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 それは、エリックが港のバーへ出掛ける準備をしていた、定時直前の事だった。おもむろに執務室を訪れたのは、丁度これから会おうとしていたトリストラムだった。トリストラムには執務室の場所と自分の名刺を渡していたからここまで来れたのだろうが、一体何故自ら訪問して来たのか。それを訊ねる前にトリストラムの方から話し始めた。
「聞いてくれ! 眠れたんだよ! もう三十年近くぶりに!」
「え、眠れた?」
「そう! と言うか、起きたのがついさっきの事でさ! 会社に無断欠勤を謝って来た所なんだ! いやあ、それにしてもいい気分だ!」
 やけに興奮した様子のトリストラム。一同は何が何だか分からず、訝しげにその姿を見ていた。
「取りあえず……話を整理しましょうか。眠れたというのは、どれくらいの時間ですか?」
「昨日の十時過ぎに、あの抱き枕っていうのと横になってな。目が覚めたら三時半だったから……十五時間近く寝ていたようだな。いつ眠ったのかは分からないが、とにかくいつの間にかだったんだ、俺が眠ったのは」
「では、抱き枕は効果があったと?」
「ああ、そうだな。いや、まさかあんなので眠れるなんてな。最初は寝づらいなあって思ってたんだが」
 マリオンの言う通り、抱き枕による安心感がトリストラムを眠りに誘ったという事なのだろうか? だが、本当にそれだけのことで、睡眠を必要としない体質が変わるものなのか。
「いつもと違った事はありましたか?」
「違ったって言っても、眠れないのが俺の普通だったからなあ。あ、参考になるかは分からないが、夢も見たな」
「差し支えなければ、どんな夢だったか教えていただけますか?」
「ガキの頃の夢だ。まだお袋が元気でさ、ぐずってる俺をあやしながら昼寝をしていた、まあそういう夢だ。随分とまあ懐かしい記憶を思い出したもんだぜ」
 心理状態が夢に反映されているのだとしたら、それがトリストラムにとって最も安心感のあった思い出という事なのだろうか。抱き枕がそれを思い出し、再び彼を眠れるようにしたのかも知れない。
「とにかくだ、これからは睡眠を含めた生活のリズムを整えていかないとな。また寝坊したら仕事がクビになっちまう。ああ、あの枕は貰ってっていいんだよな?」
「ええ、どうぞ。こちらの調査費用持ちですので」
「ありがたく使わせて貰うぜ。それじゃあな」
 意気揚々と帰って行くトリストラム。睡眠が取れるようになって、本当に心から喜んでいるのだろう。そして彼に目を付けていた製薬会社の方も諦める事だろう。万事がうまく収束した結末である。
「やっぱ思い込みってやつじゃないのかなー。眠れなくなってたのって」
 すると唐突にルーシーがそんな事を話す。
「思い込みで人は眠らなくても済むようになるんですか?」
「目隠しした人に不意打ちで熱湯だって言って水をかけると、実際にかかった所が火傷するなんて話もあるし。良く効く薬だと言ってただのブドウ糖飲ませても実際に効果があるなんて事もあるし。人間の精神が肉体に及ぼす影響って、意外と強いもんなのよ。まだまだ解明されてない事が多いけどねー」
「では抱き枕で眠れるようになったのも思い込みなんですか?」
「だって抱き枕が人気って事自体が嘘だし。あんなので眠れるって宣伝してたのって、最初の頃だけよー。実際寝るのに邪魔になるだけだし、頭の位置だってイマイチになるし。ほとんどジョークグッズみたいなもんよ」
 その言葉に勢い良く立ち上がったのは、トリストラムに抱き枕を勧めたマリオンだった。
「嘘!? でも私、店員には良く眠れるから流行ってますって勧められて、実際眠れるようになったからそうだと思ってたのに!」
「マリオンは騙されやすいのかな? 店員なんて売るためには方便なんて幾らでも使うよ。まして売れない商品を片付けるなら特に」
 抱き枕は実際には睡眠改善に効果は無い。にも関わらず、眠れるようになった人もいるにはいる。それが思い込みによるものだという事なのだろうか。
「まあ、思い込みでも何でも、効果があればそれでいいじゃないですか」
「後はあのオッサンが嘘に気付かない事を祈るだけねー」