BACK
あ……。
自分でも、声を出したのかどうか分からないほど掠れていた。
ひしゃげた首で笑う男の手刀は深々とゾラスの胸に突き刺さっている。おおよそだが、心臓の位置だ。
時間が止まってしまったかのように硬直する二人。だが、俺が詰まっていた息をようやく吐き出した直後、積み上げた積み木が崩れ落ちるように、二人は互いに反対の方向へ倒れた。
俺は再びゾラスの元へ向かって走った。
思考は完全に止まっている。何をしようとかそんな事などとても考えられなくて、ただ彼がどうなってしまったのかそれだけが頭の中に漠然とあった。呼吸する事も忘れ、けれど窒息感だけははっきりと喉を締め付けている。
「ゾラスッ!」
地面に四肢を放り出して横たわるゾラスの元に屈み込み、力の限りの声で呼びかけた。
ゾラスはそっと目を閉じたまま、苦しそうに不規則で激しい息をしている。流派『修羅』の真っ黒な制服は、皮材の持つ光沢とは違う鈍い光を放っている。胸の中心には手のひらほどの穴が開いており、その鈍い光沢はそこから流れ出ている。それが光を放っているのではなく、皮の上を流れる事で光沢を歪めているのだ。
潰された左目からは、まるで涙のように血を流している。残った右目も役目を終えたかのように閉じたままだ。
俺の呼びかけに、ゾラスはさも重たそうに瞼を持ち上げた。
目に力が無い。
焦点を定めるだけでも難しそうで、ゾラスは酷く衰弱している。ついさっきまでは、あんなに凄まじい戦いを展開していたというのに。まるで別人のような弱々しさだ。口元を濡らす血を拭こうともしない。そんな力も残っていないのだ。
長い時間をかけて、ようやくゾラスは俺の顔を見る。
そして、何故か微笑んだ。
何で笑うんだ……?
こんなに酷い怪我をしてぼろぼろになって、どうして笑っていられるんだろう? そんな要素なんて何一つ無いじゃないか。それとも、ようやく気持ちを晴らす事が出来たから、それで笑っていられるんだろうか?
すると、ゾラスはそっと唇を震わせながらようやく聞き取れそうなほどの小さな声で話しかけてきた。
「君は素直な良い子だ……だから、決して私のようにはなるな……」
今にも消えてしまいそうなほどの弱々しい笑み。
元のゾラスが帰ってきた。
けれど、今のゾラスはあまりに変わり果ててしまった。
あんなに苦しい思いをしてまで目的を果たしたはずなのに。
だからもっと晴れやかな表情をしてもいいはずなのに。
とても振り払うことが出来ないほど、どこか悲しそうだった。
ゾラスは多分、自分のしている事の空しさには気づいているのかもしれない。
それでも晴らせない気持ちはある。だからこんな……。
突然、ゾラスは糸が切れたかのように目を閉じ、同時に首からがくりと力が抜ける。
出血が酷い。ただでさえ受けたダメージも大きいし体力も消耗しているのだ。このままでは危険なのは目に見えて明らかだ。
死なせてなるものか。
「しっかり!」
俺はゾラスの体を無理やり持ち上げ自分の背中に背負った。
だらりとゾラスの両腕が目の前に垂れて来る。一片たりとも自らの力で支えられていない。
出来るだけ高くゾラスの体を背負ったのだけれど、圧倒的に背丈が合わず、どうしてもゾラスの足が地面から離れない。これでは足はほとんど引き摺ってしまう事になる。でも、かといってこのぐらいのことでぐずぐずなんてしてられない。
早く病院へ。
ゾラスの怪我は素人目にも軽いものでは無い事が分かるほど酷い。けれど北斗にある病院は、日常的に戦闘が起こっているためか重傷患者も治してしまうほど優秀だ。三日間も意識不明に陥っていながらも回復した例だってある。それを考えると、まだ決して手遅れではない。
「急ごう」
その時、ヒュ=レイカがするりと俺の隣に滑り込んでくると、ゾラスの肩を預かり半分負担してくれた。そして俺の意図を既に理解してくれているらしく、自ら先導を始めた。
恥ずかしい事に、俺は未だに北斗の街は道に迷う。道路は画一化されているため、ある程度の方角さえ分かっていればなんとか目的地に辿り着くのだけれど。俺はいつも左右が分からなくなって迷ってしまう。特に焦っている時ほど迂闊に方角を間違えやすい。そう、たとえばこんな時に。
ヒュ=レイカと共にゾラスの体を背負いながら、可能な限りの速さで俺は走った。ずしりとのしかかるゾラスの体はまるで人形のようでピクリともしない。その上、見る見る内に体温が下がっていくのが感じられる。
急がないと。
速く。
傍らのヒュ=レイカは顔にびっしょりと汗の粒を浮かべ、はあはあと息を切らせている。こんなに余裕の無いヒュ=レイカを見るのは多分初めての事だ。ヒュ=レイカは俺みたいに筋力がある訳じゃないし、足の速さも違う。それでも何とか俺に合わせようと頑張ってくれている。普段はいちいち人を苛立たせて喜んでいるけど、本当はいいやつなんだ。そう俺は思った。
やがて繁華街に差し掛かると、人々は一斉に奇異の視線をこちらへ向けてきた。
二人がかりで血まみれの男を運んでいるのだ。目立つのは無理も無い。けれど、誰一人として近づいてくる人もいなかった。あるのは興味だけで、状況を見ただけでも死にそうな人を病院へ連れて行こうとしているのは分かっているはずなのに、その上で傍観者を決め込んでいるのだ。
いちいちそんな事を気に留める余裕など、今の俺には無かった。
少しでも速く病院へゾラスを運び、医師の適切な処置を受けさせたい。
背中の上で感じられるゾラスの生気がどんどん薄れていく。それが不安となって強く俺の胸を締め付けてくる。
見えた!
そして、ようやく闇夜の中に病院の外観が見えてきた。
普通、急患は専用の出入り口から運ぶものなのだけど。俺はそこまで考えが回らず、一番最初に目に付いた正面玄関へ飛び込んだ。
「誰か早く! 死にそうなんだ!」
俺は無我夢中で叫んだ。
病院は一般の診療時間を終えており、ロビーの中は閑散としている。それだけに俺の声は隅々まで響き渡り、そして僅かにいる人達の視線を集めた。
「早く! このままじゃ死んでしまう!」
死なせたくない。
激情にも似た強い気持ちが俺に声を振り絞らせる。
このまま死なせるのはあまりに可哀想だ。人である以上、死は絶対に回避する事が出来ない。だからせめて、もっと幸せな最後を迎えて欲しいのだ。それは自分が好きな人だったら尚更だ。
やがて、奥の方から一人の白衣の医師が血相を変えて駆けつけてきた。そして俺達を見るなり、更に表情を強張らせる。床を濡らす大量の出血を見たため、反射的に状況を冷静に把握しようとしているのだ。
「まずはここに」
医師は真剣な表情でゾラスを床にそっと寝かせるよう指示した。俺はその指示に従ってゾラスを横たわらせる。
首に下げていた聴診器をかけ、何度か位置を変えながらゾラスの容態を確かめる。瞼を指で開き、口を開けさせて舌を調べ、最後に脈を見る。俺は祈るような心境でその一連を見守っていた。
頼む、助かってくれ。
死なないでくれ。
お願いだから……!
手をぎゅっと握り締め理性が緊張感に負けぬようじっと堪える。額からは冷たい汗が幾筋か頬へ伝い落ちてくる。頭の中に浮かぶ全ての否定的な考えを振り払い、俺は何に祈っているのかも分からずゾラスの無事を祈り続けた。
長い静寂が続く。
辺りにいるのは、俺とヒュ=レイカと床に横たわるゾラス、そのゾラスを診察する医師、ロビーに初めからいた数人の一般人、そして、遅れて駆けつけてきた他の医師や看護婦。
みんなが一様に押し黙ったままゾラスを見ている。ある者は迷惑そうに、ある者は珍しそうに、ある者は淡々と瑣末ごとを見るかのように。
そして、沈黙を破ったのは重苦しい溜息だった。
頭を上げた医師は俺の方を見ると、目を伏せそっと首を横に振った。
手遅れだ。
そういう意味だ。
「うわあああああああああっ!」
次の瞬間、思わずその場にへたり込んでしまった俺は、叫びながら床に拳を打ちつけた。
どうしていいのか分からなかった。
気がつくと咽び泣きながら何度も何度も弱々しく床を叩きゾラスを呼んでいた。
後から後から涙が流れてくる。悲しくて、そして悔しかった。
結局、俺はどうする事も出来なかった。ただ、ゾラスの傍でふらふらしていただけで。
許せないやら情けないやら、本当に頭の中が真っ白になってどうしようもなかった。
「シャルト君……」
そっと、後ろからヒュ=レイカが肩に手を置いた。
それでも涙を止める事は出来なかった。自分でもこれほど激しく泣くなんて思っても見なかった。息も出来なくなるほど、人の目も憚らず泣きじゃくって。まるで子供みたいだ。そう思った。
どうして俺はこんなに弱いんだろう?
自分が思う事、望む事なんて何一つ叶えられやしない。
俺の力はなんのための力だ?
ただ、その場その場の小さな意地を貫くためだけのものなのか?
幾ら大義名分抱えたって、実質的な力が伴わなくちゃ何にも出来ない。俺みたいに、もしもこうだったら、って後悔ばっかりする事になる。
どうして俺は何一つ自分じゃ出来ないんだろう?
気がつくと俺は、自分はゾラスが間に合わなかった事で泣いているのか、それとも自分が情けなくて泣いているのか分からなかった。
床には幾つも涙の溜まりが浮かんでいる。
最後に、俺はそこへ向かって拳を叩き付けた。
TO BE CONTINUED...