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トリストラムの自宅は、港からほど近い古い集合住宅の一室だった。部屋の中は驚くほど殺風景で、くたびれたソファとテーブル、クローゼットくらいしか置かれていない。当然だがベッドも見当たらず、そのせいで生活感が無かった。実際、トリストラムは着替えに帰る程度でしか使っておらず、食事や諸々は全て外で済ませている。睡眠が不要なだけで、ここまで部屋を使わなくなるのか。改めて不眠体質による影響の大きさを実感する。
「まあ、こんな部屋だが適当にくつろいでくれ」
そう言われ、取りあえずソファに座るものの、とてもくつろげる雰囲気ではなかった。トリストラムの体質をどうにかする方法は見付かっていない。そのせいか気まずさがどうしても込み上げて来るのだ。
ふとエリックの目がテーブルの上に無造作に置かれた封筒に留まる。単なる私信なら気にならなかったが、その封筒には有名な製薬会社の名前が記載されていて、思わず手にとってしまった。封筒は一つでは無く、幾つもある。そして差出人である製薬会社は一つ二つでは無かった。
「ああ、それ。気になるなら読んでもいいし、持ってってくれても構わないよ。どうせ俺には興味のないものだ」
「どういった内容なんですか?」
「珍しい体質をお持ちのようで、是非調べさせて下さい、薬の発展は人類の発展です。なんて御題目の、要はサンプル採取にかこつけた人体実験のお誘いだ」
「断っているんですよね」
「ああ。それでも諦めないから、最近は無視してる。全く、迷惑な連中さ」
トリストラムの不眠体質が噂になり始めたのは、ごく最近の事である。きっかけは不明だが、おそらく何者かがふとした事でトリストラムの体質を知り、それを吹聴して回ったのを聞きつけたといった所だろう。トリストラムは自らの体質を宣伝はしていないが、いつもバーに夜を徹して居る辺り隠す気もなかったのだろう。
「取りあえず、あなたの生活リズムについて教えて頂けますか? 平均的な所で良いので」
「そうだな。夜明け頃になったら船の荷降ろしの仕事をやる。契約してる運送会社に拠点を指示されるから、荷物を拠点まで馬車で運ぶ。これで大体午前が終わりだ。午後からは色々な拠点を回って、夕方の船に積み込む荷物を集める。それから港へ行き船に積んだら、一日の仕事は終了だ。まあたまに何か臨時の仕事を受ける事もあるかな。そうでなければ、あのバーに大体朝までいる」
「やはり睡眠は取っていないんですね。日中眠くなったりとかは無いんですか?」
「全く無いな。もう眠気そのものを忘れたくらいだ。体は動いたなりに疲れ、休んだなりに回復する。病気も全くしてねえな。物覚えは良くないが、変に物忘れが酷い訳でもない。仕事自体も、まあそんなに悪い働きぶりではないだろうさ」
「不眠によるパフォーマンスの低下は一切無い、という事ですね。風邪も引かないのなら、普通よりも健康なくらいで」
眠らない事を除けば、トリストラムの生活はごく普通のものである。仕事にも支障を来していないなら、睡眠が不要というのは事実と認めざるを得ない。睡眠は単なる我慢でどうにかなるものではない。普通の人は眠らなければ簡単に体調を崩すものなのだ。
「ウォレンさんは何か訊きたい事はあります?」
「うーん、そうだな……」
少し考え込んだ後、ウォレンは自分の質問を始めた。
「もう随分前だから正確には覚えちゃいねーだろうが。体質が変わる前後で、何か他に体調に変化はあったか?」
「体調? まあ……強いて言えば、食事量が増えたくらいか」
「具体的にどれくらいだ?」
「俺は一日に五食食べる。朝昼夕晩と深夜だ。これは単に、仕事柄体を動かす機会が多いからと、眠らない分夜食が欲しくなるのが常態化しただけだと思ってる」
一日五食は確かに食べ過ぎである。だがトリストラムは特に太っているようにも痩せているようにも見えない。どこにでもいそうな中肉中背の体型だ。
「飯を食う体力もあるって事か。じゃあ少し下世話な話になるが、女はどうだ? 性欲だとか、実際やりに行くペースとか」
「あまり人と話さないから、普通の基準が分からないんだが。そういうのは懐具合とその時々の気分次第かな。月に一回とか、そんな感じの」
「そっちの方も別に枯れちゃいないって訳か」
ますますトリストラムの不眠の原因が分からなくなってしまった。どこかしら不調を抱えているだろうと踏んでいたが、本当に特筆するような異常はトリストラムには無いようである。むしろ不自然なほど健康的だ。
これはもはや、そういう体質なのだと結論付けざるを得ないのだろう。実際長年眠らなくても平気なのだから、常識では計れない何かがあるのだ。