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 エリックはエルバドール国へ来たのは生まれて初めての事だった。かつてはセディアランドとは戦争をしたこともある地続きの新興国だが、現在は君主と議会を持つ半共和制となり、軍備に関してもセディアランドとは協力関係にある。そのためエルバドールからの移民も受け入れられ、ルーシーのようなエルバドール系セディアランド人も珍しくない。
 今回エリックは、ルーシーと共にエルバドールでは最も有名な保養地であるルタ市に来ていた。目的は依頼主が盗んだあの人形の返還である。捨てても破壊してもいつの間にか戻ってくるような代物を預かったところで依頼主の元へ戻って来るのではと思われたが、意外にも未だ人形はエリックの手にあった。本来なら盗んだ当事者である依頼主が返還するのが筋であるが、執拗に拒絶された事とせっかく人形を引き剥がせたのだからと、特務監査室の人間だけで返還する事になったのだった。
「さーて、ランチにでもしよーか」
 時刻は間もなく正午に差し掛かる。ルーシーは普段通り呑気な様子でそんな事を言う。しかしエリックは、人形の返還の事で気が気ではなく、昼食の事などまるで考えられなかった。
「いいんですか、そんな呑気にしていて。もし返還が上手くいかなかったら」
「上手くいったって、御利益が止まる保証もないでしょうに。いいから、エリック君はもうちょっとリラックスしなさいな。せっかくの保養地なんだし。悩んでもどうしようもない事をわざわざ悩むのは、はっきり言って労力の無駄よー。エリック君の悪いところの一つ」
「幾つの中の一つなんですか……」
 それくらいの事は理解してはいるが、だからと言って簡単に意識を切り替えて気を抜く事も出来ない。ルーシーのこの楽観主義はやはりエルバドール系だからなのだろうと、改めてエリックは思う。慎重過ぎるという事はない、そう考えるのがエリックである。
 ルーシーが勝手に決めた食堂に入ると、注文もルーシーが全て勝手に決めてしまった。とは言ってもエリック自身エルバドールの食事など初めてでほとんど知らず、ルーシーに任せる他無い。そもそも食事の内容を気にする余裕も無かった。
「やっぱりルーシーさんは、こういうのは懐かしいって思うんですか? いわゆる故郷の味というか」
「そんな訳無いじゃない。アタシは三世だもん。セディアランドの方が慣れ親しんでるわよ。ウチのママが子供の頃に住んでた思い出を聞かされたくらいかなー。あ、ほら。そこにあるわよ」
 ルーシーが指差した先には、店内の角の天井近くに備え付けられた棚と、そこに並ぶ二対の男の子の人形があった。この店に祭られている幸運の神様である。
「ああいうのがこの国では一般的なんですね」
「そうだねー。ま、宗教と言うよりも生活習慣の一部かなー」
 食事を終えた後、エリック達は馬車で当初の目的地へと向かった。その先は、ルタ市の郊外にある小さな寺院だった。依頼主は、寄りによって宗教施設から盗みを働いたのである。それを思いエリックは、本当にくだらない事をしてくれたものだと溜め息を漏らしそうになった。
 いささか後ろめたいような気持ちで寺院の中へ入ると、そこには人の姿はなく閑散としていた。建物自体が古びているのとあまり手入れも行き届いていないらしく、今にも潰れそうだなどとエリックは内心思った。
 壁の模様や天井の造りなどを見ながらエリック達は奥へと進んで行く。いずれもセディアランドには無い文化を感じさせるもので、これが純粋に観光であれば非常に有用な体験だっただろう。あまり落ち着いては見られないが、いつか休暇を取ってもう一度観光に来たい、そう思わずにはいられなかった。
「おや、見学の方ですかな」
 しばらくすると、奥の方から一人の老僧がにこやかな表情で現れた。何となくの雰囲気から、この寺院の責任者のようだとエリックは思った。
「突然すみません、我々はセディアランドの官吏です」
 そしてエリックは、特務監査室の事は伏せながら、以前にこの寺院から盗まれた人形の件を老僧に説明し、人形を丁重に差し出した。盗んだ依頼主がどういった目に遭ったかまでは伏せたものの、どんな反応をされるかとひやひやしたが、老僧は見た目通り温厚な物腰で、まずは遥々やって来たことを労ってくれた。
「さてさて、せっかくお越しいただいたところ申し訳ないのですが。実はここはもう閉じてしまう事が決まってしまいましてな」
「ええっ? ……それはもしかして、この善神が盗まれたせいで?」
「ハッハッハ、まさか! 元々こんな郊外の古びた寺院を訪れる者もおりませんでな。私もいい加減歳で体も自由が利かなくなりましたし、いわゆる退き際というやつですよ」
 御利益が得られなくなり立ち行かなくなった。我ながらおかしな事を口走ったものだとエリックは恥ずかしくなる。
「そうだ、よろしければこの人形は二対とも差し上げましょう。このまま捨ててしまうのも忍びないので」
「えっと……こういった物は他人に譲渡しても構わないのでしょうか? こう、宗教的にと言いますか」
「なに、そんな禁忌などありませんよ。何も教えに背くことはありません。まあ、少なくとも御利益についてはそんなに期待しないで下さいね」
 そう笑う老僧にエリックは愛想笑いを返す。傍らのルーシーの方を見ると、特に興味も無さそうに、好きにしたらいいとの表情をする。この状況で断り難かったエリックは、老僧の申し出を受ける事にした。
「これは、作った家長の家にしか御利益は無いと言われていますが、そもそもそれは昔の人が勝手に決めた事とも言われております。もしあなたが神様に気に入られましたら、案外大きな御利益があるかも知れませんよ」
「はい、そうなってくれるよう気長に待ちます」
 神様を模した人形が幸運をもたらすなど、実に馬鹿馬鹿しい。宗教を否定する訳ではないが、セディアランド人であるエリックは御利益などというものを真に受ける事は無い。けれど今回は、既に前科のある曰く付きの人形である。ひとまずこれは特務監査室の隔離倉庫へ預けるべきだろう。問題を起こした事は間違いないのだから。