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「慈悲深き全能の父は、温かく照らす浅黄の炎をお示しになられた」
ゆっくりと両の手のひらを、水を掬い上げるように胸の前で構える『聖火』の座。すると、彼女の手のひらからふわりと光り輝く球体が浮かび上がった。温かい光を放ちながらゆっくりと昇るそれは、まるで小さな太陽だった。
にっこりとフードから覗く口元が笑みを浮かべる。慈愛に満ちた優しい笑みである。
そして。
聖火の手のひらから生まれた小さな太陽はゆっくりと彼女の遥か頭上まで昇ると、突然、小さな太陽は何十倍もの巨大な火球に膨れ上がった。火球は尚も勢いを増し、真っ赤なプロミネンスを吹き上げる。
「生きとし生けるものを慈しみ導く祝福の光。これぞ天上の『聖火』也」
そう唱える聖火の言葉を合図に、火球は一直線に空恢へ向かって突き進んでいった。
流派『烈火』に所属する人間の内、極限られた数ではあったが、これほど大規模の術式を体現化出来る者は確かにいた。しかし、その威力の差はあまりに歴然としていた。単純な火力だけは同じかもしれない。しかし『聖火』の術式は根本的に性質が違っていた。通常、炎は勢いと温度を持って物質を焼き焦がす。けれど聖火の作り出す炎は、厳密には炎ではない。物質を焼き尽くす現世の炎と違い、聖火の炎は物質の存在そのものを溶かすのだ。周囲を炎の壁に囲まれ、これほど大規模な火球を体現化しているにもかからず息苦しさや焦げ臭さを一切感じないのはそのためなのだ。
闇を切り裂く火球が目指す先は、これほどの術式が放つ風圧を涼風のように平然と受けている空恢。凶暴性すら感じる荒々しい閃光を前にも、空恢は心一つ乱さずにただその場に直立する。老兵とは言え、かつて夜叉を束ねていた事を髣髴とさせる、実に威風堂々たる姿だ。
空恢は腰に構えた剣を静かに抜き放って下段に構えると、ゆっくり独特の呼吸法でリズムを取る。すると、少しずつ呼吸は緩慢になり回数が減っていった。それに連れて空恢の気配そのものが消失していく。これが空恢流の集中法なのである。
無造作に剣を構えたにもかかわらず、まるで隙らしい隙が見つからなかった。おそらく今の空恢と剣を交えたものは皆、自分の体を剣ごと飲み込まれてしまうかのような錯覚を覚えるだろう。幾らシミュレートを繰り返しても、自分の剣が空恢の体に触れるまでのプロセスが思い浮かべられないのだ。
さながら水面に浮かぶ枯葉のように、ゆらりゆらりと空ろに揺らめく空恢の視線。現実を見定めていないのか、彼にしか見えていない世界を垣間見ているのか。何にせよ、今向かってきている火球の存在を捉えているようにはとても思えない様子だった。
しかし。
あわや空恢を火球が飲み込もうとした次の瞬間、突然瞬きするよりも速く、空恢の剣が閃いた。火球は空恢を飲み込む寸前で真っ二つに別れ、それぞれ中空を彷徨った後音も立てず霧散する。空恢はくるりと剣を半回転させると、そのまま鞘に心地良い音を立てて納めた。その目は先ほどまでのような空ろなものではなく、肉食動物が獲物を捉えた時のような冷たく鋭いものだった。
「くだらん火遊びじゃな。何の工夫もありゃせんわ」
そう吐き捨てると、空恢はじろりと聖火をねめつける。聖火はよもや自分の術式がこうもあっさりと破られるとは思いもしなかったのだろうかどうかは分からないが、フードから僅かに覗く口元にはあの慈愛に満ちた笑みは浮かんでいなかった。
と。
「父なる我らの主は、その御手を人々の前にかざし、温かな光で包み込みました。これぞ大いなる愛の光」
聖火はそっと右手の手のひらを空恢に向けてかざした。すると、彼女の手のひらが一瞬眩しく輝いたかと思うと、次の瞬間、空恢の体は輝くような凄まじい炎に包まれてしまった。
「あらゆるものを焼き尽くす神の炎か」
だが、全身を炎に包まれながらも空恢は身じろぎ一つせず、ただ普段と何ら変わり無い仕草で悠然と構えていた。そして不意にすーっと大きく息を吸い込んだかと思うと、
「喝ッ!」
大声一閃。
落雷にも似た凄まじい咆哮を放った。すると空恢を包んでいた炎はまるで怖気づいたかのように、一瞬で消え失せてしまった。
「この程度で神の代弁を語るか。おこがましいにも程がある」
あれだけの炎を気合だけで掻き消してしまった。
空恢の体には焦げ目一つついてはいなかった。炎が及ぶよりも先に、空恢がかき消してしまったからである。驚くべきは、その精神力だ。どんな歴戦の雄といえど一瞬で火達磨にされてしまったら、一体どれだけが冷静でいられるだろうか。しかもこの炎は、あの浄禍八神格の一人、『聖火』の炎だ。人間の体などどれだけ持つものなのか知れたものではない。一瞬で焼き殺されるやもしれぬ状況で冷静でいられる事がどれだけ困難か。より実力を持っていれば持っている者ほど、空恢の人並外れた強さを感じる事が出来た。
「全力で来るがいい。爺の死に水とは言え、小手先でどうこうなる相手ではない事ぐらい分かっておろう」
ゆらりと自然体で立つ空恢から放たれる殺気がより密度を増した。常人ならば既に息も出来ないほどの圧迫感。しかし、それでも『聖火』は身じろぎ一つせず、一体何を考えているのか窺い知れぬ物静かさを保ち続けている。
空恢はここまで感情の起伏を見せない『聖火』に苛立ちのようなものを覚えていた。どれほど鉄のように頑なな精神力の持ち主でも、自分の手の内が相手に通用しなかった場合、少なからず感情を動かす。慎重な者であればより警戒心を強め、自信過剰の者は驚愕する。だが聖火の場合、いずれの場合にも当てはまらないのだ。初めから結果がこうなる事が分かっていた、と考えるのが自然である。つまり『聖火』にとってこの程度の事はただの戯れにしか過ぎないのだ。
戯れでこの強さ。何の修練も積まずに手に入れた付け焼刃的な力を持ち、法に縛られず妄執に駆られたこの集団を何故北斗は野放しにするのか。それが疑問で仕方が無かった。
自分はこれまで何度も精霊術法の危険さを訴え続けてきた。結局、ただの一度として聞き入れてもらえる事は無かったが、その大きな理由として、北斗がここまで大きな戦闘集団に成りあがったのは何よりも精霊術法の力が大きいからであった。確かに北斗をここまで育てたのは精霊術法の力ではある。しかし、北斗が脅かされているのもまたこの精霊術法が原因になっている。近年立て続けに起こる暴走事故に管理者クラスの不祥事、そしてこの反逆事件だ。何もかもが精霊術法が悪い訳ではない。しかし、少なくとも反逆者を鎮圧するためにわざわざ表舞台に恥を忍んで上がりこんだ自分に、こんなところで幕引きをさせようとするのはまぎれもなく精霊術法のせいだ。
邪法は邪まを引き寄せる。自分にはもう最後まで走り抜く力は無いが、せめて突破口だけは身を挺してでも開いてやらねばならない。次の世代が次の世を作り出すため、邪まを払うために。
「見よ、父なる主は終末の業火をお示しになられた」
そして、『聖火』が動いた。
静かながら周囲一体に響き渡る透き通るような声で聖句を紡ぐ。すると彼女の体がぼんやりと輝き始めた。更にこれまで感じられなかった周囲の炎が急に熱を放ち始める。
全身をじりじりと焼かれるようなその熱さの中、空恢は汗一つ流さずただじっと『聖火』の挙動に視線を注いでいた。
年甲斐も無く、指先が震えているのを感じた。これまで小手先の子供騙しだけで弄して来たが、今度は正真正銘、全身全霊をかけて繰り出す大技だ。まだ術式そのものを完成させていないにも関わらず、恐ろしいまでの威圧感が心臓を鷲掴みにしてきた。これほどの相手と交えるのは一体どれほどぶりなのだろうか。あの頃はまだ無理の利く歳であったが、今は既に通ずるのかどうかも分からないほど衰えている。こちらも死ぬ気で立ち向かわねばただの犬死にとなってしまう。それは生涯を賭けて磨いてきたはずの剣の道が迎えるにはあまりに屈辱的な最後だ。刺し違える訳でもない。求められるのは唯一、勝利だ。
「良き魂は神の台に導かれ、悪しき魂は灼熱の炎に焼き尽くされ塵と消ゆるべし」
と。不意に周囲を囲んでいた炎が唸りを上げて流れ出した。そして炎の壁はそっと掲げられた『聖火』の右手の手のひらに集まっていく。そこに全ての力が集約されているのがはっきりと分かった。無駄に質量を増やさず、ただ純粋に破壊力だけを集約している。どれほどのエネルギーかなど、もはや考える事自体意味を成さない。
空恢は左手を鯉口に添え、右手では剣の柄をそっと強すぎない力で握り込んだ。体は半開きで右足を前にし、足を軽く肩幅ほど開いてやや腰を下ろす。前方に突き出された右肩は剣の姿を正面から非常に見難くした。東洋剣術で言う所の抜刀術に構えは似ているが、比べてあまりに鞘を後ろへ引き過ぎている。どの剣術書にもない、我流の異質な構えだ。
「最後に見せてやろう。わしが生涯をかけて唯一名をつけた剣技だ」
独特のリズムを刻みながら呼吸を繰り返す。それと共に空恢の気配は薄らいでいき、呼吸の回数が減少していく。
しかし、空恢の放つ殺気だけは濃密さだけを増していった。ただそれだけで息の根を止めてしまうような、死霊にも似たおどろおどろしさだ。
空恢の目は鷹のように鋭く『聖火』を捉えている。既に指先の震えも聖歌の作り出す術式への恐怖も消え去っていた。ただ、心の中に閃光のような鋭いものがひしめくだけである。
「死後の幸あれ」
やがて『聖火』は掲げた右手の手のひらを空恢に向け、術式の完成を宣言した。
彼女の手のひらは眩しいほどに光り輝いていた。まるで空に輝く太陽が彼女の手のひらに宿ったかのようである。
聖火の手のひらに神語が浮かび上がるのと、空恢の目がカッと見開いて足を前に踏み出すのはほぼ同時だった。
二つの巨大な圧力が、真っ向からぶつかり合う。
「『絶刀』」
TO BE CONTINUED...