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 ムーン・ダイヤは仮釈放とは非常に縁遠い。そこに収監されるのは第一級殺人を始めとする重犯罪者、それだけでなく彼らは自分が生涯出所出来るはずが無いと諦めてしまっている。仮釈放というシステムに対し、誰もが達成は不可能だと考えているのだ。余計な懲罰を受けない程度の従順さと、ストレスを溜め過ぎない程度の反抗、それらを適度に繰り返すばかりである。そんな彼らにとって仮釈放を受けた囚人の存在は、最初は非常に小さく静かな反応だった。自分達のような刑期と余生の区別がつかない囚人の中に、そんな辛抱強い人間が居るはずがない。辛抱強い人間ならば、初めからこんな所へ収監される人生など送るはずがない、そう疑ったからだ。その考え方により安心感を得、暗黙の内に仲間意識を持つ。それがムーン・ダイヤの秩序の一つとさえなっている。
 囚人番号M20715に仮釈放が降りたという噂は、私語がほとんど存在しないにもかかわらず瞬く間に広がり、多くの囚人達を動揺させた。ある者は囚人番号M20715の警戒心に満ちた表情に疑惑から確信へ変わり、またある者は囚人番号M20715の平静そのものの表情に苛立ちを覚える。抱いた感情は様々だが、囚人達の根底にあるのは囚人番号M20715に対する嫉妬心だった。自分だけ仮釈放を手に入れて。自分ばかり周りを出し抜いて。そういった薄暗い思いが静かに渦巻き始める。
 それは、ある昼食の時間に起こった。午前の刑務作業を終えた囚人番号M20715は、いつものように更正システムの指示に従って昼食が提供されるホールへと移動していた。昼食時の移動は様々なエリアの人間が入り乱れ、特に囚人番号L00012と遭遇する確率が高い。そのため囚人番号M20715は、行き交う囚人達の人相を一人でも多く確認しようと、あちこちへ視線を走らせていた。更正システムは指示にさえ従っていれば、歩くスピードの遅さや視線の方向などは意外と注意がされない。それを利用し、なるべくゆっくりと歩きながら確認を行っていた。
 その時だった。不意に囚人番号M20715は背中に強い衝撃を感じ、思わず前のめりにバランスを崩す。咄嗟に足が前に出て何とか転倒せずに済んだが、すぐさま更正システムは異常を検知し囚人番号M20715へ説明を求めてきた。
「何でもありません。後ろから誰かにぶつかられて、転びそうになっただけです」
 そう更正システムへ説明する囚人番号M20715。更正システムはそれで納得するものの、囚人番号M20715はこの出来事に違和感を覚えていた。これまでムーン・ダイヤで人とぶつかった事はあったが、いずれも揉め事を避ける意味でもお互いすぐに謝罪し、それを更正システムに確認させていた。そうする事で懲罰房行きの可能性が非常に下がり、更正システムからの評価にも繋がるためだ。けれど今囚人番号M20715にぶつかった何者かは、謝罪どころかその場からすぐに立ち去ったようだった。腹の立つ振る舞いだが、それ以上にこんな事は初めてだという困惑の方が強かった。ぶつかって後から更正システムに発覚でもすれば、懲罰房へ入れられる危険性すらあるのだが。
 二十年以上も居れば、一度くらいこんな事もあるだろう。そう気持ちを切り替え、囚人番号M20715は昼食のホールへと入る。そしていつものようにプレートを受け取り、席について黙々と食事を始める。食事の時間が終わり、午後の刑務作業のため囚人達がプレートを持って次々と席を立つ。それに続こうとした囚人番号M20715だったが、それより一足先に隣の囚人が席を立った。ぶつからないようにと一旦待つ囚人番号M20715だったが、隣の囚人は振り向き様に故意か偶然か持っていたプレートの端を囚人番号M20715の頭にぶつけた。
「痛ッ!?」
 突然の痛みに思わず声を漏らす囚人番号M20715。そして声に反応した更正システムがすかさず報告を求めて来る。
「誰かのプレートがぶつかっただけです。特に怪我はありません。大丈夫です」
 囚人番号M20715がそう報告している間に、隣の席に座っていた囚人は居なくなってしまっていた。また同じだ。そう囚人番号M20715は困惑する。一日の間に、こんな事が重なるなんて有り得るのだろうか。しかし、確かめようにも相手の顔も分からないのでは訊ねようが無い。後は更正システムがこの出来事に故意を感じ、監視記録の確認をしてくれる事を期待するしか無い。
 釈然としないまま、囚人番号M20715は刑務作業の場所へ向かう。しかしその途中、囚人番号M20715はまたしても横からぶつかられ、当人には逃げられてまう事態に遭遇する。
 偶然も三度目では、もはや故意であるとしか考えられない。そして奇妙なのは、三回とも恐らく犯人が別人だという事だ。つまり何らかの恨み辛みなどが理由ではない。囚人番号M20715は、これまで模範囚として振る舞ってきていたため、自分が他人から恨みを買うという発想が出来なかった。ましてや、自分が仮釈放の件で大勢の囚人達から注目されているなど夢にも思わない。これは、集団での虐めに似た構造である。けれど、長らくそんなものの存在から離れた生活をしていたためか、すぐさまその発想には辿り着く事が出来なかった。