BACK

「何故……だ?」
 男は息苦しさを押さえながら、なんとか言葉を喉の奥から絞り出そうとする。しかし干上がった喉が放つ声は、惨めなほど嗄れていた。
「何故、俺の攻撃が当たらない? 俺はお前より強く、お前よりも速い。なのに、何故こうも容易く後ろを取られる?」
「訊ねるよりも、まずは己を省みなさい。そして、考えなさい」
 ミシュアは突き放すような冷ややかな口調で返すと、またしても男を捉えていた大剣をそっと下ろした。
「何故、剣を退く? お前は自ら勝利を放棄するのか?」
「言ったはずです。考えなさい、と」
「考える、か……」
 その時、急激に周囲の空気に変化が生じた。あの濃密な殺気が突然嘘のように消え去ってしまったのである。
「これ以上は無意味だな。どう足掻こうと、俺はお前に勝てぬようだ」
 男の垂れ流していたあの殺気が消えた事。それは即ち男の戦意喪失を意味していた。勝因は言うまでもない。ミシュアの圧倒的な強さだ。
 単純な力の差は明らかに男の方が大きく上回るだろう。しかし、戦術的な強さは遥かにミシュアの方が上だったのである。この途方もない実力差を、ミシュアは論理によって相手の力が最も及ばない穴を突く事で埋め切ったのだ。
「今回は退いてやろう。俺の目的は強い北斗の維持。俺よりも強い人間がいるのであれば、これ以上意味は無い」
 男はミシュアに背を向けたまま、静かに前へ歩を進めて行った。
 呆気無さ過ぎる。
 そうヒュ=レイカは訝しがった。誰よりも北斗らしい人間である事を自称する者が、これほど素直に自らの敗北を認めるものなのだろうか。たとえ実力に大きな差があったとしても、その戦闘に決して負けられぬ理由があるならば最後の最後まで最善を尽くすのが北斗である。それとも彼は、この戦い自体にさほど重要性を感じていないのだろうか。いや、そもそも彼の目的は、自分よりも格上の実力者が北斗にはまだ居る事を確認出来ただけで果たされたというのだろうか。
 傍らを通り過ぎる時、ヒュ=レイカはじっと男の顔を見つめ続けた。何を考えているのか、腹積もりの知れぬ不気味な無表情だ。
 彼は確かに異常とも呼べる実力を持っていた。しかし、その異常な強さが裏目に出たのかもしれない。彼はむしろ、相手をあまり早急には死なせぬようにと気遣ってさえいた。自分の持つ技が簡単に人を死に至らしめる事を知っていたからである。
 彼にとって事を交えた相手の死は、自分が手を出すか否かの二者択一である。故に、戦術というものをまるで必要としなかった。そして不幸な事に、これまでの少ない実戦の中で戦術を武器とする人間と戦った事も無かった。そのため、戦術の持つ重要性というものを理解する機会がなかったのである。
 実力では遥かに劣るはずのミシュアに完膚なきまでに叩きのめされたであろう彼。その心中は如何なるものなのだろうか。真摯に北斗の事だけを憂いていたのであれば、まだ納得は出来るだろう。しかし、人には多かれ少なかれ自尊心というものが存在する。そして敗北とは一般的にその自尊心へ大きく傷をつけるものだ。それを踏まえ、どうしてもヒュ=レイカは彼が心中穏やかなものでは無いのでは、と気掛かりで仕方なかった。
 戦術の重要性を認識したのか。それとも、理不尽な結果に本音は納得がいかないのか。少なくとも大よそ思いつく平和的な所に収まる事だけはまず有り得ない事だけは想像がついた。
 その時、ヒュ=レイカは僅かだがはっきりとそれを目にした。男の口元が不敵に歪む様を。
 突然、予告無く男の体がその場から消えた。いや、消えたのでない。あまりに唐突な急加速のため、見失ってしまったのだ。
 ミシュア、気をつけろ!
 そう叫ぶヒュ=レイカ。しかし口から吐き出せたのはほんの僅かな呼気だけで、実際は舌の一つも回ってはいなかった。男の動作のあまりの速さに、自身の反応速度がついていっていないのだ。
 男の体は、振り向く体にかかる空気抵抗と格闘する自分とは比べ物にならぬほど軽やかに、先程と同じ位置に立つミシュアの目の前へ滑り込んでいく。その姿は闇夜を切り裂く雷光のようだった。
 相手を安心させておいての不意打ちだ。
 呂律の回りよりも速く動く男を前に、ヒュ=レイカはその事実を伝える術は祈る他に持ち合わせてはいなかった。
 だが。
 術式ではなく、拳を半開きにした変形握拳を両腕に構え、すぐ目の前に捉えたミシュアに狙いを定めた彼は、何故か最後の一歩を踏み出さずにその場で硬直していた。
「隙は無い……か」
 またしても男の喉元には、ミシュアの大剣の切っ先が当てられていた。拳を奮うよりも早く切っ先に喉を正確に捉えられたため、このまま拳を放っても相手に届くよりも先に喉から血を吹き上げてしまう。
「勝利を目前にすると気が緩む。兵法の初歩中の初歩です。まさかその程度の事が通用するとでも?」
 悠然と構えるミシュアの余裕は圧倒的だった。
 ミシュアの大剣はまるで魔法のように、攻撃を仕掛けてくる男の喉元を正確かつ男の攻撃よりも早く捉えた。単純な速さならば遥かに男の方が上だった。にも関わらずミシュアが機先を制する事が出来るのは、その鋭い読みと優れた戦術に他ならなかった。現役の北斗の中でも有数の実力者である彼女は、過去に幾多に渡る実戦を経験してきた。その中でテキストで得た戦術と実際との差異を経験で調整しながら磨き上げてきたのである。彼は、そもそも戦術という物自体を必要としないほど優れた実力を持ってしまった事が仇となった。力とはそれ単体では一方向にしか向かう術が無く、水の如き変幻自在の論理の前には通用しないのだ。
「お前に弱点はあるのか?」
「あります。ですが、それを相手に知られぬよう隠し、逆に相手から見つけ出す術。これが戦術というものです」
「ならば、俺の弱点とは何なのだ?」
 ミシュアはそっと目を伏せ、男の喉元を捉えていた大剣の切っ先を下ろした。右腕に体現化した氷の大剣は小さな音を立てて崩れ落ちる。ミシュアが意識を切り離したためだ。あくまでそれ以上の意思は自分には無い。そう行動で示しているのである。
「戦術を知らないという事です」
 憮然とした口調と冷たささえ感じる無表情で言い切るミシュア。
 その時ヒュ=レイカは、男がはっきりとミシュアに対して萎縮するのを感じ取った。殺気を放つ事さえ躊躇っている。辛うじて取り繕っているように見えるが、完全にその目は自分よりも格上の人間を見るそれだった。
 もはや、少なくとも今はこれ以上戦う事は出来ないだろう。たとえどれだけの力を持っていたとしても、自分の手の内が全て通用しない事がはっきりと分かってしまった以上、そこから先はただの自殺行為だ。志願者でもない限り、わざわざ愚かしい死を求める理由は無い。勇敢と無謀の区別をつけられぬ程、男は愚かしい訳でもない。
「ここまでだな」
 突然、男の体が暗く歪んだ。
 全身の配色が明度を落とし、暗く沈んでいく。男の体は隅々から黒に浸食され闇と一体化していく。色素がただ黒くなっているだけではない。実際に男の体の輪郭と闇との境界線が滲み、闇との区別がつかなくなっているのだ。
「どこへ行くのです?」
「戻るだけだ。元の、闇に」
 男の手足は既に闇との区別がつかなくなっていた。四肢の無い上半身だけがぽっかりと闇の中に浮かんでいる。
「決して忘れるな。北斗が堕落した時、死神は再びやって来る」
 最後にそう言い残し、男の体は全て闇の中に溶け込むかのように消え去ってしまった。決して闇に紛れその場を後にした訳ではなかった。はっきりと分かる気配の推移、男の気配は唐突に消え失せてしまったのだ。
 男の気配が消え去ってから異様な沈黙が訪れた。氷解する場の空気に誰しもが驚くほどの疲労感を感じ、俄かには普段の調子を取り戻す事が出来なかったのである。
 どちらからともなく、溜息をつく。ようやく安堵出来るのか、という確認の意味を踏まえた仕草だ。
 そして。
「見事な貫録勝ち、ってとこですかね。さすが、鬼教官」
 最初に沈黙を破ったのはヒュ=レイカだった。
 よろけながらも壁に手を付き立ち上がる。ぽたぽたと床に血滴が滴り落ちるが、目に見えた出血はほとんど止まりかけていた。服を染める血の色は赤茶けた乾いたものになっている。大丈夫ですか、とミシュアは視線を投げかけるもヒュ=レイカは問題無いと微笑んで見せる。普段の小憎らしい笑みだ。
「所詮はハッタリですよ。力で適わない事は知っていますから。後はプライドを傷つける他無いのです。戦意を失うほど、徹底的に」
「おお、こわ。レジェイドも先が思いやられるね」
「どういう意味ですか」
 一度は緩めかけた表情を再びきつく引き締める。その射るような視線に晒され、ヒュ=レイカの笑みは苦笑いに変わった。
「まだあんなのが北斗にいたんだ。正直、今回は駄目だと思ったよ」
「総括部しか彼の存在は知らなかったのでしょうね。政策で北斗を管理する総括部とは違い、武力で北斗の質を維持する。曲がりなりにも北斗は治安国家という体面を取っていますから、彼の存在を表沙汰には出来ません」
「そういや、武闘派政治やってたのって最初の北斗の頃だったっけ。その頃はまだ街という形を維持する事だけで精一杯だったらしいから体裁なんてどうでも良かったんだろうね。今は体裁の方が大事、でも武力干渉も必要だから裏側に回らざるを得ない。だから十三番目を名乗ってるんだろうなあ」
 突然現れ、そして消えた彼。流派『北斗』を名乗る彼の強さは尋常ではなく、全ての流派の戦闘術を習得している事から、まるで北斗の歴史そのものを相手にしているかのように錯覚さえ覚えた。
 完全武闘派戦闘集団だった頃の名残、もしくは亡霊。治安維持を何よりも優先し、単純な個々の戦闘力よりも防衛力に力を注ぐ今の北斗は、彼の目には一体どう映ったのだろうか。保守的な体制は必ず腐敗を生み出す。今回の事件はまさにそれだ。エスタシア自身が腐敗の元なのか、腐敗の存在がエスタシアを狂走させたのか。少なくとも黙って闇に潜み続ける事は出来なかったのだろう。一つ間違えば、長きに渡って繁栄を続けてきた北斗が崩壊してしまうのだ。彼の存在意義、最強である北斗の継続。その可能性があるのは自分達北斗派であると判断してくれたのだろうか。それとも、今はただ傍観するだけであると考えているのか。
「さて、行きましょうか。そのレジェイドさんを探しましょう」
「そうだね。早いトコ合流しよう」
 ヒュ=レイカは床に伏せるルテラの傍らに膝をつくと、肩に腕を回して立たせる。しかし、予想外に圧し掛かってくる体重を傷を負った体が支えられなかった。びりっと痺れるような鋭い痛みに表情を歪めてしまう。
「ねえ、ルテラ担ぐの手伝ってよ。割と重いんだよね」
 と。
「レイ、聞こえているわよ」
 突然、冷やりとする手が襟足をぎゅっと掴む。突然の感触にヒュ=レイカはぎくりと体を震わせた。
 振り向いた先では、ルテラがじろりと睨みつけている。非難めいた激しい視線だ。
「やあ、体は大丈夫?」
「傷ついたわよ。それは深く」
 ヒュ=レイカの肩に回されていたルテラの腕がするりと頭へ巻き付き、そのままぎりぎりと締め始める。辛うじて耐えられるほどの、不快な加減をした締めだ。
「まったく。たまにはしおらしい所の一つも見せなさい。こんなに怪我して、まだ生意気言うの?」
「このぐらい甘受する余裕は持とうよ。っていうか、これ以上怪我を増やすのはやめて」



TO BE CONTINUED...