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それはエリックにとって何の前触れも無く、突然起こった。
その日の朝は、エリックの方がゴールドよりも先に目が覚めた。ゴールドは毎朝必ず朝食をねだるためにエリックを起こして来る。しかしそれが今朝は無く、妙に静かだと思いながら目が覚めたのだった。
体を起こすと、ベッドの周辺にはゴールドの姿は無かった。エリックの脳裏に脱走の文字が過り、慌てて飛び出す。
「ゴールド! どこだ!?」
まずエリックは玄関のドアを確認する。ドアの鍵は昨夜かけたままで開いた形跡は無い。続いてベランダへ出るドアと窓を確認するが、いずれも閉まったままだ。他の窓も一つずつ調べていくが、外へ出た形跡は見当たらない。
ならばゴールドは一体どこへ行ったと言うのか。焦るエリック、するとそこで何処からともなく微かなゴールドの鳴き声が聞こえてきた。
「居る……! ゴールド、何処にいるんだ!?」
小さな声を頼りに部屋を探すエリック。そしてその声は洗面所の方から聞こえて来る事に気がついた。
「ゴールド! ここにいるのか!?」
そしてエリックが見たのは、洗面台の上でぐったりしているゴールドの姿だった。蛇口から漏れる水滴を良く舐める事があり、一旦はまたそれかと思った。しかしどうにも様子がおかしかった。ゴールドは首も持ち上げられず、ただじっとこちらを見ながらか細い声で鳴くばかりである。
「お、おい、お前どうした……」
そっと抱き上げてみると、ゴールドの体はやけに力が無くぐったりともたれ掛かってきた。明らかに様子がおかしい。そう感じたエリックは、すぐさまゴールドをカゴへ入れると服を着替え部屋を飛び出した。エリックが向かった先は、エリックの部屋から一番近い動物病院だ。聖都でもペット動物専門の病院は数が少ないが、つい最近に開業されたそこには一度ゴールドを予防接種で連れて行った事があり、医者とも面識があった。
勝手口に周り、医者へ事情を説明し、時間外だが緊急事態という事でゴールドを見てもらう事が出来た。医者がゴールドを診ている間、エリックは傍らでひたすらじっと待った。ゴールドは時折苦しげに唸る。それを酷く辛い心境でエリックは聞いていた。
そして小一時間も経った頃、医者がおもむろに口を開いた。
「どうやらゴールドには、先天的な障害があるようですね……私も以前いらした時には気付きませんでした」
「障害、ですか?」
「呼吸器系の障害です。大分進行していますね。この子は今、肺に酸素が十分に渡っていないようです。最初はさほど深刻ではなかったのですが、少しずつ症状が悪化していっていたのでしょう」
エリックはそんなゴールドの変化には気付かなかった。いや、そもそもそんな所まで気に留めていなかったのだ。ただ騒がれるのやちょっかいを出される事が面倒だからと、一人で勝手に遊ばせていたのだ。
「どのくらいで治るでしょうか?」
「……残念ですが、はっきり申し上げて見込みはありません。猫は元々我慢強い動物で、多少の体調不良は表に出しません。それがこう表面化しているのですから、察して下さいとしか言い様がありません。もう少し早く分かっていれば、まだ使える薬もあったのですが」
「そんな……」
つまり、全て原因は自分の無関心さにあった、そのせいで手遅れになった、そういう事なのか。
「ここまで進んでしまった以上、ゴールドはもう幾許も保ちません。せめて苦しみだけ取り除いてあげるべきかと」
それは遠回しに安楽死を勧めているのか。
瞬間、怒りとも悲しみとも言えない激情がエリックの背中を駆け上る。しかし、この事態を招いた原因が自分にある自覚が歯止めになり、辛うじて表にその激情を出す事を抑えた。
エリックはただ頷き、医者に任せるしかなかった。そしてぐったりとしたまま頭も自力で持ち上げられなくなったゴールドの体を優しく抱き上げる。ゴールドはじっとエリックの目を見詰めた。そう言えば、初めてゴールドと対峙した時もこう見られた事を思い出す。あれは一体どういう心境だったのか。
「これを。一滴でゴールドはすぐに苦しまなくなりますから」
傍らで医者は小さなスポイトを手にしながら言葉を選んで語る。エリックは無言のまま頷き同意する。
ゴールドと再び目を合わせる。ゴールドはただじっとエリックを見詰めて来る。エリックには猫の表情はどれも薄く見えるため、ゴールドが今何を思っているのか分からない。ゴールドは置かれた状況を理解しているのだろうか。もしそうならば、身勝手な自分を恨んでいるのか。しかしもうどうすることも出来ないのだ。
過ぎた事は戻せない。学生時代に勉強が辛くなった時は、いつもその言葉を思い出してはやる気を奮い立たせていた。おかげで大学も首席で卒業する事が出来た。それが今、こんなに強い後悔を伴いながらその言葉を思い出すなんて。
「ごめんな」
無言で自分を見詰めて来るゴールドに対し、エリックはたったそれしか言う事が出来なかった。そして、最後はエリックの方から目をそらしてしまった。