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 無政府国ヨツンヘイムの中で、唯一の治安市街である北斗。そこから僅かに離れた荒野に、一つの人影がうずくまっていた。
「うう……」
 影は苦しげに唸りながら、力を失った膝で立ち上がろうとする。しかし、すぐに膝は崩れて影は地面に突っ伏す。
 その影は、齢は四十を過ぎたほどだろうか。しかし額に張り付く髪は真っ白に色を失っており、頬もまたげっそりと痩せ落ちているため、実年齢よりも遥かに老いて見える。全体的に枯木を思わせるような細身の男。だがその一片の無駄の無い体は、男の体調管理が優れている事の現われでもある。
 ぜいぜいと息を切らせ、地面についた両手を突っ張って上体を辛うじて起こす。けれど男には、それ以上起き上がる余力は残っていなかった。
 だが。
「ここは……?」
 男はその疲労とは裏腹に、自分が置かれている状況を理解出来ていないような困惑を見せていた。こけた頬を僅かに震わせ、男は尚も酸素を求めて乱れた呼吸を繰り返す。
 ぽたり、と汗の雫が額から鼻を伝って地面へ流れ落ちる。男はその様を茫然としたまま見つめ続ける。全身にずしりと圧し掛かる疲労感、骨の軋む不快な感触、そして凍てつくような震え。
 男は全身に多くの傷を負っていた。無数の裂傷と、凍傷。地面についた手をよく見れば、右手と左手とでは指の数が違っている。左手の小指が途中から欠けてなくなっている。その小指の残った部分は凍傷のため真っ黒に変色していた。他の指もまた、辛うじて指としての形は保っているが何本かの指先は小指同様黒く変色している。
 男が受けたダメージは、全て精霊術法によるものだった。ヨツンヘイムでは寒冷期に入ればある程度の積雪はあるものの、死者を伴うような寒波に見舞われる事は無い。つまり意図して身を晒さない限りこれほどの凍傷にかかることはありえないのだ。更に季節的にも凍傷は起こりうる気温ではない。
 男の受けた術式は、人体に重度の凍傷を負わせることが出来るほどの威力を持つ凄まじい冷気を体現化したものだった。それも、彼は純粋な反応速度と速力ならば常人の群を抜く実力を持っているにも関わらずそれを軽く凌駕してしまうほどのパワーを持った術式だ。
 しかし、彼はそれすらも憶えてはいなかった。一体どんな攻撃を受けたか以前に、そうなるまでの経緯すら思い出せないのである。彼の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。消えたというよりも、そっくりそのまま抜き取られたように思い出せないのだ。
 と。
「ご苦労様でした」
 不意に、男の正面に新たな人影が現れた。
「お主は……」
 男は頭を上げて影を確かめようとするものの、その位置からは逆光で影の顔は黒く染まり、はっきりと顔立ちや表情を見る事が出来ない。
「おかげで良いデータが取れましたよ。今後の計画の参考にさせていただきます」
 影の微かな冷笑。
 その時、男の脳裏に稲妻のように何かが閃いた。
 この表情、見た事がある。そう、それは確か……。
「お主……一体、何をした!?」
「死に行く者へ餞は送らない主義でしてね。答える義務はありませんよ」
 すると影は、自分の尻のやや上に差した二刀を抜き去った。
「あなたには流派『風無』の頭目として、最後の努めを果たして頂きます」
 影は再び冷ややかな笑みを浮かべた。
「反逆の首謀者として」
 抜身の二刀を頭の上に交差させて構える。その透き通った刃は太陽の光を浴び、眩しい乱反射を起こした。
「くっ……おのれ」
 男は何とか抵抗を試みた。しかし、男の体は既に極度の凍傷と疲労により限界を迎えている。如何に戦闘意思があったとしても、その意思を媒介する体がついていく事が出来ない。身体は意思力だけでは動く事は出来ないのだ。まして、男の受けたダメージは早急な治療を要する重傷だ。意思を保てているだけでも驚異的なのである。
「あなた方『風無』は、余計な事を知り過ぎたんですよ」
 影の冷笑に、男は口惜しげに奥歯を噛み締めた。
「そうか……お主が反逆を企てている首謀者だったのか」
「首謀者はあなたですよ」
 そして、影は構えた二刀を振り下ろした。



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