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毎日を平穏無事に過ごす事。それが私の目標です。
もっと他に夢はないのかと訊かれる事はあります。でもヨツンヘイムでは、平穏を手に入れること自体が困難なのです。今の生活も、混乱を極めるヨツンヘイム全土から考えればかなり恵まれているのですから。私は多くは望まないのです。
私は今の自分を、単に夢中になれる事を見つけていないだけだと思います。毎日が忙しくて、目まぐるしく過ぎ去っていくから。考える余裕がないのでしょう。
忙しさの波に翻弄されながら、ただただ目の前の事を片付ける事で精一杯。それがリュネス=煌龍という人間なのです。
けど。
私、見つけたような気がします。
時刻は八時を過ぎました。
あんなに溢れ返っていたお客さんの姿は店内からほとんど消え、つい数十分前までの喧騒が嘘のように静まり返っています。
私は空いたテーブルを拭いて回りながら、閉店までの残り時間を過ごしていました。従業員のみんなはもう帰りました。今、店に残っているのはお父さんとお母さん、そして私の三人だけです。靴の音さえも気にしてしまうほど、店内は静まり返っています。
広い店内を見渡すと、北の龍席に三人連れが一組、西の亀席に二人連れが一組。どちらも既に食事を終え、ゆっくりと談笑しながらお酒やお茶を飲んでいました。あんな風にのんびりと、もうしばらく過ごすつもりなのでしょう。こちらも店を閉め急ぐ訳でもありませんし、週末の時間を過ごす場所としてうちを選んでくれる事には店員として感謝しなくてはいけません。これが従業員の心得であるとお母さんは言っていました。
ふう……。
と、私は溜息を漏らしてしまいました。テーブルには私の呼気が当たって白い曇りが浮かびました。私はハッとそれに気づき、すぐに拭き取ります。時計を見れば、八時を十五分も過ぎています。今日は土曜日。そう、あの彼が来る日なのですが、彼はまだ、お店に現れてはいません。
今日はどうしたのだろう?
何度、頭の中でその言葉を繰り返したのか分かりません。彼が土曜日の七時に必ず来るという根拠や確証がある訳ではないけれど、彼と初めて逢った時から全ての土曜日には決まって来てくれたから、これからもそうなのだと自然に思っていました。だから、不意に姿を現さなくなった今夜はどうしようもなく不安で仕方がないのです。
閉店まで、あと一時間と十五分。大丈夫。まだ来なかった訳じゃない。
私は何度も自分をそうやって元気付けていました。何も絶望する事はない。彼がもう絶対に来ない訳でもないし、この世から消えてしまった訳でもない。この世が滅びる訳でもない。これは単なる日常の些末事の一端だ。そう気に病む必要もない。
けれど、繰り返せば繰り返すほど、自分が惨めになってきます。まるで打ち捨てられた可哀想な猫のような気持ちになりました。捨てるも何も、私と彼は顔見知りでさえないのですから、それは誤った思い込みなのですけれど。
―――と。
店の外に人の気配を感じました。私は此処で働いている内に、いつの間にか人の来る感覚が店の中にいても分かるようになっていました。その頭の隅がざわつくような感覚に、私はハッとうつむきかけていた頭を上げます。
来た!
私の胸は途端に喜びに高鳴り始めました。その感情の昂ぶりを抑えきれず、テーブルを拭いていた布巾も放り出してすぐさま入り口に向かって駆けます。
そう、ろくに考えもせず。
「いらっしゃいませ!」
そして。
「おう、何か酒は残ってるか?」
ぬうっ、と現れたのは、二人連れの中年の男の人でした。二人とも既に顔がアルコール特有の赤みが指した色になっています。どうやら飲み直しに来たようです。
「あ、はい。まだ幾らかは」
ずしん、と頭の上に期待外れという重みが圧し掛かってきました。しかし私は努めて表情を崩さず愛想の良い笑顔を作って応対を続けます。お客さんに罪はありません。気配を感じただけで勝手にあの人だと決めつけた私が悪いのですから。
「じゃあ何でもいい。適当に持ってきてくれ。食い物もだ」
かしこまりました。
営業用の笑顔のままうやうやしく一礼し、私は逃げるように店の奥へと向かいます。
……あ。
その時、ふとお客さんを席に案内するのを忘れていた事を思い出しました。別にどこに座るように強制する訳ではありませんが、それが応対する側の礼儀の一つなのです。やってきた人が彼ではなかった事が、それほどまでに落胆を覚えさせていたようです。
途中で自らの過失に気づき、思わず足を止めそうになりました。けれど、背後から文句の声は飛んできません。それをいいことに、私は気づかぬ振りをしてカウンターへ向かいます。曲がる時にちらっと様子を窺ってみますと、二人は勝手に席に座っていました。良かった、とこっそり安堵の溜息をつきます。
カウンターの奥に入ると、お父さんとお母さんが暇を持て余すように休んでいました。お父さんは夕刊を読みながら火の点いていないタバコをくわえています。お父さんは禁煙中なので、タバコをくわえて吸えない事の苛立ちを紛らわせているのです。その横でお母さんはお茶を飲んでいました。今日の激務に追われて疲れたらしく、時折肩をゲンコツでごんごん叩きます。大分凝り固まっているようです。
「オーダー入りました」
「ん? おお、そうか。で、ご所望は?」
お父さんは夕刊をたたみ、くわえていたタバコを大事そうに胸ポケットにしまうと、油汚れの染み付いた前掛けを付け直しました。お父さんは料理長です。腕は確かなのですが、致命的に商才がなかったそうです。しかしお母さんは逆に、料理は人並でしたがずば抜けた商才がありました。これを考えると、二人はなるべくして夫婦になったようです。
そういえば、二人の間に子供はいません。なんでも、一度は妊娠した事があるそうですが運悪く流行り病にかかり、子供は流産、体も子供が出来ないようになってしまったそうです。それが、丁度私が生まれた辺りの出来事でした。だから二人は、生きていれば私と同い年であろう子供の姿を私に重ねているんだと思います。代役、なんて僻んだりはしませんが、可哀想には思います。どれだけ子供を欲しがっていたのか。それは今の私に注がれている愛情の重さを考えれば容易に想像がつきます。
「お酒と何か料理。任せるって」
「任せるってなあ。そういうのが一番困るんだがね。いっそ、伝票見たときに目玉の飛び出そうな値段の酒でも出してやろうか?」
くっくっく、とお父さんが含み笑い、お母さんが、バカ言ってんじゃないの、と微苦笑しながら背中を叩く。
羨ましい。
仲のいい二人を見ていると、私はいつもそんな事を考えてしまう。お父さんもお母さんも、私にとっては本当の両親ではありません。お父さん、お母さん、という呼称も、はっきり言ってしまえば体裁を取り繕っているだけに近いです。だから私は仲の良い家族としてではなく、仲の良い男女という視点で二人を見ていました。その仲良さげな姿は、私が甘いだけの理想として抱く恋人関係のそれに酷似しています。
私にもそういう相手がいたら。淡い希望をいつの間にか抱いてしまうのは、丁度そういった事に並々ならぬ興味を抱く年齢に達している私にとって当然の事でした。あまつさえ、その伴侶があの彼だったなら、などと妄想を膨らませる事も多々あります。いえ、そうであるようにと密やかにそう本気で考えています。ただ、その感情を表に行動として出す事が出来ないでいます。それだけの勇気が、決定的、致命的に欠けているのです。
私は人よりも臆病で引っ込み思案な性格です。これが等身大の自分だからと、今までは特に何とも思いませんでした。しかし、それが今になって泣きなくなるほど情けない欠点としか考えられなくなってきました。もしも私がもっと積極的に振舞える性格ならば。今頃、あの彼のせめて名前ぐらいは聞き出せていたはずなのだから。
どうして、こう自分は弱虫なのだろう? いざという時に何も出来ない、そんな臆病な人間。初めて抱いた自己嫌悪です。
私はお母さんが出してきた蒸留酒を真っ赤な盆に乗せ、先ほどのお客さんの所へ向いました。
「ごゆっくりどうぞ」
普段にも増して心無い営業スマイル。どんな気持ちの時でも仕事中は笑顔を絶やす訳にはいきません。
なんだか気持ちが荒んでる。いや、思い通りにならなくて拗ねているのです。
彼が来ない。この店に来るお客さんは数え切れないほど沢山います。彼はその中の一人でしかありません。けれどその一人が私にはとても重い存在です。名前も何も知らない彼。そんな稀薄な関係なのに、私の心の大部分を彼が占めています。彼がいない事には、私は私として機能を果たさなくなりそう。それほど異常な状態なのです。
「お茶でも飲む?」
カウンターに戻ると、お母さんが蒸したてのお茶を淹れてくれました。そういえば、ずっと動きっ放しで何も飲んでいませんでした。自分が喉を渇かせていた事を、まるで他人事のように思い出します。
ほんのり温かい茶碗の端にそっと口をつけて傾けると、心地良い香りの立つお茶の水面が唇に流れてきました。その温かさが、疲労感に浸されつつある体に優しく染み入ります。
「リュネス、何かあったの?」
丁度半分ほど飲んだ頃、お母さんがそう私に問うてきました。
「え? どうして?」
「なんかさ、憂鬱そうに見えるから」
じゅうじゅうと厨房からお父さんが火を使う音が聞こえます。そんな中、私はお母さんといつになく込み入った会話をしていました。いえ、こんな重い会話をするのは初めての事かもしれません。
「分かった。もしかして、あの人が来ないからでしょ?」
お母さんは悪戯っぽい笑みを浮かべ、わざと別な意味を込められている事を匂わせるイントネーションで私にそう言いました。
「え……?」
私は心内を言い当てられた羞恥よりも唖然とせずにはいられませんでした。驚きがありありと顔に浮かんでしまいます。
すると、
「あ、もしかして当たり? バイトの娘達がリュネスの事を噂してたの聞いちゃってね。なんとなくカマかけてみたんだけど、どうやら当たりみたいね」
それじゃあ、私、自白しちゃったようなものだ……。
驚きが消えていくと、今度は羞恥の波が私に襲い掛かってきました。私は思わず顔を上げる事が出来なくなり、段々と頭をうつむかせてしまいます。
「まあ、詳しくは分からないけど。そんなに落ち込まないの。はっきりとフラれた訳でもないんでしょう? だったら、ちょっとくらい思い通りにならなくても落ち込まないの。決定的なチャンスが来るまでひたすら待ち続けるのよ。その時に一気に畳み掛ければいいんだから。私もね、そうやってお父さんと結婚したんだから」
お母さんが微笑みながら私の頭をポンポンと叩きます。
温かい。それは物理的な体温ではなく、私を包み込むような気持ちの温かさです。
―――と。
「ッ!?」
突然、店の方からガラスが砕けるような音が聞こえてきました。私とお母さんはそれまでの和やかな空気を一瞬で壊され、何事かと反射的に店の方へ顔を向けます。
「今の……?」
何か割れた音よね?
お母さんの目がそう訊ねてきます。私は自信なさげに、こくこくと首を縦に二度振りました。
一体何が起こったんだろう……。
すると、
『なんだと、コラ! テメエ、調子乗ってんじゃねーぞ!』
『やんのかコラァ! ブッ殺されてえようだな!!』
喧嘩だ……。
血の気も引くような心境でした。おそらくさっき来た二人連れのお客さんです。酔った勢いで喧嘩をしてしまうのはよくあり、そんな現場に遭遇したのもこれが初めてではありません。けれど、
『ふざけんな!』
その怒鳴り声。
私は慣れる事はありません。
「ちょっと、アンタ! 店に出て! ケンカ始めちゃってるよ!」
お母さんがお父さんを呼びに厨房へ駆けていきました。しかし、私は喧嘩のとばっちりを受けないよう、おとなしく自らの気配を絶つ事に専念しています。
恐い。
ただその思いだけが私を支配しています。
弱虫。
と―――、誰かが頭の中でそう私を嘲笑しました。
TO BE CONTINUED...