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「や、レジェイド」
昼休みはまだ一時間近く残っていた。
北斗の昼休みは一時間半と長い。それは、日常的に外敵に晒される緊張状態が続くため、せめて昼休みぐらいはゆっくり過ごそうという配慮から始まったらしい。まあ、昼食を食べてのんびりするには丁度いい。
いつもなら、昼食を取った後に街をぶらぶら歩いてみたり、馴染みの所へ顔を出してみたりして過ごすのだが。今日は珍しく、まっすぐ夜叉の訓練所へ向かっていた。基本的に俺は仕事と休息はきっちり区分けするタイプなのだが。今日ばかりは、そんなゆっくりしているような気分にはなれなかった。
多少、気分が苛立っていた。
そのせいでたった先ほどの出来事に思考を占領され、周囲の気配の変化に気がつけなかったのか。
突然現れたそいつに、今回もまた俺は不意を突かれた。
「ああ、お前か」
普段ならもう少し声を上擦らせたりするんだろうが。俺の声はいまいち人間らしい感情の抑揚に乏しかった。
理由は二つある。
今の精神状態が決して愉快にはなれないほど張り詰めていること。そしてもう一つ、いつもなら絶対に常識的な範疇には収まらない登場の仕方をするこいつが、ごく普通に真正面から現れたからだ。
「なんか元気ないね? 表情が硬いよ」
そう、ヒュ=レイカは俺に問い掛けてきた。
うるせえよ。
頭ごなしにそう怒鳴りつけてやりたかったが、俺は軽く視線を向けるだけにした。
俺は普段とはまるで違う意味でヒュ=レイカを警戒していた。自然と不信と警戒の壁を間に築き、それを挟む事で客観的に観察し、相手の心内や表面を撫でただけでは知り得ないものを読み取る。それはまさに、未知の敵に対するそのままだった。
これまで、ヒュ=レイカは親友とまでは呼べないものの、守星の中では妹のルテラを除くと一番馴染み深いヤツだった。向こうが単に面白そうな人間と積極的に付き合おうとしているだけなんだが、俺としてもこいつの舌を巻く情報の速さには何かと重宝している。
親しい関係ではあるのだが、それだけに警戒心は強かった。顔見知りに対して猜疑的になるその原因は、言うまでもなく先ほどのくだりだ。
北斗を現体制を崩すため、具体的な戦略と共に、既に北斗の幾分かを掌握しているという事実。具体名を出してくれなかっただけに、これまで一つとして気づく事が出来なかった以上、俺の周囲の誰が抱き込まれているのかまるで予想がつかない。言ってしまえば、俺の見知った人間がいつの間にか全て敵になってしまっていたとしてもおかしくはないのだ。
今は誰も彼もが敵に思えてしまう。疑いの対象はこいつも例外ではなく、どちら側の立場に立っているのかを明確に見極める必要があった。とは言っても、いきなり露骨な警戒を示してはかえって自分の立場を危うくしてしまう可能性もある。だから最初は普段通りに接しつつ、相手の行動に監視の目を光らせるのが最良なのだが。思考は冷静に判断してはいたものの、どうしてもヒュ=レイカの見知り過ぎている顔のせいか、つい感情を表に出してしまった。気がついたときは既に遅く、今更取り繕おうとしても遅過ぎるという事だけを悟る。
「もしかしてエスの事?」
ヒュ=レイカは刺し込むような鋭いタイミングで新たな問いを投げてくる。
言い出し辛かった事を直球でぶつけてきた。隠していたつもりの的を射られた事で、思わず俺は苦笑いを浮かべる。たとえ隠し通せなかったとしても、もうちょっと遠回しな言葉で慎重にやりとりをしたかったのだが。
「相変わらず鋭いな」
「まあね」
苦笑いの俺に、ヒュ=レイカは僅かに口元を綻ばせただけで返した。その表情、気のせいか、どこか俺と同じように目の前の人間を警戒しているように見える。まさかヒュ=レイカは既に北斗側の人間ではなく、現体制の存続を求める俺を敵と見なしているのだろうか? となると、少々厄介だ。人を食ったように小生意気なガキだが、守星を勤め上げるその実力は紛れも無く本物だ。
この場で殺し合いになってもおかしくはない。たとえ水面下とは言えども、今の北斗は二つの派閥に分かれている。以前、流派『雪乱』と『凍姫』が同じような抗争を繰り広げていたが、これはまるで桁が違う。雪乱と凍姫は所構わず戦いはしたものの、決して一般人には迷惑をかけなかった。相手にも怪我は負わせても命まで奪ったりはせず、ある種スポーツの延長線のようなものだった。しかし、この北斗を二つに割る抗争は、今後の北斗の方向性を決定付けるような大規模なものだ。敗者が必然的に悪と見なされてしまう以上、細かな規定などいちいち設けて戦闘を行うはずがない。許可不許可ではなく、可能性で全ての行動が決定付けられてしまうのだ。極端な事を言ってしまえば、自分が勝つためならば誰が犠牲になろうとも構わない。それだけ切迫した状態なのだ。
剣は訓練所に置いてきた。もしも事を交えるとしたら、ヒュ=レイカを素手で相手にするには少々厄介だ。こいつの得意とする術式は雷撃。絶縁体でも媒体に用いなければ、攻撃そのものを防ぐ事は出来ない。仮に実力を五分と考えると、得物の無い俺が不利か。
ここまで来たら、もはや隠しても仕方ない。
ヒュ=レイカが敵であろうとも味方であろうとも、なんとかこの場を乗り切ってみせる。戦う事になれば、さっさと逃げてしまって後から臥薪嘗胆の信念で雪辱を晴らせばいい。そう密かに腹を括る。
その一方で。
ヒュ=レイカの表情もまた優れなかった。いつもならもっと、してやったりと得意げな顔をするはずなのに。こんなしおらしい表情を目にするのは、もしかすると初めてかもしれない。
敵じゃないのだろうか? それとも、今はまだ事を交える気にはなっていないだけなのか。
こいつが得意なのは相手を騙す事だ。いつ転じてくるのか分かったものではない。油断だけはしないよう、厳しく理性を構えておく。
「単刀直入に訊ねる。お前はどっちだ?」
いつでも対応できる心構えを作りながら、そう慎重にヒュ=レイカに問いかける。
すると、
「そっちこそどっちなんだよ?」
すぐさま意外な答えが返ってきた。
ややムッとした顔のヒュ=レイカ。俺はどんな顔をして良いのか分からず、ただ眉間に皺を寄せて表情をしかめる。
そして訪れる不思議な沈黙。
互いの思惑がゆっくりと浸透するまでの奇妙なタイムラグ。相手の思惑の詮索と理解とが同時に進行する。
間の抜けた理由で硬直している俺達の姿は実に滑稽だった。傍からは、痴呆同士の気の長いじれったくなるような会合にも見えたかもしれない。
こうし始めてから、一体何度呼吸しただろうか? 少なくとも、日中の街中で何もせずボーっと突っ立っているには長過ぎるだけの時間を要してしまった事を感覚的に思い出す。
ようやく導き出した結論。それを頭の中で何度も反芻し検算しながら、ゆっくりと口に出す。
「お前はこっち側か?」
さしたる確信がある訳ではないので、必然と言葉には自信がなくどこか弱い。だが、その自信の無さが逆にヒュ=レイカにとって疑問に対する確信となったらしく、急に表情を緩めると、やれやれとでも言わんばかりに大きな溜息をついた。
「そっちもこっち側だね」
どうやらやり合わなくて済んだか。安堵の気持ちと一緒に、俺も続いて大きな溜息をついた。
ヒュ=レイカは、エスタシア、もしくはそっち側の人間との接触をした上で、こちら側につく事を選択したようだ。俺も全く同じ経緯でこちら側を選択した訳だから、俺達は現体制の維持を望む味方同士という事になる。早い話が、これまで通り北斗の秩序を守る戦闘集団『北斗』の一員として、何一つ変わらない訳だ。
「まずい事になったみたいだな」
「そうだね」
ヒュ=レイカと顔を見合わせ、そしてもう一度溜息をつく。今度の溜息は安堵ではなく、憂鬱の溜息だ。
「お前の事だ、結構詳しい情報なんか持ってるんだろ?」
「そうだね。首謀者はエス、目的は北斗の旧体制を一掃して自分が新しい体制を作る事、戦力は不明だが目的を果たせるぐらいの規模は保有していると思われる、ってトコかな?」
「俺の知ってる範囲ばっかりじゃねえか」
「しょうがないだろ。僕だって持ちかけられたのは昨日の今日だったんだから」
まだこっちも気持ちの整理がついていないんだ、と言わんばかりの不満げな表情。
ふと、ヒュ=レイカの小憎らしい以外の表情は久しぶりに見たな、と俺は思った。今回の件で受けた衝撃は、見た目よりもずっと大きいらしい。普段動揺させる立場の人間が動揺すると、かくも落ち着きを失うものなのか。
「ずっと前に確か、お前が俺に訊いたことあったよな? 『夜叉は変な事を企んでない』って。それはもしかすると、今回の事と繋がるのか?」
「そういうことになるかな。でもあの時は、どうやらまんまと偽情報掴まされたみたい。それに、まさかこんな大規模で、しかも身内が首謀者になるなんて。さすがに予想すらしなかったよ。情報通の僕がしてやられたね」
ヒュ=レイカはぺろっと舌を出して肩をすくめる。
こんな軽い調子で言ってはいるが、これでもヒュ=レイカは人を騙す事を趣味として公言するほど悪知恵の働くヤツなのだ。そこに天性の情報収集力を持っているから始末におけない。だがエスタシアは、そんなヒュ=レイカと親しく付き合っていながらも本性を知られずに着々と、何年にも渡って準備を続けてきたのだ。あの笑顔、優等生的態度は、皆を騙すためのフェイク。それもヒュ=レイカすら騙し続けるほど徹底したものだったのだ。それを考えると、半端に強いだけのヤツよりもずっと恐ろしく思える。
「正直、今回ばかりは参ったな……」
「やり辛い? 義理の弟相手じゃ」
「そういうのは冗談でも止めろ」
悪かったよ、とヒュ=レイカは顔を伏せる。
しかし、傍から見ればそういう構図にもなりうる事を改めて俺は自覚した。
エスタシアと俺は、守星の人間以上に関係が深いかもしれない。あいつの兄は、俺の妹の婚約者だった訳だ。スファイルは五年近く前に死んでしまったが、エスタシアが義理の弟の弟とは呼べなくも無いだろう。そういう意味での身内を討つのは、幾ら俺でも少なからず躊躇いを感じてしまう。
だが、一番辛いのは他でもない、ルテラだ。
俺以上に善悪の判断力があるルテラが、過激なやり方を用いるエスタシア派に傾くとはどうしても思えない。だが、義理の弟に味方したい気持ちは絶対にあるはずだ。それがスファイルの遺志に反すると知っているからこそ、ぎりぎりの所で踏み止まり、そのせいで苦しむ。
あまりにルテラが哀れで仕方なかった。自分が添い遂げようとした男の弟がそんな凶行に出れば、どれほど傷つくのか。ほんの部外者にしか過ぎない俺にはとても想像がつかない。
絶対に止めてやる。
俺はそう誓った。
それが唯一、してやれる事なのだ。
他に何も出来ない自分に無力さを感じる。どれだけ良い兄を演じようとした所で、俺の取り得はたった一つ、戦う事だけなのだ。だから守るための戦いを、確実に勝っていかなければならない。勝つ事でしか己の意思を通せないのがヨツンヘイムだ。エスタシアのやろうとしている事が間違っていると証明するならば、兎にも角にも絶対的な勝利を俺は掴み取らなくてはいけない。
「っと、そろそろ僕は行かなくちゃ。また何か新しい情報が入ったらすぐに連絡するよ」
「ああ、頼む」
軽く手を振って、突然、文字通り目の前から消えてしまったヒュ=レイカ。なんちゃらという伝統的なトリックを応用したマジックの一つらしい。普通に行けばいいものを、わざわざそんなこった真似をする辺り、やっぱりあいつらしいなあと微苦笑する。
「ホント、頼りにしてるぜ」
姿の見えなくなったヒュ=レイカに対して、そう俺は呟いた。
正直、ヒュ=レイカが味方で良かったと思っている。北斗史上最年少の頭目にもなった実力は勿論のこと、その情報収集能力は、今は途絶えてしまった流派『風無』に代わって貴重な情報源である。これだけの戦力が敵に流出してしまうのは、あまりに大きな痛手だ。敵に回したくない、とはまさにこの事だ。
まあ、ヒュ=レイカはなんだかんだ言って物事の善悪をきちんとわきまえているヤツだ。だからこそ、エスタシアの誘いを受けても乗らなかったのだろう。一度誘いを受けていながらも真っ向から断った味方というのは非常に頼りになる。
「そう言われると照れちゃうなあ」
背後から唐突に聞こえてくる声。
慌てて振り返ると、そこには普段のクソ生意気な顔があった。
一挙動の内に正拳を放つ。しかし、それはものの見事に空を切った。
TO BE CONTINUED...