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 夕方。
「ちょっと遅くなったわね」
 私はやや足を速めながら雪乱の本部へ向かっていた。
 まだ守星の業務は終わっていないのだが、あらかじめ一時間ほどの休憩は申請してある。それまでに業務に戻れば問題はない。
 わざわざそんな面倒な事をしたのは、今日リルフェに頼んでいたシャルトちゃんの精霊術法の経過を見るためだ。
 今のシャルトちゃんは、麻薬の後遺症で非常に大きな障害が体に残っている。筋肉の抑制が効かない事と、痛みを感じられない事だ。痛みとは人間の防衛本能であり、致命的な負傷にならぬように警告するためのもの。それが欠落してしまったという事は、自分が大きな怪我を負ってもその重大性に気がつけず、結果的に生死の問題に大きな影響を及ぼす確率を飛躍的に高めてしまうのだ。
 そういう背景があって、お兄ちゃんが夜叉で引き取る事になっているシャルトちゃんをわざわざ雪乱で精霊術法を覚えさせるのだ。術式を覚えれば、体の実損は極限まで減少させる事が出来る。そうする事で少しでもシャルトちゃんが怪我をしないようにしたいのだ。
 夜叉の人間に雪乱の精霊術法を教える。それは、本来は決してあり得ない事だ。北斗十二衆は目的こそ同じでも基本的に和気藹々とした仲良さはない。互いにどちらが上なのか、日々喧々と牽制し合うのが実状である。そのため、他の流派の人間に自分の術式を教えるなんて事はありえないのだ。精霊術法を使う流派は、独自の術式を研き戦闘術として高めているため、その技術をおいそれと外部に流出させたりはしない。だから、たとえ私が元雪乱の頭目であったとしてもシャルトちゃんに術式を教えさせる事は不可能なのである。
 ただ、今回に限っては。今の雪乱の頭目がリルフェという話の分かる頭目であった事が幸いした。リルフェは責任感のない人間ではなく、むしろ私よりもずっと頭目に向いた人間だ。ただ、既存の形式にこだわらず常に新しいより良いものを求める気質であるため、それが正当な理由であればこれまでの陋習を一蹴して決断出来るのである。今回の件は単純な人助け。それに、幾ら精霊術法を教えるといっても、どこの流派でもやるようなほんの基礎部分だけだ。シャルトちゃんには迂闊な事を言わせないように言っておけば、雪乱の術式が致命的漏洩を起こす事態にはならない。
 そうとは分かっていても、首を縦に振ってくれないのが大半の流派だ。本当にリルフェが友達で助かった。私は凍姫の頭目であるファルティアもいるのだけれど、こちらはおそらく無理だろう。ファルティアとは元々半ライバル的な関係だし、仮にファルティアが首を縦に振ったとしてもその背後に居る凍姫の実質的支配者のミシュアさんが許すはずが無い。むしろ逆にこちらが死線をさ迷わさせられてしまう。
 数分ほど足を速めたところで、ようやく懐かしい雪乱の本部が見えてきた。二年ほど前までは毎日のようにここと訓練所に通っていた。あまりあの頃の思い出は気持ち良く回想出来る部分が多くないけれど、敷地内に入るとどこか古巣に戻ってきたような空気に当時の自分へ思いを馳せてしまう。
「リルフェは居る?」
 そして、私は建物の正面口に並んで立つ二人の門番にそう話し掛けた。
 二人の表情は僅かながらも確かに一瞬歪んだ。二人とも、私がまだ雪乱の頭目を務め『雪魔女』の仇名で呼ばれていた頃から在籍しているからだ。今でこそ私は、自分は自信を持って雪魔女の頃のような荒み方はしていない、と断言出来るが、目に見えない心理的要素でしかないため当人達にしてみればあまり良い心地ではないだろう。ただ、まるで魔物でも目の前にしているかのような怯え方をされるのは、幾ら私でもあまり良い気分ではない。そもそも、私は雪魔女の頃も一度として味方に手を上げた事はないのだ。まったく、失礼なものである。
 二人は萎縮しながら黙って道を開けた。入れ、という事らしいが、一言くらい『居る』と言ってもいいのに。私は密かに微苦笑を浮かべる。元雪乱の人間とは言っても、今は守星の人間であるから一応部外者になる。ちょっとは警戒はしないのだろうか?
 中に足を踏み入れると、当時となんら変わりのない細長い廊下が奥まで伸びていた。ただ、あの頃とは違って、時折花が飾られているのが目に入った。きっとリルフェの趣味だろう。本部を私物化しているような気もするが、まあ華やかな印象になって他の人にとっても気分がいいだろう。
 リルフェが居るのは、おそらく頭目の部屋だろう。誰かに呼んできてもらえばいいのだが、あいにく私を目にする人という人が早足で擦れ違っていく。それはもう呼び止める猶予を与えないほどに。私にとって雪乱は縁も所縁も深い所だけれど、随分と極端に嫌われてしまったものだ。日常ではこれほど誰かに避けられる事はないため、いつもの事なのだけど雪乱に来るとどうしても自分はここには来ていけない後ろめたさが込み上げてくる。
 階段を上り、上へ。
 自分が頭目だった頃は、ほとんどあの部屋は使うことが無かった。どちらかと言えば、事務はほとんど代理に任せて訓練所に根を張る頭目だった私。今でこそ振り返って分かるのだが、なんともワンマンな頭目だった。嫌われるどうこうはともかくとして、リルフェほどの人徳が得られなかったのも納得がいく。
 と。
「あ、ルテラ! おっそいです!」
 不意に階段の上の方からリルフェの声がする。見上げるとリルフェは手すりから身を乗り出して私の方に手をバタバタと振っていた。
「なあに? どうしたのよ、そんなに慌てて。開封はうまくいったの?」
 そして階段を踊るように飛び降りてきたリルフェに、そう私は吹き出しそうになりながら肩をすくめる。こんなに急いで、まるで子供のようだ。まあ相変わらずと言えば相変わらずなのだけど。
「うまくいきましたよ。でも、とんでもない事になっちゃったんです」
「とんでもない事?」
 うまくいった。
 でも。
 初めこそ無事に終わった事を喜んだ私だったが、その後にすぐ続いた不穏な言葉に、まるで冷水を浴びせ掛けられたかのように喜びが鎮火される。
 精霊術法の開封は元々被術者の負担と危険性を最大限に減ずるよう研究されているため、ここ何十年かは開封による事故などどこの流派でも起こった事がないそうだ。だから開封自体は別段問題なく、リルフェも無事に終わったと言っている。にも関わらず、その不穏な単語。それが意味する所をしばし考えると、考えつくのは一つしかない。
 そう、精霊術法で最も注意を必要とする『事故』を引き起こしやすい、先天的な体質の発見だ。
 まさかそんな事があるはずがない。
 必死で自分に言い聞かせるものの、それが単なる自分への誤魔化しにしか過ぎない事実からは目を背けられず、体は既に反応を始めている。体の芯がスーッと冷たくなり体表はカッと熱くなって汗が噴出す。そして細かな震えが指先と爪先を訪れた。
 リルフェが口を開く。たったそれだけの動作がやけにスローに見えた。
 聞きたくない。たちの悪い冗談だったと笑って欲しい。
 そんな願いも虚しく、リルフェの顔に普段の輝くような笑顔が戻る事は無かった。
「シャルトちゃん、ランクAの反応が出ました」
「ランク……A?」
 私は、冷たくなっていた自分の背筋が凍り付いてしまうような気がした。
 そして錯乱を始めた頭の中に浮かんだのは、シャルトちゃんへの申し訳ない気持ちだった。
 体が少しでも傷つかないように、良かれと思ってした事だったのに。まさか、更に余計な枷をつける事になるなんて……!
 安易な考えだった。
 自分を徹底的に叱責したい自虐的な気分だった。でも、そんなのはやるだけ無駄だ。逃避は何も生み出さない。



TO BE CONTINUED...