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 自分の意見を持つ。
 どうしてこんな基本的な事が出来ないのでしょうか?
 答えは明確でした。単に私の意思が弱いからです。
 そこまで分かっているというのに、どうして自分が治せないのでしょうか。
 このままでは、自分の大切なものを全て失ってしまいます。
 頑張らなければ。
 意思の強さまで失ったら、私は一生今のまま変わる事は出来ません。




 夜。
 私はまるで寝付けないまま、暗い天井を見上げていました。
 頭の中で夕方のファルティアさんの言葉がぐるぐると繰り返し回ります。それが私の額の奥をじんと痛ませ、締め付けられるような苦しさが胸に込み上げます。やってくる睡魔は全て追い払われてしまいます。
 聞かされたのはシャルトさんの事についてでした。シャルトさんの事を少しでも多く知りたいと思う私にしてみれば、本当だったら喜ぶべき事なのかもしれません。しかし、聞かされた私の心境はまるで正反対でした。
 シャルトさんは、かつて暴走事故を起こした事がある。
 シャルトさんが飲んでいるのは精神安定剤。しかも以前は抗麻薬剤まで飲んでいた。
 この事から、私は自分なりに解釈してみました。
 一度は暴走事故を起こしたものの、運良く消滅だけは免れチャネルが使えないように封印された。これだけならば大した事はありません。シャルトさんはどう考えているのか分かりませんが、少なくとも私はいちいち細を穿って古傷をえぐるような真似をする必要性はないと思います。伏せたままでも、何の不都合もありません。
 それよりも。
 シャルトさんが飲んでいた薬の事の方が私は気になって仕方ありませんでした。
 精神安定剤。
 抗麻薬剤。
 どちらも日常に馴染みのない言葉ですが、その名前からどういう効果を持つ薬なのかぐらい想像はつきます。精神安定剤は文字通り気持ちを落ち着ける薬、そして抗麻薬剤は、麻薬に抵抗する薬。多分、麻薬と逆の効果があるような薬でしょう。
 では、シャルトさんはどうしてそんな薬を飲む必要があるのでしょうか?
 答えはそれほど悩まずに出てきました。薬を飲む理由なんてそうはないのですから。けれど、かと言ってとても信じる気にはなれません。これはあくまで私の個人的な見解ですし、真実とは違っているかもしれません。だから無理に信じても仕方がないのです。
 そう、私は自分に言い聞かせます。
 聞かなければ良かった。そういう後悔はありません。けれど、ただどうしたらいいのか、それが分からないのです。
「駄目だ……眠れない」
 私は重苦しい溜息と共にベッドから抜け出しました。そして部屋を出てキッチンへと向かい水を一口汲んで飲みます。冷たい感触がつうっと喉を通っていきます。けれど頭は酷く熱を持って厚ぼったいままです。
 どうしてファルティアさんが私に対して、もうシャルトさんとは会ってはならないと言ったのか。あの時は頭がカーッとなって訳も分からず噛み付くように叫ぶだけでしたが、落ち着いてみるとその意図がおぼろげながら見えてきました。ファルティアさんは、シャルトさんにそういう過去があるから私を近づけたくないと思っているのです。バトルホリックの迷信まで持ち出して。
 酷い。
 何よりもまず、私はそう思いました。そんな事で、と軽視出来るものではないかもしれません。けど、かといってまるで人間性そのものを否定するようなあの物言い。ファルティアさんは私にとって恩人ですが、幾らなんでもこれはあまりに酷過ぎます。許せません。これだけは、私は聞き入れたくありません。ここで聞き入れてしまったら、私は自分の好きな人さえも人に任せる事になってしまいます。何から何まで人に振り回されていては、生きている意味そのものがありません。
 なら、聞き入れなかった私はこれからどうすると?
 ファルティアさんから聞かされた事を忘れた事にしてシャルトさんと付き合い続ける事も出来ます。けど、薬の事はおそらく避けようがない問題として立ち塞がるかもしれません。その時、私はどうすればいいのでしょう?
 私は気にしていませんから。
 けど、それは逆にシャルトさんとの距離を広めてしまう事になります。気にしない、とは、つまりシャルトさんを構成する一部分を私が否定する事になるからです。そんな心構えでは、シャルトさんとはいつまでも表面的な付き合いだけを続ける事になってしまうのです。
 どうしたら一番いいのでしょうか。
 今度は逆に否定する事をやめ、徹底的に目を向けたとしたら。もしもそれがシャルトさんにとって触れられたくない事柄だったら。私はそれこそ古傷をえぐるような真似をしてしまいます。
 どちらにしても、良い結果が得られない。
 シャルトさんとの距離を近づけたい。私は心からそう思っていました。けれど、そのためにはこの問題は乗り越えなくてはいけないのです。それが本当の相互理解というものなのですから。
 しかし、どう双方の間で消化すればいいのか、それを考えるだけで頭の上に重い石が圧し掛かってくるような居た堪れなさが込み上げてきます。そして私は考える事を億劫がっていき、結局は現状のぬるま湯のような関係を続けていくのです。
 ―――と。
 しゃんしゃんしゃん……。
「あ……」
 突然、どこからか何か物音が聞こえてきます。
 私は耳を澄まして音の出所を探ります。音は何か越しに聞こえてくるようです。もしかすると部屋の外から聞こえているのかもしれません。
 それにしても何の音なのでしょうか? 一応、外に様子を見に行くべきなのでしょうが、やはりどうしても一人で確認するのは怖くて二の足を踏んでしまいます。
 ファルティアさんに頼んで、代わりに見てきてもらう?
 けど、すぐにそれは止めました。夕方、あんな会話をしてからずっと言葉も交わしていないのです。だから何となく気まずくて、こんな事でも頼みにくいのです。
 とりあえず、このまままんじりとしていても仕方ありません。私は思い切って自分で確かめに行く事を決心しました。もしも部屋の外におかしな人がいたとしても、大丈夫、私にはまだ未熟ですけど精霊術法があります。倒す事は出来なくとも、自分の身の安全ぐらいは守る事が出来るはずです。
 が。
 どたん! ばたん!
 その時、部屋の外から聞こえるそれとは別のけたたましい音が鳴り響きました。音はファルティアさんの部屋の方から聞こえてきます。まるで何かが倒れたかのような、そんな大きな音です。
 ばたん!
 驚く間もなく、激しくドアの開かれる音が聞こえてきました。そしてドタドタと廊下を走る音が聞こえます。
「あ、あの……ファルティアさん?」
 私はそっと廊下を覗き込みながら暗闇に動く影、ファルティアさんに恐る恐る訊ねました。
「リュネス! 凍姫本部に行くから! あんたも急いで!」
 ファルティアさんは険しい口調でそれだけを告げると、大急ぎで部屋から出て行ってしまいました。
 凍姫本部に行くって……今から?
 どうしてこんな時間に本部へ行く必要があるのでしょうか? 私は訳も分からず、まるで嵐が通り過ぎたかのように静まり返った部屋の中で茫然と立ち尽くします。
 とにかく、私も後を追わないと……。
 ひとまず部屋に戻ると、寝着から凍姫の制服に大急ぎで着替えました。そして未だに履き慣れない固い革で出来たブーツを履いて部屋を出、ドアを閉めてしっかりとカギをかけます。しっかりロックされた事を確認すると、すぐさまファルティアさんの後を追うべく階段へ向かって駆けました。ここから本部まで、精一杯走って数分といったところでしょうか。凍姫に入ってから体を動かす機会が増えたため、体力もかなりついています。以前の私なら、少し走っただけですぐに息が上がってしまったものです。というよりも、体力がなければ仕方のない状況ばかりが続いたせいでしょう。
 今まで気がつかなかったのですが、天井に一定間隔ごとに半鐘が吊り下げられていました。それが前後に揺れてしゃんしゃんと盛んに鳴っています。どうやら先ほど私が聞いていた音はこの半鐘のものだったようです。紐か何かで繋がっていて、それをどこかで引いているのでしょう。
 手すりに触れながら急いで階段を駆け下ります。けど、うっかりつまづいて転んでしまうのではないかという恐怖感から、なかなかスピードを出す事が出来ません。この慎重を通り越したまどろっこしい性格は相変わらずです。
 と。
「リュネスか」
 ようやく宿舎の外に出たその時、私の背後から聞き覚えのある声が聞こえてきました。振り返るとそこにはリーシェイさんの長身がありました。リーシェイさんもまた凍姫の制服を着ています。
「あの、これは一体何なのでしょうか? ファルティアさんも本部の方へ慌てて行ってしまいましたし」
「これは緊急召集の合図だ。行くぞ」
 そう告げてリーシェイさんは凍姫本部に向けて走り出しました。すぐさま私もその後を追います。
 前方を走るリーシェイさんの長い黒髪が風に揺られて宙を舞っています。リーシェイさんは足が長いせいもあり、幾ら急いでも私は一向に追いつく事が出来ません。けど、その背中を見失う事はありませんでした。多分、リーシェイさんが足を私に合わせてくれているのだと思います。精霊術法の制御もそうですが、こういった体力面の強化も今後は重点的に視野へ入れていかなければなりません。
 やがて到着した凍姫本部は、深夜だというのに照明がつけられ人の気配で溢れていました。何人か単位で編成されたらしいチームが幾つか本部を凄まじい速さで後にします。確かに緊急事態のようです。今の人達は指示を受けて出動したのでしょう。北斗で起こった事件は大抵守星が対応します。けれど凍姫が動いているという事は、守星では対応しきれない深刻な事件が起こったという事になります。私なんかの出番はあるのでしょうか? この様子ではないような気がします。
「正面玄関は少し混雑しているな。私達は裏口に回ろう」
 そうリーシェイさんに促され、私は連れ立って裏口へ回りました。そうしている間もばたばたと忙しそうに玄関を飛び出していく隊員達がいます。
「何かあったのか?」
 と。
 不意にリーシェイさんが私に問い掛けてきました。
「どうしてそんな事を?」
「表情に影がある。悩み事のある顔だ」
 鋭い……。
 リーシェイさんの言う通り、私には悩み事がありました。そうシャルトさんの事です。それにしても、私は別に普段通りの表情をしていたと思うのですが。気がついていないだけで、相当落ち込んだ表情をしているのかもしれません。
「あの……シャルトさんの事なんですが。ファルティアさんに、その……」
「暴走の事か? もしくは薬か?」
「両方です」
 するとリーシェイさんは苛立だしげに舌打ちをしました。
「あの無神経め……。人の要らぬ過去をぺらぺらと」
 リーシェイさんの眼差しが微かに険しさを増します。表情にははっきりと出ていませんが、ファルティアさんが話してしまったという事に少なからず怒りを感じているのは確かです。
「やっぱり、本当なんですね……?」
 普段冷静なリーシェイさんがこれほどの反応を見せるということは、やはりファルティアさんの言ったそれは嘘や噂の類ではなく真実のようです。どこかで真実ではない事を期待していたのでしょう、私は僅かに落胆を憶えてしまいました。
 私の問いに、リーシェイさんは一度軽くうなづきました。そして、
「あいつは過去に辛い体験をしていてな。その後遺症が今でも続き、あいつは苦しんでいる。そこから必死で立ち直ろうとして、そのために薬は飲んでいるのだ。出来るならば、お前もこの話は聞かなかった事にしろ。いつかあいつ自身の口から聞かされるだろうからな」
 はい、と私は答えました。
 辛い過去。一体それが何なのか、リーシェイさんは口調からして何か知っているようでした。正直、聞きたくない、と言ったら嘘になります。でも、ここで聞いてはいけないと思いました。シャルトさんが話してくれないのは、それだけ不用意に話せるほど軽い過去ではないからです。
 私はまだ、シャルトさんが打ち明けてくれるには値しない存在なのだと思います。どうすれば私がそうなれるのか、具体的な方法とか基準は分かりません。でも、精一杯シャルトさんの事を理解して距離を近づけたいと心から思います。どうしてそこまでするのか。それは、私がシャルトさんを好きだからです。それ以外の何物でもありません。
「シャルトとはどうなんだ?」
 そして。
 これまでの重苦しい空気を払拭するかのように、珍しくリーシェイさんが明るく軽い口調で問い掛けてきました。
「まあ、その……。そこそこです」
 そう私は曖昧に言葉を濁して答えます。
 正直、かなりぬるい関係が続いています。お互いの感情に深く突っ込んだ質問をする訳でもなく、ただ一緒に昼食を取りながら日常の些末事を話すだけです。一ヶ月もあれば、もう少し進展してもいいのですが。相も変わらず無難な境界でのやりとりしか交わしていません。
「なんだ、まだなのか」
 しかしリーシェイさんは露骨に何かを示唆するような言葉を返してきました。
 まだって……。随分と軽く言ってくれます。私はリーシェイさんとは違う人間なんですから……。胸もそれほどないので、リーシェイさんがしたように顔を胸に押し付けたって痛いだけです。キスだって、そんな度胸があればリーシェイさんにこんな事を言われたりしません。リーシェイさんにとって簡単でも、私にはある意味精霊術法の制御よりも難しいのです。
「一ついい事を教えてやろうか」
 と、そう言ってリーシェイさんは右手と左手を組むと、それを頭の上にかざしました。
「リュネス、手の間に何か見えるか?」
 リーシェイさんに問われ、私は上を向いて組んだ手を覗き込みます。しかしこれといって特に変わった所は見当たりません。
「何も見えませんけど」
「そうか。だったらその態勢のまま目を瞑るんだ」
 はあ。
 一体何を教えてくれるのかまるで見当もつきませんが、とりあえず私は言われた通りに上を向いたまま目を閉じます。
 が。
「ッ!」
 次の瞬間、私は慌てて目を開けると、その場から二歩程飛び退きました。
「良い反応だ」
 案の定、リーシェイさんは思い切り顔を近づけ、組んだ手を解いて私を抱き締めかかっていました。何のために抱き締めようとしたのか、それは初対面の時の事を思い出せば容易に想像がつきます。
 思った通りです。目を閉じて上を向いたその態勢。それはまさしくあれの態勢とそっくり同じなのです。そうやって言葉巧みに騙して、そういう事をしようとしたのでしょう。何とか気づけて、本当に良かったです。一歩遅ければ、あの悪夢の再来になってしまったのですから。
「こんな事を教えられても、私は困ります」
 この手段を使ってどうしろというのでしょうか。こんな子供じみた悪戯、一体誰に通用するというのです。いえ、そもそも。こんなやり方で掠め取ったって……。気持ちが離れたままでは虚しいだけです。
 けれど、
「シャルトは引っかかったぞ」
 リーシェイさんはそう悠然とした表情を浮かべて答えました。
「……え?」
 思わず問い返す私。けれどリーシェイさんは意味深に微笑み返すばかりで否定はしませんでした。



TO BE CONTINUED...