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 まいったな……。
 日が暮れ、大聖堂とかいう慇懃な部屋の傍にあるだだっ広い食堂で、カチャカチャと食器を鳴らすだけの息の詰まるような食事を終え、案内された寝室はベッドと簡素な調度品があるだけのいかにも宗教団体らしい地味な部屋だった。正直、食事もこれといって目を見張るような豪華さもなく、出されたワインも大衆向けのそれだった。何故か急に扱いが変わった印象を受ける。いや、そう言うよりも慎重になったと呼称するのが正しいだろう。そう、まるで俺に対して自分の腹の内を見せぬよう慎重になっているかのようである。
 どうやら俺がただの実業家ではない事に、少なくともあの尊士は気づいているようだ。これがその証拠である。そして通されたこの寝室も、俺が部下と相談が出来ないようにわざと一人部屋にしたようだ。確かに、敵地で孤立してしまうのはかなり精神的に痛い。ただ群がる敵を打ち払っていけばいいような戦闘メインのそれではなく、あくまで相手の本質を知られずに見定めるのが今回の任務だ。ただでさえ慣れないスキルを駆使しなくてはならず、しかも既に作戦は綻び始めている。この状況をたった一人で収集をつけなくてはならないというのは、想像以上の重圧だ。あんまりこんな事を言うのはダサいので言いたくはないのだが、どうして北斗総括部は今回の任務をよりによって俺に回してきたのだ、と愚痴の一つもこぼしたい気分だ。もっと他にこういうのが得意なヤツはいたはずだ。俺がミスったとしても責任は総括部の人選ミスにあるのだが、結局は俺が悪い事になってしまう。それが北斗の宿命だ。
 このまま溜息ばかりついても仕方なく、俺はとりあえずベッドに座る。今日はこれといって体を動かした訳ではないにも関わらず、やけに全身がずしりと重い。散々自分の意にそぐわない態度を取り続けて来たからだろう。いわゆる気疲れというヤツだ。
 さて、どうしたものか。
 筋肉の強張った体をぐっと伸ばしながら、ベッドへ背中から倒れ込む。やはりいまいち気分が乗り気ではない。こういう時はウィスキーをストレートで煽るに限るのだが、どうやらここの教えではワイン以外のアルコールを推奨していないようだ。命の水とも呼ばれるほど体には良いものなのだが。そんなものよりも、聖人の血の象徴だというワインの方がいいらしい。
 状況は不穏で、天候に例えるならば嵐を目前に控えた曇天の空模様といったところだ。にも関わらず、どこか俺は焦りを感じながらも余裕があった。それはまるでこの危機を楽しんでいるかのようだった。悪い癖だ、と俺は苦笑いする。事態を楽観視できる要素など何一つないというのに、何故か漠然とした余裕に満ちている。俺の抱く焦りとは、余裕と言う名の広大な海に浮かぶ木辺のようなものだ。
 考えてみれば、この程度の危機などとは比べ物にならないほどの死線を、俺は何度も潜り抜けてきた。第一、俺の素性がばれてしまった時点で命の危険に直結する訳ではない。右に行くのか左に行くのか、たったそれだけを間違えるだけで冥土への直行便に乗せられてしまう事態に比べれば、遥かに生温い状況ではある。それがきっと俺の余裕を普段通りに保たせているのだろう。
 さて。
 他にやる事もないことだし、これまでの事を考察でもしてみるか? とは言っても、今の所は見る限りはそれといって不穏な動きはなかった。宗教を利用して金を集めているのは倫理的に問題はあるが、任務の最終決定を『武力介入』とする要素にはならない。要は北斗にとって危険か否か。問題はそこなのである。まあ、一日目にして最終判断を下すのは幾らなんでも尚早だ。もうしばらく様子を見る事にするが、あまり長居は出来そうもない。それに、ここの空気は俺にはあまりに居心地が悪過ぎる。俺はもっと賑やかなのが好きなのだ。幾ら神聖な場所だとしても、俺にしてみれば墓場と大差ない。俺は刺激がなければ生きてられない。
 と。
 突然、部屋のドアが外からノックされる。時刻はまだ宵の口だが、こんな時間に一体誰が訊ねて来たのだろうか。俺はすぐに起き上がるとドアへ向かった。
「……」
 ん? 誰だ?
 ドアを開けると、そこに立っていたのは見慣れない子供だった。歳は十幾つかそこら辺、小柄な体には大き過ぎるぶかぶかの僧衣を身に纏っている。警戒心を露に、二周りは背丈のある俺を伏目勝ちに睨むように見ている。
 いや、それよりも。
 何より俺の目を引いたのは、そいつの容姿だった。髪、瞳共に、まるで桜のように美しい薄紅色をしており、その髪を肩下ほどまで長く伸ばしている。髪自体も癖がなく、一本一本が細い。そして顔立ちは未成熟である云々を抜きにしても、中性的な細面でハッとするほどのシンメトリーだ。
 一目見ただけでは男なのか女なのか本当に分からなかった。どちらでも通る容姿をしており、尚且つ押し黙って口を開かないため声色から判別をつける事が出来ない。とにかく、どちらにせよこれほど目を奪う容姿の人間にはこれまで一度もお目にかかれた事はない。俺は思わず食い入るようにそいつの姿形をまじまじと見詰めた。
「何か用事か?」
 ようやく自分がボーッとしていた事に気がつき気を取り直す。そして、突っ立っているだけで喋ろうとしないそいつに、こちらからそう問い掛ける。そいつはやや視線をうつむけながら、俺を自分の視界に入らないようにしているように見えた。ここにやってきたのは明らかに自分の意志ではないという事が分かる。大方、誰かの命令で嫌々来たのだろう。
「……呼んでる」
 俺の問いに対し、そいつは消え入りそうなほど小さな声でそう呟くと、くるりと向きを変えて廊下を戻り始めた。こちらの返答などまるで意図に入れていない。
「は? おい、ちょっと待てよ」
 すぐさま俺は部屋から出てドアを閉めると、見失わぬようその後を追った。しかしそいつはこちらには一向に気を留める様子がなく、ただひたすら自分のペースで歩き続ける。俺に比べて足が短いので歩幅が狭く、俺はすぐに追いつく事が出来た。むしろこちらが少しペースを落とさなければ追い越してしまいそうだ。まあ、子供の歩みなんてこんなものだ。
 そいつの声は辛うじて男と分かるものだった。そう考えると男にも見えなくもないが、伸ばしている髪が女にも見せる。
 変なヤツだな……。
 あまりに一方的なそいつの態度に、俺は肩をすくめて微苦笑する。
 そういえば、コイツ。何だか雰囲気が今までのヤツと比べて異質だ。というよりも、コイツが相対的では無しに異質な空気を放っているのだ。うまく言葉に表現は出来ないが、どこか刹那的と言うか自分そのものに諦観を決め込んでいるような感じだ。今までにここで逢ったヤツらは、神の台に属すると盲信する事への安心感からか精神的な余裕にやたら溢れているか、表向きは人のいいツラをしていて腹の中ではドス黒いチンケな事を考えているのどちらかだ。しかし、こいつからは良くも悪くもそういった覇気がまるで感じられないのである。まるで心だけが抜け落ちてしまった、生きた人形になってしまったかのようだ。
 こいつはここの信者なのだろうか?
 ふと、そんな疑問が浮かんできた。
 これは俺の勘だが、こいつは実は何らかの理由で従わざるを得ない理由でもあるのではないかと思う。そう考えると、こいつの着ている服も強制、髪すらも強制されて伸ばしているように見えてくる。何から何まで縛られている。根拠のない推論だが、そんな印象が拭えない。それだけ、こいつの存在感はここでは異質なのである。それも、来たばかりの俺にはっきりと分かるほどにだ。
「なあ、お前。名前はなんて言うんだ?」
 そう俺は何気なしに前を歩くそいつに訊ねてみる。だが俺の問いに対する返答はこれ以上にない沈黙だった。聞こえているのは確かだが完全に無視されている。どうやら俺とは話すつもりは一切ないらしい。
 やれやれ……気難しいヤツだ。
 話し掛けた時に必ずしも友好的な返事を貰えるとは思ってはいないが。ここまで露骨に無視されたのは随分と久しぶりだ。しかもそれが、まだ年端もいかないこんなガキだ。怒りが込み上げてくる訳ではなかったが、どこかぽっかりと胸の中に穴の空いたような気分にさせられる。
 そいつは廊下を抜け、裏口から外へと出て行く。そこには表からは見えなかった中庭が広がっていた。しかし、時刻も時刻と言う事があってその全体を見渡す事が出来ない。辛うじて足元周辺だけが、細かな白砂利の上に大きな踏み石が並んでいる道がずっと先へ伸びているのが分かった。
 それにしても、呼んでる、って言ったが。こんな所まで来て、一体誰にどこから呼ばれてるっていうんだ? 中庭になんか人の気配などまるでしないし、第一こんな時間にこんな暗い所へ誰が行くと?
 そんな俺になど一向に構わず、ひたすらそいつは足元も見えないような暗い道を歩いていく。まるで道が見えているのか、もしくは見えていなくとも構わず進んでいるかのような速さだ。
 呼んでるって、まさか幻聴とかじゃないだろうな? ふと、そんな安い怪談じみたものを思い出す。そういえば、つい数日ほど前に、ルテラに強引に連れられて凍姫の連中と飲んだんだが。メンバーは無論、あの色々な意味で有名なあいつらだ。その中の一人に、やたらこの手の話に詳しいヤツがいる。丁度そいつから聞かされたのがこういう話だった。夕暮れ時、目的の宿に向かっていた商人の下へ宿からの迎えがやってきたが、実はそいつは既にこの世の人間じゃなかったという……。なんにせよ、幽霊なんざ神様と同じぐらい存在の怪しげなもんだ。いちいち過敏に反応するまでもない。
 それにしても、なんて広い敷地だ……。
 先ほどまで辛うじて届いていた建物の灯かりは、既に遠く後ろへ消えてしまっている。ニ、三分は歩いただろうか? ざっと見積もっても五百メートルは歩いただろう。個人所有の物件にしては随分な広さだ。これはよほど金がなくては出来ない代物だ。
「ん?」
 更に数分ほど歩くと、不意に前方の暗闇の中にぼんやりと灯かりが灯っているのが見えてきた。
 それは、幾つもの灯かりがまとまり、まるで塔のように空へ向かって伸びている。いや、よく見てみればそこには実際に塔が立っている。暗闇でも映える、不気味な白い塔だ。
「なあ、おい。呼んでってアレの事か?」
 再び俺は前方を歩くそいつに訊ねてみた。しかし案の定、帰ってきた返答は重苦しいまでの沈黙。今度はそれほど答えは期待していなかっただけに、俺はやれやれと軽く肩をすくめるだけだった。
 ―――と。
 その時、ふと俺は視線を目の前のそいつへ向けた。
 そいつははっきりと見て取れるほど、ガタガタと肩を震わせていた。足取りも明らかに遅くなっている。
「おい、どうかしたのか?」
 異変が気になった俺は、無視されるだろうと分かっていながら訊ねてみた。やはりそいつはじっと押し黙ったまま口を開かない。だがその沈黙は、俺とのコミニュケーションを拒絶しようとしているのではなく、ただ何かに怯えて言葉が発せなくなっているようだった。
 塔が見えてくるなり震えが始まった。
 俺には、こいつがあの塔を恐れているようにしか思えなかった。まるでこれ以上近づく事を拒絶しているようだ。
 一体、あの塔には何があるのだろうか?
 ただならぬ予感がした俺は、緩みかけた気持ちを締め直した。



TO BE CONTINUED...