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「黒赤病の特効薬がねえ……」
定時より幾分遅れて登庁して来たウォレンは、同じく遅れてやってきたルーシーと顔を合わせつつ、如何にも興味無さげにぼやいた。
「要するに、特効薬が出ても信用するなって事だろ?」
「違います。世に出る前に、今一度その薬が正しく効果を発揮するのか確認する必要があるという事です」
「えー、それ私らの領分? 厚生省だかでしょ、薬なんてのは」
「そこにも相手にされなかったから、我々の所へ回ってきたんです」
ウォレンもルーシーも、共に面倒そうな表情を露骨に浮かべていた。病気の特効薬の安全性など、到底特務監査室の担当とは思えない内容に聞こえるせいだ。
「僕自身、事態を切迫したものだとは思っていません。幾ら病の解析結果が完璧だったとしても、新薬にはまず臨床試験があります。投与される範囲は段階的なので、爆発的に薬害被害が広がる事はありませんので」
「じゃあ別に、放っときゃいいだろ」
「問題は、ウォルター博士です。どういった経緯で解析を行ったのか、実情を正確に把握しておく必要があります。なんせ、今回の功績を足掛かりに、更に研究者として重要な立ち位置となる訳ですから」
実際のところ、今回の件に関して限定すればさほどの緊急性は無い。問題なのは、そんな曖昧な研究を行う人間が医薬研究の中心に今後も居座り続けられるという点だ。これまでの功績が本当にただの偶然だった場合、それが以後も続くとは限らない上に、最悪明らかな誤りを是正させないほどの権威まで手に入れてしまった場合は非常に危険である。特務監査室としての役割は、ウォルター博士が今後の医薬研究の中心人物に相応しいかどうか、その見極めをする事だ。
「じゃあよう、俺達はどういうアプローチをするんだ? 流石に医学的な専門知識はねえし、そういう切り込みなんかはとっくに他の誰かがやってるだろ」
「僕らは、博士の奇行についての真相を突き止める事だと思います。博士が、昔から突然と実力に見合わない研究成果を出すと言われていたのは、ルーシーさんが仰っていた通りです。なので今回の解析結果についても、妖精だとか妄想だとかではなく、本当に本人の実力によるものなのかを調査すれば良いと思います」
「妖精ねえ。まあ、なんか昔、そんな事もあったなあ」
「何それ? 私、知らなーい」
のそりと席から立ち上がったウォレンは、資料棚をあれこれと眺めながら、ある一冊のファイルを取り出した。眉間に皺を寄せつつペラペラと捲りながら、目的の箇所を探す。ウォレンが資料を漁る姿は何気に貴重だ、そうエリックは思った。
「お、あったあった。これだ、これ」
そう言ってウォレンは、ファイル内の一項を示して見せた。
「今から四年前の事件でな。港で荷卸をやってる奴が、あるミステリー小説を出版したんだ。で、これについての顛末が面白い」
「何があったんですか?」
「この男、まずはセディアランドには密入国で、不法滞在の労働者だったんだが。実は名前と簡単な日常会話程度の読み書きしか出来ないんだよ。当然、小説なんて書くどころか生まれて一度も読んだ事が無いそうだ。にも関わらず、どうしてミステリー小説なんてものを書けたのか。ゴーストライターを疑う所だが、普通それはある程度の有名人なんかがする事だ。簡単な読み書きしか出来ない、それも不法滞在者を看板に使う理由なんざどこにも無い。しかし現に作品は存在している。それで俺が事情を聞いたんだよ。そしたらそいつはな、毎朝起きると誰かが少しずつ書き上げていた、と言ったんだよ。ある晩こっそりと寝た振りをしながら見張っていたら、どこからともなく妖精が現れ、小説を書いていたんだそうだ」
妖精が現れ、夜中こっそり小説を書く。現実では考え難い状況だとエリックは思った。まず、妖精というものが実在するのだろうか。仮に存在したとして、どうやって人間の文化に精通し、どんな理由で小説をしたためたのか。とにかく、疑問という疑問ばかりが浮かぶ話である。
「とは言え、不法滞在は不法滞在だ。そいつはすぐさま国外退去になった。それでその小説だが、話題になった割には売れなくて、これもまた程なく絶版になった。ま、妖精の書いた話って事以外は特に目新しさも無ければ、面白味もなかったって事だな」
「それで、ウォレンさんは実際にその妖精って見たんですか?」
「ああ、一回だけな。ガキの絵本に出て来るような、羽の生えた奴じゃなかったなあ。どっちかって言えば小人に近いな。無くした鍵みたいにな、いつの間にか現れてて、いつの間にかいなくなっちまうんだよ」
「へえ……そうなんですか」
ウォレンに対して偏見がある訳では無いのだが、やはりにわかに信じられなかった。その妖精は、単に眠気による夢うつつにより見えたか、それともウォレンが安定剤を誤飲して見ただけだろう、とどうしても思ってしまう。
「その妖精って、その人の能力以上の事をやってくれるんですよねー? じゃあ、ウォルター博士の研究成果って全部妖精の仕業なのかなあ」
「あの研究員の話を真に受けるなら、そうかもな。もっとも、本当に妖精かどうかはこっちも検証なりしないと何とも言えねーよ」
「じゃ、早速事実確認からしましょーよ。研究所に行くとして、博士へ素直に理由を言ったらダメですよね。じゃあ、身分隠して潜入とかかなあ」
「それだ。うーん、潜入捜査って考えてみりゃ久し振りじゃねーか?」
ルーシーはウォレンの言う事に対して驚きも訝しみも無く、いつも通りの態度である。妖精という言葉に、特に疑念を抱いていないからだ。
まさか、本当に妖精が出るかどうかなんて検証するつもりなのだろうか? どうせ、ウォルター博士以外の何者かが実際に研究成果を上げていただけ、といったオチとしか考えられないのだが。
二人の自然で熱心なやり取りに、エリックは表情を強張らせる。けれどすぐに、彼らが妖精などというもののため、本気で潜入捜査を検討していると認識せざるを得なかった。別段忘れていた訳ではなかったが、特務監査室とはそういう部署だったのだ。
ともかく、研究所でウォルター博士の身辺を調査するという案には賛成である。自分は、未知の薬害被害の可能性は無いか、ウォルター博士のゴーストの存在は無いのか、そういった観点から調査をする。二人とは違い、自分は現実路線できちんと調査を行わなければ。そうエリックは堅く決心する。