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 どうしよう……?
 リュネスは奥歯を砕けそうなほど噛み締めながら、必死の形相で目の前の敵を睨み付け威嚇する。しかし、リーシェイが浴びせかけてくる威圧感はあまりにも圧倒的で、すぐに今にも逃げ出したい衝動に駆られてしまう。
 まともにやっても勝てない。
 それを知っているからこそ、リュネスは虎に食らいつく猫のような心境で己の闘争心を掻き立てる。そのなけなしの精神力が、どうにかその場にリュネスを踏み止まらせていた。
 恐れるな。怖がっているだけでは、何一つ得るものは無いばかりかただ失うだけだ。そんなの、嫌というほど味わってきたはず。
 戦わなければ。そのために自分は北斗に入ったはずだ。
 リュネスは思考を勝つための戦術の組み立てに切り替える。それは生来持った性格や意思の力どうこうではなく、訓練次第で誰でも習得出来る、一種の自己暗示的な技術だ。
 頭の中で、これまで何度も繰り返してきた実戦形式の訓練パターンを踏まえたシミュレーションを繰り返し、一体自分はどう動けばリーシェイに最も少ないリスクで勝てるのかを模索する。しかし、リーシェイと自分の力を比較すれば、圧倒的に自分が不利である事が嫌でも分かる。自分の目指す勝利の形は、リーシェイを無力化してこの場を離脱する事だ。だが無力化というのは単純に相手を倒すよりも困難な事だ。ただ倒すだけでも遥かに現実味が薄いというのに。この現実を前にして模索できる作戦など、到底現実味が薄い夢物語のようなものだ。
 しかし、たとえ夢物語でも果たさなくてはいけない。北斗は、この無政府国であるヨツンヘイムに治安都市の確立という偉業を成し得たのだ。逃げずに立ち向かうその姿勢を私は学び自らのものとしたはず。だからこそ、戦わねば。不可能を可能にする力、その足がかりはもう手の中にある。後は、踏み出す勇気一つ
 リュネスは一度大きく息を吸って吐くと、足を肩幅ほど広げて半身に構える。毅然と構えることで、さっきまであんなに萎縮していた気持ちが驚くほど静かに澄み切った。心なしか、今なら普段出来ないような事さえも成し得てしまう、そんな根拠のない自信さえも沸いてくる。
「ほう……」
 その毅然とした表情に、リーシェイは更に苛立だしさを増した冷笑を浮かべる。
「幾らファルティアさんの妹とはいえ、規律を乱すのなら容赦はしない」
「いい加減に目を覚まして下さい! もうこんな事はやめましょう!?」
「目を覚ますのはお前だ」
 いいえ、あなたの方です。
 そう、リュネスは口にしかけた。
 明らかに、リーシェイの言っている事はおかしい。自分はファルティアにとって妹同然のような存在ではあるけれど、本当の姉妹でもなければ、リーシェイがそれを知らないはずはない。
 やはりあの人に操られているんだ。そう、自らの推測をより正しいものだと確信する。
 リーシェイの後ろで地響きのような重苦しいどよめきが走った。後から僅かに遅れてため息のような消沈が届く。
「フン……レジェイドの小せがれめ」
 その音を聞くなり、リーシェイは更に苛立った表情で奥歯を噛んだ。苛立ちは周囲が急激に肌寒くなるという形で現れる。
「お前は誘き出す餌になってもらおうか。お前がいるならば、奴も迂闊な真似は出来まい」
 じろり、と射貫くような目で睨みつけるリーシェイ。その凍てついた視線を前に、リュネスは再びその場に立ちすくみそうになった。
 負けたら、自分は利用されてしまう。しかもよりによって、シャルトを窮地に貶めるために。
 絶対に負けられない。
 そうリュネスは思った。たとえシャルトを助ける事が出来ないとしても、足を引っ張る事だけはやりたくない。もしもそんな事になってしまったら、きっと自分を許せないし、シャルトにどう謝ればいいのか見当もつかない。
 ここから出来るだけ離れよう。リーシェイさんを引き付けながら。しかし、どうすれば。
 しばし考えた後、リュネスはある一つの考えを思いついた。
 リュネスは頭の中にイメージを描き体現化した。描いたイメージは、リーシェイと同じ術式の鋭い氷の針。
「ハッ!」
 その針をリーシェイに目掛けて放つ。しかしリーシェイは微動だにしなかった。針はすぐ顔の横をそれていく。はらり、と髪が数本、宙を舞い落ちる。リュネスがわざと掠めるように放ったからだ
「いちいち……勘に障る」
 リーシェイは舌打ちするのと同時に石畳を蹴った。そのまま猛然とリュネスに向かって突っ込んでくる。だがリュネスは少しも慌てる素振りを見せなかった。
 かかった!
 すぐさまリュネスも踵を返して走り出した。
 普段の三人を見る限り、誰もが安い挑発にもすぐに乗ってくる事をリュネスは覚えていた。もしもその性質が残っていれば。そんな考えでの行動だったが、リュネスにしては大胆なその行動はどうやら功を奏したようである。
 リーシェイは真っ直ぐ猛然とリュネスの後を追いかけてくる。リュネスはすぐさま路地の入り組んだ場所へ入り込むと、リーシェイに術式を使わせるタイミングを与えぬように細かく角を曲がる。
「お前はいつもいつも、そうやって私を小馬鹿にし続けてきたな! 術式の劣る私を見下しているんだろう!?」
 と、突然禍々しいほどの怒りに満ちた罵声を背後からリーシェイに浴びせかけられた。
 これほど語気を荒げ感情を露にするリーシェイをリュネスは初めて見た。しかし、またも言っている内容の辻褄が合っていない。これまでリュネスはただの一度もそんなことを思ったことも口にしたこともなければ、そう誤解される素振りも見せた覚えがない。第一、リーシェイは不満があれば必ず口にするタイプだ。延々と自分の中に鬱屈させるような事はしない。
 記憶違いと呼ぶにしてもあまりに傾倒が酷い。どこか人知がかった、意図的な感がある。
 そうか、もしかして記憶を……。
 記憶そのものを改竄されたのか、偽りの記憶を植え付けられたのか。これならばリーシェイだけでなく一連の不可解な現象も説明づくが、どちらにせよ人のなせる業ではない。
 ただ一つ、人間の範疇を逸脱したあの流派を除いては。
 まさか、あの人と浄禍は手を結んでいるのだろうか? ハッとリュネスは息を飲み思った。
 そんなことがあるはずがない。浄禍は神の教えに従順する敬虔な人達だ。反逆なんて行為に手を貸すはずがない。
 だったらどうやってこの状況を説明づける? 浄禍の神業のような術式以外に、人間の記憶を操作する方法なんてあるのだろうか?
 絶対に無い、という保障も、ましてやそれをあの人が持っていないという保障も無い。
 そもそも浄禍が味方ならば、とっくに反乱軍を鎮圧してしまっているはず。それがこうも順調に進んでいるという事は、浄禍はやはり敵の軍門に下っているとしか思えない。浄禍が正面から戦いを挑んで負けるような事は、たとえ天地が引っくり返ったとしても有り得ない事なのだから。
 自分の中で意見が対立する。
 とにかく、今は考えていても仕方がない。リュネスはひとまずリーシェイをどうかわして切り抜けるのか、それだけに集中する。
 足の速さは、初速こそリュネスが勝っているものの、やはり歩幅の差からか加速した時は圧倒的にリーシェイの方が速い。それをカバーするため、リュネスは何度も執拗に曲がり角を曲がった。術式を使わせる暇を与えない意味もあるが、同時にリーシェイに十分な加速をさせない効果も得られる。更に、リーシェイは飛び抜けた身長の分、切り返す時の負担が小柄なリュネスに比べ圧倒的に大きいそのため余計なスタミナを使わせる事も出来るのだ。
 とは言え、所詮は小細工にしか過ぎない。そうそう長く続くとは思えない以上、やはり直接対決はどうしても避けられない。どこで切り出すのか、それが重要になってくる。
「いつまで逃げているつもりだ! 私からは逃げられんぞ!」
 背後から聞こえる、リーシェイの苛立った声。同時に、術式を体現化する気配を感じた。
 遂に焦れてきたのか。
 リーシェイの術式は氷の針による射撃がメインスタイルだ。正確無比で貫通力にも優れており、半端な障壁では太刀打ち出来ない。それを背後から受けるのは一見するとあまりに不利な状況に思えるのだが、リュネスには考えがあった。
 幾ら正確で貫通力に優れようとも、術式そのものは直線的な動きしかしない。軸を僅かにずらすだけで針は当たらないのだ。後は撃つタイミングさえ把握出来れば、撃たれるのと同時に左右どちらかに曲がればいい。咄嗟に狙いを定め直したとしても、命中精度は遥かに下がるはずだ。
「少々痛い目を見てもらおうか」
 リーシェイが射撃態勢に入った事を、その刺す様な殺気で背中が感じ取る。
 来た……!
 頭の中に自然と射撃のモーションがコマ送りで描かれる。イメージのリーシェイと、背後のリーシェイの息遣いが完全に同期する。ゆっくりと針を構えた右腕が上へと振り上げられる。下手で針を撃ちにかかっているようだ。針のリリースポイントは上手で投げる時よりも僅かに遅い。その刹那のタイミングすらも正確に見切らなければいけない。
 針がリーシェイの手を離れた。すかさずリュネスは柔軟に足首を捻り、体の向きを変え路地へ直角に曲がった。バランスを崩さず、実にシャープな方向転換だ。正にリーシェイが針を放った瞬間と同時に、延長線上から姿を消している。
 しかし。
「痛……ッ!?」
 次の瞬間、リュネスの右肩を鋭い痛みが襲った。
 あまりの予想外の出来事にリュネスは、何とか走り続けようとするもバランスを崩して転倒してしまう。転倒の衝撃が右肩の痛みを更に増幅させ、頭を鈍く痺れさせる。
 一体何が起こったのか。
 右肩を見ると、そこには一本の氷の針が裏側から表側に向けて貫通していた。針が鋭いせいか、それほど顕著な出血は見られないものの針が肩の骨の密接しているらしく、頭の奥まで響くような鈍く重い痛みが間断なく湧き上がってくる。
 撃たれた!? そんな、どうして……。
「逃げられないと言ったはずだ」
 遅れて、リーシェイがゆっくりと角を曲がってくる。リュネスが立ち上がれないせいか、走ろうとする素振りは見せていない。
 自分は確かに軸を外したはず。その証拠に今、リーシェイは角を曲がってきた。直線的な動きしか出来ない針がどうして突き刺さっているのか、理解が及ばない。
「曲がっただけで逃げられるとでも思ったか?」
 そう嘲るように吐き捨て、リーシェイは右手に一本の針を体現化してみせる。その針を徐に足元へ落とした。針は真っ直ぐ一直線に石畳へ向かっていく。あの鋭い針だ、石畳の上に突き刺さるだろう。そうリュネスは思った。だが驚く事に、針先が石畳の上に触れた瞬間、針はぐにゃりと曲がると驚くほどの柔軟さで方向転換をし、元来た道を寸分の狂いも無く辿っていくと真っ直ぐリーシェイの手の中に戻ってしまった。
 頭目にも匹敵するリーシェイの実力を、自分は侮っていた。
 リュネスは悔しげに奥歯を噛んだ。
 リーシェイの針はただ鋭く突き刺さるだけのものではなかった。その性質は自由自在に変化させる事が出来、バネのような柔軟さを与えれば壁や床を反射させるような芸当も可能だったのだ。
 初めから、自分が曲がる事なんて見破られていたのだろう。初めから真っ直ぐ投げるつもりもなく、曲がった先へ反射させて当てようと、そう考えていたのだろう。
「くっ、こんな所で……!」
 リュネスは劈くような肩の痛みを気持ち一つで押し殺し、なんとか左腕で石畳を突っ張って立ち上がろうとする。今、ここで負ける訳にはいかないのだ。このままでは自分はいいように利用されてしまう。
「往生際が悪い」
 だが、その背中をリーシェイは上から踏みつけた。強い力で押さえつけられ、リュネスはもはや身動き一つ取れなくなってしまう。まるでピンで留められた虫の様だ。
「勘違いするな。お前など、殺そうが殺すまいが大差はない。邪魔者は消す。重要なのはそれだけだ」
 ならばどうしてこんな事を!
 そう叫ぼうとした瞬間、
「っ!?」
 石畳の上にうつ伏せになっているリュネスの顔のすぐ隣に、鋭い氷の針が突き刺さった。目と鼻ほどの距離しか離れていないが、その針は今しがた受けた針よりもずっと大きく太い。もしも突き刺さりでもしたら、痛いどころでは済まないだろう。
「このまま針を何度も突き刺す。だが、必ずしも外すとは限らない。いつかはお前の頭を撃ち抜くだろう。そうなりたくなければ、助けを呼べ」
「嫌です、絶対に!」
「その強がりがいつまで続くか、見物だな」
 再び、今度はすぐ目の傍に針が突き刺さった。
 絶対に従うものか。声の一つだってあげてやらない。
 リュネスはぎゅっと目を閉じて身を強張らせる。
 次から次へと、顔の周辺に針が遠慮なく撃ち込まれていく。その一撃一撃が石畳を撃つ乾いた音が嫌でも耳に聞こえてくる。怖くは無い、と言えば嘘になる。いつ、頭を撃ち抜かれるのか、リーシェイが正気ではない以上、分からないのだ。
 シャルトを呼べば、自分は助かるだろうがシャルトが死んでしまう。いや、そもそも自分だって助かる保証は無い。とにかく、自分のせいでこんな事に巻き込みたくは無い。ましてやシャルトをわざわざ危険に晒すなんて、絶対に良心は許さない。
 気を張り詰めさせておけば、恐怖心が湧いても絶対に負けはしない。
 そうリュネスは信じていた。しかし、次第に針の突き刺さる位置が近づき頬や耳を掠るようになると、恐怖は一気に膨れ上がっていった。
 少しずつ、黒い獣のような恐怖がちっぽけな自分の理性を飲み込んでいく。そのたびに自分勝手な譲歩が幾つも生まれ、やがて最初にあれほど強固に確立していたはずの自分の主張は揺らぎ、そして頬を掠めた一撃をきっかけに完全に崩壊してしまった。
「シャルトさん!」
 気がつくと、そう声の限り叫んでしまっていた。
 リュネスが我に帰ったのは叫んでしまった後だった。幾ら恐怖に負けてしまったとはいえ、こんな事をしてしまうなんて。深い呵責の念がリュネスを責め立てる。
 情けなさのあまり、リュネスは思わず泣きそうになってしまった。嗚咽こそ堪えるものの、目に浮かんだ涙まではどうにも出来ない。
 その涙ぐんだ目で歯を食いしばり精一杯リーシェイを睨みつける。しかしリーシェイはまるで無表情のまま、リュネスの頭を上から強く踏みつけた。不意に受けた強い衝撃に、ぷつりと糸が切れるようなあっけなさでリュネスの意識は途切れた。



TO BE CONTINUED...