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どうしてこんな事になったのか。
考えれば考えるほど悲しくなる。
自分の半身とも言うべき存在を失った今、自分は何をどうすればいいのか分からない。
あの時から、私の中で何かが壊れてしまったんだと思う。
見っとも無く、もう元に戻らないものにしがみ付いている私。
前を見て、進もうとする事が出来ない。
いつまでも、いつまでも、後ろばかり見ている。
狂った歯車は迷走を続けている。
そして、私は暗い海の底へ沈んでいく。
もう、私は走れない。
一体、自分は何がどうなってここに来たのか。
ふと目覚めた私はそれが分からなくて、ボーっと白い天井を見つめていた。
左腕が痛い。
ひりひりと悲鳴を上げるように、鋭い痛みが手首に走っている。
頭の中は靄がかかったように真っ白のまま。
ただ、自分にとっての現実はその痛みだけが教えてくれた。
と。
私は何気なく、腕をベッドについて上体を起こした。同時に、ついた左手からビリッと一際鋭い痛みが走り、あっと声を上げて口元を苦く歪める。
体を起こして左腕を見てみると、手首を中心に白い包帯が念入りに巻かれて二周りほど太くなっている。そして、この鋭い痛みはそこから出ている事に気がついた。
そうだ。私は……。
ゆっくりと逆回しに蘇っていく記憶。私は白い包帯を見ながら、ゆっくりとその記憶を辿っていた。
思い立った理由は、さほど大した事でもなかった。ふと衝動的に、私は果物ナイフを手に取ったのだ。そして、まるで何か引き込まれるかのように、誰かの呼びかけに答えるかのように、その刃を手首に落とした。他人の事を見ているかのように、私は手首から血が溢れてくる様を見つめていた。次から次へと流れ出る新鮮な血も、刃が骨に当たった感触も、全てにおいて現実味がなかった。自分がしている事の意味も考える事に意欲が湧かず、ただひたすら刃を揮った。
そして、ふと込み上げて来た抗い難い程の眠気に意識を奪われていった。徐々に絡みついた寒さも感じなくなり、暗闇の中へ放り出されたような錯覚に陥った。そんな異常な感覚の中、最後にリルフェの声を聞いた気がする。
思い出せるのはここまでだった。
また、自分はやってしまったのか。
言葉だけが端的な事実の説明として頭の中に浮かぶ。失意も怒りも悔恨も、一切の感情が湧いてこなかった。それは日常のさもない失敗を犯した時よりも感情の起伏が現れず、事態が呼吸を行なうのと同じ程度にしか思えなかった。
まるで人形にでもなってしまったかのように、気持ちが乾いている。どうしてこうも自分はあっさりとしているのだろう? 周囲だけでなく、自分自身にすら興味の対象になり得なくなっている自分の姿に気がつく。
彼がいなくなってから、全ての存在に対する興味が失せてしまったのだ。それまでは、どんなにつまらないものだとしても、彩りを豊かに見せるだけの想像力があった。普通ならば腹を立てるような事にも、考えられないほど寛容になれた。不思議なほど毎日が幸福で溢れていた。それは全て、自分と共に歩む彼の存在があったからこそだ。
彼がいなくなったから。私は以前の何事にも無関心で無気力な人間に戻ってしまったのだろう。いや、以前よりも遥かに状態は酷いと思う。あの頃はまだ自分で動く事に疑問や躊躇いはなかったし、食事の味取りも楽しむゆとりがあった。しかし今はそんな全てのものに興味も関心もない。そう、自分が生きる事にすら。
これから自分はどうなってしまうのだろうか。
漠然と、そんな微かな不安はあった。しかし、すぐにどうでも良くなった。少なくとも今は、先の事を考える気にはなれないのだ。
スファイルのいない人生。絶望的なその事実を、私は考えたくもなかった。受け入れる気にもならなければ、乗り越えるため立ち向かう勇気もない。このままではいけない。そんな焦りもあるけれど、立ち上がる気力はもうなかった。本当に、自分がどうなろうとも構わなかった。生に執着する理由もなくなったから、時間の流れがどういった変化をもたらすのかも興味がない。
しかし。
ただ一つだけ、ふと継続的に考える事があった。一体、どうすればスファイルに会えるのだろうか? その方法である。スファイルは死んでしまってこの世にいないから、自分も死んだら会えるのかもしれない。短絡的で幼稚な結論である事ははっきりと自覚していた。しかし、突然耐え難い寂しさと苦痛に苛まれた時、そんな手段にも追い縋らなければ自分を保つ事が出来なかった。私はきっと死ぬためではなく、自分を苛み続ける鉛のような苦痛を取り除くためにあんな事をしてしまったのかもしれない。なんにせよ、私はもう駄目だと思う。自分の中の何かが壊れてしまったのだ。きっと元には戻れない。スファイルはそれだけ私の中に深く浸透していたのだ。今更いなくなられてしまっても、以前の自分には戻れないのだ。
こんな風に壊れたまま、私もまたスファイルと心中するのかもしれない。
それでもいいと思った。
死に方は数多くあるけれど、比較的納得のいく死に方だから。
と。
ふとその時、不意にドアがノックされる音が聞こえ、私は思考の世界から引き戻されてハッと我に帰る。すぐさまベッドから起き上がると、床には立たずそのままベッドに腰掛け、ドアの向こう側へ返事をした。ずっと喋ってなかった気がするけれど、意外とはっきりした声が出た事に驚く。
ふと、傍にあった鏡に目をやる。随分と酷い姿をしていた。
こんな姿になった私をスファイルが見たら、きっと嫌われてしまうだろう。でも、どうせ会う事はないんだから。そんな自虐めいた言葉が頭の中に浮かんだ。
がちゃり、とドアが開くなり、まるで飛び込むような勢いで一つの人影が部屋の中へ入って来た。そしてそのまままっすぐ私の元へ向かってくる。
お兄ちゃんだ。
そう思った次の瞬間、
「何やってんだ、お前は……!」
私は頬を張られた。
じんと熱い痛みが頬から込み上げてくる。しかし私は唖然としながら熱くなり続けている頬を押さえ、お兄ちゃんを見上げていた。
「いい加減にしろよ。なんでそんな事するんだよ? 言いたい事とか、不満とか、自分で抱えられないものがあったら吐き出せよ。俺でもいいし、男に話し辛いんだったらリルフェでもいい。どうしてそうやって自分を痛めつけるようなマネをするんだよ……」
内に押し殺したお兄ちゃんの怒りがビリビリと伝わってくる。それを私は視線を伏せながら、ただひたすら黙って聞いていた。
「おい、聞いてるのか? いつまで死んだ人間の事でそうやってんだ? お前は一体何がしたいんだよ。生きてるのが辛いから死にたいってか? だったらどうして手首なんか切るんだよ。そんな事したって確実に死ねない事ぐらい分かるだろう? お前がやってるのはな、ただ騒ぎを作りたいだけの狼少年と同じなんだよ」
間断なく、お兄ちゃんが痛烈な言葉を浴びせてくる。私はただ肩を震わせてそれを聞いていた。
ただ、単純に私は怖かった。今まで、お兄ちゃんはずっと私に優しかったから。こんな風に怒られた事なんて一度もなかった。まるでお兄ちゃんがお兄ちゃんではなくなってしまったようで、とにかく怖くて怖くて仕方なかった。
「いいか? あいつはもういないんだ。いつまでも拘ったって仕方がないだろう? だからいい加減、現実を見つめろ。夢に逃げ込むんじゃねえ」
私は首を縦に振っていた。
それは自分の意志なのか、その場しのぎなのかは分からない。ただ、今はお兄ちゃんの言う事が正しいと思っている意思表示をするべきだとしか考えられなかった。
「もう、いいだろ? 俺の所に戻って来い。しばらく体を休めろ。ったく、少しは身だしなみも整えろよな。折角のいい女が台無しだ」
お兄ちゃんが少しだけ口調を和らげて私の頭をそっと撫でた。しかし、私はほとんどその言葉を聞いていなかった。また、すぐに怒鳴られてしまうのではないかと、恐々しながらお兄ちゃんの様子を覗っていた。
そういえば、お兄ちゃんにぶたれたのって初めてだ……。
これまでの記憶を思い返して、私はふとその事実に気がついた。どうしてあんなに優しいお兄ちゃんが私をぶったのか。その理由を考えれば考えるほど、更に残酷な現実が見えてきた。自分がそれを選択する事は絶対にあり得ない、けれど一般的には最善の選択と言われているそれ。ずっと考えないようにしていたのに、お兄ちゃんもまたそれを私にさせようとしているのだ。
出来る訳がないのに。
私は、もう本当にどうなってもいいのだ。乗り越えて、生きて、一体何の意味があるのだろうか。ずっと辛い記憶が心に傷となって残り、その痛みに耐えていくだけだ。あえてそれを選択する意味が分からない。だから私は、お兄ちゃんの言う通りには出来ない。
けど。
私はこくりとその言葉にうなづいていた。
どうしてそんな事をしたのか、自分でも分からなかった。
多分、お兄ちゃんに申し訳なかったからだと思う。
つまり、その選択は私の意思ではない。
TO BE CONTINUED...