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恐れず。
怯まず。
考えず。
ただ前進する事だけを続けてきた毎日。
この三ヶ条を厳守しなければ、戦いに勝ち続ける事は出来なかった。
人生とは戦いの連続。
それは直接的な意味だけではなく、比喩的にも同じだ。
勝利を重ねる事は、それだけで自らの、そして周囲の設計に大きく影響を及ぼす。
だからこそ、何事にも打ち勝つ事は非常に重要だ。出来る限り理想的な人生を送るに越した事はないのだから。
そして、今。
最強とも思える『敵』が目の前に。
かつ、かつ、かつ。
テーブルを打つ、レジェイドの指先。
ぎんと空気が冷たく張り詰めている。まるで喉元に刃物を押し当てられるかのような、大概の人間が送る日常の中には決して存在し得ないはずの尋常ならぬ威圧感が、周囲に隙間なく充満している。
そこは西区のとある喫茶店。幾つか乱立する喫茶店の中でも独自のブレンドコーヒーを売り物とする店。その一角に、彼ら三人は陣取っていた。
「で、他に言う事は?」
じろりと針のように鋭い視線を浴びせるレジェイド。
彼は普段は明るく面倒見のいい性格ではあったが、今はまるで別人のように殺気立っていた。この冷たい空気や喉に纏わりつくような息苦しさは全てレジェイドが作り出しているものだ。
「い、いえ、そういう事で……ハイ」
テーブルを挟み、相対した位置に座るスファイルは肩を強張らせ小さく固まっている。徹底した自分主義者で如何なる人間を前にしようとも態度を崩さない、ある意味豪胆な人間であるのだが。今はその面影は微塵もない。まるで籠の中の鳥、いや、昆虫だ。
その一角は、まるで喫茶店の中から切り離された別の空間のようだった。平穏という白い紙の中に地獄という名の黒いペイントを施したかのように、くっきりと分かれた明暗の具合が奇妙なほど日常と非日常を溶け合わせている。
スファイルの傍らに座るルテラは、あれほど自信に溢れていたにも関わらず今となっては卑屈さを絵に描いたような姿に落ちぶれてしまったスファイルに溜息をつく気にもならず、ただひたすらコーヒーをかき回していた。表情には薄っすら疲労感が漂っている。
「俺とお前、一面識もないって訳じゃないよな?」
「そ、そうでしたっけ……?」
はは、と引きつった笑みを浮かべるスファイル。しかし、すぐに上から叩き潰さんばかりの重い視線をレジェイドから貰い、首を締められたかのようにすぐさま口を閉ざす。
レジェイドとスファイルは共に頭目であり、週ごとに北斗統括部で行なわれる定例会議では何度も顔を合わせていた。ルテラも頭目ではあったが、兄と顔を合わせる事をしたくなかったため、これまでは代理を立てていた。スファイルは一応代理を立てずに会議には出席していたが、退屈でしかないそれをまじめにこなすはずもなく、結果的に出席している各流派の頭目の顔などほとんど憶えてはいない。
「まさか初めてする会話がこれとはな。分からんものだ」
「本当ですねえ……」
もはや完全に顔の筋肉が硬直し、意図して笑みを浮かべる事も出来なくなっている。声も、ほとんど喋っていないというのに老人のように掠れてしまっている。
「まあ別に俺は、最初の挨拶で『同棲シマス』などと戯けた事を言われただとか、テメエにこれから先お兄さん呼ばわりされるのが気に入らないとか、そんな事を言ってる訳じゃねえ」
と、レジェイドはテーブルを叩いていた指でティースプーンを取る。
「ルテラは、この世でたった一人の大事な大事な妹だ。それは分かるよな?」
そうレジェイドに凄まれ、スファイルは張子のように首を上下に振る。
張り詰めた空気の中、ルテラはテーブルソファーに背を預けて足を組み、どこか二人の議題とはまるで無関係な表情をして終わるのを待っている。
「どいつと付き合えとか、そんな事まで口出しする権利はないが。正直、俺は自分の知らぬ間に掠め取るような真似をする人間と大事な妹が付き合ってると思うと吐き気がしてな」
レジェイドは指で弄んでいたティースプーンを中指の上に乗せると、その両サイドにそれぞれ人差し指と薬指を乗せる。そのまま、ぐにゃりとくの字にティースプーンの柄は折れ曲がった。
「おまけにそいつは、北斗でも有名な変態のお前だと? 弟は総括部に勤めるエリート中のエリートだっていうのに、よりによって愚兄だ? 悪い冗談としか思えねえな」
レジェイドの指に弄ばれ、ティースプーンがどんどん小さく丸められていく。手のひらほどの長さがあったスプーンは、見る間に小さな銀色の塊に変わってしまった。
スファイルの弟、エスタシアは、人々からは『神童』と謳われるほどの非凡な才覚を幼少より如何なく発揮している優秀な人物だ。現在は史上初めて十代での就任となった、北斗統括部に勤めている。スファイルとは全く正反対の意味での有名人である。
「あ、あの……僕の事はやっぱり嫌いですか?」
「今すぐ殺したいくらいだ」
レジェイドはそっと凄惨な微笑を湛えて答える。スファイルは背筋にぞっと悪寒が走り、思わず身を震わせる。
本気だ。
スファイルは戦慄する。
今までレジェイドを完全に蔑ろにしていたツケが回ってきたと思えば納得はいくし、必ず友好的に受け入れてもらえるとは考えてなかったから、ある程度の覚悟は決めていた。しかし、これほどあからさまな殺気を浴びせられるとは思ってもみなかった。こんなに凄まじい殺気を受けるのはこれまでで初めてかもしれない。そうスファイルは思った。
「と、まあ。冗談はこれぐらいにして」
レジェイドは丸めたスプーンをテーブルの上に置いた。
今のが本当に冗談なのだろうか? スファイルは疑問に思わずにはいられなかったが、そこを突っ込むと本当に冗談では済ませてくれなさそうなので飲み込んでおく。
「あの抗争が終わってからさ、ルテラがよく笑うようになったんだよな。それもお前と付き合ってからなんだろうが。まあ、俺はルテラが幸せならそれで構わんさ」
そしてレジェイドはようやく温かな笑みを浮かべた。
場の空気が一気に緩む。冷たく凍えていた空気は溶け、首に絡みつくような威圧感もない。一気に緊張感が抜けたスファイルは、急に額から汗がぼたぼたと噴出した。
「言っておくが、泣かせたら殺すぞ?」
「それだけは、誓って」
冗談めかせてはいるが、レジェイドの言葉は本気であるとスファイルは思った。レジェイドにとってルテラという存在がどれほどのものか、今の殺気だけで十二分に理解した。自分の気持ちに偽りがある訳ではないが、良く人からもそんな行動が『自己満足』と酷評を受けている。だからこれからは、決して自己満足に傾かないようにしなければならない。それが自分達の幸せのためでもあり、引いては自分が天寿をまっとう出来るか否かにも大きく左右する。
「僕はもう誠意あるお付き合いをさせて貰っている訳でして、ふしだらな気持ちはこれっぽっちも持ち合わせていません」
「そうか? あんまり信用がならねえんだが。ま、これからちっとは信用してやるさ」
やはり完全には信用されてはいないようだ。それを露骨に目の前で言われたので思わず苦笑を隠せなかった。けれど、面と向かって言うのは言葉ほど信用されていない訳でもない、とスファイルは楽観する。第一、ルテラがあきれてしまうほど過保護な人間なのだから、本当に信用していないのであれば自分は今頃病院のベッドの上か墓石の下にいるはずだ。
「ところで。ルテラは寝相が悪いから大変だろう?」
ふと、レジェイドはコーヒーに口をつけながら、何の気なしに軽い口調でそう問うた。
「いえ、全然そんな事はありませんよ。とってもおとなしくて、まるでお人形のようですし」
スファイルはすぐさま、少しでも好感度を上げようとはっきりとした明るい声で正直に答える。こういった積み重ねが自分の信用に繋がる。そこまでスファイルは考えていなかったが、ただ少しでもレジェイドに気に入られようという意思は少なからずあった。
しかし。
びしり、と音を立てそうなほど、再び周囲の空気が凍りつく。あの首をねっとりと蛇のように締め付ける威圧感も戻ってきた。
レジェイドは一気にコーヒーを飲み干し、テーブルの上にカップを置く。しかし、そのカップは今にも形が崩れそうなほどの亀裂が無数に走っている。それは、カップの類を取っ手ではなくほとんど本体そのものを持つクセのあるレジェイドが、不意に漲った力によって握り締められたからだ。
「あ」
何故、レジェイドは怒ったのだろうか?
慌てて考えたスファイルは一つの解答に辿り着き、そんな間の抜けた声を一つ、上げた。そして、レジェイドが席から立ち上がったのはほぼ同時だった。
レジェイドはにこやかな笑顔を浮かべていた。しかしそれが作り笑いである事は一目瞭然で、こめかみの部分には薄っすらと青筋が浮かんでいる。そんなレジェイドに上から見下ろされ、あはは、とぎこちなく笑うスファイル。レジェイドは凄惨な笑みを浮かべたままおもむろに手を伸ばすと、スファイルの襟元を力強く掴み上げた。
「ちょっと来い。大事な話がある。なあに、すぐに済む」
強制的に立たされたスファイルは、そのまま成すがままにレジェイドによってずるずると引き摺られていった。その光景をあからさまに見やる者はいなかった。皆、空気を読んでいたため一斉に視線を伏せたのである。
二人の姿が店からなくなり、間もなく。ずしーん、と店の裏から建物が揺れるほどの音が聞こえてきた。同時に悲鳴が聞こえた気もするが、店内の人間は聞かなかった事にする。
ホント、いつまでも子供なんだから……。
ルテラは遂に溜息を漏らし、コーヒーに口をつけた。
ずしーん、と再び建物が揺れる。ルテラのコーヒーの水面に、小さな波を作った。
TO BE CONTINUED...