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「ならば、忌み嫌われながら死ね!」
 スファイルは掴んだ柄をぐるりと回転させ鎌の刃を立てる。それとほぼ同時にエスタシアは垂直に飛び上がった。
「死ぬのは貴様だ! 五年前と同じように、今度こそは念入りに殺してやる!」
 エスタシアは双剣を交差させた後、宙を規則的な直線を幾本も描いた。
「『大殺界』」
 宙を駆けるエスタシアの双剣が、突然溶けるように剣身を失った。同時にきらめくような剣の軌跡までもが消え失せてしまう。光の加減や目の錯覚ではない。はっきりと双剣の剣身が消え失せてしまったのだ。
 依然、彼の手の中にはしっかりと双剣の柄が握り締められていた。つまり、剣を手放した訳ではなく、ただ見た通りに剣の剣身が消え失せてしまっただけなのである。
 来た。
 スファイルは険しい眼差しをそっと細める。それは、剣身だけが消えるという目の前の光景を以前にも見た事があるような素振りだった。この奇異なる現象に取り乱してはいないものの、安易に構えてはいられない事態である事を把握しているためである。
 すっと音も無く床の上に着地するエスタシア。まるで重力というものを感じさせぬ軽快過ぎる身のこなしは、剣身を失った剣と相まってより不気味さを際立たせていた。
「どれだけ非情になろうとも、お前にこれが破れるものか」
「五年前の状況なら、同じ結果になっていただろう。だが、二度とああはならない」
「確かに。貴様がただ一方的に斬り捨てられる。それが結末だからな」
 早朝の薄闇にぎらぎらと輝く四つの目。常軌を逸した眼光がぶつかり合う様を傍観するリュネスは、二人の世界から取り残されている自分を幸運に思った。あの濃密過ぎる殺気の中で正気を保てる自信は無い。二人は人間の持つ心の闇を全て曝け出し、己の刃にして振り翳している。その闇に自分の心までも抉じ開けられそうで恐ろしかった。剥き出しにさせられた心の闇を、再び元の場所へ収められるとは到底思えないからである。
 そっとスファイルは両腕を下ろし目を閉じる。そして殺気に満ち満ちた思考をクリアにし、脳裏へイメージを描いた。が、ふと、五年前にこうして合見えた時の光景が過ぎる。しかし、理性が拒否反応を示す事は無かった。敗北の記憶は恐怖までをも刻んではいなかったのである。
 描いたイメージ。それは、敗北から五年間、ただの一度も使わなかった術式だった。かつてスファイルが属していた流派『凍姫』において、極一部の人間にしかノウハウを伝えられない門外不出の術式。頭目継承技、『凍姫の微笑』である。
 スファイルが瞼を開くと同時に、ゆらりと体の輪郭がぼやける。瞬間、スファイルの体はそっくり同じ姿のまま五体に増殖した。四つの分身はスファイルの背後を追従し、本体と全く同じ表情で同じ姿勢を取る。十の鋭い視線はそのままに、エスタシアへと注ぎ込まれた。
「五年間、僕は何度も考え、思い描いてきた。どうすればその技を攻略出来るのか」
 スファイルは半身に構え、右腕の大剣をゆっくり正眼へ構える。その動きに背後の分身達も追従した。
「結論は簡単でした。深く悩む必要は無い。幾ら攻撃されようとも、当たらなければいい」
「戯言を。その口も、この場限りで二度と利けない」
「そっくりそのまま返してやる」
 二人はほぼ同時に前足を踏み出した。
 先に相手を間合いに捉えたのはエスタシアだった。
 エスタシアは左右順手逆手に構えた双剣を水平に伸ばすと、これまで直線的だった剣とは一変して、曲線的な非常に柔らかい剣筋を繰り出した。だが、繰り出したその間合いは、元の剣の長さを鑑みても遥かに遠いものだった。スファイルの習得する流派『悲竜』の剣術は、武具に術式を組み合わせる。これまでに繰り出した和竜の術式ならば間合いを問わず仕掛けられるかもしれない。けれど今の動作にはそんな素振りはまるで含まれていない。
 この間合いから如何にして、それも剣身を失った剣で攻撃を仕掛けるのか。
 しかしスファイルは既に脳裏に描いた障壁を体現化していた。エスタシアの意図するものを把握しているからである。
 そして。
 スファイルが自らの後頭部付近に障壁を展開するのと、それは、ほぼ同時だった。
 エスタシアを正面に捉えていながら、背後の攻撃に対する不可解な防御行動。しかし、背後の薄闇からきらりと輝くものが飛び出し襲い掛かっていた。スファイルの展開した障壁は、それを防ぐためのものだったのである。
 寸前に障壁によって阻まれたそれは、姿を消してしまったはずの剣身の切っ先だった。だがその切っ先は全体の半分もなく、通常あるべき柄も見当たらなかった。ただ薄闇の中から急にそれだけが飛び出して来たのである。
 阻まれた切っ先はそのまま音も無く砕け宙に散る。しかし、エスタシアの表情は自信と殺意に満ちたまま揺るがない。
 尚も前進するスファイルに向け、再びエスタシアはあらぬ距離から柄だけの双剣を繰り出した。直後、薄闇の中から先程と同じように剣の切っ先部分が飛び出す。しかし今度は一撃では終わらず、断続的に切っ先が四方八方から飛び出し、スファイルに襲いかかっていった。
 スファイルは己の周囲に凝縮した二つの障壁を展開すると、次々と襲いかかる切っ先を捌いていった。だが、エスタシアもまた剣身の無い双剣を持って間断無く繰り出し続ける。その勢いは止まる事を知らず、果てしなく加速していく。エスタシアが繰り出す剣撃の速さに比例し、薄闇から放たれる切っ先の間隔も狭まっていった。周囲全てを白刃に覆われ、スファイルはまるで眩しい閃光に包まれているかのようだった。
 けれど、自分の周囲、あらゆる角度全てから不規則に放たれるその切っ先を、スファイルはたった二つの障壁だけで傷一つ負う事無く防ぎ切っていた。瞬き一つ行う間に、無軌道な刃に三度襲われる。もし、僅かでも動きを止めてしまえば、一瞬で人間としての原形を留められないほど切り刻まれてしまうだろう。そんな限界の緊張感の中、まるで精密機械のようにスファイルは立ち回っていた。防御と前進を同時に行うスファイルの神憑り的な立ち回りを目の当たりにしたエスタシアは、少しずつ表情から冷静さを失い始めた。
「何故だ! 何故、まだ生きている!?」
「言ったはずだ! 貴様如きにやられはしないと!」
 既に常人の目では追い切れず、剣の切っ先としてではなく小さな光が一瞬輝いたようにしか認識出来なかった。しかし、スファイルの反射神経は殺意という強烈な感情によって限界以上に研ぎ澄まされ、イメージを描いて実体化するという術式の一連の流れを完全に機能化する事を実現していた。そのため極僅かな反応と反射のみで的確な行動を得る事が出来た。それはもはや人とは呼べるものではない。殺意に突き動かされる無機な機械だ。人間性と引き換えに、一瞬の機転と判断の正確性を手に入れたのである。
 その時。スファイルの肩先を障壁を展開する速度を僅かに上回った切っ先が掠めた。しかし、突然襲われたその痛みにもスファイルはまるで動じる事無く、むしろ痛みすら感じていないかのような無反応ぶりだ。
 エスタシアの動揺は見る見る内に膨れ上がっていった。この特異な技『大殺界』は、凍姫の微笑と同様に、彼がかつて所属していた流派『悲竜』の頭目継承技に指定されたものである。しかし、技そのものを編み出したのは外ならぬエスタシア本人だった。それは、これまでの頭目継承技よりも優れた技であると認められ、彼の代から継承技が変更されたのである。これこそが、彼が天才と謳われる所以だった。
 しかし、かつては一度スファイルに瀕死の負わせたはずのこの技が、今、目の前でことごとく防がれている事実は、俄に受け入れる事など出来なかった。大殺界とは、武術と精霊術法を融合させた悲竜の最終形態、これより先の理想形は考えられないとエスタシア自身が自負する究極の奥義だ。
 見敵必殺の技を受けながら、未だ目の前に立ち塞がり続けるスファイルの姿。それはまさに悪夢としかたとえようが無かった。
「早く、死ね……ッ!」
「死ぬのはお前だ」
 不意にスファイルと四つの分身は前傾姿勢を取ると、急激に加速を始めた。動揺のためか精細さを欠き始めた大殺界から一瞬で飛び出すと、右腕の大剣の切っ先を真っ直ぐエスタシアに定め左腕を添える。
「『開け、零の門』」
 静かな声で韻を踏むスファイル。同時に、構えた大剣が爆発的な勢いで自らを砕き再構築し始めた。
 大剣としての原型を失ったそれは、まるで木々の成長過程を早回しで見ているかのように、スファイルの正面に巨大なドーム状の障壁を生成した。芸術性すら感じさせる一片の歪みもない曲線は、驚くほど感情を露にした己の顔をエスタシアに見せつける。そして、更に強く前足を踏み出した五人は最後の加速を得た。
 その速さはあまりに圧倒的だった。たった数歩の短い距離だったはず。にもかかわらず、驚異的な加速力と勝利への狼煙を、十分過ぎるほどエスタシアに見せつけた。
 完全に不意を突かれ出遅れてしまったエスタシアは、一瞬、己の双剣が剣身を失っている事を失念していた。その隙は今のスファイルを前にはあまりに致命的だった。
 エスタシアは一呼吸後、爪先から頭の天辺まで落雷のような衝撃が駆け上っていくのを感じた。水平に背後へ打ち抜かれ、その後上方へ弾き飛ばされる感覚。既にエスタシアの体は宙を舞い、辛うじて残っていた方向感覚は意識の片鱗を掴み取ろうとしきりに手を伸ばし空中姿勢の修正を図っていた。けれどそれも間に合わず、エスタシアは無防備のまま背中を床へ強かに打ち付けて着地した。
 エスタシアはすぐさま立ち上がろうと体に力を込める。しかし、骨の軋む音と痺れるような激痛が体の感覚を希薄にし、ぐらりと視界を揺らした。何とか床に手をついて上半身を支えるものの、そこから下はまるで動かす事が出来なかった。意識を失わなかっただけでも奇跡的なのかもしれない。そうエスタシアは思った。あれだけの加速度と術式に撥ねられたのだ。こうしてまだ立ち上がろうとする意欲が湧くだけでも幸いである。
 ゆっくりと座り込んだままのエスタシアの目の前にスファイルは歩み寄った。
 既に分身は無く、代わりに右腕に新たな青い粒子が集まり始めていた。だが注がれる殺気の濃密さは全くそのままである。
「今度こそ終わりだ。せめて北斗に歯向かった己の愚かさを悔いながら死ね」
 右腕に集まった青い粒子が一つの形を成す。それは、これまで体現化し続けてきた巨大な大剣ではなく、鋭く研ぎ澄まされた細身の片刃剣だった。
 スファイルは淀みない仕草で剣を振り上げた。その視線の先には、力失って尚も殺気を失わぬエスタシアの眼光があった。
「今、そのそっ首を落としてやる。二度と歯向かえぬように」
 ぞっとするような冷たい声色。
 自分の弟に剣を振り翳し、心の底から何の躊躇いも無くその言葉を言い放つスファイルの目には戯れの色は皆無だった。これ以上無く真剣に、実の弟を殺そうとしているのだ。勝利の為に人間性を捨てたから弟を弟と思わないのか、弟を弟と思わぬように人間性を捨てられる冷酷さがそうさせているのか。どちらにせよ、自分の意思で剣一つ振る事の出来ないエスタシアの命は風前の灯火だった。彼に命乞いをするような意思など一片も無く、スファイルも剣を振り落とす事に躊躇う要素など一つとして持ち合わせていない。互いに互いが共存する道を放棄したのだ。よって、無血で終結する事など決して有り得ない。
 朝日を受けて冷たく光るスファイルの剣。その鋭さはエスタシアの首などただの一振りで打ち落としてしまう。そこに技術というものは全く必要なかった。振り落とすだけの力さえあれば、鋭い刃が易々と肉を裂き骨を断つからである。
 スファイルは躊躇いも無く剣を振り落とした。機械的なその仕草はまるで人間性を感じさせなかった。だがそれは逆に、エスタシアを倒すためではなく自分のためにそう徹しているかのように思えた。
 振り下ろされた刃は滑るようにエスタシアの首へ吸い込まれていく。あたかも首が剣を呼び寄せているかのようだった。
 しかし。
「やめて!」
 部屋の中に響く女の悲鳴。
 突然の声に、スファイルは不覚にもぴたりと剣を止めて硬直した。
 ハッとリュネスは我に帰り、その声の元を辿って背後を振り返った。直後、リュネスは横へ押しのけられるように弾き飛ばされ床に尻餅をついた。だが、頭を上げた瞬間、襲い掛かってきた驚愕は転倒の痛みを一瞬で消し去ってしまった。
 そんな馬鹿な。どうしてここに彼女がいるのだろう。
 リュネスは息を飲んだ。
 ゆっくりとよろめきながら二人の間へ入ろうとする一人の女性。
 それは他でもない、自分が重傷を負わせたはずのファルティアだったからである。



TO BE CONTINUED...