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「ルテラさんッ!」
昼休みが近い、丁度太陽が中天に昇りかけた頃。
とある約束があって東区に向かって歩いていた私は、突然背後から名前を呼ばれた。
それは、思春期を迎えたばかりの女の子が憧れそうな男性像がそのまま抜け出てきたような容姿を持つ、同じ守星のエスだった。流派『悲竜』で修めた二刀剣術を操るエスは、いつものように腰へ黒鞘の双剣を差している。剣術なんてまるで分からない私には酷く歩きにくそうに見えるのだけど、エスの立ち居振舞いはまるでそこに存在していないかのようにごく自然なものだ。
エスは人ごみをするりするりと抜けながら駆け寄ってくる。相変わらず、やたら爽やかな空気を存分に振り撒いている。こういう所が、恋に恋する少女が恋心と呼ぶものを掻き立てるのだろう。
「あら、お久しぶり。これから勤務かしら?」
「いえ、ついさっき終えた所です。ルテラさんは?」
「私は午後からなの」
「では、一緒に昼食などどうですか?」
エスはにっこりと人の良さそうな笑みを浮かべる。何の表裏も無い、子供のような純真ささえ覗くエスの笑み。それが、彼の人気や人望を支える要素の一つなのだろう。比較的見慣れている私でさえも、思わずハッとしてしまうのだ。たとえばファルティアのように単純な精神構造の持ち主には、それこそ心を魂ごと根こそぎ奪い取られてしまうだろう。結果的にエスは、元々生まれ持った恵まれた容姿も手伝って、女性を中心に人気を集めているのだけど。そうさせてしまった要素に、本人がまるで気がついていないのだから始末に終えない。こういうタイプの男が一人の女性を決めてしまうと、一生、不幸の手紙やら呪いの人形やらと、古今東西ありとあらゆる陰湿な嫌がらせに事欠かない、波乱に満ちた生活を送る事が余儀なくされてしまうだろう。
私にしてみれば、確かにエスは女性的な立場から見ても魅力的な男性だと思う。けれど、あくまで親しい友人という位置付けは変わる事がなかった。エスはあの人の弟。それを特別意識している訳でもないし、センチメンタルな思い出にふけるつもりだってさらさらない。ただなんとなく、あり得るはずの無いあの人の視線を、時折これ以上無いリアルなものとして感じる事があるのだ。それを感じている間は、きっと私はあの人に意識して背を向け続けなくちゃいけないのだろう。
「いいわね。でも、ごめんなさい。せっかくのお誘いなんだけど、実は先約があるのよ」
おや、ときょとんとした表情を浮かべるエス。私は自分で言うのもなんだが、結構付き合いのいい人間だ。そんな私が断ったのだから、さぞ意外に思ったのだろう。
「ルテラさん、何かあったのですか?」
エスは急に真剣な表情で私に問い掛けてきた。
「どういう事かしら?」
その質問が差しているのは、私が先約を持っている事へではなく、もっと別な、エス自身が私から感じ取った何かに対してだった。けれど私は、それに気づいていながらもあえてとぼけた返事を返す。
「失礼ですが、表情がいつもより厳しい感じがしたもので」
「嫌ね……やっぱり顔に出ちゃった?」
一度とぼけては見せたものの、そう簡単にとぼけ通せる相手でない事は重々分かっている。エスはあの人の弟でも、相手の事に関しては驚くほど敏感なのだ。
「ちょっとね。大変な事になっちゃって」
「大変な?」
「そ。まだ言えないから、聞かないでくれないかしら?」
「いえ、こちらこそすみませんでした」
にこやかに微笑んで一礼するエス。
あの人は決してこんな優雅に振舞ったりはしないけれど、その柔らかい笑顔だけはさすが兄弟だけあってそっくりだ。
ふと私は、自分がエスと対峙している時、やたらあの人と比較して見ている事に気がついた。エスだって、幾ら実の兄とは言えども誰かと比較されて見られるのは不愉快だろう。口に出して明言している訳じゃないけれど、思うだけで相手に対し失礼な事だってある。いい加減にこのクセは治さなくてはいけない。
「それじゃあ、私。そろそろ約束の時間だから行くわ。ご飯はまた今度誘ってね」
ええ、とエスはにこやかに微笑んで頷いた。
私達守星は、生活時間がどうしても不規則であるためなかなか時間を合わせる事が出来ない。偶然を待つかい指揮して調整しない限りは、まず顔を合わせる機会など訪れはしない。そんな数少ない機会を自分で反故にするのは気が咎めたけれど、今回ばかりは致し方ないのだ。昼食はまたいつでも食べる事は出来るが、私の抱えている問題は一生に何度も訪れたりする事などない、とにかく深刻なものなのだ。私は当事者ではないのだけれど、何よりも私が何とかしなければいけない状況に陥っている。ここはどうしても、そっちの方を優先せざるを得ないのだ。
申し訳ない気持ちを引き摺りつつ、私は笑顔で手を振って進行方向へ向き直りかけた。仕事柄、こういう行き違いも仕方ないか。そんな愚痴っぽい事を考えながら。
「ルテラさん、一つ聞いても良いでしょうか?」
私が踵を返そうとした瞬間、急にエスがそんな問いを投げて私をこの場に留まらせた。
「なにかしら?」
返そうとした踵を戻して視線を再びエスへと向ける私。
その時、エスは今まで見せたことも無い表情を浮かべていた。
まるでこちらの一挙一動一言一句を観察しているような、一見表情は穏やかでも眼の奥が冷たく凍えているような気がした。私は冷気を体現化する術式を得意としているが、そんな私が思わず寒気を感じてしまうような、物理的ではない感覚的な冷たさだ。普段は善人を絵に描いたような人柄で通っているエスだけに、私は驚きと戸惑いをほぼ同時に覚えてしまった。
一度視線を外してエスの顔を見直すと、そこにはいつものにこやかなエスの顔があった。
気のせいだったんだろう。
ここのところ仕事詰めであまり休みは無かったし、イレギュラーな心労もある。人間、常に感覚が正確に働くとは限らない。たまには誤作動だってある。酷使し続けていれば尚更だ。
「いえ、別に大した事ではないんです。ただ、ちょっとルテラさんの考え方を聞いてみたくて。心理テストみたいなものだと思って下さい」
にっこりと微笑むエスの表情には何の影も見られない。別段、他意は感じられなかった。だからだろうか、私は何の繋がりも無い、唐突極まりなくエスには似つかわないその申し出に何の不自然さも感じ取る事が無かった。
了承の意味を込め、私は微笑みつつ肯いて答える。それが了承と伝わったらしく、エスは笑顔で軽く会釈を返した。
「もしもです。北斗に、普段とは違う重大な事件が起こったとします。その時、ルテラさんは僕の味方になってくれますか?」
やや恥ずかしそうに訊ねるそうスファイル。どうやら本当にただの心理テストらしく、恥ずかしがっている所を見る限り、それは本人の言葉ではなくどこかで見聞きしたものだろう。真顔で訊ねるのは心底辛い、そんな心情がひしひしと伝わってくる。
エスの珍しく面白い様子に私は口元をほころばせ、肩をわざとらしくすくめて見せてから答えた。
「味方も何も、事件の対処が私達守星の役目でしょ?」
「それもそうですね」
本当に、守星として、何より北斗として当たり前の返答だ。
そう私は思っていた。守星は北斗に降りかかるあらゆる事件の早期鎮圧が使命だ。それがどんなものであろうとも、私達は常に力を合わせて立ち向かわねばならない。人それぞれ、ある程度の主義主張の違いはあるだろうが、『北斗を守る』という命題に関しては誰もが共通している。互いが顔も名前も知らなくとも、ただそれだけで協力し合う理由には十分だ。だからこそ、改めて『味方』という言葉を用いる意味なんてこれっぽちもないのだ。
まるで、通例となった毎年繰り返される真意の窺い知れない行事と一緒だった。おなじみの質問に対し、ありふれた言葉で答える。けどそれが初心だけで完結される範囲ならば、ありきたりだな、と思うのが普通だ。どうしても時間の限られる私達守星のコミュニケーションはこの程度の繰り返しで終わってしまう。
「で、これで何が分かるのかしら?」
「いえ、実は質問はこれだけじゃないんです。まだまだ長くなるので、次の機会にしましょう。お時間を取らせてすみませんでした」
そう言って、エスは深く一礼すると、その場から足早に立ち去った。私が別な用事を持っていると聞いて気を使ったのだろうか。それなら、こんな中途半端な質問をするのも変な話だけど。案外エスも疲れているのかもしれない。精神的な疲労は見えない所へ蓄積するし、その疲れは思わぬ異常な行動へ走らせるのだから。
私も行きましょうか。
私はさほど気に留めず一息ついて踵を返した。
だが。
ふと、私は何故だかさっき振り向きざまに目にしたエスの表情が気になった。それを考えると、足早に立ち去っていったのも、まるで逃げていったように思えてくる。うまくかわされてしまった、かと言わんばかりに。質問の真意はもっと別に所にあるかのよう匂わせて。まさか私は何かを探られているのだろうか? それこそさっきの質問通り、『あなたは僕の味方なのか否か』を判断するために。
いや、きっと考えすぎだ。私も疲れている。
そもそも、エスにそんな事をするメリットや理由はないはずだ。エスも私と同じ、北斗を守るための守星だ。北斗の事を第一に考えているに決まってるし、守星同士協力する重要性だって知っているはずだ。
疲れが、オチのつかない行動に走らせただけだ。理由なんて何も無い。突発的な錯乱に遭っただけだ。
「さて、急がなくちゃ」
ひとまず、先に当面の問題を何とかしよう。こっちは早急に何とかしなくてはいけない重要な問題だ。
思考を切り替えた私は、二人の待つ喫茶店へ足を速めた。
TO BE CONTINUED...