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エリアスは、まるで獣のような叫び声を上げながら男を背後からぎりぎりと締め上げる。とにかく残る二人を逃がさない事、そして彼らが闇稼業に携わっているという恐ろしさから、ただただ目の前の事に必死だった。すっかり周りが見えなくなり無我夢中のため、締め上げている男の体がだらりとぶら下がっている事になかなか気付く事が出来なかった。
「ハア……ハア……」
男をその場に寝かせ、激しく息を切らせるエリアス。極度の緊張のせいで、この程度の事で息が上がり軽い眩暈すら覚えていた。ただ、呼吸は苦しくとも体は異様に軽く、まだまだ動き続けるのに十分だった。
「あーあ、ったく。そういう意味じゃねえってのに。まだ早かったな、連れて来るの」
そんなエリアスの様子を見たベアトリスは、まるで期待外れだと言わんばかりに渋い表情を浮かべ小首を振った。エリアスはその様子を見てはいたものの、それが一体どういう意味なのか、考える余裕は全く無くて理解が追い付かなかった。
「ちゃんと教えたのか? 陣取りのやり方は」
すると、一人別な場所に待機していたはずのアントンが、突然船の中から姿を表した。
「だってさ、先生。こんな分かりやすい地形だし、逃がすなって言えば何処を抑えるかくらい分かるもんでしょう?」
「正門と裏門を間違えて張ってた小娘が、地形だ立地だ語るようになったか。俺はそういう曖昧な教え方をしてきたか?」
「……次まではちゃんと仕込みますよ」
「いいだろう。じゃあ、帰るぞ。こいつら、とんだ大間抜けだ。船長室に帳簿どころか、上部組織の連絡先や顧客名簿まで置いている。脱税を始め、諸々の罪で立件出来るだろうさ」
そう言ってアントンは、小脇に抱えたファイルの束を見せる。どうやらアントンは、どこからか船に忍び込んでこういった彼らの犯罪の証拠をかき集めていたようである。
それを見た最後の男は、途端にいきり立ってアントンへ襲い掛かった。
「おい! それを返せ!」
しかしアントンは少しも動じる事もなく、相変わらずの無表情のまま、まるで観察するかのように男の方を振り向いた。
「返すか」
直後、アントンの左腕が無造作に横に払われると同時に、襲い掛かった男は自ら飛び込むような格好で海の中へ落ちていった。
強い。そう素直にエリアスは思った。かなり癖はあるものの、基礎は明らかに何らかの武術である。それも並大抵の腕前ではない事がエリアスには分かった。エリアスもまた、定期的に武術道場へ通い腕を磨き続けている経験者だからである。
「先生、身柄はいいのかよ?」
「そこにある一つで十分だ」
アントンが示すのは、エリアスの足元に崩れ落ちている先ほど締め落とした男の体だった。
「いささか落ち着きはないが、集中力はあるようだ。後は現場をもっと経験して、場慣れしろ」
「は、はい」
アドバイスを受けた。そう思いエリアスは、咄嗟に背筋を伸ばして一礼する。しかしすぐさま、こんな状況に慣れるような生活を送りたくない、そんな悲鳴のような声が胸中に浮かんだ。
「では、帰るとするか。エリアス、そいつを運んで来い」
「分かりました」
エリアスは締め落とした男の体を持ち上げると、肩に乗せて担いだ。エリアスの方が体格は二周りも大きく力も強い。男の体はまるで少し大きめの荷物のように見えた。
「お前、こういう時は便利だな。ったく、そんだけ力もあって体もでかいんだから、もっとそれを生かせよ」
「す、すみません……」
ベアトリスの言うことはもっともだが、エリアスはその事は自覚している。ただそれでも、こういった荒事が前提の状況に慣れるような人生など送ってはおらず、緊張するのは仕方がないと自分では思っている。武術道場では緊張をコントロールする訓練は積んで来ているものの、未熟なせいか未だに思うようにならないのが現状だ。
「あ、あの。この男は逮捕するという事にして、今回の密入国の幇助についてはどうなるんでしょうか?」
「まあ通例通り、聖都海運への捜査令状を裁判所から貰って、強制捜査だな。こいつの身柄は別の部署へ譲る。生活安全課辺りに、それなりで売れるだろ」
「では、強制捜査で証拠が揃えば、いよいよ聖都海運の脱税を立件するんですね」
「立件には違いないが、状況はお前が思っているのと少し違う」
「え? 何が違うんでしょうか?」
過程はともかく、礼状を取って強制捜査を行い、証拠品を揃え、そこまで来れば後は立件しかない。脱税取り締まりのゴールとも言える事だ。その認識が間違っていたのだろうか。エリアスは小首を傾げる。それに対してアントンは、例によって無表情のまま淡々と答えた。
「今回だけじゃなく、俺達査察部にはそもそも立件する職権がない。やれるのは、立件出来るまでの証拠集めだ」
「そ、それじゃあ、立件するのは何処が?」
「財務省だ。うちは財務省の内局、成果物は全てそこに上げる事になっている。それが上の方針ならば、うちはそれに従うだけだ」
国税局が財務省の内局という事はエリアスも知っていた。しかし内局というものが組織にとってどんな立場になるのか、エリアスは今まで考えもしなかった。査察部が行うのは、財務省が脱税企業の立件を進めるために必要な証拠品を代わりに集めるだけ。それはまるで、査察部が財務省の体のいい使いっ走りではないか。
「へっ、割に合わねーと思うか? まあ、実際はそうだ。だから、査察部ってのはいつも人手が足りねーんだよ。どいつもこいつも組織に属したがるクセに、公然と歯車扱いされるのに不満をたれるんだからな」
「新人が来ても……今まであまり居着かなかったという事ですか?」
「ああ、そうだ。お前も、正直どこまで持つもんかな」
皮肉っぽく語るベアトリス。しかしその口調は、まるで自分自身にも向けられているような、そんな自嘲さが感じられた。
国税局査察部は、財務省の使いっ走り。その事実にエリアスは、自分が手違いで配属されたと知った時と同じくらい、自分の境遇が酷く惨めなものに思えてきた。