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人間は誰しも失敗と無縁ではいる事が出来ない。
失敗とは成長のための通過儀礼。失敗なくして人は成長できない。
失敗を恐れ、失敗を迂回する人間は強くはなれない。危機に対してあえて立ち向かい、そして克服出来なければ何も身につかないのだ。危機を乗り越えた力こそが本当の力なのである。
しかし。
もしもその失敗があまりに致命的だったら。
失敗する事を恥じ入る必要はない。
そんな私の価値観に、大きな亀裂が入った。
「あーチックショウ! つまんない!」
北斗の真ん中に立っている大時計台に針が、午後九時を差す。誰もが一日の仕事を終えて夜の繁華街に繰り出す楽しい時間。しかも今日は土曜日。一週間の中で土曜の夜ほど幸せな日はないと言われているというのに。私もまた、いつもこの時間はたいがいみんなとどこかの店で一杯やってるのだが。今夜はそういう訳にも行かない。
丁度一週間前。私の在籍する凍姫の影の支配者であるミシュアさんに、一週間も守星にて無償奉仕をする事を私は命ぜられた。他にもリーシェイやラクシェルも命令されたのだが、こいつらはどうせ自業自得なのだ。一番理不尽なのは、完全な被害者である私である。そもそも、どうして私が罰を受けなくてはならないのかが理解出来ない。悪いのはあの二人なのだから、罰を受けるのもあの二人だけでいいのに。
とは言え。
理不尽な罰ではあったが、全く良い事がなかった訳ではない。むしろ、思わぬ役得があったとも言える。安給料で北斗に振りかかる外敵に真っ先に対応するという、どう考えても正気の沙汰とは思えない役職、守星。金ではなく名誉のための役職らしいが、それはともかく。その守星には、あのエスタシア様が在籍しているのだ。私は臨時とは言え守星に籍を置いている事を十分に生かし、エスタシア様のスケジュールを入手した。そして、出来る限り私のスケジュールと噛み合うように調整させた。これはまたとないチャンスである。私は今までエスタシア様との接点が皆無と言って良いほどなかった。一応の面識はあったものの、それ以上の親しい関係に発展するまでの機会に恵まれていなかったのである。
だが、チャンスは舞い降りた。
そう、それが今回の処罰なのだ。普段ならば仕事を放棄してエスタシア様どうこうするなんて出来ないのだが、今は違う。もう、それは堂々とエスタシア様を追っかけまわす事が出来るのだ。守星の仕事という大義名分を掲げて。
本当にうまくいっていた。この六日間の内、実に四日と半、私はエスタシア様のスケジュールを捕まえる事が出来た。おかげで随分と色々な話も出来たし、仕事上がりにご飯も食べた。しかも、その内一緒に飲みにいく約束もした。大勢でがやがやというヤツじゃない。二人っきりでだ。もう万々歳と言える結果である。やっぱり、神様はちゃんと見ていてくれている。一見するととんだ災難に巻き込まれたかのように思えるが、そこはちゃんとその理由があったのだ。まったく粋な計らいをしてくれる。
今日は罰ゲーム最終日。あと、三時間もこうして徘徊していればめでたくお役御免となる。明日からも通常通り凍姫の方に戻る事が出来る。また、あの連中と顔を合わせると考えると腹が立って仕方ないが、今回の成果を考えると多少は寛容にもなれそうだ。
それにしても。
「まだ、三時間もあるのか……」
罰ゲーム開始から数十分後、私はこの守星という仕事がどれだけ退屈極まりない事かを思い知らされた。北斗を今もなおつけ狙う有象無象供は腐るほどいるが、そいつらを相手に出来るというのも一興かと考えていた。だが守星の活動の実際は、そのほとんどがただ歩くだけなのだ。私は蟻なのか、と問い詰めたくなるほど退屈な仕事である。これで金がもらえるならば構わないが、今回の私は無償奉仕だ。くたびれこそ儲けるものの、他には何も入ってこない。
エスタシア様さえ居ればなあ。
つくづく私はそう思った。エスタシア様さえいれば、この退屈極まりない時間も夢のような時間に早変わりするのだが。あいにく、本日のエスタシア様のスケジュールはオフになっている。幾らなんでも、休日出勤させる訳にはいかない。
と。
「……お腹空いたなあ」
ふと私は思い出したように空腹感に見舞われた。そういえば、いつもならばもう夕食を食べている時間だ。
現在、丁度繁華街に差し掛かっている。実はこの北斗、驚くほど食べ物がうまい。酒も同じだ。このヨツンヘイムは治安が悪いためか、人々はこぞってこの北斗に上京してくる。だからヨツンヘイム中の腕のいい料理人や職人が集まるのだ。しかし、客の絶対量は決まっている。そのため腕のいい彼らですら顧客獲得のために激戦を繰り広げる事になる。結果的にうまい店が北斗中に乱立しているのだ。
右を見ればうまい店、左を見ればうまい店。そして私は現在空腹。
さて、どうしようか?
結論は数秒で出た。腹が減っているのに無理をしてまで律儀に仕事を続ける必要はない。私の勤務時間も、残りはたった三時間程度だ。この一週間、一度として敵襲は起こる事はなかった。だったら、悩む事はない。迷わず夕食だ。もしも敵襲が起こったとしてもだ、守星は私一人という訳ではない。深刻な状況に陥ることはまずありえないだろう。
「よし、そうと決まれば善は急げ!」
私はすぐさま近くの店に駆け込んだ。
「いらっしゃいませ」
早速出迎えられた店員に案内され、私は席につき、まずはお通しに舌鼓を打つ。もはや料理屋でお通しは当然の事である。むしろそのサービスのない店の方が珍しい。出されたのはゲソを辛めに揚げたものだ。ただ辛いだけでなく素材そのものの味が生かされている。お通し一つとっても手を抜いていないのがいい。
ひとまず私は麦酒をピッチャーで三つ、そして幾つか単品で料理を注文した。ヨツンヘイムは治安の悪さがゆえに土地開発は遅れているが、意外と土壌は質がいい。出来る麦もやはり良質で、ルートが確保できないため輸出まではやっていないものの、麦種もうまいのが出来るのだ。
やがて運ばれてきた麦酒を、まずは人心地つくまで一気に飲む。このコク、喉ごし、後味、どれをとっても一級品だ。
私がお酒が好きになったのはヨツンヘイムに来てからだ。それまではお酒なんて口にもした事はなかったのだが、人生初めての酒がヨツンヘイムのうまいものだったからだろう。以来、酒のない生活なんてとても考えられなかった。今でもみんなとよく一緒に飲みにいく。リーシェイ、ラクシェルのバカ二人、あと今は入院してる凍姫の下僕一号。スケジュールが合えばルテラやレイ、そしてエスタシア様の守星組。それとルテラの身内達。一人よりも大勢で飲む方が気分的にも楽しくておいしいが、一人で飲んでもおいしいのがヨツンヘイムの酒だ。仕事で色んな国に派遣されているが、どこの国もヨツンヘイムにはかなわない。おそらく世界で最高のものだと私は思っている。
あっという間に一つ目のピッチャーが空になる。体もやんわりと温まり、いよいよ調子が出てきたといった感じだ。私は食と飲の比率は圧倒的に飲の方に偏る。食べてから飲む方が体には良いらしいが、私にしてみれば、いちいちそんな事を気にして食事をしなければならないなんて、その方が体に悪い。好きなものを好きなように食べる。それがベストだ。事実、これまでそうし続けてきた私は、未だに体の調子を崩した事がない。病は気から、と言うらしいが、そういう事なんだろう。
十数分し、二つ目のピッチャーが空になった。料理は食べ尽くし、空腹も完全に癒えた。だが、まだまだ飲み足りない。私はすぐさま三つ目のピッチャーに突入する。久しぶりにゆっくり飲めることもあってか、いつもよりも酒が進む。
ん……?
ふと、私は先ほどから店内から時折視線を注がれている事に気がついた。
はて、どうしてだろう? まだ何にもやってないのに。
まさか私の美貌がそうさせているのだろうか。初めはそんな事を考えながら飲み続けていたのだが、やがてその理由に気がついた。店内にいるのは一般人ばかりだが、私は凍姫の真っ青な制服を着ていたからである。北斗にとって、北斗の治安を維持する十二衆の存在は凄まじく大きなものがある。北斗の制服を着ている私達の意味は歩き始めた子供ですら知っている。この場に居るみんなの反応も無理はないだろう。こんな可憐な私が、北斗という死神の名を背負っている一人なのだから。
畏怖と羨望の眼差し。それを浴びる事は実に気分がいい。私という人間の存在がどれだけ大きく北斗に君臨しているのか、その現われでもある訳であるし。
三つ目のピッチャーが空になる頃、随分と気分も大きく気持ち良くなっていた。なんだかもう一杯飲みたい気分だ。
私は更にもう一杯ピッチャーを注文した。四つ目を飲み終わったら守星の業務に戻るとしよう。それが終われば、あとはうちに帰って寝るだけだ。
ごくごくと喉を鳴らしながら飲んでいく私。お酒とはなかなか不思議なもので、大量の水は絶対に飲めないけど、同量の酒ならば飲む事が出来る。どちらも同じ液体なのにだ。味があるからという説もあるが、私はジュースなど水よりも飲めない。
おい、よく飲むよな、あの女……。
と。
その時、隣のテーブルからそんな声が聞こえてきた。どうやら私に聞こえないようにトーンを潜めてはいるが、あいにくと私は自分とエスタシア様の事に関して限り地獄耳なのである。
あれ? もしかして……。
どうやら先ほどから私が注目されていたのは、こんな短時間にガバガバ飲んでいたせいのようである。
ったく、好きなものを自分の金で飲んで何がおかしいってんだ。こんぐらい、誰だって飲むじゃない。
私が北斗の人間だから、とか、類稀なる美貌がそうさせているから、とか、とんだ勘違いだったようである。やっぱ北斗に住む人間は、北斗の制服着てるぐらいでは大して驚かないらしい。しかも私の美貌に関してはノータッチだ。まったく、どいつもこいつも見る目がない。ま、私はエスタシア様以外の男なんて、まるで眼中にはないんだけれどね。
やがて四つ目のピッチャーも空になった。周囲の視線もある程度意識し始めてきたが、そのどれもが奇異の視線だと思うと、先ほどまで感じていたような誇らしさもまるでない。ただ鬱陶しいだけである。かと言って一般人にケンカ売るのもナンセンスだし。
「さってと。そろそろ出ようっかな」
元々本格的に飲むつもりではなかった私は、そろそろ切り上げる事にしようと伝票を持って立ち上がった。途端、頭の中がぐらりと揺れ、うっかり立ち上がったばかりの席に座ってしまいそうになる。
かなり酔いが回ってきている。酒の回りが普段よりも速い。どうやら守星なんて慣れない事をしたせいか、自分でも驚くほど疲れが溜まっているようだ。普段ならこの程度で酔ってきた事を自覚なんかしないんだけれど。疲れている時に飲むと、気持ちが満足する前に体が限界を迎えてしまう。
会計をしにカウンターの方まで歩くと、予想していたよりも遥かに体のバランスが効かなくなっているのが分かった。こんな状態では普通に歩く事も困難、ましてや守星の業務なんて出来るはずもない。だが、私は決して危機感も抱かなかった。どうせ、あと二時間ぐらいで私の業務時間は終わりなんだし。
会計を終えて店の外に出ると、随分外の空気が冷たく感じられた。しかし、決して体が凍えるような厳しいものではない。むしろ火照った今の体には丁度いいくらいだ。
残り時間、適当にこの辺りを歩いて終わらせてしまおう。その頃には丁度いい具合に酔いも覚めるだろうし。
本当に酔っている時は気分が良かった。もっとも、エスタシア様がいれば更に気分が良くなるんだけれど。ほどほどの量を飲み、酔ってしまって歩けない風なアプローチをかけてみる事だって出来る。私の部屋に送ってくれたら、そのまま帰さない。エスタシア様の部屋に連れて行かれたら、そのまま帰らない。後は野となれ山となれ。実に楽しい事になるんだけれど。ま、そうがっつき過ぎるのも人としてはしたないか。
くくく、と一人含み笑う。自分でもその姿が少々不気味な気もしたが、酔っていると周囲にどう思われようが気にもならない。
エスタシア様と二人っきりになるチャンスを手に入れる事が出来た。これはなんとしても結果を出さなくてはいけない。エスタシア様を想う女供は掃いて捨てるほどいる。その有象無象から勝ち取るためにも、この立場の優位性を最大限に生かさなければいけない。
―――と、
「な、何!?」
突然、凄まじい轟音が夜空を切り裂いた。
ハッ、と音の響いた方を向く。すると北斗の南側に真っ赤な炎が立ち昇っていた。今の音はおそらく、魔術の類による攻撃に間違いはない。
敵襲だ。
北斗は最強集団と言われているが故に、必然的に敵も多くなる。ヨツンヘイムは公式的な行政機関というものは存在しない。そのため北斗のような戦闘集団、野盗族の類は大勢存在し、混沌としている。組織間の諍いも絶える事無く、北斗を解体して自分達がヨツンヘイム最強を名乗ろうと考える連中も多い。北斗がこういった敵襲にさらされる事はザラにある。だがそのために北斗十二衆があり、守星がある。
今、偶然にも私がいるのは南区だ。現場まではかなり近い。急いで向かって敵を殲滅しなければ―――!
私はすぐさま炎の立ち昇る方へ向かい駆け出した。これでも足の速さには自信がある。おそらく北斗内でも五本の指に入るであろうぐらいに。あの距離ならば、本気で走れば三分もかからないで到着する。
だが、
「うっ……!」
走り出した途端、猛烈な眩暈と吐き気が襲い掛かってきた。私は耐え切れず立ち止まり、その場に屈みこんでしまう。
まずい……。少し飲み過ぎた。
心地良かった酔いが、急に悪夢のような不快感に変わり頭を締め付けてくる。喉の奥でも気持ち悪い塊が飛び出そうと上下している。このままでは走れない。しかし、かと言って向かわぬ訳にもいかない。不本意とは言え、今の私は守星なのだ。その役目は他ならぬ誰よりも早く外敵から一般市民を守る事。体調が悪いからと言って休む訳にはいかない。たった一分の到着の遅れが、死傷者の桁を一つ増やしてしまうのだ。
私は吐き気を無理やり押し殺して立ち上がると、再び炎に向かって駆け出した。すぐさま眩暈と吐き気は私に襲い掛かってきた。だが、今度こそはそれに屈する事無く走った。精神力で抑えつければ、なんとか走り続ける事が出来る。気にしなければ、喉の奥の不快感も感じない。
しかし、いつもの半分の速さも出ていない。足は動いている。だが、体はまるで鉛でも背負っているかのように重い。頭も鉄仮面を被っているかのようだ。否応なく体力は毟り取られ、すぐに呼吸は乱れていく。普段よりもスタミナの消耗が激し過ぎる。もう息が切れるなんて、絶対にありえないことだ。
早くいかなきゃ……。
その焦りとは裏腹に、私はなかなか前に進めない。
TO BE CONTINUED...