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「うん、この出来なら良いでしょう」
 片眼鏡をつけた老紳士は、隅から隅まで今朝方描き終えたばかりの絵を注視し、満足そうな様子で頷いた。
「では、いつもの画商に連絡をして下さい。これなら入札開始額ももっと強気でいけるでしょう。そのあたり、よく交渉するように」
 老紳士が連れの男達に指示を出すと、彼らはテキパキと自身の仕事に取りかかり始める。いずれも筋骨逞しかったり顔に刃物の傷痕があったりと、如何にもなごろつきの風貌をしている。しかし彼らは老紳士に従順で、顎で使われる事を良しとしていた。
「さて、あなたには三日間の休暇を差し上げます。その後はまた作成に取り掛かって下さい。良いですね?」
「は、はい……」
 青年は恐縮しながらしどろもどろに返事をする。
 老紳士は穏やかな表情をしているが、その眼差しはあまりに鋭くまるで刃物を突き付けているかのような威圧感を覚えさせる。その仕草だけでも、彼が真っ当な世界の住人ではないことが窺い知れた。
 彼らがアトリエから去り、ようやく青年は深い安堵の溜め息をついて椅子に座ったまま深くうなだれた。しばしの安堵も、すぐに自分の将来への不安が押し潰してしまう。またすぐに自分は絵を描かなければならない。それも不本意で冒涜的な絵である。
 青年には借金があった。画家を志すも、彼の作品は世間からはまるで評価されなかった。やがて画材だけでなく日々の食事にすら事欠くようになり、売れて有名になるまでと割り切って借金を繰り返していく内に、返済額は膨れ上がり利息すら満足に払えなくなっていった。そんな時、青年はあの老紳士に目を付けられた。
 老紳士は真っ当な金貸しではなかった。金貸しはあくまで表向きの職業で、裏では違法に骨董品や絵画などを売買していた。青年に目を付けたのは、彼の技術が理由だった。青年は人の心を打つ構図や迫力を持った自分の世界観を作り出す事は出来なかったが、人並み以上の情熱で打ち込んだため絵画の技術力は持っていた。老紳士は返済の代わりに、青年に様々な絵画の贋作を作らせた。青年の精巧な贋作は飛ぶように売れ借金以上の金を作り出したはずだったが、その精巧さが裏目に出て、老紳士は青年を手放そうとしなかった。現在、青年は老紳士の思惑で借金とは全く無関係に贋作を作り続けさせられていた。従わなければ殺す、そんなシンプルな脅迫でも青年に抗う術は無かった。
 しばし心を落ち着けた後、青年はおもむろに立ち上がると、別室から布のかかった一枚のキャンバスを運び込んだ。新たに絵の具や画材を整え、深く一呼吸ついた後にゆっくりと布を外す。そのキャンバスに描かれていたのは、若い女性の肖像画だった。やや緑がかった黒髪に、同じく緑色の瞳、体の線は全体的に細身。赤を基調にした服装と左手には金色のブレスレットをつけている。
 この肖像画は、今の青年にとって唯一の創作活動だった。贋作を作らなければならない情けなさや苦しさから逃れるため、こうして僅かな休みの間に少しずつ描いていた。絵のモデルはいない。以前に青年がふと夢で見た女性を再現したものである。夢の中の彼女がとても印象的で目が覚めても憶えていたため、こうして絵の題材とし形にし始めたのだ。
 今、この瞬間だけが、青年にとって心の安らぐ唯一の時間だった。贋作を作っている時は、自分は何のために画家を志すのか、いつまでこんな惨めな事を続けなければいけないのか、そんな苦悩に支配され続ける。しかしこうして自身の創作活動をすることで一切の悩みから一時的にでも解放されると、やはり自分は絵が好きだから画家を目指すのだと再確認が出来て、荒みがちな心が落ち着くのだった。
 日が暮れ始めた頃、青年は絵筆を置いて目の前の絵を眺めながらしばし塗った絵の具の様子を見る。これが乾く頃には再び次の贋作の製作を始めなければならない。それを思うと気が重くなって来る。しかし、自分の力だけではどうにもならない。あんな組織犯罪者とやり合うような度胸は持ち合わせていないのだ。
「これから一体どうしたらいいんだろう?」
 青年はキャンバスの彼女に話しかける。当然彼女は答えるはずもなく、ただ優しい笑みを浮かべたままだ。
 何となく彼女は自分にとって理想の女性像なのだと青年は思っていた。そういう無意識の願望などがたまたま夢の中に形となって現れたのだから、恋慕に似た感情を抱いても不思議ではない。
 一か八か、ここから逃げ出そうか? それは無理だ。アトリエの外には常に見張りがいる。キャンバスを抱えて外に出ればすぐに察知されるだろう。ならば絵を置いていく? それこそ無理だ。彼女を置いて逃げる事は出来ない。今となっては、この情けない身の上の唯一の支えなのだから。
 今はただ、この苦境を耐え忍ぶしかない。どんなに苦しくても、彼女とならきっと耐え抜けるはずだ。
 そして青年は、キャンバスの彼女に向かって負けず劣らずの笑みを作って見せた。