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北斗市街区からさほど離れていない戦闘解放区。総括部が設けた特殊な区域だ。表向き、北斗十二衆の戦闘力を実戦的なレベルで高めるため、という名目になっているが、実際は単純に戦闘好きな人間のフラストレーション解放の場として設けられた区域である。
北斗の中にありながら唯一北斗の法が届かない、完全な独立地帯であるそこは、ヨツンヘイム中からの犯罪者、脱落者、救いようのない戦闘狂等が集まる掃き溜めのような場所だった。
一般人はおろか、北斗の人間でさえ、総括部から厳命を受けての任務でも無い限りはまず立ち入る事など無い場所である。
見渡せど見渡せど廃墟と瓦礫ばかりが目に入る戦闘解放区。
しかし、その瓦礫の一角に彼らは息を殺すようにひっそりと身を潜めていた。
そこは災害時に避難するために作られたと思われる広い地下室だった。照明系統と換気施設は生きており、しばしの間身を隠すには十分な場所だった。
その数、およそ五百前後。流派『夜叉』を中心とする北斗派の人間で構成されている。
彼らはエスタシア率いる反北斗派との抗争に敗れ、このような場所に逃げ隠れていた。反北斗派の戦力は予想外に凄まじく、流派『烈火』は凍姫のファルティアによって頭目を討たれ壊滅に追い込まれていた。流派『逆宵』にいたっては、何故か反北斗派についてしまった『浄禍八神格』の二人によって消滅させられてしまっている。流派『白鳳』と流派『幻舞』は中立姿勢のまま空中分解、今回の騒動には加わる事は無かった。
流派『夜叉』と流派『雪乱』は、流派『悲竜』と流派『修羅』の頭目をそれぞれの頭目が一騎打ちで撃破したものの、夜叉頭目レジェイドは捕縛され、雪乱頭目リルフェも重傷を負ってしまっている。
今現在の北斗派の戦力は、夜叉、雪乱、烈火の三流派と、後詰めの雷夢となっている。幸いにも、夜叉と雷夢は比較的被ったダメージは極めて少なかった。逆に雪乱と烈火はほとんど壊滅に近いため、指揮系統がはっきりとするまでは暫定的にどこかの流派に所属する必要がある。
彼らは疲れた様子で床に座り込んでいた。中でも夜叉の落胆振りは目を覆うものがある。無理も無い。北斗でも指折りの実力者でありながら、その高いカリスマ性で夜叉を統率していた名将が、あろうことか敵に捕縛されてしまったのである。しかも自分達は助けるどころか撤退を余儀なくされてしまった。その重圧は単なる敗戦よりも遥かに重い。
リルフェもまた、そんな中の一人だった。
彼女の場合は逆で、部下を幾人も見殺しにしておきながら逃げる以外に出来なかった事を強く深く悔やんでいた。もう少し自分に力と知略があれば、流れた血はもっと少なかったかもしれないのに。そんな言葉を自分に吐きながら何度も苛んでいた。
もっとも彼女の場合は心労だけでなく単純な肉体的ダメージも大きかった。体中のあちこちに、ぼんやりと浮かぶ赤い斑点をつけている。流派『修羅』頭目との戦闘において負った傷だ。傷口からの出血が雪乱の真っ白な制服を斑に染めたのである。今でこそ血は止まっているものの、単純に肉をえぐられた箇所も少なくはなく、痛みが消えるだけでもしばらくの時間は要する。特に関節付近の負傷は精密な動作に影響を及ぼす。たったその程度でも、普段通りの動きが出来なければそれだけで戦力が大幅に下がるのが戦場だ。今のリルフェの戦力的評価は本来の半分ほどしかない。
薄暗く感じるのは、何も照明の弱さばかりが原因という訳ではなかった。彼らの沈んだ空気がそのように錯覚させている理由もある。あまりに絶望的で先が暗く見えてくると、その心情がそのまま視界に反映されてくる。そして同じ意識が同調すれば、広範囲まで影響するほど増幅するのである。
何とか生き残る事は出来た。体勢を立て直せば、もう一度戦いを挑んで北斗を取り返す事が出来る。
けれど、圧倒的に勝算が無かった。こちらは有能な戦士が幾人も失っているにも関わらず、相手にはまだ、首謀者であるエスタシア自身を筆頭に、浄禍八神格、凍姫のトップスリーが残っている。そもそも、人間の範疇を超えた強さを誇る浄禍八神格が敵に回ってしまった事だけで限りなく絶望的な状況なのだ。こちらには浄禍八神格を倒せるだけの戦力、実力者は残ってはいない。
仮に、北斗らしく戦いを挑んだとしよう。しかし、一体そこから何が得られるのだろうか? 何も生み出さない死は、ただの犬死にである。優れた戦闘能力を持っていながら何も残す事が出来ないことほど屈辱は無い。そしてそれ以上に、彼らは死を恐れていた。北斗という最強の称号は、たとえどんな敵であろうとも自分は負けない、という自信を生み出していた。しかし、今目の前にいる敵は他ならぬ北斗だ。北斗同士の抗争で、数も戦力も劣っている以上、死はこれまで感じた事がないほど身近に感じられた。死を感じ慣れていない者は、容易に死への恐怖に屈服してしまう。
これらはエスタシアが危惧した通りの北斗の姿だった。戦士としての力量はともかく、精神の脆弱さはあまりに進行していた。そこには最強の戦闘集団『北斗』の姿は微塵も見られない。居るのは単なる敗者にしか過ぎなかった。
「なんじゃ、北斗とあろうものがこれだけ雁首揃えてしょぼくれおってからに」
不意に地下室内に響き渡る威勢のいい男の酒焼けした声。
現れたのは一振りの剣を持った老人だった。一体どこから入り込んできたのだろうか。誰一人として物音どころか気配にすら気づく事が出来なかった。老人はまるで空気のように現れたかのようである。
薄汚れた合わせ着から覗く腕は、肌の色こそくすんではいるものの筋骨の衰えははまるで感じられなかった。髪は見事な白髪ではあるものの、その年齢に似つかわしくない逞しい肉体が持つ存在感はあまりに圧倒的で、不意の来訪者でありながら誰一人として老人を止めようとする者はいなかった。
「どちら様でしょう?」
一番最初に老人の元へ歩み寄りそう訊ねたのはリルフェだった。
場の空気が緊迫する。俄かに戦闘態勢に入り始める者も幾人か現れ始めた。
自分の周囲をぐるりと北斗の人間に取り囲まれ、老人は尚も落ち着きを払った佇まいを崩す事は無かった。北斗は一人一人が死神も同然、数ある戦闘集団の中でも飛び抜けた強さを誇っている。その集団の中に武器を持って飛び込む事がどれだけ危険な行為なのか。老人の悠然とした表情はそれを理解していない訳ではなく、理解した上でそう構えているようであった。
驚く事に、これだけ数が違っていながらも、相手を圧倒しているのは老人の方だった。数で遥かに上回っているはずの北斗が、たった一人の老人の迫力に飲み込まれてしまっているのである。
誰しもが彼をただの老人とは思っていなかった。むしろ、老人の皮を被った鬼に近い。彼にその気があるならば、たった一人でこの場の全員を斬って捨てる事やりかねないだろう。
老人は鋭い視線で一時リルフェをじっと見据えると、静かだが重く響く声で答えた。
「不肖の弟子の尻拭いに来た」
不肖の……弟子?
老人の言い放った不可解な言葉に、リルフェははてと首を傾げた。
不肖の弟子とは一体誰の事なのだろう? そもそも素性をきちんと明確に答えてくれなければ、目的だけ答えられても分かるはずも無い。
と、その時。取り囲む一同の中の一部分がざわざわとざわめき始めた。それは夜叉の人間達だった。しかも比較的古参の者ばかりである。彼らの反応は、この突如として現れた老人の所在を知っているかのようだった。ただ、何故このような場所に現れたのか、理由ではなく具体的な方法が分からずに戸惑っているのである。
老人は再度一呼吸の間を後、リルフェを強く見据えた。
「わしは流派『夜叉』前頭目、天豪院空恢じゃ。最近の者は先達の名も憶えておらぬようじゃな」
「テンゴウイン……前頭目? もしかして、よくレジェイドさんを半殺しにしてた、あの?」
いかにも、と老人は肯いた。同時に周囲からはどよめきが走り始める。
流派『夜叉』前頭目、天豪院空恢は、かつて北斗一の剣士と謳われた剣豪中の剣豪だ。その太刀は滝流れすら両断するとまで言われている。その功績も目覚しく、たった一人で敵対した戦闘集団を幾つも壊滅させてきた。指揮官としての能力も並外れ、とても勝算は無いと言われた戦役を何度も勝利に導いている。名実共に優れた、北斗の歴史に名を残すに相応しい頭目である。そんな彼も寄る年波には勝てず、現頭目のレジェイドに座を譲ってからは隠居して鍛冶工となった。
たとえ引退した人間とは言え、空恢の持つ武人然とした迫力は若い戦士を容易に飲み込むほど雄々しく巨大だった。これが肉体の衰えを理由に引退した人間の放つ空気なのだろうか。彼を実際に知らない夜叉の若い人間や他流派の人間は、ただただ驚愕するしかなかった。ここにいる現役の人間ですら彼の前には到底歯が立たない、というイメージが頭から離れない。それはほとんど本能的な察知だった。場を同じにした時点でその構図は必然的に決まってしまったのだ。
「ここの仕切りはお前さんか?」
「一応、暫定的にですけど。レジェイドさんに頼まれたもので」
答えるリルフェの表情には僅かな陰りが見える。
レジェイドはシャルトを人質に取られた事で凍姫に投降してしまった。それは一頭目としてあるまじき行為である。だがリルフェには、レジェイドにとってシャルトがどういう存在なのか知っている以上、単に批難する事は出来なかった。頭目と個人との境界に揺れる苦しみ、レジェイドが味わったのはそれ以上だろう。
「そうか。なら引き続きお前さんが務めるといい。わしは補助に回ろう」
「良いのですか? あなたの方が相応しいと思いますが」
「引退した人間がやっても意味は無い。お前さん方、新しい世代の人間が勝って初めて意味がある。北斗は老人で成り立つ街ではない。新しい人間が新しいものを生み出すための街だ」
そう、空恢は静かだが威厳ある重い口調で若い彼らに語りかける。
「そもそも、老兵がしゃしゃり出てくる事自体が場違いなのだ。盛りを過ぎた役者が舞台にしがみつくようなもの、見苦しい事この上ない。その恥をあえて忍んで来たのは、お前達があまりに不甲斐なさ過ぎるからだという事を認識してもらいたいものだ。とにかくだ。明日未明、反乱軍に攻撃を仕掛ける。間はあまり開けぬ方がいい。立て直しの時間は与えぬ方が良いからの。では、それまで作戦を練るとしよう。まずは現状の整理だ」
まるで誰しもがその言葉を待ち望んでいたかのように、一斉に皆が動き始めた。
俄に一同が息を吹き返して来た。
空恢の存在はあらゆる不安を拭い去ってくれる頼もしいものだった。この人の言う通りにしていれば必ず自分達は勝てる。そんな根拠のない妄執さえも浮かび上がってくる。けれど、今はたとえ思い込みでもそれにすがっていたかった。希望の無い戦いなど、初めから敗北が決まっているようなものだからである。思い込みで勝てるほど戦争は甘くは無い。しかし、落胆した今の彼らにこそ思い込む事が必要だった。たとえ空元気でも、自信を取り戻す事が勝利への第一歩なのである。
と、人々が忙しなく動き出すその最中、空恢は不意にリルフェを止めた。
「お前さんは特に怪我が酷い。本来なら休ませるところなのだがの」
「絶対ヤです」
「だろうな。頭目はそんな軽い名ではないからの」
リルフェの答えが期待通りのものであったため満足したのか、空恢は僅かに目を伏せて大きく頷いた。
「それにしても酷い怪我じゃな。手当てはきちんとしておるかの?」
「応急手当みたいなものですけど、今はこれで十分です。これが終わったらゆっくり休ませて貰いますから」
「いや、何。少々気になっての。この辺りの怪我が特に酷いのではないかと」
突然、徐に空恢はリルフェの背に手を回すと、そのまま腰までのラインを舐めるような手つきで撫でた。
ビクッと体を震わせたリルフェは次の瞬間、反射的に唸りを上げて右腕を力一杯大きく振り回した。けれど空恢は、さながら手斧のようなその攻撃をいともあっさりとかわしてしまう。そしてその鋭い目が一瞬、にやりと不敵に笑った。
「もう! 夜叉はエロ頭目ばっかりですね!」
「そうそう、その意気じゃ。頭目の名に責任を持つ事は良いが、肩肘ばかり張っても空回りするだけじゃ」
「エロばかりで何一つ胸を打つものがありません」
したり顔の空恢が放つ訓示はあっさりと斬り捨てられてしまった。
外見からは想像出来なかった行動への驚きと、先達に対するあまりに不遜な態度への怒りと、それを抑える男性本能的な理性が一度に込み上げ、空恢は複雑な表情を浮べてしまった。
この歳で戸惑うとは思いもしなかった。
TO BE CONTINUED...