BACK
全てを飲み込む閃光。
体中を駆け抜ける轟音が五感全てを奪い去り、数瞬の浮遊感を体験する。
何が起こったのか、それを論理的に考える必要は無かった。重要なのは、今、自分の意識が認識している感覚は現実のものなのかどうかだけである。
まるでしばしの転寝から突然目を覚ますように、投げ出された意識が一時に収束する。
ルテラはまず、自分の名前を思い出す。続いて全身が焼け付くような疼痛に晒されている事を理解した。すぐに自分の目を用いて体を確かめようとする。しかしあまりに眩しい光を受けてしまったためか、目がすぐに本来の役目を果たしてくれない。目視確認を断念し、恐る恐る自らの手で自分の体を確かめる。二本の腕と足、そして肩より上には首がある。続いて状態を確かめてみる。服はあちこちがほつれて破れ、触った感触で随分と汚れている事が分かった。肩にかかる髪も随分乱れている。早く梳かして整えたい。そんな焦燥に駆られる。
いや、そんな事をしている場合じゃない。
ようやく鮮明さを取り戻した意識が自身の置かれた状況に気づく。視力を戻した目は朧な闇の中にある自分の体を見つけだし、あちこちを打ち付け酷く汚れてしまっている事を確認する。
今、想像出来る限り最悪の化け物と戦っているのだ。いや、戦うと呼ぶよりもむしろ蹂躙されていると評した方がより近いかもしれない。こちらは彼に指一本触れられないでいるのだから。
「レイッ!? 生きてる!?」
すると、思ったよりも遠くからヒュ=レイカの声が聞こえてきた。
「まあ、なんとかね……」
左肩を押さえながらよろよろと歩み寄ってくるヒュ=レイカの姿は想像以上に痛々しかった。
既にヒュ=レイカは自らの限界を感じ始めていた。自分でもこうして立って歩ける事だけでも信じられないのだ。その上、まともに術式も使えないのでは戦力的に期待は出来ない。
自分はルテラの荷物になってやしないだろうか、とヒュ=レイカは考えた。しかし、それは誤った認識である事に気づく。ルテラは決して実力が足りない訳ではなく、『守星』という危険な役職を勤め上げている以上、北斗でも有数の実力者であると評しても差し支えないだろう。しかし、彼にとっては爪先ほどの存在にもならないのだ。それだけ、彼の強さは異常なのである。
北斗十二衆の戦闘術はどれも一長一短。戦況をよく見る目が無くては勝利は見込めない。しかし、全ての戦闘術を習得しているのならば、短所は全て補われてしまう。弱点の無い相手に勝つ術などあるはずがないのだ。つまり、どれだけ強くとも一つの戦闘術しか知らないルテラに勝ち目は無いのである。
何が起こったのだろうか。
一瞬の事でまるで状況が飲み込めていないヒュ=レイカは、よく定まらない目で周囲を見渡す。だが、ただそれだけで事の顛末を理解するに事足りた。
碁盤の目のように区画的な作りになっていたはずの石壁。しかし、自分達の周囲だけがやけに開放感があった。それも当然である。周囲だけ石壁がほぼ無くなっているからだ。石壁は吹き飛んだというよりも、何かに刳り貫かれたような鋭利な断面を晒していた。たとえ古い石壁とはいえ、刃物の類でそうそう簡単に傷がつくような安い代物ではない。北斗十二衆の術式が全て使えるのならば、『烈火』の術式により高熱を用いて焼き切れば可能かもしれないが、断面には必ず溶けた跡が残る。また『風無』の術式も裁断するには威力が足りても直線的な断面になる。この壁の断面はこのどちらにも当てはまらない。驚くほど綺麗な曲面で抉られているのだ。
と、ヒュ=レイカは以前に見た流派『浄禍』の術式を思い出す。彼女らの術式の一つに、途方もないほどの力を凝縮し光の帯状に放つ技があった。それは温度や力学の原則から外れ、ただ触れるものを等しく飲み込んでいくような恐ろしい術式であったのを覚えている。あの術式ならばこの石壁を消すように鋭利に抉り取れるだろう。普通ならばここで、しかしあの術式は『浄禍』にしか使えない、という問題が立ちはだかるのだが、彼に関しては例外的に当てはまらない。彼は全ての流派の術式を扱える、究極のジョーカーなのだから。
「よく生きてられたわね、私達」
「わざとだよ。試してるんだ、自分の力を」
そして、ゆらりと濃密な殺気を漂わせ闇の中から彼が姿を見せる。やはり目でははっきりと捉える事は出来なかったが、垂れ流される異常な殺気が嫌でも正確に彼の位置を捉えさせる。
「試してる? どうして?」
「彼の顔を見れば分かるさ」
疑問を残すルテラを余所目に、一人何かしら確信を得た表情のヒュ=レイカ。口元は傷が痛むのか苦み走ったままだ。
濃密な殺気は更に色濃さを増し、殺気慣れしているはずの二人は息苦しさを感じ始めていた。息を吸い込もうとすると、粘着質のどろどろした殺気を吸い込んでしまい、それが喉に詰まる錯覚を覚える。具体的な恐怖は無かったが、漠然とした不安感はあった。餓えた肉食獣の前に丸裸で立っているかのような、そんな不安だ。
その時。
「お前、俺を知っているな?」
暗闇の中から唐突に男が話しかけてきた。これほどの殺気を放っていながら、その声色はまるで平素そのままである。そんな落ち着きとのギャップが、闇に姿を隠す彼の異様さを際立たせる。
「まあね、知り合いの知り合い程度には。確信には至ってないけど」
言葉を返すヒュ=レイカは何かを言い含めたかのような裏を感じさせる口調である。ルテラはそんな二人の空気を感じつつも、自分には理解が出来ずに会話から取り残された。
「たださ、君は何者? 僕の記憶にある君はもっと卑屈だったんだけどね。それとも、それは昼行灯のつもりだった?」
「その通りだ。流派『北斗』は表に出てはならない影の流派だからな」
「影の支配者でも気取ってるのかな? ま、こうして名乗り上げてるって事は、それほど切迫しているって訳だね」
ヒュ=レイカは不意に右の手のひらをそっと抱え上げた。そして脳裏にイメージを描き、それを手のひらの上で体現化する。描いたイメージは、仄かな炎の塊。既にまともな術式を使うことも出来ないヒュ=レイカに出来る、精一杯の体現化だ。
「あ……」
ヒュ=レイカの手のひらを離れた炎の塊が淡く暗闇を照らす。その明かりは暗闇の中の彼を映し出した。薄橙色に照らされた顔を見たルテラは驚きも露に目を見開く。ルテラもまた、彼の顔には見覚えがあったのだ。
「確かその顔……。レイ……ジ君?」
そう恐る恐る問いかけるルテラ。男は対する返答の代わりに、にやりと口元を歪めて見せた。
暗闇にぼんやりと浮かぶ男の顔は、二人が見るには確かに流派『凍姫』に所属するレイジという少年のそれに相違なかった。しかし、今の彼の表情は二人の知るそれとはあまりに違い過ぎていた。元々、レイジという人間はファルティアらにまるで玩具の様に扱われていた、卑屈さを絵に描いたような人物だった。元来、流派『凍姫』は女性の隊員が多く、必然的に数の少ない男性は肩身が狭かった。男女の比率が顕著であれば、当然待遇も変わってくる。そして、初対面の印象が彼女らの気に障った事も相まり、レイジは半ば人権すら認められない底辺に自らのポジションを落ち着ける事になった。
目の前の彼と、容姿を除いてまるで一致する点が無い。もはや別人と呼んでも差し支えないだろう。そう何度も顔を合わせた訳ではないが、少なくともこれほどの殺気を放ち自分達を圧倒出来るような人間では無かったはずだ。
これが本当の顔という事なのか。
しかし、ヒュ=レイカにはそれだけで釈然としないものがあった。ファルティア達はともかく、まさかあのミシュアの目までをも誤魔化し続けられるとは到底思えないのである。
「不思議か? 俺が何年も凍姫に入り込んでいた事が」
「そうだね。こんな大雑把な戦い方をするような人が、エスみたいに慎重に事を構えるなんて出来るとは思えないし」
「簡単な事だ。そもそもこの世には、レイジ、などという人間はいない前提で考えればいい」
存在しない前提……?
北斗の市街にはヨツンヘイム国内のみならず、世界中から素性の明らかではない者達で溢れている。北斗には住民の戸籍簿というものは形だけ存在はしていたが、そこに名を連ねるのは正式な転入手続きと純粋に北斗で生まれた者だけだ。人の出入りが激しい北斗は、あえて戸籍管理というものを行っていないのである。つまり、その気になれば幾らでも自分の名前は偽る事が可能で、尚且つそれを明らかにしようという風潮も無い。ましてや、架空の人物になりすます事など、具体的な設定さえ決まっていれば実に容易なのである。
「え? それじゃあ……」
「そうだ。レイジという名は偽名だ」
不適な笑みを浮かべて見せる彼。その表情に爬虫類のそれとも似つかぬ、何か生々しい恐ろしさを覚えたルテラは、背筋をぞくりと震わせる。
「そして、周囲を騙し通せていたのは、大方、流派『幻舞』の技だね」
「ほう、良く知っているじゃないか。天才児君は」
皮肉たっぷりの返答に、ヒュ=レイカは不快そうに目元を震わす。そんな様子をさも愉快に男は喉を鳴らして含み笑った。
流派『幻舞』には、強力な暗示を自らにかける技がある。自分を風と思い込めば風のような速さを、岩と思えば岩のような頑強さを手に入れる事が出来るのだ。その力を持ってすれば、自分を架空の人間であると思い込ませる事など容易なはずである。自分が『レイジ』という人間であると微塵も疑わぬ以上、幾らミシュアにでも見抜く事は不可能だ。
「で、結局の所、君自身は何者? 名前ぐらいあるでしょ?」
「名などない。ただ、先代北斗から、己の使命と北斗の全ての技を受け継いだだけだ」
「じゃあ、僕らをこうやって一思いにやらないのは?」
「俺はまだ、実践を経験した事が無くてね。お前達なら多少歯ごたえがありそうだと思っただけだ」
「やっぱりね」
すると。
不意にヒュ=レイカは自分の指をパチンと鳴らした。
「むっ?」
直後、周囲の床が突然奇妙な輝きを放ち始めた。
それは奇妙な紋様だった。文字よりも原始的な記号で意味を作り出す文章が、床一面に浮かび上がっているのである。
「『縛』」
その言葉を合図に、紋様はまるで生き物のように彼へ向かって集まり始めた。紋様は彼の足元から体を駆け上がり、瞬く間に彼の体を埋め尽くしてしまう。
「ほう、これは驚いた。流派『雷夢』の頭目継承技ではないか」
「これでも一応、元頭目でね。もう動けないよ。術式が君の筋肉を支配しているからね。ルテラ、今の内に」
「ええ、分かってるわ」
既にルテラは己の右腕に左手を添え、巨大な術式を作り出していた。右手首から始まる巨大な吹雪の刃は、渦を成しながらまでを広く覆っている。螺旋状に編み込まれた刃は加圧されて速度を増し、響く悲鳴のような音は今にも焼き切れそうである。
「二対一は不本意だけど、今はそんな事言ってられる状況じゃないから。悪く思わないで」
そして、高密な術式を完成させたルテラは右手を大きく構え石床を蹴って飛び出した。
男は全身を隈無くヒュ=レイカの術式で覆われ、身動き一つ取る事が出来ない。だが、障壁はイメージで展開するものであるため、通常は手足を用いなくとも体現化する事は出来る。しかし、ヒュ=レイカの術式はそんな底の浅いものではなかった。この術式は相手の動きだけでなく、術式の力の流れすらも抑制する事が可能なのだ。そして必要な時間さえかければ、相手の血流すらも止める事が出来るのである。今は相手の自由と術式を抑制する程にしか術式を練り上げられなかったが、実質的なとどめを代理してもらう味方がいる以上、捕らえられただけで十分である。
ようやく終わった。
そうヒュ=レイカは安堵した。柄にも無い、と思う。これほど必死になって勝とうとした事は未だかつて無いからだ。いや、必死になっているのは単に余裕がないというだけだ。
しかし、
「茶番だな」
向かっていったルテラが、逆方向に弾け飛ぶ。
「知っている技ならば解除する方法もある」
男は全身に紋様を浮かべながら、手のひらを目の前に突き出す格好を取っていた。それがルテラを弾き飛ばしたものだと分かる。
ルテラは背中から床に叩きつけられるも、床を転がってすぐに姿勢を修正する。だが、それよりも早く、ヒュ=レイカは背後から彼の存在を感じ取った。
「諦めろ。俺に北斗の技は通用しない」
ほんのすぐ耳元から聞こえてくる彼の声。
後ろを取られた。
そう思った次の瞬間、目の前に後ろから回された男の腕が、ヒュ=レイカの喉元に目掛けて手刀を放った。
「レイッ!」
TO BE CONTINUED...