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港には夜中もずっと開いている店が数多くある。トリストラムの行きつけのバーもその一つだった。港には深夜や早朝にも入出港する船があり、そこで働く労働者達が利用するためである。トリストラムはほとんど家には帰らず、夜はずっとバーで過ごし日中は働きに出る。それが、彼が眠らない男なのではという噂が始まったきっかけのようだった。事実、真夜中にバーをエリックとウォレンが訪れると、トリストラムは前回と同じ席で酒を舐めながら黙々と雑誌のパズルに取り組んでいた。
「ああ、あんたらか。何かいい手段でも見つかったかい?」
「まだこれと言っては。とりあえず、眠らなくても良いようになるまでの経緯などを聞こうと思いまして」
「そうか。だが、大して面白くも珍しくも無い話だぜ」
幾分やさぐれた口調で答え、トリストラムは雑誌に鉛筆を挟んで閉じる。
「俺が港で仕事を始めたのは、まあ本当にガキの頃だ。俺の親父はろくでなしでな、俺が物心ついた頃には余所に女作ってどっか逃げやがった。そういう訳で、俺も学校に満足に行けず、学が無くても働けて払いの良い所って言ったらここになる訳さ。以来、ずっとここで働いてる」
「昔は普通に眠っていたのですか?」
「ああ、そうだな。あれは俺がまだ二十歳になる前だったかな。お袋が病気で倒れて、入院のためまとまった金が定期的に必要になってな。俺も仕事を増やさざるを得なくなった。人の倍を仕事をしなきゃならねえなら、休む時間を削るしかねえ。まだ若くて体力にも自信があったからな、俺は文字通り寝る間も惜しんで働いてたのさ。けど、そんな生活が一年も続いた頃だ。お袋は結局助からなくってな。俺も働く必要も無くなって、生活を元に戻したんだが。その時はもう、自分が眠れなくなってる事に気付いたんだ」
「病院には行ったんですか?」
「そんな金はねえさ。ただ、俺も単なるストレスによる不眠症だって思ってたんだ。お袋の葬式を終えた直後だったからな。いずれ眠れるようになるって楽観的だったんだ。ところが、一向に俺は眠くならない。体もまるで平気さ。一週間眠らない実験した奴は四日目には幻覚が見え始めたって言うが、俺にはそんな兆しも無かったぜ。ただただ、眠れないんだ」
不眠症は体力だけでなく精神的な安定や思考能力も奪う。だから不眠は治療しなければならないのだ。けれどトリストラムにはそんな兆候が無いという。体がそもそも睡眠を必要としていないせいなのだろうか。
「寝なくても平気は平気だが、普通じゃねえって事は分かってた。だからどうにか寝ようとあれこれ工夫はしたのさ。薬だって試した。こんな所だからな、医者の処方箋が無くたって睡眠薬も手に入る。だが、それでも駄目だった。俺の体は全く眠らなくても大丈夫なようになっちまってたんだ。で、俺もとうとう諦めちまってな。今に至るワケだ」
睡眠薬は既に試している。そうなると、当初の案の一つだった薬による矯正は没になってしまう。と言うより、一般的な不眠の改善はトリストラムは一通り試しているようだった。やはり彼の症例は単なる不眠症の延長とは異なるようである。
「トリストラムさん。今我々が考えている方法として、あなたが眠れるようになれば、騒がせている連中が一斉に興味を無くすだろうというものがあります。率直なところ、あなたはまた眠れるようになりたいと思いますか?」
「あの頃は……どんなに眠くて辛くても、お袋のためだったから幾らでも耐えられた。少し寝ないくらいでなんでこんな辛いんだって腹立たしいくらいだった。眠らなくてもいいようになればなと願った事さえある。それが、まさかお袋が死んでから叶うなんてな。今更もう遅いし、ただ辛いだけさ」
エリックには眠る暇も惜しんで働いた経験はない。幸いにも、そこまでの必要が無かったからだ。当時のトリストラムはそれほどに必死だったのだろう。そしてそこから偶然発生した不眠体質が、今になって煩わしい素養になるなんて。何とも融通の利かない話である。
「人並みに眠りたいと、俺はずっと思ってる。こうやってつまらねえパズルを解いて過ごす夜なんざ、本当はうんざりしてるんだ。けど、自分ではどうしようもねえから諦めちまった。あんたらはそれでも何とかしてくれんのか?」
「最善は尽くします、とだけお答えします。すみません、確約は出来ません」
「いや、それでもいいさ……。俺はもう、この体質とは向き合うことすらしなくなっちまったからな」
そう話すトリストラムの様子は、どこか厭世的で悲しげに見えた。
彼が体質の事で騒がれるのを嫌がるのは、母親を救えなかった事を思い出させられるからかも知れない。そう、眠らなくてもいい彼には、辛い記憶を整理し感情に折り合いをつける時間が存在しないという事だ。彼はきっと、過去の苦い記憶を当時の鮮明さのままずっと抱き苦しみ続けているのかも知れない。