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一人ぼっちの、戦争。
最近、そんな言葉が頭の中によく浮かぶ。
どうして私はこんな事をしているのだろう?
自分が何をしたかったのか。
何をするために雪乱に入ったのか。
それを考えさせないほど、周囲が、状況が、私を騒乱の奥へ押し流していく。
私が本当にしたかった事。それは、これまでの怠惰な日常からの脱却だったはず。
それが、どこをどう間違えてこんな事になったのだろう?
分からない。
そして、私には後戻りを許してはくれない。
けど、そんな私に。あなたはふらりと現れた。
まるで、自分だけの目的で生きる気まぐれな猫のように。
ぽた。ぽた。ぽた。
日が西の果てに消え入りそうとしている夕刻。
街の裏路地を、一人ふらふらと壁に手をつきながら歩く人影があった。その人影は、右手を脇腹に、左手を壁について自分の体を支え、頼りない足取りで歩いている。顔には苦悶を押し殺した苦い表情を浮かべ、大粒の汗を幾つも浮かべている。
それは、流派『雪乱』の頭目であるルテラだった。
あの雪魔女として象徴的なハニーブロンドが痛々しく振り乱れている。真っ白な衣服も右手で押さえた左脇腹を中心に描かれた赤い斑に汚れ、生地から吸い込み切れなかった血の雫をぽたぽたと足元へ点々と後をつけている。
ルテラが負っている傷は決して浅いものではなかった。それは昼間行なわれた、もはや恒例となっている戦闘解放区での雪乱と凍姫の抗争中に負った傷だった。いつ、どのようにして負ったものか、その詳細まではルテラも分からなかった。戦闘中はいつも目の前の敵の事ばかりしか考えていないためである。基本的にルテラの戦闘スタイルは、目の前の敵を圧倒する事だけに全力を注ぐものだった。それは意識を向けている相手に対しては絶対でも、それ以外の敵には驚くほど無防備である。これまでルテラはその穴を、自らの存在感がもたらす威圧感で攻撃の手を制する事で埋めていた。それは意図したものではなく結果論に近いものであるため、防御手段と呼ぶにはあまりに稚拙だった。つまりルテラはそれだけ集団戦闘における防御というものを無視して戦っていたのである。
「くっ……」
ルテラは短く重い息を吐いた。だが、それだけでは自らを苛む痛みを誤魔化すには到底及ばない。
やがて進む事に疲れたルテラは少し休もうと思い立ち、左手をついていた壁に背をもたれる。が、それは逆にルテラから余計力を奪う事になり、そのままずるずると地面に座り込んでしまった。
仲間はどこにいるのだろうか。
出血で朦朧とし始めた頭をもたげ、茜色の空を見上げながらそう呟く。
戦闘が激化し、両者入り乱れる混沌状態に陥った時、おそらくどちらかが合同で巨大な術式を行使したのだろう。ルテラは恐慌と混乱を来たした戦場から、その時はまだ安易に考えていた脇腹の傷を引き摺って一人、退避せざるを得ない状況に追い込まれた。
気がつくと、一人で戦場に立っている。
それは取り立てて珍しいことではなかった。特に頭目となってからは、まるで自分一人で凍姫を相手にしているかのようにさえ思える。一人で戦う事が当たり前で。集団行動とか戦略だとか、そんなものを必要としないほどの強さを自分は持っている。周囲はそう盲目的に信じてやまなかった。
孤独感には慣れているつもりだった。帰りの遅い兄を一人で待つなんて日常茶飯事である。だから自分は人よりもずっと強い人間だと、そうルテラは思っていた。
だが。
はあ、と大きな溜息をつく。
陰鬱な溜息。
ルテラは湧き上がったその感情を初めこそは否定していた。そんなもの、この自分が考えるはずが無いと。けれどその感情は根が深く、幾ら目をそらそうとしても強引に目の当たりにさせてくる。
今、ルテラは酷く不安感と寂しさに苛まれていた。
これまで経験のした事のない大きな怪我をしているせいかもしれない。けれど、そんな理屈をごねた所で現実に感じているそれを紛らわせる事は出来なかった。
ふと、ルテラは兄であるレジェイドの事を考えた。
もうどれほど顔を合わせていないだろうか。雪乱に入ってからは意図的に避け続け口も閉ざしていた。兄と一緒に居れば必ず甘えてしまう。だから過去の自分と決別しようとしたつもりが、それは単に兄を一方的に拒絶するだけにしかならなかった。甘えてしまうのは自分に弱さがあるからで。それを兄に転嫁して、訳の分からない方へ走って。兄が心配するはずである。たとえ私に拒絶されると分かっていても、ああ何度も様子を見に来るのは当然だ。
ルテラは兄に会いたいと思った。いや、今すぐにでもここへ駆けつけて自分を助けて欲しかった。
昔は少しでも気に入らない事や辛い事があると真っ先に兄にひっついて泣いていたけど、いつからかそれが恥ずかしくて出来なくなった。いつまでも子供のままではないのだから当然の事ではある。でも今はそれが、ただ意地を張って突っ撥ねているだけにしか思えなかった。あの日、あの部屋を飛び出した時の自分のように。
私は選択を間違ったのかもしれない。今更こんな事を言っても何をどうすることも出来ない。走り続けた自分は既に後戻りの出来ない所にいるのだから。でも、兄はこんな時でもきっと助けてくれる。もう二度と兄には頼らないと決めたはずなのに。この切迫した状況下で、決意は脆く崩れ去っている。
決意が崩れると、急に恥も外聞もなく泣き出したい気分に駆られた。思えば、もう随分泣いていない。無理に押し殺してきたのか、単純にそれ自体を忘れてしまっていたのか。ただ、そんな事を考えられないほど泣きたかった。
と、その時。
「おい、こっちだ!」
不意に路地の入り口に一人の男の影が現れる。
咄嗟にルテラは、凍姫の人間に見つかったものだと思った。自分は戦闘解放区から凍姫を撒いて来ている。手負いの頭目である自分を捜していてもおかしくはない。しかしよく見てみれば、男が着ているそれは明らかに凍姫の制服ではなかった。視界が霞んでどこの流派かまでははっきりと確認出来ないが、男が凍姫の人間ではない事と、そして―――。
「こんな所にいやがったのか」
「怪我してるじゃない? 好都合だわ。雪魔女なんかまともに相手したくないからね」
続いて現れたのは、最初の男と同じ制服を身に纏った男女二人組。
三人の言動から、彼らが決してルテラに対し友好的な立場には立っていないことが十分に窺い知れた。
目的は何なのだろうか。
そんな問いを思い浮かべるルテラだったが、それは考えるまでもなく彼らの口から出てきた。
「んじゃ、コイツを例のそいつに引き渡せばいいんだな?」
「ええ。私の知り合いが凍姫にいるからね。大きな手柄になるもの。喜んで払ってくれるわ」
「これだけで金が貰えるなんて、ちょろい話もあったもんだな」
三者三様、不快な笑い声が響く。
やはりそうか。
ルテラは悔しげに奥歯を噛む。
自分は雪乱の頭目、敵対する凍姫ならば喉から手が出るほど身柄は欲しいだろう。頭目さえ確保してしまえば、事実上の勝利宣言となるのだ。末端の人間にしても大きな手柄となる訳だから、凍姫の人間ならば誰もが欲しがるはずだ。
思えば、自分は何て世界に飛び込んでしまったのだろうか。
戦場では、貴いものであるはずの命は数字に置き換えられ、上の人間の意向によって使い捨てのように使われる。それが最大限の効率を追求した姿であり、この無政府国であるヨツンヘイムで人々が毎日を笑って過ごせる街、『北斗』を実現した功績を生み出した。北斗の人間は同じ人間と比べ価値が異なる存在だ。北斗は街を守ってこその北斗であり、それだけの力を持たない者はその人間性すら否定されてしまう。ならば逆に力のある人間はどうか。一騎当千にもそれ以上にも相当する力を持つ人間は、北斗の中にも数える程度ではあるが存在するのは事実である。そんな彼らは周囲から一体どんな目で見られるのか。それは、絶大な力に対する畏敬と、名声を奪取せんとする野心の二つだった。絶大な力を持って北斗を守護する存在は、人々にとってまさに神と同義的だった。しかし、そんな多くの称賛と敬意を集める一方で、その名声を利用し自らの利益にしたいと考える人間もまた少なからず存在する。それは単純な決闘方式で自らの名声を得ようとするものもあれば、奸智奸計を用いて何かを得ようとする姑息なものまで。常に彼らはそういった弊害に見舞われる可能性があるため、普段からは各々が身辺に注意を払っている。
今、ルテラが見舞われているのはまさしくその後者だった。しかしルテラには何の落ち度もなく、不可抗力に近いと言える。だが、それだけで済まされないのもまた事実だ。一流派を束ねる頭目とは最も結果論を求められる。求められる結果のためには過程を細かく問われないのである。重ねれば、頭目とはその流派の象徴となる存在だ。頭目一人の失態が流派全ての失態と、事実上はそう評価されるのである。
もし、ここでルテラが彼らの思惑通り拘束され凍姫に身柄を引き渡されてしまえば。長期に渡って続いた凍雪騒乱が集結を迎える事になる。ルテラは就任から間もないとは言え、流派『雪乱』の頭目だ。頭目が相手流派に捕縛されてしまえば、それは敗北以外の何物でもない。
ここで捕まるわけにはいかない。そうルテラは思った。もはや雪乱という存在は自分にとって苦痛を与える存在でしかないけれど、凍姫への勝利を願って止まない彼らの気持ちをむざむざと裏切る訳にはいかないのだから。
しかし、肝心の体が思うようにならない。既に出血の量は意識の鮮明さに影響を及ぼすほどになっている。立ち上がるどころか、相手の姿をはっきりと目視するだけでも困難だ。拘束は元より、凍姫本部に連行されるまで生命そのものが持つのかどうかすら危うい状況である。凍姫に拘束されるのが先か、命が尽きるのが先か。しかしどちらにせよ、雪乱の敗北はもはや時間の問題となっている。このままルテラを放置するだけで良いのだ。ただ、彼らが少し手を加える事で利益が発生するだけで。
今まで生命を危険にさらす状況には何度も遭遇してきた。しかし、今ほどリアルに自らの死を実感させられた事はない。恐怖はないと言えば嘘になるが、それよりも絶望感の方が遥かに大きかった。人間は自らの死を目の当たりにさせられた時、恐怖よりも絶望感の方が強いことをルテラは身を持って知らされた。この世から、この世ならざる場所へ行かなくてはいけない。それに対する絶望感だ。
より強く、脳裏に兄の顔が浮かんだ。いつも余裕に満ちた笑顔を湛え、過保護なほど優しい兄。大好きな人なのだけれど、反発し、後味の悪い別れ方をした事が今になって悔やみ始める。どうせならちゃんと謝りたかった。しかし、それはもはや叶わない。
と。
「感心しないね」
その時、不意に路地の反対側から新たな人の声が聞こえてきた。
「怪我人を前にお金の話なんてね。北斗のくせに北斗の理念を忘れたと見える」
声の主はゆっくりと歩み寄り、ルテラと三人の間にまっすぐ壁となって立ちはだかる。落ち着いた、というよりも周囲を考えないマイペースな立ち居振舞い。その一挙手一投足には独特の雰囲気が感じられた。
「誰だ、お前? 北斗に何の用だ」
「僕の言った事が分からなかったみたいだね」
訝しい表情を浮かべる彼らに、そう穏やかな口調で答える。しかし言葉の裏には、自分の主張を終始貫こうとする厳しさをそこはかとなく感じられる。
突如現れたのは、一人の青年だった。ただし北斗の、いずれの流派の制服も着ていない。おそらく一般人だろう。しかし、彼の顔を見た時、ルテラはハッと何かを思い出す。
「もう大丈夫だよ。無理しないで、休んでていいから」
彼はそっとルテラを振り向きニッコリと、なんとも温かな表情で微笑んだ。
間違いない。そうルテラは確信した。彼は以前あの大時計台の下にあるカフェで、初対面のはずの自分に馴れ馴れしく話し掛けてきた青年だ。
その驚きはやがて焦りを伴う疑問に変わった。
どうしてただの一般人である彼がこんな状況にしゃしゃり出てきたのだろうか。北斗の人間が皆、常人を遥かに上回る力を持っている事など周知の事実だというのに。とても正気の沙汰とは思えない。
「お前、一体誰を相手にしているのか分かってるのか?」
「この制服の意味が分からないようね」
三人は青年に対し、余裕に満ちた笑みを浮かべながら威圧的な態度を取る。自分達は北斗に所属する、常人よりも遥かに優れた力を持つ人間である。だからこそ、こんな名もないただの一般人から逆に威圧的な態度を取られる謂れはない。そんな自信に満ちている。
しかし。
「いや、分かるよ。君達には似つかわしくはない、という事がね」
北斗三人を前にも、青年は一歩も引くどころか更に一歩前に踏み出す。そんな彼の意外な行動に三人は薄ら笑いを浮かべていた表情を強張らせ、やがて怒りを押し殺した色の濃い顔色になる。途端に場の空気が張り詰め、びりびりとした殺気が立ち込め始めた。
まずい、助けなきゃ……。
一般人が北斗三人にケンカを売って勝てるはずがない。むしろ殺されてしまう。
青年には何の義理もなく、ただ面識が辛うじてある程度だ。けれど、だからといって見殺しにする理由にはならない。人間が死ぬのは少しでも少ない方がいい。それがルテラの考え方だった。
すぐさまルテラは立ち上がろうとしたが、思ったより酷い出血のため激しい眩暈に見舞われ、再び路面に尻をつく。やがて体を支える事すらも出来なくなり、ぐらりと頭が揺れてそのまま横へ意思と関係なく倒れ込んだ。
「なんだと!?」
意識の外から男の怒声が聞こえてくる。けれど、それ以外の事柄を推測どころか頭の中に浮かべることすら出来ない。もはや意識は暗闇の中に沈みかけている。後少しで、薄らいでいく意識は途切れてしまうだろう。
「はっきり言うよ。僕は君達がどこの流派だとか一切興味は無い」
微かに聞こえた青年の落ち着いた声。意外とよく通る、綺麗な声だった。
どうしてこんなにも強気でいられるの……?
ルテラはそのまま意識がゆっくり途切れていった。
最後の際に。青年の腕に青く輝く粒子が集まる光景を見た。気が、した。
きっと幻覚か見間違えだ。
TO BE CONTINUED...