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げほげほとおかしな咳を繰り返す音。
喉の奥が詰まったようなその異音の原因は、体のどこかに傷がついたための出血が気管にこびりついているからだ。
「よし、今日はこのくらいにしておいてやる」
その壮年の男は、長身に鍛え上げられたたくましい体、そして鷹のように鋭い眼光を真っ直ぐ目下に向けている。実年齢は既に老人と呼ばれる域ではあるが、その衰えを感じさせない体格、更には彼自身の放つ威圧的なまでの存在感、迫力が二周り以上も若く見せている。
手には軍隊で支給されているものとほぼ同じ作りの模擬剣が光っていた。刃の焼付けがされてはいないが、その重量感がもたらす一撃は軽々と骨の一本や二本は粉砕してしまう。男が身につけているのは軍隊の、提督だけに支給される制服だった。その重厚な威厳を放つデザインが、より男を大きく恐ろしく見せる。
「は……はい」
彼の足元にうずくまったまま、やっと聞き取れるほどの小さな声で答えたのは、まだ十歳にも満たない男の子だった。口元には今しがた嘔吐したばかりの血反吐が張り付き、目に見える箇所見えない箇所を問わず無数の打撲傷や裂傷が全身に出来ている。こうして理性を保っているのがやっとの様相だったが、どこかその子にはここまで追い詰められる事に慣れた様子が伺えた。
男は満身創痍の子供に手を差し伸べもせず、そのままくるりと踵を返して立ち去った。少年はそんな彼の行動にも何一つ感慨を見せず、ただ自分の体をどうやって動かそうかと苦心する。初めから男の事は期待はしていないようだ。
少年の傍らには、先ほどの男が持っていたものよりも一回り小さな模擬剣が転がっていた。それでも少年の体格にはあまりに大き過ぎる。持ち上げる事すらやっとのように見えるその剣だが、少年はつい先ほどまでこの剣を持ってあの男と剣を交えていた。
地面に膝と手のひらをつけ、なんとか体が崩れ落ちぬよう突っ張る。しかし少年の意志に逆らい、腕や足は疲労のあまりぶるぶると小刻みに震えている。やがて少年は体を支え続ける事を断念し、地面の上に背中から転がった。このまま少し体を休める事にしよう。そうすれば、その内立ち上がれるようになる。
ふと少年は一度寝転がった体を捻るように起こし、再び地面に向かって激しく咳き込みながら血反吐を吐いた。ぜーぜーと不規則で空気が漏れたような音のする少年の呼吸は、それでようやく幾ばくかの落ち着きを得た。
呼吸が落ち着いた事で、少年は体を元に戻し空を仰ぐように横たわった。
今日も散々痛めつけられた。
少年はそっと目の前にかざした手のひらを見つめながら、そう思った。
彼を父親と思わなくなり、稽古と称して自分を痛めつけるだけの存在と納得させるようになってからそろそろ半年が経つが、やはり未だに何らかの形に割り切る事は出来ない。彼は自分が兄弟の中で最も才能がある、と言った。しかし、一体何を根拠にそう断言したのか、理解は不能だ。
諦めて素直に従っているしかない。
それが、何年も強制されてきた少年の下した結論だった。彼に自分の意思を通させる事は出来ない。いや、何人たりとも彼に意見する事すら出来ないのだ。自分が常に正しいと信じ込むパラノイア。それが顕著になり過ぎているのは、彼も年老い過ぎたせいなのか。しかし、今もなお現役当時と同じ剣を奮える様を見る限り、老いたのは頭の中だけのようだ。
「お兄ちゃん」
と。
整った呼吸の数を数えていた少年の耳に、ふと別な誰かの声が飛び込んでくる。そして小さな影が空を仰いでいる少年の顔を覗き込んだ。それはまだ物心もついていないような幼い女の子だった。少年には歩きにくそうに見える裾の長いフリルのついた服、少年の落ち着いたダーティブロンドとは違って輝くようなハニーブロンドに、可愛らしく真っ赤なリボンをつけている。
「ん、どうした?」
「お兄ちゃん、また怪我してる……」
少女は心配そうな暗い表情を浮かべる。少年は体の中から来る痛みをこらえつつ上体を起こし、その痛みを決して表情に出ぬよう気をつけながら少女の頭を優しく撫ぜた。
「ん、どこがだ? あ、本当だ。気がつかなかった。親父のヤツ、いい歳して手加減ねえからなあ」
少年はわざと怪我に気がついていなかった振りをし、おどけたように笑って見せた。こんな怪我など痛い内には入らない。隠せる怪我ではない以上、他に少女を不安がらせない方法はなかった。
少女は歳相応にも少年の安易な言葉を信じ、暗い表情をパッと明るく一転させた。泣き出されでもしたら困るな、と不安がっていた少年は、心の中で密かに安堵する。
「何か欲しいものある? ルテラが持ってきてあげる」
「お、悪いなあ。じゃあちょっと、水が飲みたいな。動き回ってたから喉が渇いた」
「うん、分かった!」
自らをルテラと呼んだ少女は、早速意気揚々とあどけない足取りでちょこちょこと走り去った。視界からその小さな姿が消え、少年はようやく無理をして起こしていた体を再び地面へ投げた。
ルテラは少年の腹違いの妹だった。少年にはそれぞれ母親の違う兄弟が五人いた。この国で重婚は珍しい事ではなく、特に貴族の位を持つ身分の人間では妻が五人もいる方が普通だった。
その五人の兄弟の中でルテラは一番最後に生まれた。少年には兄が三人いるが、歳が離れているせいか日常で滅多に接する事は無く、また彼らは少年を敵視していたため接点を持とうとする気もなかった。兄弟の中で唯一の女であるルテラは、幼い頃に母親は病死、父親は戦役の事しか頭に無い人間であるため見向きもされなかった。それだけに、歳が近く優しく接してくれる少年には誰よりもよく懐いていた。
少年の父は戦功だけで貴族の称号を貰ったいわゆる軍人貴族、現役当時は戦役と戦役の間しか家に居ない根っからの軍人だった。兄弟の中で最も才能があると見込まれた少年は、彼が現役だった頃はまだろくに家にいなかったため、稽古も定期的で嵐が過ぎるのを待つようにしていれば良いだけだった。しかし最前線から引退すると、その日一日中を少年の稽古に時間を注ぐようになったため、物心ついた頃には既に毎日休まず血を吐くまであらゆる戦闘術の稽古をさせられていた。近い記憶の中では体から傷が絶えたことが無かった。そして稽古が終わると決まってルテラがそんな少年をよく心配した。
毎日毎日、血を吐いても決まった時間まで終わらない稽古は、少年にとって苦痛以外の何物でもなかった。少年は同年代の子供の中では比較的体は大きい方ではあったが、やはり未成熟であるため、訓練した大人がやっと扱えるような剣など使える訳がない。しかし、それでも父親は容赦なく刃の無い剣で打ち、肘や足も出して来る。どんなに嫌で、いつも逃げ出したいと願い続けても、その一方で少しずつ順応していく自分を感じていた。諦めともまた違う甘受の姿勢。それを少年は、自分に父親と同じ血が流れているからだ、と思った。稽古という父親への憎悪を増幅させる作業を繰り返し、日々自分がこの男の息子だと再認識させられ続ける。少年の幼い心身にはこれ以上ない苦痛ではあったが、かといって本気で投げ出したり逃避する事をよしとはしなかった。それが少年の、生まれ持つプライドだった。
そして、少年が日々課せらる稽古を心良く思わない人間がいた。少年の兄達とそのそれぞれの母親だ。
少年の父は軍人貴族であるため、時期後継者は自分のように戦功を幾つも上げられるような強い人間にすると公言している。そんな前提での、連日繰り返されるこの稽古だ。彼が少年を自分の跡継ぎにしようと考えているのは火を見るより明らかだ。それぞれ我が子を跡継ぎにさせたい母親達にとって、少年の存在は疎ましかった。
少年の母親は彼女らの謀略によって、表向きは病死という扱いで殺されてしまっていた。
事実関係は少年も正確には知らないが、少年の毒殺を企てた何者かから庇って死んだらしかった。少年は自分が良く思われていない事は知っていたため、大体の犯人の見当はついていた。画策したのはあの三人の母親の内の一人だと。しかし、自分の母親を殺した犯人よりも、葬式に顔すら出さなかった父親の方が少年は憎かった。
少年の母親は常に毅然として厳しい人物だったが、何故か少年の記憶には優しかったイメージが強く残っていた。よく戦役で不在だった父親の事を讃える言葉を聞かされていたが、子供ながらにそれが心からの言葉ではなく、母が自分の中でそう転化しているように少年は子供心に感じていた。その時の違和感の記憶が、今の父親へ対する憎悪の一要素ともなっていた。
一体、いつまでこの地獄が続くのか。
いい加減、この男、死んでくれないか。
自分から逃げたくはなかった少年は、自分のプライドを守りつつこの地獄から抜け出すにはそれしかないと考えるようになった。
この男の道楽で死にたくは無い。自分は物言わぬ人形じゃないのだ。
稽古を理由に意図的な事故で、いつか本当に殺してやる。じゃなきゃ、こっちが殺される。
そう少年は本物の殺気を持って稽古に打ち込んだが、それは逆に父親を、自分の稽古の成果が出てきたと勘違いさせ、喜んだ父親がより一層熱を篭らせてしまう結果に終わった。
このままでは、本当に自分が死ぬんじゃないのか?
しかし。
それは、もはや少年が稽古に対する精魂が尽き果てた時の出来事だった。
少年の父親が突然倒れた。
脳梗塞だった。
TO BE CONTINUED...