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「エリカ……」
 思わずテレジア女史は、脱力とあきれの表情を浮かべて大きく溜息をつく。しかしその間もマスターは、テレジア女史が買ってきたクリスフォックスのロゴマークが入った箱を漁り、そして中から手のひら大ほどの比較的大きなサイズのシュークリームを取り出し、そしてそのまま一口かぶりつく。
「マスター、小皿とフォークがこちらに」
「ん? ああ、別にいらないわよ。シュークリームってのはこうやって食べるモンだから」
 そう言って、マスターは更にもう一口かぶりつく。
「エリカ、あなた相変わらずね」
 そんなマスターの様子に微苦笑を浮かべ肩をすくめるテレジア女史。
「何がよ?」
 マスターは指先についたクリームを舐め取り、何かを求めてうろうろと視線を彷徨わせる。咄嗟に私は近くにあったボックスティッシュを差し出す。すると案の定マスターは、ども、と一言述べてからティッシュを三枚ほど一気に取って指と口の周りを拭く。
「都合が悪くなると、すぐに聞こえない振りをして誤魔化す」
 そのテレジア女史の言葉に、マスターの動作が一瞬固まる。
「あなたの事ですから、私が何を言いに来たのか、大方見当はついているでしょう?」
 そこへ畳み掛けるようにテレジア女史が更なる言葉を続ける。マスターから先ほどまで浮かべていた陽気な表情が消え、視線もどこかうつむき加減になる。手にしていたシュークリームも、それ以上食べようとはしなくなった。
「……あのさ、やっぱりキツイんだわ、それ」
 そして、マスターは視線をうつむけたまま小さな声で搾り出すように答える。
 一体、二人は何の事について話しているのだろう? 発せられた言葉の中にはそれを指す直接的な言葉は見当たらず、代名詞的な表現ばかりである。それは互いに共通の話題で会話をするという事が前提になっているからこそ出来るのだが、二人には事前に示し合わせた訳でもない。ならば、それは二人にとってそれほど日常的な項目に類しているのだろうか? 趣味も生活環境も対照的な二人にとって、唯一共通しているのが二人がロボット技術者という事だ。ならば、二人が話しているそれとは、何かロボット工学に関することについてなのだろうか? いや、それにしてはあまりにマスターの様子が深刻だ。
 私は答えを求めてマスターに視線を移す。けれどマスターはうつむいたまま何も答えようとしてくださらない。そして今度は目の前のテレジア女史に向ける。だが女史はそっと微笑むだけで追求をはぐらかすように事を濁す。そして、シヴァはただ黙って場の動向を見つめている。
 一体、二人は何を話しているのだろう?
 予測不可能。
 知りたくとも知ることの出来ない現実が、私に凄まじい心理的負荷を与えてくる。訳もなく不安な気持ちに陥り、次々とシステムエラーが起こる。その修復のためCPUの占有率が急上昇していき、気がつくと私はほとんど動けなくなっていた。
「エリカ、それは話す意思はあるという事かしら? 長い目で見て」
 たっぷり間を空けた後、テレジア女史が改めてそうマスターに問う。けれどマスターはうつむいた姿勢のまま微動だにしない。
「そう。前と同じ、意思はあることはあると言いたいようですわね。けれど、いい加減にしたらどうですの? 初めの内、私もその辺の考慮をした上であえて口に出す事ははばかっていましたが。意思はある意思はある、じゃあそれは何時になったら行動に移すのかしら? もう明日は準決勝、明後日は決勝戦ですわよ? あなたは本当にいつまで先送りにするの? 五年? それとも十年?」
「あんたには分かんないわよ。私がどんな気持ちでいるかなんて」
 顔を上げ、キッとテレジア女史を睨みつけるマスター。しかし、
「都合が悪くなるとすぐにそう人を撥ね付けるような態度を取るのも、あなたの悪い癖ですわ」
 苛立った口調のマスターに対しテレジア女史は、普段はそんなマスターの態度に腹を立てるのだが、今回は終始悠然とした態度を崩さない。マスターの視線に対しても悠然と真っ向から受け止める。やがてマスターは迫力で負けてしまい、再び視線をテレジア女史から逃げるように落とした。
「今、私にとって大切なのは、ギャラクシカでシヴァを優勝させること。けれどそれは、他の事全てを切り捨てても良いという事とは違います。ラムダはあなたの所有機です。開発方針について意見を挟むつもりはありません。ですが、私にとってあなたも、そしてラムダも他人ではないという事を少しは分かって貰いたいですわね」
 けれど、そのテレジア女史の言葉にもマスターは黙ったまま何も答えない。ただじっと、テーブルの上に置きっ放しになった食べかけのシュークリームを見つめている。
 と、テレジア女史は急にそそくさと残ったコーヒーを飲み干すと、静かにソファーから立ち上がった。
「さて、そろそろ私達はお暇させていただきますわ。明日に向けての最終調整も残っていますし」
 踵を返すテレジア女史。けれどマスターは挨拶もせず依然としてうつむいたままである。
「あら。私としたことが忘れていましたわね」
 ふとテレジア女史は廊下に向かいかけるも一度立ち止まると、マスターの元へそっと歩み寄る。
「これ。シヴァとのリンキングシステムですわ。明日の試合で、互いの行動情報がリアルタイムで軽快にやりとり出来るようになっています。ラムダ用に合わせていますから、インストールするだけでよろしいですので」
 テレジア女史は小さな赤いプラスチックのケースをマスターの前のテーブルに置いた。メモリスティックを入れる保護ケースである。しかしそのケースにはバラをモチーフにしたスケッチラベルとテレジア女史の イニシャルが入れられている。これは市販品ではなく、女史がオーダーメイドで作らせたものだ。こういった細かなものにこだわりを見せるのがオシャレである、と前に女史が言っていた。けれどマスターはそれを、自意識過剰の無駄金使い、と酷評し、その後に慣例となっている口論に発展した。
「それでは。お見送りは結構ですから。お互い、明日の試合は頑張りましょう」
 テレジア女史はニッコリと優雅な笑みを浮かべる。それでもマスターは視線を上げない。それから女史は私にも笑みを向けて軽く一礼し、今度こそ軽やかな足取りでリビングを出て行った。続いてシヴァも表情を変えぬままリビングの出入り口で一礼し、テレジア女史を追ってこの場を後にする。
 バタン、と玄関のドアが閉まり、ロックが自動的にかかった音が聞こえてきた。それを最後に、リビングはしんと静まり返ってしまう。
 二人が居なくなり、それでもマスターはずっと視線をうつむけたままだった。その表情は、マスターが何かを閃き、それをはっきりした形にまとめるために集中している時のそれに似ている。マスターは人並はずれた集中力の持ち主であり、一度集中し始めると、まるで聴覚素子をクローズしてしまったかのように周囲の音が聞こえなくなるのである。
 きっとマスターは、いつものように何かについて思慮を巡らせる事に集中しているのだろう。初めこそそう思ったのだが、マスターの表情にはいつものそれとは違う苦渋の色が滲み出ている。そう、構想がうまくまとまらない時もマスターは苦しげにうなり、いらいらと指を鳴らしはするが、ここまで深刻で思い詰めた表情を浮かべた事は一度もない。いや、むしろ、私がマスターのこのような表情を見る事自体が初めての事だ。
 一体、マスターは何をそんなに思い詰めているのだろう? 先ほどテレジア女史に指摘された、口にする事が非常に苦痛な事項についてだろうか? それはどんなものなのか、私に解決出来るものなのか、詳細な情報を知りたかった。けれどマスターの放つ雰囲気は、私のそんな介入を許しそうもない。ただじっと、ひたすら自分で答えを模索してはつまづき、再び模索してはつまづく、そんな永久ループの検索処理を行っている。けれど繰り返せば繰り返すほど、マスターの表情に差す影は、より一層深みを増していく。まるで、暗い穴へ落ちていくかのように。
「ねえ、ラムダ」
 ふとマスターは、視線はうつむけたままでそう私を呼ぶ。先ほどにも増して、喉を臨界点まで絞った上でようやく抽出したような、本当に余裕の感じられない声である。すぐさま私はその声に応じて思考をクローズし、マスターの傍に歩み寄った。自分が必要とされている。そう私は思ったからだ。
 すぐ目の前にマスターの何かに苦しんでいるようにも見て取れる、あまりに重苦しい顔があった。感冒で倒れた時よりもその表情は苦く重苦しい。私はそんな表情を浮かべているマスターを見てはいられなかった。私に出来るのであれば、すぐさまマスターがそんな表情を浮かべる原因を取り除いてやりたい。それはマスターの命令とは別に、私がマスターに使える存在であるが故の当然の発露だ。
 マスターはうつむけた視線をゆっくりと私に向ける。私を見つめる二つの瞳には、疲れや苦しさといった辛いものが見え隠れし、私はあるはずもない心臓を悲痛さで締め付けられるような誤認識を起こした。マスターはそのまま私をじっと見つめる。まるで、私のフォルムを再確認しているかのように。
「あなたは誰? 何のために生きてる?」
 そして。
 長い逡巡とも思える時間を置いてマスターの口から飛び出した言葉は、そんなあまりに突飛な質問だった。
 どうして今更そんな事を訊ねるのだろう? それはマスターが私を製作する時に決めた項目であるはずなのだが。けれど、だからといって私はマスターの問いを拒む訳にはいかない。ロボットは主人に絶対服従するように作られている。そもそも私にはマスターの命令を拒絶するという思考がない。
「私の個体名はラムダ。マスターの命に従うために製作された無性別型アンドロイドです」
 私という存在は、たったそれだけの短い言葉で表現する事が出来る。私達ロボットは、この世に何かしらの目的を持たされ製造される。私はマスターによって、マスターの手足となるために製造された。マスターの命に忠実に従う事が私の存在意義である。それ以上それ以下でもなく、唯一無二の存在理由。私が答えられる返答は、マスターも既知しているであろうそれ以外には存在しない。
 しかし、
「そう……」
 マスターはどこか寂しげな表情を浮かべてうなづいた。
 あれ?
 私は思わず首を傾げた。マスターの表情は私の返答にあまり満足してはいないように私には思えた。しかし、今の返答は一体どこかおかしかったのだろうか? 特にこれといった問題点はなかったはず。もう一度今の自分の発言を再検証してみる。発言履歴データロード。検証開始。エラーは未検出。やはり、私の解答には誤った個所は見当たらない。マスターの問いに対して最も適切な解答をしている。ならば他に考えられる可能性は。
「あの―――」
 私がマスターの質問の意味を履き違えていたのであれば、もう一度マスターの望む返答をし直すためにもはっきりと質問の真意を理解する必要がある。そのため私はマスターに今の質問に対して問おうと口を開いた。
「ラムダ」
 私とほぼ同時かそれよりも後か、とにかくマスターは私の言葉へ強引に自らの言葉を被せ、会話の主導権を得る。そして、
「悪い。多分、私に聞きたいことは色々あると思う。けど、正直まだ決心がついてないのよ。オメガの事もそうだし、ミレンダが言ってた、私があなたに伏せていることもそう。でも、絶対にちゃんと説明するから。今は何も聞かないで」
 そうマスターは心底すまなさそうに私に頭を下げる。
「マ、マスター? そんな、やめてください」
 私は思わず慌てた。人間が謝るという行為には、相手に対して自らの行為の不当性を申し開き謝罪するという意味がある。極論を言えば、己の人格性すら否定しかねない行為だ。
 私にとって、全ての正当性はマスターが基準なのだ。マスターの言う事は全てが真実であり絶対である。私が従うべき行動指標を示すのはこの世で唯一マスターだけだ。そんな絶対的な存在であるマスターが私に謝罪行為を行うなんて。私には思いもよらない事だ。
「我侭言ってるのは自分でも分かる。でも、お願い。もうちょっとだけ何も言わないで付き合って」
 マスターはあまりに真剣で、そして心痛な瞳で私を見つめながらそう嘆願する。
 私はしばらくの間、何も言う事が出来なかった。マスターの表情の重さへのショックと、そして予想だにしなかった言動。この到底辿り着けないであろう二つの理由を明確化するため無限に続く無意味な処理を、強制終了させるまでの間延々と繰り返し続けていたせいだ。
「マスター」
 そして私は、自分が普段と変わらぬ自分でいられている事を確認しながらマスターを見つめ返す。
「私はマスターに忠実な存在です。マスターの命には決して逆らいませんから」
 個体名オメガの事も、マスターが私に伏せているという事も、どちらも以前不明瞭のままだが。私はマスターとの間に感じていた距離感が一気に消え去った事を確信した。それはデータで視覚化出来るようなはっきりとしたものではなく、ほとんどが乱数によるランダマイズ的な曖昧なものだった。けれど私にはとても重要なもののような気がした。単にそう思うようにプログラミングされているのかもしれないけれど、それでも私は良かった。これが心の拠り所に変わりないのであれば。
「うん……ありがと」
 そう言って、マスターはそっと私を抱き締めた。
 感覚素子からマスターの体表温度が伝わってくる。普段よりもいささか値が低い。けれど、それを感じている事自体が私にとって非常に心地良かった。
 大丈夫。マスターは私の事を思ってくれている。
 そんな安心感が、荒れていたシステムを急激に正常化していった。