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 大好きな人の事をもっと知りたいと思うのは当然の事です。
 でも、なかなか知る機会に巡り会わなかったりすると、あれこれと勝手な想像を思い描いたりしがちになって。それで幾らかの、事実とのギャップが生まれたりもします。
 だから、想像じゃなくて本物を求めなくてはいけないのです。
 そうじゃないと、あまりに不毛ですから。
 私はシャルトさんの事をもっと知りたいと思いました。
 そして、その想いは―――。




 あまり東区には詳しくなかった私ですが、凍姫のある方角だけを覚えておきながら何となしに歩き続けていました。そしてふと目に入ったのは、一軒の喫茶店でした。お店の入り口の脇にキャンバスを掛ける三脚が立てられ、代わりに小さな黒板が掛かっています。そこに白と赤と黄色のチョークでランチメニューが三種類書かれていました。どこにでも見かける光景なのですが、それに惹かれるように私はお店の中へと入っていきました。
 席は半分ほどが埋まっていて、まだ座る席は十分にありました。私は比較的眺めのある窓際の小さな席へ座ります。それから、表の看板に書かれてあったランチメニューの一つを注文しました。
 店員の表情が少し緊張している事に気がつきました。どうやら私が凍姫の制服を着ているからだと思います。今日届いたばかりの真新しい服なのですが、その後光効果はやはり相当のものです。私は凍姫の威光を着ているだけなのですけど。
 店内には何人か連れで来ている人がほとんどでした。時折、やや声量を押さえた笑い声が聞こえてきます。みんな昼食を談笑しながら楽しんでいるようです。けど、私は一人で話し相手がいません。寂しい、としんみりするような子供でもないのですが、楽しそうな人達の姿ばかり見ていると、何となしに羨ましさを感じてしまいます。
 やや、気持ちが暗くなっています。精霊術法の制御が思うように上達しない、というのもあるのですが、その大半の要因はただの空腹です。空腹と摩り替えているような気もしない訳ではありませんが、空腹を理由にしておけば変に落ち込まずに済みます。
 ご飯を食べ終わったら、部屋に戻って精霊術法の訓練の続きをしようか? いえ、誰も監督する人がいない所で精霊術法を使用するのは禁止されています。特に私のチャネルは大きくて暴走の危険性が高いのです。勝手な事をして取り返しのつかない事態を引き起こす訳にはいきません。
 それじゃあ、部屋の掃除をして夕食の準備でもしましょうか? いえ、これもまた、ファルティアさんが定刻に帰ってくるとは限りません。ファルティアさん達は一向に上達しない私のために新しい制御トレーニングを研究している最中なのです。研究が長引いてしまう可能性だってあります。
 そうなるとやる事がありません。でも、ただ暇を持て余すという事は私は出来ません。爛華飯店に居た頃は、この時間は厨房で夜の下拵えをしたり、足りない材料の買出しに行ったりとかなり忙しい時間帯でした。下拵えは、例えばキャベツを切るにしても最低百人前分は切らなければいけないのです。全部一人でやる訳ではありませんが、他にもまかない料理も作らなくてはいけないので、バタバタとしている事が多かったと思います。それに慣れてしまっているだけに、何もせずにただボーッとするのに妙な後ろめたさを憶えてしまうのです。
 あ、そうだ!
 ふと私はある事を思い出しました。以前、リーシェイさんに貰った精霊術法についての学術書のようなものをまだ読んでいないままで部屋に置きっ放しにしていたのです。それならば、午後の時間を丸々その読書に費やせばいいのです。表紙からしてかなり難しそうな本のようでしたが、なんとか頑張れば自分の貧困な才能の足しになるはずです。明日の訓練でも、もしかすると今日よりはずっとましな結果が出せるかもしれません。
「いらっしゃいませ」
 と。
 ボーッとしながらそんな事を考えていたその時、店員の声に私はふと我に帰りました。
 誰か来たのでしょうか?
 別に私はこのお店の従業員ではないので気にする必要はないのですが、爛華飯店で働いていた時間が長かったからでしょう、やはりまだどうしても給仕の癖が抜け切れていません。
 そして私は何気なしに入り口の方を振り向きました。
 すると、
「あ……!」
 そこに立っていたのは、薄紅色の髪と真っ黒なトレーニングウェアを身にまとった、私と同じぐらいの年齢の男の人。左肩には見覚えのある白い……子虎。
 そう、シャルトさんです。
 シャルトさんはすぐに私に気がつくと、そっとこちらへ歩み寄ってきました。どくん、と心臓が高鳴ります。どうしてシャルトさんがここに来ているのでしょうか? いえ、それよりも。今、まさに私のすぐ傍に近づこうとしているその事態に頭がカーッと上気してパニックを起こしそうです。
「や、やあ。久しぶり……でもないか。昨夜も会ったばかりだしな」
 シャルトさんはやや朴訥とした口調で私にそう話し掛けてきました。はっきりと耳に焼きついたその声。間違いはありません。私がよく頭の中で再生するそれです。
「あ、は、はい」
 どぎまぎした私は、ついそんな無愛想な返事を返してしまいました。
 もっと落ち着かなきゃ。そう自分に言い聞かせるのですが、自分の体がまるで私ではないかのように、まったく言う事を聞いてくれません。
「ここ、いいか?」
 シャルトさんが私の向かい席を指し示します。
 どうして? 私の正面に? あのシャルトさんが?
 それらの質問が口を突く前に、私は反射的に返事をしていました。
「はい! ど、どうぞ……」
 慌てるあまり、声が変に裏返ってしまっています。シャルトさんの前でこんな声を出してしまうなんて。見っとも無くて、恥ずかしくてたまりません。私はシャルトさんには少なからずも良く思われたいのです。だから、こんな些細な失態が許せませんし、非常に慌ててしまいます。
 シャルトさんが向かい合った席に座ると、左肩に乗っているテュリアスが軽く跳んでテーブルの上に降り立ちました。そして一度、私の方へじろりとねめつけるような視線を向けると、ふんと顔をそらしてシャルトさんの手元付近に座ります。相変わらず私は嫌われているようです。
 すぐに店員がやってきてシャルトさんの注文を取ります。シャルトさんもまた私と同じように表の黒板に書いてあったランチメニューを注文しました。けれど私とは違い、店員に告げたのは三種類全てでした。シャルトさんは爛華飯店に来ていた時もいつもそうだったのですが、見た目のほっそりとした体型からは想像がつかないほど非常に沢山の量を食べるのです。午後もきっとトレーニングはあるでしょうから、もしかするとこの量でもかなり抑えているのかもしれません。
「その、さ。なんか話するのも久しぶりだよな」
 シャルトさんが話し掛けてきました。
 私は心臓が高鳴るのを必死で抑えました。そうです。いつも遠くから見ているばかりの存在ですが、こうして話すのは初めてではないのです。だから必要以上に緊張しなくてもいいのです。
「昨夜は顔を合わせただけでしたからね」
 ほら、大丈夫。
 私は自分の自然な返答に喜びました。やれば出来るのです。無理にうまくやろうとするから失敗するのであって、気負いをなくせば思った通りの事を上手に伝えられるのです。
 しかし。
 それ以来、ぷつっと会話が途切れてしまいました。途端に不安感と焦りが募り始めます。私は元々会話というものが苦手でした。それは自分が話し下手で場の空気を白けさせてしまうからです。だから私は普段、話すよりも聞き役に回っていました。けれど、今は聞く話そのものがありません。シャルトさんは黙ったままですし、ここは私の方から何か話さなければいけないのですが、一体どんな話をすればいいのか分からないのです。下手な事を話せばつまらない人間と思われてしまいます。かと言って、このまま黙り続けてしまえば陰気な人間だと思われてしまいます……。
「お待たせしました」
 と、その沈黙を破ったのは、私が注文したメニューを持ってきた店員でした。
 お洒落な暖色のトレイに凝ったデザインのガラス食器。メニューは表の黒板に書かれていた一番上のもの、ハーブと卵のサンドイッチにフルーツと寒天のフルーツボウル、魚の赤味を色がつくまで蒸したもの、そして燻製肉と野菜のスープです。どちらかというと小食な私には少し量が多いのですが、このぐらい食べなければ明日の訓練で力が出ません。それに、前からずっとコンプレックスな体にも理想的な起伏がつかないはずです。
 あら?
 ふと、その時。私はじっと注いでくるテュリアスの視線に気がつきました。小さなフルーツボウルに乗っているサクランボ。テュリアスの視線はそれに注がれているようです。
「……これ?」
 私はそっと実が二つついたサクランボの茎を摘んで上げ、テュリアスに訊ねてみました。するとテュリアスはぴくりと耳を震わせて私の顔を見上げます。その眼差しは先ほどのような敵意に満ちたそれではなく、むしろ羨望のように見えました。どうやらテュリアスはこれが食べたいようです。私は手にしたサクランボをテュリアスの傍まで伸べました。これで少しは嫌われないようになるかな? そんな期待も込めて。
 テュリアスは下からしばしサクランボを見上げます。そして、昨夜の夕食会でルテラさんがしたように上下しないと見るや否や、ひょいと起こした体を伸ばして実の部分にぱくっと噛み付き、茎だけを残して持っていきました。
「まったく……悪いな」
「いえ、別にいいですよ」
 なんだか気まずそうな表情を浮かべるシャルトさん。けど私はにっこりと微笑んで見せました。別にこのぐらいの事はなんでもないですし、何よりも私に警戒心を見せていたテュリアスが、私の差し出したサクランボに必死で食いついてきた姿が何とも可愛らしかったのです。
 体を丸めてもぐもぐとしているテュリアス。私はその姿を微笑ましく思いながら眺めます。と、
「そういえば……その、今更なんだけどさ。本当に凍姫に入ったんだな」
 シャルトさんが視線を少し伏せがちにそう再確認するかのように訊ねてきました。
「ええ、なんとか無理を聞いて貰って」
 私は検査入院していた時、病室に訪ねて来たファルティアさんを拝み倒して凍姫に入りました。自分がこれまで争い事には関わらない生活をしていただけに、これはあまりに無謀としか取れません。幾ら一からトレーニングするにしても、ある程度の適性は必要なのですから。それを努力で克服しようというのです。並みの努力ではとても足りません。
「じゃあ、さ。今はやっぱり精霊術法の訓練しているのか?」
「はい。でも、あんまりうまくいってなくって。私、チャネルが普通の人よりも大きいそうなんです」
「チャネルが? それって―――」
 と。
「お待たせしました。まずお一つです」
 店員がシャルトさんの分のメニューを持ってきました。そのせいで何か言いかけたシャルトさんの言葉が途切れてしまいました。なんてタイミングが悪いのでしょうか。
 店員に対して舌打ちしたくなるような間の悪さ。けれど、何も店員には悪気がある訳ではありません。ただ仕事をしっかりこなしただけの事なのですから。とは言え、私は早く店員が行ってくれるように心の中で密かに祈り続けます。
「まあ……その。大変だと思うけどさ。何とかなるよ。深く悩まなくてもいいと思う」
 そしてシャルトさんが、ふと視線を手元へ向けます。その先では、テュリアスがシャルトさんのフルーツボウルに手を伸ばしてサクランボを取ろうとしていました。シャルトさんはそのテュリアスの体をごろんと引っ繰り返すと、真っ白で短い毛に覆われたお腹をくすぐり始めました。テュリアスはくすぐったそうにバタバタと手足を動かして暴れます。その光景を見た私は、楽しそう、と思ってしまいました。
「こいつも、悩まないで生きてるしさ」
 そうシャルトさんは少しだけ微笑みました。
 確かにそうかもしれません。
「そうですね」
 私もシャルトさんに微笑み返しました。
 シャルトさんの言葉に私は、今日の訓練の失敗による不安とか落胆が消え去っていくような清々しい気分になっていくのを感じました。そう、私は無理に普通である事に拘っていたのです。私は出来ない人間だから、普通になるためにはそれなりの努力をしなければ、と。でも、そうじゃなくて、出来なければ出来ないなりのペースで焦らずやっていけばいいのです。一日三歩進むのが普通なのに、一日二歩しか進めなくても。無理な努力で三歩進もうとはせず、代わりにその二歩をしっかりと確実に進んでいけばいいのです。つまり私に余裕がないのは、そうやって無理な努力を続けてきたせいなのです。
 なんだか気持ちが軽くなってきました。鬱屈としたそれだけでなく、シャルトさんへの過剰な緊張感すらもなくなっています。落ち着いた心境で、どことなく引き締まった気持ちでシャルトさんの視線を受け止める事が出来ます。
「シャルトさんは東区にはよく来るんですか?」
 そう、私は自然に話し掛ける事が出来ました。これまで、名前を訊ねる事すら二の足を踏んでいた私とは思えない行動です。これも余裕を作る方法を見つけたからだと思います。
「え? あ、いや、今日は用事があって。普段はあまり来ない……事もない」
 シャルトさんはなんだか曖昧に答えました。
 あまり来ない事もない?
 それはつまり、時々来るという解釈でいいのでしょうか? ちょっと悩みます。でも、胸の奥で重しのようにいつまでも残るようなそれではありません。ちょっと困ったかな、という程度の極めて軽いものです。
 そして、私達はどちらからともなく食事を始めました。テュリアスはシャルトさんに寒天や小さく千切ったサンドイッチを貰って食べていました。私もあげてみようかな、とは思ったけど、また前のように指に噛みつかれるかもしれないのでやめておきました。あげるのはテュリアスから欲しそうな視線を受けた時だけにします。
 しばらくして、シャルトさんが一つ目のメニューを食べてしまいました。丁度その頃に二つ目が届けられます。私はゆっくりと食べていたので、まだ半分ほどしか食べ終えていません。それに少し満腹感も出てきてペースは落ちています。でもシャルトさんは全くペースが一定で、手を休める事がありません。別に特別急いで食べているという訳でもないのですが、ペースがずっと変わらないから早く見えるのだと思います。
 と。
「あのさ、また時々。良かったらご飯食べないか? 一緒に」
 突然、シャルトさんが口を開いてそんな事を言ってきました。
 あ……。
 私は言葉の意味を理解するのに必要以上の時間がかかりました。私の頭は意味を解釈するよりも驚きを鎮める事で精一杯なのです。
「はい! 是非」
 そして飛び出したのは、まるでがっつくような、興奮と喜びとが一気に口調に出た返事でした。
 はしたない……。
 そんな醜態を晒している自分が情けなく思えました。
 でも、嬉しいです。
 週に一度、必ず爛華飯店に来るお客さん、というだけの関係だったシャルトさんと、個人的に会う機会が、それも週に一度と限らない形で申し出が舞い込んできたのですから。
 まるで夢のような気分でした。
 けど夢ではありません。現実です。



TO BE CONTINUED...