッドギアをつけさせられなかったら、あの時真っ二つになっていたのは俺の頭だったかもしれない。今更ながら、レジェイドに素直に従っておいて良かったとつくづく思う。
 と。
 突然、地響きのような揺れと共に轟音が鼓膜を叩いた。
「あ!」
 視線をやった先に、レジェイドが剣を地面に突き刺し、それを支えにしながらゆらりと立ち上がる姿が見えた。普段の姿からは想像出来ない、まるで余裕のない様子だ。肩を激しく上下させて息を切らし、全身にびっしょりと汗をかいている。あんな姿は初めて見た。俺の知っているレジェイドは、俺がようやく一歩を歩いたと思ったら、鼻歌を鳴らしながら十歩も先をひょいひょいスキップしているような、とても足元に及ばない存在だ。だからこそ、目の前のレジェイドの姿を見ても俄かには受け入れ難かった。
 そしてそのレジェイドが視線を送る先にはリュネスが立っていた。
 体の周囲がぼんやりと青い光を放っており、時折パァンと音を立てて弾ける。右手には相変わらずあの大剣が体現化されていた。いや、先ほどまでよりも二回りは大きくなっている。更にリュネスの周囲が、まるで冬の池のように氷が張っている。池は気温が下がる事で凍るのだが、リュネスの周囲はリュネス自身が放つ冷気によって凍り付いているようだ。
 表情は一点の曇りもない、不気味なほど無垢で屈託の無い笑み。
 俺はリュネスの笑った顔が好きだった。自分ではどうやって笑わせたらいいのか分からないだけに、時折見せる笑顔はくっきりとまぶたの裏に焼きついている。リュネスと別れた後でさえ、その心象にそわそわと落ち着きをなくすぐらいだ。けれど今のリュネスの笑顔からは、背筋に冷たいものが走るような寒気しか感じられない。同時に、『どうしてこんな事に』という黒い絶望感が込み上げてくる。それ以外、何も感じられるものはなかった。同じ笑顔であるはずなのに、どうしてこんなにも違うのだろうか。答えを、俺は胸の奥へ押しやった。
 ゆっくりとリュネスはレジェイドに向かって左手の平を広げた。表情は相変わらずの微笑をたたえたままだ。その瞬間、カッと閃光が走ったかと思うと、リュネスの手のひらから太い青い光の帯がレジェイドに向かって放たれた。突然な眩しさにくらんで、咄嗟に目を瞑ってしまう。
 あ。
 すぐさま目を開いた時、光の帯は俺が放った単音を飲み込みながらもレジェイドに向かって猛然と向かっていっていた。
 光がレジェイドを飲み込もうと襲い掛かっている。本来、光というのは人間の目には止まらない速さで伸びていくものだ。けれどリュネスの手から放たれたそれは、実際の光ほどの速さはない。つまり光の姿だけを借りた精霊術法の体現化なのだ。しかし、その光の帯が凄まじい量の魔力密度を誇っているのは、チャネルを封印された俺にもはっきりと伝わってくる。
「チィッ!」
 レジェイドは一度渋い表情を浮かべると、その光が自分に辿り着く寸前を見切り、大きく横に飛んで交わした。
 光は目標物を通り過ぎても更に猛然と前進を続ける。そして数秒後、遥か彼方から何かが崩れる音が聞こえてきた。その場に残ったのは、リュネスから一直線に伸びる、光が通った轍だけである。
 なんて破壊力なのだろうか。俺は目の前の事実に、更に震撼した。
 あのレジェイドがこんなに追い詰められ余裕のない様子を見せるなんて。見せ付けられた精霊術法の破壊力の凄まじさに、俺は合点しなくてはいけなかった。レジェイドは、あらゆる武器を扱った総合戦闘術を専門分野とする夜叉の中でも飛び抜けた実力者だ。俺はどんなに本気で挑んだ所でも、いつも軽くあしらわれてしまう。しかしそんなレジェイドの力も、リュネスの精霊術法の前にはまるで歯が立たないのだ。レジェイドの得意レンジは接近戦だが、リュネスの術式はそれを許さないのである。
「リュネス!」
 思わず飛び上がるように立ち上がった俺は、力の限りリュネスに向かってそう叫んだ。
 しかし、
「はい?」
 悠然と首をこちらへ向けて微笑むリュネス。その屈託のない笑顔は明らかに常軌を逸しており、正常な思考が働かない暴走状態である事は明白だった。そしてごく自然な動作で右手に体現化した氷の大剣を振りかざすと、そのまま俺に向けて振り下ろした。
「にゃあ!」
 危ない!
 直後、テュリアスが左肩の上で激しく鳴いた。すぐさま俺は左へ飛び退いた。それからほんの僅か遅れ、地面を削りながら一つの巨大な三日月状の青い光が通り過ぎていった。
 暴走状態に陥るとまともな思考が出来なくなり、人間の認識が出来なくなる事は知っている。けれど俺は、リュネスが何の躊躇いもなく自分に攻撃を仕掛けてきた事がショックだった。初めの、ギクシャクしながらも何とかお互いに歩み寄ろうとした時期を経て、ようやく日常的な事であったら何の気負いもなく気軽に話せるようになったのに。普段は俺以上におとなしくて、とても控えめで自分を出す事はあまりしないけれど笑顔が可愛くて、そんなリュネスがまるで別人のようだ。いや、別人なのだ。暴走というのは、一説によれば理性を侵蝕されたのではなく、開いたチャネルの先にいる意識体が術者を乗っ取りかけた状態の事を言うそうだ。だから今のリュネスは、体はそうでも心は本人ではない。でなければ、俺へ躊躇いなく攻撃をしかけたり、そしてこんな破壊活動を行うはずがない。
 俺は込み上げていた黒い絶望感を深呼吸と共に吐き捨てた。
 リュネスが暴走してしまったのは仕方がない。今、一番重要なのは、そのリュネスを押さえる事が出来るかどうかだ。暴走してしまった人間の末路は基本的に一つしかない。もしもそんな事になってしまえば、悲しいとかそんなレベルじゃない、いっそ死んでしまった方が楽なほど辛い思いをするだろう。俺はリュネスを失いたくない。いつまでも生きて、出来れば自分の傍にいて欲しい。それを実現させるためには、リュネスを押さえて正気に戻す必要がある。辛いからと言って、溜息ばかりついていても何も変わりはしない。そんな無駄な事よりも、前進する事にエネルギーを使った方が遥かに有意義で後悔がない。
「なんだ、もう少し寝てた方が良かったかもしれないぜ」
 と。
 俺の隣に駆け寄ってきたレジェイド。取り分け目立った外傷は見当たらないものの、軽い口を叩く割には息もあがっており言葉ほどの余裕が感じられない。普段通りの不敵な表情も心なしか、今だけは随分と色褪せてしまっている。どれだけ不利な状況に立たされているのか、その姿が全て明細に物語っている。それでも決して弱音を吐かない辺りは、さすがは夜叉の頭目である。
「寝ている訳にはいかない。リュネスがあんな事になってるんじゃ」
「そうか。じゃあ、止めたって駄目だろうな」
 レジェイドは珍しく俺の言葉を素直に聞き、手にした剣をリュネスに構えた。
「体は動くようだが、お前のは少し特殊だからな。もしかするとヤバイ状態なのかもしれない。それでも休む気はないんだな?」
 再度、俺にこの場から退避する事を促すレジェイドの言葉。
 俺はレジェイドに徹底的に鍛えられたから、北斗の中でもちょっとやそっとの開いてには負けない自信がある。けれど、暴走した人間を相手にする事は初めてである。というよりも、暴走した人間は本当にごく一部の実力者十数人が束になってようやくかなうほどなのだ。俺程度じゃあ命を落としかねないし、その事が分からない訳じゃない。それでもあえて挑むのか、レジェイドはその意思を問うているのだ。いや、問うているのではなく、俺をこの場から立ち去らせたいのだ。
 けれど、俺の答えは決まっている。
 決心したのだ。もう、二度と逃げたりしないと。
 あの時の苦い思いを繰り返すようでは、俺は自分に幻滅しかねない。危険は百も承知、しかし目の前の危険よりも、リュネスを失う事の方が遥かに恐ろしい。だから俺は前進する。二度と後悔しないためにも。
「ない。リュネスを止めるまで。それに俺は、動ける内は大丈夫だ」
「それは死ぬ覚悟はOKって事だな?」
「なんだっていいさ。それでリュネスを止められるなら、幾らでも決めてやる」
 そう答えると、レジェイドが口元を僅かに歪めて右の拳で俺の頬へ軽く触れた。
「言うようになったじゃねえか。上等だ」
 ニッと笑うレジェイド。その表情はまるで、いつもはけなしてばっかりだった俺の俺の実力を、ようやく少なからず認めてくれた証のように思えた。
「にー……」
 と、俺の左肩に乗っていたテュリアスが不安そうに鳴いた。
「大丈夫、俺は死んだりしないさ。だから、向こうに行って待っててくれ。俺と一緒じゃ危ないから」
 テュリアスはしばらく迷ったように俺の肩の上をうろうろしていた。しかし、やっぱり駄目だ、とごねられるだろうと思っていたのだが、やがてペロッと頬を舐めると肩から飛び降りて後ろへ駆けて行った。離れ際に『死なないでね』と言葉を残していった。俺は曖昧にうなづくだけだった。正直、保障は出来ないからだ。だから離れていくテュリアスを振り向く事はしなかった。もしもテュリアスも俺を振り向いていたら、きっと『守れないかもしれない』と謝ってしまいそうだったからだ。
「暴走した人間を止める方法。分かってるな?」
 レジェイドに改めて問われ、俺は腰に吊ったミスリル入りのナックルグローブをはめながら答えた。
「意識を喪失させて、チャネルを強制的に閉じる。だろ?」
 そして、がちん、とナックルをぶつけて鳴らせる。手応えはいつも通り、上々だ。これだったら、多少の術式を跳ね返す事も出来る。
「少し手荒いがな。とにかく、生きてこそのモノダネだ」
 確かにその通りだ。
 俺は戦いに向けて呼吸を整えながらうなづいた。
 キッと目前を見据えると、そこには相変わらず常軌を逸した笑顔を湛えているリュネスの姿があった。痛々しくて、思わず目を背けたくなるような悪夢だ。けど、これは現実。俺が立ち向かわなければいけない、そして乗り越えなくてはいけない現実だ。
「行くぞ!」
 絶対に元に戻してみせる。
 俺は心の中で、リュネスに向けて叫んだ。これまでの、二人の時間を取り戻すために。



TO BE CONTINUED...