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それはいつもと変わりない普通の朝でした。
午前六時丁度。今朝は晴れ渡っているせいか、やや肌寒く感じます。
ベッドから起き、まずは服を着替え洗面所に行って冷たい水で顔を洗います。寝ぼけた顔と頭を引き締めると、次は窓を全て開けて部屋の掃除を始めます。早朝の綺麗な冷たい空気が心地良く肌を差します。今日も天気が良くなりそうです。
ファルティアさんはまだ眠っているため、出来るだけ音を立てないように朝食の準備をします。朝食は三食の中で一番大事な食事です。今日一日の原動力となるエネルギーをしっかり補給しなくてはいけません。
ご飯を炊き、鶏肉と野菜とで煮込んだスープに火を入れ、酢漬けにしたサラダを作ります。朝はどうしても食欲は湧かないので、出来るかで口当たりは軽くしなくてはいけません。
ここまでは普段通りの朝でした。天気や献立は多少変わるかもしれませんが、大筋の流れはいつものままです。それは習慣という形で体に染み込み、頭の中では別な事を考えていても自然とそれらを段階的にこなしていく事が出来ます。慣れる、というのはこういう事だと思います。
けれど、どういう訳か今朝はいつまで経っても頭がどこかはっきりしませんでした。どうしてか全ての行動を無意識で行う事が出来ず、何かしら頭の中で意識にいちいち問いかけてしまいます。その煩わしさも、一度や二度ならともかく、こう何度も繰り返されると違和感を覚えて仕方ありません。
自分の行動が、どうしても今の意識が制御しているような気がしないのです。どこか、何かに突き動かされているような、そんな違和感があるのです。
それは、丁度二日酔いの朝に似ていました。意識と体が半分切り離されていて、半ば反射と惰性とで毎日の日課を淡々とこなしていく。その最中、意識は気分の悪さをどうにかして感覚の隅に押しやろうと四苦八苦し、込み上げてくる不快感を落ち着ける方法を模索します。同時進行するそれらを処理していく自分の意識は、いつもまるで他人事のように離れた所から傍観、もしくは観察しているのです。日課に勤しむリュネス、二日酔いに苦しむリュネス、それらを観察するリュネス、この三人がまるで別々に居るような感じです。
けれど、それともまた似ているだけで実際は違いますし、そもそも昨夜はお酒は飲んでいません。
ならば何がいつもと違うというのでしょうか?
私は手を動かしながら、自分の記憶を遡り始めました。しかし、どうしても特に変わった事を思い出す事は出来ません。何もかもが自分の常識の範囲で行われた事ばかりです。
まるで高度な間違い探しをしているような感覚でした。普段の私も今朝の私も、一見しただけでは何の変わりもないように思えます。けれど、どこかが確かに違います。それをうまく表現できない自分がもどかしくて仕方ありません。
そういえば。
たった一つだけ、気がついた事があります。
昨夜、ちょっと変わった夢を見ました。それはみんなでお酒を飲みに行く夢です。
いつものように訓練所を後にしてから、どこかにお酒を飲みに行く事になって。そこでどこに行くのか、という事でファルティアさん達が言い争い始め、殴り合いに発展する前になんとか止めて。確かラクシェルさんの案内になったと思います。そこで油で揚げた食べ物やお酒を飲みました。リーシェイさんには随分飲まされたように覚えています。リーシェイさんは底無しなので、それと同じペースで飲んでいたら体がとても持ちません。
あれ? 本当に夢でしょうか?
気がつくと、私はやけにはっきりと夢の内容を思い出せていました。私は夢を見る事があまりありません。たまに見たとしても、断片的にしか思い出す事が出来ません。
こんなにはっきり思い出せると、まるで夢ではなく本当は実際に体験したのでは、と思ってしまいます。そんな事があるはずがないのに。夢は夢で、現実は現実。同じ記憶という観点からの考え方では同じ事のように思えるかもしれませんが、実際に起こった出来事と空想の産物とでは乗り越えられない決定的な壁があります。空想はやがて忘れられる消えてしまう架空の事象、けれど実在の出来事は何かしらの痕跡を必ず残します。それが無いのですから、私の危惧するものは全て杞憂に終わり、今日は頭が寝ぼけ過ぎていたんだと後から一笑に付すのです。
でも。
ふと私は、普段はどうやって昨夜の記憶を夢と現実とに分けていたのか、その基準に疑問を持ちました。
何を持って現実とし、何を持って夢とするのか。
夢の内容があまりに突拍子もなかったり、現実とは違う違和感があればすぐに夢である事が分かります。同様に、以前の記憶を夢で見たとしても、時期的な観点や再現しきれない曖昧さと違和感があります。
これらを基準に、これまで私は夢と現実とを区別していたとして。もし、現実と全く差異の無い夢を見たとしたら。どうやって区別をつければ良いのでしょうか。
それが、まさに今の状況です。昨夜見た夢はあまりにリアル過ぎて、現実との違いを付けられない私は戸惑っているのです。
本当に夢を見ていたのでしょうか?
そんな考えが頭から離れません。
しばらくして、ファルティアさんが起きて来ました。眠たそうな目を擦っています。
ファルティアさんは連日連夜、遅くまで頭目業務に駆けずり回っています。そのため十分な休息も取れません。やはり昨夜も満足には眠れなかったようで、今朝も一段と眠そうです。
「おはようございます」
「おはよう。うー、どうも最近朝が早くて嫌だわ。寝てる間に、こっそり時計の針なんか回してない?」
まさか、そんな。
ファルティアさんの冗談に私は軽く吹き出して口元を押さえます。
そうだ。
考えてみれば、昨夜の夢の中にはファルティアさんが出ていました。だったら、ファルティアさん自身に昨夜の事を聞いてみれば、この記憶がすぐに夢か現実か区別がつけられるはずです。
私は自分の中の疑念を晴らすためにも質問を投げかけてみる事にしました。だけど、あんまりそのまま過ぎる質問では逆におかしな事を言っているように聞こえてしまいます。それで言葉は遠まわしなものを選ぶ事にしました。
「昨夜、私、飲み過ぎたような気がして頭がはっきりしないんです」
「ん? そうだっけか? 夕べは真っ直ぐ帰ってきて、うちでご飯食べたじゃん。ほら、鳥を茹でて裂いた奴を野菜と一緒に甘辛いので絡めた奴。あれうまかったなあ」
また一つ大きなあくびをし、ファルティアさんは水差しから冷たい水をコップに注いで一気に飲み干しました。
「もしかして寝ぼけてるの? らしくないわねえ」
そうファルティアさんは愉快そうに笑います。私も一緒に笑おうと笑みを作りましたが、かなり違和感のある笑みになってしまいました。
やっぱりただの夢なんだ。
その言葉に、私は少しだけ安心しました。
事実と私の記憶とに食い違いはありません。あれはただの夢。昨夜の私はいつものように帰ってきて夕食を作り、ファルティアさんと食べたのです。
「それより、朝ご飯。今日はゆっくり食べれそうだから、お代わり用意しといて」
「朝からそんなに食べたら、胸焼けしてお仕事に差し支えますよ」
ファルティアさんは、今日は一日昼寝するから大丈夫、と冗談めいた口調で洗面所へ向かいました。私は微笑みながら準備の続きに入ります。
いつもと変わらない日常。かつて執拗に変化を求めていた頃の自分が嘘のようです。平穏無事がそれだけ居心地の良いものとは思ってもみませんでした。お互い何気ない言葉を交わしているだけなのに、それだけで楽しく思えます。
結局、私の不安は案の定、杞憂となりました。多分、今朝は寝ぼけているのか、ちょっと疲れが溜まっているだけなのでしょう。
夢と現実の区別がつかないなんて、どうかしてます。
幾らリアルでも、夢は夢です。現実に成り代わる事なんか出来ません。
ちょっと現実ぽかったから、それでうっかり勘違いしただけで……。
けれど。
ふと私は、まるで後ろから刺されたかのように、唐突な不安感を覚えました。
本当にそうなのでしょうか?
何か決定的な事を忘れてはいないでしょうか?
昨夜、本当はどこで何をしていたのでしょうか?
変哲の無い日常の連続が記憶の蓄積に慣性を与え、たった一日の記憶の空白をさして重い問題として感じさせません。
これは恐ろしい事だと思います。
一日あれば、人は人生の指標すら変える事が出来ます。にも関わらず、それだけの時間の記憶を思い出せないなんて。そして更に、その空白を『普段と変わりないだろう』と自然に解釈しています。
もしその空白が、本当は普段通りじゃなかったら。あまつさえ、そこに自分の考えが及ばぬ事が起こっていたりしたら。
そう思った私は、気がつくと全身に鳥肌が立っていました。
TO BE CONTINUED...