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僕は一体何なのか。
人が当たり前に繰り返す、自己否定にも似た自分への疑問。それは社会における自分の居場所を模索しているかのようでもあって、精神を満たすある種の安定剤でもある。
けれど。
もしもその問いに対する答えが出てこなかったら。
いや、無くしてしまったが故に、答えが出るはずもない事を知っていたら。
僕の居場所はどこになるのだろう?
その答えは僕には辛くて、ただぎゅっと手を握り締める。
気が付くと、僕は雪の中にいた。
ぼやけた記憶を掘り起こしながら、事態の把握に努めて混乱せぬよう自分を保つ。僕がいるのは雪の中だが、決して雪に埋まっている訳ではなかった。そこはまるで出口の無い鎌倉のような空洞になっており、丁度しゃがみ込めるぐらいの広さと高さがあった。
周囲が密閉されているせいだろうか、雪の中にいるにも関わらず不思議と寒さは感じなかった。それどころかむしろ外に居た時よりも温かく感じる。空気が外気と混ざり合って冷やされる事がないせいだ。そういえば昔、雪の中は思ったよりも寒くないと聞いた事がある。
なんとか自分の置かれた状況を把握し、普段ほどではないけれどある程度の精神的余裕を作る。おかげで周囲を調べようとする気になれた。次に自分がしなくてはいけないのは、ここからの脱出だ。そのためにはまず何をしなくてはならないのか、それを考える必要がある。さすがに雪の中に埋まった時の対処方法までは知らないから、それだけ慎重にならなくては。
上を見上げると、すぐ目の前に雪の天井があった。真っ白で一片の染みも無い雪が綺麗な湾曲を描いている。周囲を覆う壁や座り込んでいる足元までもが天井と同様の作りになっている。ふと僕は、もしも卵の中に入っているならばきっとこんな感じなのだろう、と思った。
よし、まずはここから出よう。
耳を澄ませても、もうあの地鳴りが聞こえてこない事を確認する。どうやら雪崩は収まっているようだ。だったら雪の中から出ても危険は無い。
僕はひとまず天井を軽く押してみた。するとまるで石のように硬く頑丈そうな感触が伝わってきた。
ふと、その時。僕は幾つかの疑問に気が付いた。
雪を触っているのに冷たくないという事。石でさえ触ればひやりとする感触があるはずなのに。まるで陶器でも触っているかのような、とても雪とは思えない感触だ。
不思議な事はそれだけじゃない。
どうして僕の周りの雪だけが、こんな風に不自然な固まり方をしているのか。冷静になって考えてみれば、普通ではあり得ない事だ。雪崩は雪という雪が一気に押し寄せてくるのだから、まるで僕を避けるような積もり方をするはずがない。
そして第一、前後左右、どこもかしこも雪で覆われているはずなのに、どうしてここが雪の中で、天井や壁が白いのか、そうだと分かるのだろうか? 日の光が差し込む隙なんて存在しないというのに。本当だったら僕は真っ暗闇の中に居るはずだ。
見る見るうちに、自分の置かれた状況が非常に特異的である事を自覚し始めた。
一体何が起こったのだろうか? 普通、雪崩に巻き込まれたら五体満足で生還出来るはずが無い。圧倒的な質量の雪の中に閉じ込められてそのまま凍死するのがオチだ。けれど、この状況は何だ? 僕は怪我一つしていないじゃないか。まるで何か見えないものに守られているかのように。
これは何なのだろう。
僕は本能的に考える事が恐ろしくなり、思考の対象をここからの脱出に向けた。
どうすればここから出られるだろうか? すぐには分からないけれど、とにかく脱出のために何かをしなければ恐怖でどうにかなりそうだ。
僕はもう一度、今度はやや強く天井を押してみた。しかし、それでもビクともせず、相変わらず雪の冷たさも感じられない。
閉じ込められたのではないか?
ふと僕はそう思った。見た目よりも積もった雪は強固で、下手な城壁よりもずっと頑丈なようだ。これでもしも雪が凍り付いてしまったら、それこそ僕は岩石の中に閉じ込められてしまったようなものだ。
そんなたとえをしたせいだろうか、自分の置かれた状況が決して安堵できるものではない事を悟ってしまった。閉じ込められた恐怖がそのまま死の恐怖に直結する。僕の頭は爆発しそうなほどの感情の奔流が起こり、思わず意味もなく手足をバタつかせる。やがて僕は我も忘れて雪の壁をそこら中の壁をやたら滅多らに叩き始めた。けれど叩いた手が痛くなるばかりで壁はヒビが入るどころか揺らぎもしない。絶望的なほどの頑丈さだ。
気がつくと僕は獣のような声で泣き叫んでいた。とにかくこの気が狂いそうなほどの恐怖から逃れようと必死だった。せめてもの救いは、ここが真っ暗な闇でない事だ。もしもそうだったら、僕はとっくに正気を失っている。
このままじゃ駄目だ。
暴れ疲れ、ようやく気分が落ち着いてきた僕は、こうやって無駄な体力を消耗するのは自殺行為に等しいと気づき自分を抑えた。このままでは気が狂うよりも先に力尽きてしまう。そんな死に方はあまりにつまらない。
僕は未だに暴れ出そうとする心臓を押さえながら、もう一度自分の置かれた状況を冷静に調べる。雪は僅かな隙間も無いほど固まっており、これを手で掘るのはほぼ不可能と言える。いや、呼吸が出来るという事は隙間はある事はあるのかもしれないが、それはきっと人間の目には見えないほどの細かい穴だろう。
せめてもっと天井が高ければ、外の音が聞こえてきて僅かなりとも様子が分かるかも知れない。ちょっとぐらい高かったとしても、今いる所がとても深かったら意味はない。けどそれならそれで自分が深い所に居る事は分かる。かと言ってどうにかなるものじゃないけど。
と、その時。
あ!
突然、天井が何の前触れもなく競り上がった。上から釣り上げたというよりも、下から途方も無い力で持ち上げたような感じだ。しかも競り上がった高さは、僕が丁度このぐらいあればと思った所までだ。それ以上高くも無く、そして低くも無い。
どうなってるんだ?
あんまり突拍子も無い事で驚いた僕は、そのまま咄嗟に次の行動を続けた。もしかしたら。ただ頭の中にあったのはそれだけだ。
僕はもっと天井が競り上がるイメージを作ってみた。すると案の定、またもや僕がイメージした高さまで天井が競り上がった。
何故だかは知らないが、どういう理屈かで天井が僕のイメージ通りに動く。それだったら、もしかすると壁の方もどうにかなるのかもしれない。そう思った僕は、この空間が今よりもずっと広がっていく様をイメージした。するとやはり、左右前後の壁が僕がイメージした広さまで急激に広がっていった。
この空間は僕の思い通りに広がるのか?
そんなこと、決してあり得ない事だけれど。でもそれはあくまで『普通』の範疇での話であって、それを逸脱した事は必ずしも起きないという保障は無い。こんな事があっても、とても平然とはしていられないけれど、別におかしなことじゃないはずだ。僕の知らない何かに遭遇しただけなのかもしれないから。
それだったら。
僕は、今度は逆に床が競り上がるイメージを作ってみた。幾ら天井ばかり高くしても、僕の居る位置は何も変わらない。それに、たとえ上が開けたとしてもそこまで登らなくてはいけないのだ。こんなどこにも手足のかける所がない場所を登っていけるはずがない。だったら、もしも全てが僕の思い通りになるのなら、足元を競り上げた方がずっと手っ取り早い。
しかし。
幾らイメージを作っても、ちっとも床が競り上がってくる気配は無い。もうこの不思議な現象は終わってしまったのだろうか? けれど壁が広がるイメージを作ってみると、先ほどと同じように壁は広がる。どうやら空間を広げる事は出来ても一部を狭めるような事は出来ないようだ。
だったらどうしようか。
僕は脱出方法を思案し始める。気分はこれまでより遥かに落ち着いた心境だった。何も出来ないと思っていたけれど、どういう訳か僕がイメージした事が、全てではないが起こるようになってる。これをうまく利用すれば、なんとかこの奇妙な空間から脱出出来るかも知れない。
この空間を意味もなく広げたって、いつまで経っても脱出は出来ない。何かもっと別な現象を起こさないと。でも、だからといってやたらと考えなしにやったら、逆に自分の首を締めてしまう事にもなりかねない。
どんな方法がいいだろうか。
そしてしばらくの間思慮に暮れた後、僕は一つの大胆な案を考えついた。
僕の周りの雪。どかせないんだったら、いっそ溶かしてしまえばどうだろうか?
TO BE CONTINUED...