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 誰も私に追いつけなかった。
 私は風。
 思うが侭に走り続ける、自由奔放な存在。
 そして。
 私の前に現れたあなたは、立ち塞がる大きな壁。

 ちくしょう。
 絶対に、ぶち破ってやる。




「ちょっと付き合って」
 昼休みも終盤に差し掛かった、とある日の昼下がり。
 昼食を終え凍姫訓練所に戻ってきたリーシェイは、中庭に勝手に設置したテーブルセットの下で優雅にお茶を飲んでいた。その日の空模様は突き抜けるような晴天で、日差しも適度に温かく秋風が涼やかで心地良かった。リーシェイは長い足を組みながら背もたれに深く体を預け、じっくりと時間をかけて蒸し出したお茶の香りを楽しみながら飲んでいた。
 そんな時だった。
 不意に、バンッと激しい音を立てて訓練所のドアが開かれたかと思うと、ずかずかと一人の女がリーシェイの元へ歩み寄ってきた。そして女は勢い良くテーブルを叩いた。テーブルの上にあったポットが揺れ、リーシェイは不快そうに眉を潜める。
「なんだ? ファルティア。悪いがお前のような跳ね返りは私の趣味ではない」
 リーシェイは取っ手のない奇妙なデザインのカップをテーブルに置くと、その女をファルティアと呼び、じろりと鋭い視線をぶつけてきた。しかしファルティアと呼ばれたその女は、リーシェイに一歩も遅れを取らない気迫をぶつけてくる。
「こっちだって、あんたみたいな変態は御免よ。私が言ってるのはね、組み手の事」
「組み手? まだ昼休みは終わってなかろう。午後からでは駄目なのか?」
 リーシェイは一度、ちらりと大時計台の針を確認してからそうファルティアに素っ気無く答えた。貴重な昼休みをそんな事に費やしたくはない。そんな意図が露骨に見えている。
「『人の三倍働く者が明日の勝利者』っていうでしょ? ダラダラしてる時間がもったいないの!」
「やれやれ。何処から仕入れたのかは分からんが、随分と病める格言に傾倒したものだ。その心がけは立派だが、私は三倍働かずとも勝利を手に出来るのでな。相手が欲しいのなら、壁でも木人でも打つがいい」
 そう、またもや素っ気無く跳ね除けると、リーシェイはカップに深赤茶色のお茶を注いだ。
 と。
「あのね、私はマジで言ってるんだけど」
 ファルティアは感情を押し殺したような震える声で、再度自らのトレーニングに付き合う事を要請してきた。リーシェイは、おや、と僅かに眉を上げた。ファルティアがこれほど感情を押し殺した声で話すのは初めて耳にしたからである。ファルティアは言葉よりも先に手を出す人間である。気に入らない事があれば、我慢する前に力ずくでどうにかしようと試みた事は一度や二度ではない。そんなファルティアが自分の感情を抑えているという異常事態に、リーシェイは少なからず驚きと訝しみを覚えた。
「動くものが殴りたければ、その辺に幾らでもいるだろう」
「それじゃあ駄目なの!」
 すると、ピッと鋭い音を立ててファルティアの左足が閃いた。刹那、その足は正確にリーシェイの側頭部を目掛けて繰り出された。しかしリーシェイは眉一つ動かさず、お茶を飲みながらその蹴りを右手で受け止める。
「無粋な女だな、貴様は」
「うっさい。嫌っつっても、こっちは勝手にやらせてもらうからね」
「世間一般ではそれを、暴力と呼ぶぞ」
 冷静に反論するリーシェイだったが、ファルティアはまるでその言葉に耳を貸そうとはせず、ひゅうっと鋭く呼気を放った。
 本気か。
 リーシェイはやれやれとうんざりした表情で溜息をついた。今の特殊な呼吸法は、魔術を源流とする精霊術法を行使する際に行なうためのものだ。それはつまり、ファルティアの攻撃宣言が脅しの類ではない事を意味する。リーシェイに非はなく、これは理不尽な暴力に当てはめて相違はなかった。しかし、幾ら正論を用いようとも、それは直接的な影響力、つまり物理的干渉力は持たないものだ。理路整然とした全く付け入る隙のない正論も、直接的な力の前には無力である。
 無理が通れば道理が引っ込む、か。
 仕方なしにリーシェイは飲みかけのカップをテーブルの上に置くと、ファルティアの二打目が来る前にイスから立ち上がった。
「中に入るぞ。外でやるには、ここの外壁はいささか法術強化が心許ない」
 先だって歩くリーシェイの後をファルティアはすぐさま追った。そのまま二人は訓練所内のホールに入っていった。ホールは昼休み中という事もあり、がらんとして人の気配はなかった。いや、よく見ればホールの隅で腹に毛布をかけたまま昼寝をしているラクシェルの姿があった。大きく口を開け、手足をだらしなく四方に放り出している。しかし二人は、そんな彼女には目もくれずホールの中心へと向かう。
 と。
 ごうっ、という空気を叩きつける音がリーシェイの背後から聞こえた。リーシェイは涼やかな表情でゆらりと頭を横へずらす。ワンテンポ遅れ、ファルティアの右腕が風圧と共に通り抜けていった。リーシェイの黒く長い後ろ髪が風圧に巻き上げられ、三束ほどが宙を踊った。
「不意打ち、しかも背中からの攻撃とはな。行儀の悪い」
 リーシェイは自らの頭の横を通り抜けたファルティアの右腕を、左手で肘を外側から、右手で手首を内側に捻り力が入れられぬように極める。そしてそのまま体を前方へ屈め、ファルティアの体を前方へ豪快に投げ飛ばした。くるくると回りながら飛んで行くファルティアの体。しかしファルティアは空中でバランスを整えると、そっと音を立てずに着地した。
「いちいちるっさいわね。戦場じゃあ油断したヤツから死ぬのよ!」
 ファルティアは凍姫の青い上着を脱ぎ捨てた。その下に着ていたインナーは、左腕は長袖であるにも関わらず右腕はノースリーブという奇妙なデザインだった。
「ならば、真っ先に死ぬのはお前だな」
 ふん、と鼻を鳴らして嘲笑するリーシェイ。するとファルティアはそれに対する返答代わりと言わんばかりに、右腕を大きく振りかざした独特の構えを取り猛然と踏み込んできた。構えたファルティアの右腕の周囲に小さな青い光の粒子が集まってくる。精霊術法を行使したための視覚的現象である。見る間にファルティアの右腕は二周りも大きく膨れ上がった。体表の色も肌色から氷のような青白い色に変わる。
「らあああああっ!」
 凄まじい気合を張り上げながら、その巨大な右腕を振りかぶり狙いをリーシェイに定めて打ち放った。巨大化した右腕の周囲には冷気の奔流が渦を巻いている。ファルティアの拳はその目を打ち抜くかのように猛然と突き進んでいく。
 だが、
「単調だな」
 異常なまでの質量が迫り来ているにも関わらず、リーシェイは表情一つ崩さずにに攻撃の軌道を見定めると、その燦々たる分析結果に小さく溜息を漏らした。
 リーシェイはファルティアの右腕を手合いの中に入れると、触れる寸前で左足を軸に体を横へそらし、同時に左手でファルティアの右肘を捕らえる。続けて右手で手首を掴むと、右手を引きながら左手で肘を下に押した。更に軸足を左から右に移すと、左足を斜め下に突き出してファルティアに足をかける。
「ぎゃっ!」
 あっさりとバランスを崩したファルティアは、自分の攻撃の勢いで、びたん、と床に顔から転倒した。すぐさまリーシェイはその首筋に手刀を当てる。
「これでお前は一度死んだ」
「くそっ!」
 ファルティアは痛がる間もなく右腕を振り上げると、そのまま床に向かって垂直に打ち下ろした。咄嗟にリーシェイが場を飛び退いた直後、轟音を立てて衝撃が床とファルティアに帰る。その勢いを利用してファルティアは飛び上がり、再び構え直す。
「らあっ!」
 続けて、ファルティアは右足を軸にし左足を振り上げた。しかしリーシェイはそのハイキックに素早く反応すると瞬時に体を沈め、そのまま曲げた左足を軸に体を一回転させながら伸ばした右足を床の上を滑らせる。そして無防備なファルティアの軸足を横薙ぎに刈った。軸を失ったファルティアの体は振り上げた左足の勢いで宙を舞い、またもや床の上に重力によって叩きつけられる。
「布石もなしに大技を用いるのは自殺行為だ。細かな戦術をおろそかにするのはお前の欠点だぞ」
 冷然と言い放つリーシェイ。その足元でファルティアは唸りながらも手をつき立ち上がった。
「じゃあ、一体どうしろっていうのよ」
 ファルティアは左手の甲で、鼻面にじんわりと滲んでいる血を拭った。続け様に床へ打ちつけたせいである。
「一度に決めようとはせず、じっくり慎重に攻めろ。隙あらば、リスク計算をして折り合いをつけた上で大技は使え。即ち、戦術。ただそれだけの事だ」
 リーシェイが最後の言葉を言い終わるか否か、ファルティアは三度猛然と前進する。
 即座にファルティアの出方に注意を注ぐリーシェイ。もし、またこれまでのような大振な技を使ってくれば、勢いを利用して逆にカウンターを食らわせる。リーシェイが得意とする戦闘スタイルは、遠距離からの正確無比な精霊術法の射撃だ。だが決して接近戦が得意という訳ではない。元々リーシェイは北斗に入る前から、相手の力を利用して戦うという異色の武術を習得していた。そのため本来の魔力の絶対値は劣っているリーシェイは、ファルティアの全力の一撃を、直接障壁で防げば打ち抜かれてしまうのだが、それをあえて術式は行使せずに物理的な力を流すやり方で対応している。リーシェイにとって、直接素手で触れる攻撃は肉体だろうと精霊術法だろうと全て一様に『力』という認識になる。そして、その力の往なしを瞬時に行なうのがリーシェイの武術だ。
 空気を裂くような鋭い音。
 ファルティアは、リーシェイの言葉を自分なりに解釈し反映させたのか、これまでのような大振の攻撃ではなく細かく刻むようなブロウを繰り出してきた。先ほどのような技は使えないか、とファルティアは心の中で眉をひそめる。間断なく細かな攻撃を繰り返す事で相手の攻撃の隙を露呈させようというのだが。しかし、あまりに攻撃が稚拙だった。脇も甘く、その気になればいつでも反撃は可能だった。幾ら攻撃の隙を減らした所で、攻撃そのものに有効性がなければ幕にはならない。相手がこちらの行動を制限する攻撃パターンを思考する分、隙を覗うのはむしろこちら側だ。
「何を焦っている?」
 必死で攻撃を刻むファルティアに対し、リーシェイは冷静にそれらの攻撃を捌きながらそう訊ねた。
「焦るって何よ!」
「お前の事だ。今までこれほど練習熱心だったとは思えんがな」
 びしっ、と音を立て、リーシェイはファルティアの左ストレートを受け止めた。精霊術法の関与がない攻撃ではあるが、さすがにじんと手のひらに衝撃が染みる。
「最近なったの!」
 左手を引き、再び右手を突き出してくる。さすがにそれを正面で受ける訳にはいかないため、触れる寸前で体を外側にずらし、攻撃をそらす。
「ほう、それは殊勝な心がけだな。しかし、唐突過ぎるな。理由はなんだ?」
「ルテラのヤツよ!」
 そのセリフがスイッチになったらしく、ファルティアは唐突に大振な回し蹴りを放ってきた。リーシェイは反応出来なかった訳ではなかったが、あえて反撃はせずに後退し、ファルティアとの質疑を継続させる。
「あいつをぶっ飛ばさない事には気が済まないの! 私を思い切りぶん殴っておいて、今は何? ヘラヘラしやがってむかつくじゃない!」
 轟、と吠え、ファルティアは振り上げたばかりの右足を、どんっ、と床に叩きつけるように踏ん張ると、左足を直線的に前方へ突き入れた。しかしそれもリーシェイは予測しており、あっけなく下から掬い上げた。ファルティアは空中で一回転し、またもや音もなく着地する。
 ファルティアは以前、雪乱と凍姫が抗争していた最中に何度かルテラと事を交えていた。しかし、全てにおいてルテラには完膚なきまでに叩きのめされている。生来の負けん気の強さから、抗争が終わり、抗争の遺恨を持ち出す事を全面的に禁止されている現在ですらファルティアはルテラに対しリベンジを果たそうとしている。一応、ファルティアは遺恨を晴らそうとする事だけは自制しているが、恨みにも似たその気持ちが縮小した事は一度もない。にも関わらず、一方のルテラは雪乱を辞めて以来、北斗とは全く縁を切り前頭目であるスファイルと極普通の生活をしている。その姿には、かつて凍姫を震撼させファルティアが手も足も出なかった『雪魔女』の面影は片鱗もなかった。
 今現在のルテラの姿が、ファルティアは許せなかった。たとえ禁止されていたとしても、その気にさえなれば、強引にリベンジマッチを挑む事は出来る。しかし、今のルテラは雪魔女どころか北斗でさえない。一方的にライバルと決めた人間が、戦う事を忘れ腑抜けている。その事実がファルティアがうねらせている感情の矛先を奪った。そして、例えようのない憤りを燃やし続ける。
「屈折しているな。人の幸福は素直に祝福するものだ」
「うっさいわね! こっちは無視で自分勝手にやってるのがむかつくのよ!」
「向こうは貴様など眼中にないのではないか?」
 激昂するファルティアに対し、リーシェイは極めて冷然と言い放った。鋭い言葉に自らへの嘘という装甲を剥がされ柔らかい部分を深くえぐられたファルティアは、右腕を再び振りかぶると精霊術法の態勢に入った。
「純粋に、頭目として自らを研く事は出来ないのか? いつまでもルテラに固執する必要はあるまい」
「あいつをぶっ飛ばしたらそうするわよ!」
「だからお前は未だ処女なのだ」
 ぎりっ、とファルティアは憎々しげに奥歯を噛むと、振りかざした右拳に魔力を集中させる。
「死ねっ!!」
 殺意の怒号と共に、ファルティアは右腕を手合いの外からリーシェイに向かって繰り出した。瞬間、右拳に集まっていた魔力が凝縮した実弾となって撃ち出された。
「おっと」
 間合いの外から繰り出された攻撃にリーシェイは僅かに驚くも、体を横にずらして難なくそれをかわす。攻撃は肉体の一部であろうとなかろうと、軌道さえ読む事が出来れば回避は容易である。後は軌道上から自分の体をずらせばいい。少なくともリーシェイにはそれが可能だった。
 が。
「あ」
「あ」
 その時、二人は同時に声を上げた。
 ファルティアに撃ち出された氷の弾丸はリーシェイに掠りもせず突き進んでいったが、その先には―――。
 法術で強化された壁との反発作用による、電流がスパークを起こしたような爆発。もくもくと爆煙が上がる中、むくりと人影が起き上がった。
「やべっ……」
 思わず苦い顔をするファルティア。その間にも爆煙の中に立った人影はゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。途端、まるで竜巻が起こったかのように爆煙は人影を中心に渦を巻いて掻き消えていく。ひやりと冷たい風が静かに流れてきた。
 それは、急激な怒りのため目が真っ赤に血走ったラクシェルだった。
「いや、わざとじゃないんだって」
 そう弁解するファルティア。だがラクシェルは、返答に代わりに両腕に真っ白に輝く凍気を体現化した。ラクシェルの得意とするのは、前戦闘指南役だったミシュアに叩き込まれた格闘技と、凍姫で唯一体現化する事が出来る絶対零度の術式を組み合わせた技だ。あらゆる物質の原子運動を停止させて攻撃を加えるそのスタイルを、ラクシェルは『この世で破壊出来ないものはない』とまで自負している。実際の所、これまでラクシェルの攻撃を正面から受けて無事だった人間はいない。攻撃力だけならば、事実上凍姫の最上位だ。
 しかしそんなラクシェルは、普段は穏やかな常識人に見え、その実は些細な事ですぐに我を失う危険な思考回路の持ち主でもあった。スイッチの入る法則性は明らかにされてはいないが、少なくとも自分に害を成した人間には心底冷酷になる事だけは判明している。
「やれやれ。どうやら話し合いは通じなさそうだ」
 リーシェイは微苦笑をたたえ、肩をすくめた。



TO BE CONTINUED...