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「ぐうう……」
 エクスは顔を俯けたまま体をぎゅっと強ばらせて動かない。僅かに獣がうなるような声を漏らすのは、叫びたいほどの激痛を耐え忍んでいるからだ。体に直接触れなくとも、必死で痛みを堪えている事ぐらいははっきりと分かった。
 ドロラータの魔力が青白い炎となってエクスの傷口へ染み込む。中に浸透した攻撃魔法を見つけ出し、ぶつかり合い、押し潰して消滅する。その過程がエクスの傷口を執拗に何度も何度もほじくり返しては痛めつける。すかさずシェリッサが法術で治療するものの、傷は塞げても痛みまでは取る事は出来ない。そもそも法術には痛みを取る技術が無い。治療は人を元に戻す事だが、痛みだけを取り除くのは人を不自然な状態にする事だから、という宗教的な禁忌のせいだ。シェリッサはこれまでその事に何の疑問も抱かなかったが、やはり痛みを取る事は必要な手段なのだと今は痛感する。
 エクスがこれほど激痛に喘ぐ姿を見るのは初めてだった。そもそもエクスが怪我らしい怪我をする事自体が稀な事だった。創世の女神の加護を得ていると自称するほど、エクスは単純に強く頑丈だからだ。そのせいで、いつの間にかエクスは大怪我などしないのだと誤認していた。シェリッサが未だに抱き続けている僅かな違和感は、この誤認からくるものだ。
「よし、大体魔力は取れて来た。もう一押しだね」
「はい、こちらも大丈夫です」
 ドロラータは表情こそ普段通りの淡泊で抑揚のないものだったが、珍しく額から大粒の汗を幾つも流していた。魔法の技術の要とは、魔力のコントロールの事だと聞いたことがある。恐らく今こうしてエクスに魔力を送り続けるのは、素人が想像する以上に過酷な事なのだろう。魔力が少な過ぎれば取り除けず、多過ぎれば逆にエクスの腕を余計に傷つけてしまう。その加減に神経をすり減らしているのだ。
 その一方で自分はなんと楽な事か。治療に手加減は必要ない。ただひたすら全力で治療を続けるだけでいいのだ。必要な事とは言え、加減した魔力でエクスを苦しめている負い目を抱かなくて良いのだから。
「ねえ! そっちはどう!? なんかアイツ、段々ペース上げて来たよ!」
 銛を構えたままレスティンがそう訊ねる。いつの間にかレスティンの服にはあちこちに擦ったり切り裂かれた痕が出来ていた。足下には既に折れた銛が何本も落ちていて、怪我をしているようではなかったが疲労の色が濃くなってきているのは明白だった。海中から繰り返される襲撃はレスティン程の熟練者でも相当に消耗させるもののようだった。
「二人共、もう治療は十分だ。そろそろレスティンを助けないと。残りは終わってからにするよ」
 おもむろにエクスは傷口にかざしていた二人の手を取ると、自分から遠ざけた。エクスの傷は未だ半分程度の治療しか済んでいない。攻撃魔法も僅かだが中に食い込んだままだ。腕から血が滴り落ちるものの、エクスは全く意に介していないようだった。
「お待ち下さい! それでもまだ決して浅い傷では―――」
 思わずエクスを制止するシェリッサ。しかし、
「分かった。じゃあ、早いとこ片付けよう」
 ドロラータはあっさりと了承すると、剣を構えたエクスに続いて攻撃体勢を取る。シェリッサは驚きで息を飲んだ。
「ドロラータさんも! このままで良いのですか!?」
「ま、仕方ないよね。怪我人をこれ以上増やす訳にもいかないし。シェリッサも援護お願い。今のあたし達、地味にピンチみたいだから」
 当たり前のように戦線へ復帰する二人に、シェリッサは唖然としてしまった。まだ治療の途中だったのに、それを止めてでも戦おうというのか。それがエクスならば理解が出来る。エクスは強く、それが故に無茶をしてしまうのは日常茶飯事だからだ。だが普段は無気力なドロラータまでもこの無茶に当たり前のように付き合うその決断が、シェリッサには何よりも衝撃だった。
 そしてシェリッサは思った。ああ、自分だけが考え方が甘い。エクスと共に戦う覚悟が無いのだと。
 そもそもシェリッサが旅に参加したのは、恩師でもある主教の指示と星読みの占いによるものだ。自分には積極的に危険な戦いに身を投じる理由や目的が無い。むしろ、主教の指示通りにすればエクスと結婚するため司祭の肩書きを捨てなければいけない。進むも戻るも困難しかない、塞がった状況に自分は居る。だからこんな時に消極的になってしまうのだろう。
 その消極さが、みんなの足を引っ張っているのではないか。
 エクスが異性という意味で好きかどうかはともかく、勇者の称号に甘える事なく困っている人々のため働く彼には強い好意と敬意がある。強く優しい彼を支える事に疑問も躊躇いもない。にもかかわらず、この大事な場面で消極的になってしまう。そう、消極的な行動の理由は、全て自分の都合ではないのか―――。
 自分が出来る事を精一杯やる。やらなければ、必死で頑張っているみんなに不誠実だ。
 その時、海面から空中に躍り出た何かが、レスティンへしっかりと殺気を込めて狙いを定めたのをシェリッサは感じた。直接戦う事は無いシェリッサにそんな勝負勘は無かったが、何故かこの瞬間だけはそう強く確信していた。
「『光よ』!」
 シェリッサは今までにないほどの素早い反応と深い集中力で法力を練ると、それを強い指向性の光に変え、近海の主の頭を狙い撃った。光の速さに反応出来る生物はおらず、シェリッサの放つ光は近海の主の目を正確に捉える。聖職者に攻撃的な法術は無いが、その光は視界を奪うのに十分過ぎる威力があった。近海の主はそのまま空中で異様な声を上げながら悶え苦しみ、そのまま船の上に落ちた。
「むん!」
 すかさずエクスが剣を抜き放ち、そのまま近海の主を斬る。すると近海の主の頭部がごろりと音を立てて転がった。
「……ふう。長引かなくて本当に助かった。ありがとう、シェリッサ」
 そう安堵するエクスだったが、剣を収めるや否やすぐに左腕の傷を抑える。血は未だ完全には止まっておらず、またすぐにぼたぼたと鮮血が滴り落ちていった。
 そこで一行は近海の主の姿のようやくはっきりと確かめる事が出来た。それはサメに良く似た、刃物のように鋭く長い牙を持ち、また刃物のように鋭いヒレを持った魔物だった。
「ふー、しんどかった。しかしこれ、ちょっと食べられなさそうねえ」
 疲労感の混じった溜め息をつきながら、レスティンが近海の主を覗き込む。それに呆れた様子でドロラータは、
「まさか本気で食べるつもりだった? これを?」
「そんなの見た目によるでしょ、見た目に!」
 共に疲れているはずの二人が、またしてもいつもの小競り合いを始める。
 シェリッサはそんな二人の姿を見て、珍しく諫めるよりも笑みをこぼした。自分でも何故笑えるのか良くは分からなかった。強い緊張感から急に解放されたからなのか、それとも言い争いの原因が今まで自分達を苦しめていた魔物だからだったのか。
 何にせよ、自分が二人を諫める役でこのパーティーはバランスが取れている。シェリッサは二人に近付くと、
「お二人共、見た目に関係無く魔物はよしておいた方が良いかと思いますよ」
「だから、食べないって!」
「あたしはそんな事言ってない」