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光と光が、加速する。今にも焼け切れそうなほどの推進力はとうに人業を離れ、誰にも及ぶことの出来ない修羅の領域へと達していた。
真っ直ぐに伸びる二条の光はあらかじめ取り決められていたかのように、同じ軌道上で狂的な加速を続けていた。けれど、互いの向かう方向は全く異なっている。その位置取りは、互いの顔を見合わせるのには最も適していた。
まるで見えない力に吸い寄せられるかのように、二条の光りは突き進む。脇目をそらす事も無く、息をする間も惜しみ、ただただ己の前進のみに全霊を傾けていた。予定されている交錯点は互いにすぐ目の前である。だが、そこへは辿り着くためにために加速しているのではなく、互いの決着を決める場所がそこだという事を本能的に察知していた。交錯点はあくまでただの点にしか過ぎず、ここが加速の臨界点である他に意味は持たない。
灼熱の光と、冷徹な刃。
二条の光は非常に対照的な輝きを放っていた。
巨大な熱量を帯状に放つ『聖火』の術式。対するは、流派『夜叉』先代頭目、天豪院空恢の剣。
空恢は『聖火』の放った術式を目前に戴き、鞘を極端に後ろへ引いた独特の半身の構えから、音の伝達をも超過した神速の剣を抜き放った。
空恢の体を飲み込まんとする、常識を外れた高熱の光と、音が追いつけぬほどの速さで空気を切り裂きながら放たれた空恢の剣。
どちらも非日常的な高速の世界にその身を移していた。息つく間もない切迫した空間へ敢えて身を置いた空恢には、逆に刹那の交錯が非常に長く感じられた。瞬きも許さぬ超高速の世界は必然的に空恢の思考を加速し、あらゆる色彩を奪い取ってしまう。加速化しているのはあくまで思考のみであり、体の動きそのものは能力以上の動きは出来ない。しかし、加速する思考速度との格差が体の動きを細部に至るまで事細かに伝達する。この豊富な情報量が空恢の動作から無駄という無駄を取り除き、最大効率と最高反射を実現した肉体が極限までの力を振り絞らせる。
今や空恢は全身に筋肉の動きだけでなく、心臓の鼓動や血の流れの一脈一脈、肌を擦る風の感触、巻き起こる砂の一粒一粒すらをも正確に認識していた。最大限の集中力が生み出す究極の五感、達した人間しか見る事の出来ない境地である。
閃く剣。
切り裂かれた空気が、数瞬遅れて悲鳴を上げる。
振り抜く剣と同時に、空恢は自分の体を駆け巡った衝撃の全てを認識した。加速した意識が災いし、筋肉の繊維の一本一本、骨の一かけ、臓物の内壁に至るまで逐一正確に、しかも気が狂いそうなほどもどかしく流れる時間の中でである。緩慢に通る激痛は拷問に近かった。
そして、待ち焦がれた逢引が叶った恋人同士が言葉も無く引き合うかのように、『聖火』の術式と空恢の剣が交錯する。
己の圧倒的な質量に任せて、丸ごと飲み込もうと巨大な口を開ける生物が如き『聖火』の術式に対し、孤高の剣はただそれだけが己の存在意義だと言わんばかりに逆袈裟の線をなぞるように切り上げる。
ぴっ、と小さな小さな空気の弾ける音が空を鳴らす。
空恢の体を飲み込まんとする『聖火』の術式は中心から斜めに分かたれ、運動の統率を奪われた双方はそれぞれ標的とはまるで違う方向へうねりながら身を投げ、そして霧散する。
あんなにも常識を外れた熱量を誇る巨大な光の帯は、空恢の目の前で脆くも打ち消されてしまった。地面には術式が存在していた事を証明する、『聖火』から空恢へ向かう深く広く穿かれた溝が真っすぐに伸びていた。その半球状の底からは膨大な熱の残り火が燻って白い煙を立てていた。
下から一気に逆袈裟の線を斬り上げた剣を、空恢はゆっくり残身の姿勢を解いて鞘に収める。抜き放った勢いとは比べ物にならないほど、鈍く精細さにかける緩慢な仕草だった。
と、その直後。
バンッ、と空気を強く叩きつけるかのような快音と同時に、『聖火』の体には逆袈裟に斬り上げられた深く巨大な剣痕が刻み込まれた。『聖火』は思い出したかのように体をよろめかせる。そして一度、自らの体に刻まれた傷痕に視線を落とす。そこからは滝のように流れ出る血液と、抉れ反った肉、そして白い骨の姿が覗いていた。
「さしもの神様にも見捨てられたようだな」
じろりと鋭い眼差しで『聖火』をねめつける空恢。
それまでの反動か、突然空恢は堰を切ったように滝のような汗を流し、肩を激しく上下させ息を切らせ始める。心なしか肌の赤味も引いていったかのように見えた。あの周囲をごっそりと天幕のように包み込む濃密な殺気も消え失せ、空恢自身の存在感もどこか萎縮してしまった感が否めない。
空恢が名づけた唯一の剣技『絶刀』。剣が生み出した空気の断層がありとあらゆる物を一概に両断する究極の殺人剣である。
標的は、たとえ人間であろうと鉱物であろうと、ましてや術式本体であろうと一切の見境なく両断する。この剣技の恐ろしい点は、あらかじめ定めた目標だけを斬るのではなく、定めた空間一帯を切り裂く異様な攻撃の間合いだ。本来、武具による攻撃は術式を併用しない限り範囲は点と線に限定されてしまう。だがこの技の攻撃範囲は立体的で、且つ武器が持つ本来の間合いを遥かに超越してしまう。
ありとあらゆる物を両断する空間を構築する技、と解釈しても差し支えないだろう。その空間の中では如何な存在も生命を存続させる事の出来ない。あるのは絶対の死のみ。故に、『絶刀』なのである。
「仕方ありません。私が先に裏切ったのですから」
目に見えて疲労の色濃い空恢に対し、骨が剥き出しになるほどの深い傷を刻み付けられたはずの『聖火』は止め処なく流れ出る血も構わず、ただ普段通り変わらぬ楚々とした態度で立っていた。
「先に……?」
意外な『聖火』の言葉に、む、と空恢は一言唸り眉間に皺を寄せる。
それは一体どういう意味なのか。
問い返すべく空恢は改めて『聖火』を見据える。すると、深々と被るフードから覗いた『聖火』の口元が、にっこりと確かな微笑を浮かべた。その直後、唐突に『聖火』の体は色を失いその場へ文字通り崩れ落ちた。人としての形を失い、家屋が崩壊するように地面へ崩れたのである。突然の出来事に空恢は驚きに目を見開く。『聖火』の立っていたその場にあったのは、ただの塩の山だった。
「阿呆が。神のために人間まで辞めたか」
終始、浄禍八神格に対して敵対心を燃やし続けていた空恢だったが、地面に散らばるかつて『聖火』だったものへ向ける視線は、どこか哀れみに満ちていた。
すると空恢は、急に咳き込んだかと思うとその場に膝から崩れ落ちた。
極みの一角に達した彼の剣術は、まるで彼の半生をそのまま反映させているかのように、荒々しく何もかもをただ等しく切り裂いた。しかし、同時に極めた先には何も残らない事を示唆するが如く、彼の体をも滅ぼしてしまった。既に彼の体は自らの剣技に耐える事が出来なかったのである。
「どうやら、本当に幕引きのようじゃのう……」
空恢はよろめきながらその場に腰を下ろし、鞘ごと抜いた剣を目の前へと置いた。
あんなにも軽かった自分の体が、今ではもう鉛のように冷たく重い。辛うじて動かせる指先は震えが止まらず、心なしか視界もぼやけ始めた。
剣のみに生きてきた自らの人生に、空恢は何ら後悔は無かった。にも関わらず、今すぐ後ろまで迫り来る自らの終幕に、なんて下らない死に方だ、と自嘲の笑みが込み上げてきた。
何故、そう思うのか。
傷だらけになった己の血生臭い手と、目の前の剣とが、それを語りかけてくるような気がした。
何時の頃からだろうか。
ただひたすらに純粋な強さを求めていた若い自分は、人の上に立つ者は武とは違う強さが求められる事を知り、漠然としたその答えを追い求めるようになった。やがて頭目と呼ばれるようになった頃、いつの間にか自分は捜し求めていた答えを手にしていた事に気が付いた。
なんだ、こんなものだったのか。
しかし、落胆する事は無かった。名将と呼ばれるには何が必要なのか、という問題が既に提起されていたからである。
北斗において名将とは常勝を約束する者の事。勝利を常にもぎ取る事は非常に困難ではあったが、生まれ持った資質、北斗で培った資質、部下の資質、これらを最大限に生かせば決して不可能では無かった。
気の遠くなるほど戦いを繰り返し、遂に名将という栄誉を与えられた頃、ふと自分はこの誉れを得るのにどれほどの犠牲を払ってきたのか気が付いた。屍無くして名将は無し。どれだけの血が、どれだけの涙が流された事だろう。自分はそれらの犠牲があったからこそ、名将と呼ばれる栄光を手にしたのだ。英霊無くして栄誉無し。真に誉れるべきは戦場で散った数多くの名も無き戦士達である事を知る自分は、何があろうとも名将という名の名誉を守り続ける義務があった。
だが、ある日。北斗にはその存在だけで名将という栄誉も霞むほどの、神に近い人間がいる事を知った。流派『浄禍』である。彼女らは常勝戦闘集団『北斗』の象徴と謳われていた。北斗の常勝は彼女らの功績であると、民衆は頑なに信じた。
北斗の勝利は、戦場で誰にも見取られず無残に死んでいった多くの戦士達の功績であるというのに。思えば、その怒りが純粋な強さを求めていたはずの自分を歪ませたのだろう。
気が付くと、自分は強さではなく効率を求め剣を修めるようになっていた。北斗は守るために戦う戦闘集団。このような殺意と怨念に塗れた剣は北斗に相応しく無い。しかし、気が付くのは少し遅過ぎた。既に究極の殺人剣は完成してしまっていたのである。
自らへの戒めと殺人剣の封印の意味を込め引退を決心した。それでも依然として『浄禍』に対する憎しみは晴れず、黒い魔物が自分の中に巣食うようになった。『浄禍』の存在は許せぬが、殺す事は間違った解決だ。日々そう自分に言い聞かせ、果たせなかった大望を若い後釜へ押し付けた。
そして、長き逡巡の末に結局辿り着いた結末がこれだ。
とうに死と背中合わせになるまで耄碌した自分は、恨みを滋養に生きる魔物に生かされるようになっていた。そんな自分がこうして今際の際を迎えているという事は、ようやくこの怨念が何かしらの決着を見出したのだろう。
一生使う事はないだろうと決めていたはずの殺人剣。この死は当然の報いなのかもしれない。北斗を守るために戦ってきた自分が奮ったこの剣は、過去の英霊に対する冒涜である。だから、そんな死ならばあえて受け入れよう。二度と剣を奮う事もないのだから。
「空恢さん!」
血相を変えて駆け込んでくる、一人の女性。ワインレッドの髪を緩く三つ編みにし、斑に赤茶けた斑点模様をつけた純白の制服を着込んでいる。流派『雪乱』頭目であるリルフェだ。
「こっちは終わったぞ。そちらも何とかカタはついたようじゃな」
「終わったじゃありませんよ! しっかりして下さい!」
リルフェは顔を真っ赤にしながら座り込む空恢の横に屈み込み肩を掴んで激しく揺する。
何をしっかりするのだろうか。
どこか靄のかかった思考が酷く緩慢に言葉を紡ぐ。
ふと、顎の辺りからひやりと冷たい感覚が伝わってきた。そっと指で顎を撫で、空ろな視線でその正体を確かめる。霞む目が見たそれは真っ赤な血だった。いつの間に吐血したのだろうか。驚くほど自分の感覚が薄れてきているようだ。
まさかこれほどの反動とは。
たった一度の殺人剣が火急的に自分を死へと加速させるなんて思いもよらなかった。恨みの剣など、所詮こんなものだろう。
せめてこの戦いの結末だけは見ておきたかったが。それもどうやら叶わぬようだ。
「放っておけ。どの道、これ以上わしは戦えん。いつまでも若いままのつもりで無理をし過ぎた」
「放ってって……そんな事出来ませんよ! 今ならまだ大丈夫、助かります!」
「戯け。何が大丈夫なものか。今の北斗の状況を忘れた訳ではあるまい」
「だからって、見捨てろっていうんですか?」
「そうだ。役に立たぬ者を切り捨てるのも、上に立つ人間の義務だ。それに、どの道わしは死ぬ。老いぼれ一人を北斗と同じ秤にかけるな」
そして、座り込む空恢の前にもう一人の青年が現れ屈み込んだ。
「お久し振りです」
空恢は気だるそうに頭を持ち上げ青年を見る。その顔はまるで別人のように生気が感じられなかった。死相、という一般人には馴染みの薄いであろうものが、誰の目にもはっきりと見て取れるほどありありと浮かんでいる。
「フン、凍姫の腰抜けが今更何しに来た」
「決着をつけに」
青年は真摯ながら強い眼差しを空恢へと返す。
不意に空恢は、かつての若かりし頃の自分の姿を、青年の眼差しに垣間見た気がした。
「少しはマシな顔になったようだな。ならば早く行け。わしはもう眠る」
追い立てるように不躾な口調で吐き捨てると、空恢はがっくりと首を垂れた。
「駄目です! お願いですから起きて下さい! もうお尻触っても怒りませんから!」
リルフェは必死の形相で空恢を揺さ振り、何とか目を覚まさせようとする。だが、空恢は垂れた首を持ち上げる事は無かった。
「いつまで腑抜けているつもりだ。自分の役目を見誤るな。頭目の名の重みを考えろ。ここまで言って分からなければ、お前さんはそれまでの頭目という事だ」
消え入りそうなほど収縮した、しかしはっきりと響く声。
すると、急にリルフェの顔から赤味が消え激情が収束していった。
最後に一度小さく会釈をすると、リルフェはすっと立ち上がりつかつかと歩き始める。既に泣き出しそうだったあの表情は無く、そこにあったのは一頭目としての毅然とした顔だった。まるで別人のような変貌振りである。しかし、目元に浮かぶ涙までは隠す事は出来なかった。
「急ぎましょう。時間はありません」
リルフェは俯きながらそう言い放ち、すかさず踵を返して走り出す。ぎゅっと握り締められた拳が小さく震えている。頭目が人として自然な感情を表に出せない以上、こういった形で発露するしかなかったのである。
「ええ」
青年は肯き、走り出したリルフェの後を追って自分も走り出す。
二人の後を追って残党軍が駆ける。
誰もが皆、地に座り込んだ空恢に向かって擦れ違い様に簡素な仕草で敬意を示した。希代の名将の誇りを自らも僅かに肖る意味と、誰よりも北斗らしく生きた人間の最後に哀悼の意味を込めて。
やがて喧騒が止んだ頃、空恢の肩がゆっくり大きく一度だけ上下すると、それを最後に動かなくなった。
風は冷たく、空恢の背にいつまでも吹き付けた。
朝はもうすぐである。
TO BE CONTINUED...