BACK

「おーい、エリック。どうしたー? 俺だってば! いつものとこへ飲みに行こうぜ!」
 後方から聞こえてくる声は、どこをどう聞いてもウォレン本人そのものである。その声を無視しながら、エリックは御者の言葉を思い出していた。
 この山には人を喰う得体の知れない怪物がいること。その怪物は足が遅く、大人が走ればまず追い付けないこと。その代わり人間を油断させるために、知っている人間の声を使ってくること。
 それらは単なる御伽噺のような物だと思っていたのだが。それは、明らかに御者の話した特徴全てと合致している。
 認めたくはない。認めたくはないが、そうか、これがやまのけという化け物なのか。
 ウォレンの声を無視しながら、エリックはなおも歩き続ける。やつが人の早足程度で追い付けなくなる事を知っているが、こちらも今のペースをいつまで保てるか分からない。とにかく今は一歩でも前に速やかに進まなければ。
 ひたすら進むエリックと、その後ろをぴったりと追うやまのけ。そんな中、不意に新たな声が聞こえて来た。
「ちょっと、エリックくーん? 先輩を置いてくとか、どうかと思うよー?」
 それはルーシーのいささか不機嫌そうな声だった。そしてそれは思わず本人と間違えるほど、声色や息遣いまでそっくりである。
 今度はルーシーさんか。腹を決めているせいかさほどの驚きもなく、エリックは相手にせず引き続き足を進める。
「エリックせんぱーい! 待ってー! 何かに引っかかったみたいなの!」
「エリック君、もう業務は終了よ。だから一旦、こちらに合流してくれないかしら?」
「どうしたエリック、たまには実家に顔を出さんか」
 マリオン、ラヴィニア室長、父親、次々とエリックの知る声が背後から入れ替わり立ち替わり聞こえて来る。そこでふとエリックは疑問に思った。やまのけが知り合いの声を真似るのはともかく、その知り合いと自分の関係までもどうして知っているのだろうか。仮説として、やまのけは実際は声を出しているのではなく、こちらがそう錯覚する音波のようなものを放出し一種の催眠状態を作り出しているのではないだろうか。それはこちらの感覚を狂わせるという非常に脅威な能力だが、逆に言えば近付かなければそれ以上の事は何も出来ないという事だ。
 生還への期待が強まる。こちらの心が揺らがなければ、やつに捕まる事はないのだ。エリックは改めてそう確信する。既にエリックの中には恐怖心や焦りはなく、やまのけから逃げ切ってやろうという強い意思が宿るようになっていた。その意思は怪我の痛みを薄れさせ、より速く遠くへと足を運ばせる。
 やがて足元の道がなだらかな傾斜面になっていく。峠を越え、麓が近付いて来たという事だ。そして良く前方へ目を凝らせば、ポツポツと僅かに灯りが点っているのが見える。あれが村のある場所、そこへたどり着けば自分の勝ちである。
「おい、エリック。そろそろ止めにして、飲みに行かねえ?」
「ほらー、エリック君。あんまり先輩のことは困らせちゃ駄目ですよ?」
 未だにやまのけはこちらに知人の声で揺さぶって来る。
 もうそんなものに惑わされたりはしない。そう思った直後だった。ふとエリックは、背後の声が前よりも近くから聞こえて来る事に気が付いた。
「せんぱーい、私、今夜空いてるんですけど?」
「エリック君、あなたが大変なのは分かってるつもりよ。少し一緒に考えましょう?」
 やはり声は先程よりも近くに聞こえる。
 そんな馬鹿な。怪我は痛むが、速度を落としたつもりは全く無いのに。何故、近付かれている!?
 動揺し、危うく足を取られ転倒しそうになる所で踏ん張る。怪我をしている右足はまだしも、左足までもが重く鈍い痛みを発している。慣れない酷使による疲労のせいだ。
 その踏ん張る姿勢で、エリックは今の状況の招いた理由に気付き、ハッと息を飲む。
 しまった、ここは傾斜面だった!
 エリックは転倒を恐れるため無意識の内に速度を落としていたが、やまのけは変わらず向かってきている。それは転倒を恐れていないのではなく、斜面でも普段と同じように進めるのか、恐れる知性がそもそも無いかのどちらかだろう。
 どの道、このままでは追い付かれてしまう。そう判断したエリックは、一旦深く息を吸い込んで吐くと、転倒を恐れる気持ちを押し殺し、思い切って残りの斜面を一気に駆け下りる。案外スピードに乗れば重心も安定し転倒せずに済むのではないだろうか。そんな事を考えられたのも束の間、エリックの足は草に取られ、盛大に転倒し、
「ぐわあっ!」
 悲鳴を上げながら何度も何度も激しく転がり、斜面から跳ね、最後はどこか木のうろに背中から打ち付けられ、そのまま気を失った。一体どこまで降りたのか、それも確かめる間も無かった。