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 エリック室長補佐がふと足を止めたのは、いつの間にかリアンダの手が自分の服を強く握り締めていたからだった。痛みに耐えるため無意識の内にやっているのかと思ったが、リアンダが顔を上げて何かを訴えようとしている眼差しに気付き、その意図を汲んでやる事にした。
「マリオン、少し待って。リアンダ君が何か言いたいみたいだ」
 そんな悠長な状況では無いだろうとマリオンは内心思っていたが、エリック室長補佐の指示には素直に従い、ギネビアへの警戒は続けたまま場所をあける。
「ギネビアさん……」
 弱々しい呼吸と声量。リアンダの声は何とか聞き取れるほどの小さなものだった。だが、エリック室長補佐に支えられて辛うじて立っているだけにも関わらず、リアンダからは強い意思を感じさせられる。それが皆にリアンダの声へ耳を傾けさせた。
「お願いします。もうこれ以上は止めて下さい。それでちゃんと罪を償いましょう。こんなこと、やっぱりおかしいですよ。逆恨みだと分かってて開き直っても、何か満たされるとは思えませんから」
「己の怪我も顧みない必死の説得で、情に訴えかけるつもり? そういうのに揺さぶられるような優しさは残ってないわ」
「この世に未練が無いからですよね。それは、親父が塀の中から出て来れないからですか? それとも、他に自分を満足させる生き方に変えられないからですか?」
「どちらもよ。でも本当は、君が私を変えてくれるかもって思ってたの。復讐してすっきりしたら新しい生き方も思い付くかなって。それを裏切られたんだから、後は行ける所まで行くしかないでしょう?」
「ギネビアさんが間違った道を行こうとするのを引き戻せなかったのは、俺の力不足、不甲斐なさのせいかも知れません。けれどギネビアさんは、誰かに依存しないと自分の人生を設計出来ないような弱い人では無いはずです。何かが無いから無くしたから自分の人生はお終いだなんて、そんな事は絶対に無いはずです。こんなに行動力があるんですから、それを間違った方に使わないで下さい」
「君が罪悪感持たなくて済むよう私に妥協してねって言っているように聞こえるわね。じゃあ、何が正しい方向だと言うのかしら? 法令遵守? それとも社会貢献?」
「ギネビアさんが、ちゃんと幸せになる事です。一時の不満を解消するために身を焼くような事をしないで」
 そしてリアンダは激しく咳き込んだ。口からはぼたぼと血が滴り落ちる。それは避けた口角からの出血だけではなく、明らかな吐血も混じっていた。
「ここまでです。これ以上は本当に君の命が危ない」
 厳しい口調でエリック室長補佐はリアンダを止める。リアンダの怪我は決して軽くは無い。本来なら病院へ急行するべき傷なのだ。
「おーい、そろそろ片付いた?」
 突然エリック室長補佐の背後からそんな呑気な声が聞こえてくる。現れたのはルーシーだった。
「ルーシーさん、グリゼルダチェアは?」
「あー、梱包したやつを国家安全委員会の連中に運ばせたよ。ってか、あいつらウチに任せるとか言っときながらしっかり見張りつけてやがったのよね。おかげで良い荷物運びが出来たけどさ」
 そんな愚痴をこぼすルーシー。だが話の内容を聞く限りでは、もはやこの場所からグリゼルダチェアは遠ざけられたようである。そして今から後を追って奪還するというのも現実的ではないだろう。
「ははーん、終わりっぽいね。もう手札は品切れな感じでしょ? じゃあちゃっちゃと縛り上げちゃって。うちの武闘派は加減を知らないよー」
 ふんぞり返らんばかりの尊大な態度で場を仕切り始めるルーシー。それは単に場の空気を読めていないのではなく、場の支配権を明確にするための演技である。ギネビアに対する降伏勧告のようなものだ。
 一同の視線はギネビアへ向けられる。そんな中だった。
「フフフ……」
 うつむいたギネビアが、何やら不敵な笑みを漏らした。開き直ったのか、錯乱しているのか。何にせよ即座に一同は警戒し、ギネビアの動向を注視する。
「一、二、三、四。特務監査室の人間がこうも集合してくれるなんて好都合じゃない。何て言ったかしらね、こういうの。一網打尽?」
「好都合? 一体何の話を―――」
 そこで真っ先にギネビアの意図に気付いたのはウォレンだった。
 グリゼルダチェアも血塗れ伯爵も失敗した以上、今のギネビアはラヴィニア室長への嫌がらせにシフトしている。そして、今ここで彼女の部下全てに何かあればどう思うのか。つまり、彼女にとってこれはお誂え向きの状況なのである。
「こいつ! まだ何か隠してやがるぞ!」