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コウはにわかに混乱し始めた。ベネディクトゥスを離れて四年、公式の国交は途絶えたサンクトゥスに居る以上母国の情勢について情報が入って来ない事は理解していた。しかし、今現在のベネディクトゥス情勢はあまりにコウの予想を上回っていたのだ。
「ちょっとすぐには信じられないかな? けれど、僕は誓ってキミに嘘は言っていないよ。それに、キミの事はカラティン様から聞かされている。上王が譲位前に放った放った刺客だってね。とは言っても、どこかの組織に所属している訳ではないんだよね。上王が私兵部隊を組織する際に孤児を集めて育成したそうだけど、キミはその一人なんだろう?」
男の言う事は全て正しかった。コウは王の刺客としてこのサンクトゥスへ潜入しているが、ベネディクトゥスでの正式な職位は無い。そもそも戸籍すら正規の手続きで作られたものではないのだ。コウにとって情愛の繋がりは、自分を拾い育成してくれた王ただ一人である。この事を知っているのは非常に限られた人間である。となると、この男が言っている事はある程度信憑性があると考えざるを得ないだろう。
「……一旦、お前の言っている事は全部事実だという事にしておく。ただ、はっきりさせておきたいのは、お互いの目的だ。俺は恩ある王のために、必ずセタの暗殺をやり遂げる。そしてお前は、セタをベネディクトゥスへ寝返らせるんだったな」
「そういうことだね。僕としては、手伝えとまでは言わないから、せめて黙って見ていて欲しいかな。キミが上王へ恩があるのは分かるけれど、彼はもう政治的には終わった人間だ。忠義を尽くした所で、キミには何の見返りもないよ。それよりも、カラティン様のお役に立った方が後々に何かと都合が良いんじゃないかな」
「恩を仇で返せと言うのか。そんな事は出来ない。俺は、見返りのために此処へ来た訳じゃないんだ」
「まあ、そう言うと思ったよ。そのために上王はわざわざ幼少から集めて教育を施したんだからね」
「王を侮辱するなら許さないぞ。こっちは見習いの身でも、お前を不審者として始末する事は出来るんだ」
「なるほど、分かったよ。キミの生い立ちについてはもう触れない。それよりも、もっと現実的な事、二人の今後について取り決めをしておこうじゃないか。僕だってカラティン様の期待を裏切る事は出来ないからね」
この男も、今の王カラティンに対して恩義があるのか。しかしコウは、それは自分に比べて遥かに軽いと感じた。そもそも恩義とは、みだりに口に出来るほど気安いものではないのだ。もっと深い覚悟を伴うもので、胸の内へしまい続けるものなのだ。
「とりあえず、僕らの対立はよそう。もしも誰かに見つかって不審がられたら素性がバレて、それこそ共倒れになってしまう。一番最悪のパターンだ」
「なら、どう折り合いをつけるんだ。俺達の目的は対立しているんだぞ」
「活動する日を制限しよう。今週はそっち、来週はこっちと言う具合に」
「分かった、いいだろう。それと、俺達の活動についてはお互い不干渉だ。どうせ協力し合う事なんてあるはずがないからな」
「出来る時はするべきだろうけどね。取り敢えず、今週のところは休戦としよう」
コウは、内心この取り決めを苦々しく思っていた。協力を取り付けるどころか、活動時間を実質半減させただけに過ぎないのだ。しかも、自分の素性まで知られているのだから、いつ爆発するとも知れぬ爆弾のようで、とても気が気ではない。
「じゃ、僕はそろそろおいとまさせてもらうよ。突然お邪魔して悪かったね。ちなみに、本国の事で何か知りたい事はある? 話せる事なら話すけれど」
「それなら二つ、訊きたい事がある。王は……上王は今どうされているんだ? 不自由はしていないのか?」
「南端の保養地で軟禁状態だよ。とは言っても、監視はあるが生活に不自由はさせていないそうだ。カラティン様にとっても、仮にも実父だ。力ずくで政権から遠ざけはしたが、それ以上冷酷な事はなさっていない」
コウはひとまず安堵した。理由はどうあれ、自分にとって大恩ある方が不自由な生活を強いられているとしたら、とてもこの国にじっと留まってはいられなくなるからだ。
「お前の名前は何だ? 進んで接点を持ちたい訳じゃないが、もしもあった時に呼び方に困る」
「ああ、まだ名乗っていなかったね。僕はロプト。本名さ。こっちでも本名で活動しているよ」
それじゃあね、と言い残し、ロプトはコウの部屋を後にした。
突然やってきた、まさかのベネディクトゥスの人間。それもこちらと潜入目的が対立する立場にあるなんて。いやそれよりも、ベネディクトゥスの激変した情勢の方が遥かにショックである。コウは一人になった途端急に疲労感を覚え、ベッドの上に深々と腰を下ろした。
ロプトの言っている事がもしも正しければ、自分のしようとしている事に果たしてどれだけの意味があるのだろうか。大恩ある方に報いるという事は非常に尊く重要な事だ。けれどそれを果たした所で自分に何が残るのか。そこまで徹底した無私を、今まで意識したことがない。
何もかもが唐突で、とても一度に全て咀嚼し飲み込むのは無理だ。
ひとしきりあれこれ考えたコウは、やがて結論を一つ導き出す。それは、自分はあくまでベネディクトゥス国のためでなく養育してくれた上王のためにしているのだから、今本国がどうあろうと目的を変えたり止める必要は無い。コウはむしろ、当初よりも目的の達成意識を強く固めてしまった。