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「え……?」
あまりに急な出来事。
しかし俺は、咄嗟に彼の異変の意味に気がつく事が出来ず、ただ一体何が起こったのかと唖然とした表情で手元のせんべいを落とした。
そのままゾラスは胸を押さえたまま、横へ崩れ落ちるように倒れた。転倒の瞬間に手を突いた様子は無く、椅子から落ちた訳ではないけれど派手な音が狭い部屋の中に響き渡った。
「だ、大丈夫ですか!」
すぐさま俺は立ち上がってゾラスの元へ身を乗り出す。
彼は土気色の顔に苦悶の表情を浮かべ、ぎゅっと胸の辺りを押さえながら体を細かく痙攣させている。
ゾラスが危険な状態である事は、俺の素人目にも火を見るより明らかだった。
今すぐ、迅速かつ迅速な専門的処置が必要だ。けれど、俺にはそんな医学知識は無い。
ふと俺は、自分の腰につけているポシェットに入れている安定剤の事を思い出した。俺は重度の麻薬の後遺症で、時折精神が不安定になり突発的な錯乱状態に陥る事がある。この薬はその発作を抑えるためのものだ。
これを飲ませたら何とかなるだろうか?
けれど、すぐにそれは間違った対処法である事に気がついた。処方された薬は、その患者一人一人に合わせて調合されたものだ。たとえ同じ効果が必要だとしても、他の人間が口にするのは危険な行為なのである。そもそも、俺が飲んでいる薬は精神安定剤だ。何らかの発作を起こしているらしい彼に、劇的な効果が得られるとは考えにくい。
どうすればいいのだろう?
オロオロと慌てふためく俺。こういった緊急事態に何も出来ない自分を不甲斐ないと思う事は出来る。けれど、それ以上の事は何一つ出来やしない。そんな自分を、幾ら大人だと言い張っても単なる背伸びにしかならない。レジェイドに嘲笑されるのも、どれだけ反抗しても仕方が無いのかもしれない。
誰か呼ぼう!
その時、オロオロする俺にテュリアスがそう叫んだ。
ついさっきまで心底退屈そうに寝転がっていたクセに。土壇場になって俺よりもはるかに的確な判断だ。どうして自分のしたい事ばっかりしているお気楽なテュリアスの方が冷静な判断が出来るのだろうか。少し、悔しい。
「今、人を呼んで来ます! 少しだけ待っていて下さい!」
そう告げ、俺は外へ飛び出そうとした。
こんな郊外からでも、俺の脚ならば数分もあれば病院に着く。俺は本気で走ったら北斗を東から西へ走り抜けるのも、一時間も必要としない。足の速さだけだったら、レジェイドはもちろんのこと、北斗の中の誰に負けはしないという自負がある。
だが。
病院に着くまではいい。その次は一体どうすればいいのだろうか?
医者を連れてくるにしても、俺の脚についてこれるはずがない。ならば背負って走るか? それはそれで構わないけれど、俺の体格で大人を背負えるかどうか。バランスがうまく取れないだけでなく、まともに走ることすらも出来はしないだろう。それじゃあ意味がない。手遅れになってしまう。
「そ、そこに……」
ゾラスが途切れ途切れのうめき声で腕を伸ばし、俺に何かを指し示す。
歯を食いしばり、皺を多く刻んだ顔を苦痛に歪めている。俺の方を向いて話す余裕すら無いらしく、あさっての方向を見ながら腕は伸ばされた。しかし指し示す指先もぶるぶると震えて一点を捉えない。
多分こっちの方だ。
とにかく俺は大体の方向から、ゾラスは何を俺に示しているのかを推測しながら部屋の中を見回す。一人で住むには丁度良い手狭な部屋の中は物が綺麗に整理されており、どこに何があるのか他人の俺が見てもよく分かりやすい。
そして、ようやく俺はそれらしいものを見つけた。タンスの上に置かれた白い小さな箱。何かを入れるケースのようだ。妙に真新しく、また部屋の調度品としては毛色が違う。指先の差す方向からして、多分これがゾラスの示しているもののようだ。
「これ?」
ケースを手に取り、ゾラスに差し出す。
「すまんが手伝ってくれんか……」
ゾラスは震える声でどうにか体を起こすと、俺が持ってきた白いケースを受け取ってすぐさま開けた。
その中には、数個のアンプルと注射器、そして腕を縛るためのゴム紐。
そこで、俺に何を手伝って欲しいのかを俺は理解した。
やるしかない。
正直、突然の事で気が引けていたが、今、ここでまともに動ける人間は俺しかいないのだ。出来る限りの事はしてやらなければならない。
俺はゾラスの右袖を捲り上げ、ゴム紐で二の腕をきつく縛る。歳の割にはがっしりと硬い筋肉に覆われた逞しい腕だった。やはり、かつて流派『修羅』に属していただけはある。年老いてもこの締まりを見る限り、トレーニングは欠かしていないようだ。
ゴム紐によって血流を遮られ、腕の内側に少しずつ血管の姿が浮かび上がる。
静脈注射のやり方は一通り知っていた。北斗に来たばかりの頃、俺は麻薬の後遺症で入院していて毎日解毒剤を注射されていて、見ている内に一連の流れは覚えてしまったのだ。そういえば、このケースにも見覚えがある。注射器とアンプルが一週間単位で入れられた一つのセットだ。けど、よく思い出してみると、確かこれはホスピスにしか持ち込まれないもののはず……。
そうしている間に、ゾラスはアンプルの中身を注射器の中に込めた。大分意識が朦朧としてきているようだが、もうこんな風に何度も繰り返しているらしく、手馴れた指の動きは正確に作業を進めている。
「ふう……」
注射器を浮き出た青い血管に構え、一つ呼気を吐く。そして最後の力を振り絞って意識をそこに集中させると、ゆっくり針を刺し込んでいった。
消毒もしないで、少々乱暴なやり方だと思った。注射は二次感染などを防ぐために消毒をするのが通例だ。けれどこの必死な様子からして、そんな余裕すら無いのかもしれない。
やがて薬を入れ終え注射器を抜いたゾラスは、これまでの必死の形相を一変して解き放心したように再び寝転がった。注射器は右手に携えられたまま、針に残った僅かな薬が床に伝い落ちる。
俺はその注射器をそっと取りケースの中へ戻した。その時、左の指から血が出ているのを見つけた。床に取り落としたアンプルを見ると、切り口が霜柱のように薄く折れ残っている。どうやら折るのに失敗して、その時にここで切ってしまったようだ。
あれほど息を切らせてのた打ち回っていたゾラスだったが、いつの間にか驚くほど落ち着きを取り戻していた。いや、落ち着くというよりも脱力していると言った方が近いかもしれない。
このまま、大変な事になってしまうのではないだろうか?
少なからず、そんな不安感はあった。しかし、土気色だった顔色には少しずつ赤みを取り戻してきている。常人と比べれば遥かに血色は良くないのだが、少なくとも悪い方向へ傾いていない事は確かなようだ。
俺も似たような感じだ。
以前抜けない麻薬の後遺症による、突発的な精神の錯乱。これを静めるために常備している安定剤もこんな風に、激しい症状を瞬時に解消してしまう極めて効果の強いものだ。
彼は一体何の薬を打ったのだろうか。
興味は尽きないが、迂闊に訊ねられるような軽いものでもない。
「水、持ってきます」
俺は一度ゾラスに断り、奥にある台所に向かった。
小さな食器棚には最小限の食器しか入っていなかった。ゾラスはこんな物寂しい所で、たった一人で住んでいるのか。そう考えると、なんだか胸が締め付けられるような気持ちになった。
そういえば。
改めて思うのだが、彼は一体何者なのだろうか?
元、流派『修羅』の人間である事。
その同じ流派の人間と不穏な仲である事。
遺恨がある事。
右手には親指と人差し指しかない事。
極めて強い効果のある薬を、おそらく常用している事。
とても、どこにでもいる老人とは言い切れない。どれ一つ取っても、何かしらの背景があるのでは、とつい好奇心を出してしまうのに十分だ。
知りたい。
そう俺は強く思った。けど、知りたい、という言葉は、時として人に多大な苦痛を与える。特に北斗には、そんな人には知られたくない過去を持つ人間が多く居るのだ。過ぎた好奇心は人を傷つけるだけでなく、自分の評価を貶める。だから沈黙する事が賢い選択だ。
けれど、本当にそれでいいのか?
知ることで、初めて力になれる事だってあるんじゃないのだろうか?
そう、俺はゾラスの何か力になってやりたい、と思い始めた。
その人柄とか、雰囲気とか、人間的な部分が好きになったから。
水を汲んで戻ると、ゾラスは上体を起こして息を整えていた。どうやら無事元気を取り戻したようである。
「もう大丈夫なのですか?」
俺はコップの水を差し出しながらそう問うた。
「おお、すまんの。驚かせてしまったようだが、もう問題ない。大丈夫じゃ」
やや力の薄いものだったが、ゾラスの顔に笑みが戻った。それが俺も嬉しかった。
「でも、あんなに苦しそうだったのに、もう?」
「いや、大丈夫、という言葉は少し不適当じゃの。どっちにしろ、同じことだから」
どっちにしろ同じ事?
何かを仄めかしているような、不明瞭な言葉。
これは、質問しても良いという事なのだろうか?
迷う俺。
しかしゾラスはそっと微笑み、俺が今訊きたかった事を先に答えた。
「痛み止めじゃよ。もはや私は長くはないのでな」
TO BE CONTINUED...