愛しき勇者様の争奪事情

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　近海には主が棲む。そんな言い伝えは本当に世界中のあちこちに伝わっている。だが多くの言い伝えの正体は、未知の巨大な海洋生物だったり、航海技術が未熟だった頃の自然現象だったりする。だから今回のそれは同じような真相で、わざわざエクスが出張る事でもないとシェリッサは思っていた。しかしエクスは困っている人を見ると必ず助けようとする性分である。そして今回もやはり、エクスは自ら近海の主退治という厄介事へ首を突っ込むのだった。
　四人は地元のベテラン漁師が操る帆引き船に乗り沖までやってくる。近海の主は漁師の船を次々と襲うため漁がままならず困っている、とのことで、エクスはいつもの調子で主退治を約束したのだが。とりあえず勢いで海に出てはみたものの、波は低く天候も快晴でやや暑い事を除いてはいたって平和そのものだった。近海の主を退治するなど言う分には容易だが、実際は気の遠くなるような作業の繰り返しだとシェリッサは危惧していた。陸の魔物ですら出会すのに何日もかかることもあるのに、海の魔物とあっては本当にいつ遭遇するのか想像もつかない。海は陸よりも遥かに広く深い。行けば出会すようなものではないのだ。
「ここらだぁ。大体ここら辺が、よぉく主が出るってえ言われてる所だぁ」
　漁師は船の帆を畳みながらそう説明する。しかしシェリッサにはただ広い海が広がっているだけにしか見えなかった。潮目や風向きが読める者にとっては、こんな場所も特定の地点と認識出来るのだろう。
「ところでエクス様。主と遭遇する当てでもあるのでしょうか？」
「なあに、この辺りには他に船がいないのだ。主とやらも真っ直ぐこの船に向かって来るさ！」
「何も無いのですね……」
　そして問題はもう一つある。敵は近海の主、海の魔物だ。だが自分達は陸の生き物、海では自在に動き回る事は出来ない。仮に運良く主と遭遇出来たとして、一体どのように戦おうというのか。漁師も、確かに海の男らしく固く引き締まった体格をしてはいるが、そんな海の男達が束になっても勝てないのが近海の主なのである。戦力として期待する訳にはいかない。
「それで大将！　近海の主はどれぐらいで現れそうかな？」
「さっぱり分かんねえわ！　なんせ気まぐれな奴だからなあ」
「はっはっは、それなら仕方ない！」
　何がおかしいのか、とにかく意気投合するエクスと漁師が豪快に笑った。結局のところ、取りあえず近海の主が現れそうな所へ勘頼りで来ただけなのである。これでは計画も何もあったものではない。
　視線をレスティンの方へ向けると、なるようにしかならないと諦めた様子で肩をすくめて見せ、ドロラータの方へ向けると彼女はそれどころでは無いらしく海へ首を延ばしながら酷くえずいていた。慌ててシェリッサはドロラータに駆け寄り、背中をさすりながら介抱をする。自分だけならほんの少し浮いていられるはずなのだが、船酔いというのはそれだけでは何ともならなかったらしい。
　一向は大海原の中でひたすら当てもない近海の主を待った。ドロラータは物影で横たわったまま完全に動かなくなり、レスティンは副武装を広げのんびりと手入れをする。エクスは漁師と談笑しながら釣りに興じている。シェリッサは、ただ海を眺めるくらいしか出来なかった。海の上とは思っていたよりも日差しが強く暑い。そのためあまり動きたくもなかったが、かと言って聖典を読むのも船酔いが恐ろしかった。そうなるとただ海の遠くを眺めるくらいしか出来ない。
　こんな事、本当にいつまで続けるのか。飲み込んでいた溜め息がもはや隠しきれなくなって来た頃だった。ふと海を眺めていたシェリッサは、水平線の近くに何かうねりのような泡の筋を見つけた。波と波がぶつかっただけだろうと最初は思っていた。しかしその筋は明らかに真っ直ぐ、まるで意志を持っているかのように向かって来ていた。それも恐ろしいほどの速さで、気が付けば既に船の近くまで来ていた。
「み、皆さん！？　何かこちらへ向かってきているようですよ！」
　シェリッサは慣れない大声を振り絞って警告する。すると倒れていたドロラータはぱっと飛び起きて辺りを見回し、レスティンは驚くほどの早技で広げていた武器をしまい込む。エクスもまた、手には釣り竿を握り締めたままだったが、目は海原へ向いて警戒を始めている。
「む！　まさかあれか！？」
　エクスが指差した先では、向かってくる泡の筋がもはや塊となっていた。速度も全く衰えていない。そして獣のような殺意を孕んでいるのはシェリッサでも感じる事が出来た。
「うおおおい！　出たぞぉ！　近海の主だぁ！」
「下がって！　ここは俺が！」
　身を乗り出さんばかりの勢いで船の縁に掴まり指差す漁師。だがその時シェリッサには、明らかに泡の塊が漁師を見たのを感じた。そして海面を下から突き破り飛び上がった近海の主が巨体を晒す。
「危ない！」
　そうエクスが叫び、近海の主と狙われた漁師の間に自らの体を割って入らせた。近海の主はエクスと接触するが薙ぎ倒す事が出来ず、進路を横へ変えてそのまま海の中へ戻しいった。
「あっ」
　そしてシェリッサは息を呑む。エクスの左腕は肘下辺りから肩口まで、袖ごとばっさりと切り裂かれていたからだ。
「くっ……！」
　エクスは痛みで表情を歪ませながら傷口を右手で抑える。だが傷口の方が抑える範囲よりも遥かに広く、すぐに溢れ出た鮮血にまみれた。
「エクス様！　今、私が！」
　シェリッサは慌ててエクスの元へ駆け寄ると、傷口に両手の平をかざし法力を練る。癒やしの光が傷口へ注ぎ、すぐに出血の勢いが収まり始める。だが治療する範囲よりも傷口の方が広く、光の当たらない場所は未だに鮮血が溢れ出る。
「あんの野郎！　ふざけんな！　出て来い！」
　海に向かってレスティンが口汚く罵る。だが近海の主はそう都合良くは出て来ない。だが泡の塊がまだ付近をうろついている以上、諦めてはいないようだった。
　当たり前の事だが、エクスも怪我をするのだ。それでもシェリッサは驚き動揺を隠し切れなかった。女神の加護を持ち、常人離れした力を持つエクスが、こんな簡単に怪我をする事が俄には信じられなかった。いや、そもそも自分はニクスは無敵なのだと信じ込んでいたのかも知れない。
「あ、ああ！　すまねえ！　俺をかばったばっかりに！」
「なあに、掠り傷さ。それに、俺の仲間には頼もしい専門家もいるからね」
　シェリッサは怪我の治療は得意な方である。だがそんなシェリッサでもエクスの負った傷は、決して簡単に治るような軽いものではなかった。エクスが気を咎めさせないために嘘をついているのだ。
「とにかくみんな、海面の泡に注意してくれ。あれが奴のいる場所の印だ！」