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「てめえ……何のつもりだ」
戦慄に凍りつく空気。
息苦しさに肩が上下する。本来、柔らかく握り締めなければならない大剣の柄を、無意識の内に出せるだけの力で強く握り締めていた。おぼろげだった意識はとうに鮮明さを取り戻し、折れた肋骨の痛みが胸を締め付けてくる。
自分は恐怖している。
レジェイドは目の前に佇む『遠見』の存在感に、自分がまるで子犬のように萎縮している事を自覚してしまった。
敵を目の前に恐れる事ほど屈辱的なものはなかった。しかし、『遠見』だけはどうしても例外の範疇に収めておきたかった。とても同じ人類とは思えなかったのだ。これまで、人間離れした強さを持つ人間は何人も相手にしてきた。誰もが化け物染みた圧倒的な存在感を持ち、一瞬でも気を抜こうものならばあっという間に飲み込まれてしまう。けれど、『遠見』はそんな比ではなかった。人間離れしてはいても、所詮彼らは自分と同じ人間。理屈もあれば弱点もある。だが『遠見』はそのどちらも持ち合わせてはいなかった。あるのは人間がどうやっても手に入れる事の出来ない神業的な強大な力と、限りなく透明に近い信仰心の二つ。
彼女の持つ絶対的な正義は、如何なるものにも他の追随を許さず、ましてや一片とも妥協という言葉の存在を許しはしない。彼女の力は罪人に対して灼熱の鉄槌の如く振り落とされる。大よそ罪悪に対し容赦という概念が無い。元々北斗は荒んだ国内情勢もあり、市内の治安維持は過剰なほど徹底されている。小さな不正を見逃せば、後々に重大な犯罪に発展しかねないからだ。そのため彼女の徹底さは同じ十二衆の自分の役目と何ら変わりは無いのだが、けれど誰一人として『遠見』を初めとする流派『浄禍』が自分達と同じとは認めなかった。それは、『浄禍』の正義とは自分達とは違い、あまりに非人道的だからだ。
どれだけ敵が憎くとも、果たしてそれほど徹底する事が出来るのか。
北斗である以上、やらなくてはならない必然を義務付けられている自覚はあり、そこから目を背けたりはしない。だが彼女らは全く同じ事を表情一つ変えずに何の躊躇いも無く行ってしまう。まるで人間らしい感情は感じられず、神の代行どころかむしろ悪魔の所業とさえ呼ぶ者も居る。過ぎた正義は狂気と紙一重である。それを常識の概念から外れた異常な力で体現するのが北斗最強の流派『浄禍』だ。絶えない笑みと信仰心を持って正義の名の元に虐殺を繰り広げる彼女達、その頂点に立つ『遠見』もまた同じ正義と狂気の境界に立つ凄惨な虐殺者の一人だ。
かつて対峙した時、彼女の持つ特異な雰囲気にこれほどの恐れを感じる事は無かった。むしろ風聞に違う温かみさえ帯びていた。にも関わらず、今の自分は明らかにあの『遠見』に対して恐れ戦いている。本能的に、彼女は他の何よりも危険な存在だ、と感じ取っているのである。ただ一言、吐き捨てるだけで精一杯だったのだ。
動け……動け!
レジェイドは震える奥歯を噛み締め自らを叱咤する。幾ら力を入れようとも体が思うように動かす事が出来ない。蛇に睨まれた蛙の心境だ。俎板の鯉にまで成り下がらないだけで精一杯だ。
「震えているのですか? 神に唾する事を恐れぬあなたが」
「うるせえ……毒にやられて体が震えてるだけだ……!」
だが『遠見』はにこやかに微笑み返すだけだ。まるで子供をあしらう母親だ、とレジェイドは思った。彼女にとって自分の力など、まさに子供程度でしかないのだ。
と、『遠見』はゆっくりレジェイドに向かって歩み寄ると、そっと右手を伸ばしてレジェイドの大剣の切っ先に触れる。そして静かに先を下げさせた。特別なものは何一つ無い、たったそれだけの仕草。けれどレジェイドは逆らうことが出来なかった。従わなくてはならない、と怯えた体がそう震えるのだ。
「少し、お話いたしましょうか」
「何をだ……?」
「あなたが一番知りたがっている事ですよ。この、今回の騒動についてです」
にこやかな彼女の表情は温かく、まさに聖母像の具現化と呼ぶに相応しかった。しかし、決して慈悲深さや安らぎを感じさせぬ異様な違和感があった。その笑みに騙されてはいけない。本能がせわしなく警鐘を鳴らす。かつてこれほど恐怖を感じさせる笑みを見た事があっただろうか? 笑いながら人を殺める事が出来る人間は多く見てきたが、彼女に比べればどれも可愛らしく見えてくる。彼女は人間としてではなく、種族としての格が違うのだ。
「この事件の首謀者は、エスタシア氏という事が総意の見解でしょう。彼は慎重に事を進めてきました。周囲の信頼を得る事で自らに疑いが及ばぬよう努め、その裏側で人材の取捨選択、武具の準備、総括部の無力化、そして何よりも自身が力を蓄える事に専念しました。これまで誰一人、彼を疑う人間はいませんでした。もっとも、ただ一人だけ。彼の実兄に当たるスファイル氏だけは例外でしたが、排除されてしまえば問題はありません」
「スファイルの野郎が死んだのは、やっぱりあいつの仕業だったって訳か……」
レジェイドは視線を落とし奥歯を噛む。
脳裏に、あの頃のルテラが見せた泣き顔ややつれた顔が幾つも浮かんでは消えた。二人がどれだけ愛し合っていたのか、言葉は無くとも周囲にはひしひしと伝わってきた。そんな折に突然、スファイルは死んでしまったのだ。ルテラの悲しみが如何程の物か、相当鈍感な人間でなければ想像に難くないだろう。それを知りつつ、エスタシアは素知らぬ顔で同情の振りをしていたのだ。その不敵さは無論だが、何より気づけなかった自分に悔しさが込み上げてきた。
「彼の働きぶりは完璧としか言い様がありませんでした。私が要所要所で先を視、口を挟ませてはいただきましたが、彼ならば間違いなく北斗に革新を持たせる事が出来たでしょう」
「その割に、大分状況にガタが来てるようだがな。買い被りじゃねえのか?」
「いえ。一つ留意して頂きたいのは、彼と私達の目的は違っているという事です。彼の失策は、私達が彼と全く同じ方向を向いている訳ではない事に気がつけなかった事」
目的が……違う?
レジェイドの考えでは、エスタシアは浄禍八神格と手を組んで、その力を利用し北斗を乗っ取ろうとしている、というものだった。十二衆の内何流派かを寝返らせたのも、『浄禍』が何か妙な力を使ったからだ。『浄禍』は精霊術法では体現化出来ないような事までも体現する事がある。実際に、以前シャルトの精霊術法を完全に使えぬよう封印をかけた事をこの目で見た。そんな連中なら人の心を操作する事ぐらい、訳は無いだろう。
ともかく、自分は完全に味方という訳ではない、と否定するその真意が気になる。ならば一体何故、北斗を敵に回してまでエスタシアについたのか。その理由だ。理由も無く人を殺す人間はいるが、少なくとも『浄禍』の連中はその内に当てはまらない。彼女らの行動の理由は一律、信仰というもので括られているからである。
疑心の目を向けるレジェイドに対し『遠見』はただ悠然と微笑む。何一つとして自分に恐れるものは無い。そう言いたげな堂々とした眼差しだ。
「私には視えていたのです」
何が?
そう問い返そうとしたレジェイドの喉が詰まる。そのまま軽くひとしきり咳き込んだ。血清を打つのが遅かったせいだろうか、先程よりも体がだるく呼吸が苦しい。
レジェイドが収まるのを待ち、『遠見』はゆっくり間を取ってから言葉を続けた。
「私達浄禍八神格が遠くない未来、信仰に絶望する姿です」
信仰に? あの浄禍が?
さすがにレジェイドは驚きを隠せず、その言葉に息を飲む。そんなレジェイドに対して『遠見』は、ただにっこりと微笑み返すだけだった。
彼女らはどれだけ血生臭い所業を平然と行う人間だとしても、少なくとも信仰だけには忠実な人間だったのだ。それが何故、急に信仰心を失うのか。いや、今は未だ失ってはいないのだが、もしも『遠見』が視間違っていなければ信仰の喪失はどういった理由でなるのか。とても予想がつかなかった。
信仰心で理性を辛うじて保つ彼女らから信仰が失われてしまったら、一体どうなるのか。答えは考えるまでも無かった。
被害は北斗だけでなくヨツンヘイム全域規模に及ぶだろう。少なくとも北斗の戦力だけで暴走した八神格を抑える事は不可能に等しいだろう。
「私達は思いました。主への愛のある今、せめてもの信仰心を示すため、自らの命を断とうと。しかし、私達には自らの命を断つ事は出来ませんでした。それは神の教えに反するからです」
それは最善の判断と言えるだろう。手がつけられなくなる前に、自分に自分でケリをつける。もしも北斗の事を真剣に考えるならば至極当然の判断だと言える。
しかし、レジェイドには怒りしか込み上げて来なかった。それは、彼女らのやり方が自分達だけの責任ではなく、周囲を広く巻き込み取り返しのつかぬような大事態まで引き起こすような手段だからである。
自分自身に責任を持てず、あまつさえ恥以外の何物でも無いそれを何の気無しにと告白する『遠見』に我慢がならない。
「お前は……お前達はたかが自分で死ぬだけで、こんな事を起こしたっていうのか!? 一体どれだけの人間が無駄死にしと思う!」
「私達には人と同じ死はありません。あなたの剣が私に通じないように。それに、彼らの死もまた無駄ではないのです。全ては必然によって呼び集められたものなのです」
その言葉に、またしても過去の映像が脳裏を過ぎる。
全力で振り下ろしたはずの大剣を片手で受け止めた彼女の姿。俄かに受け入れ難い現実、しかし少なくとも自分と浄禍八神格との格差というものを認識しなければいけない現実だ。
どれだけ張り切ろうとも、自分の剣ではせいぜい傷つける程度にしかならない。種族的格差すらある自分との実力差は、努力や覚悟程度では埋める事など出来ないのだ。
「私は御許へ向かうため、皆の死を探しました。確実に、それも全員が一度に召す事の出来るように、一時に集められる死を。そして私はそれを見つけました。ですが皆が死へ至るには必要なピースがありました。更にはそれらを一時に集めるにはある要素が必要でした。つまりそのための、これは必要悪だったのです」
「エスタシアをたぶらかしたのは、そのピースとやらを集めるためだって訳か?」
「いえ。ピースの件は確かにそうですが、彼は元々北斗に対する不満と野心を持っていました。私は彼の自発的な行動を利用したに過ぎません。私達を屠るに必要なのは、第一に覚悟を決めるという事でした。死を恐れぬのではなく、必ず勝つという覚悟。しかし、普通に考えれば、同志である我々にそれほどの覚悟を決めて立ち向かう状況などはまずあり得ません。ですから、その状況を作り出すため彼の北斗へ対する反逆とは非常に自然で効果的な土壌だったと呼べる訳です」
「お前がシャルトやリュネスを生かしたのもそういうことか」
「はい。あの二人は最も重要な因果律を持っていますから」
全てはお見通しだったから、って事か。
レジェイドは『遠見』へ失望のような感情を覚えた。あの時、どちらも精霊術法を暴走させ、『浄禍』に粛清される寸前だった。けれど颯爽と現れた『遠見』は自らの権限を持って粛清を辞めさせ命を救ったのである。
そこに、少なからずの慈悲を見たように思った。しかしそれは錯覚にしか過ぎなかったのだ。あれは哀れみでもなんでもなく、ただ自分の目的のため、利用するために生かしただけにしか過ぎないのだ。
「驚いたな。てめえらが死ぬためだけに、何年も何年も手間隙かけて、こんな大騒ぎ起こすなんてな。正気の沙汰じゃねえよ」
「元より私達は正気ではありません。信仰も所詮は精霊術法を正当化するための詭弁にしか過ぎません。狂わなければ、盲信に傾倒する事も出来ません。私達にとっての信仰とは、己を正気へ縛り付ける鎖にしか過ぎません。私達が現世に居る以上、避ける事の出来ないカルマなのです」
「ならば、何故絶望したと思う?」
「信仰では何一つ救えはしない。行動する事でしか現実は変えられない。そして変える力とは、即ち軍事力。それが真理なのです。既に私達はその現実に気がついています」
なんて自分勝手な言い草か。
レジェイドは俄に燃えるような怒りがたぎってくるのを感じた。死力を振り絞り、もはや死に体に等しい体の奥底から激しいエネルギーが沸いてくる。
これ以上、耳を貸したくなかった。正義を失った信徒の奇弁など、聞き苦しい以外の何物でも無い。ただ苛立ちがつのるばかりだ。
「俺に足りないピースってのは……何だ?」
「あなたには逆に不要なものがあります。それは、礼節と主義。命の略奪を厭わない捕食者になるためには不要なものです」
「で、ここで従えば、俺はまんまとお前の思惑通りになるって訳か?」
「いいえ。それは予め決められていた結末です。そうなると、既に決定されているのです」
直後。
一息の内に振り上げられたレジェイドの大剣は、躊躇い無く袈裟斬りに放たれた。
刃は『遠見』の肩に食い込み、そこから一気に脇腹までを走り抜ける。一呼吸置き、ずるり、と『遠見』の上体が横へ滑りながらずれていく。しかし、流れ出る血は滴り落ちるより早く真っ白な塩へ変わっていった。そんな意外な変化にレジェイドは振り抜いた後で僅かに戸惑いを見せる。
やがて『遠見』の体も解けるように塩へと姿を変えていった。紙の上に落とされたインクのように、白い波紋が加速的に広がって行く。
首から上が塩になる直前、『遠見』は笑みを浮かべた。慈愛に満ちた輝くような笑みだ。心から、自分が解放された事を喜んでいるかのような、そんな笑みだった。
崩壊は終わり、『遠見』の姿は完全な塩の溜まりに変わってしまった。到底人間の死とは思えぬ異様な光景である。
「くそったれ!」
力一杯、レジェイドは大剣を床へ叩きつける。しかし剣は折れずに床へ食い込み、引き抜こうとしたレジェイドは柄から手を滑らせて逆に床へ尻餅をついた。
「くそったれめ……」
がっくりと頭を俯けるレジェイド。その表情には怒りと悲しみが斑に浮かんでいた。
TO BE CONTINUED...