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 怒り。
 随分と忘れていた感情だ。
 元々、怒る事が苦手な性格だから。
 馴れ合いにも似た緩やかな日常が好きだから。
 極力、自分を怒る必要のない人物である事に努めてきた。
 けれど、怒りという感情は人間が生きる過程で必ず必要なものだ。
 怒りとは、行動力。
 即ち、怒りを忘れていた僕は日和切った牙のない狼ようなものだったのである。
 僕は怒るという事をしなければならない。
 狼は自分の大切な存在を傷つけようとする外敵には憤怒の限りを尽くして襲い掛かる。
 怒りがなければ戦えない。特に、負ける事の許されない、守るための戦いには。

 しかし、その敵が、もし。
 いや。
 たとえそれでも、僕は戦わなければいけない。
 怒りにはもうひとつ、僕に力を与えてくれる。
 迷わせない、という妄執に似た硬い決意だ。




 夕刻、北斗の市街をひた走る影が一つ、あった。
 仕事帰りの人で混雑するその道を、影はたくみに人波をかわしながら速度を殺さずに駆け抜けていく。混雑した道を強引に抜けようとする影に対し露骨な不快感を示す者も決して少なくはなかったが、そのほとんどは瞬く間に目の前から消え失せてしまった人影らしきものに、ふと首を傾げるばかりだった。
 ひた走るその影の正体は、先日まで流派『凍姫』の頭目を勤めていた青年、スファイルだった。彼は、流派『雪乱』との抗争で多大な被害をもたらした責任を取る、という名目で唐突に頭目を辞職し守星となった。初めは『いつもの気まぐれがまた始まった』と世間から失笑を買ったが、それとほぼ同時期に流派『雪乱』の頭目であるルテラもまた同じように頭目から退任していた事が発覚したため、今回こそは本当に彼なりの責任の果たし方を示したのだ、と風評は一転した。だが、彼らの側近に相当する人間は真相を知っていたため、素直にその評価に賛同する事は出来なかった。彼らが頭目を退任した本当の理由とは、極私的な事、有り体に言えば『同棲するため』だったのである。無論、この件を世間に公表及び漏洩させる訳にもいかず、実際に知らされているのは各流派の頭目各程度に留められている。
 本日の守星としての業務を終えたスファイルは、既に頭の中が自分の帰宅を待つルテラの事でいっぱいだった。足は家路を急ぐ以外の一切の行動を拒絶し、頭は『どうすれば少しでも早く帰る事が出来るのか』についてしきりに試行錯誤を繰り返している。スファイルとルテラの関係は、元はスファイルの方からのアプローチから始まった。何度も何度もアタックを繰り返しルテラを振り向かせた、というのが世間一般の認識だった。心情的な問題になるため本人以外に実状を知る者はいなかったが、少なくともスファイルが盲目的と言えるほどルテラに惚れ込んでいた事は良く知られている。生活サイクルに若干の狂いが生じてしまうほどの関係は、周囲から見ればある種の異様さが感じられた。しかし、本人達はその狂いに気づいているのかいないのか、そんな生活に陶酔するかのようにのめり込んでいる。その結果、なんらかの社会的不備が起こっているかと思えば、そうではなかった。守星となったスファイルは当初の評価を良い意味で大きく裏切り、獅子奮迅とも言える働きをした。それは現役の守星の三人分に相当すると、とある評論家が称賛したほどである。今週に入ってからも、既にたった一人で北斗に襲撃をかけてきた敵戦闘集団を三つ壊滅させている。しかも他の守星が到着するまでの僅かな時間の間にだ。基本的に世間は結果を出す人間には寛容になる。スファイルは戦果の方ばかりがクローズアップされ、私生活の方についてはいつしか人々の興味は離れていった。
 頭目の時よりも風評から離れる事が出来る守星は、北斗を守る、という唯一の職務に従うだけの単一的なものであるため、元から周囲を気づかう事が苦手だったスファイルにとってこれ以上ない天職であるとも呼べる。
 東区の大通りを一気に駆け抜け、北斗中央にそびえ立つ巨大な大時計台の下を通る。ここは初めてルテラと逢った場所だ、とスファイルは思い返した。あの時はまだルテラにとって自分はそれほど意味のある存在ではなかったから、随分と冷たく突き放されたものだ。どこか寂しそうだったから、少し話でもしようと思っただけなのに。自分はよほど不信感を抱かせるような人間に見えていたようだ。
 そんな思い出の場所を通り抜け、更にスファイルは駆ける。
 彼らの住む部屋は凍姫や雪乱の本部がある西区の外れにあった。そこは住宅街であるため近郊に店の類はなく、住むには少々不便な場所でもあった。しかし、それを不満として感じた事は一度もない。その程度の事は、二人の共通意識である幸せな時間に支障を来たすにはあまりに弱いのだ。
 住宅街へ近づくに連れ、あれほど道狭しと溢れていた人波が徐々に減っていった。閑散としていくその光景がスファイルの気を一層逸らせる。
 と―――。
「兄さん」
 その時。
 不意に前に現れた人影に、スファイルは咄嗟に足を止める。ザーッと十数歩ほどの距離を滑り、ようやくスファイルは止まる事が出来た。
「エス君? どうしたんですか、急に」
 そしてスファイルは、おや、と目の前の人物に疑問の色を微笑みながら浮かべる。
 ゆっくりと人影はスファイルの前へ歩み寄る。
 背から沈みかけた夕日のオレンジ色の光が後光のように注ぎ込んできた。ややうつむき加減になった彼の顔に、表情がやや読み取りにくくなるほどの影を差し込む。
「いえ」
 現れたその人影は、スファイルの弟であるエスタシアだった。
 エスタシアは背中に夕日の光を背負いながら、悠然とうつむき加減だった顔を上げる。と、同時に、スファイルは周囲の空気が妙に生暖かく不気味な色を孕み始めた事に気がついた。ねっとりとからみつくような嫌な風だ。
 そんな中、エスタシアはいつものように柔らかく微笑んだ。
 が。
「先日のお返事を戴いてませんので」
 それは、普段の温和な彼からは想像もつかない、まるで氷のように冷たい冷笑だった。
「またその話ですか……」
 スファイルはふうと溜息をつき、苛立だしげに前髪を掻き上げた。
「はっきり答えますよ。僕は賛成しません」
 するとエスタシアは、スファイルの返事があらかじめ予測出来ていたのか、拒絶の返事にも関わらず意外にも落胆の薄い表情で小さく息を吐いた。
「兄さんも分からない人ですね。何故です?」
「言わなければ分かりませんか? 戦いは嫌いだからです」
「観点をもっと広げて下さい。今戦わなければ、もっと大きな戦禍が近い将来必ず訪れるのですよ?」
「それは推測でしょう? 第一、自ら進んで戦禍を起こす人間が心から平和を望んでいるだなんて、僕には信じられません」
 エスタシアの放つ不気味な風に対抗するかのように、スファイルはじろりと鋭い視線を向けながら冷たい空気を放つ。その温度の違う空気は両者の間でぶつかり、溶け合い、小規模な渦を作り埃を巻き上げた。
 エスタシアの両手がだらりと降りる。その腰には、流派『悲竜』独特の剣術スタイルである同じ長さの二刀が横に差されている。瞬間、スファイルは左足を下げて重心を落とし、いつでも動けるよう戦闘態勢を取った。
「そうですか。ヴァナヘイムがニブルヘイムに吸収された今、ヨツンヘイムの危機を救うため一人でも多くの才能が必要だったのですが」
 異様にぎらついた目を向けるエスタシア。しかし口元にこぼれる笑みは普段のものと変わらず、そのギャップがより彼の冷笑を不気味に引き立てた。いつ、ぶつかりあってもおかしくはないような緊張状態。スファイルはエスタシアがいつ刀の柄に手を伸ばすのか、一挙手一投足に全神経を傾ける。
 しかし、
「仕方ありませんね。他を当たる事にします。近年、北斗には有能な人物が続々と現れていますからね」
 意外にもエスタシアは、くるりとその踵をあっさり返して背を向けてしまった。
 何とかやりあう事は逃れられたか。
 スファイルはゆっくり後足を戻しながら、心の中で密かに安堵する。
 と。
 場を立ち去ろうとしたエスタシアは、ふとその前に足を止めるとチラリを覗き見るように浅く振り返った。
「彼女も、かなりの才能に恵まれていますね」
 そう、エスタシアは意味ありげに冷笑する。大きく見開いた目は、スファイルに対して挑戦的なまでの不敵な発言を暗に秘めている。途端、スファイルの表情が険しくなった。
「指一本、触れてみろ」
 びしりと空気が割れるような乾いた破裂音が響く。スファイルの足元の路石がみしみしと音を立てて凍っていく。放っていた冷たい空気は、まるでエスタシアを飲み込まんとするほど膨れ上がった。その空気は見る間に嵐のような荒々しい流れを作り吹き荒ぶ。そして一陣の風が、今の発言に対する返礼とでもいうようにエスタシアを打った。
「その時は、たとえ弟といえど容赦はしない」



TO BE CONTINUED...