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 牢の中は薄暗く、湿気がこもっていて黴臭かった。そもそも囚人を閉じ込めておく場所に居心地の良さを追求する事自体がお門違いというものなのだろう。それにこの牢は北斗創設期に使われていたという、良い言い方をすれば歴史的価値のある遺物、悪く言えば旧態依然の代物だ。お世辞にも人が出入りするような場所ではない。
 通路を一つ隔てた向かい側の牢にシャルトは入れられていた。時折通路を監視の人間が通るため迂闊に話しかける事は出来なかったが、シャルトは奥の壁に背をもたれて座ったままがっくりうなだれて動かないため、どちらにしろ会話は無理なようである。
 レジェイドは焦っていた。
 今、自分とシャルトはリーシェイに渡された神経毒を口にしている。薬の効果が出始めるまで少なくとも三十分はかかる。しかし、何らかの手立てを打つにはあまりに短すぎる時間だ。既に十分は経過しているだろう。いい加減、具体的な解決策を思いつかなくてはいけない。
 単に脱走するだけならば、見張りも一人しか居ない事だ、大した難しい事ではない。腕の枷は抜けなくとも、足を抜けば蹴りで檻は破れる。こんな年季の入った痛みの激しい檻など打ち抜くのは造作も無い事だ。
 しかし、問題はこの毒だ。
 たとえ逃げ果せても解毒剤を手に入れなければ生き延びる事は出来ない。そして解毒剤の在り処は、もしも存在するのならばこの北斗総括部のどこかと考えるのが妥当だろう。それ故、迂闊に行動に出る事が出来ないのだ。言うなればこの神経毒は見えない見張り役のようなものである。さながらダモクレスの剣か。
 檻の前を通りかかった監視が、檻越しに身を乗り出してじろりとレジェイドの様子を睨みつけるように確認する。まだ檻の中に閉じ込められて間もないというのに、なんとも仕事熱心だ。
 監視は反対側のシャルトの様子もちらりと見た。こちらは俺とは違ってさほど重要に思っているようではなく、シャルト自身もおとなしくなっている事からあまり厳しくは確認しなかった。
 これは慎重にやらねえとな。
 レジェイドは監視の足音が遠ざかるのを確認すると、出来るだけ物音を立てずに座ったままの姿勢で床に向かい上体を屈める。そして口の中からそっと何かを吐き出した。
 それは小さく折り畳まれた紙片だった。吐き出した当人もそうとは知らず、思わず自分が吐き出したそれをまじまじと見やった。
 この紙片は先ほどリーシェイの掌打を食らった際、口の中に強制的に捻り込まれたものだった。今思い返してみると、こんなものを密かに渡しておいた上で、最後に見せたあの意味深な表情。どう考えてもこの紙片が何の意味も持たない訳が無い。
 レジェイドは再度周囲の気配に気を配り、そっと紙片を広げて見た。するとそこには、この場所からどこかへと向かう簡素な地図が記されていた。
 地図。北斗に移り住んでから長いレジェイドには、基本的に必要の無いものだった。しかしこの地図は総括部の奥深くの部屋にまでの案内が記されている。総括部には議会のため定期的に足を運んではいたものの、立ち入りを許される場所は限定されていたためその全ての構造を知っている訳ではない。リーシェイの地図には立ち入った事の無い場所を何度か経由するルートが記されている。そのため最終的にリーシェイがどこへ案内したいのかが想像もがつかない。
 一体そこには何があるのだろうか? リーシェイは何を伝えようとしているのだ?
 もしかすると、解毒剤の在り処なのだろうか。
 何の気無しにレジェイドは思ったが、すぐにそれを否定した。
 そんな事が有り得るはずがないのだ。リーシェイはエスタシアに付いた敵である。わざわざ解毒剤を作り、その場所を教えるはずが無い。これは、そう思わせる事で罠に嵌めようという魂胆に違いない。
 けれど、それは随分無理のある説明である。
 殺したければ、無抵抗な今、殺せばいいのだ。わざとこんな回りくどい方法を取る意味は果たしてあるのだろうか?
 それに、万が一紙片がばれてしまったら、リーシェイは間違いなく立場が危うくなる。そんな事をしてまで罠を用意する意味は無い。
 だからこそ、たとえどんなに突飛だとしても、リーシェイが自分に解毒剤の在り処を教えているのだと考えるのが自然なのだ。
 理解してくれ、と言ったのも、本当は不本意なのだが自分の立場的にはこれでしか助ける事が出来ないからだろう。
 リーシェイはエスタシアから離れたがっているのだろうか。しかし、それをする事が出来ないから、こうするしか他無い。これが最大限の支援なのだ。
「そういう事だと、信じろって事か……」
 レジェイドはしばし考え込むも、すぐに行動へ移る決心を固め、手始めに地図の概要を記憶し紙片が見つからないよう再び口の中に入れ飲み込んだ。
 元々、このままボーっとしているつもりはない。可能性を反故にして死ぬくらいならば、一つ、リーシェイを信じてみた方が随分マシだ。
 自分の感覚で二十分は過ぎただろうか。
「おい、シャルト」
 レジェイドは向かいの檻の中で座り込んだまま項垂れているシャルトに向かって呼びかけた。声のトーンはあえて落とさなかった。普段通りの声の大きさである。思ったより奥行きがあるらしく、声は意外と大きく反響した。
 しかし、シャルトはレジェイドの呼びかけに答えようとはしなかった。ただ膝を軽く抱くようにして組んだ腕の中に自らの顔を埋めたまま動こうとしない。
「このバカ。チビ。いい加減に不貞腐れるのはやめろ」
 レジェイドは多少声を荒げてもう一度呼びかけた。だがそれでもシャルトは一向に反応を見せようとしない。
「喧しい。静かにしろ」
 丁度、レジェイドの声を聞いて駆けつけた監視の男が、そうレジェイドに吐き捨てるように言い放ち檻を軽く蹴った。
「なあ、水くれねえか? 一杯でいい。さっきから胸焼けがして仕方ねえんだ」
 レジェイドは監視の注意に耳も貸さず、そう悪びれた様子も無く水を要求した。しかし、
「毒が聞き始めただけの事だ。死ぬ人間に水など必要無い」
 監視の男は冷淡に要求を撥ね除け、一度シャルトの様子を確認してからこの場を去った。
 まあ、こんなもんかな。
 そうレジェイドは溜息をつく。
 タイムリミットは近い。水が欲しいというのは嘘だが、胸焼けのような不快感は事実先程からゆっくりと蝕み始めていた。毒が回り始めている証拠だ。
「おい、シャルト」
 そしてレジェイドは再びシャルトへ呼びかけた。しかし今度は監視に気付かれぬよう声のトーンを大幅に落としている。
 相変わらずシャルトの反応は無い。それでもレジェイドは尚も呼びかける。
「苦しいのか?」
 するとシャルトの頭が僅かにこくりと頷いて見せた。
 耳を澄ませるとシャルトの呼吸が聞こえてきた。まるで肩で呼吸をしているかのような、激しく落ち着きの無いリズムを打っている。シャルトは小柄な分、毒の回りが早い。同じ量の毒物を摂取しても、体の大きいレジェイドとは効き方が違うのだ。しかし、体の大きく毒への耐性も人より優れているレジェイドでさえ、この毒は軽いものではなかった。今はまだ余裕があるものの、いずれ悪夢のような苦痛をもたらす兆候がはっきりと感じられる。その片鱗に、シャルトは既に捕まっているのだ。もう予断は許されない。
「シャルト、ここから逃げるぞ。どうやらリーシェイは解毒剤を用意してくれたようだ。助かるかもしれない」
 レジェイドは焦るあまり自分の声が大きくならぬよう注意しながらシャルトに話しかける。すると、ようやくシャルトはけだるそうに頭を起こした。その顔は普段の色白さなど比べ物にならないほど青白く、不自然なほど汗の粒を浮かべていた。
「どうやって? 監視がいるし、檻も枷も開けられない」
「全部俺に任せろ。お前はさっきまでと同じようにしてりゃいい」
 分かった、とシャルトは一度頷くと、再び元の姿勢に戻った。
 さて、と。こういうのは俺よりもヒュ=レイカの方がキャラに合ってるんだが。まあ、贅沢言ってられる立場じゃないか。
 レジェイドは大きく息を吸い込んだ。そして、
「おい! 早く来てくれ……っ!」
 放ったその声は、今にも伏してしまいそうな最後の力を振り絞ったかのように息も絶え絶えなものだった。
 監視の男は鬱陶しそうな表情を浮かべながらさして急ぐ訳でもなく足を引き摺るようにやってくる。酷くレジェイドの事が面倒臭そうな様子だ。
「何だ?」
 監視が来ると、レジェイドは肩で息をしながら苦しそうに顔を上げた。
「どうやら天は俺を見捨てたらしい。もうこれ以上、奇跡は待てなさそうだ」
 苦しげな苦笑いの表情を浮べるレジェイド。しかし監視の男はさも面白く無さそうに睨みつけるだけだった。自分に損が無ければ他は関係ない。そんな無責任さが見え隠れする態度だ。
「辞句って訳じゃないんだが。ひとつ頼まれてくれねえかな」
「貴様の介錯をするようにとは命令を受けていない」
「そんなんじゃねえさ。お前、俺の妹、知ってるだろ? ルテラっていう守星の。明るい金髪で色白のいい女だ」
 一体何の話だ。
 監視の男は更に態度を苛立たせ、話を続けるレジェイドを無視してその場を立ち去ろうとする。
 しかし、次に放ったレジェイドの言葉にふと踏み出しかけた足を止めた。
「こんな仕事をしてるんだ、万が一って事もある。それでな、俺がいなくなってもルテラが困らねえように、密かに蓄えを作ってるんだ。それでだ。その隠し場所の地図を今持ってる。これをルテラに届けてやって欲しいんだ」
 これまで不快感の一色に染まっていた監視の男の顔が、一瞬、緩む。欲の見へ隠れする表情だ。それを盗み見たレジェイドも心の中でにやりとほくそえんだ。
「マジで頼む。正直、もう持たねえんだ。このまま死んだら悔いが残る」
 そんな心情とは裏腹に、レジェイドは必死の形相で卑屈なほどに懇願する。これまで終始余裕に満ちていたレジェイドのあまりの変貌振りは、監視の男に一層レジェイドの言葉を真実のものであると印象付ける。もはや彼には疑う余地は無かった。
「そうか……分かった。引き受けよう」
 監視の表情は、ひた隠しにはしているものの、明らかに不実の色が窺えた。だが、それでレジェイドは良かった。蓄えも地図も、監視の興味を引き付けるために今思いついた嘘だからである。
「地図はどこだ? 渡してくれ」
「ああ、ここに……クソッ、腕が上がらねえ。悪いがこっちに手を伸ばしてくれるか?」
 すぐさま監視は、何の躊躇も無く腕を檻の中へ入れた。
 それは猛獣の檻に差し入れるよりも愚かしい行為であった。だが監視はすっかりレジェイドの話の内容に夢中になり、そんな事までを考えようとは思いもしなかったのである。
「どうだ? これで届くか?」
「ああ、完璧だ」
 すると。
「ッ!?」
 突然、レジェイドの右腕が監視の伸ばした腕を蛇が獲物を捕らえるかのような機敏さでがっちりと掴む。
 監視の表情が凍りつく。
 自分の腕を掴むレジェイドの力はとても半死人のものとは思えなかった。痛い、と口にする暇も無いほど間断なく衝撃の波が押し寄せてくる。だが、それ以上に驚愕と混乱が男を制圧した。頭の中が焦りと恐怖で席巻される。
「欲の皮を突っ張らせると、ロクな目に合わねえぜ」
 そして、レジェイドは枷をはめられているとは思えないほどの凄まじい力で監視を引っ張り込んだ。男はまず、真っ正面から檻に衝突した。強かに顔面や胸を打ち付ける。けれどレジェイドは力を緩めるどころか、尚もいっそう激しい力で男を引っ張り込んだ。
 みしみしと檻が軋み出す。レジェイドのあまりに強過ぎる引きの力に、元々老朽化が進んでいた檻が耐えられなくなったのだ。
 程なくして、悲鳴のような金属の軋む激しい音と共に檻が内側へ倒れ込む。レジェイドは急に抵抗を失ったため突っ込んで来た男の体を、そのまま背後の壁に向けて放り投げた。べちゃっ、と音を立てて衝突した男は、声を上げる間もなく意識を喪失した。
「へっ、教育が末端まで行き届いてねえな」
 レジェイドは満足そうに不敵な笑みを浮かべると、早速気絶して倒れている監視の元に屈み込んだ。そしてつけられているそれぞれの枷の鍵を奪い取り、自らの枷を全て取り払った。
「よし、シャルト。お前もさっさと外せ。早く行くぞ」
 そう言ってレジェイドは三つの鍵をシャルトに向かって放る。シャルトは座り込んだまま頭を上げてはいたものの、レジェイドが枷の鍵を放ったと見るや否や空かさず腕を上げた。
 だが。
 決して速過ぎる訳でも捕らえにくい軌道で投げた訳でもなかった。にも関わらず、緩やかな放物線を描いて飛んで来たその鍵に、あろうことかシャルトは触れる事すら出来なかった。伸ばしたその手は、物の見事に中空を空振りしたのである。
「お、おい……」
 思わずレジェイドは半ば狼狽えながらシャルトに問い返した。
 どうして今のが受け取れないのか、と普段のように嘲り笑うよりも、もうこの程度も受け取れないほど感覚が鈍ってしまった事実に焦りが一気に押し寄せて来た。自分はまだ平気だが、気力も含めてどこまで持つのか分からない。
 久しぶりに、リアルな死が間近に迫るのをレジェイドは感じた。
 けれど、それはどうでも良かった。自分よりも、シャルトの間近に迫って来ている死の方が恐ろしくてたまらないからである。
 レジェイドの心境を察したのか、シャルトは自分で立ち上がり、手足の枷を外し行く。指微かに震え、唇の色も青みがかっているけれど表情だけはまだ毅然とした態度を残していた。既に気力との勝負に入っているようだ。体なんて、足もやられている。とうに限界だ。
「大丈夫だ。俺の心配は要らない」
 そんなシャルトにレジェイドは、そうか、と短く答える事しか出来なかった。



TO BE CONTINUED...