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 朝、エリックはいつもの時間に通勤する人々が溢れ返る大通りの歩道を歩いていた。特務監査室の登庁時間は特別早い訳ではなく、概ね民間の通勤ラッシュ時間と重なる。エリックはこの通勤時間が好きだった。特務監査室という真っ当ではない仕事をしている自分が、ここに紛れている時は世間一般と同じ真っ当な仕事をしているように見えるからだ。
 人混みを無理に掻き分けず、流れのまま流されるように進み、時折分岐路だけ掻き分けて曲がる。庁舎に近づくに連れて人の数が減る事は無いが、次第に人の流れの枝が多くなり、道端で足を止めやすくなる。その頃になるとエリックは、決まって通勤客を狙って早朝から開いている店へ立ち寄る。
「おはようございます。またいつものを」
「はいよ、毎度」
 まず立ち寄った露天で、異なる朝刊を四部購入する。特務監査室でも幾つか新聞を購読しているが、それ以外にエリックが気になる記事を載せる事がある新聞を購入している。情報を比較するには母数は多い方が良い、大学時代にある教授から聞いたアドバイスだ。
「おや、兄さん。右手、どうかしたのかい?」
 それはエリックが釣り銭を受け取るために右手を伸ばした時だった。売り子から突然とそんな言葉をかけられる。
「え、右手ですか? 別に何もしていませんけど」
「そうかい? じゃあ見間違いか」
 そんな事もあるか、とエリックはさして気に止めず釣り銭を受け取り店を後にする。
 それからエリックは庁舎へ再び向かい始めたが、程なく露天の中に威勢の良い果物屋がいるのを見つけた。今日は食べ頃になったリンゴを特売しているらしく、その声は離れたこちらまで聞こえて来た。間食用に果物を買っておくのも悪くない、そう思ったエリックは早速露天へ行きリンゴを買う。
「はいよ! 兄ちゃん、右手気をつけてな!」
 買ったリンゴを受け取ろうとしたその時、エリックは再び右手について言われた。今度は客に押されてすぐに店を離れてしまい訊く事が出来なかったが、明らかにエリックの右手に何かあるような言い方だった。
 一人なら見間違いだが、二人目なら何か理由があるはず。
 そう思いエリックは自分の右手を見てみるが、特段変わった所は見当たらなかった。右手自体に怪我や腫れなどは無く、指も全て問題無く自分の意思通りに動く。そもそも、パッと見ただけで違和感があると二人の人間に思わせるような変化に、指摘されるまで全く気付かない訳がないのだ。
 本当に、たまたま同じ見間違いが続いただけだろう。そうエリックは思いたかったが、どうしても気に掛かってしまう。それは、先日の悪魔崇拝の教団に捜査で入団した事が原因になっているのかも知れないと、ほんの少しだけ危惧する所があるからだ。
 執務室へ入り、始業時間になる頃に全員が揃う。今朝はラヴィニア室長も来ており珍しく全員が揃った形になる。しかしエリックは今朝の事を何も言わず普段通りに仕事を始めた。もし本当に何か異変があるのなら、誰かが自分の右手に気付くからだ。
 そして時刻は夕方になろうかという頃。エリックの右手について誰も指摘する事なく一日が終わろうとしていた。やはり単なる偶然だったのかとエリックは安堵していた。万が一これが例のカルト教団の呪いなどという事にでもなれば、これほど厄介で面倒で世間体の悪い事はないからだ。
 しかし、
「エリック先輩、右手どうかしたんです?」
 不意に向かいの席からマリオンがそんな事を訊いてきた。
「えっ、右手!?」
 完全に気を抜いていた所での思わぬ指摘に、エリックは思わず大きな声をあげて狼狽する。
「何だよ、エリック。急にうるせーな」
「え、あ、いや、すみません」
「本当に何かあったんですか右手?」
「い、いや……。えっと、マリオンこそ僕の右手がどうかした?」
「どうかって、なんかエリック先輩は今日ずっと右手を気にしてるみたいでしたから。怪我でもしたのかなって、気になっちゃって」
 どうやら、出来るだけ気にしないつもりでいた自分の挙動はかえって不自然に見えてしまったらしい。つくづく己の不器用さを不甲斐なくエリックは思った。
 エリックは今朝に起こった出来事を皆に説明する。しかし、誰もが偶然だと笑い、深刻には受け止めなかった。それはエリックにとってむしろ心強かった。こう笑い飛ばしてくれなければ、本当に何かの呪いだと信じ込んでしまいそうな心境に陥りかけていたからだ。
 単なる偶然、呪いなど存在しない、その二言を改めて自分へ言い聞かせるエリック。丁度その時だった。つい先ほど国家安全委員会の所へ呼ばれたラヴィニア室長が執務室へ戻って来た。そして早速情報の共有が行われる。
「先日の悪魔崇拝教団の事だけど、幹部が一昨日に一斉検挙されたそうよ。教団には一般の信者しか残っていないから、組織としてはほぼ活動休止中みたいね」
「えー、何かやってたんです? やっぱり悪魔を召喚とか?」
「まさか。単なる税制違反よ。こんなに早く検挙された辺り、金額の大きさよりも管理がかなり杜撰だったみたいね」
「げー、悪魔で金儲けかよ。人間の方がよっぽど悪魔だなあ!」
 やはり、悪魔崇拝云々と語っておきながら、本質は金儲けだったようである。宗教での金儲けが必ずしも悪とは言えないが、やはり法律は守るべきである。
「エリック君に感謝してたわよ。テロ方面か税制方面か、どちらで捜査するか迷ってたそうだから」
「そ、そうですか。お役に立てたなら光栄です」
 そんな報告を受け、エリックは思わずぎくしゃくする。それはエリックの脳裏にある可能性が過ったからだ。
 教団は自分に対して復讐の動機を持った。少なくとも、幹部の一斉検挙に繋がる手掛かりを作ったのだから。そして、もしも仮に、有り得ないとは思うのだが、潜入捜査をした自分をオカルト的な何かで特定し監視をし続けていたのだとしたら。実はこの右手の異変は、報復の始まりではないだろうか?