BACK

 ふと肌寒さを感じ、エスタシアは目を覚ました。
 思っていたよりもまどろんだ意識の覚醒が鈍い。ここ数日、まともに眠っていない疲れのせいだろうか。
 エスタシアは安楽椅子にもたれかかりながら仮眠を取っていた。幾ら座り心地が良いとは言え、所詮は椅子。眠るのには適さず、背中が若干鈍く痛んでいた。眠りながら姿勢を変えてしまったのか、肩までかけていたはずの毛布が足元にずり落ちている。肌寒さの原因はこれだ。
 どのくらい眠っていたのだろうか。
 毛布を自分との入れ替わりに椅子の上へ置くと、窓際に立って外の景色を見やる。窓の外には、どこまでも続く夜の深遠な闇の世界が広がっていたが、その栄華の終わりを告げるかのように遥か遠くの地平線の先にはうっすらと闇がぼかされ、藍色が上へ上へと向かって染み渡り始めている。夜明けが近い御印だ。
 ふとエスタシアは、首から下げている銀色のペンダントをそっと持ち上げ目の前にかざす。子供の拳ほどなら通り抜けられそうな銀の大きなリング、そこを中心に交差する細いチェーン、そしてリングの中にはゆらゆらと前後に揺れる銀色の十字架。
 本来ならば、はっと目の覚めるような美しい輝きと傷一つ無い肢体、そしてシンプルな造形美を持って人々の注目を集めてもおかしくはないのだが、夜の闇は覆い隠すことが性であり、そのペンダントもまた美しさを存分に発揮出来るだけの光が無ければ輝く事は出来ず、闇によって大半の存在価値を覆い隠されていた。
「あと二時間」
 突然、まるで噛み締めるかのように強く静かな声で言い放つエスタシア。その厳しさはまるで自分自身への戒めであるかのようであった。
 そして、かけてあった上着を肩にかけて双剣を腰に差すと、颯爽とその部屋を後にした。
 その足でエスタシアは階段を上へ上へと登って行く。目指すは最上階、天守閣。この戦いの首謀者として、同志達の命を預かり、その責務を果たすためである。
 ふとエスタシアは何かの気配を感じ取ったのか足を止める。直後、突然エスタシアの前方の空間が眩しい光を放った。
 光は激しくうねりながら、途方も無いエネルギーで空間を歪め崩壊させ、再構築する。表裏を区切るものもない目の前の空間に、ぽっかりと大きな穴が開いた。その穴からゆっくりと一人の修道女が姿を現す。まるで何も無い空間から飛び出したかのような異様な光景である。
「あなたでしたか。どちらへ?」
「雑用を片付けていました。大した事ではありません」
 そう修道女は僅かに覗く口元を微笑ませて答える。
 光の中から現れたのは、流派『浄禍』頭目にして『浄禍八神格』筆頭の『遠見』であった。『遠見』は実質エスタシアと同等、もしくは副官的な立場で反逆軍の一角を担っている。そして、彼の計画の発端から行動を共にしてきた腹心中の腹心である。エスタシアにとって最大の戦力、最強の持ち駒だろう。人間の範疇を超えたとすら言われる北斗最強の流派『浄禍八神格』を手に入れた事は、実質北斗の戦力の大半以上を手にした事とほぼ同義である。エスタシアほど頭の切れる人間がそれほどの大きな力を手に入れれば、たとえヨツンヘイム最強の戦闘集団と言えども転覆させる事が可能である。そして、それはこうして現実に起こった。良くも悪くも、エスタシアの慎重かつ巧妙な戦略と、流派『浄禍』を始めとする彼女らの力の賜物である。
「残党軍が動き始めました。数では下回っているものの、新たな首領の参戦で士気が向上しています。交戦するならば相当の被害を覚悟しなくてはならないでしょう」
「思ったよりも早かったですね。こちらに休む間を与えないつもりでしょうか」
 自分が眠っている間に残党軍がこの北斗総括部に向かっている、という事を知らされたエスタシアだったが、少しも慌てる素振りを見せなかった。むしろ、こちらの意表を突いてくれた事を楽しむかのように、口元には薄ら笑いすら浮べている。実際、その表情は心内で細かな算段を立てている事を知られないようにするための作り笑いなのだが、動揺を憶えていないのは事実だった。
 いかなる状況下に置かれても戦闘中は決して冷静な思考を失わないのは、人の上に立つ人間として最も重要で強く要求される才能である。そしてエスタシアにはこれだけでなく、理屈では説明の出来ない驚くべきカリスマ性と定石を踏破する戦略性を持ち合わせていた。世が世ならば、間違いなく統治者として敏腕を奮うであろう、まさに完璧と呼ぶに相応しい才知の持ち主である。今回の北斗への反逆も、首謀者が彼でなくては成功し得なかっただろう。力だけで転覆させられるほど、北斗は半端な戦闘集団ではないのだ。
「残党軍に加わったのは、レジェイドさんの師匠、天豪院空恢氏ですね?」
「御存知でしたか」
「他に考えられませんから。あれほどの方が加わったのであれば、確かに幾ら残党とは言え気を抜くことは出来ませんね」
 エスタシアがかつて北斗総括部の役員として、表向き勤めていた頃。何度か天豪院空恢とは対面した事があった。還暦を迎えた老齢でありながら、少しでも気を抜こうものならたちまち頭から飲み込まれてしまいそうなほど、恐ろしいまでの迫力を放っていた事が特別強く印象に残っている。北斗史上有数の豪傑と謳う世評の通り、いやそれ以上と言っても過言ではないだろう。単純な強さは元より、人間的な器の大きさは蛙が大海を目の当たりにしたかのような目も覚める衝撃だ。この先、出来るならば敵に回したくはないと考える人物の一人である。
「如何いたしましょうか? 篭城ならばこちらが有利ですが」
「いえ、あえて打って出ます。こちらの篭城はあちらでも予測済みでしょうから何らかの対策を講じているはずです。篭った所で思う壺でしょう」
 そして、ふとエスタシアは覗き窓から外の景色へ視線をちらりと向ける。外は依然として夜の帳が上がらず、冷たい空気の刺すような感覚と耳喧しい静寂が闇の世界を支配している。
「夜明けが近いですから。もう、一秒たりとも無駄な時間はかけていられません」
「そうですね」
 そう、エスタシアは首からぶら下がる銀のペンダントを胸に押し付けるように押さえる。その姿を『遠見』は悠然と口元に微笑みを湛えたまま一瞥した。
「『浄禍』から『邪眼』と『聖火』を送りましょう。私達が二人もいれば何の支障も来たさないはずですから」
「お願いします。徹底抗戦するからには、こちらとしても万全の備えをしておく必要があります。それに、旧体制を支持する人間は、今の内に全消しておきたいですから」
 今、『遠見』の口から出た『邪眼』と『聖火』の二名は、いずれも『浄禍八神格』の一人であった。『邪眼』はその目にあらゆる干渉能力を持ち、一度睨まれれば体の自由を奪われ、自分の意志とは関係なく彼女が思うがまま玩具のように支配されてしまう。彼女の目に支配出来ぬものはなく、時には物理的な法則や自然の摂理すら思い通りに動かしてしまう事が出来るのである。
 そして『聖火』は、この世に存在する全てのものを焼き尽くす炎を持っている。神罰と呼ばれる彼女の炎は単なる物質は元より、炎そのものを焼き尽くす事すら可能である。彼女の手から放たれる炎は世間一般に通ずる所の炎とは異なり、汚れを浄化するが如く、ありとあらゆるものを文字通り燃やし尽くす。未だかつて、彼女の炎から逃れられた者は存在しない。
「それと、残りの人間は総括部に配置しておきましょう。まだ漠然とではありますが、『死神喰い』が視え始めましたから」
 死神喰い。
 その言葉が『遠見』の口から放たれる事があまりに意外だったのだろうか、エスタシアはほんの一瞬、驚きを露にした余裕の無い表情を浮かべた。
 ヨツンヘイム最強の戦闘集団『北斗』。彼らのことを、世間は俗に死神と呼んでいた。北斗の力はあまりに圧倒的で、一度でも対峙してしまえば後には無数の死体が軒を連ねるようなありさまである。どんな相手であろうとも確実に命を奪うその史実に畏敬を表し、北斗は死神と呼ぶようになった。
 北斗はカードゲームで言う所のジョーカーに等しかった。如何なる相手でも確実に勝つ事が出来るからである。しかし、『遠見』の言い放った『死神喰い』という言葉は、そんな北斗をも用意に踏みつけてしまう存在を示す表現である。最強であるはずの北斗を、だ。存在し得るはずのない、ジョーカーの天敵である。
 エスタシアはある程度『死神喰い』の存在を知っていたのかもしれない。動揺こそ一瞬するものの、またすぐに冷静な普段の面持ちを取り直す。
「……つまり、十三番目の流派『北斗』の事ですね」
「ええ。私達の計画において、最も危険でいて不確定な存在。総括部の如何なる記録にもその正体を示す記述が残っていない以上、仮に交渉するとしても困難を極めるでしょう」
「やはり一筋縄では行きませんか。けれど、だからと言って今更引き下がる訳にはいきませんから」
 北斗には、その最強という栄華を支える十二の流派があった。しかし、極一部の少数の人間しかその存在を知らない、第十三番目の流派が存在した。その名を流派『北斗』といい、如何なる戦闘スタイルを持っているかは元より、所属数、組織構成、そもそも実体そのものまでもが極秘裏に隠蔽されている。従って、出来得る限りのあらゆる手段を講じながらも突き止められたのは真の死神を冠するその名前だけで、後の一切は闇に閉ざされたままである。そしてもう一つ分かっている事は、『遠見』の目によって視通された、他流派にはない流派『北斗』だけの『死神を喰べる凶相』だ。流派『北斗』は同じ北斗に属していながらも、仲間を食い殺してしまうような貪欲さと凶暴さを秘めているのである。しかし、何故そんな協調性も無ければ自らの足場を脅かすような危険な存在を同じ北斗内に作ったのだろうか。考えられるのは、まだ北斗がまだ小さく最強と謳われてはいなかった頃、闇雲に力だけを追い求めた歪みが、修正出来ずに今の時代にも残っているからだろう、か。
「ついでにもう一つ」
「何でしょうか?」
「あなたには視えているのかと思っていましたが。もう一人、警戒しなくてはいけない人間がいるはずです」
「私の目にはそれらしき人物の姿はありませんが」
 小首を傾げながら微笑む『遠見』。するとエスタシアはどこか安心したかのように小さく溜息をついた。
「そうですか。あなたの目に視えないのであれば、あれは僕の杞憂だったようですね」
「過去の幻影に惑わされるのは、あなたには少なからず彼に対して劣等感があるからでしょう」
「劣等感と言いますと?」
「自分も彼のように、自由に感情を表にさらけ出し、自分の思うがままに振舞いたい。そういう事です」
 一瞬、エスタシアの表情が鋭く硬直する。内臓を抉られたかのような衝撃に身を強張らせ、反射的に漏れ出した自己防衛のための殺気が古い石壁に小さな亀裂を生じさせる。しかし、すぐに気を取り直して己を落ち着けると、普段の様子ならば浮べるであろう微苦笑を作り答える。
「ですが、一つだけ違う点があります」
 と、エスタシアは不意に足を進み出すと、目の前の『遠見』を追い越し、そのままゆっくりと階段を上り始める。
「僕は今の自分の生き方に後悔など無く、むしろ誇りに思っています。確かに損である事は理解していますが」
 前髪を掻き揚げながら額を押さえ、表情を『遠見』から隠す。その姿はただの頭痛を堪えているようにも、己の内に抱える苦痛に苦しんでいるようにも見えた。
「戦闘の指揮はお任せします。一人たりとも生かしては帰さないで下さい」
「はい、分かりました」



TO BE CONTINUED...