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転ぶ事は人の宿命だ。
一つの成功を得るには、百の失敗すら覚悟しなくてはならない。
それでも成功へ果敢に挑んでいくのは、その成功が魅力的だからだ。
成功を掴むことで、人の暮らしには明るい陽が差し、更にその成功者は人々に称えられる名声を手に入れることが出来る。それが成功への原動力になっている場合もあったりなかったり。
成功の前に立ちはだかる失敗の中は、人を容易に飲み込んでしまうような化物だって存在する。それに恐れをなして前進を放棄する者もいるほどだ。
進めば進むほど打ちのめされ、犠牲という犠牲が山と積み上げられる。
でも、求める人間は何度でも立ち上がる。
踏まれて強くなる麦のように。
それが、生きて明日へ繋げるという事なのだ。
私も、明日へ繋げなければ。
襲撃から一夜明け。
稀に見る痛手を受けてしまった北斗の街だったが、人々はもうその修復作業に取り組み始めている。死傷者総計500余名。決して軽視出来ないこの被害の大きさをまるで感じさせない力強さだ。
と、不意に欠伸が込み上げてくる。普段はこんな大通りで大口を開けるのは躊躇うのだけれど、今は眠くて眠くて仕方がなかったので、そんな体裁繕いはどうでも良かった。
「ふぁ……あぁ」
全く噛み殺す事無く大きく息を吸い込み、そして吐く。生理機能がもたらす半強制的な深呼吸。けれどその後半、息を吐くところは思わず溜息混じりになってしまった。
守星の業務開始から、およそ二十時間。丁度一週間前、凍姫の影の支配者であるミシュアさんに、ファルティア、リーシェイと共に、訓練所を半壊させた罰として就かされた守星の業務。決して楽とは言い難いものの、何とか今日までこなしてきた訳だが。この最終日に限って予定外の事件が次々と起こった。敵襲はザラにある事だから良しとしよう。問題はファルティアの職務怠慢とそれが重なってしまった事だ。おかげで本部から引き続き警戒態勢を敷くようにお達しが来た。そのため余裕で予定勤務時間を超過している。歩き続けた靴はかなり痛んだし、足の裏もしくしく泣いている。疲労のあまり空腹も感じなくなってきた。頭はずっと眠気が重く圧し掛かっている。
とにかく、今すぐにでも部屋に帰ってベッドの中で泥のように眠りたかった。これは大事な仕事だから、と帰りたがる本能を理性が辛うじて抑えているが、その理性もそろそろ我慢の限界を迎えている。もし、あと何か一つでも厄介事が起こったら。私は確実にキレる。私は普段は常識家なのだが、怒ると怖いのだ。自分で言うのもなんだが。
端的に言ってしまえば、今回の混乱の原因は全てファルティアにある。襲撃当時、ファルティアが迅速に対応していればこれほどの被害にはならずに済んだのだ。とはいえ、そのファルティアを責めても仕方のない事だし。この五百という数字もファルティアの耳には届いているはず。自分のせいでこれだけの人間が取り返しのつかない被害を被ったと知れば、その精神的重圧は想像を絶するものになるだろう。五百人分の十字架を背負う訳だ。それだけでも辛いはずだから、そこに周りが追い討ちをかけるような真似をする訳にはいかない。
被害が最も大きかった南区。そこを私は一晩中残党退治で駆けずり回った。そして今は追撃部隊の奇襲に備え、こうして本部の命令で巡回しているのだが。いい加減、もうそろそろ解いてもいいだろうと思う。いや、別に交代したい訳じゃない。このままでは倒れるかキレるかの強制二択になるからの事を言ってるのだ。それに、あれからファルティアの姿も見かけないし。ちょっと探して様子を見たい。あいつは超がつくほどの単純馬鹿だから、きっと相当に思い詰めているはずだ。思い詰め過ぎて―――なんて事態も十分に考えうる。それが不安なのだ。
「おーい、下! 気をつけろ!」
「まだ届いてないのか!? 早くしろ!」
南区の街路の左右を挟む建物は、軒並み昨夜の襲撃によって何らかの損壊を受けた。だが、こんな朝早くから既に数十名の職人達が集まって修復工事を着々と進めている。復興は早いに越した事はないが、しかしその威勢のいい掛け声や景気のいい工事の音も、私にとっては貫徹明けの頭を苛むだけの騒音でしかない。
「やれやれ……元気ねえ」
普段は何気なくブチ抜いたりする建物の壁。だがその修復には、素人には気の遠くなるような作業が必要なのだ。あまり修復作業を見かけた事はなかったのだが、こうして壊れたものを一生懸命になって修復している姿を間近で見ていると、これからは極力自重しようという気にさせられる。でも、本当は私はいつも悪くはないのだ。ファルティアとリーシェイが仕掛けるから私も仕方なく応戦し、結果的に建物の損壊に繋がってしまった訳で。……まあ、さすがにエイジのヤツを病院送りになる決定打をうっかり与えてしまったのは悪かったとは思ってるけど、なんにせよ私は基本的に冤罪を被ってるだけ。いい加減、ミシュアさんにもちゃんと分かってもらわないと、あの二人のせいで私の人格までもが地に堕ちる。
そういや、よくもまあ私達も飽きずにどつきあってるわね。内容は過激になったけど、やってる次元はここに来た時と全く変わってない。きっと頭の中身はなんら成長してないんだろうなあ。
北斗に来てから、かれこれもう五年になる。
これまでの間、本当に色々な事があったが、何よりも私はファルティア、リーシェイと出会えたのが一番の喜びだと思う。なんせ、本気で自分の感情をぶつけ合える人間なんてそう滅多にはいないのだ。それが一度に二人も現れたのだから、幸運としか言いようがない。
初めて北斗に来た時は、あまりに多くの人種や文化が入り混じり、その結果独特の混合文化を作り出した街の雰囲気に戸惑ってばかりだった。初めて見る肌の色、自分とは違う瞳の色がそこら中に溢れている。そんな事でいちいち驚いていたら身が持たないくらいだ。そしてもっと驚くべきなのが、人種以上に複雑怪奇な異文化の数々。一番驚いたのが、みんな動物を当たり前のように食べる事だ。私の故郷では、宗教的な理由で動物は人間と同等の存在となっている。そのため肉を食べる機会なんて、月に一度の祭典で神の使いとして聖別された肉をほんの少し食べる以外にはなかった。ここにはそんな習慣はないため、私もそれに合わせる事にしたのだが、意外と順応するのは早かった。北斗に点在する肉料理自体が美味しいかったのが一番の要因だろう。
生まれ故郷から遠く離れたこの地だが、私はこの街が好きだ。何より活力に溢れている。これほど周囲に敵が押し寄せているというのに、まるで気にかけないバイタリティ。私は守る側であるはずなのに、逆に圧倒されてしまう事が多々ある。このエネルギーがあれば、ヨツンヘイムの混沌も絶対に乗り切れるだろう。組織的な生命力に溢れる事は団結力が強固である事の現れだ。北斗はそれ単体の猛獣となり、ヨツンヘイムという荒野を必死に生き抜いている。その姿が痛く私に共感を憶えさせるのである。
と。
『お父さん……お母さん……ドコにいるの?』
耳に飛び込んできた、今にも消え入りそうなか細い声。
ふと前方を見やると、そこにいつの間にか一人の幼女の姿があった。
『怖いよう……早く来て……』
女の子はぐすぐすと溢れる涙を拭いながら、まるで熱病にうなされているかのようにふらふらと街路を右へ左へとふらつき彷徨っている。倒れそうなほど弱っているのに、そこを酷使して歩いているかのような、そんな印象だ。
どうしてこんな時間に子供が? そもそも今は、一応は厳戒態勢中。昔かたぎの職人達はともかく、幼い子供が一人で外になんて出歩けるはずがないのだ。
だが。
よくよくその子を見てみると、まるで霧のように姿が消えたり現れたりを繰り返している。しかも道路に影が映っていない。何より、声を聞くまで気づけなかったほど存在感が薄い。いや、薄いと言うよりも存在そのものが非常に虚ろで不安定なのだ。
これだけ大勢の人が居るにも関わらず、誰もその子に気づく様子はない。当然といえば当然の事だ。その子に気づける私の方が特殊なのだから。
「おいで」
私はその子に向かって優しく声をかける。女の子はゆっくりとこちらを向いた。表情は酷く怯え切り、オドオドしている。しかしにっこりと微笑みかけると、安心したのかそれに釣られるようにこちらへ駆け寄ってきた。
女の子は訴え掛けるような眼差しで私を下から見上げる。私はその場にしゃがみ込み、視線を女の子に合わせる。
「あなたのお父さんもお母さんも、ここにはいないわ」
優しく頭を撫でて上げながら私は話し掛ける。
「ほら、あなたが行くべき所は分かったでしょう? そこで二人とも待っているわ」
目元を拭いながら、女の子はこくりとうなずく。
『ありがとう』
微かな笑顔と共に、その言葉を最後にして女の子はスーッと消えた。
周囲からは完全に女の子の気配は感じられなくなった。文字通り消え失せたのである。それは普通ではあり得ない現象だ。そして、それを目の当たりにした私も本当なら取り乱さなくてはいけないのだけれど。あいにく、こういった事にはとっくに慣れてしまっている。
今の子は、もうこの世の人間ではなかった。自分が死んだのも自覚していない所を見ると、おそらく今回の襲撃で命を落としたのだろう。父親も母親も死んでしまっているようだ。それで街のどこにも両親の姿を見つけられず、こうしてさ迷い歩いていたという所だろうか。
私は生まれつき死んだ人間の姿が見えた。ただ、そうであると気がついたのは物心がついてからだ。それまで私は生きている人間と死んでいる人間との区別がつかなかったのである。
やがて私は、死んだ人間の事は口にしない方がいいと思い始めた。それは、決まって誰もが気味悪がったり馬鹿にしたりして、少しも信じてくれなかったからだ。私にしか見えていないのだ。だから言わない方がいい。私がその力を隠すようになったのは極めて自然な流れだった。
どうしてこんな力があるのか。それからはずっと悩んでばかりいた。こんな力があったって人から気味悪がられるだけだ。だったら初めから無い方がいいに決まっている。
でもある時、ふとした事で私はこの力の意味を考えるようになった。
それは一人寂しく死んだおじいさんだった。私はおじいさんの話に一日中耳を傾けた。そして太陽が沈む頃になって、おじいさんは『聞いてくれてありがとう』と嬉しそうな表情で消えていった。きっとこの世への未練がなくなったのだと思う。
戦う力は生きている人間のためのものだけれど、この力は死んでなお安息を得られない人間のためのものだ。私は人類を救ってどうこうなんて聖人君主じゃないけれど、救えるのならば一人でも多い方がいいと思う。それに救いを求めているのは生きている人だけじゃない。死という苦痛を味わったにも関わらず楽になれない人がいるのだ。彼らの救いの声を聞くことが出来るなら、私が手を差し伸べてやればいい。
「さて、もうひと頑張り」
女の子が無事に昇った事を確認すると、私はゆっくりと立ち上がった。
背には昨夜から積もりに積もった疲労感が重く圧し掛かってくる。しかし、体の疲労そのものは大した問題にはならない。それ以上に、気分は晴れやかなのだから。
TO BE CONTINUED...