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「え、外に?」
グラスにつけかけた口を離し、ルテラは俺と同じ碧眼を大きく見開いた。薄暗い店内に流れる静かな音楽を、ルテラのその声が一瞬覆い被さってしまった。
その晩。俺は久しぶりにルテラと酒を飲んでいた。店もまたいつもの所で、待ち合わせもいつもの時刻、ルテラもいつも通り遅刻してきた。俺はいつものようにウィスキーをストレートであおり、ルテラはストリングを注文する。で、これまたいつものように互いの仕事上の愚痴をこぼしたり、他愛のない話題を重ねたりしていたんだが。ふと話題に上ったシャルトの事から、俺はそんな言葉を口にしたのだ。
ルテラの顔には驚きと困惑が入り混じった表情を浮かべている。そして若干の不快感だ。
「ああ。今度、丁度いい仕事が入ったんでな」
「ちょっと、幾ら何でも早いんじゃないの? シャルトちゃん、まだ入ってから一年も経ってないじゃないの」
シャルトを引き取ったのは、まだ春も半ばの頃だったか。あの時のシャルトは麻薬の後遺症が酷く、最初の一ヶ月ほどはずっと入院していたっけ。それから本人の希望もあって夜叉に入れてやり、これまで俺が直々に鍛え格闘術を仕込んできたんだが。まあ物覚えの悪い事悪い事。思考があまりに単純過ぎるから、相手の裏をかくのが常である戦闘タイプの思考が出来ないのだ。それでも、多少の小賢しい策略ぐらいは力技でブッ飛ばせるようには鍛えてやってるが、現時点では経験の薄さと機転の利かなさがせっかくの身体能力を生かしきれずにいる状態だ。
そろそろ基礎は過渡期に入ろうとしている。これからはより高度な技術や戦略を習得していかねばならないが、それらはお座敷稽古で身につくもんじゃない。これからシャルトに必要なのはとにかく経験だ。今の実力で出来るような仕事はそうはない訳だから、機会があれば積極的に参加させてやらなくてはいけない。
「大丈夫だって。仕事っつっても簡単な警備だけだ。あいつは戦闘そのものには参加しないさ。現場の空気を肌に感じさせ、それを覚えてくれりゃそれでいい」
今回の仕事だが、要約すれば『恨みを買った金持ちを目的の場所まで警護する』といった内容のものだ。そいつを誰が狙ってるのかは知らんが、ヨツンヘイム最強の北斗が警護についたと知ってて挑んでくるようなアホはまずいないだろう。仮にそんなアホがいたとしても、警護についてるのは夜叉の精鋭ばっかりだ。シャルトの出る幕なんかないだろう。ま、だからといって安心させていては連れてくる意味がない訳だから、適当にある事ない事言ってビビらせてておくとしよう。
「また、そんな根拠もない事言っちゃってさ。前だって、そんな感じでああなったんじゃないの?」
ルテラが冷ややかな視線をぶつけてくる。
俺はルテラのその視線が苦手だった。俺としては別に悪い事も自分に恥じ入る事もしているつもりはないのだが、ルテラにそんな目で見られてしまうと、どうしても謝らなくてはいけないような気分にさせられてしまう。
「ったく、相も変わらず過保護なお母さんだなあ」
思わず苦笑いを浮かべ、その視線から逃れるようにグラスを傾ける。すると、ルテラは不機嫌そうに口を尖らせてグラスの尻を小突いてきた。突然グラスの縁が前歯に当たり、俺は思わずむせ返ってしまう。
「だから、そこまで歳は離れてません。何回言わせるの」
ふん、とそっぽを向きながらバーテンダーに新たに注文する。もう一杯目を飲んでしまったようだ。ルテラは性格はおっとりとしていながら、どうにも酒の飲み方はピッチが速い。
シャルトは今年で十六、ルテラは二十三だ。まあ確かに、親子と言うには歳が近過ぎるか。にしてもだ、ルテラのシャルトに対する過保護ぶりは少々異常のような気もしなくもない。それだけ可愛いんだろうが、幾ら可愛いからって飴ばっかやっても甘ったれになっちまうだけだ。厳しさも重要なんだが、厳し過ぎてはそれで性格がひねて斜に構えてしまう。まあ俺達保護者がこうやって喧喧諤諤やってるぐらいが丁度いいのかもしれない。
「まあ、一応は、お兄ちゃんの事は信用してるから。シャルトちゃんの事、ちゃんとしてよね。くれぐれもイジメないでよ」
「イジメるかよ。俺を何だと思ってるんだ」
「だって、お兄ちゃんって意外と子供なんだもん」
少しだけ酔いが回ったのだろう、普段よりやや紅潮した唇がニコリと笑みを浮かべる。反対に俺は、やれやれと苦笑いを口元に浮かべグラスを傾けた。カラン、と音がして氷が唇の方へ転がってくる。
我が妹にそう思われているとは、いささか心外だ。というか、段々と兄という立場の偉大さが薄れていっている気がする。これでも幼い頃のルテラは、お兄ちゃんお兄ちゃんといつも俺の後を追ってたのに。ルテラ自身が力と自信を手に入れ、自分で何でも出来るようになったから必然と俺の需要が減ったのだろう。それは俗に親離れとか呼ばれ、本来は喜ばしいものなのだが。俺は少しだけ物寂しい。ま、そんな事にいつまでもこだわってる自分もまた失笑モンだ。
「ま、あの時みたいにはさせねえさ。安心しとけよ」
バーテンダーに新しい氷とウィスキーを注いでもらい、また一口、口にする。その深い香りをじっくりと舌の上で味わい嚥下した。
この店はそれほど広くも無く、席も滅多に埋まる事は無い。けれどサービスはどこでも受けられないほど良く、酒もまた良いものばかりが並んでいる。いわゆる隠れた名店というヤツだ。
「ねえ、そういえばさ。あの時、どうして『遠見』は助けてくれたのかしらね」
と。
その時、ふとルテラが何かを思い出すような口調でそう言った。
「なんだ、まるで助けて欲しくなかったみたいな言い方だな」
「そんな事言ってないわよ。ただ、ちょっと不思議に思っただけ」
言われてみれば、確かにそこは疑問だ。
流派『浄禍』は北斗十二衆最強であり、北斗そのものの守護神的な存在である。彼女らは皆人智を超えた力を持ち、如何なる存在をも打破する事が出来る。その強過ぎる力は精霊術法を暴走させた人間の始末に使われる事が多い。『毒には毒を』的な考え方だが、損得計算をすればそれが最も合理的な手段でもあるんだが。
あの時、暴走したシャルトの前に現れた、浄禍八神格の一人『断罪』の座。彼女が出てきた理由は無論、シャルトの始末だ。そうはさせまいと俺は、後々面倒というかシャレにならない事になると分かっていながら刃を交えた。それ自体は『シャルトを助ける』という理由があっての事だから、少なくとも俺自身には後悔も罪悪感もない。しかしだ、事を交えている俺達を制止したのは同じ浄禍八神格、それも筆頭に位置する『遠見』の座だった。その場は『遠見』の計らいで何とか事無きを得た。『遠見』には『断罪』をも退かせる権限があったからだ。
ただ、未だに解せないのがその『遠見』の行動だ。通常、暴走した術者を始末する事にそれ以上の理由はなく、ただ淡々と作業的に行なうのが浄禍の業務のはず。にも関わらず、『遠見』はシャルトの事をあろう事か助けてしまった。少し悪い言い方になってしまったが、とにかくこれは異常な事なのだ。空腹の肉食獣が獲物を追い詰めておきながら捕食しないのと同じぐらいに。
「さてな。正直、俺には浄禍の連中が考えてる事なんてサッパリ分からんからな」
「でも、気分だけで物事を決める人達でもないでしょ」
「何か理由があるんだろ?」
もっとも、俺なんかにはまるで見当もつかないが。
そう言い含めておきながら、俺はグラスを傾けて言葉を濁した。
「ただね。シャルトちゃん、精霊術法使えなくなったよね。それってあの時、『遠見』に何かされたからでしょ?」
「らしいな。でも俺はそれで大歓迎だぜ? やっぱそんなモンに頼るのは男としてダメダメだ。何より自分自身を鍛えなけりゃ強い男にはなれん」
北斗が戦闘集団としてヨツンヘイム最強に至ったのは、単に精霊術法に拠る要素が大きいとされている。確かに精霊術法の威力、戦闘における優れた有用性は認めざるを得ないだろう。だがしかし、詰まる所この技術は自分自身の肉体以外に頼る部分が大きく、精神的な影響や戦闘心理的要素など、輝かしい利点に隠れて問題点にされないそれらの部分が俺は鼻にかかって仕方がない。古いタイプと思われるかもしれないが、結局の所最後に信用できるのは自分自身の力だ。精霊だのに力を借りて戦うなんて、少し戦士としての心構えが薄いように個人的には思う。それに、そんな即席的な力に頼るから暴走事故などが起こる訳であって。やはり強く在るためには、自分の体を鍛えるべきだ。体が強くなれば心も伴ってくる。戦闘で一番重要なのはその心。昨今の風潮は少々それを軽視し過ぎている感がある。俺がイマイチ精霊術法が好きになれないのはその部分だ。
シャルトが精霊術法を使えなくなったのには驚いたが、何も大きな問題とするほどでもない。元々は無痛症対策として覚えさせた精霊術法だが、それがなくなったからシャルトが弱くなる訳ではない。要は手段の違いだ。精霊術法が使えなけりゃ格闘技だけで強くなればいい。俺はそのつもりでシャルトを夜叉に迎え入れたんだし、そうする自信もある。夜叉は精霊術法を使わない流派だが、かといって精霊術法に負けるほど弱く底が浅い訳ではない。厄介な症状には違いないんだが、それを考えても十分、シャルトを強くする事は可能だ。っていうか強くなる。俺が言うんだから間違いない。
また根拠の無い事を。
そう言いたげにルテラがくすりと笑う。本当だぜ、と俺は口元に不敵な笑みを浮かべながら目で反論する。お互い冗談めかせた態度のまま、グラスに口をつける。ルテラは一息にカクテルを飲み、俺はじっくりと口の中で味わって飲む。そんな対照的な飲み方が心なしか、相違点でありながら共有するもののような気がした。
「ちょっと思ったんだけど。そんな方法があるなら、どうして今までは暴走した術者を殺してきたのかしら? なんか納得いかないわ」
「神様のお許しが出なかったんだろ? あいつらはそういう連中さ」
北斗の規律を厳守してはいるが、基本的に浄禍の行動理念は妄信的に奉ずる『宗教』だ。自らの正義を絶対的正義と信じて疑わない狂信者集団。決して一概に批難できるものでもないんだが、なんというか人間らしい温かみが感じられないのもまた事実。俺はどちらかといえば、多少規律の枠から外へはみ出しても、人間性を何よりも重視したいと考えるタイプだ。規律や法は重要だが、なんでもその枠に当てはめられる訳がない。無理にそうしようとすれば必ず歪は生じ、同時に負の感情が溢れ出す。こんな御時世だ、俺は少しでも楽しくやっていきたい。そのためにはまず、隣人と仲良くする事から始めるべきだと思う。この件については、『汝、隣人を愛せ』とかいう浄禍の教えには賛成する。
「何にせよ。シャルトが無事なら、俺はそれでいい」
「そうね」
とにかく今は、シャルトが無事で良かった、とただただ安堵する。もしもあの時、シャルトを助けられなかったら。俺もルテラも一生この事を背負って自らを責め続けただろう。シャルトを引き取ったのは俺の責任だし、精霊術法の件はルテラの責任になる。守り育てる、という使命にも似たそれを果たせないのは人間としてこの上ない苦痛だ。
「これからは、もっとちゃんと守ってあげなきゃね」
にっこり微笑むルテラ。そうだな、と俺はグラスを揺らしながらそう頷いた。
「っと、そういう、あんまりシャルトの前で言うんじゃねえぞ。結構、そういうの嫌がるからさ」
「あら、いつまでも子供じゃないのね」
「お前が子供扱いし過ぎなんだよ。過ぎたスキンシップは徒に獣性を刺激するからな」
「お兄ちゃんとシャルトちゃんを一緒にしないで」
TO BE CONTINUED...