BACK
体が軽い。
加速する。
だけど、止められない。
激しく沸き立つ己の中の躍動感を、リュネスはなに躊躇う事なく解放した。まるで重力の鎖から解き放たれたかのような無尽蔵な力に満ち満ちた体は疲れる事を知らず、更なる歓喜と興奮とを伴う巨大な奔流を巻き起こした。
自分はこの感覚を知っている。
少なからず懸念はリュネスの中に漠然とした情報として残っていた。しかし、血の沸き立つような興奮が取るに足らぬものと一方的に切り捨て、より強く奔流の中へとリュネスを誘った。
消してしまいたい。
もう、何もかも。
リュネスの中に渦巻くものはそんな、実に単純な破壊的欲求だった。人の厭世観には二通りの観点がある。それは、全てを拒絶するか、もしくは破壊するかだ。そしてリュネスの場合は後者だった。理力を囚う奔流が、本来の持ち得る価値観を変えてしまったのである。
憎い。
全てが憎い。
幾ら積み重ねても、多くを望まぬ自分を敢えて蔑ろにする世界が憎い。
二度と傷つけられないためには、自分以外の存在を消してしまえばいい。憎いのなら、気持ちを晴らしたいのなら、何の事は無い、消してしまえばいいのだ。それだけの力はこの手にあるのだから。
それは実に単純な発想だった。
加速の一途を続ける思考とは裏腹に、リュネスはただゆっくりと足を踏み締めるように歩いていた。どれだけ歩を進めようとも決して逸る仕草を見せなかった。そうする事で己の中に猛り狂う怒りを破裂寸前の所で抑え付けているかのようである。
しかし、元々人並外れた巨大なキャパシティを持っているためか、リュネスが踏み締める足元は皆、まるで厳寒が訪れたかのように真っ白に凍り付いていった。リュネスの歩いた後はまるで氷の河が流れているかのようだった。
具体性のある目的も無く、ただ何かに呼び寄せられるかのように徘徊するリュネス。その鬼気迫る姿は恐怖と、そこはかとない悲哀を思わせた。しかし、凍りつくようなその怒りはリュネスからありとあらゆる存在を遠ざけようとする。
「いたぞ、こっちだ!」
やがて、どこからともなく集まり始める人の群れ。総括部に待機していた残りの人員が、リュネスが離れを爆破した音を聞きつけて駆けつけたのである。
意識の外から現れた彼らを、リュネスはじろりと凄惨な眼差しで睨みつける。その表情は既に、正気のそれではない。
彼らの中には何名か流派『凍姫』の者もおり、リュネス=ファンロンという人物を少なからず知っていた。それだけに、今のリュネスの姿が異常であると誰よりも早く察知する事が出来た。それほどに普段のリュネスからは想像もつかないほど、目の前の彼女はかけ離れ過ぎていた。
彼らが駆けつけたのは、爆発の原因を突き止めるためと、それが害を成すものであれば即座に排除するためである。
しかし、リュネスを目前にした誰もが一様にある事が頭を過ぎった。
今すぐ、この場から逃げ出したい。
少なくともこれ以上前へ足を踏み出す行為がどれほど愚かであるのか、本能は相対した時に既に気がついていた。
進みたくとも進めず、進もうとも思わない。
だが、総括部の守備を任されているという責任感が後退を許さなかった。自己保存の本能と理性的な責任感の関係が必ずしも一方へ傾く人間は、元より北斗では長く続かないためである。
仕掛けるか。
だが、下手に刺激し迂闊に逆鱗に触れでもすればどんな反撃を被るのか知れたものではない。
けれど、このまま素通りさせる訳にはいかない。
どうする?
どうする。
張り詰めた空気の中、周囲を飛び交う無言の問いかけにも誰一人として行動を示そうとする者はいなかった。勇ましくリュネスの前に包囲網を築き上げるものの、皆が一様にそれ以上の事はせず立往生してしまう。それは北斗にあるまじき無様な姿だった。けれど、恥を知りながらも目の前の異形の存在に足を踏み出せなかった。その威圧感に、その人を人と思わぬ冷淡な視線に、憶えるのは恐怖以外の何物でもなかった。
「どいて下さい」
と、その時。
リュネスはふと足を止めるとようやく聞き取れるほどの小さな声でそう呟いた。
緊張のあまり、その声を正確に聞き取った者はいなかった。聞き取れた者も本当にそう言ったのか確信が取れず、聞き取れなかった者と同じように口を閉ざし続けた。
すると、
「どいて、と言ったんです!」
カッと目を見開き、血走った目で声を上げるリュネス。
びりっと耳に痛みを覚える。叫んだ瞬間、まるで刺すような寒波が周囲を襲ったためである。
そして、それが恐怖との戦いを続けていた一人の引き金を引いた。
「うわあああっ!」
唐突に一人の男が両腕にそれぞれ大槍を構え、リュネスに向かって襲い掛かった。そのスタイルを見る限り、武器を番で用いる流派『悲竜』の者と思われる。
誰の目にも無謀で思慮に欠ける浅はかな行動。けれど、誰しもがそんな彼の行動の理由を理解できた。それは至極単純な理由だった。目の前の恐怖に負けてしまったのである。
リュネスは憮然としたままゆっくりと右腕を前方へ伸ばす。すると青い光と共に巨大な氷の大剣が体現化された。
この術式は、同じ流派である『凍姫』に属するミシュアが得意とするものだった。ミシュアは優れた術者であると同時に、剣術を初めとする各種武術にも精通した実力者である。彼女の場合は自身の剣術のために術式で剣を作り出す。しかし、リュネスの術式による剣は、明らかに方向性が違う事を示唆する容姿をしていた。剣としての機能美は一切無く、到底実用に耐えるとは思えない形であった。重ねて言えば、持つ者の気が知れぬおぞましく禍々しい姿形をしていた。
リュネスは無造作に剣を振り上げると袈裟斬りに剣を振り抜いた。剣筋はまるで整っておらず、素人剣術であるのは明らかだった。しかし、振り抜くと同時に剣身から高波のような衝撃が発せられた。衝撃は剣の軌道の延長線上を駆け抜け、向かって来た男の体を飲み込み跡形も無く吹き飛ばしてしまった。
びりびりと肌を突き抜ける衝撃が遠ざかり、リュネスの腕から体現化された剣がぱりんと音を立てて粉々に崩れる。同時に、周囲には静寂が訪れた。いや、それはもはや直視し難いほど明確になった戦慄だった。
自分達の恐怖と、そしてその原因となる存在をはっきりと認めてしまうと、よりリアルな恐怖が心を縛り付けた。一度恐怖に傾いた心を取り戻す事は非常に困難とされている。人の意思とは鍛え上げれば鍛えるほど強固なものとなる。だが、それに比例して打ち破られた時に被るダメージは大きいのである。彼らにとっての自信は、自分達がヨツンヘイム最強の戦闘集団『北斗』の一員として常勝の一端を担う戦士である誇りだった。だが、それがリュネスのような入って間もない娘に踏み潰された現実が、逃れようの無い絶望と恐怖を作り出す。
改めて、Sランクのチャネルを持つ人間の実力を認識した。Sランクとは、少なくとも出力だけは浄禍八神格と同じもの。ただ収まりのつくかつかぬかの違いしかない力を前に立ち向かう事は、アリが恐竜に噛み付くに等しい愚考だ。
だが、北斗に後退は無い。
辛うじて繋ぎ留めた誇りが手に余るほどの恐怖と綯い交ぜになり、誰もが誇りと無謀の区別をことごとく失っていき、北斗の名の元蛮勇を振り翳した。
そして最初の彼に続き、更に数名が編成を組んでリュネスに挑んだ。
「うるさい……っ!」
苛立だしげに吐き捨てるリュネス。
すると、リュネスの足元から突然巨大な氷の塊が地面を押しのけて現れた。その塊は小刻みに震えると、爆発的な勢いで自らの質量を膨れ上がらせた。幾本もの巨大な氷の腕が塊の中から勢い良く飛び出す。それは同じ根元を持ちながらアロエのように幾つも枝分かれしていた。
丁度その場にいる頭数だけ体現化した氷の剛腕は、獲物に襲いかかる蛇のような素早さを持って次々とその場の者を強かに打ちのめして行った。響き渡る鉄槌の音が止む頃には辺りは夥しい血液で真っ赤に染まり、むせ返るような臭気が漂い始めた。
これほどまで決定的な差を見せつけられ、尚挑もうとする者はごく僅かだった。残りの者は現状の戦力ではどうにもならない事を察知し、援軍を呼ぶべく速やかに退却して行く。だがその数も僅かだった。そのほとんどは大地に突っ伏し、もはや起き上がることも無いからである。
血溜まりを歩くリュネスの表情は尚も表情の乏しい怒りに満ちている。どれだけ血を浴びようとも決して鎮まる事の無い底知れぬ怒り。厭世観と自棄的な感情の相俟った、北斗の誇り高い理念とはまるで掛け離れた姿ではあったが、その精鋭達を難無く圧倒してしまう。
破壊の一点だけを目的とする純粋な怒りは、本来なら無秩序に放たれる暴走状態に、動と静の緩急と理性的とも思われるパターン化した体現化を自然に行わせていた。本来、常人の何倍もの精神力を必要とするリュネスの力の奔流を、途方もない怒りが秩序へ収束しているのである。その理屈は、リュネスと同じSランクのチャネルを持ちながら理性を失わない流派『浄禍』のそれに似ていた。だが、リュネスには本当の意味での理性的な思考をするだけの冷静さは持ち合わせていなかった。一点の曇りも無い激情は、どれだけ些細な冷静さも少なからずの影響を及ぼし、怒りの旋律へ不協和を落とすのである。
やがて静まり返った周囲を、リュネスはそれでもまだ満たされぬ怒りの表情を浮かべてゆっくりと歩いて行った。返り血が頬に大小の点を彩る。だがその滴りもやがて凍りつき、ぽろぽろと崩れ落ちていった。
具体的な目的も無く、ただ漠然とした方向へ歩を進める。周囲へ撒き散らす怒りを孕んだ凍気は無作為に触れたものを芯まで凍りつかせ、その生命活動を停止させる。まるで生命活動を止めるためだけに使わされた終末の使者のようだった。同じ人間に異形の者としか認識されなかったリュネスには、たとえ不本意なものになろうとも相応しい表現なのかもしれない。『戦闘狂』の烙印を押される事よりも遥かに忌まわしい忌名だ。
そして。
不意にリュネスの目の前が眩しく輝き始めた。現れた二つの光塊を、リュネスは何怯む事無くただ睨み続ける。
ゆっくりと光の中から手を伸ばし、足を踏み出し現れる二人の女性。その装いはまるで修道女の如く楚々とした佇みで、決して侵しがたい神秘性を煌々と放っていた。
浄禍八神格、『天命』の座と『怠惰』の座である。
TO BE CONTINUED...