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 疾く、疾く、疾く、走る私。
 どこへ辿り着くためでなく。
 何か成そうとする目的がある訳でなく。
 走ることだけに自分の居場所を見出していた私。
 どうして走るとか、そんな事はどうでも良くて。
 ただ、ずっと走り続けていたかった。
 走っている間は、何も考えなくて良かった。
 無心の快感。
 そんな、倒錯した自分への誤魔化し。





 冷たい戦慄が走った。
 その場の誰もが、目の前に立ちはだかる雪魔女の姿に目を奪われている。そして身動きするどころか、思考の自由すら失っていた。それほどまでに雪魔女の存在感は圧倒的な畏怖を見る者に与えた。ほぼ大半以上の人間は、目を合わせる前から自分の実力では到底かなわない事を悟ってしまっている。
「チッ……!」
 やがて、呼吸すらも躊躇われるような緊迫した沈黙を破ったのは、涼やかな表情に僅かな苦味を浮かべたリーシェイだった。
 リーシェイは雪魔女との間の人垣を掻き分けながら猛然と進んでいく。掻き分けられる人垣は皆、一様に我を失っていたためかリーシェイに激しく弾き飛ばされてしまうまで、彼女の行動に気づく事が出来なかった。
 雪魔女は右手にファルティアの体を引き摺りながら、行動を起こすリーシェイの様子を眺めるように見やっていた。その眼差しは酷く冷たく、そして乾いていた。まるで他人事を見るそれのような、圧倒的な存在感を見せつけながらもどこか虚ろな無表情が戦慄を添える。場に立っているのは自分ではなく、もっと別な無関係の人間。いや、目の前で起こっている出来事そのものが、朝になれば儚く消えてしまう夢の産物であるかのようだ。
「ああ、もう!」
 そして、そんなリーシェイに僅かに遅れてラクシェルも飛び出した。
 手間のかかる。ラクシェルは溜息をついた。
 おそらく雪魔女に挑むまでは良かったが、まるで為す術なく返り討ちに遭ってしまったのであろう、雪魔女に引き摺られているファルティア。雪乱と凍姫との力関係を振り出しに戻してしまった雪魔女に、たった一人独断で挑むなんて馬鹿な真似をせず、ちゃんと上からの指示が下りて来るまで待って従っていれば良かったものを。独断行動のおかげで我が身を滅ぼす所か、こちらの体勢を不利にさえしてしまった。ラクシェルの溜息には、ファルティアのそれらの行動に対する総合評定、”マヌケ”という意味が込められていた。
「まずは、手のそれを離してもらおうか」
 雪魔女との距離を測りながら、リーシェイは右手を下段に構えて五指を開く。そして、脳裏に描いたイメージを手のひらに走らせる。瞬間、無数の氷の粒子が集まり始め、氷の杭を二本、体現化した。
「貫ッ!」
 リーシェイは下段に構えた右手を振り上げ、後頭部側へ回す。それと一挙動で鋭く放った視線で目標を貫くと、その右手を前方へ叩きつけるように放った。
 体現化された二本の氷の杭が、乾き冷えた空気を切り裂きながら一直線に雪魔女へ向かっていく。その目標としているのは、彼女の顔面だ。リーシェイが最も得意とするのは、精霊術法によって体現化した射出物による射撃だ。それは通常の射撃とは違い射出動作以外に必要動作がなく、また射出物が術式によって体現化されたものであるため、運動エネルギーを与える必要性が皆無に等しい。更に付け加えれば、リーシェイの体現化する術式は非常に緻密で繊細なため、随一の貫通力を持っている。並大抵の障壁では防ぐ事が出来ないのだ。
 雪魔女に向かって一直線に進んでいく二本の氷の杭。と、その時。杭は雪魔女の目前で何物かに前進を阻まれ、鈴を鳴らしたような音を響かせて中空に凝固した。杭の前方には、真っ白な正方形の障壁が展開されていた。障壁は精霊術法を用いる流派全てに共通してある術式だが、その性質や視覚的効果には相当な差がある。流派ごとの差は元より、個人的な格差も視覚的効果に含まれ出る。防御という一意の目的を果たすものであるため、流派の主義主流に染まりやすいのだ。ある意味では障壁そのものが術者の個性の現れでもある。
 と。
 前進を阻まれていたはずの杭の先が、ずぶりと障壁の中に潜り込んだ。たとえ前進を一時的に阻まれたとしても、物理法則に従わず常識的にありえない推進力を持たせる事も可能な精霊術法。鍔迫り合いにも似た力のぶつかり合いは、時にこうした遅延的展開も見せる事がある。
 そして小気味良い音を立てながら二本の杭は白い障壁を貫通した。同時に障壁は構成する魔力同士の繋がりを断たれて空中に霧散する。
 阻むものが消えた氷の杭は、再び雪魔女の顔面に目掛けて突進していった。その勢いは先ほどよりも遥かに増している。
 捉えた。
 そうリーシェイは確信した。障壁を展開した時点で、既に雪魔女は物理回避が不可能な位置関係だったのだ。最後の防御砦である障壁が粉砕された今、雪魔女に放たれた杭をかわす手段はない。
 ただの術式と思って甘く見、早めに回避行動に移らなかった事が敗因になったのだ。リーシェイは自分の攻撃の成功を硬く信じる。
 刹那。
 どしゅっ、と鈍い音と共に二本の杭が雪魔女の顔を貫通した。杭はそのまま後頭部を突き抜け、リーシェイが意識を切り離した事で空中に霧散する。しかし、
「……む?」
 顔を穿たれたにも関わらず、雪魔女はその場に何事もなかったかのように直立していた。顔には大きな穴が二つ、確かに空いている。だが彼女は倒れるどころか微動だにせず、血の一滴も流していない。
 と。
 不意に雪魔女の体が衣服ごと色を失い、突き抜けるような白色に染まった。ハッ、とリーシェイは見せ付けられた異様な光景に目を大きく見開く。一体何が起こったのだろうか、とリーシェイは一瞬言葉を失ってしまう。だがそうしている間に、真っ白に色を失った雪魔女の体が崩れたかと思うと跡形もなく消えてしまった。そしてぐったりと力を失っているファルティアの体だけがその場に残った。
 普段から無表情と言っても良いほど冷静さに満ちたリーシェイの顔に、ありありと驚愕の色が浮かんでいる。これは精霊術法の空蝉だ。どうにか落ち着かせた思考が、目の前の事態をそう判断する。だが、元から自分の予測を大きく裏切るような急事に遭って混乱した経験がないだけに、リーシェイは慣れない自身の混乱を抑え込む事が出来ない。
 そして。
「遅いわ……」
 背後から聞こえてくる静かな声。同時に、ひやりと冷たい手がリーシェイの首筋に当てられた。
 リーシェイの体が、驚くほどの手の冷たさと背後を取られた緊張感に硬直する。それは息をもつかせぬほどの恐怖だった。遠目から眺めるのといざ相対するとでは、これほども体感する恐怖と存在感に違いがあるなんて。常に先の先を読んでいたはずのリーシェイは、この時ばかりは心臓を握り締められているような錯覚を覚えた。それは恐怖が見せる幻想であり、実際に手が触れているのは首筋だ。冷静に事態を解析し自分自身に言い聞かせるが、その錯覚は消える事がなかった。感じている恐怖の根源は、今の自分の命は雪魔女に握られているという事実だからだ。
 きゅっ、と雪魔女の手がリーシェイの首を後ろから鷲掴みにする。
 雪魔女が精霊術法を習得した際、その恩恵により驚異的な筋力を手に入れた事をリーシェイは知っていた。それがどれだけのものなのか、強化された筋力の程は同じ恩恵を預かっているラクシェルから理解している。大の大人を軽々と片手で持ち上げる事すら可能なのだ。その力にしてみれば、自分の首の骨など枯木ほどの存在でしかない。
 ―――と。
「だりゃぁっ!」
 叫び声と共に、猛然と絶対零度の凍気を纏わせた拳を繰り出したのはラクシェルだった。
 しかしその一撃は、雪魔女に触れる寸前に展開された障壁によって阻まれた。絶対零度を用いる事でありとあらゆるものを物理的に破壊する事が出来るラクシェルの拳だが、障壁は質量を持った存在であるため原子が存在せず、物や人体のように凍らせ破壊する事が出来ないのである。とは言え、単純な破壊力は皆無どころか大概の障壁は力ずくで破砕するだけの威力は持ち合わせている。受け止められたという事は、雪魔女の障壁がそれほど高い防御能力を持っているという事なのである。
「駄目ね……それじゃ」
 ぼそりと雪魔女は背を向けたまま何かを呟く。
 その次の瞬間、
「え……な、何!?」
 これまでラクシェルの拳を受け止めていた障壁が、突如意思を与えられたかのように変形を始めた。
 それは巨大な棘の蔦だった。蔦はまるでラクシェルを捕食するかのように、突き出された右腕から全身に向かって絡み付いて締め上げていく。



TO BE CONTINUED...