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 何年も手間隙をかけ、微に入り細を穿つような慎重さで寸分の狂いもなく積み上げてきたはずの自らの計画。それが今、少しずつ着実に崩壊を始めている。しかし、幾ら奔走しようとも崩壊の加速を止める事は出来ず、次から次へと亀裂は連鎖的に浮き彫りになっていく。
 こんな所で、終わらせてなるものか。
 ぎゅっと唇を固く結び、足をひたすら前へと蹴り出す。総括部の石床はびくりともせず強固で、踏み込んだ足の力をそのまま押し返してくる。靴底を隔てた足の裏が、仄かに痺れを訴える。
 まずは冷静になり、当面の問題を全てリストに挙げて置かれた状況を正確に認識する。それから問題の大きさを基準に優先順位をつけ、解決に勤しむ。予定外の問題に対する定石とも言える使い古された対処法ではあったが、長くその定石が使われてきたのは他ならぬ実績が伴うからである。ここは先人に従い、同様の手法を持って状況打開の足がかりを築く事にする。まずはそこから問題の打開を始めるのである。
 自分が築き上げてきたものが加速的に崩壊する様は、気が狂いそうなほどのプレッシャーをじわりじわりと緩慢に伝えてきた。思わず耳を塞いで目を閉じ、その場に屈み込みたい衝動へ駆られる。しかし、そういった逃避行動は自らの指導者たる理性が許さなかった。自分はこの革命軍の頭目、最も責任のある指導者である。たとえ如何なる状況下に置かれようとも、常に最善ではなく結果を残すために的確な判断を下さなくてはならない。
 ぶちっ、と音を立てて唇の端から熱い感触が生まれる。苛立ちを抑えるあまり、無意識の内に唇を噛み切ってしまったのである。
 そっと手の甲で垂れる血を拭い、尚も足を前へ繰り出し失踪する。
 僅かに痛む唇の感覚が、不思議と焦燥感の渦に冷え込むような落ち着きをもたらした。焦燥感が完全に鎮火してしまうと、とても軽視できる状況ではなかったが、闇雲に焦りだけを募らせる悪循環だけは完全に断ち切る事が出来た。
 今抱える問題は四つ。
 残党軍がこちらに進軍しているという事。
 地下室に留置していたはずのレジェイドが脱獄した事。
 総括部内で次々と犯人不明の殺人事件が起こっている事。
 離れの建物に軟禁していたリュネス=ファンロンが暴走を起こした事。
 残党軍には既にこちらの戦力を割いて対応させている。その上、浄禍八神格を二人も投入している。大なり小なりイレギュラーはかわせないだろうが、この件に関しては特に問題は起こり得ないはずだ。
 リュネス=ファンロンの件にはファルティアが対応している。幾ら身内と言えどもとてもそれだけで何とか解決出来るとは到底考えられない。早急に追加対応が必要となるだろう。
 そして、今何の有効な対策を行っていない問題は二つ。レジェイドの件と謎の殺人者だ。
 レジェイドは現在、捕縛に向かった者達と交戦中である。しかし、圧倒的な戦力差があるにも拘わらず死傷者が増えるばかりで一向に解決の目処がついていない。やはり有象無象の戦力では、たとえ負傷しているとは言ってもレジェイドには何の障害にもならないようである。それに北斗では俗説でしかないが、手負いの獅子は手強いと聞く。
 総括部で起こる殺人事件は、まだ事実が判明したばかりで何の糸口も掴めていない。犯人は未だ目にしたこともないサイレントキルの達人である事ぐらいしか手掛かりはなく、北斗では無く外部の人間の犯行である可能性も否めない。もしくは、この計画を実行するに当たり最後まで気掛かりだった、十三番目の流派の関与も一つの可能性として視野に入れる必要がある。
 どちらも優先順位の付け難い由々しき問題ではあるものの、比較的早期に決着をつけられそうなのはレジェイドの件である。何の事は無い、初めからそうすれば良かったと後悔するそれの通り、自らの手で引導を渡せば良いのである。
 一先ず厳戒態勢を敷いた上でその場しのぎをし、レジェイドの問題を片付けた後にリュネス=ファンロンの問題を解決する。それが現状で考え得る最善策だ。
 そう最終決断を下すや否や、エスタシアは俄に己の内から発せられる殺気を収束して行った。そっと自らの腰に手を回し、己の体の一部とも呼べる双剣を確かめる。僅かな変化すらも感じ取れるほど馴染んだ感触が手のひらに伝わってくる。それがより一層の気迫を漲らせた。
 ただ、一つ。エスタシアは大きな気がかりを抱えていた。
 恐らくはシャルトと共に奮戦しているはずのレジェイド。たとえ傷を負っていようとも、北斗では一、二を争う実力の持ち主だ。たとえ一瞬足りとも気を抜けば、次の呼吸をする間も無く斬り伏せられてしまうだろう。
 だがそんな事などエスタシアにとって問題では無かった。
 エスタシアは何よりも、自分がレジェイドと対面した時、剣を抜けるのかどうかを不安に思っていた。手負いの獅子が手強いとは言え、消耗した相手に万全である自分が遅れを取るはずがない。負ける要素など何一つありはしないのだ。だが、自分はレジェイドとは知り合い以上の繋がりを持ってしまった人間である。レジェイドの妹と自分の兄は、かつて婚約を結んでいた。つまり、自分にとっては義理の兄にも等しい人間だ。たったそれだけの理由と、初めこそ鼻でそんな自分を嘲笑った。だが現に、自分の中にはそういった躊躇いが実際に起こっているのだ。
 情に容易く屈するのであれば、今の自分すら存在はしない。己を捨て、非常に徹する心構えには一分の隙も無い自負があった。だが、とてつもなく小さいはずの不安はいつまでもはっきりと抜けない刺のように心の奥深くへ突き刺さっている。いつ急所を貫くのか、まるでそのタイミングを見計らっているかのように。
 実際に本人を目の前にし剣を向けられても尚、躊躇いを続けるとは限らないだろう。だが、主観だけではこの憂いを濯ぐにはとても至らないのである。
 もしも剣を奮う事を躊躇ってしまったら。
 自分の意見に賛同しなかったレジェイドは、確実に自分を躊躇い無く斬り捨てるだろう。レジェイドは誰よりも北斗の人間らしい、イデオロギーを持った戦士である。敵は敵として割り切った考え方の出来る人間なのだ。
 剣を構える事も出来ず斬られてしまったら。もしかすると、運良く一命は取り留めることはあるかもしれない。だが、その時点で革命軍は死んだも同然であり、同時に指導者としての自分も死ぬ事となる。たとえ道化の仮面、もしくは偽善者の仮面を被ったままとしても、信念を貫き通せなかった戦士に居場所はない。純粋に戦いを欲したからではなく、北斗を守るため、という信念の元に剣術を修めている以上、信念が伴わなければ虫も殺す事が出来ないのだ。
 いや、迷っていても仕方が無い。
 自分の意思とは無関係に、今はレジェイドを倒さねば更なる災害が起こり自分の計画が全て水泡に帰すのだ。感情を押し殺し、たとえ忌み嫌われようともレジェイドを斬らねば、それ以上の前進は無い。
 そう、つまりはやるのかやらないのか、それだけなのである。
 やれば、悲願の革命は継続する。
 やらねば、積み上げてきたもの全てが崩壊してしまう。
 少なくとも、私的感情を持ち出して選択の権利を時間の流れに譲渡するという愚かしい行為で選択して良い問題ではない。重ねて言えば、その選択には平等の重さなど無く、あるのは結果と結末だけだ。
 一階が近づくに連れて、やけに肌寒さが色濃くなってきた。これは暴走状態に入ったリュネス=ファンロンとファルティアが交戦状態に突入したためだろうか。暴走した術者は理性を無くしてしまうため善悪の判断を行う事が出来ず、自分の欲求に対し忠実に行動する。術式は平素とは違って際限なく無作為に行使してくる。守るべき理性が無い以上、術式とは自分の欲求を果たすための便利な道具にしか過ぎないのである。
 たとえ相手が自分にとってどれほど大切な人物であっても、目的の弊害になるのであれば何の躊躇いも無く術式を行使出来るのが暴走の恐ろしさだ。リュネス=ファンロンが本当に暴走を起こしていたら、まず間違いなく目前に立ちはだかるファルティアを殺そうとするだろう。自分にとってファルティアを失う事は、公の観点だけでも非常に大きな痛手だ。
 何が何でも彼女だけは失う訳にいかない。けれど、問題解決の優先順位もまた乱す訳にはいかない。
 今、自分にとって最優先すべき事は、脱獄したレジェイドの可及的速やかな排除だ。これに通じない全ての選択肢は、二の次以降に回される。それが優先順位という北斗の唯一の美点である現実主義という観点だ。
 ならば、急ぎレジェイドを倒さねばなるまい。その問題が片付けば、状況は一気に好転する。自分がファルティアの加勢に回る余裕も生まれる。
 とにかく急ごう。そもそも、躊躇などする猶予などないのだ。
 一階のフロアを一人駆けるエスタシア。吐く息もいつしか白く色を帯び始める。日はまだ昇っていないとは言え、まるで真冬のような寒さである。しかし熱く昂ぶる体は刺すような寒さにもまるでびくともしない。
 ようやく地下への細い階段に辿り着く。
 ここから先は現在は使われていない、かつて罪人を収容していた牢獄が複数の階層に渡って敷き詰められている。その中でも最も凶悪な犯罪者を収容するために用いていた最下層の牢獄にレジェイドを収容していた。脱獄からどれだけ経ったのか正確な時間は分からないが、この先はいつレジェイドと遭遇してもおかしくはない。いつ剣を抜けるような気構えを作らなければいけない。
 エスタシアは踏み出す足の勢いをまるで緩める事なく、そのまま飛び込むように階段へ最初の一歩を踏み体を飛ばした。
 しかし。
「ッ!?」
 突然、目の前を眩しい光が覆った。
 反射的に足を止めたエスタシアは、腰に差した二刀の柄へそれぞれの手を添え構える。しかし、光の中からゆっくりと現れた彼女の姿に軽く安堵の息を吐くと、添えていたた手をゆっくりと元に戻した。
 光の中から現れたのは、深々とフードを被った修道女のような装いをした一人の女性だった。その楚々とした佇まいは決して派手なものではなかったが、黙していても決して目を逸らす事が出来ないほどの存在感を放っている。
 エスタシアはその人物を知っていた。この計画に際し、最も古い同志である浄禍八神格の一人、『光輝』の座である。
 総括部に待機していたはずの残りの浄禍八神格は、忽然と姿を眩ませていた。その理由も事情も知らされてはおらず、探そうにもこのような状況では捜索もままならない。そんな中で突然現れた『光輝』、追求したい事は多くあったが、今は何よりも実際に動かす事の出来る戦力が増えた事を幸運と思うべきである。彼女に暴走したリュネス=ファンロンへの援軍に行ってもらえば、かなり解決に近づくだろう。
 しかし、
「どこへ向かおうというのです?」
 早速指示を出そうとしたエスタシアは、逆に『光輝』からそう問い質された。
 どこへ?
 それは無論、決まっている。地下に居るレジェイドを戦線から完全に排除しに行くのだ。
 だが、そう答えるよりも先に『光輝』は次の言葉を続ける。
「役者は、決められた舞台だけで演ずるものです」
 そう言って、『光輝』はそっと右手の人差し指をエスタシアの額につけた。酷く緩慢な動作だったのだが、エスタシアは何故か動く事が出来なかった。まるで触れられるのを自ら待っていたような感すらある。
「役者? 舞台? 一体何の事なのか分かりません」
「有体に申し上げれば、でしゃばるな、という事です。貴方にはあくまで将で居て頂く必要があるのです。将が戦線に出てはなりません。まだ、将を失うには早いのですから」
 彼女の放つ言葉は、表面だけを掬えば自分の身を案じているかのように聞こえた。だが、その淡々とした口調はあくまで真意はその言葉には無い事を表している。
 そう、その言葉はまるで、たとえどれだけ事態が悪化しようとも将の役目以上の事をするな、と厳命しているようだった。
 一体どんな意味で、意図で、そんな事を言うのか。
 しかし、『光輝』の真意を探り当てるよりも早く次の異変がエスタシアを襲った。
「……な? これは……!」
 突然、エスタシアの体が薄っすらと光を放ち始める。その光は少しずつエスタシアの体を分解するように飲み込んでいった。瞬く間に体の下半分が光の中へ消えてなくなる。しかし痛みや喪失感は無く、ただどこか見えぬ所へ行ってしまったといった感覚だった。
「お戻りなさい。将に相応しい居場所へ。そして、待ちなさい。貴方に与えられた役目を果たす時が来るまで」
 既にエスタシアの体は光の中に飲み込まれ、首から先が僅かに覗くだけだった。幾ら動かそうとも、既にこの場には存在しない手足が干渉出来るはずもなく、ただ息を切らせるだけの徒労となった。
 やがて抵抗する事の無意味さを知ったエスタシアは、きっと鋭く走らせた視線を『光輝』へと投げつける。
「なるほど……そうか。そういう事ですか」
 そして、エスタシアは凄惨で自虐的な笑みを薄く浮かべた。それは自分という駒の、本当の役目を知ってしまったかのような、覚悟と驚愕と絶望とが入り混じった実に複雑な表情だった。さすがにエスタシアは己の理解力を呪った。甘い幻想を見続けた所で何も現実的に得られるものは無いのだが、少なくともこれだけは心の平安を手にしたかったのである。
 光が首、そして頭をも飲み込み始める。徐々に光に包まれ視界が奪われていく。その中でエスタシアは最後に一言、『光輝』の声を聞いた。
「せめて、あなたの行く末に光あれ」
 そして、膨大な量の光に五感の全てが奪われて行った。まるで自分自身が光と同化してしまったかのような錯覚を覚える。
 だが、それでもエスタシアは己の意識の中で『光輝』の姿を思い浮かべ、睨み続けていた。溢れ出る闘志はいつしか、目的としていたレジェイドではなく『光輝』へと向けられていた。
「道化に……そんなものは必要ないッ!」
 エスタシアの叫びは、空しく光の中へ飲み込まれていった。
 彼女の耳に届いたのか、それだ誰にも知る由は無い。



TO BE CONTINUED...