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どうして、こんなに簡単に殺せるのだろう。
あんなに頭の中が怒りで一杯になっていたというのに。今ではそれが嘘のように消えてしまい、ぽっかりと胸に穴が空いてしまったようだった。その穴には代わりに、冷たく凍えるような悲しい気持ちが収まった。
悲しい気持ちで胸が張り裂けそうになりながら、僕は床に伏している神獣の元へ歩み寄る。神獣は真っ白な体を自分の血で真っ赤に染め、ぐったりと動かない。死んでしまった、と直感的に思った。僕にはそれがとても悲しかった。
僕はしゃがみ込むと、まだぬくもりの残る神獣の体を抱き上げた。見た目通りのどっしりとした重量感。表情は無念のためだろうか、口と目をカッと大きく開いている。今にも襲い掛かってきそうな、鬼気迫った表情だ。こんな気持ちのままで死んでいくなんて、あまりに可哀想だ。
お母さんとお兄ちゃんも、あの時はこんな思いをしたのだろうか?
ふと、僕はそんな馬鹿な事を考えた。
つい手を出してしまったけれど、きっと僕は自分の境遇とある程度似かよったものを感じたのかもしれない。だから、レジェイドには迂闊な事をするなと口うるさく言われ、僕もそれをきちんと守っていたのだけれど。こんな後先考えない行動に打って出てしまったのだ。
と。
その時、がぶり、と僕の腕に何かが噛み付いてきた。幾つもの小さく細かな歯が上下から僕の腕を圧迫する感触。子供ながらも特に鋭く長い牙の何本かは皮膚を突き破って肉にまで達している。それでも僕は痛みなど何一つ感じないけれど、このまま意地でも食らいついて噛み千切ろうとされている実感だけはあった。
腕を見ると、そこに食いついていたのはあの子猫だった。僕の腕に小さな口をいっぱいに開けて食らいつき、それほど大きくもない爪を立てた両前足で振りほどかれぬようしがみついている。
触るな!
頭の中にそんな声が聞こえてきた。
その子は必死になって僕の腕に食らいついたまま離れようとしない。まるで自分の親を取り返そうとしているかのようだ。
僕は痛みは感じないけれど、その分怪我を普通の人よりも悪化させやすく危険である事を知っているから、普段から出来るだけ怪我をしないように気をつけている。でも僕はその子にさせたいようにさせておいた。
同情は、相手の気持ちを分かってあげたその上で何をするかで初めて成立する。僕にはこの子の気持ちははっきりと分からないし、してやれる事も何も分からない。ただ分かっているのは、きっとやり切れないような気持ちがいっぱいで渦を巻いている事だけだ。
子猫を腕に食いつかせたまま、神獣を抱き抱えて地下室を後にする。幾度となく流れ落ちる神獣の血が僕の腕や胸に染み込んできたけど、僕は構わず神獣の体を落とさないようにしっかりと抱えた。
屋敷を出ると、冷たい風が頬を打ち付けてきた。日はほとんど沈んでしまい、辺りは足元がオレンジ色に見えるほどになっている。
僕は来る途中の馬車の窓から見た風景を頼りに、屋敷の左の方へひたすら歩いていった。屋敷の付近は幾らか道も舗装されていて歩くのにはほとんど困らず、また自分がどこを歩いているのかも分かりやすかった。
向かう先は、記憶に少しだけ残っている道端、まだ人の手がほとんど加えられていない丘陵だった。馬車に乗っていた時はあまりに気分が悪くて物事を頭の中に留めるどころじゃなかったけれど、ただそこの天辺に立ったらきっと見晴らしがいいだろうとだけ覚えている。
そこならいいかもしれない。
神獣を抱きながらそう僕は思った。これからずっと眠るならば、見晴らしが良い場所に越した事はない。ある程度人の好みもあるかもしれないけれど、見晴らしのいい場所が嫌いな人なんてほとんど聞いた事がない訳だし。
やがて、頭の片隅に残っていたその丘陵が見えてきた。あまりに微かな記憶だったから、ここからあまりに遠くへ離れていたらどうしようかと少し不安だったけど、それほど離れた場所でもなくて良かった。
天辺に向かって上り始めると、丁度夕日を背負ったため、細長い影が僕の先を行った。僕の横幅よりもずっと大きい神獣の影も上背が長く、そこからだらりと力のない足の影が不規則に揺れている。
「よし、ここなら……」
まだ天辺ではなかったけれど、僕は神獣の体をそっと草むらの上に置いた。そこは周囲がぐるりと一望でき、またごつごつした岩が地面からも飛び出していなくて風景的にも綺麗な場所だ。頂上はいささか草が禿げていて見た目もここに比べたらずっと悪い。
そして、僕は手頃な大きさの石を見つけると、それを使って穴を掘り始めた。神獣の体は大きい。よほど深く広く掘らなきゃ収める事が出来ない。丁度、土は水気を適度に含んでてまとまりやすく、順調に掘り進む事が出来た。土を掻き、跳ね除け。掻いては跳ね除け。考えてみれば、穴掘りなんて一体何年ぶりだろうか? 昔はよく同じ村の友達と土遊びもしたものだったけれど。今となっては遠すぎる思い出だ。
ふと、僕の腕に噛み付いていたその子が離れた。そして僕の傍らに陣取ると、僕が彫っている穴と僕とを交互に見比べている。何をしているのだろう、とでも言いたげな様子だった。けど程なくして興味を失ったらしく、草むらの上に伏す神獣の傍へ駆けて行った。ぴくりともしないその体を小さな前足で叩き、顔を近づけて舐める。しかしそれでも何の反応も見せてくれず、子猫は時折寂しそうに小さな声で鳴いた。
それから十分以上もかかって、僕はようやく神獣の体よりも二周りほど大きな穴を掘り終わった。すぐ横には掘った土がちょっとした小山となっている。手は土で真っ黒になり、服は神獣の血と泥とでべとべとになっている。戻ったら着替えないと。そう思った。
草むらに横臥する神獣を子猫はじっと黙って見つめていた。僕にはそれが悲しくて泣きたいのを辛うじて我慢しているかのように見えた。
「もう、いい?」
親と同じ真っ赤な目で見つめ続けるその子に、僕はそっと問うてみる。子猫はもうしばらくの間そうしていたが、やがて名残を尽かしたのか断ち切ったのか、ふとその場から数歩後退した。
僕は屈み込んで神獣の体を抱き上げた。もう血は出尽くしたらしく、ぽたぽたと落ちてくる事はなかった。神獣が横たわっていた草むらは血溜りが出来上がっている。けれど夕日のせいでオレンジ色に染まっているため、それほど赤が目立つ事はなかった。
温もりの消えかけた神獣の体を掘ったばかりの穴の中にそっと置く。その光景を子猫が穴の淵からそっと見ていた。相変わらずじっと黙ったままだけど、とても悲しそうな目をしていた。
そして、ゆっくり少しずつ掘り返した土を被せて行く。一かけ一かけごとに神獣の体が土に埋もれて見えなくなっていく。それが最後のお別れだと分かったのか、ふと子猫が小さな声で神獣に向かって鳴いた。
土を被せ終わると、僕はせめてもの標に幾つかの石を集めて埋葬した周囲に置いた。もっと大きな石があれば良かったのだけれど、丁度いい大きさのは周辺にはなかった。花も手向けたいけど季節が季節だ。結局、出来上がったのはそんな何の華やかさもない、傍目にはやや土が盛り上がっている砂利のようなものだった。自分が不甲斐なくて、行き場のない悔しさを覚える。
誰にも命を奪う権利なんてないんだ……。絶対。
僕はそれが正しい事だと思っている。けど、正しいからこそ通用すると決まっていないのが世の中だ。自分の主張を貫き通すためこの国で最も必要とされるのが純粋な力だ。力がなかったら大切なものだって守れないし、強ければ回避できたはずの悲しい思いをする事もない。極論を言えば、力そのものが正義なのだ。強い人間だけが思うがままに生きていける国。それがこのヨツンヘイムであって、未だに自治機能に乏しい国の実態だ。
北斗は、そんなこの国での理不尽さから人々を守るために存在している。ただ強くなるためだけに入った僕だけど、少しずつではあるけれど北斗のしていることの大切さは分かっているつもりだ。だからこそ北斗は最強でなくてはならず、誰にも負ける事が許されない。
そんな血と抗争の歴史の影にどれだけの悲劇があったことか。それ以上の難しい話は分からないけど、ただ僕は誰よりも強くなると同時に優しくなるべきだと思う。強いだけだったら、この神獣を殺したあの人と同じなのだから。
噛み付いていた僕の腕からは血が少し出ていたが、不意にぴょんっと僕の腕に子猫が飛び掛ると、そのまましがみついて小さな傷口をぺろぺろと舐め始めた。元々それほど大きな傷じゃなく、血は間もなく綺麗に拭い去られる。子猫はそれをじっと凝視して確認すると、ふと僕の顔を見上げてきた。そして、
ごめん。
頭の中にそんな言葉が浮かぶ。僕じゃない、明らかに別な人の声だ。
ありがとう。
再び同じ声が、しかも今度ははっきりと聞こえてくる。
じっと僕を見つめる子猫。それは僕の反応を待っているかのようにも見える。そんな仕草が、ふと僕に一つの結論を導き出させる。
「喋れるの……?」
TO BE CONTINUED...