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「いらっしゃい」
 ステラの病室へ入ると、ステラは思っていたよりもはっきりした口調で出迎えてくれた。やや手狭な個室の窓際にあるベッドで、ステラは上半身だけ起こし窓の外を眺めている。
「思ったより元気そうだな」
「そっちは随分ボロボロね」
「まあな。まだ流動食しか食えない」
「私も似たようなものよ」
 リアンダは杖をつきながらぎこちない動きでベッド脇の椅子に座った。自分の病室から、普段の自分なら数分で歩いて来れる距離だが、倍以上の時間と息切れまで起こしている。更に頬の傷も少しぴりついている。これほどの怪我を負ったのは生まれて初めてのことだ。
 最後に見たステラの姿はまさに生死不明としか言いようがなかっただけに、こうして自分の意思でしっかりと話している事にリアンダは心底安堵した。けれどその事は決して口にはしなかった。昔からリアンダはそうだった。ステラを心配はしても、それを直接的な言葉にするのはまるで自分の弱味を見せているようで避けてしまうのだ。
「前に特務監査室の人が来てね、エリックっていう背の低い男の人とマリオンっていう背の高い女の人。何があったのかは大体聞いてる」
「そうか」
「どうして……どうしてギネビアさんの邪魔をしたの? もうちょっとでうまくいくところだったそうじゃない」
 視線を窓の外へ向けたまま、淡白な口調で訊ねるステラ。
 どうして邪魔をした。その言い方に、やはりステラはまだ特務監査室を恨んでいるのかとリアンダは奥歯を噛む。声を荒げないのは、傷に障るから大声が出せないのだろう。語気からは少なからず非難の意図を感じる。
「俺は、そういう事をしたくなかったし、黙っていられなかった。それに、実は元々テロなんか協力するつもりもなかったんだ」
「私と違ってね。薄々だけどそれは気付いてた。あんたは特務監査室の事なんか別にどうでもいいって思ってるって」
「何で気付いた?」
「だって、父親の悪口を言う時だけ生き生きしてるんだもん。そんな人が特務監査室を恨んでる訳ないじゃない」
 そんなに嬉々としていただろうか。心外だと口を尖らすリアンダに、ステラは少しだけ笑って見せた。
「もしかして、大地と赤の党に入ったのも、私が心配だったから?」
「そうだな。お前の事、どうにか足抜けさせられないかってずっと思ってた。結局何も出来なくてずるずるとこんな事になっちまったけど。何もうまく出来なくて、全部中途半端だった」
「止めろって直接私に言わなかったのは、私が聞き入れないと思ったから?」
「それもある。でも一番の理由は、自信が無かったからだと思う。お前に復讐を断念させても、新しい生き甲斐を見つけてやれそうになかったから。随分と傲慢な言い方だけどさ、でも人の生き方を邪魔するんだから、せめて指標くらい示すのが筋だと思うから」
 断念させる事が出来なかったのはステラだけではない、ギネビアもだ。心からの説得もギネビアには届かなかった。どれだけ懸命になった所で、言葉だけでは人は動かないのだ。行き詰まって、追い詰められて、それでようやく正しい事を求めても遅過ぎる。だから安い言い訳のように取られて、信頼を得る事も出来なかったのだ。
「ギネビアさん、最後まで特務監査室に恨みを晴らそうとしてた?」
「ああ。それを邪魔したから、俺もこのざまだ」
 頬と腹を順に触る。どちらの傷もまだ違和感があった。けれどそれ以上に、ギネビアと決別する事になってしまった末路が何よりもリアンダには応えていた。恨みを捨てられない辛さを共有する事が出来れば、もう少し正しく心に寄り添えたかも知れない。全てを台無しにしたのはひとえに自らの狭量のせいだ。
「私達にあんなに親切にしてくれてたのに、そうなんだ……。もしかしたら私も、そんな風になっていたのかも」
「もし引き返せていたら、引き返したいと思う?」
「分からない……。引き返したかったのか、引き返せなかったのか、自分でももう……」
 ステラが思い詰めて悩んでいるのはすぐに分かった。それは、彼女が眺める窓の外には内外からの無断の行き来を阻む高い塀しか見えないからだ。けれど、悩んでいるのは良い傾向である。それは自分に疑問を持っているからだ。疑問を持っていなかったら、間違いなく復讐の続きに集中する。復讐しかやることがなければ、悩みも無いしろくに考える事もない。
「それで、あんたはこれからどうするの?」
「どうするも何も、裁判の結果次第だから分からないよ」
「じゃあ、もし無罪だったら?」
「今まで通りに戻るだけかな。何も変わらない、ただ生活の事だけに追われるような毎日に」
 嫌いな父親と離れた生活は、不安定だけど逆に悩みが明確で頑張る方向性が分かりやすかった。だから自分にとってとても楽な生き方だったのだと今になって思う。もう一度あんな生活に戻れたら、これほど幸せな事もないだろう。
「本当に、無罪を狙ってみようかな私」
 ステラは唐突にそんな事を言い出した。
「何でまた急に」
「だって、その方が特務監査室にしてみれば面白くないんじゃない? これだけのことをやったのにどうして無罪だなんて、絶対落胆するわよ」
 随分とおかしな事を言う。そう苦笑いするリアンダだったが、内心では驚きながらも歓迎していた。こちらから説得するまでもなく、無罪を勝ち取ろうとする努力をしてくれるからだ。
「いや、無罪は難しいと思うぞ。マジで」
「やるだけならタダだもの。しおらしく反省した振りでもして裁判官の心象良くすればいいんでしょ? 何もしないよりは可能性あるんだし、頑張ってみる価値はあるじゃない」
「そうかも知れないけど―――」
 ステラの視線はまだ窓の外に向けられている。
 その時リアンダは、ステラがぽろぽろと涙を流している事に気が付いた。
 果たして何に対する涙なのだろうか。無力感、悔しさ、諦め、色々思い当たる。けれど、問うことは憚られた。
「確かにそうだな……」
 ステラの涙は挫折の涙だ。そうリアンダは直感的に思った。
 多分、ステラも自分と同じ事を感じているのかも知れない。目的のため一生懸命頑張っても、いつもうまくいかない。そして最後に妥協して、これが最善だったと自分に言い聞かせながらへらへら笑って誤魔化す姿が惨めで仕方ないのだ。
「来週から警察とかの聴取が始まるらしいぞ。今の内に心の準備しておかないとな」
「うん……そうだね」
 ステラが窓の外を眺め続けているのは、泣いている顔をこちらに見せたくないだけなのだろう。リアンダはそれとなく自分も視線を外しながら気付かない振りをした。
「ねえ。また二人だけで外を歩けるようになったらさ、いつもの店でご飯食べようよ」
「そういや、随分と行ってない気がするな。でも、出所祝いならもっと良い店にしないか?」
「早く前と同じ生活に戻りたいの。二人で一緒になるのって、あの店くらいじゃない。だからね」
「そっか。よし、じゃあそうするか。決まりだ。でも割り勘だぞ」
「えー、いつも奢ってくれてるじゃない」
「いつもじゃねーよ。臨時収入があった時だけだっての」
 何だかこのやり取りがとても懐かしく思えてくる。それほど長くテロの狂気に浸かっていたのか。自覚はなかったが、何故自分が特務監査室の面々にあそこまで警戒され時には敵意を向けられていたのか、今ならそれも理解出来る。
 もう俺達は道を違える事は無い。先が見えなくても悪事に手を染めたりはしない。正しい事とは、いつも見える訳ではない。今は世情が複雑で特に正しい事が分かりにくい時代だ。だけど、物事の正道は決して無くならないはずである。正義とはまさに雨夜の月のようなものなのだから。