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いよいよです。
ここには非情な現実しかなく、一片の楽観もありません。
頼りになるのは、自分の実力のみです。
つい一ヶ月ほど前までは、何の力も持っていなかった私。
あの決心の日から、どれだけ前に進めたのか。
その結果が目の前に否応無く突きつけられます。
きっと後悔は無いと思います。
私は出来るだけ後悔しないように生きる事を努めてきましたから。
来た……。
凍姫の本部の正面門を抜けたその場所に、私達は布陣を敷きました。私はまだ陣形に関する訓練はしていないため、これがどういう名前でどういう効果を意図した陣形なのかは分かりませんでしたが、状況から察するに最大限の防御効率を意図したものだろうと考えています。現在、凍姫の戦力はたった二十人弱。対する風無の戦力は、少なくとも倍あると考えて間違いはありません。しかも、その流派を束ねる最高実力者、頭目までもが含まれています。まともにやりあったとしても、到底こちらに勝ち目はありません。だから私達は防戦に徹して被害を最小限に食い止める事に専念するのです。今、通信部の人がファルティアさん達を呼びに行っています。風無の頭目と互角にやれるのはファルティアさん達ぐらいしか凍姫にはいません。その到着を防御に徹しながら待つのです。
私は布陣の最も後ろにいました。隣には大将格に当たるミシュアさんがいます。ここは比較的安全な場所なのだそうですが、この状況で安全な場所は一つもないと思います。だから決して安心はせず、絶えず私は神経を研ぎ澄ませて周囲に注意網を張り巡らせていました。
その時です。
ぞくっとするような気配の群れが私の背筋に走りました。その途端、鉄のように揺るがないと思っていたはずの平常心がぐらりと大きく揺らぎ、胸の中が不安でいっぱいになります。
いけない。
私は慌てて気持ちを立て直しました。まだ戦闘は始まっていないのです。それに今更逃げる訳にもいきません。
「そろそろですね」
ひゅうっ、と隣のミシュアさんが息を吸い込みました。そして、そっと閉じた目を開きます。その眼差しは驚くほど鋭く、まるで獲物を見定める鷹のようでした。普段から厳しい表情をしてはいますが、今に比べれば、普段はまるで笑っているようにさえ思えます。
やっぱり本気なんですね。
ふと私は、そんな間の抜けた事を考えました。そんなの当たり前の事です。どうしてこんな切迫した状況で気を緩める事が出来るのでしょう。まだ、私には良い緊張感が出ていないようです。
「総員構え!」
そして、高らかにミシュアさんは叫びました。一斉にみんなが精霊術法に入ります。
私も遅れずにチャネルを開きました。頭の中で描いたイメージをゆっくり確実に体現化していきます。それは粘質の飴のような氷のイメージでした。これは私がふと思いついたやり方です。この自由自在に形を変えられる塊を頭の中に描いておくと、比較的楽に必要なイメージを即座に作り出せるのです。
―――と。
「来ました!」
陣形の最前列から砲声が飛び出します。
すぐさま周囲に視線を向けると、いつの間にか黒い無数の人影が半円を描くように布陣の正面に現れていました。気配は漠然と感じていたのですが、いったい何時どうやって現れたのかまるで気づきませんでした。しかも、確かに目の前にいるというのに、やけに存在感が薄く思えます。実は暗闇の何かを見間違っているのではないかと疑ってしまうほどです。私は実際には見た事はないのですが、幽霊とはこういう感じなのだと思いました。
全身を覆うような黒い服装が異様に闇に映えます。おそらく風無の制服なのでしょう。同じ黒の割には夜叉とまるで違います。全く飾り気や個性がないのです。私は相対して構える彼らが、まるで全く同じデザインで量産された人形が並んでいるかのように錯覚しました。
どくん!
発作的に心臓が大きく高鳴ります。自分でも動揺しないように意識して抑えていたのですが、はっきりと目の当たりにしてしまって不安が膨張したのでしょう、理性で押さえつけていた体の如実な反応が堰を切ってしまったのです。
動揺してはいけない。
私はそう何度も自分へ言い聞かせます。精霊術法ではチャネルから送り込まれる魔力を用いるのですが、この魔力には理性を侵蝕する副作用があります。術法は理性で制御しますが、その反面、使えば使うほど理性は失われて興奮に似た状態になり、これがある一定を超えると『暴走』と呼ばれる状態に陥ってしまうのです。精神の動揺は、制御の要となる理性を萎縮させてしまいます。ただでさえ私はチャネルが大きく、そして制御も未熟なのです。そこに追い討ちをかける訳にはいきません。平常心で居る事を普段以上に努めなければなりません。
「防衛線確保! 一歩たりとも退いてはいけません!」
ミシュアさんの普段にも増した厳しい声が凛と響き渡ります。その勇ましくすら聞こえるミシュアさんの声が、いきなり圧倒的な戦力差を見せ付けられ浮き足立ってしまった私を勇気付けました。不思議と自分の中の動揺が収まってくるのを感じます。
しかし、その直後。
ザッ。
微かな踏み音が一斉に鳴り響きます。瞬間、正面に並んでいた黒い群集が一斉に向かってきました。黒い影が私達を覆い尽くしにかかってきたような、そんな感があります。
「障壁展開!」
すかさず最前列が協力して巨大な障壁を展開します。見た目の高さ、幅、厚さも私がやっとの思いで作るそれとは比べ物になりません。
ぴっ、と鋭い単音が幾つもこだましました。すると正面に生成された巨大な障壁に、無数の鉤痕が刻み込まれました。痕はどれも深く、辛うじて障壁が原型を留めてはいるもの、これ以上障壁としての役割は果たせそうにありません。
やがて障壁は役目を終えたのか、意識を切り離されて中空に塵となって砕けました。
最前列の数メートル先には黒い影の集団が迫っています。しかしそのどれもが攻撃を繰り出した後らしく、バックモーションに行動を支配されています。時間にしても大した長さではないかもしれません。けれど私は凍姫で訓練を受け、その大した長さでもない時間が実戦でどれだけ致命的なのかを思い知らされました。攻撃、防御、移動。この三つの動作で戦闘は構成されるのですが、その間には必ず隙というものが生まれます。一見しただけでは分からないその瞬間、けれど私は今まで分からなかったそれを見極める事が出来ます。
「撃て!」
私にも分かるその隙を、みんなが見逃すはずがありませんでした。
すぐさま第二列が攻撃の照準を定めます。既に第二列の人達は各々が得意とする攻撃イメージを体現化させていました。
攻撃のバックモーションで固まっている所へ、一斉に青い体現化イメージが降り注がれます。氷の様相を借りた剣や槍などの武器、もしくは漠然としたエネルギー体が、目標物へ向かって猛然と突き進みます。そのどれもに凄まじい破壊力が込められている事が、ここからでもビリビリと肌に突き刺さるように感じられます。
直撃。
この状況からして回避する手段はなく、放たれた攻撃は全て命中するだろうと私は思いました。避けるにも物理法則に逆らわない限り動く事は出来ませんし、障壁を展開するにしても十分な時間がありません。最後に考えられるのは攻撃そのものが当たらずにそれていく可能性ですが、これがおそらく一番確率的に低いはず。この距離で当て損ねる事はまずあり得ないのですから。
しかし。
「えっ!?」
私は思わず声を上げました。命中すると思っていた攻撃が、どういう訳かことごとく外れて空を切ったのです。避けた訳でもなく外れた訳でもありません。攻撃そのものがすり抜けてしまったのです。
人間の体を何かがすり抜けていくなんて、少なくとも放ったものは攻撃を意図したものですから、絶対にあり得ません。しかし、現に目の前でそれは起こったのです。これは疑いようのない事実なのです。
戸惑うのも束の間、今度はその影そのものが煙のように掻き消えてしまいました。唖然とする私。けれどその直後、元の居た位置に再び彼らの姿は現れました。
「これは……」
と。
バシュッ!
私の背後から凄まじい轟音が響き渡りました。慌てて背後を振り返ります。
「ボーッとしている暇はありませんよ。相手はあの風無なのですから」
ミシュアさんが右手を高々と掲げていました。そこには、先ほど生成されたものよりも更に大きな半球状の障壁があり、そこへ真っ黒な服を来た人達……風無の人間が三人、片刃の直刀を振り下ろしていました。丁度彼らの攻撃を、ミシュアさんが障壁を展開して防いでいたのです。
いつの間に……。
今の出来事にすっかり気を取られていたせいでしょうか、こんな間近まで入り込まれるまでまるで気配に気がつきませんでした。もしもミシュアさんに守ってもらわなかったら。きっと私は何もしないまま死んでいたでしょう。
また守ってもらっている。
今度は自己嫌悪ではなく悔しさが込み上げてきました。どうして自分はいつも何も出来ず、こうやって誰かの幇助ばかりを受けて生きているのだろうか。あれだけの決心をして凍姫に入ったとしても、私の本質は全く変わっていない。その何よりの証明が目の前へ突きつけられたのですが、私は首を振りました。違います。全く変わっていない訳ではありません。その証明はこれからなのです。
「今の技は、風無独自の回避術です。幻影を見せるものだと思えば良いでしょう」
ミシュアさんの淡々とした説明の中、展開された障壁に直刀を振り下ろしていた三人の様子に異変が生じました。振り下ろし衝突した時のインパクトはとっくに消えてしまっているのに、いつまで経っても間合いを離そうとしないのです。いえ、離せないのです。よく見ると障壁は防御の形から形体を変え、いつの間にか三人の足に絡み付いていました。つまり彼らは自分が跳んだ勢いで空に浮いているのではなく、氷に体の支えを奪われて吊るされているに等しい状態なのです。
「ハッ!」
ミシュアさんの掛け声と共に、体の自由を奪っていた氷が急速に形を変えていきました。氷はそのまま三人を覆い尽くして完全に飲み込んでしまい、一つの大きな氷の球体へと変化します。そして氷の中へ捕らわれた三人は、そのまま激しく吹き飛ばされ本部の外壁に叩きつけられました。
ドォン、という轟音を立てて氷と三人が弾け飛びます。その光景をミシュアさんは涼しげな表情で一瞥しました。何でもない表情なのに、どこかぞっとするような厳しさを私は感じます。
「一秒でも気を抜けば、実戦では死んだものと思いなさい。この感覚は実戦でしか磨く事が出来ません。まずは集中しなさい。そして、自分の取るべき最善の行動を判断するのです」
そして、表情より厳しいミシュアさんの声が私に投げかけられます。
実戦と演習は違う。その非情性の認識がまだ私は甘いのです。私もミシュアさんのように非情に徹しなければ。感情を殺して、目の前の状況にただひたすら集中する。そうしなければ、今度こそ私の命の保障はありません。
「はい」
TO BE CONTINUED...