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急げ。
急げ。
ヒュ=レイカは体中の余力を振り絞って崖を這い上がる。すぐ後ろには鬼がいる。恥も外聞もかなぐり捨て、たった一つだけの希望へすがりつく。
目指すは崖を上り切った所に建設された貯水槽。そこに、ヒュ=レイカは僅かな勝機を見出したのである。
「汝は不幸である。神の貴き御言葉に耳を塞ぎ、自ら聞こうとしないからだ」
どこからともなく聞こえて来る楚々とした聖句。この声の主がヒュ=レイカの恐れる『鬼』だ。
「裁きの時は良い魂にも悪しき魂にも須らく訪れる」
一言一句をはっきりと刻み付けるようにゆっくりと唱える『断罪』。それがまるで死刑執行までのカウントのように聞こえて仕方が無かった。ただ違うのは、死刑執行のカウントは確実にゼロのタイミングが計れるのだが、聖書とは久しく縁の薄い生活を送ってきただけに文章の終わりが予測出来ず、執行のタイミングが全く計る事が出来ない。まさか真っ向から勝負をかけようとは思っていないが、攻撃を食らうにしても心構えというものがあるのとないのではまるでダメージが違う。
バシュッ、と鋭い音を立てて目の前の土が弾け飛んだ。飛んできた『断罪』の術式が僅かに目標をそれてしまったようだ。
彼女の術式は、ありとあらゆるものを両断する見えない刃のようなものだ。俗に言うかまいたち現象を利用する事で似たような現象を起こす術式もあるのだが、それとは性質がまるで異なる。『断罪』の術式は、文字通り全てのものを両断してしまうのだ。物質の硬度を上回る圧力を瞬間的にかける事で両断する本来の術式の理屈とは異なり、物質を構成する原子レベルにまで干渉しているのだろう、理論上この世に存在するものは全て両断出来るのである。
そんな術式と、術式の使えなくなった自分が真っ向から立ち会うなんてどう考えても馬鹿げている。だから、勝って生き延びるならば奸智を巡らせ機転を利かせるしかないのだ。たとえどれだけ汚い戦い方になろうともだ。そもそも、北斗の最前線で戦ってきた『守星』は日常的にそんな戦いを強いられているのだ、得意分野と言えば得意分野である。
あと少し。
もう少しだ。
急げ。
そして、耐えろ。
崖を掴む指が痺れて思うように動いてくれない。体を蹴り上げる足首も関節が凝り固まって力がうまく入らない。だけど、何とか全身の力を振り絞り、自らの体を上へ上へとひたすら追いやる。
如何に普段自分が術式の力に助けられていたのかよく分かる。こうして使えなくなって自力に頼らざるを得ない状況になると、思っていた以上に自分は体力に乏しい事を認めざるを得ない。シャルトのようにこつこつと人知れず努力を積み重ねるような性格ではなく、何事も最小限の手間で何とかなるように最短距離を探し出す事しか念頭にない。良く言えば世渡り上手となるのだろうが、困難に真っ向から立ち向かい続けた人間と、コソコソと回り道ばかり歩んできた人間とではそもそもの地力が違う。いざ真っ向勝負を余儀なくされてしまった時どうなるのか。まさに自分の真価が今、見事に露呈した。
地力が無い分は気力で補うしかない。
奥歯を砕けそうなほど噛み締め、限界以上に酷使し続ける体が上げる悲鳴に耳を塞ぐ。
突然、指先を鋭い痛みが走り思わず小さな声を上げる。見ると崖に突き立てた右手の人差し指と中指の爪がばっくりと剥がれていた。見る間に薄汚れた指が赤黒い血で染まる。けれどヒュ=レイカは不思議と笑みが込み上げてきた。これほど一生懸命になるのはどれぐらいぶりだろうか。かわし続けるのもスマートだが、たまにはこういう泥臭いのもいい。
「神の秤に適うには、目を開け、耳を済まし、父たる全能主の御心に適わなくてはいけない」
ざん、と背中へ殴打されたような衝撃が走る。衝撃の位置を探ると、その部位がじんわりと熱くなり始めた。『断罪』の術式が背を撃ち、とりあえず動ける程度に肉を裂いた事が分かった。そこまで考えて、どうしていちいち自分の些細な負傷に気を留めてしまうのだろう、と己を叱咤する。どの道、モタモタしていれば肉を斬られる程度では済まないのだ。こんな事で足を止める暇があるならば、一歩でも先に向かうべきだ。どれだけ体を切り刻まれようとも、自分が生きているという事実だけで十分だ。
そして、全身土に塗れながらもようやくヒュ=レイカは高台の上まで登り切った。ぜいぜいと激しく息を切らせ、肩がしきり酸素を欲しがって上下に体を揺する。爪の剥がれた指先もしきりに痛みが自己主張を続ける。次から次へと流れる汗の雫も、もはや気にならなくなった。
ようやく開けた視界の目前には、巨大な塔にも似た灰色の貯水槽がどっしりと構えるように聳え立っていた。普通の建物に換算すると、およそ五階分には相当するだろう。その中にはたっぷりと生活用水が蓄えられている。これさえあれば、まずは第一段階が完了と呼べるだろう。
ヒュ=レイカが閃いた勝利への望みとはこの貯水槽ではなく、中に蓄えられた膨大な量の水にあった。精霊術法がほとんど使えなくなってしまった今、『断罪』に通用するだけの破壊力を生み出す方法はこれぐらいしか思いつかなかった。不安要素は挙げて行ったらキリがなく、本当に成功するかどうかも保証は無い。ましてや、成功した所で本当に通用するのかも分からないと来ている。かなり分の悪い戦いだ。こんなちっぽけな勝機にすがるしかないなんて、なんとも自分は不憫なものだ。
不意に、目の前が眩しく光を放つ。咄嗟に目を庇おうと右腕を視界に被せて目を細める。
光の中から彼女が現れるよりも早く、ヒュ=レイカは自分が追いつかれてしまった事を悟った。そして案の定、光が収まり目を開けられるようになった頃、目の前に立っていたのは楚々として佇む一人の修道女、『断罪』だった。
「神の言葉に耳を貸さず、悔い改めぬ者は不幸だ。罪を背負ったまま神の国へ昇るのは、駱駝が針の穴を通る事よりも困難だからである」
ゆらりと『断罪』が右腕を持ち上げ手のひらをヒュ=レイカにかざす。すると、
「うっ!?」
次の瞬間、ヒュ=レイカの左肩口から斜めに鋭い衝撃が走った。続けて後を追った激痛と、はっきりと分かる肉の裂けた感覚を押さえ込もうと、右腕でその箇所を強く押さえつけた。だが、一度分かれた肉は幾ら合わせた所で元通りになるはずもなく、ぎゅっと握り締める右手の指の間からはぼたぼたと血が溢れて流れ落ちる。痛みも押さえつけた程度で大人しくなってくれるほど可愛らしくは無い。その激しさのあまり、思わず肺の中の空気と共に呻き声を吐き出してしまう。
「ははっ。まいったなあ、瞬間移動なんてちょっとズル過ぎだよ」
ヒュ=レイカは土と汗で汚れた顔に精一杯の笑みを浮かべながら、そんな軽口を叩き肩をすくめる。しかし、対する『断罪』はまるで反応を見せず、楚々とした佇まいを見せたままだ。
「悪いけど、どいてくれないかな? ちょっと汚れちゃってさ。今からそこで水浴びでもしようと思うんだけど」
明らかに痩せ我慢をしている様子のヒュ=レイカ。これまで一度たりともまともな会話が成立していない相手にどれだけハッタリが通用するのか。しかしヒュ=レイカは口だけでも強がりを言っていなければ、傷ついた体を保てそうになかったのである。既に喉元まで弱音が込み上げてきているのだ。正反対のベクトルを持つ言葉を放たなければ、代わりにそっちが飛び出してしまうのである。
案の定、ヒュ=レイカの軽口にも反応を見せる事も無く『断罪』は楚々と佇み続ける。だが、不意に『断罪』はくるりと踵を返してヒュ=レイカへ背を向ける。彼女の目の前には貯水槽が立ちはだかっているだけである。一体何をするつもりだろうか。そうヒュ=レイカが首を傾げた時、『断罪』は右腕を高々と振りかざすと、それを一気に袈裟斬りに振り下ろした。
ズズッ……。
すると、貯水槽の中頃から斜めに亀裂が走ったかと思うと、そのラインを境に建物の上部がゆっくりと下に向かってゆっくりと動き始めた。
まさか!?
思わずヒュ=レイカは息を飲み目の前の光景を見守る。
驚くべき事に、『断罪』は貯水槽を切ったのだ。如何に巨大な武具を用いたとしてもこれほど巨大な建物をここまで鋭利に切断する事は不可能だ。並の術式でも同じ事が当て嵌まる。それほどまでに浄禍八神格の術式とは恐るべき威力を誇っているという事だ。
仰々しい音と共に、斜めに切断された貯水槽の上部が地面へ滑り落ちる。落ちた衝撃と自重で更に真っ二つに砕けた。
そこから、本来収められていたはずの大量の水が一気に流れ始めた。水の勢いは予想以上に凄まじく、気を抜くと足元を取られてしまいそうなほどの水量である。瞬く間に辺り一面が水浸しになった。それでも尚貯水槽からは少しずつ水が流れ、泥の上に立っていると言うよりも小川の浅瀬と例えた方が近い。
「神の愛する人の子よ、私は神の大いなる愛に報うべく、この世の全ての罪を洗い流しましょう」
そして、ゆっくり振り向いた『断罪』は僅かにフードから覗いた口元に笑みを浮かべた。
突然の理解に苦しい行動。この貯水槽の水を聖水にでも見立て、悔い改めろという事なのだろうか。そもそも、聖水というものはミサのような儀式でも用いられる事など無いものなのだが。流派『浄禍』の信仰する宗派とは、そういった形式を用いているのか。
何にせよ、これで手間が省けた。おかげでいきなり最終段階へ突入出来る。
ヒュ=レイカは脳裏にイメージを描くと、僅かな力によってそれを体現化する。『断罪』がまさか貯水槽を両断するのは予定外の出来事ではあったが、この程度は修正誤差内だ。むしろ、貯水槽を開く手間が省けた。その分『断罪』に斬られなくて済む。
「今、あなたの罪は清められました。よってこれより、神の裁きが下りましょう」
贖罪と殺人の見分けがつかなくなったら、ただの殺人鬼だね。
ヒュ=レイカはそう胸の中で皮肉った。けれど喉が詰まっているせいで咄嗟に声がうまく出せず、掠れた空気しか出てこなかったからだ。
一度咳払いし、喉の調子を整える。それから額の汗を拭おうと押さえていない左腕を持ち上げたが、思った以上に左肩のダメージが酷く半ばほどまでしか上げる事が出来なかった。仕方なくヒュ=レイカはそれを諦めて下ろし、傷を押さえている右腕の二の腕で額を拭った。
さて、ここからが本番だ。
疲労のため速い鼓動を打つ心臓を出来るだけ意識しないように努め、冷静さを保てるように出来るだけ呼吸の数を減らす。
「そんな事よりも。この状況、分かるかな?」
そうヒュ=レイカは、こちらの意図は掴ませず、しかし何か意図がある事だけは分かるように思わせぶりな素振りを見せる。すると終始無関心だった『断罪』は、意外にも軽く小首を傾げて興味がある様子を見せた。初めて見せるであろう、人間らしい反応だ。
「僕の得意とする術式は雷。ところで水って伝導体だって事、知ってた? まだ落雷ぐらいの術式は作れるよ。人間だったら一瞬で黒焦げだ」
黒焦げとはややオーバーな表現だったが、ハッタリなんてものは誇大気味の方が威力がある。要は相手に、いつでもこちらは致命傷を与える事が出来るという現状を理解して貰えればいいのだ。
「それはあなたとて同じでしょう。水を媒介にして術式を用いるのは良い発想ですが、同じ水の中に立っているのであれば、相手に仕掛けた攻撃はそのまま自分にも帰ってきましょう」
ヒュ=レイカの術式は電気を模したものである。水は純水でも無い限りは伝導体として機能する。つまり、もしもヒュ=レイカが電気の術式を水の中へ投じた時、その威力は同じ水の中に立つ二人共に伝わってしまうのだ。
だが、
「確かにそうだね。でも、僕には他に方法が無いんだよね。死なば諸共ってヤツ? だから、そっちが退いてくれない限りはこのままやっちゃうよ。それに、今週の星占いだと僕の運気は絶好調らしくてね。うまくいくと、僕は助かるかもしれないし」
平然とヒュ=レイカは『断罪』の正論に対して、おおよそ正気とは思えない主張を返してきた。幾ら運があったとしても、致死量の電流を浴びてしまえば万に一つも助かる事は無い。つまりヒュ=レイカは、このまま『断罪』に嬲り殺されるぐらいならば相討ちになってしまった方がいい。そんな特攻精神を主張しているのである。
さすがに『断罪』はヒュ=レイカがこんな行動に出るとは思ってもいなかったのだろう、ただただ息を飲んで絶句した。ヒュ=レイカは術式の才能もさる事ながら、奸智にも長けている事で知られていた。それを用いて自らの手間を最小限に押さえるのが彼の性格だった。そんな彼ならば、身の危険が迫った時、死に物狂いで自分が助かる方法を考えるはず。そうたかをくくっていたのだが、まさかこんな行動に出るとは。見込み違いとしか言いようが無い。
「試してみる? 星占いと神様の御加護と、どっちが強いかさ」
にやりと笑みを浮かべて見せるヒュ=レイカ。その表情は普段の人を食ったような底知れぬ笑顔であると同時に、土と血の汚れが凄惨さを付加していた。
ここに来て二人の立場は逆転した。今、場の主導権を握っているのは間違いなくヒュ=レイカである。
水の中に脛を半分ほどつけているヒュ=レイカの足の周りには、微かに術式の反応があった。微弱な電流の反応である。電流そのものの勢いは弱いため、実際に効果を及ぼしているのはヒュ=レイカの周囲の水だけである。
頼むから、もう少しの間気がつかないでくれ。
底知れぬ余裕の笑みとは裏腹に、ヒュ=レイカは心の底からそう切に願っていた。
TO BE CONTINUED...