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絶対的な危機に直面したら。
まず必要なのは冷静になる事。複雑かつ慎重を要する事態だからこそ冷静になるのは既知の定石だ。
そして二つ目は、その冷静な思慮を持って物事を先入観なしに出来るだけ正確に、そして事細やかに把握する事。正確な情報であるならば、多いに越した事はない。状況の最善の打開策は情報からのみ生まれてくるのだ。
最後に、導き出した最善の打開策を速やかに遂行する事。言葉にするだけでは一番簡単に聞こえるが、実はこれが最も難しい。何故なら、幾ら素晴らしい打開策を打ち立てたとしても、机上論と実際では大きく異なるからだ。何よりも実際は、如何なる不確定要素や不足の事態がおこってもおかしくはないのである。
私は防衛する事のプロフェッショナルのつもりでいるから、この三ヶ条をいつも忠実に守っている。私達守り手に失敗は許されない。ほんの僅かな失敗も、多くの人の命を無駄に散らす取り返しのつかない事態を引き起こすからだ。それを己に刻み付け、私は真摯に何事にも取り組んでいる。
けれど。
もしも、危機に直面しているのが自分の身内だったら。
みんなはどうかしら? それでも冷静でいられる?
なんて事かしら……。
タッ、タッ、タッと路石を軽快に踏みしめながら一心不乱に走り続ける。目指すは西区、凍姫本部。
その夜、私は北区の遊回を担当していた。またいつものように、うつらうつらと歩道を練り歩いては何か異変が起こってないかを警戒して回る。
守星の仕事に昼夜の概念はない。決められた時間の間きっちりと北斗を防衛出来るか否か、求められているのはそれだけで、こちら側の要求は基本的に聞き入れてもらえない。それが、守星に入る際の誓約、及び自分自身への覚悟だ。自分で言うのもなんだが、生半可な意識では守星は勤め上がらないのである。
今夜は天気が良く、空を見上げれば澄み渡った濃藍が広がっていた。そこにまるで宝石の粒のような大小様々の星の煌きが散りばめられ、形を欠けた月がまるで長のようにひときわ眩しい明かりを放っている。同じ夜間の警備でも、こういった月夜の方が気分は遥かに明るくなる。雨には雨の情緒があり、曇りの日には神秘的な灰のうねりが見られる。けれどやはり月夜の絶景にはかなわないと私は思う。そもそも、人工の明かりがないにも関わらず足元がはっきりと照らされる、その不思議な光景と目を見張る美しさ。月夜を題材にした絵画を描いた画家は数多くいるけど、それはみんな私と同様に月夜の魅力に取り付かれてしまった人達なのだ。故人が多いけれど、もしも出会う機会があったとしたら、きっと会話が百年来の友人のように弾んだはずだ。
けれど、そんな時だった。
突然、私は同じく警邏中のエスとばったり出くわした。するとエスがこんな事を口にした。
風無が反乱を起こした。
私は思わず我が耳を疑った。風無と言えば、戦闘集団北斗が誇る最強の部隊、北斗十二衆の一派だ。流派、主義思想は違えど、『ヨツンヘイムを統一して争いのない平和な国を作る』という同じ志の元に集まった私達だ。それがどうして突然、北斗に牙を剥こうというのだろう?
エスはその時、風無の小隊を追って羅生門に向かっている途中だと言った。私も一緒に追おうとしたが、更にエスが予想だにしない言葉を言い放った。
今現在、凍姫には僅かな戦力しか残っていない。けど風無の頭目を含む本隊はそこへ進軍中だ。
背筋が凍える、とはまさにこの時の心境を表すのだろうか。
どうやら風無の反乱に、北斗総括部は少なくとも凍姫の出撃要請を下したようである。大半の戦力が出払っているというのは、おそらくそのためだと思って間違いはないだろう。風無はお得意の情報操作でうまく凍姫の戦力を放出させて手薄になった本部を叩く腹積もりだ。
その時、私はある一人の人間の事が頭に浮かんだ。
リュネス=ファンロン。つい一ヶ月ほど前に凍姫に入った、まだ歳若い娘だ。精霊術法を習得するために開封を行ったのだが、運悪くチャネルの規模が大き過ぎたため『ベルセルク宣告』を受けてしまった。見た目は本当に可愛い女の子で、Sランクという大規模のチャネルを持っているようには見えない。
リュネスは私の弟、シャルトちゃんと親しい仲だ。今はお互いに良いお友達止まりだけれど、いづれ互いが互いに抱いている気持ちにも気づくはず。シャルトちゃんはリュネスの事が好きで、リュネスもシャルトちゃんの事が好き。けど、その気持ちはお互い胸の奥に隠したままなのだ。そういった恋愛未満の関係だけれど、私は微笑ましい二人の姿を遠くから見守っているだけで幸せな気分に浸れた。女の子が苦手だったシャルトちゃんの最有力彼女候補が出現したのだ。私もまたお姉さんとして祝福しない訳にはいかない。
そのリュネスが凍姫の本部にいる。私はそう直感的に思った。
根拠はある。リュネスはまだまだ技術の未熟な新人だ。いきなり実戦に出すほどファルティアも馬鹿じゃない。間違いなく本部の待機組にしているはず。しかし風無の本隊が狙っているのは、その待機組だ。するとどうなるか。皆まで言わずとも知れた事だ。
それで私は、凍姫の本部を目指してひたすら駆けていた。たとえ私一人だけでも厳しい戦況を強いられている凍姫側がかなり有利になるはず。これでも私は、元流派『雪乱』の頭目だ。上がりこそすれ、腕は衰えていない。
シャルトちゃんが初めて好きになった異性であろうリュネス=ファンロンを、私はどうしても死なせなくはなかった。弟が悲しむ顔を見たがる姉がこの世に存在するだろうか? たとえ存在していたとしても、少なくとも私はそんな姉は姉と認めないし、私も可愛い弟のそんな姿など決して見たくない。凍姫にいち早く向かうのは、リュネス本人のためだけでなくシャルトちゃんのためでもあるのだ。悲しみをこの世から消す事は出来ないけれど、私はせめて自分の周囲だけにはいつも笑ってもらいたいのである。
―――と。
「ルテラか?」
丁度路地を抜けて大通りに入ったその時、不意に朴訥な口調で声をかけられた。
私が入って来た大通りを良く見知った人間が走っている。先頭をひた走っているのは、凍姫の頭目ファルティア。それに続くのはリーシェイにラクシェルだ。そしてその後を凍姫の面々が方々の体で食い下がるようについてきている。
私はそのまま二人の横にぴったりと並んで並走した。
「もしかして本部に向かってるのかしら?」
「ああ、そうだ。風無の本隊に留守を突かれてしまってな」
そう、珍しくリーシェイが深刻そうな表情を浮かべている。常に冷静沈着で動揺を表に出さない彼女にしては珍しい仕草だ。やはりそれほど事態を深刻に捉えているのだろう。
「風無の頭目もいるって言うしね。ルテラも来てくれたんなら、多少は楽になるわ」
多少。
それは嫌味でも何でもない、事実を現した言葉だ。私達北斗は、襲い掛かる敵に対して最小限の被害で相手を倒さなくてはいけない。一般人を守りきったはいいが部隊は壊滅状態です、ではお話にならないし、逆に一人も被害を出さずに打ちのめせば北斗の持つ畏怖性が一層高まって襲撃される確率が減るのだ。しかし今回の敵は風無という北斗の一流派だ。最強を謳われた戦闘集団北斗の一派をまるで被害も出さずに倒すなんて、それがどれだけ困難なのかは言うまでもないだろう。たかが守星一人増えた所で、劇的情況の好転には決して結びつかないのである。
「ところで、先ほどの光は見たか?」
と、リーシェイが相変わらずの口調で訊ねてきた。
私はつい数分前の出来事を思い出した。あれはエスと別れてから間もなくの事だった。突然、西区の方から夜空に向かって魔力の柱が立ったのである。それは未だ見た事のない強大な魔力の体現化だ。複数人によって一斉に行う術式はあるが、あれだけの規模を行うには数百名は必要だ。そのため私は、初めは風無の合成術式と思った。しかし、術式の質が完全に違っている。あれは凍姫の術式だ。北斗十二衆の中でも、私がかつて在籍していた『雪乱』に次いで知る術式が凍姫なのだ。勘違いでは絶対にない。
ならば、一体凍姫本部はどのような状況なのだろうか?
あれほどの合成術式が行える戦力があるのであれば、わざわざ私が向かわなくとも風無と対等以上に渡り合う事は十分に可能だ。しかし、それは状況的にあり得ない。現に凍姫の筆頭実力者の三人はこうしてここにいる訳であり、その様子から本部には待機組しかいないと考えて間違いない。しかし、待機組だけの戦力ではあれほどの合成術式は絶対に行えない。一応、現役は退いているもののかつては凍姫有数の実力者だったミシュア氏がいるはずだが、さすがにあの人だけの力では無理だろう。
となると、あの術式は誰の手によるものなのだろうか?
それを考えると、私は二年前のあの事件を思い出してしまう。あの時も天気は目映いばかりの星空、絶好の月夜だった。同じように私は光の柱を目にした。あの時とは違う。そう自分に言い聞かせはするものの、どうしてもその時の記憶がリフレインして重なってしまう。
リーシェイの質問に私は答えなかった。
答えたくなかったのだ。二年前と状況が似ている事を自ら認めてしまうのが嫌だったのである。けどリーシェイは私の沈黙を肯定の返事と捉えたのか、無言でいることに追言はしてこなかった。それを合図に、私達はぴたりと会話をやめてしまった。みんな、暗黙の内に状況が二年前のあの時に似ている事に気づいている。でも口には出したくない。自分の思い違いであって欲しいと思うから、そのための沈黙なのだ。
しかし。
リーシェイはたっぷりと時間をかけて逡巡した後、誰もが思うその言葉を告げる素振りを見せながら口を開き、そして沈黙を破った。
「私達の敵は、風無ではなくリュネスになるかもしれない」
TO BE CONTINUED...