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「逃げろー!」
 真っ先に声を上げた男は、ステンドグラスが一斉に降り注ぐ事がどういう事態を招くのかを瞬時に判断出来た。割れたガラスは鋭い刃物と同じ、それが数え切れないほど落ちてくるのだ。無事で済むはずがない。
 男の声で天井を見上げた彼らが次に取った行動は二種類あった。一つは慌てふためきながらも礼拝堂の端へ避難して少しでも被弾を防ぐこと、もう一つはその場に屈んで身を小さく丸め、頭を体の下側にし首周りを手で覆って守ることだ。
「うわあああ!」
「ぎゃあああ!」
「あっ、あああああ!」
 礼拝堂内に悲鳴が飛び交う。ステンドグラスが割れた事があまりに突然だったため、誰も降り注ぐガラスの破片から身を守る事が出来なかった。礼拝堂の端へ逃げようとした者は辿り着く前に破片が幾つも刺さり、転んで床に這いつくばったまま動けなくなる。その場で防御体勢を取った者はただただガラスの破片が体中に突き刺さるだけだった。たちまち礼拝堂の中は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。誰もが体の至る所にガラスの破片が突き刺さり、流れるおびただしい血が礼拝堂の床を赤く染めていく。そこかしこから上がる悲鳴は嗚咽と助けを呼ぶ声に変わり、中にはひたすら女神への祈りを唱え出す者までいた。幸いなのは、一人の死者もいない事だった。降り注いだガラスの破片は多かったが、破片自体は内臓や太い血管へ達するほど大きくはなかったからだ。ただ痛みだけは鋭くて強く、腕に刺さった破片を自力で抜こうとする者は痛みのあまり呻き声を漏らしながら大粒の涙をぼろぼろこぼしていた。
 一体何が起こったのか。この出来事に誰もが唖然としていた。
 礼拝堂が建てられて以来、このステンドグラスは割れることは過去に一度もなかった。王宮の中庭に建てられた先代の銅像が倒れたほどの大きな地震があった時でさえも、礼拝堂のステンドグラスは一枚もひび割れる事すらなかった。この出来事から神殿の礼拝堂には創世の女神の加護があると信じられるようになったほどだ。
 女神の加護に守られているはずのステンドグラスが、風も無いのに割れてしまうなんて。教会の人間にとってそれは悪夢でしかない。
 どうしてこんな目に遭うのか。こんな酷い事故が何故今起こるのか。痛みをこらえながら、自分の身に起こった出来事へ恨み辛みを吐き出す。けれど幾ら呪っても突き刺さった破片の一つも抜けたりはしない。
「くうっ……何故だ、何故このような……!」
 血まみれで床に這いつくばるトラヴィン主教は、立ち上がろうとするも痛みのあまり足に力が入らずひたすらもがいていた。ガラスの破片はトラヴィン主教の背中から膝の裏を経由し脹ら脛にまで満遍なく刺さっている。自分で抜こうにも目の届きにくい場所ばかりで、なおかつ抜くために姿勢を変える事も自力で出来なくなっていた。
 すると、
「主教、どうかそのまま動かないで下さい」
 おもむろにトラヴィン主教の側に屈み込んだシェリッサは、背中に刺さったガラスの破片から一つずつ静かに抜き始めた。
「シェリッサ? 君は大丈夫なのか……?」
「はい。きっと女神様が御守り下さったのでしょう。それに、僭越ながら私を殺めようとされた方が仰る言葉ではないように思います」
 信じられない。そんな言葉が真っ先にトラヴィン主教の脳裏を過った。あれだけのガラス片が降り注いだなら、礼拝堂の中に安全な逃げ場所などない。だからみんな体中に破片が突き刺さり苦しんでいる。それなのに、何故逃げも隠れもしなかったシェリッサは無傷で済んでいるのか。普通に考えて絶対に有り得ない事なのだ。
 シェリッサは破片を取り除いた箇所から少しずつ治療術を施していく。鋭いガラスの破片を抜くのは痛みを伴うが、取り除いてしまえば治療術により痛みはどんどん和らいでいった。それにより錯乱していたトラヴィン主教も冷静さを取り戻していった。
「どうして君は、私の治療をするんだ……? 今自分でも言ったように、我々は君の命を狙ったのだぞ」
「一人でも多くの人から苦しみを取り除く、私の目標はずっと変わっておりません」
「私のような人間でもか?」
「私は出来るだけ人と人の間に垣根は作りたくありませんから。それに、意見や主張こそ違えましたが、私のような非才の身で祭司になることが出来た恩を忘れた訳ではありません。こんな形でしか返せない我が身の不甲斐なさを、今はただ恥じるばかりです」