BACK

 人は流れ行く水のようなもの。
 後に残るのは、弾け飛ぶ残滓のような儚い追憶。
 手に取る間もなく、指を滑り落ちては消え。
 掴めど滑り落ち、泡沫の夢の如く散り消え。
 過ぎ去ったものは戻っては来ない。
 けれど、人は後戻りは出来ない。
 ただひたすら前に進むか、横に外れるだけ。
 横に外れて後ろを眺め続けるのもいいけれど。
 私は前に進む方がいい。そして時折、振り返る。




「うわぁ……」
 私はその惨状に思わず溜息を漏らしてしまった。けれどすぐに気を取り直すと、ひとまず両手の手荷物を置いて屈み込む。
 周囲は水を打ったようにしんと静まり返っている。聞こえてくるのは、風が木々を揺らす音と鳥達のさえずりだけ。人の気配は全くない。ここを訪れる人間など、普段はまず皆無と言ってもいいほどだ。何故なら、ここにいるのは死んで土に還った人ばかりなのだから。
「しばらく見ない間に凄い事になっちゃってるわね」
 そう私が話し掛けた先。それは冷たい石の墓標だった。
 スファイル。
 これが墓石の下にいる人の名前。いいえ、此処に居る事になっている人の名前。
 私は生い茂った雑草を綺麗に抜き取り、手荷物の中から持ってきたタオルを一緒に汲んで持ってきた水の入った桶の中へ浸して絞り、土泥に汚れた墓石を拭く。
 墓石が酷く汚れている事に、私は少しだけ安堵感を憶えた。汚れているという事は、今日ここを訪れたのは私が最初という事だからだ。だからどうした、と言われるとそれまでだけれど、この日だけは誰よりも先にここを訪れるのが私のこだわりでもある。
 今年で四回目。
 もうあれから四年もの月日が経過したのだけれど、私は未だに実感というものが湧いていない。にも関わらず此処を訪れるのは、ある意味ではそんな自分に現実を見つめさせる意味もあった。いつまでも自分を誤魔化しきれるものではない。目をそらし続ければ続けるほど、後から受ける反動も大きくなる。しかし、どうしても私は受け入れる事をしたくなかった。出来ないのではない。気持ちの整理はとっくにつき、自分の日常を取り戻している。けれど、心の中に今でも根付く『あの日を取り戻したい』という願望が捨て切れないのだ。
 と、その時。
 ふと背後から人の気配がこちらへ歩み寄ってくるのを感じた。
「来ていたのか」
 ゆっくり振り返った先に立っていたのは。お兄ちゃんとほとんど変わらない長身に、腰まである黒髪を持った女性。流派『凍姫』に所属し、親しい友人の一人でもあるリーシェイだった。
「だって、大事な日だからね。あなたも?」
「無論だ。私にとって彼は恩人だからな」
 リーシェイは微笑を浮かべながらも相変わらずの朴訥な口調でそう答え、手にしていた花束をそっと示す。
 そうね、と私も笑顔で答え、墓石の掃除を続ける。
 そんな私の背中を、リーシェイはただ黙って見つめていた。私がこれをしたがっていた事を察しているのだろう、わざわざ横から手を出す事もしなかった。
「毎年、誰よりも先にここへは来るな。まさか彼が寂しがっているからとでも?」
 ふとリーシェイが、一オクターブ高い声でそう訊ねた。リーシェイがそういう声を出すのは、わざとおどけている時だ。私はそれに付き合い、冗談めかせて答える。
「そうね。あの人は意外と寂しがり屋だったから。ちょっとした用事で出かけようとすると、まるで子犬みたいな目で送り出してくるのよ」
 そんな私の返答に、リーシェイは軽く口元を押さえて微苦笑する。けれど、
「しかし。お前はいつまでこんな事を続ける気だ? 相変わらず、ただの墓参りには見えないぞ」
 ひやりと冷え込むように、リーシェイの口調が普段のものに戻る。それはまるで私に対する非難にも聞こえた。その非難の捉える所は、私にとって最も触れられたくない急所でもある。まだ曖昧なままに、ぬるま湯のような事実にしておきたいのだ。リーシェイの言葉は、そこへえぐるように差し込んでくる。その遠慮のなさがリーシェイの思いやりでもある事を私は知っている。
「いいのよ。あの人を誰も思い出さなくなっちゃったら、幾らなんでも可哀想だもの」
「所詮は仮初の墓だろう? 此処に彼は眠ってはいない」
「いいの、別に。自己満足みたいなものだし。それに、元々お墓なんて、生きてる人の自己満足にあるものでしょ?」
「過去に縛られる事が嬉しいのか? 自虐趣味は喜ばしくはないな」
 相変わらずのやり取り。
 そういえば、去年も同じようなやり取りをした。リーシェイの槍のような言葉と、頑なに守り続ける盾のような私の主張。戯言と呼ぶにはいささか穏やかではないけれど、決して深くまでお互い踏み込む事はなかった。なんとなく、今の私の心境を確認するためにしているかのようなやり取りだ。
「今でもさ、ある日ひょっこり帰ってきそうに思うの。あの人ってそういう人でしょ? どことなく考えてる事が読めなくて、掴み所がなくてさ。いつも、良くも悪くも周囲を振り回して驚かせて」
「確かにそうだったな。あの時も……」
 と、リーシェイは唐突に口を噤むと、やや私を気遣うような素振りを見せる。けれど私は不要だと首を横に振った。別に今更そんな事を言われても傷ついたりはしない。あれから何の成長もなかった私ではないのだから。
「そう。あの日、あの時の約束。あれが始まりだった訳じゃないけど、引き金ではあったわね。その日を境に、私はあの人しか見えなくなってたから。それで……」
 加速度的に流れていった、あの人との時間。
 彼との蜜月は一生忘れられない。しかしそれ以上に、私を強く捉えて離さない。そして何より、縛られる事を甘受する私がいる。未だに怖くて現実を見られないのかもしれない。
「過ぎた事だ」
「そうね」
 やがて墓石が元の鈍い輝きを取り戻すと、私は手荷物の中から小さな箱を取り出した。それは、私が焼いたクッキーだった。お兄ちゃんに作り方を教えてもらって、あの人が”おいしい”と言って喜んでくれたものだ。
「でもね。四年って時間は結構長いように思えるけど、私にとっては昨日の事とほとんど変わらないの」
 そっと、束の間の休息を過ごすかのように、私はそれをそっと置いた。
「私達の時間はね、まだ凍り付いてるから」



TO BE CONTINUED...