BACK

 きっかけは些細な擦れ違いから。
 選んだ道は神様の気まぐれから。
 後先も考えない、ただその場その場を煮えたぎるように生きていた頃。
 自らを省みない、どんな事でも必ず出来ると思い込んでいた無謀な頃。
 そして走り始めた。闇の中を突き進むかのように。
 恐れは振り切った。まるで置き忘れたかのように。
 進む事実に意義を見出し。
 進む意味を黒く塗り潰し。
 私は変わった。
 そうありたかった、希望的観測。




「たまには気晴らしでもしろよ。な?」
 例年よりも半月も遅れて桜が咲いた頃。
 日曜日。本部の方へ定例会議に向かっていたレジェイドは帰ってくるなり、そうルテラに持ちかけてきた。その日、ルテラは仕事は休みだったが特に何も予定はなく、部屋で一人何もせずに過ごしていた。ルテラは、そんな自分を兄は心配して言ってくれているのだろうと解釈した。あまり外を出歩く趣味はなかったが、レジェイドはルテラに外出する事を強く勧めた。そのため、ルテラは半ば強引に外出する事になった。
 街に繰り出してはみたもの、ルテラはやはり何の目的もなく歩き続けるだけだった。ふとルテラは、自分がまるで趣味らしい趣味どころか一緒に遊ぶ友人すらいない事に気がついた。自分の身形に頓着しない訳ではなく、流行りのアクセサリーやメイクにも興味があった。しかし、それを一つの話題として楽しめる相手はいない。普段はあまり気にはならないのだが、こういった休日という時間になると否応にも強く実感させられる。
 自分の中の時間を周囲に合わせてはいる。だが、それは極めて受動的なものであるため、どことなく疎外感を感じていた。その疎外感は単に人間関係の環へ踏み込めない代償なのだけれど。
 北斗は、その治安の良さからヨツンヘイム中から人間が集まっていた。結果、市場の競争率の高さから生活水準は瞬く間に上がっていき経済の発展も群を抜いている。基本的に必要なものが街で売られている事自体が当たり前だった。その中から自分に合ったもの、より品質の高いものを捜すのが消費者である。仮に何かをやろうと思い立ったとしても、少なくとも大概の事はすぐに着手できる環境が北斗にはあった。その快適性と自由度の高さが、北斗の繁栄の基盤となっているのである。
 北斗の街はただ歩くだけでも見飽きないほど、非常に活気と変化に満ちた街だった。しかし、休日ということで一層の賑わいを見せるその街にもルテラの興味を引き足を止めさせるものはなかった。ルテラにとって、それらは全て一意の砂のようなものだった。興味が抱けなければ、どれだけ創意工夫を凝らした催しも色褪せてしまうのである。
 やがてルテラは歩き疲れ、オープンラウンジのカフェで一休みする事にした。その時、何を注文したのかも注意には入れていなかった。ただ、大きく人気上昇中と宣伝されていたドリンクを注文しただけなのである。
 ボーっと街を行き交う人々を見ながら、ルテラはストローをくわえて時折思い出したように飲みながら意識を散漫とさせていた。近頃は考える事すらも億劫になっていた。自分は幾ら考えても何も生み出さない事を自覚していたからである。
 一体何がそんなに楽しいのか、行き交う誰もが輝くような笑顔を浮かべている。羨ましくもあり、不快でにもあった。羨望と憐憫の入り混じった、酷く矛盾した胸の内の嵐。けれど、それに自分をいいように荒らされている様も、ルテラにとっては観賞する要素の一つでしかなり得なかった。自分の中の変化といったら、それぐらいのものしかなかったのだ。
 さて、そろそろ帰ろうかな。
 焦点の合わない意識の中、ルテラはぽつりと思い浮かんだ。兄にはゆっくり遊んできていい、と言われてはいたが、かと言って取り分けやりたい事が自分には無い。だからこんな事をしていても退屈なだけなのだ。いや、せっかくだからもう少しどこかを歩き回ってみるのもいいだろう。案外、兄は疲れていて今頃ベッドの中で泥のように眠っているのかもしれない。そこに自分が帰ってきてはうるさくて仕方ないだろうし。
 それにしても。
 ルテラはようやく、口から喉の奥へ流れ込む不快な感触に眉を潜めた。
 今、一番人気があるとか宣伝していたのだが。そのドリンクは、味も舌触りもねっとりとしつこく一体どこがおいしくて人気があるのか疑問に思うほどだった。今までは意識を体から切り離して味などろくに考えてなかったのだが、改めて味わってみればとても正気の沙汰とは思えないドリンクだ。こんなものが本当に売れているのだろうか? 自分の味覚が異常なのか、それとも周囲の味覚が異常なのか。ルテラはしばしそれを考えてみたが、やがてすぐにやめた。どちらにしろ、おかしいのは自分になる。正常の基準を論ずるのは民主主義の宗教だ。
 ルテラは胸のむかつきを我慢してそれを飲み続けた。少なくとも周囲大多数の価値観に自分をあわせていれば、時代の流れに取り残される事も無い。また、自分の時間も止まる事が無い。
 ―――と、その時。
「ねえ、一つ聞きたいことがあるんだけど」
 ふとルテラの横からそう誰かに声をかけられた。
 視線を向けた先には、見覚えの無い一人の青年の姿。いや、どこかで顔を合わせた気もするが勘違いかもしれない。ルテラは人の顔と名前を憶える事に興味がなかったのだ。
「今、何時か知らないかな? うっかり時計をうちに忘れてきちゃって」
 青年は人の良さそうな笑顔でそう訊ねる。
 しかし、ルテラは表情一つ変えずにゆっくりとラウンジの外を指差した。その先には、北斗の中心にそびえ立つ巨大な時計台の姿があった。北斗の大抵の場所から時刻が確認出来るほど巨大なものだ。北斗では唯一、時計業関係だけはなかなか発展しないのだが、その理由がこのためである。
「あ、そうか。あれがあったんだっけ」
 青年はばつの悪そうな笑みを浮かべる。だがそれの表情はルテラの目に白々しく映った。同時に青年に対する嫌悪感が込み上げて来た。一体何を考えているのかしらないけれど、見ず知らずの人間にそんなくだらない事で話し掛けてくるなんて。良からぬ腹積もりがあるのだろう、と。
 だが、そんなルテラの心境など構う事無く、青年はルテラと同じテーブルに座った。そしてその手にはこの店のコーヒーカップを携えている。もう一つの売り物にしている、オリジナルのブレンドコーヒーだ。
「ところで、今日は待ち合わせか何か?」
 青年はにこやかな表情でそう訊ねてくる。けれど、
「一人よ」
 対するルテラの返答は、そんな素っ気無いものだった。
「ここのお店ってね、結構人気があるんだよね。そのドリンクっておいしいかな?」
「酷い味」
 再び交わされる、温度差のある会話。それでも青年は表情を変える事はなかった。ただ、まるで何事も無かったかのように人の良さそうな笑顔を浮かべたままだ。
 と、吸ったストローからずずっと残りがない事を示す音が聞こえてきた。ルテラはおもむろに席を立ち上がると、カップを手にしたまま店内備え付けのダストボックスへと向かう。傍らを通り過ぎた店員が、ありがとうございました、と朗らかに言う。けどこれもマニュアルの一部と思うと、ルテラは急に白々しく聞こえてきた。いちいちそこまで意識を向ける人などいないのに。考える対象がないと、そういったどうでもいい事にまで気持ちが向いてしまう。気持ちが荒むから、とルテラはそこから意識を切り離した。
「いつもここには来るの?」
 そして、店を出ようとしたその時。三度、青年はルテラに話し掛けてきた。だが、
「来ないわ」
 ルテラは凍りつきそうなほど冷たい口調で突き放した。
 青年への興味は全くなかった。ただ、自分に干渉される事がひどく嫌だったため、こういった行動に出てしまったのである。しかも接触の仕方が問題だ。意味のない言葉から始まり、終始にこやかに微笑んだままの緊張感の無さ。自分に何を求めているのか、遠回しな言葉ばかりを続け。そのまどろっこしさがルテラにとっては、あの不快な味のドリンクの続きのようだった。
 ルテラが店を後にすると、青年はついて来なくなった。
 振り返って見ると、青年はまるで捨て犬のような表情で名残惜しそうにこちらを見ている。しかしルテラは無視して先を急いだ。ようやく安堵した。このままではいい加減に我慢の限界が来て、周囲を考えずに怒鳴り散らしていたかもしれない。これはこれで爽快かもしれないが、後の事を考えると見っとも無くて仕方がない。
 時刻はまだ昼下がりだった。思っていたよりも時間は経っていなかったため、ルテラはもうしばらく西区を歩き回る事にした。が、ふとルテラは自分がいつの間にか東区に足を踏み入れていた事に気がついた。そういえば、特にこの区域は目下抗争中である凍姫のお膝元だ。もしかすると、雪乱との戦闘をまた見られるかもしれない。
 見慣れない風景に、ルテラはそこはかとなく視線を左右に配せながら歩いた。西区にもあるメーカーの支店や、初めて見る名前の店が幾つかあった。だが、その他はこれといって特筆するようなものはなかった。基本的な外観は西区とそれほど変わりは無いため、初めはあった幾分かの興味も、歩いて行くに連れて次第に引いてしまっていった。
 どこをどう歩いたのかは知らないが、気がつけば再び西区に戻っていた。
 ルテラはうちに帰る事にした。
 今日も何も無かった。随分と早く帰ってしまうように思う。けど、別に仕方のない事だ。なんせ、目的も何もないのだから。街をうろついても疲れるだけである。
 見慣れた通りを歩いていき、夜叉の宿舎に戻る。レジェイドの部屋はその最上階にあった。宿舎に住むのは夜叉に所属する人間とその家族。だがルテラは外観を見るたびにいつも、自分は兄の元に寄生している、という感が込み上げてくるのを否めなかった。いつまで自分は惰性に流された生活を続けていくのだろうか。その思いがちくちくと胸を刺してくる。
 合鍵でドアを開け、部屋の中へ。
 部屋の中はしんと静まり返っていた。おそらく兄はまだ眠っているのだろう。そう思ったルテラはドアを再び閉めて部屋の中に入っていく。
 特に何かした訳ではなかったが、やけに体がどんよりと重かった。
 窓から時計台を眺めてみる。夕食まで時間はまだ幾らかあった。それでルテラは、それまでの間少し眠る事にした。
 レジェイドの部屋は広かった。大きなリビングの他に、それぞれの寝室を兼ねた私室があった。キッチンも広く、バスルームもまた二人ほどが一緒に入れる大きな浴槽がついていた。初めの内はもっと狭苦しい部屋だったのだが、レジェイドが頭目に上り詰めてからは基本的に生活で不自由する事はなくなった。この部屋もまた、レジェイドが頭目であるからこそのものなのである。
「あら。あなた、誰?」
 と。
 ルテラが私室に向かおうとしたその時。突然、レジェイドの部屋のドアが開くと、そこから一人の見覚えのない女性が現れた。重ねて言えば、何故か彼女はバスローブ姿だった。
「ちょっと、誰よ?」
 彼女は露骨にルテラへ訝しい眼差しで一別すると、表情を険しくさせて部屋の中へそう問いただした。
「え?」
 その問いに、部屋の中からばたばたと駆け足でレジェイドが出てきた。レジェイドもまた、上半身には何も身に付けていなかった。
「あ、なんだ。いや、妹だよ、妹。いるって前に言わなかったっけ?」
 現れたレジェイドはやや動揺した様子を見せるものの、そう冷静さを取り繕って女性に説明する。
 言葉に嘘はないのだが、やや声が震えている分、変に嘘臭く聞こえた。当然だが、それだけの説明で女性は納得の表情は浮かべなかった。
「本当かしら? あまり似てるようには思えないけど」
「そんなことないって。な? ほら」
 疑う彼女に、レジェイドはルテラを引き寄せて自分の顔との比較をしやすい体勢を取った。
 レジェイドと頬を合わせるルテラ。別に嫌悪感も驚きも無かった。ルテラはずっと一緒に暮らしてきたレジェイドが兄として好きだったし、頬や額にキスするぐらいは普段からコミュニケーションとして当たり前にやっていた。だから今更このぐらいの事で騒いだりはしなかった。
 だが。
「ん〜……顔は似てないけど、そういえば瞳の色は同じよね。そっくりだわ」
「だろ? これで分かってくれたよな」
 女性の表情が緩み、つられてレジェイドの表情に余裕が戻ってくる。けれど、それとは対照的にルテラの表情は険しさを増していった。
 あまりに突然の事で驚いたが、なんとなく状況は理解出来た。つまりレジェイドは、彼女を家に呼ぶためにルテラへ半ば強引に外出する事を進めたのである。そして、ルテラは自分がレジェイドの生活を自分が思った以上に拘束しているという事に気がついた。その結果、自分がレジェイドにとってあまりに大きな重荷になっているという考えに至るまで時間は必要としなかった。
 自分のせいで兄は自由な生活が出来ない。しかし、今まで自分はそれに気づかず兄の上に乗っかってきた。そう考えると急にルテラの心中は後悔の念で膨れ上がり、その場に居ても立ってもいられなくなった。
 そして。
 ルテラはレジェイドを力強く突き飛ばし、自室へ駆けた。
 その姿をレジェイドは唖然として見ていた。ルテラにそんな行動を取られた事は、これまでに一度もなかったからだ。



TO BE CONTINUED...