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 小憎らしい。
 そいつを説明するには、まずこの言葉は外せない。
 誰にでも天敵と呼べる存在があるだろう。俺にとって、そいつがまさにそれだ。
 苦手とは言っても、嫌いという訳ではない。むしろ数少ない友達と呼べる存在でもある。
 けれど、こいつといる時は心が休まらぬ時が多い。
 羨ましいんだと思う。
 こいつは、俺に無いものを沢山持っているから。




 午後九時四十分。
 俺はいつもよりも晴れやかな気持ちで通りを歩いていた。
 辺りはしんと静まり返って人気もない事もあり、自然と鼻歌さえ漏らしてしまう。今日は戦闘解放区を散々駆けずり回ったせいで疲れきっているはずだが、足取りはそんなものなど忘れてしまったかのように軽い。テュリアスはおとなしく、俺の上着の中で丸まって寝ている。いつもよりも寝る時間が早い。きっと戦闘解放区の件で疲れているからだろう。何だか機嫌も悪いみたいだったし。
 凄まじい進展だ。
 喜びのあまり、顔の筋肉がすっかり緩んでいるのが自分でもはっきりと分かった。しかし、どう引き締めようとしても普段の表情に戻す事が出来ない。どうせ周囲には誰もいないんだ。無理に直す必要もない。
 あの娘を見知ったのは、今から三ヶ月も前だ。それから今まで毎週あの店には通っていたのだが、いつもいつもあの娘を遠目から見ているだけだった。話し掛けたくても、自らきっかけを作ることが出来なかったのだ。俺はそんな技術も勇気もなかったから。
 名前も知らない彼女。俺は一目見た瞬間に自分があの娘に惹かれているのが分かった。ずっと今日までこれといって会話する機会もなく、本当に眺めるだけの存在だった彼女。それはある意味、夜空に輝く月のようなものだ。
 しかし。
 今日、俺は予想だにしなかった事態に直面した。多少遅れはしたが、今日もまた俺は爛華飯店に夕食を取りに向かった。だがそこで俺は、酔っ払いのケンカに遭遇してしまった。それ自体は別段大した事ではなく、俺は早々に当事者を片付けた。事件はその次に起こった。どういう事の運びだろうか、俺はあの娘と二人で席に座り、話をしながら料理を待つ事になったのである。
 正直、取り乱しかけた。これまで抱いていた自分の願望が何の前触れもなく一度に叶ったのだ。途方もない喜びの半面、これは夢ではないのかと疑わずにはいられなかった。こんなにも自分に都合のいい出来事が起こりうるとはとても思えなかったのだ。
 だが、それは夢ではない。紛れもない現実だった。おかげで俺は、彼女の名前が『リュネス=ファンロン』である事と、自分の名前を憶えてもらう事が出来た。これまで俺と彼女は何の面識もない赤の他人だったが、これでめでたく知人にまで発展した。本当に理想とするのは知人よりも遥かに上の親密な関係だけれど、そこにステップアップするまでの第一段階の過程はクリアした。よって、これまで夢や絵空事でしかなかったリュネスとの事も、リアルな展望として俺の前に開けたと言っても過言ではない。俺にとってあまりにも大きな進展だ。とても自分のような話下手にはそうなるまでの足がかりが作れないと思っていただけに、これほど嬉しい事はない。
 俺は自分の頭の中に広がる妄想を抑える事が出来なかった。勝手にリュネスの気持ちが俺にあるという設定にして、まだ経験のないデートを楽しんでいる所を想像してみたり。部屋で二人でいちゃついている姿を想像してみたり。とても口には出来ない恥ずかしい想像の数々。けれど、想像するだけなら別に問題はない。それに覗かれる心配もない。
 これらの妄想。だが、決してただの妄想に終わるものでもない。今後の俺の努力如何によって実現可能な未来なのだ。妄想に終わるのか将来の展望なのかは俺次第。誰にも頼る事は出来ない。自分の力でリュネスの心を掴み取れるか否か。勝負はそこにある。
 ―――と。
「やあ、随分とゴキゲンじゃない?」
 突然、暗闇の中から響いた一人の声。
 周囲には誰の気配もなかったはず。ハッとした俺はすぐさま背後を振り返るものの、そこには誰の人影もない。確かに声はしたのだが。
「こっちこっち」
 続いてその声は正面から聞こえた。慌てて向きを正面に戻すと、そこにはいつの間にか一人の少年がにこにこと微笑みながら立っていた。現れた気配は少しも感じなかったのに。一体いつの間に現れたのだろうか。しかし、これはいつもの事なので俺はもはや気にもならなくなっていた。こいつはいつもそうだ。唐突に現れては人を驚かす。
「なんだよ」
「なんだよって、冷たいなあ。僕達、心友じゃないか?」
 そいつは不満そうに口を尖らせて俺の今の発言を非難する。しかし、俺はまともに取り合いもしない。
 何が心友だ。いつもいつも、人をからかって楽しんでいるクセに。
 身長は俺よりも少しだけ高く、髪は濃緑で後ろ髪を細く長く伸ばし束ねている。表情は常に不敵、にこやかな裏にも抜け目なく人の言動を観察する老獪なものが見え隠れしている。
 こいつの名前はヒュ=レイカ。ルテラはレイと縮めて呼んでいる。ヒュ=レイカは北斗史上以来の天才少年とか言われ、入団してから数ヶ月で流派『雷夢』の頭目に上り詰めた。その当時、若干十四歳。北斗史上最年少の頭目だ。それだけ実力も確かなものであり、重ねてきた戦功は数知れず、当時の他流派の頭目も一目置いた存在だった。それがどういう訳か、四年前、突然頭目を引退して守星に入った。自分の力をもっと生かせる仕事をしたい、などと殊勝な事を公言したそうだが、その実際は、守星の方が面白そうだから、という極めて自己中心的なものだ。要するにこいつは、自分が楽しければ、突然頭目に抜けられた雷夢が混乱しようと、自己満足のために俺が気分を害そうと知った事ではないのだ。
「何か良い事でもあったっしょ? 顔に出てるよ。幸せ相。僕にも教えてよ」
「教えない」
「教えない? じゃあ、ある事はあったんだ」
 漬け込まれぬようにきっぱりと拒絶したのだが。ヒュ=レイカは俺の顔を見てニヤリとしてやったりの表情を浮かべた。
 あ……しまった。
 そうだ、この場合は教えないのではなく、何もないととぼけるべきだったんだ。そうすれば、ヒュ=レイカは自分の勘違いだったと諦めたはずなのに。
「しまった、って顔してるな。じゃあ、やっぱりあるんじゃないか。ねえねえ、何があったんだい? 教えてくれよ」
「嫌だ」
 どうせこいつはからかいの種にするのが目に見えている。粗を探されたら仕方がないが、こちらから好き好んでネタを提供する訳にはいかない。
「ふうん、そう来るか。じゃあ仕方がない」
 と、ヒュ=レイカはひらひらと右手を宙に躍らせる。その次の瞬間、突然ヒュ=レイカの手の中からカードの束が現れる。一体いつの間に、なんて疑問はこいつに意味はなさない。常に人の死角をついて驚かせるような小細工を趣味としているのだから。
「ここに取り出したるは、古来より占術に用いられしアルカナカード。しかし、これはそんじょそこらのカードとは違うよ。このカードはキミの心の中を全て見透かす魔法のカードなんだ」
 自信たっぷりに説明すると、早速ヒュ=レイカはカードをきりはじめた。普段からこんなものを持ち歩いて何が楽しいのだろうか。そう俺は訝しげにその姿を見つめる。
「ではシャルト君。好きな数字を言って見たまえ」
 好きな数字……?
 俺は少し考え込んだ。ヒュ=レイカは人をからかう事に関しては天才的なヤツだ。人の心理を巧みに読むのがうまいのである。だから俺は、ヒュ=レイカの読みの先を行く数字を答えなくてはいけない。ヒュ=レイカは何の数字を言わせたいのか。それを当てなければ、また俺はからかわれてしまう。
「じゃあ、一番」
 そして考えた末に出した数字はそれだった。一番上のカードなら、途中で細工も出来ない。本当にめくって示すだけなのだから、さすがにヒュ=レイカも成す術がないだろう。
「ほうほう。では、運命のカードは決まりました。カード、オープン!」
 そう言ってヒュ=レイカは余裕の表情で一番上のカードをめくって見せる。カードには、男女の絵が描かれていた。
「ラヴァーズのカード、正位置。ということは、つまり。シャルト君、キミ、彼女が出来たね?」
 どくん!
 ヒュ=レイカの思わぬ指摘に俺の心臓は高鳴る。まさか本当に、このカードは魔法のカードなのか?
「ち、違う! まだ彼女なんかじゃない!」
 そして、ヒュ=レイカは残りのカードも見せながら、再びにやりとしてやったりな笑みを浮かべる。俺が選ばなかった他のカードは、全て俺が引いたものと同じラヴァーズだった。つまりヒュ=レイカは、最初からそうであると高をくくっていたのである。
「まだ彼女なんかじゃない? じゃあ片想いなんだ?」
 ……あ。
 またもや俺は余計な事を言ってしまった。初めから数字なんて何番でも良かったのだ。目的は俺に任意のカードを引かせる事ではなく、彼女という言葉に対する俺の反応を見る事だったのだ。それによって俺がボロを出すのも、悔しいが計算の内だったのだ。
 本当に、ヒュ=レイカはこういう事を聞き出すのはうまい。幾ら対策を練ったとしても、いつもいつもその更に先を行く手を駆使してくる。小ずるい手を使いやがって。しかし、引っかかってしまった俺がそんな事を言っても見っとも無いだけだ。
「その娘ってどこに居るの? 可愛い? ん?」
 案の定、これまでにない興味を示してきたヒュ=レイカ。目の輝きもこれまでとはまるで違う。
 今度ばかりは言えない。もしもうっかりリュネスの事を知られてしまったら、ヒュ=レイカの毒牙にかけられかねないのだ。
「やかましい! お前、もうどっか行け!」
「そう言うなよう。僕ぁキミのことを応援してるんだぜ?」
 嘘だ。一見すると真剣な眼差しのヒュ=レイカだが、その瞳の奥は新たなネタを掴みかけたと喜んでいる。
「騙されるものか」
「人間、人を信用出来なくなったらオシマイだよ? 今際の際に咳をしても一人」
「人間じゃなくて、お前個人を信用しないだけだ」
「酷いなあ。この間も合コンに連れてってあげたじゃないか」
 この間。確か一週間ほど前だっただろうか。
 ヒュ=レイカがいつになく優しげな様子だったのを覚えている。俺はそれに騙されて、つい疑いもせず話に乗ってしまったのだ。連れて行かれた店は雰囲気も良く、なんだかいかにもおいしい料理を出してくれそうだった。だが、ヒュ=レイカが予約していた席にはどういう訳か二人の女の子が座っており、笑顔で俺達を出迎えた。直後、俺はさっさと店を出た。なんとなくだが、俺がどういう風な理由で連れてこられたのかが分かったのだ。別に嫌いな訳ではないが、そういうのは心底苦手なのだ。すぐに自分を見失って取り乱すし、何よりも騒がしいのは嫌いだ。食べる事が目的ならば、俺はそれだけに専念したいのだし。
「俺は『おいしい店を見つけたから食べに行こう』って言われただけだぞ」
「あれ? そうだったっけ? でも、おいしかったでしょ?」
「食わないで帰ったのを憶えてないのか? 俺はそういう場は苦手だからって、いっつも言ってるだろ」
「む〜。人の誠意は受け取ろうぜ?」
「お前は悪意を誠意と呼ぶのか?」
 もうこれ以上付き合ってられない。
 ヒュ=レイカなんかと話したせいか、急に疲労感が込み上げてきた。早く帰って休もう。俺は踵を返すと、さっさと歩き始めた。
 ―――と。
「こら、シャルトちゃん! まだ話は終わってないわよ!」
 突然、俺の背後からルテラの怒鳴り声が聞こえてきた。俺は反射的にビクッと肩を震わせて背後を振り返る。しかし、
「あはははは! また引っかかった!」
 そこにルテラの姿はなく、代わりにヒュ=レイカの心底嬉しそうな顔があった。今のルテラの声は本人のものではなく、ヒュ=レイカの声真似だったのだ。声帯模写とか言う技術があるらしいが、少なくともこういうことに使うための技術ではない。
「……いい加減にしろ!」
 遂にカーッとなった俺は、未だ笑い続けるヒュ=レイカに殴りかかった。
 が。
 俺の拳がヒュ=レイカの頬を捉えたと思った瞬間、どういう訳か俺の拳は感触を得られずに空を切ってしまった。目の前には確かにヒュ=レイカの姿はあるし、こんな至近距離で間合いを間違うはずがないのに。
「ふっふっふ。まだまだ修行が足らんのう」
 直後、ヒュ=レイカの声は俺の背後から聞こえてきた。
 振り返り、もう一度正面のヒュ=レイカと見比べる。すると殴りかかった方のヒュ=レイカの姿はざらつき始めると、いきなりぱちんと弾け飛ぶように消えてしまった。どうやら俺は術式で作った幻影に殴りかかったようである。それにしても、いつの間に入れ替わったのだろうか。いや、それはヒュ=レイカに対して意味のない質問だ。
「遥か東方の宗教に色即是空という言葉がありましてな。物事は見えるからといって実際にあるかと言えばそういう訳でもないと、ありがたい教えなのですよ」
「やかましい! ちょろちょろするな!」
 俺はすぐにヒュ=レイカに向かって右手を繰り出す。
「おっと」
 ヒュ=レイカはやや驚いた顔をして、俺の拳を受け止める。
「僕はね、ホント真剣なんだよ。キミってせっかくモテそうな顔してるのに、女の子苦手でしょ? 親切心でそんなキミが女の子に慣れてもらおうと、この間も画策した訳なんだよ。今だって、キミがゲットしたいって娘が出来たんだ、ここは心友として助けてやりたいと思うのは当然の流れじゃないかな?」
「で、本音は?」
「もしも破談になったら、是非とも慰めてやらねばと」
「どっちを」
「無論、女の子」
「だろうな!」
 俺は右手をくるっと返すと、ヒュ=レイカの左手を取った。前にレジェイドから手首を極めながら投げる技を習った事がある。手首の稼動域を越える負荷をかければ、どんなに力の強い人間も本来の力を出す事が出来ずに投げられてしまうのである。殴り合いではちょろちょろと逃げられてしまうだけだ。ならばこうして捕まえておいた方が確実にダメージを与えられる。
 取った腕を捻り、訓練で繰り返したタイミングとコツを確かめるように思い出しながら力の限り引き寄せた。
 と―――。
「え?」
 ヒュ=レイカの腕を引き、重心を崩して投げるイメージを作っていたその時。突然、俺の掴んでいたヒュ=レイカの手から抵抗が消えた。そのあっけなさに俺はバランスを崩し、前につんのめるように転ぶ。
「ぎゃん!」
 上着の中から、歩道と俺の体重とに押し潰されたテュリアスの悲鳴が聞こえてくる。テュリアスは上着の中から逃げるように飛び出し、俺の頭の上に這い上がってきた。
「なんだ急に……うわっ!?」
 すぐさま起き上がったその時、俺は驚きのあまり呼吸が止まった。俺の右手には、ヒュ=レイカの左手があったのである。どうしてこんな事に?! さすがにこれはヒュ=レイカに対して意味のない質問ではない。
「にゃあ!」
 痛いじゃない!
 頭の上でテュリアスがそう非難しながら俺の頭をぺしぺし叩く。しかし、今の俺はそれどころではない。生き物は自分の体の一部を取り外しする事が出来ないのだ。つまり俺はヒュ=レイカの左手首を引き千切ってしまったと、そういう事になる訳で……。
「ひどいなあ、シャルト君。何も腕を取らなくたっていいじゃないか」
 ゆらりと歩み寄るヒュ=レイカ。その左袖からは先が出ていない。
 が。
 ヒュ=レイカはゆっくりと手首から先を失った左手を俺に向ける。次の瞬間、袖の中からにゅっと左手が現れた。
「なーんちゃって。驚いた?」
 唖然としたまま改めて右手の中のそれを見ると、ヒュ=レイカの左手と思ったそれはマネキンのパーツだった。暗がりだから余計にリアルに見えてしまうのだ。
「うるさい!」
 俺はすぐさま左手を投げつけた。しかしヒュ=レイカはあっさりと受け止める。この構図は俺とレジェイドの時とそっくりだ。
 ちくしょう……いつもこれだ。
 ヒュ=レイカはいつもこうやって人を小馬鹿にして楽しむ。人を食ったような言動と性格は道化師と悪魔の入れ子みたいだ。こんなヤツでも一応の友達思いみたいなものはあるが、俺にはさっぱり理解出来ない行動ばかりである。友達と思っているなら、どうしてそうやっていつも苛つかせるのだろうか?
 ……それとも、単に俺が引っかかりやすいだけ?



TO BE CONTINUED...