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 囚人番号M20715は、ひたすら月面の砂をすくう作業に没頭し続けている。彼ら囚人達が月面の砂を集めさせられているのは、太陽風に乗せられ豊富に含まれるヘリウム3を採取するためである。ヘリウム3は旧世代に使われていた放射性物質よりも遥かに安全で効率的な発電が可能だが、地球上での採取が不可能である。それを豊富に含む月面に精製プラントを建設し、原材料の収集を囚人達に人力で行わせている。これがムーン・ダイヤを運営する企業の業態だった。
 昼夜の変化が無く時計も備えられていないムーン・ダイヤにとって、時間の経過というものほど感覚の薄いものは無い。特に囚人番号M20715は真面目に仕事に従事するため、一日の経過が早いとすら思っていた。他の囚人達は時間の感覚こそ薄いが基本的に全てが苦痛な時間であり、次の休憩を待ち遠しく思う有り様である。囚人番号M20715の仮釈放の事を他の囚人達には知らされていないが、こういった日常での温度差を彼らは敏感に感じ取る。既に彼が仮釈放の認可待ちである事を疑う囚人は僅かに存在していた。
「所内の皆さん、休憩の時刻になりました。作業を終了し、速やかに第四広間へ集まって下さい」
 突然ヘルメット内に鳴り始めた穏やかなテンポの音楽と朗らかな女性のアナウンス、それは昼の休憩時間を知らせるものだった。彼は作業を止め、エアロックから所内へ戻る。器具を起き通常の囚人服へ着替え廊下へと出た。廊下の床には、第四広間への道順を示すマーカーが示されている。ムーン・ダイヤには囚人達を集合させ食事などを行う広間が五つ存在する。はのいずれに集合させるかは管理システムのみが把握しており、囚人には直前まで一切知らせる事がない。セキュリティ的な意味合いもあるが、実際はこういった決定に従わせる事で受刑者を従順にさせる目的がほとんどである。
 マーカーに従って廊下を歩いていると、別の場所で作業をしていた囚人達も道すがら徐々に集まり始める。それでも私語を交わす者は一人もいなかった。移動中の私語もまた禁止されている行動だからである。
 第四広間へ着くと、またいつもの受け口から昼食のトレイを受け取り、各人指定された席へと着く。昼食時は開始の合図が無く、各々の都合で食べる自由が許可されていた。しかしほとんどの囚人は刑務作業で空腹であるため、着くなりすぐさま食べ始めている。囚人番号M20715もまた着席と同時に食事を始めた。彼の場合、空腹感もそうだが午後からの作業に差し支えないようにするための食事という意味合いが強かった。
「食事の終了時間です。速やかに食事を止めて下さい」
 やがていつもの声で食事の終了が告げられる。ここからトレイを戻し再び作業場所へと戻るのが通常なのだが、その日のアナウンスは異なっていた。
「これより皆さんへの連絡があります。着席したまま、正面を向いて下さい」
 そして正面側の壁に映像が流れ始める。管理システムからの周知事項は全てこういった動画形式で伝えられる。けれど、囚人達への連絡そのものは非常に稀で内容の種類も限られたものだった。そのためか、一体どのような連絡なのか、特に収監されて長い者はすぐさま予想ができた。
「明日、新たにこのムーン・ダイヤに収監される者がいます。皆さん、これまで通り規律を守り規則正しい生活を送りましょう」
 自動生成にしてはいささか不自然な文面だが、内容を理解するのには差し支えがない。要するに新たな囚人が来るという事であり、一人見慣れない顔が増えるだけの事であると皆は認識する。私語の自由がほとんど無いムーン・ダイヤの生活において、昔ながらの新人歓迎などは発生し得ない。廊下などで顔を合わせたら、こいつがそうか、と思う程度の事である。そしてそれは、囚人番号M20715にとっても同じ事だった。
 画面が変わり、新たに収監される人物の映像が始まる。それは四十代に差し掛かろうかという男で、中肉中背にブロンズの短髪とあまり目立った特徴の無い男だった。その外見からほとんどの者が、男の罪状は詐欺か収賄といったものだろうと予想する。特に殺人罪で収監された囚人がほとんどであるため、殺人を犯す同族には非常に敏感なのだ。ムーン・ダイヤにも時折こういった第一級殺人以外の囚人が来る。けれど金銭絡みの犯罪ならよほどの金額だったのだろう、そんな事を思う。
 画面が更に変わり、今度は男の略歴などが映し出される。ムーン・ダイヤに収監される際、事前に囚人達には本名以外のほとんどの情報が伝えられる。そこには職歴や出身校、そして当然のように罪状や刑期まで含められる。自己紹介の割愛と言えば聞こえが良いが、実際は隠し事をさせないという精神的な圧力をかける管理システムの方針であった。
 囚人番号M20715は、初めは新たな囚人になど興味は無かった。もうここに長く居る事は無く、別段囚人同士での交流が許されている場所でもない。今更新入りの事を知ってどうする、という思いからだ。しかし、彼は画面に映し出されている新入りの情報について、思わず眉間に皺を寄せて小首を傾げる。そしてそれは、他の囚人達も同じだった。中にはどうしても好奇心や疑問をこらえ切れない者もおり、極力ひそめた小声で何事かとざわつき始める。
 囚人番号L00012。それが彼に与えられた呼び名である。出身校、職歴、いずれも極普通の目立たない内容ばかりだったが、異様なのはそこからだった。彼について、一体どのような犯罪を犯したのか、罪状も刑期もその一切が空欄になっていたからである。囚人番号M20715は十年以上ここで生活し、これまで何人も新人は見てきた。しかし彼もこんな事は初めてだった。