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今こそ、全力を尽くして戦う時。
リュネスは重い決意と共に、腹の中に研ぎ澄ました刃を飲み、足を前へ前へと踏み出していく。
描いたイメージを体現化する。足から加圧した吹雪を吐き出し、一歩で進める距離を大きく延長する。体は信じられないほどの速さを得て重力の鎖から解放する。けれど意識はそれよりも更に前を走り続けた。
リュネスの目指す先は、北斗総括部最上階、天守閣。そこに居るであろう、今回の一連の事件の首謀者である人物、エスタシア。リュネスの目的は彼を倒す事だった。未だ漠然とした表現に留めてはいたが、それの持つ意味は明確に認識し覚悟している。『倒す』とは、命を奪うという事だ。
階段を段飛ばしに昇るのももどかしく、リュネスは足から吐き出す吹雪の推進力を利用し己の体を壁に向かって打ち出す。壁に対して斜めに己の体を一瞬固定、蹴り出した威力がのしかかる重力に相殺されるより先に更に体を蹴り出し、それを繰り返しながら左右の壁を交互に蹴り伝い一気に駆け上がっていった。
目を閉じれば、後から後から途方もない力が溢れ出てきていた。その力はまぶたの裏に、青い輝きを描き出した。以前リュネスが暴走した時、包み込まれるような感覚に陥らせたあの光だ。
光の色はリュネスが習った術式、流派『凍姫』のイメージを表している。そして、光は尽きる事の無いエネルギーの象徴だ。
リュネスは自分の中で普通ではあり得ない何かが起こった事を自覚していた。本来の自分に、壁伝いに駆け上がるような運動能力など無い事は知っている。これを可能にしているのは全て術式の力だ。それも、猛獣のように荒々しい強大な力を細を穿つように制御された、恐ろしく精密な術式だ。
何かが目覚めた、もしくは取り憑かれたか。
どちらにせよ、暴走しているにもかかわらず理性が保てているというこの異常な力は、何かをきっかけにした一時的な状態であるとリュネスは考えていた。時が経てば、元の冴えない自分に戻るだろう。だからそれよりも早く、エスタシアを倒さなくてはいけない。
振り返ることを忘れ、ただ前へ突き進む事に没頭する。迷いが自分を弱くする事を知っているからである。今は目的以外の事に意識を割く余裕は無いのだ。
やがて長い階段の終着に辿り着く。リュネスは遂に北斗総括部の最上階、かつては本部の最高責任者が座していた場所、天守閣である。
部屋の扉は探すまでも無く、すぐ目の前に立ちはだかっていた。来る者を拒むかのような威圧的な面構えである。
リュネスは躊躇わず、脳裏に描いたイメージを右腕に体現化させた。体現化したのは、ありとあらゆる物質の原子運動を停止させて破壊する絶対零度の術式、ラクシェルが得意とするものである。
たとえそれが鋼だったとしても、原子が運動を止めた物質は驚くほど脆い。僅かに衝撃を加えるだけで簡単に砕け散るのである。
ぼうっと薄青く光る右の拳をぎゅっと握り締め、リュネスは扉に目がけて繰り出した。
みしり、と古い板が軋むような音。平面の扉が拳にまとわりつくような感触。まるで自分の腕が扉に飲み込まれるような錯覚を覚えた。
打ち抜かれた扉は真ん中へ寄り集まるようにひしゃげ、蝶番の支えを引き千切り前のめりに倒れた。
自分の体重の何倍もある重厚なその扉、普通に考えて、自分にはこのように破壊するなど到底不可能な事である。それをリュネスは、にもかかわらずどうして可能に出来たのか、明確な理由を踏まえて自覚していた。ラクシェルがありとあらゆる物を拳で破壊出来るのは、単に絶対零度を体現する術式の恩恵だけではない。ラクシェルの持つ、精霊術法の副作用による人並外れた筋力、そしてその力を最大限に生かす精密な打撃があってこそ成り立つものなのだ。リュネスには筋力も打撃の技術もない。ましてや、小柄で線の細い体では、肉体を用いる打撃そのものに威力を求める事自体が滑稽である。だが、それでもリュネスはこの重厚な扉を打ち抜いた。理由は極単純なものだった。足りない威力を、全て術式によって代替させたからである。つまりリュネスの術式とは、誰かの模倣では無く、それをベースにした改良版とも呼べる術式なのだ。
すぐさま中へ飛び込むリュネス。
部屋は窓が一つも無いためか、光一つ差し込まず真っ暗で何も見えなかった。肌の感じる空気の様子で部屋は広い事が分かった。けれど、一体どんな壁で部屋の中には何があるのかまでは皆目見当もつかない。
しかし。
すぐにリュネスは身構えた。心臓がどくんと遅れて高鳴る。額からはどっと汗が噴出し、切れてもいなかったはずの息が突然激しくなる。
目には見えない。だから、思考よりも先に体が反応したのだ。
部屋は藍色の闇に包まれて何も見る事が出来ない。けれど、そこには確かにいる事を感じ取っていた。怪物としか言いようの無い、恐ろしいものが。
大丈夫、恐れるな。今の自分に敵はいない。
暴走するほどの巨大な力を理性的に操れるという事は、北斗最強の流派である『浄禍』のそれと全く同等の力を手に入れたものと考えて差し支えない。浄禍の並外れた力は神の代行者そのもの、即ち人間の域を出られない者に勝ち目は無く、まるで手のひらの上で躍らされるように消されていくのだ。
今の自分には敵は無い。
もう一度自分にそう言い聞かせ、リュネスは真正面に右手を伸ばし手のひらを広げて見せると、脳裏にイメージを描いた。
瞬間、かざした手のひらに薄青い無数の粒子が寄り集まると、一度瞬きするのと同じ早さで巨大な光球を作り出した。光球は内側から右螺旋を描くように膨張すると、そのまま手のひらをかざした方向に向かって一条の尾を引きながら撃ち出された。
あまりの光量に、部屋全体が一瞬真昼のように照らし出された。しかし、光に満たされたのはほんの僅かな出来事で、あっと言う間に部屋を駆け抜けた光はそのまま消えてしまった。
不意に差し込んできた眩しい光に、リュネスは思わず手をかざし目元をしかめる。
撃ち放った術式は、部屋の向こう側の壁に巨大な穴を穿っていた。穴の外からは薄黄色の朝焼けが見える。目を覆われたのはその光だ。
「何を、そんなに怯えているのです?」
すると。
リュネスと穿った穴との丁度中間地点。そこに一人の青年が背を向けて立っていた。彼がこの恐ろしいまでの殺気を放っている本人である事は疑う余地も無かった。部屋が光に満たされ、彼の姿を見た途端に曖昧で恐ろしかったものが全て明確な恐ろしさを感じられるようになったからである。
穿たれた壁から足元まで放射線状に伸びる朝日。朝日に向かって立つ彼の姿が、そこに細く長い影を映し出していた。リュネスはその影さえをも踏む事を躊躇ってしまった。影に踏み入れた足を飲み込まれてしまいそうな恐ろしさを感じたからである。
「さあ、選んで下さい」
そして、青年はゆっくりとリュネスの方を振り返った。
普段と変わらぬ穏やかな表情を浮かべるエスタシアがそこにいた。けれど、それは胸を締め付けられそうなほど凄惨なものだった。恐ろしさのあまり手が勝手に震え出すのに気づいたが、もはや自分の意思では止める事が出来なかった。
「僕と共に新たな北斗を築くのか、今ここでその礎と消えるのか」
リュネスは愕然とせざるを得なかった。まさか、エスタシアと自分の差がこれほど広いとは思いもしなかったからである。
自分の力は化け物じみたものだと思っていた。Sランクのチャネルから無尽蔵に供給される力は、北斗で指折りの実力者達が束になって襲い掛かっても一筋縄ではいかない強大なものだからである。けれど、それはとんだ思い上がりであった事を思い知らされた。本当の化け物とは、今目の前にいるこういう人間を指すのだ。力の大小など、大局の前には微々たる差なのである。
引くな。まだ引いちゃいけない。
折れるな。まだ折れるな、私の心。
リュネスは理性を失う寸前で我に帰り、怯える自分を意図して燃やした闘争心で引き締めた。
ここまで来て、引き返す事など許されない。自分は、この戦いを終結させるために来たのだ。今、彼を止めなければ、また多くの人が死に、多くの悲劇を生む。それはあってはならない事だ。北斗の戦士として、何よりも自分が愛するこの街のためにも。
「もう止めにしましょう。これ以上は無意味です。みんな、それにファルティアさんも、もうあなたと戦える人はいません」
「だから何だと言うのです? 僕はたとえ一人になろうとも戦い続けます」
「一人で戦う事に何の意味があるんですか?」
「僕が北斗の戦士だからです。北斗のために戦う、他に一体どんな理由があります?」
「あなたのしている事は、ただの裏切りです!」
「それは旧体制に執着する人間の言い訳です。僕を反逆者と呼ぶならば証明して見せて下さい。あなたこそ、正しいと信ずるその意思がどれほどのものかを」
すらり、とエスタシアは腰の後ろ側に差した二本の剣を抜く。
流派『悲竜』の戦闘スタイルは、様々な番の武具と術式を融合させたものだ。エスタシアが得意とするのはその二本の剣、神童とも評された天才的な剣である。剣術の性質的な弱点を術式で補った彼にはめぼしい死角など見当たりはしない。技術は北斗の中でも一、二を争うほどの達人である。勝つには、ただ力で圧倒するしか他ない。
「無駄に死ぬ事はありませんよ。僕とあなたとでは覚悟の重さが違うのですから」
「それでも……私は退きません!」
虚勢だ。
そうはっきりと頭の中に、今の自分を評するのに最も適した言葉が思い浮かんだ。
逃げない。
負けない。
自分には勝利以外に何も希望の持てる結果は無いのだ。勝てなければ、後は第三者の意思に蹂躙されるだけなのだ。思い出せ。そうなる事を甘んじ続けてきたこれまでの人生で、一度たりとも好転した事があったのか。
リュネスは脳裏にイメージを描いた。描いたイメージは、限りなく透明の水。
自分を研ぎ澄まし、闘争心を滾らせ、覚悟の杭を足に打ち込む。
手に入れるには勝つしかない。
勝つには前に進むしかない。
前に進むには強くなるしかない。
北斗の戦士となり幾分も経っていない自分になど取り分けた自信はなかった。しかし、北斗の本質は誰もが抱くそれと同じように理解し自分の中にも植え込んだつもりだ。恐怖に枯らされてしまうほどか細い決意ではなくだ。
突然、リュネスは肩に置かれた手の感触に、思わず体をびくりと震わせた。
「退いて下さい」
振り返るよりも早く、肩に置かれた手が強く食い込み強引にリュネスを後ろへ放り投げた。よろめく暇も無く、リュネスは床へ強かに尻餅をつく。
だが、その痛みよりもリュネスは状況の判断だけで精一杯だった。自分は決して注意深い方ではないが、後ろからつけられている事に全く気が付かないほど鈍感でもない。
いや、それよりも自分を押しのけたのは一体何者なのか。何故、自ら進んでエスタシアの前に立とうとするのか。
突然の事に、唖然と見上げるリュネス。けれど、青年はまるでリュネスの事など構わずエスタシアと真っ向から対峙しする。
その時、リュネスははっきりとエスタシアの表情に走ったものを見た。驚愕のあまり大きく見開いた目と薄く開いた口。だがその中にもう一つ、別な感情が湧き上がっているのを見た。驚愕を遥かに超えた、歓喜だ。
「ッ!?」
不意にリュネスは呼吸が出来なくなった。突然現れた目の前の彼から、ドス黒い殺気が爆発的に広がったからである。
それに呼応して、エスタシアからも同じように巨大な殺気が発せられた。自分が理解出来る最上限の恐怖を何倍にも増して形取ったかのように、ただただ自失せぬよう己を保つだけで必死だった。
殺気だった二人が真っ向から睨み合う。こんなにも離れていながら、既に戦いが始まっているかのように緊張した状況だ。
すると、
「……ふふふ」
「……ははは」
どちらからともなく、ゆっくりと笑い始めた。
「ハァーッハッハッハ!」
「ハァーッハッハッハ!」
ぞっとするような凄惨な笑い。けれど、目はまるで笑っておらず、獲物を目の前にした捕食動物のようにぎらぎらと異様な光を放っている。
愉快なものなど何一つ無いというのに、これほど大声で笑い合える二人が恐ろしくてたまらなかった。
今度はリュネスは、この狂的な様を正視し難い恐怖との戦いに見舞われた。この世のものとはとても思えない、目の前の光景。恐怖に任せて逃げ出したい衝動は際限なく膨れ上がる。けれど逃げる事が出来なかった。足が完全に竦んでしまい、走るどころか立ち上がる事すら出来ないのである。
そして。
「生きていたか、死に損ない!」
「お前如きにやられるものか!」
獣のような二つの砲声が交錯する。
リュネスは一瞬、部屋に差し込む朝日がぐらりと揺れた気がした。
TO BE CONTINUED...