BACK
体を半身に構え、どっしりと重心を地面に落ち着ける。踵は浮かせず、足先に力を込める。肩は下げて下腹を膨らます事を意識する。呼吸は深く大きく。視線は相手の姿全体に、しかし目と腰に注意を注ぐ。
落ち着くこと。それが何よりも大事だ。
呼吸は決して止めず、酸素を多く取り込む。酸素が不足すれば集中力が鈍り、視力も落ちる。精神的な疲労感も感じやすくなり、その分イメージも雑になる。それは真剣勝負にとってあまりに大き過ぎるリスクだ。
対し、目の前のファルティアは右袖の無いインナー姿のまま二周りも膨張した青い右腕をだらりとぶら下げた、自然体と呼ぶにはあまりに無防備な構えを取っている。それは初め、自分を軽視しているからと思っていたが、射る様な視線は本物の殺気を纏い自分と同様注意深く自分の動向を窺っている。その殺気はまさに冷気そのものだった。ただ晒されているだけでも骨まで凍えそうなほどである。
リュネスの構えは凍姫のものではなく、シャルトに教えられた夜叉式のものだった。ただし、実際に正規の訓練で教えられたものではなく、ただ何気ない会話の中で交わされただけのものを思い出し、それに忠実に従っただけにしか過ぎない。
半身に構えるのは、相手に晒す体の面積を減らすため。
踵を浮かせないのは、整地されていない場所でもバランスを崩さないため。
下腹を膨らますのは、一度の呼吸で沢山の酸素を取り込むため。
全ての動作には意味がある。しかしリュネスは知識として知っているだけで、それらが実戦においてどう作用するのか知らなかった。つまり付け焼刃である。
実戦経験は乏しく身体能力も遥かに劣る。ならば勝つには、術式の勝負において他無い。少なくともチャネルの大きさでは上回っているのだ。
だから何よりも冷静にならなければいけない。いや、むしろ必要なのは冷徹さだ。恩人であるはず人と本気で事を構えることに疑問を持たないほどの。
ゆっくり大きく息を吸い込み、脳裏に描いたイメージとそれを混ぜ合わせながら静かに吐く。描いたイメージは、自分をすっぽりと覆う多面体の障壁。
「どこかで見た事のある技ね。自分なりのアレンジが加えられてるようだけど」
ファルティアは身じろぎ一つする事無く、ただ憮然とした表情を浮かべている。
唐突にファルティアの右手が閃いた。その厳しい風貌とは裏腹に驚くほどの速さで繰り出された拳撃。その拳型の術式がリュネスに向かって空を駆ける。
来たッ!
リュネスは努めて冷静に、周囲に張り巡らせた障壁と意識を連動させる。体現化された薄氷のような多面体は、まるでガラス細工のような頼りない姿をしていた。しかし、向かってくる術式と衝突する位置の障壁へ意識を向けた瞬間、その面だけが急激に濁り硬質化する。衝突した術式はあっさりと粉々に砕け散った。
「このぐらいじゃ歯が立たない、か」
ファルティアはゆっくりと構えを取る。
右肩を後ろへ退いた半身の構え。右腕は屈曲させ、逆に左腕は肘を緩めて柔軟に前方へ伸ばす。弓を引き絞る構えに良く似ていた。相手に向かって一気に飛び込むスタイルを得意とするファルティアらしい構えである。
「単純な術式の強さなら、チャネルの分もあるしそっちの方が上でしょう。でも、暴走してる割に落ち着いてる分勢いが無いみたいね。となると、術式に関してはほぼ五分」
そうファルティアに言われ、リュネスは改めて自分の状態を見直した。
自分は確かに暴走している。何もしなくとも体中から力が溢れ、凍姫式の術式として薄青い光を放っている。どれだけ巨大な術式をイメージしようとも容易に体現化が出来る。けれど、快楽にも似たあの異様な高揚感はまるで感じられない。術式を行使する時は精神的な疲労感さえ覚える。
こんな状態は初めてであった。正気の暴走。自分でも何故こうなったのか理屈も説明付けも出来ない。しかし、現にこうして力に溢れている。何らかの感情がきっかけだったのか。なんにせよ、こうして自分の力が限界近くまで引き出されている事は幸運に思うべきだ。そのおかげで、自分は大き過ぎる実力差を現実的なレベルにまで埋める事が出来たのだから。
「でも、勝つのは私」
「私も……私は、負ける訳にはいきません!」
そして。
どちらからともなく、二人はほぼ同時に足を踏み出す。
ファルティアは鞭のように体をしならせ、猫のような跳躍力で真っ直ぐ体を前方へ撃ち出す。逆にリュネスは、地面を蹴るだけで得た初速度を足の裏から放出する加圧された凍気の噴射で滑走する。
ファルティアは引き絞った右腕を繰り出す。それに対し、リュネスは腕を十字に重ね展開したパネル数面に意識を集中させる。
がんっ、と激しい音を立てて真っ向からぶつかり合う二人。ファルティアの右腕は硬質化した障壁を打つ。繰り出した衝撃はリュネスに届くよりも先に展開したパネルに阻まれる。だが、更にファルティアは強引に打ち破ろうと体を前へ押し出す。結果、自然と伸ばした右腕は再び引き絞った体勢になる。そしてそのまま上半身の力だけで右腕を繰り出した。
「くっ!」
力で押し負けたリュネスは大きく後方へ弾き飛ばされた。辛うじて障壁に守られた腕は痺れる程度で済むものの、全身の骨を打ち鳴らしたような衝撃に脳が揺さ振られる。
後ろ足を大きく後ろへ伸ばし、後ろへ傾いた姿勢を着地と同時に前傾へ修正。前足を爪先立て前のめりの体を支える。
同時にファルティアが再び体を打ち出して追撃をしかける。軽く上へ跳躍し、落下の勢いを加えて右腕を打ち下ろす。水平の拳撃ですら弾かれている以上、上方からの衝撃に耐えられるはずがない。ここは回避するのが最善の選択肢だ。リュネスは両手の手のひらを地面に押し付け、脳裏に描いたイメージを体現化する。描いたイメージは、破裂。
手のひらと地面の間の僅かな空間が爆発的に広がる。その衝撃を利用し、リュネスは更に自分の体を後方へ跳ばす。同時に両腕を耳の脇を通して振りかぶり、それぞれの手に描いたイメージを体現化する。描いたイメージは、細く研ぎ澄まされた長い氷の針。
ファルティアの右腕が地面を打ちつけ、地鳴りのような音と共に粉塵を巻き上げる。その瞬間、リュネスは振りかぶった両腕を真っ直ぐ耳の横を通し振り抜いた。運動エネルギーを与えられた六本の氷の針は一直線に粉塵の中に目掛けて突き進んでいく。かつん、と鋭い音が三度断続的に響く、直後、ファルティアは粉塵の中から飛び出し間合いを取った。
「やるわね。本家並じゃん」
ファルティアはゆらりと右腕を示して見せる。その腕にはリュネスが投じた氷の針が三本、突き刺さっていた。ファルティアはそれを一本一本左手で抜き去る。ファルティアの右腕は本物の腕ではなく術式によって作り出された義腕である。そのため生物的な痛覚は持たず、また術式の続く限り幾らでも再生させる事が出来るのである。
「でも、狙いは下手ね」
「狙ったのは初めから右腕です」
「生意気」
再び二人は前進する。
今度のファルティアの攻撃は右腕を大きく振り抜くのではなく、右腕を一つのアクセントとした左腕や両足を駆使したタクティカルなものだった。対しリュネスは多面的に展開した障壁を駆使し辛うじて直撃だけは避けるといった防戦を強いられていた。通常、接近戦では術式よりも身体能力の方が比重が大きくなる。その点、ファルティアには接近戦に特化した術式と身体能力、そして精霊術法を習得した際の副作用で手に入れた反射神経があったため、まさに得手分野だった。しかしリュネスには白兵戦での差し合いに耐えうるだけの身体能力はなく、また術式は自らの特性に見合ったものを特別習得している訳でもない。性格的な質も踏まえれば、最も苦手とする分野だ。そのため、このようにリュネスが防戦を一方的に強いられてしまうのも当然の事と言えた。
繰り出される攻防は苛烈さを増し、更に勢いを加速していく。
リュネスはファルティアが繰り出す攻撃を全て見切る事は出来ず、捌きながら時折障壁で防ぐだけで精一杯だった。その上、一撃一撃が信じられないほど重い。障壁により緩衝していながらも、防ぐ腕はびりびりと骨まで痺れる。抉るような角度で放たれる左拳、薙ぎ倒すように弧を描く右足、そして少しでも気を抜いた瞬間繰り出される大砲のような右腕。特に右腕から放たれる一撃は、たとえ障壁で防いだとしても体が数歩後ろへ引っ張られるほどだった。障壁がほとんど緩衝の役割を果たしていないのである。
今の障壁は全く接近戦には向いていない。もっと別な形体を考えなければ。
いや、その前に反撃を。
自分に余裕を持たせるための、相手を牽制するための、反撃を。
接近戦でファルティアと対等に立ち回るにはどんな術式を使えばいいのか。
リュネスはイメージを描き、それをぎゅっと握り締めた両拳に纏わせる。
描いたイメージは、凍気。
「ッ!?」
動きを止めたリュネスに向かって引き絞った右腕を繰り出すファルティア。しかし、突然リュネスが周囲に展開していた障壁を解除する。同時にファルティアの右腕の軌道に対し自らの体を沈めた。右腕がリュネスの肩口を擦り制服を破る。だが掠った程度ではリュネスの動きを止めるには至らない。
そのままリュネスは両腕を折り畳むように胸の前で構え、沈み込んだまま前傾姿勢で前へと踏み出す。そして左腕を軽く後ろへ振りかぶり、鋭く放った。凍気を纏わせたリュネスの左拳は、右腕の反動に動きを捉えられがら空きとなったファルティアの脇腹へ吸い込まれる。
どんっ、と樽を打つような鈍い音が腕を通して頭の中に響いた。
ファルティアの体がぐらりと前方へ傾く。かはっ、と口から肺の中にある空気を全て吐き出さされた嘔吐にも似た音を鳴らす。けれど、ファルティアは前へ崩れ落ちる寸前、どんっと右足を踏み込んで体を支える。キッと睨みつける鋭い眼差しが、拳を繰り出した直後のリュネスと真っ向からぶつかり合う。今の攻撃には確かな手ごたえがあったように思った。しかし、本来ならば意識など吹き飛び当たり所が悪ければ骨の一つも折れるだけの威力があったはずだ。筋力は無くとも術式で威力を底上げしているからである。つまり、完全では無いものの障壁によって阻まれたのだ。
リュネスの第二撃が繰り出されるよりも早く、ファルティアは大きく後ろへ飛び退いて間合いを取る。リュネスもまた深追いはせずに改めて構えを直した。
「……こっちも本家並って事か」
ファルティアは憮然とした表情で打たれた脇腹を一撫でし、再び構えを取る。表情は険しさを交え始め、放つ空気はより鋭さと冷たさを増していった。
「今まで自分の才能について考えた事ある?」
不意にファルティアはそんな問いをリュネスに投げかけた。
「才能?」
あまりに予想外の問いかけにリュネスは思わず気の抜けた返事を返してしまう。
そんなもの自分には無い。
真っ先にそうリュネスは思った。才能とは絵に描いた凡人である自分には最も縁の薄い言葉だ。にも関わらず、その実は人一倍に欲してもいる。幾ら望んでも決して与えられる事の無い、生まれながらに決定付けられる格差だ。自分は生まれながらに目立ったものを持ち合わせてはいない。だから、せめて何か形あるものをと努力をしているのだ。才能について考える暇は無い。無いものを考えるのは無益な行為だからだ。
しかし、ファルティアは更に言葉を続ける。それは、まるでリュネスの意図する才能の意味は異なっていると言わんばかりだ。
「精霊術法の副作用は時に隠れた能力を引き出すように働くわ。私の場合が反射神経のようにね」
ファルティアは精霊術法の習得の際、人間の限界を超えた反射神経を手に入れた。人間の反応速度には自ずと限界がある。しかしファルティアの場合の上限は極めて高い域に引き上げられているため、鍛え上げれば鍛え上げるほど速度は増していく。特に集中した場合、常人離れした動体視力により相手の動きが緩慢にさえ見えてくる。だが、この能力の恐ろしい所は、単純に傍目からはそうと分からない事と、如何なる状況にも何かしら有効に働く点だ。
「私には何もありませんよ。腕力も脚力も視力も、みんな人並です」
「やっぱり分かってないか」
溜息。
それは落胆と呼ぶよりも、酷く苛立った刺々しい吐息だった。
そして、
「アンタの才能は、その目よ。人の技を正確にコピーする、その目。リーシェイの技もラクシェルの技も、アンタは自分でも知らない内に自分のものにしているのよ」
人の技をコピーする?
リュネスはファルティアの言葉に大きな衝撃を受けた。自分は精霊術法を習得した際、一通りの検査を受けはしたがこれといって副産物的な能力に目覚める事はなかった。そのため、案の定自分はそういったものに恵まれなかった、と諦めていたのだ。しかし、ファルティアの言葉ははっきりとリュネスには新しく開花した能力がある事を肯定している。
「それは違います。私はただ、普段から二人によく訓練の相手をして頂いていたから、自然と技を覚えて真似しているだけです」
「二人が何年もかけてようやく完成させた技を? とっかかりはすぐに出来たけど、今の精度に高めるまで三年はかかったって言ってたわ。でもアンタはそれを、見ただけでたった半年たらずで覚えたっていうの?」
ファルティアはわざとゆっくり強く足を踏み出し、誇示するような前進を一歩、刻む。
「さっきので分かったわ。アンタは完全に二人の技をコピーしてる。単なる模倣じゃなくて、精度や威力も、良くも悪くも完璧にね。前に訓練で見せられた時のレベルからここまで精度を高めたのだとしたら、期間を考えるととても普通じゃ出来ないわ」
ずしっ、と踏み込むように二歩目を刻む。どこかしら脅迫的な足取りだ。
「私の技もコピーされていないとは限らない。たとえ自覚が無くても、概略だけで十分にこっちは不利だわ。その証拠に、さっきの差し合いでもアンタは本気の私のスピードについて来れた。あらかじめ私のクセとかをコピーしているから出来たのよ」
更に一歩、ファルティアは歩を刻みそこで足を止める。
一度、深呼吸。
その異様な落着きはファルティアの存在感を突然膨張させ威圧感を増した。
「だから、まだ見せた事の無い技を使わせてもらうわ。それも、そう簡単にコピー出来るような、単純な技じゃない」
更にもう一度、大きく息を吸い込み、そして鋭く吐く。
直後。
「え?」
リュネスは驚きの声を上げた。
ファルティアの輪郭が唐突にぶれ始める。目の霞や気象のせいではなかった。ファルティアの周囲に漂う何かが、光の反射を正常ではない状態にしているのだ。
輪郭のぶれは見る間に間隔を広げる。そしてある瞬間、突然靄が晴れたように輪郭のぶれが消えくっきりと浮かんだ。
しかし、目の前には更に驚くべき光景が映し出された。ファルティアの姿が五つになっていたのである。
「流派『凍姫』の頭目継承技、『凍姫の微笑』。これを習得出来た頭目は歴史上何人もいないわ」
そして、五人のファルティアは一斉に襲い掛かった。
TO BE CONTINUED...