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 誰だ……?
 俺は眩しさに目を細めながら、ゆっくりと声の主を辿る。
「主は益無き血を流す事は決して望みません。双方とも、剣を収めなさい」
 そこに現れていたのは、『断罪』と同じ格好をした女だった。だがその目はぴったりと閉じられている。
 また浄禍のヤツが出やがったのか。
 そう舌打ちしたくなるほど苦々しい心境だったが、それよりも先に俺は驚愕に支配された。
 俺の振り下ろした大剣と、『断罪』が体現化した剣の切っ先。彼女が現れたのは丁度その二つが交錯する位置だったのだが、振り下ろした寸止めのしようのない瞬間に忽然と現れたにも関わらず、彼女はその場に変わらず平然と佇んでいる。
 彼女はそっと両の手のひらを、それぞれ俺と断罪に向けていた。その手のひらが、俺の渾身の斬撃と『断罪』の術式とを真っ向から受け止めていた。精霊術法の障壁ならばそのどちらも受け止める事は可能だろう。しかし彼女はどちらも障壁は展開せず素手で受け止めているのだ。
 目の前で起きている現実が俄かには受け入れられなかった。全力で放つ俺の斬撃は、鋼すらも切断する事が出来る。人体などは言うまでもなく、頭から股の下まで一刀両断だ。そんな俺の斬撃を素手で、しかも荒事とは無縁の女が細腕で受け止めている。普通ならば受け止めた腕が真っ二つになるはずなのに、何故こんな事が出来るのか。鍛えてどうこう出来るとは思えない。これが信仰というものなのだろうか?
「あなたが何故ここに?」
 突然現れた彼女を前に『断罪』は少しも驚いた素振りなど見せず、もう片方の手で受け止められている自分の術式を解除した。音も立てずに白い剣身が霧のように霧散する。露になった彼女の手のひらには、『断罪』の術式を受け止めた拍子に出来たらしい傷から真っ赤な血がだらりと流れていた。
「全ては御心のままに。主のお導きに従ったまでです」
 不意に『断罪』の顔から微笑が消えた。それは俺にでも分かるほどの不快感の現れだ。そんな『断罪』を前にしても彼女はまるで臆する様子を見せず、それどころか『断罪』のそんな感情の動きすらも寛大に受け止めているかのように優しげな微笑を浮かべていた。
 と、俺は彼女の様相にハッと思い出した。
 俺達頭目は週に一度、総括部に赴いて定例会議に出席するのだが、確かその中の浄禍の席に座っていたのがこの彼女だった。『断罪』を前にこれほどの余裕を湛えられるのは、彼女と同じ浄禍八神格でなくてはならないだろうが、その通りこの彼女は浄禍八神格の筆頭、流派『浄禍』の頭目である『遠見』の座だ。こんな化物みたいな連中を束ねているヤツだ、それならば素手で俺の斬撃を受け止めたのも、多少こじつけに似た強引な理屈だが、一応の理由にはなる。
 二人の浄禍を前に、俺は剣を振り下ろしたまま硬直していた。それは恐怖に慄いている訳ではなく、ただ好奇心というか物珍しさがあったからだ。最も神に近い存在と言われている浄禍八神格だ、一体どんなやりとりをするのか興味が湧かないはずがない。俺が硬直しているのも、二人のやり取りに水を差すまいと思ったからである。
 が。
 ふと『遠見』が俺の方を向き、にこりと微笑みかけた。それは顔見知りに対する挨拶なのかどうかは分からないが、思わず俺は受け止められている大剣を後ろに引いた。
 剣を受け止めていた『遠見』の手のひらから、またしてもだらりと血が流れる。剣の刃で切ったのだろうが、俺の斬撃を受け止めてもその程度とは。もう呆れるしかない。
「この場は、流派『浄禍』頭目、遠見の座の名において私が預かります。双方下がりなさい」
 穏やかながら有無を言わさぬ『遠見』の言葉。その言葉に『断罪』は従い、くるりと踵を返すとそのまま俺の横を通り過ぎてこの場から立ち去っていった。擦れ違い様に、本当は納得が行かない、といった空気を感じた。浄禍八神格には総括部にも覆せない一定の権限が与えられているが、その中でも『遠見』は最大の決定権と発言力を持っている。たとえ『断罪』が自分に許された権限を行使しようとも、『遠見』が許さなければ行使は適わない。『断罪』の苛立ちはそこに起因するものだろう。
 そして。
「悪いな。おかげで助かったぜ」
 俺は大剣を収めながらそう『遠見』へ礼を述べた。
「安堵するにはまだ早いのではありませんか?」
 と、そんな俺に『遠見』は微笑みながらも厳しい口調でそう返した。
 そういえば……そうだった。
 視線を伸べると、その先には依然として暴走した状態のシャルトの姿。まるで自分以外の一切の存在との関わりを断とうとしているかのように、大きな白い岩のような障壁をバリケードの如く築いている。見た目には、先ほど『断罪』が体現化したドーム状の障壁よりもずっと頑丈に見える。
 ひとまず、シャルトを眠らせたい訳だが。そのためにはこの障壁を先に破壊しなくてはいけない。『断罪』の時はなんとか破壊出来たが、それよりも重厚に見えるシャルトの障壁を破壊出来るだろうか? それにだ。『断罪』はシャルトを殺そうとしたからこそ俺は何の躊躇いもなく斬撃を放てた訳であって、相手がシャルトとなると同じような躊躇いのない斬撃を撃てるか、情けない事に自信がない。しかもシャルトは、たとえ暴走し正気を失っているとはいえ酷く怯えている。たとえ仕事だとしてもだ、泣き喚く子供に剣を揮うなんて、そこまで非情に徹する事など出来やしない。
「んっと……それもそうだな」
 少し『断罪』に集中し過ぎて忘れてしまっていたようだ。照れ隠しに苦笑いを浮かべながら、俺は大剣の柄に手をかける。しかしすぐさま、どうしても直面しなくてはならない『抜いた刃を如何に奮うか』という問題が重く圧し掛かり、柄を捉えようとする五指を酷く緩慢にさせる。しかし今の俺には剣しかなく、そんな迷いも断ち切るかのように意識して強く柄を握り締めた。
 が。
「収めなさい。人がその手を一度上げる度、神は涙を一つお流しになります」
 そう『遠見』が抜きかけた俺の大剣を制する。こんな彩りに欠ける戦場には相応しくない穏やかな声だが、とても無視できない威厳さがある。
「いや、やめろって言われてもな。俺は早いとこあいつを止めたいんだが」
 一度暴走を起こした術者は、意識を喪失するなどしてチャネルが強制的に閉じられない限りは半永久的に精霊術法を使う事が出来る。それは精霊術法の元となった魔術が法術と違い、自分の内部エネルギーではなく外部から取り込んだエネルギーを変換して行使する特徴を持つからだ。そのため理論上は外部エネルギーが尽きるまで術式を行使出来るのだが、実際はそうとは限らない。術者の理性侵蝕度が高まれば、それに伴って一度に取り込む魔力の量も多くなり、やがて生まれつき持っている限界量を超えてしまうと、体内に蓄積された魔力が一気に開放され大爆発を起こす。そうなれば術者はおろか周辺一帯が何も残らないほど粉々に吹き飛んでしまう。
 だからそうなる前にシャルトを止めたい。シャルトがどれだけ蓄積出来るかは知らないが、Aランクのチャネルとなれば限界はすぐにやってくるだろう。そうなればシャルトだけではない、この場、最悪北斗全てが吹き飛んでしまう。
 すると、
「恐れる事はありません。全ては御心のままに」
 にこやかに微笑みながら『遠見』は俺の返事を待たずに踵を返し、つかつかとシャルトの方へ歩み寄っていった。相変わらずあの目は閉じられたままだが、そうとは思えぬほど軽やかな足取りで進んでいく。『遠見』が常に目を閉じているのは知っているが、視界を塞いでもまるで違和感のないその仕草はいつ見てもただただ不可思議としか形容のしようがない。見えているのか、見えなくとも歩けるのか。相変わらず浄禍の連中は訳が分からない。
 シャルトの元へ向かう『遠見』の後姿を、俺は気の抜けた表情で見送っていた。先ほどまで、あれだけ意気揚々としていた闘志が急に行き場を失ってしまったのだ。一体どこへ向ければいいのか分からず、抜いた先も決まらない大剣の柄をぼんやりと握っている。
「お兄ちゃん!」
 と、その時。急に金縛りから解けたように背後からルテラが血相を変えて駆け寄ってきた。おそらく一連の事態を一度に把握したショックのせいだろう。
「ど、どうするの?! これじゃあ……」
 シャルトが殺されるのではないか。
 青白い顔でルテラはそう言い含めていた。浄禍は北斗内で暴走事故を起こした場合に対処する任が課せられている。それは、特にAランク以上のチャネルを持つ暴走した術者の持つその危険性と無軌道な破壊力から、比較的安全に対処出来るのは北斗十二衆最強の浄禍ぐらいだからだ。そんな浄禍の筆頭が暴走したシャルトに向かって行ったのだ。そう考えるのはごく自然な成り行きだ。
「あ、ああ……」
「ああじゃないでしょう?! もう、しっかりしてよ!」
 はっきりしない返事を曖昧に返す俺にルテラはいきり立って胸をどんっと乱暴に押し、ぷいと顔を背け猛然と『遠見』の後を追いかけ始めた。しかし、
「待て!」
 すぐさまルテラの肩を掴み、その場に留まらせる。咄嗟の行動だったため、少々力が入り過ぎてしまった。ルテラが小さくうめき声を上げる。
「いいから、任せておけ」
 非難めいた視線をぶつけてきたルテラに、俺はただそう言い聞かせた。当然の事ながらルテラが納得のいった様子は見せない。怒りと不満の入り混じった感情を鋭い視線に乗せ、正気なのか、と罵倒せんばかりの勢いで睨みつけてくる。それでも俺は何言い訳する事なく、またルテラを『遠見』の元へ向かわせる事も良しとしなかった。
 自分でも随分といい加減な事を考えているのだが、俺には『遠見』と『断罪』は同じ浄禍に属していながらも全く別な性質を持っているように思えてならないのだ。『断罪』が定められた法律を厳格に遵守する人間ならば、逆に『遠見』は倫理観で人を裁く、そんな人間だ。今は『遠見』の人間性に賭けるしかない。大丈夫、俺はこれでも人を見る目はあるのだ。とは言っても、さっきからずっと動悸が止まらない。
 研ぎ澄まされた刃のような雰囲気を持っていた『断罪』とは違い、暖かな陽だまりのような柔らかい雰囲気を持つ『遠見』。しかし近づいていく彼女を前に、シャルトはこれまでと同様に怯えの表情を浮かべるだけだ。
 一歩一歩、踏みしめながら静かに歩み寄る『遠見』。ここからではその表情は窺い知れないが、俺達のようにシャルトがいつ行使してくるのか分からない暴走で無軌道になった術式に対する警戒心もまるで感じられない。
「来るなぁっ!」
 と。
 やがて自分に向かって近づいて来る『遠見』の存在感に耐えられなくなったシャルトは、涙声で絶叫を迸らせた。瞬間、白い吹雪が甲高い悲鳴を上げて収束し、刃のように『遠見』に向かって放たれる。だが、吹雪の刃は『遠見』に触れる寸前、見えない何かに遮断されたかのように弾き飛ばされ中空に霧散し消えた。『遠見』はまるで何事もなかったかのようにそのまま歩き続ける。直撃すればただでは済まないほどの術式だというのに、障壁を展開した瞬間すら分からなかった。
「やめろ、来るな!」
 恐怖に錯乱したまま、何度も何度も繰り返し放たれるシャルトの術式。しかし『遠見』はまるでそよ風のように平然と正面から受けている。シャルトの表情も恐怖の色が濃くなっていった。それでも『遠見』は容赦なくシャルトとの距離を縮めていく。それはまるで袋小路に追い詰めて捕食する狩猟のようだった。
「もうやめてくれーっ!」
 遂に耐え切れなくなったのか、シャルトは頭を抱えて泣き叫んだ。
 それが本音なのか。
 思わず俺は溜息をついてしまった。
 暴走はその人間の本性を白日の下に曝け出す。理性を剥がされた人間の本性が普段とあまりにギャップがあるから、精霊術法の暴走は『精霊に取り憑かれた』という表現が用いられるぐらいだ。そんな状態で出たシャルトの言葉だ、嘘偽りのない本心だと思って間違いない。
 シャルトは本心では誰にも関わりたくはないのだ。それほどの人間不信に近い価値観を生成するに至るほど、シャルトは辛い思いをしてきた。それは分かるのだが、こうして引き取って一緒に生活した今でさえ、まだ本心ではそんな事を考えているなんて。急に自信を喪失してしまったような寂しさが込み上げてくる。
 そして。
「恐れる事はありません。主は愛し子へ尽きる事のない愛をお与えになります」
 目の前まで来た『遠見』はゆっくりとシャルトに手を伸ばす。その手はシャルトの展開した巨大な障壁を水のように通り抜けていった。



TO BE CONTINUED...