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 数日後、唐突ではあったがフェリックスの退職が決定した。懲戒処分ではなく、あくまで自己都合による退職ではあったが、引き継ぎや挨拶も無しに辞めていったのは明らかに普通ではない事情があることが窺えた。そして、それについて四課の面々は、ボスを初めに皆が喜びと安堵を隠していなかった。
「やれやれ、何とかなったなあ。財務省の方も一応注意はしているが、今のところ特に詮索しようって動きは無いようだ。後はこのまま事件そのものが風化してくれりゃいい」
 ボスは何時になくにこやかにコーヒーを飲みながら、上機嫌にそう語る。一同もそれに続いて頷いた。フェリックスの件は、査察四課にとっては押し付けられた爆弾と同じだ。うまく処理出来なければ、被害は四課だけが被るのである。万が一にでも財務省に知られでもすれば、再構成後の国税局査察部に今の面子は存在していないだろう。
「お、そうだ。クワストの方と交渉したのはエリアスなんだってな。お前、本当に良くやった。今夜は一杯奢るぞ」
「ありがとうございます。御馳走になります」
 上機嫌のボスに合わせて、エリアスはなるべく明るい調子で答えた。
 エリアスは、今回の事では未だに引っ掛かっている部分があった。確かに、査察四課を存続させるためにも、多少無茶な事は必要なのかも知れない。フェリックスの件はいつもの厄介事の押し付けだが、その対処方法はこれしかなかったのかと未だに悩んでしまう。フェリックスを孤立させ退職へ追い込むのが、一番財務省に知られずに済む手段だとは分かる。また、そういったやり口が世渡りをするため必要となる事も理解できている。ただ、自分自身がいつの間にこんな事を出来てしまう人間になってしまったのか、その自覚のない変化に困惑していた。自分は気弱で自己主張の出来ない男、そんな性格を常々治したいと願ってはいたが、これはいささか違うのではないかと思ってしまうのだ。
「エリアス、これでお前もあのクワストに顔見知りが出来たな。ようく上手に利用するんだぞ。結局の所は、こっちの立場のが上なんだからな」
 相も変わらず、ベアトリスの不穏で物騒なアドバイスである。エリアスは思わず苦笑いを浮かべそうになった。
 クワスト社のエリック社長にしてみれば、とんだ迷惑だっただろう。犯罪組織のフロント企業が言えた義理で無いにせよ、アドバイザーとして雇った人間が査察部を呼び寄せる事態を作った挙げ句、親組織の件で追及される弱味を握られてしまったのだから。
 様々な事が積み上がり過ぎて、エリアスは自分の平凡な頭ではとても処理しきれないと思った。だがいずれ、少しずつではあるがきちんと整理しておかなければならない。今回の経験を今後に生かすためには、そういった咀嚼が必要となるのだ。
 その日の業務は全員が早めに切り上げ、そのまま定時後は行きつけの店に揃って繰り出した。一仕事終えた打ち上げというよりも、フェリックスを退職に追い込んだ事を祝うような席だった。人ひとりが人生を大きく狂わされたというのに、それを酒の肴にする事は気が引ける。けれど、フェリックスもまた自業自得である部分がかなり否めず、ある意味では釣り合いが取れているのかも知れない。
 この日の酒は、エリアスもそれなりに飲み普段りもずっと酔った。酒を日常的に飲む習慣は無いにせよ、かつての自分より遥かに酒量が増えたように思う。おそらく、仕事の内容に由来するストレスが原因だろう。ただ、自分が預かり知らぬ所での変化というものは、あまり良い気がしなかった。
 宴も終盤に差し掛かった頃、またいつもの通り、帰宅する人間はあっさりと帰宅してしまい、残りは飲み続けるか潰れるかの状況となった。エリアスは、普段なら帰宅するタイミングを図る所だったが、今夜はかなりの酒量となっているため、どうにも立ち上がる事が億劫になっていた。
 少し酔いでも覚ますか。そんな事を考えていたその時だった。
「やあ、頑張ってるみたいだね」
 突然と隣の席に座ってきたのは、この国税局の長であるショーンだった。確か以前もそんな現れ方だったことを思い出し、この人はわざとやっているに違いないなどとエリアスはぼんやり思う。
「いえ、自分などまだまだです」
「謙遜は金になどならんよ? まあ、何よりも金を取り締まる我々のセリフではないがね」
 そう笑いながら、ショーンは自分のグラスへ酒を注ぐ。エリアスはその何でもない仕草をぼんやりと眺めていた。グラスへ注がれる酒が、妙にゆっくりと粘ついているように見えた。何故こんなにゆっくりと見えるのか、そんな疑問を抱いていたが、やはりそれは自分が酔っているせいだと結論付けるのに酷く時間がかかった。
「君は、ここには望まぬ形で配属されたけれど。今日これまで仕事をしてきて、何か心境は変わったかい?」
「変わるも何も、自分は元々官吏として自分の業務を全うしているだけですから」
「私情で仕事はしないと? なるほど、官吏としては正しいかも知れないが、出世は出来ないだろうね」
 笑いながらグラスを傾けるショーン。その姿は、既に出世を果たし地位を得た人間の余裕、若しくは傲慢に見えた。けれどエリアスはそれ以上何も思わなかった。出世をどうこうと考えた事は無い訳ではなかったが、自分がこの職場で頭角を現すような非凡な人間だとは到底思えないからだ。
 年寄りは、若者をからかったりなじったりすることを好む。まともに相手をしても仕方がない。エリアスは適当に曖昧な表情を浮かべる。するとショーンは、突然と鋭い眼差しでエリアスを見た。
「君は、本当に私情で仕事はしないのかね?」
「捜査権がある以上、私情を挟むこと自体が問題だと思っていますが……」
 普段なら慌ててしどろもどろになっていただろう、唐突なその質問。しかし今のエリアスは酒に酔っているため、何もかもがワンテンポ遅れてしまい、あまり動揺が表に出ずに済む。
「どれだけ恨まれる事になっても?」
「査察部に所属している以上、致し方ない事だと割り切っています」
 エリアスの答えに、再びショーンは屈託なく笑った。
「やはり、君は私の見込んだ通りの人間かも知れないね。今の答えが事実だとしたら」
 期せずしてショーンを喜ばせてしまった。酒の席としてなら、それはそれで構わない。しかしエリアスは、何か良からぬ事が身に降りかかる予兆のようにそれを感じた。査察四課に来て以来、面倒事は日常茶飯事で起こるため、それ自体は慣れてしまった。ただ、そんな麻痺した感覚でも危険だと感じる予兆には、流石に不安を抱かずにはいられなかった。