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 どうしてそんなにお耳が大きいの?
 オオカミは答えました。
 小さな音でも漏らさず聞き取るためだよ。
 どうしてそんなにおててが大きいの?
 オオカミは答えました。
 一度掴んだら決して逃がさないためだよ。
 どうしてそんなにお口が大きいの?
 オオカミは答えました。
 お前を食べてしまうためだよ。




「来るぞ! 『雪魔女』がこっちに向かっている!」
 風に舞い上げられた埃が舞い、視界を薄く黄土色に染める。
 独特の黴臭さを混じらせた戦闘解放区。その一角で誰何の声がまるで己がこの世に生まれ出でた事を主張する赤子のように、唐突にけたたましく鳴り響いた。
「陣形を崩すな! 自分の位置確認をしろ!」
 僅かにどよめきが走りざわつき始めた、凍姫陣営。怒号が飛び交い、隊員達が錯綜を始める。元々不備の多かった情報網は半ば断線状態となり、状況的孤立状態を随所に作り出す。大規模な混乱の兆しが鎌首をもたげた。同時に指揮官クラスの人間達の表情が、余談を許さぬ緊張から最悪の事態が脳裏を掠め始めた焦燥に移り変わる。
「リーシェイ! 頭目はどうしました!?」
 と。
 幾つかの一個小隊が集まる事で編成された、凍姫の本隊。そこに属しているある小隊の中で、表情を厳しさに歪めながら一人の女性がそう叫んだ。
「彼なら南区に行った」
 彼女の激昂に近い問いに答えたのは、彼女よりも一回り以上も上背のある黒髪の女性だった。リーシェイと呼ばれた彼女は対照的に至極冷静な表情で静かに淡々と答える。
「南区!? 一体何をしに!?」
「クリーニングに出していた上着を取りに行くそうだ」
「あの馬鹿!」
 彼女は激しい怒りを露にしつつ、吐き捨てるようにそう言い放った。
 彼女は、凍姫の中では比較的キャリアは長くクラスも上層部に位置し、それに伴うだけの実力を持った人間だった。名前はミシュアと言い、凍姫の戦闘指南役を務めている。だがそんな彼女よりも件の頭目の方が明らかに格上である。本来ならば彼女の発言は相応の処罰の対象になりかねない不遜なものだが、当時の凍姫には決定的に頭目を敬わない風潮があったためにミシュアの発言が誰かに咎められる事はなかった。
「どうしてわざわざ南区で出すんですか!」
「どうしてもその店でなければならないそうだぞ」
「では、何故止めなかったのです!? 今は雪乱との交戦中なのですよ!?」
「私が? 道理が通用せず、実力も遥かに上回る頭目を相手に」
 リーシェイのその言葉に、ミシュアは眉を潜めて大きく溜息をついた。その仕草には、リーシェイの実力不足とリーシェイ自体の人選ミスとの二つの意味が込められていた。如何な問いかけにも平然とした表情でのらりくらりとかわす完全な理論重装をしたリーシェイに、これ以上の労力を割くのは無意味である事に気づくだけの冷静さをようやく取り戻したのである。
「……仕方ありませんね。私はこれから、各部隊長と共に雪乱本隊の方へ応戦に向かいますから、あなた達はこの場に残り雪魔女を迎え撃ちなさい。負ける事は断じて許しません。これ以上、雪魔女に対する恐怖意識を凍姫に蔓延させる訳にはいきませんからね。分かりましたか?」
「鋭意努力しよう」
 自分の意志の所在を明言せず、後々に自分の都合の良いように話の展開を持っていこうと画策している事が露骨に表面化しているリーシェイの返答。ミシュアは額の奥にずしりと重い痛みを感じ、眉の間に皺を寄せて額を押さえる。そして大きな溜息をつきながら、その痛みが治まるのを待った。
 と。
「ミシュアさん、ファルティアもいないっす」
 ようやくその痛みが引いた頃。ふとミシュアの背後からそんな言葉がかけられた。
 そして、ミシュアは額を押さえたまま凍りついたかのように硬直した。彼女を結果的にそんな状態へ追いやってしまったのは、丁度背後に立っていた褐色の肌を持つ女性、ラクシェルだった。
 件のファルティア、リーシェイ、そしてラクシェル。この三人は、当時の凍姫で実戦投入から幾許もない新人であるにも関わらず、有数の実力者に数えられている人間だった。三人にそうなるだけの実力があったからなのか、彼女らの教育を担当したのが鬼教官としても有名だったミシュアだったからなのかは定かでないが、それまで力関係が拮抗していた雪乱と凍姫の戦況を一気に凍姫側の優勢に傾いたのは三人の功績と言っても過言ではなかった。
 如何なる敵にも決して背を向けずに猛然と向かっていく、圧倒的なパワーを持った斬り込み役のファルティア。
 天才的なスナイパーとしての力と、常に冷静な思考と迅速かつ適切な状況判断能力を併せ持ったリーシェイ。
 凍姫史上でも四人しか成し得なかった絶対零度の体現化を、僅か一ヶ月で習得してしまった五人目の絶対零度使いのラクシェル。
 これほどの人材が一度に三人も集まった事は非常に稀だった。いや、集まったというよりも、集められたという表現が正しい。ある日何も告げずふらりと姿を消した凍姫の頭目が、どこから連れてきたのだろうかこの三人と共に戻ってきたのである。頭目のそんな突発的かつ無責任な行動も、今に始まった事ではなかった。
 いずれも訓練を怠らずに積んでいけば、将来的には頭目クラスに昇進する事も十分に可能と評された。この三人の実力の程は、投入から一気に戦況が傾いたという事実で証明されている。しかし、雪乱側が三人の実力を脅威とする事より彼女らを保有する凍姫側はそれ以上の至難を抱えていた。それは彼女らの性格だ。ファルティアの果敢さは、戦闘時は味方としてこれほど頼もしいものはないが時として命令を無視した独断行動の原動力にもなった。リーシェイは決定的な毒舌家で、隊員の士気を無闇に上下させた上で楽しむという行動が頻繁に見られた。ラクシェルは一見理性的な性格だが常軌を逸した激情家であり、一度スイッチが入ってしまえば何者にも止める事が不可能になってしまう。彼女らのそんな強過ぎる個性のため、組織の一員として機能させる事に並々ならぬ手間と努力を強いられていた。そしてその大半が、指南役であるミシュアに皺寄せとして集まってきている。ミシュアの持病である偏頭痛もまた、この三人のためによるものだ。
 ひやり。
 突如、そんな擬音が聞こえてきそうなほど、周囲の温度が急激に低下した。思わずラクシェルは、戦闘の邪魔にならぬよう袖を捲り剥き出しにしていた両腕の肌を撫ぜる。そこにはふつふつと無数の鳥肌が浮かんでいた。ラクシェルはぶるっと体を一度震わせる。
「なんですって……?」
 ぎぎぎ、と金属が軋む音でも立てそうなぎこちない仕草でゆっくりと振り返るミシュア。その般若のような表情にラクシェルはその場に硬直した。
 三人の教育係であるミシュアは、彼女らを出来る限り自分の保護下に置くため、徹底的なスパルタ姿勢で望んでいた。一度、想像出来る最悪の地獄の、更にその進化したものを見せられて以来、彼女らは唯一ミシュアには逆らえなくなっていた。ミシュアの存在が自身の中の最高位の恐怖対象として焼き付けられてしまったからだ。ラクシェルの反応もまた、それの影響が多分に及ぼしているためである。
「ああ、ファルティアなら。『雪魔女は私が取る!』と言って、先ほど駆けていったが」
 話せないラクシェルの代わりに、リーシェイがそうミシュアへ答えた。表情は相変わらず平然としているものの、冷たい汗が額にじっとりと浮かんでいる。彼女もまた、ミシュアには決して逆らえないのである。
「まったく、どいつもこいつも……! とにかく! 後は各自の裁量に任せますので、勝手にしなさい!」
 半ば怒鳴り散らして感情を発散させたような口調で言い残すと、ミシュアはそのまま場を後にした。
 完全に監督を一時放棄していた。その方がリーシェイにもラクシェルにとっても好都合ではあったが、反面、この戦闘で最良の戦果を出さなくてはならないという重圧が圧し掛かってきた。問われる相手が頭目であるならば、遥かに気は楽であった。だがあいにくその役目はミシュアだ。依然として二人は、ミシュアの管理下に置かれていることに変わりはない。
「うう……殺されるかと思った……」
 ようやく言葉を取り戻したラクシェルが、そう身震いしつつ額の汗を拭う。
「いや、今度はそれでは済まないかもしれないぞ」
 ほっと一安心といった様相のラクシェルに、リーシェイは変わらず緊張したままの面持ちでそう答える。その眼差しは針のように鋭く光っている。
「え? それって、どうい―――」
 と。
「来たぞ! 雪魔女だ!」
 二人の会話へ不意に割り込んできた誰何の声。二人はすぐさま反射的に声の上がった方角を振り向いた。
 その先には。
 場にはおよそ数十名の凍姫の人間が集まっているというにも関わらず、ゆっくりと一歩一歩を踏みしめながら向かって来るそれは、たった一人だった。
 真っ白な肌に、緩やかなウェーブのかかったハニーブロンド。噂では聞いていたが、二人は初めて見る雪乱の新鋭『雪魔女』の凄惨な戦歴からは想像も付かない美しい姿に息を飲んだ。自らも冷気を操る戦闘術を習得していながら、彼女の放つ圧倒的な冷気に飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚えた。
 そして。
 雪魔女はふと顔を上げ、その碧眼でじろりと二人を睨みつけてくる。瞬間、二人の背筋にはつうっと冷たいものが走った。それは理性を根本から飲み込む圧倒的な恐怖だった。彼女の冷たい視線に、自らの体が凍りつき砕け散ってしまったかのような錯覚さえ覚えた。
 ごくりとラクシェルは乾いた唾を嚥下する。しかし、まるで異形の存在を目の前にしているかのような恐怖は決して拭う事が出来なかった。雪魔女の存在感はしっかりと己を掴んで離さない。酷く冷たい手で。
 ずるっ、ずるっ。
 彼女の手が何かを引き摺っている。
 それは、ぐったりと力を失ったファルティアの体だった。



TO BE CONTINUED...