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 階段の手摺りの下側に擦った傷跡。途端にエリックの脳裏には、手摺り部分の左右を針金が結ぶ光景が思い浮かんだ。
「確かラーフの父親は、階段から突き飛ばされたとありましたよね」
「ええ、そうです。ですが、それはあくまで警察側の見解でして」
「他は違うと?」
「児童相談所は、ラーフ君が犯人だと頑なに信じています。警察側は、ラーフ君の経歴を踏まえつつも幼い子供が実父にこんな事をするはずがないという見解で。それを前提に捜査を始めています」
「つまり警察は、ラーフをそもそも初めから犯人だと疑いもせず、外部犯の線だけで捜査していると?」
「そういう事です。なので、実のところこの屋敷の中はあまり捜査されていません」
 ではこの手摺り下部の傷跡は、警察すら知らない情報になる。外部から侵入した何者かが、ラーフの父親を階段から突き落としたという推測も否定できる。外部犯ならわざわざこんな罠を作る必要も無く、隙をついて背後から突き飛ばすだけで良いのだ。
「何か針金のような物はこのうちにありませんか?」
「階段下に物置部屋があるんですが、そこには自宅修理や日曜大工用の器具や資材が置いてあります」
 早速カスパーの案内で階段下にあるという物置部屋を見せて貰う。部屋の扉は鍵が無く、誰でも簡単に開けられる状態だった。部屋には工具箱や様々な資材の入ったずた袋などが置かれている。いずれも鍵も無く簡単に手に取れる状態であり、その中には針金の束も見つけることが出来た。
「これ、明らかに新品のラベルが残っているけれど、長さが足りないですね。最近に切断した跡があります」
「あ、エリック先輩! このゴミ箱に、針金が捨てられてましたよ」
 マリオンが持ってきた針金は、ラベルが残った針金の束と同じ物だった。つまり、何者かがこの部屋から針金を切り取って持ち出し、階段に細工をしてからラーフの父親を転倒させ、すぐに針金の細工を外してここに捨てたという事だろう。
「エリック先輩、これは完全に物証じゃないですか。やっぱり犯人はあの子なんですよ」
 そう息巻くマリオン。エリックもその線が濃厚であると考える。しかしすぐには断言が出来なかった。本当にそうなのだろうか、幾ら何でも都合が良過ぎやしないだろうか、という懸念がエリックに確信を持たせなかった。
「念のため、ちょっと確かめてみようか」
 エリックは先ほどの手摺りに傷跡を見つけた場所まで戻り、捨てられていた針金を伸ばして階段の幅に合わせて置いてみる。すると針金は丁度階段の横幅と同じだけの長さがあった。
「長さがぴったりですね。ここで使われたに間違いないですよ」
「いや、やっぱりこれはおかしいよ」
 そうエリックは断言する。
「どうしてですか?」
「横幅と同じ長さなら、階段を結ぶようには張れないよ。結ぶ分の長さが足りないから」
「では片方だけ結んで、差し掛かったタイミングで針金を引っ張れば? ラーフは実の息子なんですから、側を歩いていても不自然には思われませんよ」
「それも無理だよ。針金を腕力で張るなら、大人一人支えるまではいかなくともそれなりの握力が必要なんだから。五歳の子供にそれは無理だ」
「となると……エリック先輩、じゃあこれって何なんでしょうか? わざと間違えさせるための偽の証拠って事になりますけど」
「そういう事なんじゃないかな、これは。きっと、自分が警察に捜査された時のための備えだよ」
「五歳の子がそこまで考えているんですか?」
「という事になりそうなんだけれど……」
 この針金は明らかに作られた偽の証拠である。恐らく手摺りの傷跡も後から付けたものだろう。今自分らがしたように警察が検証をすれば、自分には犯行は不可能だと断定されてすぐに疑いは晴れる、そういう保険だ。問題は、何故わざわざ疑われるようなことをしたかだ。頭に花瓶を落とさなければ、何も疑われずに済んだはずなのに。
「もしかして、本当は僕らをからかうための細工だった?」
「でも、それこそ何のためにでしょうか? 私達にこれを証拠と勘違いさせて誤認逮捕を誘ったところで、誰にも何のメリットも無いと思いますけれど」
「いや、文字通りだよ。今こうして僕らが右往左往しているだけでも満足なんだ」
「愉快犯って事です? でも、五歳の子供が愉快犯だなんて……」
 そう、明らかに前例が無い。愉快犯は基本的に幼稚な大人のする犯罪であり、実際に幼い者では体力か知能のどちらかが追い付かないのだ。