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グスタフが普段就寝する時間になり、エリックは彼に状況再現しやすいようなるべく普段通りの生活をさせたかったため、グスタフを寝室へ送った。部屋の灯りを全て消し、エリックはソファーでじっと事が起こるのを待った。隣ではマリオンがうとうとと居眠りを始め、また向かいのソファーではルーシーが堂々と横になって寝ている。ウォレンにいたっては居間にすらいない。この状況についてエリックが、張り込みがこんな事でいいのかと思っていたのは、随分昔の事である。何度も似たような事を繰り返す内に、自分一人でもしっかりとしていればいざという時にはみんな動いてくれる事を理解したからだ。
グスタフの話では、モズの鳴き声は必ず寝ている夜遅くの時間帯に聞こえるのだという。幽霊らしく深夜帯をわざわざ選んでいるのだろうか、などと思いながら、エリックはひたすら暗闇の中でじっと事が起こるのを待った。
そして、どれだけの時間が経過しただろうか。暗闇のせいで時間の経つ感覚が曖昧になって来た頃、突然事態が急変する。まずは、エリックの隣に居るマリオンが体を震わせながら立ち上がった。
「え? 今、犬の声が聞こえませんでした?」
「いや、僕には何も……」
マリオンの勢いに、エリックは困惑した返事をする。
「聞こえたね。気配も感じるようになったわ」
いつの間にか目を覚ましていたルーシーが上半身を起こしながら、何時になく真剣な表情で静かに答える。
今度は、寝室の方からどたばたと音が聞こえてきた。居間に飛び込んで来たのは慌てた様子のグスタフだった。
「エ、エリックさん!? 今です、今! ほら、モズの声が聞こえませんか!?」
「自分には何とも……」
「まー、エリック君にはこればかりは無理かー」
この場で聞こえていないのはエリックだけである。しかし、これでモズの鳴き声がグスタフの幻聴とは言い難くなってしった。複数の人間が同時に聞こえる幻聴など存在しないのだ。
「てめえ! おとなしくしろ!」
そこへ更に追い討ちをかけるかのように、ウォレンの物々しい怒声が聞こえてくる。
すぐさまエリック達は声の聞こえた玄関の方へ向かう。すると開け放たれたドアの向こう側で、ウォレンは一人の男を床に組み伏せていた。
「おう、エリック。こいつの持ち物改めてみろ。カギこじ開けて入ろうとしてたぜ」
そう言われ、エリックは男のポケットを改めてみる。するとそこからは、包丁が一本出て来た。
「料理のために持ち出した、とは思えませんね」
そしてエリックは、証拠保存用の袋へ包丁をしまい込む。
「グスタフさん、彼に見覚えは?」
「えっ……確か隣の部屋の……話した事はありませんけれど、どうして……」
男の顔に見覚えはあるが、その程度だという。グスタフはまさか隣人に命を狙われるほど恨まれていたとは思いもよらず、酷くショックを受けた表情に変わっていった。
「何となく勘が働いたんでな。ちょっくらそこら辺を巡回して戻って来てみたら、こいつがドアの前に屈み込んで何やらやってたのを見つけてよ。ビンゴだぜ。ドアを開けた所で取り押さえたんだ、少なくとも不法侵入は成立だな」
「刃物を持っているので、殺人未遂の疑いもつきますね。正当な理由を証明できるなら別ですけど」
やがて騒ぎを聞きつけたアパートの住人達がちらほらと集まって来る。そして取り押さえられた男の様子に、何事かとざわめき始めた。
「とりあえず、このままじゃ騒ぎが大きくなる。マリオン、ちょっと近くの詰め所辺りから警官を連れて来て」
「分かりました。すぐ連れて戻りますね」
マリオンが詰め所へ駆けていく。後は警官へ引き渡せば良いのだが、その前に特務監査室としても聞き取りをする必要がある。エリックはウォレンに男を縛ってもらうと、一旦グスタフの部屋の中へ入れる。集まって来た住人達には、後日きちんと説明するとして部屋へ戻って貰った。
「それで、あなたは何が目的なんですか?」
「決まってる! 卑怯なことをしたそいつを殺すためだ! くそっ、邪魔になりそうな犬コロをやっと始末できたと思ってたのに!」
男はそう怒鳴ってグスタフの方を睨み付ける。
「そ、そうは言いますがね、私はあなたの事を知らないので……」
「ああそうだろうよ! だがよく覚えておけ! お前が卑怯な手段を使ってレイモンド運送へ入ったせいで、俺は入社出来なかったんだ!」
レイモンド運送とは、聖都のみならずセディアランド国内外で幅広く運送業を営む大企業である。その名前はエリックも当然聞き覚えがあった。
「レイモンド運送……? え? 私が? 私はレイモンド運送の社員ではありませんよ」
「しらばっくれるな! お前が良くレイモンド運送へ行ってるのは知ってるんだぞ!」
「そりゃそうですよ! うちの会社は、レイモンド運送の下請け、小口の仕事を回して貰ってるんですから! ……まさか、そんな事で!? おい、お前! そんな事でモズを殺したのかッ!?」
突然グスタフが怒りの声をあげ、傍にあった置物を手に取り威嚇する。すぐさまエリックが制止しそれを取り上げて抑えるが、そのままエリックが抑え続けなければ、グスタフは今にも男を殴り殺してしまいそうだった。それほどの激しい怒りが、言葉だけでなくエリックの肌にもビリビリと伝わって来る。
男は逆恨みで、それも程度の低い勘違いで、グスタフを殺そうとしていた事になる。そのためにモズをも殺した。グスタフにとってあまりに理不尽な仕打ちである。グスタフの怒りももっともだろうが、暴力でそれを晴らすのは法治社会において下策でしかない。
「そもそも、アンタみたいな馬鹿がレイモンド運送みたいな大企業に入れるワケないじゃない。強盗の仕業なんかに見せかけるつもりだったんだろうけど、こんなマヌケな段取りじゃペーペーの警官にもバレるっつーの」
その時、ルーシーが誰もが思っても口にしなかった事を正面切ってへらへらと言い放った。見る間に男の顔が怒りで紅潮していくのが分かる。怒りの矛先がルーシーへ向けられたが、固く拘束されている以上何も出来ず、ルーシーも蛙の面に水とばかりに平然としている。そしてその態度が更に男の怒りに油を注いだ。
「とにかく……事情は分かりましたから。後は警察に行って釈明なりして下さい。まあ、今の話では情状酌量は難しいでしょうが」
男のがなり声を余所に、エリックは大きな溜め息をついた。犬の幽霊と聞いて調査してみれば、まさか殺人未遂の現場に出くわすなんて。やはり幽霊話が絡む件はろくな事が無いと、ただひたすらに脱力感ばかりが込み上げて来る。それでも、一人の善良な市民が殺されたり道を踏み外す事を防げたと思えば、一官吏としては十分な仕事だろう。