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 深く地鳴りのような呼吸と共に、全身へ気の流れを巡らせる。
「ふんッ」
 気合一線、連木は膝から下を覆う土を粉々に吹き飛ばしてしまった。続けて、目の前に転がる巨大な土の手首を踏み台にすると、高々と夜空へ大跳躍する。向かう先は、中空にて悠然と佇む『憂』だ。
 上空には『憂』の姿があった。彼女は一体どのような理屈かは知らないが、先ほどから自分の場所を空中に定め、手の届かない高空から自由に空を飛ぶ術を持たない連木に対して術式による遠隔攻撃を繰り出していた。そもそも人間が空を飛ぶなどと非常識極まりないのだが、彼女は流派『浄禍』の最強クラスである『浄禍八神格』の一人だ。人間業ならまだしも、神の所業ならば十分に考えられる。彼女らにとっての不可能の領域など、人間にはとても考えの及ばぬものなのだ。
 跳躍に任せて一気に間合いを詰める。しかし案の定、こちらが攻撃を仕掛ける前に『憂』は再び自分の位置を移動させて攻撃をかわした。連木は着地しながらも『憂』からは目を離さず、相手の位置を捕捉し続ける。
 あの高さまで跳ぶ事は容易だが、肝心の攻撃を当てる事は非常に困難のようである。相手にしてみれば遠距離から真っ直ぐ走って近づき攻撃を加えようとしているのと同じなのだ。そして、こちらは空中では一つのラインしか走ることが出来ない。軽く横へ動くだけで回避する事が出来るのだ。
 しかし、妙だ。
 着地すると同時に連木は『憂』の行動に対して違和感を覚えた。
 空中では自由に動く事が出来ない自分を、何故攻撃しなかったのかと。今の自分の行動も迂闊ではあったが、その機を逃さず、落下するだけの無防備な自分へ術式を放てば勝負などあっという間につけられるはずだ。捕捉し続ける自分と視線を合わせていた彼女がそれに気づかなかったとは思えない。
 一体何のつもりなのか。
 何にせよ、空中戦では自由に空を飛べる相手の方に大きな分がある。少なくとも同じ土俵に立たせなければまともな勝負にはならない。
「降りて来い。そんな所からの小手先技では倒せんぞ」
 ひとまず連木は精神的な揺さ振りをかけるべく、上空の『憂』に挑発的な口調の言葉を浴びせかけた。すると、
 ……む?
 次の瞬間、『憂』は無言のまま意外にも高度を落としすんなりと地に下りた。何故、わざわざ自分の有利な状況を放棄するのか。今の言葉にはそれほどの強制力は無いはずだ。わざわざ向こうから降りてきてくれた事はこちらとしてありがたいが、その素直さは逆に警戒心を煽る。
 何か別に意図するものがあるのか、それとも単なる余裕の表れなのか。
 どちらにしても、元々勝てる見込みの薄い相手だ。慎重を期すに越した事は無い。連木はもう一度深く呼吸を繰り返し、全身を巡る気の流れをクリアにする。
 ゆっくりと『憂』は歩み寄ってくる。あまりに無防備な動作だったが、言い知れぬ威圧感のようなものが彼女を何倍にも巨大な存在に錯覚させる。連木は震え出そうとする体を抑え込み、気の流れを途絶えさせぬよう呼吸のリズムをよりはっきりと刻む。
「神はこう仰られました。人の目は、生まれながらに閉じられている。その目を開く事の出来るのは、御心に適う者だけである。いつまでも目を閉じているものは、闇の誘惑に負けてしまうであろう」
 そっと視線を向ける『憂』。しかし連木は、まるで無数の矢に全身を貫かれたような感覚を覚えた。退きかけた足に気を込めてその場に強く打ちつけ留まる。そして右足を軸にし左足を前へ滑らせながら半身の姿勢を取ると、真っ直ぐ五指を伸ばした左腕を緩い角度で構え、右腕は軽く握り締めて腰の後ろへ折り畳む。
「なるほど。私は盲目か」
 唸るような音を立てて肺の中の息を全て吐き出し、同じだけの時間をかけてゆっくりと新鮮な冷たい酸素を取り込む。体を巡る気の流れを更に増幅させ、思考そのものから恐怖に類ずるあらゆる感情を取り除いた。
「笑止。私は自分の意思で物事を決められる。善意の無い善行など、どれほど積もうが意味は無い。御心に適う為に善行を利用するなど、俗な宗教もあったものだな」
「愚かなり。神の意に異を唱えるか」
「だから、笑止なのだ」
 あくまで『憂』を挑発し続ける連木。しかし、それはあくまで主たる目的ではなく、あくまで本当の目的から目をそらすための布石にしか過ぎなかった。
 この距離ならば届く。
 連木は気を軸となる右足へ重点的に巡らせた。
 本当の目的とは、地上に降り立った『憂』へ奇襲攻撃を仕掛ける事だった。また再び宙へ陣取らぬとも限らない。だから手の届く場所に居る今の内に決着をつけてしまおうというのである。
 相手は油断をしている。こちらの動きに反応してからでの術式よりも早く動く自信はある。幾ら浄禍八神格とて、咄嗟に展開した障壁では大した防御力もないだろう。一点に力を集中させて突けば容易に破れるはず。
 まずは足に集中させた気を爆発させて一気に距離を盗む。おそらく『憂』はすかさず反応し障壁を展開するだろう。そこで気の流れを指先に集め、一気に障壁を突破し『憂』を討つ。
 連木は慎重に何度も脳裏に一連の動作のイメージを描きながら、入念に気の流れを確認する。一片たりとも失敗は許されない。たとえ一瞬の滞りがあろうとも、それがそのまま勝敗を決する大きな要因となってしまう。慎重に、かつ躊躇い無く振り抜かなければならない。
 連木は強く踏み締めた地面を自分から遠ざけるように強く蹴り、矢のように自分の体を射ち出した。瞬間的な加速により生じた空気の壁を、前傾姿勢を取ったまま額で突き破った。
 しかし。
「ぐっ!?」
 飛び出した直後、連木の体は上へ引っ張られたかのように高々と弾き飛ばされた。
 息も詰まる壮絶な衝撃に、表情を苦痛に歪めるタイミングすら忘れてしまう。けれど長年の実戦経験が積み上げた戦場での反射行動が連木に、思わぬ事態に戸惑うよりも冷静で迅速な状況の把握を強制する。
 宙に舞いながら、連木は自分が打ち上げられたその地点をじっと見据えた。するとそこには、土で出来た巨大な人間の拳が天に向かって突き出ていた。そこでようやく連木は、自分が出鼻をあの拳に突き上げられた事を理解した。
 刹那の逡巡の後、思い出したように体を貫いた衝撃に眩暈を覚えた。決して油断はしていない。ある程度、予想外の攻撃に見舞われても致命傷は受けないように全身へ気を満遍なく張り巡らせていた。にもかかわらず、この威力。たとえ気を抜いていたとしても、未だかつてこれほどの打撃を受けた事は一度も無い。
 続けざまに、連木の背中を強い衝撃が襲った。今度は完全に無防備だったため、衝撃のあまりの強さに意識を失い、地面へ強く叩きつけられようやく我に帰る事が出来た。直接どんな攻撃を受けたのかは見る事が出来なかったが、大方の予想はついた。
 連木はすかさず膝を立てて上半身を起こした。しかし、頭を打ったせいか視界がぐらりと揺れ地面へ手をついてしまった。ダメージは相当深刻なものであり、嘔吐しない事が逆に驚けた。辛うじて主要な骨は折れていないようだが、どこかしらか亀裂程度は入っているだろう。
 これが本当の実力なのか……?
 思わずそのまま地へ突っ伏しそうになるのを咄嗟に腕に力を込めて耐える。だが、伸ばしたその肘もびりっと痺れるような痛みが走った。靭帯を痛めたか、もしくは関節そのものか。どちらにせよ、とても満足に動ける状態ではない。
 不意を突かれたとは言え、たった二撃でこれほどのダメージを負うなんて。やはり自分と彼女との差はそれほどまでに広いのだろうか。徒手では精霊術法に勝つ事など不可能なのだろうか。次々に連木の胸中にはとても言葉には出来ない不安感をもじる言葉が浮かび上がる。
「神は仰られました。真実より遠い者ほど印を求めたがると。あなたは独善的な正義を印に変えて掲げ、それで何を成そうというのです? あなたがどれだけ正義を叫ぼうとも、絶対的な真理からは逃れられぬのですよ」
 ここで、心を折っては駄目だ。
 辛うじて、状況に己の身を流す事を由としない闘志が連木の理性を戦場へと繋ぎ止める。
 潰れそうな喉を開き、深く大きく息を吸い込み、吐く。それを何度も繰り返しながらゆっくりと自分のリズムを刻んで行く。そして徐々に一度途絶えさせてしまった気の流れを再び巡らせ始める。すると、もはや動かす事も出来ないだろうと思っていた体が見えない圧力から解き放たれて行った。気が遠くなるほど全身の至る場所が痛む。しかし、自分との意志の疎通まで途絶えた訳ではない。痛みを押す力を持ってすれば、確実に動く。
 連木は立ち上がると再び半身の構えを取った。左手は緩やかに前方へ伸ばし、右腕を腰の後ろへ折り畳む。軸足は強く、前足は柔らかく地面を踏み締める。
「たとえそうだとしても、私は自分の意思に従う。悪と呼ぶならばそれで結構! 私の正義とは、私自身の良心なのだ!」
 一言一言を発するたびに、喉が裂けてしまいそうな程痛む。しかし、普段の自分にはまるで縁の無かった声を張り上げる行為が、自分をふっ切れさせる強さのきっかけを作った。勝算など無きに等しいのだが、不思議と恐れは感じられない。ただ目の前の敵に対してどう挑むか、戦術の論理だけが何度も組み直される
「良い覚悟です」
 すると、そんな連木に対し『憂』は驚くほど自然な笑みを浮かべた。
 笑った……?
 連木は驚きに目を見開いた。今、確かに『憂』が口元に笑みを浮かべたのだ。
「愚弄するか!」
 連木は手刀を構え、そこへ感情に任せ全ての気を集中させる。連木の手刀は鋼のように硬質化し一本の槍と化した。
「それで、どうすると?」
「お前を……殺す! 北斗のために!」
 今の連木の手刀は、鉄板すらも突き破る大槍も同じである。人間の体を貫くなど造作も無い事である。たとえどれほど『憂』の障壁が高い防御性能を誇っていたとしても、真正面から受け止めれば間違いなく連木の腕は障壁を貫くだろう。そうなれば当然、『憂』もただでは済まない。連木の感情的な威勢も、あながち根拠が無い訳ではないのだ。
 だが。
「出来ますか? 人を殺した事の無いあなたに」
 熱くなる連木に、まるで冷水を浴びせかけたかのような『憂』の突然の言葉。さすがにその言葉だけは予測外だったのか、連木は侮辱に対する怒りの炎を消されるばかりか、闘志そのものまでが萎縮させられてしまう。構えたはずの手刀からは込められていた気はとうに抜け去り、構えの基本であるはずの重心までもが大きく傾いてしまっていた。
 何故、それを知っている。
 そんな驚き以上に連木は、それを指摘された自分がこうも動揺するとは思いもよらなかった。
「正義とは悪を淘汰する事、淘汰とは即ち奪い尽くす事です。淘汰する勇気の無いあなたに果たして人が殺せますか?」
「搶光に正義などあるものか! 北斗の理念を貴様は忘れたか!?」
 萎縮した闘志をもう一度奮い立たせるべく、連木は普段あまり見せぬ激昂を飛ばした。震えこそ消えたものの、未だ細やかな気の流れを取り戻すまでには至らなかった。ただ手刀に集中させた気を維持するだけで精一杯である。
「忘れはしません。ですが、私達はそこに意義を見出せなくなりました」
「意義を見出せない……だと?」
 連木の疑問に対し『憂』は、ゆっくりと両腕を広げて自らの体を晒した。質問に対する明確な答えは示さない、という返答の現れである。覆い被せるように強く主張を見せた『憂』の奇妙な仕草。しかし連木は気の力を完全に取り戻していない事もあり、油断無く身構える。
 そして、
「さあ、証明して見せて下さい。あなたの正義が如何程のものなのかを。私の体に刻んで見せなさい」
 そう『憂』は高々と連木に向かって言い放った。
 彼女の言葉が一体何を意味するのか。連木はあまりに迂回し過ぎたために、俄かにそうと気づく事が出来なかった。更に、ようやく辿り着いた答えがあまりにも突拍子の無い事であったため、暗雲のように疑いの念が付随し続けた。自分の勝手な解釈ではないのか。常識的に考えてそんな事があるのか。けれど、連木の持った幾つもの懸念は、両腕を開き無防備な体を晒し続ける『憂』の態度により払拭せざるを得なかった。薄氷の上を歩くような非常に確信の薄い答えではあったが。そうと信じるしか他無い。
「愚弄するのもいい加減にしろ。私はそんな事で躊躇うほどお人好しではない」
「恐いのですか?」
 正に蛇に睨まれた蛙だった。
 連木は、もはや自分の全ての自由が彼女に掌握されている事を悟った。自分は決して彼女の言葉に逆らう事が出来ない。まるで明かりに引き寄せられる羽虫のように、ただただ彼女の意思の糸に引き寄せられる。逆らう事も断ち切ることも出来ない。あまりに薄弱な束縛でありながら、決して断ち切ることの出来ない強制だ。
「……後悔するな」
 自分の意思なのか、彼女の意思なのか。
 そんな迷いにも似た疑問を持ちながら、連木は手刀を後ろへ引き絞るように構え直す。けれど、ゆっくりと殺気を収束して行く内にそんな疑問もどこかへ消え去ってしまった。
 連木の姿を『憂』は笑みとも嘲りとも取れぬ曖昧な表情で静かに見守っていた。
 収束した殺気が手刀の先に集まる。次の瞬間、それは驚くほど自然に放たれていた。
 吸い込まれるように放たれる自らの腕を、連木はまるで他人のような視点で見ていた。
 何の意味があるのか。
 そう、ただ一言付け加えながら。



TO BE CONTINUED...