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俺の趣味は料理だ。古今東西、ありとあらゆる料理を習得するだけに留まらず、それらを基盤にした自分が美味いと思う創作料理を研究しする事を楽しみの一つとなっている。そんな訳で、ほぼ確実に毎日行う朝食を作る作業は、普段頭目の業務に時間を削られて自由を人一倍制限される俺にとって数少ない研究時間だった。研究と言っても破滅的に味の崩壊したものを作り得る可能性を黙止して行っているのではなく、ある程度机上で良い結果を期待できたものだけを実際に作るのに注いでいるのだ。
その中で、味に厳しい自分が納得出来るまでの過程や要因を試行錯誤するのが朝食の時間だ。この場には、未だ試験中の様々な料理が日替わりで登場する。基本的に、俺は完成品を猛省したりはしない。味を見て、どこをどう直せばより良い味になるかを模索するだけなのだ。滅多な事で壮絶に失敗する事は無いからだ。それに第一、元々これらの趣味活動は対象を俺一人に搾って作ったものなのだ。万が一の失敗の際の責任追及云々は俺一人で全てが済む。どこを直せば良いのかも、過程は頭の中に入っている訳だからそれほどの労力は必要ない。
だが、これは少し前までの俺だ。
ルテラが守星になって部屋を出て行き、そして俺がシャルトを拾ってくるまでの間。部屋に帰っても待つ人間のいない期間だ。ずっと一緒に暮らしていたルテラがいなくなった部屋は、急に明かりが消えてしまったかのように物寂しくなった。人一倍寂しがり屋の性格という訳ではないんだが、どことなく家路に着くのを後回しにしていた。どうせ帰ってもな、と思ったからなんだが、かと言って普段から真っ直ぐ帰っていたわけでもなく。まあとにかく、所謂『人肌寂しい』というあれだ。
今、俺の部屋には同居人が一人いる。一年近く前に俺が縁あって拾ってきた子供、シャルトだ。
シャルトはこれまで随分と人間の汚い部分に辛酸を味わわされてきたため、色々と厄介なものを背負っている。その苦しみを俺は分かってやる事は到底難しく、ただ悩み苦しむ姿を傍らで見ている他ない。しかし、それでも泥沼から這い出ようとしているシャルトに、俺は『夜叉に入って戦う術を身に付ける』という道を指し示してやった。シャルトの持つ病を治してやる事は出来ないから、乗り越える力を与えてやる。それが俺に出来そうな精一杯の責任の所在だった。
その朝、俺は珍しく憂鬱な気分で朝食を作っていた。
分量は一人分。俺が食べる分だけだ。
ようやく仕事が終わり北斗に帰ってきたのは、シャルトを送り返してから一週間も経過してからだった。その間、シャルトの事は伝通を通してルテラから聞いているが、とても正視し難いものだった。部屋に篭ったままそれっきり。他に何も変化がないというのだ。食事に関してはルテラが差し入れる分には食べているようだが、ルテラも守星という自分の仕事があるためどうしても付きっきりという訳にはいかない。一日の大半を占める誰も見ていない時間帯、シャルトは一体部屋の中に篭って何をし、思っているのだろうか。考えただけで胸が痛くなる。
ま、仕方ないか……。
予想外とは言え、あんな形で父親と対面してしまったのだ。いや、互いに互いが親子である事を初めは知らなかったらしいから誰にも予想なんてつけられるもんじゃない。シャルトの出生に関しても穏やかなものではなく、決して感動やら喜びやらの伴う対面ではなかった。俺にも二人は会わない方が良かったと思える。そうと知っていれば決してシャルトは連れて行かなかった。この対面は運悪く遭遇してしまった事故みたいなもんなんだが、あの男はよりによってシャルトに言わなくてもいい事までぺらぺらと喋りやがった。酒の勢いだったんだと思うが、そのせいでシャルトが深く傷ついてしまった。せっかく長い時間をかけて立ち直ってきたっていうのに。たった一晩で、全てがパーになってしまった。
帰って来た時、部屋のドア越しにシャルトへ声をかけてみたが、中からはぽつりと気の無い返事が一つだけ返ってきただけだった。中へ強引に踏み入ろうとも思ったが、それではかえってシャルトを徒に刺激してしまう事になる。仕方なく俺はシャルトの様子を覗うのはやめて寝る事にしたんだが……。
一夜明け、また今日から普段の業務に戻る。朝起きて朝食を作りシャルトを起こして。そんな感じで一日が始まるんだが、今朝はどうにもシャルトを起こしに行く気にはなれなかった。多分、呼びに行っても出てこないんじゃないか。そう考えてしまうから、自然とシャルトの部屋から足が遠のいてしまう。保護者の俺がこんな事じゃならんのだが。壊れ物を扱うのは昔から苦手なのだ。苦手だからと遺棄出来る問題でもないが、とにかく今は様子を見るしか。
一週間も様子見かよ?
焼き加減を見ている頭の中に、そんな自虐めいた言葉が聞こえてくる。
俺の悪い癖だ。切羽詰った時、思い切った決断に出られず無難な選択肢を選んでしまう。今まで失敗をした事は無いが、かといって成功と呼べるような劇的事とも縁はない。その選択は単なる現状維持であって、窮地における最終選択を先延ばしにしただけにしか過ぎない。
なんにせよ、このまま放置しておく訳にもいくまい。俺だけではどうにも手におえないから、ルテラに相談して何とかしないと。こういう時、好奇心がきっかけで拾ってしまった自分の迂闊さを悔やんでしまう。シャルトを拾った事に後悔は無いんだが、何もしてやれないクセに拾った無慮な点は反省すべきだ。力無き正義は正義足り得ぬ。北斗にもそのまま当てはまる理念は、どうやら俺に染み付いてはいないようだ。
朝食を済ませ着替えながら時計を見やる。いつも通りの時間だ。
「じゃあ、俺は行くからな」
最後にと、ドア越しに声をかけてみる。だが昨夜と違い返答の声すら聞こえてこなかった。そんなにも思い詰め、気を削がれているのか。このまま待っていても仕方がなく、俺は返事を諦めて出かける事にした。
やたら物事をはっきりさせたがるヤツだが、落ち込む時はとことん落ち込むヤツだ。基本的にシャルトは繊細過ぎる性格なのだ。精神的には打たれ弱いくせに、際限なく細かい事を気にする。こればかりは生まれつきの部分に拠ってしまうから仕方ないんだが。そんな事など物ともしない強さはやっぱり必要だと思う。どうしても北斗の仕事は、そういった人間のダークな面に関わる機会が多い。そのたびに気に病んでしまっては、少々冷たい言い方だが、戦士としての評価は下がり、結果『使えない人間』となってしまう。それではとても強くなる事なんか出来ない。精神的にももう一皮剥けなくては。もっとも、その剥き方が分かれば苦労はないんだが。
まずは夜叉の本部に向かい、俺が不在の間に起こった出来事をまとめた報告書を受け取る。意外にも今回は薄く、ざっと目を通した限りでは特に主だった問題は起きていないようだ。これなら追加業務にもそれほど手を焼かれなくて済む。
薄い報告書を手にしながら、そのまま訓練所へ。
報告書は私室のテーブルの上に放り投げ、上着を脱ぎ捨てる。大して仕事は溜まっていないようだから、今日は久しぶりに午前中から体を動かしたい。嫌な気分は体を動かせば大抵は吹き飛ぶ。陰鬱な気分は不幸を招き寄せるのだ。悪循環に入ってしまう前に、多少無理をしてでも気分を軌道修正して快方に向かわせなければいけない。
やがて定時が近づく頃、夜叉に所属する面々が集まりきった。そしていつものように簡単なミーティングの後、トレーニングが開始される。だがそこにはシャルトの姿は無かった。いつもだったら、とにかく誰かに相手をされてもらいたがってちょろちょろしていて割と邪魔臭いんだが。いなけりゃいないで寂しいものである。
覇気が出ねえなあ……。
本当はトレーニングで思い切り体を動かして憂鬱を払拭するつもりだったのに。ふと気が付くと俺はトレーニングの風景を遠巻きに見やりながら壁際でボーッと佇んでいた。別に体の調子が悪い訳でもなく疲れもたまっていない。活力が漲っていても気力が伴わなければ意味はない。体を動かせないのはその気力が萎んでいる事に原因がある。そうと分かっていながらそれでもやる気が出ないのは、やはりどうしてもシャルトの事が気になって仕方がないからだ。
俺も、人に神経どうこう言えるほど強くはねぇな。
ふっと自嘲めいた笑みをこぼす。北斗へ移り住み夜叉に入ってから、おおよそ十年は経つ。その間は幾度となく辛苦を味わい、死線を乗り越えてきた。その中で俺の精神は如何なる事態にも動じないほど鋼のように鍛え上げられたと自負していた。だが未だに俺を揺るがす事態は多く、常に平静を保っていられるとはなかなかいかない。頭目にまで上り詰めたとはいっても、やはりまだまだ未熟で鍛えなくてはいけない要素は多いようだ。俺の人生はそのまま闘争の歴史、最大の敵は自分自身。そんな所か? 三文芝居臭ェ。
と―――。
「レジェイドッ!」
突然、ホール内に怒声が響き渡った。凄まじい勢いで名前を呼ばれた俺は、ボーっとしていたせいもあり無警戒だったため、思わず体をビクッと震わせて声がした方を見やる。
「……ん? お前は」
勢い良く開かれたホールの入り口に立っていたのは、部屋に閉じ篭りっ放しだったはずのシャルトだった。慌ててやってきたのかぜいぜいと息を切らせており、まだトレーニングウェアにも着替えていない制服のままだ。
「なんで勝手に行くんだ!」
シャルトはそう怒鳴りながらずんずんとこちらに早足で向かっていく。その姿を俺は呆気に取られながら見ていた。
「あ、いや、その、さ」
目の前までやってきたシャルトが、下から険しい表情で睨み上げてくる。俺は咄嗟の言葉が見つからず、文章にならない単音を無様に並べていた。
俺はシャルトの様子に愕然としていた。俺が想像していた姿と目の前のそれとが、あまりにかけ離れ過ぎていたからだ。部屋に閉じ篭りっきりなんだから、こうもっと青白い表情で魚のような目をしてフラフラ歩いてるんじゃないか。だが今のシャルトはまるっきり正反対で、色白の肌は走ってきたせいか紅潮し汗で湿っている。目はじろりとねめつけるように威圧的、立ち居振舞いも活動的だ。いや、活動的というよりも苛立ちをそのままぶつけているような感じだ。
「レジェイドが起こしてくれなかったから遅刻したじゃないか!」
そうシャルトは怒気を孕んだ表情で、どん、と俺の体を押す。その華奢な体格からは想像出来ない激しい押しに体をよろめかせ、バランスを取り直すのに二歩ほど後退ってしまう。
「あ、ああ……そいつは悪かった」
いや、そうじゃないだろ? ここはもっと別な角度からの言葉をぶつけるはずだ。
自分の行動をそう叱咤するも、俺の動揺は明らかで声の震えすら始まっている。そしてシャルトはそんな俺の変調に気づき、訝しげに眉を潜める。
「なんだよ。そんなに変か?」
「いや、なんというか。大丈夫なのか、と」
シャルトは俺が動揺する理由に気づいたらしく、なにやら気まずげな表情を浮かべ一度視線を下へうつむける。瞬間、俺は『ああ、会話が重くなる』と苦い気分になる。こういう互いの出方を覗いながらする不自然な会話はあんまり得意じゃない。特に親しい間柄では出来るだけ礼儀に反しない限り本音で話したいのだ。そうでないと、何か要らぬ火種や確執を作ってしまうんじゃないかと不安になって仕方ないのだ。
とにかく、間隔を空ければ空けるほど不自然さが増す。早い所埋めないと。そう思ったその矢先、シャルトがまた別な表情を浮かべながら頭を掻き、視線を伏せたまま口を開いた。
「別に悩んだって仕方ないし。それにトレーニング休んでまで考える事じゃないから。今大事なのはもっと強くなる事、だから休んでる場合じゃないんだ」
それは深刻には程遠い、どこか照れ臭そうな表情だった。
「ちょっと考え付くまでに時間をかけ過ぎちゃったけど、その遅れはこれから取り戻す」
うつむいたままだったが、驚くほどシャルトの口調は力強く内に秘める活力がひしひしと伝わってきた。俺はいつまでも呆気に取られている訳にも行かず、気を取り直し『そうか』と頷いた。あまりぐだぐだと言う必要はないんだと思う。絶対に俺は余計な事を言ってケチをつけてしまうからだ。
一つ、俺は気づかされた。シャルトは力のない子供で、大人が守ってやらなきゃどうしようもない弱い存在だと俺はずっと思っていた。でも本当は違うんだ。確かに拾ってきた時はまだ子供だったかもしれないけれど、少しずつちゃんと成長している。今のシャルトは決して弱くは無いのだ。ただ俺が、そうじゃないか、そうに決まっている、と大人の視点で決め付けていただけなのである。結果的に狭い子供の枠にシャルトを押し込めてしまって。だからシャルトは反発するのかもしれない。詰まる所、俺が過小評価していたのだ。子供の成長は、三日もすれば評価を改めなければならないほど速い。そんな事を聞いたが、まさにその通りだ。
「まあ、その生意気な口は一人で起きれるようになってから聞くんだな」
ようやく俺は普段の調子を取り戻すと、余裕の表情でシャルトの頭をぐしゃぐしゃとかき回す。
こいつ、俺の知らない間に随分と大きくなりやがった。背丈は相変わらずどうしようもないチビのままだけど、心の方は比べ物にならないほど大きく強くなった。辛酸を人一倍味わってきたせいなんだろうか。今までのような固定観念を捨てると、急に逞しくなった印象さえ受ける。
が、その時。
「ガァッ!」
突然シャルトの服の中から白い影が飛び出したかと思うと、それはそのまま一直線に俺の腕に飛びついた。同時に俺の腕に鋭い痛みが走る。
「ぐわっ! お前か!」
俺の腕に噛み付いていたのは、シャルトに懐いた例の子猫ちゃんだった。神獣は人間以上の知性を持っているらしいが、どうやら俺の行為がお気に召さないようだ。シャルトに懐いてしまってとんだ番猫気取り、これからは気をつけなければ迂闊に手を出す事なんか出来そうもない。猫に噛まれる趣味なんざないのだ。
「レジェイド、久しぶりに相手しろよ。今度こそ両手使わせてやるからな」
シャルトはぶかぶかの上着をうざったそうに脱ぎ捨てると、もやしのようにか細い腕をぐるぐる回し、関節の慣らしを始める。
「ハァン? お前なんざ左手だけの片手間で十分だ」
偉そうに、とシャルトが拳撃を繰り出してくる。しかし俺のそれよりも無駄な動作が多く二テンポも遅いシャルトの拳撃などまるでお話にならず、悠々と涼しげな風を受けるかのように身を退いてかわす。
もう随分稽古つけてやっているのに、相変わらず形にならないシャルトの格闘術。こんな調子でいつになったら強くなるのだろうか。苦笑と共にそんな不安感すら抱く。
しかし。
シャルトはまだまだ駆け出しだから、今から将来の事をどうこう語ろうとは無粋で意味のない事だ。
俺は思う。
こいつは絶対、道を踏み外し外道に落ちる事は無い。北斗の強さの本質を決して見誤らず、真に大衆から求められる力というものを見極められるはずだ。特別な才能に恵まれている訳ではなく、ただ足が少し速いだけで、むしろ重りの方が多い。それでも、どんな挫折を味わっても苦渋を舐めさせられても、絶対に立ち上がってこれる。それだけの強さは既に備わっているんだ。後は時間だ。時間が経つのを待っていれば。その時、シャルトはきっと―――。
後、望む事と言えば。
この先、出来る限りシャルトには幸多い人生が待っていて欲しい。今まで散々辛い目に遭ってきたんだ、そろそろお返しがきてもいい頃合のはずだ。
そうだろ?
神様なんて居るのかどうか知らないが。もしも居れば、という仮定の中で俺はそう密やかに願った。
TO BE CONTINUED...