BACK

 それは、遠い遠い過去の記憶。
 儚く、そして美しい追憶は漣となって押し寄せ、少年を刹那の幻想へ導く。
 甘い夢は苦い現実と背中合わせ。
 一度噛み締めた苦味に、少年は強く打ちひしがれた。
 まるで、踏みしめられた麦が再び起き上がるように。

 
A Late Blossom





 無政府国ヨツンヘイム。
 それはかつての戦乱時代、三つの勢力が三国に分かれ力関係を拮抗させる事によって終結を迎えた。しかしヨツンヘイムは未だ戦乱という名の亡霊が闊歩している国である。
 争い事の絶えないその国の、山奥にあるほんの小さなとある村。そこには仲の良い二人の兄妹が暮らしていた。二人は両親が遺した粉を引くための水車小屋と店とでパン屋を営んでいた。力仕事の多い作業は兄が、経営等の潤滑作業は妹がそれぞれ引き受けていた。仲の良い二人の作るパンの評判は良く、二人は村人の信頼と共に日々の糧を得ていた。
 妹は村でも有数の美人だった。彼女の持つ、まるで桜を思わせるような薄紅色の長い髪と瞳は、見るものの目を容易に奪い去っていった。歳も、その村では結婚を考える年齢であったため彼女に言い寄る男性は少なくなかった。しかし、彼女は仕事を理由に特定の人物と交際する事はなかった。村の近辺からも彼女の噂を聞きつけた富豪や豪族が縁談を持ちかけて来る事もあったが、それでも彼女は笑みを湛えたまま首を縦に振る事は決してなかった。これだけの好条件を並べられても承諾しないのは、彼女には他に意中の存在があるからだ。そんな噂も立ったが、実際は単に彼女が誰かと付き合う事に興味がなかっただけだった。それよりも今は、ようやく兄と二人三脚で営んでいるパン屋の事の方が大切だった。自分の事よりも今は店の事に集中したい。当面の優先事項はそれだったのである。
 兄妹の両親は、二人がまだ幼い時分に流行り病で命を落としていた。以来、二人は自分達の生活を互いに協力する事で支えてきていた。そのためか二人の仲の良さはよく知れ渡っており、誰にでも優しく困っている人間を見過ごさない性格から評判も良く信頼も厚かった。
 誰からも好かれた二人だったが、ある事件がその境遇を一変させた。
 元々、ヨツンヘイムの情勢は不安定で、大小の抗争や戦禍が頻繁に起こる国だった。ヴァナヘイムやニブルヘイムとは違い無政府国であるため国家単位での治安機構は存在せず、ある程度の戦闘技術を持った戦闘集団や野盗ならばともかく、そういった事とはまるで無縁な一般人には外部の脅威から身を守る術は存在しなかった。いや、たった一つだけ方法はあった。力のある誰かに従属する事で代わりに守ってもらう事だ。
 村は『砕牙』いう名の戦闘集団の配下に属していた。村は外敵から防衛してもらう代わりに、砕牙へ規定の金品を納める規定になっていた。砕牙は他にも幾つか村を持ち、戦闘集団としての規模は多きな部類に入っていたため、村人は徴収のため生活水準には厳しい制限がかけられてはいたものの、村の生活の安全は比較的安定して守られていた。
 しかし。
 ある時、状況は一変した。『毒竜』と名乗る戦闘集団が、勢力を近辺まで拡大させてきたのである。毒竜は村が属していた戦闘集団『砕牙』よりも遥かに巨大な規模を誇っていた。そして砕牙には毒竜を退けるだけの戦力はなかった。
 戦闘集団と野盗の定義には決定的な違いがある。戦闘集団は主に支配する町や村の数で集団としての格が決定するが、野盗はただ略奪するだけの集団である。そのため、基本的に戦闘集団同士の抗争には一般人が巻き込まれる事はなかった。それは当然、相手を倒した場合に手に入る戦利品をわざわざ減らすメリットは皆無だからである。
 一般人は戦闘集団同士の争いにはそれほど危機感を抱かないのが慣例だった。彼らが自分達を傷つける事はないと知っているだけでなく、抗争が起きた事でより強い戦闘集団の庇護下に入る事が出来るのは、むしろ喜ばしい事である。
 だが、今回は事情が大きく異なった。それは、毒竜は小さな村の一つや二つにこだわる必要がないほど巨大な戦闘集団だという事である。そのため彼らに突き出された条件は、無条件降伏か、徹底交戦による事実上完全壊滅の二つだった。そして、追い詰められた砕牙が選択したのは『無条件降伏』だった。それにより砕牙は毒竜に吸収され、村の所有権は毒竜に移る事となってしまった。
 事態は切迫していた。
 表面上は砕牙よりも大規模な戦闘集団『毒竜』の庇護下に入ったように思えるが、問題なのはその毒竜が『村の一つや二つなど失っても構わない』という考え方が出来る規模を持っているという事だった。それはつまり、事実上、村は庇護を失ってしまった事に等しいのである。
 そんなある日。
 あの兄妹の妹は、村長に呼び出された。
 そこで告げられたのは、彼女が村を守るための『供物』として毒竜に差し出される、という事だった。砕牙の庇護を失った今、村の存続のためには毒竜の絶対的保障のある保護を受けるしか他なかった。信頼の厚い彼女を人身御供に差し出すのは身を切られる思いではあったが、条件に見合うのは村には彼女しかなく、他に選択肢は残されていなかった。人間一人と村全体とを天秤にかければ、答えは自ずとそう出る。たとえ自分の良心がどれだけ痛もうとも、村の安全を管理する立場の人間としてその決断に踏み切らなくてはいけないのである。
 すると彼女は、何の臆面もなくそれを快諾した。村のためならば、と笑顔を浮かべてあっさり割り切ってしまったのである。表情は笑顔でも、その胸中は如何なものだったのか。村長は彼女の笑顔が胸を切り裂かれそうなほど痛んだ。
 翌日、彼女は毒竜の迎えと共に村を去っていった。兄は最後まで引きとめようと試みたが、妹の決心は固く、村を守るためには他に方法が無い以上、ただ茫然と見送る事しか出来なかった。
 そして。
 妹が供物として捧げられてから二ヶ月が経過した頃。不意に村へ彼女は帰ってきた。
 予想だにしなかった事態に村の誰もが彼女の帰りを喜んだ。だが、彼女は一同の前で衝撃的な事実を一言口にした。
 彼女は、父親の分からない子供を身篭っていた。



TO BE CONTINUED...