BACK

 生存本能は何よりも迅速に、そして最優先される。ヒュ=レイカもまた、その例外ではなかった。
 向かってくる男の手刀は、吹雪の刃を纏わせ甲高い悲鳴を上げている。恐ろしいほど加圧された刃は目にも止まらぬほどの流転を繰り返していた。
 狙う先は自らの喉。
 生身で受けたら立ち所に血煙を吹き上げるだろう。いや、もしかするとこのまま首を刎ねられるかもしれない。
 死にたくない。
 ヒュ=レイカはほぼ反射的に、向かってくる手刀に向かって自らの両腕を突き出し受け止めた。同時に脳裏に描いたイメージを体現化する。描いたイメージは、全てを拒絶する障壁。
 ばしゅっ、と鈍い音と共に手のひらが焼け付くように熱くなる。そして撥ねた何かが自分の頬を濡らした。
「うっ!」
 苦痛の声を漏らし表情を歪めるヒュ=レイカ。障壁は展開されず、刃を直接素手で受けてしまったからである。
「抗うな」
「黙ってやられるほど、僕はお人良しじゃないよ」
 口元に笑みを浮かべようとするも、苦痛に歪んだ顔では苦く映るだけである。
 生身の手のひらで受ける吹雪の刃は、ゆっくりと骨を削るように進んで来る。とめどなく溢れて来る血は腕を伝い床へ滴り落ちる。向かってくる刃を押し留めるには、受け止める手により力を込めなくてはならなかった。しかし、力を込めれば込めるほどより深く刃は食い込んでいく。咄嗟に素手で受け止めたはいいが、その後の行動が伴わなくては根本的な解決には至らないのだ。所詮は一時凌ぎ、そうそう長く続くはずはない事などヒュ=レイカは気づいていたが、体力を著しく消耗し術式も失ってしまった今の自分には他に手立ては無かった。
 素手で握り締める吹雪の刃の感触は冷たく、そして鋸のように手のひらを間断なく削っている事が感じ取れた。刃が骨にぶつかっている。まだ辛うじて削られているだけだが、切断されてしまうのも時間の問題だろう。術式はほとんど当てにはならず、たとえ強行したとしても一瞬の体現化では何の解決にもならない。
 それでもヒュ=レイカは刃の侵攻を押し留める。生への渇望が特別強い訳ではなかったが、それでも生きる事への執着心は人並に有るからである。
「苦痛が伸びるだけだ」
「割と生き汚いんだよね、僕って」
 もはや口元に笑みを浮かべる余裕も無い。
 どうする。
 どうする。
 思考が空転し無為を生む。完全に頭の中が混乱している。こうも論理的に考えられない自分は珍しい。
「離しなさいッ!」
 と、その時。背後から聞こえてくる何時に無く荒れたアルト。
 ルテラだ。
「駄目だ! 手を出すな!」
 咄嗟に静止を叫ぶヒュ=レイカ。しかし、それは既に遅かった。
「無駄だと言っている」
 高速加圧した吹雪の刃を纏わせた右拳を、男の背後から後頭部に目掛けて一直線に繰り出す。だが、男はルテラに背を向けたまま反対側の腕を無造作に振る。その拳がルテラの右拳を受け止めた。
 受け止める男の拳は、ルテラと同じ加圧された吹雪の刃をまとっていた。しかし、跳ね返されたのはルテラの方だった。男の術式がルテラの術式を圧倒したのである。
 吹き飛ばされるも、やはりルテラはバランスを取り直して姿勢を正す。跳ね返された右腕がびりっと痺れた後、最初に付けられた腕の傷が刺す様な痛みを思い出す。咄嗟に掴んだ腕はべとりと湿っぽい。傷はそれほど深くは無いようだが、切れ目が長い。先程は思わず頭に血が上って気がつかなかったのだが、拳を強く握り締めると切れ目が左右に引っ張られて酷く痛む。これでは全力を出そうとしても無意識の内に手を保護するため力を抜いてしまうだろう。いや、そもそも悔しい事に自分よりも相手の方が術式の使い手としては上だ。一度は流派『雪乱』の頭目を勤めた身でありながらも、彼の術式の方が威力、技術共に上なのだ。彼は全ての北斗の戦闘術を使えるが、それは幅広く習得しているという意味ではない。北斗の戦闘術そのものを極めているのだ。彼にとって流派という区別は無く、ただの一つの技術の種類でしかない。
 それでも、退く訳には行かない。
 再び、ルテラは右手に加圧した吹雪の刃を体現化しながら男に立ち向かう。右手は拳を作るのを止め、真っ直ぐ伸ばした手刀の型を取る。吹雪は指に沿って長く伸ばし、吹雪の短刀を作り出した。
 男は軽く体を開きたった今繰り出した拳を広げ、しなやかに一度振る。すると眩しい閃光と共に、弾けるような爆音と空気の焦げる埃臭い臭いが立ち込めた。
 男の手に現れたのは、傍目にも高電圧である事が窺える流派『雷夢』の術式だ。
「くどい」
 斬りかかるルテラの右腕を、男は驚くほどの速さと正確性で掴んだ。
「かっ!」
 瞬間、ルテラの右腕から高電圧の術式が全身を駆け巡る。ルテラは喉を絞られたかのように空気を吐き出し、全身をびくんと震わせて垂直に硬直する。そしてそのまま床に膝を崩した。
「ルテラッ!」
 思わず叫ぶヒュ=レイカだったが、ルテラは男に腕を支えられたままがっくりと項垂れピクリとも動かなかった。
 流派『雷夢』の術式は、流派『浄禍』に次ぐ強さを誇っている。ただし、術式そのものの習得が困難であるため、北斗史上にはそれほど有能な使い手は存在しなかった。その雷夢の術式を完全に自分のものにしたヒュ=レイカだからこそ、どれだけ恐ろしいものか十二分に理解している。人間の体が伝導体である以上、直接触れただけで致命的なダメージを与える事が出来る。そして電圧のもたらす衝撃とは、通常の痛みとは違って耐える事が出来ない。人間の筋肉や神経に直接作用し、たとえ意識を失わなくとも体の自由を奪われてしまうのは避けられないのだ。
「分かったか? お前を助けられる者はいない。ましてや、力の無い貴様など存在する価値もない」
 男は無造作にルテラの腕を放り向きを戻す。支えを失ったルテラはそのまま床へ突っ伏した。
「北斗の理念は絶対防衛と絶対勝利。しかし、それは力ありきの前提だ」
 吹雪の刃がより深く食い込んでくる。
 反対の腕で雷撃を食らわせ沈黙させれば遥かに効率良く倒す事が出来るのだが、男はあえてそれをしなかった。ヒュ=レイカには、決定的な敗北を自覚し屈服させた上で死んでもらおうという意図があったからである。
「諦めろ。お前は自分一人守れぬ弱い人間だ」
 お前は弱い。
 その決定的な言葉が、ヒュ=レイカの意志を大きく削いだ。
 何故、今自分は術式が使えないのだろうか。
 かつて、どれほどこんな力を持って生まれた事を呪っただろうか。こんな力さえ無ければ、故郷を追われることも無かったはずだ。
 ようやく見つけた、自分の居場所。ここでは自分の力は当たり前に受け入れられた。それだけでなく、皆が自分を一個の人間として見てくれる。自分の存在を認めてくれる。だから、この呪われた力をあえて研ぎ澄ました。自分を受け入れてくれたこの街を守るためだ。
 やっと自分の居場所を作り出したのに。何故、この力は消えてしまうのだ。
 この力が無くては、この居場所に自分は居られない。何も守る事が出来ない。
 なんてタイミングが悪いのだろうか。
 自分は元々、そのように生まれ付いてしまったのかもしれない。
「北斗に関わった事を、悔いて死ね」
 悪魔の子、と罵られた時が懐かしい。
 そうヒュ=レイカは思った。あの頃の自分は孤独感に苛まれはしていたものの、少なくとも何者にも侵し難い自分の世界というものを持っていた。
 自分に自由と孤独を与えたこの力。
 神は意味も無く人に力は与えたりはしない。そんな戒示めいた言葉を思い出す。ならば、一体自分は何のためにこんな力を持って生まれたのだろうか。少なくとも分かったのは、友人一人、自分自身すら守れなかったという残酷な現実だけだ。
 もう、諦めよう。どうせ手の内は残っていないのだから。
 ヒュ=レイカは、刃を掴む腕からそっと力を抜いた。
「待ちなさい」
 その時。
 凛と響く女性の声。それはルテラの声ではなかった。もっと低く、そして重みのある声だ。
 ふと気が付くと、自分の頬の脇を青く輝く剣身が通っていた。おそらくその切っ先が向けられているのは、背後にいる男の鼻先だろう。
 いつの間にか、目の前には一人の女性の姿があった。しかしその輪郭を認識するだけで精一杯なほど、彼女は気配という気配を持ち合わせていなかった。微かに聞こえる呼吸の音だけで認識出来る状態である。
「怪我人が何用だ。わざわざ死にに来たか?」
「部下の不祥事に始末をつけるのは私の役目ですので」
 じろりと冷たい視線がヒュ=レイカ越しに背後の男を射貫く。そのあまりに冷たく威圧的な視線は、直接注がれていなくとも思わず身震いするほどのものだった。
 流派『凍姫』戦闘指南役、ミシュアである。
「部下、か。まあいい。しかし、それならばもっと優先して始末すべき人間がいるだろう。反逆軍の片棒を担いでいる人間が」
「そうですね。知っていながら見過ごしたのは私の落ち度です。ですが、今の私では彼女に敵いませんので」
「俺が相手なら勝てる、だと?」
「ええ。あなたの力は常識の範疇を逸脱していますが、戦術は素人同然ですから」
 思わぬミシュアの言葉に、男は不適な笑みを浮かべた。
 空気が固く張り詰めるのをヒュ=レイカは肌で感じた。薄ら笑いを浮かべてはいるものの、ミシュアの言葉に男ははっきりと不快感を示している。
 ヒュ=レイカにとっても、ミシュアの言葉はあまりに意外だった。男の実力はあの浄禍八神格を凌駕していると言っても過言ではない。たとえ多少の挑発で冷静さを欠かせたとしても、それだけで実力の差を埋める事など出来るはずがないのだ。そんな事も分からぬほど、ミシュアは凡庸ではない。それが一体どういうつもりなのだろうか。ミシュアの行動がまるで理解出来ない。
「その言葉、ハッタリかどうか確かめてやろう」
 男はヒュ=レイカの体を邪魔だと言わんばかりに傍らへ投げ捨てると、吹雪の刃を振り上げてミシュアに襲いかかった。
 恐ろしいほどの高速移動術。暗闇を瞬くように疾駆する男の姿は、まるで黒い閃光のようだった。
 しかし。
「……むっ!?」
 男の動きが唐突に止まる。
 右腕に体現化した吹雪の刃は振り上げられたまま止まり、軽い前傾姿勢のまま体を硬直させている。まるで行く手を阻まれ、その場に急停止したかのような格好だ。
 目前にミシュアは立ちはだかっていた。ただ右腕を真っ直ぐ、無造作に前方へ突き出している。その右腕には氷の大剣が体現化されているのだが、大剣の切っ先は男の喉元を正確に捉えていた。男が辛うじて足を止めたから喉を突かれなかったのか、それともミシュアがあらかじめ足を止める事を見越して喉を突く寸前にあえて切っ先を向けたのか。そんな絶妙なタイミングだ。
「ふん」
 男は鼻で一笑し舌打ちすると、再び閃光のような歩法を繰り出した。今度は打って変わって曲線を描く軌道。ミシュアの背後を取り、死角から襲いかかるつもりなのだろう。
 あの人間離れした速さでは、幾らミシュアでも反応するだけで精一杯のはず。男の機動力は人間の反応速度の限界を超えているのだ。たとえ反応出来たとしても、体はその反射についていけない。ましてや目に見えて負傷しているミシュアには、まともに体を動かす事すらままならないはずだ。
 今度こそやられる。
 だが。
「……なに?」
 ミシュアの背後に移ると同時に、右腕を振り上げた男。しかしその喉元には再び、氷の大剣の切っ先が当てられていた。ミシュアは先程の位置から後ろ手に回して大剣を構えている。それは、普通に男の動作に反応してから行動するのでは絶対に間に合わない姿勢だ。つまりミシュアは、あらかじめそこに来ると予測して切っ先を向けたのである。
「機動力には及第点をあげましょう。ですが、高速移動の際に視界が狭まる事は考慮していないようですね。行動も極めて単純。だから私の剣を見る事が出来ないのです」
 くるりと男の方を向き、喉元を捉えていた大剣をあえて下ろした。あまりに露骨な手加減の仕草。確実に仕留められる機会を手に入れておきながらあえて放棄する。戦士にとってこれほど屈辱的な事はないだろう。
「ふざけるな!」
 男は轟と吠え掛かると、目の前に勢い良く右の手のひらを突き出した。男の手のひらは闇の中に青白く輝いて見える。
「まずい!」
 ヒュ=レイカは即座に立ち上がると、床に突っ伏すルテラを担ぎ横へ転げた。その一瞬後、目と鼻の先を巨大な手のひらの形をした激しい閃光が駆け抜ける。
「ふん、跡形も無く消え去ったか」
 閃光が通り過ぎ、男は舞い上がる埃の中に注意深く視線を注ぐ。しかしミシュアの姿は一向に見つけ出す事が出来なかった。
 今の術式で完全に消し飛ばした。その確信が男の不快感を急速的に和らげる。
 しかし。
「頭に血が上ると、すぐに大技を使用する。初心者の典型ですね」
 背後から首筋へ差し込む鋭い冷気。男は不覚にも背筋に震えを覚えてしまった。あの一瞬、ミシュアは男の背後に位置を移していたのである。
 真っ直ぐ伸ばした右腕の大剣は、その切っ先に男の喉元と同じ高さを後ろから正確に捉えている。だがまたしても、紙一重の所で切っ先は男の体に触れてはいない。



TO BE CONTINUED...