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慟哭、一つ、二つ、三つ。
聞く者の魂までをも引き裂きそうなその声を、私はただただ諦観していた。
どうにもならない事がある。
世の中ってのは割と不都合な事が多過ぎて、こと人間関係に関しては思い通りにならない事ばかりだ。
けれど、私は自分の気に入らない事に関しては、いつも最後まで悪足掻きをし続けた。微妙に不幸かもしれない自分の境遇にもめげなかったし、ムカついた事には精一杯意思表示をして突っ張り、絶対に甘受しなかった。
私は正しい。
そう思わなきゃ、この弱肉強食の世の中では生きられない。自分の意志を貫けた人間だけしか幸せは手に出来ないのだ。少なくとも私はそう思っている。
障害には力の限りぶち当たる。それで道は開ける。
私の人生はその連続だった。
でも。
私が幸せを掴ませてあげようとしていた、その娘。
こんな時、一体私はどうすればいいのだろうか?
ぶち破る事しか出来ない私には、分からない。
「嫌ァァァァァァッ!!」
戦慄とした夜の闇に、その叫び声は静寂を切り裂きながら鳴り響いた。
それまで怒りだけに染まっていた私の頭が急速的に冷やされていく。あれほどの煮えたぎっていた闘争心も、それに連れて一瞬の内に消え去ってしまった。
私の視界の遥か先で、小さな体を更に小さく強張らせて座り尽くしている女の子、リュネス。そのリュネスは、ぐったりと力を失っているボロ布のようになったシャルトの体を掻き集めるように抱き抱えている。
いつもニコニコしていて、決して前に出て自分の意見を主張せずおとなしく、ちょっとした冗談でもすぐに顔を真っ赤にしたりするような本当に可愛らしい娘なのだけど。今ではまるで見る影も無く、堰を切ったように泣き叫びながら強くシャルトの体を抱きしめる。大きくて可愛らしい目をぎゅっとつぶるも、その間を割って次から次へと大粒の涙は流れ出てくる。その涙はシャルト自身の血と混ざり、異様なマーブル模様を頬に描いていく。
「哀れな……」
そう、私の前に対峙する『怠惰』が白々しい言葉を放った。
「神は御許へ向かった魂を等しく愛します。人は死して尚、虐げられる事はありません」
そして、『怠惰』は私が目の前に居るにも関わらず、まるでその存在を無視するかのようにリュネスの方へと向き直る。
「苦しむ哀れ子を救うのもまた、御心の神事」
ゆっくりと『怠惰』が右腕を掲げる。と、周囲に膨大な魔力の流れを私は感じた。魔力は無数の光の粒へ形を変え、掲げた『怠惰』の右手のひらに集まる。そして大きな光の球体が体現化された。
「待てっ!」
その光景を、ただ黙って見ている私ではない。
膨大な魔力によって体現化された術式の行方がどこであるか、それは今更言うまでも無い事だ。そしてそれを、何もせずやらせたいようにやらせておく理由は存在しない。集められた魔力の規模はあまりに大きく、私が本気を出した時の軽く倍はある。それほどの術式を何食わぬ顔で『怠惰』は行使したのだ。これだけで自分との実力差を知るには十分だけれど、私は決して怯まない。そのまま恐れず、足を踏み出す。
失った右手の代わりを勤める、精霊術法で作り出した私の右義腕。私は脳裏にイメージを描き、その右腕を思い切り握り締めて振りかぶった。
「させるか!」
右拳を躊躇い無く後ろを向いたままの『怠惰』の背へ繰り出す。同時に、描いたイメージを開放し右腕に乗せて加速させる。
与えたイメージは、全ての存在を懲伏し力ずくで捻じ伏せる事が出来る、鬼族の持つそれと同じ猛るような豪腕。
イメージを受けた私の右腕は、これまでのか細いディテールが崩れて思い描いた通りの大きく逞しい姿へと変貌する。その腕周りは軽く私のウェストほどもあり、腕そのものが氷だけで構成されているという生物には決してありえない形態に変質している。しかし氷特有の冷たさを術者である私は感じないが、全てを凍りつかせるような凄まじい凍気に溢れている。
だが。
次の瞬間。そんな軽い音を立てて吹き飛んだのは『怠惰』の頭ではなく、襲い掛かった私の右腕の方だった。
「くっ!」
私は右腕に振られた反動で崩れた体勢を、右足を咄嗟に踏ん張る事でなんとか耐え持ち直す。そのままバランスを取り戻すと、素早く背後へ跳躍しその場から逃れた。
精霊術法で体現化している私の右腕。それは恒久的な体現化であるため、通常の術式よりも遥かに魔力同士の結びつきが強い。つまりは単純に強制破壊が非常に難しいという事だ。これまでも私は様々な戦闘を繰り返してきたが、まだ一度も腕を強制的に破壊された事は無い。その事実は腕の耐久性を保障する一つの事実でもある。にも関わらず、この『怠惰』は何の事も無かったように私の腕を破壊してしまった。それも直接手を触れずにだ。
途端、私の体が再度脱力して地面に倒れるように膝をつく。すぐに立ち上がろうと力を込めても、まるで自分の体ではなくなってしまったかのように思うように動かす事が出来ない。さっきも食らった、『怠惰』の術式だ。どういうカラクリなのかは知らないけれど、少なくとも私の行動を著しく制限するものに代わりは無い。
「神に刃を向ける事、これ、あたわず」
そう『怠惰』は何事も無かったかのような表情でこちらを見る。その余裕に満ちた物静かな表情に、私は思わず憎々しげに奥歯を噛み締め『怠惰』を睨み返す。それが今の私に出来る唯一の反抗だった。
浄禍八神格は、その強大な力のために”人間の範疇を超越した存在”と言われている。彼女らが暴走状態を飼い慣らす要因にしているという信仰というものは、人間を創造した本人であると呼ばれる『神』という存在が念頭に置かれている。彼女らは自らを『神の代現者』と称しているが、これだけの力の差を見せ付けられるとあながち嘘ではないような気になってくる。人間が人間を超えるなんて事は決してありえない事は分かっているのだけれど。それを持ち出してこなければならないほど、この力の差は説明がつかないのだ。
まずいな……。
私は再び乱れ始めた呼吸をゆっくりと整え始めた。
体力にもはや余裕は無い。同様に精神的にもかなりきている。そっと右腕にイメージを描いてみるも、やはり義腕は体現化されない。もう一歩踏み込んでみれば出来るかもしれないけれど、そこはレッドゾーン、精霊術法を行う者として踏み込んではいけない領域だ。
周囲に目を走らせると、他の八神格もまた一様にリュネスの方へ姿勢を向けていた。同時に、これまで『光輝』『聖火』『断罪』を抑えていたリーシェイ、ラクシェル、ヒュ=レイカは大きく息を切らせて疲労の色濃い姿をさらしている。初めの内は押さえつけることが出来ていたようだったが、結局はそれも不意を打っての内だけ。真っ向からぶつかりあった実力差の前に、幾ら流派トップクラスの実力を持っているとしても為す術が無かったようである。
「救済の代行こそが我が信仰の道、そして弛まず輪転する『天命』なり」
そして『断罪』と並んでいた『天命』もまた、同じように掲げた右手のひらに膨大な量の魔力を集めると、高密度の眩しい光の球体を体現化する。
ちくしょう……! なんだこいつらは!
何も出来ない私は、思わず理性を切らせて悪態をつきたい衝動に駆られた。
せっかくリュネスの暴走が止まり、『断罪』が体現化したとんでもない威力を持つあの術式からも助けられたというのに。五人全員が一度にこれほど術式を行使してしまえば、リュネスは一瞬でこの世から消されてしまう。
浄禍八神格に真っ向からケンカを売ったのも、全てリュネスを救い出すためだ。この場に居る私達にとって、それだけリュネスは大切な存在なのだ。あの、生き腐れかけているシャルトはボロ布のようになるまでリュネスを守り、戦った。そうなるまで戦うなんて、並大抵の覚悟では出来ない。たとえシャルトが重度の麻薬中毒患者だった後遺症で、痛みを全く感じない体になっていたとしてもだ。痛みを感じない事が覚悟を水増しする訳ではない。自分が日常的な戦いに身を置いているだけに、戦闘のリアリズムというものは人並み以上に知っている。
みんな、リュネスの事を助けようとして必死だった。何もかも投げ打ってでも守りたいほど大切な存在なのだ。それは誰かのためだったり、自分のためだったりと、目的に多少の差はあるかもしれないけれど。私は目的を共有していると硬く信じている。しかし、現実は非常に厳しい。決意こそ暗黙の内に固く結束されてはいるものの、私達はリュネスを助ける事がかなわない。それも単純な力の格差でだ。意思が折れた事で諦められるならば、不謹慎ながらまだ納得はいっているのかもしれないが。意思は誰一人として折れてはいない。けれど、単純に力が足りなさ過ぎるのだ。その事実が酷く残酷に突き刺さる。
一体自分はどうすればいいのだろうか?
我を忘れて泣き叫ぶリュネスに、今の私にしてやれる事はない。リュネスの両親は私が殺してしまった。その罪滅ぼしのために、私はリュネスが幸せになれるよう精一杯力を尽くした。罪滅ぼしというのは丁度いいお為ごかしかもしれないけれど、それが不器用で戦う以外に何の取り得もない自分に出来る唯一の奉仕なのだ。だからこそ私は、リュネスのために、そして自分のためにも今日までリュネスに尽くしてきた。だがそれが、最も最悪な形で断たれようとしている。浄禍に処分される。まるで不必要な生活廃棄物を処理するように、極めて事務的にだ。
許せない。
けど、それを主張する力が私にはない。呪うことも出来るけれど、それでは何の解決にもなりはしない。
私は思わず何かに祈った。
生まれてすぐに両親に捨てられた私は、ずっと現実の中だけで生きてきた。明日の夢よりも今日の食料を求めて、ひたすら貪欲に自分で得る事にこだわり続けてきた人生を送っていた。けれど、そんな私が初めて訳の分からない何かに気持ちだけでも頼ってしまった。もはや、リュネスを助けてくれるのであれば誰だっていいのだ。諸流派の人間であれ、極悪な犯罪者であれ、信じ込む馬鹿しか救わない神であれ。
力が入らずままならない自分の体を何とか引き起こすも、すぐに力を失って崩れ落ちる。
「リュネス……!」
地面の上に突っ伏したまま、私はせめてもとそう叫んだ。
誰か助けて! このままじゃ殺されちゃうから!
お願いだから……! あの娘だけは、絶対に殺させたくない!
ただ、しきりに叫び続けながら、私は絶望の闇を撃ち出そうとする浄禍の連中が体現化した光球を睨んでいた。
と、その時。
「……あれは」
突然、リュネスの目の前の空間にぐにゃりと歪みが走った。
それは浄禍八神格がここに表れた時にも行使したらしき、空間を超越する術式だ。おそらく圧倒的な魔力を持って空間に歪を生じさせてうんたらかんたらという難しいものだろう。ベルセルククラスのチャネルを持っているからこそ出来る、神懸り的な術式だ。
その空間の歪みから、人影が三つ現れる。
それは彼女らと同じ修道女の服装をした三人の女性だった。ただし、真ん中の一人だけは目を伏せたままである。
「まさか!」
浄禍八神格は八人いる。この場には既にその内の五人がいるのだが。もしやこの三人は、残りの『遠見』『邪眼』『憂』ってこと……?
TO BE CONTINUED...