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死人に口なし。
死者は何も語ってはくれない。嬉しい事も、悲しい事も、どんな死に方をしたかさえ。
私は今一度、彼らに語って欲しかった。そして募る恨み言を百の文句を持って罵倒して欲しかった。
その方が、遥かにずっと私は楽になれたはずだろうから。
死者の沈黙は、如何なる罵倒よりも私を追い詰める。
頼むから喋って欲しい。
このままでは私は、どうにかなってしまいそうだ……。
急がなければ。
急がなければ。
その思いだけを原動力に、私は重い足を引き摺るように南区へ向かっていた。辺りは住宅街が建ち並んでいる。この時間になると灯かりを灯している家もほとんどなく、街灯と月だけが足元を照らすための光源になっている。
一歩進むたびに胃が上下に揺れ、むせ返るような不快感が込み上げてくる。口の中には苦い唾でいっぱいになるが、それを吐き捨てる余裕もない。
やばい……そろそろ限界が近いのかも。
視界が揺らぐ。気持ち悪い汗が止まらない。呼吸も苦しくて肺が破裂しそうだ。
とても走っていられるような体調ではない。それでも私は立ち止まる訳にはいかなかった。今、この南区には北斗に敵対するどこかの集団が襲撃をかけている。私はその集団からおそらく最も近い場所にいるのが私、しかし裏を返せば、私以外の守星は近辺にいないという事になる。だから私は一秒でも早く連中の元へ向かい鎮圧しなくてはいけない。ボヤボヤしていたら一般人の中に大勢死傷者が出てしまうのだ。
―――と。
「ぐぇ……」
突然、まるで不意打ちをかけるかのように凄まじい吐き気が胃から逆流してきた。私は思わず進路を曲げ、誰もいない路地へ駆け込んだ。そして壁に手をついて屈み込むと、そのまま込み上げてきたそれを嘔吐する。まるで津波のように襲い掛かるそれに口が限界まで自分の意志を無視して開かれ、喉が焼ききれそうなほど痛む。目からは苦痛の涙が溢れて来た。やがて胃の中身が全て吐き出されると、ようやく嘔吐の波が止んだ。
「ちくしょう……」
落ち着くなり、私は再び駆け出した。胃の中のアルコールを全て出してしまったからだろうか、前よりもずっと体が楽になった。だが相変わらず胸焼けと眩暈は消えないままだ。元々、こんなに走るつもりがなくて飲んでいたのだ。むしろここまで走ってこれた事自体が驚くべきことだ。
あの音からどれだけ時間が経過しただろう? 五分? 十分? 三十分? 敵襲に対し、その応戦にかかるまでの最大許容時間は十分とされている。それ以上の時間が経過すると、被害の規模が復興に多大な労力が必要となるレベルに拡大するからだ。もうあまりの焦りに時間の感覚が分からなくなっている。時計台も目が霞んでよく見えないし、何よりも経過時間など知る事が恐ろしくて見る気にもなれない。もしかすると、敵の侵攻はとっくに深刻な所まで及んでいるのではないだろうか? しかし周囲には人気もなく、しんと静まり返っている。まだここまで攻め入っていないという事だろうか? それとも、私がまだまだそこに辿り着いていないだけなのだろうか。
焦りはより強くなる。心臓が一回脈を打つごとに一分経過してしまったかのような錯覚に陥る。それはただの思い込みだと、理性では分かっている。しかし焦りそのものまでは理性では抑える事が出来ない。
やがて―――。
南区の端に差しかかろうとしたその時。薄暗い通りの向こう側に二つの人影があった。
リーシェイとラクシェルだ。
二人の周囲には無数の人間が倒れている。おそらく北斗に襲撃をかけた連中だろう。どれも既に息絶えた後だ。
間に合っ……てない。
目の前の光景に、思わず体中の力が抜けていった。私は敵の襲撃に間に合わなかった。でも、リーシェイとラクシェルが間に合ったのだ。それはそれでいいのかもしれないが、私自身の責任の所在はどうなる? 本来は私が誰よりも早く応戦しなくてはいけなかったのだから。
私の足音に、二人がそっとこちらを振り返る。
「ファルティアか。南区は貴様の担当だったな」
ふらふらと歩いてくる私。するとリーシェイがそっと私の元に歩み寄った。そして、
パァン!
左頬に鋭い痛みが走った。張られた。そう直感した。その直後、胸倉を掴まれてぐいっと引き寄せられる。
「酒の匂いをさせているな」
目前で鋭いリーシェイの視線が突き刺さる。私は思わず目を背けた。
「どこで何をやっていた、などとは訊かないがな。今、自分の役目がなんなのか分かっているのか?」
私の今の役目。
守星。
北斗を常に巡回し、振りかかる敵襲に真っ先に応戦する、最も危険で最も重要な役職だ。守星が居るからこそ、一般人の生活の安全は保たれる。たとえ何時如何なる時に敵集団の攻撃に街が晒されても、すぐさま守星がその鎮圧に当たるからである。
「二百四十六。これが何だか分かるか? 現段階で判明している死者の数だ。今も『風無』が被害状況を調べているが、今後はもっと増えるだろうな」
事態がそんな所まで進んでいるなんて。
風無とは、北斗十二衆の一派だ。私達凍姫が冷気を得意とするように、風無は風を用いた闘技を得意としている。しかしその役目はどちらかというと戦闘よりも情報収集の方が多い。
風無が出ているという事は、既に襲撃は鎮圧化され後処理の段階まで来ているという事になる。リーシェイとラクシェルが倒したこいつらも、敵の本隊とかではなく単なる残党でしかないのだ。私がモタモタしている内に、事態からは完全に取り残されてしまっていた。あまりに深刻な被害と共に。
「リーシェイ、もうやめなよ」
「うるさい、黙っていろ。これは普段の馬鹿では済まされないのだ」
仲裁に入ろうとしたラクシェルをにべもなくはねつけるリーシェイ。その普段は冷静と言うよりも冷然としている瞳は、深い怒りが渦巻いている。それは私の犯した行為を咎める怒りだ。守星の勤務中、私はまともに走れなくなるほどの深酒をした。そのせいで敵の襲撃への対応が大きく遅れ、少なくとも二百四十六人の人間が死んでしまう原因を作ってしまったのだ。リーシェイの咎め立てを非難できる立場じゃない。
「分かっているのか? 貴様の怠慢でそれだけの人間が死んだんだぞ? 北斗の名誉に泥を塗ったとか、そんな問題ではない。力が及ばなかったのならばともかく、貴様自身の不手際によって大勢の人間を死に追いやった。どう釈明する気だ? 北斗本部ではなく、命を落とした者達とその遺族にだ」
じろりとねめつけてくる、リーシェイの黒い瞳。
私はまともにそれを見る事が出来なかった。その瞳は私とは違って何一つ後ろ暗い事をしていない瞳なのだ。今の私には眩し過ぎる。
「言ってみろ、ファルティア。貴様、何と言って言い訳する気なのだ?」
胸倉を掴むリーシェイの手により力がこもり、ぐっと顔が目をそらしてもそらし切れない所まで近づいて来る。無表情に近い冷静な表情。だがはっきりと怒りを感じさせる赤い色が瞳の中に浮かび、奥歯を砕けそうなほどに噛んでいる。
空気が冷たい。比喩的な表現ではなく、そう思った。この冷気の発散元は目の前のリーシェイだ。リーシェイは私とラクシェル同様、凍姫の現役の中では三強に数えられる。本気でやっても勝てるかどうか分からない相手だ。そんなリーシェイの怒りが私にぶつけられている。普段、どんな無神経な言葉をかけられようとも決して感情を剥き出しにしないリーシェイ。リーシェイが怒るところを見るのは、おそらく初めての事だと思う。それだけに、この静かだが荒々しさを秘める怒りには恐ろしさすらあった。しかし、だからと言っていつものように応戦しようという気にはなれなかった。どうでも良い訳じゃない。ただ、今の私には普段と違って貫く自分の主張がないのだ。
「いつまで黙っている気だ。言いたくないのであれば、口を割らせてやる」
リーシェイが左手の五指をぱっと開く。するとその手のひらに一瞬の内に氷の針が三本生成された。リーシェイが得意とするのは、精霊術法の時に開花した驚異的な視力による射撃術だ。どんなに離れていようとも、素早かろうとも、頑丈であろうとも、必ず命中し貫く。その細く小さな針には、そんな恐るべき力が秘められているのだ。
それで私を撃つ気なのだろうか? しかし、何故か抵抗する意思が浮かばなかった。あえて甘受する事で私が許されるなら、それでいいと思ったのだ。
と。
「リーシェイ! もう、いい加減にしなよ……」
ラクシェルがリーシェイの左腕を後ろからがっちりと掴んだ。リーシェイは一度振り解こうとしたが、やはり思い直して生成した針を捨てた。氷の針は中空で飛散し消える。
ラクシェルはルテラと同じように、精霊術法の際に腕力が異常に強くなっている。そのため、幾らリーシェイでも腕力勝負ではラクシェルにはかなわないのだ。
「ファルティアを責めたってしょうがないよ。今はいち早く残党狩りを終わらせないと」
「フン……そうだったな」
ラクシェルに諌められ、ようやくリーシェイが私の胸倉から手を離した。しかしリーシェイの瞳からは怒りの色は消えていない。ラクシェルもまた、私へ向ける瞳はいつもと違っていた。はっきりと怒りの色ではない。それは非難の色だ。
リーシェイはくるっと踵を返すと、そのままつかつかとその場から立ち去っていった。足が長いので普通に歩いても速いのだが、足取りを早めているらしくあっという間に背が遠ざかる。こちらを振り向く気配がない。まるで、少しでも早くここから去りたいように見える。
「ファルティア、あんたも少し一人で回って来な。私もさ、あんたとは付き合いは長いし、どういう人間なのかってのも他人より理解はしてるつもりよ。けれど、正直言って今回だけはさすがに幻滅したわ。これは不真面目だとかで片付けられる問題じゃないからね。かと言ってアンタを責めてもどうにもならないし。とにかくゆっくり考えてみる事ね。自分の行動と、これからについてね」
そう言い残し、素っ気無く背を向けるラクシェル。そのままリーシェイの後を追っていった。
二人の背中が見えなくなり、急に辺りが静まり返ったように感じた。
一人、取り残された私。
ただ茫然と立ち尽くすだけだった。どうしたらいいのか、分からない。一体私に何が出来るというのだ。私は頭は良くない。戦うぐらいしか能がないのだ。しかし、それを生かすことも出来ず、いや、自らの怠慢によって大勢の人を死なせてしまったのだ。それは私が殺したと言っても過言ではない。
壁を壊したなら、始末書を書けば許してもらえる。
でも、人は壁とは違う。死んでしまった人はどうやっても生き返らせる事は出来ない。そして、壁のそれとは比べ物にならない悲しみも生み出される。
私は、人を殺してしまった罪と遺族の悲しみの償いをしなければならない。
どうやって?
人に頭を下げた事のない私には、どうすればいいのかまるで分からない。
誰か、教えて……。
TO BE CONTINUED...