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 もう、後悔はないはずなんだけれど。
 全てをやり遂げて。
 目的も果たして。
 俺は自分の決意に何一つ背く事をしなかった。
 だけど。
 ……あれ? おかしいな。
 恐怖が、込み上げて来た。




 薄暗い闇に包まれている俺の視界。
 体の感覚も酷くうつろになってきていた。空気の流れも肌で感じ取る事が出来ず、周囲の物音も自分の心音さえも遠く聞こえる。ただはっきりと感じられるのは、俺が倒れているリュネスの前に立って障壁を展開している事と、その障壁を打ち破りリュネスを貫こうと向かってくる白い騎士剣の存在。
 自分でも長くもちそうもない事を自覚していた。『断罪』の座の術式と、無我夢中で展開した俺の障壁との一騎打ち。外野のないその勝負は、単純な消耗戦でしか決着がつかない。となれば、一体どちらに負があるのか。精神論ではどうにもならない現実というものを、俺は苦々しい気分で痛感している。
 だからこそ、状況を打開するために何か策を取らなくてはいけなかった。しかし、俺はここまで辿り着いたのも、ただリュネスを助けたいと思う一心だけで何の考えも持っていなかった。後先を考えなさ過ぎたせいで、進退窮まる袋小路に自ら入ってしまったのである。元々、作戦とか戦略とかを考えるどころか定石を憶えることすら苦手だった俺だ。ここまで追い詰められていても、良い打開策は何一つ思い浮かばない。
 ただ打開する事だけを漠然と考え焦っていた時だ。
 突然、機能の切れかけた俺の耳に、コップか何かを叩いたような鋭い音が鳴り響いた。
 なんだ……?
 俺は霞んだ目をこらしながら周囲の様子を覗う。
 と。
 ぱりん。
 ふと目の前から、まるで霜柱を踏みしめたような小さな音が聞こえた。次の瞬間、俺の展開していた障壁を中ほどまで打ち破っていた『断罪』が体現化した騎士剣が、一瞬の内に跡形もなく砕け散ってしまう。
「……え?」
 一体、何が起こったというのだろうか。
 浄禍八神格の一人、『断罪』の座が体現化した強力なあの術式。とにかく無我夢中で何故か展開出来てしまった障壁で俺はこの術式に立ち向かっていたのだが、その突貫力は凄まじく、少しでも気を抜けば紙のように障壁を打ち破ろうとしてきた。それも当然だ。北斗十二衆の中でも最強の流派、『浄禍』。その最高峰の一角である『断罪』の術式なのだから。
 どれほど絶望的な強さを持っているのか分からない訳ではない。むしろ痛いほど分かっているからこそ、自分の行動がどれだけ向こう見ずなのかを自覚出来る。だが、その術式はたった今、目の前で塵のように砕け散ってしまった。『浄禍』の強さとは絶対、その絶対が強制的に解除されてしまったのだ。こんな現実が起こり得るものなのか、俺はしばしその判断に思考力を奪われてしまう。
 いや。
 俺はやはり思い直して判断を下すための思考を中断した。
 何が起こったのか。そして、それはどうして起こったのか。限りある自分の時間をその追求に求める必要はない。俺がやらなくてはいけないのは、自分の好きな女の子であるリュネスを守り通す事。残る全てのエネルギーはそこへ注ぎ込む。
 目の前に迫っていた強敵は消え去った。俺は思考がままならない頭を押さえながら、ゆっくりと後ろのリュネスを振り返ってその安否を確認しようとする。
「っと……」
 踵を返そうとした瞬間、ぐらりと体が大きく揺れた。まるで地面が斜めに傾いてしまったかのような突然の感覚。俺は慌ててバランスを立て直そうとするものの体のふらつきを止める事が出来ず、そのまま地面の上へ膝をついてしまった。
 まずい、血を流し過ぎた。
 霞んでいた視界の闇が急激に深まっていき、額の奥がガンガンと低い音を立てて痛む。普段の発作で起こる刺すような頭痛ではなく、血を失い過ぎたための眩暈だ。考えてみれば、これまでずっと全身に負った怪我を気力で押して耐え抜いていたのだ。がたがたになった体を引き摺って、気持ちだけを強く持っていて、それで動き続けられた事自体が奇跡に近い。
 意思と関係なく震える膝をついて座り尽くしている俺のすぐ下。
「リュネス」
 俺は声を絞り出してリュネスの名を呼んだ。けれどリュネスの反応は無い。
 リュネスは眠っていた。微かに頭が動いて前髪が左へ流れる。
 あれほどの災禍に見舞われたというのに、嘘のように傷一つついていない。いつも笑顔を絶やさない頬の色も、白魚のように細い指も、小さな唇も、何もかもが俺の脳裏に焼き付いているリュネスそのままだ。ただ一つ、まぶたが下りているためブラウンの大きな瞳が見られない事だけを除いて。
 リュネスは緩やかな呼吸を繰り返している。やっぱり気を失っているだけだったようだ。
「良かった……」
 俺は心から安堵した。ようやく肩に圧し掛かっていた使命感から開放された気分だ。
 体のあちこちが焼け付くような鋭い感覚に包まれている。視界もぼやけてままならず、耳もほとんど聞こえない。けれど、そんな状態でも、リュネスの無事な姿を見ただけで体は癒され、安心感が込み上げてくるような気がした。あの夜に果たせなかった事は海よりも深い後悔となり、胸に刺さったまま抜けない棘となっていつまでも後ろめたさとやるせなさを俺に引き摺らせる。罪人がつけられている足枷のように、気持ちがずっと思うままにならない毎日。リュネスと顔を合わせても、俺はあの日の事ばかりが頭の片隅に息づいていて目をそらせなかった。けれど、俺はようやく自分が役目を果たしたような心地良い達成感と共に、いつまでも抜けなかった棘が抜けるのを覚えた。好きな女の子を守る。そんな当たり前の事が出来なかった自分をようやく乗り越えられた気がしたからだ。言葉で言うのは簡単だけれど、実現するのは難しいものだと知っている。しかし俺は、リュネスの事だけはかと言って妥協はしたくなかったのだ。少なくとも、これ以上は。
 でも、そんな達成感云々のような自分の事情よりも、ただ純粋にリュネスが無事である事が心から嬉しかった。もう何度絶望しかけたか分からない。反逆した風無の脅威にさらされ、暴走の憂き目に遭い、更には浄禍に消されかけた。けどリュネスは今、確かにここに存在している。静かだけれどちゃんと呼吸をしている。生きている証拠だ。
「……あれ?」
 と、急に体ががくんと崩れた。
 俺は咄嗟にリュネスの両脇に腕をつく。しかし、まるで地面に引き込まれているかのように体が重くて仕方がなかった。更に意識の混濁も色濃さを増し、眠気にも似た危険で暗い感覚がじわじわとやってくる。
 この感覚からは逃れられない。
 本能的に俺はそう悟った。
 あの『断罪』の術式からリュネスを守った事実。それはきっと奇跡に近いだろう。だからこそ、起こした奇跡の代償は大きかった。俺の体はもう限界を通り越して、今もこうしてまともな思考を出来るのが不思議なのだ。いい加減、もう時間切れだろう。
 これから自分がどうなってしまうのか、正直分からない。多少なりとも不安はある。ここからはある意味で未知の領域だから。
 でも、後悔はない。
 俺はリュネスを守る事が出来たのだ。刺さり続けていた棘は抜けた。どうして後悔なんかするだろうか。今の俺にあるのは達成感と喜びだけ。
「リュネス……」
 もう一度、ぽつりとその名を呼ぶ。声は更に掠れて消えかかっている。
 後悔は無い。
 その言葉を確かめるように何度も繰り返し、本当に自分の意志がそうである事に相違が無いことを自覚した。
 つもりだった。
 突然。ふと、ある感情が込み上げて来た。
 それは『たとえ命を落とす結果になろうともリュネスを守りたい』という俺の決意に異を唱えるものだった。
 このまま死にたくない。
 もっとリュネスと居たい。
 まだ話したい事もある。伝えたい事もある。
 好きだ。
 そう一度も言っていない。
 思い描いていたデートなんかもしていない。
 楽しい思い出を、もっともっと作りたいのだ。
 けれど。
 意識はリュネスが目を覚ます前に途切れてしまった。
 まるで、断頭台のギロチンが落ちてくるように。



TO BE CONTINUED...