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鴉の宿り木亭を出てから丸二日、二人は目的の場所に到着した。そこは鬱蒼と生い茂った森の中の一画に忽然と建つ、不気味な雰囲気を放つ館だった。魔女の気配がどうとは無関係に、その外観からしてあまり近付きたくは無い建物である。
その館はかつてこの付近一帯に広い土地を持つ地主一家が住んでいたという。しかし、一家の長男がある日悪霊に取り憑かれ奇行を繰り返し、座敷牢の中で狂死してしまった。それを皮切りに、一家の人間が次々と異常行動を取り始めて死に至るを繰り返す。最後に発狂した地主は、自ら骨董品の剣を飲んで自殺したそうだ。それら一連の出来事から館に付けられた名前が、この何の捻りもない狂乱館である。以来、その館に近付く者は皆気が狂ってしまうと恐れられているそうだ
「ここだジョン。この館に狂騒の魔女ラケルが棲んでいる。何処に潜んでいるか分からないから、気を付けて調べよう」
「今日は屋根付きか。ありがたい話だ」
ジョンはヘンリックの注意などまるで聞かず、一方的に館の扉を開けて中へ踏み込んで行った。ヘンリックは遅れないように慌ててその後を追った。おそらくジョンは、魔女を片付けた後に館を今日の宿とするつもりで言っているのだろう。もっとも、それさえも本気か皮肉かは分からないのだが。
館の中は、多少内装が古臭いものの驚くほど綺麗で良く手入れがなされていた。早速ヘンリックは自らに警鐘を鳴らす。件の地主一家の話の信憑性はともかく、無人であるはずの館の中が手入れをされている筈がない。今度の魔女がもしも自分で清掃や整理をする管理気質なら、すぐにこちらの存在に感付くだろう。いや、既に気付かれているかも知れない。
「ジョン?」
一旦周囲に気を取られている間に、ジョンの姿が見えなくなっていた。一人で何処かへ先行してしまったのかも知れない。ジョンは魔女の気配のようなものを察知する事が出来るから、それを辿っていたのだろうか。
魔女といつ接触しても良い心構えを持ちながら、ヘンリックはまず一階の部屋を調べ始める。エントランスから一番近い右の扉を開けて見ると、そこは広く作られた食堂だった。十名以上が一度に座れる長テーブルに、高価そうな細工の施された椅子がずらりと並んでいる。そして何より目を引いたのは、テーブルの上に置かれた花だった。いずれもまだ瑞々しい切り花で、水も先ほど入れ替えたばかりのように澄んでいる。魔女はそういった所にも拘っているのだろうか。
食堂から繋がった次の部屋はキッチンだった。そのキッチンもまた広いコンロや大きなオーブンを完備しており、いずれもまるで新品のように磨き上げられている。そこでヘンリックは、この館の異様さはこの行き届いた手入れではない事に気づいた。幾らよく掃除されたキッチンでも、普通は何かしらの匂いがするものだ。だがここにはそれが一切ない。このキッチンは現実のそれではなく、何か魔女の魔力的な干渉によるものなのかも知れない。そこにどんな意味があるかは分からないが、そもそも魔女とは皆強過ぎる魔力のせいで享楽的なものだ。いちいち合理的な意味など考えるだけ無駄だろう。
キッチンを抜け、更に他の部屋を次々と探索してく。使用人の控室やトイレに応接室、いずれも見た目だけなら何の変哲も無い部屋ばかりだった。探索を続けていくに連れ匂いの無さが現実味を薄めていくが、その他に魔女と繋がりそうなものは何も見つからなかった。
やがて一階の全ての部屋を調べ尽くしたヘンリックは、二階へ上る事にした。エントランスホールへ戻り、中央にある階段から二階へと上がる。一階にはジョンの姿は無く、おそらく今は二階に居るのだろう。魔女はこちらに何ら手出しをして来ない。ならば探索している内に自然とジョンとも合流が出来るだろう。そんな事を考えながら階段を上り切った時だった。
「……あれ?」
ヘンリックは思わず周囲と足元を見回す。そこは今ヘンリックが後にしたはずの一階のエントランスホールだった。しかし、それは単に二階から一階へ戻されたという訳ではなかった。それは後ろを振り返った時、そこにあったはずの玄関の扉が忽然と姿を消してしまっているからだ。階段に何か細工をされたと言うよりも、魔女の結界に捉えられたと考える方が正確だろう。魔女がこれまで手出しをして来なかったのは、こちらを分断し、自分の懐まで潜り込ませるためだったのだ。
「くっ……魔女の癖に姑息な事を」
魔女がこんな回りくどい真似をするのは、ジョンを警戒しての事なのだろうか。これが魔女の戯れで無いのであれば、かなり厄介な状況である。ヘンリックは魔女やその眷属の奇襲に備えて、いつでも抜けるよう腰の剣に左手を添える。
これはジョンとの合流を急いだ方が良いだろう。ヘンリックは天井に向かって声を張り上げた。
「ジョン! 何処に居る!? 魔女はもう仕掛けてきてるぞ!」
しかし、ヘンリックの声は虚しく響くばかりでジョンの反応は無かった。
ジョンが魔女にやられるなど考え難い事だ。なら、自分達は簡単に合流出来ないよう分断されたのだろう。
魔女に対する有効な対抗策を持っていないヘンリックは、たちまち湧き上がってきた不安感に押し潰されそうになる。だが、いつかはこうなる事も覚悟していた事である。ヘンリックは気を落ち着けじっと集中力を研ぎ澄ませた。
すぐに魔女から仕掛けて来ないのであれば、仕掛けて来るまでこちらも自由に動くだけだ。そこから何か対抗策が生まれるかも知れない。そんな事を思っていたヘンリックだったが、ふと集中していた事で付近から自分以外の足音を聞きつけた。
誰だ?
その足音は、驚くことに突然自分の側へ近づくと、そのまま何もせず通り過ぎてしまった。咄嗟にその方を向くと、何か小さな影が食堂の中へ入っていくところが見えた。その何者かが、自分の側をただ横切って行ったのか。からかわれているのかも知れないが、ヘンリックは少しでも手がかりをとその後を追って食堂の中へ入った。