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 夕暮れ時、辺境の峠道を進む馬車の中にエリックは一人いた。今回の仕事は、国境近くの辺鄙な村から出土した宝石の回収である。曰く付きの場所から偶然出たもので、彼らの言い伝えによれば、死を招く呪いの宝石だという。かつては呪いを鎮める祈祷師がいたそうだが、今となっては廃れてしまった文化であり、彼らはとても手に負えないという事で特務監査室に依頼が来たのだった。呪いの宝石など馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、手元から離れる事で安寧が得られるのなら、それは特務監査室の仕事である。
 馬車にはエリックが一人、ぼんやりと夕日を眺めていた。こんなゆっくりと夕日を眺める事など、かつてあっただろうか。そんな感傷的になっていたのも束の間、既に退屈が始まっていた。宝石の回収だけであるため、出張はエリックだけである。どうして室長補佐の肩書きを持つ自分が、と不満はあったが、荒事を伴うような事件が聖都で起こった時の事を考えれば仕方のない人選なのだろうと己を納得させる。
 間もなく峠も抜ける。今日はその先にある麓の村までが目的地である。そこで一晩泊まり、また再び馬車に乗ってようやく聖都へ到着する。村で暇潰し用の本を買っておきたい所だが、聖都と違って地方の村には本屋自体が無い場合もある。その場合、明日もこんな退屈な移動をしなくてはいけなくなってしまう。それを思い、エリックは今からうんざりして来た。
 そんな時、おもむろに御者が話し掛けて来た。
「お役人さん、何だか退屈されているようですの」
「あ、いえ。まあ、自然の景色を眺めるのをいつまでも、という訳にはいきませんからね」
「確かに、この辺りは辺鄙な田舎ですけ、まあしょうがないでしょうな。じゃあ、代わりにっては何ですが。ちょっとした昔話みたいなのをしてさしあげましょうや」
「昔話?」
「ええ。この辺の山には、昔からやまのけが棲んでおりましてな」
「やまのけ? 初めて聞く名前ですね」
「何やらおっそろしい化けモンだそうですわ。子供の頃から悪さするたびに、やまのけに喰われるぞって言われたもんです」
 それはつまり、実際にそういう名前の生物が棲息しているのではなく、子供を躾るための方便なのだろう。
「ああ、どこにでもありますよね。親の言うことを聞かないと、鬼が出るだの悪魔が出るだの」
「そういう類でしょうなあ。しかし、子供心にやまのけの事を聞かされると、本当に怖くて震え上がったもんですわ。やはり子供を躾るには化け物の話と、昔から相場が決まっていたんでしょうの」
「ちなみに、やまのけというのはどういう化け物なんです?」
「姿を見たモンはおらんそうです。姿を見たら、みんな喰われてしまうんで。やまのけは山の中に棲んでて、迷い込んで来たモンを生きたまま喰っちまうそうですわ。人間が何よりの大好物だと」
「じゃあ、もしやまのけに遭遇したらどうすればいいんでしょうか」
「そらもう、一目散に走って逃げる事です。やまのけは足が遅いらしいけ、大人の足ならまず逃げ切れますわ。ただ、やまのけはちょっとたちの悪い所がありまして」
「どんな事です?」
「自分が足が遅いから、引き止めるために獲物が親しい人間の声を真似て話し掛けて来るんですよ。例えば母親の声で、待ってえとか」
「へえ、そんな声真似ができるって凄いですね。でも、どうして声が真似出来るんでしょう?」
「そらもう、化け物ですからのう。何でもアリなんでしょう。もっとも、所詮は化け物ですけ。名前だとか昔の思い出とか、そういうのを訊ねると答えられなくてすぐボロが出るんですわ」
「ああ、対策は意外と正攻法なんですね」
 単なる言い伝えに整合性も何もあったものではない。民族学的な理由はあるだろうが、少なくとも科学的な合理性とは縁遠いだろう。
 しかし、退屈しのぎには面白い話だった。もっと地方特有の話が他にないだろうか。
 そんな事を思った時だった。エリックが夕日を眺めているのと反対側、切り立った崖の方から、ごつごつと物を叩くような音が聞こえて来た。
「ん? 何の音だろう?」
 不思議に思いながらその方を向いた直後、凄まじい轟音と共に馬車の車体に大きな衝撃が走った。その衝撃は馬車を軽々と横転させ弾き飛ばす。
「ちょっ……えっ、まずい!?」
 エリックは焦った。夕日を眺めていた側は崖っぷちなのである。その方向へ押し出されたら、真っ逆様に転落するしかない。
 咄嗟に馬車から這い出そうとするものの、それよりも先に足元から全身を駆け巡る嫌な浮遊感を感じた。窓の外には、丁度崖下の景色が迫ってくるのが見える。もはや手遅れだ。その思いから、とにかくエリックは体を硬直させ車内の何かを掴んで耐える姿勢を取る。本当は、周囲の状況をしっかりと見て素早く判断をしなければならない。それが一番生存率を上げると分かってはいたが、恐怖心がエリックの目を閉じさせた。