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週明け。エリックは登庁の途中で幾つか朝刊を購入した。自席で新聞を広げ、片っ端からあの事故についての記事を探して内容をつぶさに確認する。
事故を起こした御者は、驚くことに酒に酔っていた訳でもなく、ただ悪ふざけで馬を暴走させ気がつくと手に負えなくなってしまったようだった。どの紙面でも内容は一致している事から、これは恐らく真実なのだろう。
事故現場については、紙面ごとにいささか表現の差異はあるものの、アイオンと思われる件については一切書かれていなかった。やはり現場が混乱していたせいで目撃者が居なかった事が幸いしたようである。
そして何より、あれほどの大事故だったにも関わらず死者が一人もいなかった。数名の重傷者と多数の軽傷者だけで済んだのは幸運としか言いようがないと報じられている。実際のところ、明らかに手遅れだった者はかなりいたのだが、全てアイオンの丸薬で秘密裏に助けている。それが誰にも見られず騒がれず悟られずに済んだのは本当に喜ばしい限りだ。
事故も一段落ついた、と思った所でエリックは、幾ら非常時とは言え本来取り締まるべきものを取り締まらず、あまつさえそれを行使した自分の行動が急激に後ろめたくなってきた。アイオンも住所は押さえているが、それだけである。逃げようと思えば幾らでも逃げられる。ただ、世間を騒がすような事は絶対にしないという口約束を交わしただけである。果たしてそれが適切な対応だったのか。今更になって自分の判断に自信が無くなってきていた。
やがてぞろぞろと執務室に特務監査室の面々が登庁して来る。今朝は珍しく、ラヴィニア室長が朝から登庁して来ていた。ここしばらくは、以前の解決済み案件の後処理で各省庁との摺り合わせに忙殺されていたが、それが一区切りついたのだろう。
「エリックくんにウォレンさん、何だか週末は大変だったそうね?」
「えっ?」
「繁華街での馬車の事故の事よ。二人で現場に出くわしたそうじゃないの」
突然の指摘に、エリックは思わず声が上擦ってしまった。別段疾しい事はしていないのだが、事件の事はまだ報告はしていないというのにどうしてラヴィニア室長は知っているのか。彼女の情報網や人脈は、もはやオカルトじみていると言っても過言ではないだろう。
「相変わらず耳がはえーな、室長は。さては警察庁辺りから聞いたな?」
「あら、本当にいたのね。二人で飲みに行ったようだから、もしかしてって思っただけなのに」
「ああ、そうすか……」
単なるかまかけだったようである。図星だったとラヴィニア室長はおかしそうにくすくす笑った。
「とりあえず、出くわしたからにはちゃんと救助活動してきましたよ。それと、ちょっと報告しておきたいことが」
エリックはアイオンの件について、事故当時に起こった一連の事をラヴィニア室長へ説明する。本人が騒ぎ立てて目立つ事を望んではいないが、情報の共有は最低限行わなくてはいけないことだからだ。
すると、突然とラヴィニア室長の声色が変わった。
「エリックくん、もしかしてあのアイオンに直接会ったってことかしら!?」
「え? ええ、まあ。バーで絡まれて、それから何となく」
「ああん、いいなあ、羨ましい! ねえ、どんな人だった? やっぱり後書きにあるような変わった方?」
「ああ、確かにちょっと変わっていて取っ付きにくい人ではありましたけど……ラヴィニア室長?」
物静かで知的でおっとりとしているのが普段のラヴィニア室長なのだが、アイオンの話を耳にした途端に豹変してしまった。思わぬ反応に、エリックだけでなく他の面々もまた困惑の色を露わにする。
「あら? ねえ、これもしかして、本人の直筆かしら?」
そう言ってラヴィニア室長は、エリックの机のブックエンドの間から色紙を取り出す。それは先日にアイオンから無理やり押し付けられたもので、何となくそこに挟んだままにしていたものだ。
「はい、バーで飲んでいた時にちょっと」
「羨ましい! ねえ、エリックくん。これ、私に売ってくれないかしら?」
「え、売って? いやいやいや、差し上げますよ。えーと、その、ラヴィニア室長には普段からお世話になっていますし」
何故そんなものを欲しがるのか。その言葉を辛うじて飲み込めたのは、ラヴィニア室長の尋常ではない反応の理由を理解出来たからだった。そう、これは明らかにファンのそれである。あの、一つも面白味のない無駄な本ばかり出しているような男の、である。それでもファンの前では迂闊な事は口には出来ない。
「えー、そんなに凄い人なんですう?」
訝しげに訊ねるルーシー。すると、
「そう! 人呼んで、稀代の冒険小説家、怪奇談蒐集家、現代伝奇作家のアイオン! 私、子供の頃からのファンだったの!」
どこかで聞き覚えのある口上だ。しかしそれ以上に驚いたのは、ラヴィニア室長が子供の頃からのファンだという事だ。アイオンの見た目は自分達とそれほど変わらないように見えたが、実際の年齢はもっと上だという事なのだろうか。それには、またどこかの秘境で入手した秘薬が関係するのか。しかし、エリックはそれ以上は考えなかった。彼については、もはや考えるだけ頭が痛くなって来るからだ。
アイオンの魅力を長々と語るラヴィニア室長。ルーシーは露骨に嫌そうな表情を浮かべている。それらを尻目に、ウォレンがそっとエリックに耳打ちして来た。
「アイツの本って、もしかして室長みたいな高学歴のインテリほど夢中になんのかな。俺らはそうじゃなくて助かったぜ」
「あの、忘れてると思いますけど。僕はこれでも聖都大首席卒なんですが」