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 今は考える時じゃない。
 俺はすぐに考え込んで動けなくなるから。
 今は迷っている時じゃない。
 俺にはそんな時間はないから。
 今は立ち止まっちゃいけない。
 俺はもう後悔はしたくないから。




 まるで音も立てず、氷の高波が大蛇の牙のように襲い掛かってくる。
 大丈夫だ、集中しろ……。
 しかし、俺はその牙を前にしても全く怯む事無く、重心を低く構えると両腕を脱力させてだらんとぶら下げた。しかしその腕とは正反対に、俺の緊張は限界まで張り詰めている。目の前の攻撃を何とかしなくてはいけない、という恐怖と、早くしなければリュネスが取り返しのつかない事になってしまう、という焦りが合いまったものだ。
 俺は半身に構えた前足、右足をゆっくり膝ほどの高さまで上げると同時に右腕を肘が頬に当たる位置まで上げ、後足である左足で足の裏から始まる螺旋運動を開始した。その捻りは足首、膝、腰と伝わっていき、最後に右足へと到達する。その運動エネルギーを乗せ、同時に右足で力強く路石が剥がされて剥き出しになった地面を踏みしめた。俺の体に前方向への強いベクトルがかかる。その勢いと重心移動、そして自身の筋力を重ね、脱力した右腕を一気に前へ叩きつけるように、氷の高波に目掛けて振り下ろした。
 高波と俺の右腕との推進力が真っ向からぶつかる。しかし、拮抗する前に相手の力を押し切ったのは俺の右腕だった。ばりん、と音を立てて高波が氷の塵となって霧散する。意識が切り離されたらしく、塵はそのまま空気の中へ溶け込むように消えた。
 目の前の障害が消えると同時に、俺はすぐさま前へ向かって疾駆した。視線は真っ直ぐ前方へと注ぐ。その先には常軌を逸した笑みを浮かべるリュネスの姿。
「おい! 逸り過ぎるんじゃねえ!」
 後方からレジェイドの叱責が飛んだ。けれど俺は足を少しも緩めなかった。ただの一歩、一呼吸をする時間でさえも今は惜しいのだ。自分に許された時間は全てリュネスの元へ向かうために使いたいのである。
 ―――と。
 ッ!?
 突然、足元から凍えるような冷気を感じた。俺は右足を強く踏み込むと前方へ大跳躍する。それにワンテンポ遅れて、俺が踏み込んだ地点から無数の氷の槍が一斉に天を仰いだ。
 危なかった。もう少し気づくのが遅れていたら、俺はあの槍によって全身を串刺しにされていた。しかし、そうなる前に気づいたのは思考が冷静でいる証拠だ。カッとなったら周りが見えなくなる自分の性格は熟知している。今だったらきっと前進する以外の事が考えられなくなるのだ。けれど、違う。確かに張り裂けそうな緊張感に駆り立てられ、早くリュネスをどうにかしようと逸る気持ちが抑えられなくなっているのは確かだ。でもそれと同時に、目的をいち早く達成するにはどうすればいいのか、現状を冷静に見詰める目が開きかけている。もしもその目が三つあるとしたら、その中の一つが開いている。
 リュネスが間断なく繰り出してくるその攻撃を、俺は必至で掻い潜りながら前進を続けた。しかし、少しずつではあるけれど着実に距離を縮めているにも関わらず、リュネスの表情は全く変わっていない。それが一層不気味に思えてきた。
「シャルト! お前は右に回れ! 俺が囮になる!」
 そして、ようやくあと十数メートルまでに近づいた頃。レジェイドがそう指示を繰り出してきた。俺はこっくりとうなづくと、残りの距離を一気に加速して突っ切る事が出来る位置を取った。
 レジェイドが剣を構え、真正面からリュネスに向かって突進していく。リュネスは暴走して分別がつかなくなっているだけにレジェイドが不安だった。けれど、俺なんかが心配するほどのレジェイドじゃない。むしろ俺がレジェイドに心配される側だ。今はレジェイドの事ではなく自分の事に集中しなければ。
 リュネスがレジェイドに向けて放ったのは、馬車についているそれのような氷の車輪だった。しかし、車輪には波型の鋭い刃がつけられている。それが凄まじい速さで回転し、幾つもが同時にレジェイドへ襲い掛かっていった。だがレジェイドはそれら全てを冷静に見切り、構えた剣で次々と防いでいく。基本的にレジェイドに飛び道具は無意味だ。レジェイドはたとえ闇夜で手足を縛り目と口を耳を塞いだ状態でも、後ろから飛んできたナイフを難なくかわすことが出来る。それほどまでに鋭い肌感覚を持っているのである。
 今だ。
 俺はその間隙を縫って一気に駆け出した。
 リュネスが奮戦するレジェイドへの攻撃に気を取られている。おそらくすぐに俺の接近には気づくだろうけど、その時は既に遅い。俺はレジェイド以上の脚力があるのだから。
 リュネスまでの距離、およそ十数メートル。レジェイドが三秒かかるその距離を、俺は三歩で駆け抜けた。
「リュネス!」
 一気にリュネスの目前までの接近に成功した。
 俺はリュネスの鳩尾に狙いを定めた。ここに一撃を加えれば、幾ら暴走した人間でも意識を消失する。意識を失ってしまえばチャネルは閉じ、目覚める頃には元通りに戻るのである。
 とは言っても。俺は自分の好きな女の子を殴ってしまう事になる訳で。幾ら事情があるとはいえ、後ろめたさは少なからずあった。
 もしかしたら嫌われるかもしれない。でも、それでも別に構わなかった。このまま死んでしまうよりは、生きて嫌われた方が俺は遥かに気が楽だから。
 しかし。
 じろりと俺の方をリュネスの見開いた目が見つめた。その表情は相変わらず常軌を逸した微笑を湛えたままだ。
 瞬間、
「うわっ!?」
 俺の体が激しく後ろへ吹っ飛ばされた。凄まじい凍気が俺の体を吹き飛ばしたのである。まるでノーガードだった体の前面は急激な冷たさに痙攣すら起こしている。
 あっさりと俺の体は疾駆し始めた地点よりも更に後ろへと飛んでいった。それでもまだ着地はしない。まるで風に吹かれる紙屑のように俺の体はなおも吹き飛ばされていく。
 と。
「声を出して攻撃したら、気づかれちゃうじゃない」
 やがて高度を落とした俺の体は、路石を剥がされた剥き出しの地面に背中から叩きつけられようとしていた。俺は痛みこそ感じないものの、背中を強く打った時に呼吸がおかしくなる事を知っていたため、それに備えて息を止めていた。けれど、俺の背中を打ったのは剥き出しの地面ではなく、もっと別な柔らかい感触だった。
「こんなになるまで頑張ったんだ。やっぱり男の子ね」
 唖然として上を見上げた俺の顔を覗き込んだのは、ルテラの優しげな微笑だった。そのまま白いハンカチで俺の顔に張り付いた血を拭く。
「さてファルティア。部隊が到着する前についてしまったが、どうする?」
「つこうがつくまいが、私らだけでやるしかないでしょう? 無駄死にはさせたくないわ」
「確かに」
 そして、そのルテラの後ろからゆっくりと前へ歩いていったのは、凍姫の筆頭格である三人、ファルティア、リーシェイ、ラクシェルだった。
 どうやら、風無に出し抜かれた凍姫の主力が戻ってきたようである。そういえば、その風無の連中。先ほどのリュネスが放った術式によって残らずやられてしまったようだ。ただ、頭目の姿が見当たらないのが気になるものの、これ以上の攻撃の続行は不可能だろう。
 しかし、それよりも厄介な事が待ち構えている。三人はそれを知っているため、表情には安堵の色を浮かべない。
「やれやれ……コレは相当きつそうだわ。まだ風無相手の方が楽そうだったね」
 パキパキと指を鳴らすラクシェル。そしてその両手に凍気をまとい、白い靄を放ち始めた。
 ラクシェルは現在、凍姫で唯一絶対零度を体現化できる人間だ。凍結とは物質を構成する原子の運動が止まる事だが、絶対零度とは全ての物質の原子運動が止まる温度の事だ。それと格闘術を組み合わせる事で、ラクシェルは事実上この世で破壊する事が不可能な物質はないとまで言われている。
「仕方がないが、やるしかないだろう。リュネスに死なれては困る。あれは私のお気に入りだ」
 ラクシェルに続き、リーシェイは両手に細く長い氷の針を体現化した。
 リーシェイは普通の人間よりもチャネルが細いため、術式にはそれほどの出力がない。しかしコントロールは他の追随を許さぬほど優れたものだ。その僅かな魔力で限界の攻撃力を引き出そうとした結果、現在のような術式となったのである。あの針はああ見えても如何なる障壁も打ち破る力を秘めているのだ。
 そして、ルテラは静かに俺を立たせると、自分もまた三人と同じく、レジェイドに攻撃を仕掛けているリュネスの方へと向かった。
 と、
「シャルトちゃんは離れててね。もう十分に頑張ったもの」
 離れ際、ルテラはそう俺に告げた。
 しかし、
「嫌だ! じっとなんかしてられるか!」
 俺はすぐさま反論した。十分頑張ったから。そんな事は俺にとって何の重要性もない。頑張ろうが頑張るまいがどうでもいいのだ。大切なのは、暴走してしまったリュネスを止められるかどうか。それだけなのだ。それに、幾ら頑張ったからといって結果を出した訳ではない。北斗は結果が全てだ。それが出せない以上、俺が混乱を目の前にして休んでいい道理はない。第一、俺はリュネスを助けたい。ただそれだけなのだ。この意思までをも抑えつけるほど、ルテラの言葉には拘束力はない。だから俺は従わない。
「駄目よ。本当に、これ以上は危険だから。シャルトちゃんはもう少し自分の体を大事にしなさい」
「俺は、自分の体よりもリュネスの方が大事だ!」
 その場の勢いとはいえ。
 随分と大胆な発言をしてしまったものだと、後から自分でそう思った。けれど、その言葉には何の嘘偽りもない。俺は自分の身の保全なんかよりもリュネスを助けたい気持ちのほうが遥かに大きいのだ。自分がどうなろうと、結果的にリュネスが助かればそれでいいのだ。こんな極端なやり方は良くないという事は知っている。けど、かと言って自分の身を守るためにリュネスを反故にする自分は許せないのだ。好きな女の子が危ないのであれば、命を張ってでも助けたい。今の俺にあるのは、ただそれだけである。
「ったく、ガキは聞き分けがないわね」
 と、その時。
 そう冷ややかに吐き捨てたのは、前を歩いていたファルティアだった。足を止めるもこちらは振り向かず、背だけを向けている。しかしその背中からは俺への嫌悪感のようなものがひしひしと感じられる。
 これまで特にファルティアとの深い接点はなかったが。どうしてここまできつい感情をぶつけられるのか分からず、俺は思わず戸惑ってしまった。別に俺はファルティアに何かした訳じゃないのだが。どうしてこんな風に言われてしまうのだろうか。
「足手まといだっつってんのよ。あんたが一緒じゃ、助けられるモンも助けられなくなるでしょうが」
 そしてファルティアは濃藍の上着を脱ぎ捨てる。その下に着込んでいる青のインナーは、右手部分だけがノースリーブという特殊なデザインになっていた。ファルティアは右手を失ったため、現在は精霊術法の特殊な術式を使って補っている。一見すると何の変哲もないその右腕は、いざという時は倍以上に膨れ上がって凄まじい破壊力を生み出すそうだ。右手だけ袖がないのは、これの邪魔にならないようにするためである。
 そしてファルティアは俺はチラッと一瞥した後、再びリュネスに向かって歩き出した。
 俺は……邪魔なのだろうか?
 ファルティアの言葉が胸に突き刺さったまま離れない。俺はリュネスを助けたい一心で戦っていた。今も、体はかなり傷つき疲れ、これ以上の続行は本当なら自粛するべきだというのも自覚している。でも、それは出来ない。リュネスを助けるという目的を達成していないからだ。たとえ死ぬ事になろうとも一向に構わない。リュネスが助かるなら安いものだ。けれど、そういう考え方の人間は、今この場ではかえって邪魔になる存在だとファルティアの言葉が言っているような気がする。命がけで自分を省みないという行為は周囲にも迷惑をかけるのだろうか? それとも、単に俺が戦力にもならないほど弱いから退いていろ、という意味なのだろうか? 答えは一向に見つからなかった。けど、一つだけ分かったのは。俺ではリュネスを止められないという事実、いや現実だ。
「シャルト。気持ちは分からぬでもないが、とりあえずこの場は任せておけ。凍姫内の事件は凍姫内で解決する。それがけじめというものだ」
 リーシェイが振り向き、微かに口元をほころばせながらそう告げる。すると、
「あら? アンタからそんな殊勝な言葉、初めて聞いたわ」
 横からラクシェルがそう苦笑いを浮かべた。
 でも、本当は違うんだ。
 ファルティアだけじゃない。ルテラもリーシェイもラクシェルも、みんな俺ではリュネスを止められないと思ってるのだ。だから、こうして戦前から遠ざけようとしている。
 ショックだった。
 四人への幻滅ではない。自分の力のなさへの幻滅だ。
 すると。
 立ち上がっていたはずの膝から、かくんと力が抜けた。
 もう、戦えそうにない。そんな自分を見て、そう思った。
 胸の中に、またリュネスを助けられなかった、と苦い言葉が響き渡る。俺はその言葉を自虐的な気持ちで反芻した。



TO BE CONTINUED...