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仕事が一段落つき、久し振りに定時で業務を終えられる。それは、エリアスが丁度庁舎を出た直後だった。ふらりと現れた局長に、以前一緒に行った局長行きつけのバーへ連れて行かれる。要件は話して貰えなかったものの、この状況からしてただならぬ事なのだと予感はあった。そしてそれは、厄介な出来事の予兆なのだろう、そんな予感があった。
バーには局長とマスターの他、誰の姿も無かった。まだ開店前という事で客が来ていないのだろうが、逆に言えばそういう人払いの必要な話をされることでもある。エリアスはますます緊張感が高まった。
「これからする話は、一度耳にしたならもう辞退は出来ないんだが。構わないかね?」
釘を差すように確認をするショーン。けれど、この状況で辞退したいとはとても言い出せなかった。きちんと明確に断るべきだと理性では分かっているのだが、エリアスには未だそれだけの度胸は無い。
そんなエリアスの沈黙を肯定と受け取ったのか、ショーンは自ら話を切り出し始めた。
「私はね、一つやり遂げたい仕事があるのだよ。もちろん、大事だ。新聞に載るとか、そんな程度の事じゃあない。もっと歴史的な、それこそ大きな改革だ」
嫌な予感がする。エリアスは改めてショーンの言葉に危機感を覚えた。しかし、口を挟むことも出来ずただ頷き返すしか出来なかった。
「君は、私情で仕事はしないと、前に私にそう言ったね? 改めて訊くが、それは事実かな?」
「は、はい。未だ未熟者で、大した仕事ぶりではありませんが……」
「それは問題ではないよ。私が欲しいのは、信頼できる仲間なのだから。つまりだ、今日こうして君と顔を合わせているのは、君は私達の仲間になってくれるのかどうか。それが知りたいのだよ」
「な、仲間……我々は同じ国税局の身内では……?」
その言葉を口にした直後、エリアスは己の迂闊な発言を心底後悔した。その質問は、どう答えようともこの状況では答えは一つしかない。そしてそれは正に、エリアスが一番触れたくなかった事の深みだ。
思わず自分の迂闊さに口を閉ざすエリアス。その仕草を見ながらショーンは、口元をさも愉快そうに綻ばせた。
「君は非常に素直な人間のようだね。心配する事はないよ。君の苦手な舌戦は、君ではない他の得意な人物に任せるのだから」
ふと見たショーンの表情、それは口元だけ綻んでいるものの、その目はまるで鷹のようにするどく少しも笑ってなどいなかった。そしてもう一つ分かった事、それはショーンが自分に期待している働きとはやはり暴力である事だ。
「もう、今更後には退けない状況であると、分かってはいるだろうね? その認識があるのであれば、話の核心に移りたいのだが」
「だ、大丈夫です。少し緊張はしていますが、状況はよく理解しています。続けて下さい」
「結構。っと、その前に。エリアス君は覚悟を決めたようだから、もう結構だよ」
突然とショーンは、まるでエリアス以外の誰かに呼び掛ける。他に誰かいたのか、そう思った直後だった。いきなりエリアスの両肩に、背後から誰かの両手が置かれる。確かに緊張のためそこまでの警戒はしていなかったが、それでも気配を少しも察せなかった事に驚きを隠せない。
「お前は賢い判断をしたな」
恐ろしく冷たく低い声で、耳元でそう囁かれる。その声はアントンのものだった。けれど今の口調は、エリアス自身も初めて聞く、別人のように冷たく乾いたものだ。殺気を孕んだ人間の声だ。そう感じたエリアスは、ショーンに対し誤った返答をしてしまった場合の事を想像し、背筋が冷たくなる。
「エリアス君。君は、この国税局の長が誰か知っているかな?」
「えっと、それは……あなたですよね、ショーン局長」
「組織上の身分はね。だが実際のところ、私の権限なんてごく限られたものしかないのだよ」
「局長よりも権限の強い者がいるのですか。それはつまり、財務省の?」
「その通り。うちはあくまで財務省の内局、だから国税局を指揮する担当者、統括官がいるのだよ。もっとも、本人は面倒な事には関わろうとしないがね」
統括官。エリアスはその役職についてはおぼろげにしか認識がなかった。話の脈絡から察するに、ショーンを初めとする国税局を動かせる最も強い指揮権を持った、財務省と国税局を繋ぐ存在という事だろう。
「統括官オリヴァー。この男が、我が国税局の未来を握っていると言っても過言ではない。国税局の評定や人事、予算執行その他諸々。全ての権限を握られているのさ」
「その、統括官をどうするのでしょうか?」
「ここまで言えば想像はつくだろうが、あえて言葉にしよう。我々は、この男を失脚させる。かつてジェレマイア首相が行った、政財界の浄化作戦から逃げ切ったこの男の悪事を公に晒す事で」
悪事を公に晒す。悪事を取り締まるというのなら、それは正しい行為であり、税務に関わっているのなら尚の事査察部の正当な業務である。しかし、ショーンの言葉選びにエリアスは引っかかった。晒す、という言い方はまるで、悪事を取り締まった結果的に失脚させるのではなく、初めから失脚が目的で行動するかのように聞こえるのだ。