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「ごめん、待った?」
 夕刻。
 馴染みのバーのカウンターで一人飲んでいた俺の元へ、そうルテラは何の悪びれた様子も無くやってきて座った。薄暗い店内の雰囲気は落ち着いていて、疲れた俺の体にはとても心地良い。これでイイ女が居れば最高なんだが、あいにくと今夜は一人だ。ルテラと約束があるからである。
「待った待った。いい加減、待ちくたびれたぜ」
 また冗談、とルテラはくすりと笑ってバーテンダーに注文する。別に俺は何も冗談なんか言っていない。本当に俺は一時間近くも待たされたのだ。それに対する謝罪どころか、罪の意識すらないとは。腹の底から怒鳴りつけてやりたいが、どうにも女には甘い性格がそれを断じて許さない。しかもルテラは俺にとってたった一人の大事な妹であるだけに、尚更甘やかしてしまう。それがこんな時間にルーズな性格を作ってしまったのか。
「で、どうした? もしかしてシャルトの事か?」
「そう。もうそろそろ二ヶ月は経つじゃない? 私は仕事のせいでなかなか時間が合わないから、ちゃんとしてるかどうか不安なの」
 ルテラは薄赤のカクテルをそっと口に含み、そう俺に問い掛ける。
 ルテラの仕事である守星は、非常に業務時間が不規則だ。昼夜が全く逆転することも珍しくは無い。休日もままならない以上、週二日の休日で生活している俺達と時間が合わないのは仕方のない事だ。
「ちゃんとやってるぜ? ついこの間、雪乱の研修も終わってな。いよいよ本格的にトレーニング開始……と言いたい所なんだがな。やっぱ、まだまだだ」
「まだって?」
「あいつはイイ足持ってるんだがな、後はてんでダメなんだよ。運動神経はそれほど悪くないが、なんというか、ストレートに言えば頭が悪い。覚えもそんなに早い方じゃねえな。もうしばらくは基礎練習さ」
 そう、俺は微苦笑を浮かべながら、五杯目のロックを口に含む。
 俺は正直な話、シャルトに研けば輝く才能の片鱗を見出していたのだが。確かにシャルトは『天性の脚力』という原石を持っていた。しかしその他はあまりにお粗末なもので、ストレートに言えば人並み以下だ。運動神経は悪くはない。しかし人よりも機転や奸智に乏しいのだ。戦闘は筋肉だけでやるような単純明解なものではない。肉体的な強さの他に、それを生かすための機智がなくてはいけないのだ。幾ら体が優れていようとも頭が悪ければ勝つ事は出来ない。シャルトはその機智が致命的に欠けているのだ。
「ちょっとボーッとしてる所があるからね、シャルトちゃん」
「実戦では相手の裏をかき、常に次の状況を考え、現状に即座に対応すんのが基本なんだが、あいつはどっちも才能がねえ。根が馬鹿正直過ぎんだよ」
 素直な性格というのは、そのまま飲み込みの早さに繋がるため本人の成長に大きく貢献する。しかしその反面、物事を表面的にしか捉えることが出来なくなり、非常に誤った認識を起こしやすい。それだけでなく、悪意のある第三者の言葉を容易に信じてしまい自ら不利益な事態を招いてしまう。傍から見ればなんとも好感の持てる間の抜け具合だが、俺達の舞台は平凡な日常ではなく一瞬一秒一刹那を争うシビアな戦闘だ。この世界にそんなぼんやりしたヤツの居場所などない。
「あら、いいじゃない。素直な子は可愛いわ」
「可愛いだけじゃ、北斗はやってけねえよ」
 ルテラは本当に事態を把握しているのだろうか? 可愛いやら素直やらと、自分の感じた印象ばかり並べて他の事には目を向けていない気がする。まとまった休みを取ってシャルトの世話をしていた程だから無責任になっている訳ではないだろうが、もうちょっと緊張感を持って欲しいと思う。
「でも、なんだか順調なようね。安心したわ」
「まだ医者から貰ってる薬は飲んでるけどな。大した発作はそれほど起きていないし、肉離れとかも起こしちゃいない。じっくりやってきゃ、その内に良くなるさ」
 シャルトの後遺症は、正直どれも洒落にならないものばかりだ。突発的な精神の錯乱、常に危機状態のリミッターの外れた筋肉、どんなに深刻な怪我をしてもそれを感じることの無い無痛症。幾つもの要因が複雑に絡み合う事で作りだされたこれらの症状には、具体的に有効な治療手段は存在しない。ただ症状を緩和させるために、抗麻薬剤と強い精神安定剤を服用するだけだ。
 正直、俺にはどうしようもない状態なんだが。要はこいつの体には毒と心病が巣食っている訳だから、それらを取り除けばいいのだ。毒は体を鍛えれば自然と抜ける。もともと人間の体には自浄作用があるのだ。そして心病は、もっと人と接し、色々な事を見聞きすればいい。どちらにしても、後は本人の気力次第。今の所それは充実している訳だから、俺達が削がれぬよう支えてやればいいのだ。
「で。ところで、お前の不安ってのはアレか? 精霊術法」
 すると、ルテラはギクッとしたような表情を浮かべ、グラスを持つ手が一瞬硬直する。やっぱりな、と思う反面、悪い事を言ってしまった、と後悔する。俺にはなんともない事でも、ルテラは酷く気にしているのだ。そう無神経な言葉を安易に口にするものではない。
「私に責任があるものね。精霊術法の件は」
 ふう、と溜息をつき自虐的な口調でそう呟く。ルテラは二年前のあの時以来、滅多に落ち込む事がない。多少辛い事があってもあえて笑い冗談を飛ばすような明るさを持っているのだ。にもかかわらずこんな落ち込んだ様子を見せたのは、それほどまでにルテラにとってあの件は衝撃的だったのだ。
 もうちょっと気づかってやれよな。
 そう、俺は気のきかない自分を叱咤する。
「そりゃ単にシャルトがそういう資質を持ってるって知らなかっただけさ。お前は悪くない」
「でも、本人にとって『知らなかったから』で済まされるかしら? もしもお兄ちゃんが突然、『開封した所、あなたは暴走しやすい体質でした』なんて言われたらどうする? シャルトちゃんと同じ立場で」
「そういう仮定論はやめろよ。とにかくだ。シャルトは今のところなんら問題もないのは列記とした事実だ。経過も順調だっつうし、精霊術法も基本的な制御は自分の意志できる。障壁くらいは咄嗟に作れるらしいしな。俺は、安心するには十分過ぎる要素が揃ってると思うがね」
 我ながら随分と強引な事を言っていると思う。確かに現状のシャルトに関しては何の誇大もしていない。しかし、絶対に好転するという保障はどこにもないのだ。言ってしまえば、保障そのものが俺の願望でしかない。
「楽天家よね、お兄ちゃん」
「悲観して、何か出来るのか? 少なくとも楽観はいつまでも意味のない足踏みなんかしないぜ」
 ここまで開き直るか、と呆れた笑みを浮かべるルテラ。俺は当然、と胸を張ってグラスを傾ける。
 確かに楽観って言えば楽観だが、これはどっちかというともっと悲壮で逃避的な楽観だ。目の前にとてつもなく大きな谷があって、それを自分の力で飛び越えられるか。その状況で『飛び越えられる』と答えるのが俺の楽観だ。物事を楽観出来るのは一つの強さと俺は考える。どんなに辛く困難な状況でも決して希望を見失わない。そういう強さだ。
「私はね、何時どんな拍子で暴走を起こしちゃうか分からないから精霊術法は怖い、って言ってるの。とにかく、シャルトちゃんから目を離しちゃ駄目だからね」
 軽く口を尖らせて、まるで俺を諭すかのように言いつけるルテラ。俺は肩をすくめ、はいはい、と軽い返事を返した。相変わらず、シャルトの事になるとやたら熱心にしつこくなる。そんなにシャルトばかりかまって、ないがしろにされているお兄さんは少し嫉妬したい気分だ。
「やれやれ。まるで共働きの夫婦の会話だな」
「茶化さないの。ホントは私が引き取りたいんだからね」
 ルテラはスッと俺の目の前に手を伸ばすと、その指でビシッと俺の額を打つ。鈍い音と共に頭蓋骨がズンと揺れ、刺すような疼痛が襲い始めた。さすが精霊術法の副作用で筋力が強化されているだけある。白魚のような細く白い指が、まるで金槌のような威力を発揮している。
「キツいお母さんだこと」
 額をさすりながら苦笑する俺に、そこまで歳は離れてない、とルテラが不機嫌そうな表情を浮かべ、二発目を放とうと指を構えて見せる。さすがにニ連発は勘弁して欲しい俺は、両手を上げて首を左右に振った。
 ルテラのその言葉はおそらく本意だろう。ただ、守星は時間の不規則さだけでなく、思わぬ危険が日常に付きまとうのだ。ルテラがシャルトを引き取った所で、まともに顔を合わせる時間が作れないどころか、仕事上被る危険の巻き添えを食わせてしまう可能性だってある。仕事を辞めるという選択肢がない以上、ルテラにはシャルトの世話をするのは極めて困難だ。それだけに、ルテラは尚更なかなか会う機会のないシャルトの事が心配なのだろう。
「とにかく、任しておけって。俺だってな、あいつの事をいい加減に考えてる訳じゃねえんだからな」
 だったらしっかりしてよね、とルテラが俺の胸を小突く。今度はさほど力が込められておらず、ぐぇっとむせる事は無かった。
「最近思うんだけどさ、なんか弟が出来た感じだな」
「そうね。ちょっと歳は離れてるけど」
 シャルトは十五歳だと言っていたが、そうなると俺とは一回りも違う事になる。確かに弟にしては離れ過ぎだが、子供にしては大き過ぎる。まあどっちにせよ、情が移ってくるとやけに可愛く思えてくるものだ。それは容姿云々ではなく、これは漠然とした予想だが、自分に子供が出来るとこういう感情になるのだろう、と思えるような感覚だ。
 俺はシャルトをどうしたいのだろう?
 時折、俺はそんな事を考える。答えは漠然としてはっきりとは明言出来ない。ただ、シャルトが俺に飾台を向けた時。こいつには、自分の歩きたい道を歩かせてやりたい。そう思ったのだ。シャルトには自分の意志を通すだけの力はなく、力の弱い者には特に生き辛いヨツンヘイムでは到底その意思を主張する事は適わない。俺はシャルトをどうしたいのかは分からないが、自分のやりたい事は分かっている。シャルトに降りかかるそういった難を取り除いてやるのではなく、自ら取り除けるように鍛えてやりたいのだ。それが最初の命題である『シャルトをどうしたいのか』の答えに足り得るかは知らんが、とにかく今俺が言えるのはそれだけだ。
「あ、そうだ。もう一つ不安な事があるんだけど」
 丁度グラスを空にした俺がバーテンダーに同じものを注文した時、ふとルテラがグラスの縁から唇を離し、そう小さく声を上げた。
「何だ?」
 バーテンダーから差し出された冷たいグラスを受け取りながら、俺は軽く一口含む。するとルテラは再び神妙な面持ちで俺を見据える。殺気立って、と言うほどではないのだが、どこかしら周囲の空気が冷たく凍えていくような迫力をルテラは漂わせている。やけに真剣だ。他に何かそんなに重要なものがあっただろうか? はて、と俺は眉尻を上げる。
 すると、
「お兄ちゃん、くれぐれもシャルトちゃんにはいかがわしい事なんか教えないでね」
 特に重要な部分らしい『教えないで』にかかる言葉を、ルテラは露骨に強調して俺に言いつける。なんだそんな事か、と凍てつくような真剣さとその内容とのギャップに、思わず苦笑いをこぼす。
「男に生まれた喜びの半分を奪う気か?」
「ケダモノにしたくないだけよ。謹厳実直、精練潔白な男の子に育って貰いたいの。お兄ちゃんとは違ってね」
「いやはや、それは手厳しいね。シャルトちゃんも鬼姉が出来ちゃって可愛そうに」
 そうはぐらかしながらグラスを傾ける。瞬間、俺は耳を捻り上げられた。
 千切れるかと思った。



TO BE CONTINUED...