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 本当は、もうこの時に何か分かってたんでしょ?
 よく、自分の死期を悟った猫は姿を消すっていうけど……

 やめよう。
 そうじゃなくても、彼は優しくて私を愛してくれていたから。
 きっと、私の事を心配させまいと気づかっていたんだと思う。
 だから。
 だから。
 だから……。

 馬鹿。




 ある日の夕刻。
 その日、ルテラは雪乱の頭目であるリルフェと共に買い物に出かけ、酷く疲れて部屋に帰ってきた。輝くような表情もすっかり色褪せてしまっている。
 その日は休日、リルフェは朝早く定例会議のあった総括部から戻ってくると、自分の部屋には帰らずに直接ルテラの元へやってきた。未だ薄暗いその時間、ルテラは眠りが浅くなってうとうとと気だるい心地良さを味わっていた。スファイルは前日から夜通しの遊回に出ていたため、ベッドの傍らには空の枕があった。よってリルフェの常識を外れた時間帯の訪問を受けたのはルテラ一人だった。
 その後、ルテラはリルフェに連れられ、まずは北斗の大時計台で朝日を見る事から始まる行楽ツアーに強制参加させられた。リルフェは頭目職であるため自由な時間が極端に少ない事をルテラは知っていたため、リルフェに『遊ぼう』と言われてしまうと断れなくなるというのが本音でもあった。
 ルテラがリルフェとこうして遊ぶ事はそれほど珍しくはなかったため、こういった強引極まりないリルフェのやり方にも今更驚いたりはしなかった。しかし本当ならば、遅くまで会議を行いそれからほとんど寝ずに帰ってきた状態であるリルフェの方が、体力的な余裕はないはずなのだが。先に音を上げたのはルテラの方だった。このまま徹夜で飲み明かしかねない勢いのリルフェを、ルテラはスファイルが帰ってくる事を理由にして何とか開放してもらった。雪乱時代から気づいていたが、リルフェが疲れている姿を見た事が一度もなかった。常日頃から笑顔を絶やさずくるくると表情を変えるリルフェ。疲れている暇もないほど、底なしとも思えるエネルギーを自分よりもやや小柄なその体に秘めているのだ。やはり頭目をリルフェと代わって良かった、とルテラは思った。きっと自分だったら、ハードな頭目職はそう長く続きはしなかっただろうから。
 日が傾き始めた頃、方々の体でようやく部屋に辿り着いたルテラだったが。夕飯の仕度をしようと寝室で服を着替えた所で不意に衝動的にベッドへ倒れ、そのまま眠り込んでしまった。炎に水を被せたように、あっという間に意識を喪失した。まるで笑い話のような早業だ、と眠りにつく寸前、ルテラはそう自分に言葉を投げかけた。
 夢も見ないほどの深い眠りにつくルテラ。ルテラはただ心地良さだけに包まれ、一時の休眠を楽しんでいた。
 と。
 意識が喪失し、再び暗闇の層へ引き上げられた頃。ルテラは自分の傍に人の気配を感じ、反射的にハッと起き上がった。
「おはよう」
 そんなルテラの前にいたのは、スファイルの笑顔だった。
 いつの間に帰ってきたのだろうか、スファイルはベッドの脇に腰掛けて雑誌に目を通していた。どこにでも売っている情報誌だった。スファイルには元々世間情勢をチェックする習慣はなかったが、守星になってからは職務遂行のためにもある程度は世間の動きにも通じてなければならず、そういった紙媒体から情報を集めるようになった。しかし、これまでやっていなかった事を急にやり初めても出来る訳がなく、大抵はルテラに聞きながら読む事がほとんどだった。
「あ、やだ! 私、寝過ごしちゃった。まだご飯の準備してなかったわ」
「いいよ。さっき買ってきたから。それを食べよう」
 慌てて起き上がったルテラにスファイルはにっこりと微笑むと、手にしていた雑誌を放り捨ててそっと腕を伸ばしてきた。そのままスファイルはルテラの背中にぴったりとくっつくと、緩やかに撫でるように前へ手を伸ばして抱き締める。そして後ろからルテラの首筋に唇を軽く触れるか触れないかのタッチで這わせ始めた。そんなスファイルに、ルテラはくすぐったそうに軽く身をよじり微笑しながら体重を任す。
 二人がそんな子猫同士のじゃれ合いのような事をするのはいつもの事だった。ただ肌を擦り合わせるだけのさもない遊びだが、二人にとっては掛け替えのない時間の共有でありコミニュケーション手段であった。相手の存在というものを体温を通して確認する。緩やかな時間の流れと共に、二人はここに相手がいるという幸せを噛み締める。
 と。
「ねえ、ルテラ。ちょっと目をつぶってくれる?」
 スファイルは顎先でルテラの首筋を撫でながら、そう小さな声で耳元に囁いた。
「あら? どうして?」
「いいからさ」
 ルテラが問い返すと、まるで質問は許さないと言わんばかりにスファイルが唇をやや強く這わせてきた。そのくすぐったさに、ルテラは少し声を上げながら笑い身をよじる。
 一体急に何だというのだろうか。
 スファイルは時々こういう事を冗談めかせてやる。どうせさもない事なのだろうけど、ルテラはスファイルに従って目をつぶった。その途端、ルテラの左手が後ろからスファイルに取られた。スファイルは何をするつもりなのだろうか。ルテラは目をつぶった薄闇の中、わくわくした気持ちで体中の神経に集中する。
 スファイルが左手首を持ったまま、何やら後ろでごそごそと体を揺らしている。そして何かを取り出したような衣擦れの音が聞こえると、取られた左手に何やらひやりと冷たいものが当てられた。感触からしてそれは金属のようだ。スファイルの指はその金属をくるりとルテラの手首に回してカチリと繋いだ。
「もういいよ」
 その声と同時にルテラは目を開け、先ほどとは違う感触の自分の左手を見た。
「これ……」
 ルテラは思わずまじまじと見つめた。そこには銀で丁寧に作られたブレスレットがあったからだ。素人目で見ても、そう気安く買えるような値段のものではない。
「ん? 誕生日プレゼント」
 突然高価なものを渡されて驚くルテラに、スファイルはそう何の気なしに平然とした様子で答えた。
「誕生日って、私はまだ先よ?」
「これは一歳の誕生日のプレゼント」
 スファイルはくすくすと笑いながら、再びルテラの首筋や髪に唇を這わせ始める。
「一歳って……。じゃああと十九回、プレゼントしてくれるのかしら?」
「もちろん。明日すぐに、って訳にはいかないけどね」
 軽く肩をすくめて笑うスファイル。それにつられるようにルテラも笑った。
 ルテラは左手に輝く銀のブレスレットに指を這わせ、その滑らかで冷たい感触を何度も何度確かめる。何もこんなに高価なものでなくとも良かったのだけど。けど、それだけ自分の事を大切にしてくれるという意味なのだろう。たった数百グラムのブレスレットが、とてもとても重く感じた。そしてそれが自分に対するスファイルの気持ちだと思うと、胸が締め付けられるような感激が込み上げて来た。
 ルテラはスファイルに深く体を預けてもたれかかる。上からスファイルは微笑みながらルテラを覗き込んできた。そしてそのままゆっくり唇を重ねた。スファイルの唇は少し荒れている。ふとルテラは合わせた唇の感触の違和感に気づいた。もしかすると疲れが溜まっているのかもしれない。でもスファイルは幾ら疲れていてもそうとは言わない人だから、自分が無理にでも休ませてあげなければいけない。
 やがて。
「ねえ、一つ訊いてもいい?」
 名残惜しくも唇を離したルテラは、そうスファイルに切り出す。なんだい、とスファイルは額に何度か口付けながら微笑んだ。
「あの時、どうして私に声をかけたの?」
 それは、もう何ヶ月も前に遡る、二人が初めて顔を合わせた時の事だ。大時計台の近くにあるカフェで、ルテラは一人ボーッと時間を潰していた。まだ、自分が何のために生きるのか、意味を見出せなかった頃。そんなルテラに、スファイルは反射的に浮かんだ言葉で話し掛けた。
 あの頃の自分は御世辞にも見れたものではなかった。ルテラにとって、荒んでいたあの時期の自分は思い出したくもない恥ずかしい時期だ。にも関わらず声をかけてきたスファイル。その心境がルテラはふと知りたくなったのだ。
「なんか寂しそうだったから、つい。僕は寂しそうな人に声をかけるクセがあるんだ」
 それで、とルテラが優しい眼差しで問い返す。するとスファイルは、少しだけバツの悪そうな笑みを浮かべた。
「本音もちょっぴり言うと、単に話すきっかけを作りたかったんだ」
 そう言ったきり、スファイルは照れ臭そうな表情をしたまま口を閉ざし、それ以上の事を話そうとはしなかった。はっきりと言葉で語らなくとも、ルテラにはそれだけでも満足だった。他意がなく、正直な気持ちだけで話し掛けてくれたその事実が嬉しかった。回想だから多少の贔屓目や美化はあるかもしれないけれど、今の二人の気持ちがあればそれで良かった。
 ルテラは幸せだった。
 今、この瞬間がずっと続けば。そんな陳腐な例えをする事自体に躊躇いも臆面もなかった。
 今の自分の気持ちを完全に表現する言葉がなかった。ありきたりな、消耗されていく言葉の数々を幾つ並べても、塩味の足りない料理を食べたような物足りなさに落胆した。ただ漠然と、はっきりとした幸福の存在感を感じ。焚き火に凍えた手をかざすように気持ちを温める。その繰り返しが、ルテラの幸せだった。
 そして。
 その幸せを象徴するかのように、左手のブレスレットは照明を受けて白く輝いていた。



TO BE CONTINUED...