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 お前は突然、俺の大事な妹を奪い去った。
 それは別に構わない。ルテラが幸せならば、それで俺も幸せだから。
 しかし、なんだ? この体たらくは。
 前に言ったよな。『ルテラを泣かせたら殺す』って。
 見ろ。
 ルテラは泣いているぞ。この責任はどうやってつけるつもりだ?
 なんで俺がテメエの、しかも空っぽの棺桶なんか担がなくちゃいけないんだ。
 俺にも理解できるように説明してみろ。
 出て来い、スファイル。
 今なら半殺しで許してやる。
 もう、俺じゃあ隙間を埋めきれないんだよ。
 だから出て来い。
 頼むからさ……。




 俺は無我夢中で走っていた。
 目指すは北斗の中央にある総合病院。いち早くそこへ辿り着くためにも、一秒たりともわき目を振る時間はない。
 連絡は北斗総括部お抱えのメッセンジャーからだった。送り主は、元流派『悲竜』の頭目であり現在は総括部に勤めているエリート、エスタシアからだった。元々、レジェイドはエスタシアと特別親交があった訳ではなかったが。エスタシアはスファイルの弟である。妹であるルテラがスファイルと同棲を始めて以来、何回か公ではない場で顔を合わせる事があった。
 嫌な予感がしたんだよな……!
 レジェイドは顔一面に苦々しい色を浮かべた。普段のそれのような余裕に満ちた姿は欠片も見あたらない。
 事の起こりは一週間ほど前に遡る。ルテラがスファイルとの同棲生活を営む事をようやく受け入れられてきたのだが。突然、その訃報は飛び込んできた。昨夜未明、北斗西区において外部からの襲撃事件が発生した。それだけならばさほど大した事もない、多い時は二日置きに聞くありふれたニュースだった。しかし、今回ばかりは普段のさもない事として聞き流す訳にはいかなかった。事件よりも大きく、殉職者としてスファイルの名が取り沙汰されていたからである。
 報告によれば、昨夜スファイルは敵の襲撃に単独で応戦。その最中、敵の魔術に飲み込まれて跡形もなく吹き飛ばされたそうだ。当時、敵は暴走していたという。それから間もなく、流派『浄禍』が数名対応し、暴走した敵を問題なく消滅させた。場所も周囲には民家のない外壁付近だった事もあり、被害は最小限度で済んだ。しかし、スファイルという優秀な人間の死は北斗にとって大きな損失である。
 スファイルと同棲までしていたほど親密な交際をしていたルテラだが。当然の事ながら、知らせを聞いてからは悲しみを通り越した脱げ殻のようになり、まともに話を出来る状態ではなかった。こんな時こそ自分がしっかり支えてやらねばとレジェイドは思ったが、自分は夜叉の頭目である以上、終始付き添ってやる訳にはどうしてもいかなかった。夜叉の業務と妹の存在とを天秤にかける事は許されないのだ。たとえ傾きがルテラにあったとしても、業務を放棄して良い理由にはならない。
 本当にルテラは大丈夫なのだろうか。まさか早まったマネはしないだろうか。
 幾ら話し掛けても上の空で答えてばかりのルテラを、レジェイドは片時も心配しなかった事はなかった。何故か凍姫に在籍する、ファルティア、リーシェイ、ラクシェルの三人が、時折様子を見に行くと言い出した事には、驚きつつも感謝の意を隠せなかった。かつての凍雪騒乱では敵同士として事を交え合ったはずなのだが。彼女らはそれとは別に今のルテラ自身を案じてくれているのかもしれない。
 レジェイドの不安は、これまでにないほどの深刻で深いものだった。
 ルテラのスファイルに対する想いの入れ方は、昏倒する、と例えても相違ないほど極端なものだった。スファイルしか見えておらず、何をするにしてもスファイルを中心にでしか考えられない。ルテラは尋常ならないほど深くスファイルを自分と同一視してしまったのだ。だから、もしもスファイルとの関係がこじれてしまったら、ルテラは一体どうなるのか。その不安が、最も最悪な形で展開された。
 それは、レジェイドの不安が具体的な体の疲労に転化され始めた矢先の出来事だった。
 ルテラは自分で手首を切ったのである。
「ここか!」
 ようやく、レジェイドの目の前に北斗の中央部に建立された巨大な総合病院の建物が現れ始めた。その真っ白な外観が、夕暮れの薄闇の中に不気味なほど映える。
 すぐさま建物の中に飛び込んだレジェイドは、混雑するロビーを強引に掻き分けて受付に走った。突き飛ばされた事で背後から罵声を浴びせる者もいたが、今のレジェイドの耳にそれらの罵詈雑言は届かない。
「おい! 今日運ばれてきた女の病室はどこだ!? 名前はルテラ、金髪の女だ!」
 ただならぬ勢いで捲くし立てるように叫び訊ねるレジェイドに、受け付けの係は思わず背を硬直させて怯んだ。
「え、えっと、只今調べますので少々お待ちを……」
「何やってんだ、おい! いちいち調べなくても分からないのか、それぐらい!」
「そう申されましても、ここには一日に何十人の患者が訪ねられますし、入院なさっている方も何百といますので……」
 そしてレジェイドは、ドンッ、と受付のテーブルを叩いた。悔し紛れの行動だった。思わずビクッと体を震わせる受け付け係。
 あまり病院には縁のないレジェイドだったが、この総合病院の規模を考えれば一人二人では管理するにはあまりに過ぎるほどの患者数を保有している事ぐらいは推測がついた。しかし、そうと分かっていても激昂してしまう自分を押さえる事が出来なかった。ただ、今は一分一秒でも早くルテラの元へ駆けつける事しか考えられなかったのである。
 と。
「レジェイドさん?」
 その時、通路の向こう側から騒ぎを聞きつけてきたエスタシアが、おろおろと慌てるあまり冷や汗に塗れた受付のいるその場へ現れた。
「ああ、お前か。おい、ルテラはどこにいるんだ?」
「こちらです」
 エスタシアはレジェイドとそれだけの言葉を交わし、ただ状況からの判断でその目的を察知した。そして迅速かつ最も効率的な解決策として、エスタシアは自分の後を追うようなサインを出して駆け出した。すぐさまその後を追うレジェイド。そしてロビーには、まるで嵐が通り過ぎたような燦々たる静寂が訪れた。誰ともなく、安堵の溜息が聞こえてきた。
「ルテラは無事なのか!?」
 病院の廊下を疾駆する二人の影。たとえ夕刻とは言え、守星同様休まる暇もない医療現場は閑散とする事はなく、数メートルおきに必ず誰かと擦れ違った。けれど二人は全く前進する速度を落とさず、たくみにそれらをかわしていく。その様はまるで、石をかわしながら渓流を下る若鮎の姿に似ていた。
「はい、命に別状はないと医師から聞きました。意識もしっかりしています」
 エスタシアの返答に、そうか、とレジェイドは安堵した。しかし、再び別な不安が込み上げて来た。何故、ルテラはそんな行動に至ってしまったのか、その理由を考えるとまるで刃物に刺されたような陰鬱な気分になってくる。
「兄さんがあんな事になってしまって、以来ルテラさんの様子がおかしかったので。仕事が早く終わりましたから、少しだけ様子を見に行こうと僭越ながら思い立ったのですが。まさかこんな事になっていたなんて……」
「いや、よく見つけてくれた。お前のおかげだ」
 しゅん、と気を落とすエスタシアに、レジェイドは精一杯励ましの言葉をかける。
 考えてみれば、スファイルの死を悲しんでいるのはルテラだけではない。スファイルにとって唯一の肉親であるエスタシアの悲しみもまたルテラに匹敵するものと考えて相違ないだろう。にも関わらず、意気消沈したルテラに配慮を向けるエスタシアに、レジェイドは前を走るその背中に感謝の念を抱く。
 やがて疾風のように病院内を駆けた二人は、エスタシアの先導で東館の三階に到着した。比較的患者数が少ないためなのだろうか、心なしか急に静まり返ったようにレジェイドは思った。そしてそれと同時に、エスタシアは階段を登り終えた時点で足を止めた。
「ルテラさんはここの305号室です。では、僕はここで」
「ああ。サンキュな」
 レジェイドはややぎこちなく微笑んで見せる。エスタシアは無理にしなくてもいいですよ、と微苦笑し一礼すると、その場を後にした。
 さて。
 一体、なんて言おうか。
 ルテラが無事でいるという事を聞き、俄かに冷静になった頭が、まずはそんな無粋な疑問を抱いた。そんな事はどうでもいい。ただ、ルテラの無事を喜べばいいだけではないか。そう自分に言い聞かせたが、そこに至るまでの背景がああである以上、普段のような安易な楽観が出来ない。
 とにかくルテラの元へ行かなくては。レジェイドは踵を返すと、これまでとは打って変わりゆっくりとルテラのいる病室へ向かって歩き出した。
 301。
 302。
 303。
 304。
 気だるげに、けれどやけに鼓動を早まらせながら病室のナンバーをカウントしていくレジェイド。
 いよいよ次はルテラの病室だ。しかし、頭の中には具体的な考えがまとまっていない。一体どんな慰めをすればいいのだろうか。ただ、ひたすら同情して慰めればいいのか。それとも、早まった行為を激しく恫喝するべきか。見えて来ない自分の方向性に、レジェイドは額の奥に鉛のような不安感を憶える。
 そして。
 レジェイドは305のナンバープレートが貼られたドアを躊躇いがちにノックする。はい、とすぐに小さく消え入りそうな声で返答があった。ドア越しではあるが、確かにルテラの声だった。だが、その声はこれまでに聞いた事がないほど弱々しかった。風邪で寝込んだ時でさえ、こんな声を出した事はない。その事実が、ぎゅっとレジェイドの胸を痛烈に握り締めた。
 そっとドアノブに手を伸ばしドアを開けて中に入る。
 そこにルテラの姿はあった。以前、凍姫との騒乱の最中に脇腹を負傷して入院した時と同じく、窓際に並んだベッドの上に上半身だけで起き上がった姿勢で佇むルテラ。けれど、あの時のようにルテラの姿を見て緊張が緩む事はなかった。むしろレジェイドの緊張は更に硬度を増した。それは、ルテラの表情が予想していた以上に痛々しいものだったからである。
「ルテラ……」
「お兄ちゃん……?」
 レジェイドの呼びかけに、ルテラは何故か微かな疑問型で答えた。それはまるでレジェイドが何故この場にいるのかが理解出来ないと言っているかのようである。自分の周囲で起こっている事を認識出来ていない。そうレジェイドは思った。もしくは認識する意思がないのか。どちらにしろ、ルテラが酷く自分の中に篭ってしまっている事だけは分かった。
 虚ろな表情を浮かべるルテラの左手を、レジェイドは優しく雛鳥を抱き上げるかのように取った。そこには未だ痛々しく包帯が巻かれている。ルテラの肌の色は、心なしか青白く翳っていた。母親に似て色白の綺麗な肌をしていたのに。しかもここ最近は今まで以上にルテラは輝いて見えていた。それが今では見る影もない。
「なんでこんな事すんだよ……心配させやがって」
 自分でも、自分の声がやや涙ぐんでしまっていた事に気がついた。レジェイドはそれを隠そうと、わざと怒気を声色に帯びさせて張る。
「だって……スファイルがいないから……」
 しかしルテラはあさっての方向を見ながら、そうぽつりと答えた。
 言葉に整合性がない。ルテラが確かに自分の内面へ深く深く閉じこもり埋没してしまっている証拠だ。
 そんなルテラの姿が痛々しくて、まともに見ていられなかった。けれど、このまま脇道を歩かせ続けてはならないと、あえてレジェイドは真っ向から見据える。
「バカヤロウ」
 レジェイドはルテラを肩をしっかりと掴んだ。その途端、ハッとルテラは我に帰ったかのように、一瞬レジェイドと同じ碧眼を大きく見開いた。
「お前が病院のベッドの上にいる姿なんざ、俺はもう見たくねえんだ。気持ちは分かる、とか、そんな無責任な事は言わない。けど、こういう逃げ方はするなよ。幾ら辛いからって、こんな事するなよな……。今度は俺が辛くなる」
「うん……ごめんなさい」
 こくり、とうなづくルテラ。
 その覇気のない返事に、ルテラの傷が思った以上に深い事を見せ付けられるレジェイド。
 どうしてこんな事になったのか。その大元を考えると、レジェイドは心底スファイルが憎くなった。あいつさえ、ルテラの前に現れなければ。そうなる機会を結果的に作ってしまったのは自分なのだけれど。しかし、せめてあの時の約束だけは守って欲しかった。ルテラを決して泣かせない、という。
 約束の不履行に対する怒りをぶつけてやりたかった。
 しかし、幾ら死人へ怒りをぶつけても虚しいだけだ。



TO BE CONTINUED...