BACK

「本当に、本気で言っているのか?」
 その日の早朝。出立を控えた冒険者達が忙しなく行き交う食堂の片隅で、ヘンリックとジョンはテーブルを挟み相対して座っていた。この時間にジョンが食堂へ現れるのは珍しかったが、ヘンリックが幾分語気を強めジョンに詰め寄っているのは更に珍しい光景だった。
「ああ、そうだ。もうこれきりだ。昨日も言ったはずだ。俺は、俺の食欲を満たす事なんかにお前を付き合わせたくない」
 ジョンはアリスの魂の影響により、魔女の肉に対して異様な食欲を覚える。一切の食事も睡眠も必要無くなったジョンの、唯一の生理的な欲求と言ってもいいだろう。ジョンはずっと、魔女達への復讐心をたぎらせる一方で、この異様な欲望に飲み込まれぬよう自制心を強く持ち続けてきていたが、ここ数日の急激な魔女の影響により、もはやそれも不可能となっている。
「お前との旅は本当に楽しかった。エルシャが死んで、村にも居られなくなり、俺にはもう一生楽しい事など無いと思っていたのに。お前と旅が出来て、俺はほんの少しだがまだ人間らしかった頃を思い出せたような気さえする。だからこそ、こんな事にお前をこれ以上巻き込めない。お前はもう、魔女と関わらなくていいんだ」
「だからと言って、はいそうですかと素直に聞き入れられるか」
「魔女に関われば、誰彼も少なからず人から外れる。俺は復讐のためだったら、そんな事は微塵も気にしなかった。けれど、お前は違う」
「いいや、俺だって同じだ。俺は、魔女が憎い。だから復讐する。ジョンと同じだ」
「今の俺の目的は、食欲を満たす事だけだ。お前とは違う」
 ジョンははっきりと自らの目的を復讐ではなく食欲の充足だと明言する。それは事実とは多少異なるとヘンリックは思った。ジョンがヘンリックを突き放すための方便でしか無い。しかし、ヘンリックにはジョンに対して反論する言葉がわいて来なかった。それは、食い下がれば食い下がるほどジョンに苦しい言葉を言わさせる事になると思ったからだ。
「本当に……これで終わりにするのか?」
「ああ。お前もこれからは自分のために生きろ。俺の事も、エルシャの事も、魔女への固執も、全て綺麗に忘れるんだ。自分から不幸になる必要はない」
 ジョンの決意は固い。それはジョンの口調からでも明らかだった。もはや、どう言い繕うとも一緒に居る事は出来ない。それを考えただけで、ヘンリックは自分の足元が急に抜けるような苦い思いに駆られる。
「それで、ジョンはこれからどうするんだ? やっぱり、魔女を殺し続けるのか?」
「ああ。俺はもう、ハンナまで喰い殺してしまったのだから、魔女を喰わなければ生きていけないだろう」
「それで、世界中の魔女を全て殺し尽くしたら、その時はどうするんだ?」
「分からない。復讐の事をもう考えなくていいのか、それとも二度と魔女が喰えないと嘆くのか。安堵か絶望か、どちらにせよただ自分が死ぬのを待つだけになるだろうさ」
 ジョンはエルシャを殺した魔女達をずっと恨み怒り狂っているのだと、ヘンリックはそう思い続けていた。けれど、少なくとも今のジョンからはそういった怨念は感じられない。むしろ、激情らしいものが何も感じ取れず空虚にさえ思う。ジョンは強い食欲の前に、魔女達へ対する恨みは忘れてしまったのだろうか。
「じゃあ、あまりだらだらと続けるべきじゃない。もうここで別れよう。俺はもう行く」
 そしてジョンは席を立つと、そのまま真っ直ぐに玄関の方へと向かっていった。ヘンリックは慌てて席を立ち、そのジョンの後を追う。しかし、ジョンの事を呼び止める事は出来なかった。すぐ目の前を歩くジョンに、声を掛ければまだそれは届くはず。そうと分かっていながらも出来ないのは、ひとえにジョンの決別の意思の強さに、ヘンリックが圧倒されてしまったせいだ。
 ジョンは玄関を出て、目の前の街道へと入る。そのまま道なりに歩いていくその背中は、いつの間にか見えなくなってしまった。ジョンは振り向きも立ち止まりもしなかった。ジョンは、二度とヘンリックに関わるつもりがないのだろう。二人での旅が楽しかったと話していた事に偽りは無いと信じたいが、それでもジョンは自らの都合にヘンリックを巻き込まないのだ。
「ねえ、これで良かったのかい?」
 玄関でジョンを見送るヘンリック、その背後からいつの間にか現れていた宿の主人ロレンスに訊ねられる。
「ジョンが決めた事だ。俺は、ただ聞き入れるしかない。俺はジョンの困るような事をしたくはないから」
 そう、とロレンスは寂しそうに一言答え、ヘンリックの肩をぽんと一つ叩く。そして中へ戻るロレンスに少し遅れて、ヘンリックも宿の中へ戻っていった。
 生物には天敵がいる。それが自然界の数のバランスを正常に保つのだ。そして、人間にとっての魔女はまさにその天敵と言えるだろう。
 今のジョンは、魔女にとって唯一無二の天敵だ。その発端はジョンの復讐心であり、アリスの愛情である。横暴をきわめる無敵の魔女、それに対する天罰として神がジョンをそう定めたのだ。ジョンの身に起こった理不尽を、そう解釈が出来る。
 ヘンリックは、納得がいかなかった。ジョンが魔女の天敵となった事も全て神の思し召しだとしたら、あまりに理不尽で悲劇的である。一切の咎のないジョンの受難、そしてそれは宗教書にあるように幸福には決して繋がらない。ただの使い捨ての道具とすら思える、不幸過ぎる身の上だ。これほど何もかもを失ったジョンに一切の救いが無いなんて、神という存在はーーー。
 そしてヘンリックは、それ以上考える事を止めた。誰をどう責め罵ろうと、人では無くなり復讐の意味まで見失ったジョンが元に戻る事はないのだから。
 願わくば、せめてこれから先、あの優しいジョンが別の何者かに変わってしまわないよう。ヘンリックは密かにそう祈るのだった。