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口火を切ったのは、本当に突然の事だった。首から上が巨大な顎という異形に変わったハンナは、構えるジョンに対して激しい勢いで飛びかかった。
「アリス!」
何時になく余裕のない口調で叫ぶジョン。同時に、ジョンの持つ黒い剣も巨大な顎を開きハンナを迎え撃つ。真っ向からぶつかり合う顎と顎。奇妙なほど良く似た両者の勝敗は、呆気なく着いてしまった。
「ジョン!」
ヘンリックが叫ぶのと、撥ねられたジョンの体が建物の外壁に激突するのは、ほぼ同時だった。ハンナを迎え撃ったジョンの剣は、ほとんど抵抗らしい抵抗も出来ず、あっさりと弾き飛ばされてしまったのだ。辛うじてジョンがハンナに喰われる事だけは避けられたものの、ヘンリックが見ても双方の実力差は今の一回だけではっきり決してしまっていた。
「なんだ、お前は?」
ジョンを追おうとした直後、ヘンリックは後ろから頭を鷲掴みにされる。意外なほど温かな手のひらとは裏腹に、その声は恐ろしく冷たく乾き切っていた。それだけでヘンリックは、まるで蛇に睨まれた蛙のように、その場から動けなくなってしまう。
「ただの人間か。お前は去ね。人間なんぞ、とうに喰い飽きた」
ハンナは全く興味を示さない口調で言い捨てると、ヘンリックの背後から気配を消してしまう。しかし、ヘンリックは未だハンナに心臓を掴まれているかのように、その場から動く事が出来なかった。
「くそっ、魔女め……!」
崩れた外壁の中からジョンが姿を表す。魔女に対して悪態をつくのはいつものことだが、今のジョンの口調には悔しさがありありと滲み出ていた。その余裕の無さが、更にヘンリックの心を恐怖で縛り付ける。
「やあやあ、随分と活きが良いねえお前。どおれ、少し血抜きでもしてやろうかい。下手にぶつけて鮮度が落ちるのは勿体ないからねえ」
嬉しそうに話すハンナは、突如手を一つ打った。その直後、これまで何も無かった空間に次々と人影が出現していく。
魔女の使役する眷族だ。
そう思ったヘンリックは、咄嗟に己に喝を入れるべく、目一杯自分で自分の顔面を殴った。そんな覚悟と根性で何とか体へ動きを取り戻すと、自分の剣を構え眷族達に備える。
「雑魚に用はない。魔女め、お前は必ず殺してやる」
ジョンは淡々とした口調で吐き捨て、自分に群がって来る眷族を剣で一蹴する。しかし、そこから普段のような余裕は感じ取れなかった。
あの眷族達は魔女と戦えない自分が倒し、ジョンを援護しなくては。
ヘンリックは視線をハンナから外し眷族達へ向ける。ハンナの眷族は、これまでで最も人間に近い姿をしていた。どちらかと言えば肉塊に近いのだが、そのフォルムは若い人間の女性の姿を連想させるのに充分なほどである。
「邪魔だ!」
ヘンリックは眷族の群に対し、真っ向から切りかかっていく。眷族達は通常の魔物に比べ決して劣る相手ではないが、それでも剣の通じる相手ならばヘンリックが負ける事はなかった。ヘンリックは次々と眷族達を斬り伏せ蹴散らしていく。しかし眷族達の数は圧倒的で、幾ら倒しても一向に数の減る様子が無かった。
眷族達と戦う中、ヘンリックは奇妙な既視感を感じていた。それはこの状況に対してではなく、この眷族に対してのものだ。こんな肉塊に憶えはないはずなのだが、何故か誰かに似ているような気がしてならなかった。
「魔女は全て殺す。お前も例外じゃない!」
そう叫びながら、ジョンは再び黒の剣を巨大な顎と化すと、異形の姿のハンナへ切りかかる。しかし、
「ヒヒヒヒ、そうでなくては旨味が出ないってもんさ」
ハンナの顎が甲高い笑い声を撒き散らしながら、自ら向かってくるジョンへ飛びかかっていく。そしてハンナは、襲いかかる黒い顎を左手だけで掴み押さえ込むと、自らの顎をジョンの首元へ喰らいつかせた。
「ぐっ……!」
さほど牙が入ってはいないにもかかわらず、たちまち苦痛の表情で悶えるジョン。その様子は、見たままに噛み付かれているだけには到底見えなかった。
ただの一噛みで悶絶する。それはまるで、これまでジョンが倒して来た魔女のようではないか。
「おお、しつこいねえ。次はお前だから、大人しく食べ終わるのを待ってな」
ハンナに片手で押さえつけられる黒い顎。それは未だ抵抗をしているようではあったが、あまりに力の差が圧倒的で、ハンナはさして意に介していないようである。
「さあて、お前の心尽くし、そろそろ本格的に味わわせて貰おうかい」
ハンナは一度ジョンの首元から顎を放すと、今度は大きく振りかぶって勢いをつけ、改めてジョンの首元へ喰らいつく。
「ぐ……! ぐああああああ!」
直後、辺り一帯にはジョンの苦痛に満ち満ちた悲鳴が響き渡った。
ハンナは、ジョンを喰っている。
ハンナの二つ名にこれまでの言動から、ハンナがどういった魔女である事は容易に想像がつくものの、それが本当にどうなのかあまり実感が無かった。しかし、こうしてジョンが悶え苦しむ姿を目の当たりにし、ようやくハンナの二つ名はそのままなのだと痛感させられる。