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それは、長い嵐の始まりでした。
けど。
こんなにも素敵な気持ちになれたのは、生まれて初めてです。
「リュネス、亀の三十二番オーダーお願い!」
カウンターの奥からお母さんの―――チーフの忙しそうな声が賑やかな店内に響き渡ります。それはまるで男性のような勇ましさです。
「はい!」
私は伝票を片手に、すぐさま広い店内を駆けました。額に薄っすらと浮かぶ汗も拭う暇も惜しみながら。
時計に目をやると、時刻は午後六時三十分を大きく過ぎていました。一日の内で最も忙しくなる時間帯。店内の至る席が仕事帰りの人達で溢れています。辛うじて幾つか空き席はあるものの、それが埋まるのも時間の問題。そして今日は土曜日。一週間の中で一番忙しくなる日。まだ春先だというのに、店内は凄い熱気が充満しています。飲食店において、今の時間は戦場です。それだけに一秒たりとも気を抜いている暇はありません。
この街、『北斗』に来てから早四年が経過しようとしています。初めは不安ばかりがあったけれど、こつこつと続けていく内にもうそんなに長い時間が経過してしまいました。月日の流れがそう感じてしまうほど、毎日忙殺され続けてきたからだと思います。けど、それが私にとっては当たり前の日常。
私の住むこの国ヨツンヘイムは、ヴァナヘイム、ニブルヘイムに続く大陸三大国の一つに数えられています。もっとも、昨年ヴァナヘイムとニブルヘイムが戦争をし、その結果ヴァナヘイムが敗戦してしまったので現在は二大国になっているのですが。
ヨツンヘイムは、ヴァナヘイムやニブルヘイムと違って極めて治安が悪い国です。正確な記録が取れれば、犯罪発生率は世界でトップクラスになるそうです。その最大の原因は、やはりちゃんとした自治政府機関が発足されていないからでしょう。本来、政府機関がやるべき行政や外交などは、ヨツンヘイムで最も強いとされている戦闘集団『北斗』が代行しています。北斗という街はその戦闘集団『北斗』のお膝元で、ヨツンヘイムで一番治安の良い国です。何故なら北斗には、同じ街の中に『北斗』が常駐しているため、例え外から攻め入られたとしても瞬く間に鎮圧してしまうのです。
私は今、その北斗にある『爛華飯店』という料理店で働いています。以前は宿も兼ねていたので、店はとても大きく、従業員も十名以上います。このお店の店長が私の両親、正確に言うと母の姉夫婦です。私の本当の両親は十一歳の時に野盗に襲われて亡くなりました。その後、私は北斗に住む伯母夫婦の元へ引き取られました。二人は自分達の事を本当の両親のように思ってくれていい、と私に言ってくれました。私もその気持ちに感謝してそうしてきました。でも、まだ胸の奥では本当の両親には思う事が出来ません。それが十一年間と四年間の差なんだと思います。
「以上でよろしいですね? それでは少々お待ち下さい」
オーダーを取り、それを伝えにカウンターへすれ違うお客さんと同僚に気をつけながら駆け、その途中でそっと時計に視線を送りました。現在、午後六時四十八分。まだ、時間的には早い。そう自分へ言い聞かせます。
「はい、これ雀の十二番!」
そして再びお客さんの待つ席に向かって駆けました。カウンターと客席との往復運動。その単純作業も、初めの内は一時間も続ければ膝が震えてまともに歩けなくなっていました。今では閉店まで動き回る事が出来るけれど、さすがにその翌朝は起きるのが少し辛い事があります。本当にこの仕事はハードで体力勝負です。しかも笑顔を絶やした接客をする訳にはいかないのです。毎日毎日、仕事が終わるたびに私は白くなった墨のような気分になります。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
注文した料理皿を席まで運び、そして再びカウンターへ。その途中でもまた時計に視線を送ります。現在、午後六時五十分。思っていたよりも時間が進んでいない事に小さく落胆します。
と、その時。
「いらっしゃいませ! お一人様ですか?」
入り口の方から聞こえてくる、従業員の誰かの声。私はぱっと弾けるような勢いでそちらへ視線を向けてしまいました。
あ……!
「どうぞこちらへ」
そう案内されるのは、私と同じぐらいの年齢の若い男の人。私は破裂しそうなほどドクンと大きく自分の胸が高鳴る音が聞こえました。俄かに緊張が込み上げ、ごくりと唾を苦労しながら飲み込みます。
透き通るような薄紅色の髪と瞳。外見はびっくりするほど綺麗です。初めて目にした時は、髪型や雰囲気から辛うじて男性である事が分かりました。声も低くて、れっきとした男性のものです。でもその顔は男性でも女性でも通用しそうなほど綺麗なのです。そんな細面とは対照的に、彼の着ている服は真っ黒で装飾がほとんど無く、左胸にはさりげなく『夜叉』の文字が刺繍されています。北斗には十二の流派があり、夜叉とはその内の一つなのですが、つまり彼は戦闘集団『北斗』の人なのです。ほっそりとした見た目からはとても想像出来ませんが、この国で最も強い集団の一人である訳です。
と。ぴょこん、と彼の襟元から白い影が飛び出し、彼の左肩に居を移しました。そして彼の首筋へじゃれつきます。彼はいつも、小さな白い猫の子供を連れていました。その子は彼の肩に乗っかっていたり、上着の中から顔だけをぴょこんと出していたり。とても彼の事を慕っているように思えました。彼は普段はあまり表情を変えないのですが、その子と相対している時は必ず楽しそうな表情を見せます。
それが、私の好きな彼でした。
彼を見知ったのは、今から三ヶ月も前の事でした。この爛華飯店が夜叉との専属契約を結んで間もなくの事です。専属契約とは、お店が夜叉の人に掛売りで料理を提供し、代金を月末にまとめて払ってもらうというものです。一見すると大した事ではないように思えますが、実際は大勢の固定客を確保出来るので、店側にとっては大きな利益になります。それに、専属契約を結べるのは様々な条件をクリアしたお店でなくてはいけませんのでお店のステータスにもなります。
以来、お店には黒い制服を来た夜叉の人がよく来るようになりました。彼はその中の一人でした。
「リュネス!」
「は、はい!」
いつの間にかボーっと見とれていたらしく、私はその声に慌ててカウンターへ戻りました。今は忙しい時間帯なのです。遊んでいる暇はありません。
週末の午後七時頃、必ず彼は店に姿を現します。それがいつしか私の唯一の楽しみとなっていました。
人を好きになる。
これまで過ごした十六年間、異性に対して全く無関心という訳ではないけれど、彼は特別でした。これほど、昼夜を問わず暇さえあれば彼の姿を脳裏に浮かべるなんて、私には初めての事でした。こんなにも何かに夢中になる事自体が初めてで、そんな自分の姿に戸惑いすら感じます。
正直言って、彼のことは一目惚れだと思います。理屈ではうまく説明出来ません。それは、彼の外見が唖然としてしまうほど常人離れしている事はあまり関係ないと自分では思います。お店には毎日のようにそんな人達がさまざまな所から集まってくるのですから。
じゃあ、どこが好きになったのかと言うと、やっぱり説明は出来ません。彼と目が合った瞬間、気がつくと好きになってしまっていたのです。強いて言うなら、彼が連れている子猫と遊んでいる時の優しげな表情でしょうか?
とにかく、私はその彼が好きでした。今も好きで好きでたまりません。感情が膨張し過ぎて行き場を失ってしまい、夜、ベッドの中で身悶えする事だって未だにあります。
だったら、告白すればいいでしょう?
そう、みんなは言ってくれました。告白までいかなくとも、それとなく好意を示してみたり、話し掛けて名前やその他を聞き出し、連絡を取り合ってみたり。とにもかくにもコミュニケーションをとらなければ何も始まらないから。
私もそう思います。ただ遠くからじっと見ているだけでは何にも進展はしません。でも、私には出来ませんでした。彼が好きでたまらない。だからこそ、拒絶された時を考えると怖くて仕方がないのです。それに、私はあまり自分の容姿に自信がないので余計に不安なのです。
結局何も進展もないまま、四ヶ月目に突入しようとしています。今ではもう笑いの種にさえされてしまいます。みんなが私を奥手だと笑います。みんなは意中の人にアプローチをかける事にはそれほど悩まないそうです。多分、悩む私の方が特別なのです。
一体、どうすれば良いのだろう?
告白すれば気持ちにも整理がつけられると思います。もしかすると、それがきっかけで彼と仲良くなれるかもしれません。けれど、そこにはあまりに大きなリスクがつきまといます。拒絶の痛みというリスクが。
私は自分が打たれ強くないという自覚がありました。何故なら、過去に恋愛の経験が全くないからです。だから余計にそのリスクが怖くて仕方がありません。けど、その拒絶の痛みというリスクが伴う行動を、私は頭の中から捨て去る事が出来ません。片想いのままでこの気持ちを自己完結させたくないのです。
何か言い出そう。きっかけを作ってみよう。彼が来るたびいつも私はそう思います。でも、結局は何も出来ません。そして三ヶ月という時間を浪費しました。きっかけを作るなんて本当は簡単な事です。来る時間が分かっているのだから、あらかじめメモか手紙でも書いておき、時間を見計らって入り口付近でさりげなく待機していればいいのです。席に案内するまでの時間、席に案内した時、オーダーを取っている最中、手渡すチャンスは沢山あります。そう分かってはいるのだけど、やっぱり行動に移す事が出来ません。どうしても拒絶される事が怖いのです。
いつまでも気持ちだけを抱いて悶々と唸っていても仕方がありません。そろそろ行動に移してみたい。そう私は願っています。いえ、願っているようではまだまだ実行するのは無理でしょうけど……。でも、本当に、私は行動に移したい。真剣にそう考えています。
「これは虎の七番、そしたら龍の二十一番のオーダーを取ってきてちょうだい!」
そして、私はそれ以上の彼へ思いを馳せる時間も余裕もなく、再びピークを迎えたお店で忙殺されます。彼が座ったテーブルを探すどころか、彼の事で物思いにふける余裕すらありません。
仕事に忙殺されている時が一番楽でした。彼の事で思い悩み、胸を痛める必要がないからです。でもそれは仮初の安堵で、ただの現実逃避にしか過ぎません。私に必要なのは、リスクを恐れない勇気。それだと思います。
TO BE CONTINUED...