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 事はまた、雨が降り止むように突然と始まった。
 翌朝エリックは、室長と二人執務室で皆の登庁を待っていた。そんな時、妙に早い時間に誰かが執務室を訪ねて来る。少なくとも時間的にウォレンやルーシーで無いことは明らかで、恐らく特務監察室には稀な訪問客だろう。
「すみません、こちらがあの、特務監察室でしょうか?」
 現れたのは、一人の青年だった。口調から察するに、特務監察室が本当はどういった目的で設置された組織なのか、正確に知っているようだった。
「はい、そうですが。何か御用でしょうか?」
「私は、医薬品研究をしております、ハリーという者です。実は皆さんに、どうしても調査して戴きたい事があります」
「いえ、いきなり調査と言われましても。私共は、民間の調査組織ではありませんし」
「ウォルター博士に関する事です。事はとても大事なのかも知れません。まず、話だけでも」
 すると、おもむろに室長が自席から声をかけた。
「エリック君、彼を通して下さい。お話をうかがいましょう。私達の事を知っていた上で、持ってきた事のようですから」
「分かりました。それではハリーさん、こちらへどうぞ」
 エリックは応接スペースへハリーと名乗った青年を通す。そこで室長と共に、事の次第から聞き始めた。
「ウォルター博士の事は御存知かと思います。黒赤病研究の第一人者で、先日遂に非常に有効な特効薬の開発に成功いたしました。これで黒赤病は過去の病となるだろう、そう評されています」
「そこに何か問題があるのでしょうか?」
「私も黒赤病研究の一員として、これまで心血を注ぎ続けて来ました。ですが実際のところ、研究は思うように進んでいなかったのです。完全な停滞でした。それは、研究員全員が知っている事です。そんな限り無くゼロに近い状況からです。ある日突然とウォルター博士は、あの完璧な黒赤病の解析結果と特効薬を持って来たのです」
「何かヒントとなるものを得たので、一気に完成まで漕ぎ着けたという事はありませんか?」
「あり得ません。事実、その解析結果は発想の転換だけでなく、非常に沢山の反復実験が必要な数字が、本当に無数にあるのです。黒赤病に限らず、どのような病や薬についても、それが当たり前なのです。けれどあの人は、それを突然とたった一晩で作り出して来た。しかも、誰が検証しても完璧な内容で」
 つまりハリーの懸念は、その突然と有り得ない量の解析を行った点にあるのだろう。一夜漬けでは到底無理なはずが、実際にそれを成し遂げてみせた。そこに違和感を覚えるのだ。
「この事は、厚生省や医師会にも訴えました。ですが、どこもまともには取り合ってくれません。ウォルター博士の解析結果については、どちらも自ら検証を行い完璧なものだと判定しているのですから、それを覆すような事は言えないのでしょうけれど」
「あの、逆にそこまでウォルター博士を疑う理由は何でしょうか? 何か腑に落ちない事があって、解析結果に疑問を持ったんですよね?」
「はい……実は、前々から気になっていた事があるのです。ただ、人にはなかなか言い難い内容でして。特務監査室の皆さんなら、もしかすると心当たりがあるのではと思うのですが……」
「どうぞ、おっしゃって下さい」
「最初は三年ほど前だったかと思います。ある晩私は、自身の実験のため研究所に泊まり込んで作業をしていました。それも一段落つき、夜食でも調達しようと思って外へ出た時です。ふと、ウォルター博士の研究室に明かりが灯っている事に気付きました。そこで、ちょっとした好奇心から、中を覗いて見たのです。研究室にはウォルター博士一人だけが居ました。博士は何もない机に向かって、しきりに何事かを話していたのです。まるでそこに誰かが居るかのように。私はいたたまれない気分でした。なんせ、当時の博士もまた研究成果が思うように出せず、そろそろ首を切られるだろうと噂されていましたから。そういったプレッシャーからノイローゼになったのかと思ったんです。するとまさにその翌日です。博士は突然ととんでもない研究成果を出して来て、翌年度の研究費までをも確保したんです」
「状況は今回に似ている、と?」
「そうです。その後もたびたびそんなことがありました。それで私は、あの会話は実はノイローゼなんかではなく、実際に何かと会話していたのではないかと思ったんです。正体を突き止めようと、何度も盗み見を試みました。ですが、一度としてその者の正体を視認した事はありません。それで考えられるケースは二つ、本当に何もいないただのノイローゼ、若しくは本人にしか見えない聞こえない未知の存在。もちろん、私は前者だと思います。観測出来ない物が存在するという事はあり得ますが、観測出来ない物は皆一様に存在を認識出来ないのです。誰か特定の人間にしか観測出来ないなんて事は有り得ないのです」
 断言するハリーに、エリックはどこか昔の自分の面影を見た。かつての自分もあのように、常識で認識出来ないものの存在を頭から疑ってかかっていたのだ。
「ウォルター博士は、そもそも公表自体をしていないだけで、元から黒赤病についての知識が豊富だった可能性はありませんか?」
「有り得ません。私や私以外の研究員からの質問も、満足に答えられない事が多々ありますから。知識が少ない事を装う理由があるというなら別ですが」
 博士号を持った人間が、一介の研究員の質問すら答えられず呆れられる。わざわざそうなるよう装うメリットは、少なくともエリックには思い付かなかった。ルーシーも言っていたが、ウォルター博士はそもそも博士号を取れるような能力の持ち主ではない、という噂。それは、こういう所から生まれたものなのだろう。
「黒赤病の解析結果を出す直前は、あの会話のような独り言が七日間も続きました。群を抜いて異常です。あまりに異常なので一度日中に訊ねてみましたが、妖精と話していた、と真剣に答えられました。妖精が作ったにせよ、知識のない博士が作ったにせよ、それが第三者の検証に耐えうる内容であるにせよ、こんな有耶無耶な経緯で生まれた物は世に出してはならないと思います。精神を病んだ人間の作る薬が、真っ当な訳がないんです! ですが、どこに相談してもまともに取り合っては貰えませんでした。博士の生んだ特効薬は、何千何万という人々へ渡るのです。こんな不確かな出処の物、どうにかして食い止めなければ」
 語気を強めるハリーは、ウォルター博士の成果には完全に否定的だった。そこには科学者らしい理路整然とした根拠が欠けていて、結論が感情的になっていると思う。だが、そこまでして否定したい程、この状況は不可解なのだろう。
 特務監査室として、これは見過ごしてはならない案件である。オカルトは人を殺すが、それは流行りの風邪の足元にも及ばない、極々少数だ。けれど医薬品ともなれば、何千何万という人間に処方されるのだから、万が一の際はあまりに大きな被害となる。