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 休日の午前中。道場にはエリアスと師範代であるレックスだけが来ていた。普段、休日に道場を訪れる者は極めて少ない。それも早い午前中となれば尚更だ。エリアスはいつも、敢えてその時間帯を選んで来ていた。自意識過剰とは分かっているものの、どうしても自分の腕前が未熟で情けないと思われてしまうのではないかと気になってならないのである。昔から消えないコンプレックスだ。
 レックスと一通りの型稽古をし、何度か組み手を行う。全身の節々が痛み始めると、今度は筋肉をほぐして伸ばす体操をし、最後に今日の練習内容についての反省会を行う。それらはいつも通りに済み、日頃から仕事では思い通りにならない事の多かったエリアスにとってある種の安心感があった。
 今日はどこかで食事を済ませて帰り、ゆっくりと休息を取って明日からの仕事に備えよう。そんな事を考えていた時だった。エリアスは不意にレックスに呼ばれ、再び道場で座りながら対面する。
「仕事の方は、あまり順調ではないようだね。少なくとも、自分は順調だとは思っていない。違うかな?」
 突然の指摘にエリアスは息を飲んだ。
 レックスとは非常に付き合いが長い。この道場は元々はレックスの父親のものだが、現在は病気療養中であり、レックスが師範代として切り盛りしている。彼はその面倒見のいい人柄から、誰からも頼りにされる人物だった。実際エリアスもそうだった。武術で度胸をつけたい、そんな動機にも怒ったり笑ったりせずに向き合ってくれたのである。エリアスが幼少から今まで続けられたのも、レックスのおかげだったと言っても過言ではない。
「はい……その、実は明日もまた強制捜査があります。自分はこの通りの体格で新人ですから、また先陣を切らされるでしょう。ですが、それが本当に恐ろしくて仕方ないのです」
「仕事が恐ろしいのですか?」
「仕事と言うより、その捜査で人から殴られたり恐ろしい目で見られる事がです」
 それは先日の強制捜査の時もそうだった。エリアスは殴られる事を恐れるあまり、軽く組み伏せるつもりがつい強めに叩き付けてしまったり、予定よりも大袈裟に投げ飛ばしてしまったりした。そしてその様を見た者達が、恐怖で青ざめた顔をし、こちらが何かを言う前に降伏の姿勢を見せてきたのである。同僚達は、仕事が手っ取り早く片付くと絶賛する。しかしエリアスにとってそれは、自分があるべき姿とあまりにかけ離れていて、強く苦痛を感じるのである。
「殴られる事は、まだ怖いですか? 今日も、稽古では多少強めにやりましたよ」
「稽古ですから……。悪意を持って攻撃してくる素人の方が、自分は遥かに恐ろしいです」
「そして、逆に怖がられるのも嫌だと。そういう事ですね」
「はい、そうです」
「相変わらず、君は目立つことに対して極端に臆病ですね」
 レックスはくすくすと笑みをこぼした。エリアスは、ただ申し訳ないと詫びるしか出来なかった。レックスに長年鍛えて貰いながら、未だ臆病である自分はレックスにとって恥なのではと思うからだ。
「何とか臆病な自分を克服したく、常日頃からずっと思っています。それはもしかすると、叶えば良いぐらいにしか捉えていなかったのかも知れません。だから、何時まで経っても成果が見えない。ですが、今は本当に心の底からそう願っています。臆病なままでは、仕事を続ける事が出来ないのです」
「辞める、という選択肢は無いのですか?」
「それは……難しいです。すぐに次の職が見つかるかどうか、自信がありませんから……」
「そこにも臆病の虫が蔓延っている訳ですね」
 レックスの指摘には、一切の反論が出来なかった。実際、そんなに嫌ならば辞めてしまうという選択が最も簡単な解決策なのである。しかしそれが出来ないのは、新しい仕事を見つけられるか自信が無い、そういう恐怖心からだ。エリアスには、決断する勇気もなかった。それが自信の無さを呼び、そして目立つことへの恐れに繋がるのである。
「良いですか。君は、自分が臆病である事を恥とし、臆病である事を克服しようとしています。確かに、臆病は克服しなければならないことです。ただし、君は克服の仕方が間違っています」
「間違っている?」
「臆病の克服とは、恐怖心を取り除く事ではありません。恐怖に負けない精神力を養う事です。恐怖心が無いのは、知能の無い虫と同じ。到底長生き出来ません。君のやろうとしている事は、自分を虫へ貶めようとすること。辛いと思って当然なのです」
 克服の仕方が間違っている。それはエリアスにとって、あまりに意外な指摘だった。臆病なのは勇気が足りないから、勇気が無いから恐怖を覚える。そう考え続けてきたのだが、それでは問題を解決できないという事なのだ。
「良いですか。恐怖するのは恥ではありません。ですから、君はまず自分の中の恐怖を受け入れなさい。いっそ、怖いと思ったら素直に口にするといいでしょう。そして次は、その恐怖心をコントロールしなさい」
「恐怖心をコントロール、ですか?」
「そうです。君は簡単に自分の主導権を恐怖心へ奪われてしまう。それではいけない。どれだけ恐怖していようと、自分の体は自分の意思が支配するのです。恐怖は受け入れる、だが降伏してはいけない。自分自身のコントロールの仕方は、既に教えているはずですよ」
「恐怖に降伏しないこと……自身のコントロールの仕方」
「そうです。絶対に降伏しない事、それが正しく恐怖を克服する事なのです。もしそれが出来れば、もはや私は君に教えられる事など無くなるでしょう。君は私よりも遥かに強くなり、精神も完璧になる。それは武術家としても、一つの完成した姿なのですから」