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鴉の宿り木亭に辿り着いたのは昼過ぎの事だった。ヘンリックは武具を鍛冶屋に預け、そのまま食事も取らず自室で泥のように眠った。ジョンと魔女狩りに出掛けた時は、いつもヘンリックは疲労困憊になるまで消耗しきっている。それは魔女と対峙する以外にも、魔女の棲むような過酷な地帯を短期間で踏破するジョンの日程に無理をして合わせているからだ。日程に余裕を持たせる事も出来るのだが、ヘンリックは敢えて早急に目的を果たしたいジョンの心情を優先している。それが最も重要だとヘンリックは考えていた。
ヘンリックが目を覚ましたのは、丁度夜中の事だった。早めに寝てしまった事もあり、疲労感はまだ残っているものの目は冴えていた。そして食事を取っていなかった空腹もあり、ヘンリックは寝直す前に一度食事を取ることにして部屋を出た。鴉の宿り木亭は、夜中でも食堂は営業をしている。それは不規則な生活をする冒険者達に合わせてのもので、昼間のような喧騒も無ければまだ幼いサラの姿も無いが、夜中に食事や酒を楽しむ者の姿はちらほらと見受けられた。
ヘンリックは目立たないようにまた隅の方に席を取る。この時間は注文を取る者が居ないため、直接厨房の方へ行って軽い食事を伝え、酒も自分で注いだ。食堂の他の客は、時折談笑の声を響かせながらも比較的穏やかに酒を飲んでいる。中には酔い潰れてテーブルに突っ伏している者もいて、日中に比べれば驚くほど静かだ。食事をしながら酒を飲み、ふとヘンリックは自分が今のような生活を始めて以来、誰かと談笑した覚えが極端に少ない事に気が付いた。ジョンと世間話をしない訳ではないが、ジョンはあまり話し上手でも無ければ冗談を言って笑ってくれるような状況でもないからだ。
お互いが別々の所で気遣いし、妙な関係になっている。まだジョンと故郷の村に住んでいた頃はそうでは無く、もっと気安かったのだが。
食事を済ませたヘンリックは、自室の方へ向かった。明日は休養の予定だが、これから寝るにしてもすっかり目は冴えてしまっている。寝直した所で再び眠れるかどうか。そんな事を考えていると、ふと自室の隣の部屋のドアが目に止まった。そこはジョンが泊まっている部屋である。ジョンは今頃眠っているだろうから、起こして暇潰しに付き合わせるのはあまりに忍びない。ヘンリックはドアの前を通り過ぎようとする。丁度その時だった。
『愛してる……』
ジョンの部屋から人の声が聞こえてきた。それは聞き慣れたジョンの声だったが、ヘンリックはその言葉に思わず足を止めてしまった。
『愛してる……愛してる……』
出来る限り気配を消しながら、ドアの向こう側へ聞き耳を立てる。するとジョンの声がはっきりと聞こえてきた。そして間違いなく、足を止めてしまったあの言葉を、それも何度も何度も執拗に繰り返している。
愛してる。
魔女を殺す事だけが生き甲斐であるジョンの口から、まだそんな言葉が出る事があるなんて。ヘンリックはそんな驚きを覚える。ジョンは自分と違って疲労困憊という訳ではないのだから、もしかすると商売女を買ったのだろうか。そんな推測をしてみるが、その割に聞こえて来るのはジョンの声ばかりで女の声どころか衣擦れの音もしない。それともジョンは、まさか一人じっと座ったままその言葉を誰にかける訳でもなくただ繰り返しているのだろうか。
一体誰に? 何のために?
ヘンリックは、まだ故郷に住んでいた頃を再び思い出す。
あの頃のジョンには、まさに愛しているの言葉通りの大切な女性が居た。ジョンの幼馴染で妻のエルシャ。ヘンリックは彼女の事を良く覚えている。幼少期のヘンリックは、ジョンは近所の遊んでくれる優しい青年として好きだったが、エルシャの事もよくパイなどを焼いて食べさせてくれる優しい女性として同じくらいに好きだった。口うるさい両親の元を離れ二人の子供になるだのと、幼稚な事さえ考えたこともある。ヘンリックの幼馴染達も、みんな二人の事が好きだった。おそらく、故郷で二人を嫌う者は一人として居なかったのかも知れない。
けれど、ささやかな幸せすらも二人には許されなかった。そしてジョンは村から失踪し、誰もがジョンとエルシャの話をするのを避けるようになった。
ヘンリックが消息不明だったジョンと再会したのは、本当に偶然の事だった。その時のジョンは既に魔女を殺し回っていて、ヘンリックがすぐに気付くほど肉体的にも精神的にも変貌していた。失踪中の事をヘンリックはあまり訊ねないし、ジョンも話したがらない。自分の想像を絶するような何かが起こったのだと、ただ推察するだけである。
ジョンが失踪し変わり果てるきっかけになった、あの忌まわしい出来事。あれさえなければ、ジョンもヘンリックもきっと未だに故郷で平凡な暮らしをしていただろう。
そう、あいつさえ居なければ。
ヘンリックもまた、ジョンと同様に魔女を憎んでいた。それは、エルシャが魔女によって殺されたからに他ならない。