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助かった。
突如として現れた『遠見』の存在に、リュネスは咄嗟にそう思った。
一度助けられた、いわば恩人と呼べる存在だからだろうか。流派『浄禍』は反北斗派の人間であるにも関わらず、そんな安堵を憶えてしまった。いや、そもそも自分の所属する流派『凍姫』もまた反北斗派であるから、立場的には同じなのだが。
あの時と同じように、きっと助けてくれる。この絶望的な状況を、『浄禍』の神がかり的な力で難無く打破してくれる。そうリュネスは信じた。けれど、浴びせかけられたその言葉はリュネスの淡い期待を全て否定する。
「あなたはまた、誰かに助けられようと足を止めていたのですか?」
……え?
思わずリュネスはそう問い返した。けれどあまりに驚きが大き過ぎて、問い返したはずの言葉が声にならなかった。
「私を見て、あなたは何と思いました? 助かった。違いますか?」
確かにその通りだった。リュネスは『遠見』の登場に、一二も無く、この八方塞がりな絶望的な状況を打破してくれるものと期待した。人間業でこの部屋から抜け出すのは不可能だ。けれど、『遠見』の持つ力は人間としての範疇を超えた、いわば神に匹敵するほどのものだ。人業では不可能でも、神業ならば可能であるはず。
そしてもう一つ。流派『浄禍』を束ねる立場の『遠見』は、何の理由も目的も無しにこんな所へ足を運ぶような気まぐれな性格であるはずがない。ここには何らかの理由があって来たのだ。そしての理由とは、自分を助けるためと考えるのが自然だろう。
けれど。
リュネスに浴びせた『遠見』の言葉は、そんな期待に満ちた胸中を一瞬にして凍りつかせた。
一度助けてもらった人だ、だから今度もきっと助けてくれる。彼女は自分の味方だ。困窮している自分を思ってくれたからこそ、わざわざこんな所へ駆けつけたのだ。
それなのに。
リュネスは『遠見』の言葉が俄かに受け入れられず、痴呆のように呆然と『遠見』の顔を見つめていた。今の言葉は果たして本当に聞いた通りのものだったのだろうか? 何かと聞き違えてはいやしないだろうか? まさか彼女が自分に対してそんな事を言うはずが無い。
けれど、『遠見』が目深に被ったフードの奥、ぴったりと閉じられた瞼の奥にある異形の目からははっきりと視線を感じた。酷く攻撃的で敵意にも似た鋭い視線を。その視線が、今の言葉は自分の聞き違いではないという事を否応なく認識させる。
言葉に詰まるリュネス。何故、自分が責められるのか、その理由が分からない。しかし『遠見』は更に追い討ちをかけるかのような言葉を持って畳み掛ける。
「あなたが北斗に入った理由は、同じ北斗の力に守ってもらうためなのですね。自らが力を得ようとしているならば、何故、今のあなたはこの状況を甘受するのです?」
それは違う。
私は好きでこんな状況に陥った訳じゃない。
これは仕方が無いんだ。
けれど、『遠見』の鋭い視線は口を挟む事を許さなかった。まるで喉元に刃を突きつけられたかのような威圧感だ。
「自分は救いを求める立場ではない事を自覚しなさい。そして、私はあなたを助けに来た訳でもないという事を知りなさい。あなたは、神事によって救うに足りる人物ではないのですから」
助けに来た訳じゃない。
最後に繰り出された決定的な一言がリュネスの希望的観測を粉々に打ち砕いてしまった。
またこれまでと同じように自分は悲嘆にくれるのか、とリュネスは思った。しかし、驚く事に込み上げてきたのは怒りにも似た激しい感情だった。即座にリュネスはぐっとその感情を飲み込む。自己主張をしないリュネスならではの習慣的な行動だ。
「じゃあ、何故ここへ……?」
自らを落ち着け、口調に棘が出ぬよう気をつけながら問い返す。だが、それ以上に『遠見』の威圧感は凄まじかった。何かに取り憑かれたかのようなリーシェイの放つ威圧感も巨大だったが、『遠見』とはまるで比べ物にならなかった。次元そのものが違っているかのように思えるほど、スケールが途方も無く大き過ぎて理解そのものが及ばないのだ。
蛇に睨まれた蛙。人が普段目に見えぬからと軽んじる神の存在を、いざ目の当たりにした時はこのように恐ろしくてたまらないものだろう。なんとか自分を支えているのは、未だに込み上げてくる激情だけだ。
「何故? あなたが神事を持って救うに足りる人物なのか、見極めるためですよ」
そして『遠見』はすっとリュネスの目の前に滑り寄るとそこへ屈み込み、いきなり頭を荒々しく鷲掴みにする。びくっと体を震わせるリュネスだったが抵抗する事が出来なかった。『遠見』は強引にリュネスの顔を自分の目の前へ近づけさせる。そして目元を隠すフードを反対の手で取った。『遠見』の目はぴったりと閉じられている。彼女の目は未来を見通す特殊な力を持っている。しかし、普通の人間のように当たり前のものを見る事は出来ないのだ。
「そして、神は判決を下されました」
と、不意に閉じられた『遠見』の双眼が見開かれる。瞼の下から現れたのは、青い眼球と深紅の瞳という如何なる生物にも当てはまらない異形の目。
「いっそ死になさい。あなたは彼の掲げる新体制に相応しい人物ではありません。あなたの力は類稀なる素晴らしい才であると言えます。ですが、それは所詮器だけにしか過ぎません。器を満たす魂は醜悪で七罪に満ちています。これまでにあなたが起こした問題も必然と言えましょう。だから、あなたが再び悲劇を繰り返す前に、いっそ死になさい」
死。
自分を助けるために来た訳じゃない。そう、言い放たれた言葉でさえ俄かには受け入れる事が出来なかったのに。自分が思いつく限り、きっとこの世で最も暴力的で残酷な言葉。それが、神事に努める敬虔な人間の口から何一つ躊躇いもなく自分に向けて放たれた。それはまるで、剣で体を両断されるような深い苦しみだった。
これ以上無い、脅し文句、侮辱、そして暴力だった。なのに『遠見』の口調は柔らかく、不気味なほど温かさに満ちている。これほどまで優しい声で人の人格を貶せる人がいるなんて。だが、その異様なギャップが彼女の底知れぬ恐ろしさを際立たせる。
不思議と狂気めいたものは感じなかった。ただ、動物の子を愛でるのと同じ理由で、彼女は人を慈しむ事も貶める事も出来る。普通の人なら必ず線引が壊れてしまっているのだ。そうリュネスは戦慄する。
「死になさいって……だったらどうして、あの時に私を助けたんですか!? こうやって罵倒するためですか!?」
食って掛からんばかりの勢いで、リュネスは最後の勇気を振り絞って叫んだ。
リュネスなりに、『遠見』のあまりに理不尽な理屈が許せなかった。確かに自分には他人に依存し過ぎるという弁解のしようがない落ち度はある。けれど、それがここまで一方的に貶し、貶める理由になるはずがない。しかも、自分が間違っているとしたとしても、これまで平和な暮らしを築き守ってきた北斗を崩し幾人もの同胞を死に追いやったエスタシアの理屈が正しい事にはならない。そう、所詮『遠見』も神の教えに忠実な信徒とは言え、エスタシアの走狗に違いないのだ。神の使いは神ではない。幾ら『浄禍八神格』が人間の範疇を超えた限りなく神に近い存在とはいえ、自分と同じ人間に違いないのだ。力の差はあれど恐れる必要は無い。同じ人間ならば、理解は必ず及ぶのだ。
そう考えると、不思議と恐怖は薄らぎ勇気が湧いて来た。
同じ人間とは思えないほどの芸当をこなす流派『浄禍』。けれど、自分達凡俗と同じように道を踏み誤り欲望に傾倒するという事は、彼女らが決して神に選ばれたような特別な存在ではないということだ。自分と同じラインに立っているならば、どうして恐れるのか。初めから力では適わない事は分かっている。かと言ってわざわざ卑屈になる必要は無いのだ。以前、ファルティアさんに教えられた事がある。気持ちで勝った方が戦闘では勝つと。だから、何があっても心を自ら折るような真似をしてはならないのだ。心が折れない限り決して負ける事は無いのだ。
そして。
「はい、その通りです」
リュネスの絶叫に近い問いかけに、『遠見』は思ったほどあっけなく返事を返した。
思わずその場に凍り付いてしまいそうなほどの恐怖が込み上げてくる。怒りで化粧した仮初の勇気はそう長くは続かない。少しでも常識から逸脱した違和感を感じてしまうだけで容易に亀裂が走り始める。
激しい感情に支援してもらい強い態度に出たリュネスだったが、またしても気が引けて弱腰になる。少なくともリュネスは完全に自分の意思だけで人に対し強い態度で出る事は出来なかった。何かしら外的な要因がなければ徹する事が出来ないのである。今もまた、最初の威勢だけがいい竜頭蛇尾の勇気を鼓舞して噛み付こうとしただけにしか過ぎないのだ。
「あの時、私には視えていました。あなたの先には幾つもの困難があること。そして、あなたにはそれを乗り越える力がないことも。人には成長という未知数の可能性を神から授けられました。ですが、あなたは何一つ成長していません。現状に甘え、周囲に期待し、自分では何一つ事を成そうとしない。神は怠惰の罪を許す事はないでしょう」
くっ、と息を飲むリュネス。
反論する事は出来なかった。全く努力を怠っていた訳じゃないが、何日もかけてようやく一歩を踏み出す牛歩のような努力は、人によっては何もしていないのと同じように評価されても仕方の無い事だ。事実、自分は北斗に入る前に比べどれだけ成長できているのか、はっきりとした自覚はほとんどない。現状に甘え期待するクセもそのままだ。今まさに、突然現れた『遠見』に、助けてもらえると期待を抱いたばかりである。
「一つ、教えて差し上げましょう。今夜、あなたの大切な人が一人、死に絶えます。そしてそれは今まさに途絶えようとしています。今の内に覚悟を決めておくと良いでしょう。待つ者に希望は不要です」
まるで頭を鈍器のようなもので殴られたかのような、深い気の遠くなるような衝撃を、一瞬の間隙の後、リュネスは味わった。
これが普通の人の言葉であれば、何て嫌な事を言うのだろう、と気分を害するだである。しかし、これが『遠見』の言葉であれば話は別だ。『遠見』には未来を見通す力がある。それだけで彼女の言葉は意味を持ち、人々を感嘆させてきた。理屈でも何でもない、ただ『遠見』には本当に未来が見えるのだ。
それが当事者にとって喜ばしいものならば、さながら福音のように聞こえるだろう。しかしそうでないものは、まるで逃げることの出来ない呪縛である。未来は絶対である。どんなにあがこうとも、それらは全て結果的に『遠見』が見た未来の実現の布石となってしまうのだ。
リュネスの頭の中に、自身が思う大切な人間の顔が次々と浮かんでくる。しかし、どういう訳か最後まで消えてくれず頭に残り続ける顔があった。
まさかこの人が死ぬとでも言うのだろうか?
あり得ない。いや、あってはならない。共に生き続ける事を誓い合った仲なのだ。まだそのスタートも切ってはいないというのに。ただの杞憂だ。そうリュネスは自分を丸め込む。
「助けては……頂けないのですね?」
淡い期待を持ちつつ、『遠見』に問う。
初めから無駄だと分かっていた。しかし、何躊躇う事なく即座に拒絶を込めて微笑んだ『遠見』を目の当たりのにすると、否応無く激情が背中を頭の天辺まで駆け登った。
「あなたは人が死ぬ事を知っていながら、あえて見過ごすというのですか?!」
「あなたとは、それほど恩義ある間柄では無かったはずです。それに、私は信徒であって神そのものに成り代わるものではありません。神のように全能ではなく、慈悲に満ち満ちている訳でもありません。私の慈悲は時と場合、対象となる人物によって選択されます」
目の前がスーッと彩色を落として行くのをリュネスは感じた。
せっかく見つけた、このどうしようもない状況を打ち破る手段だったのに。彼女自身の拒絶を受けるばかりか、更なる絶望まで与えられてしまった。
もはや自分に残された手など無かった。
人に頼らず自分の力で困難を乗り越える。確かにそれは正しい主張だ。けれど、立ち塞がった困難も度が過ぎると、力のある人にしか言えないような極論になってしまう。
自分には無理だ。自分一人でこの状況をどうにかするなんて、到底出来る訳がない。それほどの力は持ち合わせていないのだ。自分と『遠見』はこんなにも違う。絶対的な存在の格差だ。
「あなたは、これも信仰だとおっしゃるのですか!? 苦しんでいる人も見捨て、更には苦しむ人までを増やすなんて! どうしてこんな事に加担するんです!」
「あなたに答える必要はありません。どうして地を這うだけの生き物に、天高くに君臨する主の御心が理解しえましょうか。信仰とはもっと奥深く、崇高にして神聖、不可侵なものなのです。救いを求めるだけの醜悪な魂、理解が及ばぬならば、嘆くよりも沈黙し受け入れる事が美徳です。神は何より美徳を愛される」
目の前にいる女性が、あの『遠見』とはとても信じられなかった。
あの時、絶望するあまり自ら命を断とうとまで思い詰めた。けれど、そんな自分に『遠見』はあえて生きる道を指し示してくれた。なのに、今は自分に、死ね、と言った。それもこれまで生きてきた事を後悔しながらという、最も苦しい死に方で。
これが彼女らが信ずる所の神の教えなのか。北斗の絶対的な正義を担う浄禍の慈悲なのか。
頭の中が張り裂けそうだった。
自分が苦と感じる事を勧め、更に自分を徹底的に否定する『遠見』の神と悪魔の合いの子のような主観を思うと、俄に嵐のような激しい頭痛を覚えた。
「求めるだけの者に神は何一つ与えはしません。あなたは何を成しましょう? 今もそう泣き伏せるだけ。両親も、恩人も、想い人も、あなたは与えられなければ手に入れられず、何一つ報いる事が出来ない、その程度の人間なのです」
「もう止めて下さい! だったら私にどうしろと言うんですか!」
「好きになさい。あなたの存在も、価値も、塵芥に等しいのですから」
薄く口元に笑みを浮かべ、『遠見』はそっと異形の目を閉じ、再びフードを目深に被る。
掴んでいたリュネスの頭を放し、立ち上がって踵を返す。そして目の前の空間をそっと右手で撫でた。すると突然、目も眩むような眩しい光が現れた。先ほどと同じ、姿見のような大きな縦の楕円形の光である。
「あなたには塵芥から何かを生み出す力もありません。己の意志さえない。魂にも肉体にも力の宿らない存在に何の意味がありましょうか」
ゆっくりと『遠見』は光の中へ足を進める。
「あなたは、無力です」
最後にそう言い残すと、『遠見』は光の中へ自らの体を完全に投じる。そのまま消え去ってしまうようにこの場から立ち去って行った。
光が消え、静寂が訪れる。すると、再びリュネスは泣いた。
すっかり枯れ果てたと思っていたはずの涙がとめどなく溢れてくる。
途方もない絶望感。そして言い知れぬ悔しさ。
少しずつ築き上げたはずの幸せを一概に否定され、尚且つ、それを奪い取られようとしているにも関わらず何も出来ない自分が悔しくて仕方なかった。
何故、自分には何もないのか。
何も?
いや、ある。
何もかもを、全てを打ち壊す忌まわしいほどの力が。
何一つ思い通りにならないのなら。
こんな世界、消えてしまえばいい。
TO BE CONTINUED...