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 兄は理解に苦しい人物だった。
 それは、僕とはまるで正反対の価値観を持っていたからなのかもしれない。
 同じ血を分けた兄弟でありながら、どうしてこうも考え方が違うのか。
 人はそれぞれに各々の考え方、価値観がある。それは兄弟だとしても例外ではない。
 むしろ兄弟だからこそ、丁度価値観が正反対になってしまったのだ。そう僕は思っていた。
 けれど、僕は自らの理解の枠を超えた兄の存在が恐怖でもあった。
 こういう考え方があったのか?
 何故、こんな発想が出来るのだろう?
 良くも悪くも、僕は兄には驚かされてばかりだ。
 それはつまり、僕がいつまでも兄の存在に固執し続けるからであって。
 僕は未だ兄の動向を覗いながら、そして振り回されている。




 リーシェイがミシュアのいる療養所を訪問する数日前。
 流派『凍姫』の本部にスファイルは朝からこもっていた。
 その日、スファイルは一人上機嫌で鼻歌を歌いながら自室の整理に没頭していた。これまで滅多に掃除や整理の類を自分ではした事がなかったため、彼にとって自分の部屋でありながらどこに何があるのかほとんど分からず、まるで一種のゲームに興じているような感覚だった。普通の人が苛立ちを覚えるような事も、今の彼にとっては非常に些細な事でしかなく気分を害するに至るまでは到底及ばない。
 必要なものと必要ではないものを分けて箱に入れ。そんな単調な作業を何故か嬉々としながら続けるスファイル。その姿は普段の素行並に奇妙に映る。
 テーブルの上には総括部から届いた封書が三部、無造作に置かれていた。それは、辞職の受理、守星就任の受理、次期頭目の受理だった。彼が三日ほど前、元流派『雪乱』の頭目であり現在同棲中のルテラに教えられながら手続きを行なったものである。
 三日前から彼らは同棲を始めていた。共にこれまで住んでいたそれぞれの宿舎を引き払って新居を借り、今はそこに移り住んでいる。二人とも流派から籍を消すので宿舎には住めなくなるからである。そして、スファイルの普段以上に落ち着きのない態度が始まったのは、これと同日からだ。
「兄さん!」
 と。
 突然、ドアがノックもなしに外から激しい勢いで開かれる。スファイルは、はて、と実にのんびりした様子でドアの方をゆっくりと振り返る。不意に部屋に飛び込んできたのは、一人の青年だった。
「おや、エス君。お久しぶり。お仕事はどうしたの?」
 青年はよほど急いで走ってきたのか、激しく息を切らせている。しかし、安穏としたスファイルの様子に、その息切れを感じさせぬほどの激しい気迫で睨みつけた。
「お仕事じゃありません! これは一体どういう事ですか!」
 轟、と怒鳴りつける青年。しかしスファイルは露骨に耳喧しそうな表情を浮かべるだけだった。
「どういうって、だから僕は凍姫を辞めて守星になるんですけど」
「なるんですけどって……寝惚けてるんですか!? 猫の子をあげるのとは違うんですよ!?」
「とは言っても。もう、総括部に受理されちゃったし」
「人事は僕の担当ではありませんから、何とも言えませんけど……。けれど、これではあまりに無責任ではありませんか!? 仮にも一流派の頭目が、私情で辞めるなんて!」
 次々と捲くし立てる青年だが、スファイルは極めて平素の表情でのらりくらりとかわしてしまう。それはまるで、あらかじめ青年がどういった攻撃に出るのかを予測しているかのようである。
 この青年はスファイルの実弟で、エスタシアと言った。エスタシアは世間からは神童と謳われた類稀な才能の持ち主で、一時期流派『悲竜』の頭目を勤め、現在は北斗総括部の役員の一人となっている。戦闘技術に限らず、エスタシアの才能は非常に多方面に秀でている。そのため世間から兄のスファイルはしばしば悪い意味でエスタシアと比較される事があったが、元々彼は周囲には耳を貸さない性格であったため、さして気にも止めはしなかった。
「私情って、それはキミの邪推だよ。僕は雪乱との件の責任を取るつもりで辞めるんだから。それに、ちゃんと手続きは踏んだんだけどなあ。次の頭目も決めたし。その言われ方はいささか心外だよ。兄さんプー」
「そう! 僕はその次期頭目の事で来たんです!」
 そして、エスタシアは開けっ放しだった部屋のドアを閉めると一度咳払いをして昂ぶる自分の感情を落ち着ける。自分が言いたい事の整理を手早くつけると、そのままあっけらかんとしているスファイルの元へずかずかと歩み寄る。普段はもっと温厚なものであろうその眼差しも、今は鋭い激情の色で張り詰めている。対し、スファイルの表情はあまりに緊張感のないものだった。
「いいですか? 兄さんは勝手過ぎます。以前から僕は言っていたはずです。もう少し周囲の身にもなって行動をするように、と。けれどこれはなんですか? 雪乱との抗争を終結させた事はともかく、その件での残り火が完全に消えていないこの不安定な時期に、どうしてわざわざ燻火に油を注ぐような真似をするんですか? 頭目を辞める辞めないは兄さんの意思だけで決定してはならないのです。今、頭目に辞められる事で、一体どれだけの人間が困るのか分かっているのですか? しかも、今すぐに辞めなければならない理由はないはずです。だったら、頭目を辞めるのはもう少し先延ばしにして、周囲が落ち着いてからにして下さい」
 今にも叫び倒したい衝動をじっとこらえ、エスタシアは努めて冷静を振舞うがあまり淡々とした口調でそうスファイルにとくとくと言い聞かせる。エスタシアは兄のスファイルの行動が日頃から大勢の人間に迷惑をかけている事は少なからず知っていた。そのため、以前にもこうして何度も兄に対し戒めの言葉をかけていた。しかし、その成果はいつも皆無に等しかった。
「まるでキミの方がお兄さんみたいですね」
「茶化さないで下さい! とにかく、この件に関しては僕が直接総括部に掛け合いますから、兄さんは改めて身辺整理をして下さい」
「いや、別にいいって。そこまでしなくても。僕はもう『凍姫の頭目を辞める』って決めたんだから。その瞬間から、僕には頭目としての資格が失われた事になるんじゃないのかな? それに、僕は北斗自体を辞める訳じゃないんだ。守星になって、これまで疎かにしていた分、街を守りたいと考えてる。キミは守星よりも頭目の方が重要だと言いたいのかな?」
「それは話題のすり替えでしょう! 僕が言いたいのはそういう事ではありません!」
 と。
「失礼っと。御隠居〜」
 その時、いい加減なノックの後、こちら側からの返事も待たずドアが開かれる。
 入って来たのは、ハッと目の覚めるような長いエメラルドグリーンの髪を後ろで結った、まだ顔立ちに幾分かの幼さの残る一人の女性だった。
「こら、誰が御隠居だい? 年寄り呼ばわりされる歳じゃないよ」
「だって引退したんでしょ? リーシェイが言ってた。『御隠居』って引退した人間の事を言うんだってさ。ま、それよりも。承諾書、一応書いたけどこれでいいの?」
「ちゃんと中身は読んだかい?」
「えー、読むのー? めんどいからサクッと説明してよ」
 彼女はひらひらと一枚の薄っぺらい紙を宙にはためかせる。その紙は、前頭目から受けた新頭目就任の命を受ける事を承諾する旨が記された承諾書だった。無論、重要な書類であるから、本来はこのような粗雑な扱いは普通の神経を持った人間は決して行ったりはしない。
 そんな彼女の名はファルティアと言い、少し前にスファイルが何処かへ失踪した際、リーシェイ、ラクシェルと共に連れてきた人間だ。ファルティアは生来の激しい気質とセンスを十二分に発揮し、雪乱との抗争には切り込み役として数々の戦果を上げてきた実績を持っている。しかし、それが頭目になるための十分条件かと言えば、全くそうでもない。ファルティアは未だ技能的にも未熟であり、性格的な問題も抱えている。最低限、頭目を勤めるには感情的になりやすくてはいけないのだが、ファルティアは典型的な感情先行型の人間なのである。しかし、そんな彼女でも前頭目の指名と承諾書さえ書けば頭目になる事が出来るのである。前頭目が安心して任せられる人間を指名する事で成り立つ制度だが、それがものの見事に悪い方向へ働いてしまった事例だ。
「ちょっと待って下さい!」
 承諾書を持ってスファイルの元へ向かおうとするファルティアの前に、エスタシアは思わず割って入った。
「よく考えて下さい。あなたはまだ頭目を勤めるには経験が薄過ぎます。引き返すならば今の内ですよ」
 まるで人質を取って立てこもった犯罪者を説得するかのように、必死で何度も言い聞かせるような重い口調で説得を始めるスファイル。だが、しかし。当のファルティアはエスタシアを見るなりハッと息を飲むと、それきり唖然と押し黙ってしまった。そんなファルティアの様子に、エスタシアは自分の気持ちが通じたのだと解釈し安堵する。しかし、実際はエスタシアの考えとは全く正反対だった。
「あの、この方は……?」
 急にしおらしくなるファルティア。スファイルに対して、これまで使った事のないようなか細い声でそうエスタシアの事を訊ねる。
「ああ、僕の弟だよ。初めてだったかな? エスタシアっていうんだ。僕と違って頭が固くってさ。今日も僕に説教しに来たんだよ」
「兄さんが緩過ぎるだけです! 兄さんは凍姫を無茶苦茶にする気ですか!? 考えなしの行動も度が過ぎると―――」
 スファイルのいつまでもふざけた態度に、エスタシアは思わず反応してそう声を張る。
 が。
「あ、あの! 初めまして! 私、今度頭目になったファルティアです! よろしくお願いします!」
 突然、ファルティアはエスタシアに向かって異様なほど明るく朗らかな態度で一息にそう言った。普段はやり場のないフラストレーションが溜まって濁っているような目の色も、今はまるで別人のようにきらきらと輝かせていた。
「あ……僕はエスタシアです。初めまして……」
 ファルティアの唐突な態度に圧倒され、思わず唖然としながらこくこくと動揺を押さえつつ首を振り笑顔を浮かべようとするエスタシア。その表情は酷くぎこちなかったが、今のファルティアにとってはそれが天使のような気品さに満ち溢れているように見えた。
「私、まだまだ小っさいですけど、命賭けて頑張りますからよろしくお願いします!」
「は、はい。頑張って下さい……」



TO BE CONTINUED...