BACK

 コウが突然セタの自宅へ呼ばれたのは、その日の夕方の事だった。セタは、先日の祝い品のお返しとだけ言っていたが、コウはそれが嘘だと予感していた。トマスの失踪の件が既に大事になっている事が、それほど深刻だと感じている。そしてセタの妻がいよいよ臨月を迎える。この国を離れるには動くもう今しか機会はない。そういう決心をしたのだ。
 業務を終えて帰宅したコウは、金をかき集め私服へ着替える。身の回りの荷物はそのままに残し、金と身分証とナイフだけを持った。大荷物を持って出れば、それを見られた時に言い訳が出来なくなるからだ。
 コウはセタの自宅へ向かう途中、念のため酒屋に寄ってワインを一つ買った。夕食に呼ばれただけの者を装うのは、目を付けられ難いという利点があった。とにかく今は少しでも目立ちたくは無かった。特にロプトに見つかる事だけは避けたかった。ロプトはこちらの素性や目的を知っているため、必ず何かしら妨害をしてくる恐れがあるからだ。そんなコウの慎重さが功を奏したのか、セタの自宅へ辿り着くまでに町中至る所に有る捜査の目に留まり呼び止められる事は無かった。辿り着いたセタの自宅で玄関先に出たセタは、慎重に周囲を警戒しつつコウを自宅の中へ招き入れる。
「こんばんは。お邪魔します」
 セタの自宅の居間へ通されたコウは、編み物をしていた妻のマリーに挨拶をする。
「こんばんは。急にごめんなさいね」
「体調は如何ですか?」
「大丈夫、覚悟はとっくに決めてるの。心配しないで。それにこの子には、あの人の血が流れてるもの。きっと強い子だから心配無いわ」
 そう落ち着いた口調で、彼女は大きくなった自らの腹を愛おしげに撫でる。マリーの口振りからすると、やはり今夜が決行日である事、そして彼女もとっくに計画の事は知っている上で覚悟を前々から決めていたようだった。マリーの様子は、セタがそうと決めたから従うというのではなく、そうするしか他に道が無いと自ら選択したように見えた。セタが公務中にどういった扱いを受けているのかを、彼女が知っているかどうかまでは把握していない。ただ、個人の力ではどうにもならない苦境に立たされている事だけは理解しているのだろう。
「ひとまず、食事にしよう。何をするにも、夜が更けなければ行動は出来ないからね」
「そうですね。それじゃあ、一応これ。お酒が無いと、長居する理由が言い訳で無くなってしまいますから」
 コウは買ってきた手土産のワインをセタへ渡す。
「まあ、酒は少しだけにしておこう。酔って判断力が鈍るのは良くないから」
「どうせ形だけです。家の中でも、食事をしているように振る舞うための」
 三人は場所をダイニングへ移す。マリーは臨月のはずだったが、その足取りは意外としっかりしていて力強かった。臨月の女性というものはもっと弱々しいものだと姿想像していただけに、コウはマリーの様子には些か驚いた。しかし、かと言って自在に走れる訳でもなければ、不測の事態に応戦するなんて以ての外である。どの道、安全が確保されるまでは守らなければならないだろう。
 マリーの手料理を頂きながら、コウは二人とささやかな談笑を交わす。セタの家の夕食に呼ばれる事など初めてだったが、それは意外ほど落ち着けて心安らぐ時間だった。そしてコウは、自分の行動と物事の考え方が以前とは全く異なっている事を、ここに来て遂に認めざるを得なかった。セタの暗殺が本当に心から望んでいる目的ならば、今がまさにその好機のはずである。しかし、普段よりも油断した振る舞いをしているセタを見て思うのは、視線を盗んでナイフを急所に突き立てようという画策ではなく、これからもこんな風に一緒に食事をしたいという思いだけだった。
 自分はセタと過ごしている時間に心地良さを感じ、それを壊したくないと思う。ならば、それを守るために戦うべきではないか。そう決意をすると、すぐさま上王の顔が脳裏に浮かんだ。けれど、今はもうその幻影はすぐに振り払う事が出来た。上王への恩義を捨てた訳ではない。けれど、今はもうその事を深く考えたくはなかった。
 やがて食事を終えると、テーブルの上にワイングラスを並べたまま、マリーが淹れたお茶を飲みながら今後についての説明が始まった。それは今夜ここに招かれた本題であり、これまでずっとセタが内に秘めてきた一大決心である。
「つまり、肝心な部分はその道の専門家にお願いする事になってる。その辺りの調整なんだけど、それは先方が寄越してくれた使者がやってくれる。我々は主に指示に従うだけだ」
「その使者って、信用出来るんですか?」
「大丈夫。私も妻も何度か会って話をした。彼はとても親切で、私達のために色々な事で尽力してくれたよ。私が日中自宅を空ける間も、配達員を装って巡回に来てくれたりね」
 ロプトは滞在するための表の肩書きとして、そういった一般の仕事に就いている。いつも顔を合わせている訳ではないが、自分の知らない間セタ達には随分と尽力してきたのだろう。セタのような愛国心厚い男を口説き落とすのだから、並大抵の事では済まない。けれど、コウは素直にロプトの行い全てを肯定は出来なかった。ロプトはセタと因縁があると言うだけで、既に人を一人殺めているのだから。
 ふとコウは、そんなロプトの行動に今更疑問を覚えた。セタがロプトの殺人を知ったのなら、これまで通りロプトを信用するだろうか? 単に打ち明けていないだけだろうが、そもそもセタの亡命を早めるため強引に退路を断つ必要があるだろうか? どの道セタに選択する道は無いというのに、セタに少しでも疑念を持たれてしまえば、全ての仕込みが水の泡となるように思えるのだが。