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たゆまぬ前進に、後退はなし。
勇みて進み、踵を鳴らせ。
ただ前を向き、勝鬨を上げろ。
はだかる敵を打ち砕け。
呑み込んだ刃を振りかざせ。
眼前から目を背けるな。
我らにあるのは前進あるのみ。
凱歌を叫ぶ、その日まで。
ぎんっ、と張り詰めた空気。
冷たく冷え切った空気は今にも凍りつきそうなほどで、とても初秋の気温とは思えなかった。だが、その低温はこの戦闘解放区に限られた局地的なものだった。無論、自然現象の範囲で起こる気象ではない。これは既に北斗では馴染み深くなった、二年越しに続いている凍雪騒乱の戦場で必ず起こるものである。両流派は偶然にも冷気を用いた術式を主としていた。戦場では必然的に集団同士の大規模な戦闘を行なう事になるため、冷気の術式の行使回数も爆発的に増える。その結果、気象とは無関係に気温が低下するのである。
「どりゃあっ!」
流派『凍姫』の新鋭、切り込み役のファルティアは、精霊術法で編み上げられたその頑強な右腕を流派『雪乱』の前衛に向かって鋭角に叩きつける。その拳は膨大な冷気を纏わせながら地面を豪放に打ち抜く。瞬間、質量を伴った音の塊と共に冷気は同心円状に高波の如く広がっていき、次々と雪乱の人間を吹き飛ばしていった。そして打たれた地面にはもうもうと立ち込める硝煙と、巨大な錐状の陥没が残る。
「撃て! まずは足を止めろ!」
雪乱の各個小隊長からそう指示が飛ぶ。しかし、一度勢い付いてしまったファルティアは止まらない。まるで猛獣の勢いだ。
「邪魔邪魔っ!」
ファルティアは右腕を振り上げると、そのまま隊列の中を疾駆する。すぐさま雪乱前衛隊が術式の集中砲火を浴びせる。しかし、それらは全てファルティアのアンバランスなほど巨大な右腕によって阻まれる。執拗に攻撃を受け続けるも、ファルティアの右腕はびくともしない。そればかりか、次々と襲い掛かる術式をファルティアは無造作に腕を振るだけで叩き落していく。
と。
「あのうつけ者め。相変わらず学習能力が欠落したままだな」
「しゃあないっしょ。でも、割と効いてるんじゃない?」
我が物顔で直進し続けるファルティアの後を二つの影が追う。それはファルティアと同期で凍姫に入ったリーシェイとラクシェルだ。
「確かに恐ろしいだろう。並外れた力を持っていながら、知性が欠如しているのだから」
「動物よりタチ悪いよね。でも、私らっていっつも脇役」
二人は雪乱の陣地内に入ると、唐突に左右に散開する。これほどの大群を相手にも、二人の表情には極めて平素に近い余裕が浮かんでいた。この状況を楽しんでいるかのような表情である。
「さて、誰から蜂の巣になりたい?」
まずリーシェイは相手から若干の距離を取ると、その高い身長が的にならぬように低く姿勢を構える。そして下段に構えた両手に、一瞬で無数の針を体現化した。リーシェイが最も得意とするのは、正確無比で目にも止まらぬほど迅速な射撃だった。特にこの針を模した射撃は派手さはないものの、如何なる障壁をも貫く破壊力を持っている。精霊術法の恩恵による鷹のような視力を持った正確射撃は、たとえ戦場のどこにいようとかわす事は不可能である。
「痛いとか言える内に引き返すんだね」
反対側に陣取ったラクシェルは、両腕を頭部と胸部の中間に緩く構える。両腕の間から覗かせた視線で雪乱の前衛を見やる。その両腕は白い靄のようなものに包まれていた。ラクシェルは凍姫史上五人目の絶対零度の使い手である。あらゆる物質を凍結し粉砕するため、この世で破壊出来ないものはないとまで言われている。
長期に渡って続いている凍雪騒乱は、先日事態を重く見た北斗総括部から両流派に警告がなされたため、現在は以前ほど表立った戦闘は出来なくなっていた。そのため戦いの場所を何が起ころうとも一切法的干渉のされない戦闘解放区に移された。戦闘は再び以前と同じ苛烈さを極めるものとなったが、戦況はやはり凍姫側が有利だった。その最たる要因は、やはり凍姫の戦力人員の豊富さにあった。現在、雪乱で最も名高い戦力は、先日頭目に就任した『雪魔女』ことルテラだけだった。リルフェは実力こそ持ち合わせているものの、未だ目立った戦果を上げてはいないのである。しかし、凍姫にはファルティアを初めとする新進気鋭の三人、その彼女らの教育係のミシュア、更に北斗有数の実力者である頭目がいる。これまでに繰り返された数々の戦闘の中で凍姫の頭目は一度も戦場に姿を現した事はなかった。にも関わらず劣勢を強いられている雪乱は、それだけ焦りと一縷の希望を頭目のルテラにぶつけている。
事実上、雪乱の主戦力は非常に限られていた。大人数の戦闘だからこそ、一人でも圧倒的な戦闘力を持つ人間の存在感は強く影響を与える。周囲を鼓舞するのも恐慌へ落とし入れるのも、そういった戦力的カリスマ性を持つ人間である。そのため、多数そういった人材のいる凍姫が優位なのは自明の理と言えた。
だが。
僅かしかない雪乱の主戦力の一人であるルテラは、雪魔女の二つ名に違わぬ凄まじい強さを誇っていた。
「ルテラァッ! どこだ、どこにいる!」
既に中盤まで単独で突っ切っていたファルティアは、周囲を蹴散らしながらそう叫んでいた。
普段のファルティアの役目は、誰よりも先に敵陣営に切り込んで後に続く者への突破口を開くものだった。切り込み役は単体でも自由に戦場を駆けるだけの実力、そして敵を圧倒するだけの存在感を求められるが、ファルティアはそのどちらも併せ持っていた。危険かつ重要なこの役目を果たすにはこれ以上ない逸材だが、今回のファルティアはそれとは違う目的で雪乱陣営に切り込んでいた。それは、前回の戦闘でファルティアが対峙した当時は頭目ではなかったルテラに、為す術なく敗北をさせられた事の雪辱だった。元からファルティアには細かな配慮は期待されていないため、指示は『突っ込め』といった雑なものだった。だからこそ、今回のファルティアの行動は誰もが普段と同じ敵陣営を掻き回すそれとしか見ておらず、完全な私的行動に出ている事を咎めようとはしない。
ファルティアは人よりも自分が負ける事を譲歩出来ない性格だった。一言で言い表せば、負けず嫌いなのである。そのためファルティアは、組織単位で見ればさしたる被害でもない自分の敗北を、自分自身の進退問題ほど深刻に考えていた。何を置いてもあの日の雪辱を果たさなければ気が済まないのである。
そして。
「やかましい人ね」
静かなアルトが冷たく張り詰めた空気の流れる戦場に凛と響き渡る。すると、鬼人のような力で突き進んで来たファルティアに臨戦体勢を取っていた雪乱一同が、さーっと一斉に示し合わせたかのように左右に割れる。そしてその中心から、ゆっくりと一人の女性が歩み寄ってくる。緩やかなウェーブを描いたハニーブロンド、雪のように白く透き通った肌に宝石のように青く輝く碧眼。流派『雪乱』の頭目にまで上り詰めた、雪魔女ことルテラである。
その圧倒的な存在感は、味方である彼らすらも畏怖させ言葉の自由を奪った。刃物のように凍てついた空気を持って、暗黙の内に周囲へ黙する事を強いる。頭目という一流派の長を勤めるには十分過ぎる威圧感を備えていた。
「来たなこんにゃろう。この間の借りを返させてもらうわ!」
と。
にやりと不敵な笑みを浮かべたファルティアは不釣合いなほど巨大な右腕を構えると、一度完膚なきまでに叩きのめされたはずのルテラに向かって猛然と疾駆する。ファルティアに恐怖はなかった。必ず自分が勝つと、そう信じて止まない真っ直ぐな眼差しである。
「何の事かしら?」
だが相対するルテラは、感情が抜け落ちたような冷淡な表情でファルティアの動向をつまらなさそうに見やる。その青い目は潤いを失って乾き、おおよそ人間らしいそれの感じられぬ人形のようだった。ルテラにとって、このたった一人で雪乱陣営を次々と破ってきた人間の存在など日常の些末事の一部にしか過ぎないのだ。
「思い出す前に終わらせてやるわよ!」
ファルティアは更に加速しルテラを真っ向から睨む。
「食らえっ!」
自らの手合いにルテラを捕らえるや否や、ファルティアはその巨大な右腕をルテラに向かって打ち下ろすように繰り出した。まるでルテラの体を杭に見立て、そのまま地面の中へ打ち込もうといった構えだ。
しかし。
ルテラはつまらないものを見るかのような目で、ファルティアの拳をただ見やる。と、
「上塗りね」
小さな声でそう呟いた刹那、ルテラは自らも右拳を繰り出し、ファルティアと相打った。
ぶつかり合った両者の拳が爆発のそれと聞き間違えそうなほどの轟音と衝撃を生み出す。両者の力が拳と拳との接合地点で力の軋轢を生み、漏れ出す冷気が周囲の空気をより一層凍てつかせる。強烈な精霊術法同士のぶつかりあいだ。
周囲の人間は両者の対決の行方に目を奪われた。共に精霊術法を習得してから短期間の間に有数の使い手となった者同士。自らの基準から大きく超過したその戦いに興奮を覚える反面、これが本当に人間の為す技なのかと恐怖もまた感ずる。恐怖を感じるが故に、目を離す事が出来なかった。自分よりも遥かに優れた存在に畏敬する、人間の習性である。
一見すると、二人のぶつかり合いはほぼ互角に思えた。ファルティアは精霊術法で編み出した、人間よりも遥かに優れた義腕を持ち、ルテラは精霊術法の恩恵で並外れた腕力を手に入れている。安易に考えても力の差はほとんどない。ならば勝敗を決するのは、後は互いの術式の力量となるのだが、二人は共に名高い術式の使い手だ。傍目からはどちらが優れているのかなどとても窺い知れない。
「あなたにもはっきりと理解できるようにしてあげるわ」
全力で自らの一撃に全霊をかけるファルティアに対し、ルテラはそう涼やかに呟く。
ハッ、とファルティアの表情が驚きに歪む。こちらがこれほど必死になっているにも関わらず、ルテラは表情を変えるどころか汗一つ浮かべていない。ファルティアは頭の中で事実を否定し、自らの闘志が萎縮せぬよう奮い立たせる。確かにルテラは精霊術法の恩恵で人並みはずれた腕力を持っている。しかし、自分もまた精霊術法で編み出したこの屈強な義腕がある。ならば後は術式の力量差で勝敗が決まるのだが。その差がこれほど圧倒的だなんて。ありえるはずがない。
だが。
そんなファルティアの心境とは裏腹に、ルテラはその腕をあっさりと振り抜いた。
TO BE CONTINUED...