BACK

 夢のような蜜月は過ぎて。
 吹き付ける風の冷たさに、一度は逃げ出した私。
 あなたの腕は温かかった。
 あなたの胸は広かった。
 あなたの唇は優しかった。
 それが、もうこの世から消えてしまったなんて。
 信じる、信じられない以前に。私は怖かった。
 自分がどうにかなってしまいそうだった。
 とても正気を保てる自信がなかった。
 スファイルに会いたい。
 あの人を感じていなければ、心が錆び付いてしまう。
 一秒一秒が何十年もの時間に思え、あっという間に私は枯渇してしまう。
 こんなに辛い現実なら、目を向ける必要はない。
 私は事実を蹴り飛ばし、あんな真似までもした。

 でも、それは昔の私。

 私はここに居て、あなたの真実を目の当たりにしている。
 そして同時に、生ぬるい幻想に心を浸している。
 あなたの死を理解し、そして拒絶する不安定な私。
 でも、私は正気で居られる。
 身を切り裂かれそうな寂しさに襲われても、酷く打ちひしがられる事はない。
 いつか、私はあなたの事を心の奥底へ追いやってしまうかもしれない。
 あなたは、ほんの一時の惑乱。
 そうクールに割り切れる性格ではないけれど。
 私は、あなたと過ごした日々の幸せは幻想ではなく、確かなものだとこれからも胸に抱き続ける。
 少しの間だったけれど、ちゃんと形に残るものに記した訳ではなかったけれど、私の夫だった人の存在を、私は妻として忘れない。




 閑散とした墓地を後にして大通りに抜けると、北斗の普段の賑わいが思い出したように耳に響いてきた。けたたましいけれど、決して耳うるさくない、人々の熱気をダイレクトに感じられる心地良い喧騒。静かな場所で冷え切った心が温まっていくような、そんな錯覚を二人は覚えた。
「ねえ、せっかくだからお茶でも飲んでかない?」
 ルテラは見上げるように隣のリーシェイに問い掛ける。
「そうだな。小腹も空いた事だ」
 リーシェイは長い黒髪を揺らしながら、普段通りの無表情でそう答える。しかし彼女の無表情さは仮面的な拒絶感の漂うそれではなく、ただ表面から内心を汲み取りにくいだけのそれであるとルテラは知っていたため、一見しただけでは反応の薄かったリーシェイににっこりと微笑んだ。
 二人は北斗の中心にある大時計台を目指し、大通りの人波の中をゆっくりと歩いていた。取り急ぐような予定もなく、ただ緩慢に余裕と弛緩に満ちた時間を過ごすのもたまにはいい。普段は北斗という人命にすら直結するあまりに責任の重い任についているため、一層今のゆとりの中に安らぎが感じられた。
「ありきたりな質問だが。最近の調子はどうなのだ?」
 ふと、最後の会話が途切れてからおよそ一分後。リーシェイは相変わらずの無表情さと朴訥な口調でルテラに問うた。
「私? まあまあね。相変わらずの生活しているわ」
「守星などと酔狂な人間がやる仕事で、よくも平気でいられるものだな」
「本当、我ながら関心しちゃうわ。でも、もしも子供がいたらきっとやってなかったでしょうね」
 くすり、とルテラは笑い、そっと肩をすくめて見せた。
「さすがに、正式に婚姻するまではレジェイドが恐ろしくて作れなかったのか?」
「だからって訳じゃないけど。あの人って甘えるクセに、意外としつこくないのよ」
「つまり、いつもお前の方が主導権を握っていたという訳か」
「どうでしょう?」
 リーシェイの、彼女にしてみれば割合遠回しなその質問に、ルテラはわざと悪戯っぽく含み笑って話を濁す。リーシェイもまたしつこく言及する訳でもなく、そんなルテラの調子に合わせて、そういう事にしておこう、と口元に微苦笑を浮かべた。
「そういうあなたはどうなのかしら?」
「最近はなかなか良いのがいないな。時代と世情がそうさせるのか、年端もいかぬというのに妙にすれて斜に構えたヤツが多くて食指が動かん。その点、子犬のように正直なシャルトは、今の時代なかなか貴重な存在だ。じっくり時間をかけて落とすつもりだ」
 にやり、と不敵で挑戦的な笑みを浮かべるリーシェイ。その表情はどことなく蛇を思わせる、とルテラは内心思い、眉をひそめた。
「どうしてあなたは対象域がそんなに低いのかしらね。しかも少し特殊だし」
「サガ、としか言いようがない。たとえばシャルトのような無垢な瞳に見上げられると、自分でも抑え切れないほどの激情が込み上げてくる。保護欲だの母性だの、そんな陳腐なものではない。もっと、家屋を薙ぎ倒す大河の氾濫のような奔流が襲い掛かり理性を押し流すのだ。お前もあるだろう? そういった感情は」
 呆れの溜息混じりに話すルテラに対し、リーシェイは表情をまるで崩さずに淡々と、良く聞けばやや倒錯しかけた自論を展開していく。しかもそれが世間一般の標準であるかのような口調であるため、ルテラは言葉どころか苦い笑みすら出てこない。リーシェイがやや特殊な嗜好のある人間である事を知ったのはこういった付き合いを始めてからだったが、どうにも自分はいまいちその考えの理解まで及ばない。確かに、安易な嘘にもすぐに引っかかるほど単純かつ純粋なシャルトを可愛いとは思うが、そういった抑えようのない欲求を催す事はまるでない。シャルトは自分にとって男、女、の遥か以前である子供なのだ。一体何故リーシェイはそうなのか、未だに価値観の一つという事柄的な観念としてしか受け止める事が出来ない。
「あなたが特殊なの。とにかく、シャルトちゃんには変な事はしないでね」
 いつもリーシェイには言っている事だが、改めて不安を覚えたルテラはそうリーシェイに釘を刺しておく。
「変な事はしないさ。愛情持って接する」
「欲情の間違いでしょ?」
 相変わらずの無表情な真顔で答えるリーシェイ。幾ら言っても自分の言葉はほとんど抑制力を持たないのだろう、とルテラは小さく溜息をついた。そして互いに顔を見合わせ、微かな笑みを浮かべる。自分達も相変わらず同じやり取りばかり繰り返している。互いの目がそう語り合っていた。
「遂に四年目だな」
 と、リーシェイは突然思い出したかのようにそう呟いた。北斗の熱気溢れる喧騒に飲み込まれてしまいそうなほど小さな声ではあったが、傍らのルテラにははっきりと聞こえていた。
「まだ、よ。まだ四年」
「四年程度では心の傷は癒えない、とでも?」
 小さくがぶりを振ったルテラに、リーシェイは苦笑を湛えながら冗談めかせて問い返す。
「そうじゃないわ。四年程度じゃ思い出に出来ない、って事よ」
「お前も大概しつこく引き摺る女だな。何時の時代の人間だ?」
「ほっといてよ。私の勝手でしょう?」
 自分の真剣な言葉を茶化された事に、ルテラは唇を尖らせてわざと怒った風な表情を作ってみせる。リーシェイは一息軽く吹き、すまんすまん、と苦笑交じり謝罪の言葉を述べた。
「しかし、彼は本当に不思議な人だったな」
「ええ。最後の最後まで、全部を掴ませてはくれなかったわ。こっちの追求をかわすんじゃなくて、あまりに広過ぎたの。空を掴もうとしたって、それは無理なように」
「美化し過ぎではないのか?」
「このぐらい言ってあげなきゃ。もう、この北斗で彼の事を憶えてる人なんてほとんどいないんだから」
 輝くような、それでいてどこか影のあるような笑みを浮かべるルテラ。そうだな、とリーシェイは口元を綻ばせる。
「あー、お二人さーん!」
 と。
「あら、リルじゃない」
 その時、通りの向こう側から特徴的に間延びした元気の良い声が飛んできた。視線を向けたその先には、人波を掻き分けながら手を振って己の居場所をアピールするワインレッドの髪が踊っていた。ルテラは同じようにリルフェに向かって手を振り応える。しかし、リーシェイは眉をひそめてやや難しそうな表情を浮かべながら額を押さえた。これほど大人数の居る通りで、たったそれだけの事にこれほどの大声をわざわざ放って無闇に人の注目を浴びる状況を作り出す、この二人の神経に理解が追いつかず苦渋したのである。
「もしかして、もうお帰りですか?」
 とたとたと軽やかに走り寄ってきたリルフェは、同じワインレッドの瞳を瞬かせながらそうルテラに訊ねる。その左手には、ラッピングされた葬花が優しく抱き締めるように携えられていた。
「うん、随分汚れてたから今の今まで掃除にかかっちゃってね。あなたはこれから?」
「はい。ちょっとお仕事サボってきました。ルテラの旦那さんですもの。お花も結構フンパツしてるんですよぉ」
 そう屈託のない笑みを浮かべ、リルフェは手にしていたその花束を見せる。そんなリルフェの仕草をリーシェイは、ルテラに随分似ている、と思った。いや、これまで四年間の経緯を考えればルテラがリルフェに似てきたと言う方が正しいだろう。頭目当時の刺々しさがなくなり、笑う事を頻繁にするようになったルテラ。それは悲しい過去から立ち直ったからなのかどうかまでは分からないが、少なくともリルフェが何らかの良い影響を与えたのは間違いないだろう。そうリーシェイは密やかに考えた。
「ではでは、それじゃあ。私、あんまり長いこと抜けてられないんで。またいつかご飯食べに行きましょうね」
 リルフェは半ば走り出しながら早口でそう言い残すと、風のように人波を掻き分けながら今自分達が歩いてきた道へ消えていった。
「相変わらず元気が良いな」
「でしょ? 羨ましいのよ、あれだけは」
 微苦笑するルテラに、お前も十分な、とリーシェイは頭の中で囁いた。
「じゃあ行きましょうか。なんだか私もお腹が空いてきちゃったし」
 そして、二人は再び人込みの中へ紛れていった。
 窒息感すらある、息苦しいほどに溢れる人の波。その中を左右に揺られながら歩くルテラは、ふと、四年前はスファイルもこのように歩いていたのだろうか、と考えた。
 今、自分はかつてスファイルが歩んできた道を辿っている。そして、何故あれほどまでに守星にこだわり続けたのか、訊ねてもはぐらかし続けてきたその理由が少しずつ分かってきた。
『僕はね、戦う事が嫌いなんだ』
 彼は守星でありながらいつもそんな事を言っていた。自分は戦う事が嫌いだから、他の人がもうしなくてもいいような世の中を作りたい。一見して、あまりに短絡的で稚拙な論理だけれど、きっとこういう考え方の人間が増えなければ本当に戦いそのものがこの世から消える事はないだろう。あの頃はさもない事と気には止めていなかったが、スファイルという人間そのものを表している言葉だ。私もまた、いつもそれを胸に刻み付けて業務に望んでいる。
 戦う事を望んでいる人間なんて本当にごく一握り、それに北斗には一人もいないはずだと私は思う。みんな、誰もが平和な暮らしを営みたいと願うから北斗が発足され、現在の体制が敷かれたのだ。だから私はその体制の一端として、北斗の治安を守りたい。これはスファイルの遺志でもなんでもなく、ただ純粋に自分の意志でそう思ったのだ。いや、自分ではそう思っているけれど、本当はまだどこかでスファイルの足跡を追いたいという気持ちが燻っているのかもしれない。
 夜、静まり返った寂しい街路を一人で歩きながら。スファイルもこんな気持ちで歩いていたのだろうか、といつも思う。それは変えようのない過去に未練がましくすがっていた頃の自分の片鱗を見ているような気にもさせられる。あの頃の自分とは違う。それは確かな証拠がある訳ではないけど自負はある。ならば、思い出にはまだ出来ないと言っておきながら、本当は思い出にしかけているのかもしれない。
 今の私に必要なのは、過去を振り返る事ではなく先に進む事。そう、守星として北斗の治安を守り続ける事だ。
 そう、ルテラは密やかに自分の意志を振り返り確かめた。
 確かこれで四回、同じ事をした。
 毎年、自分はスファイルの命日に必ず意思確認をしている。それは自分の意志に自信がないのか、それともスファイルに聞かせるためにやっているのか。
 しかし、ルテラは深く考える前に思考を止めた。自分は考え始めると足が止まってしまう。そう思ったからだ。
 ―――と。
 不意に響き渡る爆発音。同時にあれほど喧騒に満ちていた周囲が凄然と静まり返る。
「あら、お客さんのようね」
 そんな中、ルテラとリーシェイだけは特に驚く様子もなく、むしろうんざりとした余裕の垣間見える表情を浮かべ、小さく溜息をついた。
「随分と好かれているようだな」
「あんな節操のない人達に好かれてもね。私、軽い男としつこい男は嫌いなの」
 互いに苦笑した顔を見合わせ肩をすくめる。そして、ルテラは一歩先へ歩み出た。
「ごめん。そういう事だから、お茶はまた今度ね」



TO BE CONTINUED FOR YOU