BACK
「ファルティア、君は……」
突然現れたファルティアの姿に、スファイルはまるで長い眠りから覚めたように正気に戻らされた。
あれほど殺意で真っ黒に塗り潰した理性が、元の澄んだ色に戻る。同時に、自分がやろうとしていた事を無防備な心で直視してしまい、不意に込み上げてきた恐怖に戸惑わずにはいられなかった。
そんなスファイルの異変を、ファルティアは見逃さなかった。
鋭く前足を踏み込むと、軽く体を浮かせて腰を起点に下半身を捻り、そのまま軸足をしならせ鞭のように繰り出した。ファルティアの放った回し蹴りは呆然としていたスファイルの胸を捉え、後方に向かって激しく弾き飛ばした。
着地と同時に深く咳き込むファルティア。その呼気からは鉄臭い血の臭気が漂っている。
確かめるまでもなく、ファルティアは決して軽視出来ない深い傷を負っていた。そんな状態で放たれた今の蹴りは、平素の威力はあっても鋭さが無く、スファイルほどの実力者にとっては目を閉じてもかわせる程度のものだった。にも拘わらず、真っ正面から防御らしい防御も出来ずに受けてしまったのは、それほどまでに動揺し恐々としていたからに他ならない。
「大丈夫……ですか?」
ファルティアは肩で息をしながら、ゆっくりとエスタシアへ歩み寄って行った。足取りもおぼつかなく、風が吹くだけで倒れてしまいそうなほど挙動が弱々しい。無理をしているのは瞭然であるのだが、エスタシアはあえて気遣う事無く頷くだけの簡素な返事を返した。
スファイルは唖然としながらもすぐ立ち上がり、そしてファルティアを見た。表情は見る間に険立ち、悔しげに奥歯を強く噛んだ。
あと少しの所でエスタシアを殺せるはずだったのに、という悔恨では無かった。夜が明けたにも拘わらず、未だファルティアがエスタシアに忠誠を尽くしている予想外の出来事に対するものである。
エスタシアが自らの軍勢を作り出すのに用いられた神器、『シビュラの託宣』。それは被対称者へ自分に対する忠誠心を植え付ける力を持ち、夜明けまで効果は持続する。被対称者は絶対的な忠誠心に自らの記憶を無意識に合わせ、あたかも初めから自ら望んでいたかのように付き従った。あくまで洗脳では無く自発的従わせる事を目的としているのである。
どうしてファルティアは未だエスタシアにつくのか。シビュラの託宣の効果は夜明けまで、それも個人差がありもっと早くに解ける者もいる。まさかファルティアは逆に効果が強く出てしまったのだろうか? 精神を操作する神器の危険性は枚挙に暇がない。下手をすれば、一生元に戻らないという事も有り得るのだ。 厄介な事になってきた。
そう思ったその時、あるものを捉えたスファイルはハッと息を飲んだ。リュネスもまた、スファイルと同じそれに気が付いたのはほぼ同時だった。
今のファルティアは、リュネスとの戦いで脇腹に深い傷を負っていた。急所こそ外れてはいるものの、じっとしていなければ瞬く間に血が流れ尽きてしまう。そもそも、到底こんな高所へ自力でやってこれるような状態では無かったのだ。これは精神力云々の問題ではない。人間は血が流れ過ぎれば死ぬ。たとえ死を恐れずとも、大量の失血はどう足掻こうとも必ず意識を奪い去るのだ。それなのに、どうしてファルティアはここまで辿りつけたのか。
答えを導き出すのを理性が僅かに渋った。答えを一瞬垣間見た理性は、俄に受け入れたくないと判断したからである。
二人の視線はファルティアに注がれていた。だが、今のファルティアの姿は普段の彼女と比べて、決定的に異なる部分があった。
それは右腕だった。ファルティアの右腕が忽然と消えて無くなっていたのである。
元々、ファルティアは右腕を失っているため、精霊術法で作り出した本物と遜色の無い義腕でそれを補っていた。義腕は精霊術法の特色をそのまま残し、意思一つで自由自在に質量や性質を変える事が出来る。ファルティアの切り込み役的な猪突型の戦法も、大部分がこれによるものである。
右腕としての機能性以上に、ファルティアの右腕は彼女の代名詞とも呼べる公私共に必要不可欠な存在である。しかし、今のファルティアにはそれが無くなってしまっている。右腕を失ったファルティアの姿は、彼女自身の象徴と呼べるものを失った為かあまりにか細く頼りない姿に見えた。人一倍気性の荒いファルティアが周囲に与えるイメージと今の姿は似ても似つかず、まるで別人のようだった。
何故、ファルティアの右腕は無くなっているのか。
単に維持するだけの余力が無いのだろう。真っ先に思い浮かんだのがそれだった。しかし、すぐにそれは誤った推測である事に二人は気づいた。右腕を失った本当の理由を、言葉よりも明確に説明出来るものが目に飛び込んで来たからである。
ファルティアの負った怪我は決して浅くは無い。しかし、ファルティアの服にはまるで血の流れた染みが見当たらなかった。その代わりに、ファルティアの脇腹が真っ白に凍り付いていた。つまり、血が流れぬように傷口を右腕の余力で凍りつかせていたのである。
まさに、執念、の一言に尽きる、とても正気の沙汰とは思えない所業だった。
人間の体がどれだけ氷点下の温度に脆いものなのか、仮にも凍気を操る流派『凍姫』の頭目が知らぬはずはない。だがファルティアは、将来に展望を向けた身の安全よりも、今を成す事を前提に置いた身の安全を取ったのだ。所詮は、穴の開いた服をピンで留めるような乱雑な応急処置。多少の延命は出来ても、自らの生命そのものは更なる危険に晒す事になる愚かな行為だ。けれど、ファルティアはそうと知っていてあえてこの手段を選択した。彼女にとって、自らが望む将来の展望とは、今この瞬間が基盤になってこそ足り得るものだからである。
「ファルティアさん!? なんて無茶を!」
悲鳴のような声を上げるリュネス。ずっと口を閉ざしていたにもかかわらず、これほどまで大きな声を出せる自分に驚きつつも、今はただファルティアの凶行に慌てふためくばかりだった。
「言ったでしょう? 私は本気だって」
そっとファルティアはリュネスの方を振り向いた。
その表情に、リュネスは、あ、と声を上げそうになった。そこにある表情は、久し振りに見た普段のファルティアの微笑だったからである。
本当は喜ぶべきはずなのに。
リュネスは胸が強く締め付けられる気分にさせられた。どんな言葉を口にすればいいのか分からなかったのである。
同様に、スファイルもまた胸を締め付けられるような心境だった。しかし、リュネスと決定的に違ったのは、その思いは吹き出そうとする憤怒に通じるものであった事だ。
スファイルは堅く握り締めた拳をかたかたと震わせていた。その怒りの矛先は、未だ自分の力で立ち上がる事の出来ないエスタシア一人に向けられている。
「エスタシアッ! お前は、これを見ても何も思わないのか!? いい加減、人を弄ぶのはやめろ!」
獣のように激高するスファイル。けれどエスタシアは、反論するどころかまるでそんなスファイルをあざ笑うかのように、唇に薄く含み笑いを浮かべた。
こいつには何を言っても無駄だった。
何をどう違えたのかは知らないが、エスタシアは人間としての本質的な一部分が修復しようのないほど壊れてしまっているのだ。
人の心を失った獣は、並の獣よりも性質が悪い。だから、これ以上生かし好きに振る舞わせて良い道理はないのだ。
今が決定的なチャンスだ。
そう思ったスファイルは、右腕に氷の大剣を体現化した。
相手は自分で立つ事も出来ない瀕死の人間だ。唯一の味方であるはずのファルティアも、御世辞にも戦力になるような状態ではない。
殺すなら今だ。
元は自分の責任である。弟の不始末は兄の不始末、決着をつけなければならない義務があるのだ。
が、しかし。
「それは違うわ、ご隠居……」
ファルティアはエスタシアの前に立ちはだかると、歩み寄ろうとしたが突然の言葉に足を止めたスファイルを真っ向から見据える。
その口調はかつてのファルティアがスファイルに向けていたものと全く同じものだった。ファルティアはリーシェイにわざと誤った言葉の使い方を教えられ、以来、凍姫を辞めたスファイルをそう呼んでいたのである。
「私は自分の意思でこうしているの。全部、私の意志なのよ」
「それは違う! 神器の力でそう思い込んでいるだけだ! 人の記憶など、幾らでも誤魔化せる!」
激しい口調で反論するスファイルに、ファルティアはただ笑みを浮かべて己の立場を示した。その表情には一点の曇りもなく、ただ驚くほど穏やかなものだけが浮かんでいた。己の選んだ道には一片の後悔も無く、そしてその行く末に待つものを受け入れる覚悟を決めた表情だった。
「そんなんじゃないんだ。そんなんじゃ。私はただ、この人について行きたかっただけ。本当に正しい事をしているのかどうかなんて良く分からないけど、この人が正しいと思う事に、私は力になってあげたかった。ただ、それだけなんだ」
「違う! その気持ちすらも作られたものでしかないんだ! よく考えるんだ! 君は、こんな曲がった事が嫌いだったはずだ!」
果たしてどちらの言葉が正しいのか。
リュネスは決めあぐねていた。今のファルティアの目は普段の自分を取り戻した色をしていた。つまり、これまで自分がまるで別人のように思えていたファルティアが、何かしらの呪縛から解放された事を意味する。呪縛を作り出していたのはエスタシアの持つ神器の力であり、これまでの到底信じ難いファルティアの凶行は全てエスタシアに因るものと考えて間違いない。その呪縛から解放されたファルティアの言葉は、まさしく本人の言葉、本音だ。けれど、その本音はまるで、これまでの自分の行動は紛れも無い自らの意思で行ったものであると言っているようだった。
幾ら感謝してもし足りないほどの恩人であるファルティアが、あのような事を本気でやるはずがない。ならば、今、自分がファルティアの目に見た真実の色は一体何だ。それとも、ファルティアの心からの言葉を自分は信じないとでも言うのか。
薄い笑みを浮かべたファルティアを前に、スファイルは如何にして彼女に事実を把握させれば良いのか苛立ちを募らせていた。
エスタシアの持つ神器の力までは突き止めた。しかし、肝心の解除する方法までは分かっていない。とうに効果の持続する時間は夜明けと共に過ぎている。それでもエスタシアを庇護し続けようとするファルティアは、どう考えても神器の力に未だ思考を囚われているようにしか思えない。ファルティアに事実を把握させたいのだが、その前には呪縛を解く方法が分からなくてはいけないのだ。
不意に目指すべき方向性を失い、場に沈黙が訪れる。
誰しもがこれほど静寂を重苦しく感じ、これほど多彩に物事が脳裏を錯綜するのは初めての事だった。互いに口を閉ざし閉ざされているにも関わらず、まるで周囲を取り囲まれ早口でまくし立てられているような耳喧しさに苛まれているようだった。静寂のもたらす耳鳴りのような喧騒は病的な頭痛を呼び起こし、言葉を口にする事を阻んでくる。静寂は不可侵の神聖な領域、もしくはあらゆる変化を拒む自閉症だ。
やがて、渦中の人物でありながらも皆と同様沈黙を続けてきた彼が徐に顔を上げ口を開いた。言葉よりも先に静寂を破った衣擦れの音が合図となり一同の視線を集めた。
よろめきながらエスタシアは立ち上がった。だが、まだ先程のダメージは抜け切っておらず、呼吸は立ち上がった事でより荒さを増した。すかさずファルティアが傍に寄り添って体を支える。けれどエスタシアは、一人で立てると言わんばかりに弱々しく突き放した。
視線はスファイル唯一人に向けられている。これまでの殺気だった視線とは違い、人間が生来持ち合わす意志力をそのまま示したかのような力強さに溢れている。
「僕は……自分の誇りに誓って言おう」
必然的にエスタシアへ集められた一同の視線。
ふと、リュネスはある事に気がついた。つい先程までスファイルとむき出しの殺気をぶつけ合い、兄弟同士で本気の殺し合いを演じていたエスタシアが、いつの間にか自分が良く知る普段の彼に戻っている。部屋中を席巻していた濃密な殺気も嘘のように消え失せている。
戦いは終わった。
だが、全てが終わった訳ではなかった。まだ、決着をつけなくてはならない事がある。この騒乱の元凶、反乱軍の首謀者、そして浄禍八神格の走狗、彼にはまだ終止符が打たれていない。
その彼が、殺気とは違う感情をむき出しにして何かを伝えようとしている。彼が一体どんな言葉を放つのか、リュネスはじっと魅入られるように耳を澄ました。そして、
「僕は、ファルティアさんに神器は使っていない。彼女が僕に好意を持っている事は知っている。だから、それを利用した」
利用。
部屋が静まっていたせいか驚くほど良く通ったその言葉は、思考を足踏みさせていたスファイルを再び突き動かすのに十分な力を持っていた。
「よくも抜け抜けと!」
怒りに大剣を振り上げるスファイル。
だが、
「私はそれだけで十分なんですよ」
ファルティアはそれでも変わらぬ笑みを浮かべた。
「君は……」
「根が単純ですから。これでいいんです、これで」
どうして、自分が惚れた弱みに漬け込まれた事を知りながら、こうも笑えるのだろうか? この期に及んでまだ希望的観測が抱けるのか。しかし、自分でも分かるはずだ。それは、あまりに愚かな事だと。
スファイルは淀みの無いファルティアの眼差しを目の当たりにし、エスタシアの言う通りファルティアは神器の力に操られていないという事実を受け入れざるを得なかった。
何故。
ただ問いかけるその言葉だけしか浮かべる事が出来なかった。それで本当に満足なのか、と。
ファルティアと初めて出会った時、真っ向からぶつけられたあの烈火のような気迫が今の彼女から嘘のように消えていた。いや、あの頃に比べて少し大人びたのか、炎は己が内で燃やすものだと心境を変えたのかも知れない。
君の選択は間違っている。
そうスファイルは叫びたかった。しかし、言葉にしようとすると喉が詰まる。そうさせているのは、一人の人間が決死の覚悟を決めてまでの選択に水を差すのは許されない事だと、気持ちが咎めてしまったからである。
怒りと悲しみとがないまぜになった表情を浮かべる、そんなスファイルに向けて、そっとファルティアは会釈をした。
「まさか、また会えるなんて思ってもなかった。そういう唐突な所、昔と一緒ですね」
ほんの何気ない言葉。そのはずなのに、スファイルにはまるで別れの挨拶のように思えてならなかった。あまりに穏やか過ぎる口調がそう錯覚させているのだろうか、妙な胸騒ぎがしてならなかった。
そして。
「ムシの言い話ですけど、ここまでにしておいて下さい」
そう言ったファルティアは、おもむろに目の前へ左手の手のひらを向けた。
直後。
「ッ!?」
辺りを激しい閃光が包み込んだ。
咄嗟にスファイルとリュネスは身構え、閃光で焼かれぬよう目を細める。
あんな体で今更何が出来る。そう思いながら恐る恐る目を開けると、今のファルティアの狙いが何だったのかは瞭然だった。
二人と二人の間に築き上げられた、薄青の壁。それは厚い氷の壁だった。壁は部屋の端から端まで伸び、完全に双方を隔てていた。反射的にスファイルは氷壁を殴りつけるも、尋常ではない氷の厚さに拳が手痛く拒絶されてしまった。
「この人は死なせないわ。まだ死んじゃいけない人なの」
これが最後の余力だったのだろうか。覇気の無い声を繰り出すファルティアの顔は目に見えて青ざめていた。
ファルティアはエスタシアの肩に左腕を回すと、くるりと踵を返して足を踏み出した。
その先には、壁に空いた大きな穴が控えていた。リュネスがエスタシアに向けて放った術式が穿ったものである。
「すみません、こんなやり方で」
「いえ、構いませんよ」
エスタシアは微かに微笑み、一瞬、スファイルを見た。しかしそれ以上の言葉は無く、視線も触れ合ったのはほんの僅かだった。
何をするつもりなのか、と改めて問うまでもなかった。
スファイルとリュネスはすぐさま動き出した。破壊のイメージを描き、体現化した拳を氷壁に向けて叩きつける。しかし、ファルティアが体現化したその氷壁はあまりに厚く、叩き壊そうにも多少の衝撃ではびくともしなかった。
「リュネス!」
ファルティアは背を向けたままリュネスの名を呼んだ。
「あんたはもう、一人でやれるぐらい強くなったわ! だから、今のままで頑張んなよ!」
「待って下さい、ファルティアさん! 私は、私は!」
何を言いたかったのか、リュネスは自分でも分からなかった。ただ強い感情に突き動かされ、明瞭を得ない言葉が喉を掻き毟った。
今、それを言わなければ一生後悔する。
しかし、それ、とはどんな言葉にすればいいのか分からない。
本当にすぐ目の前にいるのに、氷の壁が僅かの距離を阻む。
こんな終わり方は嫌だ。
そう叫んでも声は届くのだろうか? 氷壁に阻まれたあの場所が、自分には踏み込めない領域、北斗と北斗に牙を剥いた人間の世界を分かつ境界線はあまりに遠い。
「さよなら」
そして、二人は縁に足をかけ、壁穴から身を投げ出した。
宙空を流れ落ちていく二人の様を、リュネスの手が掻き集めるように躍った。
悲鳴のような嗚咽を上げながら。
TO BE CONTINUED...