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 空腹の時に与えられたパンは何物にも代え難い。
 ずっとずっと幼い頃、村に立ち寄った旅の巡礼者からそんな事を聞いた。それは、本当に困っている時に助けてくれる人こそが真の友人だ、とかじゃなくて、困っている人を見かけたら助けてあげなさい、という遠回しな意味の訓戒だ。
 僕の生まれた村は小さくて貧しいから、そんなことなんて聞く以前からみんなで助け合う事を当たり前のようにしてきた。けどそれが今になって、どうしてか頭の中を何度も過ぎった。
 僕は誰かに救われる事を求めているのか。
 けど、それはあり得ない。みんな誰しもが貧しくて日々暮らしていくのが精一杯なのだ。見ず知らずの他人に施しをする余裕などありはしない。
 でも。
 救いはあった。




 村にも帰れなくなった僕は、ただひたすら当ても無く彷徨い続けた。
 村から村へ、町から町へ。幾人もの人々と僕は擦れ違ったけれど、一人として覚えている人はおらず、また彼らにとっても僕は特別記憶に残りうる存在ではなかっただろう。
 僕以外の全ての人が砂のようだった。粒の一つ一つが見分けがつかないように、人の見分けがつかなかった。いや、見分けがつかないんじゃなくてつける必要がなかったのだ。無言のまま視線も合わせず通り過ぎるだけの人達に、これといった差異を見つける事自体が無意味なのだから。
 僕は一切の執着を捨て、あの日以来まるで別人のようになっていた。これまでは自分の食べ物はきちんと働いた上で貰っていたのだけれど、今では食べたいものは奪うか盗むかして手に入れていた。それにはあの、イメージが現実化する不思議な力が役に立っていた。カギのかかったドアや窓は音も無く壊せるし、屈強な大男でも怯ませ戦意を喪失させる事ぐらいは出来る。僕をこんな目に遭わせた原因なのに、この力のおかげで生き長らえているなんて皮肉もいいところだ。
 人の物を盗るのは悪い事だと概念的にも理念的にも理解している。けれど、不思議と罪悪感は感じなかった。多分、みんなを同じ人間として見れなかったからだと思う。ただ町という建造物の集まりを歩き回るだけの存在に、一体どんな感慨を抱くというのか。人間も、興味がなければ風景の一部にしか過ぎないのだ。
 酷く自分が荒み殺伐としているのが分かった。人を人生の分布上における記号と捉え、一切の妥協と情性を捨てた合理性を自分の行動指標とする。それが当然となっている自分に、考える都度改めて呆れに似た驚きを感じた。
 僕はもう堕ちるところまで堕ちるしかないようだ。人間としての尊厳すら捨てる事を良しとする今の価値観に、何の躊躇いも良心の呵責も覚えない。全てが自分中心の思考の元、決断が下されていく。荒野を突き進むハイエナのように。
 人として大切な何かを失ってしまった気がした。けれど、すぐにそれに対する疑問や不安は消え去った。あっさりと手放してしまえる程度のものは、人は初めから『大切』とは呼ばないのだ。所詮、僕がこれまで大切と思っていたものは、ただの相対的価値観でそうと思っていただけにしか過ぎなかったという事だ。人はきっと絶対的価値観で大切と思えるのは、自らの欲求に準じたものだけだろう。そこから更に取捨選択を行う事によって最終的に残るのは、自分自身の身の安否。つまりは追い込まれれば追い込まれるほど、人は自分の身の安全を求めてしまうのだ。その顕著な露呈の仕方を一つ、僕は知っている。
 ふと僕は、以前の生活と今の生活とを比較してみた。どちらも安定した収入はない、その日その日の事ばかりを考える点は共通している。決定的に違うのは、必要とするのが村のみんなの分か僕だけかという事だ。それだけで気持ちの枷が随分と違う。煩わしい第三者の事まで考えなくていいのだ。
 人と人との繋がりは重要だとずっと思っていた。だから僕は今まで人間関係を保持しようと、わざわざ利益のない事にまで苦心していた。これが無くなればもっと辛い目に遭うと。そう自分に言い聞かせて。けど、こうしてそれが無くなった今。僕の境遇はこれまでと大して変わりない事に気がついた。それならば、何も無理に関わり合いを持つ必要はない。むしろそうした方が僕は自然に生きられる。
 一人で、思うが侭に生きていく。
 それが幾度と無く繰り返した試行錯誤の末に出た結論だった。もはやこれ以上の理想的な結論は出ないと思った。多分、これが僕にとって最適な行動指標なんだろう。
 そして、ある日。
 最後に立ち寄った町から三日経過し、そろそろ手持ちも心許なくなった頃。丁度良く一つの小さな村に辿り着いた。これまでの経験から、村は町よりもやり辛い事を知っていた。それは、村は狭い分、人の流れが分かりやすいから余所者が来てもすぐに分かるためである。警戒心の強い村であれば、即座に露骨な警戒を示してくる。こんな状態ではろくに動き回ることも出来ない。僕は子供だから、直接追い出される事が無い分まだマシだ。
 本当は無防備な小金持ちのいる町がやりやすいのだけれど。そんな贅沢なんて言ってられる状況でもない。蓄えは期待出来ないから、せめて次の町か村までの繋ぎぐらいは手に入れておこう。
 時刻はのんびりとした暖かな昼下がり。人は仕事で留守がちになる、一番やりやすい時間だ。
 僕は出来るだけ人目につかないよう村の中に入っていった。狙いは出来るだけ世代数の少ない、日中は完全に空ける家だ。リターンはあまり期待できないが、リスクは極めて低い。それに大概の場合、ちゃちなカギ一つしか防犯対策がなされていない。そんなもの、たった数秒の足止めにしかならない。
 そんな条件のいい家はないかと捜し求めてみたが、どうやら今回は運が悪かった。その村は街道沿いにあるため、ほとんどが商家だったのである。つまり自宅がそのまま仕事場みたいなものなので、家を留守にする必要が無い。そうなると必然と狙いにくくなる。
 困った。
 せめて数日分の食べ物ぐらいは確保したいが、この状況ではかなり厳しい。全く方法が無い訳でもないが、大きな騒ぎになってリスクが増すから、よほど追い詰められた時以外は使いたくないのだ。要するに何かのイメージを実体化させて強引に奪っていくだけなのだけれど、失敗すれば、身寄りの無い浮浪児だ、殺されるかもしれない。
 それでも僕は日が暮れる前に何とかしたいと、最大限人目に注意を払いつつ、村を散策した。しかし一向に条件の良い所は見つからず、そうしている内に僕自身が疲れ果ててしまった。
 今回は運が悪かったと諦めて、体力が尽きない内に次を目指そうか。
 そう考え始めたその時、ふと視界に何やら変わった建物の屋根が目に入った。丁度屋根の天辺に何かのオブジェが立っている。大きな窓ガラスも普通のそれではない、様々な色が入り組んだものだ。しかし、それ以上に薄茶色の土埃で汚れている。随分と掃除がされていないようだ。
 それは教会だった。村から随分と離れた所にぽつりと建てられているようだけど、賑わう村とは対照的に随分と物寂しく、また建物自体も古びている。
 あれでいいか。
 とても必要なもの全てを充足出来るようには見えなかったが、無いよりはマシだ。あんなボロ教会でも、何か食べるものぐらいはあるだろう。そしたら後はさっさと次に行けばいいや。
 僕は目的地を教会へと定め、早速向かった。
 教会には普通、休日に祈りを捧げに行くぐらいだから基本的に平日は訪れる人はいない。そもそもあんな汚い教会、誰が行こうというのか。あんなところで慶弔を行う人間なんていないに違いない。と、なれば。今教会に居そうなのは神父やシスターぐらいなものか。それも何人居るかも知れたとこじゃない。下手すればとっくに廃墟になっているかも。まあ、その時はその時で、今回は運が無かったと諦めもつく。
 賑やかな村の喧騒が遠退いた頃、ようやく眼前に教会の全貌が露になった。村から離れた小高い丘、その上に古びた建物が立ちはだかっている。本来なら唯一神を詣でるためにある建物のはずだが建物自体が薄汚れてしまっているため、まるでそんな神々しさや神性が感じられない。ただ、辛うじて生活臭のようなものが感じられる。こんな成りをしているが、どうやら誰か住んでいるようだ。
 僕は油断無く身を隠すようにして敷地内に入ると、そっと教会の中を覗いてみた。聖拝堂の中は薄暗く、人の気配はない。というよりも、使った痕跡そのものがない。人は住んでいても使った形跡がないという事は、ここに住んでいるのは神父とかではないということだろうか? もしくは、単にここを教会として利用する人がいないだけか。多分、後者だろう。
 いつも危険を前もって敏感に察知する僕の鋭い勘は、これといって違和感を掴み取っていない。どうやら建物の中には誰もいないようだ。
 これは好都合だ。
 早速僕は裏口へと回った。ドアノブを捻ってみるとカギがかかっておらず、実にあっさりと開いてしまった。なんとも無用心だ。こんな村から離れた場所に住んでいるから安心しているのだろうか? 僕としてはなかなかありがたいものだ。
 裏口に入るとすぐ台所に出た。台所は頻繁に使われているらしく、古いなりにきちんと掃除が行き届いて綺麗に整理されていた。これなら何かあるかもしれない。そう思った僕はすぐさま食べ物を探し始めた。見つかるのは野菜と若干のパンや缶詰だった。野菜は土がついたままカゴに入れられている。買ってきたというよりも栽培していたのを収穫してきたといった感じだ。
 野菜は基本的に火を通さなければ食べられないし、持っていくにしても荷物になって嵩張る。とりあえず、パンと缶詰だけ持っていくとしよう。幸いにも当分食い繋ぐには十分な量だ。持てるだけもって、早いところずらかるとしよう。
 僕は早速パンと缶詰を、先日忍び込んだ家から持ってきたカバンに詰め込み始める。比較的大きめなものだけれど、すぐに一杯になった。入った量を考えるとまだまだ足りない気がしてならず、ぎゅっと押し込めて無理やりスペース作りを更に詰め込んでいく。
 台所を見る限り、どうやらここに住んでいるのは一人のようだ。建物内に気配が無いところを見ると、大方どこかに出かけているのだろう。村のどこかで人死にでもあったか、はたまた説法か。どちらにせよ、教会に誰も人が来てくれないのでは大した人間でもあるまい。
 周囲はあまりに静まり返っていた。主が不在と分かっているだけに、僕はもっと路銀の足しになりそうなものを捜す事にした。教会だったら、何かの置物やロザリオぐらいあるかもしれない。大したものではなくとも、二束三文になればそれでいい。
 重くなったカバンを置き、僕は台所に繋がっている廊下を見やった。細く薄暗いそこは、人が一人歩くだけで精一杯だ。なんとも狭い廊下なのだろう。ま、廊下があるだけでも教会らしいが。
 さて、もう一仕事しようか。
 そう思った、その時。
「おや、君は?」
 突然、僕の背後からそんな声が聞こえてきた。
 予想だにしなかった事態に僕の心臓はどくんと高鳴り、全身をぶるっと震わせる。
 誰かが来る気配にどうして気づけなかったのだろうか。今まではこの鋭い勘で周囲の変化は把握していたのに。
 慌てた僕はすぐさま背後を振り返った。
 そこには、土で汚れた格好をした一人の中年の男が立っていた。



TO BE CONTINUED...