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なんじゃこりゃ……?
俺はこれまで一度も見た事のなかったその光景に、柄にもなく唖然としながら立ち尽くす。
ガタガタと不自然に震えるあいつの案内でやってきた、あの白い塔の内部。大きな塔の割には小さな入り口をくぐり、ひたすら続く長い螺旋階段を何十段も登り続ける。そしてようやく階段が途切れると、広いホールがある事を示す塔の入り口よりも大きい観音開きの扉が目の前に現れた。鉄で出来た、如何にも頑丈そうな扉だ。まるで外界からの接触を断とうとしているかのようでもある。
あいつは扉の前まで来ると、本格的に体を震わせながら歯をがちがちと鳴らし、明らかにおかしな様子を見せ始めた。顔には汗をびっしょりとかき、視線は中空をうろうろと漂ってどこかおぼつかない。尋常ではない怯え方だ。かつて、ここまで恐怖を露にした人間を俺は見た事がない。任務における戦闘で、俺との圧倒的な実力差に絶望し命乞いをした奴は何人も見ている。しかし、確かに恐怖という感情を露にはしていたが、ここまでの怯え方ではなかった。俺は別に殺しが大好きという訳じゃなく、出来る事ならば必要最小限に留めたい普通の人間だ。そのため、戦意を失った人間に殺気を向けたりしなかったからそんなに怯えなかったのだろうが。とにかくこいつの怯え方は普通じゃない。一体どんな事をすればここまで怯えさせる事が出来ると言うのだろうか。その正体が扉の奥にあると思うと、自然と手のひらに緊張の汗が浮かんでくる。
恐怖というものは伝染する。以前にそんな話を聞いた事があるが、こうして自分の身で実感してみるとこれほど恐ろしいものはない。こいつが感じているであろう恐怖を、俺もが感じていると錯覚し始めている。俺の意思を無視して豊かになっていく俺の想像力が、まるでインクの粒が紙を侵蝕していくかのように俺の体を縛り付けてくる。見えない何かに支配されるような、酷く不快さと焦燥感を煽る感覚だ。
考えるな。
俺はくだらない想像を振り払い、自分を取り直す。一体何をそんなにナーバスになっているのだろうか。俺らしくもない。疑問に思う事は確かめればいい。それだけの事じゃないか。
ガタガタと震えたまま立ち尽くしているそいつの横を通り過ぎ、俺は目の前の重厚な扉に手をつく。そして一気に中へ押し込んだ。
「うっ……」
瞬間、俺は思わず顔をしかめた。
開いたドアの向こう側から、冷たい夜の空気に紛れて蒸した熱気が流れ込んでくる。その熱気には脳を直接指で抉るような不快な臭気が混じっていた。それは何かの香と、そして人間の体臭だ。
ばたん、と音を立てて開ききった扉の音に、これまでの静寂を一気に打ち破られたかのようにざわざわとざわめき出す声。
「あ……あなたは」
狼狽した声を放ったのは、ここに到着した時に出迎えたあの中年の男だった。そいつは何故か服を着ていなかった。思った通り、汚らしい体だ。
目の前に広がるその光景は、とても直視出来るようなものではなかった。たとえるなら、どこぞの宗教書にあった地獄で責め苦を受ける亡者の群れの絵図が一番近い。ただ違うのは、責め苦を与えているのは鬼ではなく大人で、受けているのは子供だという事だ。
「何やってんだ……って訊くまでもねえな」
不快感のあまり一気に緊張の引いた俺は、苛立だしげにシャツのボタンを一つ外す。首を横にずらして鳴らし、ぎゅっと握り締めた拳からは硬質の音が次々と響く。
その場にいる子供は、体に偏執的につけられた幾つもの傷、そしてリビドーの捌け口になる事を強要されていた。おそらく教団の上層部であろう複数の男女に、彼らの欲望を満たすためだけの玩具にされている子供達。子供は皆、目からは生気が感じられず、まるで魂が抜け落ちてしまったように道具然として淡々と与えられた命令に従っている。
異常だ。
ヨツンヘイムが精神的に病んでいるのは、今更改めて言うほどの事でもない。総括部の命令ならば殺人も厭わない俺だ、自分を正常な人間であると言い張ったりはしない。しかしそんな俺にも連中がやっている事が異常な行為である事ははっきりと断言出来た。そして何よりも、陵辱されているのは全てが年端のいかない子供であるという事実。
弱肉強食はヨツンヘイムでは唯一の法律。力のない子供がそういった立場に追いやられるのも仕方がないとは思う。しかし、あえて力がない事を分かっていながら子供ばかりを狙うその小賢しさ。はっきり言って俺は、久々に任務を無視出来そうなほど、感情の制限力が緩くなった。
連中のしている事が一瞬で理解出来た俺は、次に込み上げてきたのは不快感を凌駕する怒りだった。普段ならば、任務中の感情は極力心の内側に押し留めて抑える。私情を挟めば、必ず失策を打つからだ。しかし、今は全くその怒りを抑えるつもりはなかった。むしろ怒りを開放する最も自分的な手段を考える事に思考が集中し始めている。
「おやレジェイドさん、かのような所へ何か?」
そして。
ざわつく周囲を抑えながら現れたのは、やはりあの老獪な視線を送るここの教団の最高権力者である尊士だった。彼だけは一糸乱れぬ普段の身形をしている。だが慌てて取り繕ったような不自然さが随所に見られる。額にもじんわりと汗の弾が浮かんでいる。
「何用じゃねえ。ほら、そこの奴に案内されて来たんだよ」
そう言って俺は、扉の後ろにいるあいつを見ろと顎で指し示した。
尊士は一瞬、眉の間に深い皺を刻んだ。その皺は明らかに不愉快の感情を示すそれだ。どうやら俺をここへ連れて来たあいつの行動は、誰かに命令されたものではなかったようである。
不意にそいつは駆け出すと、俺の背中にぴったりとくっついた。それはまるで我が身を尊士から守るため、俺を盾にしているかのようだった。
何故だろうか。
その時、俺はふと昔の事を思い出した。今は北斗で元気に守星なんて正気の沙汰ではない仕事をしているが、昔のルテラは臆病でおとなしく、いつも俺の後ろをくっついて回るような寂しがり屋の子供だった。当時、よくルテラは俺の裾をぎゅっと掴んでいた。それは自分の知らない内に俺がいなくなってしまわないようにするためだ。俺も、兄弟の中で唯一の女で浮いた存在だったルテラが一人で寂しそうな姿が放っておけなくて、何かと昔から面倒を見てやっていたものだ。
そんなルテラの姿が、背中のコイツと重なる。ただ背中に張り付いているというだけの共通点なのだが、ダイレクトに自分が頼られている優越感がどこか俺に使命を錯覚させる。
「シャルト」
尊士が静かな怒りを内に秘めた口調で、そう話し掛ける。瞬間、背後のそいつはビクッと体を震わせた。
「レジェイドさんに助けてもらうのかね?」
ありありと嘲笑の色を浮かべ、皮肉っぽくこいつに訊ねる尊士。
すると、
「……違う」
シャルトと呼ばれたそいつは、憎々しげにそう吐き捨てた。
俺の背中に隠れておきながら、俺自身を頼りにはしていないのだろうか? いや、言葉云々の問題もシャルトの意思もともかく、シャルトは俺の判断で助けてやらなくては。そう思った。俺自身が助けたいと思ったのだ。この場で常識という無知を振りかざす、俄か倫理者になってしまったかのような自己嫌悪もあった。しかしそれ以上に、俺はあんなクソジジイのせいで小さく震えているシャルトが哀れで仕方なかったのだ。
とりあえずは。
俺はようやく今後の算段を決定した。
まず、目の前にいるクソジジイを力の限りブン殴る。当たり所が悪ければ死んでしまうかもしれないだろうが、それはそれで害虫駆除の順番が変わった程度の事だ。大した問題はない。そしてシャルトを引っ掴み、速攻でここからトンズラ。後は、途中で携帯している攻撃命令の照明弾を打ち上げるだけだ。それを合図に北斗は一斉攻撃を仕掛け、そして残った二人の部下も己の裁量で脱出するだろう。
ジジイをブン殴るのはただの趣味というか感情的な問題の解決だが、その他は教団が有害な存在だと決定された時に取るはずの行動そのままだ。潜入一日目にしての即決、あまりに軽過ぎる判断だと自分でも思う。しかし、俺は構わなかった。本来の潜入目的は、この教団が北斗に対して攻撃意思があるか否かを調査する事だ。たとえ教団がこんな事をしていようとも、本当は武力介入を決定付ける理由にはならない。
俺の判断は完全な私情によるものだ。
つまり俺は、それほどまでにこの教団をこの世から消し去りたく思ったのだ。
教団を安全だと見誤って北斗が攻撃されたら大問題である。けれど、教団が安全であるにも関わらず消滅させてしまうのは、北斗としては何ら問題はない。そもそも、こんなイカれた事を影でこそこそやるような教団なんてロクなものじゃない。ドブさらいの意味でも、早急に消滅させるべきだ。
俺は襟を緩めて楽になった首でゆっくり周囲を確認すると、背後に隠れるシャルトを邪魔にならぬようやや後ろに下がらせるため、後ろ手に押しやる。
が。
「ん?」
その時。
不意に後ろのシャルトが俺の傍らへ踏み出したかと思うと、次の瞬間、俺の脇腹に何やら固い感触が伝わってきた。ふと見ると、それは蝋燭の飾台だった。本来は蝋燭が倒れぬように固定するため突き刺しておく鋭い部分が、俺の脇腹に当てられていたのである。
確かに飾台は武器にならない事もない。しかし、デザインによっては針の部分が長いものもあるし、シャルトが構えているそれは比較的長い方にはなるのだが。細い分、脆く折れ易い。たとえ衣服の上からだとしても筋肉に力を入れて張っておけば、かすり傷程度にしかならない。
いや、そんな事よりも。
シャルトはこんな事をして、一体何のつもりなのだろうか?
突然の行動に俺は、はて、と眉を釣り上げたが、それ以上にシャルトの華奢な見た目にそぐわない大胆な行動へ密かに驚嘆を覚える。
「この人が死んだら、もうお金が貰えないんだろ?」
そしてシャルトは、震えながら消え入りそうな声で、しかしはっきりとした口調で尊士に挑む。だが尊士はさほど顔色も変えず、淡々とシャルトを見下ろしている。まるで、玩具が一つ使い物にならなくなってしまったかのように。
「命令を聞けない者はどうなるのか、忘れてしまったのかね?」
シャルトの問いに重ねて、更に問い返してくる。一瞬、シャルトの薄紅色の瞳には怯えが浮かび上がった。しかし、またすぐにそれを振り払い、力の限り尊士を睨みつける。
なるほど。
二人の会話を他所に、俺は感心して息を漏らす。つまり俺は、人質としてここに呼び出されたのだ。この辺り一帯は、とても一個人が所有するそれとは思えないほど物々しい警備態勢が敷かれている。ここを子供が一人で脱出するのは不可能だ。それを可能にする方法を考えれば、行き着く答えはそうはない。
しかし、よりによって一番度胸の要る方法を選択するとは。男だか女だか分からねえ面構えしてるくせに、思ったよりもいい度胸してる。
俺は思わず、そう吹き出した。そして含み笑う。おかしかったのだ。臆病なガキだから俺が助けてやろう、などと一人得意気になっていた自分が。
「お前、気に入ったぜ」
TO BE CONTINUED...