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「なー、リーシェイよー」
 北斗総括部一階詰所。そこには数名の人間が有事に備えて待機していた。
 今現在、総括部へ北斗派の残党軍が進軍しているという知らせを受けてはいるが、戦力の大半と浄禍八神格を二人も投入しているため、何の問題も無いだろうと思うのが総じた意見だった。そのため、残党軍の進撃に晒されているとは言っても総括部内は驚くほど余裕に満ちていた。
 気だるげな声で呼ぶのは、テーブルの上に足を置き、椅子を後ろの二脚で斜めに座っているラクシェルだった。
「何だ」
 答えるのは、右手で本を持って読書に耽る女性。長い足を高々と組みながら真向かいの椅子に腰を据えている。
「腕、どうなのさ?」
 眠そうな目で指摘するリーシェイの左腕は、痛々しいまでの包帯と拘束具で包まれていた。本来の腕よりも一回りは確実に膨れ上がっている。肘を曲げる事すらも出来無さそうだ。
 その腕は、リーシェイがシャルトと戦った際に負わされたものだ。必殺の威力を持ったシャルトの蹴りを素手で真っ向から受け止めたため、骨は折れて肉を飛び出し、指はどれもあらぬ方向へ向いてしまった。この仰々しい拘束具は、折れたそれらの骨を完全に癒着するまで正しい位置に固定するためのものである。
「完治にまではしばらくかかるだろうな。リハビリも相当かかるだろう」
「なんか後遺症とか残らない?」
「神経系統や腱、それに感染症の問題は無いそうだ。大丈夫だろう。だが、これではしばらくまともに愛撫も出来ん」
 わざと冗談を口にしたのかどうかは定かではないが、リーシェイはやけに危機迫った鋭い空気を放っていた。目の前の本も文字を作業的に追うだけで、物語を読み深めるなどしてはいない。明らかに別の異なる事を考えているようである。
「なあ。アンタさ、マジでレジェイドとシャルト殺したの?」
「命令だからな」
「そのクセ、なんでわざわざ血清も用意したのさ?」
「用意するなとは命令されていないからな」
 フッとラクシェルは軽く吹き出し肩をすくめる。何かにつけて自分に都合の良い屁理屈をこねるのは彼女の常だ。
「お前こそ、レジェイドが憎いのではなかったか? 公衆の面前で散々に叩きのめされたそうだな」
「そこまでやられてないっつの。それに、なんかもどうでも良くなってきちゃった。頭の中がこんがらかって、何がなんだか分かんない」
 二人は互いに、自分達が漠然とした違和感に支配されている事を自覚し始めていた。自分達はどうして戦っているのか。そんな小さな疑問を抱く所から始まり、それから次々と思い出せる限りの自分達が取ってきた行動へ疑問が生じ始めた。
 そうしなければいけなかったのは、理屈では理解していた。しかし問題なのは、それらに対しどうして否定的な感情を持てなかったのか、という疑問だった。上からの命令を忠実に遂行するのは戦闘集団のみならず大凡組織と呼べるものに所属している者ならば当然の摂理だ。けれど、たとえどれほど嫌悪感を抱こうとも従わなければならない命令はあったとしても、それを機械か何かのように自分がこなしてきた事が今でも理解出来ない。更に驚くことに、自分をそこまで機械然としたのは他ならぬ自分自身の意志だったのだ。
 頭の中に、まるでもう一人の自分がいたかのような奇妙過ぎる感覚。憎しみと殺意に溺れていた自分の記憶が今も生々しく残るリーシェイにとってもそれは不可思議なものだった。
 どうして自分達は戦っていたのだろうか?
 まるで痴呆症にかかってしまったかのように、二人は何度も自らの記憶を掘り起こし返した。そこからは何も与えられない事などとっくに気が付いていた。しかし、今も尚別人のように振る舞う記憶に悩ませられる自分を慰めるにはそれしか方法が無かった。
 ただ徒に、時だけが過ぎて行く。
 何かしなくてはならない。けれど、それは誰に対し何のためなのか。あれほど迷い無く自らの行動を決断していた記憶の中の自分が羨ましいと思う。善にせよ悪にせよ、行動し何かを生み出していた事に違いは無いのだから。
 突然、この建物を揺るがさんばかりの勢いで激しい爆発音が鳴り響いた。しかし次の瞬間、揺れが収まるのも待たずに二人は反射的に席を立って外へ飛び出していた。
「この音って……」
「いかん、リュネスのいる離れの方からだ」
 すぐさま二人は総括部の裏手に向かって駆け出した。それは、ある重大な事件の予感がほぼ同時に脳裏を過ぎったためである。
 仮にもしもその予感が的中していたのならば、彼女ら二人が駆けつけた所でどうにかなる訳でもない事は客観的に見ても明らかだった。ましてや、幾ら優秀な戦士である二人とは言え、今のコンディションはすこぶる悪い。射撃の名手であるリーシェイは左腕を負傷のため全く動かす事が出来ない。これは射撃手にとってあまりに致命的だ。またラクシェルも、目立った負傷は見られないものの肉体精神共に疲労の色が濃い。元々最前線を自らのフィールドとしてきたラクシェルだが、疲労した戦士にどれほどの戦果を期待できるのか。
 互いに北斗の中では中堅に当たる実力と経験を積んできた者であるだけに、自己認識の深刻な結果は誰よりも重く受け止めていた。部隊の指揮官ならば、まず戦列に加わる事など許さない状態である。それは、北斗が徹底した現実主義を貫いているためだ。覚悟を決めた人間は強い、手負いの獅子は手ごわい、などといった精神論を味方に当てはめる事など絶対に行わない。負傷した人間は単純に戦力減と見なし戦略を立て直すのが常である。その方針を続けてきた結果、北斗は今日までの繁栄を続けてきたのだ。その確かな裏づけとなる歴史から鑑みても、二人の状態はとてもまともに戦えるものではない。しかも、そうである自覚があるにも関わらずわざわざ飛び込むのは到底正気の沙汰とは思えない。
 それだけの事をしていながらも、二人は自分の行動の発露となった要因をはっきりと己の腹に決めていなかった。ただ感情によって体を動かしたという、北斗の戦士にあるまじき行為だったのである。
 何故、こうも安易に感情に流されてしまうのだろうか? 少なくとも昨夜までは、もっと機能的に機械然と振舞えていたはずなのに。いや、そもそもそれが偽りの自分だったのだろうか。そう考え始めると、自分に対する違和感は尽きる事が無い。
 二人は疑問に思う以前に、薄っすらと自らの変化に気がつき、原因がそれであると漠然と感づいていた。気がつくと、単なる数ある後輩の中の一人にしか過ぎなかったリュネスに、驚くほどの親近感のような情感を憶え始めていたためである。そもそも、ある特定の人間に対し僅かな時間でこれほどまでの情を持つ事など有り得るとは考えにくい。むしろ、元からあったものをふとした拍子に思い出し始めているのではないか、とそんな突拍子も無い考えすら浮かんできた。記憶が混乱している。自らの指標を一本化出来ないのは全てこれら内的な問題が原因である。
「アンタさ、リュネスにどんだけ酷い事したのよ?」
「……それについては申し訳ないと思っている。だが、私は私なりに、せめて刺激させないようにとファルティアにあそこへ入れさせるよう進言したのだ」
「逆効果だったのかな。一人になったせいで思い詰め過ぎたのかも」
「そうだな」
 いつに無く苦い表情を浮かべるリーシェイに、ラクシェルはそれ以上の言及をしなかった。互いに憎まれ口ばかりを叩き合う仲、むしろ相手にとって最も痛い言葉をわざわざ選んで感情を煽りながら会話する事が常だった。けれど、ラクシェルは並走するリーシェイの表情に、さすがに普段のままではあまりに酷であると思った、鉄のように厚顔に思っていたリーシェイのあまりに繊細な表情を垣間見てしまったためである。
 総括部を一息で走り抜け、裏庭を一直線に疾駆する。その足取りに迷いは無く、ただ一秒でも早く目的地へ辿り着く事だけに全霊を傾けられていた。
 やがて辿り着いた離れの建物があったはずのそこは、もうもうと煙が立ち込めていた。周囲には放射線状に瓦礫の欠片が散らばっている。離れの外壁と見て間違いないだろう。この散らばり方から察するに、内側からとんでもない負荷をかけられたようだ。確かあの建物の外壁には多重結界を施して強化してあったはず。それがこうもあっさりと吹き飛ばされた所を見ると、やはりそういう事態になったとしか思えない。
「これってさ……」
「まずいな。どうする?」
「どうするったって、止めるしかないでしょうが。リュネスは私達の仲間なんだから」
「同感ではあるが、賢い選択ではないだろうな。今のリュネスは我々を仲間と思っていない」
「そちら様は賢い選択はお好きかしら?」
「好物ではあるが、たまには違うものも食べてみるのも一興だ」
 命令、定石を無視した、至極私的で感情的な判断だった。にも関わらず、お互い自然とそんなやり取りを交わし合意を得る一連の行動が、何故か懐かしく思えて仕方なかった。ただの同僚である関係でしかなかったはずにも拘らず、何故こうも相手の考えている事が手に取るように把握し、協調できるのか。それは何か自分にとって重要なものであり、且つずっと忘れてしまっていたような感覚だ。ただ少なくとも、今の自分が本来の自分に戻りつつある予感はあった。それは、靄がかかった頭の中が少しずつ澄み渡る感覚があったからである。
 足を止め、今度は一転してゆっくりと慎重に目的地へ歩み寄る。
 姿形こそ見えないが、息の詰まるような言い知れぬ威圧感を二人はひしひしと全身で感じていた。概して相手の実力を推し量る際、その基準となるのはこの威圧感だ。相手に対し自らの力の程を誇示する事から戦闘は始まる。その威圧感のぶつかり合いによって互いに相手の実力を測るのだが、未だ姿を見せていないにも関わらずこれほどの存在感を放てるとは。これまでにこれほどの相手と出合った事は、少なくとも二人の記憶には無い。
 何か禍々しい怪物を相手にしている錯覚があった。ここにいるのは間違いなくリュネス=ファンロンという人間唯一人だと言うのに。この息苦しさ、背中に浮かぶ汗は何なのだろうか。これではまるで、猛獣の巣へ自ら足を踏み入れているかのようだ。
 そして。
「む……来たぞ」
 リーシェイが鋭い視線を前方で焦点を合わせる。追って見やるラクシェルの視界が捉えたのは、噴煙の中に浮かぶ小さな人影だった。
 ゆっくりと歩み寄ってくるその姿は、自分達と同じ流派『凍姫』の濃紺の制服を身につけていた。肩下ほどのブラウンの髪が微かに左右に揺れている。よく見ると、巻き上がってる煙は埃だけではなかった。それすらも凍りつかせるほどの途方も無い凍気があちこちで渦を巻いている。
 リュネスだ。
 そう確認したのは、はっきりとその顔が肉眼で見える距離まで近づいてからだった。あまりに周囲を席巻する威圧感が、普段のリュネスとは到底結びつかないためである。それほどまでに、リュネスの放つ威圧感は怪物染みていたのだ。
 ゆっくりと歩み寄るリュネス。その目はただ冷たい光を放っているだけだった。
 一つ、以前の暴走とは違う点があった。たとえるならば、以前の暴走はあまりに純粋な喜びに満ちているものだった。たとえ一線を越えてしまった狂的なものとは言え、普段性格上抑圧されていたのであろう様々な欲求が術式によって解放された事により、思う存分傍若無人に振舞える事をただ喜んでいたのだ。けれど、今のリュネスの表情からは喜びの感情などただの一片たりとも見つける事が出来なかった。代わりに浮かんでいるのは、何もかもを凍りつけてしまいそうなほどの憤怒の一色だ。
 何故、怒っているのだろうか。
 だが、すぐにそんな事を考える余裕も吹き飛んだ。代わりに沸き起こった純粋な恐怖。それに全ての自由を拘束されてしまったのである。二人は巨大な怪物の腕に体ごと握り締められてしまったかのように、その場に硬直したまま身動き一つ取る事が出来なかった。魂そのものを掌握されてしまったのか、振りほどこうと試みる事すら許されなかった。出来うる限り行動の何もかもを全て縛り付けられてしまったのである。
 自分よりも一回りも小柄で、性格も引っ込み思案でおとなしいリュネス。決して自分の意見を無理に主張しようとはせず、周囲に意見を合わせる事が常だったような彼女が、まるで巨大な魔物に化してしまったかのような威圧感を放っていた。
 同じリュネス=ファンロンという人間である事は理解していた。しかし、あまりに印象が異なり過ぎ、同一人物とはとても思えなかった。本当に良く似た人間がいる。そう考えずにはいられない。
 ゆっくりと狭まる互いの距離。
 殺される。
 本能がそう悲痛な叫びを上げていた。しかし、逃げようにも体が言う事を聞いてくれない。第一、思考そのものが恐怖におののいて何もかもを放棄してしまっている。
 異様な光を放つリュネスの獣染みた眼差し。何もかもを飲み込まんばかりに深く濃く淀んだ眼差しは、ただ真っ直ぐ前方へと注がれている。
 三歩。
 二歩。
 一歩。
 意識よりも早く肉体が死んでしまっているのではないだろうか、とすら思いたくなる戦慄の存在感。緩慢に流れる時間は全身を切り刻まれたかのような苦痛をもたらした。とうにこの巨大な威圧に白旗を上げている理性が耐えられるはずもなく、俄かに止めようの無い震えが始まり出した。
 蜘蛛の糸に羽を絡め取られた蝶の心境はこのようなものなのだろうか。
 覆す事の出来ない摂理従った捕食者と獲物の構図。二人は目の前のリュネス=ファンロンが到底自分と同じ人類とは思えなかった。
 この感覚、かつて同じようなものを味わった事がある。そう、浄禍八神格と相対した時に感じた、搾取する者の威圧感だ。
 強く噛み締める奥歯ががたがたと震えて綺麗に噛み合わない。いっそこのまま倒れてしまえばどれだけ楽だろうか。それすらも目の前の搾取者は許してはくれない。
 殺すと言うよりも、取られる、と表現する方がより正しいだろう。
 日常的に自分達が生き物を口にするように、ただ作業的に取られていく。まさにその感覚だ。
 だが。
 最後の距離が詰められた次の瞬間、息を飲んだ二人の間をリュネスは無言のまま通り抜けた。それはまるで、木と木と間を潜り抜けるような、二人の存在を無視していると言うよりも単に視界に入っていないという様子だった。
 リュネスの巨大な存在感が遠ざかる。それが完全に意識の外から消え去った頃、二人は思い出したように息を吐き、その場に力なくへたり込んでしまった。
 ぜいぜいと肩を激しく上下させ、がむしゃらに酸素を肺へ送り込む。冷たい汗が次から次へと流れ、顔を斑に濡らす。しかしそれを拭う気力さえ削ぎ落とされていた。
「才能、か……」
 ぽつり、とリーシェイがしわがれた声でその言葉を呟いた。
 苦い一言だった。それは、長年実戦経験と鍛錬で磨き抜いたはずの自らの実力を一概に否定する言葉だったからである。しかし、その真実性を己の身を持って実感した以上反論の余地は無く、どう足掻こうとも認めざるを得なかった。
 二人はそのまま、しばし呆然と座り込んでいた。
 未だ冷気の漂う周囲は肌寒く、汗に濡れた二人にその吹きつけはやや冷たいものだった。けれど、心なしかこの静まり返った空気と合いまり、破裂する寸前まで張り詰めた緊張を終えた二人を穏やかな方向へなだらかに促していった。
 耳に痛いほどの静寂。
 自分達だけが戦いの喧騒から放り出されたような感覚である。
「あのさ、この間。私、新しく見つけた居酒屋に入ったんだ」
 不意にラクシェルが口を開く。
 一体何の事だ。そう視線を投げかけるリーシェイに、ラクシェルは、とにかく聞いて、と視線を返し、リーシェイはそれに肯いた。
「小さくて古い店だけど割に小奇麗でさ。結構良い酒出してくれるんだ。で、さんざ飲み食いしていざ会計しようと思ったら、財布忘れた事に気づいて。ヤバイ、って焦ってたら、急に横から男の人が進み出て、会計を一緒にしてくれたんだ。本当に見知らぬ初対面の人。とにかくこの場は助かったなあって思ったんだけど、私はお金の貸し借りは本当はあまりしたくないからさ、お金返すから連絡先教えて、って言ったんだ。でもその人、来週ここに来た時に奢ってくれればいいよ、て言ったんだ」
「酔狂な男だな。次、来るとも限らないだろうに」
「そうなんだよね。でもやっぱ申し訳ないでしょ? とりあえず次の週に冗談半分でその店に行ってみたらさ、本当に居たんだ。っていうか、その人常連だったらしいんだわ」
 ラクシェルは足を組み直し、膝を抱くような姿勢を取った。顎は膝の上に乗せ、視線を緩く斜め下へ落とす。
「それから時々そこで一緒に飲むようになってさ。まあ、お互い仕事の愚痴だ税金高いだの喋繰り合ってた。そこの店って閉店時間が無いからさ、本当に一晩中飲み明かした事もあったわ。なんかね、凄く気の合う人なんだ」
「もしかして、惚れたのか?」
「どうかな。後一回会ってたらもしかすると好きになってたのかも。でも、もう無理なんだ」
「何故だ?」
「その人、『逆宵』の人だから。だから……」
 とっくに死んじゃってる。
 ラクシェルはその言葉を辛うじて飲み込んだ。けれど感情の発露までは抑えられず、表情を隠すように膝へと埋める。察したリーシェイはただ一言、そうか、とだけ答えた。
「私達って何のために戦ってたんだっけ? 何か分からなくなってきちゃった。こんな思いをするために戦うほど、私らって戦闘狂いだったけ?」
 か細いラクシェルの痛々しい声。その言葉に対しリーシェイは、溜息以外に返すべきものを見つける事が出来なかった。それでも長い逡巡を続けた後、ようやくリーシェイは一言だけ返すべき言葉を見つけそれを口にする。
「大儀無き戦いはしていない、と自分を信じたいな」



TO BE CONTINUED...