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少しだけ夢を見た。
懐かしい夢だ。
今でも脳裏へ鮮明に焼きついている二人の姿。
お母さんと、お兄ちゃん。
もう逢う事の出来ない二人。
今頃、どこかで俺の事を見ているのだろうか。だとしたら、きっと不安と心配の連続で落ち着く暇が無かったと思う。俺は結構危なっかしい所があるみたいだから。
今回の事は、これまで以上に心配をかけたんだと思う。だから二人が夢に出てきたのだ。
でも、もう大丈夫だから。本当に。
僕は自分の足で歩いてるよ。
躓く事や転ぶ事もあるけれど、一人で立ち上がれる。
僕は踏み均された村を駆けていた。向かう先は、町の北にある僕の家。
日が暮れかけていた。西の空に大きなオレンジ色の太陽が沈もうとしている。その光が土の上に僕の走る影とオレンジ色を落としている。
ハッ、ハッ、ハッ。
激しい息づかい。それでも僕はひたすら自分の家を目指して走る。
『ただいま!』
僕はいつものように勝手口から家の中へ飛び込んだ。同時に、パンを焼いた時の香ばしい匂いが僕を出迎える。幼い頃からずっと嗅いできた懐かしい匂いだ。
『おかえり。ほら、そろそろ夕飯だから早く手を洗ってらっしゃい。それとお兄ちゃんも呼んできてね』
お母さんは眩しいほどの笑顔で、僕を抱き寄せて額にキスをする。
その柔らかくて温かい感触に包み込まれる感触が僕は好きだった。どんなに遊び疲れていても、不思議と気持ちが安らぐのだ。
『はーい』
そう僕は素直に返事をして、家の奥にある洗面所へ駆ける。
『こら! 家の中は走っちゃ駄目って言ってるでしょ!』
『ご、ごめんなさい!』
お母さんの叱責から逃げるように、けれど決して走らず早歩きでその場を去る。
『おう、帰ったか』
洗面所にはお兄ちゃんが大きな体を丸めて顔を洗っていた。腰にはいつも粉だらけの前掛けをつけたままにしている。お兄ちゃんはよく前掛けを外し忘れている。一日の中でつけている時の事の方が長いからだと思う。
僕はお兄ちゃんにタオルを手渡した。お兄ちゃんはそれを後ろ手に受け取って顔をごしごしと拭く。
お兄ちゃんが顔を洗い終えると、今度は僕が手を洗った。今日はそんなに手が汚れてしまうような遊びはしてないけれど、外から帰ったら手を洗ってうがいをする事をお母さんにはいつも言われている。だから毎日欠かした事は無い。
『今日は何をして遊んだんだ?』
『んっとね、いつもの裏山。みんなで東の方に行ったら、雉の巣を見つけたんだ。それでね、また明日もみんなでそこに行くんだ』
そうかそうか、とお兄ちゃんは聞きながら笑う。
僕よりもずっと大きな体のお兄ちゃんは優しくて、いつも僕が何か困っていると助けてくれる。というよりも、お兄ちゃんは困っている人はみんな助けずにはいられない性格なのだ。僕はまだ体が小さいけれど、将来はお兄ちゃんのようになりたいと思っている。
『じゃあ、ご飯を一杯食べないと駄目だな。山に登ってもすぐに疲れて元気がなくなるぞ』
ポンポンとお兄ちゃんが上から大きな手で僕の頭を叩く。うん、と僕はうなづいた。そして僕達はお母さんの待つキッチンへと向かう。夕食の匂いがする。僕が好きな、お母さんのシチューの匂いだ。
物心つく前から、僕はお母さんとお兄ちゃんとの三人で暮らしていた。
お兄ちゃんは粉を挽いてパンを焼き、お母さんがそれを売って。まだ幼かった僕は村で同じぐらいの歳の子供達と毎日駆けずり回って遊んでいた。それが当たり前で、僕は何の疑問も抱かなかった。今思うと、村の人が僕達に向けている視線が微妙に違っていたような気がする。どこか哀れむような、そんな視線だ。
子供がいて、母親がいて、その兄がいて。
そう、本当はもう一人、父親がいるのが普通なのだ。けれど、僕のうちには父親はいなかった。お兄ちゃんがそれに近い存在だったから何の違和感もなかったのだけれど、大人達にとってそれは普通ではない事であって。それがあの同情や哀れみに満ちた視線を作り出していたんだと思う。
僕は今となっても、別にそれが不自然だとか気恥ずかしいとかそんな風には思わなかった。父親がいないどころか、その存在すら知らなかった事が大して重要には思わないからだ。
僕はずっと幸せだった。
お母さんとお兄ちゃんに僕は愛されて、僕はまだ『愛する』という事が分からなかったけれど、二人の事がとても大好きだったのは確かだ。
それが……。
と。
ふと、その時。僕はいつの間にか自分の姿を見つめている自分の存在に気がついた。視点がお母さんとお兄ちゃんとの幸せな生活を送っている僕から、それを回想している自分へと移り変わったのである。同時に視界がぼんやりと混濁していき、混沌とした闇が広がっていく。目は開いているのかどうか分からないけれど、それは目を閉じた時の闇とは違う”見えない”だけの闇だ。その暗黒の海の中を、自分の意識だけが漂流していく。
この幸福の構図は過ぎ去った過去のもの。今の僕……俺は、それらの過去の上に立って生きている。失ったものはあまり多過ぎて数える気にもならないけれど、それと同じぐらい、俺は沢山のものを得た。人の愛情を重さにして比較するのは良くないことだけど、お母さんとお兄ちゃんからの愛情と同じぐらい、今の自分は沢山の人に愛されているような気がする。そうでなければ、今の自分はここにはいなかったのだ。
あの頃、俺は幸せだった。けれど、今の俺も幸せだ。大切な人も沢山いる。みんな大好きな人だ。
だから、不必要に過去は振り返らなくていい。お母さんもお兄ちゃんも忘れられない大切な存在だけれど、戻らないものにいつまでもしがみ付いていたら前に進めないから。だから時折思い出すだけでいいんだと思う。
今、俺は再び自分の足で前に進む事だけを考えていた。ひたすら黙々と道を歩いて行くんじゃなくて、いつも周囲に視線を配る事も忘れない。寄り道も何度もする。歳を取る事だけが生きるって事じゃなくて、自分のやりたい事を楽しんだり、信念を貫いて何かを達成してみたり、後世に形の残るものを作り出してみたり、上げていけばキリがないほど沢山の生き方がある。
それを教えてくれたのは、この二人だった。
深い闇の中で身を強張らせて縮こまり震えるだけだった俺に、今一度明るい光の当たる場所を教えてくれた人。
普段は恥ずかしくて言葉には出来ないのだけれど。
俺は二人への感謝を忘れた事はない。
そして。
ふと、俺は意識が鮮明化して海の上に浮かび上がるように目を覚ました。
「……あれ?」
開いた目に眩しい光が飛び込んでくる。俺は目を細めながら周囲をうかがおうとする。嗅ぎ慣れた匂いがする。薬品の匂いだ。
「ここは……」
病院だろうか。
咄嗟に俺はそう思った。俺は北斗に来たばかりの頃はずっと病院に入院していた。麻薬漬けになった体と精神の障害が酷くて、その治療のためだ。だからこの匂いには人よりも馴染みがある。
「シャルトちゃん」
そう、ぽつりと傍らから声が聞こえる。
体が思ったよりも重い。俺は首だけをそちらに向けた。するとそこには、真っ白な肌にハニーブロンドと青い目を持った人、ルテラの姿があった。
ルテラはベッド脇に座って視線を俺に合わせながら、やや疲れの見える表情にうっすらと笑顔を浮かべた。そして、そっと俺へ手を伸ばしてくる。その手は俺の頬をぐっと軽くつまんだ。
「心配したんだからね」
口元をしかめて、ほんの少し怒った風な表情を浮かべる。と、不意にルテラの目に涙が浮かんだ。ルテラは俺の頬から手を離すと、手の甲で軽く涙を拭う。
「ごめん……」
ずっと眠っていたせいだろうか、喉が寝起きのように詰まっている。俺はなんとかそう声を振り絞って謝った。するとルテラは目を伏せて、軽く頭を二度ほど振った。謝らなくてもいいよ、と言いたげに。
「うにゃ!」
その時、俺の胸元に白い影が飛び込んできた。
大丈夫!?
胸の上に立ち、燃えるような赤い瞳でじっと俺を見下ろしてきたのは。アルビノ種独特の真っ白な体毛と赤い瞳を持った子供の虎、テュリアスだった。
「大丈夫だよ」
俺は不安げなテュリアスに向かって精一杯の笑顔を浮かべて見せる。けれど思ったよりもうまく表情が作れない。まだ寝惚けているせいなのだろうか。そんな俺にテュリアスは、うにゃぁん、と不安げな声を漏らすとそのまま胸の上へ腹這いに寝そべって視線をじっと俺に注ぎ続ける。
「ほら、テュリアス。そこに寝たらシャルトちゃんが苦しいでしょ」
テュリアスはルテラに首を掴まれると、そのままひょいと持ち上げられてルテラの膝の上へ乗せられる。けれど、それでもテュリアスは背筋を伸ばして不安げに俺の方へ視線を向ける。
「もうちょっとだけ眠った方がいいわ。体中、本当に傷だらけなんだから」
ルテラが幾分かは安心した表情で布団をかけ直す。
そういえば、俺は随分酷い怪我をしたんだった。後遺症で痛みが感じられないからどれほど酷いのかは分からないけれど、少なくとも今の自分が無理の出来る体ではないのがルテラの様子から痛いほど分かる。
もう、俺は命をかけなくてもいいんだ。なんとか目的は達成出来た訳だし、これ以上自分の体を酷使しなくてもいい。今はまず、自分の体を元に戻す事を考えないと―――。
と。
「あ! そうだ、リュネスは!?」
ふと思い出したそれに、俺は思わず飛び上がりそうな勢いでルテラに訊ねた。
するとルテラは微笑みながら優しく俺の肩を持ち、再び眠る体勢に戻す。
「大丈夫よ。リュネスはちゃんと無事だから安心して。シャルトちゃんが起きた事も伝えておいてあげる。その内にお見舞いにくるはずだから、少しでも元気になるためにも今は眠りなさい」
少しだけ冷たいルテラの手が額に置かれる。その感触はどこか懐かしくて、心地良かった。そうだ、お母さんのそれに似ているんだ。
「うん」
俺は目をつぶって意識を楽にした。
そうか、リュネスは無事だったんだ。
達成感にも似た嬉しさが込み上げてくる。リュネスが無事だったのであれば、それでいいのだ。好きな女の子を助けたい。それだけがあの時の行動理念だった訳だし。その代償として俺は随分酷い怪我をしてしまったみたいだけど、ちっとも後悔はない。むしろ、理由をつけて見捨ててしまったあの時の方がずっと辛かった。
元の生活に戻るまでどれほどの時間がかかるだろうか。しばらくの間はリュネスと一緒に昼食は食べる事が出来なくなるだろう。その時ぐらいしかリュネスと会えなかったから、少し寂しい。早く一緒に食事が出来るようになるためにも、体をちゃんと治さなきゃ。今やらなくてはいけないのは、傷が治るまで安静にしていることだ。
すると、意外とあっさり俺は眠りについてしまった。
早く治りたい。
そういう焦燥感が胸の奥で小さな炎を灯していた。
TO BE CONTINUED...