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 人を信じるというのは恐ろしい事だ。
 心に纏った鎧を脱ぎ捨て、剥き出しの自分を晒け出す事。それは目の前で燃え盛る炎を、『熱くない』と裸で飛び込む事と同じだ。
 自分が飛び込んだ先は、本当に受け入れてくれるのか否か、炎とは違ってすぐには分からない。それに付け加え人間は誰しも二面性を持っているから、疑念が生まれやすく疑心暗鬼に陥りやすい。
 人を信じる事には、実質的にも精神的にもリスクがつきまとう。そのため、信じる事を放棄した人間は数え切れないほど存在する。かく言う僕だって、一度は誰も信じられなくなっていた事がある。
 世の中には数多くの人間がいるけれど、その中で本当に信用できる人間なんてほんの一握りだ。一生の間にそんな人と巡り合えない事だってある。だけど、人は信じる事は止めない。幾つものリスクがつきまとうと分かっていても、その先にある何かを求めてしまう。
 信じられる人間がいるという事は、それだけでかけがえのない財産となる。決して他の何かで代用など出来ない、この世にたった一つのもの。人はそれを求めている。
 何のために?
 決まっている。自らの安息のためだ。
 人は常に心に平和を持っていたい、贅沢な生き物なのだ。人を信じ信じられる信頼関係とは、不思議と安心感を与える。最も確実で強固な絆。自分は誰かに思われている事が安心感を与えているのかもしれない。
 今、僕は自分自身以外で信頼している人が一人いる。
 けれど彼は本当に僕を信用しているのだろうか?
 僕の信頼は一方的なものなのかどうか、その真価が目の前に―――。




 日が暮れ、辺りを夜の帳が包み込んだ頃。
 ずっと山の中で立ち尽くしていた僕は、ふと教会に向けて歩き始めた。ようやく戻る決心がついたのか、それとも一人で居るのが心細くなったのか。どちらなのかは分からないけれど、無性に教会へと戻りたくなったのである。もしかすると教会の様子が気になったのかもしれない。こんな時間まで一人で行方をくらましていた事がなかったから、神父が心配しているかも。もしも僕の思う通りであるのなら。
 山を降りる足取りが重い。けれど頭の中は驚くほど静かだった。何も言葉が浮かんでこなくて、まるで僕じゃない別な何かが体を操っているかのような、そんな感じだ。
 一歩一歩を踏みしめるたび、足音が驚くほど高く闇夜に鳴り響く。辺りからは僕の足音と息遣いの他何も聞こえず、この世に僕一人しか存在していないような錯覚を覚える。けれど寂しさも恐怖もなく、ただただ無心で引き寄せられるかのように教会へと向かって行った。
 どうして気がつけなかったのだろうか。
 何かを考えようとすると、すぐにそんな悔恨の言葉が浮かんできた。そもそもの始まりは、僕があの力のトレーニングをしていた所を知らない人に見られてしまった事だ。そのせいで僕はこんな所まで逃げ込んできた訳だし、教会がどうなっているのだろうか、とか、神父はどうしているだろうか、と思いを馳せる事になったのだ。
 最も気にかかっていたのは、僕の力がどれだけ広まってしまったのか、という事だ。広まり方次第で、僕に危害を加えようとする人数も変わって来る。無論、数は少なければ少ない事に越した事はない。
 いざとなったら、この力を使って身を守らなければいけなくなるだろう。自分から意図して人に力を向けるのは初めてではないけれど、一度に何人も相手にした経験はない。しかも向こうは僕の力の事を知っている訳だから、それなりに警戒はしてくるはずだ。決して油断は出来ない。
 何事も初めてというものはうまくはいかないもの。そんな不安要素はあったが、まず致命的な失敗はない考えていいと思う。僕の力は大人と子供の体力差という大きな溝を埋めてもお釣りが来るほどだ。放浪していた時はこの力を使ってよく自分よりも一回りも二回りも大きな男達を怯ませ撃退していたのだ。我流ではあるけれど、僕には実践で培った技術がある。それでも足りなかったら、今日成功したばかりの火柱や雷ぐらい激しいのを見舞ってやればいい。
 よく考えてみれば、何も問題は無いのではないだろうか?
 気がつくと、僕は普段の調子を取り戻していた。誰にも気取られぬようこっそりと戻って周囲の様子を覗って、危険そうだったなら逃げ出す算段を立てればいい。たったそれだけの事じゃないか。何を気に悩む事がある?
 僕はいつでもスムーズに行動に移れるように、頭の中にイメージを描きながら歩いた。炎のイメージ、氷のイメージ、風のイメージ、雪のイメージ、そして今日初めて描いた雷のイメージ。おおよそこの世で起こりうる全てのものはイメージする事で再現が可能だった。まだ実在するもの、またはそれに順ずるものしかイメージした事はないけれど、全くのフィクションを再現する事も可能なのかもしれない。普段接点に乏しい雷でさえ表現出来たのだ。今度からはそういう方向でトレーニングする事にしよう。
 街道に抜け、村外れの丘陵が見えてくる。村は夕暮れでも活気に溢れてあちこちで明かりが灯されている。村は街道に並んでいるため、旅人や遠征で長距離を移動している人が宿を求めて多く集まり賑わうのである。むしろ日が落ちてからが盛り時だ。
 教会はそんな街とは一線を引いた寂しげな場所にある。昼は明るく夜は暗い。自然の摂理に対し文明の利器を持って自分達の摂理を作っている村とは大違いだ。もっとも、夜もあんなに賑やかにされたらとても眠れはしないが。
 僕は村を避けるように教会へと向かった。
 と。
 あれ?
 この時間なら、星明りでもなければとても足元がおぼつかないほど、教会への道は暗いのだが。遠目から見たそこには、ぽつぽつと幾つもの灯かりが行列を作っていた。
 見たことのある光景。そう僕は背筋をざわつかせた。赤々と燃える幾つもの灯かり達。それは松明の炎だ。松明が僕に既視感を抱かせるのは、かつて僕が村を追われた時に捜索隊の人達が持っていたのも同じ松明だったからだ。
 松明は幾つも雁首を並べている。軽く見積もって二十人ほどだろうか? それほどの数の人間が教会へ押し寄せるように向かっている。まるで狩りでもするかのような勢いだ。
 彼らの目的は、ほぼ間違いなく僕だ。あの晩のように、突如自分達のテリトリーに現れた異物に反応して排除しようとしているのだろう。
 やっぱり不穏な事になったか。
 僕は軽く肩をすくめて、進路を変更した。さすがに僕を狩りに来た人達と同じ道を歩く訳にはいかない。だから回り道をするのである。回り道と言ってもちゃんとした道ではなく、道ではない場所を突き進む進路のようなものだ。教会の方角は頭に入っているから、彼らとぶつからないような進路を取っていく。でも到着が彼らよりも後になってしまったら意味がないから、足を急ぐのはもちろんの事、出来るだけ最短距離を選ばなくてはいけない。
 頭を下げ、身を低くしながら藪の中を僕は駆けた。何度も足を取られて転んでしまいそうになったが、前に傾いた重心は更に前へ進む事で強引に取り戻して尚も前進した。結構強引な走り方をしていたけれど、教会へ向かう彼らに気取られる事はなかった。これでも僕は気配を殺しながら走るのは得意なのだ。この特技は狩りの時に、いかに気づかれず獲物に近づけるか、というところから培われたものである。そして僕はこれに関して、村では大人以上に優れていたのだ。体が小さいという利点もあるけれど、大柄でも上手に殺せる人は殺せる。結局は集中力と咄嗟の判断力だ。センスとか才能とまでは言わないが、ある程度の適性はあるだろう。
 僕が教会に辿り着いたのは、随分と急いだつもりだったが彼らよりも一足後だった。既に彼らは教会の玄関に半円状に陣取り、激しく怒鳴りながら乱暴にドアを叩いている。鳥だったら一斉に飛び立ってしまいそうなほど、彼らは興奮し殺気立っていた。今にもドアを蹴破りかねない勢いで、とても正気の沙汰には思えない。でも、彼らにしても今日の出来事は同じぐらいそう思っているだろう。突然、自分達の身近に手から火や雷を出して操る子供が現れたのだ。人として平和な日常を望むのは当然のこと、それを破らんとする存在は何が何でも排除したいだろう。その本能が彼らをここまで熱くさせているのだ。
 僕は闇に紛れながらそっと気取られぬように教会の影へ回った。抜き足で勘付かれぬように注意を払ったけれど、彼らの視点は玄関に集中しているため、よほど派手な事をしない限りは普通に歩いても気づかれはしなかっただろう。
「あの子供を出せ!」
「ここにいるのは分かっているんだ!」
 半ば狂気じみた怒号が絶え間なく飛んで来る。僕には大人すらも容易に手玉に取る力がある。けど、それでも今の彼らの前にはとても自ら進んで出る度胸はなかった。恐怖に駆られているわけではなかったがやはりあの時の事を思い出してしまい、殺気立った彼らがひたすら恐ろしいのだ。多分、条件反射的なものだと思う。
 しばらく物影から様子を見ていると、やがて固く閉ざされた玄関のドアの内側からカギを外す音が聞こえてきた。
 ゆっくりと開いたドアから神父が現れる。表情からは普段の穏やかさは無く、未だに見たことの無い険しさを秘めている。しかしそんな事など彼らにとってはどうでもよく、口々に放たれる僕を差し出すよう求める怒号は勢いを増していった。
「何ですか、こんな夜更けに!」
 しかし。
 どう見ても正気の沙汰ではない彼らを前に、神父はたった一人だというにもかかわらず毅然とした態度でそう怒鳴り返した。普段の穏やかな彼からは想像出来ない激しさだ。声を荒げた事自体、僕は初めて見る。
 思わぬ神父の先制攻撃に、一瞬彼らが一歩退いたのが分かった。しかし所詮相手は一人。その圧倒的優勢の事実が彼らの闘志を再び増長させる。
「お前の所に子供が居るだろう!? あの子供は悪魔の子供だ! こっちに引き渡せ!」
 轟、と一人が吠える。
 多勢に無勢。一度狂乱に走れば命すら危ういというのに。神父は退くどころかむしろ自分から前に出てきた。
「確かに私は身寄りのない子供を一人、預かっていますが。悪魔の子供なんてとんでもない。どこにでもいる、ごく普通の子供ですよ」
 僕が普通の子供だって?
 神父には僕の力は見せているから、僕が普通の子供じゃない事は知っているし神父も神父で普通じゃない事を認めてはいる。にもかかわらず僕を普通の子供だと嘘をついたのは、それはつまり神父が僕を庇っている事になる。
 何故だろう?
 ここは、おとなしく僕を引き渡すなり、それが出来なければ彼らに協力の態度を見せれば無事に事無きを得られるというのに。どうしてわざわざ自分の身を危険に晒すような事をするのだろうか。
「ふざけるな! 俺ぁ見たんだぞ! 子供が掌から火やら氷やら、挙句の果てには雷まで出してニタニタ笑ってたんだ! どこが普通の子供だってんだよ!」
 そう怒りを露に叫んだのは、昼間僕がトレーニングしている所に現れたあの男だった。確かに僕はあの男に力を使っていた所を見られている。ニタニタという表現はいささか心外ではあるが、イメージがうまくいって嬉しかったから表情は緩んでいたのは間違いない。
 案の定、男は僕が逃げ去った後にすぐさまみんなに伝えて決起したのだろう。それでこんな時間にこんな場所でこの騒ぎだ。もしも僕が鉢合わせていたならば、九分九厘、よってたかられて殺されただろう。幾ら僕にこんな力があっても、この人数を一度に相手にするのは分が悪い。せめてイメージを描く時間ぐらいなければ、僕みたいな子供なんて本当に一瞬だ。
 ふと僕は、もしかして神父は本来なら僕がなるべきポジションに立っているのではないだろうか、と思った。みんなの怒りの矛先は、名目は僕になっているけれど、明らかに神父へと向けられている。このまま僕を庇い続ければ、かなり危険な事になるだろう。彼らにしてみれば、悪魔の子供を庇い立てする者は同じ悪魔という扱いなのだ。
 人間ではなく悪魔。悪魔の定義そのものが不確かで、しかも悪魔という概念自体、目の前の神父が説く宗教の教えにあるものではないか。信徒を高圧的な態度でよってたかっては、一体どちらが悪魔なのか知ったもんじゃない。僕には関係ないけれど。
 さて、どうしようか。
 状況はいたって芳しくない。神父がどう言い訳しようと、半ば暴徒と化している彼らを説き伏せる事は不可能だろう。触発するのは時間の問題だ。ならばそうなる前にさっさと退散しよう。神父だって人間だ、命は惜しいだろうし自分が置かれている状況が分からない訳じゃない。ほどなくして軍門に下るだろう。僕がここに居る事は知らないだろうが、大体の行動パターンは知られているから決して侮れない。その前に元から少ない荷物をまとめてしまって村から出て行こう。神父には世話になったが、もう潮時だ。やはり僕は普通の人間とは相容れない存在なのだ。遅かれ速かれ破綻は訪れる。それが今日だっただけの話だ。
 自分にとっての最善策を見出すと、そっと僕は物影から離れて裏口への方へ回ろうとした。みんなの注意は玄関に集まっている。動くのは今しかない。
 と、その時。
「何かの見間違いではないのかね? あの子にそんな事が出来るはずがない」
 神父が男の言葉を全面的に否定する発言を放った。
 どちらが嘘を言っているのか知っている僕に男の苛立ちの度合いは手に取るように分かった。一番理不尽な思いをしているのはこの男だろう。真実を言っているのにそれを肯定するどころか根本的なレベルで否定されているのだから。
 しかし、なんて無謀なのだろうか。そう僕は思った。下手な事を言ったら殺されてもおかしくないのに。まさか気づいていないのだろうか? いや、それはない。証拠に神父の表情は緊張で固まりっ放しで、手も落ち着き無く開握を繰り返している。
 ふと、僕は自分がその場から離れられなくなっている事に気がついた。驚くほど、僕は神父が心配で仕方がなかったのである。彼にはこれまでの恩があるけれど、決して自分の命と引き換えにするほど重いものではない。なのに、どうしてだろうか。僕はここを離れたくないばかりか、どうやって助け出そうか策を考え始めてまでいる。
 いつの間にか、僕にとって神父はそれほど大切な人になっていたのだ。表面的ではなく、本当に心の底から。お人好しで損ばかりするようなどうしようもない彼が、自分の家族同然の存在になっている。だからこそ、僕は彼を放って自分だけ逃げる事が出来ないのだ。
 どうすればいいんだろうか。
 あの火柱でもぶつけてやれば、みんな蹴散らしてやる事は出来る。けれど、それでは神父まで巻き込んでしまう。それに威力を手加減した中途半端なものでは、かえって余計な刺激を与えてしまうだけである。脅しははっきり言って効かない。相手は大人数だから周りへの自尊心もあるだろうし、気が大きくなるから絶対に退きはしないのだ。
 それならば……。
 僕が囮になればいいのではないだろうか?
 一瞬、馬鹿げている、と思った。そこまでする義理は無かったはずじゃないか。どうして命を賭けてまで彼を助けなくちゃいけないんだ。
 でも、本当に馬鹿げてると思ったのは、その考えの方だ。彼は僕の力を見ても拒絶したりはせず、家族同然に扱ってくれたじゃないか。そして今も、自分の危険も省みずに暴徒へ立ち向かっている。そんな彼に僕は何一つ報いていない。あまつさえこのまま一人逃げ出すなんて、恥知らずもいい所だ。
 出来るだけ目立つイメージを。
 僕は頭の中にイメージを描き始めた。描いたイメージは、青紫の雷光。雷は神の象徴であるが、それを思いのままに弄ぶのは神に反する悪魔の象徴だ。連中の気を引くにはもってこいの代物だ。
 イメージの出来上がった僕は、意を決して物影から飛び出そうと僅かに顔を覗かせた。みんなは神父の方ばかりに気が向いて僕の存在に気がついていない。やるなら意表を突ける今だ。考える猶予を与えると、連中に冷静になる機会を与えてしまう。
 よし、行くぞ!
 僕はイメージを手の中へ実体化させると同時にそこから飛び出そうと右足を前へ踏み出す。
 ―――が。
「ッ!?」
 その瞬間、不意に神父と目があった。
 険しいその眼差しが、僕へ『来るな』と訴えてくる。
 まるで初めから僕がここに居る事を知っていたかのような、神父の仕草。
 僕はその場から動けなくなっていた。



TO BE CONTINUED...