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なんだか大変な事になってしまったようです。
何が大変?
それは、その……。
とにかく大変なんです。
「む」
目が覚めたその時。私の視界には、一杯にリーシェイさんの顔が迫っていました。
「きゃ、きゃあっ!?」
私は慌てて身を翻すと、これまで私が横たわっていたそれの上を四つん這いで駆けます。と、寝惚けた頭で慌てたため、自分が横たわっていたそれが長椅子である事に気が付けず、そのまま椅子の端へ踏み出した第一歩を踏み外してしまいました。
「おっと」
危ない!
そう思った次の瞬間、顔から床へ落ちるよりも早く、背後から腰を抱き抱えられました。そのまま私は軽々と持ち上げられ、元の長椅子に座らされます。
「ほら、危ないぞ」
にっこりと微笑むリーシェイさん。本当に人の良さそうな笑顔なのですが、これまでの件もあるため、私はかえってその普通の表情に警戒してしまいます。
「あの……私?」
「ああ、お前は開封の儀を受けたのだ。憶えていないか?」
私の隣に座るリーシェイさんは私の肩に腕を回し、もう一方の手で頭を撫でてきます。まるで私はペットとして可愛がられているような感じがしないでもありません。
「ここは訓練所の応接室だ。まあ、今はあまり使われる事もないため、ほとんど駄弁るための集会所になってしまっているがな」
部屋を見渡すと、そこは十メートル四方ほどのやや広い空間でした。あるのは長椅子と応接用らしき小さなテーブルだけだからでしょう、広い代わりにちょっと殺風景な印象を受けます。入り口の上には飾り気のない時計がかけられていました。四時三十分。随分時間が経過しています。
突然の緊張おかげで、寝惚けた頭が元の思考力を取り戻すにはそれほど時間はかかりませんでした。私はゆっくりとドクドク波打つ心臓を整えながら、気を失う前までに至ったその経緯を思い出し始めました。
私は今日の午後、凍姫の二階の狭い部屋へミシュアさんに案内されました。それからそこで、精霊術法を行使するのに必要な『開封の儀』を行ったのです。開封の儀とは精霊術法の根源となる魔力を、別な世界に住むという精霊から送ってもらうために必要なチャネルを開くために行います。しかしそれは酷く苦痛を伴うものでした。単純な痛みだけだったらまだ楽に耐えられました。けれど私を襲ったのは激痛だけでなく、蕩けそうな快感もあったのです。この両極端が交互に襲い掛かってくるため意識をどちらに傾倒させればいいのか分からず、遂には耐えかねて気を失ってしまいました。痛がればいいのか気持ちよがればいいのか分からないのですから。
「最中に気を失ったそうだな。心配したぞ? あれで気を失う人間など滅多にいないからな」
左肩から右肩先へ回るリーシェイさんの腕。それが右肩をしっかりと掴み、私の左隣に座る自分の方へぎゅっと抱き寄せてきます。これが男の人ならば大変な出来事なのですが、リーシェイさんは女の人です。だからさして騒ぐほどではありませんけれど、なんというか、やっぱり居心地が良いとは言えません。
「ひゃっ!?」
と、突然左肩越しに右肩を掴んでいたリーシェイさんの手が離れ、すうっ、と脇の下から脇腹にかけてのラインを指先でつうっと撫でました。刺すような寒気が走り思わず上擦った声を上げた私は、すぐさま長椅子から立ち上がってリーシェイさんから距離を取ります。
「なんだ? 別に逃げなくてもいいだろうに」
にこにこと微笑みを浮かべているリーシェイさん。高々と重ねるように組んだ足が実に格好良いのですが、その表情は何だか怪しげです。きっと不道徳でよからぬ事を考えているに違いありません。
あれ? 手……?
ふと私は、リーシェイさんが大きな胸の下で憮然と組んでいる腕に気がつきました。確かリーシェイさんの腕は―――。
「あの、腕枷はどうしたんですか?」
「あそこだ」
そう言ってリーシェイさんが指差したその先には、応接用らしき小さなテーブルがありました。そしてその上には、午前の講義の時に見た、あの鉄製で如何にも重そうな腕枷がありました。腕輪の部分はまだカギがかかったままらしく開いてません。リーシェイさんの腕から離れているという事はカギを外した事になるのですが。
「あの程度、この私にはまるで意味を成さない。この通り」
リーシェイさんはそっと右手に左手を多い被せるように手を組みました。するとゴキッと鈍い音を立てます。やがて被せられていた左手が離れると、そこには親指と小指が不自然に内側へ折り畳まれた右手が現れました。普通はどうやってもそんな風に曲がるはずがありません。これは指の関節を外したからなのです。
「まあ、これは誰にも打ち明けていないからな。奥の手、という訳ではないが、能ある鷹は爪を隠すものだ」
そして指の関節を戻しながらにっこり微笑むリーシェイさん。
なんだか底知れない恐ろしさを私は感じました。本当にこの人だけは常識が通用しない気がします。
「さて、リュネス。実は少し厄介な事になってしまってな。話しておきたい事がある」
その説明をするからここに座れ。そうリーシェイさんが隣をポンポンと叩きました。
何かあったのでしょうか?
何も知らない私は、こういう説明はしっかりと聞かなければなりませんが、リーシェイさんのすぐ隣ではなく、一人分間をあけて座りました。いざという時に逃げられる余裕を持たせるためです。
「厄介な事ってなんでしょうか?」
「ああ、実はお前の事だ」
どういうことなのでしょうか? 私は途中で気を失ってしまったけれど……まさかそのせいで開封がうまくいかなかった?
「先ほど、開封で気絶する事は珍しいと言ったが、これが何を意味するか。まずはこの説明からだ」
「でも、それは単に私が駄目だっただけじゃ?」
私は苦痛に耐え切れず遂には気を失ってしまいましたが、それは私の我慢が足りなかったからだけの事なのです。普通の人だったらあれぐらいはちゃんと耐え切れるのだと思います。第一、今リーシェイさんも、儀式では滅多に気絶する人はいない、と言ったのですから。
しかし、
「いや、そうでもない。そもそも精霊術法の開封は、苦痛を伴わぬように研究されているのだ。まあ全く何もないのが理想だが、さすがにそこには至ってはいないものの苦痛そのものは二日酔い程度まで軽減出来ている。にも関わらずだ。お前は失神するほどの苦痛を伴った。これがその厄介な出来事の原因だ」
リーシェイさんの鋭い視線が私を居抜きます。思わず私は背を伸ばし、表情を俄かに緊張させました。
「苦痛の量はチャネルの回線容量に比例する。つまりお前のチャネルはそれだけ膨大な回線容量を誇っているという事だ。回線容量は基本的に体型や性別、年齢などに影響はされない。生まれた時に容量は既に決まっている。そしてそこから増やす事も減らす事も出来ない。出来るのは送り込まれる魔力の料理だけだ」
つまり、私が気を失うほどの苦痛を味わったのは、初めから苦痛を軽減する配慮が成されていたにもかかわらず、予想外にチャネルの容量が大き過ぎて対応しきれなかった。そういう事なのでしょうか?
「いいか、リュネス。お前はこれから術式を行使する際、膨大な量の魔力をチャネルから送り込まれてくる事になる。だが、それを調整する力はまだ無い。魔力には理性を食い荒らす副作用があるのだから、それだけ理性の消耗も激しくなる。つまりお前はいつ暴走してもおかしくはないのだ。そして暴走した後も、その膨大な魔力が常に供給され続けるため、周囲へ与える被害も尋常ではないだろうな。やがて許容量を超えたときの爆発など考えるだけでも恐ろしい。後からミシュアさんにも同じ事を説明されるだろうが、まずは自分の置かれた現状、最低限この程度は重く受け止めておく事だ」
私は思わず茫然としてしまいました。
自分にそれほどの力が備わっているなんて。いきなり言われても実感が湧きません。いえ、それよりも。確かに私は強い力を求めていました。けど、それはこんな力ではありません。自分では制御が出来ないだけでなく、周りのみんなまでをも傷つけてしまうなんて。回りが傷つくぐらいなら自分が傷ついた方がいいとは思いませんけど、自分が原因で回りに迷惑をかけてしまうなんて、とても耐えられません。それは私が暴走の果てに消滅して死んでしまうという事よりも辛い事です。
「まあ、そう不安がるな」
と。
いつの間にか私のすぐ隣に移動していたリーシェイさんが、私の肩を抱き締めてぴったりと体を押し付けてきました。リーシェイさんの柔らかい体の感触と体温が伝わってきます。リーシェイさんは本当に私の理想とする絵に描いたような体型をしています。自分に自信があるから、こういうことも簡単に出来るものなのでしょうか。
「前にも言ったように、精霊術法の使い方はちゃんと私が責任を持って仕込んでやる。基本を押さえれば何の問題もない。むしろ、制御が強固になればその分お前の実力に反映されるのだ。チャネルの回線容量が広げられないという事は、あらかじめ攻撃力の限界が決まっている事を意味する。つまりお前は私などよりも遥かに優れている事になるのだぞ? 私は制御を散々鍛えたが、生まれつきチャネルが狭いため大した攻撃力がないのだ。だから、もっと自信を持て。制御に最も必要なのは自分への自信なのだぞ」
顔を近づけ、まるで耳元に囁くような声で話すリーシェイさん。なんだかとても良い話をしているように聞こえなくもないけれど、その話し方が気になって内容に集中出来ません。耳に当たる呼気がくすぐったくて、僅かに体をよじります。
「は、はあ……」
「私の説明が悪かったな。精霊術法のマイナス面ばかり並べて脅かしてしまった。しかし安心しろ。お前が制御に自信を持てるようになるまで、暴走せぬように私が監督する。なに、暴走が始まったらチャネルを強制的に外部から閉じればいいだけの話だ。悪循環の環が小さい内に断てば何ら問題はない」
「閉じるって……どうするんですか?」
「意識を喪失させるのだ。しかるべき場所に軽く当て身をすれば痛みを感じる間もなく意識を失う」
随分過激なやり方なんですね……。もっと封印する魔術を使ったりするような方法かと思ってましたけど。
と、リーシェイさんが更に顔を近づけ、私の耳に唇が触れるか触れないかの距離で、
「不安か? だったら今夜は私の部屋に来い。別な方法で失神させてやるぞ。ん?」
そう熱のこもった艶っぽい声で囁きかけます。
……また、始まりました。
私はここでペースに飲まれてしまってはいけないと自分に警告しました。あの時も、私がリーシェイさんのペースに動揺し飲み込まれてしまったから、ああいう事になる隙を与えてしまったのです。
「お断りします」
そうキッパリと私は言い放ちました。
TO BE CONTINUED...