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 子供。
 その言葉が重く圧し掛かる。
『子供じゃない』
 幾らそう主張した所で、本当の大人からは子供にしか見えない。
 それだけならまだいい。
 本当の問題は、それに反論出来る言葉も伴う行動も、何一つ自分には無い事だ。




「ありがとうございましたー!」
 午後八時十分。
 俺は店員の愛想の良い声に見送られて爛華飯店を後にした。足取りは重く、気分も急速的に右肩下がりで沈んでいる。
 店を出た直後、思わず口を突いて出てきた溜息。
 今日も何も進展しなかった。その言葉だけが重く頭に圧し掛かる。振り払ってしまおうと苦心してみるものの、その重みは頭の中に居座り頑として譲らず、払おうとすればするほど気持ちが惨めになってくる。
「にゃっ!」
 と。右肩に乗っていたテュリアスが、うつむく俺の顔を不機嫌そうに叩いてきた。先ほどからずっと黙りこくっていたから機嫌を損ねてしまったのだ。
 テュリアスは虎の神獣だ。ただ、まだ小さいから声もまるで子猫のようで、姿も遠目からではほとんど猫そのものだ。でもテュリアスはこれでも生まれてから十年以上も経つそうだ。普通の虎ならばとっくに肩には乗れないほど大きくなっているはず。やはり神獣は普通の動物とは身体構造も違うらしい。
 テュリアスは言葉は話せないけれど意思の疎通が出来る。神獣には皆、人の心に直接自分の意思を言葉として伝える力があるからだ。けど、テュリアスは誰とでも意思を交わす訳ではない。特に気に入らない人間に対しては、にゃあとも言わず服の中にもぐりこんでしまう。テュリアスは酷い人間嫌いで、本当に極一部の人間にしか心を開かない。俺はそこに至るまでの過程を知っているから、この事に関してテュリアスには何も言えないのだけれど。
「ん? なんだよ」
「にゃっ!」
 何を落ち込んでいる。そうテュリアスは言っている。そして、今度はたくみに俺の耳を引っ張ってきた。しかし、俺はその問いにも溜息を持ってでしか返答する事が出来なかった。
 これが落ち込まずにいられるか。
 俺は何か蹴るように靴の裏を歩道に擦りつける。じゅっ、と路石と靴裏が音を立てる。つまらない八つ当たり。そうとは分かっていても、自分の行動を抑える事が出来なかった。
 それは三ヶ月前の事。俺が所属する北斗十二衆の一つ『夜叉』の頭目であるレジェイドから、新しく専属契約した店を教えてもらい、早速足を運んでみたことから始まった。その店は爛華飯店という店だった。俺はそこで適当にコース料理を注文したのだが。その時、思いがけず目が合ったのがその娘だった。
 彼女は店で給仕の仕事をしていた。その店は季節に合わせて四つの色柄の制服があるそうだ。三ヶ月前は冬の白だった。そして先週からは春の薄紅になった。まだまだ本当の春には遠いけれど、それはとても温かに感じられる程良い色合いで彼女にはよく似合うと思った。他にも同じ制服を来た娘は沢山いたのだけれど、彼女だけは俺の目には全く違って見えた。
 肩ほどまでの長さのブラウンの髪とはっきりとした同じブラウンの瞳。思わず後ろから抱き締めたくなるような小柄な肩。そのどれもが一度見ただけで目に焼きついて離れなかった。俺は彼女と目が合った瞬間を境に、完全に彼女の事が忘れられなくなった。それこそ四六時中暇さえあれば彼女の姿を思い浮かべていた。まるで盗み聞くように集めた彼女の言葉、声を、何度も何度も頭の中で反復した。自分でもかなりおかしな事をしていると思う。けれど、そうでもする以外に自分を落ち着ける手段が思いつかないのだ。
 本当は毎日でも店に行って彼女に会いたい。いや、会うというよりも見ているだけだが。それでも、ただ何もせずに気持ちを鬱積させるよりはずっと気持ちが楽だ。しかし、それは出来なかった。気恥ずかしさと、足しげく通う俺の姿が彼女の目に異様に映るのではないかという危惧があったからだ。
 いつかは思い切って声をかけてみよう。いつもそう自分に言い聞かせているのだけど、なかなかチャンスは巡ってこない。店に入った時、彼女が出迎えてくれれば。オーダーを取るのが彼女だったら。料理を持ってくるのが彼女だったら。いつもそんな淡い期待を抱きつつ店の中に入る。しかし、現実はそうも都合良くは行かないものだ。チャンスは自分で作るもの。それが世の常である事が分からない訳ではないけれど、俺にはそれそのものの作り方が分からない。それに何より、声をかけた先どうアプローチをかければいいのかも分からない。だから、どうしても行動に移す事が出来ない。
 だったら、その具体的な手段の教えをレジェイドに乞いてみようか? でも、また『子供だ』と一笑にふして馬鹿にされそうだ。いや、いっそ下手なプライドなど抱かず、馬鹿にされてもいいから聞いたほうがいいのかもしれない。もう三ヶ月も気持ちを鬱積させていては、その内に何か病気になりそうだ。それに、それだけの価値はあると思う。あいつは女ったらしだし。
「フーッ……」
 テュリアスが不機嫌そうに耳元で唸る。最近気づいたのだが、こうして俺が何かに思い悩んでいるとすぐに機嫌を悪くしてちょっかいを出してくる。単に遊んで欲しい訳ではなく、俺が依然として名前も知らないあの彼女の事で堂々巡りの思慮を巡らせている時だけだ。多分、どうせ考えても仕方がない、というテュリアスなりの配慮なんだと思う。
 悪かったよ、と肩で唸るテュリアスをポンポンと叩く。本来あるべき虎特有の黒模様すらない純白の獣毛は柔らかくて、触る手のひらが実に心地良い。
 ―――と。
「シャルトちゃん?」
 突然、道の向こうから柔らかなアルトが響いてきた。その特徴ある声でそう俺を呼んだのは、真っ白な肌に金髪碧眼が対照的に映える女性の姿。
「ちゃん、はやめろって言ってるだろ」
「まあまあ。そう冷たいこと言わないで」
 ニコニコとしながらも、滑るような無駄のない足取りで駆け寄ってくる。ウェーブがかった髪がふわりふわりと宙を踊る。夜の歩道はやや薄暗いものの、まるで輝いているように薄闇に映えた。
 彼女の名前はルテラといって、レジェイドの妹だ。レジェイドは俺にとっては兄みたいな人で、この人は必然的に姉となる。俺が二人の弟分になっているのだ。まあ、どちらかというと俺はこの人の世話になった事の方が多くて、本当の姉らしいのは彼女である。
「仕事は?」
 ルテラの仕事は、守星という北斗の巡回だ。外敵に対して真っ先に対応しなくてはいけないため、最も危険な仕事の一つでもある。しかもその割にあまり待遇も良くないらしく、いわゆる名誉職的な位置付けだ。危険とは言っても、ルテラは昔、北斗十二衆の一つ『雪乱』の頭目も務めたほどの実力者であるから、そんな心配は無用だろう。俺なんかまだ、夜叉に入ってから二年足らずで、心配するような立場でもない。
「ついさっきレイとシフトしたところ。これからゴハンなの。そういえば、シャルトちゃんがこっちに来るのって珍しいわね。どこに行ってたの?」
「関係ないだろ。子供じゃあるまいし」
「あら、そう。じゃあ、これからちょっとお姉さんに付き合いなさいな」
 そう言ってルテラはぐいっと俺の頭を小脇に抱える。すぐさま抵抗するも、ルテラの方が力がずっと強いため俺に成す術はない。
「離せよ!」
「やーよ。お姉さんの言うことはちゃんと聞きなさい」
 ルテラは俺よりも背が高いため、この体勢だと頭が丁度胸の辺りに当たる。けど、俺の事を完全に子供扱いしているルテラはまるで気にも留めない。わざとやっているのか、本当に分かってくれてないのか。どちらにしても性質が悪いと思う。
「一人で御飯なんて寂しいでしょう? だから、お姉さんと夜のデートに行きましょう」
 ニッコリと、極めて自己中心的な言葉を口にするルテラ。言われ慣れてはいるけど、これまでその事に対して逆らえた試しはない。
 俺は酒は飲めない。いや、飲めなくはないがあまり強くないので、自ら進んで飲む事はしない。すぐに頭がボーッとして眠くなるのだ。だから断りたいのだけれど、飲めないなんて子供だ、とも言われたくない。こういう見栄を張っている自分を子供だと思いはするのだが。
「分かったよ……」
 やれやれ。
 いつの間にかルテラの肩に移っていたテュリアスが、そう溜息をついた。
 そういう目で俺を見るな。



TO BE CONTINUED...