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人には『相応』というものがある。高望みをしたところで手に入れられる訳も無く、たとえ手に入れられたとしても必ず破綻を来たす。
僕にもまた、分相応というものがある。
きっと僕はそこに収まるべくしては生まれたのだ。
だから、不相応なものは諦めなくちゃいけない。
どんなに理想論を掲げても、迷惑をかけているという事実は変わらないのだ。
僕の居場所はきっと他にある。受け入れてくれる人は絶対にいない訳じゃないんだから。
だから、今は去らなきゃいけないのだ。
その晩。
深夜に渡って続いた押し問答は遂に決着がつかず、近隣の憲兵隊が出動してようやく鎮圧される形に終わった。
僕達はすっかり遅くなった夕食をいつものように広過ぎる食堂で取った。空気は重かったが、神父は終始明るく振舞っていた。明らかに無理をしているのが分かる不自然さが否めなかった。僕も重い空気が続くのは嫌だったので、出来るだけ自分の気分を盛り上げてそれに調子を合わせた。
あの険しい表情もどこへやら、終始にこやかな神父の声はすっかり枯れていた。あれだけの人数を相手に啖呵を切り続けていたのだから無理もない。それでも明るく振舞おうとする姿は、逆に見ていて痛々しい。
やがて、互いの不自然な思惑が見え隠れした食事が終わり、不意に沈黙が訪れた。その沈黙は、今までの明るい団欒が意図的に作り出した仮初のものである事の証明であった。本当はお互い、そんな気分にはなれないのだ。無理に明るく振舞っているのは、本来の陰鬱とした空気を作り出すと底無しに沈んでしまうから、それを回避するためなのである。
不自然な思惑はそう長続きはしない。不意の沈黙に僕達は互いに一瞬浮かべてしまった苦い表情を見合わせる。次の会話はどうやって切り出し、続けようか。そう悩んでいる顔だ。
ふとその時、僕は食後のお茶を飲みながら頭の中に浮かんだ言葉を問うてみた。
「どうして神様を信じるの?」
すると、神父はあんまり僕の質問が唐突過ぎたからなのか、驚いて大きく目を見開いた。
「君は信じていないのかな?」
そして神父はにっこりと微笑みながら、逆にそう僕へ問い返してきた。
「信じてない。そんなもの、どこにいるの?」
そう僕は答えた。
神の定義。人を初めとする万物をこの世に作り出し、如何なるものの追随を許さない全知全能、絶対的な支配者。その力に不可能はなく、その目に見えぬものはなく、その手に触れ得ぬものはなく、その足で行けぬ所は無く、存在そのものが絶対の理。特に秀越したものを比喩するのに、神のような、神がかった、等の表現が用いられるが、それだけ神という存在は人智を超越したものなのである。
しかし、だ。
どこの宗教にもあるのだが、神は信じる人間をあらゆる厄災から救うそうだ。けど、神の奇跡やらが起こって救われた人はいるらしいが、その何百倍もの人間は神を信じていながら不幸に苛まれている。信心が足りないから、だとか、神は選り好みをする、とか言うけれど、単純に偶然と言ってしまった方が遥かに現実的だ。早い話が、この世に神様なんて初めから存在しないのである。神とは、人間が自分よりも優れた存在への憧れが作り出した偶像なのだ。
そして宗教とは、神という偶像をよりリアルなものにする合理的なシステム。少し頭の良い人だったら、そのカラクリはすぐ見破れるはずだ。神父が盲目的に宗教へ心酔していないのは、少なくともカラクリに気づいていてブレーキをかけているからだ。にもかかわらず、いつまでも貧しい生活を余儀なくされる信徒であり続けるのはどうしてか。それが僕にはずっと疑問だったのである。
すると、
「神は空高くからいつでも私達を見守ってますよ」
驚く事に、神父はそん子供騙しとしか評しようのない陳腐な言葉を言い放った。
本気で言っているのだろうか?
僕は思わず怪訝な表情を返すが、神父はただにっこり微笑むだけだった。僕の問いに対して本気で答えたのか、それともわざと冗談めかせて濁したのか。その表情からは窺い知る事は出来なかった。
「じゃあ、神様を信じていれば幸せになれるの?」
「もちろん。神は信じる人の子を必ずや幸福へ導いてくれます」
「だったら、あなたはやっぱり神様を信じてないんだね」
「何故、そう思うのです?」
「今の暮らしは全然幸せに程遠いもの」
そんな僕の言葉が面白かったのだろうか、神父はより顔を綻ばせて笑い出した。
神父の生活は質素そのものだ。日々、どうにか食べていくのがやっとで娯楽の類なんか一切ない。それどころか、お茶に入れる砂糖さえ満足に出来ないのだ。もしも本当に神を信じれば幸せになれるなら、神を信じる信徒こそが真っ先に幸せになれるはず。信徒である神父の生活はこんなだから、僕は神父は神を信じてないと言ったのである。
「幸せとはね、何も即物的なものばかりじゃないんだよ」
「でも、満たされていた方が潤う」
それも一理あるね、と神父は微苦笑する。別に悪意があって言った訳じゃなかったのだけど、結果的に神父の痛い所を突いてしまったようだ。
「確かに暮らしは貧しいけれど、少なくとも君は言うほど不幸には思ってないだろう?」
と。今度は神父が僕にそう問うてきた。
「どうして?」
「ここに来たばかりの頃よりも、君はよく笑うようになったから」
してやられた、と僕は思った。確かに放浪していた頃の僕は周囲が全て敵だったから、誰の目から見ても鋭く尖った野性動物ようだっただろう。しかし、今は少なくとも神父だけには心を開いている。だから自然と無防備な表情を晒す事が多くなったのだ。あまり気にはしていなかったけれど、神父の口から直接顕著な自分の変化を聞かされるとなんだか気恥ずかしくなる。
「幸せとは千差万別、色んな形があるんだよ。ただ一つ、共通して言えるのは。心に平安があるのかどうか、そういう事さ」
心の平安、か……。
考えてみれば、故郷の村に居た時は満足に食べる事も出来ない貧しい生活だったけど、それほど辛いと感じる事は無かったし楽しい事も多かった。多分、あれが心の平安というものなんだと思う。たとえ貧しくても、あんな風に楽しく暮らせるんだったら幸せだと言えるかもしれない。今更過ぎた事を思い返しても仕方がないんだけど。
「ここで一人で暮らしていて、幸せだった?」
「どちらでもないかな。ただ、今の暮らしの方が私は楽しいけどね」
にっこり微笑む彼の表情には何の陰りもなかった。僕は勘が鋭いから、よく人が嘘を言っているのが見破れる。でも神父には嘘を言っている様子がまるで見られない。心から、僕との暮らしが楽しいと、そう言っている。あんな事があった後だというのに。僕に対して何一つ咎め立てすらしない。それは優しさなのか、僕に嫌われないためか、本当に心から僕に過失はなかったと思っているからなのか。これだけは僕にも分からなかった。
「さて、そろそろ片付けて寝ようか。今夜はもう遅いからね」
そして、僕と神父はそれぞれが使った食器を持って台所へと向かった。
神父は本当に今の生活が幸せなんだろうか?
ふと、僕はそんな疑問を抱いた。僕が来るまでは、この教会には一人で住んでいて自給自足の生活をしていた。教会の寂れようからして、訪れる人もほとんどいないだろう。そんな孤独な生活をどうして選んだのだろうか? それとも、そうせざるを得なかったのだろうか? 仮に後者だとしたら、それほどまで信仰の道にすがりつかなければいけない理由とは?
気になって仕方がなかったが、どう転んでもかなり深い所へ言葉を差し込まなければなくなる。人の心には迂闊に触れてはいけない場所があるのだ。興味本位で訊く訳にはいかない。
それに。
明日になれば、また憲兵隊がやってきて神父は尋問される。今度は、居る居ないの押し問答が通用する相手ではない。官憲には職務の遂行上、一般人とは違って一定の権限が与えられている。それを行使されると、多少の非人道的な行為も合法と認められてしまう。けれど、それでもきっと神父は僕を庇い続けるだろう。絵に描いたような本当にお人好しな人だから、自分よりもまず他人の事を考えて行動する。
正直な気持ち、僕は神父にこれ以上迷惑をかけたくなかった。神父はそう思ってはいないかもしれないけれど、僕には自分のせいで神父に迷惑をかけている自覚がある。特に、僕のあの力を村人に見られた事による今日の下りなんて、とても軽視出来るものじゃない。迷惑、では生易し過ぎる。これはもう立派な被害だ。だからこれ以上、僕はここに居られない。
僕がここに居続ければ、神父は必ず不幸になる。ここの暮らしは居心地が良く、出来る事ならずっと住んでいたいとも思っている。けど、僕は人を不幸にしてまで自分が幸せになりたいとは思わない。たとえこの世の全ての人間を信用していないとしてもだ。これは僕のプライドでもある。
今夜、こっそり出て行こう。
神父の背中を見ながら、そう僕は思った。
ここは少なくとも僕の居場所じゃない。だからこんな事件が起こるのだ。神父は僕を受け入れてくれたけど、こんな事になってしまっては仕方がない。事を鎮めるには、僕が消える以外に他ないのだ。
あの人達は、僕の事を悪魔の子供と呼んでいた。こんな力は持っているけれど、僕は正真正銘人間の両親から生まれた人間の子供だ。だけど、僕に関わってしまった神父を不幸にしている。もしかすると、悪魔という表現はあながち遠くないのかもしれない。
自虐的になる時は落ち込んでる時だったかな?
そう、僕は密かに微苦笑した。
TO BE CONTINUED...