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 ハンナも現れないまま、日暮れを迎えてしまう。一旦野営場所に戻る事も考えたが、おそらくジョンは自分は残りヘンリックだけを遠ざける口実に使うだろう。それでヘンリックは、危険を承知でこの無尽街へ留まる事を決意する。
 ジョンはヘンリックと共に、通り沿いにある廃屋の一つの中へ留まった。ジョンはヘンリックを遠ざけようとはするものの、ここに居る内は同行をしてくれるようだった。それが頼もしく思える一方で、まるで自分がジョンに守られているだけの足手まといのように思え、ヘンリックはいささか胸が痛んだ。
 魔女に昼夜は無く、人間のように睡眠を取り休む事は無い。そのため、幾ら夜でも警戒を怠る事は出来なかった。しかもここはハンナの縄張りの中である。いつハンナに襲われようともおかしくはないのだ。
 廃屋の片隅で、ヘンリックは腰を下ろしたままじっとしていた。体にはそれなりに疲労感はあり、まとまった休憩を必要としている。けれど、流石に魔女の縄張りの中で睡眠を取るような度胸はなかった。せいぜい、じっと静かに座して回復を待つくらいだ。
 そんなヘンリックにジョンは、おもむろに話かけてきた。
「俺もここにいる。だから、少し眠れ」
 ジョンはヘンリックから少し離れた所に腰を下ろす。手にはしっかりとアリスが握られている。アリスにはハンナの気配を察知する力がある。
「……いいのか?」
「気にしなくていい。お前は人の範疇なんだ。無理に何もかもを俺に合わせる必要はない」
 ジョンの気遣いに感謝しつつ、ヘンリックは警戒心を緩め意識を遠くへと向ける。ジョンの存在感が頼もしく思えるせいか、あんなに魔女の縄張りで眠る事を恐れていたにもかかわらず、気がつくと眠りに落ち始めていた。
 またジョンの足を引っ張ってしまった。ヘンリックは夢うつつの中でそんな後悔の念を抱いた。実際のところ、ジョンだけの方が魔女を相手にするのは楽だろう。しかし、それでもヘンリックはジョンから離れるつもりは無かった。ヘンリック自身が魔女を憎んでいること、そしてジョンが人間性を失ってしまわないよう側で支えたいという思いからだ。ジョンはその思いを重荷に感じている。ジョン自身が自分の行動原理について、復讐と食欲の狭間で激しく揺れているからだ。復讐なら同行も許せる、しかしただの食欲になら付き合わせる訳にはいかない。これが、ジョンのヘンリックに対する最大限の気遣いなのだ。
 夢と現実の間を行ったり来たりしながら、ヘンリックは時間の感覚を忘れてしまうほどの仮眠を取った。しかし、その居心地の良い時間は突然と終わりを告げる。
「……なんだ!?」
 ヘンリックは言い知れぬ異様な気配に気付き、すぐさま飛び起きる。そこには、明らかにこれまでとは違う空気が漂っていた。どこからか流れ込んで来たと言うよりも、辺りの空気がそういう色に染められて行ったというのが正しいだろう。得体の知れない何かが、空気にまで干渉している。
「来たぞ……!」
 既に立ち上がり構えているジョンは、いつになく気迫に満ちた声で警告する。やや遅れて、ジョンの手の中でアリスが細かく震え始めた。ジョンの声を待つまでもなく、ヘンリックは既に剣を抜き放ち構えている。アリスがハンナの接近に感づくのが遅かったのか、そんな事を考えながらジョンの方を向く。ジョンはゆっくりと黒い剣を抜き放ち、周囲の気配に念入りに警戒する。アリスは抜き放たれても未だ細かく振動していた。ヘンリックはそれを、ハンナの接近に警戒しているのではなく、何かしら緊張感や恐れの表れに見えてきた。アリスは魔女、人間らしい感情とは無縁だと初めは思っていた。しかし本当は違うのだ。アリスも因縁のある相手や強い相手には、人間と似たような感情を抱く。
「ジョン、ここにこもるのはかえって危険だ。一旦外へ出よう」
「ああ、そうだな」
 そう言うや否や、ジョンは黒い剣を振りかぶり、目の前の壁に向かって振り下ろした。剣から溢れ出た大小無数の閃光が壁を突き抜け、幾つもの破裂音を奏でる。そして壁はあっという間に砂となって崩れ落ちた。剣術と呼ぶより、魔女のそれに近い技である。
 壁の穴から外の広場まで一気に飛び出す。するとそこには、無数の異様な気配で溢れかえっていた。まだ夜の遅い時間であるため周囲が良く見えなかったが、気配の主はすぐに察する事が出来た。魔女ハンナの眷族のようなもの、アリスの出来損ない、おぞましい肉の塊共だ。
「ハンナはどこに居る!? くそっ、これじゃ見えない!」
「慌てるな。ハンナはここには居ないが、向かって来てはいる。先にこいつらを片付けるぞ」
 この肉塊共は、何かハンナに献上出来るものを求めて、働き蜂のようにあちこちをさまよっているのだろう。それにたまたま見つかり、こうして群がってきたのだ。
 肉塊には、魔女のような力は無い。しかし、その尋常ではない数と、幾ら斬っても元通りに戻ってしまう再生力が厄介だ。ヘンリックも以前はそれで押し切られてしまったのだ。
「片付けるって……くそっ!」
 夜半で視界もまともに利かない状態で、一体どうやってこの数を相手にすればいいのか。
 だが、ジョンの足を引っ張る訳にはいかないという思いが強く、ヘンリックは半ば自棄気味で剣を気配のする方へ向けた。どの道相手も、直接触れられる距離まで来なければ攻撃は出来ない。後ろさえ取られなければ、何とかあしらえるはずだ。
 そうヘンリックが覚悟を決めた時だった。突然ジョンの剣が光を発すると、そこに魔女の姿のアリスが現れた。それはジョンの意思ではなく、アリスの姿をいささか驚いた表情で見ていた。
「大丈夫、私に任せて」
 アリスはおもむろにヘンリックの傍まで歩み寄る。すると、どこからか小さな瓶を取り出し、目の前で蓋を空けて見せる。すると、突然ヘンリックの両目に強い刺激が走り、思わず顔を背けた。
「なんだ!? 何をした!?」
 だが、すぐに両目の刺激は収まりヘンリックの視力は元に戻る。そしてヘンリックは驚いた。周囲は明らかに光ひとつない暗闇であるにもかかわらず、何故か昼間のように物が良く見えていたのだ。
「これは……お前の薬のせいなのか?」
 アリスはヘンリックの剣先を手に持っていた。片手には先程とはまた別の薬瓶があり、アリスはその中身を刀身へ滴らす。
「この薬は、健康ではない肉を腐り落ちさせる効果があります。あれには有効でしょう」
「あ、ああ……」
 アリスが、自分がちゃんと戦えるように気を使ってくれた。ヘンリックはそれを理解するのに随分時間を要した。魔女が人を気遣うなんて。そんな驚きが少なからずあった。やはりアリスは普通の魔女とは違う。それは紛れも無い事実である。
「あなたは、ジョンにとって大事な人。だから死なないで下さい」