BACK
やや混雑した、昼下がりの真っ白い廊下。
その、独特の薬臭い空気を吸いながら、俺は極力邪魔にならぬよう気を配りながら先を進む。
俺は元々病院とはそれほど縁がなく、この雰囲気というものがやたら物珍しく思えた。ただ、どうにもこの匂いはあまり好きにはなれない。よくこういった場所の資料室にでもありそうな、臓器のホルマリン漬けになってしまいそうな気分になってくる。しかし世の中にはこんな所で働く職業をわざわざ選ぶヤツが大勢居る。人の命を預かる、特に俺達北斗には必要不可欠な職業ではあるのだが、個人的な意見として『気が知れない』とだけ述べておく。
とりあえず、先日の任務は全て片付いた。あの教団は北斗十二衆の内の二流派、『修羅』と『幻舞』の小隊が完全に壊滅、ヨツンヘイムから消し去った。教団が保有していた三つの戦闘集団が激しく抵抗したものの、北斗との実力差は圧倒的だった。修羅も幻舞も下っ端ばかりの編隊で貫禄勝ちを収めている。所詮、一流程度では北斗になどかなうはずがないのである。北斗に勝つためには同じ超一流でなければ。
後始末とも言うべき報告書云々関連も片付き、ようやく普段の日常が戻ってきた。これでしばらくは落ち着いて暮らせる。勝手に連れ帰ったシャルトの件もあったが、それに関しては特にこれといった事務手続きやらはなかった。全て頭目の責任の範囲でやれという事だ。なんとも寛大なものである。まあ、それだけの実績を上げてきた俺だから総括部も信頼を置いているという事だろう。
さて。
本日、俺が病院に足を運んだのは、件のシャルトの事でだ。現在、シャルトは病院の特別治療室に入っている。それは腕の骨折だけでそうなった訳ではない。当然、それだけの重大な理由及び症状があるからだ。
シャルトは教団でかなり常習性の強い薬品を投与されていた。いわゆる麻薬というヤツである。それはおそらく、子供達に言う事を聞かせるためと脱走の意思を奪うためだろう。あの晩、まるで何かに取り付かれたように苦しみ悶えたのも、麻薬の禁断症状によるものだ。実際に俺は体験したことがないため分からないが、一度発作が発症すると、たとえ何を犠牲としてでも薬を手に入れる事しか考えられなくなるそうだ。それほどの凄まじい苦しみに見舞われるという事なのだろうが、相当恐ろしい常習性を麻薬というものは持っている。当然体にかかる負担も凄まじい。
特別治療室に入れられたのは、麻薬を体から抜く治療のためである。禁断症状は肉体的にも精神的にも只ならぬ負担を強いるだろうが、それさえ乗り越えてしまえば問題はない。折れた腕なんて速攻でくっつく。特に子供の骨は柔らかく治りやすいのだ。数日もすれば晴れて退院だ。
今日はそのシャルトの様子見だ。そして医者からも大体何時頃に退院出来そうかを聞いておく。それに合わせて、こっちでもやっておかなければならない事がある。制服やら住む場所やらの手続きだ。これだけの事でも、今日明日にすぐには出来ないのである。その内、こういった手続きをもっとスムーズに行なえるようになんらかの改革をしなくてはいけないと思う。
手すりを足の悪い患者に譲りながら階段をひたすら登っていく。
受付で訊ねたシャルトの病室は最上階の奥まった所にあるそうだ。なんでも、禁断症状に耐えかねて窓から逃げ出さないようにそういった逃亡が困難な場所に収容したそうだ。しかし俺には、もしも脱走を試みたとしても窓から落ちて死んでくれるようにしている、といった意図があるように思えて仕方がない。
「お、あったあった」
そして、ようやく見つけたシャルトの病室。俺は受付で渡されたカギを取り出す。
「さすがは特別治療室だな」
取り出したカギを手でもてあそびながら、そう皮肉っぽく独り言を呟く。最初、この渡されたカギの意味が分からなかったのだが。ドアを見た途端、ようやくこれの役割が分かった。俺が目の前にしているドア。そこには露骨に重厚な錠前がぶら下がっていた。カギはこれのためである。
まるで囚人扱いだな。いつから病院は監獄になったのだろうか。
そんな軽口を呟きつつ、錠前にカギを差し込んで捻りロックを外す。がちゃん、と思ったよりも重苦しい音が響く。かなり本格的のようだ。
ドアをノックすると、普通のドアでは絶対にあり得ない金属の音が響き渡った。このドアも素人には破れない頑丈さだ。
が、いつまで経っても中から返事がない。このままこうしていても埒があかない。俺は返事を待たずに部屋の中へ入る事にした。
「どうだ、シャルト? 元気か?」
そう笑顔を浮かべながら入る俺。
考えてみれば、あの日からシャルトの顔を見ていない訳で。別にそのケがある訳ではないのだが、どうにも定期的に見ていたくなる顔をしているのだ。それは……そう、たまに目にするとつい構いたくなる子猫のようなものだ。
部屋は入り口の重厚さとは裏腹に、監獄のイメージからは遠く離れた清潔感溢れる目映いほどの白い壁が四方と天地を覆っている。だが明らかに普通の病室とは違う点が一つ。部屋の窓はたった二つ、しかも天井に近い場所に小さく開いている。なんて場所なのだろうか。俺は思わず眉をひそめる。
「ん?」
その時、部屋の中を薄紅色の影が素早く弾け、隅へ飛んでいった。すぐさま俺は後を目で追う。視線が辿り着いた先には、部屋の隅で小さく縮こまっているシャルトの姿があった。ぎゅっと両腕で自分の体を膝ごと抱き、歯を鳴らしながらぶるぶると震えている。その姿はまるで俺を恐れているかのようだった。
「おいおい、俺だって。忘れたのか?」
ネコは三日飼っても恩を忘れるというが。突然の事で錯乱しているのだろうかと俺は改めて自分の顔をしっかりと見せたが、しかし返って来たのは敵意に満ちた眼差しだけだった。シャルトの目ははっきりと俺を憎んでいるようだった。そしてこれ以上部屋の中に踏み入る事を激しく拒絶する空気を放っている。
やれやれどうしたものか。
言っても通じそうもなく、俺は溜息と同時に肩を下ろす。俺はあそこからちゃんと助けて病院に入れてやった、言わば恩人というものではないのだろうか? それとも、人からの恩は受けるだけ、というのがコイツの主義なのか? しかしその割に、この圧倒的な拒絶に満ちた空気はなんなのだろうか。俺がまるで一方的にとんでもない悪人にされているような気がする。
すると、
「すみません、ちょっと」
俺の背後から遠慮がちに声が飛んでくる。振り返るとそこに立っていたのは一人の医師だった。どうやらシャルトの担当医のようである。なにやら話があるらしく、俺を部屋の外へ促す素振りをする。とりあえずこのままでは埒があかない。ひとまず俺は従っておくことにした。
「あの患者の事なのですが」
廊下に出てドアを閉め。しっかりとカギを確認した上で医師はそう話を切り出してきた。
「悪いのか?」
「あまり言いたくありませんが、最悪です」
最悪、ねえ……。
おそらく、医者の口から聞きたくないであろう言葉の一つ。圧倒的な重みが頭上に圧し掛かる。
「よほど強い薬を連続して投与され、あらゆる神経が失調を来たしています。更には極度の精神的ショックからか性格形成にも薬との相乗効果で悪影響が現れ、精神が断続的な錯乱状態の波を取っています。このまま治療を続けても、日常生活への復帰は極めて困難でしょう」
「ああ、もっと簡単に説明しろ」
やや無尊な物言いだとは思ったが、医者の言葉からは断片的に嫌な単語が飛び出しているのは分かった。それを遠回しに言って有耶無耶にされているような気がして、俺はつい苛立ってしまったのだ。
さすがに医師も表情を渋める。俺の苛立ちが伝わったのか、それとも露骨な表現を用いるのが主義ではなかったからなのか。随分と重い調子で口を開いた。
「……分かりました。有り体に言いますと、あの子供がまともな精神状態に回復する見込みはありません。筋機能も不安定、更には痛覚も欠如しているようです。あれでもかなりマシな方です。精神安定剤を投与し続け、ようやく落ち着きかけたのですから」
あれで……マシだ?
怪訝な表情を浮かべる俺に、医師は極めて真面目な表情で相対する。どうやら本当らしい。
「いずれにせよ、当分は経過を観察しかありませんので、その方向でよろしくお願いします」
医師は慇懃に一礼しその場を後にする。
なんだかとんでもない事態になってきた。
そう思うよりも先に、俺はシャルトが急に不憫に思えやりきれない感情に苛まれる。
もしかすると俺は、とんでもない事に首を突っ込んだのかもしれない。興味本位としか言いようのない形で連れて来たシャルト。それは本当に正しかったのだろうか? 軽々しく触れてはいけない事だったのかもしれない。しかし、今更後には退けない。一度責任を持った事は必ず最後までやり遂げるのが俺の主義だ。たとえどんな困難な事になろうとも、シャルトは最後まで面倒を見続ける。それが俺の果たすべき責任と義務だ。
ふと、その時。
『……て』
何かが耳を掠める。
気のせいだろうか? 首を傾げたその時、更にもう一度それは聞こえてきた。
微かに聞こえてきたのは、消え入りそうなほど小さな声だった。しかし小さ過ぎてその出所がよく分からない。俺は辺りをキョロキョロと見回す。
ここは特別病室があるためか、周りにはまるで人の気配が感じられなかった。一箇所に押し込める行為が人道的に反するだとか、数年前にどっかの団体が抗議したとかいうニュースがあった。おそらくはそのための応急処置みたいなものだろう。俺にはいまいち理解出来ない理屈だが。
他に人が居る所なんて一箇所しかない。とにかく、俺はその最後の場所を確かめる事にする。
「ここか……?」
そっとドアに耳を当てる。ひんやりと冷たい金属の感触が耳に伝わってくる。
そして。
『開けてよ……』
聞こえてきたのは、シャルトの泣声だった。
TO BE CONTINUED...