BACK
一度、地獄のどん底に突き落とされたあいつ。
それでもなんとか這い上がってきたのだが、引き戻そうとする亡者の手はあまりにしつこくて。
なんとかその手を振り切って。誰もが当たり前に歩いている道を歩き始めた。人よりもよく転んで、つまづきを繰り返し、目的地には遠回りばかりしていたあいつ。
それでも何とか前に進み続けていたあいつが、遂に手に入れた幸せ。
俺は自分の事のように嬉しかった。
まだ小さな幸せだけれど。ゆっくり、育ててってもらいたい。
「ちっ、やっぱまだ無理か」
俺は綺麗にラッピングしてもらった切花を、指でくるくる回しながら薬臭い廊下を歩いていた。
火曜日の昼休み。俺は早めに書類を片付けると、一度花屋に寄って病院を訪問した。目的は、ここに入院している二人の様子を見るためだ。一人は弟のシャルト、そしてもう一人は凍姫の経理担当であるミシュアだ。
この切花は無論ミシュアのために買ってきたものだ。俺としてはもっと奮発してイイヤツを買っていってやりたいのだが、見舞いに持って行くのに高い花は『病気が根付く』と呼ばれるので鉢植え同様厳禁だ。まあ、そういうイイ花は退院祝いにでもパーッとやってやろう。こっそり部屋の中をバラで埋め尽くす、なんて使い古された手も実際にはなかなか効果も高いものだしな。
しかし、だ。
面会謝絶。
ミシュアの病室の前にはそんな重苦しい張り紙が張られていた。慌てて看護婦を取っ捕まえて訊ねてみたところ、命に別状はないものの失血が酷かったのでしばらくは絶対安静にしなければならないそうだ。なるほど、血が足りなけりゃ体が動く訳が無い。
そんな訳で俺はミシュアの見舞いを諦め、シャルトの病室へと向かっていた。
今朝方、あいつはようやく意識を取り戻したそうだ。丸一日眠っていた事になる。こっちもこっちで血が足りないから絶対安静らしいが、もう面会謝絶は解けているそうだ。やっぱり俺が鍛えただけあり、そう簡単に昏睡しない所に成果が出ている。男はタフじゃなけりゃいけない。何事も。それで男女間が長続きするかどうかも左右される。いや、マジな話。
そういえば、病院なんて久しぶりだな……。
以前はシャルトの関係でよく病院には行ったものだ。生まれつき体の丈夫さだけが取り柄だった俺が、この独特の薬臭さと喧騒に懐かしみを覚えるのもそのためである。毎年誰もが背筋を震わせている感冒も気にした事が無く、うっかり馬車にはねられた時も腕と脛に軽く痣を作ったくらいだった俺が、そういった理由がなければそれほど馴染みが出てくるまで病院に通う訳が無い。まあ、ガキの頃にやりそこねた”はしか”にかかった時は正直この世の終わりかと思ったが。自分には縁が無いくせに、そういう意味では縁のある場所。それが俺にとっての病院だ。
あの頃は随分と陰鬱な気持ちで通ったものだ。シャルトのヤツはいつ行ってもまるで回復しているような素振りを見せず、逆にとても直視し難い光景を見せ付けてくる。本当にコイツは大丈夫なのだろうか。何度そのセリフを思い浮かべたのか分からない。本当にどん底にいた時の姿を見ているだけに、再び狭苦しい病室に押し込められた事がどうしても心配である。また、あの時のシャルトに戻ってしまうんじゃないのか。それが自分でも過保護な杞憂である事は分かっているのだけれど。やはりどうしても気になって仕方がない。あいつはどうも安心して見ていられない、危なっかしい所があるから。
病院の南館から連絡廊下を通って東館へ。
時折、忙しそうに駆ける医者や看護婦と擦れ違った。みんな、生死の際に追いやられてしまった人間を救うために毎日休まず駆けずり回っているのだ。俺達北斗は敵集団から街と一般人を守るため、日夜訓練を積み重ねて警護に勤しんでいる。俺達にとっては街そのものが戦場のようなものだが、医者達にしてみれば、生死の境に立たされた人間が次から次へと運ばれてくる病院こそが戦場だろう。俺達と同じで、医者は人の命を扱う事を生業としている。俺達は、守るために敵の命を奪っている。彼らは、ただ消えかけている命を助けるために奮闘している。命というものへの接し方にこれほどの違いはあるけれど、どちらも行動理念は同じ所に起因する。ただ、選んだ道が違うだけで、本質は同じ戦士だ。
さて。
シャルトの病室は東館の三階、連絡廊下を曲がってすぐだ。
このミシュアに渡し損ねてしまった切花はシャルトにやればいいのだが、あいつは花なんかよりも食い物の方が喜ぶだろう。花なんて、中には食えるものもあるだろうが腹の足しにはならない。出掛けにちょっくら何か作って持ってきてやるべきだった。
まあ、いいさ。どうせ目覚めたばっかりじゃあ腹だって本調子も取り戻せてないだろうし、食欲もあるかどうか微妙、いきなり油の強いものだって胃が拒絶して食べられないはずだ。確か病院の近くに割と人気のあるサラダバーがあったはず。後でそこから五人前ほど出前させよう。
と。
「ちょと、やっぱりこういうのはやめた方がいいのでは……?」
「しつこいなあ、エスは。別にいいじゃん。見るだけなんだし」
角を曲がったその時。音をひそめてはいるものの、しきりに何かを訴えやり取りをする複数の声が聞こえてきた。
「ルテラさんも、やめましょうよ。こんな事は悪趣味ですよ」
「あら。かわゆい弟の心配するのがそんなに悪い事かしら?」
「僕には心配にかこつけているだけにしか思えないんですけど……」
シャルトの入っている病室の前に、人影が三つもぞもぞとうごめいている。一人はしゃがんでドアをほんの少しだけ開き、片目を閉じて息を殺し中をそっと覗きこんでいる。その上から中腰の姿勢で、もう一人が同じく僅かに開いたドアから部屋の中を盗み見ている。そして最後の一人は、二人の後ろでオロオロと不安げな表情で右往左往している。
しゃがんでいるヤツは、守星の一人で『自称』情報通のヒュ=レイカ。その上のは俺の妹であるルテラ、後ろでオロオロしているのはエスタシアだ。
「何やってんだ、お前ら? 守星が揃いも揃って、サボッてんじゃねえぞ」
すると、ルテラとヒュ=レイカは険しい表情で唇に人差し指を立てて『シーッ』と空気を漏らすような音を立てて威嚇してくる。そんな二人に、エスタシアはただただ苦笑をするだけだった。
「ちょっと、静かにしてよ! 今、いいところなんだから」
ヒュ=レイカはいつになく真剣な表情で、それでいて音を潜めた声で厳しく俺を叱責する。俺は一体何が起こっているのか分からず、ただ困惑しながら眉をひそめて三人の元へ静かに歩み寄る。
「おい、何があったんだ?」
二人は俺が静まるや否や、再び僅かに開いたドアの隙間から部屋の中を噛り付くように覗いている。この部屋にいるのは、シャルトと子猫ちゃんぐらいなものなのに。それを覗いて一体何が楽しいのだろうか。理解が出来ず、俺は首を傾げる。
「お兄ちゃんも見た方が早いわよ。それと、絶対に音を立てないでね。もしも立てたら、兄妹の縁を切ります」
ルテラはやけに真剣な表情で、ヒュ=レイカと同じく音をひそめた声で俺にきつく警告する。だがその真剣さは、どちらかと言うと子供が何かの遊びに夢中になっている時のような真剣さだ。
「はいはい、分かったっての。で、何が見えるって?」
俺は中腰になっているルテラの更に上から、僅かに開いたドアの隙間から部屋の中を覗き見た。
すると、
「ほう……なるほど、こういう訳か」
見えたその光景に、俺は思わずニヤリと口元をほころばせながら呟いた。なるほど、これならこいつらがこうも真剣になるのもうなづける。
「レジェイドさんも、やめさせてくださいよ……。こういうのって、やっぱりよくないと思うんですけど……」
そう、背後からエスタシアのオロオロとした声が聞こえてきた。だが、
「うるせえ。すっこんでろ」
力の限り睨みつけると、エスタシアは途端にしゅんとうつむいておとなしくなった。
TO BE CONTINUED...