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 憎しみ。
 この黒い渦に絡め取られると、自分が自分でいられなくなる。
 俺は憎んだ。
 憎んで憎んで、憎み抜いた。
 文字通りの夜叉になった。
 だけど。
 その先に、一体何があるのだろう?

 どうしようもないほど悲しかった。




 渦巻く血煙と悲鳴。
 その暗く狭い戦場を、俺は縦横無尽に駆けた。
「ひいっ!」
 壁を駆け上がって十分な高度を手に入れた俺は、そのまま地面へ跳躍するように壁を蹴って跳んだ。眼前に捉えた標的の表情が恐怖に歪む。俺は自分の重量と加速を乗せた蹴りを持ってそれを打ち抜いた。
 叩きつけるような勢いで石畳の上に着地する。衝撃で石材に同心円状のひびが広がっていく。俺は休む間もなく、その石畳をとどめを刺さんばかりの勢いで踏み込んだ。
 街路の袋小路に俺はこの小隊を誘い込んだ。南区のこの辺りは、毎週爛華飯店に通っている内に道には明るくなっていたのだ。ここに押し込めるまでの算段も、レジェイドに教えてもらった戦術を利用して実にスムーズに成功した。夜叉は戦闘に限らず、戦闘に関するありとあらゆる分野をカバーする。この戦術もまた、夜叉が長年培ってきた兵法の一つなのだ。
 この狭所へ押し込んだ理由はただ一つだった。連中を、一人足りとも生かして北斗から帰したくなかったからだ。出口に群がる連中。しかし、そこは普段よりも狭くなっている。俺が入り口に建物の外壁を崩した残骸を敷き詰めたからだ。出口は一つしかない。そうなれば、これだけ大勢の人間が居ようとも次の行動は容易に予測がつく。
 一人が抜け出しかかった。だが俺はその背中へ一瞬で走り寄ると、脊髄を狙って蹴りを放った。そのまま男の体は反りながら前へつんのめるように転げ、出口を狭める障害物の一つとなる。手応えはあった。致命傷に至らなくとも、自分の足で立ち上がることは二度と叶わないだろう。
 唯一の出入り口に俺が立ちはだかった事で、砂糖に群がる蟻のように密集していた連中はサーッと雲霞の如くこの袋小路に散らばっていく。また俺が一人を仕留めると、その隙に連中は出口へ群がる。しかし逃げ出す前に俺に食い止められ、再び逃げるように散らばる。先ほどからこれの繰り返しだ。一人が死に物狂いで俺を押さえつければ、その間に何人かは逃げられるかもしれない。だが、こいつらにはそんな連帯感も自己犠牲精神も存在しない。
 こいつらは、俺の箱庭の中で飼育される虫と同じだ。生殺与奪の権利を持つ俺の都合で生かされ殺される。それだけのつまらない存在。
「だ、だから言ったんだよ! 北斗とはやりたくねえって! こんなガキでさえこれなんだ!」
 誰かが恐怖に耐え兼ねて、そんな悲鳴のような声を上げた。
 ふざけるな。
 その程度の覚悟で、人を面白半分に殺しておいて。
「ただで済むと思うな」
 袋小路の中には数十名の死体が転がっている。その死臭が抜け出せず充満している。現世で地獄を体現化したようなその場所を、俺は駆けた。五歩駆けるごとに一人を殺す。逃げ出そうとする人間がいれば真っ先に殺す。間合い内に居れば優先的に殺す。俺は何かに憑かれたように『殺す』という作業にひたすら没頭した。
 酷く、感情が乾いていた。まるで自分が自分ではない感覚。本当に自分がこの阿鼻叫喚のありさまを作り出しているのか疑問にさえ思えてくる。だが、それ以上意識を向けることはなかった。どうでもいいのだ、自分の事は。今、大事なのは目の前の存在全てが動かなくなるまで駆ける事。
 純然たる殺戮の渇望。
 ただ、それだけ。
「シャルト!」
 ―――と。
 突然聞き覚えのある声が袋小路に反響する。
 振り返ると、俺が半封鎖した出入り口にいつの間にか新たな人影―――ヒュ=レイカが立っていた。
「何をやってるんだよ」
 ヒュ=レイカは普段とは違ってやや緊張した面持ちでこちらに歩み寄ってくる。連中は新たな北斗の登場にもはや歩く気力も失って立ち尽くしている。俺とヒュ=レイカを除いたこの場の人間の顔は絶望色に染め上げられる。
 ヒュ=レイカの登場は驚いたが、俺は無視した。俺が止まるのは、こいつらを殺し尽くした時だけだ。今は無駄な会話をする時間も惜しい。
「もう駄目だ……」
 俺のすぐ目の前で、一人の男がへなへなと座り込んだ。絶望に歪んだその顔は完全に生を放棄している。死ぬことを甘受した、生を諦めた表情だ。
 そのそっ首を掴んで無理やり立たせた。背丈は男の方が大きかったが、頭の上ほどまで腕を上げると、男の足が丁度立っている時のように伸びた。このまま首をへし折ってやろうか? それとも、内臓を破裂させてやろうか? それとも……。
 が。
「もういいだろ? みんな戦意を失ってるじゃないか。こんなの続けたって意味がないよ」
 その腕を、背後から掴まれる。ヒュ=レイカの手だ。
「ここまでする必要なんかないだろ? これじゃあただの殺戮だよ」
「うるさい! 関係あるか!」
 殺戮である事なんか承知の上だ。力の差が圧倒的であれば、それは一方的な命の略奪になる。そんなものは戦闘とは呼べない。だが、元から俺は対等な戦闘を行う気はなかった。気が収まらないのだ。元はと言えば、先に仕掛けてきたのはこいつらなのだ。それを今更になって命乞いをするなんて。命乞いをしているにもかかわらず一般人を殺してきた連中に許される行動ではない。俺がしている事とこいつらがしてきた事と、一体どう違うというのだ。今更論ずるのも馬鹿らしい。
 すると、
「北斗は、殺戮集団じゃない」
 そう、ヒュ=レイカは静かな口調で、まるで諭すように言った。
 それは俺の殺意を根底から覆す言葉だった。
 北斗は戦闘集団、ヨツンヘイムという一つのまとまった国を作り出すための集団だ。その力は決して非生産的な行為に費やしてはならない。守り、創るための戦闘集団。無益な殺人を生業としているのではない。
 忘れた訳じゃない。北斗の規律も、主義も、存在理由も。
 だけど、
「俺は……許せないんだよ!」
 憎いのだ。リュネスをあんなに傷つけたこいつらが。髪の毛一本たりとも、存在する事が許せない。その憎しみが、俺を駆り立てて止まることを許さないのだ。思い出せば思い出すほど黒い憎しみが込み上げてくる。リュネスの悲しい顔ばかりがリフレインする。そのたびに、やつらの人を人とも思わない嘲笑が耳の奥でこだまする。吐き気がするほどの不快感と共に。
 自分が抑えきれない。耐えれば耐えるほど、額の奥が不快感でいっぱいになる。安定剤もまるで効かない。自分を鎮めるには、こいつらを全て消してしまう他ないのだ。
 じゃあ、俺は自分のためにこんな殺戮をしている? リュネスを理由に?
 違う。
 俺は……ただ……。
「シャルト君……?」
 俺の叫びに疑問符を浮かべるヒュ=レイカ。
 気がつくと、俺の中で渦巻いていた殺意が嘘のように消え失せていた。まるで砂漠のど真ん中に放り出されたような気分になった。それまでずっと殺意を糧に駆けていたのが、急にそれが消えてしまったのだ。驚きよりも戸惑いの方が大きい。
「あ……ぐ」
 俺に首を掴まれている男は、それでも何とか俺の掌握から抜け出そうとしきりにもがいている。生の固執。あんなにあっさりと人を殺すくせに、自分の命には最後まで守り抜こうとする。なんなんだ? この矛盾。人と自分とでは、命の価値なんて変わらないのか? いや、それなら俺も同じだ。リュネスと、そしてこいつらとを同一の存在になんて微塵も思わなかったのだから。
「くそっ……!」
 俺はゆっくりと手を離した。途端に男は開放された喉で空気を咽るように吸い込む。
 なんで俺は離したんだ? 今だって、こんなに憎くて仕方ないのに……。
「シャルト。後は僕がやっとくよ。そもそも守星の仕事だからね」
 ぽん、と普段テュリアスが乗っている肩をヒュ=レイカが叩く。俺は無言のまま、ただこくりと頷く事しか出来なかった。



TO BE CONTINUED...