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がらがらと馬車に揺られ。
遠征の際、専ら移動はこの馬車だ。歩いていくよりは遥かに楽ではあるが、ヨツンヘイムは時世も時世という事もあってまともに舗装された道は極めて少ない。当然の事だが、馬車は速度に比例して激しく上下する。轍もつかないほどの荒れ道なんざ珍しくもなんともないが、これを目にするたびに気持ちがうんざりとしてくる。
「う……」
そして。
定員二名という狭い車内、俺と向かい合っているそいつは、ただでさえ色の白い顔から血の気を引かせ普段以上に口数が少ない。真っ青な顔をして力なく壁にもたれかかり、視線は開けっ放しになっている窓の外を虚ろに漂わせている。
シャルトは今、生まれて初めて体験する乗り物酔いと戦っていた。俺はもう何度もこの馬車には乗っているのだが、シャルトは今回が初めて。この悪夢のように続く揺れも初体験という事で、結局はこの様だ。俗に乗り物酔いをするのは子供の内だけだと言われているが、仮にその説が正しければシャルトはまだ子供だという事になる。まあ、少なくともこんな醜態を晒しているのは、夜叉の中ではシャルトだけなんだが。
窓からは秋の終わりを告げる冷たく乾いた風が容赦なく吹き込んでくる。わざわざ好き好んでこんな冷たい風に体を晒す趣味はないのだが、シャルトが少しでも病状を緩和しようと窓を開けているので閉じずにいる。目的地までは一日程度で到着するのだが、シャルトがこの揺れに慣れ回復する事が望めない以上、どうやらこのまま寒い思いをしなくてはいけないようだ。
寒いから閉めるぞ。
そう言いたいのは山々だが、シャルトのこれほど哀れな姿を前にしてはさすがの俺も言葉を慎んでしまう。それに、ルテラには『シャルトちゃんを苛めないでね』と釘を刺されているのだ。帰った時にチクられでもしたら、どんなキツいお仕置きをされるか分かったものじゃない。
「う……ぐ……」
シャルトは何度も姿勢を変えながらぐずるように唸っている。時折冷や汗が流れるが、それに構っている余裕もないようだ。こういう苦しみは二日酔いとは違い、吐いてしまってもちっとも楽にはならない。胃や横隔膜やら、それ自体が痙攣するため、嘔吐出来るものがなくなっても嘔吐感だけは変わらずに続く。むしろ、吐く物がないのに吐く仕草を強制される方が辛いだろう。
しかし、シャルトには悪いんだが。これは本当は自業自得というものなのだ。
この馬車の激しい揺れが未経験者にはかなりきついだろう事は、自らの経験上把握していた。おそらくシャルトもそうなるはずだから、俺は事前に酔い止め薬を用意しておいたのだ。で、出発前にそれをシャルトに飲むよう勧めたのだが、僕は平気だ、と強情に意地を張って遂には飲まなかったのだ。俺達は薬を飲まないのに自分だけ飲むのが気に入らなかったらしい。別にこれに関してだけは子供扱いしたつもりはないんだが、シャルトにはそんな風にしか受け取れなかったようである。せっかくの人の好意を邪険にするからこうなるんだが。ま、一遍こういう思いをしておくのもいい経験だ。人の好意は素直に受け入れる。たとえ相手に悪意があろうとも寛大な心で受け入れるってのが大人というものだ。
「なあ、今からでもいいから、薬、飲むか?」
見かねた、というか唸り声がいい加減鬱陶しいというか。とにかく、このまま放っておいても事態が好転するとは思えないと考えた俺は、今朝方シャルトが受け取ってくれなかった薬の小瓶を取り出した。丁度二口三口ほどで飲み干せるぐらいの量の生薬が入っている。本当は乗る前に飲む薬なんだが、乗って、それもここまで症状が悪化した状態で飲んでも多少は緩和されるはずだ。
しかし。
いらない。
シャルトは言葉には出さず、ただひたすら苦みばしった顔でそう首を横に振った。相変わらず強情なヤツめ。俺は苦笑いしつつも、シャルトの傍の窓枠に小瓶を置いた。
基本的に人見知りで大人しく、自分から何かを周囲にアピールする性格ではないのだが、やけに頑固な部分がある。頑固さは、言い換えれば精神の強さに繋がる。確固とした自分の意見を持ち、それを貫き通す信念の表れなんだが、それは過ぎればただの石頭になってしまう。シャルトが面構えに似合わぬ強い意志の持ち主である事は分かったんだが、もう少し心のゆとりと思考の柔軟性を得るのがこれからの課題だろう。時には人の意見も受け入れる柔軟さを。一旦自分がそう信じてしまったらとことん思い込むシャルトには少々難題かもしれん。
その強情さが気に入ってる訳でもあるんだがな。
俺はわざとらしいオーバーな仕草で、苦しみにうつむけたシャルトの顔を覗き込む。すると、あっち行け、とでも言いたげにシャルトは睨みつけてきた。おうおう、おっかねえ。俺は肩をすくめて再び座席にもたれかかる。
考えてみれば、我ながら何とも酔狂な事をしたものか。
シャルトとは何の縁も所縁もない、単なる赤の他人でしかない。それをこうして引き取って実の弟のように世話してやっている。子供に何の情けもかけられない非情な性格ではないんだが、これまでの自分の人生を振り返ってみる限りそれは到底俺らしくない行動と言って相違ない。第一、見ず知らずの子供を喜んで引き取ろうとする人間なんざそうもいないだろう。ましてや自分の生活を著しく制限してまでそうする覚悟など、おいそれと簡単には出来ないはずだ。こんな事を言ってるととんだ自画自賛になってしまうが、事実そうだろう。親が子供の養育を放棄をしても珍しくは無い時代だ。他人の子供を育てるなんて酔狂の極みだろう。まあ、孤児院のような施設はある事はあるが、俺は『全ての恵まれない子供に救いの手を』なんて聖人君主という訳でもない。ただ、自分に正直なだけなのだ。後々後悔をしない選択肢を、たとえその時には困難なように思えても必ず選択する。それは俺が最優先するポリシーだ。
以前ルテラに、『愛情を持て余してるんだろ?』なんて言ったが。実際、俺もそれに近いのかもしれない。まだリアルに所帯を持ってどうこうという将来像を考えた事はないが、もしも子供がいたとしたらおそらくこんな感じなんだと思う。反抗的な所も、もしもこれが同じ歳ぐらいのヤツならばムッとしてしまうところだが、それがシャルトだと不思議と優越感に浸れてしまう。よく自分の子供を指して『目の中に入れても痛くは無い』なんて比喩表現があるが、それは単に子供の行動が全て無意識の段階で許せてしまうからだろう。もっとも、俺の場合は許す許さないのレベルではなく、ただ単にシャルトの反応を楽しんでいるだけだというのもあるんだが。
何にせよ。
今はシャルトの成長がちょっとした楽しみでもあった。シャルトは物覚えが悪いものの、性格が素直な分理解は速い。下手なプライドもないし、教えやすいと言えば教えやすい方だ。それに俺はシャルトを俺の次に強くしてやると確約しているのだ。約束を守るのは人間として当然の事だし、下手な怠慢で反故にするのは何とも情けないものだ。
「シャルト、少し眠れ。その方が楽になる」
すると今度は素直に頷くと、目を閉じじっと動きを静め始めた。
こういう素直な所も可愛いんだよな。
目を閉じながらも冷や汗を浮かべ、しきりに自分の感覚から意識を切り離してまどろもうとしているシャルトの姿に、俺は思わず笑いそうになった。
まだまだシャルトは頼りなく危なっかしい所を残しているが、これでなかなか実力だけはある。本当は一年にも満たない訓練期間で実戦に、しかも護衛なんて重要な仕事をやらせるのは、普通はなかなかあり得ない事だ。大概のヤツは、最低でも一年ないし二年の修業を要しなければとても使い物にはならない。基本的に誰をどの仕事に投入するかは頭目である俺に決定権があるが、こうして連れて来たのは単に身内贔屓からだけでもない。経験を積ましてやりたいのは山々だが、実力が伴わず周囲の足を引っ張ってしまってはかえって迷惑になってしまう。俺の管理下の範囲ならばこの程度の仕事ぐらいやらせられる実力はついているのだ。
ただ。
年月が経過すると共に考え始めたのが、シャルトの持つ麻薬の後遺症だ。今でも突発的な精神の錯乱、及び無痛症は続いている。錯乱する発作の方は常備している強力な安定剤でどうにかなる。だが無痛症は本人の自覚の問題なので、戦闘の際は防御に気をつける他に対処方法がない。更に、シャルトにはもう一つ厄介なものがある。それは、普通の人間なら誰もが持っている筋力の無意識の制御がシャルトには無いという事だ。人間の体は限界の筋力に耐えられるような構造をしていない。そのためのストッパーなんだが、制御出来ないシャルトは力を出し過ぎると筋繊維が恐ろしい勢いで切れてしまう。とどのつまりは、無理の範疇に入らない無理の時点で体を壊してしまうという事だ。
本人も自分の体の状態は知っており、ある程度意識的な加減はやっている。だがこれが、戦闘の際に大きく影響を及ぼすかもしれないのだ。無意識の制御と、意識的な制御と、どちらが筋力を効率的に駆使出来るかなんて考えるまでも無い。
とにかく、今は経験を積むしかない。こういった状況ではこう対処しろ、と助言する事は出来るが、その特殊な体調のため細を穿ったペース配分までは助言のしようがないのだ。こればかりは自分で掴み取って貰う他ない。幾つか小さな仕事もやらせて見たが、やはりまだ配分を掴み切れてはいないようだ。当面の課題としては、そのペース配分を早く掴み取る事だろう。そうすれば、より効率よく動く事が出来るだろう。
けど、こいつは馬鹿だからなあ……。
当分はお守りしてやらなくてはならない。眉を潜めて苦しげな表情を浮かべているシャルトを見、そう俺は微苦笑した。
TO BE CONTINUED...