BACK

 ずっと、私は走らされていた。
 だからこそ見つけた、本当の『自分で走る』という事。
 走るという事は、誰かに背中を押されて走るんじゃなくて。
 自分の足で、一歩一歩を確かめるようにしっかりと進む事。
 けど。
 あの頃の私は、本当のそれを上辺だけしか分かってなかった。
 走る事と足を速く動かす事は違う。
 まだまだ私は、勢いだけの子供だったんだと思う。
 それでも走り続けたかった。
 本当の意味を見つけていなかった私。
 けど、前よりもずっと走りやすくなっていたのは確かだ。




「あ、やっと起きましたねぇ」
 ルテラが目を覚ますと、そこではリルフェがのほほんと微笑んでいた。
 寝起きで目が霞む。ルテラは目を擦りながら上体を起こす。と、ずしりという重く静かな痛みが脇腹から走った。その痛みへの驚きで一気に意識が鮮明化する。同時に、これまでに起こった思い出せるだけの経緯が頭の中に蘇る。
 目を覚ましたそこは病院だった。何年か前に一度、感冒を悪化させて半月ほど入院した事があり、それで病院独特の雰囲気と薬臭い空気を覚えていたため直感的にそう思ったのだ。
「……リル? 何が起こったのかしら」
「大丈夫ですかー? ここは病院ですよー」
 ルテラの問いに対し、リルフェは緊張感の欠片もない普段のペースでそう微笑む。ルテラは、やはりどうしてもリルフェから状況を聞き出すには若干の時間と手間がかかると、諦めの微苦笑を浮かべる。
 不意に喉の渇きを覚えたルテラは、ベッド脇のダッシュボードの上にあった水差しとコップに手を伸ばす。するとリルフェがすかさずそれに反応するものの、手渡してくれたのはその隣の花瓶だった。『これがどうしましたか?』と不思議そうな表情を浮かべるリルフェだったが、それはむしろルテラの方が言いたいセリフだった。改めて喉が渇いた事を伝えると、リルフェはすぐにコップに水を注いで差し出してくれた。
 微妙に意思の疎通がうまくいかないのは今に始まった事ではなかった。リルフェはどこか抜けた所があり、気を利かせているつもりがかえって余計な手間を引き起こす事が度々あった。それでも憎まれないのは彼女の人柄のためである。
「ここには誰が運んできたのかしら?」
 やがて喉を潤し一息ついたルテラは、やや寝乱れた髪を指でいじりながらリルフェに訊ねた。毛先に妙なカールがかかっている。それが気に入らず、ルテラは何度も捻ったり引っ張ったりを繰り返す。
「それがですねえ、聞いてくださいよぉ」
 リルフェはポンッと手を叩くと、まずはいそいそとダッシュボードの二番目の引出しを開けた。そこからヘアブラシを取り出すと、ベッドの頭側、ルテラの背後に回って髪を整え始めた。ルテラの髪をいじる仕草から察したのだろう。
「私、あれからルテラのことを随分と捜したんです。だって本隊から随分と離れてしまったんですもの。でも街をどこ探しても見つからなくて。そしてしばらくしたら連絡が入って、大怪我をして意識不明だっていうじゃないですか。それで慌てて病院に駆けつけたんです」
「つまり、何も知らないということかしら?」
「違いますよ。ルテラは私の事をオバカと思ってますね」
 そうリルフェは、後ろからルテラの耳を引っ張ってきた。ルテラは、唇を尖らせてむくれる彼女の姿が容易に想像できた。今時、この歳でこうも子供っぽくころころと表情を変える人も珍しい。
「ちゃんと事情は聴取しました。どうやら倒れてたルテラを運んだ人は市井のようです。やっぱり、いざとなると街の人達は親切にしてくれるんですねえ。北斗の人徳ってのも捨てたものじゃありません。お隣さんにお米を貸してあげるのと同じ理屈ですか?」
「リル、話が脱線しているわ」
 ルテラが重く溜息をつくと、リルフェはうっかりケアレスミスを犯してしまったかのように、ぺろっと舌を出して照れ笑いをする。ルテラはリルフェがすぐに話の腰を折り脱線させてしまう事は知っていたが、どうも慣れる事は出来なかった。むしろ、自分が本当に知りたい事を聞くまでの手間が増えてしまうため苛立ちの方が先行してしまう。
「それでその市井なんですが、ルテラの事をお姫様抱っこしながら病院に現れたそうです。そしてお医者さんに引き渡すなり、名前も告げず颯爽とその場から立ち去ったとか。目撃者の証言を集めた所によると、どうもその人は結構カッコイイ青年らしいです。いいなあ、まるで王子様」
 カッコイイだとか王子様だとか、その他諸々の怪しげな脚色はともかく。
 その青年とは、おそらくあの青年だろう。ナンパの手段なのだろうけど、大時計台を目の前に時間を訊ねるという実に間の抜けた青年。それがどういう訳か、重傷を負って動けなくなった自分が凍姫に売られようとしていた所に現れた。相手にしたのは、結局どこの流派かまでは分からなかったものの、北斗に所属する人間三人。ヨツンヘイム最強の戦闘集団である北斗だが、無論、そこに属する誰もがずば抜けて強い訳ではないが、それはあくまで相対的な話。一般人にしてみれば、たとえ実力的には最下層の人間ですら下手な魔物よりも遥かに強大な力を持った存在に思えるのだ。あの間の抜けた青年は、そんな北斗の人間を一度に三人も相手にした。そして、自分が無事に病院のベッドの上にいるということは、青年はその事態をどうにかして切り抜けたことになる。驚く事にだ。
 ルテラは今一度、自分が意識を失う前の記憶を掘り起こし始めた。
 その時、あの場には居たのは、自分と自分を凍姫に売ろうとしていた北斗の人間が三人、そして件の間抜けな青年だ。北斗の彼らは大した実力者ではないとは言え、決してあの青年一人でかなう相手ではない。北斗はケンカではなく殺し合いを行なってきているのだ。幾らストリートで最強を誇っていようが、そんなものは北斗にとって児戯に等しい。なおかつ、あの青年は見た目にもそれほど強そうではない。だからこそ、どうやって彼が無事に自分を病院に運んできたのか、その詳しい経緯が知りたくて仕方がなかった。
 また彼に会えるだろうか?
 ふと、ルテラはそんな事を思い浮かべた。自分の柄ではない。そうすぐに付け加えるも、やはりその気持ちに偽りがない事を確信させられる結果に収まる。たった、二度顔を合わせただけの人間。それなのに、どうしてこんなにも気になってしまうのだろうか? いや、それは違う。気になっているのではなく、命の恩人へそれなりの謝意を示したいと思っているだけだ。
「そうそう。ついさっき、お見舞いだとか言って訪ねて来た男の人がいましたよぉ」
 やがて髪を梳かし終えると、リルフェは安穏とした間延び口調でそう思い出したように言った。
「え? まさかお兄ちゃ……私の兄かしら?」
 その言葉に思わず心臓をドクンと高鳴らせてしまったルテラは、うっかり普段の呼び方で言いかけ、訂正する。
 自分を訪ねてくる男性と言ったら、ほぼ間違いなく兄であるレジェイドしかいない。兄は軽く咳を一つしただけで大騒ぎするような人だ。こんな怪我を作って病院に運ばれた、などと知ったら一体どうなることか。容易に想像できてしまう分、普段は優しく頼り甲斐ある兄が随分と情けなく見えてくる。
 すると、
「いーえ。北斗とは関係のない人です。ルテラを運んできた者です、とか恩着せがましい事を言ってたんですが、何も証明するものはないですからねえ。時も時ですし、とりあえずうっちゃっておきました」
 にっこりと笑顔のリルフェ。
 そのうっちゃるという言葉が何を意味するのかはさておき。訪ねて来たという人はあの青年ではないのか、とふと思った。その根拠を問われても答えられる訳ではなかったが。
「そう……どんな人だったかしら?」
「んー、並ですかね? 取り分けカッコイイ訳でもないですし。あ、でも、なんかちょっと変な人ではありましたねえ。まあ、あんまりモテないタイプでしょう」
 そういう意味の質問ではなかったのだけれど。
 リルフェの意見は随分と偏っている。情報の判定基準がこんな彼女だから、正直な話、いまいち先ほどの状況経過もあまり当てにはできない。とりあえず、その辺りの詳細な情報は他の部下から後で聞けばいいだろう。
 ひとまず。
 その訪ねて来たという人が兄ではなかった事に、幾分かの落胆を覚えてしまった。本音を語れば、正直、怪我をした自分を数分でもいいから見舞いに来て欲しかった。ちょっと指を切っただけでも大騒ぎする兄がやって来ないとなると、まさか本当に自分は見限られてしまったのでは、というマイナスの想像ばかりしてしまう。そんな簡単に断ち切ってしまえるほど、自分との絆は細いものではないはず。それに、普通に考えれば、私が入院したからと言っておいそれと見舞いにこれるほど頭目という役職は暇ではない。だから不安がる事はないのだ。
 理屈で自分を納得させるルテラ。しかし、未だその不安は消えない。やはり怪我をして気分が落ち込んでいるせいだ。勢いだけで兄の部屋を出た時のように、虚勢を張る気力すら失われてしまっているのだ。
 と、その時。
 コンコン。
 聞こえてくる、ドアを外からノックする音。
「失礼します。来客ですが……」
 そしてゆっくりとドアが開かれると、そこから現れた雪乱の隊員が控えめに告げる。どうやらこの病室の外にも何人かが警護についているようである。
「ああ、もううっちゃってください。頭目は意識不明の重体で面会不能とでも言っておいて」
 リルフェはそんないい加減な指示を提出する。ルテラの容態は極めて良好なのだが、もしもこの報告を真に受けられてしまったら、真実を知らない一般人及び他流派では大騒ぎになるだろう。挙句の果てには本部の方から事情聴取が行なわれる可能性すらある。無論、リルフェはそこまで考慮はしていない。文字通り、面倒だから、とそれだけの理由でだ。
 しかし、そんなリルフェの返答に隊員は困窮し進退窮まった様相を浮かべて右往左往する。
「いや、その……それが。頭目の兄だと、そう言っているので……。夜叉の頭目御本人です」
 どくん。
 心臓が高鳴る。
 ルテラはその音を傍らのリルフェに聞かれやしないかと、慌てて心臓を押さえた。心臓は未だにどくどくと波打っている。
 夜叉の頭目本人といったら、まさに今、自分が会いたくて仕方がなかった人。兄であるレジェイド、その人だ。
「通して下さい」
 ルテラは咄嗟にそう答えた。
 お兄ちゃんが来た。その喜びにはしゃいでしまう。しかし、それを露にする訳にはいかない。少なくとも雪乱の人間の前では、頭目として毅然とした態度を取っていなければ。
「……」
 そして、ゆっくりとドアから大きな影がぬっと中へ入ってくる。
 一切無駄な肉をつけずに鍛え上げられた体、自分とは違って明るい場所では鈍く光るダーティブロンドの髪、そして同じ海のような色をした碧眼。まるで何年も会っていないような懐かしさが込み上げてくる。しかし、まだその思いを爆発させる訳にはいかず、ルテラは黙ってじっと感情を抑える。
 感情を抑えると、皆が自分を呼ぶ時に用いる『雪魔女』になれるような気がした。心境の変化だけで自分を変える事は難しい。自分の中では変わっているつもりでも、周囲からしてみれば取り留めない日常の微妙な変化程度でしか見てくれないのが通例だ。そしてその内に馬鹿らしくなり、自分からそれとなくやめてしまう。しかし、ルテラの場合は心情がダイレクトに行動に表れるため、雪魔女としてあり続けるためにも感情を抑制する事を欠かせなかった。ルテラである自分と雪魔女である自分と、その変化の分岐点を通過するための、一種の儀式である。
 感情を咄嗟に抑えたルテラの様子を見たレジェイドは、より沈痛な面持ちで視線を軽く伏せる。心なしか、普段の彼らしい覇気は萎縮気味になって存在感が稀薄になりかけている。
「悪いけど、少し外してくれないかしら?」
 するとリルフェは、珍しく無駄口を叩かずに黙って部屋を後にした。レジェイドとルテラとの空気を読み、互いの気持ちを汲み取ったからなのかもしれない。
「ルテラ……」
 レジェイドはそっとルテラの傍らへ座った。
 久しぶりに間近で見る兄の顔。前よりもやつれているように見えた。肉体的な疲労ではなく、明らかな心労が原因だ。自分のしてきた事がこれほど兄へ負担をかけてしまうことになっていたなんて。ルテラは酷く罪悪感に苛まれる。
「傷はいいのか?」
「うん……」
 こくりと肯くルテラ。そんな素直な仕草に、自分が昔の自分に戻りつつある事を自覚した。
「そうか……無事で良かった」
 そっとレジェイドはルテラの頭を抱き寄せる。
 久しぶりに感じる兄の体温は心地良いほど温かかった。改めて大切な人の存在感というものを知らされる。同時に、こんなにも心配をかけていた自分が情けなかった。
「お前もさ、もう大人だからな。俺も、お前のやる事にいちいち口出しとかは出来るだけしないつもりだ。お前なりに何か考えがあっての事だろうから」
 レジェイドがそっとルテラの髪に口づける。そして、より愛しげに抱き締める。
「でも、あんまり心配かけんなよ……」
「うん……ごめんなさい」
 たったそれだけの会話だけれど。
 ルテラは何十年分の言葉を一度に吐出したような気がした。今まで、自分の中には日の光が当たっても溶ける事を拒み続ける妄執の氷があった。そしてその氷は、今、少しずつではあるけれど溶け流れ始めている。自然の摂理に従うように、妄執が晴れていくかのように。
「雪乱、辞めるつもりはないのか? 俺はいつでも戻ってきてもいいんだぜ」
 そして。
 ふとレジェイドはそうルテラに問い掛けた。
「あら? 口出ししないんじゃなかったの?」
 その反撃に、レジェイドは思わず言葉に詰まる。ルテラはくすりとそんな無防備な仕草に笑った。
「それとこれは別だ。俺はお前を危険な目には遭わせたくはないんだ」
 レジェイドは幾分か開き直った表情で奮然と構える。まるで少年のような表情である。
「でもね、私。まだやめる訳にはいかないから」
 ルテラはゆっくりとレジェイドの腕の中から離れた。
「確かにもうこれ以上、雪乱と凍姫のゴタゴタとは関わりたくないわ。けど、ここで辞めちゃったらまたいつもの自分に逆戻りだなあって。そう思うの」
 兄の腕の中は心地良かった。しかし、その心地良さは再び過去の怠惰な自分を呼び覚ましてしまいそうで恐ろしくもあった。何の目的もなく生きている自分と、何の目的もなく走り続けている今の自分と、優劣をつけた時にどちらが優れているのかは分からない。けれど、今の自分は過去の自分とは確かに決別を果たすつもりで生まれたのだ。だからなんにせよ、こんなに中途半端な状態でやめる訳にはいかないのである。
「だから、まだ辞められない。頭目としての責任は果たさなきゃ」
「お前の言う責任ってのはな、周囲の期待に応えようと自分を生贄にする事だぜ」
「それならそれでもいいが……いや、良くないぞ。やっぱり駄目だ。これ以上お前を危険な目には遭わせられん」
「もう。お兄ちゃんの言ってる事って一貫性がないわよ」
「なくて結構。俺は俺の主義を貫くだけ。よし、お前が辞めないんなら夜叉を動かしてだな」
「お兄ちゃん。そんな事したら、兄妹の縁を切っちゃうからね」
「……え? い、いや、待てってば!」
 二人は、初めこそぎこちなかったものの、少しずつ以前の調子を取り戻してきた。
 それは一度止まってしまった時計が再び時を刻み始める様に似て。等加速度に進む自分の時間に、追いつけないほどの速さで流れていた自分の周囲状況が克明に映し出されていった。
 縁を切るなんて。
 そんな非情な言葉を冗談として言い合える。それがなんだか、壊れかけた関係を修復できた証拠になった気がして嬉しかった。



TO BE CONTINUED...