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まずは一安心、ってとこか?
とはいえ、あまりに自分へ突きつけられた問題は大き過ぎる。
北斗は弱者を守るための剣と盾。それらは個よりも全のために奮われる力であるのだが。言うまでも無く、全よりも個の方が守りきる事は簡単だ。
しかし、俺はその個を守る事が出来なかった。しかもその個とは、自分にとって大切な存在だ。
大切な存在を守る事が出来ない自分。
まだまだ、未熟ってことか。
とりあえず、鍛え直しだ。体もそうだが、何よりも諦める事を甘受しかけた心を徹底的に打ち直さなければならない。
人間は剣と同じだ。
打たれる事で強くなっていく。
くそっ……!
俺は地面を握り拳で打つと、膝に渾身の力を込めて立ち上がった。
前方に並んで立つ、『天命』と『怠惰』。二人は共に右手を掲げ、そこに膨大な魔力を集中させた光球を体現化している。大きさは大した事がないかもしれないだろうが、少なくとも今まで目にした事のある精霊術法の中では、浄禍を除いてこれほどの術式を行使した人間はいない。更に周囲には、『断罪』『聖火』『光輝』の三人までもが同じように光球を掲げた右手に体現化している。一斉に体現化した光球に照らされ、まるで太陽が五つも浮かび上がったかのように辺り一体が照らし出される。
それぞれの視線の先は、一つの場所で交わっている。
俺の立つここから僅か先。そこに二人は居た。
「嫌ァ……!」
血と涙に濡れた顔で、なおもすすり泣き続けるリュネス=ファンロン。その彼女が座り込みながら抱き締めているのは、俺の弟であるシャルトだ。シャルトは全身がボロボロに朽ち果ててピクリとも動く様子が無い。糸の切れた操り人形、そんなシュールなたとえが似合うような姿に変わり果てている。
浄禍八神格の五人が向く先。二人はそこから一歩も動かない。いや、動けないのだ。シャルトはとっくに体が限界を迎えて意識を失っているし、リュネスもあまりのショックを受けて正常な思考が出来ていない。そんな二人を、五人は眉一つ動かさずに殺そうとしているのだ。
だが、五人の凶行を止める力は俺達の中にはなかった。
浄禍八神格は、北斗十二衆の中で最強と呼ばれている流派『浄禍』のトップクラス。人々からは人間の域を超えたとまで評されるほどなのだ。俺は確かに常人からかけ離れた力を持ってはいるが、それは人の領域を越えてはいない。人間の範疇を超えた力を持つ浄禍八神格には到底及ばないのだ。
理性が諦観を良しとする自分への危機感と、一刻も早く行動に移さなくてはいけないという焦燥感を抱かせる。その一方で、本能は目の前の敵とは決して関わってはいけないと警鐘を鳴らす。この二つの板挟みに合い、俺は進む事どころか動く事すら出来ない。
これ以上にないと思われる切迫した状況下。だが、そこへ新たな人間がやってきた。
突如、シャルトとリュネスの傍の空間がぐにゃりと歪んだ。それは浄禍八神格だけが使えるという、空間超過の術式と同じものだ。つまりこの場にやってきたのは、ここにいる五人以外の浄禍八神格であると、必然的にそうなってしまう。
水面に波紋を立たせるような歪みを空間に起こしながら、ゆっくりと現れた人影は三つ。それぞれが他五人の八神格と同じ修道女のような服装をしている。胸に銀の十字架のペンダントを揺らせているのも全く同じだ。しかし、現れた三人の中で一人、真ん中に立つ女だけは終始目を閉じたまま開かない。
「収めよ。刃を向けること、あたわず」
と。
並んだ三人の左側に立つ女が、視線をじろりと周囲を取り囲む五人へ順に向けていった。すると五人がそれぞれ掲げている右手に体現化した術式が、一瞬にして消え失せる。
あれは……。
あの鋭い視線をくれただけで術式を強制解除した女。そういえば、浄禍八神格の中には視線だけで相手を屈服させる能力を持ったヤツがいた。確か『邪眼』の座だったと思うが、おそらくあの女がその『邪眼』なのだろう。
一瞬で絶望的とも思われていたこの場が収められてしまった。いや、単に五人の術式が解除されて当面の危機がなくなっただけで、根本的な解決には至っていない。依然として勢揃いしてしまった浄禍八神格からの注意は離す事は出来ない。
と。
「『遠見』よ。何故、貴女がここに。私の権限をお忘れになった訳ではないでしょう」
前に歩み出て三人に言い放ったのは、表情を幾分か険しくさせた『断罪』だった。『遠見』の登場を露骨に歓迎していない様子の『断罪』。彼女には北斗内で起こった事件に対し、八神格を含む浄禍を動かす権限が与えられている。今回もまた、八神格の内五人が出てきたのも彼女の権限によるものである。
「止まれ。汝、己の足で歩み前進すること、あたわず」
しかし、すぐさま『邪眼』が視線を配り『断罪』のそれ以上の接近を止める。たった一瞥しただけで、『断罪』は動く事が出来なくなっている。一体どんな術式を使っているのか、そもそも人間技なのか。俺にとって浄禍八神格の為す事は全て不可解の連続だ。
「ベルセルクの暴走に、いち早く対応したあなたには何の落ち度もありません。ですが、この場は私に預けて下さい」
体の自由を奪われながらもみしみしと周囲の空気を気迫だけで張り詰めさせる『断罪』に、『遠見』と呼ばれ眼を伏せていた女はそっと振り返ると。ただひたすら申し訳なさそうな表情を浮かべて軽く一礼する。そんな彼女の様子に『断罪』はしばらく不満を露にした表情を向けているものの、やがて事を諦め『遠見』に場の指揮権を譲って自分は後退する。
浄禍八神格の筆頭である『遠見』は、流派『浄禍』の全てにおいての決定権を持っている。頭目の発言は、流派内では絶対。黒と言えば白いものも黒になるのだ。浄禍八神格はそれぞれが独立した権限を与えられてはいるものの、やはり浄禍としての総決定権は筆頭たる『遠見』に帰属する。たとえ『断罪』であろうとも、それに逆らう事は出来ない。
「憂う事なかれ、憂う事なかれ。我が神は御自ら御創りになられたものを須らく愛するでしょう」
と、右手に立つ女が浄禍特有の朗読するような口調で何事かを読み上げる。彼女は『憂』の座だ。
刹那、『憂』を中心に白い粒が無数に集まり始めた。粒は『憂』を中心に同心円状に形を為しながら次々と広がっていく。目を凝らせてよく見れば、広がっているそれは粉々に吹き飛ばされたはずの路石だった。路石はリュネスが魔力を暴走させてこの付近一帯を残らず吹き飛ばしてしまったのだが。その路石がまるで自分の意志を持っているかのように『憂』の下へ集まり、そして再び剥き出しの地面を舗装していっているのだ。これもまた、精霊術法の恩恵によるものなのだろうか。
俺は不覚にも溜息をついてしまった。
ついた息と共に最後の闘志を吐ききってしまう。諦観の溜息だ。
この新たに出現した三人は、残る浄禍八神格である『遠見』『邪眼』『憂』だ。中でも『遠見』に至っては、この化物揃いの八神格を束ねる浄禍の頭目だ。二年前、シャルトが暴走事故を起こしてしまった時、誰も手がつけられない状態だったシャルトを抑え込んだのは他ならぬこの『遠見』だった。そして『遠見』はシャルトのチャネルに封印術式を施した。浄禍は基本的に暴走を起こした人間は殺してしまうのだが、何故かシャルトの時に限って殺す事は無かった。それはどういう訳なのかは知らないが、とにかくあれは例外中の例外なのだ。浄禍と相対した人間は、確実に存在そのものをこの世から消されてしまうのだから。
しかし。
全ては最悪の状況に向かっている。
脳裏に浮かんだその言葉が、やけに見当違いな言葉のように思えた。理由を求められても明確に答える事は出来ないのだけれど、この『遠見』の放つ雰囲気が他の七人と明らかに違うのだ。なんというか、血生臭かった『断罪』達のそれとは違って本当の意味で神々しいのである。
神の救い。
ぽつりと馬鹿な言葉を思い浮かべてしまう。
そんなもの、この世に存在する訳がない。そう否定するものの、自分が漏らした言葉を俺は訝しむことが出来なかった。本当にありのままの印象をぶつけると、まさしくその笑い種な言葉の通りなのであるから。
と。
「駄目ッ!」
不意に横から飛び出し、『遠見』とシャルトの間に誰かが割り込んでくる。それは、ルテラだった。
ルテラは手を大きく広げ、猛然と立ち塞がっている。まるで命に代えても二人を殺させない。そう言わんばかりに。そして俺と同じ二つの碧眼で真っ直ぐに前方にいる三人を見据える。普段は笑顔を絶やさぬ明るい性格なのだが、その別人のように真剣な眼差しは、かつて『雪魔女』と呼ばれていた頃のそれとも違う強さに満ちている。
すると『遠見』は、そんなルテラに構わず静かに歩み寄る。一歩一歩を大切に踏みしめ、内側から滲み出るような温かさを振り撒きながら進んでいく。そして『遠見』は、ただじっと刺すような鋭い視線を放つルテラへにこやかに微笑むと、目の前に立ちはだかるルテラの右手を流れるような仕草で取り、そっと下ろさせる。
「恐れる事はありません。神は神の子らに等しく愛を与え賜います。愛を抱き続ける人間を、神は決して御見捨てにはなりません」
そのまま『遠見』はルテラの横を通り過ぎていった。
対照的にあまりに温かな微笑みを向けられたルテラは緊張を解かれ、どことなく力抜けした表情で自分の横を通り過ぎていく『遠見』を見送る。
ルテラの脇を通り過ぎた『遠見』はそのまま二人の元へ歩み寄ると、裾が埃で汚れる事も構わずその場に両膝をつき、視線をしゃがみ込んでいるリュネスに合わせる。
「二年前、神は私の見えぬ眼に神意の片鱗をお示しになられました」
そう、柔らかな声で『遠見』はほっそりとした指をシャルトへ伸ばす。その指先を、リュネスはただ黙って見つめていた。
「神は我らに、現世の災禍を一身に引き受けるという試練を与え賜いました。神は人にあらゆる自由を与えましたが、その自由は必ずしも人に恩寵だけをもたらすものではなく、時として大いなる人災をこの世に起こす罪をも生み出しました。その災いに晒される人の子を哀れに思った神は、信徒に大いなる神意を分け与えたのです」
『遠見』の指がシャルトの額に触れ、スーッとなぞっていく。すると瞬く間に割れた額の傷が塞がっていった。北斗には法術を駆使する法術師もいるため、俺は何度か法術というものを見た事がある。法術は人間の代謝力を加速させて傷を癒着させる技術だ。俺が見たときの法術は皆、手や指先から青白い光を放っていた。だが『遠見』のそれは光など放ってはおらず、文字通りなぞっただけだ。それだけで、まるで地面に描いたラインを潰していくように傷が消えていく。法術の治療は、何も傷が一瞬で消える訳ではない。完全に癒着するまで若干のラグはある。そもそも傷を一瞬で消してしまうなんてありえるはずが無いのだ。回復力には加速限界というものがある。法術は如何なる傷をも治せる訳ではなく、その加速限界を超える負傷は治療が出来ないのだ。
やはり『遠見』は本当に人間の域を越えた存在なのだろう。こんなもの、人間に出来るはずがないのだから。
「死を恐れず、調和と情愛を重んじる彼の傷は癒されました。もう涙を流す必要はありません」
にこやかに微笑んだ『遠見』に、リュネスはそれでも頬を拭わず唖然と見ていた。
「汝、リュネス=ファンロン。あなたは何を望んでいますか?」
その時。
これまで閉じられていた『遠見』の両目がカッと開かれた。
「!?」
驚きに表情が凍りつくリュネス。
閉じられたまぶたの向こうから現れたのは、青い眼球と深紅の瞳というどんな生物にもあり得ない眼だった。『遠見』には、近い未来を漠然と見通す力が備わっている。予言でも予測でもない、ただ漠然と未来そのものを見るのである。そしてその力が、二年前にシャルトが暴走事故を起こしたにもかかわらずチャネルの封印だけで済んだという異例中の異例の結果をもたらした。
あの時、『遠見』はシャルトをここで殺す事は神意に反する行いだ、と言った。その神意とやらが一体何なのか、俺は知らなかったし興味もなかった。とにかくシャルトが助かったのだから、それでいいと。しかし、もしも『遠見』が二年前に今夜の一連の事を見通し知っていたとしたら。考えてもみれば、仮にシャルトがいなければ俺はここに来る事がなかっただろう。ルテラもそれほどリュネスに執着心を持たなかったかもしれない。そもそもシャルトがいなければ、リュネス自体がこの間の南区の襲撃で死んでいて、ここにいなかったかもしれない。全ては推測と結果論だけれど、不思議と今になって『遠見』があの時に放っていた言葉が確信と共に蘇ってくる。
「人の運命とは、人同士の歯車の結びつきあいで如何様にも輪転していく非常に不安定なもの。しかし大いなる神意は、今後もあなたに更なる試練をお与えになるでしょう」
そして『遠見』の指先がリュネスの額に触れる。
リュネスは動けずに、ただじっと『遠見』を見ていた。それは畏怖ではなく、ただ思考の自由を失って傍観しているに近い表情である。あまりに大量の言葉が流れ込み、思考が飽和状態になっているのだ。
「しかし、恐れてはいけません。如何なる闇も神の偉大なる光は切り裂きますが、歩むのは人の子自身なのです。前を向きなさい。そして進みなさい。深く苦しい闇の先に、あなたは一つの光を掴むでしょう」
そっと『遠見』は目を閉じてリュネスの額から指を離す。
と。
「……私は、生きていてもいいのでしょうか?」
不意にリュネスは、まるで追い縋るように『遠見』に向かってそんな問いを投げつけた。
生きていてもいい。
まるで自分がこの世に存在してはいけないとでも思っているかのような言葉だ。見た感じ、リュネス=ファンロンは自己主張の極めて弱い大人しいタイプの人間だ。シャルトと同じタイプである。大方、この手の性格の人間は周囲に対して迷惑をかけぬようにと過敏になっている傾向がある。だからどんな事にも全力で取り組む反面、知らず知らずの内に無理を重ねて体を壊してしまったりするのだ。そして不覚にも何か失敗を犯してしまった時。その落ち込みようもまた激しく、過剰なまでに自分を追い詰めるのだ。確かにこれほどの事態を起こしてしまえば気にしない訳にはいかないだろう。それこそ自分が死んででも償いたいと思っても不思議は無い。
けれど、俺にはリュネスの言葉がまるで救いを求めているように思えた。自分は生きてもいいのか、否定してもらうために言っているように聞こえるのである。
そんなリュネスに、『遠見』はそっと微笑んで静かに口を開いた。
「神は人の子に慈しみ繁栄する事を望まれました。慈しみがなければ繁栄はなく、また繁栄があってこそより大きな慈しみがもたらされます」
緩やかに伸びた手がリュネスの頭の上に乗せられる。それはまるで、母親が泣き止まない子供をあやすかのような仕草である。
ハッ、とリュネスは『遠見』を見上げた。『遠見』は目を伏せたままではあるが、リュネスの視線に応えるかのように温かな微笑を浮かべる。
そして。
「あなたを慈しんでくれる存在、そしてそれに応える意思があるのであれば。生きなさい」
TO BE CONTINUED...