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リアンダは東区の寂れたアパート街の一室に住んでいた。交通の利便性の悪さから住宅街としての再開発から漏れた区域で、古く寂れ果てた印象ばかりが強い。住んでいるのは、昔から住み続けている老人、何かしらの訳ありの低所得者、近年では明らかな不法移民も増えてきた。そんな彼らの作るコミュニティーは独特の貧しさや怪しさが溢れ出ているため、ますます偏った人間ばかり集まってくる。けれどリアンダはここの居心地が良かった。自分の過去や身の上を詮索してくる者がいないためである。そして稼ぎが少なくとも食べる事には困らないのも大きな利点だ。
夕方、リアンダはアパート近くの行きつけの店で、一人酒を飲んでいた。粗末な食事と出自の怪しい酒、それでも腹は満たせ酔う事が出来る。そして何よりも安い。周囲の喧騒を聞きながらぼんやり飲んでいると、不意に向かいの席に一人の女性が座った。
「やっぱりここにいた。いつも同じ店でよく飽きないね」
「店を開拓するほどグルメでもないからな」
彼女はリアンダと軽口を交わしつつ、自分も酒などを注文する。酒を飲む事は随分増えたように思う。二人共、今ではセディアランドでも合法的に酒が飲める年齢だが、飲み始めたのはそれよりも前の頃だ。飲み始めた理由は単純で、あらゆる不平不満を手っ取り早く発散させられるからである。それが今では習慣になりつつあり、自分達は依存し始めているのではないかと少しばかり危惧をするようになっている。
「ところで、ギネビアさんからの仕事は終わったの? 特に大事な事だって聞いたけど」
「ああ、この間で無事全部終わった」
「グリゼルダチェアだっけ? いつ災いが起こるか分からない椅子なんて、随分危ない物運ばされたのね」
「上が大丈夫だって言うから大丈夫なんだろ。それより、ステラ。そういう単語は迂闊に口に出すな。どこでバレるか分からないんだぞ」
「ごめん、もうすぐ始まるんだなって、ちょっと浮かれてた」
そうばつの悪そうに笑い、運ばれた安酒を口にする。
彼女はステラ、リアンダの幼なじみに当たる。一時期疎遠ではあったが、同じジェレマイア首相の改革で親が逮捕された者同士であり、同じ孤児院に世話になった事で再び付き合いを持つようになった。そして何より、同じ大地と赤の党の構成員である。
「とにかく、秘密の安全な運び方があるんだ。だから大した事はないさ」
「そっかあ。でも、何だかちょっと先を越されたみたいで悔しいなあ。入ったのはそっちが後なのに、もう私も知らない仕事任されてて」
「力仕事だからだよ。適材適所の話だ。それより、最近はどうだ? 景気はいいか?」
「ぜーんぜん。食べていくだけで精一杯。ジェレマイアに首相が変わったから景気も良くなったって言うけど、あんなの出鱈目じゃない」
ステラはこの近辺の幾つかの店を掛け持ちして働いている。小売店の接客や雑用、飲食店の給仕などだが、そもそも低所得者ばかりのこの区域では好景気の恩恵も薄いだろう。
「そっちは羽振り良さそうねー。だからここ奢って」
「分かったから、不貞腐れるな」
元々自分達は、日々生きていくために日銭を稼ぐだけで精一杯だった。将来の事など漠然とすら思い浮かべてはおらず、気になるのはひたすら金の事ばかりである。大地と赤の党の構成員はそんな貧困にあえぐ人間ばかりだから、いざとなったら容赦なく切り捨てられるだろう。その現実が尚更未来を見えにくくする。
「本当……早く始まらないかなあ。こんな毎日、もういい加減うんざり」
「焦るなよ。じっと待つことも大事だ」
「私、本当に憎くて悔しくて仕方ないんだ。特務監査室め……あいつらさえ裏切ってジェレマイアにつかなければ……!」
どん、とテーブルを強く叩くステラ。だがその音はすぐに周囲の喧騒に紛れて掻き消えてしまった。
それはただの逆恨みだ。以前ステラに対してそう諭した事がある。すると意外にもステラは、自分の感情が逆恨みである事に自覚があった。それでも矛を収められず、あまつさえ大地と赤の党へ加わったのは、理性では抑えきれないほど強い憎悪のせいだ。
ステラの家庭は、普通の家庭とはやや異なっている。ステラに戸籍上の父親はいないが、その暮らしぶりは普通の母子家庭に比べ遥かに裕福だった。それは、彼女の父親が当時の主流派政党の大物政治家だからである。ステラは彼の愛人の子供なのだ。愛人としての関係は続いていたらしいが、ステラは父親の顔も知らず母親も素性を教えてはくれない。それはスキャンダルにならないための防衛手段なのだろう。その上、ステラ自身も父親の素性に興味がなかった。好きなピアノが弾けるだけの生活費を払って貰えばそれで構わないのだ。
しかし、ジェレマイア首相の政界再編により件の政治家は失脚、逮捕される。そして生活費は途絶え、ステラの母親はステラを捨てて失踪してしまった。それにより通っていた音楽学校を辞めざるを得なくなり、現在に至るのである。
ステラの父親が失脚したのは、彼の政治活動を裏で支えていた特務監査室が裏切ったからだ。
どこの誰かがステラにそんな事を吹き込み、それをステラは信じた。ステラは、自分の人生が特務監査室の裏切りで狂わされたと思わなければ、自分を支えられなくなっている。だから大地と赤の党がどんな組織で何をしようとしているのかも深くは考えずに加入した。全ては特務監査室に一矢報いるため。初めから捨て身の覚悟、それとも自暴自棄になっているだけなのかも知れない。
リアンダはステラに危険な真似はして欲しくなかった。逆恨みだろうと非生産的な感情は全て水に流し、もっと前向きになって生きて欲しいのだ。このまま大地と赤の党に居ては、生きようが死のうが待つのは破滅しかない。だから何としてでも抜け出させたいのだが、今のステラは心そのものが大地と赤の党の思想に縛られている。