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室長がヨハネスの件で対策を講じてから数日後。それまでは特にこれと言った動きもなく、普段通りの日々を過ごしていた。それが今朝になり、突然と急展開を見せる。
その日の朝、エリックは登庁後から細々とした書類の整理に没頭していた。ウォレンは新聞の賭博欄と睨み合いながらしきりに何かを計算、ルーシーは雑誌をだらだらと読みふけっている。室長は本庁にいるため、今朝から姿が見えない。そんな普段通りの特務監査室にやって来たのは、先日ヨハネスの件で依頼をしてきた国家安全局のダスティンだった。ダスティンはウォレンとルーシーの姿を目にし、露骨に顔をしかめる。しかし言及は避け、ただ咳払いだけ当て付けのようにする。エリックは慌ててダスティンを応接スペースへ通し、態度の悪い二人を視界から遠ざける。
「先日のヨハネスの件はありがとうございました」
「いえ、我々は特に大した事はしていませんから」
「実はそのヨハネスですが、昨夜遅くに出頭して来ました。現在は当局管轄下の病院にて治療中ですが、その後に再収監となるでしょう」
「え……それは、自首して来たという事ですか?」
「そうなりますね。大分酷い目に遭ったのでしょう、取り合えず今週一杯は治療にかかるでしょう。聴取もそれからになります。まあ、これに懲りて二度と脱獄など考えないでしょう」
エリックにはまるで訳が分からなかった。脱獄したはずのヨハネスが、随分な怪我を負いながら自ら出頭して来るなんて。そしてそれが室長の講じたという対策の結果なら、一体何をしたのだろうか。
「あの、ヨハネスはどうしてそんな怪我を追ったのですか?」
「ああ、その辺りの事情は御存知ありませんでしたか? ヨハネスが、犯罪組織の金に手を付けていたという」
「それは知っています。なので追っ手から逃れるために、最初はわざと捕まった事も」
「今度もその筋ですよ。最初は何とか逃げおおせていたようですが、体力は有限ですからね。遂に捕まって、相当痛めつけられたようです。それでも何とか殺される前に逃げ出して来たようで。逮捕、というよりは保護のような状態だったそうです。初めは半狂乱で会話すら難しかったと聞いています」
つまり、脱獄したヨハネスはすぐさま犯罪組織の追っ手が差し向けられたという事だ。彼らは、自分達の面子が潰される事を特に嫌がる。組織の金に手を付けておきながら無事で済ませる訳が無い。あまりに執拗に付け狙われたため、最終的に予知能力では対処しきれなくなったのだろう。
「では、私はこれで。ラヴィニア室長に宜しくお伝え下さい」
そう言ってダスティンは一礼し、執務室を後にした。
ヨハネスの件について、特務監査室としてはこれと言って仕事はしていない。実質、ヨハネスが本当に予知能力者かどうか検証した程度だろう。それも、ほとんどウォレンとルーシーの強行採決だ。
事件はこれで解決である。けれどエリックは、今一つ腑に落ちなかった。自分の預かり知らぬ所で事件が解決してしまった事もそうだが、そもそもどうしてヨハネスが脱獄した事を彼ら犯罪組織に知られてしまったのだろうか。ヨハネスの脱獄の件は、報道規制どころか徹底的な情報封鎖により知る者自体が極僅かのはずだが。
そんな疑問を抱きつつ、エリックは定型的な作業である終了報告書を作り始める。すると、そんなエリックの表情の裏を見透かしたかのように、ウォレンが話し掛けて来た。
「ヨハネスがああなった事が、そんなに不思議か?」
「ええ、まあ。ある意味この結果は、予知能力なんて存在しない事の裏付けでもあるので、その点については納得してますけど」
「予知能力があれば、危ない連中も軽々とあしらえたってか?」
「予知能力って、そういうものだと思ってましたけど」
これから起こることを予め知る。それが予知能力である。ならば、自らに降りかかる災難も例外では無いはずだ。飛んで来ると分かっている石ころに、自ら当たりに行く人間などいない。
「予知能力者ってのはな、昔からセディアランドにちょくちょく居たんだよ。で、大体がろくなことしやがらねえんで、特務監査室が都度都度対応して来た。だから、予知能力者については情報がたっぷりある。どういう行動をしがちだとか、性格の傾向だとか、能力の限界や弱点までな」
「能力の限界?」
「何でもかんでも、際限なく先まで克明に分かる訳じゃねえんだよ。先の事ほどぼんやりとしか分からなくなるのさ。遠くの景色を見るのと同じだ」
「じゃあ、その弱点を突かれたって事ですか。室長は何か対策をしたようですけど、予知能力がぶれるような方法があったり?」
すると、今度はルーシーが会話に混ざってきた。
「まさかあ。あの室長が、そんな生易しい事するはずないでしょ」
「じゃあ、何をしたんですか?」
「もっと簡単でエグい方法があるじゃない。ヨハネスと関係する犯罪組織に、脱獄の事とヨハネスの行動パターンとかの情報を売りつけるんですよ。で、見返りに何か貰うんです」
「え、ちょっと待って下さい。室長は、犯罪組織と取引したんですか?」
「そりゃ、それくらいのはしますよ。お互い持ちつ持たれつだもん。まさか、うちらが清廉潔白な組織だと思ってた?」
そうは思っていない。むしろ胡散臭いくらいだ。けれど、良心とも言うべき室長がそういった事をしているのには少なからずショックを受けた。
「ま、金品金券とかじゃなくて、あくまで情報が見返りだから安心してね。室長だって、それくらいのモラルはありますよ」
「室長に限って、道義的に外れた事をするとは思ってませんよ」
「おう、なんか棘のある言い方だな。まあ、とにかくだ。今までの予知能力を悪用した連中も、末路はみんなこうさ。そうやって自分の生活を国ぐるみで奪われる。ちょっと先の事が分かる程度で政府相手にケンカ売るなんざ、無謀な話さ」
「そうそう。予知程度で楽して生きようだなんて、この国じゃあ無理なんですよー」
予知能力なんて、まさに神のような力。それがもしもあるのなら、この先の人生にどれだけ可能性をもたらすのか。そんな事を考えた事がある。しかし現実の予知能力者は、私利私欲に使って身を滅ぼすか、誰からもそうとは認知されない程度にしか力を生かせない人生を送っている。
物事には近道など無い。そんな使い古された言葉がどれだけ物事の本質を突いているのか、改めて思い知らされる心境だった。