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「また駄目だったよ」
その晩、いつものバーでトリストラムと会ったエリック。ここ最近はずっと、トリストラムへ眠れるようになる何かしら方法を伝えては試して貰っていた。翌日結果を聞きに来るのだが、今回もまたトリストラムは眠ることが出来なかったようだった。
新しい睡眠薬、快適な寝具、体を疲れさせる、アルコール、風呂に長く浸かる等々。これまで幾つも提案して来たが、いずれも効果は現れなかった。やはりトリストラムは、どうやっても眠れない。体が完全に睡眠を必要としていないのだ。
「すみません、今度こそ有効だと思ったのですが……」
「なに、仕方ないさ。もう三十年にもなるんだ、今更簡単には変われないだろう。それに、こうして寝る真似をするのも久し振りで、何だか新鮮な気分だ。何というか、こう、気持ちが整理されていく感じでな。連中には眠れるようになったと嘘つくのもいいのかもな。寝る演技で騙くらかしてさ」
おそらく狸寝入りでは騙すことは出来ないだろう。実際に眠っている人とそうでない人は、眼球の動きや呼吸で区別がつく。下手な嘘はかえって不眠の信憑性を高めてしまうだろう。
「それで今回なんですけど……」
「ああ、今日の連れはいつものいかつい兄ちゃんじゃないんだな」
「初めまして。後輩のマリオンと申します」
「今回は彼女の方法を試して欲しいのですが。取りあえず説明を」
するとマリオンは、持ってきた大きな布の包みを解いて中身をトリストラムに見せる。それは、エリックの身長ほどもある大きく長いクッションだった。
「何だこりゃ? クッションにしては妙な形だな」
「これは抱き枕と言います。最近、若い女性の間で流行っていて。これじゃないと眠れないなんて言う人もいるくらい人気なんですよ」
「これ枕なのか? デカ過ぎだろ」
「だからいいんですよ。これを抱いて寝ると安心感があって良く眠れるんです。トリストラムさんは既に色々な方法を試されているでしょうが、流石に若い女性の最近の流行りまではご存知無いと思いまして」
過去にトリストラムも幾つか改善するため色々な方法を試している。それらに類似した方法も今回試して貰ったが、やはり効果はなかった。だからまだ試していない方法なら可能性があるかも知れないという事である。
「いや、なんかさ。これ、抱き締めて寝るのか? なんか寝づらくないか?」
「やってみると意外と楽ですよ。私も使っていますから」
「意外と、ねえ……」
「コツとしては、誰か好きな人や大切な人の事を思い浮かべるんです。そうすると不思議とリラックス出来ますから」
マリオンの説明にトリストラムはかなり半信半疑の様子だった。こんな物を使っても逆に眠れるようになるとは思えないのだろう。エリックもまた同じ心境だった。けれど、実際に効果があるという層が一定数以上いるというのだから、効果を否定する事も出来ない。
「まあとにかく、せっかく用意してくれたんだから試してみるよ。オッサンに若い子の方法が効くか分からないが」
「大丈夫ですよきっと。不眠の悩みは世代関係ありませんから」
そしてトリストラムはマリオンから受け取った荷物を背中に背負ってバーを後にする。これから自宅で抱き枕を試すのだろうが、おそらく未だ本人も納得しかねる部分はあるだろう。
「大丈夫かな……。まあこっちも、万策尽きた感はあるんだけれど」
「私には効果がありましたから、と思うんですけど。正直、睡眠薬が効かない時点で前例は全て当てはまらないですよね」
一旦、いっそのこと製薬会社なりに徹底的に分析して貰えば何か原因が分かるのではないか、そんな事を考えた事がある。だがトリストラムは承知はしないだろう。どんな扱いを受けるのかも不透明なのだから、迂闊に関わりたくないし目立ちたくもないという心理は理解出来る。だが、肝心の不眠体質はこれ以上どうにも出来ない現状がある。もはや今回は諦めるしかないのかも知れない。
「それにしても、抱き枕って本当に効果があるの?」
「ありますよ。安心感っていうのは結局思い込みなんですけど、その思い込みを分かりやすい感触にしてくれるのが抱き枕なんですから」
「思い込み、か」
トリストラムがかつて仕事に没頭していた頃、どんなに眠くても眠くないと自分に言い聞かせていた。眠らなくてもいいように、と願ってさえいた。強い感情が何らかの変異を起こすのは、これまでに幾つも前例がある。今回もその延長だとして、ならばその思い込みによる呪縛はどう解けばいいのか。エリックには全く想像もつかなかった。
トリストラムは、不眠体質に苦しんでいるとは言っていたが、もしかすると心のどこかで眠る事を拒否しているのかも知れない。それを自覚させる事が一番大事なのではないだろうか。そうエリックは考えるのだった。