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少年は振り向く事無く、視線を前方へ固定したまま歩き続けた。
勝手口から屋敷の裏庭へと出る。
裏庭は幼少から慣れ親しんだ場所だった。ここで父親には、何度も容赦なく打ちのめされた。嫌な思い出ばかりが募る場所である。
嵐の冷たい風が少年の顔に吹き付けてくる。その息苦しさから逃れようと、少年は若干うつむいて歩いた。
夜の嵐は思ったよりも視界を遮る。
別に未練がある訳では無かったが、もう少しよく見ながら出て行くのもそれなりに赴きがあっただろうに。まあ、これはこれでいいのかもしれない。突然、前触れも無く家を飛び出して家族や親類一同を混乱させてしまうのだから。いや、混乱する事はないか。元々、自分は兄三人にとって厄介者以外の何物でもなかったのだ。目の上のたんこぶが自分から消えてくれた以上、後は三人の内の誰かが当主になれば、それで後継者争いのゴタゴタはなくなるはず。はず、というのは、後継者の椅子が一つに対し、兄が三人いるという事からの憶測だ。案外、今度は三人が互いに、これまで自分にしたような謀略を計りあうのかもしれない。
結局、誰もが自分の思い通りにしたいのだ。良い言い方をすれば、夢や希望。だが、それは我侭と紙一重である。自分が取ったこの選択も、自分を磨くために庇護を捨てる、と言えば聞こえはいい。しかし、ただ面倒な事から逃げ出す、とも表現できるのだ。
どう取るかは第三者次第。だから自分は、自分を納得させるために、常に自身を客観的に評しながらより良い方向へ昇華させていく必要がある。周囲の変化に甘えてはいけない。人には優しくし、そして自分には厳しくする。単純だが実行は困難なこの理屈を体現化出来てこそ、人間的な部分が磨かれる事となる。
思い返してみれば、なんて異常な家に自分は生まれついたのだろうか。
家から離れていくにつれ、ふと少年はそんな事を冗談めいて思い返した。
父親は軍人パラノイアで、まだ年端もいかない頃から自分を容赦なく痛めつけた。
兄三人は、自分を後継者にさせまいとして、様々な謀略を用いて殺そうとした。
義理の母三人は、自分を殺そうとして母親が死ぬ原因を作り出した。
家族にまともではない人間の方が多いなんて。よくも自分がまともな神経でいられたものだ。いや、何を持って正常とするのか明確な基準なんてないし、何よりも異常性ばかりが浮き彫りになったのは、そこが人間の縮図を箱庭化した空間だったからなのかもしれない。本当は誰かも自分を異常な人間だと見ているかもしれないのだ。人間の価値観には絶対的なものなど数えるほどしかない。ほとんどが相対的なものなのだ。人がどう思うから、これはこうだと決まっているから、そういった既存の事実のぶつかり合いや差異から、価値観なんて言葉が生まれる。自分はたまたま、居心地のいい場所が貴族の家に生まれ社交界で華々しく生きる事ではなかっただけなのだ。
素直に考えれば、遅かれ早かれこの家は出て行く必然はあった。それがたまたま今日だっただけ。
何にせよ、これで自由だ。
誰にも拘束も強制もされない。全て自己責任の元で生きられる。
自由とは開放される事である。しかしそれは、同時に庇護をも失う事になる。自分はこれまで、どれだけこの家の庇護を受けて暮らしてきたのかは自覚している。しかし、直接肌で実感した事はない。
この先ぶつかる最初の課題はこれだろう。自分が引き換えにして手に入れた自由をそのままにしておきたいのならば、本当の意味で自分一人で生きる力、すなわち独立するだけの力を身につけなくてはいけない。一人で生きていけないのならば、自分を磨くどころではなくなるのだから。
けれど、俺は全てを捨てる覚悟で家を出て行くのだ。それが出来なければのたれ死ぬだけ。人間、死ぬ気になればどうとでもなるのだ。実際、自分は父親の非情な仕打ちにもこうして生き延びている。
ただ、一つだけ心配なのは。
彼女だけは自分がいなくなった事を悲しむだろう。なんせ幼い頃から今日までずっと、気がつけば自分の後ろをちょこちょことついてくるような甘えん坊なのだ。急に自分がいなくなったら、一体どんな行動に出るのか。想像も出来ないだけに余計可愛そうだ。。
信念という強固な鎧で自らを固めていた少年だったが、その小さな隙間から鋭い針を差し込まれたように、ほんの少しだけ後ろめたい気持ちになった。
そんなに可哀想に思うのなら、一緒に連れて行けばいい。だが、かと言ってそう安易に連れて行く訳にはいかない。自分のこれから先はどうなるのか保障はないのだ。自分の信念のために生きていく覚悟を決めたが、ルテラまでも巻き添えにする訳にはいかない。ルテラにはルテラの人生がある。それをあの家に残って全うするのが幸せというものだ。
少年はそう自らを納得させ、これ以上心残りが深まらぬ内にと気持ち足を速めた。
「あ」
裏門の物影に、風雨を避けるように身を隠していた一つの人影。それが少年の気配に気づくと、ぴょん、と目の前の水溜りを跳び越して少年の元へと駆けた。
この嵐の中、わざわざ外へ出るには相応しく全身を真っ黒なレインコートで包んでいる。しかしその手には、どう考えても邪魔にしかならない自分の体の半分ほどもある大きなトランクケースを携えていた。しかも作りは機能性よりもデザインばかり重視したものだ。確かに見栄えのする良いトランクかもしれないが、この天候でこの選択はあまり賢いと思えない。その上、既に引き摺ってしまったらしく、トランクの底から中ほど辺りまでを斑模様の泥が覆っている。
「お、おい、ちょ、お前……」
その人影は深く被ったフードを少しずらし、嵐に視界を遮られている少年にも分かるように顔を見せる。直後、少年はフードの中から覗いた思わぬ顔に唖然とした表情を晒した。
フードの下から現れたのは、紛れも無いルテラの顔だった。
どうしてこんな所に。
いや。それ以前に、どうして自分が出て行くことを知っているのか、という事に驚いた。少年はこの事は口にするどころか、何から何まで頭の中だけで計画していたというのに。心でも読めない限り、絶対に不可能のはず。一体いつの間に感づいたのだろうか。
少年が首を傾げる間も無く、ルテラはいつものように聞き取るのがやっとの小さな声で話しかけた。
「お兄ちゃん、行っちゃうの?」
雨音と吹きすさぶ風の音で所々にしか聞けなかったルテラの言葉の前後を汲み取りながら、少年はやや困惑したままの表情で首をゆっくり縦に振った。
それを受けたルテラは、まるで少年の行動が何かの誤解であると信じ込みたいといった表情を浮かべた。少年がこれほどまで決定的な行動を起こし、それを目の前にしておきながら、やはりまだ受け入れられないのだ。
本当なの?
胸が締め付けられそうなほど哀れみを求めるような目で問い返すルテラ。
少年はしっかりと首を縦に振る。
そんな自分の行動が、まるでルテラを突き放すような行動に思えた。脳裏に、まだ歩みもたどたどしかった頃のルテラの姿が浮かぶ。今の頷きは、その拙い足取りで近づくルテラを真っ向から弾き飛ばすような行為だと思った。
「そうなんだ……」
寂しそうに視線をうつむけるルテラ。
だが、すぐさまルテラは表情を改めて顔を上げると、今まで一度も見た事の無い強い表情で少年を見据える。何が何でも自分を押し通す、と睨み付けるに近いほどの激しい勢いだ。
「お兄ちゃん、私もついてく。荷物ならここにあるから」
そう、ルテラは荷物の重さにふらつきながらも、自分の言葉は本気であるとの証明にトランクを掲げて見せる。
少年が家を出て行くのは、ただの自分の勘違いだった。しかし、それをどうやって証明するのか、可能な理由付けがない。それが、ルテラに行動を起こさせた要因だった。
「あのな……俺は遊びに行くんじゃないんだぞ。お前はここに残るべきだ。その方がお前のためでもあるし、幸せになれる」
驚くほど意固地になった表情を向けられ、少年は何とか説き伏せようとそう言い聞かせる。しかし、本来ならば動揺するのはルテラの方が相応しい立場なのだが、こうも真正面から鬼気迫った迫力で見据えられビクともしないとなると、逆に少年の方が平常心を乱していった。
「そんな事ないもん。だって、貴族の家よ? 私、将来誰と結婚するのかも決められないんだから」
貴族の家に生まれた以上、自分に自由は無い。
確かにそれは少年にも分かる理屈だ。基本的にどこの貴族も家督は男子に継がせている。しかもうちは軍人貴族だ。戦役に出られない女子に家督を継がせる訳も無く、そうなれば消去法で半ば取引的な結婚をさせられてもおかしくはない。
「それに……私、お兄ちゃんと離れたくない」
初めこそ勢いづいていたルテラの声だったが、徐々に小さく窄まっていき涙声に変わっていく。
少年は慌ててルテラを抱き寄せると、まるで赤子を泣きやませるように頭や背中を撫ぜた。そんな少年にルテラはひっしとしがみつく。
ルテラにとって、肉親らしい肉親は少年しかいない。父親はあの通り女児には興味は無く、母親は生まれて間もなく死に、上の兄達には目もくれてもらえなかった。
確かにそんな家に、ルテラを一人残していくのはさすがに可愛そうだ。
他の兄達とは違って、少年はルテラが可愛かった。出来ることならば、自分が選択した何の保証も無い生活などさせたくはない。しかし、何が何でも自分はついていく、とルテラは主張して聞かない。これまでほとんど自分の意見は言わないおとなしい子だっただけに、その決心がどれだけ強く本気なのかを物語っている。
自分にはルテラを説き伏せるのは無理だと少年は思った。
理屈上、不可能という事は無い。ただ、そのためにはもっと非情になる必要があり、自分はどうしてもそこまで徹する事は出来なかった。
このままでは埒が明かない。
不毛な長居を続けるよりは。そう考えると答えは自然と出てくる。
「しょうがないな。とにかく、俺の言う事はちゃんと聞くんだぞ」
「うん!」
少年の言葉に、たちまちルテラは輝くような笑顔を浮かべてにっこり微笑んだ。
たった今までは年甲斐も無くぐずっていたというのに。
そんな変わり身の早さに、少年は微苦笑を浮かべ肩をすくめた。
「じゃあ行くぞ」
少年は黙ってルテラのトランクケースを取ると、代わりに持ってやると軽く口元を綻ばせてから再び歩き始めた。
ルテラはそんな少年に遅れず、すぐ後をついていく。ルテラはあまり長い距離を歩く事には慣れていないだけに足取りがややおぼつかなかったが、少年はそれを考慮し歩幅を気持ち狭める事でルテラのペースに自分を合わせた。
この先、どうなるか分からないというのに。
やはり若いという事は怖いもの知らずという事なのだろう。
良くも悪くも、まだまだ立ち止まるにはお互い早過ぎると。そんなところだろうか。
なんにせよ、自分のルテラが心配な気持ちには偽りはない。ならば、多少どころではなく危険なのだが、こうして一緒に連れて行くのも良いのかもしれない。
そう少年は思った。
「さて、どこへ行こうか」
少年は小さな声でつぶやいた。その声はすぐに雨音にかき消され、後ろのルテラの耳には届かない。
とにかく歩き続ければ、きっと自分にもルテラにも住みやすい所があるはずだ。
それを見つけるまでは、ただひたすら前進を繰り返す。
手にした唯一の武器と、己の力だけを頼りに。
TO BE CONTINUED...