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 エリアスは、日頃から喧嘩とは無関係の生活をしている。武術道場に幼い頃から通ってはいるものの、道場での組み手と暴力は根本的に異なっているのだ。その上、こういった恫喝に対しての対処法など一つしか習っていない。それは、毅然として平静さを保つ事である。エリアスにとって、最も苦手な事だ。
「おい、こら! てめえ、何とか言ったらどうだ!? 何しに来たかはっきり答えろ! テメエみてえな奴に、社長を会わせられる訳ねーだろうが!」
 男は尚も枠越しに怒鳴りつけて来る。エリアスは既にこの状況のせいで頭が真っ白になり、その場に茫然と立ち尽くしてしまっていた。男の声もほとんど頭には入らず、どうやってこの場を穏便に過ごそうか、そればかりをひたすら考え続けた。
 しかし、そう簡単に答えが見つかるはずもない。その上、黙りこくって立っているエリアスの姿はよほど男の癇に障るのだろう、ぶつけられる苛立ちは一向に収まる気配がなかった。
 その状況を後ろから観察していたベアトリスは、それを良しと取り、エリアスに小突きながら小声で指示をする。
「あいつ、あんまり頭良く無さそうだぞ。このままもっと怒らせろ。思いっ切りバカにして、頭に血を昇らせるんだ」
 ベアトリスのまさかの指示内容に、エリアスは耳を疑わずにはいられなかった。この男を更に挑発して怒らせるなど、普通の神経ではとてもできるだけ事ではない。そもそもそれでは状況が余計悪化する。だがベアトリスは、一切の反論を許さないとばかりに、催促の意味を込めて背中を強めに小突いてくる。
 もう、どうなっても知らない。
 そう開き直ったエリアスだったが、未だ怯えと緊張感で喉が塞がり声が出て来なかった。なら、どうやってこの男を怒らせればいいのか。少し考えた後、駄目で元々とひとまずぎこちなく笑って見せた。
「テメエ……何にやけてんだコラ! おう、そこでじっとしてろよ。テメエ、ぶっ殺してやる!」
 そこまで殺意を抱くほどの表情にしたつもりはなかったのだが。
 エリアスの予想を遥かに上回って激高した男は枠から離れると、凄まじい音を立てながら中を移動し始めた。間違いなくこちらへ来て、直接手を出してこようというのだろう。
 ここは危ないから、早く逃げよう。
 そう提案しようとする前に、ベアトリスは次の指示を出してきた。
「よし、お前はじっとして殴られろよ。それだけでいいぞ。別にやり返さなくていいからな。面倒になるだけだから」
 わざと今の男に殴られる。それも、自分の挑発で怒り心頭の状態でだ。釘を刺されなくとも、どの道エリアスには反撃するだけの度胸はない。しかし、こんな事をして一体何の意味があるというのか。脱税の捜査ではなかったのだろうか。これはむしろ週刊誌で見るような、違法組織への強制捜査のようだ。
 革張りのドアが開き、中から先程の男が現れる。その手には長い木の棒を携えていて、素手で殴られる事しか考えていなかったエリアスはぎょっとして表情を強張らせた。
「この野郎、何睨んでやがんだ! テメエ、無事で済むと思うなよ!」
 特別な事は何もしていない。しかし、こう頭に血が昇ると何でも悪い方へ捉えてしまうのか。
 分析だけは妙に冷静に行いつつ、エリアスはもはやこの事態は避けられないと覚悟を決める。
「死ねッ!」
 男は驚くほど躊躇い無く、手にした棒をエリアスへ振り下ろして来た。体格はエリアスの方が上でも、武器が相手ではあまり関係はない。エリアスは何とか顔と頭だけは腕でかばう。だがそこの上から何度も何度も打ち据えてきた。
 道場では殴られる事などしょっちゅうある。しかしそれはあくまで鍛錬のためで、何よりそこには相手への敬意があった。単にそれは痛いだけの事でしかなく、殴ることも殴られることも鍛錬の一環として普通に受け入れられる。だが、こう露骨な敵意を向けられながら殴られるのは、痛みよりもまず精神にショックを受けた。体の痛みは慣れているが、心の痛みには慣れていない。エリアスは辛うじて気持ちが折れそうになるのを堪えながら、ひたすら嵐が過ぎるのを待った。
 脱税の取締りで来て、今会ったばかりの男に殴られるなんて。これは一体何の冗談なのか。あまりに展開の早い、異常過ぎる状況だ。
 こんなこと、一体いつまで続くのか。これではまるで地獄だ。そんな弱音を何度も脳裏を過ぎらせていた時だった。
「はーい、これ現行犯ね」
 突然と朗らかかつ挑発的な声が響いた。
 これまでエリアスの背後に隠れていたベアトリスが、急に方針転換でもしたかのように自分の存在をアピールしてくる。
「あー、もしかして社長の命令? となると、警察にも応援頼まないといけないなあ。組織犯罪対策課、最近成果が挙がってないってぼやいてたし、貸しが一個作れるなあ」
 ペラペラと得意気に喋るベアトリス。男はターゲットをそちらへ向けるかと思いきや、何かに気付いたのか急に顔が青ざめ始めた。それを見たベアトリスは、何やら意味深な笑みを浮かべ更に男を煽る。
 これのどこが脱税の取り締まりなのか。苛立ちながらも、エリアスは顔に出さないように深呼吸で気持ちを鎮める。
 とりあえず助かった。そう思う一方で、一つある事に気付いた。
 ベアトリスは、これだけ打たれた自分に対し、何か思っているような素振りをまるで見せていないのだ。