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 守るべきもののない僕。
 そんな僕の居場所なんて、どこにもなかった。
 放浪こそが僕の唯一の居場所で、終の棲家に相応しい場所。
 そう僕は思っていた。
 どうせ僕を受け入れてくれる場所なんてどこにもない。だったら流れ行く河のように、いつまでもいつまでも流れ続けよう。
 留まれない僕は流れ続けるしかない。




 突き刺さるみんなの視線が敵意に変わるまでそれほどの時間を要しなかった。
 化物。
 僕を評した、信じ難い言葉。みんなはもう僕を、仲間どころか同じ人間とすら見てくれないのだ。
 僕の右腕はでたらめな色を放つ炎に包まれている。もはや正常な炎の見る影もなく、思わず笑ってしまうほどの非現実的な光景だ。そしてみんなの視線はそこに集められている。普通の人間には決して出来ない、異形の炎。それを無意識というか無自覚に使っている僕の姿は、きっとみんなにとって化物以外の何物でもないんだと思う。
 悲しいけれど、僕はもうみんなとはいられない。拒絶を通り越した敵意が、到底乗り越えられない高く厚い壁を作り出している。この壁は物理的な力では破壊出来ない、何よりも強固な壁だ。元の居場所へ戻ろうとする僕を、痛烈なまでに拒絶して阻む。壁の中は、同じ人間と認められた者だけしか居る事が出来ないのだ。人間の範疇から脱落した僕の居場所はない。
 みんなの無言の圧力に気圧され、ゆっくり一歩後退った。すると直後、みんなが一歩、僕に向かって前進してきた。さっきと立場が逆転してしまっている。
 今度は僕が恐れ慄く番だった。
 気がつくと僕は、みんな一斉に怖い目で睨みつけられていた。
 ごくりと粘ついた唾を嚥下する。いつの間にか拳は痺れそうなほど強く握り締められて、自分の意志とは無関係に小刻みに震えていた。
 つうっ、と冷たい汗が一筋、頬を伝う。
 既に僕は、みんなにこの不可解な炎を理解してもらおうなんて考えていなかった。ただただ恐怖に打ち震えていた。それほど、みんなの目は恐ろしかった。まるで別人だった。みんなは僕を化物だと言ったけれど、僕にとってはみんなの方が化物に思えた。
「偽者だ、こいつは。死体に悪霊が取り憑いたんだ」
「きっとこの雪崩だってこいつの仕業に違いない。だったら、生かしておけねえ」
 殺される。
 そう錯覚した。もしかすると錯覚ではなかったかもしれない。ただとにかく、みんなから向けられるもの全てがあまりの敵意に満ち満ちて恐ろしかった。
 一分も長くこの場には居たくない。
 それは状況判断から来るものではなく、おおよそ極めて原始的な人間としての本能だった。
 そして、みんなが再びもう一歩、僕に向かって歩み出す。次の瞬間、それを合図に僕はくるりと踵を返し、弾けるようにその場から走り出した。
 すぐその後をみんなが追ってきた。待て、とか、逃がすな、とか、口々に叫ぶ声が聞こえる。でも僕は決して振り向かず、ただひたすら前へ前へと闇夜を掻い潜りながら走り続けた。
 恐ろしかった。
 ただただ怖くて、僕は無我夢中で走り続けた。
 まるで悪夢のようだった。何か得体の知れないものに追いかけられる夢。やがて目が覚め、それが現実の中では生きられない儚い存在だと知って安堵する。けれど、今は決して覚める事は無い。この悪夢は現実に息づく悪夢だから、どんな事をしても、どんなに願っても、決して霧霞のように消える事は無い。だから、僕はひたすら走って走って逃げ続けた。
 暗い山中、一体どこへ向かおうというのか。
 そんな建設的な考えなんかまるでなかった。とにかく、少しでも早くみんなから逃げ出したい。そうしなければどうなるか分かったものじゃないのだ。数でも多勢に無勢、何の力もない子供の僕にどうにかなるものじゃない。
 木々の間を走り抜け、藪を掻い潜り、隆起を飛び越えて。体が熱くなり、息がどれだけ切れても走る事を止めなかった。いや、止められなかったんだと思う。立ち止まる事が恐ろしくて仕方がなかったのだ。
 何故、僕は逃げなければならないのだろう?
 それは、みんなが僕を追いかけてくるから。みんな、僕を怖い目で追いかけてくるから。怖いから逃げる。たったそれだけの単純な理屈だ。
 じゃあ、どうして僕はみんなに、これまで家族同然に暮らしてきたみんなに追いかけられる?
 それは―――。
 人間は物事を自分の都合のいいように解釈し理由付けると聞いた事があるけれど、まさかこんなにも露骨だったなんて。人間は裏表を持つ生き物だとは知っていたけれど、僕は村のみんなに限ってはそんなものはないんだと思ってた。でも、今のみんなはまるで別人のように殺気立っている。これじゃあ僕が狩りの獲物のようだ。みんなが僕の『それ』を望んでいる事が痛いほど感じられる。けど、まだ心のどこかでそれを認めたくない気持ちがあった。これは何かの間違いだ、とか、悪い夢だ、とか、現実逃避としか思えないものばかりだけれど。
 走れば走るほど頭の中が空っぽに近づいていく。それはこれまでの僕、ヒュ=レイカという人間を構成していた無数の要素を一つずつ失っていくようでもあった。その一つ一つは紛れも無い、人間性の象徴である執着心だ。自分に一体どんな執着があるのか、その全てを把握している訳ではないのだけれど。少なくとも、僕が生まれ育ったあの村と共に過ごしたみんなへの執着は完全と呼んでいいほど跡形もなく消え去った。
 悲しいほど、自分が軽くなった。
 何も持たない、何もかも捨てた自分。考えれば考えるほど自虐的な考えばかりが先行し、それが苦しくて僕は更に前へ前へと足を踏み出した。
 どうして僕がこんな目に。
 確かに僕は異常な現象を起こした。みんなが恐れる気持ちも分かる。けど、僕が一体みんなに何をしたというのだろう? ただ視覚的に驚かせてしまっただけじゃないか。たったこれだけの事で、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。どうして僕だけが。それとも、よりによって僕が、か? もしも神様がこの世に居るのだとしたら、何故僕をこんな目に遭わせるのか。それだけの業を僕が背負っているとでも? だったらこれじゃあ、ただの引き算じゃないか。
 どれだけ走り続けただろうか。
 己の体力も省みず、息が続こうが続くまいが意思だけで足を踏み出していたその結果。体力の限界を迎えた僕は、ほとんど感覚のない足をもつれさせ転倒した。
 降り積もった雪の中に顔から突っ込む。ひやりと冷たいその感覚が、汗ばんだ肌に心地良かった。その安堵感にようやく僕は我を取り戻した。
 広い雪原の上に座り込み、僕は靄のかかった頭で夜空を見上げた。耳鳴りが喧しく聞こえてくるほど静かで、雲一つ無い空には無数の星と綺麗な月が中天に座している。あまりの静寂にふと後ろを振り返ると、既に僕を追ってくるみんなの姿はなくなっていた。たった一人、僕はこの雪原に居た。
 本当なら、自分に害を成そうとする存在が消えたのだから安堵する所なのだろうけれど。先行して湧き上がってきたのは安堵ではなく、途方も無い寂しさだった。
 僕は一人だ。
 それが僕にとって安堵をもたらすのか、それとも別の何か違うものなのか。今の未だ混乱の余韻が色濃い頭では分からなかった。
 もっと安心すればいいじゃないか。
 そう自分に言い聞かせてみるけれど、安心よりも寂しさ、そして我を忘れそうなほどの感情の本流が沸きあがって来た。
 僕は自分の膝を抱き、そこへ顔を埋めた。なんだか酷く疲れていた。無理も無い。三日も食事をしていないのだ。にも関わらず、ここまで全力疾走してきたのだから。体が悲鳴を上げるのも当然だ。
 はあ、と大きな溜息が洩れる。
 どうしてだろうか。それは疲労に満ちていると言うより、どこか悲しさを紛らわせようとした苦肉のそれのようだった。
 こんな事で、と思った。でもそれはただの強がりで、すぐに砂上の楼閣のような理性の壁が崩れ落ちていった。
 遂には涙が伝った。
 涙が流れると体が動かせなくなった。考えも止まり、ただ陰鬱な感情に縛られる。
 僕は、もう戻れないんだ。
 そのまましばらく、涙が止まらなかった。
 いつの間にか腕の炎は消えていた。今頃消えたって遅いよ。そう思った。



TO BE CONTINUED...