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 昼休み。
 シャルトは夜叉訓練所内の中庭にいた。
 もくもくと煙を上げているのは、シャルトが北区の古物屋で安く買った七輪だった。
 その網の上には秋刀魚が一匹、油を滲ませて焼かれている。その香ばしい香りにテュリアスは鼻をひくつかせて、焼きあがるのを今か今かと落ち着かない様子で待っていた。
 七輪のすぐ隣には、拳大ほどの石を敷き詰めて作った即席のかまど、そして飯盒がカタカタと僅かに蓋を揺らしている。中の米が沸騰しているためだ。後数分もすれば綺麗に炊き上がり、火から下ろして更に数分蒸らせばおいしい白米が出来上がる。
 組み合わせとしては、シンプルでありながらも他に並ぶものは無いベストの組み合わせだ。これは以前にシャルトがどこかの食堂で見つけたセットなのだが、一度食べて以来テュリアス共々病みつきになっていた。しかも器具さえあればそれほど手間をかけないで作る事が出来る。外で食べる気持ち良さも相まって、月に何度か大きな秋刀魚が手に入った時は必ずこうしていた。
 いつもならばじっと網の上の秋刀魚を睨みながら焼き加減を神経質に見張っているシャルトだったが、今日は芝生の上にだらりと気抜けした様子で座ったまま、ボーっとその様を上の空のような定まらない眼差しで見ていた。
 悩み過ぎて放心してしまった状態だった。普段なら空腹で昼食の事しか考えられなくなる時間帯なのだが、今日ばかりはそんな
ざわめくような感覚は嘘のように静まり返っていた。重いものがずしりと圧し掛かってくる訳でもなく、頭は驚くほど軽い。というよりも突き抜けるような浮遊感、透明感だ。
 胸に穴があいたような、というたとえにも似ているが、そんな空虚さじゃない。たとえるなら、暗い洞窟の中でうっかり火種を絶やしてしまったような感覚だ。
 どうすればいいんだろう。
 問い掛ければ自動的に返って来るような、都合の良い機能を空は持ち合わせてはいない。そうとは分かっていても、自らの中に答えを見つけられない事を悟った人間は、無駄と分かっていても偶像や象徴に答えを求めてしまう悲しい性を持っている。シャルトもまたその御多分に漏れなかった。
 目の前に立ちはだかってる問題を構成している要素が、パズルのピースのように頭の中に散らばっている。一つ手に取り、もう一つと合わせて、放る。そんな作業を繰り返して見えるのは、己の浅はかさばかりだった。けれど今大切なのはそんな自虐的な後悔ではなく、この先どうする事が大局的な意味で最善なのか、その追求だ。
 シャルトは現実的に自分が行える手段は酷く限られている事を知っていた。
 取りうる手段は二つ。その範囲で確実性を取るのか、それとも範囲そのものを拡張して理想を追うのか。
 どちらにしても、一人で決められる問題ではない。きっと、歩み寄りと妥協とを繰り返す事を強いられるはずだ。その過程で傷つくのは間違いなくリュネスの方。これは紛れも無い現実だ。
 さあ、どうする?
 どうすればリュネスが泣かないで済む?
 問えば問うだけ、たったさっきまぶたの奥へ焼き付けられたリュネスの不安に押しつぶされそうな表情が浮かんでくる。
 もう絶対に泣かせないって心に誓ったはずなのに。どうして俺はいつもこうなんだ。
 気がつくと、シャルトは自分自身へ矛先を向けていた。すぐにそれが空しい論理の展開だと気づき、思考を停止させる。
 そして、再び呆然と空を見上げ始めた。気力が沸かない以上、他に何もする事が出来ないのだ。食事すら、空腹だとしても意欲がなければ食欲自体が起こらない。
 食べないと、永久に気分が滅入り続ける。
 食べても、厳しい現実は何一つ変わらない。
 八方塞だ。
 何の力もない自分に、出来得る手段は微々たるものだ。あっても無くても、大して差は無い。ならば自分はリュネスにとってどれほどの存在なのだろう? 限りなくゼロに近い力しか持ち合わせていないのならば、存在していようと無かろうと変わらないのではないだろうか。だったら自分は一体なんだったのか? この事態を作り出しただけの、マイナスベクトルしか持っていない疫病神なのか?
 これまで自分の無力さを見せ付けられ、苦渋を舐めさせられた事は何度もあった。けれど、それでもせめて自分の好きな人だけは守り抜こう、とシャルトは堅く心に誓っていた。
 北斗は守るために戦う戦士の集団。その中で最も力の無い部類に属すとも、最低限これだけは厳守したい。なのにその誓いすら、自分には守る事が出来なかった。
 シャルトにはあまりに痛烈な現実だった。
 元々、一つの事に打ち込む、一本気と言えば一本気、不器用と言えば不器用な性格だ。シャルトが自らの指標としていたたった一つのそれが折れてしまった事はあまりに致命的である。信じていたものを残らず打ち砕かれてしまった。常に何かに向けられていたシャルトの直進しか知らない心は、目標を見失い、宙ぶらりんになって空転を繰り返している。
 と。
「よう」
 不意にそんな声が飛んできた。
 シャルトはゆっくり頭を声が聞こえた方へと向ける。
 そこにはレジェイドの姿があった。大きな木箱を両手で抱えている。中に何が入っているのか、木箱の底が薄っすらと湿って変色している。けれどシャルトはそれほど気にも留めず、またすぐに頭を戻して視線をうつむけた。
 逆にテュリアスは何かを嗅ぎつけたのか、普段はあまり近寄らないレジェイドの足元にててっと駆け寄っていった。見上げるその木箱の中身に深い興味があるようだ。
「お、相変わらずお前はこういうのに鼻が利くなあ」
 くっくっく、とレジェイドはテュリアスの真っ直ぐ注がれる視線に苦笑する。シャルトにちょっかいを出すと、何かにつけてすぐさま噛み付いてくるテュリアス。付けられた生傷の数は数えるだけキリが無い。どちらかと言ったら敵対している関係に近いと思っていたレジェイドは、テュリアスのあまりに無邪気な仕草にあきれるというよりも、箱の中身が気になって気になって仕方が無いと必死な姿がたまらなく可笑しくて笑みをこぼしてしまったのだ。
「お前な、夜叉の敷地内で秋刀魚なんか焼くなよ。夜叉の名前に変な生活感が出るだろ」
 レジェイドは煙の立ち込める七輪をひょいと覗き込んだ。秋刀魚は油を弾けさせながら、そろそろ丁度いい焼き加減を迎えている。秋刀魚の最高の状態で味わうならば今が食べ時だろう。
「お、焼けてるぜ。取るぞ」
 ボーっとしているシャルトの返事を待たず、レジェイドは傍にあった小皿に秋刀魚を移す。すぐさま駆け寄るテュリアスだったが、秋刀魚はにじみ出た油がぱちぱちと弾けていていかにも熱そうだ。さすがにテュリアスも静観を続けるしかない。
 一人で食べるつもりか、とレジェイドは眉をしかめた。どうみてもこの秋刀魚、テュリアスの体よりも大きいように見えるのだが。
 レジェイドは傍らにあるもう一つの更に並んでいた別の秋刀魚を七輪の網の上に乗せ、そっとシャルトの隣に腰を下ろした。秋刀魚はすぐにじゅうじゅうと音を立て始める。時折金網から落ちる油が、墨とぶつかって激しい音を立てた。
 シャルトは相変わらず黙りこくったままだった。レジェイドを無視しているのではなく、ただ単純に口を開く気力そのものが無いだけだ。レジェイドもまた、シャルトの消沈振りには気がついていた。そうなるまでの経緯もある程度把握している。それだけに、普段のような小馬鹿にした調子でからかう気にはなれなかった。
 やがて、数分会話もせず佇んだ後、沈黙に耐えかねたレジェイドはゆっくり口を開いた。
「ルテラには会ってきたのか?」
 シャルトはこくりと肯く。だが首の振りがあまりに小さく、肯定の意思表示なのかどうかを判断するのは躊躇われるぐらいだ。
「ついさっき。リュネスと一緒に」
「リュネスはどうした?」
「また明日の昼休み、会って話し合う事にした」
 そうか、とレジェイドも頷き、そして溜息をつく。
「まあ、大変な事になったよな」
 シャルトは声に出さずこくりと肯く。
「俺もさすがにこればっかりは経験無くてな。どうアドバイスしていいのか分からんが、とにかくリュネスの事を一番に考えるんだぞ」
 分かってる。
 そう言いたげにシャルトは肯いた。
 まだ唇が重いのか。レジェイドは軽く溜息をついて苦笑いを浮べる。
「ったく、そんな陰気な面してんなよ。気力が落ち込んでるとな、出来る事も出来なくなっちまうぜ。人間、何事も気合だ。何とかなる、って思い込んで突っ走ってけば、意外となんとかうまくいくもんなんだよ」
 シャルトの頭を上から鷲掴みにし、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱して左右に振り回す。普段ならすぐにシャルトは抵抗してレジェイドの腕を振り解こうとするのだが、シャルトはまるで気がついていないかのようにされるがままになっている。
 そんなシャルトの態度が、レジェイドは、気に入らない、と思った。シャルトが落ち込んでいるのは、何一つ建設的な事を考えずに現状だけで思い悩んでいるからに他ならない。事の解決を限定的な範囲でやろうとするから自然と無理が生じて行き詰る。本人がそれに気づいているかどうかは定かではないが、進展も得られず悪循環してしまう以上はさっさとやめるべきだ。自虐行為に他ならないからである。
「それに、大変な事になったのは俺も同じなんだ。自分ばっかり辛い顔してんなよ」
「レジェイドも?」
 シャルトが少しだけ驚いた表情を浮べながら顔を上げて問い返してきた。
「ああ。もっとも、これは俺だけの問題じゃなくて、北斗全体の問題になるだろうがな。俺は一流派の頭目として、嫌でも関わらなきゃならねえんだよ。ったく、ただの襲撃とかならいいんだがな。頭の痛い話だ」
「何かあったの?」
 そう問われ、しばしレジェイドはどこまで明確に答えるかを考えた。これは元々非公式の事件なのだ。今回、露骨に接触を行ってきた以上は実際の行動を起こすまではそう長くは無いだろう。だが現在は、あくまで水面下での動きなのだ。見えない部分の行動は公にしても信憑性を証明するものに欠ける。
 正当性を証明出来ない以上は迂闊な言動はさけるべきだ。特にシャルトのような、向こう見ずで感情のままに行動する人間には詳細を教えるべきではない。しかし困った事に、シャルトには知る権利がある。この事件はシャルトと完全に無関係という訳ではない。下手をすれば更に大きな問題が降りかかってくる事にもなりかねないのだ。
 首謀者があいつである以上、連鎖はシャルトまで辿っていく可能性が高い。
 レジェイドは僅かな沈黙の間に、ほぼ大半をシャルトに打ち明ける事を決めた。シャルトをいつも子供だと馬鹿にはしていたが、戦力的には半人前でも人格的にはほぼ一人前の成熟を迎えていると言っても良い。感情的になり易い点は問題だが、善悪の判断に必要な倫理観は大人のそれだ。倫理観が出来た人間は、自ずと人として当たり前の事や大切な事を考えられる。人が一人前として認めてもよいボーダーは、それだけだとレジェイドは個人的に考えている。その理屈に当てはめれば、シャルトは十分打ち明けるに足りる。
「実はな、お前の知ってるヤツの中で一人、北斗に反逆を企ててるヤツがいるんだ」
「反逆? まさか……」
 まさか、そんなことがあるはずがない。
 シャルトはその言葉を最後まで言う事が出来なかった。言葉の途中で、必ずしもそう言い切れるのか、という疑問を生じさせてしまったからだ。
「ついさっき、そいつから仲間にならないかって誘われた。当然断ったがな。近い内、そいつは行動に出るつもりだ。そうなったら、北斗は戦場になる」
 その時はどれほどの規模の戦禍がこの北斗に巻き起こるのか。
 北斗を守るために戦う戦闘集団『北斗』。その、かつてない規模で繰り広げられるであろう北斗史上最大級の内紛は、一般人の生活をどれほど壊してしまうのか。いや、最悪の場合、この北斗そのものが崩壊しかねない。
 あいつは鬼子だ。
 そうレジェイドは思った。
 兄であるスファイルは、奇行こそ絶えなかったものの北斗の秩序を守るため多大に貢献した。そこまで尽くすには、心の底から北斗を愛していなければ出来ないだろう。スファイルは自分と同じように北斗をそれだけ大切に思っているのだ。しかし、その実弟は逆に秩序を破壊して自分が君主に成り代わろうとしている。神童と呼ばれる事で自我が肥大したのか、元からあった支配欲が表面化したのか。何にせよ、あいつはスファイルとは何から何まで正反対、俺達にとって討つべき敵だ。この北斗に凶星しか落とさない守星など、存在する価値はない。
「とにかくだ。お前はいつものように食いたいだけ食ってろ。そうやって落ち込んでても仕方ないだろ。お前はリュネスの事を守るって決めたんじゃなかったのか?」
「ああ……うん、そうだ」
「その気持ちを忘れなきゃ、自然と行動に出てくるもんさ。お前は単純だけどな、ちゃんと人を思いやる気持ちがある。だから大丈夫、思った通りに行動すればいい。ただし、くれぐれも迷ったり躊躇ったりするな。今みたいにな。躊躇は悪い結果しか作り出さない。信念を一本、しっかりと持って行動するヤツが成功するものなのさ」
 こくりと黙ったまま肯くシャルト。しかしその目には見る間に光が戻ってきている。失っていた信念、自信を幾らか取り戻したようだ。単純なヤツは頑固なまでに強固な意志を持っているが、少しでもそれが揺らぐと途端に脆さを露呈してしまう。それだけ自分の生き方に真剣に挑み、誇りを持っているのだ。本当はシャルトのような人間こそ北斗には必要なのかもしれない。そうレジェイドは思った。
「っと。そろそろ火から下ろさないと」
 シャルトは飯盒を竈から芝生の上に移した。これからしばらく蒸らし余計な水分を取り除く。それによってふっくらとしたおいしいご飯が出来上がるのだ。
 気力を取り戻した事で、同時に食欲も取り戻したのだろうか。急にシャルトは飯盒や秋刀魚の様子を気にし始めた。良い傾向である。食欲は生きる気力、即ち全ての行動の根源となる欲求だ。食べるものを食べれば問題は無い。体機能は維持され、体力もつく。気力も充実し、自然と体を自発的に動かしていく。動く事は全てにおいてプラスに働く。プラスを積み重ねれば、必ず結果がついてくるものだ。
 二尾目の秋刀魚はまだ焼けていない。既に焼き上がった秋刀魚には目もくれない所を見ると、丸ごと一匹、テュリアスに謙譲してしまうようだ。人の目も気にせず中庭で秋刀魚を焼くシャルトもシャルトだが、自分よりも大きな秋刀魚を丸ごと一匹食べるテュリアスもテュリアスだ。二人はどこか共通する部分がある。だからこうして呼応しあうのだろう。それとも、ペットが飼い主に似てしまったのか?
「今夜は俺んとこに飯食いに来いよ。さっき行きつけの魚屋行ったらさ、こんなでっかいマグロが手に入ったんだ。どっかの料亭が注文してたんだが、土壇場でキャンセルされて困ってたんだと。だから質は悪くない。炙りかカルパッチョにでもしたらうまいぞ。こういうのも好きだろ? なあ」
 視線を向けられたテュリアスは、にゃあ、と勢い良く答えた。
 レジェイドの抱えてきた木箱の中身はそのマグロだった。箱が変色していたのは、マグロを冷やすための氷が溶けたためだ。
「人間、腹が膨れると元気が出る。うまいものなら尚更だ。お前は女遊びをしない分、うまい食い物とうまい酒で気持ちを満たさないとな」
 すると、シャルトはすぐに『余計なお世話だ』と言わんばかりに顔をしかめた。レジェイドの何気ない言葉を、自分が子供だと馬鹿にされたと勘繰ってしまったようだ。
「酒はいらない」
「ほう? リュネスが酒豪で、コンプレックスが増えたんじゃなかったのか? で、日々少しずつ飲んで慣らしてるんだろ?」
 喋ったな、とシャルトはテュリアスを睨む。
 知らないもん。
 テュリアスはようやく冷めた秋刀魚にかぶりついた。



TO BE CONTINUED...