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「お、お願い……もう、止めて……」
 ジョンは激しく肩で息を切らせながら、足元を這いずるそれを見下ろしていた。息をすればするほど、周囲に立ち込める血の臭気が体の中へ入り込んで来る。それは噎せ返るような生臭さをかもすはずが、ジョンは異様な興奮と高揚感を覚えていた。体は熱く熱を帯び、次から次へと活力が湧き起こる。
 エルシャを弄び、自分を散々痛め付けた魔女ルツ。それが今、自分の足元で弱々しくもがき命乞いをしている。これで、これまでの行いに対する溜飲が下がる。そう思っていたジョンだったが、それ以上の恍惚感に満たされていた。これが復讐の達成感だと自分で言い聞かせるものの、明らかに自分の中に芽生えている別な衝動を否定しきれなかった。それでも認められないジョンは、復讐心以外を否定するために、手にした黒い剣を振り上げる。
「も、もうやらない! お前さんに手は出さないから! だから止めて! これ以上は死んでしまう!」
「これ以上は……?」
 死んでしまう。
 その命乞いの言葉は、ジョンにとってあまりに身勝手な言葉に聞こえた。そして異様な高揚感に満ちていたジョンの心境は、たちまち燃え上がるような怒りへと変わる。
「ふざけるな! 何を虫の良い事を! 自分は、お前は同じことを言われて何をしたのか、もう忘れたのか!?」
「お、お願い……もう本当に、死んでしまう……」
「うるさい! 俺は、お前を殺しに来たんだ!」
 ジョンの叫びに呼応し、黒い剣が質量を爆発的に膨れ上がらせる。膨らんだ刀身は二つに割れ、まるで獣の顎のような姿へ変貌していく。
「あ……うあ……」
 白く輝く無数の牙、それを目の当たりにしたルツは絶望に満ちた表情で唇を震わせる。
「消えてしまえ!」
 黒い顎が大きく開き、そしてルツへと襲い掛かる。そして、ジョンの目の前からあっけないほどあっさりルツは消滅してしまった。
 遂に果たした。エルシャの仇を取った。人間がかなうはずの無かった魔女を殺した。
 ジョンは、自分が不可能だと言われていた事を成し遂げたという実感はあった。けれど、先程までの激情や高揚感が嘘のように消え、不思議と心境は空虚で何の感慨も覚えなかった。エルシャの仇を取ったのに何も感じないのは、重要なのはこれからの人生においてエルシャが居るかどうかだから、ルツを殺すことには何の意味も無いのだと考えた。しかし、実際の心境の変化は違った。空っぽだった胸中にはすぐさま別の衝動が込み上げてきて、ジョンの行動をその心理へ向けさせる。
「ジョン」
 いつの間にか黒い剣は、元の薬売りの姿へと戻っていた。薬売りは無言で立ち尽くしたままのジョンの顔をじっと覗き込む。
「ジョン、魔女ルツは死にました。これで満足しましたか?」
 満足。
 その言葉に対して真っ先に浮かんだのは、否定の意思だった。そう、自分は満足をしていないのだ。必要なのは達成感ではなく、満足すること。それがジョンに仇討ちの完遂を実感させない理由である。
「いや……まだだ。まだ世の中には魔女がいる。俺は、あいつらが今も我が物顔で振舞っていると思うと、とてもじっとしていることが出来ない」
「そうですか」
 薬売りは感情に乏しい声色で答える。そんな彼女の方をジョンが向き、そして両肩をしっかりと掴んだ。
「頼む、俺にもっと力を貸してくれ。俺は、魔女が居ることが許せないんだ」
「分かりました。ですが」
 そう答えると薬売りは、おもむろにジョンの方へ踏み出し、そのまま抱きついた。その唐突な彼女の購読に、ジョンは戸惑いの表情を見せる。
「私があなたの力になる代わりに、私のお願いを三つ聞いて下さい」
「三つ? どんな?」
「嘘でも構いません。私を愛して下さい。そしてその証拠に、毎晩百回、愛していると言って下さい」
「……それから?」
「私には名前がありません。私に名前を下さい」
 ジョンはお願いがどうこうという内容よりも、魔女と約束をする事に一旦躊躇いを覚えた。けれど、自らの内側から湧き起こる衝動は抑え切れなかった。そしてそれを満たすための手段は、この魔女の約束を飲むしかない。ジョンに選択肢は他に無かった。少なくともこの時のジョンは、そう思っていた。
「分かった。全部守る」
 口に出すと、驚くほど忌避感は薄れていった。目的のためならこの程度何という事はない。魔女の力も目的のため必要なら使えばいい。そもそも自分にはもはや守るべきものも残っていない。だったら、抑え切れない激情を晴らすために生きるのも一つの道である。そういった思考へと切り替わっていった。
「ならお前の名前は、アリスだ」
「はい。嬉しい」
 薬売りは、表情こそ普段の乏しいままだったが、喜びをひしひしと感じさせる声で礼を述べ、そして再びジョンにそっと抱き付いた。そんな彼女の頭を、ジョンは間近で見下ろしていた。ジョンは約束について何も問わず、何も感想を口にしない。しかしその表情は、かつての善良でお人好しだったジョンのものではなかった。