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 時刻は深夜零時を回る。結局のところ、四課の元にあった資料の中から有力な材料は見つからず、あえなく時間切れとなってしまった。しかし他の課からの連絡が無く、すぐに帰宅とはならず待機となった。それにはエリアスも含め一同が不満気だったが、今回は何より上部組織である財務省が深く関わった案件であるため、不満や文句を漏らす事は誰も出来ない。
 エリアスは業務の拘束でしばらく行けなかったトイレに向かい、用を足す。頭はまだ仕事の状態が抜けておらず興奮しているのか、深夜にも関わらず眠気がまるで無かった。しかし、歩くにも靴底を思わず引き摺ってしまうほど体は怠く重かった。それに夕食も抜いたままであり、極度の空腹で胃もきりきりと痛む。とりあえず、早く帰ってすぐ休みたい。そんな思いが強まっていく。
 トイレを後にし、四課の執務室に戻るべく廊下を歩く。深夜の薄暗い廊下は人気が無く、一歩進むたびに足音がやたらと大きく響いた。それが疲れた神経に孤独感と疲労感を殊更強調して覚えさせ、何が無くとも気分を落ち込ませた。やはりここは自分には合わない職場だ、そう愚痴っぽく思う。
 そんな時、ふと前方の曲がり角から自分以外の足音が聞こえてきた。今日この時間にこの建物内に居るのは、ほぼ査察部の人間である。他の課は出払っているから、四課の誰かだろう。そんな事をエリアスは思った。
 しかし、角から姿を現したのは、エリアスには見覚えの無い壮年の男性だった。如何にも高そうな仕立てのいいスーツに身を包み、歩くときの姿勢の良さが彼を品良く見せる。実際、この時間まで残っている割にくたびれた様子が無く、エリアスにはそれが逆に奇異に見えた。
 何処の課の人間だろうか。身形からして、おそらく相当な役職者と思われるが。そんな事を思っていると、彼はエリアスと視線を合わせるや否や人の良さそうな笑みを浮かべ近付いてきた。
「キミ、もしかして四課に配属されたという新人かね?」
「は、はい。そうですが……」
「おっと、私は初対面だったね。私はジョーン、この国税局の局長と査察部部長を兼任している者だよ」
 国税局局長。その肩書きには流石にエリアスの疲れ切った体にも緊張が走り、すぐさま背筋を伸ばして目上の人間に相対する姿勢を取る。
「ハッハッハ、そんなに畏まらないでくれ。私自身、局長だ何だと言っても大して権限も無い、軽い存在なのだよ」
「い、いえ、ですが、そういう訳には……」
「まあ、楽にしていたまえ。えーっと、君の名前は」
「エリアスと申します。聖都大の出身です」
「おう、そうだった! 話は聞いてるよ。人違いだったそうだね。それも、よりによって首席卒の人と。いやあ、災難だったねえ」
 長らく考えないように頭の隅へ追いやっていたそれ。ジョーンはあっさり気安く口にして来た。エリアスは思わず胸を押さえそうになり、奥歯を強く噛み締める。
「けれど、未だ四課で頑張っているという事は、君自身の能力も決して低くはないという事だよ。これからも頑張りたまえ」
「は、はい。ありがとうございます」
 エリアスは失礼の無いようにとそれらしく返答するも、これでまた辞めにくくなったと自らの軽率な返事を後悔する。ここぞという時に強く言えない、そんな自分の性格が改めて恨めしく思う。
 最後に丁寧に一礼しその場を後にするエリアス。それから四課の執務室へ戻ってくると、そこは出た時と変わらず疲れ切った重い空気が漂っていて、廊下の方が空気が澄んでいるようにエリアスは感じた。
 自席へ戻り、他のみんなと同じように自分も仮眠を取っておこうか。そんな事を考えていると、丁度そこにいつの間にか席を離れていたボスがいつも以上に気怠い足取りで何処からか戻って来た。
「おい、全員いるか? とりあえず、今日はもう解散だ。どうやら一課が見つけたそうだ。俺達ゃお役御免だ」
「なんだよ、よりによって一課かよ。面白くねえな」
 ベアトリスは疲労のためか露骨に愚痴っぽく吐き捨てる。癇の虫がこっちに向かって来ないかと、エリアスは内心恐々としていた。
 一課は会長の自宅の方を捜査に当たっていたが、この時間まで家族を巻き込んでまで捜査するよりは、慣れた職場で調査する自分達の方がまだずっと気楽である。しかし、当たりを引けずにただ帰宅させられるのはいささか癪でもあった。
「んじゃ、アタシも帰るぞボス。明日はゆっくりでいいよな」
「急ぎの仕事が無けりゃな。他のみんなも、それぞれのペースでいいぞ」
 エリアスは今の抱えている仕事をざっと思い返し、明日はさほど急いではいないものの決してのんびりも出来ない、非常に半端な状態である事に頭を悩ます。こういう時は素直に普通に出社するべきだが、今はただひたすらゆっくり休みたく、あまりそういった先の事は考えたくはなかった。
 黙々と帰り支度を済ませ執務室を後にする。査察部に配属されて以来、毎日のようにくたびれて帰っているが、今夜はことさら心身共に疲れ切っている。せめて何か成果があれば、多少は疲れも紛れるのだろうが。