BACK

 幸福とは、熱いお湯に似ている。そこに浸かって、体が溶けそうになるから。
 ふんわりと柔らかい羽毛にも似ている。いつも後ろから包み込まれている気がするから。
 吹き荒ぶ風にも似ている。背中を風が押して、前へ前へと走らせてくれるから。
 優しい春の木漏れ日にも似ている。ほんのりと、冷えた体を優しく温めてくれるから。
 背中に生えた大きな翼にも似ている。どこまでも飛んで行けそうなほど、怖いものがなくなるから。

 もう、そうある事が当たり前過ぎて、それしか考えられなかった。
 幸福とは、麻薬にも似ている。
 それがなくては、もう生きられないと思うから。




 ごーん、と重苦しい音が鳴り響く。
「あら、もうこんな時間」
 夕刻。台所で夕食の準備をしていたルテラは、聞こえてきた北斗の中央に建立された大時計台の鐘の音にふと顔を上げる。
 昨夜遅く、スファイルは守星の仕事である市街の遊回に出かけていった。守星は基本的に勤務時間が一定しておらず、朝出かけて夜に帰ってくる事もあれば、夜に出かけそのまま宵っ張りで翌日の夕刻まで勤める事もある。北斗は無政府国のヨツンヘイムで唯一の治安を保たれた街だが、それだけに常に外部からの敵の襲撃という危険に晒されている。守星は常時そういった敵襲から北斗を守るために遊回している役職だ。北斗防衛体制の最も重要な部分であり、また最も高い名誉を謳われる役職でもある。
 スファイルの帰宅はもうすぐだ。
 ルテラは料理の続きを急いだ。出掛けに、夕方の鐘が鳴ったら一目散に戻る、と言っていたから、今頃は凄まじい勢いでこちらに向かって来ている事だろう。帰宅を急ぐあまり仕事そのものがおろそかにならないか心配ではあるが、そこまでして自分の元へ帰って来てくれるのも悪い気分ではない。
 いや、そもそも。組織同士の存亡を賭けた決闘を利用してまでアプローチをかけてくるあの神経。さすがにやり過ぎという感もあるが、自分の進退問題になるかもしれないという危険性も顧みなかったスファイルの姿勢には大きな感銘を受ける。それほどまで男性に愛されるのは、正直言ってこれ以上にない喜びだ。その頃は既に自分の中にスファイルに対する好意が少なからずあったから、多少なりともひいき目になっていなかったとは言い切れない。けれど、他の何物にも目をくれないかのような彼の想いは実にストレートに自分へ飛び込み、疑いや不安を抱く暇すらないほどの幸福で満たしてくれる。
 彼は、表では明るくて何かと仕切りたがる人間だけれど、二人っきりになるとやけに子供のように甘えて来る事がある。昨夜にしても、送り出すまで何度キスを交わした事か。まるでどこか遠くに長い間出かけて離れ離れになるかのような、そんな物悲しい雰囲気だった。そしてそれに長々とベタベタしながら付き合う自分も自分なのだが。事あるごとにそういちゃつくのも、本当の事を言えば嫌いではない。表ではさすがに人の目があるから互いに表立った行動には移らないが、逆に人目のない所では思う存分に何の躊躇いもなく気持ちをぶつけあえる。
 と。
 ルテラは自分が昨夜のことの回想にのめり込むあまり、ボーッと表情を緩ませたまま手の動きを止めてしまっている事に気づく。我に帰ったルテラはすぐさまその濃密かつ恥ずかしい記憶をどこかへ追いやり、調理の続きを始める。最中はさほどでなくとも、こうして一人冷静な気持ちで考えてみると随分恥ずかしい事を重ねているのだな、と痛感してしまう。今はこうして自己嫌悪にも似た恥ずかしさにいたたまれなくなり、それらを恥の記憶として頭の外に追いやってしまうのだが、スファイルが帰ってくればまたすぐに新しい記憶を作り出してしまう。毎日、そんなサイクルを続けている。そして、何度も繰り返す事に何故か『幸せ』という言葉を自然に当てはめてもいる。
 浮かれている。
 ルテラはここ最近の自分を振り返り、そう思った。地面に足がついておらず、むやみやたらにスファイルとの一次的接触を求める。必要以上に肌を触れ合わせたり、まるで意味のない言葉の羅列を並べて笑い合ったり、そんな事がどうしてか楽しくて仕方なかった。
 こういった自分の姿を恥ずかしいとは思ったが、否定はしなかった。これはこれで自分の姿なのだ。それに、人間はみんな誰かのぬくもりを求めたがる。私にはその対象があるのだ。だからこうしていて当然なのである。
 コツ、コツ、コツ。
 その時。
 不意にドアの外の更に先から、ゆっくりと登る足音が聞こえてくる。それは音として認識するにはあまりに小さ過ぎたが、ルテラは雪乱に在籍していた頃から鋭い感覚を持っていたため、特に警戒をしなくともこれぐらいの気配や物音は日常に散乱する雑音として、極当たり前に聞きつけるのだ。
 ルテラは初めスファイルの足音かと思った。しかし、よく聞いてみれば全く別人の音である事に気がついた。愛しい人とそうでない人の足音ぐらいは簡単に聞き分けがつく。それに、もしもスファイルだったならば帰宅を切に急いでいるから、決してこんな落ち着いた足取りをしているはずがない。
 そして。
 足音はゆっくり部屋の前で止まると、コンコンとやや控えめにドアをノックしてきた。
 ルテラは再び調理を中断すると、すぐさまドアの方へ駆けていく。
「こんにちは。こんな時間に申し訳ありません」
 開いたドアの向こう側からは、落ち着き払った非常に物腰の優雅で気品すら感じる態度で一礼したエスタシアが現れた。エスタシアはスファイルとは血の繋がった兄弟であり、ルテラもまた以前に一度スファイルから紹介を受けていた。世間の評判はスファイルと百八十度違う、神童とも謳われた絵に描いたような優等生である。そのぐらいの認識は以前から風聞を通して持っていたが、いざ本人を目の前にすると、確かに誇大広告の類ではなく本当に神童と謳われるに相応しそうな人物であるとルテラは思った。同じ兄弟にしては、随分と違うものだ。容姿には幾つかの類似点が見られるものの、中身はおおよそ共通点のない全くの別人である。
「あら、エス。こんにちは。今からお帰り?」
「ええ。ようやく仕事も目処が付き、人心地ついている所です。ところで、兄さんはいますでしょうか?」
「いえ、まだ帰ってきていないわ。でも鐘が鳴ったらすぐに帰ってくると言っていたから、もうそろそろ戻るわ。それまで中で待ってて」
 ルテラはドアを大きく開けてエスタシアを中に迎え入れようとする。しかし、エスタシアはすぐに手のひらを見せてそれを断った。
「大した用事ではありませんから。僕はこれで失礼させていただきますよ。それに、お二人のお邪魔になりますから」
 そう、最後に彼にしては珍しい冗談めいた言葉を付け加えて、エスタシアは一礼した後にその場を後にした。別に少しぐらいなら構いはしないのだけれど。ルテラは少し肩をすくめながら、そんなエスタシアの背中を見送った。
 さて、今度こそ料理の続きに取り掛からなくては。
 ルテラはドアを閉めると、早速台所に戻って調理を再開する。
 今頃あの人はどうしているのだろうか?
 そんな事を考えながら、ルテラはより力を込めて食事の仕度に勤しんだ。
 正直、どうして彼が守星になったのか、その理由が分からなかった。良く考えてみれば、ただ生活していくだけならば他にも仕事は幾つでもあったはずだ。それに幾ら規則的な緩さがあるとは言え、基本的に守星の仕事は不規則な時間帯で行なわれる。幾度か入れ違いになった日さえあった。別れる時を酷く名残惜しむ彼にしてみれば、守星となったのは今更ながら不思議な選択だ。
 どうしても、彼の考える事は分からない。とは言え、彼の考えている事を全て理解する必要はない。ただ一つ、彼の気持ちだけを信じていればいいのだ。彼もまた自分の気持ちを信じてくれる。こうして互いの信頼で育まれる幸せ。ルテラはそれさえあれば良かった。



TO BE CONTINUED...