BACK
強くなるための、具体的な第一歩目を私は踏みしめました。
それは意外とあっけなくて、本当に進んだのか分からないほどです。
当然です。
まだ何の努力も積み重ねていないのですから。
私の努力はこれからです。
「これより開封の儀を行います」
お昼休みから明けた午後。
私は昼食を取りにファルティアさん達と一旦外に出た後、再び凍姫の訓練室に来ていました。場所は午前の講義の時に使った書物室がある、同じ二階の突き当たりにある何もない部屋です。そこは十メートル四方の、一面が石材で敷き詰められ窓もない薄暗く湿気の多い部屋でした。たとえ昼間でも一人ではあまり入りたくはないような部屋です。
この部屋は開封を行うための部屋のようでした。儀式は非常にデリケートなものであるため、出来るだけ外部からは隔絶された飾り気のない場所で行う必要があるそうです。
開封の儀に必要なのはファランクスを作るための特殊な塗料だけでした。部屋の床にはその塗料を用いて描かれた奇妙で複雑な幾何学模様が幾つも集められたファランクスがくっきりと浮き出ています。きっと蛍光性のものが混ざっているのでしょう。淡い光が闇に浮かんでいます。
私はそのファランクスの中央に正座させられていました。そしてその前には、昨日凍姫本部で挨拶したばかりのミシュアさんが立膝で向かい合っています。ミシュアさんは現役を引退して今は経理業務に専念しているのですが、今の凍姫で一番開封に慣れているのはミシュアさんなのだそうです。
「チャネルを開くための一連の行為は全てイメージで行われます。私が言う通りのイメージを作りなさい。それでは目を閉じて」
こっくりと私はうなづき、目を閉じます。薄闇だけが広がっていた私の視界が、完全な闇に閉ざされます。その闇には雷が轟いた時のような火花がちかちかと弾けたり尾を引いたりします。子供の頃、人の魂とはこういうものなのだろうか、と勝手に考えていた事を思い出します。
儀式、という言葉からオカルトじみた事をするように想像していたのですが。どうやら本当にそういう事をするようです。
これから私は、開封の儀によって精霊術法を行使するために必要なチャネルというものを開きます。このチャネルとは物理的な器官が体に存在する訳ではなく、精神的な目に見えないものなのだそうです。そこに誰かの魔力を干渉させて開くのだとか。それは使われなくなった水路に詰まっているゴミを、水を通して綺麗に洗い流し、いつでも使える状態にするようなものなのだそうです。なんとなくそんな感じに私は説明を聞きました。
「心を落ち着けて。出来るだけ何も考えない状態に近づけなさい。なお、イメージの妨げになりますので、言葉は一切話してはいけません」
そして、ミシュアさんがそっと私の頭の上に手を置きました。直後、ぼんやりとした熱が私の中に浮かび上がりました。それはミシュアさんから伝わってくるのではなく、体の奥から込み上げるような、そんな熱です。
「今、あなたの中にある異相への門は閉じられています。それをイメージしなさい」
そう言われ、私はいかにもそれらしい門をイメージしてみます。
材質は鉄、色は赤錆色で私の身長の何倍もの高さがあって観音開き、横幅も大きく、扉一枚だけでも私の肩幅の何倍もあって。その左右にはおどろおどろしい獣が二匹張り込んでいて、外敵が近づかぬように番をしている……。
ふと、そこで私は想像を膨らませる事をやめました。これではまるで宗教書にある所の地獄の入り口です。とは言え、私にとって門という単語から思い浮かぶのはそれしかなく、他の門を想像し直すことも出来ません。まあこれでも門には違いありませんから……。
「行きます」
―――と。
どくん!
突然、心臓が驚くほど高鳴りました。それは驚きや緊張のそれではなく、急に心臓が自分の意志で大きく収縮し膨張したような鼓動です。心臓の鼓動は最も聞きなれた音です。しかし、こんなに痛みを伴いそうなほどの激しいそれは生まれて初めてです。
「あ……」
「喋らないで。今、開きかけています。あなたも門が開く様をイメージしなさい」
ミシュアさんの厳しい声。
とにかく私は心臓の痛みから目を背けるように門をイメージする作業に没頭しました。まるで地獄の入り口のような恐ろしい風貌のそれ。どう考えても人間には開けられそうもない、とてつもなく大きくて重厚な門がゆっくりと開いていきます。いえ、それは私のイメージですから、この扉を開けているのは私自身なのです。
―――あ!?
そして、心臓の鼓動がより勢いを増すと共に体の熱が爆発的に膨れ上がりました。しかもその熱は普通の熱ではなく、私の体を内側から異様な感覚で押し広げていきます。
激痛と、快感。
凄まじい激痛で苛まれた直後、蕩けるような快楽の波が押し寄せてきます。しかしすぐさま激痛の炎が一時たりとも休ませぬかのように私を炙ってきます。自分の意識をどちらに傾けたらいいのか分からず、ひたすら私はその感覚をありのまま受け止め、心の中で唸り声を上げるだけでした。
しかし、私の中の門のイメージが想像力を無視して、その重い扉が開き続けます。更に扉が開けば開くほどこの感覚は強く大きく膨れ上がります。
一体どうすればいいのか、私は分かりませんでした。儀式の最中で声を上げる訳にも行きませんし、ここでやめる事も出来ません。ですがこの感覚はあまりに苦痛で、これ以上はとても我慢できそうもありません。
「落ち着いて。もう少しで開き切ります。苦しいでしょうが、開いてしまえば楽になります」
私の様子を察してか、ミシュアさんの優しげな声が頭の上から聞こえてきます。けど、既に私は励ましを心の支えにするだけの余裕がありませんでした。今、最も私が求めるのは、即効性のある、この苦痛から開放してくれるものだけです。
ぎゅっとこぶしを握り締めながら震えている自分の体の感覚だけが辛うじて感じられました。その感覚をどこか遠くで、まるで他人事のように感じています。私の体が私ではない、そんな感覚です。けれど、確実に激痛と快感は交互に体を抉り込んできます。
交互に襲い掛かる、激痛と快感の不協和音。それは耐え難い苦痛となって襲い掛かり、それを受け止める私の全神経は今にも焼き切れてしまいそうです。
でも、これを乗り越えなければ精霊術法は使えないのです。
だから私はひたすら耐え続けました。
私の求める力はこの苦痛の先にあるのです。だから喜んで受ける、という訳ではありませんが、その代償と思えば決して高いとは思いません。
そして。
「……開き切ります」
微かに意識の外からミシュアさんの声が聞こえました。まるで壁越しに聞いているかのような、驚くほど遠い声です。
次の瞬間、暗い闇に体が放り出されるように、私の意識は途絶えました。
TO BE CONTINUED...