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正義と悪。
法律はまず、物事をこの二つの対極に分ける所から始まる。
けれど、何が良い事なのかは明確に定められていない。あるのは、何を悪とするかだけだ。
悪を裁くのは秩序の維持。その担い手は正義と正義の象徴されている。
じゃあ、これは何?
これが正しい事だって?
だから大人達は嫌いなんだ。正しい、ってのは、いわゆる自分達に都合のいいことの事じゃないか。
こんな事で負けてたまるか。
こんな事で。
死んでも、こんなやつらには負けたくない。
驚きで息が出来ない。
視線は目の前に転がっている『それ』に釘付けになったまま動かす事が出来ない。
「そんな……」
へたりこんでしまった私は、残った左手で震えながらそれを抱き寄せる。
私がよく知っているもの。けれど、本来はこんな風に地面の上に転がったりはしないものだ。にも関わらず、あるべき位置から離れて落ちているのである。
それは、夕飯の片付けをしない私にいつも文句を言うチビだった。どうしてそれが本来あるべき位置を離れているのか、全てはこれを投げ捨てた騎士の表情が雄弁に物語っている。
「もはや残ってるのはお前ぐらいだ。いい加減に観念するんだな。逆らわなきゃ仲間同様楽に死なせてやる」
楽に死ぬ?
私は左手に抱いたそれを見る。苦痛と恐怖に歪んだ、おおよそこの世にあって考えうるものの中で、そのどれとも該当しない凄惨な表情だ。これは、人間が一度しか味わう事の出来ない『死』を体験したための表情に他ならない。これのどこが楽に死なせたというんだろうか。所詮、愚劣な言葉のあやにしか過ぎないか。
どれだけ苦しい思いをさせてしまったのか。
幼い仲間は年長者が守る。それがこの貧民街で一緒に暮らしてきた私達の中で脈々と受け継がれてきた精神だ。けれど私は、それが果たせなかった。チビ共はおろか、仲間までみんな殺してしまった。悔しい。不甲斐無い自分が許せない。そしてその感情はこの騎士達へ一気に奔流となって注がれる。
「死んで……たまるか」
私は最後の気力を振り絞って眼前に構える騎士を睨みつける。奥歯を砕けそうなほど噛み締め、右手の代わりに左手を握り締める。しかし、膝は震えて力が入らず、立ち上がろうにも立ち上がれない。自分はまだ恐れているのか、と私は思った。街を焼き払われ、仲間達を惨殺され、まだ黙っているのか。けれどそれは違っていた。少しずつ額の奥で痛みが走り始め、視界が暗くなっていく。体が意思に逆らってフラつく。吐き気も少しある。
まずい、血を流し過ぎた。
前に一度、大きな怪我をした時にこんな症状に見舞われた事がある。けれど、今のそれはあの時よりもずっと重い。怪我の桁が違うせいだ。
立て! そして、ぶっ飛ばすんだ!
意思の衰えは無い。けれど、体力はほぼ限界を迎えつつある。意思だけで体はどうにもならないのだ。けど、それをどうにかしなければ。しなければ、私らは虫のように踏みつけられる。
「死ぬんだよ。お前らはな。この街には必要の無い存在だ」
そして、立ち上がれない私の前で剣が振り上げられる。
「勝手に決めんな!」
「必要なのかどうかは、国が決める事だ。お前らは要らないと判断されたんだよ。よって、こうして俺達が排除に向けられたのさ」
こんな理不尽な事があってたまるか。
私は悔しさのあまり涙すら流しそうだった。自分の無力さ、それもこんなやつらの思い通りになってしまうほどの無力さが憎い。やはり守ってくれる大人がいなくては、子供は生きていけないのだろうか? 私らの力なんてこの程度のものだったのか? 悔しい。ただ踏みつけられるのが必然である自分の境遇が。
立ち上がって、気に入らないもの、自分を踏みつけるもの全てを打ち砕きたい。なのに、こんなにも望んでいる私にはその力がない。意思だけじゃ何も出来ない事は理解している。しているからこそ、意思だけの私が悔しくてたまらない。
こんな気持ちのまま死にたくない。
そう、どうせ死ぬんだったら、こいつらの後で死にたい。踏みつけられるような死に方だけはしたくない。
「そろそろ仲間の下へ行ってやれ。一人じゃ寂しいだろう?」
私の頭上に剣が振り上げられたのが分かった。
幾ら強く思っても、それはたった一本の剣で断たれてしまうほどちっぽけなもの。人間の意思なんてそんなものだ。願うだけじゃ何も出来ないが、事を成すだけの力が私にはない。じゃあ、どうしろというんだ? 人の可能性に制限がないのであれば、選択肢は残っているはずだ。そうじゃなければ、私達が貧民街で育ち勝手な理由で殺されるのはあらかじめ決められていた必然となってしまう。何のために生まれてきたのか分からない。
今更、こんな事を問い返したって無駄か。
死ぬ間際になると驚くほど心が静かに落ち着くらしいけれど、浮かべた諦めの言葉とは裏腹に、私の心境は正直燃え滾っていた。この理不尽な状況が、私はどうしても受け入れられない。そして、切り開けない自分の弱さが許せない。
次の呼吸をする前に、振り下ろされた剣が私の命を奪う。それまでの間に何が出来るだろう。きっとこんな風に苛立ちを募らせる事だけだ。
奪ってばかりの生き方をしてきたから、結局最後はこうなるのか。
少しだけ、自虐の言葉が浮かんだ。
と。
「やめてもらいたいね、僕の目の前でこういう事は」
不意に、この場にいる五人の騎士とはまた別の、涼やかな声が目の前から聞こえてきた。
剣がいつまで経っても振り下ろされない。
私は上を見上げると、真っ直ぐ向けられた剣の刃を横から割って入って来た誰かの手が、信じられない事に受け止めている。振り下ろされた剣を受け止めるなんて離れ業を成しえたその手の先には、この辺ではあまり見かけないデザインの真っ青なコートを着た一人の青年が佇んでいた。
目の前で? わざわざ自分でこんな所に来たんじゃないの?
声の主である青年の言葉に、ふと私はそう頭の中で呟いた。
素手で剣を受け止めたその青年の登場は、私だけでなく他の誰もが気づいていなかったらしく、騎士達の間にも動揺が走った。登場はおろか、いつここへやって来たのかすら気がつかなかった。音も無く、まるで影のように忍び寄ってきたのだ。
「自分の意志を持たない人間に、剣を持つ資格は無い」
青年は受け止めた刃を離すどころか逆に握り込んだ。そんな事をすれば刃がめり込んで指が落ちてしまう。しかし青年の指は落ちず、逆に剣の方が中ほどから砕け、真っ二つに折れた。
信じられない行動の連続。
一体目の前で何が起こっているのだろうか?
私は右腕の痛みを忘れて、ただただ青年の行動に見惚れる。
「秩序を維持する事は、人格を蹂躙する事じゃない」
それから、瞬きする暇もないほど連続して起こる。
青年はまず、私へ剣を振り下ろした騎士へ肘を繰り出す。何の勢いもつけない、本当にただ差し出しただけのさもない一撃。けれど騎士はそれだけで大きく後ろへ吹き飛び、そのまま動かなくなった。
「貴様ッ!」
一人やられた事で闘争心が刺激されたのか、その反対隣に居た騎士が剣を抜く。
しかし、
「秩序とは人が文化的な営みを永続させるための理想型。しかし、力を持ってする維持は支配であり、秩序とは根本的に異なる」
すっと伸びた青年の腕が、騎士の右肘を押す。そのため騎士は剣を抜く事が出来ず、上半身が傾く。即座にそこへ下から鋭角に突き上げる膝蹴りが繰り出された。騎士はそのまま前のめりになって崩れ落ちた。
青年の口調は、語気こそ丁寧ではあったけれど氷のように冷たく、言い知れない激しさがあった。じっと胸の奥に怒りを秘めつつ押し殺したような、そんな印象だ。
一体、青年は何に対して怒っているのだろうか。
彼の言葉は難しくて私には理解が出来なかった。ただ雰囲気で分かるのは、私が怒っている事とは更に大きな視点での事に怒っているというものだけ。でも、そんなに違ってはいないと思う。なんとなくだけれど。
「倫理と法は密接に関係していなければならない。理解出来なければ、人は荒廃する」
青年は穏やかな風貌のまま激情を露にし、留まる所を知らない。青年はそのままあっという間に残りの騎士達をも倒してしまった。しかしそれでも息を一つも乱す事無く、涼しげな容貌を保っている。ただ、内に秘めた激しい感情だけは消えることはなかった。これだけやっても、まだ心残りがあるのかもしれない。
あまりに圧倒的だった。
何故、これほどまでに強いのだろうか。素手で訓練された騎士を五人、瞬く間に倒してしまうなんて。単なる一般人とは考えにくい。見た雰囲気も、この貧民街に流れてきたアウトローの類とも違う。
彼が何者にせよ、おかげで私は助かった。
普通だったらこう思うだろう。
けれど湧き上がってきたのは、やはり収まる事の無い怒りだった。
TO BE CONTINUED...