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「さて、ようやく準備が出来ましたから、ちゃちゃっと始めましょうね」
 長かった髪をばっさりと切り落とし、驚くほど頭が軽くなった。そしてきゃあきゃあと終始かしましいリルフェに連れられていった先は、北斗の……とにかくどこかにある、『雪乱』と呼ばれる本部の建物だった。
 建物の敷地内に入ると、そこにはリルフェと同じ真っ白な服を着た人達が何人も居た。どこか肌寒くなるような威圧感に満ちた場所で、なんとなく僕は居心地が悪かった。けれどリルフェは相変わらずの緩い調子でにこやかに笑顔を振り撒いている。その笑顔を向けられた人達はみんな同じような調子でそれぞれ応えた。確かリルフェはこの雪乱で一番偉い人だ。誰一人として挨拶を無視した人はいないから多分本当なのだろうけど、その姿勢や態度はあまりに軽い。レジェイドみたいな貫禄というか落ち着きというか、そういった雰囲気が一切感じられないのだ。本当にちゃんと仕事をやっているのか、僕は疑問に思う。
 建物の中に入り通された部屋は、応接間のような革張りのソファーとかがあった立派な部屋だった。リルフェは僕をその部屋に残すと、もう一人の別な誰かと何か難しい話をしながらどこかへ行ってしまった。広い部屋に一人、僕は間が持たず、座り慣れないソファーの上で足をカタカタと踏み鳴らしキョロキョロと周囲を意味もなく見回したりしていた。
 それから間もなく、雪乱の制服であるあの白い服を着た人が部屋の中へうやうやしく入ってきた。テーブルの上に細長いグラスに注がれたオレンジジュースを置くと、そのまま深々と一礼して部屋を出て行った。僕はあまりに丁寧な物腰に驚き、その人が部屋から出て行くまでソファーの上で硬直していた。僕を何か別なものと勘違いしているのではと、そんな不安感がずっとあった。まるで大事な客を応対するかのような扱いだ、と僕は思った。それはきっと、僕がリルフェに連れられてきたからそういう扱いになったのだろうけれど。やっぱり本当にリルフェは偉い立場の人間なのだ、と考えを改める。
 間を持たせるため、僕は出されたオレンジジュースをゆっくりと何口にも分けて飲んだ。暑い季節だから、グラスにはふつふつと水滴が浮かび上がって持つ手を濡らす。ひやりと冷たい感触が心地良い。冷たい、という感触はある。僕はグラスを持つ手でしっかりと自分の皮膚が感じ取るそれを意識する。
 随分と長い間、自分の感じるもの全てに向ける気持ちが稀薄になっていた。そして気がつくと、僕の中からは『痛み』というものが消えてなくなっていた。痛いというのは辛い事だから、無くなってくれるのはむしろ嬉しいと始めは思った。でもよく考えてみると、普通の人が当たり前に感じている痛みが感じられないのは普通の事じゃない。僕は普通じゃなくなったのだ。その現実に僕は焦った。けど、焦った所ですぐに治る訳じゃない。そもそも治るかどうかも分からないのだ。だから今は自分の感じるもの全てに敏感になるように努力している。グラスの冷たさを必要以上に意識するのもそのためだ。
 それから数分ほどして、リルフェがバタバタと忙しない様子で応接室に入って来た。扉の向こうに誰かもう一人いたけれど、その人は入る直前までリルフェと何かを話し合っていてそのままどこかへ行ってしまったようだ。何か打ち合わせか何かをしていたのかもしれない。
 そして、リルフェは直前までの忙しさを感じさせない笑顔と明るさで、そう僕に言った。ちゃちゃっと。なんて真剣味の薄い表現なのだろう、と僕は思った。
「ちゃちゃって……そんないい加減な」
「みんな、そんなもんですよ。私も適当でしたし」
 それはリルフェだけじゃないのだろうか?
 精霊術法について、本当に触りだけの知識は手に入れた。自分以外の別な力を取り込んで自分の力とする技術。でも、実際に開封とか扱いとか行使に至るまでの過程や具体的方法は全く分からない。この精霊術法習得の第一歩目になるであろう、開封。リルフェは『適当で良い』なんて言うけれど、本当にそんなでいいのだろうか? いや、良い訳がないんだろうけど、とにかく僕は早く詳細な説明をして欲しい。もう、まともな説明はリルフェに期待しない。大体の流れを聞いて自分なりに解釈し、必要に応じて別な人に質問すればいい。
「じゃあ、移動しましょうねぇ。会場はあっちです」
 再びリルフェはソファーに座っている僕の手を取ると、見た目によらない凄い力で引っ張って僕を立たせた。別に一人でも立てるのに。そう思ったけど、気が付いたのだが、リルフェは何でも自分のペースに引き込もうと無意識の内に振舞っているから、僕が批難してもきっと無駄だ。意図する部分があるなら余地はあるかもしれないけど、天然は駄目だ。その人個人の人格そのものを塗り替えない限りは。
 またもや母親と息子のように手を引かれて連れられていく。行くのは雪乱本部の細長い廊下。そこを奥に向かってずっと突き進んでいく。
「僕は何をすれば?」
 いい加減、ただ手を引かれている事にうんざりしてきた僕は、そう先を歩くリルフェに問うた。すると、
「向こうについたら、ちゃんと係の人がいますから。指示に従ってじっとしてるだけでいいですよ。後は勝手にやってくれます」
 案の定と言うか何と言うか。実にいい加減な返事が返ってきた。
「それだけ?」
「そんなもんなんですよ。精霊術法は簡単に習得出来るように工夫されてるんですもの」
 どうやら本当にそれだけで良いようである。一応、リルフェは精霊術法が使える訳だから、開封も経験している。そんなリルフェが言うのだから間違いはないのだろうけれど、どこか釈然としないものが。
 なんか安易だよなぁ。全てにおいて。実はかなり大事な部分が割愛されてるんじゃないですかね?
 と。
 思わず僕は自分の思考にハッと息を飲んだ。
 リルフェの口調、染ってしまった……。



TO BE CONTINUED...