BACK
その日の仕事はこれといって予定が無く、特務監査室は普段通りの長閑な雰囲気だった。珍しく室長は外出の用事が無く、自席で事務仕事を淡々とこなしている。エリックはその手伝いをし、マリオンが更にその手伝いをする。ウォレンは相変わらず自己啓発本を読みふけり、ルーシーは菓子を食べながら雑誌をめくっている。事件が無い時の特務監査室は概ねこういった状況であった。
しかし今日のエリックは、仕事中も今朝の出来事がずっと気にかかっていた。雷を降らす。靴磨きの少年のあの言葉がどうしてもただの強がりには思えなかったのだ。
午後になり、一頻り仕事が片付く。室長は休憩に入り、エリックとマリオンもそれに続く。エリックはお茶のお湯を沸かし、マリオンはお茶受けの準備をする。そしてさもない雑談をしながら、退庁の時刻を待った。
ふとエリックは、窓から外の景色を眺めた。天気は朝から引き続き雲一つ無い快晴で、目の前の道路には燦々と太陽の光が降り注いでいる。今が一日で最も気温が上がる時間帯だろう。帰る頃には気温も落ち着いて来るだろうが、まず雷の落ちるような天気の崩れ方はすると思えない。
やはりあれは真剣に考え過ぎなのかも知れない。そもそも自分は、そういった非科学的な事は信じないのが信条ではなかったのか。そう自虐的に思ったその時だった。
「ん? あれは……」
思わず口に出して呟いたエリック。その視線の先には、三人の少年の姿があった。そして彼らの姿が、今朝靴磨きの少年から売上を強奪していった者と同じ事に気付く。次の犯行のための標的を探しているのかも知れないが、今朝のした事をまるで気に病んでもいない姿をエリックは腹立たしく思った。
まだ庁舎の近くだから、走れば間に合うだろう。ウォレンとマリオンが居れば、少なくとも二人は抑えられる。早速この事を説明し協力して貰おう。そう考え、窓際を離れようとした時だった。
一瞬、目も眩む強い閃光が辺りを包む。それはエリックの視界だけでなく、執務室の中までも入り込み真っ白に染め上げるほどだった。それから一呼吸ほど遅れて、耳をつんざくよつな轟音が響き渡る。あまりに大きな音に窓ガラスが枠ごと震え、振動はエリックの顔にまで伝わって来た。それから我に返るまでに、皆はそれなりの時間を要する。
「おいおい、マジかよ。すげえ近くなかったか? 今の音」
「うー、耳がいたぁい」
顔をしかめながら話すウォレンとルーシー。ウォレンの言う通り、今の落雷の音はこれまで聞いたことも無いようなあまりに近くから聞こえた気がした。本当にすぐそばに落ちたのかも知れない。
「皆さん、一応身の回りを確認して下さいね。今の衝撃で何か破片が散ってないかなど」
室長がそう指示を出す。その表情は相変わらず落ち着いた冷静そのものの顔である。
「窓ガラスは割れてませんね。執務室内も特に問題無さそうです」
てきぱきと執務室内を確認していくマリオン。やはり警察の出身であるからか、非常事態の行動も早い。
しかし、こんな晴天に何の前触れもなく突然と雷など落ちるものだろうか。
その疑問について、エリックは直前に考えていた事を思い出し、窓の外を見下ろす。するとそこには小さな人集りが出来ていた。人集りの場所、その辺りに直前まで居たのは―――。
「まさか!」
そんな声を上げ、エリックは執務室を飛び出す。その理由を察したマリオンもすかさずその後に続き、少し間を置いてウォレンが小首を傾げながら追う。
今の落雷のせいで、庁舎のあちこちで職員が右往左往する騒ぎが起こっている。騒然とする彼らを縫いながら庁舎を出たエリックは、真っ直ぐ自分が窓の外から見ていた所へ駆ける。
「うわあ……こりゃひでえな、おい」
騒ぎの場所へ辿り着いたエリックがまず耳にしたのは、眉をひそめながら話す一人の男の言葉だった。
「おいおい、黒こげじゃあないか。こりゃ、どこの誰だ?」
「さあ。ここらで盗みなんかやってるガキ共じゃねえの? さっきここら辺歩いてたろ」
「つっても、どうせ身元なんか分かったってしょうがねえだろ。引き取り手もいないんだろうし」
彼らが見下ろすのは、丁度三つ、未だ小さな煙を上げている黒く大きな焦げの塊はかろうじて人間の輪郭を保っている。
エリックは、靴磨きの少年が言い放った最後の言葉を思い出す。今日の夕方に雷を降らす。そしてこの状況はまさにその通りであるが、まさかこの落雷を一体誰が予測出来るというのか。
「エリック先輩!」
エリックにやや遅れたマリオンが到着する。そしてエリックと同様に囲まれている三体の焼死体を目にするや否や、驚きで口元を押さえる。仕事柄、人間の死体を見ることは初めてでは無いだろう。マリオンの反応は、まさか本当に人間が雷で撃たれて死ぬことがあるとは思いも寄らなかった、そういう驚愕である。
「先輩……これ、やっぱりあの子の仕業なんでしょうか? だとしたら、これがあの子にとっての復讐になるのでしょうか?」
「分からない……。普通は雷が人間に落ちるなんてよほどの事だよ」
「ですよね……。悪い人間に雷を落とすなんて、空想の神様みたいなこと……」
人間が意図的に特定の人間を狙って雷を落とすなど、絶対に不可能な事である。けれど、状況証拠だけはそうとしか思えない事になっている。ならば、本当にこれの犯人は神様とでも言うのだろうか。
自分達の理解を超えている。エリックとマリオンは二人並んだまま、その場に立ち尽くしていた。
「おう、お前達。ぼさっとしてないで執務室に戻れ。俺らがあんま目立つことしてると、仕事に差し支えるぞ」
いつの間にか合流していたウォレンが、立ち尽くす二人にそう声をかける。エリックとマリオンは無言で頷くと、ウォレンに連れられて行くように庁舎へと戻っていく。
途中、人混みの中にあの靴磨きの少年がいないか探してみたが、結局見つける事は出来なかった。そしてこの日以来、あの場所に靴磨きの少年は二度と現れる事はなかったのだった。