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ドンッ、と再び踏み鳴らされる震脚。
その重苦しい地鳴りが一度刻まれるごとに、リーシェイの表情から余裕が少しずつ薄まっていった。
力まずだらりと自然体で垂らされたシャルトの両腕。一般的に武術の構えで腕は攻撃と防御を効率よく行えるように配置する。しかしシャルトの構えは、武術のものであるのには間違いないのだが、まるで攻撃も防御も放棄したかのように腕の配置が特異だった。
六合拳。
シャルトの型を見たリーシェイは、そうつぶやいた。
六合拳とは、防御の概念を取り払い、圧倒的な攻撃力で相手を封殺する剛拳の武術である。一見無防備に見えるその腕の構え方も、一度間合いに入れば如何なる武具にも劣らぬ強力な武器と変わる。如何な鎧も六合拳の前には紙にも等しく、たとえ術式の障壁であろうとも、相当な使い手でも無い限りは六合拳の攻撃力を封ずる事は出来ない。
六合拳の圧倒的な攻撃力は、防御という概念を捨て去った代償に得られた覚悟に帰依する。防御を考えない事であまりに攻撃に特化したため、人体構造を無視した原始的な打撃ですら容易に人を殺める事が可能である。
その危険性のため、六合拳は代々口伝のみで伝えられ、いわゆる秘拳の一つとなった。しかし、年月が経つに連れて六合拳の正確な全容を知っている者は減り続け、様々な分派に派生していった。結果的に幾つもの亜流が生まれ、原初の六合拳は完全に喪失し、六合拳の名はその流れを組む流派の通称となった。
シャルトの六合拳もまた、そんな亜流の一つだった。しかしレジェイドによってより実践的な改良が加えられている。夜叉式六合拳と呼ぶべきだろうか。
シャルトは六合拳を実戦で使った事はこれまで数えるほどしかなかった。圧倒的な攻撃力を引き換えに自分の身を危険にさらすのは元より、六合拳の本質が初見必殺の殺人術である事に少なからずの抵抗があったからだ。
何かを守るための存在、それが北斗だ。殺人術を駆使する事は、そんな自分の中の何かを崩してしまいそうで恐ろしくもある。
にも拘わらず、シャルトはリーシェイにその殺人拳を向けた。
リュネスのあんな姿を見せられ、感情的になってしまっている事は否定出来ない。しかしそれよりも、これ以上こんな変わり果てたリーシェイを見たくない、という気持ちが徐々に強まっていた。
殺人拳を向けているとは言え、シャルトには殺さずに済ませたい、という希望的観測が失われていなかった。どれだけ希望に添えられるのかは分からなかったが、今はただ漠然と、リーシェイを倒す事の他に頭は回らなかった。
ダンッ、と初歩を強く踏み締め、シャルトはまるで滑走しているかのように石畳の上を高速で移動する。それは、走り始めてから緩やかに加速して行く常人の走りとは違い、瞬間的に一定の距離を文字通り移動するような、半ば奇術じみた走りだった。しかし、奇術とは違って何の種も仕掛けも無い。ただ純粋に、シャルトの脚力がずば抜けているという事だ。
「くっ、またか!」
呼吸が半分も終わらない間にシャルトに背後を取られるリーシェイ。初めから狙われている事を知って警戒しているにも関わらず、はっと気が付けば既に後ろを取られてしまっているのだ。
常に背後から始まる攻防は、リーシェイにとってあまりに不利だった。相手の気配を刹那に捉えねばならず、また繰り出される攻撃の軌道を察知し捌かなければならない。術式の障壁は、到達を遅らせる程度にしか役に立たなかった。シャルトの打撃は、特に一瞬のためがあるものに関しては避ける以外に全く防ぎ用がないのである。
知識として蓄えていた基本的な武術の型が、ある程度六合拳にも共通していた事が幸いした。少なくとも何も分からぬままやられてしまう事態だけは避けられた。
しかし、状況は全く良くはならない。
六合拳の最大のポイントは、如何に相手よりも早く自分の間合いに入るかだ。幾ら圧倒的な攻撃力を持っていたとしても、間合いの外からの攻撃にはあまりに無防備な構えなのである。
それをカバーするために、一瞬で間合いを詰め、同時に攻撃する突進技が六合拳にはある。だがそれも予備動作が存在する以上、リーシェイには確実にタイミングを捉える自信があった。
だが、シャルトはそうもいかなかった。ただの移動動作が既に突進技の速さを凌駕してしまっているのである。
背後から、空気の塊にも似た圧力が凄まじい勢いで突っ込んでくる。なんとか反応域の範疇である。リーシェイは真横へ転がるようにその一撃を回避する。
その直後、通り過ぎるシャルトを狙い、氷の針を打つ。けれどシャルトの体は針が届く前にリーシェイの視界の中から消えてしまっていた。
下手に手出しをしても、無駄に体力を使い余計な隙を作ってしまうだけだ。
そこで、リーシェイはある一つの作戦を思いついた。それは先に相手を疲れさせようという単純なものである。
リーシェイは自らを落ち着け防御だけに専念し始めた。初めこそあまりに速過ぎて何が何だか分からないようなシャルトの攻撃も、冷静になれば思っていたより単純で、あっと言う間にパターンを網羅する事が出来た。そうなると、元々読みにも長けているリーシェイの思うがままだった。
パターンさえ把握出来れば、回避事態はそれほど難しくはなかった。その気になれば、相手を見ずとも予測だけで攻撃を避ける事が出来る。
落ち着いてみればこんなものか。
まるで呪いから解放されたかのような心境をリーシェイは覚えた。そもそもの始まりは、まさかシャルトの脚力がこれほどまでと予想していなかった事にある。結局、自分は混乱に乗じられていただけだったのだ。
ここからは自分のペースだ。
常に全力疾走を続けるシャルトを最小限の力でかわし続ければ、必ずいつかは疲労が溜まって動作が鈍る。そうなれば後はこちらのものだ。動きの鈍った六合拳など恐れるに足らない。
リーシェイはいつでも術式を行使できるよう構えながら、シャルトの攻撃をかわしていく。
もはやシャルトの攻撃をしっかりと目で捉えようとは思いもしなかった。目で捉えるにはあまりに速過ぎる一方で、目で捉えなければならない理由はないのだ。しかもリスクの方が高くつく。少なくともこの部分では自分は負ける事になるのは癪だったが、最終的には勝てばそれでいい。自分にとって重要なのは、まさにそこの一点なのだ。
まるで疾風のように、リーシェイを中心に前後左右を無尽に駆けるシャルト。
あえて接近戦での技術差を避けているかのように、それらの攻撃は全て一撃離脱の単発攻撃だった。しかし、それはリーシェイにとって好都合であった。腕力で畳み掛けられてしまう事が、最も恐れる事態だったからである。
幾度と無くシャルトの目にも止まらぬ凄まじい攻撃に晒されるリーシェイだったが、いつしかその表情には余裕の色が見え始めていた。
シャルトの攻撃は、威力、速さ共に群を抜いてはいたが、あまりに直線的かつ単調で、幾らリーシェイの背後を取る事が出来はしても、かわす事は実に容易だった。速過ぎて攻撃の型すら把握出来ないが、攻撃そのものを一本の直線と考えればさしたる問題はない。
こちらの意図も知らず、相変わらず一度思い込んだら単純なヤツだ。
そうリーシェイは、飽きもせずひたすら何度も攻撃を繰り返すシャルトを心の中でせせら笑った。今の自分は、既に獲物を腹の内に飲み込んだ蛇と同じだ。後はゆっくりと腹の中で消化し切るのを待つだけである。
初めから対等に渡り合える相手では無かったのだ。確かに北斗の中では一角の使い手だ、実力差に気がついていない訳ではあるまい。にも拘らず猪突していったのは、何よりも感情が優先したのは精神的に未成熟であるからだ。物理的な力量差を激情で埋められると考えるのは、戦場において愚の骨頂である。
それにしても、なんという執念か。
既に十数分が経過しただろうか。リーシェイがシャルトの消耗を狙うため、回避動作のみに徹して随分な時間が経過した。人間が全力で動き回るにはあまりに長過ぎる時間である。無酸素運動は瞬発的な動作だ。シャルトが全く無呼吸のままでいた訳ではないだろうが、それでも取り込む酸素量は格段に少ないはず。そして何よりも、酸素の供給量が減る事はそのままスタミナの著しい消耗に繋がる。にも関わらず、未だまるで遜色の無い動きが出来るシャルトは一体どうなっているのか。
ただスタミナが優れている、と評するにしては少々規格を逸している。おそらくシャルトは、既にスタミナが尽きていながらも執念だけで動いているのだろう。憎んであろう自分を倒すまで、幾ら疲弊しようとも止まる事は考えられないはずだ。所詮、自らを省みぬ特攻など戦場では何の役に立たない事を知らないのは勇猛でもなんでもなく、ただの無知蒙昧だ。それを知るには良い機会だろう、最も授業料は決して安くは無いが。
チッ、と鋭い音を立ててシャルトの拳がリーシェイの肩先を掠る。
僅かに触れた部分の布がめくれ上がったが、実質的なダメージは一切無い。しかし、む、とリーシェイは表情をしかめた。
今の攻撃、もっと余裕を持ってかわしたはずだったのだが。何故、掠ってしまったのだろうか。
下手な鉄砲も数を撃てば当たる。今の攻撃はたまたま掠ってしまっただけだ。そんな事もあるだろう。
リーシェイはその一撃をあまり深くは考えず、あくまで偶然の産物だと片付けてしまった。だが、それを機にリーシェイは少しずつ深みに足を踏み入れてしまう事になる。
「む……」
再び、今度は左の二の腕をシャルトの拳撃が掠った。先ほどよりもやや深く掠ってしまったせいか、びりっと痺れるような痛みが走る。
ハッ、とするのも束の間、再び攻撃が掠る。いつしかシャルトの攻撃は完全にかわすよりも体の所々を掠る回数の方が大きくなっていた。
一体これはどうした事だろう?
すぐさまリーシェイは何とか対応しようと必死で考えを巡らせ始めた。しかし、シャルトの攻撃は相変わらず直線的で戦術らしい戦術も無く、自分もまた最小限の動作でそれを回避している。
リーシェイは回避の速度を上げ、ひとまず臨時的な対応を試みる。すると、途端に掠り続けていたシャルトの攻撃が全く当たらなくなった。シャルトの動きが若干早くなっていただけだったか。そう一度は安堵するものの、それもまた束の間だった。すぐにまたシャルトの攻撃が掠り始めたのである。
これは単なる偶然ではない。シャルトの攻撃がここに来て更に加速し始めている。それだけでも確かに驚くべき事なのだが、同時に自分もまたスタミナを消耗し始めてきたため無意識の内に回避動作が遅くなっていた。むしろこちらの方が深刻である。
意識すればするほど、整っていたはずの息が荒くなっていった。額からは伝い落ちるほどの汗が流れ、胸の中が焼けるように熱い。弁解のしようが無いほどの疲労の兆候だ。
ドンッ、と大地を力強く踏み締める震脚。シャルトは大きく息を吸い込み、吐く。リーシェイとは対照的に呼吸の乱れは全く無く、それどころか汗の一つも浮べていない。
更にシャルトは踏み込む。それはこれまでにも増して目にも止まらぬ速さの踏み込みだ。
まだ動けるのか!?
シャルトの運動量は、既にリーシェイの常識の範疇を大きく逸脱していた。にも拘らず、シャルトの踏み込みは、これまででさえも圧倒的だった踏み込みを更に二周りも凌駕するほどの踏み込みだった。
リーシェイの膝は思うように締まらず、上体のバランスが崩れ始めていた。もはや何とか回避するだけで精一杯である。
そこでようやくリーシェイは気がついた。罠に嵌められていたのは自分の方であると。
同じ運動量ならば、体の大きい方がかかる負担は大きい。そして何より、あまりに驚異的なシャルトのスタミナ。シャルトの武器は、強靭な脚力でも一撃必殺の六合拳でもない。その、底無しのスタミナだ。それに気づくことが出来たならば、初めから別な戦術を組んでいたはず。いや、それが出来なかった時点で自分はシャルトの戦術に負けてしまった事になるのだが。
今、疲労する事がどれだけ危険なのか。深刻に受け止めていたからこそ、リーシェイは身の毛もよだつ思いだった。相手を疲れさせ、一撃で勝負を決めてしまおうと考えていたのだが、これではまるで立場が逆だ。シャルトの攻撃力を考えれば、ほぼ間違いなく一瞬で倒されてしまうだろう。飲み込んだはずの獲物は、こちらが油断するのを虎視眈々と待ち構え、一気に腹を食い破ろうとしていたようだ。
まるで、嵐の真っ只中に放り込まれたかのような激しい攻撃。もはや致命打を食らってしまうのは時間の問題である。
抜け出そうにも抜け出せぬ拳撃の暴風雨。たとえ恥も外聞もかなぐり捨てて逃げ出したとしても、この場から離脱する事は出来ないのだ。なんという閉塞感、そして恐怖。気の遠くなるような絶望的な状況は、逆に現実感を失わせた。今にも正気を失ってしまいそうなプレッシャーに、リーシェイは何とか自分を奮い立たせて打開策を模索する。
かくなる上は……。
リーシェイは右手に一本の針を体現化する。針の目標はただ一点に絞り、針を放つタイミングを計り始めた。
たった一つ、この嵐から抜ける方法はあった。しかし、すぐに『本当にやるのか?』というプライドの制止が立ちはだかった。
背に腹は変えられない、という格言がある。自らの命は他の何ものにも変えられないのだ。しかし、命よりも重要視するものは、価値観の違いにより人によっては存在する。
リーシェイにもそれはあった。だが、命よりも大切なそれは何なのか。突然、それそのものに対する疑問が浮かび上がった。
戦士としてのプライドと、組織に対する忠誠。
一体どちらが自分にとって命より大切だったのか。
迷いが、針を握る手を戸惑わせる。
TO BE CONTINUED...