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 その瞬間は、嵐の中を駆けて自ら落雷に打たれる、必然を望んだ故のそれに似ていた。
 しかし。
 訪れるべき、未体験のその時は一向に訪れる気配を見せなかった。
「……ん?」
 思わず漏れる、溜息にも似たあっけない声。
 幾らなんでも刃が首を落とすのにこんなにも時間がかかるはずが無い。人は極度に集中すると思考が加速して体感速度が遅く感じられるが、そういったレベルではない。薙ぎ払われた剣が首を落とすのと呼吸を三度するのとで、どちらが速いかはどこでも世界共通の結果しか導き出されない。
 打ち落とした。否、打ち落とされた。
 そう思っていたはずの自分の首は、あろう事か繋がっていたままだった。あのタイミング、間合い、速度、鋭さ。どれを取っても、回避動作を行わなかった自分に防ぐ手段はあり得るはずがない。だからこそ、素首を確かに打ち落とされたと思っていた。しかし、現に自分はこうして息をし、物事を考えられる。
 意識の方向をずらす。
 首筋のすぐ横。そこにぴったりと張り付くように、ミシュアの体現化する吹雪の刃が唸るような低い音を立てている。たとえ鋼鉄の板といえど容易に切り裂く、刃の鋭利さではない精霊術法独特の破壊力がひしひしと肌に伝わって来る。それが肌に触れそうな距離でいつまでも停滞しているのはとても気分の良いものではなかった。
 どうしてミシュアは剣を止めたのか。
 しかし、それはレジェイドも同様だった。
「何故、止めるのです?」
 そう指摘を受け、改めてレジェイドは自分の剣の先を確かめる。
 ミシュアに狙いを定めて放たれたはずの剣は、ミシュアの額に触れる寸前の所で止まっている。髪の細束ぐらいは斬り落としたかもしれない。だが一滴たりとも血は流れてはいない。
 そう、レジェイドは自分がミシュアに首を落とされると思った瞬間、剣を止めてしまったのだ。
 理由は単刀直入には説明出来なかった。幾つもの感情や主張が複雑に絡み合って一つに収束されたもの。理由といえばこれが理由だ。
 自分は人よりも饒舌な方であると思っていた。誰にでも調子良く無意味な言葉を並べるだけの饒舌さではなく、豊富な知識と表現するだけのボキャブラリーが揃ってこその饒舌だ。しかし、今の自分の心境をうまく説明出来る言葉が見つからなかった。自負はその程度のものだったのか。それとも、元からこの複雑な感情を表現する言葉など存在しなかったのか。ただ、舌ではなく思考そのものが凍り付いて言葉を放つ事が出来ない。
「何となく気が引けた。やっぱり、俺にお前は斬れねえ」
 込み上げてくる苦笑いは自嘲めいていた。戦場では如何なる者でも北斗に歯向かうのであれば等しく敵だ。そう公言していた自分が、あろう事か身内の人間と戦ってしまったばかりに、この局面で敵として見据え続ける事が出来なかった。
 それは、自分の北斗としての使命感が感情を抑圧し切る事が出来なかった、いわば精神的な弱さの露呈である。
 自分は強い。自分は揺るがない。どこかそんな驕りがあったのだろう。自分の真の評価をこうまざまざと見せ付けられる事に落胆しないはずはなかった。自らの死角がまさかこんな単純なものだったなんて。怪我のせいもあるのか、らしからぬ気落ちが込み上げてくる。
「お前は何故だ?」
 斬れなかった。
 それ以上の返答がレジェイドには出来なかった。だからこれ以上言葉を求められると苦しいので、転嫁するかのように続けてレジェイドはミシュアに同じ質問を投げ返す。するとミシュアは躊躇いの間も無く、何でもないかのような普段と同じ口調で答えた。
「私は戦士である以上に、一人の女だったようです」
 驚くほど緩んだ声がミシュアから放たれる。それは戦場よりもむしろプライベートな時間のそれに相応しい。今にも笑みさえこぼれてきそうである。
 憮然とした表情の中に一体如何なる感情が揺らいでいるのか、自分が平静であるだけで精一杯のレジェイドには、少なくともミシュアには自分と同じ程度の動揺があると確信した。ミシュアは動揺すればするほど、口調が心中と正反対になるからだ。
 結局、どちらも一戦士に徹する事が出来なかった訳か。
 気が抜けてしまったせいだろうか、急に体に力が入らなくなり、レジェイドは思わず大剣を引いて石畳に突き立て体を支えた。体の中は熱いのに、外は酷く冷たく冷え切っていた。呼吸がうまくまとまらず、全身が、特に胸の辺りが強く痛む。肋骨が折れているせいだ。頭を強く打ち、血を流しすぎたせいもある。
 ほぼ同時にミシュアの吹雪の剣が音も無く姿を消してしまった。それは自ら体現化を解除したのではなく、体現化を持続できなくなったための解除だった。ミシュアもまた多量の失血で著しく疲労困憊している。
 たとえ一貫して敵と認識し続ける事が出来たとしても、これ以上戦い続けるのはあまりに困難だ。むしろここからが本当の勝負であると考える事は出来なくも無い。けれど、それには並々ならぬ精神力が必要だ。少なくとも、背中を突付かれている事を戦いの理由にしているのでは最後まで続く事はない。つまり、和解にも似たこの決着はミシュアにとってこそ命拾いだったのだ。
 潮が引いていくように、互いの闘志が冷え切っていくのを感じた。
 心身共に、これ以上の戦いは無理だ。だが、そんな私的な理由で戦いを中止できるほど平和的な状況ではない。レジェイドは一流派の頭目、ミシュアは自ら進み出てこの戦いを受け持った。双方、勝敗を決する以外にこの場を後にする事は許されない立場だ。
 自らの意思を伴わない戦いに何の意味があるのか。
 剣を苦痛と思わない事は無かったが、苦痛の先には達成感等の充実感があった。自己満足だけで帰結することもあったが、それはそれで良かった。何かを成す事そのものに主観的な意味さえ見出せれば、如何なる苦痛も報われる気がするのだ。しかし、この戦いに何の意味があるのだろうか。身内の人間を一人殺して得られるのは、北斗の反逆者の中のたった一人を消しただけにしか過ぎない戦果だ。しかも反逆軍を退ける決定的な要素には程遠いのだ。それでも自分は北斗側の人間として、戦う事を強制される。意思の伴わない戦いは強制だ。これ以上の戦いは単なる組織に突き動かされた強制でしかないのだ。
 柄を強く握り締めようと力を込める。けれど、意思がこれ以上無いほど剣を奮う事を拒絶する。
 これほど剣を持ちたくないと思ったのは、父親に痛めつけられていた幼少の時以来だった。ただ今は子供のように戦う事を拒否し、出来るならばこの場から逃げ出したい。そんな駄々にしてはやけに強固な意志が頭の中を反復する。
 古い、近しい知人も内輪揉めに巻き込まれる事を嫌って良く行方を眩ませていた。自分は軟弱と評したが、今なら彼の気持ちが理解出来ると思う。なるほど、確かに見知った人間と殺し合う事はこんなにも気分が悪い。一重二重にも圧し掛かる苦渋の選択を全て誰かに押し付けて、自分はほとぼりが冷めるまでどこかに身を隠したくもなる。
 そうか、あの野郎。わざとか……。
 ふと、レジェイドの脳裏に一人の人物と推測が同時に浮かび上がり、苦み走った表情を浮べた。
 何故、凍姫を初めとする幾つかの流派を洗脳して支配下に置いたにも関わらず、ミシュアには何の手も加えなかったのか。理由は二つ考えられる。
 ミシュアは組織単位での視点を持っているため、たとえ洗脳しなくとも管理者としての責任感から身勝手な行動が取れず組織の命令通りに動くため、洗脳の必要は無い事。
 そしてもう一つは、俺と対決させた時、こうやって俺自身に剣を持たせなくするためだ。もしも洗脳していたならば、俺は間違いなく割り切った考え方をしてミシュアを斬っていただろう。しかし、あくまで自分の意思で対峙させれば躊躇いが生じると読んだはずだ。事実、その通りになってしまった。悔しいが、ヤツの方が戦略は一枚も二枚も上手だ。
 心と体が連動しなくては、戦う所か歩く事すら出来なかった。
 自分の次の行動、指標が見えなくてただただ体を休めているかのように直立したまま、数度の呼吸を置く。
 一体どうすればいいのか。
 正直、戦場でここまで混乱した事は一度も無い。初陣の時ですら、命令を間違って解釈し突き進みはしたものの、まるで動けなくなってしまったりはしなかったのだ。
 時間が経てば経つほど苦悩は大きく膨れ上がり、正常な思考力は瞬く間に吹き飛んでしまった。
 どうする。
 どうする。
 どうする。
 己の中の冷静な自分が、今まさに行動をしようという自分を威圧的に迫ってくる。けれどレジェイドは、ただじっと黙ってその声に答える言葉を捜すしかなかった。
「そこまでだ」
 突然、凛と一つの声が響き渡った。
 いつの間にか二人だけの戦場だったはずの、北斗側と反北斗側が半々に囲むフィールドの中に、一人の女性の姿が現れていた。
 腰まである長い黒髪、レジェイドよりも僅かに下回るほどの長身、そして針のように鋭い視線が二つ、機能的にこちらを射抜いてくる。
 流派『凍姫』の中核を成す実力者の一人、リーシェイだ。
 そしてレジェイドの視線はリーシェイの背負うそれに止まった。
 肩を視点に折れ曲がった形で担がれているため、ここからは上半身の背中側しか見る事が出来なかった。しかし、上着こそ着ていないものの、その色の白くきめの細かい肌、多数の人種が住む北斗ですら二人といない薄紅色の髪、歳の割にやや小柄な体格、間違いなく担がれているのは自分の弟、シャルトだ。
 まさか……負けたのか?
 レジェイドは驚きを隠せなかった。少なくとも、自分の見立てではシャルトの実力ならばリーシェイであろうとも容易ではないが倒せるはずなのに。
 だがそのリーシェイの後ろに、もう一人、レジェイドの知る人物の姿があった。
 リュネスだった。シャルトよりも更に小柄な体を小さくし小刻みに震えている。唇は色を落とし、すっかり血の気を失っている。うつむいた顔から表情まではよく見て取れないが、何か恐ろしい事があったのはよく伝わってくる。
 リーシェイの左腕は真っ赤に染まっている。どうやら酷く怪我をしているようだ。シャルトにやられたのだろう。だが、その割にシャルトはほとんど怪我らしい怪我が見当たらず汚れもない。怪我の具合だけを見れば、どう考えても勝ったのはシャルトだ。にも関わらずこうしてリーシェイに担がれているという事は。
 なるほど……汚い真似をしやがる。
 間違いない。リーシェイはシャルトの実力を過小評価し、手痛いダメージを負った。それでようやく勝てない事に気がつき、リュネスを利用してどうにか勝ちを収めた。つまり人質を取ったのだ。
 確かに単純な戦闘だったらシャルトが間違いなく勝つ。だが、シャルトは心理的な駆け引きにはまだまだ弱い。精神が歳も若い事もあって未成熟なのだ。リュネスが人質に取られて集中力をあっけなく切らせてしまったのだろう。
 そして、今度は自分がシャルトと同じ立場となった訳か。
 リーシェイの鋭い視線は、いつでも自分はシャルトを殺せる事を示している。こちらが不穏な動きをすれば直ちに実行に移すだろう。
 馬鹿な。一流派を担う頭目が、たった一人の隊員ために投降するはずがない。
 普通、誰もがそう思うだろう。
 しかし、レジェイドは出来なかった。シャルトは、元はと言えば自分の気まぐれで北斗に連れてきた人間だ。放っておけばいずれ薬に漬かって死んでいただろうそれを生かしたのは自分なのだ。気まぐれで生かし、気まぐれで殺すような真似は人として出来ない。それに、シャルトは自分にとって実の弟も同様だ。たった今、自分が身内の人間を死なせることが出来ない事を身を持って知ったばかりだ、当然レジェイドには初めからシャルトを見捨てる選択肢など存在し得なかった。
「リルフェ、動けるか?」
 こわばった半笑いの表情で、そこから背中側に離れた所で休むリルフェにそう問いかける。
 声は酷く震えていた。自分でも意外だったが、苦渋に続く苦渋を味わわされたせいで精神的にも酷く参っているようだ。
 はい、とリルフェは淡々とした口調で答える。それは単に余裕が無いからであり、未だ自分から立ち上がろうとする素振りは見せなかった。
「悪ィ、動ける奴みんな連れて逃げてくれ」
 その言葉を合図に、一同の取った行動は実に迅速だった。
 ラクシェルを初めとする凍姫の一同は逃走を阻止するため素早く飛び出した。
 リーシェイも俄かに殺気立つも、既に自分の提示した選択肢は何の意味も持たない事を知り、負傷の度合いも考えて下手な動きは控える。
 そして、その場の誰よりも早く立ち上がり最初に行動したのはリルフェだった。
「『深く深く、白銀の中へ』」
 韻を踏むと同時に術式を体現化する。すると急に、周囲には白い濃霧が漂い始めた。しかも若干ねっとりと湿った質量と大河のような流れを持っており、飛び出した凍姫の面々は視界を失い、向かってくる流れに方向感覚を狂わされる。自分がどこにいるのか把握する事が出来なくなってしまった。
「闇雲に動くな! 相手の思う壺だ!」
 飛び交う指示。俄に騒ぎだした戦場は僅かな混乱と共に闘争を遠ざける。あっと言う間にその場にいた気配は二つに分かれ、その半分はこの場を後にして消えてしまった。
 激動の数分間。
 忙しなく流れるその時間を、レジェイドとミシュアはただ呆然と、魂が抜けてしまったように佇んでいた。
 既に互いの姿は深い霧に包まれて見る事が出来なかった。



TO BE CONTINUED...