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 もう一度、失ったものを取り戻すため。
 そんな殊勝な心がけがあった訳じゃないけれど、少なくとも今の僕には居心地が良かった。
 温かい食事と寝床。たったそれだけで、僕がこれまでにどれだけ凍えた生活をしていたのかをひしひしと思い知らされる。
 その温かみが、凍りついた自分を解かす。僕はまるで凍った種子。それが今一度芽吹こうとしている。僕の中にはそんな実感があった。
 小さかった自分を客観的に見る事が出来ると、逆にこれから自分はどうすればいいのか具体的な指標が立てやすくなった。
 斜に構える事をやめ。
 合理性を理由にする事をやめ。
 もっと素直に、自分の事を考え見つめ直そうと思う。
 何のしがらみもないまま考え、もう一度辿り着いた答えがこれまでと同じ凍てついたものだったらそれでもいい。真実は本当にそうなのかどうか、せめてそれだけでもいいから知りたい。
 僕の生きる道は、光か影か。
 今、大きな岐路に僕は立っている。




 新しい生活が始まった。僕にとっては三番目の生活である。
 教会は二人で住むにはあまりに広く、初めの内はどことなく落ち着けなかった。その上建物自体に年季が入っており、迂闊に歩いて床板を踏み抜きかねない。そういった意味でも油断の出来ない環境ではあるが、慣れてくれば自然と気にならなくなった。でも気にならないのと油断出来ないのは違う。その内、何らかの補修をしなくてはいけないだろう。神父は不精な人だからまずやらないだろうから、僕しかやる人間はいない。村に居た時はよくそういうのをやっていたから、道具さえあればなんとかなるだろう。
「んっ……んん」
 朝。
 僕はいつものように自然と目が覚めてベッドから体を起こす。軽く肩の関節と背中の筋肉を伸ばすと、勢い良くベッドから降りた。
 僕に与えられた部屋は一人で使うには随分と広かったが、御多分に漏れず幽霊でも出てきそうなほど古びており、また他にこれといった家具が無いため実に殺風景だ。
 まずは窓を全開にして朝の冷たく新鮮な空気を室内へ取り込む。寝起きでたるんだ体が目覚めていく感覚がなんとも心地良い。窓から見える外の景色は、突き抜けるような青空が広がっていた。こういった晴々とした天気を見ると、更に気分が心地良くなってくる。
 今日はいい日になりそうだ。そんな事を考えながら僕は窓をそのままにして部屋から出た。
 水場に行って顔を洗い、寝間着を着替える。それから早速朝の日課に取り掛かった。ここに住む以上、何もせずにただ食べて寝る訳にはいかない。出来る限りの労働は食べる人間の義務なのだ。
 朝食前の仕事は燃料となる薪割だ。鉈でガツガツと叩く感じで割る作業であるため、一見するとそれなりに体力がなければ出来ないように思えるが、実はコツさえ掴めれば意外と力は入れなくても割れるのである。これも村に居た頃よくやっていたから、何度も腰を叩きながらやる神父に比べたら遥かに早く割り終える。
「やあ、おはよう」
 作業小屋から鉈と薪を持って撒き割り台の元へ向かうと、丁度畑から帰ってきた神父がやってきた。僕は割と早起きな方だが、神父はそれよりももっと早く起きる。まあ、年寄りってのは概して朝が早いものだ。
「これから朝食を作るよ。早めに切り上げてきなさいね」
「うん、分かった」
 微笑みながら教会へ戻る神父に僕は軽く手を振った。
 初めの内は理屈ではない不快感を覚えて仕方がなかった神父の優しげな口調も、今はどうしてあんなにイライラしていたのか不思議なほどなんとも感じなくなった。自分の中で明らかな心境の変化があった事の現れだろう。客観的に見て、少し自分が丸くなったというか気持ちに余裕が出来ている気がする。放浪していた時のような、極力無駄を省こうとする効率性を求めるあまりぴりぴりとしてしまう緊張感が無くなり、代わって多少無駄が嵩んでも物事をよく見極めようとする余裕が生まれた。視界が大きく広がり、またそれに伴って自分を殻の中に閉じ込めてしまう閉塞感から解き放たれたような開放感があった。身が軽くなり頭の重さが取れてなくなったため、時折訳も無く気持ちが昂ぶることもあった。とにかく、今の生活は言い知れぬ充足感で満たされていた。おまけに、神父から文字の読み書きや色々な事を学ぶ機会にすら恵まれている。
 久しぶりに自分が少しずつ成長している実感があった。
 自身に刻み付ける確かな成長の足跡。ほんの少しずつ印を増やしていくその過程が、僕にはたまらない喜びだった。自分が生きている事をこれ以上強く再確認出来る事はない。人間としてこれほどの幸せがあるだろうか? 僕には考えもつかない。
 かつん、かつん、と軽快なリズムに乗った音を立てながら次々と薪を割っていく。台の上に薪を立てて左手で支え、まずは右手の鉈を一度振り下ろして僅かに刃をめりこませる。そして次に薪をそのままに鉈を振り上げると、そのまま台へ向かって真っ直ぐ落とす。ここで重要なのは、力いっぱい叩きつけない事だ。力任せにやると鉈の刃が斜めに潜り薪が割れなくなってしまうのである。感覚としては、幾筋も縦方向に伸びている薪の筋同士の横の繋がりを断つ感じだ。あくまで薪を両断するのではなくて筋を切り離すという事が分かれば、後は子供にだって出来る。裏を返せば、コツが分かれば子供でも出来るし、すぐに物事を強引に進めようとする短慮な人間には一生かかっても出来ない。
 やがて、本日分の薪が割り終わった僕は、さっそくその束を所定の薪置き場へ運んでバランス良く横向きに積み上げる。一度にはあまり沢山持てないため、四回に分けて運び終えた。けど、ついこの間までは五回に分けて運んでいたのだ。少しだけ、重いものを持てるようになったと、そういうことである。
 思っていたよりも仕事は早く終わったため、朝食には間が空きそうだ。すぐに、みたいな事は言っていたけれど、さっき作り始めたのであればもう十数分は必要だ。だったらそれで僕も手伝えばいいんだけれど、神父は仕事の分担を徹底して譲らないからなかなかそういう訳にもいかない。
 さて、時間が空いた。
 これもまた大体いつもの事で、僕は早速もう一つの日課に取り組む事にした。ただしこちらは巻き割とは違って分担された仕事ではなく、僕が自分で決めたものだ。
 僕は薪を割っていた台に腰掛けると、両の掌を軽く持ち上げて目の前で向かい合わせに構えた。そして呼吸を整えて気持ちを集中させると、掌と掌の間の空間に向けてイメージを描く。描いたイメージは、小さな小さな赤い炎。
 ぼっ、と音を立てて僕の掌の間に小さな炎が灯る。僕が頭の中に描いたイメージ通りの炎の姿だ。
 今度はその炎が左右にぶれる様を頭の中に描く。すると僕の描いた通りに炎が動いた。この炎は僕の思った通りに移動させる事が出来る。いや、移動に限らずイメージ出来る事の大半は思い通りに再現する事が可能だ。
 僕が日課としているのは、その再現できるイメージを複雑化する練習だ。イメージしたものが実体化出来る、僕のこの不思議な力。それをもっと複雑かつバリエーション広く使いこなせるようにしたいと僕は考え始めたのだ。いつまでもこの力に振り回されているのは癪だから、どうせなら完全に自分のものにしてしまいたいのである。あの、僕の腕を覆った非常識な色を放つ炎にしてみても僕の過失なんてただの一つとしてないが、もしもあの時に自分の思うがままにコントロールできたならば、あそこまでみんなの警戒心を煽らなくて済んだはずだ。別にその時の当て付けって訳じゃないけれど、とにかく僕はこの不思議な力を自在に使いこなしたかった。二度とあんな、力及ばず、と思い出すような後悔をしないためにも。
 イメージを思い通りに実現化するのは難しかったけれど、小規模なものから少しずつやっていくと意外と簡単である事が分かった。それを段々と大規模にしていけば、無理なくステップアップできるはず。毎日少しずつ積み重ねていけば、きっと近い内にはどんなイメージを描いても正確に再現しコントロール出来るようになっているはずだ。
 ただ。
 もしもこの力を完全に使いこなせるようになったら。その時、僕は何を次の目標をとするのだろう? 今はまだ奥の見えないこの力に手探りで進んでいるような状態だけど、全く先が見えない訳でもない。だから僕は次のステップの事を考えなくてはいけないのだ。
 コントロールがつくようになったら、このまま一生自分の中に封印しておくのもいいかもしれない。けど、もしも神父の言う通り、この力に何らかの意味があるのなら。少なくとも僕にしか出来ない事があるのなら、他に取り得る選択肢があるはずだ。ならば、この力を持って何をする? 放浪していた頃のような荒みから抜け出せはしたけれど、未だ心の奥底に他人へ対する懐疑心は完全に消え去った訳ではなく、東陶と眠りながら息吹く機会を覗っている。いつ、どんなきっかけで再び疑心暗鬼が膨れ上がるか分からないのだ。
 誰かのために何かする事は素晴らしいと概念的には理解している。けれど、実践にはいまいち踏み切れない。村を追われた時の記憶と、自分がどこまで初志貫徹できるのか、滅私に徹せられるのか、そもそも気まぐれだけでやるものではない重さがある事を分かっているため、どうしても気が進まないのだ。要するに、僕は自身の指標を決める事に臆している。この力を使いこなしてみせる、と意気込んでいながらも結局は自信がないのである。
 もっとも、まだ使いこなせていない段階からの視点だから、この先にまた考え方が変わるかもしれない。変わらなければ変わらないままで良し、もしも変われば変わった時なりに何か考えてやればいい。ただ少なくとも、その時が来たら『この力のせいで』と言い訳するのはやめようと思う。いつまでも昔の事にこだわっていると、前に進めない気がするからだ。
 さて。
 僕は立ち上がってズボンを叩き埃を払う。
 そろそろ朝食の用意が出来た頃だろう。朝はしっかりと食べないといけない。今日もやるべき事が沢山あるのだから。



TO BE CONTINUED...