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 非日常の足音は、気がつくと私のすぐ背後から聞こえてきて、あっという間に追い越していきました。
 私の目の前で起こっている出来事は、全て、俄かには受け入れ難い事です。
 今朝は、リーシェイさんが早くに訪ねて来た事を除いて、いつもとなんら変わりのないものでした。
 私が先に起きて部屋を掃除し、朝ご飯を作ります。それからファルティアさんを起こして朝ご飯を一緒に食べ、私が片付けている間にファルティアさんが先に出勤して、私はその後から行きます。
 いつも通り、私は凍姫の訓練所へやってきました。けれど、そこには誰の姿もありません。訓練の中止なんて連絡は来ていません。入れもしない訓練所でうろうろしていても仕方がなく、ひとまず凍姫本部の方へ向かいました。
 なんとか定時ぎりぎりで到着した私を待っていたのは、しばしの間呼吸すら忘れさせてしまうほどの事態でした。
 凍姫本部の空気は普段とは違って酷く張り詰めていました。確かこの感覚、前にも一度味わった事があります。そう、一年と少し前に流派『風無』が突然北斗に反旗を翻した時です。風無の最初の目標は北斗総括部ではなく、ここ凍姫本部でした。その時、ファルティアさん達主力部隊は陽動にかかって本部には居ません。凍姫に残った主戦力はミシュアさんだけでした。
 あの時は、自分達は生き残る事が出来るのか、という緊張感でした。かき集めの戦力で風無の本隊と真っ向からぶつかり合えば、こちらの壊滅は必定です。だから如何にして生き残るのか、ただそれだけにみんなが必死になりました。
 けれど、今本部にある緊張感はそれとはまた質が違っています。どこか餓えた獣のような殺伐としたものがありました。
 何かがおかしい。
 最近はそんなフレーズを何度も頭の中で繰り返し、自分の日常に潜む微かな非現実を見つけては理由付けをしてきました。ですが、こればかりはきちんと筋道の通った理由をつける事が出来ません。どこをどう考えても、明らかに異常なのです。
 遅刻寸前に飛び込んできた本部で最初に見たのは、物々しい武装をした同じ所属の人達でした。
 額から側頭部を守るヘッドギア、胸から肩口を守るくすんだ黒の胸当て、手を守る強化手袋、そして金属で強化された膝まであるロングブーツ。こんなに物々しい格好を見るのは、もしかすると初めてかもしれません。それだけに、やけに大げさなように見えますが、逆に私はとてものんきに見えたと思います。
 廊下でラクシェルさんに会いました。
 ラクシェルさんは遅い私を一言注意すると、更衣室の方へ引っ張り込み、先ほど見たのと同じ装具を付けさせられました。装備が終わると、すぐさまホールの方へ連れて行かれます。そこでは同じような格好をした人達が大勢居ました。
 ここで待機しているようにいいつけると、ラクシェルさんはまたどこかへ行ってしまいました。
 ひとまず、私は言われた通りここで待っているしかありません。状況も分からないのに迂闊に動いては、取り返しのつかない事を起こしてしまうかもしれないのです。
 ホールには即興的に長テーブルとイスがぽつぽつと並べられ、そこでみんなはただじっと待機していました。自発的な会話は一言も無く、ホールは四肢を伸ばした私が優に百人は寝転べるほど広いのですが、嘘のように静かで耳鳴りがしそうです。その殺伐とした空気に気圧され、私は隅の方にそっと腰を下ろしました。
 凍姫は普段、もっと明るくて笑いが耐えなかった居心地の良い所だったのですが、まるでみんなが別な誰かに入れ替わってしまったかのようです。
 そっと、視線を周囲に向けてみます。
 誰もがじっとどこか一点を見つめたまま、その姿勢を保ち続けています。動くのは呼吸の時だけで、まるで彫刻のように誰一人無駄な動きをしません。あまりに非現実的で異様な光景で、そのせいか、自分はまだ夢を見ているような気分にさせられました。
 今までずっと見えない所で起きていた何かが、一気に表面化した。そう私は思いました。
 誰しもが自分を自分として認識していない、そんな表情です。何かに操られでもしている、と奇想せずにはいられません。
 手持ち無沙汰な私は、最近不明瞭になりつつある自分の記憶を思い起こす事にしました。
 痴呆、とまではいきませんが、どうしても私の記憶は夢と混ざり合って確実性を失いつつあります。これは果たして良い傾向なのか、それとも悪い傾向なのか。意外な事に私は、未だその判断を保留としていました。
 もし、誰かに凍姫が操られているとしたならば。夢と現実との境界に疑問を持っている私は、まだ正気の部類に入ると思います。何故なら、私が夢と呼ぶ非現実的な記憶を、二も無く現実と認識しているのは正常ではないからです。そう、私は疑問を抱けているからこそ、傀儡の辺へ傾倒せずに済んでいるのです。
 もうそろそろ、私は判断を下してもいいのかもしれません。
 今、凍姫は私を除いた全員が、誰かによって操られていると。
 あまりに突飛な考えかもしれませんが、それを前提とする事で実に数多くの事実の説明がつきます。私の受けた支配が不完全だったからこそ、自分の意思に介さない行動の記憶が全て夢と解釈された。けれど、完全に支配されてしまった人達は、支配された行った行動も自分の意思で行った行動も判別がつかず、この違和感に気がつけないのです。
 誰が操っているのか、どうやって操っているのか、そこまでははっきりとは分かりません。ですが、昨夜の夢の内容を見る限りは、少なくとも正しい事のために行ったものではありません。誠意があるならば、人の意思を蹂躙するような事をするはずがないのですから。
 止めなければ。
 臆病な私にしては随分と自然にこの言葉が出てきました。少しずつついてきた自信の表れなのでしょうか。
 このままにしていては、きっと良くない事が起こります。だからこの異変に気づいている私が止めなくてはいけないのです。
 ですが、私には何が出来るのでしょうか。
 力も無ければ知略も無い私に、凍姫を支配下に置いてしまった人をどうにかする事など、果たして本当に出来るのでしょうか。物理的な不可能の壁はあまりに高いように思います。
 しかし、自分には出来ないから、といってこのままにしておけるような問題ではありません。北斗の理念は人の命を守る事であるため、徹底した結果主義が取られています。その時の現状がどうこうより、結果的にどうなったのかが重要なのです。
 では、最も理想的な結果を得るために、私は何をするべきなのでしょうか?
 私一人の力でどうにもならないならば、別な誰かの力を借りる事でより可能性を高める事が出来ます。しかし、その人選は極めて慎重に行わなければなりません。今の北斗はある人によって自分の意思を奪われてしまった人が大勢いるのです。味方ならともかく、敵にのこのこと協力を求めるほど間の抜けた事はないのですから。
 頼りになる強い人。
 まず私の頭の中にはファルティアさんが思い浮かびました。ファルティアさんは流派『凍姫』の頭目で、その実力は言うまでもありません。それに私が凍姫に入ってからずっとお世話になっており、何かと可愛がってもらっています。勿論、私にとっては最も信頼出来る人の一人です。
 ですが、ファルティアさんは駄目です。この状況を見る限り、きっとファルティアさんも操られている可能性が高いからです。リーシェイさん、ラクシェルさんも同じ理由により、協力を仰ぐ事はむしろ自殺行為でしょう。そもそも、もはや凍姫には味方になってくれそうな人はいないと考えた方がいいでしょう。
 凍姫に味方はいません。だから、他の流派に助けを求めなければ。
 一体どこに?
 決まっています。夜叉です。夜叉にはシャルトさんがいます。シャルトさんも私にとって最も信頼出来る人の一人です。そのシャルトさんにお願いして、レジェイドさんに動いてもらえばいいのです。北斗の流派を個人で動かす事など、普通ならば不可能な事です。ですが、事情が事情です。この非常事態を分かって貰えれば、必ず夜叉は動いてくれるはずです。シャルトさんも私の事を信用してくれています。だから私の言っている事がどれほど突拍子がなくとも、一生懸命説明すればきっと信じてくれるはず。そしてシャルトさんはレジェイドさんを信用していますし、レジェイドさんもシャルトさんを信用しています。これは信頼の連鎖です。信頼の繋がりがあるからこそ出来る手段なのです。
 よし、行こう。
 自分の行動が決まると、すぐさま私は実行に移そうと気を逸りさせ始めました。こうしている間にも事態はどんどん悪化しているのです。じっとしてなんかいられません。気が弱い私ですが、こんな時まで隅でこそこそ静かになるのを待っているほど臆病ではありません。動かなければならない時は、普段の自分を押し殺してでも前進しなければなりません。それが『北斗』なのです。
 そっと私は立ち上がると、ホールを後にしました。私の姿が見えていないのか、それともただ単に意に介していないだけなのでしょうか、誰一人としてこちらを見向きもしません。それはそれで好都合です。
 ここから夜叉本部まではそう遠くはありません。毛が生えた程度の私の体力でも、なんとか一気に走り切られる距離です。これでも以前よりは体力に自信はついたのですから。
 念のため、廊下を一度見回しました。人の姿はありません。もしもここで他の誰か、ホールに大半の人達がいる以上おそらく一番確率の高いのはファルティアさん達でしょう、見つかりでもすれば、間違いなく問いただされるでしょう。ファルティアさん達も操られている以上、まさか目的を話せるはずもありません。敵陣で、自分の所在を明言するようなものです。
 これでようやく、安心して足を踏み出せます。私は動きやすいように胸元に指を伸ばして制服をやや緩めました。
「どこへ行く?」
 不意に背後から刃物ような鋭い声が私を制止しました。
 私は反射的に足を止めてその場に硬直してしまいました。まさか誰もいなかったはずなのに。そう恐る恐る背後を振り返ります。
 いつの間にか私の背後に立っていたのは、まるで能面のように表情が無いリーシェイさんでした。無表情の中に、殺気にも似た鋭く突き刺すような威圧感がこもり、その矛先を私へ向けています。まるで打ち抜かれるような、嫌な感覚です。
「戻れ」
 淡々と言い放った簡潔な言葉。私はただ操られたようにこくりと頷きます。
 その表情の無さは普段のリーシェイさんとはとても思えず、ただただ背筋を震わせるだけでした。
 怖い。
 リーシェイさんを心の底からそう思ったのはこれが初めてでした。



TO BE CONTINUED...