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 あれほど吹き荒れていた風がぴたりと止む。草原はまるで別の場所のように恐ろしく静かになり、肌に張り付いていた湿気のような禍々しさが消え去っていた。
 ヘンリックは剣を構えたまま、注意深く周辺の様子を伺う。だが耳鳴りのするような静寂さだけが続き、荒れ狂っていた魔女アゼイリアの片鱗は完全に消え去っていた。ようやく安堵したヘンリックは剣を拭って鞘へ戻し、深く深呼吸をする。
「ジョン、もう大丈夫だ。もう取り巻きも残っていない」
 ヘンリックは緊張を解いた口調でジョンに語りかける。ジョンはアゼイリアを倒したままの場所に直立していた。あの黒い剣は元の姿に戻っているが、鞘には納められていない。
「ジョン、まだヤツはやっていないのか? ジョン?」
 剣を納めていない事を不思議に思うヘンリック。アゼイリアは倒したものだとすっかり思い込んでいたのだが、ジョンの様子からしてそれは早合点だったのだろうか。
 ヘンリックは剣に手をかけながら周囲の気配を再度窺う。その時だった。
「ジョン?」
 突然の物音に振り向くと、そこではジョンがその場にがっくりと膝をついていた。ぎょっとするヘンリックは、すぐさまジョンの側へ駆け寄ろうとする。だがジョンは膝をついたまま手だけをヘンリックの方へ向け制止する。
「ジョン、大丈夫なのか? 怪我は?」
「大丈夫だ……。気にしなくていい」
 ヘンリックに向けられた手は、離れていても分かるほどぶるぶると震えている。それは明らかに大丈夫とは呼べないだろう。しかしヘンリックはその様を前に、ふと何かを思い出したような素振りで息を呑んだ。
「ジョン……いつものか?」
「ああ、そうだ……。だから大丈夫だ」
「分かった。じゃあ俺は先に行ってる。昨日の野宿した場所だ」
「後で俺も行く」
 苦しげなジョンの声だったが、その事情を知っているらしいヘンリックは留まって介抱する事などせず、一度周囲を気にしただけで立ち去ってしまった。
 二人が野宿したのは、この草原地帯の手前にある岸壁の峰である。魔女アゼイリアの縄張りから僅かに外れた立地であるための選択だった。水も木もない岩場で寝るのは困難な事ではあるが、例えどれだけ緑豊かとは言っても魔女の縄張りで宿営など正気の沙汰ではないのだ。
 ヘンリックは昨夜の地点まで戻ってくると、置いていた荷物を確認し、焚き火をおこす。それから帰路に向けて、荷物の整理と地図の確認を行う。
 ジョンは、人並み外れて強い。それは魔女を殺せる実力を差し引いても言える事だ。ヘンリックは自分がジョンの足を引っ張らぬように、日頃から己を鍛えるだけでなくあらゆる知識や情報を蓄えている。そしてさまざまな状況を想定した道具も準備している。けれど、そこまで徹底してもジョンについて行くだけで精一杯というのが実情だ。それほどジョンの力はずば抜けているが、ヘンリックもまたジョンと同様目的のある身である、だからこの苦行にも耐える事が出来た。
 やがて日が落ち始め、周囲が途端に暗く沈んでいく。ヘンリックは焚き木を少し増やし、手元が良く見える内に保存食を幾つか取り出した。パンや干し肉を焚き火で十分に炙って食べ、体を温めるための酒を軽く飲む。それでようやく、今日までの疲れが少し楽になっていくのを感じた。
「待たせた」
 食事を一通り終えた頃、唐突に暗がりの中からジョンの声と気配が現れた。まるで闇の中からわいてきたような登場であったが、そういったジョンの行動に慣れているヘンリックはさして驚きもしなかった。
「落ち着いた?」
「ああ、もう大丈夫だ。明日は予定通り出発出来る」
 そう話すジョンは、先ほどの苦しげな様子が嘘のように無くなり、平素の無愛想を取り戻していた。ジョンは静かに焚き火の向かい側へ腰を下ろすと、そのままじっと火を見つめ始めた。その仕草はまるでジョンがヘンリックと距離を取っているかのように見える。ヘンリックはあえてそれに気付かない振りをした。
「なあ、ヘンリック……俺を、軽蔑しているか?」
 唐突にジョンはそんな事を訊ねる。ヘンリックは口の中に残っていた酒をゆっくり飲み下すと、すぐにその問いに答える。
「正直、少しだけ」
 ヘンリックはジョンと視線を合わせなかった。それは質問の答えに困窮しているからではなく、ジョンがヘンリックの視線を気にしていると考えたからだ。
「そうか、ありがとう」
 ジョンは安堵の溜息をつきながら、穏やかな声で話す。
「お前がそう見てくれているだけで、俺は辛うじて自分の異常さが自覚できる。だからまだ、正気でいられる」