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「母さん、マリアンナ、ここに居ましたら返事を下さい。母さん、マリアンナ、僕はあなたの息子、パトリツィオです」
 パトリツィオは、まるで亡き母がこの場に居るかのように、何度も何度も語り掛けるように同じ文言を繰り返す。テーブルの上には霊応盤、盤上の入り口という文字の上には矢印形のプランシェットが置かれ、更にその上には三人の人差し指が重なっている。当然の事だが、幾らパトリツィオが話し掛けようともプランシェットはぴくりとも動かなかった。何も仕掛けが無い以上は、ただの木片が自分の意思で動き出すような事など有り得ないのだ。
 うつむき加減で何度も繰り返すパトリツィオ。その最中、エリックはパトリシアとそっと視線を合わせ、微妙な表情と目配せで意思の疎通を行っていた。始めてから随分と時間が経過しているが、一向に何かが起こる気配も無ければパトリツィオが止める気配も無く、いい加減飽きが出始めて来たのだ。
 パトリシアはこの状況に辟易しながらも、今後の大学での付き合いもあるせいか、とにかくパトリツィオが満足いくようにしたい、そういう姿勢だった。エリックとしては自分から切り上げる事を提言したかったが、やはり当事者であるパトリシアの判断を尊重する事にする。
「どうか、どうか、返事を下さい。母さん、マリアンナ、僕です、息子のパトリツィオです」
 あまりに淡々と繰り返すパトリツィオに、果たしてこの男はまともなのだろうかと疑わずにはいられなかった。特務監察室の扱う案件には、こういった妄執狂が決して少なくない。実生活における何らかのストレスが原因で、神秘主義的になったりオカルトに目覚めたりする、いわば現実逃避者だ。この人種は、思わず目を背けたくなるような異常行動にしばしば出る。それだけに、パトリツィオが平穏に終わらせてくれるのかどうか、そこが不安になった。
 それから、感覚の時間で小一時間も経っただろうか。気まずさを覚えてくるこの状況に、いい加減何らかの進展をもたらしたいとエリックは切に願っていた。ここはやはり、何か偶然を装ってでも中断を余儀なくさせるしかない。そう思ったエリックが真っ先に閃いた事、それは指をこのプランシェットから離す事だった。最初にパトリツィオが、指は決して離さないように言っていただけに、まず間違いなく中断するはずなのだ。
 どのようなタイミングで、どう離せばいいだろうか。そんな事を考えつつ、指先の感覚に集中する。だが、その時だった。
「……ん?」
 思わず声に出しそうになったのをこらえ、エリックは再び慎重に念入りに指先へと集中する。そして、そこで起こっている事がただの錯覚などではない事を再認識した。
 指先が、プランシェットから離せなくなっている―――。
 あまりに長い間そうしていたから、指がこわばって動かし難くなっているのではないか。初めそう思ったのだが、意図的に指を持ち上げようとしてもぴたりと吸い付いたかのように指はプランシェットから持ち上げられない。肘をテーブルにつけて梃子の原理を用いても、その現象はそのままだった。
 エリックの行動から、パトリシアが同じくこの異常事態に気付く。あれこれと可能性を探るエリックに比べ、パトリシアは全く事態が飲み込めず顔色が真っ青になってしまった。こんな理屈に合わない事が起こるはずがない。けれど、現に指は離れなくなってしまっているのだ。エリックのように場慣れしていない者には、まるで理解の出来ない恐怖の状況だ。
「パトリツィオ、何かおかしいですよ! 一旦これは止めましょう!」
 理由はどうあれ、これは明らかに異常な状況である。エリックはパトリツィオにやや強い語気でそう迫った。しかし、
「す、すみません。何故か、指がうまく動かなくて」
 パトリツィオにも同じ現象は起こっていたらしく、真っ青な顔で唇を震わせていた。
 三人とも同じ現象が起こっている。それだけでも充分異常なのだが、何より戦慄させられるのはこんなにも容易にそれが起こってしまったという事実だ。だからこそ、これは科学的にも簡単に証明出来るような現象に違いない。エリックは自分へそう言い聞かせ、自らの動揺を押さえ込んだ。
「二人とも落ち着いて下さい。おそらく、一種の暗示か何かでしょう。こういった環境と演出が原因だと思います」
「あ、暗示? それって、いわゆる催眠術とか、そういった?」
「そうです。人間は、この程度の事なら簡単に意識へ擦り込む事が出来るそうです。例えば、何度も同じフレーズを口にする事で実際にそうなってしまうといったものです」
「自己暗示ってやつでしょ。宗教とか意識改革セミナーだとかでやってるような」
「なるほど……これは自己暗示なんですね」
 この状況には理由がある。それが分かった途端、二人は溜め息と共に急激に落ち着きを取り戻した。エリックの言った事は、状況から推測しただけの仮説にしか過ぎない。ただ説得力はあったらしく、状況の鎮静化には充分だった。
「催眠術なんてインチキだと思っていました。本当にあるんですね」
「催眠術自体は科学的なものですよ。もっとも、誰にでも出来るような簡単なものではありませんし、何でもかんでも人に強要出来る訳でもありません」
「それより、これってどうしたら治るの?」
「具体的に、これが解ける、という自己暗示をかければ治ります。そもそも、暗示自体が繰り返しかけなければすぐ解けてしまうものですから、放っておいても自然に治るはずですよ」
 これは単なる自己暗示。そう分かると緊張感がほぐれ、場の空気がどんどん和らいでいった。こう和やかになると、降霊会というものを継続する気にはなれなくなったが、それはむしろ喜ばしいとエリックは思った。いっそのこと、このまま有耶無耶にしてしまって、今夜は解散になってしまえばいい。そう密やかに願う。
 この奇妙な現象は、いずれ解ける。その安心感から、自然と和やかに談笑を始める三人だった。しかし、自分達がもはや降霊会を行っていた事すら忘れそうになった頃、それは突然と起こった。
「え?」
 最初に声をあげたのは、エリック自身だった。
 指はまだプランシェットから離れない。だがそのプランシェットは意思を持ったかのように、霊応盤の上を自ら動き始めたのだ。