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 まさかこちらの行動が読まれているなんて。それも、特務監査室に。
 リアンダは慎重に積み上げてきたはずの予定があっと言う間に崩されてしまった事で、組み伏せられたまま茫然自失となってしまった。相手は最低でも四人、しかもその内二人は明らかにこういった荒事に慣れている。こちらは取っ組み合いの経験も無い素人、しかも既に取り押さえられているため身動きもままならない。
 停止した思考を必死でもう一度回し、自分に出来る最善策を考える。この状況ではもはや目的を達成する事は不可能と考えるべきだろう。逃げる事も出来ない。では、少しでも今後の展開を良くするために出来る事はないか。リアンダはとにかく交渉を持ち掛けるしかないと、無理を承知で話し掛ける。
「そこのあんた! あんたが責任者だな?」
「ええ、そうです。現場の指揮官です」
「確かに俺達は大地と赤の党の構成員だ。血脈も持ってる。幹部から命令されたんだ。若い女の血を大量に浸して来いと」
「大量の血……? 血脈を使えるようにするために?」
 特務監査室の責任者はリアンダの言葉に疑問符を浮かべる。
「大量の血とは、具体的には致死量の事を言っているのですか?」
「正確な量は知らない。とにかく死ぬかも知れないほどの大量だ。だから二人組を狙った。二人分で賄えば死なないかも知れないからな」
「それが我々だったという事ですね」
 責任者は新たな情報だと興味を持ちはしたようだったが、この現状を変えるほどの展開は見込めそうになかった。単にこちらの情報を一方的に与えてしまっただけに過ぎない。
 どうすればいいのか、何をするのが最善なのか。
 そう必死で考えるリアンダ。その時、唐突にリアンダの中で思考が次々と噛み合った。最善なのは、ステラ共々あの組織から抜ける事である。ステラはさておき、リアンダには誰にも恨みなど無い。大地と赤の党のテロなど全く興味が無いのだ。ならば、このまま特務監査室に身柄を拘束され事情聴取に応じるのが良いのではないだろうか。それなら二人共に組織から足抜けが出来るはずである。
「あんた、血脈について何か知ってるのか? 俺が幹部から聞かされた話とは違うようだ」
「そのようですね。きっと君達は偽の情報を聞かされたのでしょう。血脈にはそこまで大量の血は必要ありません。血液提供者には効果が出ないというだけで」
「俺達は騙されている?」
「そう単純な話でもありませんが。これはもう少しきちんと話を聞いた方が良さそうですね。身柄を移しましょう」
 どうやら責任者はこちらの持つ情報に興味を持ってくれたようである。これなら狙い通り二人揃って拘束されるだろう。リアンダは安堵の溜め息を漏らしそうになる。
 しかし、その直後だった。
「うわっ!? ちょっと、その子! 早く離して!」
 小柄な方の女性が、ステラを組み伏せている女性を怒鳴る。思わず振り向くリアンダ。そこで見たのは、古びたガス灯の僅かな明かりで辛うじてだが、伏せたままステラの体の下側から大きな血だまりが広がり始めている光景だった。
「な、お前ら! ステラに何をした!?」
 突然の出来事にリアンダは激高する。その勢いの激しさからか、自分を押さえている手が緩んだ事に気が付いた。リアンダはすぐさま腕を振り解くと慌ててステラの元へ駆け寄った。
「おい、ステラ! しっかりしろ! 何をされたんだ!?」
 ステラは返事もなく伏せたままほとんど動かない。けれど見て分かるほどにみるみる活力が抜けて出していっている。
「とにかく応急処置を!」
 すかさず長身の女性と大柄な男性がステラの体を慎重に仰向けにする。そこで分かったステラの出血元、それは腹に深々と刺さったナイフからだった。どうやらステラは組み伏せられている時に自分で自分の腹を刺し激しく出血するほど開いたようだった。
 傷口のナイフは出血を酷くするため抜くことが出来ず、一旦周囲を誰かの上着で縛って固定する。腹部からの止血に有効な手段は圧迫する事しかないが、抜くことも出来ないナイフがそれを阻む。特務監査室の二人が必死で処置を施すものの、ステラは目に見えて顔色が悪くなり力を失っていった。
「何だよ、これ。何があったんだ? ちゃんと押さえてたんだよな?」
「抵抗する様子がありませんでしたから……いえ、でも動けないようにはしていましたよ。私、それ以上の事は何もしていません!」
「まさか……自殺をはかった? こちらに捕まるくらいならいっそと」
「それよりも医者を手配しないと! この付近で病院か医者はいないか確認を!」
 特務監査室の面々にもこれは想定外の事態らしく、明らかに動揺が見られる。まさかいきなり自殺されるとは思ってもみなかったのだろう。けれどリアンダにとって彼らの想定などどうでも良い事だった。
 そんな中、処置を受けるステラの目が一瞬リアンダに合った。微妙に焦点が定まっていないが、口が僅かに動いている。何かを伝えようとしているのか。リアンダはステラと同じように自分も地面に伏せ、口元に耳を寄せる。
「リア……ンダ……」
「なんだ、何が言いたい? 俺はここにいるぞ!」
「右手………」
 特務監査室の一同は処置と医者の手配の模索で手一杯であり、今は自分に注意が向いていない。リアンダはそっとステラの右手を改める。するとそこには血にまみれべとついた何本かの細い木の棒、血脈があった。血脈は自分が全て持っていたはず。組み伏せられた時に落として、そこにステラが覆い被さったのか。
「逃げて……早く」
「お前……まさかこのために……」
 そこで事切れたようにステラの口は動かなくなった。目も見開いたままだが、呼吸は辛うじてまだ続いている。しかしこのままでは命も危ういだろう。
 どうしたらいいんだ。逃げろと言われても、こんな状態のステラは放っておけない。
 数秒間、息をするのも忘れるほど悩み抜いたリアンダは、ステラの意思を尊重する事を選択した。それは必ずしも良い判断ではないだろう。ステラの意思など無視して特務監査室に投降するのが一番平和的だ。けれど、その選択が出来なかったのはリアンダのステラに対する情だ。死ぬかも知れない幼なじみの願いを無碍にする事は出来ない。
 リアンダはおもむろに血脈の一本を口に咥える。そして反対側を持った手に力を込め、半分にへし折る。一瞬耳の奥にキンと鋭い音が走った。そしてリアンダの視界はフィルタがかかったように薄紅色に染まる。これが血脈の効果の証名のだろうか。
 そしてリアンダは走り出した。明らかに唐突な動きで、普通なら絶対に気付かれる挙動である。しかし特務監査室の一同はすぐには気付かなかった。後ろから近付く気配を感じない事を確信したリアンダはより一層足に力を込めて駆けた。
「おい! 小僧の方がいねえぞ! 逃げられた!」
「放って下さい! 今は人命です!」
 遠くから特務監査室の声が聞こえる。気配ではなく、あの場からいなくなっている事で気付いたらしかった。責任者の口振りからすると、どうやらステラの救命を優先してくれるようだった。
 特務監査室のせいでステラは。
 走りながらリアンダは、そんな逆恨みのような怨念を燃やす。けれど長くは続かなかった。やはりリアンダにとっては、ステラの安否の方が未だ重要だったからだ。