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 どうして分かってくれないんでしょうか?
 ……私は意地なんて張ってません。納得がいかないだけです。
 意地を張ってるのは……そっちじゃないですか。




「おかえり……ふわあああ」
 日曜日。
 ファルティアさんが帰ってきたのは丁度昼時になってからでした。なんだか酷く疲れた様子で、挨拶もそこそこにまるで雪崩れ込むように部屋へ戻ると、そのまま眠ってしまいました。私は服が皺になるといけないので、眠っているファルティアさんの服を脱がせ洗濯するものはこれから洗うものとまとめて、後はきちんと埃を払ってから形を整えてハンガーにかけます。
 日曜日はトレーニングはお休みになるのですが、やらなくてはいけない事は沢山あります。まずは洗濯物です。平日は一日中訓練所でへとへとになるまでトレーニングをするため、帰ってきても洗う暇はとてもありません。だからまとめて洗うようにしているのですが、それは日曜日しかないのです。そして、一週間分の食材を買出しにもいかなくてはいけません。一週間分と言っても、必要なのは朝食と何食分かの夕食だけでいいのですが、洗濯物と同じ理由で平日には買い物に行く暇はないのです。
 ファルティアさんが眠ると、まず私は洗濯物の残りを片付けました。洗ったものはテラスに干すのですが、きっと女性のための配慮なのでしょう、テラスの天井部分には細かい網目状のスクリーンが取り付けられており、これを引き降ろすと外からこちらの様子は薄影が差したようになって見えにくくなるのです。
 ようやく洗濯物が片付くと、私はお茶を淹れて一息つきます。意外と洗濯は重労働です。二人で七日分あるのですから。でも、ファルティアさんは以前はどうやっていたのでしょうか? 少し知りたくなる問題です。
 三十分ほど休んだ後、私は買出しに出かけました。
 買い物の際に気をつけなければいけないのは、無理に一週間分の献立を考えずに汎用性の高い食材を中心に買う事です。下手にあれこれと考えて買うと結局食材を残してしまい、そのまま駄目にしてしまうのです。
 買出しを終え、私は重い荷物を抱えて帰ってきました。丁度その時、ファルティアさんも目を覚ましたらしく、玄関で眠そうな目をこすりながら出迎えてくれました。大きなあくびも止まりません。寝飽きたので起きたのではなく、お腹が空いて起きたのだそうです。
「ちょっと早いけど、夕食にしますね」
 私は荷物を整理し、早速夕食の用意に取り掛かりました。その間、ファルティアさんはお風呂に入って服を着替えます。
 ファルティアさんは油を使ったこってりした味の料理が好きでした。油はエネルギーに還元されるので、会議で疲れている今のファルティアさんには丁度いいでしょう。ただ、油の量が多過ぎると料理そのものが油の味だけになってしまいます。そうなるのを防ぐには、火力を高めなくてはいけません。火力が高くなると今度は扱いが難しくなります。お父さんはどれだけ火力を強くしても、まるでマッチの火を相手にしているかのように難なく操っていました。比べて私はまだまだ劣っているだけに、もっと頑張らなくてはいけません。
「ふう、サッパリした」
 と、ファルティアさんがバスタオルを巻いただけの姿で脱衣所から現れました。
「ファルティアさん、そんな格好で歩くのはどうかと思いますけど」
「着替え、部屋に忘れちゃったのよ。それにさ、別に自分んとこでどういう格好しようが誰にも迷惑かからないっしょ?」
「別の問題だと思います」
 私は料理を続けたままそう答えたのですが、ファルティアさんの気配が部屋へ行こうとはしませんでした。その代わりに、そのままソファーにどっしりと座る音が聞こえます。
「ま、ちょっと涼んでからね」
 ははは、と笑うファルティアさんの声。
 バスタオル一枚だけで、よくくつろげるものです。私は、そこがたとえ誰もいない密室だったとしても、そんな姿でいるのはそう長く我慢が出来ません。身を覆うものが僅かしかなくて不安になるからです。この辺りの感覚は、リーシェイさんやラクシェルさんも同じです。ロッカールームの奥にあるシャワールームでも、私はいつもこそこそと出入りしているのですから。多分、ああいうのが普通の人の感覚なのかもしれません。
「ねえ、そういえばさ、リュネス」
「はい?」
 作業の一段落ついた私は、ファルティアさんの声にふと振り返りました。ファルティアさんは足を組んだままヤスリで爪を研いています。
「ちょっくら聞いたんだけどさ、夜叉のシャルトとよく会ってるんだって?」
「あ、はい。時々ですけど、昼ご飯を食べてます」
「そういや、週に何回か、妙にそわそわしてると思ったら、昼休みになるなり一人でさっさと出てく事があったけど。そういう事だったわけ」
 私は別にシャルトさんと会う事を隠していた訳ではありませんでした。ただ、別段誰にも言っていないだけです。言う必要はない、とは思っていませんが、言ったところでなんやかんやと周囲からのちょっかいがありそうだとは考えました。そして、そこに余計な尾ひれがついてあちこちに風聞するのです。私は、それだけは避けたいと思いました。私もそうですが、シャルトさんもあまり騒がれる事が好きではないようだからです。
 ファルティアさんにもまた、こう同じ場所で生活させてもらっているのですが、シャルトさんとの事は全く言っていません。けど、それは隠していた訳ではないのです。こそこそやっているとか、そういう後ろめたさはありませんし、何よりもいずれはちゃんと話すつもりでいたのです。
 が。
 ファルティアさんの口調はどこか刺々しいものがありました。それは、私がファルティアさんの目を盗んでこそこそとそういう事をやっていた、と思って腹を立てているからなのでしょうか? いえ、別にこの程度のことではこんな風になるとは思えませんし……。
「リュネスは、あんまりアイツの事は知らないだろうけどね。ま、丁度いいや。もう、あいつとは会わない方がいいわ」
 え……?
 その意外な言葉に、私は思わず唖然として目を見開いてファルティアさんを見ます。
「そんな、どうしてですか?」
「あいつよりもいいヤツは他にもいるから、そっちにしろって事」
 他にいるって……。
 そういう問題ではありません。人間は野菜ではないのです。これはどうだとか、そういう選別の仕方は間違っていると私は思っています。総合的にどうだから、と人を選ぶ人もいれば、ここが好きだから、と局所的に選ぶ人も居ると思います。でもそれは、条件を満たしていれば誰でもいいという訳ではないのです。自分にとって大切な人というのはその人でしか担う事は出来ず、代わりはいないのです。にも関わらず、ファルティアさんがそんな事を言うなんて。私は俄かには信じられません。
「……嫌です。突然そんな事を言われても、私は何がなんだか分かりません」
「だったら、どうして私がこんな下世話な事を言うのか、その理由を教えてあげる?」
 私はこくりとうなずきました。突然こんな無茶苦茶な事を言われて、私は従える訳がありません。もっと他の事だったら、渋々ながらもうなずいたかもしれません。けど、シャルトさんだけは別なのです。私にとってシャルトさんはとても大切な人なのです。他の誰かに、それがたとえファルティアさんだとしても、そう簡単に意見を曲げる事は絶対に出来ません。もしも納得のいく説明があるというならば、是非とも聞いてみたいものです。こんな理不尽な事を言う、その理由というものを。
「あいつが薬飲んでるの、知ってるよね?」
 そう言われ、私は昨日シャルトさんの外ポケットに入っていた白い紙袋を思い出しました。それは病院で貰った、長く飲んでいる薬なのだそうです。そういえば、南区の事件が起こったあの晩もシャルトさんは白い錠剤を口にしていました。
 それが何の薬かは、私は知りません。昨日、一度だけそれを訊ねてみましたが、シャルトさんはなんだか気まずそうに話を濁していました。つまり薬の事は、そう簡単には話すことが出来ない何か重い理由があるから話せないのだと思いました。その時私はそれ以上の追及はしませんでした。きっと触れて欲しくない話題なんだと思います。触れて欲しくない事を強引に聞き出そうとするのは相手を傷つけてしまう行為です。私がシャルトさんに出来る訳がありません。
「あの薬、何だか知ってる? 精神安定剤よ。かなりきついヤツ。しかも、今はどうだか知らないけどさ、前は抗麻薬剤まで飲んでたわ。これ、どういう意味だか分かる?」
「どうって……」
 いきなり言われても分かりません。けど、ファルティアさんは私が返答するどころか考えるよりも先に次の言葉を矢継早に続けます。
「まだあるわ。ベルセルク反応って聞き覚えあるでしょ? そう、チャネルの大きさの基準のこと。リュネスはSランク、文句なしのベルセルクだったわね」
 北斗では、開封で開いたチャネルの大きさを五段階で区別しています。けれど、極めてチャネルの大きいAランク以上の人間は『ベルセルク』と本部から宣告を受けるのです。私もまた、本部から簡潔な手紙によってそれを通知されました。それが少なからず私へのプレッシャーにならなかった訳ではありません。ベルセルクとは、私は北斗に壊滅的な被害を与える危険性が高い、という意味なのです。だから私は自分が強くなるためだけでなく、周囲に迷惑をかけないという意味でもトレーニングにはより励まなくてはいけないのです。
 でも、そんな事は嫌というほど私は自覚しています。どうしてそんな事を話の、しかもシャルトさんについて話し合っているのに、引き合いに出すのでしょうか。
 いえ。まだ話は途中ですし、再確認の意味で出しただけです。慌ててしまってはいけません。じっくり聞かないと……。
「でもね、正直言って。ベルセルク宣告なんて大したモンじゃないんだわ。まだ、やっちゃってないからね。致命的なヤツを」
 致命……的?
 ベルセルク宣告を受けた人間にとって致命的なものと言ったら、一つしかありません。
 でも……。
「あいつはそれをやったのよ。暴走事故。もう一年半……二年ぐらい前かな」
 私は驚きに息を飲みます。
 まさか、シャルトさんが暴走事故を起こしていたなんて。信じられませんし、何よりも信じたくありません。
 いえ、現実逃避をする前に。
 リーシェイさんは前に、暴走を起こしてしまったら、浄禍に消滅させられるか流れ込む魔力が容量を越えて消滅するかのどちらかしかないと言っていました。つまり一度でも暴走を起こしてしまったら、もう生きる術は残されていないという事なのです。
 けれど、おかしいのではないでしょうか? その暴走を起こした当人であるシャルトさんは、今もちゃんと生きているのですから。
「あいつのランクはA。リュネスよりはマシって程度だけど、それでも被害はとんでもないからね。放っておいたら、北斗なんて半日で塵になっちゃうから。だからそうなる前に浄禍が出たんだけどさ」
「だったら、どうしてシャルトさんは今、ここに無事でいるんですか? だっておかしいじゃないですか。浄禍が出てきたら、確実に消滅させられるんでしょう?」
 すると、ファルティアさんは大きく溜息をつきました。それは、そうじゃない、という私の問いへの返答が含まれています。
「消滅させられなかったのよ。浄禍は何も全ての暴走事故者を消滅させる訳じゃないわ。執行の最終判断は、浄禍の頭目で浄禍八神格の筆頭、『遠見』の座によるの。そして、遠見の座はあいつを執行猶予としたわ。その代わり、チャネルを永久封印して」
 ここまでの話の内容を整理してみます。
 まず、シャルトさんはかつて精霊術法の開封によってチャネルを開きました。しかしチャネルが大きく、ランクA、ベルセルク宣告を受けます。そしてその後、何かのきっかけで暴走事故を起こしてしまいました。一度暴走してしまえば消滅以外の道はありません。けれど、浄禍の頭目の配慮によってシャルトさんはチャネルを永久に使えなくされただけで済みました。
 確かに辻褄は合っていると思います。けれど、
「……でも、それが何だっていうんですか? 別にシャルトさんが悪い訳じゃありません。なのに、どうして……」
 どうして『会うな』なんて言うんですか?
 けど、喉が詰まって声が出ません。泣いてはいけない。そう自分を鼓舞します。
「一度暴走を起こした人間は、『バトルホリック』って呼ばれるのよ。暴走ってのは鬱屈した感情の開放なの。その快感が忘れられなくて繰り返し戦闘に走り、結果的にまた暴走を起こすのよ。せっかく浄禍に執行猶予もらったのに、それでみんな自分の身を滅ぼしているのよ」
「シャルトさんは関係ありません! だって、チャネルは封印されているんでしょう!? 暴走しようがないじゃないですか!」
 思わず私は怒鳴るように声を張り上げました。
 シャルトさんが暴走した事は事実かもしれません。けれど、だからといって二回目の暴走を起こす確証はどこにもないのです。にもかかわらず、ファルティアさんの口調は、まるでシャルトさんが二回目を起こす事を決め付けているかのようです。だから、私はつい頭に血が昇って声を張り上げてしまったのかもしれません。これだけの声を自分の意志で出したのは、生まれて初めてだと思います。
「バトルホリックは仲間を呼ぶと言われているわ。だからリュネスも将来、暴走しかねない」
「迷信じゃないですか! そんなの、私は信じません!」
 くだらない。
 吐き捨てるように私はその言葉を心の中に浮かべました。言われている、だなんて、何の根拠もない推論、噂話程度の事です。そんな事を理由に、ようやく繋がりかけたシャルトさんとの関係を無しにするなんて出来るはずがありませんし、するつもりも全くありません。私はシャルトさんが好きです。それは、そんな迷信などに惑わされるほどいい加減な気持ちではないのです。この程度では意思が揺らぐどころか、むしろより強固になるだけです。
「何と言おうと、今後は一切許さないわ。私はね、リュネスの幸せを考えて言っているのよ。それがなくたって、あいつは―――」
 更に苛立ちの入り混じったファルティアさんの言葉。
 以前ならビクビクして、すぐに自分の意見を譲ったはずです。けれど、今は違います。私はファルティアさんの言葉に自分の言葉を被せました。
「ファルティアさんの幸せと、私の幸せは違います」



TO BE CONTINUED...