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 その晩。
 レジェイドはとある盛り場で馴染みの女達と共に酒を呑んでいた。
 繁華街では高級店の部類に入るその店で、レジェイドは来る都度大枚を叩いては何人もの女性を自分専用の特別広い席に侍らせていた。頭目になれば、その月額給金は北斗で働く一般人の平均年収とほぼ同等に当たる。それだけあれば生活は潤ってくるのかもしれないが、その分、頭目には自由な時間はほとんど与えられない。そういった抑圧された生活が反動となり、これまでの頭目達もレジェイドのように派手に遊ぶ人間は少なくは無かった。
 その晩のレジェイドは少しばかり気分を荒げていた。定時後が自由になる日はそう幾つもない。レジェイドは今夜をミシュアと会う為に使うと決めた。ミシュアは既に頭目職の代行は離れており、以前よりも時間を拘束される事は無い。前もって約束はしていないが、きっと大丈夫だろう。そう安易に考えて凍姫を訪れたのだが、ミシュアの返答は、今夜は都合が悪い、との事だった。
 元はと言えば、事前連絡も無しに訪れた自分が悪い。相手には相手の都合というものがある。それを理解できないほどレジェイドは子供ではない。しかし、ストレートな心情へそのまま直結する感情は納得いかなかった。
 今夜を逃せばしばらく時間は取れないというのに、どうして駄目なんだ。
 人の本音とは、年嵩や経験に関係なく、いつまでも理屈の通らない子供の駄々のままである。
 それを表に出すほど聞き分けが無い訳ではなく、レジェイドはその場こそ、仕方が無い、と笑って去ったが、やはりそれだけで抑圧された感情は納得させられない。フラストレーションを昇華する事は出来ないが、転化する事は出来る。それで、こうして盛り場に来たのである。
 ただひたすら、酒を呑んでは遊戯に興じてはしゃぎ、そしてまた酒を呑む事を繰り返す。
 人間は合理性のみに徹底して生きる事が出来ない生き物だ。複雑な精神構造をしているからこそ、肉体だけではなく精神の充足も必要となる。精神を満たすものは概して非合理的なものが多く、それらは一般的に娯楽、嗜好品というカテゴリに分別される。しかし、レジェイドの娯楽は大衆性からあまりにかけ離れ過ぎている。初めは今ほど大々的には興じていなかったのだが、ここまで加速させたのは規模と比例する収入の変移だ。人間、自由の幅が広ければ広いほど増長を起こしやすい、その典型例だ。
 レジェイドは酒に強く、どれだけ呑んでも限界を感じる事が滅多に無く、翌日に影響を及ぼす事はこれまでに片手で数えるほどしかなかった。しかもそれらは、やや体調を崩していた時に深酒をしたためである。また、呑みすぎる事で我を忘れる事も無かった。酔ったせいで多少テンションが高まり普段よりも落ち着きを失いはするものの、平静さだけは決して失わない。基本的にレジェイドの酒の呑み方は綺麗なのである。
 気がつくととうに丑三つ時を回っていた。しかし北斗は眠らない街である。ましてや繁華街となれば常に昼と考えても差し支えない。
 ここまで遅くなったら、寝るも寝ないも同じだ。ならば今夜は朝まで呑む事にするか。
 そうレジェイドは酔いの覚め掛けた頭で考えた。しかし、取り巻かせている女性達にはいい加減疲労の色が見え隠れし始めてきている。仕事柄、笑顔を忘れないよう努めてはいるものの、レジェイドの水を飲むような酒のペースとそれが深夜にまで及んでは、隠し切れぬほどの疲れが表面化してしまうのも致し方ない。
 さて、これ以上は悪いしそろそろ別な店で飲み直すとするか。
 テーブルには三分の一ほど残ったウィスキーボトルが残っていた。ほんのついさっき頼んだばかりのような気がするのだが、もうこれほどしか残っていないのか。意識はかなりはっきりしており、体の方もやや火照って汗がじんわり浮かんでいるぐらいだ。これだけ呑んでもまだ呑み足りないとは、我ながらあきれたものだ。そうレジェイドは自分自身に苦笑した。
「お作りしましょうか?」
 レジェイドがボトルに手を伸ばそうとすると、傍らの女性がレジェイドの仕草に気づいて素早くグラスを手に取る。疲れていても仕事を疎かにはする様子は見られない。
「ああ、自分でやるさ。そろそろみんなお疲れだろ? 俺もこれだけ空けたら終わりにするよ。まあ、一人で帰れないってんなら俺の部屋へ来てもいいぜ。まとめて面倒見てやるぞ」
 そう冗談を言いながら、レジェイドは自分でウィスキーを注いで口にする。女性陣はレジェイドの言葉に笑いつつも、尚も呑むのかと驚きを通り越して半分あきれ始めていた。レジェイドは性格的にも優しくて思慮深く、また客としても一晩でまとまった大金を置いていくため、二重の意味で気分の良い人間だ。しかし、プライベートにするのは無理だろう、とも考えていた。レジェイドは扱うにあまりに大き過ぎる印象があった。友人宜しく定期的に付き合う分には問題ないが、終始顔をあわせるのはおそらく無理だろう。レジェイドの印象は店の中だけではあったが、その場の誰もがそういった評論を交わしていた。
「いつもの事ですけど、よく飲みますね」
「俺の哺乳瓶の中身はスコッチだったからな。水とさして変わらないのさ」
 そんな冗談を言いつつ、あっという間に一杯目を飲み干してしまった。ダブルグラスで氷が一つだけで並々と注いだはずだが、今の冗談で哺乳瓶の中身は嘘でも、水とあまり変わらないというのはあながち嘘でもないようだ。
 と、その時。
 突然、店の入り口から荒々しく扉を開く音が聞こえてきた。続いてばたばたと足音が物静かな店内に響き渡る。すぐさま店員の慌てふためいた声が聞こえてきた。しかし騒音の主はお構い無しに店内を縦横無尽に駆け巡る。それはまるで、嵐でも店の中へ飛び込んできたかのようだ。
「もう、何かしら?」
「どこかの酔っ払いね、きっと」
 女性達は訝しげにその物音に囁き合う。この特別席は一般と離れているため比較的
「全く、仕方が無いな。どれ、ちょっくら追い出してきてやるとするかな」
 そうレジェイドが立ち上がると、女性達は一斉に拍手と黄色い声を放った。お決まりのお世辞とは分かっていても、レジェイドはあまり悪い気はしない。
 レジェイドが立ち上がった次の瞬間、その足音がレジェイド達の居る特別席へやってきた。
「いた! やっと見つけたぞバカレジェイド!」
 開口一番、レジェイドに向かって怒鳴りつけたのはシャルトだった。
 流派『夜叉』の真っ黒な制服を、前を大きく開けて着ている。その裾の内側に、テュリアスがしがみつくようにぶら下がっている。あまりに急いでいたため、着る物もとりあえず着たといった様子だ。
「お? なんだお前か。ったく、こんな時間に。子供は寝る時間だぞ」
「何言ってんだ! ふざけてる場合か!」
「分かったから、そう騒ぐなって」
 轟と怒鳴るシャルトを前にも、レジェイドはにやけた顔で馬鹿にするように上からシャルトの頭をぽんぽん叩く。大人と子供をそのまま抜き出した二人の構図に、周囲からくすくすと遠慮がちな笑い声が聞こえ始める。冷やかしや嘲りは、どういう理屈なのかどんなに小さな声でもはっきりと聞こえてくる。シャルトもご多分に漏れず、ただでさえ苛立っていた気持ちが逆撫でられ、奥歯を噛み締めていた顔が一気に真っ赤になった。
「あら、可愛い。その子が前に言ってた弟さん?」
「お兄さんに似なくて良かったわね。女を泣かせるのが得意なんだから」
「おいおい、随分な言い方だなあ」
 店内に騒がしく飛び込んできたシャルトのせいで、一時は不穏に張り詰めた空気が一気に和んでいく。それは、騒動の当事者がレジェイドの弟である事、レジェイドが弟を子供扱いにする滑稽さ、そして単純にシャルトから子犬のようなゲシュタルトを感じたからだ。
 レジェイドに続き、女性達がシャルトの観察を始める。北斗には実に様々な人種が集まるのだが、シャルトの持つ薄紅色の色素は取り分け目新しかった。その上、生まれ持つ中性的な顔立ちが殊更興味をそそらせる。レジェイドのように頭を撫でたり、造形物を観賞するかのようにまじまじと見つめたり、少なくとも人間として相対するそれではない。
 この空気を、当然の事ながらシャルトは良しとしなかった。加えてこういった扱いを受けては、ただでさえ焦燥で張り詰めていた理性は脆くも瓦解するのが道理である。
「いい加減にしろ!」
 突然声を荒げて叫んだシャルトは、感情に任せてテーブルを殴りつけた。何の技術もない、ただ叩きつけるだけの動作。しかしそのテーブルは、芯に鉄の入った頑丈なものであったにも関わらず、へたり込むように真ん中から真っ二つに折れ曲がった。
 瞬間、一気に場の空気が凍りついた。
 シャルトの細腕が、まるで豆腐を相手にしたかのようにテーブルを真っ二つに叩き折った。それをきっかけに、この年端もいかない少年が、この街を守る最強の戦闘集団『北斗』の人間である事を再認識させられたからだ。
「ふざけている場合か! 外の音が聞こえないのか!?」
 しんと静まり返った中にシャルトの怒鳴り声がびりびりと響く。その様子を入り口付近でシャルトを止めようとして失敗した男性店員が覗き込むが、北斗の制服を着ている以上、迂闊に割って入る事など出来やしない。
「聞こえないな。この店はな、何より雰囲気というものを大切にしているんだぞ。内装はもちろんの事、お前がぶっ壊したそのテーブルだって内装に合わせた特注品だ。更に雰囲気に合わせた音楽がよく通るように、壁は全て特殊な防音加工が施されている」
「だったら外に出ろ! 今すぐに!」
 シャルトはレジェイドの腕をがしっと掴むと、そのまま強引に店の外に向かって引き摺り始めた。
「ったく、しょうがねえな。んじゃな、騒いで悪かった。払いはそれの修理費も含みでいつもの所によろしくな」
 レジェイドは一同の唖然とした表情に別れを告げると、出入り口へ引き摺るシャルトの腕を振り解き、自分で歩くとシャルトの横に並んだ。
「一体なんだってんだよ、こんな所まで押しかけやがって。さすがの温厚なお兄さんも怒っちゃうぞ」
「それはこっちのセリフだ。こんな時に、一体何考えてんだ」
 シャルトの表情はいつになく凄みを増した真剣な表情だった。それを見たレジェイドは、いつもの子供じみた理屈でこんな騒ぎを起こしたのではない事に気がつき、今呑んだばかりのウィスキーで霞がかった頭に気合を入れてはっきりさせ、弛み切った思考を急事用に切り替える。
「緊急警報だ。今、北斗中が大騒ぎしている」
 二人が店を飛び出した直後、その音は暴力的な勢いで耳の中へ飛び込んで来た。
 音の主は、北斗の中央にある大時計台からだった。正方形の高塔は、その頂上付近の各面に巨大な時計を取り付けている。それは北斗の市街区ならばどこでも時刻を確認できるほど巨大なものだ。しかし、今の時計台は時計の円盤が上向きに開いていて、丁度四つの丸い穴がぽっかりと開いている。その穴の中を目を凝らして見つめると、中には巨大な釣鐘の姿が見えた。鐘は大きく左右に揺れている。音の主はこの鐘だ。
「おいおい……ありゃ、厳戒態勢の合図じゃねえか。何が起こったってんだよ」
 そうレジェイドが訊ねる。だが、その問いにシャルトが答えるより早く、二人の前に一瞬で数名の影が現れ立ち塞がった。
「こういう事だ」
 シャルトは腰に手を伸ばして吊っていたミスリル入りのナックルを素早くはめると、そのまま戦闘態勢を取った。レジェイドもほぼ同時に、立ち塞がる影達の自分に向けられた殺気に気がついて構えを取る。
 北斗には守星という優れた防衛組織があるというのに、何故こんな物騒な連中が中心までやって来ているのか。
 初めレジェイドはそう考えたが、すぐにその理由に気がついた。影達が着ているのは、流派『凍姫』の制服だったのだ。けれども影達が取った構えは、全て違う流派のものだった。凍姫の制服は明らかに釣りである事が見て取れる。その出所や理由までは分からないが、こちらに本物の殺気を向けているという事だけで戦う理由としては十分だ。
「なるほどな……。こういう事か」
 ぎりっ、とレジェイドは奥歯を悔しげに噛んだ。それは苛立ちを押さえ込んでいるようにも見えた。シャルトとは違った意味で、真剣な表情が凄みを増していく。
「一分だ」
 こくりと一度シャルトが肯くなり、二人は同時に飛び出した。



TO BE CONTINUED...