BACK

 好きな人のために、何かをしてやりたい。
 けれど。
 俺は無力だ。
 重い足を引き摺り、
 ただ、ぽつぽつと歩いて行く。




 やがて戻ってきた爛華飯店は不気味なほど静まり返っていた。それは店を閉めたからという意味ではなく、心情的な意味での静けさだ。静寂の中に物悲しさが漂っている。
 俺は周りの静けさに足音も合わせ、そっと爛華飯店の前に立った。毎週通って見慣れたこの風景も、今はどこか色褪せて見えてしまう。
 ここにリュネスがいる。
 そっと目を閉じると、別れ際のあの小さくなった姿、悲しみに染まった表情が克明に浮かんできた。俺はそんなリュネスを抱き締めたいと思った。悲しくて震えていても、自分が心の支えになってやればいい。
 けれど、足が進まなかった。
 俺は悲しみに暮れるリュネスを慰める言葉が思いつかなかった。心の支えになってやれる自信もなかった。口では幾らでも言えるけれど、具体的にどうすればいいのか、それを何一つ上げられないのだ。今、俺が半端な手段でなだめたところで、支えるどころか逆に傷つけてしまうだけだ。だったら……悔しいけれど、俺は関わらずそっとしておいた方がいい。
 ヒュ=レイカの話では、既に他の残党は全て始末され風無が後処理に動いているそうだ。だからリュネスを一人にしても危険に晒される事はない。
 いや、違う。
 きっと今のリュネスはもっと別の事を求めているのだと思う。突然両親を失い、これからどうしたらいいのか分からず途方に暮れているはずなのだ。だから誰かが傍で支えてやらなければいけない。でも、俺にはそれが出来る自信がない。きっと俺は何も出来ずただあたふたとしてしまうに決まっている。そして何より、そんな自分に幻滅してしまう事が怖いのだ。
「にゃあ」
 と、店の扉が僅かに開いたかと思うと、その隙間からテュリアスが飛び出し、駆け寄ってきた。俺の気配を感じ取ったようだ。
 テュリアスはいつものように身軽に俺の体を駆け上がると、定位置である左肩に乗った。
「リュネス……は?」
 その問いに、テュリアスは目を伏せて頭を振るだけだった。まだ悲しみのあまり途方に暮れているのだ。痛々しいほどに心を傷つけられ、絶望の淵に立たされて。
 やはりリュネスの元へ行こうか? でも、一体何が出来る? 無神経な言葉と態度で傷つけるだけじゃないのか?
 そして、俺はしばらく悩み抜いた末。
 俺は自分の部屋のある夜叉の宿舎へ向かった。
 結局、逃げているだけかもしれない。リュネスを助けてやれない。支えてやれない。自信がないから。そう言い訳し逃げているだけだ。けど、事実俺はそうなのだ。そんな無力な存在。
 リュネスを襲う敵を倒す強さはある。けど、それ以外の力はなんら持っていない。今、最もリュネスに必要なのは心の支えになる強さであり、そして俺はそれを持っていない。精神論ではどうにもならない、背けようのない現実だ。俺にはレジェイドやルテラのように、誰かを助ける事が出来るほどの強さはない。
 理想論では何も出来ない事を、俺は北斗に来てからのこの二年で嫌というほど思い知らされた。もし自分が何かをしたければ、ただ黙って願うのではなく、それに向けての現実的な行動を起こさなければならないのだ。俺は、戦う力と自分が自分として生きるための力しか磨いてこなかった。人に何かをしてやれる強さを俺は持っていないのだ。そんな余裕はなかったのだから。それは今も同じ。その証拠に、未だに俺は安定剤を手放せない。
 と。
「シャルトか?」
 自分が歩いている事も忘れるほど思慮に没頭し、ただひたすら歩き慣れた道を進んでいたその時。
 ふと降りかかった声と共に顔を上げ、視線を向けたその前方に、いつの間にか一つの人影が俺の行く先に立ちはだかるように立っていた。そのシルエットは女性のそれだったが、女性にしてはずっと背が高く、腰あたりまで伸ばした漆黒が薄闇の中でも鮮やかに輝いて揺れている。
 その姿はあまりに特徴的で、影の主が誰なのかすぐに分かった。凍姫のリーシェイだ。
「どうしてこんな所に。今は厳戒態勢だというのに」
 リーシェイがつかつかと目の前に歩み寄ってくる。足も長いので、その接近も早い。
「ん?」
 ふと、リーシェイが何かに気づいた表情を浮かべた。リーシェイはそのまま俺のすぐ目の前まで歩み寄る。
 俺はリーシェイが苦手だった。その唐突な接近に思わず後退るも、それよりも早くリーシェイの手が伸びて俺をすぐ傍へと引き寄せる。そして左手が俺を押さえたまま、右手が顎をつまんで上を向かせる。
「なんだなんだ、こんなに返り血で汚れて」
 返り血? そうか、さっきので……。
 リーシェイはハンカチを取り出すと、必要以上としか思えない距離まで顔を近づけ、覗き込みながら俺の顔を拭き始めた。
「何をしていた? せっかくの私好みが台無しではないか」
「……別に」
 顔は動かせないため視線だけをそらす。どうしていつもいつもこうやって顔を近づけたりするのだろうか。第一、私好み、ってなんだ。
 これが俺がリーシェイを苦手にする理由だ。こうしていつも必要以上のスキンシップをしたがるのだ。
「上着はどうした? こんな格好では寒かろうに」
「……別に」
 そういえば、上着はリュネスの所に置いたままだった。今更取りに行くのもあれだし……。まあ、代えのがまだ二つあるから問題はないか。
「私に隠し事をするのか? 面白い。ならゆっくり聞き出させてもらうとしよう。寝物語にでもな」
 じっと意味深な眼差しで見つめてくる。
「随分と冷たくなっているぞ? 私が温めてやろう」
 俺は再び後退さった。しかし、リーシェイの左手が背中を押さえているため、幾ら逃げようともリーシェイが、特に顔が追ってくる。逃げるのを急ぐあまり、体が後ろのめりの不自然な体勢になった。そして転びそうになった時、リーシェイの左手に重心を奪われる。その逃げようのない体勢を好機と見るな否や、リーシェイが更に顔を近づけてくる。
 と。
「ガーッ!」
 鼻先が触れそうなほどの距離まで近づいたその時、突然テュリアスが唸り声を上げて、リーシェイに牙を向いた。思わずリーシェイが怯む。俺はその隙に俺の重心を支えている左手を振り切って大きく後ろへ逃れた。
「残念。瘤つきを忘れていたな。噛みつかれてはたまらない」
 にやりと苦笑いを浮かべるリーシェイ。まるでゲームの駆け引きを楽しんでいるかのような表情だ。
 ……まったく。
 どこまで本気なのか分からない。一体何が目的なのか―――いや、大方分かってはいるんだけれど、だからと言って……なあ……?
 ―――その時。
「伝令」
 突然、リーシェイの背後に黒装束に身を包んだ一人の人間がどこからともなく現れる。風無の人間だ。
 風無は風を用いた戦闘術の他に、独自の情報収集ネットワークを用いて必要な情報を集めたり、急時の際に戦況をリアルタイムで報告する事を役割としている。
「何かあったか?」
 振り返って訊ねるリーシェイに、風無の黒装束はぼそぼそと小さな声で囁くと、また音も無く走り去った。俺も足の速さには自信はあるのだが、それとは比べ物にならない、まさに突風のような動作だ。
「悪いが、今、少々取り込んでいてな。また次の機会にでもじっくり相手をしてやろう。一晩中な」
 そう言って意味深な笑みを浮かべると、リーシェイもまたその場から走り去った。
 再び周囲に静寂が戻った。
 風の噂で、凍姫のあの三人が守星で無償奉仕させられている、と聞いたが。どうやら本当のようである。日頃から問題ばかり起こしていたし仕方のない事ではあるけれど、あんな三人に守星なんて重要な役目を任せていいものか、甚だ疑問だ。
「さて、帰るか」
 俺は再び宿舎に向けて歩き出した。
 本当にいいの?
 ふと、左肩のテュリアスが訊ねてきた。
 リュネスを放っておいたままでいいの?
 しかし、
「俺じゃ、何も出来ないから」
 力ない声でそう答えるしか、俺には出来なかった。
 酷く、苦い言葉だ。



TO BE CONTINUED...