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 厳かな空気の流れるその場所。
 壁、床、天井と一面が突き抜けるような白に囲まれ、厳かさの中に神聖なものが漂い感じられる。しかし、その神聖さはあまりに威圧的だった。一点の曇りも許さない、純粋な者しか存在を認めない絶対的な力を持った支配者が、この場に存在する権利を思うが侭に奮っている。神聖さの象徴であるべきはずの建物は、封建的な支配体系をそっくり抜き出して体現化したかのような息苦しさを感じる。
 聖堂の奥には、見事なステンドグラスが壁一面に敷き詰められ、白の中に微かな彩りを加えていた。その中心には何かを象ったらしき象徴的な聖像が恭しく祀られている。その聖像もまた、突き抜けるように白く眩しい。瞳の無い目は明らかに造形物である事を物語っているのだが、この異様な雰囲気がそうさせるのだろうか、まるで生きているそれの持つ射抜かれるような強い視線を錯覚させられた。
 聖像の膝元に、彼女らは恭しく膝を下ろして首を垂れていた。まるで修道女のような藍色の服に身を包み、頭は同じ藍のフードを深く被って表情を分かりにくくしている。はっきりと見て取れるのは口元から先で、どこか人間らしさが希薄であるように思わされた。
 一様の身なりをした彼女らは六人、組んだ手に額をそっとつけ、一心に声を合わせて何かを読み上げている。日常にはあまり馴染みの無い語句ばかりを連ねたそれは、彼女らの宗教書にある聖句の一文だ。
 宗教とは本来、神聖さと慈愛とを持って賄われるものである。しかし、彼女らの宗教的な儀式は神聖さばかりが強調されて温みが何一つ感じられない。確かに人は闇よりも光ある所の方が住み心地は良い。けれど逆に強過ぎる光は慈愛以前に、浴びた者を片端から焼き尽くしてしまう。
 彼女らにとってはそれもまた一つの教えにしか過ぎなかった。神の火に焼かれる者は、己の中に邪悪の付け入る隙があるからである。信心を持って神に尽くせば、そういった隙は生まれてはこない、というのである。
 彼女らの祈りは、一点の曇りも無く真っ白で、盲信的だった。
 確固たる信念を持っていながら優れた力も併せ持つ人間と、無軌道な信念しか持たないが優れた力を持つ人間。
 一般的には後者の方がより恐れられる。自分達には理解できない理由でその力を奮う、理由無き犯罪を犯す確率が極めて高いとされるからだ。
 しかし、前者にも前者の恐ろしさがあった。
 一本通った信念を持つ人間は価値観も普遍であり、物事を極端に黒と白と区別する事でしか見る事が出来ないのだ。その一方で、己の中の正義にさえそぐわなければ、ありとあらゆる行動を何の躊躇いも無く行使出来る。たとえそれが、一般常識という社会共通の価値観に大きく背くものであってもだ。信念とは社会常識を凌駕するものなのである。
 彼女ら『浄禍八神格』は、正に典型的な前者、学術的な言葉を借りれば秩序型に位置するまとまりだ。
 彼女達の行動指標は、一冊の経典である。信仰こそが唯一の正義である彼女らにとって、教えに背く存在は須らく敵である。そしてそんな彼女らの正義を行使する力は凄まじく、北斗十二衆において最強、人間の領域を逸脱したとまで言われている。
 一般人が北斗に敬意を表するように、北斗の人間は彼女らに敬意、否、畏敬を表した。彼女らは人の姿をした神そのものと呼んでも過言ではないからである。
 人類にとって最も恐ろしい天敵は神である、と誰かが皮肉った。
 神とは食物連鎖の最上位に立つ人間よりも更に上位の存在である。その力は人の考えが及ぶ限りの全てを持ち合わせ、尚且つそれ以上とまで言われる。だが神とは表記上の存在であり、誰一人としてその存在を証明した者はいない。にも関わらず、人は神の呪縛からは幾世紀重ねようとも逃れる事が出来ない。
 窮すれば真っ先に神へ救いを請う。
 理不尽な境遇に立たされれば神を貶す。
 疚しいものがあれば神の目を恐れる。
 架空であるかもしれない存在を、人間は絶対的な力の持ち主として崇め敬う。
 神とは決して逃れられない呪縛だ。
 そして、呪縛がはっきりと分かる形で体現化した時、人は二種類の感情を抱く。敬意と、畏敬だ。
 浄禍八神格は、信仰心の高さと神の如き力の持ち主であるから、ヨツンヘイムに敵など居ない北斗にとって神そのものだった。けれど現人神が自分達と同格の立場に甘んじ、しかも自ずから北斗の運行に口を挟むことをせず沈黙を守る事が、北斗にとっては長い疑問だった。様々な空論が投げ交わされるもどれも確証は得られず、結局は信仰の一環という線に留まっていた。
 だが、遂に浄禍は長い間この機を待ち続けていたかのように、突如として沈黙を破った。
 神の徳と愛を信ずる彼女らは、あろう事か北斗を崩し自らが新しい北斗の中核を成そうと牙を剥く反乱軍に与した。
 それは北斗の理解を超えた行動であった。この世のどこに調和の崩壊を望む正典があろうか。流派『浄禍』の信仰する宗教書は、特別危険な思想が綴られた偽典なのではないのか、と憶測さえかわされた。それほどまでに浄禍の示した正義は、現人神とまで崇められた彼女らの判断とは思えなかったのである。
 何にせよ、浄禍を止められる人間など北斗にはそう居なかった。圧倒的な術式、否、御業を打ち破るには、あまりに大きな力とずば抜けた知略を必要とするからである。それこそ、神に匹敵するほどのだ。
 何故、浄禍は北斗に仇名す者に協力するのか。
 数々の疑惑と絶望が交錯する戦場を余所に、彼女らはただひたすら神に祈りを捧げ続けた。神聖な儀式であるはずなのだが、さながら地獄の蓋が今にも開けられそうな緊迫感さえ感じられる。
 不意に彼女らの後ろの空間に光り輝く奇妙なものが現れた。それは姿見と同じほどの直径を持った楕円状の光で、まるで紙のように厚みがなかった。
 その光の中から彼女らと同じ修道着を見に纏った二人の女性がゆっくりと現れる。人間が二人も納まるスペースなどありはしないというのに。いや、そもそもこの光そのものが常識という観点で測るには過ぎたものであるという事か。
「流派『逆宵』は召されました」
 そう、彼女は静かな口調で報告する。しかし他の者同様、どこかその言葉の節は奇妙な違和感が否めなかった。
「そうですか」
 と、答えたのは彼女らの中で一番前に佇み祈りを捧げる女性だった。
 誰しもが日常からずれた違和感を醸し出しているのだが、彼女の持つ雰囲気はそんな彼女達の中でも一際独特の空気を持っていた。威圧的では無いのだが息苦しさを感じる訳でもなく、また聖職者特有の自愛に満ちているかと思えばそんな温かみなど一切感じる事が出来ない。決して無視する事の出来ない圧倒的な存在感だけが飲み込まんばかりの勢いで周囲を覆うのが分かった。理屈ではなく、ただ、一秒でも長く彼女とは場を等しくしたくない、底知れぬ恐ろしさがあった。
「祈りましょう。彼らの魂の安息を」
 そして、彼女の言葉に促され表れた二人も祈りに参加した。
 彼女らは浄禍頭目の指示によって、流派『逆宵』を殲滅した。いや、彼女らの表現を用いれば、御許へ送り届けた、となるだろう。
 流派『逆宵』は浄禍と同じ、北斗の中核を成す北斗十二衆の一流派だ。にも関わらず、何故仲間である流派を全滅させたかと言えば、それは単に浄禍が反北斗派で逆宵が北斗派であったという至極単純な理由からだ。しかし驚くべき事は、浄禍がかつての同志を、対立という理由だけでいとも簡単に割り切れた事だ。
 聖職者のように深く宗教に足を踏み入れた人間は、殺生について特別強い禁忌を覚える。それが極端になれば、肉や魚すら口にしなくなる程だ。
 どの宗教書にも、殺生を推奨する教えは書かれてはいないからだ。それは浄禍についても例外ではない。けれど逆に考えれば、教えに則っていれば何事も許される、言い換えれば解釈次第で幾らでも殺生に対する禁忌を無くす事が出来るのも事実だった。つまりは、浄禍は北斗で最も慈悲深く、また最も殺人鬼に近い流派なのだ。
 理由と解釈さえ伴えば、このような事態も十分あり得る。
 ならば、一体何故、どのような理由で彼女らは北斗に叛旗を翻し、悪夢のような災厄と混乱をもたらしたのか。
 全てを知るのは流派『浄禍』頭目にして、浄禍八神格筆頭、『遠見』のみだった。
 彼女らにとって『遠見』の指示は絶対のものであった。浄禍では他流派以上に上下関係の格差が明確化しており、上の者の命令は自らの命よりも優先しなくてはならない。当然の事だが、頂点に立つ『遠見』に逆らうなど万死の値する、悪行だ。
 頭目が善しとすれば、それだけで浄禍の正義は確立される。しかし、『遠見』の正義とは本当に神の教えに則っているものなのか。その疑問は解釈の仕方によって答えが二転三転するため意味を成さないが、少なくとも浄禍の行動は全て『遠見』の判断によるものに相違は無かった。
 彼女らはひたすら祈りを捧げ続けた。
 神に匹敵するとまで言われた彼女らが今更神に何を求めるというのか。浄禍には誰一人としてそんな疑問を持つ者はいなかった。ただそうしている事が、彼女らにとっては息をするよりも自然なほど、体の奥底に染み付いているのだった。
 その祈りは夕暮れまで続いた。
 そしてその頃には、北斗の街もひっそりと静まり返った。



TO BE CONTINUED...