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 再び、毎日の流れが加速し始めました。
 それは以前と同じ忙しさに追われている事の現れです。
 けれど、忙しいだけではありません。それ以上に充実しているのです。
 自分が前に進んでいる事を実感できます。波に流されているのではなく、自ら泳いでいる手応えがあります。
 こんなに楽しい時間を過ごしているのは初めてです。




「さて、では行くぞ」
 リーシェイさんがゆっくりと両手を広げてだらりと下げました。その手のひらには、それぞれ五本の鋭い氷の針が体現化されます。
「は、はい」
「声が小さい」
「はい!」
 私は少しびくびくしながらも、意を決して構えました。
 私が凍姫に入ってから一ヶ月が経過しようとしています。最初の二週間は魔力の制御を中心にトレーニングしてきましたが、三週目からは少しずつ実戦形式に変わってきました。魔力の制御も、落ち着いた状態でしか出来ないのであれば意味がありません。如何なる状況、精神状態、果ては戦略を練るのと同時進行で行えるようにならなくては、実戦ではせっかくの精霊術法も役には立たないのです。
 その第一段階として、まずは防御の仕方から教えられました。理想的な防御方法は攻撃そのものをかわす事なのですが、それには相手の動きを予測するとかパターンを見破るなどの高度な技術と豊富な経験が必要になります。私にはそのどちらもありませんので、効率は悪いけれど確実な防御方法の習得から始めるのです。何事も基本は大切なのです。
「射」
 短い掛け声と共に、リーシェイさんの両手が頭の上に振り上げられます。同時に十本の針が凄まじい勢いで私へ向かってきました。
 大丈夫……落ち着いて。
 私は頭の中に氷の障壁を思い描きました。これを目の前に生成する事によって、リーシェイさんの針を防ぐのです。もちろん、リーシェイさんは私の実力を考えて手加減はしています。本気で撃つと、基本的にリーシェイさんの針は如何なる障壁も突き抜けてしまうのです。だから私の実力でも防げる程度の威力しか込められていないのです。落ち着いてやれば問題はありません。
 私はイメージをそのまま目の前に開放しました。瞬時に私の背丈ほどの氷の板が体現化されます。凍姫流の障壁です。
 みしり、と薄氷を踏みしめるような亀裂音。私の体現した障壁にリーシェイさんの針が突き刺さった音です。針はその先端が僅かにこちら側へ突き抜けています。どうやら私の障壁は防衛力が思っていたよりも低かったようです。手加減してもらってこれでは、実戦では効果があるとはとても思えません。やはりまだまだ私は未熟です。
「まあまあだな。もう少し障壁の密度を高めろ。反応は良いから、後はイメージだな」
 そうリーシェイさんは私を評価しました。私の評価よりは随分甘い評価です。でもリーシェイさんの方が経験がある分、意見も確かなので、私は自分で思っているほど駄目でもないのかもしれません。
 初めの内は向かってくる針が怖くて、障壁どころかその場から慌てて逃げ出していました。けど今はもう逃げ出さないぐらいの度胸がつきました。障壁もかなり素早く生成出来ます。でも、それは出来て当然の事なのです。大切なのはその効果の程です。現時点ではまだまだ実戦には程遠いでしょう。
 と。
「おーい、みんないる?」
 ホールに響き渡ったその声はラクシェルさんでした。
「ファルティアはいないが、後は揃っているぞ」
「あ、そうか。今日は土曜日だったっけ」
 ファルティアさんは先週から、土曜日は北斗の本部の定例会議に出る事になりました。それで今はこの場にいないのです。
 なんでもその会議は、全ての流派の頭目が必ず出席しなくてはいけないものなのだそうです。けれど凍姫では今までファルティアさんではなく経理のミシュアさんが代理として出席していました。それが最近になってどういう訳かファルティアさんが出る事になったそうです。会議は土曜の深夜まで行われるため、ファルティアさんが帰ってくるのは明けて日曜日の昼頃になります。だから今夜は私は一人で留守を預かる事になります。
「まあいいや。それよりも、ほら。先月、入院したレイジが帰ってきたよ」
 そう言ってラクシェルさんは誰かをホールに入れました。
「オッス、御心配をおかけしました」
 入って来たのは、丁度私ぐらいの年齢の男の人でした。身長は平均的、体格も中肉中背、髪の色は黒、と、ファルティアさん達に比べたらそれほど目立った特徴のない人です。特徴を説明する時、取り立てる容姿部分がありません。自分を棚に上げて言うのも咎める事ですけれど。
「安心しろ。誰一人として心配などしていない」
「ああ、やっぱりだ。相変わらず薄情ですね、ここの人間は。ああヤダヤダ」
 それにしても、この人は一体どなたでしょうか?
 凍姫の制服を着ているので凍姫の人なのでしょうが、私は初めて見る人です。凍姫に所属する人間は全部合わせると何百人であるため、付き合いの狭い私は全ての人を知っている訳ではありません。様子からしてリーシェイさんとも仲が良いようですが。
「おっと。リュネスはこいつは初めてだったね。ほれ、自己紹介しろ。モブでもいいか?」
 ラクシェルさんはその人の頭を後ろから小突きます。でも、その仕草からは想像できないような音がしました。何と言うか、漬物石を木槌で叩いたような音です。
「ちょっ、痛いって。こっちは病み上がりなのに……」
 そう露骨な舌打ちをして、小突かれた部分をさすります。けれどそれほど怒っているような表情でもありません。ただ、リーシェイさんもそうなのですが、自分の感情を表情に出さない人はとても苦手です。この人もそういう人なのか、と少し言動に警戒したりします。
「僕が入院してる間に新しい人が来たんだね。僕はレイジ。まあ、気軽に呼んで下さい。あの人達はまるで犬猫のようにしか呼んでくれないから、せめてキミだけでも名前を憶えてくれたら、明日からの日々に希望が持てます」
 と、爽やかに笑います。先ほどの露骨な舌打ちを放った人と同一人物とは思えません。いえ、少しだけ自虐の色がありますが。
「犬風情が大口を叩くな」
「そうそう。第一、アンタをそこまで鍛えてやったのは誰のおかげだと思ってるの?」
「ええ、それはもう皆さんのおかげです。おかげで理不尽な暴力にも動じない、強い人間になる事が出来ました」
 レイジさんの口調は、言葉こそ感謝のそれですが、どことなく刺があります。どうやら、過去に何か辛い経験があったようです。何となく想像はつきます。でも口にはしません。
「私はリュネス=ファンロンです。よろしくお願いします」
 そう私はレイジさんに名乗りました。随分と自然に自己紹介が出来るようになったと自分でも思います。レイジさんは、よろしく、と微笑みました。こうして見るとやっぱり極普通の男の人なのですが。きっとああいう刺々しい口調は地ではなくて、特定の人だけにはそうなるんだと思います。
「あの、今まで入院されていたのは、どこか具合が悪かったんでしょうか?」
「心配してくれてるんだ? いや、嬉しいなあ。凍姫でまともに人から心配されたのって、本当に久しぶりだ」
 ニコニコと嬉しそうに微笑むレイジさん。けど、再び言葉の刺がリーシェイさん達に向けられています。私は、そうですか、と相槌を打つ訳にもいかず、酷く曖昧な笑顔をぎくしゃくと浮かべます。
「いや、ね。一ヶ月ちょい前だったんだけどさ。ラクシェルさんがファルティアさんと、またいつもの乱闘騒ぎ繰り広げててね。僕は止めに入ったんだけどさ、逆にラクシェルさんに頭カチ割られて。ほら、ここ。結構大きな傷痕があるでしょ?」
 レイジさんは前髪を上げて額を見せてくれました。そこにはにび色の傷痕が横一線に走っています。かなり大きい怪我のようです。
「咄嗟に障壁を張って軽減出来たんだけどさ、一時はヤバかったらしいねえ。気がついたら五日も経ってたし。頭蓋骨にヒビが入ってたってさ。こんなに早く退院出来たのが不思議なくらいだって担当医にも驚かれたよ」
 ここで話をまとめると。
 レイジさんは私が凍姫に入るよりも少し前、ファルティアさんとラクシェルさんがケンカしていた所へ止めに入ったけど、運悪く流れたラクシェルさんの拳に頭を打たれて、そのまま病院へ運ばれて入院してしまった、と。こんなところでしょうか?
 ラクシェルさんの得意とする戦法を前に聞いたのですが、ラクシェルさんは現役の凍姫の一員では唯一絶対零度を体現でき、それと精霊術法で強化された筋力を組み合わせた格闘術は、この世に存在するものを全て破壊出来るとか。もし障壁を張っていなかったら、レイジさんの頭は。きっと、想像通りの恐ろしい事になっていたと思います。
「相変わらず、口数の多さだけは変わらないな。さて、リュネス。もう上がっていいぞ。これから凍姫式の快気祝いを執り行う」
「そうそう。気の弱い人は見ない方がいいわ」
 と、リーシェイさんとラクシェルさんがニッコリと微笑みました。けど、私はその笑顔に寒気を憶えました。顔は笑っていますが、目は全く笑っていないのです。そして、リーシェイさんの手には私の時よりも遥かに多くの氷の針が体現化され、ラクシェルさんの腕は真っ白な凍気に包まれます。
 二人の言う快気祝いが、私の知っている快気祝いと全く違う内容である事は明白でした。けれど、私は二人を止めませんでした。相変わらずなのですが、それほどの勇気は私にはないのです。
 お疲れ様です、と言い残してそそくさとホールを後にしました。扉を閉めた直後、この世のものとは思えない、凄まじい悲鳴が扉越しに聞こえてきました。私はただ無事である事だけを願って、足早にロッカールームへ向かいます。
 実の所、今日の昼休みは予定がありました。
 凍姫に入って間もなくの事なのですが、爛華飯店にいた頃に三ヶ月以上も遠くからこそこそと見ていたシャルトさんと偶然に喫茶店で出会い、その時にこれからもちょくちょく一緒にご飯を食べる約束をしたのです。それで今日はこれから待ち合わせ場所に向かうのです。
 シャルトさんと何度かご飯を食べる事で、随分と自然に会話が出来るようになりました。初めの内は慣れないせいもあってかなりぎくしゃくしていたのですが、今はもうほとんど会話が途切れたりする事がありません。そうして会話を重ねていく内に、シャルトさんについて色々な事を知りました。シャルトさんが北斗に来たのは二年前という事。夜叉は色々な武器を使う流派なのですが、シャルトさんはまだ剣も持たせてもらっていないという事。シャルトさんと一緒にいるテュリアスは神獣で、人間の言葉が理解出来るし、更に自分の意志を相手に送ることが出来るという事。一ヶ月ほど前までは名前すらも知らないような関係だったのに、驚くほどの前進です。
 そして、なんとなくですが、シャルトさんが私を意識しているのではないかと思うようにもなりました。それがどのぐらいの重さかは分かりませんけれど、有象無象の中から区別してもらっているというのは嬉しい事です。
 私はシャワールームで体を幾分念入りに洗うと、服を着替えて身形を再度整えます。なんだか鏡を見る回数が増えた気もします。何度見ても変わり映えはしませんが。
 準備が整って足早に玄関へ向かう途中、再びホールの前を通ると。
 悲鳴。悲鳴。そして絶叫。
 けれど私は頭の中からそれを追い払い、足早に去りました。時間にはまだ余裕がありますけど、シャルトさんを待たせるような事になってはいけません。それに、悲鳴を上げる余裕があるという事は、まだ無事であるという事の現れですし。



TO BE CONTINUED...