BACK
特務監査室の人間として、真相を究明すべきだ。普段ならそう主張するところだが、エリックはこの場からの迅速な避難を選択した。その何者かはあまりに得体が知れず危険過ぎることと、自分は武器も無ければ怪我人であり、援軍も期待出来ない状況だからである。頭の中が恐怖一色に染まる一歩手前で、エリックは辛うじて理性を保っていた。得体の知れない存在に対して理性的ではない行動をすることが最も自らを危険に晒すことを判断できていたからだ。
あんなものをわざわざまともに相手をする必要はない。とにかくここは逃げなければ。
エリックは音を極力立てぬようゆっくりと後退る。それは未だ食事を続けていて、多少の事には気付かないようだった。あまり注意力が高くない所から察するに、生物としての知性は高くはないのかも知れない。だがそれは逆に、万が一逆鱗に触れでもすれば交渉の余地など無く感情的に振る舞われるという危険性も示している。
あれの正体は何でもいい。危険な存在という事がはっきりしていれば十分である。
一歩、二歩、三歩。少しずつ距離を取るエリックは、たったこれだけ下がるのに途方もない時間がかかっているように思えてならなかった。走ってもいないのに息が苦しく、呼吸の音が聞こえないように口を塞いだ。左手に持っていたカバンは手放す事が出来なかった。恐怖心を堪えるため何かを握り締めるのに、それが丁度良かったからだ。
カバンを拾った位置まで戻ってきたエリックは、そこでこれから自分がどこへ向かえば良いのか分からない事に気付く。当然土地勘があるはずもなければ、右も左もほとんど見えない夜の山中である。決まった方向へ進めるはずがない。
仕方なくエリックは、馬車が元々走っていた崖の方角へ進む。そして右手を崖につき、そのまま崖沿いに歩き出した。既に峠は越えかけているのだから、後はこの道を道なりに進んで行けば麓の村付近へと辿り着けるはず。憶測ではあるが、闇雲に歩き回るよりずっと確実ではある。
エリックは痛む右足を庇いながら山中をひたすら進む。距離感を狂わせる暗闇と、思い通りにならない足が、なかなか前に進めない焦りと苛立ちを生む。なるべく余計な事を考えず、楽しい事だけを頭に浮かべるように努力した。少しでも挫けてしまうと、今の自分の行動が正しいのかすら不安になってしまい理性を保てそうにないからだ。
このまま聖都に戻ったら、怪我を理由に休暇を取ろう。そして休みの間は、溜まっていた読書を片付ける。何か新しい趣味を探すのもいい。そうだ、たまには昼間からお酒を飲んでみるのも悪くない。
しかし、無関係の事を考えれば考えるほど、あの得体の知れない存在と自分の選択に対する不安感は強調されていった。やはりどうしても考えない訳にはいかず、逃避行動が理性的であるか故に取る事が出来ないのだ。
気持ちが挫けそうだ。
そんな事を口に仕掛けた時だった。
バキッ! パキャッ!
エリックの左足が、足元で何かを踏みつける。それは細い枯れ枝だったが、程良く乾燥しているためか、エリックが踏みつけただけで盛大な音を立てて折れてしまった。
直後、エリックの背筋が震え上がる。あれとはもう距離を取ったはず。今の音など聞かれる訳はないのだ。
そう祈るものの、次に聞こえてきたのは、この場所から大分後ろ側の藪を割いて向かってくる物音だった。
まずい、気付かれてしまった。
あの得体の知れない何かが、驚くほど正確にこちらの場所に気が付いた。エリックは歯を食いしばり、前へ進む歩調をいささか早める。
距離を取る事だけを考え足を動かすエリック。現実的に考えて、麓の村まで逃げ込む事は不可能である。おそらくその前に、体力が尽きるかあれに追い付かれるだろう。このままひたすら逃げ続け、あれがこちらを諦めてくれる事を祈るしかない。
無我夢中で逃げ続けるエリックだったが、やがて後方のそれについて一つ気が付いた。足を怪我しているため決して早くはない足取りのはずだが、距離を一向に詰められていないのだ。正確にこちらの方向を把握してはいるものの、怪我人の足にすら追い付けないほど足が遅いのだ。
走るのは苦手なのだろうか。ならば、こちらの体力が続くなら希望はある。
精神的余裕から、エリックの焦りが幾分か収まって来た。足を無我夢中で前に進める事をせず、あくまで距離を保てるようにペース配分を調整する。そのため体力の浪費を防ぐ事が出来た。このままペースを保てるなら、本当に麓の村まで降りられるかもしれない。
しかし、
「よう、エリック! 心配したんだぜ!」
突然と背後から聞こえてきたのは、ウォレンの声だった。
この苦しい状況下だからか、ウォレンの声はいつになく頼もしく聞こえる。全身にどっと安堵感が広がり、一定速度を保ち続けていた歩取を緩める。しかし、すぐさまエリックはこの状況は絶対に有り得ないと気付き、改めて自らを緊張させる。
何故、ウォレンはこの場所にいるのか。
いる訳が無いのだ。今のウォレンは事故の事も知らず、聖都にいる。距離的にも時間的にも、ここに救助に来られるはずがないのだ。