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 たった一夜にして、村は野盗の手によって廃墟と化した。
 後に残ったのは、焼け焦げた建物の残骸と夥しい数の死体の山だった。
 これほどの事件も、無政府国であるヨツンヘイムでは日常茶飯事の事だった。もしもこれが隣国のヴァナヘイムやニブルヘイムならば、治安を乱す重大な問題として国がただちに野盗といったアウトロー的存在を排除し治安を保とうとする。だが、ヨツンヘイムには政府はなく治安の自衛能力もないため、難解な過程を踏む必要がある生産的行動よりも単純で短絡的な略奪行為に走る人間は後を絶たなかった。村が野盗に滅ぼされる、という事はヨツンヘイムにとって必然的事項の一つであり、無政府国だからこそ避けられない宿命でもあった。そして、それに対する人々の意識もまた通常の自治国の人間とは違ってあまりに無関心だった。自治領域で行なわれた犯罪行為に、人々は通常警戒意識を持つ。だがヨツンヘイムに住む人々は、村が一つ滅ぼされようともあまり興味はなかった。ただ地図の上から、それも極めてローカルなものから一つ、村の記号が消えた。たったそれだけの事なのである。
 その晩、村から連れ去られたのは数人の子供だった。子供が売られる先は幾つもなかった。使い捨ての労働力か、財力のある人間の玩具になるかのどちらかである。
 そして、シャルトは後者だった。
 シャルトの行き着いた先は、とある新興宗教団体だった。それはヨツンヘイムでも比較的規模の大きい名の知れた宗教団体であり、その教えは厳格な戒律と質素な生活を基盤としていた。しかしその実態は、信者の高額な寄付により私腹を肥やした上層部の人間達が自らの説く教えとは全く正反対の、彼らの言う所の『悪徳』を愉しむ事を生き甲斐としているような、極めて上下の温度差が著しいものだった。暴飲暴食、そして荒淫。人間の三大欲の内、実に二つを自らの欲するまま非理性的に繰り返していた。とどのつまり彼らは、己の欲求を満たすために必要な金を得るために宗教を利用していたのである。ヨツンヘイムは無政府国であるため、ただでさえ情勢が不安定、明日の自分の暮らしに不安感を憶えない人間はそうもいなかった。そんな彼らの不安感に宗教という名を用いて巧みに入り込み自らの奴隷に飼い慣らした。戦闘集団のように力を持たない彼らにとって宗教は、自らの安全の確保と欲求の充足のための最高の手段だった。
 そんな場所に、シャルトは高値で売られた。シャルトの持つ薄紅色の髪と瞳が珍しく、また中性的な容姿も一際目を引いてしまったからだ。偏執的な趣味を持つ人間には特に気に入られた。それだけシャルトの容姿は珍しかった。
 シャルトは、外部の人間は存在すら知らない、教団の保有する塔へ連れて行かれた。そこで、毎日のように彼らの言う奉仕活動を強制された。シャルトには従う意思など当然なかったが、抵抗するよりも前に依存性の高い薬物を投与されて従わざるを得ない状況を作り出されてしまっていた。命令に従わなければ薬は与えられず、与えられなければ気が狂いそうになるほどの苦痛に見舞われた。苦痛から逃れるため、自分の意志を殺して彼らの命令に従い続けたシャルトだったが、やがていつしか必要最低限以外のことについて考える事をしなくなってしまった。ただ、薬の禁断症状から来る苦痛さえ感じなければ良い。それが逃亡すらあきらめたシャルトにとって最後に残された自発的な欲求だった。
 そして。
 来る日も来る日もリビドーとフラストレーションの一方通行を受けながら。ふと、ある時、シャルトは考えた。
 教団の所有物である彼らは、塔の一角にある、まるで罪人を泊めるための檻のような部屋に保管されていた。ある晩、檻の中にいたシャルトは、ふと何気なく視線を周囲へ走らせた。檻の中には自分と同じ境遇の人間が、ある者は自分と同じように檻の隅でうずくまりながら淡々と時間の経過を待っており、またある者は精神的に追い込まされたせいかブツブツと何かを小声でつぶやきながら自分の腕に爪で傷を作っていた。皆は一様に目付きが虚ろで、自分と同じように禁断症状の苦痛から逃れる以外の欲求を持っていない彫像のような表情だった。ここから脱走する方法や、外部に助けを求める方法や、そういった可能性は全て諦めている様子だった。
 と。
 そこでシャルトはふと、まだそういった選択肢の存在を考える事が出来る自分に気づいた。
 いや、考える事が出来るだけだ。
 たとえするだけの気力があったとしても、具体的にどういった手順で行なえばいいのか分からない。それに薬を貰えなければ、すぐに気が狂いそうなほどの苦痛に見舞われてしまう。それだけは何よりも耐え難い。
 檻の中にある小さな窓から、シャルトはいつも西の空に沈もうとしている太陽を見ていた。教団の人間が来るのはいつも日が沈んでから。そのため心の中で太陽にまだ沈むなと叫び続けていた。太陽が沈むと、一変して恐怖感が込み上げて来た。体を小さく縮れ込ませ、全神経を檻の外の気配に向ける。いつ、連中は自分を呼びに来るのだろう? 本当は今すぐにでも檻から逃げ出したい。しかし重厚なその扉にはカギがかかっており、幾ら開けようとしてもビクともしないのだ。
 恐怖に震えながら待つその時間は、禁断症状に次いで苦痛だった。いつになったら自分は解放されるのだろうか? どうすればこんな辛い思いをせずに済むのだろう? そんな迷いと恐怖の入り混じった錯乱は、やがてやってくる教団の人間に与えられた薬により、非情に払拭される。
 日々蓄積されていく薬に耐え難い恐怖も相まって、自分が崩れていく感覚を感じ始めた。怖くない。痛くない。辛くない。ガラスのように今にも割れてしまいそうな自分の心に向かってなんども言い聞かせ続けてきたせいか、いつしか本当に痛みが感じられなくなっていた。狂宴が終わってからも、目を閉じれば悪夢ばかりが映し出されて眠る事すら出来なかった。
 きっと自分はもう駄目だ。
 やがてシャルトは、そうぽつりと呟いた。
 最近は時間の感覚どころか、まともにものを考える事すら出来ない。感情も残っているのかどうか分からず、ただ自分が時間の流れに流されている事だけを実感できた。
 辛うじて思い出せるのは、母親とその兄と暮らしていた時の断片的な記憶だけだった。それもいつしか壊れて消える。そう考えると、もはや絶望感も感じられないほど心の中が空虚になった。誰かが助けてくれれば。しかしそれは考えるだけでも虚しい言葉にしか過ぎない。
 シャルトがここに来て、実に三年の時が流れようとしていた頃。
 教団には一つの大きな動きがあった。
 それは、教団の莫大な資金力により戦闘集団を更に三つ獲得した、という事だった。これまでも教団は一つの戦闘集団と契約を結んでおり、外部からの武力侵攻に対して対処していた。しかし今回の件は、戦闘集団を更に三つ増やす事が単なる防衛力の強化には留まらない、という事として周囲には認識された。これだけの武力介入力を持てば、大概の敵と徹底交戦となっても容易に圧倒する事が可能になる。つまり四つの戦闘集団の保有は、実質的な武力侵攻の前段階という意味を持つのである。
 この事態を重く受け止める戦闘集団は多数あった。この規模との徹底交戦となれば、その被害は甚大なものになる。辛うじて勝利したとしても、弱った所を他の戦闘集団に漬け込まれないとも限らない。同盟を組む戦闘集団はあったが、皆、教団の問題に関しては相手に押し付けがちだった。下手を打って戦争になり、被害を被りたくなかったからだ。教団との戦闘は自らの進退問題ではなく存在そのものの危機に直結するのである。同盟力そのものもまた、相手と事を交えて他の戦闘集団に漁夫の利を取られたくない、という程度の稀薄なものであった。
 そしてたらい回しにされ続けた教団の問題は、遂にヨツンヘイム最強の戦闘集団の下へ回ってきた。場合によっては共同戦線を張り教団を実質的な壊滅も厭わない、という条件付で。



TO BE CONTINUED...