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 病院の廊下の一廓を、先ほどからずっとウロウロし続ける人影が一つ。
 目の覚めるようなエメラルドグリーンの長髪を後ろで高く結い、猫科の動物を連想させる釣り目がちの眼差。そして何故か、綺麗にラッピングされた高価そうな花束を手にしている。
 彼女の名は、ファルティア。流派『凍姫』の頭目である。
 ファルティアは酷く焦燥感に駆られた表情を浮かべ、同じ所を右往左往している。ラッピングされた花束も大分皺が寄ってきた。通院を終えた彼女が病院にやってきたのは、この病院に入院中のとある人物を見舞うためだった。一人は凍姫の経理を担当しているミシュア。彼女は一週間ほど前に起こった流派『風無』の反逆事件の際、風無の頭目との立ち合いで負傷した。傷自体は大事には至らず、訪問したファルティアは、これまで鬱積していたのであろう、普段にも増して長い説教を延々と聞かされる羽目になった。とは言え、それほどまでに回復しているのであれば、退院までそれほどかからないだろう。
 そしてもう一人。
 ファルティアが右往左往している場所の目前。そこには病院の中に数ある病室のドアの一つと、その横につけられているネームプレートには『シャルト』の名前が記載されている。ファルティアが先ほどから入り悩んでいるのはこの病室だった。手にした花束もここを訪れるために購入したものである。
 あの晩の事件で彼女と同じ凍姫に所属するリュネス=ファンロンは、初めての戦闘に緊張したためだろうか暴走事故を引き起こしてしまった。リュネス=ファンロンはSランクに位置する膨大なチャネルの持ち主だ。そのため制御能力が未熟な事も手伝い、すぐさま本格的に暴走を始めたリュネス=ファンロンは、その場にいた戦力だけで止める事は出来なかった。遂には北斗十二衆の中でも最強を謳われる流派『浄禍』を束ねる浄禍八神格までが出臨する非常事態にまで陥ったのだが、最終的に浄禍八神格に処刑されそうになったリュネス=ファンロンを救出したのはこの病室にいるシャルトだったのである。
 ファルティアにとってシャルトという人間は、さほど興味を抱く存在ではなかった。同僚であるリーシェイやラクシェルは少なからず興味を持っていたようだが、それは犬猫に抱くそれに似たものである。シャルトはかなりの壮絶な過去を持っていたが、これも同様に興味は無かった。北斗には世界各地から様々な境遇の人間が集まっているため、決して人には過去を訊ねないのが暗黙のルールとなっている。ファルティアは同期であるはずのリーシェイやラクシェルの過去も知らない。リーシェイに至っては本名すら隠している。訊ねた事も無ければ、特に知りたいとも思わなかった。だからシャルトがどんな経緯を経て北斗に来たのかも、特別に意識した事がない。
 しかし、そんなファルティアがシャルトを意識するようになったのは、件のリュネス=ファンロンを自分の元へ引き取ってからの事だった。以前、リュネス=ファンロンはシャルトと何らかの接触があったらしく、今でもシャルトに好意以上の感情を抱いているという事を人づてに知った。それが、ファルティアがシャルトを意識するようになったスイッチとなったのである。
 それ以来、ファルティアはシャルトに嫌悪感に似た感情を抱き始めた。シャルトは未だに重い後遺症が残っており、時折情緒が不安定になるため精神安定剤を常備している。ファルティアは、リュネス=ファンロンがそういう人間と一緒になっても間違いなく幸せにはなれないと思った。そのためシャルトとの関わりを断つべく、露骨に関係を破棄させるような発言をしたこともある。それほどにファルティアは、リュネス=ファンロンにはシャルトへ近づいて欲しくなかったのだ。
 ファルティアにとってリュネス=ファンロンは、まるで自分の妹のように大切な存在だった。何から何まで自分とは正反対の性格で、言いたい事も言わない口数の少なさ、几帳面な生活態度、自分の意見を主張せずに人へ譲るリュネス=ファンロンが幸せになるには、周囲の人間がしっかりと守ってやる必要があるとファルティアは考えていた。
 だが。
 あの件以来、ファルティアの中に僅かな心境の変化が訪れていた。
 リュネス=ファンロンを幸せにする事など到底無理だと考えていたシャルト。しかし彼はあの日、我が身を省みずリュネス=ファンロンを守ろうとした。その姿を見たファルティアは、少なくとも彼はどんな事があろうともリュネスを裏切らない、そう思った。
 ファルティアは一概に出来ないシャルトの評価に悩みながら、とにかく大切なリュネスを守った代償に負傷したシャルトを見舞いにやってきた。ただ、ファルティアはあまり自分の気持ちを言葉に表すのが得意ではなかった。そのため感謝の気持ちを伝える手段に花を用いた。それなりに値段の張る花を使う事で感謝の意を表すつもりだったが、ファルティアは病人を見舞う時の礼儀までは考慮に無かった。と言うよりも、そのものを知らなかったのである。
 ―――と。
『ここ、気持ちいいですか?』
『ん、もうちょっと下』
 ドア越しに聞こえてきた二つの声。その途端、ファルティアはハッと目を見開いて足を止めた。
 今、聞こえてきたその声。一つは男の声、もう一つは女の声。ここはシャルトの病室であるから、男の声はシャルトで間違いはないだろう。だが、問題は女の声だ。入院中の主だった世話は、業務で忙しいレジェイドに代わってルテラが時間を見つけてやっているそうだが、聞こえてきた女の声は明らかにルテラではない。その声の主はファルティアの良く知る人物だった。リュネス=ファンロンである。
 ファルティアは歩を潜めてドアに歩み寄ると、そっと耳を当てて中の音を盗み聞く。
『ここですか?』
『あっ……うん。そこをもう少し強く』
 再び聞こえてきた二つの声は、ファルティアの推測を確信へと近づけた。やはり間違いなく、声の主はあの二人のようだ。
 だがよく耳を澄ませてみると、二人の声の他にくちゅくちゅと何か湿ったものを擦るような音が聞こえてきた。
『どうです? このぐらいでは』
『ああ、そのぐらいがいい。そう……それで続けて』
 何やら楽しげに甘く響く二人の声。しかし、ファルティアの表情は見る間に怒りに染まっていく。
 そして、
「こら、お前ら! 何やってんだっ!」
 ファルティアはノック代わりと言わんばかりに、込み上げて来た怒りに任せて勢い良くドアを蹴り破った。ドォン、と激しい破砕音を立ててドアはあっさりと壁との留め金が外れ、転がるように病室へ雪崩れ込んでいく。それに続き、ファルティアもまた猛然と中へ踏み込んだ。
「あ……ファルティアさん?」
 茫然と視線を送るリュネスとシャルト。
 部屋に備え付けてある洗面台。シャルトはそこへ備え付けのイスに座って向かい、上体を屈めていた。頭は白い泡に塗れている。そんなシャルトの傍らにリュネスは立っていた。その手もまた白い泡に塗れている。
 ファルティアは想像していた光景とはまるで違うものが目の前に映り、思わず呆気に取られ間の抜けた表情を浮かべた。しかし、それと相対する二人もまた唖然とした表情を浮かべている。
「な、何やってるのよ……!」
 気まずげに、とりあえずはそう問いただすファルティア。
「何って、シャルトさんの頭の包帯が取れたので、頭を洗おうと……。一応、お医者様の承諾も得ているんですけど」
「そんなの、一人でやればいいじゃない」
「でも、シャルトさんはまだ手の包帯が取れてなくて。腕の方が怪我が酷くて、まだ濡らしてはいけないんです」
 リュネスとシャルトはファルティアがどうして怒っているのか理由が分からず、訝しげな視線を向けている。二人にそんな視線を浴びせられ、ファルティアは額にじんわりと冷や汗を浮かべて目を泳がせる。
「あ……う……」
 ファルティアは更に言葉を続けようとするものの思い浮かばず、獣のように唸りながらぱくぱくと口を動かす。完全に勢いだけが空回っている。そして、
「うるさい! じゃあね!」
 そう吐き捨てるような口調で言い残すと、ファルティアは持っていた花束をベッドの方へ投げつけ、そのまま病室を走り去った。
「ふにゃっ」
 ベッドの上でごろごろしていたテュリアスは突然飛んできた花束に驚くも、退屈しのぎにと花を面白そうに覗き込みながら爪で突いてみる。
「……何なんだ?」
「さあ……時々、よく分からない事をされますから」
 病室はまるで台風が過ぎ去ったかのように静まり返った。二人はただただ眉を潜めながら首を傾げるばかりで、残されたのは嘘のような静寂と、床に散らばっている使い物にならなくなったドアの破片だけである。
 と。
「病院内では静かにして下さい!」
 バタバタと駆け込んで来てそう怒鳴ったのは、二人は見覚えのある中年の看護婦だった。
「なんですかこれは! 一体何をしたんです!?」
 彼女は床に散らばったドアを目にするなり、より一層声を荒げて、そう二人に向かって怒鳴った。
「ちゃんと弁償して戴きますからね!」
「あ、それじゃあ凍姫の『ファルティア』宛てに……」
 彼女の気迫に圧倒されたリュネスは、そう申し訳なさそうに何度も謝った。



TO BE CONTINUED...