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 どうしてなんですか?
 辛い思いをしているのは分かります。
 でも、これはないんじゃないですか?
 どうして自分だけで抱え込もうとするんです?
 辛かったら、他の誰かに八つ当たりするぐらいの図々しさも、時には必要だと思います。
 それが出来ないんですかね?
 それとも、初めから周囲は眼中にないんでしょうか?
 まったく。
 こんなにもないがしろにするなんて酷いじゃないですか。

 ちょっぴり、むかつきます。




 ようやく仕事が終わった水曜日。一週間の内で最も憂鬱な日。しかし、今日はいつもにも増して気分は陰鬱だった。普段の苛立ちが活動的なものであるならば、今日のは頑として滞留し続ける停滞的なものだ。それは梅雨の朝のように、酷く不快な感覚である。
「はぁ、今日も疲れましたね」
 流派『雪乱』の頭目リルフェは、硬く強張った肩を握り拳で叩きながら椅子を立った。頭目のために与えられたその部屋で、午後から今までずっと書類の束と格闘し続けていたリルフェは、それでも普段の笑みに陰りを見せる事はなく、仕事を終えた疲労感よりも仕事が終わった開放感に満ちた表情で上着掛けから制服を取り上げる。それを宙へくるりと回しながら放ると、落ちてきた所に素早く両手を通し颯爽と羽織った。
 鼻歌を歌いながら廊下を歩くリルフェ。時折擦れ違う隊員にも愛想良く挨拶を交わし、対する隊員もまた笑顔を浮かべながら同じ調子で返す。ルテラが頭目だった頃は、擦れ違う人間は皆廊下の隅に下がって目を伏せていたものだが、まったく正反対の性格であるリルフェが頭目となって以来、本部内の息苦しい雰囲気は一掃された。リルフェは頭目という立場でありながら下の人間とは対等の立場に立って話すため、組織の隅々にまで目の届いた理想的な体制を自然に作り出していた。組織内の雰囲気も良く、一度は抗争の煽りで減少気味であった隊員の数も僅かだが増加の傾向にあり、雪乱は再びかつての隆盛を取り戻していた。
 じゃね〜、と軽い挨拶を受け付けに向けながら本部を後にするリルフェ。ロビーにいた数名もまた一緒に、リルフェと同じ軽い調子で挨拶を返す。
 今夜の夜勤組は十名だった。以前は今よりも早いサイクルで、しかも半分の人数でシフトが組まれていた。当然の事ながら彼らの負担は大きく、改善要求は再三出されていたがリルフェが頭目になるまで聞き入れられた事は一度としてなかった。人数的な問題もあり、苦しいシフトを組まざるを得なかったのは確かだが、ルテラがそういった事に無関心であったのも原因の一つであった。しかし、リルフェが頭目になってからは、そういった隊員の不満の対象は徹底的に改善されていった。どうすれば一番みんなが過ごしやすいのか。リルフェはそういった調和の雰囲気を自然に考えられる性格だった。更にコミニュケーションも豊富であり、リルフェはある意味では頭目に最も向いた性格であったと言える。
 まずは夕食だ。
 リルフェは空腹に苛まれた胃をさすりながら、本部から一番近い馴染みの歓楽街へ足を運ぶ。
 すっかり日も落ちて暗くなった時刻だが、歓楽街はまるで昼間のように多くの人間が行き交い盛り上がっていた。生来、賑やかなものを好むリルフェにとっては最も気の落ち着く場所である。そのため、よくルテラを引っ張り込むように連れて来ていたのだが、ルテラは決まって嫌そうな表情を浮かべた。リルフェとは違い、無意味な事ではしゃぎ騒ぐ事が好きではなかったからである。
 リルフェはまず、とある一軒の馴染みの店へ入っていった。そして持ち帰り用に作りたての料理を幾つかパッケージングしてもらう。料理の量は二人分あった。それはリルフェが空腹のあまり二人分の食事をするという訳ではなく、これから向かう先のためであった。
 どうせ、また何も食べてないはずですから。
 その向かう先とは、西区の外れにある住宅街の一角に住むルテラと、今は亡き元流派『凍姫』の頭目であるスファイルの住居だ。
 スファイルは一月ほど前、守星の巡回中に交戦した敵の暴走した魔力に飲み込まれ殉職している。以来、同棲中だったルテラは酷く精神的に追い込まれ、一週間ほど前には自らの手首を切り自殺未遂まで起こしている。リルフェは数少ない友人の一人としてそんなルテラを心配していたのだが、自らもまた頭目の業務に追われていたため、そんな不安定な状態のルテラの様子を頻繁に見る事が出来なかった。しかし、せめて夕食の時間ぐらいは訪問して様子を見ようと努めている。
 ルテラは未だスファイルの死のショックによる鬱病から立ち直れず、食事すらまともに行なう意欲がなかった。ほぼ一日中、何もせずに部屋の中に篭っている。呼吸だけを規則的に続け、まるで植物のような姿だった。そんな状態が普通ではありえないほど長い期間に渡って続いていたため、ルテラのやつれ方は尋常ではなかった。しばらく会わなかった人間は、まるで別人のように変貌してしまったルテラに心痛な驚愕を抱いた。このままでは決してルテラのためにならない事は明らかであるため、リルフェはせめて食事だけでも取らせなくてはと、こうして仕事が終わり次第ルテラの元を訪れるようになった。
 さて、今夜はどうだろうか?
 いつもルテラの元を訪れても、ルテラは黙りこくったまま淡々と作業的に食事をし、そして再び寝室へ閉じこもる。これの繰り返しだった。肌の色艶も会うたびに輝きを失い、柔らかに踊るハニーブロンドもばらばらに乱したままだ。身形を整えなくなっただけで、十分にルテラが生きる事へ無気力になっている事が伝わってきた。そして、その都度リルフェは胸を痛めた。
「とんとん、こんばんわぁ」
 歓楽街から走って数分後。
 ようやく辿り着いたルテラの部屋があるその建物の階段を、リルフェは四段抜かしで飛ぶように上り切った。そして、もう何度も通いつめて見慣れてしまったそのドアを、いつもの明るい調子で叩く。
 だが。
 いつもは数十秒の間を空けた後、のっそりとルテラが無言でドアのカギを開けるのだが、何故か今夜はいつまで経っても中の気配が動く感じがしなかった。
 どうしたのだろうか?
 不意に胸騒ぎを覚えたリルフェは、ドアにぴったりと耳を押し当てて中の音を探る。
 部屋の中からは人が歩くような音は聞こえて来なかった。ルテラは寝室に篭ったまま眠ってしまったのだろうか? 初めリルフェはそんな推測を浮かべたが、しかしよく聞いてみれば、中から足音ではなく水の流れる音が聞こえてくる。
 まさか。
「ルテラっ! いるんですか!?」
 声を荒げ、激しくドアを叩くリルフェ。しかし、それでも応答は全く来ない。まるで誰も住んではいないかのようだ。
 ルテラが外出するという可能性は考えられなかった。全く何もする意欲の感じられないルテラだったが、この部屋から出ようとする事には執拗に拒み続けた。レジェイドは一度、ルテラの落ち込み方を心配して自分の部屋に戻そうとしたのだが、精霊術法を行使しかねないほどの剣幕で追い返されている。全てにおいて無気力なルテラだったが、居続ける場をこの部屋と執拗に拘りつづけている。
 中で何かが起こっている。
 あまりの反応の静けさに、リルフェは無性に嫌な胸騒ぎを覚え居ても立ってもいられなくなった。このままでは埒が明かないと判断したリルフェは足元へ買ってきた夕食を置くと、右手を構え目標を目の前のドアに定めた。ひゅうっ、と鋭く呼気を吐いた直後、構えたリルフェの右腕の周囲には無数の白い粒子が集まり始めた。
「やあっ!」
 リルフェは気合と共に右腕をドアへ叩きつけた。刹那、ドアは一瞬の内に凍結し粉砕される。
「ルテラっ! どこにいるんですか!?」
 すぐさま部屋の中に飛び込んだリルフェは、どたばたと駆け巡りながらルテラの姿を捜した。
 リビングは居ない。
 キッチンにも居ない。
 テラスにも居ない。
 寝室にも居ない。
 一体どこに行ったのだろうか?
 と、その時。再びリルフェの耳に、あの水の流れる音が聞こえてきた。今度はドア越しではなかったため、はっきりと鮮明に聞こえてくる。
 すぐさまリルフェは駆け出した。
 水の流れる音が聞こえる場所なんて限られている。後はもうそこしか考えられない。
 そして。
「ル、ルテラ……!?」
 息を飲み、口元へ手を当てて茫然とするリルフェ。
 ようやくリルフェは、ルテラの姿をバスルームで見つけた。
 そこでルテラは、浴槽の脇に崩れ落ちたかのように座り込んだまま、溢れんばかりに水を満たした浴槽へ左腕を漬けて眠るように脱力していた。肌は白さを通り越して青白くなり、ぼんやりと開かれた目からはまるで生気が感じられない。
 辺りに広がった水は、赤く染まっていた。



TO BE CONTINUED...