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 死んだ人間が、生きている人間に求む事。
 絶えず自分を思い返してくれること。
 後世にまで自分の名を伝えてもらうこと。
 自らが成し遂げられなかった物事の代理。
 上げていけばきりが無いけれど、それはあくまで生きている人間の主観である事を忘れてはいけない。
 本当に望んでいるのはなんだろうか?
 案外、何も望んではいなかったりするのかもしれない。断言は出来ないけれど、とにかく私は今後も自分らしく生きることにする。これだったら、どうとでも解釈出来るから。
 めそめそするのはガラじゃないし、なにより見っとも無い。




 ざあ、ざあ。
 不規則な揺れと表現し難い不思議な音に、ふと私は目を覚ました。
「ん……」
 目を開けて周囲を見渡すと、そこは見慣れないこじんまりとした部屋だった。薄いオレンジ色の綺麗な板張りの壁と床、そして天井。一つだけぽつりと開いた小さな窓にはカーテンがかかっていて、光が薄っすらとしか入ってこない。そのせいで室内は薄暗く細部が見えない。
 ここはどこだろうか?
 ゆっくり上体を起こす。と、
「おっと」
 不意に体がぐらりと右に傾いた。咄嗟に私は右手をついて体を支えようとする。が、これと同じ状況が前にもあった事を思い出した。案の定、私は体を支える事が出来ず、ベッドに隣接している壁にゴンとぶつかった。
 いつつ……。
 強かにぶつけた額を左手でさすりながら、改めて自分の右腕を確かめる。肘よりやや上から、綺麗に右腕が無くなっている。断面は包帯でぐるぐるに巻かれ、やや丸みを帯びている。腕を上げてみても肩だけしか持ち上がらず、その肩にかかる重さもやけに軽い。
 本当になくなったんだなあ。
 すっかり変わり果てた右腕を見ながら、そう私はしみじみと思った。これはいわば決定的な敗北の印。自分より強い人間なんていない、と自負してきたけれど、初の敗北がこれほど手痛いものだなんて。いや、腕の一本は別に構わない。本当に失って悔しいのは、もっと別な存在だ。
 と、その時。急に部屋のドアが開いて誰かが部屋の中に入ってくる。一緒に入って来た眩しい光に、私は思わず目を細めた。
「あ、良かった! 目が覚めたんだね」
 やけに嬉しそうなその声の主は、あの青年だった。
「目が覚めたって?」
「そう、もう丸一日眠ってたんだよ。麻酔が効いてたんだろうね」
 そう言って彼は私が寝ているベッドの隣にあるもう一つのベッドの上に腰を下ろした。ここは二人用の部屋らしく、当然ベッドが二つ並んでいる訳だが。傍から見て、私達はどう見えていたのだろうか。急にそれが気になってしまった。
 どうやら私は、今まで麻酔の効果でたっぷりと眠りこけてしまっていたらしい。それにしても、まさか本当に医者に連れて行くとは。世の中、これほど物好きなやつがいるとは驚きである。無償奉仕なんて街中で穴の空いた箱を持って立ち、なにやら叫ぶ事だけだと思ってただけに、受けた衝撃はひとしおである。
「何か食べるものを持って来ようか?」
「いや、まだいいや。後にしとく。まだ食欲が無い」
 私は一食抜くだけで眩暈がするほどなんだけど、ずっと眠り続けていたせいか胃が縮小している感じがする。本当なら三食分ぐらい食べ尽くしてもおかしくはないんだけど。眠っていただけでは腹は空かないようである。それとも、かえって間隔が空き過ぎたせいで腹が休んでいるのかもしれない。
「ところで、ここはどこなの?」
「ここは船だよ。これからヨツンヘイムって国に行くところさ」
「ヨツンヘイム?」
 そういえば、私は自分が住んでいる国の名前すら知らない。当然、他の国の事なんて知るはずはない。ヨツンヘイム、なんて言われても一体どこにあってどんな国なのか、まるで分からない。
「勝手とは思ったけどね。君には一緒に来て貰いたいって思ったから」
「何ソレ? あんたロリコン?」
「違うって。ちゃんと僕には別に好きな人はいます。大人の女性の」
 あんまり彼の反応が真面目だったので、私は思わず笑ってしまった。まるで笑う行為自体を思い出して行ったかのような、本当に久しぶりに笑ったような気がする。ずっと仲間内の空気が重かったのだ、無理も無いだろう。
 あ、そうだ。
「……みんなはどうなったの?」
 恐る恐る、私はそう問い掛けた。すると予想通り、青年はゆっくり首を横に振った。そういえばあの時、間に合わなかったって言ってたっけ。本当にそうなのか、証拠となる状況は見ていないけれど、それがどれだけ凄惨だったのかは彼の表情が物語っている。
 比較的、恵まれていたとは言い難かったけれど、私は結構毎日を楽しんでいた。でもみんながいなかったら、そんな風には思わなかっただろう。それに、人間は一人で生きていく事は出来ない。今の私がいるのは、みんながいたからこそなのだ。
 これまで支えあってきた仲間はもういない。
 気持ちがどこまでも果てしなく落ち込み沈んでいく。悲しい、とかそんなレベルじゃない。これから自分はどうすればいいのか、自分自身が空っぽになってしまったかのような錯覚を覚える。今まであったのが当たり前過ぎて、急に喪失してしまってもすぐには受け入れ難かった。本当はこれはただの悪い夢なんじゃないか。けれど、そんな自分の現実逃避を冷静に見ている自分もいる。今の自分が限りなく精神的に不安定になってるのは分かるけれど、正常とは正反対の方へ傾き切れることが出来ない。それが出来たらどれだけ楽なんだろうか。どうしても、負けん気の強い自分がそれを許さない。
「僕がもっと早く来てれば……本当にすまない」
「別に、あんたの助けなんか欲しいなんて誰も言ってないわよ。それに、過ぎた事を掘り返すのは嫌いなの」
 そう、と青年は薄く笑った。私に対する申し訳なさが色濃く浮き出ている。
 どうしても自分中心でしか物事を考えられないヤツだな、と私は思った。そっちの価値観を押し付けられても、鬱陶しい、の他に言う言葉がない。
「そういえば、自己紹介が遅れたね。僕の名前はスファイル。ヨツンヘイムでちょっとした役職を勤めさせてもらってる」
「私はファルティア。誰がつけたのか覚えてないけど、気がつくとみんなにそう名乗ってた」
 スファイルと名乗ったその青年は、見た目はそれなりに整った部類に入ると思う。けれど、どうも放っている空気のせいだろうか、いわゆる『カッコイイ』の域には達していない。色んな意味で惜しいタイプだ。顔はそれほど悪くはないのだが、うまく生かしきれていないのだろう。言葉だけでなく、行動もおかしなものばかりだ。きっと近しい人間には変人扱いされているに違いない。
 と。
 不意に船がぐらりと揺れた。視覚的には普通の部屋と何ら変わりないのだけど、どうも足元がおぼつかないというか、水に浮かんだ板の上に乗っているような感じがする。実際、船なんてそんなもんなんだけど。
 そういえば、船に乗ったのは初めてだ。そう思った私はベッドの上に膝で立って、窓のカーテンを開け外を覗いてみた。
「うわ……」
 そこから見えたのは、果てしなく広がる青空と真っ青な大海原だった。遥か先に二つの青が合わさる境界線が見える。海は知識だけでしか知らない私には、実物を目の当たりにして受けた衝撃は大きかった。空に匹敵するほど大きなものがこの世にあるなんて。知る事と見る事とでは、認識の桁が違う。知識では多少の疑いとか想像とかが入り混じるけれど、目の当たりにするとそんな諸々のものを一気にすっ飛ばして頭の中を真っ白にしてくれる。見る、というのは物事を一番早く理解させてくれる。
「で、その好きな人って? 恋人?」
「いや、まだ話し掛けるタイミングを狙ってるところ」
 スファイルはばつの悪そうな苦笑いで、あまりはっきりしない口調で答える。正直、恋人がいるようには思ってなかった。もしもいるんなら、一体どんな物好きなのか。そんな感じで投げた質問なのである。
「そういうの、世間じゃストーカーって言うんだって」
 そんなんじゃないよ、とスファイルはすぐに反論する。けれど、私のたとえ以外で他に何かぴったりな比喩があるだろうか? ここで相手が落としたもの捨てたものなんかをコレクションしていたら、もはやその病的診断は決定的なものになってしまう。とりあえず、彼にはそんな兆候が感じられなかったので良かったが。まさか命の恩人が、変人ならまだしも変態だったりしたら始末におけない。
「ところで、ヨツンヘイムってどんなところ?」
「そうだね。先に言っておくけど、あんまり治安は良い所じゃないよ。なにせ、無政府国だからね」
「ムセイフ? つまり、みんなやりたい放題ってこと?」
「そんなところだよ」
 私の場合、国があって政府があり、その政府がある一定のルールを敷いているのが普通だったから、そのヨツンヘイムという国の内情がすぐには想像出来なかった。ルールが存在しないなんて、それじゃあその国の人々はどんな生活を送っているのだろうか。たとえそれがどんなに醜悪でも、ルールが無ければ人間は自らの生活を成り立たせる事が出来ない。それでもちゃんと国として成り立ってるんだから無茶苦茶な国である。
「僕は、そのヨツンヘイムで一番大きな街で『北斗』って街があるんだけど、そこの治安を守る機関で仕事をしてるんだよ」
「ふうん、だからあんなに強いんだ」
 私はあの晩の事を思い出す。素手で斬撃を受け止めたり、瞬く間に騎士達を倒してしまったりと、とても常人には不可能な大立ち回りだ。法律がなくても治安を守れてるのは、それだけ強いからって事だろう。機関、って言ってたけど、こいつぐらい強い連中が何人もいるんだろうか? なんだかこれもイマイチ想像がつかない。一体どんな練習をすればあんな芸当が出来るんだろうか。ヨツンヘイムどうこうより、そっちの方が気になる。
 と。
「いや、そうでもないよ」
 スファイルは急に神妙な面持ちで視線をうつむける。両手を組んでそれぞれ膝の上に置き、組んだ手のひらの上へ自らの額を置く。
 なに一人で深刻なってるんだか。
 けど、とても軽く笑い飛ばせない空気だ。
「実はね、僕は嫌な事があって逃げてきたんだ。これで三度目になる。でも、一度として好転した試しがないんだ」
 そして、頭を上げてスファイルはまたも苦笑いを浮かべる。なんか随分とやり慣れてる表情だな、と私は思った。
「三回も家出したんだ。なんでまた?」
「ちょっとね。今、仲間内でごちゃごちゃした騒ぎがあってね。それが主な原因」
「どうして仲間のケンカを止めない訳?」
「そんなに簡単な問題でもないんだ。って、言うと気持ちが楽なんだけどね」
 そして三度苦笑い。
 なんだ、結局辛いのが嫌で逃げ出してきただけじゃん。あれだけ強いのに、なんでその程度の事から逃げ出すんだろうか? 私にはスファイルの行動がさっぱり理解出来ない。私には剣を持ったあの騎士連中の方がよっぽど怖いと思うのだけど。
「やりゃあいいじゃん。なんでやらないのさ? 逃げたってどうしようもないと思うけど」
「そう、逃げは所詮後回しにしているだけにしか過ぎない。だから本当にどうにかしたいんなら、自分で動かなきゃいけないんだと思う。だから君の言う通りだ」
 そこまで分かってるなら、どうして三度も逃げるのだろうか。まさか単に臆病だから、なんて事はないはずだ。スファイルは自分を自称大人と言っていたけど、そうやって逃げている様はなるほどと頷ける。要するに自信がないのだ。自分の力に。
「僕は君の強さを見習わなきゃね」
 そう笑った彼の表情は、どこか力無かった。
 何言ってんだか。
 気がつくと、私は体が潰れてしまいそうなほどの空腹感に苛まれていた。
 お腹が空く内は、なんとかなるかな。



TO BE CONTINUED...