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前進!
前進!
前進!
馬鹿の一つ覚えじゃないけれど、俺には他にやれる事がない。
だから、自分に出来る事に精一杯挑むつもりだ。
また同じ後悔はしたくない。
シビアな極論だけど、あんな思いをするぐらいなら自分が傷つく方がマシだ。
「ちっ」
深夜の路上を、凍姫の本部に向かってひたすら走る俺。しかし、それをまるで阻むかのように並走、追走する影が一つ、二つ、三つ……。
また増えた。
それは、夜叉の制服と同じ黒地の服に身を纏った異様な集団だった。ややだぼついた感のある夜叉の上着とは違い、機能性を重視しているのか無駄な飾りは一切なく機能美のみを追求したデザインの装束だった。そして腰には脇差をやや長くした直刀を携えている。更に顔は黒い布のようなものを被っていて目許以外がすっぽりと覆われている。そのため連中が全て同じ姿形をしているように錯覚してしまう。
この異様な集団は、今現在北斗に非常事態を招いている張本人、風無のやつらだ。さっきから凍姫の本部を目指している俺に執拗にまとわりついて離れない。おそらく凍姫本部に向かっているという本隊の連中だろう。夜叉である俺をここで潰しておこうという腹積もりだ。しかし、一つ誤算がある。それは俺の脚力がやつらよりも僅かに速いという事だ。
体が熱い。
毎日走り込んでいるから、この程度の距離を走った所で俺は汗一つかかない。この熱さは走った事で生まれた運動熱ではなく、体中につけられた無数の切り傷を熱いと錯覚しているのだ。
額から水滴が鼻を伝って落ちる。そのむずがゆい感覚に手の甲で拭うと、ぬるっとした濃度のある液体がまとわりついた。額からたれてきたのは汗ではなく、一番初めにやつらの攻撃を受けた額から流れ落ちる俺自身の血だ。
俺は風無についてそれほど詳しく知っている訳ではない。
風無は北斗中に独自のネットワークを張り巡らし、緊急時の情報の収集と伝達を行っている。更に隠密行動を得意としており、他国にスパイとして雇われる事もよくあるそうだ。俺の風無への認識はこんなもんだ。だから実際にやつらの攻撃方法を知ったのは、こうして身に受ける事によってだった。
ピッ。
「くそっ!」
再びあの鋭い音が俺の後ろから襲い掛かる。
俺は直感的に横へ飛び退いた。その直後、目には見えない凄まじい空気の奔流が、路石をえぐりながら駆け抜けていった。
これが風無の連中の得意技のようだ。やつらは精霊術法を駆使し、鋭く研ぎ澄まされた風の刃を放つ事が出来るのである。切れ味はさることながら目には映らないため回避も難しく、その上飛んで来るスピードも恐ろしく速い。
ピッ。
ピッ。
更に二つ、今度は並んで走っているやつらが、左右から挟みこむように風の刃を放つ。
くそっ、駄目だ。
既に俺は全力で走っている。それでも振り切る事が出来ないのだから、逃げ道は後ろしかない。しかし後ろには更に大勢のやつらが隙を窺っている。まさか無防備に上へ跳ぶ訳にもいかない。つまり俺に逃げ道はないのである。
体を固くし、手の甲で側頭部と頚動脈の走る首筋を覆って防御態勢を取る。その直後、びしっという鈍い感触が両の二の腕を襲った。風は弾けて空気に溶け込む。けれど同時に俺の腕に小さいものの決して浅くは無い傷をつけていった。風の当たった部分がどくどくと熱く脈打つ。
腕が動くということは腱は大丈夫ということだ。出血も大した事が無く、大きな血管も切れてはいないようだ。けれど、このままでは凍姫に到着する頃には全身をズタズタに切り裂かれてしまう。体が動く分には構わないが、出血が進めば体力ももたなくなるし五感も鈍る。せっかく凍姫に辿り着いても、リュネスを助ける事が出来なければまったくの切られ損だ。
「にゃあ……」
大丈夫……?
と、懐の奥で小さくなっていたテュリアスがそっと顔を出して不安げに鳴いた。
大丈夫だ。まだ走れる。走れるって事は大丈夫って事だ。
しかし、テュリアスは更に言葉を続ける。
それは普通の人の感覚。シャルトは違うでしょう? もしも走れなくなったら、それはもしかすると二度と立ち上がれなくなったって事になる可能性だってあるんだよ。
普通の人の感覚。
テュリアスの苦言がやけに胸に深く突き刺さった。
確かにその通りだ。俺の体は普通の人よりも無理が利く体だ。無理が利くというのは、つまり死ぬ限界まで容易に踏み込んでいけるという意味だ。俺の体はリミッターがないため、常に筋力を最大限まで酷使できる。そして更に、体そのものの耐久度の限界まで動く事が可能なのだ。
正直な所、今の自分がどれほどの怪我をしているのかほとんど分からない。背中、腕、足、あちこちに随分とやつらの攻撃を受けたが、傷の深さの度合いが分からないのだ。通常、傷の深さを測るのは、何よりもその痛みだろう。かすり傷ならばほとんど何も感じないだろうが、大量の出血を伴う大怪我をすれば相応の激痛に苛まれる。これは人間が生まれながらに持つ防衛本能。怪我をすると痛みを伴う恐怖感を知った人間は、自然と負傷する恐れのある危険な事から身を遠ざけて守るように努めるのだ。
だが、俺にはそれがない。生まれつきなかった訳ではない。途中でなくしてしまったのだ。
今でも怪我を伴う事には人と同じように身を守り、回避動作を反射的に行う。けれど、実戦において怪我をせずに済むことは非常に珍しいのだ。だからあらかじめ怪我をしないよう十分に訓練を詰み、もしも大きな怪我をした場合は、可能ならばただちに撤退する。望んで死ぬ事は悪徳とされる北斗において、これは当たり前の行動理念だ。しかし、俺にはその『引き際』というものが分からない。敵の攻撃を受けて負傷しても、それが命に関わるのかどうかが分からないのだ。
とはいえ。
今は、たとえどれほど大きな怪我を受けたとしても、決して引き際になる事はない。
幾ら体を刻まれようとも、俺はリュネスを助けるために走る。立ち止まる条件は、二つ。敵が殲滅した時と、俺自身が動けなくなった時だけだ。
「にー……」
でも、もうこれ以上は駄目だよ……。
テュリアスのさめざめと泣くような声。
それでも俺は止まる事を良しとしない。ただそんなテュリアスを、悪いな、と服越しに撫でてやるだけだ。俺は単純だから、あんまり難しい理屈では生きられない。そんな俺が一度決めた事を途中で投げ出したら、ただの負け犬となってしまう。
―――と。
「にゃあ!」
見えた!
突然、テュリアスが前方に向かってそう叫んだ。
延々と続く薄暗い歩道。しかしその先に、ようやく建物の明かりがぽつりと見える。
凍姫本部の明かりだ。
TO BE CONTINUED...