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狂騒の果てに待つもの。
非日常が日常となり。
黒は白となり。
人形は動き出し。
止まっていた足は走り出す。
走り続けていたのは、何のためだったのか。
初めこそは、自分が前へ進むためだと思っていた。しかし、いつしかそれは、ただ周囲に流されているだけの迷走にしか過ぎない事を私は気づかされた。
もう、自分が後戻り出来ない所まで来てしまった事を私は知っている。
だからという訳ではないけれど、私は逃げない。
今、前に進む事を止めてしまったら。私には何も残らないのだ。
だから、ひたすら前へ。
振り向かず、省みず。
自分を忘れて。
あなたはどうなのかしら?
前、見てる?
「ねえ、ルテラ」
静かに行進を続ける、白い一団。その数はおよそ十数。いづれも、流派『雪乱』では有数の実力者ばかりだ。
頭目であるルテラを先頭に、彼女らが向かっているその先は。北斗の北部に位置する閑散とした廃墟が乱立する異様な空間、戦闘解放区だった。そこは、起きた事に関して一切北斗統括部は干渉しない無法地帯である。この地では、普段は禁じられている殺人を目的とした同他流派同士の戦闘も黙認され、また法治行為を放棄されているため追っ手を逃れた犯罪者が逃げ込む格好の場所ともなっている。これらの事から、北斗に住む一般人は決してこの場所を訪れる事はない。それどころか戦闘に通ずる北斗の人間でさえ、犯罪者の捕縛命令が下った場合を除き、極めて縁薄い場所である。
まるで刃のように鋭い表情を浮かべるルテラ。そんな彼女に、リルフェは珍しく不安げな表情で問い掛ける。
「勝算はあるんですか?」
勝算。
数を扱う仕事は幾つかやってきたが、これほど苦い計算はない。単価の合計や搬入数の計算といった単純作業では処理が出来ない。そもそも計算の比較となる対象をルテラは知らなかったのだ。
勝算とは、これより事を交える事になる流派『凍姫』の頭目とのものだ。これまで凍姫の頭目は一度も抗争には参加しなかったため、ルテラは面識どころか名前すらも知らなかった。戦闘力も当然未知数、ただ漠然と頭目を勤められるだけの実力者であると風聞で知っているだけだ。
「あるわ」
ルテラは唇だけを動かし、そう簡潔に答える。
勝算など、有無を考慮できるだけの情報もなければ余裕もなかった。
今、ルテラはこれまでに感じた事もないほどの緊張に苛まれていた。戦闘は数え切れぬほど何度も経験してはいたが、今回ほど責任感が重く圧し掛かっている戦闘は未だない。頭目同士の一騎打ち。そこにはあまりに重い条件が付加されていた。この戦闘の勝利者が属する流派が、この長期に渡って続けられた雪乱と凍姫の抗争の勝者となるのだ。つまりルテラは、雪乱の総勢数百名を代表して戦わなければならないのである。今までは単に自分だけの責任で戦っていたため、それほど重圧を感じる事はなかった。重圧に慣れていなかったという事もあるが、改めて自分が一流派を束ねる存在だった事を再認識させられる。
そして、もう一つ。
凍姫の頭目は自分とは違い、間合わせで選ばれた人間ではないという事だ。ルテラはこれまでの戦闘に関して、凍姫の実力者達を相手に一歩も退けを取らなかった。だが、頭目とは流派を束ねる実力者であり、それ以上の戦闘力を持った人間である事は容易に推測出来る。類稀な才能を持った、と自分は評されて入るものの、凍姫の頭目の実力を凌駕している事に直結はしない。もしも自分が敗北を喫する事になってしまったら。それを考えると震えが止まらない。
ルテラはリルフェに気づかれぬよう、そっと震える両の拳を握り締めてポケットに押し込む。唇も極度の緊張と恐怖で震えてはいないのか、と不安になり、一度僅かに丸め前歯で噛む。
今日を境に、北斗十二衆は十一衆となるだろう。雪乱と凍姫の抗争の発端は、『北斗に冷気を使う流派は二つも要らない』という互いの戦闘術としての優位性を争うものだ。そのため敗北した流派が消えてしまうのは必然である。
いつの間にか、北斗の長い歴史を支えていた流派の一角を自分が担ってしまっている事を思い出し、ルテラは再び自らの緊張を増幅させてしまう。
「やっぱり無理ですよぉ。ほら、まだルテラは病み上がりじゃないですか」
そのリルフェの言葉に、ルテラはふと脇腹の怪我の事を思い出す。
それは一月ほど前の事。ルテラは戦闘解放区で行われた凍姫との戦闘の最中、被弾したのか不幸な偶然に遭ったのかは分からないが、凍姫の術式を受けてしまい入院を余儀なくされてしまったのだ。
しかし、ルテラは体調を理由にその戦闘を避ける訳にはいかなかった。元はと言えば、決闘を申し込んだのは自分が先なのだ。当事者が退いては示しがつかなくなる。そして、ルテラ自身もそれほど体調に不安がある訳ではない。傷は痕も残らず完治し、体力の方も完全に元の状態に戻っている。そのため、リルフェが言う病み上がりという単語は今のルテラには当てはまらない。
「無理じゃないわ。第一、もしも退くとして。一体誰が凍姫の頭目と戦うのかしら?」
「私がやります」
安穏とした目で答えるリルフェ。けれどもルテラは、そのあまりに軽々しい発言に思わず溜息を漏らした。
「どっちにしたって駄目よ。私が戦わなきゃ示しがつかないわ」
ルテラは、自分なりにも真剣に話すリルフェの言葉を冗談としてまともに取り合わなかった。元より、周囲に何と言われようとも自分は一切事の譲歩をするつもりはなかった。凍姫の頭目に一対一での決闘を申し込んだのも完全な独断であり、書状を送った事も雪乱に所属する人間の大半には伏せたままだったのである。
リルフェでは役不足という訳ではない。ただ、今は自分が戦わなくては意味がない。それだけなのだ。
「体裁のために自分を滅ぼすのはかっこ悪いですよ」
「私の体裁じゃないわ。雪乱の体裁よ」
あの負傷による入院以来、ルテラには『早く決着をつけなければ』という漠然とした焦りが芽生えていた。自分が頭目に就任して以来、雪乱の士気は以前にも増して高まりつつある。凍姫との戦闘にはまさに好都合な状況下だ。しかしそれでも、何度交戦を繰り返しているにも関わらず戦況の拮抗状態は全く変わらない。双方に相当数の負傷者が続出する事も同じだ。
このままではいずれ、お互いが削り尽くし自滅し合う。
その事にルテラは気づいていない訳ではなかったが、かといって別段劇的効果の得られそうな作戦が思い浮かんだ訳でもなかった。雪乱と凍姫との戦力差は、決定的とまではいかないものの大局的に見れば優勢に立っているのがどちらかは瞭然である。なんとしてでも自分が頭目として雪乱を勝利に導かなくてはいけない。その方法を考えている内に、ふとルテラは一つの考えを思いついた。それがこの、凍姫の頭目との決闘だった。実現する可能性はあまりに低い。常識的な状況判断が出来るのであれば、この誘いを無視するのが当然なのだから。だがルテラの予想を反し、凍姫頭目はあっさり申し出を受け入れた。状況判断の出来ない愚か者だったのか、それとも圧倒的な自信の現われなのか。不気味さは拭えないものの、ひとまずルテラは安堵した。
そして、結果的に自分の思いついたこの案は無駄な負傷者を無くす良策になった事に気がついた。本音を語れば、ルテラはそれほど雪乱への執着はなかった。ルテラにとって雪乱とは自らが走るためのスターターにしか過ぎず、それ以外の何をも求めてはいない。にもかかわらず、ルテラは気がつけば雪乱の頭目に祭り上げられていた。最近噂では、自分が夜叉の頭目であるレジェイドの妹である事などとっくに知られているらしいことも耳にする。それを含めての、何らかの意思があったのだろう。
ルテラにとって今の雪乱は苦痛以外の何物でもなかった。重く圧し掛かる頭目としての責任、雪乱という名前。どちらもルテラには意味のないものだったが、決して捨てる事も出来ないものだった。放棄するのは簡単だけれど、それは同時に自らが立ち止まる事も意味する。それがルテラにとっては許せなかった。だからルテラにはそれらの重荷も背負って走り続ける選択肢しかなかった。この今回の決闘にせよ、自分が頭目として選んだ最良策とは思っていたが、今になってみれば、選ぶ事は必然だったようにすら思えてくる。自分が頭目として選択したのではなく、雪乱が組織として選択させたのでは。そんな錯覚だ。組織というものは魔物であるとルテラは痛感させられる。自分の心すらも不透明にしてしまう魔物だ。
「私、前からちょっと思ったんですけど」
と、その時。
「何?」
数十秒ほど黙りこくっていたリルフェが、不意に話題を決闘から変えてルテラに問うてきた。それをルテラはこれまでと同じように、研ぎ澄まされた刃のような鋭い表情で横目に問い返す。
「ルテラって、雪乱に入らなかった方が幸せだったと思います」
そして、リルフェの口から飛び出した言葉は、そんな意外なものだった。
自分は雪乱にはいない方が良かった。その言葉の意味を、ルテラは頭の中で反芻しながら真意を手繰る。突然の事で意味がまるで理解出来なかったが、ぱっと閃いた感想は『自分は雪乱には必要ない人間だったのか』というものだった。いや、そうではない。そしてゆっくりと熟慮していた理性が初印象の意見へ異論を唱える。リルフェは自分が必要ないと言っているのではなく、雪乱に入らない方がもっと幸せだったと言っているのだ。ルテラはその冷静な意見をリルフェの言葉の解釈とする事にした。
「そう」
ルテラはリルフェに向かってそう短く答える。
幸せだとか、そんな事は考えた事もなかった。自分が雪乱に入ったのは、ただ走りたかったからだけで。幸せになろうとなどは一片たりとも思ってはいない。
どうでもいい、普段の戯言だ。
目的地も近い事から、そうルテラはリルフェの言葉を頭の中から追い出す。今、大切なのは、凍姫の頭目との戦いだ。しかも凍姫の頭目はこれまで雪乱との抗争に一度も関わっていないため、その戦闘力は未知数。鳴り物入りでさせられている自分としては、それなりに覚悟を決めて望まなくてはいけない。
やがて、一同は指定の場所へ到着する。
そこは戦闘解放区の中心部、比較的戦闘回数が多かったらしく周囲には廃墟すら見当たらない。路石が残らず剥げ剥き出しになった地面が荒野のようにひたすら続いている。
ぎん、と空気が冷たく張り詰める。それはまるで空気が見えない刃になって襲い掛かるような凍え方だ。
既に場には、青い制服を着た一団の姿があった。その数、十数名。雪乱とほぼ同数だ。そして一団の中には幾つかルテラの見知った顔があった。特に誰よりも激しい闘争心を剥き出しにしている、エメラルドグリーンの髪を揺らせたファルティアの姿は真っ先に気がついた。
こちらが実力者十数名連れてきたのと同様、凍姫も実力者ばかりを連れてきたようである。それはルテラが送った書状で指定した通りだった。彼らは戦闘には一切参加しない。二人の勝負の後見人役を勤めるのである。
遂に、か。
ルテラは一つ大きな溜息をつき、気持ちを落ち着ける。
精悍なまでに並び揃った凍姫の実力者達。その光景を見ていると、押さえつけていた緊張感が一気に掛け値なしに膨れ上がる。
戦う前から相手に弱味を見せてはいけない。ルテラは自身を気丈に保ち、感情を心の奥へ追いやる。何度も繰り返してきた、雪魔女となるための儀式。戦闘には一切の感情は持ち込まない。誰に教えられた訳ではなかったが、それが戦場へ立つ時の心がけであるとルテラは思っていた。
同時に。
ルテラは、そんな戦闘に際する気構えを作業的に行なう自分へ虚しさが込み上げてきた。それはいつもの事ではあったが、今は何故か普段よりもそれが大きかった。
どうして自分はここに立つのだろうか?
ふとそんな疑問が浮かび上がる。
それは、私が雪乱の頭目だから。
雪乱なんてどうでもいいと思ってるのに?
本当はここまで命を危険にさらすような事をしたくないでしょう。
何が目的なの?
こんな事をしなくても、走り続ける方法も自分を変える方法も幾らでもあるのに。
意地になってるの?
生きる目的がないのは、死んでるのと同じ?
まるで嵐のように次から次へと疑問の数々がルテラを襲う。何も生み出さぬ、残骸としか言いようのない自問自答の連続。それらは何一つ建設的なものは生み出さず、ただ自らの気力を削いでいくだけである事をルテラは知っていた。
ルテラはそれら全てに納得のいく返答を提示せず、力ずくで叩き伏せて奥へ追いやる。
答えだとか、そんなものはどうでもいい。今、大事なのは。私がここに頭目としていなければならないという事。流派『雪乱』という名を背負い、その脈々と伝えられてきた歴史を証明する。ただ、それだけ。
と、
「初めまして、ですね」
その時。ふと凍姫の一団の中から、一人の青年がゆっくりと前に歩み出る。
元々、女性の多い流派である凍姫の面々に、男性である青年の存在は一際目立って見えた。だが、ルテラはそれとは別の理由で彼から目が離せなくなっていた。
「あ……」
青年を目にしたルテラはその場に凍りついていた。普通なら思わずありありと動揺の表情を浮かべそうになるのだが。それすらもルテラは忘れていた。
その青年は、これまで二度顔を合わせたあの青年だったのである。
どうして彼がこんな所にいるのだろうか。
まず、頭の中に浮かんだ言葉はそれだった。だが納得のいく認識をするよりも速く、次々と畳み掛けるように疑問が浮かび上がってくる。
自分が送った書状は凍姫の頭目宛てだったのではないだろうか?
ここは一般人にはとても立ち入れない戦闘解放区のはず?
凍姫の頭目と自分は一面識もない。
初めまして?
確かにまともに会話した事はなかったけれど……。
「僕が流派『凍姫』の頭目、スファイルです」
そして、ルテラはある一つの結論にようやく辿り着く。それと同じ言葉が青年の口から飛び出したのは、ほぼ同時だった。
ようやく動揺を鎮圧させるルテラ。
対し、スファイルと名乗った青年の表情は微かな悲しみに彩られていた。
青年の表情は、酷く悲しげだった。
TO BE CONTINUED...