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「こぉの! この期に及んで悪足掻きなんか―――」
 ギネビアが激怒しながら近付いてくる音が後ろの方から聞こえてくるが、すぐに息を飲む音と共にそれは止まった。倒れるリアンダとウォレン、そのすぐ傍には血塗れ伯爵がいるからだ。下手に近付けば倒れている二人を無視して自分の方へ向かって来かねない。
「ぐぐっ……」
 ウォレンは必死の形相で歯を食いしばりながら、両手で床を突っ張って上体を起こす。腰辺りまでが剥がれると、突然と素早い動作で飛び上がって立った。急なウォレンの動作に血塗れ伯爵は反応し兜が軋みながらウォレンの方を見る。中身は空なのに視界の概念があるのか、そんな事をリアンダは思った。
「オラァ!」
 するとウォレンは、目の前の血塗れ伯爵を目掛けて押し倒すような力強い蹴りを放った。それもあろう事か、先ほどまで血塗れ伯爵に執拗に踏みつけられていた方の足である。軸足にしろ蹴り足にしろ何故蹴りを、そうリアンダは困惑する。
「ああ、痛ってえな、畜生!」
 よたよたとよろめきながら後退する血塗れ伯爵。その様を睨みながらウォレンは、蹴った足をさすり悪態をついた。それだけでは止まらず、すぐさま再度血塗れ伯爵の方へ踏み込んで仕掛けに行く。バランスを取り戻そうとした血塗れ伯爵に真っ向から掴みかかると、相手の腕をうまく自分の腕に絡ませながら重心を奪い隔離部屋の方へ無理やり引っ張り込む
「この野郎が!」
 そして力ずくで部屋の奥の方へ血塗れ伯爵を投げ飛ばした。部屋の中から派手に転がる金属音が聞こえてくる。ろくに受け身も取れず叩きつけられたのだろうか。
 鉛の詰まった全身鎧をあの体であんなに派手に放り投げるなんて、恐ろしいほどの力業である。リアンダはただただ唖然とし続けるばかりだった。精神が肉体を凌駕する、なんて綺麗な響きのそれではない。今のは本当に単純な痩せ我慢だ。けれどウォレンは理由があれば幾らでもそれが出来るのだろう。それこそが凌駕するという事なのか。
 肩で大きく息をするウォレンは、口の中に溜まった血を吐き口元を拭うと、倒れているリアンダの元へやってきて屈んだ。
「へっ、意外と根性見せるじゃねえか小僧」
 ウォレンは不敵に笑いながらリアンダの腕を掴んで体を起こす。リアンダの刺し傷は浅いものの決して楽観出来ないため、無理には立たせずそのまま座らせておく。リアンダはうまく声が出せず、少しだけ右手を上げて応えた。
 ウォレンはふとリアンダの口からこぼれたナイフが近くに落ちているのを見つける。それを拾い上げナイフを握ったまま親指を刀身に強く押し込むと、あろう事かそのままへし折ってしまった。ナイフが素手で折れるなんて、どんな腕力だ。リアンダはしばし痛みを忘れ目を見開いた。
「さて、と。これでまたこっちが有利になったな。伯爵様は何度来ようが俺が必ず張り倒す。お前にも小僧には手出しさせねえ。で、どうする? まだ投降はしないか?」
「ボロボロの死にかけの癖に。痩せ我慢は格好良くないわよ?」
「痩せ我慢はお互い様だろ? アテも外れまくって内心焦りまくりじゃねーの、お前。それに、ボロボロの死に体でも女一人なんざ目を瞑ってても制圧出来るぜ。試してみるか?」
 挑発するようなへらへらした口調だったが、最後だけ強く明確な殺気がこめられたものになっていた。脅しではないという警告の意味合いがあるのだろう。ウォレンも決して浅い怪我ではなく、相手に配慮して加減出来る状態ではないのだ。
 リアンダはギネビアに再度大人しく投降する事を勧め諭したかった。けれど呼吸するだけが精一杯の様ではとても大声を出せそうにない。頼む、もう観念してくれ。そう強く念じる事しか出来なかった。ウォレンはもはや一片の容赦も無く徹底的にギネビアを制圧するだろう。力強くであえなく制圧されるようなギネビアの姿は見たくはない。
 人質の件でリアンダの落胆は大きかった。最後に恩人の良心を信じたのに、何のためらいもなく裏切られたからだ。それでもなお、リアンダはギネビアの投降を強く願う。やはり受けた恩そのものは忘れる事が出来ず、未だリアンダの中では恩人のままなのだ。
「ウォレンさん! 無事ですか!?」
 その時、丁度ギネビアの背後側からエリック室長補佐の声が聞こえてきた。見るとその傍らにはマリオンまでもがいる。
「おう、あの椅子は持ってったか?」
「ええ、誰も触れないよう木箱に詰めました。後の処理はルーシーさんに任せています」
 グリゼルダチェアの隔離はほぼ完了したと言って良さそうである。それでエリック室長補佐はマリオンと共に支援に駆け付けたようだ。
「後は私に任せて下さい。こちらは万全ですから」
 そう言ってエリック室長補佐の前に立ったマリオンは、サーベルとはまた違うやや短めの曲刀を抜き放った。大振りな鉈に似ているが、剣の反りや刃の鋭さは明らかに別物である。おそらく狭い室内用の剣なのだろう。その構え方や佇まいはあまりに静かでいて威圧感に満ちており、如何にも剣術を修めている人間のそれである。
「エリック! それより小僧を運んでやってくれ! こいつ、腹を刺されてる!」
「分かりました! って、ウォレンさんも酷い怪我じゃないですか!」
「こんなの、前線では日常茶飯事だっての!」
 明らかに虚勢であるが、ウォレンには笑う余裕が出来ていた。リアンダはそれがエリック室長補佐に由来するのだと何となく感じた。これがウォレンからエリック室長補佐に対する信頼なのだろう。
 マリオンがギネビアを牽制している隙に、エリック室長補佐は横を通り抜け座り込んでいるリアンダの元へやってくる。そしてまずは腹の傷口を確かめた。
「かなり無茶したね。軽くは無いけど……うん、出血は深刻じゃない」
 エリック室長補佐は自分の上着を脱ぎ、リアンダの腹をきつく縛り上げた。そして肩を貸しながらリアンダを立ち上がらせ、足を引き摺らせながら戻る。
「エリック先輩、被疑者は抑えて構いませんね」
「ああ。でも、最後まで油断はしないように。目的が達せなくても嫌がらせに切り替えるタイプだから、何をするか分からない」
「はい、慎重にやります。少し手荒になりますが」
 確認を終えたマリオンは、俄かに眼差しの鋭さが増し、見えない威圧感がより一層強まっていった。