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これはきっと夢だ。
だって、目の前にあの人が……シャルトさんがいるから。
私はそんなにパッとする見た目でもないから、彼が気にかけるはずがない。だからこういう事は、決して起こり得るはずがない。
でも、もし。
もしもこれが現実ならば。
どくん!
心臓が高鳴ります。
どうしよう……。
私は席に座ったまま、緊張に肩を強張らせて硬くなっていました。びっしょりと濡れた手のひらを膝の上でぎゅっと握り、ひたすら言葉を画策します。
ほんの十数センチ先には、シャルトさんが座っています。今までずっと、それも三ヶ月以上の間、ただひたすら遠くからじっと見つめてきただけの人。その人が、確かに私の方を見ています。
何か話さなきゃ。
ずっとそれだけが頭の中で焦れていました。けど、幾ら考えても会話の切っ掛けとなるような言葉は見つかりません。そもそもどうやって何を話したらいいのかすら見当もつきません。私は男の人とまともに話した経験が全くと言っていいほどないのですから。
席に座って、多分三十秒弱。感覚ではもう何分も経過したように思えます。その間、私達はどちらからともなく口を開く訳でもなく、ただ黙っていました。シャルトさんから何か話してくれれば。だけどシャルトさんは黙ったまま何も言おうとはしません。どうしよう、何か気を悪くしてしまったのでしょうか……?
と、その時。
シャルトさんの着ている黒い上着の襟元がもぞもぞと動きました。するとそこから、ぴょこっと白い影が飛び出します。その影はシャルトさんの肩まで登ると、ぴょんと飛んでテーブルの上に降り立ちました。それはシャルトさんがいつも連れている白い子猫でした。
子猫はじっと私の方を見つめてきます。白猫は取り立てて珍しい訳でもありませんが、その猫は目の色が燃えるような赤をしてました。目が赤い動物なんて私は初めて見ました。
あれ?
ふと、私はその子を見つめながらある事に気がつきました。この白猫、一見すると仕草は猫そのものだけれど、細かな特徴が猫のそれとは違います。その途端、私は自分でも驚くほど頭が回転し、とある画期的な事を思いつきました。そうです。これを話題にすればいいのです。
意を決し、まずは口の中の乾いた唾を嚥下します。そしてもう一度くどくどしく決心を固め、そして喉に力を入れます。
が―――。
「あ、あの」
「あ、あの」
ハッと私は言葉を飲み込みました。私が話そうとした瞬間、これまで黙っていたシャルトさんも口を開いたのです。
なんて私はタイミングが悪いんだろう。
そう自分を叱咤せずにはいられませんでした。もっと相手の出方とか様子を確認しておけばこんな事にはならずに済んだのに。叱咤の後、深い後悔の念を私が襲います。
「っと、何?」
シャルトさんが、そう私に問い返してきました。
「あ、あの、この子、かわいいですよね」
私は少し不自然に歪んだ笑みを浮かべながら、シャルトさんの視線を逃れるように子猫に振ります。
なんでこっちに振るの?
私の頭の中にそんな言葉がぽつっと浮かびました。けど、シャルトさんの事で精一杯だった私は、それを気にする余裕はありません。
「ああ。テュリアスっていうんだ」
「猫、ですか? ちょっと違うようにも見えるけど……」
「いや、テュリアスは虎なんだ。ただ、アルビノ種だから黒い毛の模様とかがなくて。まだ子供だし、あんまり虎らしくないだろ?」
あ、そうか。だから猫にしては少し雰囲気が違うんだ。アルビノは少し聞いた事があります。先天的に色素が薄いので、体の毛が白く瞳が赤いそうです。実際に目にするのは初めてだから、これがそうなのか、と何となく感嘆してしまいました。確かアルビノは極めて珍しい存在そうです。
そんな事よりも。
たったこれだけの言葉のやり取りの後、私は思わず胸にじんと込み上げてくるものを感じました。今までずっと遠くから見ているだけだった、あのシャルトさんと会話をしている。こんな事、夢の中でも実現出来ませんでした。もう、本当に、まるで夢みたいで。一生分の運を使い果たしてしまったようで、少し怖くもあります。
……と。
そんな事って、どういう意味?
再び、冷然とした声が頭の中に響きました。舞い上がっている私とはまるで対照的な冷たさです。
それは私の冷静な部分の言葉なのでしょうか? いえ、それにしてはあまりに声のトーンが他人行儀です。ふと視線を感じて、私は視線をテーブルへ。そこには、シャルトさんにテュリアスと呼ばれた子猫……虎子が、赤い瞳でじっと私を見据えています。今の声はこの子? まさか。考え過ぎです。
「えっと、可愛いですね」
会話が途切れそうな危機感が込み上げ、私は咄嗟に会話を引き伸ばそうと、またもテュリアスをだしにして話を続けました。そして何の気なしにテュリアスに手を伸ばします。
が。
テュリアスの頭を撫でてあげよう。そう思って頭に手を伸ばすと、突然、テュリアスは大きく口を開けて私の手を迎え撃って来ました。咄嗟に私は手を引っ込めると、僅かに遅れ、がちん、と音を立ててテュリアスの口が勢い良く閉じられます。
「テュリアス?!」
シャルトさんが驚いた顔で声を上げました。けどテュリアスはぷいとシャルトさんから顔を背けます。まるで、シャルトさんの言葉を意に介さないとでも言わんばかりです。
「あ……あの、私、何か気に触る事をしてしまったでしょうか?」
「いや、別にそういうんじゃないんだ。おい、テュリアス!」
するとテュリアスはシャルトさんのその言葉を跳ね除け、ぴょんとシャルトさんに飛ぶとそのまま上着の中に入ってしまいました。それはあたかも拗ねた子供がどこかに閉じこもる様にも似ています。
「なんていうか、こいつ、少し気まぐれなんだ。あんまり気にしないで」
そうですか……。
そう、私は驚きを引き摺った気のない返事をしました。考えてみれば、たとえ子供だとしても猛獣は猛獣です。迂闊に他人である私に気を許すはずがありません。ぬっ、と頭の上に見知らぬ手が出てくれば、警戒心が先に出て咄嗟に噛み付きたくなっても当然です。
「なあ。えっと、リュネス……だったよね?」
リュネス。
自分の名をシャルトさんに呼ばれ、どくんと胸が高鳴りました。変に動揺してはならないと、咄嗟に理性がぐらつく私の言動を支えます。動揺してしまうと絶対におかしな事をし始めます。そのせいでシャルトさんに変な人だと思われたくはありません。
「は、はい。リュネス=ファンロンです」
「さっきの二人って、リュネスの?」
「はい。私の両親です」
義理のですけど。
しかし、私はそれをあえて口にはしませんでした。そこまで奥まった話をしたら空気が重くなると思ったからです。
「じゃあ、さ。リュネスはこの店の?」
「はい。お手伝いという形で働いているんです」
でも、本当はただのお手伝いではありません。少なくとも私はそう思っています。今のお父さんとお母さん、私を引き取った当時、本当は店の事で忙しくてそれどころではありませんでした。だから私は、これまでもずっと自分で出来ることは自分でこなし、二人の負担を軽減する事に努めました。やがて店が軌道に乗ってくると、私は自分から店を手伝う事を申し出ました。それも負担を少しでも軽減出来ればと思っての事です。
「あの、ところでシャルトさんは夜叉の人ですよね?」
シャルトさんが質問し尽くしたように思った私は、今度は思い切って自分から質問して見る事にしました。けど、先ほどのように気持ちの硬さはありません。きっと、あのテュリアスに手を噛まれかけた事が私の緊張を解きほぐしたのだと思います。
「ああ。まだ駆け出しだけどさ」
シャルトさんの着ている、夜叉の制服。真っ黒な上着はシックで落ち着いた雰囲気があり、言葉数が少ないシャルトさんのイメージに良く合っていると思います。左胸にはさりげなく夜叉の二文字が白い糸で刺繍されているのですが、こうして見れば何の変哲もないただの刺繍だけど、ヨツンヘイム、それも北斗に住んでいる人間にとってこれほど影響力のある文字はありません。
北斗と、そして北斗十二衆の名前は耳にするだけでも人に影響を及ぼす威光があります。戦闘集団北斗は、今までに一度も敗北した事がない常勝集団です。その事実が北斗の強大な実力を裏付け、そして人々には畏敬の対象となった現在の地位を確立しました。北斗とは、その名の示す通り死を司る集団です。これまでも、北斗に牙を剥くものはことごとく打ち滅ぼされました。その実績が、北斗に住む人々にも安心と安定した生活を保障しているのです。
目の前にいるシャルトさんも、その北斗に属する人です。北斗に属しているからといって特別優遇されるという規律はありませんが、自らの生活を守ってくれている実績からか自然と人々は敬意を示しています。北斗がただの戦闘集団ではなく、一般人の生活を守ってくれている事をみんなはよく知っているからです。そのため、自然と北斗の人達には羨望の眼差しが集められます。けど私は、シャルトさんのそんな肩書きは失礼だけどどうでもいいと思っています。私が好きなのはあくまでシャルトさんであって、北斗どうこうは関係ないのですから。
「いつもさ、トレーニングと称して色々な無理難題を課せられるんだ。今日中に北斗の外周を百週しろだとか、筋力トレーニングを百セットやれとか、午前中に物置を作れとかさ。でもおかげで随分と強くなれたと思ってる。自慢できるほどではないけどね」
そう、シャルトさんは微かに微笑んで見せました。私もまた、それに微笑んで返します。
シャルトさんは一見すると細身だけれど、一般人には想像もつかないほどの実力を持っているはずです。北斗の人間は皆、超人的な力を持っているのですから。だからシャルトさんもきっと、口では謙遜してはいるけれど凄く強いはず。体型からは想像もつかないくらい。
私はまじまじとシャルトさんの体を見ます。シャルトさんは男の人にしてはそれほど背も高くなく、中肉中背というよりも痩せ型に近いです。一応上着の上からの目測でしかありませんけど、格好良さと綺麗さが入り混じっている顔立ちも含めて特別強そうな外見ではありません。むしろ、先ほどシャルトさんが追い返してしまったというあの二人の男の人の方が背も高くがっちりとしているので強そうに見えます。
やっぱりシャルトさんはかなり体を鍛えていて、凄い筋肉質なのでしょうか? そう、服を脱いだりすると……。
と。
何を考えてるの?
突然、ひやりと冷たい言葉が頭の中に浮かびました。ハッ、と我に帰りうつろいでいた視線を正すと、シャルトさんの襟元からテュリアスが顔を出してこちらを覗いていました。
じっと私を見るその目は、どこか非難めいているように見えました。
TO BE CONTINUED...