BACK

 なんて大きな家なのだろうか。
 丁度日が暮れる頃、ようやく馬車は目的地に辿り着いた。口の中は吐き気を我慢し過ぎたせいで唾液の甘酸っぱい味が広がっている。ようやく大地を自分の足で踏める安定感に安堵しつつも、未だに現在進行形で苛んで来る具合の悪さは、体温や血の気だけでなく僕の精神的な余裕までも奪い去っていく。
 やっぱりレジェイドが差し出した薬を出発前に飲んでおけば良かった。
 馬車に揺さ振られ悪夢のような気分に溺れながら、そう僕は何度も繰り返し思った。けど、やはりまだそうとは言い切れない、どうしても譲れない感情がある訳で。今、こうして辿り着き、僕は後悔と達成感とが半々になったとても奇妙な心境だった。
 到着したその場所は、広い庭を高い外壁がぐるりと囲み、丁度その中心には四階建ての建物がそびえる、いかにもお金持ちそうな人が住むところだった。見晴らしの良さそうなバルコニーやカフェテリアのように広いテラス、その上庭にはプールまでもがあった。さすがに今の季節は使われてはいないようだけれど、僕は初めてプールの実物を見た。北斗にも一つか二つぐらいしかなく、いずれも事業用のものだそうだ。こんな贅沢品を個人で所有してるなんて、一体どんな人なのだろうか。既に否が応にも垣間見えてくる自分とは違う世界に驚きと戸惑いを隠せない。
「ほれ、いつまでも馬鹿面してんじゃねえ。もっとピシッとしろ」
 と。
 後ろからレジェイドに頭を鷲掴みにされ、そのまま左右に振られた。まだ気持ち悪いのが治っておらず、せっかく収まりかけたそれが少しぶり返してくる。僕は『何をするんだ』と批難を込め力の限り強面を作り視線をぶつける。けれどレジェイドは柳に風と言わんばかりに余裕に満ちた表情で平然と上から見下ろしてくる。腹の立つ位置関係だ。
 次々と到着した馬車から夜叉の人達が降りて集まる。真っ黒な制服に身を包んだ人達の集団が立ち並ぶ様はある種異様な光景にも見える。その中で、僕はどうしても自分が浮いた存在のように劣等感を感じてしまっていた。まず、僕が一番経験が薄く実力もない事は自覚しているけど、他にこの制服に着られているような感じがするのと、僕が周囲に比べて一回り以上背が低いという事がある。そういった悪い意味で目立っているような気がして、僕は何となく帰りたい気分になってきた。
「行くぞ」
 レジェイドは落ち着いた声でそう告げると、静かに堂々と正面玄関へ向かい始めた。みんなも同じようにその後を続いていく。
 僕だけだった。周囲をきょろきょろしながら落ち着きなくしているのは。嫌な自分の本質の露呈の仕方だ。
 とにかく落ち着こう。
 僕は定まりの悪い頭を前方へ固定し、ただひたすら自分から無駄な動作を殺ぎ落としていくのに努める。貫禄とかそういうのを出そうとしても無理なのだから、せめて落ち着きぐらいは示さなくては。けど、そう必死になっている時点で、僕自身に落ち着きがあるとは言い難い。
 今回で仕事は五回目だ。
 一回目の時はあんな事になってしまったけれど、それから三回、簡単な仕事だけど僕はちゃんと成果を出した。それらを直接自分への自信や評価に繋げるには足りず安易だけど、まだ始めたばかりなのだからこういう小さな積み重ねが大切だ、とレジェイドに言われた。レジェイドも最初からあんなに強かった訳じゃなく、駆け出しの頃は僕みたいに小さな事から重ねていったそうだ。だから僕も強くなる事を願えば、きちんと結果を出している先人に倣うのが一番いい。
 仕事の内容は、ただ一言『警護』と聞かされている。これまでとは違い、仕事の結果が直接依頼主の生命に関わる大変な内容だ。絶対に失敗は許されない。でも、僕は絶対に失敗しないでみせようと意気込んでる。気後れしたらつまらないミスを続けてしまうからだ。
 そして。
 誰かが建物の中から出てきた。レジェイドは早速その人と何かを話し始めた。ここからははっきりと二人の会話は聞こえないけれど、出てきたその人はやけにレジェイドに低姿勢だった。きっと仕事依頼主の従者なのだろう。
 それからその人が先頭に立ち、レジェイドを始めとする僕達夜叉を屋敷の中へと招き入れた。
 うわ、凄いな……。
 屋敷の中は外観から出来た想像以上に広くて豪華だった。夜叉の本部や訓練所もかなり大きくて広い建物だけれど、ここの方が更に大きいようだ。しかもこれが個人の家なのだ。もう、僕の価値観や知識を当てはめて考える事は意味を成さない。出来るのは、ただただ見るもの全てに驚き唖然とするだけだ。それでも、さっきのように我を忘れて見とれてしまう訳にはいかない。僕は出来るだけ前を歩くレジェイドの背中だけに視線を送り、周囲には注意を向けぬよう努力する。
 そういえば。
 ふと、その時。僕は、随分廊下を歩き続けているのだけれど、ただの一度も他の人と擦れ違わなかった。こんなに広い家に住むなら、いわゆるお手伝いさんみたいな人が何人かいても普通だし、いないと家のどこに何があるのか分からなくなってしまいそうだ。まさか、こんな所にあの人と二人だけで住んでるんだろうか? 近くには町も見当たらないし、家事とか買い物とかを一人でやるなんてあまりに大変だと思うのだけど。
 そうこうしている内に、先頭を歩くお手伝いの人とレジェイドが立ち止まった。その前にはやけに大きな階段がそびえ立っていた。手摺は金色にキラキラと輝き、廊下から続いている赤い絨毯がきっちりと一段一段に敷かれている。階段そのものの横幅も、宿舎の階段の単純に倍はある。
「旦那様はこちらの最上階にいらっしゃいます。ただ、部屋には一度に一人しか入れてならないと申し付けられておりまして」
 そして、その人は恐縮気味に小さな声でそう言った。こんなに近くでもようやく聞き取れる程度の声だ。
 どうして部屋に一人しか入れてはならないのだろうか。それは多分、こうして夜叉の護衛を頼んだように、自分の命が誰かに狙われている事を自覚しているからなんだと思う。使用人も決してスパイが紛れ込んでいないとも限らないから、屋敷には最小限しか置かないでおけば人の出入りがすぐに分かるし、また常に相手と一対一ならば注意力を分割せず集中させる事が出来る。けど、そうなればよほどの事があったのだろう。脅迫状とかではなく、もっと実力行使かそれに準ずるぐらいのが。とはいっても、相手の事は何も知らないけれどまさか戦闘集団が一般人に対して迎え撃つ猶予を与えるような下手を打つはずがないから、相手はきっとただの統率されてない夜盗の類だと思う。だったら大丈夫、僕にも夜盗と戦った経験はある。その時だって自分の役割はきちんと果たせたのだ。
「じゃあお前らはここで待ってろ。俺が言って来る」
 レジェイドは僕達にそう言いつけると、また先頭を案内されながら階段を登っていった。
 僕は徐々に上へ向かっていくレジェイドの背中を見送りつつ、自分もついていきたいと思った。こんな所に住んでいるのはどんな人なのか、僕もついていって見てみたかったからだ。でも、そんな我侭が許されないと分別はつくし、仮に言ってみたとしてもレジェイドに怒られるか馬鹿にされるかのどちらかだ。とにかく今は所謂傭兵としてもっと機能然としていなければ。僕一人のために北斗そのもののイメージを失墜させる訳にはいかない。



TO BE CONTINUED...