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人間は、よく落し物や忘れ物をする。
それは大切なものであったり、そうでもなかったり。
ただ一つ言えるのは、それが原因で人生の指標が前にも後ろにも向いちまうって事だ。
たまたま落としたそれを見つけて拾えればいいが、見つけられなかっただけでなくうっかり別なものを拾っちまったら。
文字通り、人が変わってしまう。
でも、たまにあるんだよな。
最初になくしたそれよりも、ずっといいものを見つけちまう事が。
でも、本当にこれで良かったのか?
なくしたそれと見つけたそれと、どちらが良いかなんて選べない。
さて……。
夕刻。週末の会議に必要な資料を全て準備し終えた俺は、実に早々とした時間に帰ってきた。普段ならば夜の繁華街に繰り出す所だが、今日は特別、子供が家路につくような時刻に部屋へ帰る事を選択した。頭目なんて、一見すると華やかかもしれないが、毎日がフラストレーションの貯蓄作業のようなもの。時間があれば適度に発散しなければすぐに焼き切れてしまうため、俺はこれまでそうやって来たのだが。今日ばかりは少々事情が違う。
それは丁度、一日の就業時刻を知らせる鐘の音が鳴り始めた頃だった。ふと受付の人間が一通のメモを持って部屋を訪ねて来た。受け取ったそのメモに目を通した俺は、思わず全身の毛を逆立てるような気持ちで食い入るように見入った。何故ならば、そのメモの書き出しが『お兄ちゃんへ』という文字だったからだ。俺をお兄ちゃんと呼ぶ人間など、当然妹であるルテラしかいない。
メモの内容は極めて簡潔なものだった。夕食を作って待っているから、寄り道しないで帰って来てね。たったそれだけのさもないものだったが、少なくとも俺にとっては衝撃的な内容だった。二回目の自殺未遂から退院後、再び俺の部屋で暮らし始めたルテラだったが、多少は以前よりも人間らしく振る舞いはするものの、やはり『普通』という観点から見ればどうしても違和感は否めない。出来る事ならば原因を取り除いてやりたいが、その原因は単なる意欲の欠落であるため俺にはどうしようもなかった。
それがだ。
急にこんな連絡をよこしてくるなんて。今朝も出掛けに、ただ押し黙って朝食を食べるルテラの姿を見ていただけに、一体何が起こったのかまるで理解が出来なかった。
そして、俺はすぐさま部屋に急いだ。ルテラの唐突な行動に理解が追いつかず不安が込み上げ、居ても立っても居られなくなったからだ。昔からルテラは唐突な行動が多かった。多分、インスピレーションだけで行動するのがクセになっているからだろう。それは雪乱の件然り、スファイルの件然りだ。必ず、ろくでもない火種を撒く結果に陥っている。当然今回も、と考えるのは極めて当然だろう。
夜叉本部から宿舎まではそれほどの距離もないのだが、走りながら俺は酷い焦燥感にかられていた。なんだかここ数ヶ月はこんな事ばかりが続いている。現実問題、ルテラが立て続けに問題を起こしているからだが、その原因は自分の至らなさにも由縁している。基本的にルテラはおとなしくて常識をわきまえた、見映えは人並み外れた女だ。それが問題を起こすのは、その原因が俺にあると考えるのが当然だろう。御世辞にも兄らしくマシな事を教えた記憶はないし、特にここ最近はルテラの事を蔑ろにして朝帰りを続けてばかりだった。悪影響を及ぼさない訳がない。
また、何か早まった事をしてはいないだろうか? 既に二度も起こしてしまっているため、どうしても三度目の想像が拭えない。とにかく今はいち早くルテラの元へ駆けつける他ない。俺はひたすら走る事に専念し続けた。
道を擦れ違う人間にぶつかり、突き飛ばしながらも尚前進を続ける。余裕を持った行動こそが俺の信条だったが、今となってはそんなこだわりなどどうでも良かった。やはり人間は優先順位をつけずにはいられない動物だ。いざとなれば、本当に自分にとって大切なものの順から確保していく。この自分の行動を見る限り、自分のプライドよりもルテラの方を遥かに重要としているようだ。考えてみれば、この程度のプライドなんて捨てようと思えば幾らでも捨てられる。そんなものと比べる事自体が馬鹿げた比較だ。
そして。
「ルテラっ!」
ようやく到着した俺は、汗ばんだ手のひらであたふたとカギを取り出してドアのロックを外す。そこでようやく、わざわざカギを取り出さずとも中に呼びかければルテラが開けてくれる事に気づく。その自己嫌悪を振り払って部屋に飛び込むと、そこには香ばしい香りが漂っていた。これは確か、香草で鶏肉とじゃがいもを炒める料理だ。俺が以前ルテラに教えたやつだ。
「お兄ちゃん? なあに、そんな大声出して」
ひょい、とリビングを覗き込むルテラ。その手に握られていたのは、血まみれのナイフなどではなく炒める時に用いる菜箸だ。
「あ、いや……別に」
「変なの」
くすりと微笑むルテラ。その表情は、極めて普通のそれだった。いや、今までが異常だった訳だからそう思う訳で、本当ならこれは異常な状態になるのだが。とにかく俺はルテラの唐突な変貌に驚きを隠せなかった。
「もうちょっと待っててね。すぐ出来るから。グラス冷やしてるけど、何か飲む?」
「ああ、そうだな……」
俺は出来る限り平素を装ってそう答える。ルテラはにっこりと微笑むとパタパタと奥に戻り、グラスとボトル、そして氷を持ってきた。俺は差し出された氷が二つ入ったグラスを手に取る。ひやりと冷たい感触が汗ばんだ手のひらに心地良い。
どうぞ、とルテラがボトルを向けてくる。向けたグラスに琥珀色のウィスキーが注がれていく。夕刻のオレンジ色の光を受けて淡く輝くウィスキーとルテラの表情とを、俺は何度も何度も見比べた。これは果たして本当に現実なのか、その疑問がどうしても消えてくれない。
こくりと一口ウィスキーをあおる。昨夜も寝る前に飲んだものと同じ、深みのある風味が鼻を突き抜ける。夢でも幻でもない、これ以上にない現実の感触だ。
「それじゃあ、私は準備の続きするから。一人でしててね」
ルテラは俺の前にボトルを置くと、くるりとキッチンの方へ踵を返した。
と。
「なあ、ルテラ。何かあったのか?」
空かさず俺は背中に向けてそう問いかけ、ルテラを呼び止めた。
何かあったのか。
漠然とした問いではあったが俺の真意とする所は通じたらしく、振り返るルテラの表情はやや微苦笑を湛えていた。
「んっとね……ちょっとやりたいこと見つけたの」
どこか照れたように、ルテラは視線をそらしながら痒くもない頬を掻く。
「ほう?」
思わず声を上げてしまう俺。
あのルテラが何かに意欲を持ってくれるなんて思いもよらなかった。今までは人形のようにただ毎日を無為に過ごしていたルテラ。それが自分からやりたい事を見つけ、そして俺に言ってくれた事が純粋に嬉しかった。
ルテラが急に以前のような表情の豊かさを取り戻したのは、再び意欲を取り戻したからだったようだ。俺が昼間夜叉の方に行っている間に、何かそうさせる出来事があったのだろう。女の過去を逐一問いただす趣味はないのだが、とにかく何にせよルテラが明るい表情を取り戻せたのは喜ばしい事だ。自分はこれといって大した事はしていないのがやや悔しいが。
そして。
「で、それの事なんだけど。実は守星になろうと思って……」
そう照れた微苦笑を浮かべるルテラ。
はて、今のは俺の聞き違いだろうか?
俺は取り落としそうになったグラスを持ち直して問い直す。
「……マジか?」
こくりと肯くルテラ。
この時、不覚不遜にも、俺は目の前の現実を『夢であれ』と思ってしまった。
守星とは、絶えず外敵の襲撃に晒され続けている北斗を夜を徹して遊回する、特殊な防衛機関だ。機関と言っても『絶対的最速を持って敵を殲滅する』という唯一の規則が厳守できれば他に拘束はないという特殊な方針であるため、どちらかというとサークルと呼んだ方が近いかもしれない。守星は北斗防衛ラインの最前線であるため、当然の事ながらその任には危険が付きまとう。年間、必ず数人が命を落としている。守星にはどういう訳か、元頭目職を務めた等の北斗でも著名な実力者ばかりが集まっている。にも関わらず死傷者が出るのは、それだけ守星の仕事が危険であるという事の現れである。現にここ最近にも、かつては流派『凍姫』の頭目だったスファイルが殉職している。ルテラはあんなヤツのどこが良かったのか知らないが、少なくとも実力は確かだ。守星になってからも、たった一人で幾つもの北斗に襲撃をかけた戦闘集団を壊滅させている。
当然の事ながら、そんな危険な所にルテラを行かせる訳にはいかない。確かにルテラは雪乱の頭目をやっていたから実力的には問題ないだろうが、長らく現役からは遠ざかっているという不安もある。いや、それ以上に、本当に過酷な守星の現場でやっていけるのか純粋に不安で仕方がない。俺はルテラには幸せになってもらいたいし、二度とあんな悲しみに暮れる姿や無気力に過ごす日々を見たくはない。かと言って、よりによって意欲を燃やす対象が守星だなんて。それに、何かに意欲を持ってくれるのは喜ばしい事だが、それがもしもスファイルを失った悲しみを紛らわすためのものだったならば。こんなに悲しい事はないと思う。
「スファイルの事、もっと知ろうと思って。考えてみれば守星の事なんて全く知らないから」
にっこりと微笑むルテラ。
しかし、俺にはその表情が『もう気にしていない』と強がっているように見えた。一体、どれだけの妥協と譲歩と、そして開き直りを繰り返したのだろうか。死人のような姿から蘇ったルテラ。這い上がってきた強さに感心を覚えつつ、どこかそうせねばならない悲壮さに胸を苛まれる。
「それにね。やっぱり私、北斗が好きだから。だったら、これ以上に最適なものはないでしょ?」
「そうか……」
俺はただ曖昧にそううなづく事しか出来なかった。
とにかく、自分が生きる目的と意欲を見つけてくれたのは嬉しい事だ。死んでしまっていた表情にも、スファイルと暮らしていた頃には及ばないものの明るい笑顔が取り戻っている。笑っていれば、いつかはきっと幸せになれる時が来る。ただ、今はそう思う事にした。
しかし。
「いや、でも。やっぱ考え直せって。守星なんてあまりに危険過ぎる。お前はもっとさ、普通の人生を送れって。その方が絶対幸せになる。とにかく俺は絶対に賛成しないからな」
俺はそうルテラに、あえて反論を浴びせた。
意欲を取り戻した事はそれでいいのだが、やはりどうしてもルテラが守星に入る事は許せなかった。そこで、ふと俺は思い立ってしまった。もう既にルテラは元の朗らかさを取り戻したのだから、何も本当に守星に入る必要はないのではないかと。ならば、ここで俺が守星に入る事を阻止すればいい。有り余るエネルギーの注ぎ先など、唯一に思えて実際は幾らでもあるものだ。北斗にかかわりたいならばそれでいいが、危険極まりない守星だけはなんとしてもならせる訳にはいかない。
うまくいけば、このまま俺の理想通りに事が運ぶ。随分と自分勝手な押し付けだとは思ったが、これがルテラにとって最善のものであると俺は信じて疑わなかった。
けれど、
「いいもん。私、一人暮らしするから。追い出してくれて結構よ」
ふふん、とルテラは勝ち誇った表情で腰に手を当て胸を張って答えた。
「は? 一人暮らしって……」
「もうね、引越し先も守星の方も手続き取ったの」
にっこりと輝くような笑顔のルテラ。ふと前髪をかきあげた左手には、あの銀色のブレスレットが揺れている。
俺はもう一度、今度は声にならない悲鳴を上げながら愕然とした表情を浮かべた。
TO BE CONTINUED...