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 なんだか大変な事になった。
 ふと僕は、まるでスイッチを入れたかのように、唐突に意識が目覚めた。本当に突然の事で、驚いた僕の体はドクドクと嫌な動悸を起こしている。口の中も酷く乾いていて、唾液が少しも出てこない。口を開けっ放しで寝ていたからかもしれない。
 飛び跳ねるように体を起こすと、そこは病室によく似た、やたら白が多く薬臭い部屋だった。僕は真っ白で固いベッドの上に横たわっていた。その周囲を白いカーテンのようなものが囲んでいる。
 僕はどうしたのだろう?
 ゆっくり記憶を掘り起こす。
 そう、僕は精霊術法を覚えるため開封を受けて。儀式中にこらえきれないほど苦しくなって、うっかり気を失ってしまったのだ。薄れ行く意識の中、開封をした人と周囲で待機していたリルフェが大騒ぎしたのを覚えている。それから僕はどうなったのか、今の状況を鑑みれば一目瞭然。情けない事に、ここへ担ぎ込まれ今まで安穏と眠っていたのだ。
 開封を行なう前、確かリルフェは『ちょっと我慢してればすぐに終わる』と言っていた。その言葉がある程度リルフェの装飾があったとしても、我慢しなければならないそれが気を失うほどのものではないだろう。少なくとも、世間一般にとっては。けど、我慢できなかった僕。それはつまり、僕の我慢が人並み以下だったという事だ。今になってじわじわと悔しさが込み上げてくる。
 それにしても、ここはどこだろう?
 落ち着いて考えてみると、自分が見知らぬ場所で眠っていたというとても重要な事に気がついた。
 思わず僕はベッドから出ると、窒息感を与えてくる白いカーテンを掻き毟るように跳ね除けた。すると眩しいほど白の目立つ部屋の全貌が僕の目に飛び込んできた。僕は目を細めながら周囲をもう一度見渡す。
 僕の寝ていたベッドに添った壁には、僕よりも背の高い棚が二つ並んで立っていた。そのガラス張りの扉の奥には、無数の薬瓶がひしめいていた。部屋の薬臭さはこれが原因だと思う。更に視線を走らせると、よく分からない難しいタイトルのついた背表紙の分厚い本が立ち並ぶ棚を見つけた。その棚のすぐ隣、そこに簡素なデスク一式があった。誰も座っていない。主は今はどこかに行っているようだ。
 まず僕は部屋の出入り口に向かった。そしてノブを握り、ドアをぐっと押してみる。
 開かない。
 途端に背筋に寒気が走った僕は、自分でもはっきりと感じるほど顔を青褪めさせ、慌ててがちゃがちゃとノブを捻ったりドアを叩いたりした。それでもドアは開こうとしない。額にふつふつと冷たい汗が浮かび上がり始める。
 僕は恐怖に思考を占領された。
 閉じ込められた。
 その衝動が僕をしきりに脱出行動へと駆り立てる。僕は何かに取り憑かれたかのようにドアと格闘を始めた。やたらめったらにドアを叩き、蹴る。開かないなら壊してしまえばいい。そんな短絡的行動で僕は自分の焼き切れそうな理性を辛うじて保っていた。
 とにかく力の限り、僕はドアを叩き続けた。塗装された金属で出来たドアは、僕が叩き続けた事で幾つものヘコミが出来ていた。しかしどれ一つとして外側に貫通するものはない。
 逃げなきゃ。
 僕はいつしかこの部屋から少しでも早く逃げ出す事を考えていた。このままここに閉じ込められているのが怖くて仕方なかったのだ。具体的な理由もなくだ。恐怖そのものに理由など必要ない。怖いものは怖い。それだけなのだ。そしてその恐怖を払拭するには、ここから脱出する他ない。
 と。
『シャルトちゃん?』
 突然、目の前のドアが僕に向かって来た。驚いた拍子に足を絡ませてバランスを崩し尻餅をついた。
「どうしたの? そんなに騒いで」
 ドアが、内側に、開く。そして現れたのは、やや目元を険立だせたルテラだった。
 あんなに一生懸命叩いても開かなかったのに。外からルテラはドアをあっさり開けてしまった。どうやら僕は引きドアと気づかずに暴れてしまっていたようだ。
「あらあら、こんなにしちゃって。もう。後でちゃんとリルに謝るのよ」
 僕がつけたドアのへこみを見ながら、ルテラが苦笑いを浮かべため息をつく。僕は自分の壮大な勘違いでこんな事をしてしまったのが恥ずかしくて、思わず顔をうつむけてしまった。
「ほら、ちょっと手を見せて」
 と、ルテラが僕の前にしゃがみ込むと、僕の両手を取った。ルテラの手は冷たかった。いや、僕の手がドアを叩き過ぎて腫れ熱を持ってしまったのでそう感じているだけだ。
「こんなになるまでして。駄目じゃない、ちゃんと気をつけなきゃ」
 ルテラに取られ、ようやく僕は自分の手があちこちから血が出ている事に気がついた。ドアを叩いて皮膚とかが破れたせいだ。でも僕はまったくそれに気づけなかった。やっぱり僕は痛みが感じられないんだ。改めて思い知らされ、ずんと頭に重いものが圧し掛かってくる。胸が痛い、という心象表現はあるけど、そういう痛みだけは変わらずリアルに僕を苛んでくる。
 ルテラは僕の手についた血をハンカチで拭った。思ったよりも傷は深くなく、拭うと血はもう出てこなかった。指もちゃんと動くから、骨も折れていないと思う。思うだけで実際はどうなのか、痛みが感じられないから分からないけれど。
「どうしたの? こんなに騒いで」
「……別に」
 閉じ込められたと勘違いした。
 とても僕は正直そんな事は言えなかった。言えるはずがない。そんな恥ずかしい事を。
 するとルテラは僕の心情を察してか否か、ただにこりと微笑みかけた。僕はそのルテラの笑顔を真っ直ぐに見る事が出来なかった。なんとなく気恥ずかしかったのだ。
「ほら、立って」
 ルテラはそれ以上は訊かずにっこり微笑むと、僕の手を持ったまま立ち上がり、ひょいと引っ張り上げる。意外なほど力が強くて、僕は膝に力を入れなくともあっさり立ち上がれてしまった。
「さて。起きてすぐに何だけど、ちょっと大事なお話があるの。そこ、座って落ち着いて話しましょう」
 僕はそうルテラに促され、ベッドに並んで腰掛けた。
 並んで座ってみて、僕の方が背が低い、と気がついた。レジェイドにはかなわない事は分かってるけれど、はっきりと分かるほどルテラに身長が負けているのが悔しかった。でも、大丈夫。まだ身長は伸びる。今は丁度伸びる時期なんだし。
「ねえ、精霊術法のこと。まだ全部聞いてないかしら?」
 まず、ルテラはそう僕に問い掛けた。その問いに僕は首を縦に振る。僕は精霊術法は、自然の力を取り込んで自分の力にする、といった程度しか知らない。そもそも開封とか、そういうのは直前まで何をするのかも分からなかったのだ。そんな状態で受けて、しかも僕は途中で気絶してしまったのだ。本当にこんな事をして大丈夫なのか、不安感は開封を受ける前よりも一層高まっている。
「そっか。じゃあ、精霊術法の危険性も教えておかなきゃね」
 危険性?
 あれ、と僕は首を傾げた。確か精霊術法は安全なものだったのでは? いや、どこかで聞き違えたのかもしれない。なんにせよ、危険な事があるのであればちゃんと聞いておかなければ。
 なんとなく。僕は嫌な予感があった。この何年かで、僕は嫌な事がこの先に起こる場合、薄々直感的に感じる事が出来るようになったのだ。そして今はそれが僕の額の辺りをピリピリと刺激してくる。ルテラが僕にとっては嫌な事を言おうとしている。そう思い、僕は体を緊張させた。
 すると。
「わ」
 不意に、ルテラは僕の肩へ腕を回して来るとそのまま抱き寄せてきた。柔らかい感触が背中から後頭部にかけて包み込んでくる。思わず驚いた僕は変に上擦った声を上げてしまった。
 何をするんだ、と照れ隠しでルテラを睨む。するとそこにあったルテラの顔は深刻な表情に満ちていた。目の周りは薄っすらと涙が浮かんでいるかのように赤ずんでいる。なんとなくあまり見ないであげた方がいいと思った僕は振り向いた首を元の位置に戻した。
 おとなしく聞かなければいけないのかもしれない。
 そう思った僕は、そのまま静かにしてルテラが話し出すのを待っていた。
「あのね、精霊術法はとても簡単に大きな力を手に入れる事が出来るのだけど、それだけじゃないの。術者なら誰もが知っておかなきゃならない、怖い一面も持ち合わせてるのよ」
 怖い一面?
 やがて、神妙な面持ちで静かに重い口調で話し始めたルテラ。僕は上下の唇を内側へ巻き込むように噛み締めながら聞く。果たしてそれはなんだというのだろうか。開封を終えたばかりとはいえ、僕も一応は術者の部類に入る訳だから。決して他人事ではない。早く聞きたい、と自分を急かす焦りをなんとか抑え込む。
「精霊術法にはね、使い過ぎるとその人の理性を奪う副作用があるの。つまり、あまり術式を使い過ぎると魔力に当てられ、時には見境無く術式を使い暴れ始めたりする、制御の利かない状態に陥るのよ。私達はまともな会話が出来そうもない状態を『暴走』って呼んでるわ」
 何か不穏になってきた、と僕は思った。自分の知識を総動員しても、とてもプラスの要素が出てこない。やっぱりどう考えても悪い事が起きたのだ。それも僕自身にだ。この場面でそんな事を言うというのは。
 そして僕は、『それでも自分には関係ない』と希望的観測を心の中で逃避するように祈りながら、
「暴走するとどうなるの?」
 と、問うた。
 しかし。
「死ぬわ」
 たった一言。だけどナイフよりも鋭くその言葉は背後から投げかけられ、胸に刺さった。
 更に。
「聞いて、シャルトちゃん。精霊術法はね、中には生まれつき暴走しやすい人も居るの」
「暴走しやすい……」
「シャルトちゃんはね、その暴走しやすい体質だって分かったの」
「僕が?」
 死。
 その一文字が圧倒的な存在感を持って僕に圧し掛かる。そして僕はぷつんと理性が切れてしまったかのように、急に自分の意志とは別に体が震え出した。僕は死ぬ。そう限った訳ではないのだけれど、死そのものが自分のすぐ背中まで迫ってきたようで怖くなったのだ。
「ごめんね……余計な事しちゃって」
 頭の後ろから聞こえてくるルテラの声。
 涙ぐんでいた。
 僕は訳も分からず、恐怖との狭間で胸を締め付けられるような思いに駆られる。



TO BE CONTINUED...