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独房の壁に浮かぶデジタル時計が午前七時を示す。その直後、天井の照明が最大光度で灯り房内を照らし始める。同時にノイズの混じった国歌がけたたましく鳴り始めた。国歌はこの施設内の至る所で流されているため、独房唯一のドアの外からも振動と共に伝わってくる。男はベッドの上で僅かにむずがると、一度全身を大きく伸ばしゆっくりと起き上がった。そこから一転して素早く立ち上がると、壁に備え付けられた棚から作業着を取り出して着替える。棚は奥の壁が開き、男がこれまで着ていた服を飲み込んでいった。棚はシューターと直結しており、日々の着替えはここから支給され、同時に回収も行っているのだ。
着替え終えた男は、扉の脇にある小さな窪みへ両手を差し出すように入れた。
「囚人番号M20715」
男が窪みに向かってそう話すと、中では一瞬センサーの光が走り、男の手のひらから静脈を読み取る。そして正常に認証された事を示す緑の光が一度点滅する。声紋と静脈の照合、この施設においてこれが点呼の役割である。
扉のロックが解除され、男は房の外へ出る。しかしすぐに歩き出す事はせず、目の前の壁に背を向けて立った。廊下には男と同じような姿勢で待つ他の囚人達の姿があった。程なくして、廊下の奥から楕円形のドローンがやってくる。ドローンは廊下に沿ってゆっくりと飛び、その後を囚人達は付いていった。このドローンが行き先を誘導しているのだが、そのゆっくりとした飛行にもかかわらず、囚人達は一人として追い抜こうとはしなかった。それは、廊下での勝手な行動はこの施設において重大なルール違反の一つであると認識しているからだ。
ドローンに誘導された囚人達は広間へやってくる。そこは窓や調度品のようなものが一切無い、壁にはめ込まれたディスプレイの他はテーブルとイスだけの殺風景な部屋だった。ディスプレイには現在の月面の温度と施設内の規則が映るばかりで、関心を向ける者は一人としていない。囚人達は出入り口横の小さなカウンターから自動的に提供される朝食のプレートを順に受け取り席へ着いていく。その間も誰一人として会話をする者はいなかった。それは、私語を許可されている時間帯ではないためだ。
全員が席へ着くと、少し間を空けて柔らかな音階のブザーが鳴る。同時に彼らは一斉に食事を始めた。これが朝食開始の合図だった。囚人達は黙々とひたすらに食事を口へと運ぶ。プレートには800キロカロリー丁度に計算された合成食が盛られている。スクランブルエッグや耳付きのサンドイッチ、ソテーした野菜と、見た目こそごく一般的なメニューではあるが、一つとして天然の素材を使用した本物の料理はない。栄養価やカロリーをコントロールするため、いずれもタンパク質から合成された人工的な食事なのである。その外見や風味は完全に本物のそれと同じであり、囚人達には通常の食事と同じ満足感を与える役割を果たす。しかし、総カロリーや塩分を制限しているためか、囚人達は基本的にシステムに対して従順であり、その目も反抗の色を浮かべている者は一人としていなかった。
やがて開始と同じブザーが鳴り、朝食の時間の終了が告げられる。囚人達は一斉に立ち上がると、また順番にプレートを受け取ったカウンターへ下げていく。そして今度は起床とはまた別の音楽が流れ始めた。
「これより刑務作業時間です。囚人は各々の持ち場へ速やかに移動し作業の準備を始めて下さい」
淡々と流れる若い女性の声のアナウンス。広間を出た囚人達は、互いに言葉を交わす事もなく各々の持ち場へと移動する。移動には誘導用のドローンは無かったが、それでも彼らは素直に従っていた。それは収監時に首に埋められるチップに現在地を監視されている事と、万が一逆らった場合チップの発する微弱な信号によりまともに立てない程の強烈な吐き気を味わわされるからだ。
囚人番号M20715は、幾つかの廊下を抜けて小さな部屋へと入る。部屋には局地作業用の宇宙服と、スコップなどの工事に使うような器具が並んでいた。そして更にもう一つ、入ってくるのとは別の扉が備えられている。その扉の向こうは真空に保たれた調整室、その更に向こう側は月面空間へ繋がっている。この部屋は作業用器具の保管所とエアロックを兼ねたものだ。
囚人番号M20715は慣れた手付きで宇宙服に着替え、身の丈程もある大きなスコップを携える。エアロックの認証は扉横の網膜センサーで行われた。囚人番号M20715は調整室を抜け、そして月面へと移動する。まず彼が行うのは、出入り口傍にある酸素供給用のホースを背面に接続する事だった。これには月面作業に必要な酸素の供給の他、単純にホースの長さより先に移動出来ないような意味合いも含んでいる。
彼の作業は、月面の砂を近くの収集箱へすくって入れるだけの単純なものだった。この施設に収容されている囚人の大半がこの作業に従事している。ムーン・ダイヤと名付けられたこの監獄には、第一級殺人を認定された囚人だけが収監されている。彼らは終身刑か死刑が確定している者ばかりで短期間の収監など無く、この極めて単純な作業を数十年に渡って繰り返している者がほとんどだった。 刑務作業が土木工事というのは珍しくはないが、月面のような極地では重機などを用いて効率良く行うのが通例である。しかしこのムーン・ダイヤを始めとする月面の収容所は、いずれも人力による採掘作業が中心である。人力に頼るのは単純にコストの問題である。重機を月面まで打ち上げ運用保守作業を行うより、囚人が事故死した際への遺族補償の方が遥かに安く済む。刑務作業とコストカットを同時に行うのは民営ならではの思想である。
その思想が囚人の生命を軽視している事は、収監されている者なら誰でもその自覚があった。かと言って政府の認可された業態を変えられるはずもなく、一生外の世界へ戻ることが出来ず諦めの念すらあるため、最低限の作業しか行わない者が大勢いる。そんな中でこの囚人番号M20715は、刑務作業に日々積極的に従事している。それは、彼は長年仮釈放の認可を切望し続けていたが、最大の難点であった被害者遺族からの許可が遂に降り、仮釈放認可の目処が立ったからだ。それでこの好機をつまらぬ事で無くしてしまわぬよう、彼は必死なのである。