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 目と鼻の先で二人の視線がぶつかる。それは今にも爆発してしまいそうな拮抗を作り出すのではなく、ただ一方的にスファイルへ注ぎ込まれるものだった。
「すみません……」
 レジェイドの怒りに満ちた眼差しは容赦なくスファイルに降り注ぐ。それに対しスファイルは、ただ謝罪の言葉を口にする事しか出来なかった。自分に非があると認めているか、もしくはそう思い込んでいるためである。
「俺の言いたい事は分かってるよな?」
「……はい」
 たとえ殺されても文句は言えない。
 二人には改めて理由と意味を確認しあう必要は無かった。だからレジェイドは怒りをぶつけ、スファイルは素直に謝罪するだけだった。
 スファイルには謝らなければならない事は幾つかあった。
 五年前、既にエスタシアが北斗転覆のため暗躍していたのを知っていながら誰にも話さなかった事。
 エスタシアと一対一で対決した時、寸出の所で殺すのを躊躇ってしまった事。
 そしてレジェイドと交わした、絶対にルテラを悲しませないという約束を違えてしまった事。
 今回の事件についてスファイルは二重の意味で責任を感じていた。五年前のあの時に他の選択肢を選んでいれば事件を未然に防げた事。そして、事件の首謀者が実の弟であるため手心を加えてしまった事。
 だがそれよりも、レジェイドが怒りをあらわにする理由を苦く噛み締めなければならなかった。
 レジェイドが責めているのはルテラを悲しませた事だ。それも、自分が行方をくらませた後に一体どういった経緯が起こったのかスファイルは知っていた。そもそもの発端となった自分が、今になってのこのこと姿を表したのだ。レジェイドの怒りは仕方のない事だった。
 しばらくレジェイドとの一方的な睨み合いが続いた後、レジェイドは突き飛ばすようにスファイルを離した。予想していたよりもあっけない解放に、スファイルはやや困惑した表情を浮かべる。だがすぐに、その表情はレジェイドの視線によって正されてしまった。
 脳裏をよぎった事態まで発展せず、なんとか事無きを得た。けれど、ルテラはそれでも不安げな眼差しのままだった。その不安はこれまでとはまた別の何かに向けられている。
「で、行くのか?」
「ええ。ここからは一人で行きます。僕がやらなければいけないのですから」
「一人前に罪悪感かよ」
「それもあるかも知れませんが、そういった理由には逃げたくありませんから答えないでおきます」
 スファイルは薄い笑みを浮かべる。そしてくるりと踵を返すと、そのまま部屋のドアへと向かっていった。
「待って!」
 声を上げスファイルを制止するルテラ。
 二人の間の距離はほんの数歩しか離れていないのだが、まるでスファイルが瞬く間に手の届かないほど遠くへ行ってしまったかのようにルテラは酷く焦りを露にしていた。それは思わず場を等しくする一同が口を噤み、奇妙な静寂を突発的に作り出してしまうほどだった。
 はたと足を止めたスファイルの目の前に、ルテラはあっという間に駆け寄った。そして悲しみに潤んだ目でスファイルの顔を見上げる。ぎゅっと握る拳はぷるぷると細かく震えている。何か強い感情を必死で堪えているのが誰の目にも明らかだった。その姿があまりに痛ましいせいか、二人を除いた皆は示し合わせたかのように視線を落とす。
 二人がかつては婚約した仲である事は周知の事実である。出会いから僅か一ヶ月足らずという非常に加速的な進展だったが、二人の仲は誰の目にも恋愛小説に描かれるそれを連想させるようなおよそ理想的なものだった。だがそれは、スファイルの死という形で一方的に破棄される結果に終わった。
 互いの合意も無い終わり方には、少なくとも感情レベルでの明確な婚約破棄の意味は無い。けれど、五年という歳月が理不尽な終止符への戸惑いを奥の暗く狭い場所へ押し込め、整理と忘却という名目が塗り固めた。それによってようやく平素の自分を取り戻せた出来たルテラにとって、このスファイルの突然の出現は非常に暴力的なものだった。塞がったばかりの傷口をえぐり返すようなものである。
 ふとスファイルは、腕を伸ばしてルテラを抱き寄せたい衝動に駆られた。
 手を伸ばせばすぐ届く距離にあるルテラの体。けれど、そう容易には触れる事の出来ない何かが腕の行く手を阻んだ。
 果たしてそれは許される事なのか。自分のような不誠実な人間に。
 ただ不安と罪悪感が重く頭に圧し掛かる。
 一歩、前に踏み込む。ルテラは視線を向けたまま微動だにしない。
 更に一歩、前に踏み込む。ルテラの顔がぐっと近づく。それでもルテラは微動だにしない。
 そしてゆっくり両腕を開く。
 そこで、先程の光景が頭を過ぎった。抱き寄せようとした自分を拒絶するルテラの姿だ。
 幻影を追い払い、まるで割れ物を扱うようにルテラを抱き締める。途端に体がビクッと震えて肩が硬く強張る。けれど拒絶はそこには無い。
 息遣いが感じられるほど間近で顔と顔が相対する。
 そっと唇を求めてスファイルは顔を近づける。だが、ルテラはスファイルから視線と共に顔を背けた。
 やっぱり、拒絶された。
 スファイルはそっと微苦笑を浮かべ、ルテラを抱き締めるその手を離した。
 やはり、もう顔を合わせなかった方が良かった。まだ気持ちは繋がっているなどと、それは所詮甘い幻想にしか過ぎなかったのだ。僕達の関係は既に修復の出来ない所まで来てしまっている。五年前のあの関係、あの時間は何物にも変え難い大切なもの。それだけに、失ってしまったものが大切であればあるほど取り戻す事は出来ない。
 スファイルのルテラに対する気持ちは、未だ五年前のそのままだった。ルテラも同じように五年前のままなのか、それを訊ねたかった。しかし、それはもう意味は無い事だ。ルテラは自分の気持ちをこうして態度で現している。火を見るよりも明らかな、明然たる形で。
 ルテラは恐る恐る窺うようにスファイルへ視線を戻した。スファイルはただ薄い笑みを浮かべているだけだった。何も言わず、ただ笑みを浮かべるだけ、それはあの頃から全く変わらない彼の特徴だった。
 何故、何も言わないのか。
 ルテラにはそれが不思議で、そして辛かった。
 いっそまだ罵り合った方がずっと気持ちが楽になる。人が十人いれば十通りの事情があるのが世の常で、スファイルにも同じように抜き差しならぬ事情があったのだ、それを理解しようとしない自分を、どうして何も言わず微笑を返せるのか。もはや自分への執着心など消えてしまったのだろうか? 執着がないから、自分に拒絶されても平気でいられるのだろうか?
「僕、そろそろ行くよ。元気で」
 元気で。
 それは、二度と会わないと宣言したあの言葉の反復だった。
 違う、スファイルは分かっていない。
 だが、ルテラは静止の言葉を放つ事が出来なかった。今の自分の気持ちを正確に表す言葉が見つからないのである。
「あ……」
 ふとルテラは何かに気づき声を上げた。それは同時に、踵を返そうとしたスファイルの服の袖を無意識の内に掴むという行動に表された。
 間近で見るスファイルの顔、ルテラはそこに一つの違和感を覚えた。
 以前とは違う、長く前髪を伸ばしたその髪形。それは単に切らず伸ばしているだけと思っていた。けれど踵を返そうとした瞬間に覗いた前髪に隠れた右目、それが左目に比べて明らかに色がくすんでいた。
「スファイル? その右目……」
 するとスファイルは優しげな微笑を浮かべながら答えた。
「彼との時に。体の怪我は治ったけど、右目の視力だけは元に戻らなかったんだ」
 だからこうして隠している。
 スファイルはそう言葉にする代わりに、軽く指で髪を梳き右目を隠し直した。
「本当にエスが……?」
 信じられない、とでも言いたげなルテラの表情。けれどその胸中には、自ら否定しようの無い真実を示すものが秘められていた。今のエスタシアは、自分達の知る彼ではない。いや、逆に自分達の知る顔こそが偽りで、むしろ今の彼こそが本来の姿なのかもしれない。目的の障害となる者には誰であろうとも容赦なく剣を奮う事が出来る冷徹な心。それを証明するものは二つ、自分自身が身を持って受けた彼の剣と、視力を失ったスファイルの右目だ。
 エスタシアがもはや取り返しのつかない所へ居る事をルテラは自覚していた。どれだけ考えても、エスタシアがこれまでと同じように自分達の輪の中へ自然に受け入れられる方法が思いつかない。北斗側の視点から鑑みて、既に選択肢は二つしかないのだ。エスタシアに従順するか、排除するのか。どちらにせよ、二度とエスタシアを友人と呼んだ日々は戻って来ない。
 北斗はエスタシアの排除を選択した。かつて北斗に多大な功績を残した彼も、今ではただの病原体にしか過ぎない。彼は単なる敵、それ以上でもそれ以下でもないのだ。けれど、よりによって今、武力的な排除を行使出来るのがスファイルしかいないなんてあまりに皮肉だ。これは北斗が日常的に行ってきたただの秩序維持ではない。二人は血を分けた実の兄弟。五年前につけられなかった違えた意思の決着。様々な視点から考え、一重も二重も意味のある戦闘になるのは間違いない。そして、その結果如何にて北斗の命運が決定する。従来の専守防衛か、攻勢組織への転換か。
「あなた一人で大丈夫なの? 彼は……彼は本当に強いわよ」
「知っていますよ。でも、僕一人で行きます。弟を殺す姿なんて見られたくないからね」
 スファイルはそっと袖を掴むルテラの手を握り込む。冷たくか細いその手は微かに震えていた。幾ら温めようとしてもまるで氷のように凍えた手は少しも温まる事が無かった。このまま温まるまで握り締めていたい。そんな衝動に駆られるも、スファイルはその思いを断ち切り、袖から手放させた。
 最後にもう一度だけ、スファイルはルテラに向かって微笑み、今度こそ踵を返した。
 既にルテラは手を伸ばすことも出来なかった。まだ握り締められた感触の残る手が、その場に押さえつけられている気がしたからである。
 言葉を。せめて何か言葉を。
 もはや行動に訴える事は出来なかった。ルテラの理性はスファイルを制止する事が許されるような事態ではない事を明確に受け止めている。今、まともにエスタシアと戦えるのはスファイルしかいない。他の者は体を満足に動かす事さえ出来ないのだ。たとえどれだけ苦しくとも、最も優先されるのはスファイルの戦闘なのである。
 だから、自分は言葉を。それも、スファイルが動揺しないような言葉を。
 際限なく膨れ上がり体を突き破りそうな感情を抑えるだけでルテラは精一杯だった。だから言葉を選びつつも恥も外聞も無く、ただ訴えた。消え入りそうなほど掠れた声で。
「お願い。絶対に帰って来て。もう、私の前からいなくならないで」
 スファイルは踏み出そうとした足を止める。けれど、ルテラに向かって振り返ろうとはしなかった。それはルテラから目を背けているというよりも、自分の顔を見せぬためのようだった。
「分かった。今度こそ約束するよ。今度こそ」
 そう言い残し、スファイルは素っ気無く部屋を後にした。
 最後に放ったその声、まるで別人のように冷たく冷え切っていた。
 戦いに行く人間の声ではない。かつて自分がそうだったように、ただ殺気立つ人間の声がそれに近い。だが、スファイルの声は雪魔女の声すら温かく思えるほど恐ろしいまで凍えていた。同じ人間の声とは到底思えない。むしろ、人外の怪物のそれと表現した方が正しいだろう。
「心配するなよ」
 呆然とその場に立ち尽くしていたルテラに声をかけるレジェイド。
 振り返るルテラの顔は不安を通り越し、今にも泣き出さんばかりの表情だった。スファイルの尋常ならぬ様子に不安が尽きないためである。
「スファイルの事は心配するな。あいつはきっと勝つさ」
「でも……今の、絶対普通じゃなかったわ」
 ルテラの知るスファイルは、北斗の中でも有数の実力者と謳われながら、たとえ戦闘中でも殺気とはまるで無縁で、常に朗らかに振舞う人間だった。そんな彼が見せた悪鬼のような背中。
 憂うのは、スファイルの安否ではなかった。スファイルが自分には理解出来ない領域に踏み込もうとする事が、折角巡り合えたというのに、再び何処か果てしない彼方へ消え去ってしまいそうで恐ろしいのだ。
 肩を震わせうつむくルテラに、レジェイドは出来る限り明るく声をかけた。他に不安を和らげる術を持たない自分に歯痒さを覚えながら。
「仕方が無いんだよ、あれは。あいつが躊躇わずに戦うには、感情も何もかも、殺意で塗り潰すしかねえんだ」



TO BE CONTINUED...