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「なんか思ったよりも随分静かだね」
地下の区分に入る最後の一歩を踏み出した瞬間、ヒュ=レイカはそんな軽口を叩いた。
地下という密閉された空間がうっすらと取り巻いていた窒息感から一同を解き放ち、自然と込み上げる安堵が溜息を促して来る。
周囲はうっすらと明るみを帯びていた。地下にいる間に日の出が近づいたのである。
建物の内部にはまるで人の気配が感じられなかった。床を踏み締める足音が耳障りなほど甲高い声を上げる。静寂の空気に響き渡る三人の足音はむしろ不安感を煽るものだった。
「もう建物の中には幾人も残っていません。皆、策にかかり散り散りにされたのか、明らかな劣勢を前にして逃げ出したのか」
淡々と語るミシュアの表情には、苦味というよりも物悲しさが伝わってくるそんなものだった。明るさが窺えないのは、本来の彼女が持つ気質のためか。ただ少なくとも、あまり表情に余裕が無いのは全身に負った怪我が、特に酷い足の傷が痛むせいだという事だけははっきりしていた。
「劣勢って、そういえば今の戦況はどうなってるのかしら? 私、ずっと地下にいたから何も知らないの」
「浄禍八神格が悉く討ち倒されました。全員とまでは情報は入っていませんが、音沙汰が全く無い事を考えると、もしかしたら既に」
そう答えたミシュアの言葉に、ルテラは驚きに青い目を大きく見開いた。
「え? まさか、あの浄禍が? 冗談でしょ?」
俄かに信じられないルテラは当然だった。
おおよそ北斗の人間で北斗最強の流派『浄禍』を知らぬ者はいない。その力は現人神とも比喩される人間離れしたものだ。たった一人で幾万の軍勢にも匹敵する。おおよそ並の人間では何人束になろうとも敵わない。そもそも種として人間の域を逸脱しているとしか思えないほど彼女らの力は異質であり異常なのだ。北斗の最強の象徴であると同時に、畏怖の対象でもある彼女らに弓を引く行為は想像の範疇に留めておくのが最も賢い選択だ。それは、蟻がドラゴンに噛み付くのと同じ行為だからである。
しかしミシュアははっきりと、それが事実であると態度で示した。そもそもミシュアは下らない冗談を口にし、相手の反応を楽しむといった趣味は持ち合わせていない。彼女がそうと口にした以上、情報ソースに誤りでもない限りは真実以外の何物でもない。
そして。
「僕も一人倒したよ。『断罪』の座」
安穏とした口調でミシュアに続いたヒュ=レイカ。その言葉に更にルテラは驚きを露にしたが、ミシュアもまた同様に驚きに両目を見開いた。浄禍八神格の敗北については可能性の問題として少なからず予想は出来ていたものの、その一角がヒュ=レイカによるものだったとは全く予想が出来なかったのである。
「ホント!? だってホラ、さっき精霊術法が使えないって言ってたじゃない。一体どうやったの?」
「まあ、ちょっとばかり奇知をてらってみたりなんかしたんだな。でもさ、やっぱまともに障壁も使えないからこの有様でね」
「だからそんな大怪我してるのね……」
これぐらいすぐ治るよ、とヒュ=レイカは普段の調子で笑ってみせる。しかし二人の表情からは一向に怪訝の色は消えなかった。それはヒュ=レイカの言葉を疑っているのではなく、ヒュ=レイカがここまで追い詰められた事が珍しくて仕方なかったのである。良くも悪くも己を知り状況を鑑みる能力に長けているヒュ=レイカは、決して危険なリスクを背負うような戦いはしない。幾ら浄禍八神格の一人に捕まったとしても、全く逃げ出せる隙が無かったはずはない。にもかかわらず、何故あえて立ち向かったのか。それも術式が使えない状態でだ。とても普段のヒュ=レイカからは想像のつかない行動である。
「二人とも、僕の認識を間違ってるようだね。僕はやる時はやるんだよ。空気読めない人間だと思わないで欲しいなあ」
「そうですね。あなたは比較的不言実行型のようです。ですが、出来る限りオープンな行政を取りたい北斗にとって、そういった気質の人間は受け入れ難いという事を留意して下さい」
「ミシュアさんって、割と説教好きだよね。口年寄りって言うのかな?」
「真面目に聞きなさい」
一階はミシュアの話した通り、まるで人気らしいものを感じなかった。それだけでなく、この建物自体が不気味なほど静まり返っている。人気という人気が感じられないのだ。ミシュアの言う通り、ほとんどの人間がここから逃げ去ってしまったのだろう。反逆軍の作戦による分散ではない、と判断するのは、反逆軍にはそういった策を練る人間が思い当たらない事と、長く戦いの場に身を置いた人間にしか嗅ぎ取れない戦いの臭いが建物の中から一切感じ取れないからだ。それに、北斗軍の反撃が予想外の苛烈さで腹に穴を空けられてしまったため急いで逃げてしまった、と考える方が自然である。
「お兄ちゃん大丈夫かな……シャルトちゃんも」
「大丈夫さ。普通にやってレジェイドに勝てる人なんかいないもん」
「確かにそうだけどさ、けど、その大丈夫には根拠が無いじゃない」
そう不安げな表情を浮かべるルテラ。ヒュ=レイカの表情に同じ陰りは見られなかったが、それは場の空気を出来る限り盛り下げないための無理に作り出した明るさだった。元々重苦しい空気が苦手であるヒュ=レイカは、不安を露にするルテラの陰鬱な心情に居たたまれなさを否めなかった。
「私は先程よりも前に地下を全て調べましたが、二人の姿はありませんでした。ですから安心して良いでしょう」
ミシュアがヒュ=レイカに続いた。
眉の間に軽く皺を寄せた重苦しい表情だったが、その口調はあまり仕事中にも見せない明朗さすら感じさせる柔らかいものだった。ルテラにとっては呼吸するよりも自然に軽口を叩くヒュ=レイカよりも、ほとんど笑顔すら見た事の無いミシュアのどこか安心するに足り得る理由を確信している口調の方が説得力があった。そして、レジェイドの普段の顔ならばともかく戦士としての顔をほとんど知らなかったが、おそらく一番それを知っているのは何より一番近い場所にいるミシュアである、とルテラは自分の中で位置づけていた。そんなミシュアが確信するのだから、本当に安心して良いのだろう。そう考えをまとめると、ルテラは幾分か表情を和らげる。
「そういやさ、その怪我って、確かレジェイドとやり合った時のだよね? じゃあ同じぐらい怪我してるんじゃ?」
「ええ。ですから、信じ難い事にその上であれだけの敵を倒せる程の方なのです。半死の体でおよそ五十以上を切り捨てるような人間に敵う者など、反逆軍にはそういません。浄禍八神格、もしくは首謀者であるエスタシアぐらいでしょう」
「生身でそれだけの数を倒せるなんてねえ。術式使っても難しいのに」
「単純な武力では、彼に敵うものはいませんよ。だから安心して良いのです」
薄明るさを頼りに、三人は風の流れてくる方へ向かって歩いて行った。
風の流れがある方向には出入り口がある。おそらくレジェイドが脱出したとすれば正面、もしくは裏口のどちらかである。しかし、レジェイドは自分達同様に総括部の内部は極限られたエリアしか知らないため、正面口は知っていても裏口は知らない。わざわざ裏口を探すのは敵に見つかりやすくなるというリスクも背負う。それよりはあえて正面口から出て行く方がずっと安全だ。
「あ、見えてきた。正面玄関」
やがて、視界の先には微かに群青色の光が差し込み始める。半開きの重厚な観音開きの扉が薄っすらと映っていた。その無用心としか思えない様子が現状の総括部が置かれた悲惨な状況を物語っている。
「開いてるって事は、やっぱりお兄ちゃんかも」
「そうですね。まだ追いつけるかも知れません。死体はまだ斬られて間もありませんでしたから」
「死後硬直とかその系? なんか恐い表現だなあ」
そして三人は出口に向かって足を速めた。
ルテラは特に目立った外傷は無かったが、ヒュ=レイカは全身の至る所を切り刻まれ重傷、ミシュアにいたっては足に深い傷を負っている。急ぎたい気持ちも山々だが、急ごうにも急ぐ事が出来ない体なのである。だが、三人は急がなければならなかった。幾らレジェイドが強いとは言っても、決して余裕のある状態であるとは思えなかったからである。それに、おそらく一緒にいるであろうシャルトの件もある。味方の戦力が少ない以上、孤立させる事も危険だ。たとえ怪我人でも、一箇所にまとまっている方が危険が少ない事は当然である。
「あっ?」
突然、ミシュアは二人の服を掴みその場に立ち止まった。
いきなり何だろう? そう二人はミシュアの方を振り返る。
「誰かいますね……」
すると、ミシュアは訊ねられるよりも先にそうぽつりとつぶやいた。
鋭い眼差しはじっと前方の、群青色の光が差し込む正面口に注ぎ込まれている。そんなミシュアの様子に、二人はミシュアの言う誰かとはレジェイドではないという事を推察すると、続いて同じ方向へ身構えた。
「誰かしら……?」
「どうやら二人居るようですね。片方は男性、もう片方は女性でしょうか……いえ、その後からかなりの数が近づいてます」
「もしかして、北斗軍のみんなが到着したんじゃない?」
「はたまた、思い直した反逆軍かもしれません」
一同の間に緊迫した空気が立ち込める。
今、三人に残された余力は幾許も無い。皆が北斗では指折りの実力者ではあるが、これほど疲弊した状態で何倍もの戦力を相手にするのは無謀の一言に尽きる。徹底抗戦だけは何としても避けなければならない。もしも仮に真っ向から遭遇してしまえば、逃げる猶予も与えられずただ一方的に踏み潰されてしまうだろう。
「どちらにせよ、先行している二人を先に片付けましょう。後続は回避して様子を見てから判断するのがベストです」
「そうね。レイは後ろに下がってて。私とミシュアさんで何とかするから」
「分かった。くれぐれも気をつけて」
ルテラとミシュアは静かに呼吸を落ち着け、目標の気配をはっきりと捉えにかかる。
向こうはこちらに気がついていないのか、まるで無防備に気配を放ちながら正面口へ向かってくる。気配の推移から察するに、相当の速さで走っている事が分かった。こちらの気配に気づいていないのはそのせいだ。
そしてはっきりと足音が聞こえてくるほどの位置まで気配が近づいてくると、二人は顔を見合わせて頷き合うと、同時に前へ飛び出した。
ルテラは右側の女性の気配、ミシュアは左側の男性の気配に向かって一気に突っ込む。
「あ!」
それは誰が上げた声かは分からなかった。だがその瞬間、目まぐるしく世界が何度も回転した事は確かだった。
群青色の光に飛び込んだ直後、ルテラは見覚えのあるワインレッドの髪が揺れる様を目にした。繰り出そうとした右腕に体現化した術式を驚きで散らしてしまい、目の前に捉えた女性に真っ向から突っ込む。だが急に彼女が色素を失って真っ白になったかと思うと、そのまま彼女を突き抜けて地面に向かって飛び込むように転んだ。
同時にミシュアは右側の男に向かって右腕から体現化した氷の短剣を喉元へ繰り出した。しかし、目の前に迫った顔の造形を確認すると同時に短剣を寸前で止める。
「あなたは……!」
「やあ、久しぶりだね。でも、相手を確かめずに襲い掛かるなんて君らしくないなあ」
そう微笑む男にミシュアは唖然とした表情のままおずおずと短剣を引き後退った。珍しく動揺したミシュアの様子に、青年はただのんびりとした笑顔を向ける。到底殺気というものとは無縁そうに見える表情だ。
「あら、ルテラじゃないですか?」
「つつ……リルなの?」
一方ルテラはリルフェに手を引かれながらゆっくりと立ち上がる。すかさずリルフェは汚れた服を払う。しかしルテラの視線はリルフェよりも先に、ミシュアの前に居る青年を捉えそこに止まった。
認識するよりも早く、まず心臓が破裂しそうなほど大きく高鳴った。これほど痛みを伴う鼓動はどれだけ久しぶりの事だろう。今にも心臓の上げる悲鳴が聞こえてきそうである。
喉が収縮しうまく声を出せない。奔流のような驚きが俄に痺れ始める体と乾き切った舌の自由を奪う。にもかかわらず、思考は異様なほど高速に回転していた。
「スファイル……?」
ようやくしわがれた声を振り絞る。青年は自分の名前を呼ばれたように微笑み返した。
何度も夢に見た、あの時のままの表情だ。
気がつくとルテラは自分の胸を強く押さえていた。そうでもしなければ、痛さに耐え切れそうにないからだ。
TO BE CONTINUED...