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 その日の夕方。
 本日は、主催者側の予測よりも各機体の性能差が歴然としていたためか、二日がかりで行う予定だった予選が一日で終わってしまった。そのため予定を繰り上げ、明日から早速本戦に突入する事になった。
 予選を勝ち抜けた機体は全部で10機。その10機と所有者達は会場の奥にある会議室に集められていた。ここで明日からの本戦等に関する連絡事項を行うのである。
 当然の事ながら、私はその後二回の試合も一試合目同様に圧倒的な試合展開で勝利をもぎ取った。決して相手機の性能は見劣りするようなものではなかったが、私をカスタマイズしたのはあのマスターだ。技術差が根本から違うのである。
 会議室は、よく大学等で見られる後ろに下がれば下がるほど机の位置が高くなる作りになっていた。最下段の机と教壇に相当する司会席は同じ段で、最上段の席に座る人間は正面のプラズマボードを見下ろす形になっている。全体的に、丁度コロセウムの観客席をこの部屋にサイズに合わせて縮小化させたような雰囲気だ。
 予選を勝ち抜いた機体は10機。そしてその所有者が10名。計20名が部屋の中で説明会の開始を待っている訳だが、場の空気は酷く冷たく張り詰めている。皆、進んで会話を行おうとはせず、それどころか逆に警戒しているかのように机にはまばらに着いている。明日からは本戦である。本日の予選でも分かった通り、今回のギャラクシカは強い機体と弱い機体が実に明確化されている。予選で消えたのは必然的に弱い機体、そして勝ち残って今ここにいるのは優れた機体という事である。だからこそ、本戦では互いの性能が伯仲する接戦になる事は避けられない。たった1馬力の出力差、たった一行の構文の長短で勝負が決まると言ってもおかしくはない。それだけに、皆は自らの情報が漏れないようにと出来るだけ相手との接触を断っているのだ。
「やれやれ……なんか居心地悪いわね」
「ええ」
 マスターはうんざりと言った表情でそう苦々しく呟く。
 ロボットである私には、その場の空気の緊迫感はある程度統計データと比較して感じる事が出来ても、それが精神的不快感に繋がる事はない。それでも私はマスターに相槌を打った。人間がこういった会話の切り方をするのは、相手に対して同意を求めている時だからなのである。
「悪い、ラムダ。ちょっくらコーヒー買って来て。気分紛らわしたいから」
「分かりました」
 私はマスターからキャッシュカードを受け取ると、部屋の出入り口へ向かった。
 私一人が退室しようとしている事に、部屋中の視線が一度に集められた。今はどんな些細な事でも相手の動向が気になるのだろう。だが、いちいち一人一人に注意しリソースを回していてはすぐにメモリがオーバーフローを起こしてしまう。私は周囲の態度を無視し、まるで振り切るかのようにやや歩を早めて部屋を出た。
 マップ、ロード。
 私はここから一番近くコーヒーを取り扱っている自動販売機の検索を始めた。あらかじめここの間取りのデータはインストール済みである。後はそこから検索すればいい。
 検索終了。
 ルート構築完了。
 すぐに自動販売機の位置は検出する事が出来た。私はあまりマスターを待たせぬためにもすぐにそこに向かった。
 廊下を直線に8メートル。すると三叉路に当たるので、そこを左に曲がる。そして更に直線に歩く事4メートル。するとその真正面にデータ通り自動販売機はあった。
 まず、カード差込口にマスターから手渡されたマスターのキャッシュカードを差し込む。すると自動的に機械がカードに記録されたナンバーを認識し、正常な使い方をされているか、使用可能なナンバーなのかを調べる。そして正しい使用が認められると、次は通常の販売ルーチンが開始する。
 マスターは既製品のコーヒーはシンプルなものを好む。まず、通常のスタンダードなコーヒーを選択、砂糖は少量、ミルクはやや多め。自宅で私が淹れたコーヒーを飲む時とはまるでチョイスが違う。私はロボットであるため、食料を食べるという行為を行う必要はない。当然だが、人間にあるような味覚素子なるものは未だに完成していない。だから私はものを口にしたときに感ずる味というものが理解出来ない。そのためマスターの味の好みというのは段階的な作業の積み重ねでしか認識が出来ず、味そのものはデータとして取得出来ないので分からないのだ。
 私の操作通り、自動販売機は取り出し口に紙コップをセットする。そしてそこに小さな注ぎ口が伸び、薄黒い液体を注ぎ込み始める。マスターに限らず、人間はよくこの古びた潤滑油に酷似した液体を好んで口にする。嗅覚素子により、潤滑油とコーヒーの差はちゃんと認識が出来る。だが、潤滑油の匂いを認識した時は潤滑油、コーヒーの匂いを認識した時はコーヒーと、ただメモリの中にそう結果だけが浮かび上がるだけなのだ。厳密に言えばロボットの嗅覚素子は人間の嗅覚と同じ機能は持っていない。ロボットは人間のように匂いそのものを楽しむ事は出来ないのだ。
 やがて自動販売機は一音のアラームを鳴らし、取り出し可能である事を知らせる。私はキャッシュカードと温かい紙コップを取り出し、そして今来た道を引き返す。早くマスターにこのコーヒーを届けなければいけないのだ。
 今から半世紀程前、自動販売機に大改革の時期が訪れた。これまでの自動販売機は基本的にコインによって商品の販売を行ってきた。しかし、既に当時の世間ではデジタルマネーが主流となっており、九割以上の商店ではキャッシュカードによる売買システムが導入されていた。にもかかわらず、それまで無人機は未だに現金のみにしか対応していなかったのだ。技術的には可能だったのだが、どこも新型を導入するには費用がかかるためいまいち踏み切れていなかったのである。しかし、とある飲料メーカーが自社の広告の掲載と自社製品のみを取り扱う事を条件に格安で提供し始めた。それが発端で他社も次々に同じサービスを始め、結果的に旧型の自動販売機は瞬く間に姿を消していったのである。
 そして、もう一つ。これは更に前の出来事だが、金属缶による飲料の発売がある時期を境に全て紙製品に取って代わったことがある。様々な要因があるものの、一番のそれはやはり環境問題である。初めこそリサイクルによってある程度の深刻化は防いでいたものの、消費量の増加と共にそれも限界である事を悟り、遂に時の政府が思い切って缶製品の生産を禁止したのである。そのため、各メーカーはそれから生産品はこういった紙コップ製品と携帯するための紙パック製品を中心に切り替えざるを得なかった。
 今の世代にはそれが当然の事なのだが、年配の人間にはやはり未だに違和感があるそうだ。時折、限定生産で缶飲料が売られる事があるが、それらはあっという間に昔を懐かしむ人達によって買われてしまうそうだ。懐かしむ、という感情は私には理解出来ないが、過ぎ去ったものがたとえ効率の悪いものでも思い出したくなってしまう性を人間は持っているのだ。
 通路を4メートルほど直進。そして三叉路を、来る時は左に曲がったので今度は右に曲がる。そのまま直線距離で8メートル。マスターの待つ会議室はそこにある。
 残り5メートルという距離に差し掛かった時、突然会議室の扉が中から開かれた。そしてそこから現れたのは、ややおとなしめのシンプルなデザインのドレスを身にまとった女性、マスターと大学の同期生だったミレンダ=テレジア女史だった。
「あら。お使いのようね」
 テレジア女史は私へ悠然と微笑み向ける。
 マスターはテレジア女史と、その所有機であるシヴァを要注意指定にしておくようにと私に命令している。シヴァはこのギャラクシカでも優勝が大本命にされている機体だ。そしてその所有者であるテレジア女史も、私のマスターに勝るとも劣らない技術の持ち主だ。マスターの話では十中八九、テレジア女史は自分が優勝を獲得するに当たり、私の存在を快く思っていないそうだ。そのため、一番隙を見せてはいけない人物なのだ。
 テレジア女史がどんな手段に出てくるのかは分からない。今はその傍らにシヴァはいないようだが、テレジア女史ほどの技術者ならばロボットの弱点など無数に知っているはずだ。ロボットの動作を致命的に狂わせるウィルスプログラムすら、女史にとってはほんの数分の作業で作り上げてしまう。それはある意味、同じロボットよりも遥かに強敵である。
 モード、アテンション。
 感覚素子をテレジア女史に優先的に向ける。
 自己防衛プログラム、ロード。
 これより防衛モードに入ります。
 人間とロボットの物理的な性能差は火を見るよりも明らかだ。人間にはダメージを負ってもある程度ならば自らの力で回復する能力がある。しかしそれは可及的なものではなく、その度合いによって一定の期間を要する非常に緩やかなものだ。その上、身体の一部を失ったり、また極度に破壊された組織についてはこの能力は適応しきれない。如何なるダメージも、パーソナルシステムさえ無事であれば修復できるロボットに比べたら、人間は遥かに脆弱だ。そして更に、単純な身体能力や処理速度もロボットの方が上である。結論から言えば、ロボットにとって人間はガラス製のグラスと大して変わらない脆い存在なのだ。だからこそ、幾ら身を守るためとは言っても全出力を発揮する訳にはいかない。法律上、ロボットには人権を始めとするあらゆる権利は認められておらず、もしも私がテレジア女史に何らかの負傷をさせてしまえば、その罪は私の所有者であるマスターが問われる事になってしまうのだ。私が問われるならば何ら問題はないのだが。私の事でマスターに迷惑や損害を及ぼす訳にはいかない。
 相手を傷つけず、なおかつ我が身を守る。それはあまりに難しい要求ではある。だがそれを達成できなければ、マスターや私に目的達成のため何らかの不都合が起こる事は否めないのだ。
 私は全感覚素子をテレジア女史に集中させ、その動向を窺う。このまま戦ってしまってもいいが、それではただの人間であるテレジア女史が負傷する可能性が高い。最良の選択肢は、この場を速やかに脱出する事だ。けれど相手がどんな武器を所持しているのかは分からない。迂闊な行動は命取りになる。
「そう身構えなくてもよろしくてよ。私があなたに何かするとでも思ったのかしら?」
 テレジア女史はそう苦笑を浮かべながら私にそう言う。
「大方、私があなたに何か妨害工作でもするとでもエリカに教え込まれたのでしょう? あいにく、私のシヴァはそんな事をしなくとも余裕で優勝を獲れるだけの性能を誇っておりますから。あなた如きに何も手出しはいたしませんわ」
 サーモセンサー……異常ナシ。
 声紋判定……正常。
 人間が嘘をつく際に起こる特有の生理的異変は確認できなかった。どうやらテレジア女史の言葉に偽りはないようだが、しかし、ならばテレジア女史は一体何の目的でわざわざここに現れたのだろうか?
「何の御用でしょうか? 私はマスターの命令を遂行中なのですが」
「命令? まったく、エリカもコーヒーぐらい自分で買えばよろしいのに」
 そうテレジア女史は苦笑しながら口元に軽く指を当てる。
 テレジア女史はそう言うが、それはおかしい。コーヒーぐらい、だからこそロボットである私が行うべきなのである。ロボットは人間の道具だ。道具は人間の労働的負担を軽減するための存在なのだから。
「あなた、コーヒーはいつも同じものをエリカには出しますの?」
「いえ。その時と場合によります。自宅で飲む場合はある程度一定していますが、マスターは気分によって何が飲みたいのかを変更いたしますので、その都度私があらかじめ予測して対応します」
「予測して対応? けど、それは必ずしもエリカが望むものであるのかしら?」
「はい。マスターは気にいらない事ははっきりと指摘いたしますから。私が気に召さないものを用意すれば、すぐさまそれを指摘してきます。ですが私は今まで指摘された回数は2桁にも満たっていません」
「なるほど。あなたはエリカの気持ちが分かるのね。まるでオメガみたい」
 オメガ?
 ふとテレジア女史の口から飛び出した言葉に、私は思わず疑問符を隠せなかった。オメガ。それは終わりを意味する言葉だが、この場合は別な意味で使用したのだろう。前後の単語から推測するに、おそらくは何らかの固有名詞だろう。しかし、私のデータにそれに該当する言葉はない。
「ほら、ラムダ。ボーっとしていますと、せっかくのコーヒーが冷めてしまいますわよ?」
 そのテレジア女史の指摘に、ハッと私は思考を停止させた。またうっかりリソースを思考システムに優先させてしまっていたようだ。
「テレジア女史、オメガとは一体何の事でしょうか?」
「私はただあなたをからかいに来ただけですわ。忘れてしまいなさい。さあ、早くお入りなさい。そろそろ始まりますわよ」
 私の質問に対してテレジア女史は明確な解答を提出せず、逆に会議室の扉を開けて私に中へ入るように促す。表情はどこか含みの感じられる微笑。けれど私は、それ以上の追及はかわされてしまうだろうと続けることはしなかった。何かうやむやにしたい事が、その『オメガ』という単語の中に含まれているのだろう。それを詮索するのは、ロボットの分際をわきまえない行為だ。
 どこか釈然としない不明瞭なままのものを抱えたままだったが。とにかく私は、今はマスターに言いつけられたコーヒーを届ける事を最優先とした。私が優先すべき行動事項は、マスターから発せられた命令だけだ。個人的興味本位の事項にリソースを回してはならない。
 個人的?
 興味本位?
 果たしてそれらや類ずるものはロボットの中に含まれていただろうか? しかしすぐに私はその思考をクローズした。私にはエモーションシステムが組み込まれている。そんな事だってあるだろう。