BACK
少年の毒殺未遂は、親類に少しずつ広まっていった。
しかし、それによる具体的な動きは無く、ただ傍観するのがほとんどだった。心情では少年が家督を継承するのがベストだと考えてはいた。しかし、下手な口出しをする事で、この常軌を逸してしまった後継者争いに巻き込まれる事だけは避けたかった。駆け引きの材料にされてしまえば、食事も落ち着いて取る事が出来なくなる。親類の存続のかかった重要な問題ではあるが、自分達はあくまで傍観者を決め込みたい。そんな態度が露骨に表れていた。
ようやく体調が戻りつつあった少年は、そんな親類一同の他人行儀な態度は予測の範疇内だったため、これといって憤りを示す事はなかった。
病床から完全に起き上がった時には、既に少年は、考え続けてきたこの家との決別をはっきりと決断していた。家を出た先の事は一切考えていなかったが、少なくとも現状よりは悪くはならないだろうと、やや安易に考えていた。少年は、現状よりも下は有り得ないと思っていたからである。
ある日。
少年は遂に決心していた家を飛び出すことを実行に移すことにした。
誰にも知られぬよう必要最小限の荷物だけをまとめ、支度を整える。一通りの身の回りの物と、地図、使い慣れた剣。後は幾分かの路銀があれば事足りる。決心を決めてからは準備にそう長くはかからなかった。
早くここから立ち去りたい、という強い意志が少年の手を急がせたのかもしれない。生まれてから今日まで暮らしてきた家だが、驚くほど何の未練も無かった。辛い記憶しかなかったため、捨てるのは容易だったのだ。
少年は出発を、季節外れに訪れた嵐の晩を選んだ。誰にも、特に兄達には気取られぬように出て行きたかった。そのため、単純に些細な物音を誤魔化してくれる嵐は絶好の日和だった。また、この先どれだけ辛い事があろうとも決して臆しない、そんな願掛けにも似た縁起担ぎのようなものもあった。
深夜になると、邸内は要所要所に灯された明かり以外は全て消され、燭台を持たなくては歩けないほどだった。
少年の部屋から最初の勝手口まではそれほど離れておらず、また夜目も鍛えていたためそのぐらいの道程には問題は無かった。それでも、見回りは定期的に邸内を巡回する。それには気をつけなくてはいけない。
勝手口は部屋から数分とかからない距離だったが、少年は真っ直ぐ家を飛び出そうとはしなかった。
少年の足が向かった先は、脳梗塞で倒れて以来、ほとんど物言わぬ姿に変わり果てた父親の元だった。
父親は眠っているのかいないのか、常に目をカッと見開いてベッドの上に横たわっている。神経の大半が麻痺してしまっているせいだ。言葉もほとんど話すことが出来ない。植物人間、と言い切っても問題ない容態だ。
何故、今更父親の元を訪れたのか、少年は自分でも理解が出来なかった。ただ、あれ以来一度も自分の意思では父親の元を訪れていなかった。それがまるで父親から逃げ続けているかのように思えてならなかったのだ。自分はこの家を出て行くが、それはあくまで自身を磨くためだ。嫌気は差したが、決して逃げる訳じゃない。だからこうして、あえて父親と対峙する事で証明しようとしているのである。
父親の寝室はカギがかかっていなかった。内側からカギをかけられる人間がいないので、当然といえば当然の事である。
真っ暗な部屋の中を、少年は足音を忍ばせる事も無くゆっくり父親の横たわるベッドへ向かっていった。父親はいつものように両目を見開いたまま、僅かに胸を上下させて横たわっている。指先一つ、言葉の一つも発せない姿には何の変化も見られない。脳梗塞の際、体中の神経が麻痺してしまったせいだ。
少年は、父親がこうなってしまった時に、迂闊にも喜んでしまった自分を恥じていた。仮にも実の父親が、という意味ではない。もう自分は痛い思いをしなくていい、という逃げの姿勢を自ら取ってしまった事についてだ。
その恥を注ぐ意味も込めて、少年は父親の元を訪れたのだが、物言わぬ父親と対峙して一体何が得られるのか、目の前にして今更のように疑問を抱いた。
父親が起き上がれるようになるのは、ほぼ絶望的だろう。たとえ可能性があったとしても、それまで悠長に待っている時間は自分にはない。今、ここで、決別を計らなくてはならないのだ。
少年はじっと天井を見つめ続ける父親の顔をそっと覗き込んだ。最後に見た時と何ら変わりない、まるで精巧な蝋人形でも見ているような気分にさせられる様相だった。ただでさえ暗闇という、視界に奇妙なニュアンスをつける状況なのだ。動きの無いものはどうにも不気味さが拭えない。
この男のために、自分はどれだけ苦しい思いをさせられたか。
玩具よりも先に大人用の剣を持たされ、毎日のように自分の血を見させられた。
病床に臥せり、ようやく開放されたかと思いきや、自分がこれまで後継者のように扱われてきたために兄達からは殺されかけた。
憎しみは堪えきれないほどにある。子供の頃、何度も地面に叩き伏せられ、煮え滾る感情をぶつけようにも圧倒的な力差に叶うことは無かった。しかし今は、目の前に指一つ動かせない姿で横たわっている。自分は、当時の父親が相手でも対等以上に渡り合えるほどの実力がある。
遺恨を無くすなら今だ。
しかし、少年はすぐにその考えを頭から捨て去った。
遺恨を晴らすためにここに来た訳ではない。過去との決別を図りに来たのだ。
今、ここで。この剣を父親の胸に突き立てる事は容易だ。しかし、恨み募る父親を殺して家を飛び出すのは、自分で自分の品位を落とす行為でしかない。
大切なのは、物理的に父親を殺す事ではなく、自分の中で恨みを消化し乗り越える事だ。
幾ら見つめ続けても、父親はまるで動こうとはしない。
自分は今日限りでこの家を出て行きます。
そう、少年は普段の口調で語りかけた。だが、案の定父親は何の反応も見せない。
もう行くとするか。
これ以上、ここに居ても仕方が無い。あいにく、こちらは待ちくたびれた身の上だ。少年は床に置いた僅かな荷物を持ち上げ、踵を返そうとした。
その瞬間。
突然、窓の外で雷鳴が轟き、稲光が部屋の中を鋭く照らす。一瞬の閃光が室内を昼間よりも明るく照らし出す。
暗闇に慣れてしまっていた少年の目が急激な明暗差についていけず眩んでしまう。よく見ると、窓は閉まってはいたもののカーテンは閉められていない。きっと誰かが閉め忘れたのだろう。これでは雷光が直接入ってきたのも当然だ。
このままにしていくのも忍びないか。
少年は最後にと開きっ放しになっているカーテンを閉めた。
と。
眩んだ視力が元に戻り、暗い部屋の様子が再び見られるようになった。そして何気なく少年は、視線をベッドの上に向けてみた。直後、少年は体をビクッと一度震わせて驚きの声を上げそうになった。いつの間にか、これまで微動だにしなかった父親がこちらを見ていたからである。
自分で動けるようになったのだろうか?
だが、父親は顔の向きが変わっただけで指一本動かない。
いや、違う。
一つだけ変わった所がある。それは、ただ同じ一点を見続けるだけでしかなかった目が、じっと少年の顔に視線を注いでいる事だ。
植物と変わりない状態のはずだった父親が、明らかな自己主張をしている。
一体急に何だと言うのだろう?
何が言いたいのだ?
父親の視線を正面から受け止めるが、父親はそれ以上の意思表示はして来ない。
昔、こんな睨み合いをした事があった。
ふと少年はそんな事を思い出した。ただ、あの時は這いつくばっている自分が父親を見上げる形だったが。
いつの間に逆転してしまったのだろう。
月日の流れがお互いを随分変えてしまった。そう少年は感慨に耽った。
そして。
しばらくの間睨み合っていた二人だったが、ふと父親は視線をサイドボードへそらした。
少年はそれた視線の先を追う。すると、そこには一枚のしわくちゃになった便箋があった。
手紙……?
そっと便箋を手に取る少年。同時に、父親が確認したとばかりに目を閉じてしまった。すかさず少年は父親の様子を確かめる。息はしている。どうやら眠ってしまったようだ。
驚かせて……。
そうため息をついた少年だったが、すぐさま、あれほど死んで欲しいと願い続けてきた父親を心配した自分に驚いた。
本当は、もっと別なものを求めていたんじゃないだろうか?
浮かび上がったそんな疑問を少年はまたも振り払う。
少年は視線を手に取った手紙を広げ、視線を文面に移した。
む。
便箋を目にした少年は、眉をひそめた。
そこに綴られていたのは文字ではなく、震えた短長様々な直線が無数に並んでいるだけだったのである。
しかし、すぐに少年はそれの意味に気がついた。それは、短長を組み合わせる事で文章を作り出す信号方式で書かれた手紙だったのである。そんなやり方をしたのは、単に文字を書くだけの力が父親には無かったからである。線の震え方から察するに、ただ直線を書くだけでも精一杯のようだ。
指先一つ動かせないと思っていたのに。いつの間にこんなものを書いていたのだろうか。
そんな疑問を残しつつ、少年は暗号のようなそれを頭の中で文章に直していく。
レジェイドへ
自分の道を進め
たったそれだけの、読み手次第でどうとでも取れるような曖昧な文。しかし、まるでこうなる事を予め見越していたかのような内容だ。
これまで、人に散々強制ばかりをしておきながら。これからは自分の自由にやれというのだろうか? 自分がもうままならない体になってしまったから。
最後の最後まで勝手なヤツだ。
少年は震える手で手紙をぎゅっと握り潰した。
「今更……なんだってんだ」
TO BE CONTINUED...