BACK
目の覚めるような静寂を、リュネスは聞いた。
「はぁっ……はあ、はあ、はあ」
思い出したように、肺が空気を求めて喉を突き動かす。
一気に体中から力が抜け、弛緩した体ががっくりと地面へ膝を突く。反射的に伸ばした両腕で上体を支えるものの、肘もまた同じように思うような力が入らなかった。
熱湯から冷水へと突き落とされたような、五感を縛り付けられる感覚。
胸の奥には先ほどまで確かに燃え滾っていた興奮の残り火が燻っている。けれど背中から冷水を浴びせかけられたように背筋は冷たく凍え、意図しない震えが止まらなかった。
違う……違う!
まるで熱病にうなされたように、リュネスはしきりに頭を振りながらその言葉を繰り返した。己を諌めるようにではなく、己の所業をあたかも起こっていないかのように否定する意味で放たれるその言葉。俄に正気を取り戻すリュネスの言動は、やはり道理性の乏しい違えた筋道の上をひた走っていた。
込み上げてくるのは、ただただ圧倒的な恐怖だった。
自分という檻に閉じ込められた、限りなく原始に近い獣。その獣の本能が途方も無い力を持って、理由のない狩りへとリュネスを突き動かす。なんとか獣の手から逃げ果せようと駆ける自分の足は思うように進めず、背後に追跡者が迫り来るも辛うじて捕らえられない、最も息苦しい瞬間を味わい続けた。
自分は暴走している。
理性的な思考で自分が今の状態を自覚している事に、リュネスは驚きを覚えた。一年前に暴走を起こした時は、まるで光の中へ溶け込むような恍惚感に満ちて思考することも億劫なほどのけだるさと、如何なる存在をも恐れぬ昂揚感に溢れていて、自らを客観的に判断するなど発想する事すら出来なかったのだ。
それが、何故自分はこれほどの理知を保てているのか。
嵐のように暴れ狂う力は、今も体の中で暴力的に渦巻いていた。
今の自分に出来ない事は何一つ無い。
そんな根拠の知れない自信が漠然と湧き上がって来る。普段、臆病で人に意見を合わせ続けてきた自分だけれど、言いたい事ややりたい事が全く無い訳じゃない。むしろ、自分が思うように我を通していかなければフラストレーションが溜まり続け苛立ちが募るのだ。
この自信に従って、今こそ自分の我を通すべきだ。自らを解放し更なる高みへと昇らせるのだ。解放は罪ではない。抑圧する事が罪なのだ。開放的に生きる人間は大勢居る。自分がわざわざ損な役へ回る理由は無い。弱肉強食がこの世の摂理である事を身を持って知らされたはず。つまり、力のある自分は全てにおいて優位に立つ権利があるのだ。何者をも足蹴にしようとも、強者はそれであるだけで全てが許される。至上の幸福を得られるのは強者だけであり、自分は力の無い者にそれを害された事に対して怒りを覚えたのだ。自らの権利を主張し行使するために、こうして戦い続け……。
「それは、違う……」
リュネスは声に出してはっきりと否定した。
自分はそんな事のために戦いたいのではない。いや、むしろ自分は戦うことに対して否定的な立場を取っている。それでも戦うことが本文である北斗に入ったのは、それでも戦わなければ大切なものは奪われ続ける現実を知っているからだ。自分から害をなそうと言うのではない。相手の財産を奪うのでもない。自分が戦うのは何かを守るためだけだ。だから、今の自分は間違っている。たとえ暴走して物事の分別がつかなくなっていたからと言っても、それは理由にならない。北斗に求められるのは現実の結果だ。結果が出せない戦士は必要とされないのだ。そもそも、暴走する事自体が自分が未熟である証拠である。
だが、本当に自分は守るための戦いをしたかったのだろうか?
怒りの波に理性を飲み込まれた時、あれほど心地良いと思った事は一度も無かった。抑圧された自分を解放する快感、フラストレーションと無縁の一時は自らの行動から全ての限界の二文字を取り去り、ただ忠実に己の衝動のまま動いた。
本当に求めていたのは、いつも心の奥で思いながらも果たせない、抑圧され続けてきたそれらの行為ではないのだろうか?
気に入らないものは消す。
欲しいものは手に入れる。
たったそれだけの簡単な選択が、社会という巨大な化物によって抑圧されている。だが、精霊術法の力はそんな化物を遥かに凌駕するのだ。それを知り、手に入れた時の喜びは何者にも変えがたい。
だが。
ゆっくりと視線を前方へ向けるリュネス。
そこには大量の塩の溜りが出来上がっていた。しかし、よく目を凝らせば、塩溜りの中にはくすんだ小さな十字架の姿があった。かつて、そこに二人の人間が存在していた確かな証拠だ。
「違う……違う! こんな、こんな事をしたいんじゃない!」
そう、違うのだ。
怒りに任せて何もかもを否定する事でも、全ての道理を無視して我を貫く事でもない。
自分が本当にしたい事。
それは、抑圧された自分を解放する事ではない。
本能の欲求を力ずくで充足させる事でもない。
自分が求めるもの。
それは、
「にゃあ……」
リュネス、大丈夫……?
と、懐からテュリアスが首を出して覗き込む。こくり、とリュネスは努めて微笑みながら肯き返した。
「終わらせなきゃ……」
リュネスは立ち上がった。
口の中が乾き、搾り出した声が掠れる。乾いた舌も張り付いてうまく動いてはくれず、そのぎこちない動きが軽い嘔吐感を催させる。
体の中には相変わらず常軌を逸したエネルギーの奔流が凄まじい速さで駆け巡っている。一瞬でも気を抜けば理性はあっという間に飲み込まれてしまいそうになる。けれど、自らを強く持つように努めていれば不思議とそれは起こらなかった。決して気分の良いものではない。だが、自らの理性が奔流に飲み込まれる不安感は一片たりとも無かった。
はっきりと、奔流の流れを見る事が出来た。力から目を背けるのではなく、関わらぬよう遠ざけるのでもなく。ただ感覚的に力をどう飼い馴らせばいいのかを掴み取っていた。それは初めて野菜の千切りがうまくできた時に似ている。
ようやく、リュネスは自らの気持ちに気がついた。
自分が求めるもの。
それは、平穏な日常だ。
そして、そこには多くの人がいなければならない。自分の大切な人、北斗に住む多くの一般人、流派は異なるものの志を共にする北斗の人。それらが厳しくも穏やかに共存する日々の連続体こそが自分の求める平穏の本質だ。
平穏を取り戻すため。
北斗にあの活気を取り戻すため。
今は戦わなくてはいけない。決して私利私欲に捕らわれず、ただ北斗のために邁進する。北斗の最も根本的な姿勢が必要なのだ。
巨大な敵と戦うための力はこの手にある。Sランクの評価を受けた、あまりに大量のエネルギーを無尽蔵に供給するチャネル。そこから流れ出る力の奔流は如何なる者をも退ける、人として持ち合わす事の可能な限界の一つだ。
自分がこれほど強大な力を持って生まれた事を嘆かなかったことはない。けれど、はっきりと今、この巡り合わせとその理由を自覚する事が出来た。
この力は、自分を苦しめるための枷ではない。かつて望んだ通りの、自分の未来を自分で切り拓くための力なのだ。
もう、振り回されたりはしない。
手のひらを目の前にかざしてみせる。その手のひらには無意識の内に流れ出て体現化される冷たい青の光がぼんやりと浮かんでいた。その光をぎゅっと握り込む。そして最後に、深く大きく息を吸い込んで吐く。
リュネスは上着の中へ手を入れるとそっとテュリアスの体を抱き上げた。
「テュリアス、あなたはシャルトさんを探して」
リュネスはどうするの?
「私は終わらせに行きます。全部」
絶対に戻って来なきゃ駄目だよ。
「大丈夫です、私は必ず戻ります」
テュリアスはするりとリュネスの手の中から抜けると、軽やかに肩に登る。そして別れを惜しむかのように一度だけリュネスの頬に自らの頬を擦り付けると、そのまま肩から飛び降りて何処かへ走り去ってしまった。
本当は自分もテュリアスと一緒にシャルトを探したかった。自分のせいで捕虜になってしまい、今どんな扱いを受けているのか想像に難くない。だが、たとえ身勝手と言われても自分にはやらなくてはいけない事がある。北斗に属する人間は、北斗の治安維持を最優先事項としなければならないのだ。それは私事はおろか、自らの命すらよりも優先度は上である。つまりは、北斗の崩壊の危機に瀕している今、戦える自分は何よりも反乱軍の鎮圧に努めなければならない。それが、たとえ家族へ危機が迫っていようともだ。
ふとリュネスは、凍姫に入る前に南区で両親が殺された晩の事を思い出した。
あの時、シャルトは咽び泣く自分を置いて出て行ってしまった。けれど、今ならその気持ちが分かるような気がした。
辛い、と素直に思う。
けれど、ぐっと奥歯を噛んで胸の痛みに耐えた。
辛い事から逃げたりはしない。立ち向かう事に北斗の強さはある。不可能を可能とする突破力は、決して恐れる事の無い勇気と、北斗の存在意義を背負うその信念だ。
まだ自分は北斗の人間として未熟で意識も低い。けれど、少しでも先達に近づけるように、今ここに自分は宣言する。二度と、逃げたりはしないと。
北斗同士の内戦である以上、この先、目を背けたくなるような事態が何度も起こるだろう。だけど、自分はもう決して足を止めたりはしない。目を背けない。たとえどれだけ自分が傷つこうとも、立ち向かっていく。北斗の平穏を取り戻すまで。
リュネスは自らの足で強く地面を踏み締めて歩き出した。向かう先は北斗総括部の裏門。ここから最も近い総括部への入り口である。
戦いへの疑問、死への恐怖、大切なものが次々と崩れていく不安感、それらが前進する足に絡み付いてくる。けれど、それらは二も無く振り払って進み続ける。戦士には後退はおろか振り向く事もないのだ。
やがて、総括部の裏口が見え始める。この狂乱を終結させるための、最後の戦いの舞台になるであろうその建物は、遥か見上げるほど巨大で堅牢な外観をしていたが、どこか空虚な印象が否めなかった。まるで、建物が死んでいるかのような。
総括部は既に機能していない。かつて十二衆と並んで北斗を取りまとめていた役員達はもうこの世には居ないのだ。だから、たとえこの騒乱が終わったとしても、北斗が完全に元通りになる訳ではない。むしろ目に見えて衰えた姿を晒す事で、これまで以上に外敵からの脅威に脅かされるだろう。そこには最強だった北斗の影は無い。問題はむしろそこからだ。もしも自分が戦った事でこの騒乱を止められたとしても、北斗が滅びる事を遅らせただけにしか過ぎないかもしれない。意味は大同小異、けれど前に進む事が重要なのだ。前に進む事を辞めてしまったら、北斗の戦士ではなくなる。
と。
正門から比べ人一人がようやく通れるほどの幅しかない裏口。その前に、一人の人影が立ちはだかっていた。
濃紺の制服に身を包み、目の覚めるようなエメラルドグリーンの長い髪を高く結っている。猫を連想させるやや釣りがちの眼差しは真っ直ぐに堂々とこちらへ注がれている。
「ファルティア……さん」
ごくり、と息を飲むリュネス。
普段とはまるで別人のような迫力が、見た目の何倍にも巨大にファルティアを錯覚させる。背筋には冷たい汗が流れ指先が細かく震えだす。
だが、リュネスはぎゅっと拳を握り締め真っ向からファルティアを見据えた。もう二度と逃げたりはしない、と決めた覚悟が恐怖に慄こうとする自分を強く律しているのである。
「思ってたよりもずっと落ち着いてまともそうね。でも、ここから先は通さない」
ファルティアの鋭い視線が斬撃のように放たれる。気圧され息苦しさを覚えるリュネス。けれど、それでも後退しようとは微塵も考えなかった。
「どうして、どうしてこんな事に手を貸すのですか? ファルティアさんはそんな人じゃなかったはずです」
「あの人の力になりたい。そして求められた。だから応えた。ただ、それだけの事」
「エスタシアさんのしている事は間違ってます! そんなの、知っているはずでしょう!?」
「あなたにあの方の何が分かるっていうの。その非難さえ、覚悟の上よ」
周囲の空気が凍気に当てられて急激に熱を失い白く靄がかっていく。だがそれ以上に、二人の間でぶつかり合う裂帛の気合が、今にも音を立てて弾け飛びそうなほど激しさを増していく。
身内に対する遠慮は一片も無い。そこへ絶望や失望はなく、ただ悔しいと思う気持ちだけが込み上げてきた。ファルティアの意識はやはり彼に何らかの力によって操られている。本来ならファルティアは、普段こそ悪振ってはいるものの誰よりも正義感が強く、理不尽な事や筋の通らない事を決して許しはしないのだ。それが北斗の転覆を企む反乱軍に加担している現状。どう考えても本人の意志とはとても思えない。本当のファルティアの意思は押し殺されているのだ。
傀儡との押し問答に意味は無い。
リュネスは徐に半身の姿勢を取ると握り締めた両拳をそっと添えるように構える。一番時間のかからない方法は、残念だがこれしかないのだ。
「通させてもらいます。力ずくでも」
「いいわね。こっちもその方が分かりやすくていいから」
どくんっ、とファルティアの右腕は脈打ち、瞬く間に仄青い光を放つ豪腕へと姿を変えていった。
TO BE CONTINUED...