BACK
レジェイドが階段の向こうへ消えてから間もなく。
案内をし終わったのだろうか、先ほどの従者が階段から降りてきた。
「こちらへどうぞ」
その人は階段の脇に伸びる、やや天井の低い薄暗い廊下に僕達を促した。先立つ従者の後を僕達は遅れずにぴったりとついていく。けれど、レジェイドは一向に階段から降りてくる気配はなかった。多分、まだ大事なことで話し込んでいるのかもしれない。
その廊下は今まで歩いていた赤い絨毯が敷かれてなく、これまでの豪奢な雰囲気が一変してどこか陰気に思えた。そうこうしている内に、下へと続く階段に差し掛かった。どうやらこの廊下は地下室へと続くようだ。
ぐるぐると回りながら降りていく螺旋階段。下れば下るほど足元が暗がりに包まれ、壁に埋め込まれた輝石の灯火が強く映える。
―――と。
その時、ふと僕は少し昔の事を思い出した。あれは地下室ではなく塔だったけれど、僕が入れられていた所は窓がほとんどなくて朝も夜も分からないほど薄暗かった。階の移動に使った階段も丁度こんな感じで、なんだかとても良く状況が似ている。そう思った瞬間、背筋に痺れるような不快感と足の先から頭の天辺まで悪寒が込み上げてきた。それを合図に額の奥から激しい頭痛が起こり始め、胸の奥が焼け付くようなざわつきに苛まれ始める。
咄嗟にざわめきが破裂しないように理性で繋ぎ止める。それは丁度、湯が湧き上がり蒸気で押し上げられた蓋を上から強引に押さえつけるのに似ている。けど、感情が噴火しようと突き上げてくる勢いの方が強く、僕の些細な理性はすぐに振り切られてしまう。心臓は爆発しそうなほど鼓動を早め、呼吸も著しく乱れ激しくなっていく。
駄目だ……!
僕はすかさずベルトに通した小さなバックパックに手を伸ばし、中から錠剤を一つまみ取り出す。それを無我夢中で口の中に放り込み、急いで噛み砕いた。強い苦味が口の中全体に染み渡り舌の上を痺れさせる。途端、焼き切れそうになっていた僕の頭の中に驚くほど冷たいものが差し込んできて、嘘のように感情の膨張を収まらせる。高鳴っていた鼓動もゆっくりと静まっていき、呼吸も普段のリズムを取り戻す。
今飲んだ薬は、僕は今も定期的に病院に行って診察を受けるのだけど、その時に貰う強い精神安定剤だ。僕はかつて麻薬を常用させられていたため、精神が不安定になって錯乱しやすかった。今はもう禁断症状も無く正常そのものなのだけど、ふとしたきっかけで常用当時と同じ錯乱を起こしてしまう発作を抱えている。それは『フラッシュバック現象』と呼ばれる症例だそうだ。特に依存性の高い麻薬を長く常用していると、禁断症状が治まってもそういった錯乱状態に陥る事がよくあるそうである。僕の飲んでいる精神安定剤は、その症状を緩和させるためのものだ。ただこの薬は効果が強過ぎて、いつも飲んだ後は頭が重くなり眠気のようなものに苛まれる。少なくともあまり体に良さそうな薬とは思えない。
急激に落ち着いたため、若干の肌寒さを感じながら頭痛を堪えて階段を下りる。少し眠気に目蓋が押されてきた。僕は気を張り詰めさせて意識をクリアに保つ。しばらくすればこれも収まる。飲み始めてから随分経つからもう慣れてるし、それまでの辛抱だ。
深さにして、丁度一階分は下った頃、目の前に大きな観音開きの鉄製の扉が現れた。その無機質で冷たいフォルムが、再び僕にあの頃の記憶を蘇らせようとする。けれど嵐にも似たその衝動は薬の鎖に繋がれており、さっきのように錯乱する事はなかった。頭の中が凍ってしまったかのように冷たい。そんな違和感に僕は肩を僅かに震わせる。
従者の手によって鉄の扉がゆっくりと開く。見た目は重量感に満ちてはいるが、番いのところの可動が滑らかになっているのだろう、それほど力をかけなくても開いた。
「どうぞ」
そう従者は壁の隅に立つと僕達を中へと促す。
こんな所に連れてきてどうしようというのだろう? 不安になって振り返ってみたがそこにレジェイドの姿は無く、他の夜叉の隊員達が静かに佇んでいるだけだった。その中の一人が、とにかく行こう、という表情を返してくる。僕はそれに頷き、扉の中へと入っていった。
なんだろう……?
その部屋は物置とは思えない、少しいびつな地下室だった。周囲は石が敷き詰められたよくある建築方式だったが、正面側だけに鉄格子の檻のような扉が埋め込まれている。そして更に、地下室の壁には輝石や飾台は埋め込まれていないのに、何故か外のように明るい。光源を求めて上を見上げると、そこには石造りの天井は無く、一面がガラス張りになっていた。この光はここから注いできてるようだ。
「あ!」
続いて僕は声を上げた。
ガラス張りになった天井の更に上に居たのは、レジェイドともう一人知らない中年の男だった。透き通ったガラスの天井に立つレジェイドはまるで宙に浮いているようだ。レジェイドは珍しくあまり余裕の無い表情でこちらを見下ろしている。どこか面食らってるような表情だ。
「お前達が北斗か」
と、その時。
誰もいないと思っていたその地下室に、突然一人の男の声が響き渡った。密閉された狭い空間だから、普通の声も反響して良く響く。
すぐさま声の聞こえた方を見やると、地下室の丁度真ん中に一人の青年が仁王立ちしていた。これだけ堂々と立っていたというのに、どうして今まで気づかなかったのだろうか。
「俺はお前らと戦って実力差を証明するように命じられている。一人、前に出ろ。なんならまとめてでも構わない」
なんて自信なのだろうか、と僕は思った。北斗はヨツンヘイム最強の戦闘集団だというのに、それを前にして『まとめてかかって来い』だなんて。とても普通の感覚じゃない。相手が僕みたいな新人ならまだ分かるけれど。それとも、そんなにこの男は強いのだろうか?
どうしようか、と僕はさりげなく周囲に視線を巡らす。みんなはそれほど動揺も何もなく、ただただ目の前の男を静観している。多分、大した相手とは思っていないのだろう。今度は上に居るレジェイドに視線を送る。表情は落ち着きを取り戻している感じだ。みんなと同じ評定を下したんだと思う。
そんなみんなの気持ちが伝わったのだろうか、男は苛立だしげに舌打ちをする。そして徐に着ていた上着の中に手を入れた。
……あれは?
そこから取り出したのは、一匹の白い猫だった。どうして今、そんなものを出したのだろうか。理解に苦しい男の行動に僕は首を傾げる。ただ、首を無造作に掴み物のように使われているその子が可哀想だった。
「一つデモンストレーションをしよう。俺の強さを理解してもらうためにな」
男は後退ると、丁度背後に背負っていたあの鉄格子の前に立った。そして格子の一つを掴むと、そのまま力任せに上へ持ち上げる。
「出ろ」
男が鉄格子の開いた真っ黒な空間に向かってそう言う。すると、そこから黒い影がのそりとこちらへ出てきた。それは一匹の真っ白な虎だった。体は大きく、僕ぐらいなら背中に乗っても安々と走れそうなほどだ。
僕は虎は本でしか見た事がないけれど、時には人間をも襲ってしまうほど凶暴な猛獣だというのは知っている。ただ、虎は薄茶色の毛並みに黒いラインが入っていたはずだ。こんな真っ白な体毛の種類なんて僕は知らない。
虎は人の言葉を喋らないけれど、かなり気が立っているのが分かった。じろりと赤い目が僕達を睨みつけ、そしてゆっくりと男を見上げる。全ての殺気がその一点へ集中した。剥き出しの牙は鋭く、今にも喉に噛み付かんばかりだ。
「こいつは神獣、しかも四獣の一つだ。ここの主人はこういう珍しいものには惜しげも無く金を使って集める人間でな。世界でも数えるほどしかいないこいつだが、気軽に貸してくれたぜ」
神獣。
それは子供でも知っている、この世で最も強いとされる三つの種族の一つだ。一つはドラゴン、一つはヴァンパイア、そして神獣なのだけど、その神獣にもピンからキリまで優劣がある。さほど大した能力を持たないのもいれば、常識では考えられない力を持つものまでいる。そしてその後者に当たるのが四獣だ。
「俺がどれだけ強いのか、それを証明するにはうってつけの素材だろう?」
男はぶらりと子猫をぶらさげながら、ゆっくりと中央へと位置を戻す。
殺気だった神獣に堂々と背中を向けられるなんて。
初めこそは驚嘆の思いで見ていたけれど、ふと僕はある事に気がついた。男が手にしているその子猫、実は猫ではなく虎で、しかもあの神獣の子供なのかもしれない。いや、多分間違いはない。白い体毛なんか完全にそっくりなのだから。
となれば、つまりあの神獣は子供を人質に取られているから襲いたくても襲えないのかも。迂闊な行動に出れば、あんなに細い子猫の首ぐらい簡単に折られてしまう。
なんて卑劣なのだろう。
僕は怒りのあまり吐き気さえ覚えた。それは今の自分に親がいないからなのかもしれない。ただ、そういう親の気持ちを弄ぶやり方がどうしても許せなかったのだ。
感情的になってはいけない。
今にも爆発しそうな自分を必死で抑えつける。プロフェッショナルというのは感情的になって事を荒立ててはいけないのだ。常に冷静沈着になり、仕事を確実に達成しなくてはならない。極論を言えば、仕事をするだけの道具になるのだ。道具には自分の仕事に関係ない事を考える必要はない。だからここで私的な感情のままに動いてはいけないのだ。
じっと自分の感情を抑え、気持ちをそこから切り離す。けれど僕に両の拳は力の限り握り締められ、酷く汗ばんでいた。
「ほら、かかってこい。それとも、こいつからやっちまうか?」
そう言って、男は子猫をぶらぶらとかざして見せた。挑発的な表情と仕草。それはレジェイドがいつも僕にするのとは違い、酷く悪意に満ちている。
瞬間、息苦しくなるまでの殺気が周囲を包み込む。
神獣の赤い瞳がいっそう輝きを増した。
TO BE CONTINUED...