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「ようっし、やるぞ!」
 昼。
 久しぶりに訪れた凍姫の訓練所前で、大きく息を吸い込んだ私は己に気合を入れるように自分の頬を叩く。少し、頭が眠気で重い。二日酔いではなく、仕事の疲れが溜まっているせいだ。けど、それ以上に気力が全身に満ち満ちている。疲れとか眠気とか、要は気持ちの問題だ。十分な気合があれば、体に力がみなぎる。
 一年ほど前から、少しずつミシュアさんから頭目業務を引き継いだ。その結果、今では睡眠時間が半分になってしまい、慣れない仕事の疲れは一晩で抜けてはくれないし、夜が明ければまた頭目業務が圧し掛かってくる。抜けきらない疲れは日に日に蓄積していく。はっきり言って辛いの一言だが、それでも自分は頭目なのだからやらない訳にはいかない。
 リュネスは私の多忙さを知っていて、いつも何かと世話を焼いてくれる。朝食は私が出る時間に合わせて用意してくれるし、夜が遅い時は熱いお茶と夜食を差し入れてくれる。家に帰ると、私がいつでも休めるように準備が整っていたりする。これらのリュネスの支えが無ければ、きっと私の体はもたなかっただろう。
 そんな生活の変化によって、以前のようにこの訓練所で思い切り体を動かす機会は乏しくなった。自分の実力を磨けない事に焦燥感はあったが、それよりもリュネスの成長の事の方が気になる。リュネスはもう凍姫に入ってから一年以上経過しているが、単純なポテンシャルだけは誰よりも優れている。多分、北斗でも指折りのレベルだろう。しかし逆に言えば、誰よりもその力を制御する技術が必要になる。私はそこを重点的に教えてきたのだが、生来の気の弱さのせいで今一つ安心できるレベルには足りない。抑え過ぎたり、放ち過ぎたり、どうしても極端で安定しないのだ。
 その未熟さが原因で暴走事故も一度起こしてしまった。たまたま運良く、流派『浄禍』の筆頭である『遠見』の配慮で何とか事無きを得たが、北斗にもたらした被害はとても楽観出来るレベルじゃない。街の被害はともかく、多数の負傷者、そして反逆したとはいえ流派『風無』壊滅の間接的な原因も作ってしまったのだ。
 本来、暴走事故を起こしてしまった術者は処刑されるのが通例だ。今回のような特例は二度も無いだろうから、リュネスにはこれまで以上に力を入れて徹底的に精霊術法の扱い方を教え込む必要がある。あの事故の直後、リュネスは精神的なショックからしばらく術式を使う事が出来なくなったが、それは逆に力を小出しに出来るという利点がある。そこから少しずつ訓練を積んでいけば、きっと近い内に自分の強過ぎる力を使いこなせるようになるはずだ。
 で、気がかりなのは。
 私は普段、頭目業務に追われているため、ここのところリュネスにはまともに訓練をつけてやる事が出来ないでいる。そのため、リュネスの訓練はリーシェイとラクシェルに任せている。ミシュアさんは元戦闘指南役だから、本当はミシュアさんが一番適任なのだけど、今は他の中級初級連中の強化に勤しんでいてリュネスにつきっきりという訳にはいかない。
 名目上、ミシュアさんは講師という立場になってるが、事実上の現役復帰と言っても差し支えは無いだろう。何せ、実力そのものは現役時以上なのだから。代行していた頭目業務を私に引き継いで、講師という形で復帰したのは意外だったが、人員もそれほど多くは無い凍姫としては非常に助かっている。体の方も幾らか良くなって行ってるそうだ。全力で動ける時間もかなり長くなったと本人は語ってる。ありがたいんだか、ありがたくないんだか。
 まあ、この二人でも問題は無い事は無い。二人合わせて私と同じぐらいだし、術式の制御方法もそれなりに知っているからリュネスも学ぶ事は多いだろう。けれど人格的な破綻が凄まじいから、ちゃんと訓練が本当の意味で訓練として成立してるのかが不安なのだ。それが気がかりで、珍しく早く帰ってこれた夕食時にリュネスに訊ねるが、『まずまずです』という曖昧な返答と苦笑いが返って来るのが常だ。そのせいで不安はより一層強まる。
 正直な所、私はリュネスに、自分の怠慢で両親を死なせてしまった負い目がある。だから、リュネスが強くなろうと自ら望んだ時、私は自分の責任で強くさせてあげたかった。こればかりはどうしても自分でなんとかしないと、一度口にした事を投げ出したようで気が済まないのだ。竜頭徹尾というのは中途半端で一番気分が悪い。ん? 合ってるか?
 そんな中、今日、ようやく久しぶりにまともな訓練をつけてやれる時間が作れた。リュネスがどれだけ力をつけているのか気になるし、何を教えてやろうかという期待感もある。要するに、私も結構世話好きなのだ。
 見慣れた廊下を歩いてホールへ抜ける。するとすぐに廊下との温度差が肌に絡み付いてきた。凍姫の術式は冷気、それが充満するホールの中は一回りも温度が低い。今日もいつもと変わらず、みんな訓練に余念が無いようだ。もっとも、この凍姫でふざけた事をするヤツは、ミシュアさんに片っ端から血も凍るヤキを入れられる訳だが。
「あ、おはようございます」
 と、私を見つけたリュネスはすぐに挨拶をしてきた。誰よりも早く丁寧な挨拶。同じ部屋で寝泊りして、これだけ長く付き合っているのに謙虚さを失わない所が可愛らしい。
「今日はお仕事は?」
「一通り片付いたわ。昼飯早めに食べて、さっきまでちょっくら眠ったし。体の調子も快調よ」
 そうですか、とリュネスは嬉しそうに微笑んだ。どうもここの所、疲れた顔ばっかり見せていたから大分心配をかけていたらしい。これからはもうちょっと元気に振舞っとくか。心配性に心配されるのは一番始末に置けない。
「まあ、身体の耐久性しかお前の取り得はないからな」
 と、すぐにリーシェイが茶々を入れてくる。
 実はこれがこいつなりのコミニュケーションの取り方らしい。屈折してると思うが、自分の好みの対象に接する方法もかなり屈折してる。リーシェイはどこもかしこも屈折だらけだ。逆に私は単純だのなんだの言われるけど、それはつまり性格が真っ直ぐで裏表が無いという事だ。人間的にはずっと印象がいい。
「あんたの取り得は色情狂ってとこね。さてと、今はどんな感じ?」
「はい。準備運動も終わったので、いつものように実戦形式の訓練をしてもらおうかと」
 ほう、なるほど。意外とハードな事やってんだ。
 すんなり出てきた実戦という言葉に、私は思わず溜息を漏らした。
 平然としている所を見ると、かなり実戦形式には慣れてきたらしい。体力も無く運動神経も鈍いリュネスだったが、それなりに成長してきたようだ。っていうか、一年もやって何一つ成長が無かったら困るけど。
「よっし。んじゃ、私が相手したげるわ」
 私は上着を脱いでインナー姿になり、軽く腕を回しながら肩を解す。そういやこういうのも久しぶりだ。
 リュネスは上着は脱がず、ててっと小走りで私の向かい側へと離れて立つ。この辺りはまだ、凍姫に来た頃となんら変わりが無い。
「そっちから来ていいよ」
「はい、よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げ、構える。相変わらず律儀な性格だ。思わず私も釣られて一礼する。その姿を見たラクシェルが、いしし、と歯を見せて笑っている。こいつも大概人を馬鹿にするのが好きだ。そのくせ、自分が馬鹿にされるととんでもない勢いでキレるし。なのに攻撃だけはやたら的確さを失わない。まだこいつと日常的に殴り合ってた頃は、いつも同じ場所に痣をつけられていた。肝臓や鳩尾とかの急所だ。
 さすがにリュネスにそんな事は出来ない。リュネスはもっとかしこまった物静かな世界の娘なのだ。こういう殴り合いなんかやった事が無いだろうし、何よりそれだけの覇気や闘争心なんて縁が無いだろう。
 さて、どんな可愛い攻撃が飛び出すのやら。
 私は訓練そのものを楽しむように身構える。
 スッと滑るような踏み込みと同時に、リュネスが猛然と突っ込んできた。お世辞にも運動神経は良い方ではなかったリュネスだが、かなり様になった動きだ。随分と洗練されて無駄が無く、いつ走り出したのかも良く分からなかった。
 これはなかなか楽しめるかな?
 私はにんまりと口元を綻ばせて、リュネスとの距離を注意深く測る。こっちが予想していたよりもずっと出来そうだ。
 さて、ここからどう戦術を組み立てて展開していくのか。
 リュネスの一挙一動に注目を続けたが、一体何を考えているのかリュネスは依然として前進を続けている。
 このまま直進しても私を崩せない事は分かっているはず。それに、もう数秒すればこっちの間合いに入る。今はやらないけれど、右手を本気にして繰り出したら、間合い内に入った瞬間に致命打すら与える事が出来る。
 やっぱりまだまだかなあ。
 どうやら期待は過剰だったらしい。急速に期待感が覚めていく。
 すると。
 不意にリュネスは、走りながら両腕を頭の後ろに上げた。
 どこかで見た事のある構えだ。
 そう思った瞬間、リュネスの両腕が同時に、驚くほど鋭く閃いた。
「ッ!?」
 空気を裂く微かな異音。
 反射的に私は左側に転がってそれを避ける。遅れて、かつ、かつ、と二つの音が床に響いた。そこに突き刺さっているのはリーシェイと同じ氷の針だ。キレは本家に劣るが、これはこれでかなりモノになっている。
 へえ、こんなのも覚えたんだ。
 思わずしげしげと見つめてしまった。見れば見るほどリーシェイの術式と同じだ。威力の程までは分からないが、雰囲気では結構いい感じっぽい。
 が。
 突然、その針が音を立てて爆発した。弾け飛んだ無数の氷の粒は一瞬で空気中に満遍なく霧散し、目の前が真っ白な霧に包まれる。
 霧に気を取られリュネスを見失ってしまう。範囲は狭いものの、思ったより濃度が濃い。
 しまった!
 私は焦った。どうやら初めからかわされる事なんて承知の上で、狙いは氷の霧による視界の遮断だったのだ。
 この状況で針を投げられたら、避けるのはかなり厳しい。無論、目で捉える事も出来なくも無いが、私は音で予測してかわしていた。けれど、この霧は針の姿を捉えにくくするばかりか音すらちりちりした霧の摩擦音で隠してしまう。
 うわ、やっべえ。なんかピンチ?
 私はいつの間にか思考が真剣になっている事に気がついた。リュネスぐらい、それほどマジにならなくたって大丈夫と思ってたけど。まさか、こんな思いも寄らぬ状況に追い込められるとは。実戦形式で訓練を積んでいたそうだが、本当に本格的なヤツをやっていたようだ。
 真剣とは言っても、そんな状況をどこか私は楽しんでいた。こういう緊張感とはしばらく離れていたから、久しぶりに味わえた事で気持ちが喜んでいるんだろう。まあつまり、早い話がまだ状況を楽しむ余裕があるって事だ。
 目も耳も駄目ならば、後は気配を読むしかない。
 私は呼吸を整えて、周囲に注意網を張り巡らす。
 すると。
 ぶわっ、と音を立てて霧を突き破ってきたのは、ほのかに青く光る拳だった。
「おっと」
 さすがにこれもまた意表を突かれた。
 今度はラクシェルの真似だ。おとなしいリュネスにしては随分と大胆な事をしたものだ。
 この選択も悪くは無い。私自身、きっと同じ針での射撃で狙ってくると思っていたのだから。けれども、いかんせん、突きがまるでなってない。これではまるで子供のケンカだ。腕力も無ければスピードも無く。当たった所でさして痛くも無いだろう。
 私は上体をそらして難なくそれをかわすと、擦れ違い様に右足をひょいと突き出した。自分が仕掛けた勢いで突っ込んできたリュネスは、そこへ見事に足を引っ掛けて前のめりに転ぶ。
「きゃっ!?」
 受身が取れていない。反応が鈍い証拠だ。
 すかさず私はきゅっと上から首根っこを軽く押さえてやった。
「はい、私の勝ち」
 顔を上げたリュネスは涙ぐんでいる。どうやら転んだ時に鼻をぶつけたようだ。
「よっと」
 私はリュネスの手を取って立ち上がらせ、服についた埃を払ってやる。相変わらず、ちゃんと食べてるんだかいないんだか分からない、浮かび上がりそうなほど軽い体だ。脂肪の無い体もいいが、もうちょこっと肉をつけた方がいいと個人的には思う。
「なかなかいい感じじゃない。でも、これからは術式だけじゃなくて体術も鍛えなきゃね」
 はい、と頷くリュネス。
 元々真面目な性格の娘だ。あそこに辿り着くまでには、かなり一生懸命訓練したのだろう。術式そのものが綺麗だし、体現化も随分滑らかになっていた。
「それにしても、いつの間にあんなの覚えたの? 先週はこんなの出来なかったじゃない」
「何の気無しにやらせてみたら、たまたま出来たのだ。おそらく、これまで私達の術式を見ていたから自然と覚えたのだろう」
 代わりにリーシェイが答える。
 そのリーシェイ自身、あの氷の針を今の形にまで作り出すのに結構時間がかかったと思ったけど。ラクシェルのにしたってそうだ。いきなり絶対零度を体現化出来た訳じゃない。でもまあ、そんな事もあるか。ゼロから作るのと人真似とでは、かかる時間も労力も段違いだ。本当に細部までリュネスが真似出来たのかも割かし疑問だし。
「リュネスは真面目だよ。文句一つ言わないし。素直だから上達も早い。ついてこれてるだけでも根性あるわ」
「あんたも少し見習ったら? カルシウム不足さん」
 ピクッと微かにラクシェルの眉が震える。あ、少しムカッと来てる。ホント、堪え性のないヤツだ。
 そんなこっちの思惑が伝わったのか、すぐ表情を笑顔に切り替えた。しかし、大分引きつっている。
 さて、額を割られる前に。
「ところで、リュネスに変な事しなかったでしょうね」
 念のため問いただす。
「ふむ、どうかな? まずは何を持って異常かを判別する、その基準から話し合おうではないか」
 またこれか。
 私はただ溜息だけをついて答える。こいつにまともな答えを求める事自体が馬鹿のする事なのだ。
「最近、何か変わった事あった?」
 そうリュネスの顔を見る。
 何も無けりゃ、それでいいのだが。
「い、いえ。別に……」
 すると、どこか悪いのだろうか、ちょっと引っかかる笑みを浮べている。
 やっぱりリーシェイのヤツ、何かやったな。私は直感する。
 どうせ話し合っても平行線を辿るだけだ。
 私は有無を言わさずに頭を目掛けて蹴りを放った。しかし、あっさり左手を添えただけのリーシェイに往なされ、逆に自分の勢いで後頭部から派手に転倒する。
 あっちゃあ、かなり鈍ってるな……。
「どうした? 急に奇怪な舞踊を始めて。お前の里の風習か?」
 上から嘲笑うリーシェイ。私はぐわんぐわんいってる頭を押さえながら、なんとか背中のばねで飛び起きた。
 どうやらこっちはかなり深刻なようだ。リーシェイ如きにあっさりといなされてしまうとは、実戦を離れ過ぎていたらしい。
 よし、今日中に何とか勘を取り戻そう。
 そのためにはひたすらやってやってやりまくるしかない。
「次は殺す気で行くからな」
「たまには別な脅し文句が聞きたいな」



TO BE CONTINUED...