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突然倒れた少年の父は辛うじて一命だけは取り留めた。しかし、彼は二度と自分の足で立ち上がる事は出来なくなってしまった。
本来ならば悲しむべき事なのだが。少年は心からそれを喜んだ。これで、もう二度と自分は父親に辛い稽古を強いられる事は無い。起き上がれない以上、剣すら持てないのだ。あの不愉快な言葉の数々も、ベッドの上からではただのぼやきにしか聞こえてこない。無視をするにしても、何の苦労も必要としない。
少年は、ようやく自らが解放された事を実感した。あの終わりの無い無限地獄。これから自分はあの男に何一つ強要される事は無い。そう考えると、幾ら自分の親と言えども心浮かれずにはいられなかった。それがどれだけ不謹慎であるか、人間性に反することであるのか、少年は知らない訳ではなかった。けれど、本音で語ればあの男を自分の父親だと思った事はただの一度も無く、むしろ自分にとっては害を成す障害の一つとしか考えていなかった。そんな人間が二度と起き上がれない体になろうとも、少年には何も感ずるものはなかったのだ。
そして、唐突に開放感を得た少年は、どこか拍子抜けをしたような気分を日々の中に感ずるようになった。今までの自分の生活がどれだけ周囲に目を向ける余裕が無く平穏と縁薄かったのか、改めて思い知らされる瞬間だった。あの男がいなくなった事で、日々自分に架せられていた枷がどれほど重いものだったのかをまざまざと見せ付けられる。この持て余すほどの余裕がありありと示している。
少年はいつの間にか、父親に痛めつけられるような稽古を受ける事が日常の一つとなっていた。それは単純な嗜好の問題ではなく、少年にとっての日常の秩序がどういった要素で構成されているのか、という事だ。良くも悪くも父親に痛めつけられるそれは少年の日常の一部であり、それが突如喪失してしまった事で亀裂を生じた秩序が、少年にこのような物足りなさを感じさせていた。
これで良かったのだろうか?
父親と距離を置く事で、少年には父親やその稽古についてゆっくり考える時間が与えられた。何故、父は自分にこんな試練を強いるのか。後継者とは、それほど厳正な選別が必要なのか。緩やかにではあるが平和に近づき軍縮の進むこの国で、軍人貴族であり続ける事にどれほどの意味があるというのか。
それは少年の未熟な視点からではいつまで悩み続けても到底答えなど出そうにない、むしろ誰か詳しい者、まさに当人である『父親』に訊ねなければいつまで経っても見つかるはずのない答えだった。少年の抱く疑問は、そのまま理不尽な稽古を強いてきた父親に向けられたものだ。そしてその答えは父親しか持ち合わせていないものだ。
少年は『このまま考え続けても答えは見つかりそうも無い』というところまで辿り付いた。父親に訊ねてみよう、と何度か考えた事もあった。しかし、最後の一歩は決して踏み出すことは無かった。父親の事を客観的に冷静な目で見る事が出来るようになってはいたけれど、それら全てを受け入れる気持ちには到底なれなかったのだ。所詮、父親のエゴだ。子供が親のエゴを甘受する理由などあるはずがない。子供は親の所有物ではないのだから。
父親が倒れてからしばらくが経過した。容態は全く快方の兆しを見せず、親類間ではまことしやかに時期頭首の後継問題が話されるようになった。これまでの経緯を考えれば、次の頭首はほぼ間違いなく少年が選ばれる。少年がある程度の年齢に達するまでは管財人が必要となるだろうが、それも数年もかからないかもしれない。
自らの将来を左右するような重要な問題が取り沙汰されている中、少年は蚊帳の外で一人物を考えていた。
ある時、少年はふと一人模擬剣を手に取った。
しばらくの間手にしていなかったため、手のひらに幾つも出来ていたはず潰れた肉刺はすっかり消え去っている。残っているのは、体中に微かに見える無数の痣だけだ。その手で、これまで一度たりとも自分の意思で手にした事の無かった模擬剣。何の手入れもした事が無かったため、所々に赤茶けた錆が見つけられた。
自分でもどうしてこんな気になったのか分からなかった。剣なんて、絶対に持ちたくは無かったはずなのに。いつもこの重量感と鉄臭さを感じるたびに憂鬱な気分に苛まれる。また今日もあの地獄が始まる。今日こそ自分は死んでしまうかもしれない。そんな強迫観念になんとか立ち向かって来た毎日。それはもう、父親が再起不能となってしまった事で開放されたはず。もう二度と剣なんて持たなくても良いというのに。何故、剣を持たない事に物足りなさを感じるのだろうか。
少年がそんな自問を繰り返していた頃、事態は更に複雑な方へと発展していった。
現在、頭首が自分の意思もろくに伝えられぬ状態になっている以上、主権は妻、すなわち少年の腹違いの兄となる三人のそれぞれの母親が握っていた。彼女らは当然、時期頭首の最有力視されている少年の存在が気に食わない。最終的に誰を頭首にするかは一旦置いておき、まずは少年をどうにかしようという考えが一致、いよいよ本格的に乗り出した。
一度は失敗した、少年の暗殺。あれから随分と年月が経っている。やるなら今しかない。
では、どんな手段を用いようか。毒殺は前に試みて失敗している、同じ手を二度使うのは世間体的にも危険だ。ならば、強盗か何かに襲わせ殺してしまう事にしよう。そのために最も重要なのは、そうなっても誰も計画性に気づかない、不自然の無い状況を作り出すことだ。
裏でそんな画策が練られているとも知らず、少年は時折模擬剣を手にし、気が向けば気晴らしに軽く素振りなどをしていた。ただ、ルテラが遊んで欲しそうな時は必ずそちらを優先させていた。今までは有り得なかった、というよりも父親が許さなかった事だった。
遊ぶ時間があるならば自らを鍛えろ。
これから自身の力で切り開いていかなければならないこの先、鈍った剣如きで切り開いたものなどたかが知れる。父親によくそう言われていた事を思い出す。
事実、父親はこうして貴族の称号までをも手に入れた。世間一般からして見れば、間違いなく成功者としての部類に入るだろう。ならば自分もその教えに従い、己を研ぎ澄まして比肩出来るほどの成功を収めるべきなのだろうか?
いや、必ずしも成功と幸福とが同義であるとは限らない。そもそも、自分にとってのそれらは、剣を持って戦う事でしか手に入らない訳ではない。もっと他に幾つも手段はある。それが人生の選択肢というものだ。父親にはその選択肢を限定されていた。だが、それに従う理由も、そして強制力も今は無い。
そう、自分は自由だ。
ずっと父親の支配下にあった少年は、何度も思考を繰り返した末にようやく自分は自由であると断言した。自分に全てを強要する父親はもういない。何でも自分の好きな事が出来る。
ならば、これから何をやろうか。
そんな事を考えていた少年だったが、気がつくと極自然に模擬剣を手にしていた。
生活の中に継続的な目的を与え気持ちの物足りなさを埋めようと、その具体的な手段を考える。しかしそれを完全に埋めてくれるのは、あんなに嫌で仕方が無かった剣だった。
どうあっても、自分はあの男の子供。
認めたくなかったのは自分の中に流れる父親の血ではなく、父親の呪縛から抜け出せない現実だった。
少年は悩んだ。
このまま剣術を磨き続ける事自体は構わなかった。ただそれは、憎み続けた父親とその考え方を受け入れる事に繋がる。そうなる事だけはとても許せなかったのだ。
気持ちの有耶無耶を断ち切るべく、少年はある日を境に剣術を本格的に磨く事にした。父親との稽古で行ったメニューは頭の中に入っており、その中でも一人で出来る分だけ毎日欠かさず繰り返した。その分ルテラと遊ぶ時間は減り、寂しそうな顔をよくされた。その都度少年はなんとか慰めて機嫌を取ることに苦心したが、訓練の時間は減らしはしなかった。
こんな事で何か変わるのだろうか。
疑問はあったが、今はただ自分を磨き続けたかった。そうする事で、停滞する感情にある程度の加速を付けることが出来たからだ。
そして、歳月は流れ五年が経過した。
少年は精悍な風貌に成長した。少年の父親の若い時分を知る者は、ますますその当時を思わす様相になったと期待に満ちた眼差しで成長を喜んだ。しかし、少年は表面では素直に応じるも内心は穏やかではなかった。自分は自分である。その区別が人一倍強かった少年には、父親と比較する言葉は不快感を催させる以外の何物でもなかった。
少年は未だに黙々と訓練を続けていたが、一人で磨き続ける事には限界を感じ始めていた。もう一つ上の段階に進みたい。だが、そのための足がかりとなるものが身近にはなかったのだ。父親ならば自分を更なる高みに導いてくれただろう。そう、少年はほんの少しだけ、父親が起き上がれなくなってしまった事を密かに悔やんだ。
それと同じ頃。人知れず着々と進んでいた少年を亡き者にしようという謀略は、遂に最終段階を迎えていた。
TO BE CONTINUED...