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「迷い子よ、何を憂う事がありましょう。この世はこれほども神の後光を受けて輝いているというのに」
「断ち切れない鎖はありましょう。避けられない石はありましょう。しかし、それこそがあなたの成すべき天命」
二人の修道女は楚々とした佇みで静かにリュネスに向かって歩を進める。その足取りに恐れは無く、ただ神を代行し教えに背く存在を調伏しようと堂々とした態度である。
二人はこの北斗にて最強の流派である『浄禍』に属し、その中でも際立って強大な力を持つ『浄禍八神格』の一員である。人の領域を逸脱したとまで謳われる彼女らに適う者などこの世には極限られており、まして人類に属すリュネスを恐れる理由など一片たりとも存在はしない。よって暴走したリュネスに対する二人の態度は自然であるものと言えた。
リュネスは突然の二人の登場にも驚きなど微塵も見せず、ただじろりと怒りに血走った目で見据える。同時に、まるで雪崩のような寒波を放ち二人の修道女に向かって吹き付けた。寒波ははっきりと目で見る事の出来る白い渦を巻き、自らの背後を白く凍りつかせながら凄まじい勢いで二人に向かっていく。だが、
「主の膝元に憂い無し」
片方の女性がそっと右の手のひらを前方へ向ける。するとあれほどの凶暴な寒波はいとも容易く彼女の細腕によって押し止められ、微風の如く散り散りに飛び散った。
そんな、自分をさほど気にもかけていないと言わんばかりの仕草を見たリュネスは、苛立だしげに奥歯をぎりっと噛み締める。
それはただ怒りを燃やし続けていたリュネスが初めて見せた、ある特定の存在へ対する個の怒りだった。
リュネスには少なからず浄禍八神格との間には因縁が存在する。怒り以外の思考を停止させていたリュネスが彼女らの登場に刺激され、反射的にそれを思い起こしてしまった故の反応である。
徐々に険しさを増していくリュネスの顔。俄かにリュネスを中心に冷気が渦を巻き始め、周囲の空気が冷たく張り詰めていく。びしびしと凍りついた地面は音を立て弾け飛ぶ。彼女ら三人を除いた全ての存在が緊張に縛れる。
リュネスの怒りは限りなく殺意へと近づいていた。完全に昇華されていないのは、リュネスの生まれ持った性格の、善意の強い、という特徴が影響していたためであった。暴走とは理性を失い善悪の判断を無くす極めて野蛮な精神状態の事だが、リュネスにとっての原始の意識は争いを好まないものなのである。けれど、そんな僅かな善意さえも精霊術法の力は無惨にも易々と飲み込んでしまう。そして更なる怒りの底へ容易に傷つく理性を叩き落とす。
「迷い子よ、目を背けるのは止めなさい。あなたの目は閉じられているだけで見えぬものではありません」
「神の思召しとは、僅かの過ちで揺らぐものではありません。しかし、あなたが踏み出そうとしている過ちは御心を踏み躙る罪深きものです」
楚々とした態度のまま更に前進する二人の修道女。二人の歩は砂利の転がる音すら立てぬ、不気味なほど静かな足取りである。
二人はまるで荒れる子供を諭すかのように、慇懃な口調でリュネスに聖句を言い聞かせる。しかし、リュネスの表情はより険しさを増すばかりで二人の言葉には耳も貸そうとはしない。二人の言葉にどれほど意味があろうとも、少なくともリュネスには火に油を注ぐ以外の意味にはならなかった。
思考を無くし怒りに支配されていたはずのリュネスの脳裏にははっきりと言葉が浮かんだ。
ただ一言、殺セ、と。
ひゅーっと鋭く息を吸い込むリュネス。そして無意識に放っていた寒波の流れを反転させ、全ての力を自らの一点に集中させ始める。
『諸共よ、神の如き欺瞞に満ちた歌ではなく、狂気溢れる真実を皆で刻もうではないか』
突然、リュネスは声高らかに独唱した。
『災禍よ、猜疑に満ちた醜い敗北者よ、汚泥より生まれた偽善者よ。我ら気狂いの如く唾を吐き捨て、共に信仰の妄執より放たれん』
それは、普段のハスキーボイスとは似ても似つかぬメゾソプラノの歌声だった。するとその歌声にまるで引き寄せられるかのように無数の粒子がリュネスの胸の前に集まり、蒼く光る球体を生成していった。球体の内部にはまるで吹雪のように青く冷たい光を放つ粒子が吹き荒んでいる。ただ、何か常識を逸脱した凄まじいエネルギーの奔流が更に凝縮されている事だけが分かった。
リュネスの独唱は続く。
驚くほど高く澄んだ声ではあったが、怒りに満ちた凍りつくような怨念が伝わってくる、歌声の美しさに似合わない醜悪な歌詞だ。己の心中に渦巻く膿を吐露しているようにさえ思える。
怒りのまま、リュネスは青い球体をより大きく生成していく。その球体を見つめるリュネスの眼差しは一線を踏み外したそれであり、たとえあの狂喜が無かったとしても到底正気に範疇に思考が置かれているとは思えなかった。無論、リュネスの意識には目の前の存在を消し去る以外の選択肢は無く、ただ本能的に野蛮な思考を持って術式を行使し続ける。
『正義の威光を振り翳す者は偽善の名の元に芋虫の如く打ち据えられ、汚れた倒錯の降り注ぐ所、全ての人々は全一となる』
ぐおん、と人間の可聴域の底辺を走る重苦しい音が響き渡る。それはリュネスの前に浮かぶこの球体から発せられたものだった。
リュネスはそっと球体を両の手のひらで包み込む。だが、軽く首を横に振って奥歯を噛み締めた。それはまるで、これほどのエネルギーを集約させていながらも、まだ納得のいく程ではないと言わんばかりの様子である。
『偽りの友を得る喜劇に溺れた者、歪なる女性を妻に求む者、そうだ、罪を愛で闇と汚泥の中で泥を啜りながら這いずる事を望む者は、共に野良犬の如き悲鳴をあげよ。そして気休めの光にすがる蛆虫共全て、拳を振り上げ奈落の底へ叩き落とせ』
尚もリュネスに向かい前進してくる二人の修道女。
それに対しリュネスは、独唱を続けたまま右手の手のひらを広げて見せる。すると、一瞬カッと眩しく輝いたかと思うと、そこから五本の青い光が放たれた。光はそれぞれ二人の修道女に向かって宙を一直線に駆けながら、自らを変質、膨張させていった。見る間に細い光の帯でしかなかったそれは、堂々たる五匹の和竜へとその姿を変える。
巨大な口を開き牙を剥いた五匹の青い和竜は、頭上からまっさかさまに急降下しながら二人の修道女に目掛けて襲い掛かった。
「迷いに力は無し。それが天命」
先ほどとは逆の女性がゆっくり頭上を仰いだ。すると、そこに向かって縺れ込むように降下してくる五匹の和竜は、彼女らを飲み込む直前で見えない壁に阻まれたかのように、ぐしゃりと潰れて青い粒子を撒き散らした。
それでも、リュネスはまだ攻撃の手を緩めない。
独唱を続けたまま、今度は左腕の拳を握り締めて前方へ突き出した。直後、リュネスの拳が青く輝いたと思うと、その拳を何倍もの大きさに投影したかのような巨大な青い拳が放たれた。巨大な青い拳は地面を抉りながら真っ直ぐに二人の下へ突き進んでいく。だが、今度もまた二人は少しも取り乱す素振りを見せなかった。ただ視線一つだけを目の前へ配らせる。それだけの仕草で拳は真ん中から二つに割れ、そして青い粒子に分散し中空へ解けていった。
『この世の全ての者は、気狂いに踏み付けられ甘い幻覚に酔いしれる。全て善なる者も、悪なる者も、素晴らしき荊の道を歩むのだ。大自然は錯乱する我らを等しく嘲り、膿と、蛆のわいた腐肉の友を与える。そしてちっぽけな蝿ほどの祝福に手を打ち鳴らし、神の幻想は狂気によって括られる』
リュネスは両腕を真っ直ぐ横へ広げる。そしてそれぞれの腕に広い刃を持つ凍りの大剣を体現化させた。
ぐんっ、と左足で地面を踏み切り、自らの体を前方へ打ち出す。同時に両腕の大剣の刃先を二人に目掛けて突き立てる構えを取った。
刃先は吸い込まれるかのようにそれぞれの喉に走っていく。だが、その刃先もまた見えない壁に阻まれて触れる寸前の所で止まってしまった。
『正気を無くし金切り声を上げながら糞尿の上を踊り狂うが如く、叫べ兄弟達よ、お前達の欲望を、断頭台の聖者のように絶望に満ちて。百万の人々よ、互いに貪り尽くせ』
刃を繰り出すリュネスはその腕から力を抜かず、阻まれながらも前進を大剣に強要する。
そして、歌い続ける聖歌からは到底かけ離れた歌は最終局面を迎えていた。
『悪魔のくちづけを世界に』
またしても、ぐぉん、と重低音の方向を上げる、位置をリュネスの頭上へと移した青い球体。その質量は先ほどまでと比べ物にならないほど膨れ上がり、直径は優にリュネスを飲み込むほどもあった。だがリュネスは未だ術式を行使せず、見えない壁に突き立てた双剣を更に加速させる。
『兄弟よ、偽善の渦巻く仮初の楽園には人の皮を被りし畜生の王がいる』
剣と壁とが摩擦する場所から悲鳴のような甲高い音が上がり、白い火花を散らし始める。それにつれてゆっくりとリュネスの氷の剣は壁の内側へめり込んで行った。そして遂に突進力が張力を凌駕し、不可視の障壁を突破した。
二人の修道女は同時に刃先を左手で掴んだ。そこで再び双剣の侵攻は止まる。けれど、素手で氷の剣を掴む二人の手はそれぞれ真っ赤な血に塗れた。そしてリュネスの剣はまるで生き物の如く吸い取ったのか、徐々に剣身の放つ青い光が赤みを帯びて行った。
『威光に屈するか? 屈折した愛を持つ彼を神と認めるか?』
このまま押し切らんとばかりに、リュネスは声高らかに澄んだ旋律を奏でる独唱を続けたまま、前傾姿勢になり体ごと両腕に体現化した氷の双剣を突き進める。ずるり、と湿った音を立てながらゆっくりと剣は掴む素手の中から滑る。けれど、修道女は共に自分の身に起こっている事が他人事であるが如く、楚々とした態度だけは崩さなかった。
「何を嘆きましょう? 恵みの光は前を向く者へ等しく降り注ぐというのに」
「人は皆、主から決して侵し難い唯一の意味を授けられ遣わされました。その真理こそがあなたの天命」
二人は反撃の様子も見せず、ただ静かながら決して耳を塞ぎ難い不思議な魅力のある声でリュネスへ言葉を放ち続ける。諭すようでもあり、叱咤するようでもあり、怒りの淵へ飛び込んだはずの理性がゆっくりと引きずり出されるような感覚を覚えた。しかし、それ以上の意志を持たないリュネスには、かえって逆効果にしかならなかった。引きずり出される理性に不快感を覚え、より怒りの炎は白く純粋に燃え上がる。
「憂う事はありません。大いなる主は決して見放す事はないでしょう」
「早く目を開け、はっきりと見つめなさい。己の天命を」
『諸共よ、この腐臭に満ちた地上にこそ創造主を求めよ!』
怒りに任せ地面を強く蹴り前へ踏み込むリュネス。青い光をまとった足は地面を踏み砕き、リュネスの足へ反動を伝える事を最後に深く抉れ込んだ。
前進した分の距離が両腕の大剣を進ませる。ほとんど伝わってくる感覚も無いまま、刃先はそれぞれ修道女達の背中から飛び出した。
己の腹に氷の剣を通したまま、二人は力の抜ける膝をがくりと地面へ落とす。
すぐさまリュネスは後ろへ飛びのくと、右腕を頭上の青い球体へと掲げる。そのまま振り落とすと同時に球体を目の前へ構える。常識を外れたエネルギーは、その残滓だけでもリュネスの体に無数の傷をつける。しかし、見る間に腕が血に塗れ赤く染まろうとも、リュネスの睨みつけるような視線は二人の修道女へ注がれたままだ。
『されど、そこに居るのは肥えた豚だけだ』
そして、リュネスは二本だけ伸ばした指で球体に向かい逆十字を描く。瞬間、その球体は自らを構成するエネルギー全てを、前方へ流れる奔流の如く撃ち放った。
TO BE CONTINUED...