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「リュネス!」
シャルトは再度叫びながら声の聞こえた方へ向かって駆ける。
向かった先は、大通りに隣接する建物の入り組んだ区画だ。
先ほど、たった一度だけだったが確かにあの声はリュネスだった。シャルトには、リュネスの声を絶対に聞き違えない自信がある。感情的なものかも知れないが、元より論理よりも直感で動くタイプのシャルトには疑う選択肢は無かった。
しきりに記憶を反復しながらリュネスの声が聞こえた方向を辿る。しかし、どこを行けども見えてくるのは皆同じに見える建物ばかりで、リュネスの姿はさっぱり見えては来ない。
気負うあまりの幻聴ではなかったのか。
いや、絶対にそれは無い。
もしも幻聴だったのなら、一緒に聞こえてきたもう一人の声はどう説明づける。リュネスを思うあまりの幻聴ならば、聞こえてくる声も一人の方が自然だ。
絶対にこの近くにリュネスは居る。シャルトは直感だけでそう確信した。
一体、どうしてこんな所に居るのだろうか? もしかするとリュネスは凍姫がおかしくなってしまった事に気がつき、身の危険を感じるか何かで逃げ出してきたのかも知れない。そして聞こえてきたもう一人の声の主は、一緒に逃げてきた凍姫の人間か、もしくは逃げた事を知った凍姫から放たれた追っ手か。
前者ならば何ら問題はないのだけれど、もしも後者だったなら。
思い出してみれば、先ほど自分の名を呼んだリュネスの声はまるで助けを求めているかのような絶叫に近い声だった。そのため、確率としては明らかに後者が高い。だからシャルトは焦っていた。一刻も早くリュネスを見つけ出さなければ、と。
そのためにはどこへ向かって走ればいい?
直感により発生した困難なその疑問は、人間の本能的な能力には余る代物だ。しかし、その答えは意外にもあっけなく提示された。
シャルト、こっち!
その時、突然テュリアスがぴょんとシャルトの右肩に現れた。
テュリアスはシャルトの右耳を叩きながら、反対の手で右側の路地を指し示す。
「そっちか!」
もはやリュネスの居場所ばかりか、何度も行ったり来たりを繰り返し過ぎたせいで自分の現在地まで分からなくなってしまっていたシャルトは、反射的にその指示に従って向きを変え走り出した。
路地を走るとすぐ、三叉路にぶつかる。だがテュリアスはすぐさまリュネスが居る道を指し示してシャルトをナビゲートしていく。
以前から、シャルトは方向音痴であるためテュリアスが道案内をするのは二人の間にとって極普通の事だった。しかし、目的地が建物等の固定のものならともかく、一体何故、居るのかどうかも確信のない所へ案内が出来るのか。テュリアスの事を良く知らない者ならば、まずそういった疑問を抱くだろう。
シャルトのテュリアスに対する信頼は、テュリアスの能力に対するものでもある。テュリアスは神獣という、通常の生物とは比べ物にならないほど優れた力を持つ種族だ。しかもその中で特に強い力を持つ種族の一つである。身体能力でさえも、普通の虎とはまるで格が違う。
テュリアスはしきりにくんくんと鼻を鳴らせている。テュリアスがリュネスの位置を把握出来る理由はこれだった。匂いを嗅ぎ取ることで正確な位置を把握し、シャルトを案内しているのである。
シャルト、急いで! 血の匂いがする!
「くそっ!」
テュリアスの言葉に、シャルトは苦味がかった深い皺を眉間に刻む。ぎりっと歯を噛み締め、より石畳を強く蹴って走った。
やはり予想は後者の方が濃厚のようだ。しかも、事態は相当悪い方向へ向かっているらしい。
シャルトは自分の足の速さに自信はあったが、今ばかりはどうしてもっと速く走る事が出来ないのか、と自分を叱責せずにはいられなかった。
生まれ持った強靭な足腰、それを日々欠かさず鍛錬している。その全力の踏み込みは石畳に亀裂を作り、普段はただ吸い込むだけの空気をねっとりと体に絡みつく壁と変える。空気の抵抗を障害に感じるほどの速さで走れる人間は、この北斗にはほとんどいない。空気を壁と感じるか否かが、走者の速度レベルを決定する大きなボーダーとなっている。空気をこれほど煩わしく感じられるシャルトは、間違いなく足の速さだけは北斗でもトップクラスだ。
テュリアスは加速したシャルトが十分曲がれるタイミングで、素早く的確な指示を与えてナビゲートしていく。加速度がつき過ぎると、曲がろうとする時に極端な遠心力がかかって外側に流されてしまうのだ。そのため道を曲がる際は三回ほど角度を変えながら、やや直線的に方向転換していく。それでも体が流され過ぎてしまった場合は、やむなく建物の壁を地面のように蹴り飛ばす事で強引に方向を修正した。
次の角を右! そこにいる!
やがて。
ようやく待ちに待ったその言葉をテュリアスから聞く事が出来た。
最後の加速をつけ、シャルトは左側の建物に向かって体を打ち出す。建物との衝突の瞬間、体をくるりと翻して建物に下半身を向ける。両足で建物の壁に横向きに立つ。打ち出した威力が重力より減損する前に、右側の路地に向かって体を再び蹴り出した。
重心を下半身へ落とし、両足で石畳の上を滑走しながら着地する。がりがりと石畳が削れ、二本の溝が出来上がった。
やっと辿り着けたが、果たして自分は間に合ったのか。
千秋の思いで辿り着いたその路地で、シャルトが見たものは。
石畳の上に突っ伏したまま動かないリュネスと、冷ややかな視線を送るリーシェイの姿だった。
リュネスの方には長い氷の針が一本、深々と突き刺さっている。もしかすると貫通しているかもしれない。真っ赤な血がその周囲をじんわりと染める。染みが広がらない所を見る限り、出血はそれほど酷くはないようだ。
シャルトの表情が青褪める。怒りと悔しさと、様々な感情の奔流が一度に押し寄せて気持ちが混乱したためだ。
「白鳳を倒したようだな。子供一人と思っていたが、お前の力は異常だ。これ以上野放しには出来ない。この場で死んで貰う」
冷ややかな、表情ひとつ変えないリーシェイの話口調。
頭に血が昇り混乱してはいたものの、さすがにシャルトはリーシェイの様子がおかしいという事に気が付いた。普段のリーシェイはリュネスを偏愛しているため、どんな事があろうとも絶対に傷つけるような真似はしない。しかも、その上で平然と構えている事自体があり得ないことだ。
一体、リーシェイの身に何があったのか。
しかしシャルトはそこまで突き詰められるほど冷静ではいられなかった。頭の中は、突っ伏したリュネスの姿を見た時、既に激しい感情の奔流によって何もかもが洗い流されてしまっている。
「ふざけるな! 冗談にもほどがある! リュネスにこんな事をして、一体何のつもりだ!?」
「北斗を変えるための一環。ただそれだけだ」
「こんなの、何の意味があるっていうんだ! 自分の意思でやってるのか!?」
「ファルティアさんの意思だ。しかし、従うのは自分の意思だ」
仮面のような無表情で放つその言葉に、シャルトは思わず自分の耳を疑わずにはいられなかった。
今、有り得ない言葉が二つ、聞こえてきた。
一つは、リュネスにこんな暴挙を働いたのはファルティアの指示であるという事。
あまり触れたくない部分ではあるが、一年前、リュネスが凍姫に入るきっかけとなったのは、外敵の襲撃で両親を失った事にある。そして、そうなる原因を作ったのが他ならぬファルティアだったのである。そのため、ファルティアはリュネスに対して少なからず負い目を感じていた。自分のせいで家族を死なせ、リュネスを不幸にしたと。いつまでも抜けない棘のように、それがファルティアを、リュネスを幸せにしなくてはいけない、という強迫観念に駆る。
それなのに、どうしてリュネスにこんな事を指示出来るのか。何の疑問も抱かず実行するリーシェイもどうかしているが、とにかく普通ではこんな事は有り得ないのだ。
そして二つ目、リーシェイがファルティアを敬称付けで呼んだ事。
現在、凍姫はまず頭目のファルティアと、ほぼ同等の力を持つリーシェイ、ラクシェルの三人が中核を成している。三人は同時期に凍姫に入っており、公私共に親しくも喧嘩の絶えない関係だ。心の中では信頼こそ寄せてはいるだろうが、それを決して口にするような関係ではない。そもそもリーシェイが、誰かを敬称付けで呼ぶのは、補佐役のミシュアだけなのだ。
公の場では頭目と呼び、私生活では呼び捨てる。それが当たり前であったはずのリーシェイが、唐突に何故かさも当たり前のように敬称をつけた。どういう心境の変化なのか。あまり思慮に深くないシャルトは推測すら出来ず、半ば答えを考える事を放棄してしまった。
今、重要なのは。
目の前のリーシェイが自分の知る普段のリーシェイではなく、リュネスを平然と傷つけ、そして自分を一人の敵として認識している事実だ。
「リュネスに……リュネスに何をした!?」
「殺してはいない。まだな。それだけの事」
腕を組み悠然とした姿勢で淡々と答えるリーシェイ。やはり、自分のした事に対して何の疑問や懸念も抱いていないようだ。
何故、こんな事になったのか。
発端は一人の人間が起こした、北斗への反乱。凍姫はそれに利用されているに過ぎない。
だが、上から末端に至るまでの命令系統を視野に入れる事が出来ないシャルトは、湧き上がる感情を目の前にぶつけるしかなかった。
「許さない……絶対に」
ドンッ、と足を踏み締めるシャルト。同時に両腕をだらりと無造作に垂らす。
「ほう、六合拳か」
リーシェイは僅かに感心の色を見せる。それは驚きよりも興味の意味合いが強い。
本来はリーシェイの生まれ育った地方に伝わる、超攻撃的な武術だ。しかし口伝でしか伝わっていないため亜流派が非常に多い。源流は現存すらしていない以上、おそらくシャルトに教えたレジェイドが知っているのも、その亜流の一つだろう。
防御を放棄したかのような、一見すると無防備な六合拳の構え。だがシャルトの眼差しは容易に近づく事を躊躇わせる、抜き身の刀を突きつけられたかのような気迫に満ちていた。
今のは震脚。こちらを威嚇しているのか、それとも自己暗示の一種で攻撃の節目節目に挟んでいるのか。どちらにしろ、今の震脚を境にシャルトはまるで別人のような変貌を遂げた。
本気になったか。
しかしリーシェイは平然と構えたまま、応戦する素振りを見せなかった。
理由は二つ。たとえ本気になろうとも、容易に感情に振り回される程度の人間など恐れるに足らない事。そして、リュネスが自分の背後に突っ伏しているという事。
自分の優位性は揺ぎ無いものだ。そうリーシェイは信じていた。だが、すぐさま少なくともシャルトへの評価は見直さなければならない事態を目の当たりにさせられる。
「下手な手出しはしない方がいい。私はいつで―――」
突然、リーシェイの目の前からシャルトの姿が消え失せた。しかしシャルトの気配までは途切れておらず、すぐさま気配の後を辿っていく。
気配は背後まで回っていた。それも、既にこちらに対して攻撃を仕掛けるモーションに入っている。
速い!
感じ取るのと回避動作はほぼ一緒だった。
強引に体を捻り軸をずらすリーシェイ。そのすぐ脇を、拳を構えたシャルトが矢のように突き抜けていった。
ザーッと石畳を滑りながら止まるなり、すぐに同じ六合拳の構えを取る。
今の技、確か箭疾歩と言ったか。
僅かに掠めた脇腹を撫でながら、そんな事を思い出すリーシェイ。と、思わぬ感触が手のひらに伝わり、ハッと目で確かめる。手のひらに伝わったのは自分の素肌の感触。見ると掠めた部分の衣服が抉れていた。そのため服の上から撫でたつもりが、直接触れてしまっていたのである。
六合拳は一撃必殺の武術、相対するのは初めてだが、確かにこれをまともに食らえばただでは済まないだろう。掠っただけでこの威力なのだから。
「フン、白鳳を倒したのは偶然でもまぐれでもないという訳か」
動揺しかけていた思考を鎮まらせ、戦闘用に切り替える。
子供と侮れば、一瞬で地に伏されてしまう。ここからは本当に殺す気でかからなくてはいけない。
俄かに、周囲の温度が下がり始めた。
TO BE CONTINUED...