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夕刻。
周囲が薄暗くなり始めた頃、ようやく馬車は例の教団の総本山に到着した。
「どうぞ」
外から馬車が開けられ、うやうやしく出迎えたのは。ゆったりとした僧衣を身に纏った恰幅のいい老僧だった。禿げ上がった頭には脂が浮かび、そのにやついて見える笑顔が爬虫類に見えてくる。如何にもそれらしい中年の男だ。一見して質素に見える僧衣だが、首には金の首飾り、指には幾つかの下品なほど輝く指輪が収まっている。到底、神の徳と恩寵に従う人間には見えない姿だ。こいつがやつらの言う所の尊士にしてはあまりにカリスマ性が感じられないから、おそらくは甘い汁だけ吸えるような、やや格下の無責任な地位の男だろう。
「ようこそいらっしゃいました。さあ、我らの尊士がお待ちかねです」
にこにこと露骨な笑みを浮かべながら手揉みを繰り返して近づく男。俺は嫌悪感のあまり今すぐにでも殴り飛ばしたい衝動を抑えつつ、如何にも何も知らない青年を演技しながら笑顔で応対する。元々、単純な戦闘の方が得意なだけに、自分の意にそぐわない態度を続けるのは苦痛だ。
馬車を出た目の前には、まるでどこかの領主が住んでいるような巨大な建物が立ちはだかっていた。白い外壁が如何にも神々しい神性さを醸し出している。しかしよく考えてみれば、神の信徒が住む場所の割には随分と金がかかっているものだ、とすぐに興醒めした。この宗教団体の入信者は多額の布施を寄付しているらしいが、そうやって搾り取った金でこれも建造されたのだろう。何でも使い様である。
周囲には信者らしき質素な僧衣を着た連中が、建物の入り口に向けて二列に分かれて並んでいる。俺達を歓迎するためにやっているようではあるが、目の前の男とは対照的に皆表情が仮面のように乏しい。本当に歓迎する気があるのか、はたまた立っているのは人間ではなく人形なのか。非常に疑わしい。
白い石材で作られた石段を上り、身の丈の二倍、横幅は数倍あろうかという巨大な正面扉の前に立つ。観音開きの扉の左右には大柄な男が二人、それぞれ立っていた。二人は中年の男の合図を受けると無言でこくりとうなづき、重厚な扉を一気に中へと押し開けた。
中の作りは、やはり宗教団体という場所であるためか厳かな宗教色が強く、さすがに規模は外観に準じた壮大さではあるものの、これといって目立つ華美な装飾は見当たらなかった。下積み時代に何度か金持ちの屋敷の警護をやった事があったが、あれは本当に悪趣味の一言に尽きる華美さ加減だった。この白を基調とした静かな雰囲気は少なからず俺の気分を落ち着かせる。
「尊士はこちらです。お連れの方々は、只今人に案内させますので、向こうのお部屋でお休み下さい」
そう中年の男に言われ、部下二人が視線で判断を俺に仰いでくる。あまり別行動をやりたくはなかったが、調査で潜入している以上なるべく事は穏便に済ませたい。俺は仕方なく、待機していろ、という意味を含ませて視線を投げ返した。この二人は俺が居なければ何も出来ないほど愚鈍な人間ではない。自らの裁量で最善の選択が出来なくては、俺が信頼を置く事はあり得ないのだ。
二人と別れ、俺は中年の男の案内で建物の中を歩き始める。
一階の突き抜け構造のホールを抜け、おそらく一番上まで順繰りに続いているらしき階段を上り始める。
建物は途方も無い容積を持っているようだったが、細かな作りになっているためか、音が反響しそれほど広いようには感じられなかった。ただ漠然と、自分がとんでもなく広い場所に居る事だけが分かった。別に広所恐怖症という訳ではなく、普段の自分の生活には縁のないための違和感があるのである。
階段をひたすら上へ上へと上っていく。よく、何かのおかしな思想に目覚めた奴はやたらと自分の居場所を高い所に作りたがるが。どうやら尊士とやらもそんな類の人種のようである。あの肥えた中年の男はびっしょりと汗をかきながら息を激しく切らせている。俺は別段息一つ乱れてはいないが、ともかくそれほど高い場所に住まなければ気が済まないという尊士とやらの顔を見るのが、正直色々な意味で楽しみになってきた。こういった経験も、基本的には後の自分の糧となる。更に、会話のレパートリーが一つ増えるのだ。それは夜の攻防戦にとって非常に心強い味方であると言える。男の価値は、どれだけ多くの辛苦と奇特を体験してきたか、だ。
「はい……こちらが……尊士のお部屋です」
息を切らせながら苦しそうにそう説明する中年の男。同情はしないが、馬鹿な頭の過ぎた自尊心には随分と苦労させられているんだな、と俺は密やかな感慨に耽った。くれぐれも自分はそんな頭目にはなるまい、と思ったが、途端にこれまでの自分の振る舞いがこのような一方的に強いているものになっていないか不安になってきた。これが正しい、と考え始めたら思考の柔軟性は失われ、その時点で人の上に立つ資格は失われる。組織はある一定の目的を果たすため、そこに属する人間の意思を須らく統一しなければならない。だがそれは一意性の元に洗脳し型にはめるのではなく、必然的にそうなるように導く事が優秀な指導者というものだ。この世に同じ人間は一人としていないほど、人間という生き物は様々な個性に溢れている。それを無視するような人間には、到底人を束ねる事は出来ない。
「失礼します。レジェイド様が御到着いたしました」
男は呼吸を整えつつ、恭しくドアを叩き中へ呼びかける。そして一呼吸置いた後、ゆっくり扉を開けて、どうぞ、と先に俺を部屋の中へ促した。俺は軽く一礼した後、部屋の中へと足を伸ばす。
「ようこそ。わざわざ御足労戴き、感謝します」
部屋の中に入るなりそう人の良さそうな声をかけてきたのは、腹の辺りまで白いヒゲと白い髪を伸ばした、如何にも絵に描いたような仙人然とした壮年の男だった。イメージとしては、世間のしがらみから解脱して人の域を越えた高みに到達した至高の存在、と言った所だろうか。暇潰しにしかならない三文小説からそっくりそのまま抜け出してきたかのような男である。ここまで来ると呆れも通り越し、ただただ失笑するしかない。
俺は男の求めて来た握手に応じながら、こちらも会えて嬉しいと言わんばかりの笑顔を作って返す。
この男が、尊士だとか呼ばれているここの開祖か。
いきなり最高責任者と面会出来た事に若干の緊張感を覚える。今までターゲットの最高責任者と言ったら、最終目標の大ボス的な存在だった。そのため立てる戦略は、如何にしてその元に向かうかに集約される。根本的に戦闘と潜入は違う訳だが、こうもあっさりと対面出来るのにはさすがに拍子抜けだ。
握り合った男の手は枯木のように細く骨ばっていて、正直、軽く力を込めたらあっさりと握り潰せてしまいそうなか細さだった。こんな力のない人間にこれほどの組織が作れるとは。それだけ狡猾な人間なのだろうが、その割には実にあっさりと俺達を受け入れたものだ。初めから高額の布施にしか目が向いておらず、俺達が北斗の人間だと気づいていないのか、もしくはそうと知っていながらあえて受け入れたのか。どちらにせよ、しばらくは友好ムードが続きそうだ。
俺は尊士に促され、その部屋と連結した隣の応接部屋へ向かった。そこには案の定、外観は質素な割にはちらほらと如何にも金のかかった調度品がひしめいている。自己顕示欲の強い人間は、とにかくさもない身の回りのものでも惜しげも無く金を注ぎ込む。外見的には教祖然としているが、やはり一皮剥いたらそんなものだ。早くも最終決断が『武力介入』に傾きかけた。古今東西、身に余る金を手に入れた人間がまともだった試しは一度としてない。
「長旅でお疲れでしょう。何かお飲み物は?」
「いや、結構です。車中で大層なものを戴きましたので」
左様で、と目を細めながら笑みを浮かべる。
見られてるな。
俺はひしひしと感じる鋭い視線に、立ち居を改める。
人の良さそうな表情をしていながら、その眼差しの奥にはまるで猛禽類のように鋭い目が油断なくこちらの一挙手一投足へ注がれている。どうやら先ほどの選択肢は後者寄りのようだ。少なくとも俺が北斗の人間だとは気づいていないだろうが、単なる青年実業家とは思っていないようだ。やはり金集めしか能のない、ただのバカではないか。バカに信頼を集める事は出来ないし、信頼がなければ組織を維持する事が出来ない。それに、人間は普通歳を取れば取るほど何事にも慎重になるものだ。後先考えないのは、知識に乏しいため恐怖観念のない若者だけである。
「ところで、レジェイドさんはどのようなお仕事を?」
来たか。
身分を偽る際、まず最初に問われるであろう質問だ。この仕事というものは、その場にはあまり関係がないかもしれないが実は重要な要素の一つである。仕事というものは人間に習慣等の特徴を与える。料理を仕事とする人間が包丁の使い方に秀で、土木作業を仕事とする人間は鍛え上げられた体躯をし、ハンターは深い山々を庭のように歩く。本人にしてみれば当たり前の事でも、それは経験によって研かれた一つに技術であり、縁のない人間には到底習得し得ないものだ。この技術の片鱗が、何気ない仕草へ無意識の内に現れるのである。注意してみれば、意外と誰でも気づくものだ。そこに僅かの知識が加わるだけで、その人の職業が推測出来るのである。
だからこそ、俺はこの質問に対しては最大限の注意を払わなければならない。おそらくは気づかれているであろう、無意識の内に滲み出させてしまった俺の『北斗』としての習慣。それを『戦闘集団に属する人間のもの』と気づかせぬよう誤魔化さなければならい。それも極めて自然にだ。そして、その一連の返答のテクストは既に完成している。
「大まかに言えば仲介です。仕入れ元と需要先の橋渡し。如何に安く仕入れ、高く買ってくれる顧客を探すのか。この駆け引きは癖になりますよ」
「なるほど、それは面白そうですね。しかし私では聊か才知が心許ない」
そう遠慮気味な笑みを浮かべる。と、
「しかし、その割には随分と変わった空気をお持ちですね。立ち居振舞い共に、素人目ながら隙が全くない。まるで抜き身の剣のような方だ」
突然、笑顔のままやや鋭さを増した視線を向けてきた。何の合図もなしに差し込んできた冷たい冷気に触れ、俺は思わず心臓をドクンと一度、高鳴らせてしまう。
「抜き身の剣とは、また随分と文学的だ。有り体におっしゃって結構ですよ」
「そうですか。それでは失礼を承知でお訊ねしますが、レジェイドさんは何か武術のようなものをやっておいでで? あなたにはそういった独特の空気を感じられる」
「ええ、護身術を少々。仕事柄、逆恨みされる事が多くて。ヨツンヘイムにマーケットを開くとなれば、尚更身の安全には配慮を重ねなければいけません。とは言っても、まだまだ児戯のようなものですけどね。それに最近は、デスクワークがメインなので訓練もいささか滞り気味で体も鈍っています」
自分は護身術を嗜む。
在り来たりではあるが、それが最も無難な返答だった。一般の人間が何かしらの武術を趣味として学ぶ文化はヨツンヘイムにはない。そういった戦闘に繋がる技術は、基本的に一つの確立された技術として昇華するまで極め、外敵からの防衛に活用するのがヨツンヘイムの風習だ。今の俺の返答は、『ヨツンヘイムの風習から外れた趣味的な護身術を習得している』という事を認識させる部分がポイントなのである。その時点で、『ヨツンヘイムに乱立する戦闘集団に属している』という可能性が選択肢から外される。これでほぼこの問題に関してはクリアしたも同然だ。戦闘集団にさえ結びつかなければ、後はどうにでもなるのである。大前提さえ立たなければ、疑われる心配は皆無だ。
ここを乗り越えたのだから、もう不安要素はない。調子に乗って自分から暴露するようなマネでもしない限り、俺の詐称は悟られる事はないだろう。
密やかにそう安堵していた俺だったが、尊士の鋭さを秘めた不気味な笑みは変わらなかった。
「その割に、ここまで登って来ながら息一つ乱していないですね」
それはまるで、暗に俺の疑惑をほのめかしているかのような口調だった。あくまで表情には出さず、俺を巣穴から燻り出そうとしているかのようである。
「鍛えているからですよ」
「ほほう、随分と念入りに鍛えておいでのようだ」
再び、尊士は人の良さそうな、しかし油断のない老獪な視線を向けながらの笑みを浮かべる。それはまるで俺を自分の手のひらの上で意のままに操っているかのようだ。
こいつ、何か知ってるのか? その割には遠回しに誤魔化しやがって。だが、決して自分の本音は漏らそうとせず腹の中に飲み込んだままだ。
このまま俺を泳がせる気か? 食えねえ野郎だ……。
「師が厳しい御方でしてね」
俺はなんとか不快感を押し殺して笑みを浮かべようと努めたが、やはり普段から演技など慣れていないからだろう、妙に苦虫を潰したような不自然な笑顔になってしまった。
TO BE CONTINUED...