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 木々が深く生い茂り、昼ですら辺りを薄闇を包む湿地帯。湿った草むらを踏みしめるたび、泥と草のこすれ合う粘ついた音が響いた。その湿地帯は不気味なほど静まり返っていた。風のそよぐ僅かな音以外は何も聞こえず、鳥の鳴き声一つすら無い。そのあまりの不自然さには、誰もが歪な意図を感じてしまうだろう。だが、この湿地帯において人の気配は一切存在しない。ひたすら奥を目指しひた進む彼の者を除いて。
 彼が鬱蒼と生い茂る木々を抜けると、目の前に広がっていたのは広大な蓮沼だった。全く人の手が入っていないにも関わらず、そこには大きな緑の葉が広がり薄紅色の花が咲いている。普通ならその美しさに見とれるであろう風景だったが、この湿地帯において際立つ美しさはむしろ異様にさえ映る。
 青年は蓮沼を前に、おもむろに腰の剣を抜き放つ。その剣は、柄や装飾だけでなく刀身そのものが黒く濁る異形の姿をしていた。ただ黒く塗り焼き付けたのではなく、光すら届かないためそう見える。そんな印象を受ける。
 青年は抜き放った黒い剣の先を蓮沼へ浸す。直後、まるで心臓が脈打つかのように力強い音を立て、切っ先から波紋が沼全体へ広がっていった。すると、蓮沼の水面が眩く光った。それは太陽の光を反射したような生易しいものではなく、沼の水そのものが意志を持って輝いているような力に溢れていた。そして光は青年の前へ収束していく。少しずつ形作るそれを前にも、青年は淡々とした表情を崩さなかった。
「この不快な波紋は、お前の仕業かい?」
 光の塊はまるで人間のような四肢を持った。そして不快感を露わにした口調で、怒りを込めて青年を指差す。
「お前が、清流の魔女プリスキラか?」
 青年は静かにそう問うた。すると、光の何者かは興味深そうに青年の顔をまじまじと見つめる。
「お前……まさか、人間かい? おやおや、ここまで来れた人間は久し振りだねえ。見た目によらず、随分と骨のある奴だよ。それで、要件は何だい? 今年の洪水は止めて下さいとでもお願いしに来たのかい?」
 青年をあからさまに見下した、けらけらと嘲笑う笑い声。それは無理からぬ事だった。プリスキラと呼ばれた彼女は、魔女である。
 彼女は、その膨大な魔力により、気まぐれで近隣の人里へ洪水を起こす。その行為に特別な意味や意図はない。それは彼女が魔女として存在する上での性のようなものであり、人間で言う所の食事や睡眠に近い行動なのだ。そんな存在である魔女は、人間など塵芥くらいにしか思わない。自分に不遜な態度を取る青年に対してもそれは同じだ。
 しかし、青年は至極慣れた様子でプリスキラを見据えた。その目は氷のように冷たく刃のように鋭い。そして、恐ろしいほどぎらぎらと輝いていた。
「魔女に願う事などない。俺は、お前を殺しに来ただけだ」
 青年の静かだがはっきりと通る声。プリスキラが呆気に取られしばし言葉を失ったのは、その声色ではなく発言の内容にだった。ただでさえ珍しい人間の訪問客に、そこまで不遜な言葉を吐かれるなど想像すらしていない。
「人間が? 魔女であるこの私を? まさか、殺すだって? アハハハハ! 愉快な事を言う人間だ! お前、魔女を知らないのか? この世の水は、全て私の支配下だ。雨を降らす事も自由! 土地の水を奪い尽くす事も自由! お前ら人間の集落を洗い流す事も自由だ! その魔女を、下等な人間如きが殺すだと? お前、気でも狂ったか?」
 プリスキラの侮辱を交えた哄笑。しかし、それでも青年は一つも動じる様子を見せなかった。ただおもむろに手にしていた黒い剣を構えるだけである。
「御託はいい。魔女は全て殺す」
「どこまでも生意気なガキだな。よし、決めた。お前は人間の癖に生意気だから、私が直々に手を下して殺す。清流で清め殺してやるよ! お前は無断で私のテリトリーへ入り込み、事もあろうに人間の分際で魔女である私を侮辱したんだからねえ!」
 瞬間、プリスキラの体を構成する光が収縮し小さな光の玉と化す。その直後には光の玉は急激に膨張し、別な姿を形作った。
「アハハハハ! さあ、死ね! ちっぽけな人間め! お前達は所詮、魔女の玩具にしか過ぎないんだよぉ!」
 プリスキラが新たに見せたのは、まさに巨大な大蛇と言うべき姿だった。その巨体は蓮沼を飲み込まんばかりで、対峙する青年の姿はアリにも等しかった。
 誰の目にも明らかな力の差。しかし当の青年はこの光景を前に、つまらなさそうに溜息を一つつくだけだった。
「下らない。清流の魔女を名乗りながら、清流などとは程遠い沼について棲み着いているから、頭の中も淀み腐るんだ」
 そう吐き捨て、右手の黒い剣を一度振る。剣は音叉を鳴らしたかのような澄んだ音を立て、より暗く刀身を曇らせる。
「喰い殺せ、アリス……!」
 青年の言葉に黒い剣は、意思を持って応えるかのように、再び凛と澄んだ音を立てた。