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 はあ……。
 あれから俺は後悔の溜息ばかりついている。
 やっぱり、ああしておけば良かった。
 あの時、こうしておけば良かった。
 今になって、そんな後悔ばかりが立つ。
 こんな事になるぐらいなら、初めから思った通りにしておけば良かった。
 はあ……。
 過ぎてから後悔する自分。
 情けない。




「はあ……」
 もう、何度目だろう? 溜息が止まらない。
 朝の夜叉訓練所。ぽつりぽつりと集まり始めた人影は少なく、五層結界処理を施された壁で作られたホール内は閑散としている。
 俺はロビーの片隅に陣取り、テーブルの上に頬杖をつきながら何するでもなく、ただボーッとしていた。
 時刻は午前七時四十分。訓練が始まるのは午前九時からだ。当然の事だが、まだまだ開始時刻には早い。それでも幾人かはホールにいるのだが、みんな夜叉では古参の年寄りばかり。要するに、朝起きるのが早いだけなのだ。後は訓練所に常駐している夜勤の明けていない管理人ぐらいなもの。
 普段は俺も、こんな時間に訓練所へやって来る事はない。だが今日は早く目が覚めてしまい、部屋にいても仕方がなかったからだ。というよりも、昨夜はまるで眠れなかったのだ。そのくせ今も眠気がない。ただ沈痛なしがらみだけが頭に重く圧し掛かっている。おかげで食欲も全くない。普段はトレーニングに遅刻しようとも朝食は必ず取っていたのに。朝食を抜くなんてどれぐらいぶりだろうか。
 目を閉じれば、すぐに脳裏に浮かんでくるその映像。
 床に座り込み、泣く、リュネスの姿。
 今も耳の奥からその嗚咽が鳴り止まない。
 どうして、俺はあの時、そんなリュネスを一人残して帰ってしまったのだろうか。
 あの時俺は、どうせ何も出来ないからと諦めていた。でも、せめて傍にいてやれれば、多少は悲しみや現実の辛さを和らげられるような何か出来る事があったはずだ。それを俺は、リュネスの前では格好良くやろうとつまらない見栄を張ったせいで……。そもそも、あの好意で出された酒だって、自分が弱いのを知っていながらもそれを知られまいと無理に飲まなければ良かったのだ。第一、この時点で随分な失態を演じてしまった事になるのだから。
 全ての後悔。それは俺自身の小さな見栄に起因するものだ。どうしてあんな見栄を張ってしまったのか。何の事はない、等身大の自分を見せる勇気がなかったのだ。俺は自分にそれほど自信がある訳ではないから。
「にゃあ」
 と、煮干しを食べ終えてしまったテュリアスが、頬杖にしている俺の左腕にしがみついて来た。
 暇だから遊んで。
 じーっとアルビノ種特有の赤い瞳で見上げてくる。
「お前は気楽だよな……」
 俺はテュリアスの鼻をぐいっと押してやる。すると油断していたテュリアスは、そのまま背中から引っ繰り返った。
 とにかく。
 まずは風無にかけあって、昨夜の南区で起きた事の詳細情報を貰おう。北斗関係者だったら、まず大体の情報は貰えるはずだ。それからリュネスの居る爛華飯店に行って……少し気は引けるが様子を見る。そして、今度こそはどうにか力になってやらないと。今度こそは。
 ―――と。
「ん? なにやってんだこんな時間に」
 突然、のっそりとした大きな影がロビーに姿を現す。
「……別に」
 そいつは、この夜叉の頭目であるレジェイドだった。
「なんだ、陰気臭ェな。どうかしたのか?」
 そうレジェイドは近づき、俺の向かいの席へと座る。
 嫌なやつに見つかったな。
 俺はまた一つ溜息をついた。レジェイドは何かと俺の事に首を突っ込みたがる。そのたびに面倒なほど引っ掻き回しては笑いの種にするし。今のような心境の時、最も顔を合わせたくないヤツである。
「お前こそなんだよ、こんな時間に」
「あのな。俺はいつもこの時間に来て、一日の準備だとか、スケジュール確認とか、どっかの誰かが毎日食い散らかしている食費の整理やらをしてんだよ」
 一応、レジェイドは頭目であるから。夜叉を円滑に機能させるための雑務が山とあるのは知っている。しかしそれが、毎日のようにこんな時間から行われていたなんて。今まで八時過ぎにようやく部屋を後にするような生活をしていた俺にとって初耳である。
「で、なんかあったのか?」
「何も」
 俺は頬杖にしていた腕を右に変え、レジェイドから視線をそらす。
 危うく会話を続けてしまいそうになった。下手に言葉を返していたら、ますますレジェイドのペースにはまってしまう。今、俺は一人で静かに考え込みたい気分なのだ。こうして黙って反応を薄くしていれば、その内に興味を失って立ち去ってくれるはずだ。
 しかし、
「もしかして、タたなかったのか?」
 ぽつりと。まるでなんともなかったような普通の口調でとんでもない事を口にする。
「違う! お前、一体何の話をしてるんだ!」
 その安穏とした口調にカッとなった俺は、思わずテーブルを叩きながら立ち上がりレジェイドを睨みつける。だが、それでもレジェイドはヘラヘラとした表情を引き締める事はない。
「何ってナニだけど。ほら、お前。この間、女をオトすにはどうこうとか聞いてたじゃねえか。だからさ、それで失敗したかと思ってよ」
 確かに、ある意味失敗してしまったと言えば失敗だけどさ……。そういう失敗では決してない。そこに至る以前の問題なのだ。
「じゃあなんだよ。気になるじゃねえか。教えろよ」
「別に関係ないだろ」
「おやおや、冷たいねえ。恋愛下手な弟君を心配するのはそんなにおかしいかね」
 何を抜け抜けと。一体どこが心配してるってんだ。これでもかって言うくらい、興味津々とした表情を浮かべやがって。
 まともに議論するのも馬鹿らしい。俺は自分を落ち着けて席に座り直すと、また先ほどのようにレジェイドから視線をそらして頬杖を突いた姿勢を取り直す。
「俺はまだ一言も言っていない」
 なんで勝手に決め付けるんだ。俺はただこうやってボーッとしていただけだったじゃないか。
 そう反論しようとは思ったが。レジェイドの指摘もあながち見当はずれという訳でもない。こうして思い悩んでいるのは昨夜のリュネスの事であるから、近からず遠からず。全く間違っているという訳ではないだけに、今のレジェイドのからかうような指摘が悔しい。
 すると、
「俺〜?」
 突然、レジェイドが俺の頭を上から鷲掴みにしてきた。
「何が俺だぁ? 僕ちゃんがいつからそんな言葉使いをするようになったんだ? ん?」
 ぐしゃぐしゃと乱暴に俺の髪の毛を掻き回す。それだけでなく、掻き回すたびに頭を強引に揺らすものだから、目の前がぐらぐらとして酔ったような嫌な気分になってくる。
「うるさい! 関係ないだろうが!」
 俺は再度レジェイドを睨みつけると、その不躾な右手を叩き落とそうと左手を振り上げる。しかしそれを振り下ろすよりも早くレジェイドの手が引っ込み、俺の腕は虚しく空を切った。
「まあ、な。何があったかは知らんが。悩むくらいなら行動を起こせって。そのまんまウジウジしてたって何にもならんぞ」
「分かってるよ……」
 分かってる。
 今日だってこれから……いや、昼休みにでも行動を起こすつもりでいたんだし……。
 いや、本当に分かっているのだろうか? 俺はただ分かった振りをして先送り先送りしてはいないだろうか? 昨夜だって、本当はもう一歩踏み込めば、今こうして後悔するような事にはならなかったはずなのに。
 駄目だ。昔の自分ばかり振り返っても仕方ない。昔の自分は駄目な人間だったと、今の自分は気がついているのだ。だったら本当はどうすれば良かったのか、それをこれから目指せばいい。それが人間として成長するという事なのだ。俺も北斗に来て二年もなるんだから、そろそろレジェイドやルテラに茶々を入れられる余地のない人間にならなくては。
 そして。
「で、もう一つなんだが」
「なんだ?」
 レジェイドがゆっくりと左腕を俺の前に差し出した。
「これを何とかしてくれ」
 レジェイドの左腕には、テュリアスががっぷりと食いついたままぶら下がっていた。
 その瞳には、レジェイドに対する抗議の色がありありと浮かんでいる。



TO BE CONTINUED...