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 彼女は俺にとって母親のような人だ。
 最後の母親の記憶は、正直血生臭すぎて思い出したくない。だから思い出すのはいつも、ずっと昔の幸せだった頃のエピソードばかりだ。
 朝、いつまでも眠っている俺を優しく起こし。
 夕方、遊び疲れて帰ってきた俺にパンを焼いてくれて。
 夜、いつまでも眠れない俺に本を読んで聞かせる。
 その人は母親とそっくり同じ事をする訳じゃない。性格も全然似ていない。性格的な波長が凄く似ているのだ。何となくだけれど。
 ただ。
 母親と呼ぶと、多分怒る。だから便宜上『姉』と呼ぶ事にしている。




「だーれだ?」
 土曜日。
 リュネスとの昼食も終わり、名残惜しみながらも別れた後。楽しかったその時間の事を思い出しながら気分を弾ませて夜叉に向かっていたその帰り道の事だ。
 突然、目の前が真っ暗になった。誰かの手が後ろから覆い被されたのである。気配は感じ取れなかった。というより、曰く、俺は鈍いらしいので感じ取れる方が珍しいそうだが。
 声は、自称俺の姉であるルテラだ。やや間延びした感のある柔らかなアルト。そして、いつもこうやって俺にちょっかいを出すのが特徴だ。
 しかし。
 これはルテラではない。ルテラの真似をしたヒュ=レイカだ。そう俺は判断した。前にも似たような手口で騙された事があるのだ。あいつは色んな人の声を寸分違わず真似る事が出来るのだ。しかも老若男女関係なしでだ。第一、ルテラはこんな子供っぽい事は……しないとは言い切れないけれど、こういう俺に返答を求めるパターンはヒュ=レイカの常套手段な訳だし。
「なんだよ、ヒュ=レイカ。何か用か?」
 そう吐き捨てるように俺は答えた。どうせ、また俺を笑い者にしに来たんだろう。けれど、そう簡単にやられるものか。今の俺は妙な自信とパワーに溢れている。チープな手段は返り討ちだ。
 が、
「うわっ?」
 突然、目の前を覆う手が取り払われたかと思うと、俺の体は後ろへ抱き寄せられた。そして背中を襲う柔らかい感触。
「もう、シャルトちゃんたらヒドイ。お姉さんのこと忘れちゃったの?」
 と、抱き締めたまま俺の頭の上に顔を押し付けてきたのは、まぎれもないルテラのそれだった。特徴的なハニーブロンドの髪が俺の両脇にカーテンのように零れ落ちてくる。ニセモノじゃない。明らかに本物のルテラだ。
 急に背後へ現れて俺の目を塞いだのは、ルテラの声真似をしたヒュ=レイカではなく、正真正銘本物のルテラだったようだ。どうも最近はヒュ=レイカにおちょくられ過ぎていたため、こういう状況にも過剰に反応してしまうようである。
「前にヒュ=レイカに似たようなことされて、それで警戒してるんだよ。ほら、放せってば」
 俺はルテラに本気で抱きすくめられる前に振り解いた。ルテラは精霊術法の恩恵で見た目にそぐわぬ筋力を持っている。本気を出されてしまったら、チャネルを封印されている俺ではまるで相手にはならないのだ。
「どう? リュネスちゃんとうまくいってる?」
「まあ……ぼちぼち」
「でもね、焦っちゃ駄目だよ? 女の子は雰囲気を大切するんだから」
 いかにもな表情で胸を張り、そう俺に恋愛術なるものを教授する。しかし、これはもう何度も聞かされた内容だ。雰囲気どうこうってのは嫌というほど聞かされたから十分に分かっている。だが、今の俺はそれ以前の問題なのだ。リュネスとは時折昼ご飯を一緒に食べるけれどただそれだけの関係で、それ以外の色っぽいものは微塵も存在しない。どうやってそういう方向へ持っていけばいいのか、むしろ知りたいのはそこなんだが。ルテラの教授内容がそういう方向へ変わってくれると嬉しいんだけど、当分は変わり映えはしなさそうだ。自分から教授を請うにも、なんだか下心を丸出しにしているようで酷く請い辛い。それはレジェイドでも同様だ。
「そうそう。ちゃんと病院に行ってお薬もらってきた?」
「ああ、もらってきたよ。今度から薬が変わって、少し軽くなったって」
「良かったじゃない。もうちょっとよ、きっと」
 ルテラは屈託なくにっこりと微笑んだ。俺が快方に向かっている事を喜んでくれているのだ。
 だけど……。
 薬が軽いものとなったとは言え。俺自身は一体どれほど良くなったのだろうか? あの白い錠剤を目にするたびに俺はそう不安に思う。普通の健康な人間だったら、こんな薬は飲む必要はないのだ。いつ、飲まなくてもいいようになる日が来るのだろうか? これまでは一度も考えなかった事だけれど、最近はそればかり考えるようになった。理由は言うまでもなくリュネスだ。もしも飲む必要がなくなれば、体の事をリュネスに打ち明ける必要はないかもしれない。たとえ気が済まなくとも、全て過去形で打ち明けられるのだから気持ちの負担は遥かに軽い。だが、もしもまだまだ治る見込みがなくて、しかもリュネスに受け入れてもらえなかったら。想像するだけでも身の毛がよだつ恐怖を覚えた。もしもそうなったら、きっとリュネスとの今の関係は完全に途絶えてしまう。二度と顔を合わせる機会を自発的に作る事は出来ないだろう。それはつまり他人同士という事で、たとえ顔を合わせたとしてもそれはただの偶然にしか過ぎず、さもない日常の風景の一つとして流されてしまう。
 考えただけでも耐えられない。
 だから俺は不安だった。一体いつになったら薬を飲まなくてもいいようになるのかと……。
「あのさ、俺。本当に治るのかな? 正直、どこまで良くなったのか自分でも分からないし……」
「こらこら。そんなんじゃ、治るものも治らないわよ。大丈夫、心配しなくていいから。あの頃に比べたら見違えるように良くなってるわよ。後は体に注意してるだけで問題ないわ。私が言うんだから、絶対」
 ルテラは相変わらずの笑顔で、俺の額を人差し指でトンと押した。
 医者でもないのに、どこからその自信は出てくるのだろう? けど、その言葉の温かさが俺の不安を一気に吹き飛ばしてくれる。
 とにかく、今は悩んでも仕方がない。医者の言う事をちゃんと聞いて、薬も飲んで、一日でも早く体を治すように努めなければ。まだまだ悩むには早すぎる。そもそも、もっと気長に構えるつもりで治療は始めたのだから。
 と、その時。
「うにゃっ!」
 突然、俺の上着の中に入って襟元から顔だけを出していたテュリアスは、ふと首を伸ばして頭上を見上げた。そして急にじたばたと服の中から飛び出すと、そのまま一気に頭の上に駆け上がる。テュリアスは俺の頭の上に乗ると後足だけで立ち、更に背伸びをして何かに手を伸ばしている。それは、
「あら、蝶々。もう春ねえ」
 テュリアスが必死になって手を伸ばしているのは、小さくて柄のない真っ白な羽のモンシロチョウだった。テュリアスは精一杯背を伸ばし必死になって前足を伸ばすものの、モンシロチョウは遥か頭上をひらひらと舞って一向に届かない。そうしている内にモンシロチョウはどこかへ飛び去ってしまった。
「残念でした」
 そう言ってルテラは、依然未練がましくモンシロチョウが飛び去っていった方を見ているテュリアスを抱き上げた。
「あら? あなた、少し大きくなったんじゃない? いつまでもシャルトちゃんに乗ってられないわねえ」
「にゃあ」
 ルテラに抱き抱えられ宙ぶらりんになったまま、テュリアスはそう短く答えた。



TO BE CONTINUED...