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 破滅の環がくるくると回り始める。
 何もかもが二年前のあの時と似ている。
 でも、今は違う。
 こんなにも止めようと必死になっている人間が集まっている。
 けれど。
 加速する転輪は止められない。




 浄禍出臨。
 その言葉は、私の思考を真っ白に漂白してしまうには十分過ぎる衝撃を与えた。同時に周りのみんなも絶句するあまり呼吸すらも忘れて、茫然と口を半開きにしたまま間の抜けた表情を浮かべている。
「それで……レイ、出てきたのは誰?」
 私はすぐに気持ちを切り替えて、何とか逃避したがる意識を食い止めて無理やり現実を向かせる。けれどレイは既に半分逃避が始まっているらしく、視線をそわそわと泳がせては私の問いが聞こえているにも関わらずわざと問い返すような仕草を見せた。無理もないと思う。何せ浄禍というのは、この北斗で間違いなく最強と呼ばれる流派なのだから。私はかつて『雪乱』の頭目を務めたが、雪魔女なんて二つ名も浄禍に比べれば子供の遊びのようなものだ。それだけ、流派『浄禍』の実力は北斗十二衆の中でも突出しているのである。北斗は他戦闘集団にとっては『死神』と仇名されるほど恐怖の存在だが、街に住む人間にとってはこれほど頼もしい存在はいないだろう。強さ故の安心感、信頼関係が築かれているのだ。しかし、浄禍の持つ力は常識を遥かに超越しているため、そこには畏怖の一点しか抱かれない。たとえ北斗に住むただの一般人と言えども、浄禍の名前には恐怖で震え出すのである。
「最悪だよ……。『怠惰』の座、『天命』の座、『光輝』の座、『聖火』の座、『断罪』の座。出臨したのはこの五人。どう考えても浄禍は本気でリュネスを消しにかかってる……」
 震えながらもどうにか声を絞り出して答えるレイ。その震えは恐怖と絶望が入り混じった震えだ。
 浄禍は『浄禍八神格』と呼ばれる八人によって束ねられている流派だ。彼女らはそれぞれ八つの聖号を持っており、先ほどレイの口から出た五つがそれである。
 浄禍八神格とは、ただでさえ強大な力を持つ浄禍内でも更に飛び抜けた力を持った八人の総称だ。それぞれには、『遠見』、『憂』、『怠惰』、『天命』、『邪眼』、『光輝』、『聖火』、『断罪』の八つの聖号と北斗総括部も覆す事が出来ない一定の権利が与えられている。彼女らは八神格と呼ばれるだけあり、同じ人間とは思えないほどの強大な力を操り、必要によってはその力と権利を行使する事で北斗の治安を保っている。北斗の守護神が戦闘集団『北斗』ならば、その守護神が彼女らなのである。
 頭目格の遠見の座を筆頭に、八人がそれぞれ人間の範疇を凌駕した力を持つ。たとえ諸流派の頭目格が相手になったとしても、おそらく八神格には傷一つ負わせる事が出来ないだろう。それほど並外れた力を持っているため、彼女らは人間から昇華した存在とまで言われるようになっている。言葉にすればするほど大げさに聞こえてくるが、その力のほどを目の当たりにした人間は二の句が告げないそうだ。私もまた、その二の句が告げない一人でもある。二年前のあの時以来。
 重ねて言えば。八神格のみならず、浄禍の人間は全てAランク以上のチャネルの持ち主だけで構成されている。浄禍のずば抜けた力の由縁はそこにあるのである。浄禍は常に半分、もしくは完全な暴走に近い状態を保つと同時に、己の行動を信仰心によって著しく制限している。つまり、暴走状態を飼い慣らす事で暴走特有の際限のない力を理性的に用いるのが浄禍の戦闘スタイルなのだ。膨大な魔力がチャネルから注ぎ込まれても決して己を見失う事のない浄禍の面々。それは戦闘技術として確立した精霊術法の最終形態、もしくは理想型と言っても過言ではないだろう。
 さて。
 それほど強大な力を持った八人の内、実に五人までもが出てくるとは。リュネスがそれだけ危険な存在であると判断されたのだろう。決断を出したのはおそらく『断罪』の座。彼女は北斗総括部以外で唯一浄禍を含む十二衆を動かす権限を許されているのだから。
「どうしよう……このままじゃ」
 いつになく弱気な声のレイ。けれど、私はもっと酷い。浄禍が出てきてしまったという事で、もうこれ以上の言葉は喉から出てこなくなってしまったのだから。
 重苦しい空気と共に絶望感が周囲に漂う。決して口にしなかったその言葉が、明確かつ現実的な映像として脳裏を我が物顔で蹂躙し始める。精霊術法を使う人間として絶対に起こしてはならない、起こしたくはないもの。浄禍による粛清。それが実際に目の前で起ころうとしているのだ。しかも肝心の回避のしようが考えつかない。そのため、考えたくもない最悪の状況を嫌でも思い浮かべてしまうのは必定なのである。
 仕方がない。
 危うくその言葉を口に出しそうになった。リュネスがSランクのベルセルクだったなんて、知っていれば初めから精霊術法なんて周囲が覚えさせなかったはずだ。暴走してしまったのも、風無の反逆により已む無く未熟なリュネスまでが一戦力として出撃せざるを得ない状況になってしまったからだ。それに私達は十分にリュネスを止めようと頑張った。自分の実力を全て出し切り、その上で止められなかったのだ。だから浄禍が出臨するという事態になったのは、人の手ではどうしようもない事なのだ。
 けれど、それは私の本心ではない。リュネスを止められなかった事の理由を周囲の不可抗力に求める事へ傾倒出来たならどれだけ気が楽だろうか。あいにく、私はそんな要因など一片たりとも求めてはいない。私が真に欲しているのは、如何にしてリュネスを止める事が出来るかだ。しかし幾ら考えても思い浮かばない現実に焼き切れそうなほどの焦燥感を覚えるため、あえて本心を偽って目を背けているのだ。
 もっと私に力があったら。
 肝心な時に役に立たないなんて、私は何のための守星なのだろうか。四年前、私は飾りだけの墓前で何と誓った? 思い出しなさい。『あなたが好きだった街を、私が代わりに守る』と、そう言ったのではなかったか? なのに私は、目の前にそびえる巨人のような現実に立ち向かうどころか目を背けている。私ではかなわない、と。
 すると、
「決まってんでしょうが!」
 突然、発起したかのように叫んだのはファルティアだった。
「浄禍八神格が来る前にリュネスを止める! それだけの事じゃない!」
 轟と響き渡る威勢のいい砲声。そんなファルティアの突然の言葉が、場に漂っていた重苦しい空気を一瞬で打ち消す。
 確かにファルティアの言う通りだ。このまま悲観的になってただぼんやりしていたのでは、折角今は取れる選択肢が沢山あるのに、それをわざわざ一番絶望的な一つに絞り込んでしまう事になる。どうせ駄目だと分かっていても、実際にやってみなければ分からないものはいっぱいある。データだけで先を予測して勝手に決定事項とするような聞き分けの良さは、大人の最大の欠点だ。過度な慎重さは、時として僅かな可能性すらもゼロに切り捨ててしまう。
 この状況にゼロ以外の可能性があるのだろうか、それは分からないけれど。まだ止まるには早過ぎる。あのリュネスが死んでしまう事を、そう簡単に良しとは出来ない。私だけでなく、この場のみんなが同じ考えのはずだ。だったら今は聞き分けが悪くならなくては。そして最後の悪足掻きを盛大にやろう。
「よし。ヒュ=レイカが居る分、さっきよりはマシになるはず。今度も障壁を四人で破壊して、本体に攻撃を仕掛ける人員を二人に増やそう。私と、もう一人足の速いヤツ」
「じゃあ僕かな。もしかするとこの中で一番かもしれないし」
 レイが普段の調子を取り戻してきたのか、そう明るく答えた。場の空気は相変わらず張り詰めたままだが、先ほどのように暗く重く沈んではいない。
「じゃあいくわよ! グズグズしている暇はない!」
 ファルティアが努めて明るく声を張る。
 が、その時。
『その必要はありません』
 突然、どこからともなくその声が響き渡った。
 咄嗟に私達は周囲へ視線をくまなく巡らせる。すると、
「あ!」
 真っ先に声を上げて指差したのはレイだった。すぐさま私達はレイの指差す方向へ視線を一斉に注いだ。
 なんてこと……。
 するとそこには、ぐにゃりと風景の歪んだ大きな円が出来ていた。まるで水に浮かべた景色をかき回したかのような光景だ。だがそんな事は現実には起こりえない現象である。現実はあくまで現実であり、水に浮かんだ月ではない。幾ら手を突っ込んでかき回したところで、風景がぐちゃぐちゃに歪むなんて現象は起こり得るはずがない。
 しかし、それは人間技での話だ。北斗には、人間技以上の事が出来る人間がいる。
 円形に歪んだ景色が更に大きな円へと膨らんでいく。それは丁度人間一人が楽々と通り抜けられるほどの大きさだ。
 私は戦慄した。その円の中から、同じ場所で呼吸すら許されないほどの凄まじいプレッシャーがビリビリと伝わってくるのである。本能が、あれは危険だ、と警鐘を鳴らしている。まだ姿すら見せていないというのにだ。
 そして、円の中から静かに一人の人影が浮かび上がるように現れて降り立つ。それは黒と白の生地で仕立てられているゆったりとしたローブに身を包み、頭もまたすっぽりとフードで覆った女性だった。その胸には銀色に光る十字架のペンダントが揺れている。その姿、まるで教会の修道女のようだ。
「この場は浄禍の聖号の元、この『怠惰』の座が受け取ります。大儀でした。あなた達は帰還してください」
 静かに、しかしそれでいて有無を言わせぬ気迫と威厳を持った彼女、『怠惰』の声が響き渡る。
 私はいつの間にか両手を強く握り締めていた事に気づいた。緊張でもない、ただ人の域を越えた存在への畏怖が私にそうさせているのである。
 更に。
「道を外れ運命に見放された哀れな子羊の救済、それこそが我ら浄禍に与えられた『天命』」
「見よ、全能なる主は我らに明るき理をお示しになられた。『光輝』に満ちた祝福の理を」
「主は今ここに、人の子を惑わす闇を切り裂く『聖火』を掲げられる」
「無垢なる子の魂は主に跪き穢れを清めた。これ即ち、父なる主の『断罪』なり」
 次々と空間の歪みが現れ、そこから同じ姿をした女性達がそれぞれ降り立つ。その全てが荘厳さ、威厳、神々しさに溢れ、決して染める事の出来ない絶対不可侵的な神性を放っている。いや、それ以前に感じるこの異質さ。どんなに感覚の鈍い人間だとしても、彼女達が私達人間とは似て異なる存在である事に気がつくだろう。彼女達浄禍八神格はその膨大な魔力を身に注ぎ続けたため、人間としての範疇を超越してしまったのだ。この周囲を取り巻く神々しいプレッシャーは、人を超えたが故に起こす事が出来る御業の一部にしか過ぎない。
 だが。
 彼女達の放つ雰囲気に周囲が圧倒される中、ファルティアは一人声を張り上げた。
「勝手な事を言わないで! 北斗の規律には、現場指揮権は一番初めに関わった流派に属する、って項目があったはずよ! ここは凍姫の本部、凍姫の頭目である私を無視して、勝手な事はさせないわ!」
 ファルティアはぎゅっと握り締めた手のひらを気刻みに震わせながらも、そう強く自分の意見を主張した。この息をするだけでも苦しいプレッシャーの中、驚愕すべき精神力である。
 北斗には通常の国家政府組織が発令する法律や憲法と同じように、一般人が守るべき規律、北斗が守るべき規律、両者が須らく守る規律が定められている。その中で北斗関係者が主に戦闘時の際に守る規律の一文には、ファルティアの言う通り、戦闘の現場総指揮権は最も初めに戦闘に関わった人間、もしくは流派が取る事と定められている。これは後続部隊との指揮権争いを防ぐために発令されたものだが、これはたとえ他流派よりも法規的庇護の厚い浄禍でさえも遵守しなくてはいけない規律だ。
 すると、怠惰の座がそっと微笑んだ。
「凍姫頭目ファルティアよ。汝の目は開いていますか? この惨禍を、一体どのか弱き力でどうしようと言うのです」
「勝手に決めるな! とにかく浄禍は引っ込んでろ! 指揮官は私だ!」
 私ならとても言えない、言う勇気はない、ファルティアの暴言とも取れるその態度。しかし、さすがはと感心した気持ちの方が強かった。ファルティアには何の気負いも感じられない。ただ、自分の持つ信念を硬く貫き通そうとする強い意志を抱き、それを実行しているのだ。言葉には簡単に出来ても、実際行うのは容易くはない。その上、あの浄禍八神格の一人を相手にしてだ。全く揺ぎ無い態度、伊達に破壊魔だとかの悪評を平然と背負っている訳ではない。
 と。
「汝は不幸である。主の御言に耳を塞いでいるからだ」
 怠惰の座は宗教書の一文を読み上げるように言葉を口ずさむと、突然、まるで地面を滑るかのように音もなくファルティアの元へ歩み寄った。そして、やや大きめな袖に包まれた右手をファルティアの肩へそっと重ね置く。
「力に溺れ、己に慢心し、偶像を過信する者よ。汝は不幸である。『怠惰』は主の祝福に背くものなり」
 再び朗読するような口調で荘厳な句を読み上げる怠惰の座。
 その次の瞬間、
「……え?」
 突然、ファルティアはその場に膝を突いた。
「な、何よこれ……体に力が」
 ファルティアはどうして自分が膝をついたのか分からないと言った狼狽の表情を浮かべる。それに続いて、ファルティアの右腕が音を立てて砕け散った。ファルティアの右腕は精霊術法で体現化した義手である。術式を解除した様子はない所を見ると、構成する魔力そのものが繋がりを失ってしまったとしか考えられない。
「主に仇なす者は、あなたを暗い眠りへ誘うでしょう。しかし、決して眠ってはいけません。真の安らぎを与えてくれるのは、父なる我らの主だけなのですから。悔い改めなさい」
「ち……くしょ」
 そして。
 ファルティアは自分の体すら持ち上げる事が出来なくなると、まるで眠り込むようにそのまま地面へ崩れた。



TO BE CONTINUED...