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うるさい。
うるさい。
うるさい。
あなたは私に何を求めるの?
一体何がしたいの?
私に構わないで。
今は何も考えたくない。
何を考えようとしても、気が狂いそうになるから。
だから、お願い。
そっとしておいて。
私……まだこんな事、考えられたんだ……。
「よう、死に損ない」
退院した私は、半ば済し崩し的にお兄ちゃんの部屋へ帰って来た。そこで私は、スファイルと出会う以前の生活を送り始めていた。しかし、完全に元のそれに戻った訳じゃない。朝になったら起きて食事を取り、夜はお風呂に入って寝る。あの頃はまだ働く意欲は漠然としていたけどあったけれど、今の私はそれすらも持っていない。唯一同じなのは、先の目的を全く持っていないという事だけ。
そんな私を、お兄ちゃんは何も言わずに笑っていてくれた。私の存在がどれだけの負担なのか、と考えない訳ではなかったけれど、もうそれ自体考える事が面倒になった。お兄ちゃんが私をどう思っているのか、興味は徐々に薄れつつある。全ての集中力は、ただひたすら起きて寝るだけの単調な生活サイクルを療養という名目で繰り返す事だけに集められた。お兄ちゃんの優しさに甘えているという事は分かる。けど、今から何かを頑張ろうという気にはなれなかった。どうして生きているのか、何のために生きているのか、今更そんな事を考え省みる事もあえてしなかった。ただ、毎日同じ事を無為に繰り返すだけ。
そういった、狭く閉じられた生活循環の中。
ふらふらと歩いていた街中の一角で、その言葉は突然、背後から明らかな蔑みと共に浴びせられた。
ふと足を止め、私はゆっくり振り返る。それは、不意に襲い掛かった眩しい光から目を守るように目蓋を閉じる様に似ていた。
「また中途半端な事してさ。そんなに目立ちたい訳?」
そこに立っていたのは。
私にとって縁深い濃紺の制服に身を包んだ、長いエメラルドグリーンの髪を後ろで高く結った一人の女。彼女の視線は酷く攻撃的で鋭く、私を不快にさせる。
「何か用かしら?」
はっきりと自分でも分かるほど、作業的で抑揚のない声が口を突く。彼女の攻撃的な口調に対するにはあまりに冷め覇気が感じられなかった。少し押せば折れてしまうような、そんな弱々しい声。
「馬鹿を見に来たのよ。どんな面してるかね」
そう、彼女、ファルティアは挑発的に鼻を鳴らし、侮蔑を込めた視線を私にぶつけてくる。元々釣り目がちの目が悪意を持つと、より一層厳しく肌に突き刺さってくる。
「なら、もう用は済んだわね」
私は再び踵を戻すと、歩いていた方向へ歩き始めた。
特に私は目的や予定がある訳ではなかった。朝起きて食事をしたら、お兄ちゃんが出かけた後で私も外に出る。それからあてもなくふらふらと、日が傾くまで北斗中を歩き回るのだ。人間が生きていく上で最低限必要な行動以外で、唯一私が行なう行動である。
今日は不愉快な人間に出くわした。
人込みや活気に満ちた歓声の中をくぐっていく事に小さな心地良さを感じていた私にとって、北斗の徘徊は安らぎの場でもあった。それをあのファルティアという人間は無神経な言葉で乗り込んできた。尾を引くほど粘着質な性格でもないためすぐに苛立った気分は収まったが、どこか泥をつけられたような不快感は拭い去れない。
と。
「あんた、雪乱には戻らないの?」
またも背後から聞こえてくるファルティアの声。
付き合いきれないと踵を返してきたはずのファルティアは、私の後を図々しくも密かにつけてきていた。そしてまたも無神経な言葉を何の躊躇いもなく浴びせてくる。
「私はもう雪乱を辞めたの。自分の意志でね。今更戻る理由もないわ」
再燃した苛立ちを抑えつつ、私はそう憮然とした口調で答えた。
私はスファイルとのあの戦いを最後に、当時就任していた雪乱の頭目をリルフェに譲って辞職した。それは、これ以上自分が雪乱に居る必要性が感じられない事と、頭目の業務に追われるあまりスファイルとの生活に支障を来たしたくなかったからだ。今となってはスファイルとの事はなくなってしまったけれど、雪乱に戻りたいという意思が無いことに変わりはない。私にとって雪乱時代の思い出は、どれも思い出したくはないものばかりなのだ。わざわざ戻る理由など微塵もない。
「ふ〜ん、そう。じゃあ、私との決着はどうするつもりなの?」
決着?
歩きながら私は、飛び出した意外な言葉に思わず眉をひそめた。
一体、ファルティアは何の事を言っているのだろうか。決着をつける、という言葉の繋がりが意図する部分が明確に見えて来ない。
自分とファルティアとの接点を思い返してみる。
初めてファルティアと顔を合わせたのは、まだ雪乱と凍姫が抗争の真っ只中の頃だ。ある日、戦場でふと顔を合わせた。今でもはっきりと憶えている。一際やかましい、戦術のセオリーを無視した向こう見ずで粗暴極まりない人間だった。その攻撃も印象通り至極単調で、基本に忠実な戦闘を展開するだけで実にあっさりと返り討ちに出来てしまった。それ以来、ファルティアは戦闘の都度執拗に私を付け狙い始めた。特に脅威に感ずるほどでもなかったが、やけに自分は憎まれているものだ、と印象には幾らか残っている。
では、決着というのはそのくだりについてなのだろうか? たとえそうだとしても、今更改めてつけようとする意味が分からない。自分とファルティアとの戦歴は完全に一方的だった。以前から思っていたのだが、今日こそは今日こそはというファルティアの執拗な思いは全て上塗りになっている。いい加減、諦めればいいのに。しかし、次回という言葉に甘い夢を見ている所は未だに変わっていないようだ。
と。
「なんてね。正直、もうどうでも良くなったわ。死に損ない一人ブッ殺したって、なんも意味ないからね。はっきり言って、今のあんたとはやり合う価値すらないわ」
ファルティアはこれまでの執拗さが嘘のように、やけにあっさりと前言を撤回する。しかしその言葉には、更にエスカレートした私への攻撃性が含まれていた。まるで、私という人間の存在自体を否定し侮辱するかのような、礼を欠く、という表現では生ぬるいほどの蔑みの一色に染まっている。
ぴし。
ふと、私の周囲の空気が冷たく張り詰めた事に気がついた。ファルティアの言葉に憤りを感じるあまり、無意識の内に雪乱時代のような精霊術法による冷気の発散をしていたようである。習得は困難とされる精霊術法も、一度身についてしまえば呼吸と同じほど自然に扱う事が出来る。随分と長い間使っていなかったけれど、どうやらまだ私は精霊術法を忘れてはいないようだ。
「ならいいでしょう。悪いけど放っておいてくれる?」
私自身が興味の対象から外れた。そうはっきりと言われているにも関わらず、わざわざ付き合いを続けようと思うほど私は酔狂ではない。それに、侮辱されるために同じ道を歩く事自体が非常に不愉快だ。私は自分を痛めつける趣味はない。
一体ファルティアは何がしたいのか、はっきりとはしていなかったが、少なくとも私が不愉快になる事に変わりはない。私は少し歩を早めると、今度こそファルティアを振り切りにかかった。
しかし―――。
「あんた、悔しくないの!? ここまで言われても!」
ざっ、と地面を蹴る音が聞こえた瞬間、ファルティアは突然私の前に立ちはだかった。そしてこれまでの攻撃的だった表情を一変させ、狼狽と怒りが入り混じった顔で私を茫然と見ている。
何故、ファルティアは怒っているのだろうか? 私の何に対してそんなに腹を立てているのだろう? 私は唖然としながら、ファルティアの訳の分からない感情の発露に首を傾げる。
「さっきから何? あなた、私に何をして欲しいの?」
「だから言ったでしょうが! 決着をつけるって! それなのに、何? 今のあんたは! いつからそんな腑抜けになったのよ!」
私が腑抜け?
ファルティアの言葉を、私は否定しなかった。確かに今の私は周囲からそう評されても仕方がない。目的もなくただ死んでいないだけの私。幾らかは立ち直ったとは言っても、植物のような生活をしていた頃から少しだけ歩くようになっただけなのだ。何かしらの目的を持って、一日一日の貴重な時間を最大限有効に活用している。そんな全力でぶつかっていく人間らしい生き方を私はしていない。何をもって腑抜けではないのか、その基準はおそらく私が『雪魔女』であるか否かなのだろうけれど、たとえ雪魔女を求められたとしても私は戻る事は出来ない。あの頃の私はどうかしていたのだ。その苛立ちとパラノイアを理由づけるために作り出したのが彼女、『雪魔女』であって、それはスファイルと出会う事によって必要のない存在となった。そして彼はいなくなり、後に残ったのは雪魔女の強さもない、抜け殻のような私だ。生きるため、何かを成すため、原動力となる根本的意思力が折れてしまったのだ。意思力の折れた人間には一切の自主性と積極性は存在しない。
「雪魔女はいなくなったのよ。彼が溶かしてしまったから」
「うっさい! ワケ分かんないこと言って誤魔化すな! ほら、かかってきなさいよ! あの頃みたいにさ!」
ファルティアは両手を大きく広げ、仕掛けられるものならば仕掛けてみろ、という戦う人間にとってはこれ以上のない挑発を放ってきた。しかし、先ほどとは違って私の心を抉り出すような攻撃的な言葉がないため、私はそんなファルティアの仕草を冷ややかに見つめるだけだった。
「凍雪騒乱の遺恨を持ち込む事は禁止されているわ。それに、今の私は北斗とは何の関係もない一般人よ。北斗が一般人に手を上げるなんて大問題じゃないかしら?」
「その理屈、私が本気だと分かっても言える? 私はやるわよ。いつまでもあんたの幻影に縛られるなんてまっぴらだからね」
ファルティアは自分の戦闘意志を表明するかのように、ぎゅっと右手を握り締めてかざした。見る間にそこへ無数の青い粒子が集まり始める。凍姫式の精霊術法だ。私は反射的に体を緊張させる。
だが。
臨戦態勢に移ろうとするその緊張は、最初の高波だけで即座に引いていった。ファルティアは言葉通り、一般人に当たる自分へ本当に攻撃を仕掛けかねない人物だ。今の言葉も決して脅しではない。しかし、私はそうなればそうで別に構わなかった。ファルティアのあの攻撃力を生身で受ければ、致命傷に及ぶダメージを負う事はほぼ間違いない。普通ならばその事態を回避するために障壁を張る等の回避行動を取るのだが、それをあえて取らない事にした。ファルティアの、あの人数人を一度に吹き飛ばす一撃を頭に受ければ。この、ずっと額の奥で私を苛み続ける虚無感を吹き飛ばして私を楽にしてくれる。そんな気がした。
「いいわ。私は抵抗しないから。思い切り、やって」
私は身構えようとしているファルティアを前に、そっと両目を閉じてやや上を仰いだ。両腕はだらりと下げたまま、一切の行動意思がない事をアピールする。
「馬鹿にするのもいい加減にしてよ! こんなんで勝っても嬉しいわけないじゃない! 真面目にやってよ!」
「私は真面目よ。私を殺したいんでしょ? ならそうすればいいわ。私は何の抵抗もしないから」
激昂するファルティアに対し、私は氷のように冷然としていた。感情の起伏が感じられない事も、ファルティアの怒りに油を注ぐ事にしかならない。そうさせている自分の態度に自覚はあるが、ただその事実だけを頭の中に留めておくだけだった。周囲への配慮が欠落してしまうという、あれ以来の私に起こり始めた一つの症状。
さあ、ファルティアは手を出すだろうか? もし、そうだとしたら、当然ファルティアには後々相応の処分が下るだろう。いや、処分などという生易しいものではない。仮にも一般人を守るための存在である北斗の人間が、それも一流派の頭目が一般人を手にかけるのだ。刑罰、それも相当厳重なものに処せられるだろう。
自分の憂鬱を晴らすためにファルティアを利用している。そんな自嘲めいた気持ちが、ふと込み上げて来た。最後まで自分は誰かに迷惑をかけてしまう。そうしなければ生きられないのだろうか? ならば、自分は誰かの荷物となるために生まれてきた? もしそうならば、やはり私は早めに分相応の所へ収まるべきだったのだ。
酷く無感動な精神状態のまま、私はファルティアの動向を待ち続けた。
街の喧騒が遠く聞こえる。前はよくスファイルと歩いていた事を思い出した。その時どんなことがあったのかまでは思い出せないけれど、ただ純粋に楽しさを感じていた事だけは憶えている。今となっては、その存在自体が辛い思い出。これ以上苛んで欲しくなかったから、私は粉々に打ち砕いて欲しかった。
しかし。
望んでいたその一撃の代わりに、ぎりっ、とファルティアが奥歯を噛む音が聞こえてきた。
「ちっくしょう……あんたなんか、やっぱり死ねば良かったんだ」
目を開けると、手を出したくとも出せずギリギリの所で思い留まっているファルティアの姿があった。
やっぱり駄目か。
思惑通り、自らの感情に忠実に従ってくれなかったファルティアに、私は密かに失意を憶えた。
「私もそう思うわ。生きるのも死ぬのも同じ事だったら、楽な方がいいから」
そしてファルティアはゆっくり構えを戻すと、そのまま苦々しげに路面へ唾を吐いた。
「スファイルも、なんであんたみたいな馬鹿を好きになったんだろうね」
じろりと侮蔑の眼差しで私を睨みつけるファルティア。それは私をさもつまらない存在であるかのような視線だ。
共感できる。私は、何の目的もなしに時間だけを刻んでいく自分の存在を、これ以上はないほどくだらないものだと自分でも思っている。自分で自分の存在を断つ事すら出来ないのだ。そんな存在が誰かに同情されるとも微塵も思わない。
「リーシェイが言ってたわ。スファイルはあんたのことをよく分かっているけど、あんたはスファイルの事が何も分かってない。ってね」
最後に、そう吐き捨てるように言い残したファルティアは、憮然とした表情のまま私の脇を通り過ぎて行った。
あっという間に駆け抜けて消えていくファルティアの気配。再び周囲が街の喧騒に溢れ始めても、私はその場にひたすら立ち尽くし続けていた。
私が、スファイルの事が分からない?
予想だにしなかったその言葉に驚くあまり、私は茫然としていた。
そんなはずはない。そう思った。スファイルは私の半身とも言うべき大切な存在だ。そんな彼の事が分からないはずはないのだ。確かにスファイルは不可解な言動が多かったけれど、それはスファイルに対する不透明な疑問という訳ではない。スファイルのことは誰よりも私は知っている。なのに、私はスファイルの事が何も分からない、だなんて。あり得ない指摘だ。
いや、もしも。
今の言葉が周囲からの自分に対する客観的評価であったのならば。一体、私はスファイルと何をしている事になったのだろうか? スファイルと愛し合ったというのは単なる空想で、私の思い込みに過ぎない? 心が通じ合っていたのは錯覚で、本当は擦れ違ってばかりで互いの心情を自分の都合のいいように解釈していただけ? そんな事はない。私はスファイルの事をちゃんと理解している。いや、本当にそうだろうか? 結局最後まで分からなかった事だってあるんじゃない? ない。いや、あるにはある。でも、それはさもない些細な事だから。けど、小さな理解の至らなさが積み重なれば、それは相手を理解していない事になるんじゃない?
嵐のように自問自答が繰り返される。
私は、唯一絶対だったと言える二人の時間が揺らぎ始めた気がした。その不安は爆発的に膨れ上がり、私の凍った理性を見る間に削り取っていく。
あり得ない。
そう思いたかった。しかしそれはまるで台風の目のように、確固たる否定として、自問自答の嵐の中に浮かび上がっている。
私はスファイルを完全には理解していない。理解していると思い込む事に自己満足を覚えていただけなのだ。
本当は自分でも知っている。
まずは……。
―――と、その時。
北斗の賑わいの中に、突如巨大な爆音が鳴り響いた。
TO BE CONTINUED...